――目次――
1,
口絵,石刻釈尊像
2,
呪術行為の原型,宇野円空,Enkū UNO,pp.1-23.
3,
我が東台両密の発源地たる唐の青龍寺について,常盤大定,Daizyō TOKIWA,pp.24-42.
4,
分別論者について,赤沼智善,Tomoyoshi AKANUMA,pp.43-64.
5,
親子関係と神人関係,加藤恒久,Tsunehisa KATŌ,pp.65-83.
6,
不滅観に関する一考察,原田敏明,Toshiaki HARADA,pp.84-99.
7,
フランスにおける宗教研究について(下),赤松秀景,Shukei AKAMATSU,pp.100-121.
8,
地祇,別所梅之助,Umenosuke BESSHO,pp.122-126.
9,
新刊紹介並批評
Thomson, Socience and Religion,
姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.127-130.
McGiffert, The Good of the Early Christians,
菅円吉,Enkichi KAN,pp.130-137.
Leuba, The Psychology of Religious Mysticism,
鈴木泰雄,Yasuo SUZUKI,pp.137-144.
Oesterley, The Sacred Dance,
野村了本,Ryōhonn NOMURA,pp.145-148.
土屋詮教氏著『日本宗教史』,大塚道光,Dōkō ŌTUKA,pp.148-152.
、小文 穿昭︰■
址道、1龍 汀安Jこ上If ■・
G(;3
一曲機先れ諭の時揖
呪術登葎の問題についてその起源一ど呪術軌念に求めないで、克としてその儀硝形式の成立からこ
れを説明せんとする邸詑は、マレソトとブロイスに始まつて♪−トランド、フィーアカント及びキン ヽ グなどによつて簿屁さ恒▼邸界に一つの洗れを作って救近益々♯嘲されて寒た。私はこれをかbに構浦先行論の名の下に概宿して、救近の﹁哲邸研究しにその殴屁の大要と所論の梗概と・ピ少しく解介
して躍いた。而して同時になほこの畢説に於て椎茸でない緒鮎を指摘し、鵬に擢密な呪捕の成立に
関してこの先場から舶みなければならぬ心理輿的方面を多少付加へて置いたが、今日までに呪はれ
た限りの儀綿先わ諭にはその呪術教生の説明についても、さらに今後に糀拙祁略さるペき多くの問
題が残って居る。
偶成先締諭の趣旨は呪術の起漱をある呪術的な観念に裁くとしないで、か∼る観念の螢兆する以 呪術行路の原型呪術衛焉の 原型
田 空
野
864
前にある行承形式が他の串憫から呪術的な儀組として成立し、それからして呪術的とい
の観念が敬屈するといふのである。即ち呪術に於ける特殊の軌念は稜に付け加はつたものである
ら、それ以前の呪術行虜や儀祀はか∼る軌念を件はないのみならす、後に至って特殊の租念や目 がそこに教生し.特にそれが他から付加され得る凋めには、それは何等の目的税念をも有しなうな行秀であるのが碑⋮然でぁる。故に備前先行論の多くが原本的な呪術的行基として独走する
自費的な本能行点か衝動的な衣出運動か、さうでなければ非賓用的な遊戯.模倣等の桁秀で上に賓際的目的行秀に随伴すネ模倣、衣現等を呪術依祀の茄婁な根源だとし、キングも彗際的行翁
よりは目的のない随仲的行男が多く儀祀の源だと云ったが︰フロイスはこれらの外に本能的な治療
行焉、即ち患部を押へたーり撚ったり傷口お諏めたりすることが、多く治墟呪術となることむ認め、
バー!フソドはこれら一で線描して生理的要求や紳緯反鹿から〓る目顔的自動的行基ビ云って居る。而して此椰の行基はやがてある畔期に呪捕となるペき性勇一で柿って居り、呪術行翁の原型ではあ
るが、それ白身では腋密に呪術ではなく、これに呪術的な忠魂粗念が件って、始めて証取に呪術と
なるべきベートの所珊糾先呪術的行馬ヲ旨P牧竿訂l㌻乙−uコg に過ぎにいことは、﹃呪硝費珪の関越Lに私がまとして説いたところである。即ちこれらの発現端的術焉が一方では偶人的就愈的習慣とな
﹂ それでフィーアカントは戚僻的衣出産勒を呪術的行秀の滋も原本的なものと見催し、マレットはその
二 呪術行伍の原型 は れ る あ⊥主宣__ぷ_主遽
.郁6 って儀感化し、同帖に他方で耀なぇ木偶羅勧や衝動行基が意志的に‖的毎満とだり、これに特殊の 効兆の観念が珪じ、更にその術軍こ効氷の阻係が口常の自然的桁常に於けるとは英った酔英の紳秘 的なものであるといふ忠誠がこれに仲ふことによつて、それは放凍な呪術として成立すると考へぎ るを縛ない。故にこれらの柚須はそれn身ではこれをマレソトのやうに rlldil覧nぎy−臼各eといふ よりも.︵準︶むしろ鰐なる死児兢的行腐と見伸さなければならないのであるが、かういふ滋味の先 呪術的如満として、これまでの岱硝光村諭の多くが本能祈羞や表出Ⅱ勒を詫として認め写しとは、 祁皆に理由のあることでぁる。 ︵旺︶ヨ已ロ︼琶t胃句ビいふ首其の忠吐か醍帖で、こり髄介和々に解押される︰ヾしli、ぺートの汗串し㍗通りでわろが︵宮戸H? ︸僚0日uコd巳P的ie訂i計日当已uヨ巳訂rnこ誓P pp・㌫S−︼∽3、それがかりl二守口t〇号1口許c−−どいふ濾紙に・しても、マレ、 ッ一日これらか証に什餌上呪術でわるビ認めて朋為ら・しく、そ=に克ほ蛸増光考ばわ加へろ徐地がわろりでわろ。光L† レソトti縁にか、ろ行璃の習恨化†ろ=ビ、効基観念の押すろ︰ミむ、それが正伸⋮に呪術与して成立†ろ必ぜ條仰ご兄傲 J㍗やうでわろが、︵冒邑iロ慧Eロ竜dOpP邑PO︻R⋮︼⋮giOnPnd E︷ビ⋮βィー一丁−泣叫ーu念︶、克は点字してどの鮎lニ呪術の 成立わ認めるのか明縮で布い。 呈し㌧しれらの術鶉はやがて特殊の口約や効果の樅念がこれに紙びついて異に呪締となるのである から、それが焉めには木舞岡宥の目的税念のない無忠的な行秀でめることが、自然でもあり少くと も和合がい∼。その上に呪柵としてはその手段と目的若くは和栗と効兆との榊係は、n然仙術虚に 呪術行瓜の厭由 二 ▲
C(;G 於けるとは購って、二仰の翻秘性よたは特異性がなくてはならないから、その結合は偶然的よたは 多少強迫的のものが多いのであつて、それはある円的に向つて企てられた普油の浩然圧力汰や、あ 行秀にn然的と考へられた効某の軌念ではなく、その日的に向 る つては非自然な方法、その神慮と しては特異へ仏効果観念の批州合であ一っ。従って行男と効果との閻怖が自然的と考へ√リ・隼1一屑ムやうな 的行男堕そS目的税念が一皮椚涼するか、または他の時異の目的観念と附き掩えられなければ 目 呪術とはなト・得ないのでぁつて、それ口身の日然的な目的を有することは、それが性蛮上呪術とへ与 るに妨げとなるのであ一心。こS・意炊に於て呪棉のn然の敢珪に、本能や、勘助やそり他唐転両目的 のない桁鶉む先呪術的術盃として諦めることは、和諭上け⋮然でもぁり、ホ葉上の別記にもまた近い ものがある。 〓 非野際的仁術翁の椰類 そこでこの先呪術的稲葉としての本能的衝動的な行虎とは如何なるものかといふに、マレソトは先 には何よム︰ト憤怒、怨恨、愛惜等s戚情的衣出沌動から、呪文蔓ごの起源として街劫的互呼かけ βl−ingと、願望の内容か毎飼わ〓的一で富来で述べるd窯1・ipt⋮くeS鼠−を原理的ハ廿呪術と謎め、綾に はまとして狩猟職印想に於け一り輿際的な行莱に随伴して、痛惜の倣湖ヤ怜刺勢力からよはれる遊戯 呪術行路り原型
8(汀 や椎倣逆潮としての踊らやその他の骨加的毎鶉■で堪げた。ハートランドほ気僻しの意収での目的め ない遊戯分光呪術的術鶉の最も耶揃ぃけものとし、愛惜情怒の歳出週拗・い′外、明雄狩猟に際して強い 慾望の蓑〓として仲ふ劇的梢倣や踊りを苅悪税して㍍る。またブロイスは本脂的なものとして消墟 行栗と模倣運勒を弛も頂鮪的なものとして認めろと同時に、明雄や雨乞に於ける叙述的な模倣建物 と、君尭によ一り〓的S一触過とむ、‖的観念の内的集中に基く意志衣出の運動として、重要な死児抽 的結果と見使した。さらに遊戯の踊や戦時の踊 、刀む投げて遺恨やじものを殺す呪,美しい鉢幕む して女む誘ふ呪なUJを梨げ.結局これを自費的な反射挫勧、概念捕勃及び戚偶の潮秦⋮による無目的 の随伴術謂に如したのはキングである。 それで先呪術的術粛として説かれたこれらの行男形式む、その搾短から大膿飽満してみ一・0と、三 或は囲の抑鮎に緑黄せしめられる。即ち第一は騨純な本能的和讃で、疫病の呪術に厘々現はれて氷 る劫物的な治班毎璃の形式や、耶なる械倣い馬めの械倣運拗、及び椰々へ㌧る燕戯、揖みの茹がこれ −11111−1−1−■−−−■●一1 に属する。次に反射運鋤としては消塘神馬の中で痛みや拝さに件ふ自聴的な和栗、㍍軍 略黒等に 対する併収的な凄腔、その他いはゆる戚僻米田運拗の一小で択抜その刺俄に封癒するやうな部分官﹂ れに歎へなければならね。第三にひろく莱揖運動といはれるものは非常に範囲が ひろく、先呪柚的一 和栗の大部分はこの申に入るのであるが、この巾に桝祁観念運動Id守日Obr邑ぎと耶純な城備典 呪術新路り頂封 五
G68 六 呪術行瓜の原型 奮による行虜A詳kt・訂邑21gと、及び意志の固執による目的衣現運動とを分けて見ることが出水一 よう。勿論この三つは鱈際には正に助け合って現はれ、一つの運動が多少の程度で三者の力一で借り るから、明確にこれを精分することは四郷でぁるが、種々なる表出運動には客々これに獅する程度 上の差別がある。例へば単相に思ひ浮べたものや欲するものゝ名を呼んだり、行基り封象や過提を 言光で述べ立て托わ、その折物の形如を所作に現はした♭することは、後に呪彿的となろ打率い 大 切な安来でぁるが、これらは特に放しい戚惜や意志を伴はない限♭、常迫に異なイり枇念運拗と兇仮 される。これに射して憤怒の常に射手に向つて石や刀を投げ、怨恨から敵の像や持物を壊すこと. その他いはゆる嶽愛呪術の原理となるものは、多くは純粋の戚惜興奮による大出運動と云はれる。 而してこれらに仰って若くは狗証に人聞その他の物に何串かを命令し化巨.n分め搬い漸望を言尭 に言ひ来はしたり、或は雨乞山、戦勝の呪術に於て屡々見るやうにその日的を身構で松倣的に表現し たりすることは、むしろ意志の同軸による目的の衣現運動でぁつて、これらは本郷反省的な計割で はなく多少衝動的㍍術謂でぁる限りせた衣出運動の一つとして、先呪術的術鶉の申の雅史なもので ある。 なほこの外にある習瞑的㍍〓的術常に偶然に仲ふ阿片的へ住持兼が、郡侶として固定しそれn身に 肺殊の効果を想︰化されて、一の呪仙術満となる場合が吋なり多い。例へば町狐ににして多くの者が
C,69
何かの皮衣を着たこと、旧師にある鳥の羽などを旋療として舟に草したこと、或は椰蒔きの時誰か
ぃ歌学フたつたことなどが、偶然にあ一心柁腔Tまで習椚となると、それは往々職雄や収磁に特別の劾 喩がぁると考へられて、猫立の呪術的行成となィ0のである。ことにタブーの行謂の多くはかゝる偶 然的な胃薬や行兼が、何か畔殊の効験がJのるに祁違ないといふ想定の下に、その用命に偶然に現はれた精魂に結びつけられたり、或は何かの事建の不明年頂因を探索する特に、不用意にまた性急に
その原因と師走されたりして、一椰の椚極的な呪術術満となつたものが多い。これらは性蛮上本能
的行兼や反射運勒でもなく、必ずしも戚僻や意志の栗山渥劫でもなく、またそれ白身弼丑の日的術
秀でもなく、他の口約行基の一部分としてその偶然的随伴に過ぎないのであるが、しかしそれは税
極的砦くは椚挿的に澗元の呪術となる概骨が摘めて多く、光呪術的行男の一稚として腔外貌するこ
との出水ないものである。
かういつた無目的な先呪締約行兼の形式を地祇して、べートは粒念運拗、模倣、遽方の串物を呼び
かけること、及び愁望の対象室一目韮や形像に表現する行鶉の囲相とした。︵Op・︵・it・、持岩¢−ロー︶これは従凍の偶純先行論が先呪締約行焉の椰類の考察に於て、臓る晰片的任意的であつたのに対して、
一府周到な考療を血へて大にこれを整理したものといふことが〓凍る。然しこの院分に於ても先呪
術的な行鴻の性貿はまだ十分に励みられて居らす、多少例紆的に列捌された傾きがめる。即ち我出
呪術行施の原型670 呪術行岱の原型 八 運動の大部分を軌念運動に抑したことの可否は別としても,本能的行用として畢に和仏運動のみを 静め、戚情や忠志の衷出として呼かけや言語による衣現のみを顧みて、身醗約束出や梢倣的朱現を 殆んど度外成したことは、先呪術的行眉の用到な考察に大に欠けるとろがめるやうである。而して この外の偶然的な随伴行男が先呪術的の非賓際的祈鶉として認められて侶ない瓢では、却ってマレ ,トが多少これに細れ克ことを多としなければならぬ。 三 目的毎秀の呪術化 然し兜呪彿的神慮として土に堰げたやうな賢際的目的を有しへ甘い行基の外に、ある椰い口約行男 ■− 1−−一 が韮要な地位にあること一で力説し化のは、依舐先行論に対するべートの大なえ功績である。べート は先呪術的行承として後に呪締約な観念や理論が結びつけらるペき偶成や行男は、それ自身の賓際 的目的中和しない行男でぁることを認めるが、しかもそれは性質上本水野際的㍍効果や目的税念の ない木偶行栗山来揖運動に野むものでなく、ある椰の目的毎求も柑々なる印偶の下に呪紙料念が付 加へられて、呪術的術満となり得ることを説いた。帥ちあるF・l的相調はそれが円mとなり、或はそ れと刷聯した全醗の桁眉剖織の申で沌苧な地位七失って粟えと∵位で√−り訓梢で、.直る木嫁い口約が 忘れられ、随仰的または苑春的 r鼓日2n昏な行満となる。而して多くは偶然的にある望ましい結
67l
某が共起した場分に、或はその石基に何等かの目的意義一で想定せんとする慾就から、或ほその結果
の頂園を抹鶉してこれを特殊の行謂に糾せんとすろ頂国論桝欲学iebヨlr u邑︵己ic︼岩︼l Er打亨nt一昭か
らして、その日的を忘れられた残春的わ兼セばぁる共起の紙先の原因と見催し.これを聴殊の効痕 ある行届としてわふやうになりかつその囲火の結合の不自然なところから、それがある効米を口約 とする呪締約術満となるのである︵0︼︶・Cit・−芦雲−さ諾−芝︶例へば和独に軸物の毛皮む弟劫物の 鳴亜をまねることは、異なる本鹿雨な疲倣ではなく忠識的な模倣宮司G頚訂呂日icry でぁつて、こ れによつて動物を誘きよせ動物に泣き符んが焉めの目的行男でみる。然るにこれらの拍常は狼其の 螢建と共にその必要がなくなり、その目的が点れられて.無意義な形式的羽憤句○コn計r苧P邑lや 鰐なる淡飾として存鎖する。而してもし動物の毛皮の代りに動物の列、足、爪などJで無意味に身憶 に薪け手にもつことになると、益々その意義は失はれて、全く目的のない術満となり、何かの横付 に紳秘的な効基板念を餌びつけられ易い術渇形式な焦するのでぁる。 ノ 同校に職瑠の踊.特に出帥に際しての戦士の踊等も、かういふ過戯を経て呪純化する光呪兢的術 秀であつて、職印中留守居の女運の踊がその起源に於て多く衝動的な訳出運動であるのに対して、 出師に於ける朋子の踊は赤水血志を裁郷し、職技を練る周の辣朋としての〓的わ飼である。然るに 後にその目的意識が、漸次稀洒になつて畢なる形式的儀絶と考へられる頃に、偶然勝利が得られ、 呪僻村岱の原型 九
67:さ
呪術行焦り膵型
一〇
これと踊とが特典な原因結果の閲係に於て結びつけられると、それは槻勝の効来を有しそれを目的
とする呪柵として行はれるやうになる。要するに呪術行茄の原型となるものには、ある抒腔的結束
を期待してこれが焉めに行ふ‖的行調A訂ic︼1賢。lle苧11︷l−11=靖も多いのであつて、これらは合祀としてその必要が減じ、また朋侶として機種化すると共に、同石の口的の忘却脱落と行→り、しかもツて
れが随仲的残存行満として布摂することによつて、偶然的な別な効鵜目的と不〓然に結びつけられ
て、それの呪術執念が成立し、この効果軋念を目的として行はれ一心時に一の呪術と打てろといふので
lりる。ともかく光呪繍的行男を目的鹿査のない本能的行男や淡〓運動にのみ限定しだで・雪目的少 ∴
翁も度々呪術術兼の原型となること暫認めたのは.この問題の考察に一歩−ぜ進めたもので瓜Tる。多、くの儀祀光村葡が苗蝦にまた容易に呪術と行†り得る斯から、呪術行男の原型としてまとして衝動的
な無意的行常に旺志したことは、恐らく研究の発展上白然の晰序であり、またそこに貴い将器の洞
察も企まれて屠るが、死児術的行渇の範園むこれのみに眼つては、印某の周到はる説明は不可能で
あつて、この凱にべートり考察め坤凡で呼ぁるが確鱈さの特徴がある。
四 ‖的観念S脱藩と附加673
目的毎謂が呪硝化するにまづその口約税念の・脱落があることは上に述べたとはわであるが、これ
らの行秀い本来の‖的轍念が脱落する相同として、野際的蓮沼方法の進井や塵化のために、その行
釆の捕吏さの減退することを堺げたのは頗るその骨⋮を得たものである。然しこの喝介そい術秀が督
mとなら構硝化すろことも.またそ再刊栗な頂固として認めなければなら閃。蓋し恥骨的墾惜はそ
の範凪がひウ法りその伯水がハ≠がく字Qほど、その追随鶉綾拙者に於て目的の意識が稀澗になるの は〓然の勢であつて、少数の創始新や滑塙東に於て明−暁な〓的行基であるものも.他の人ケに於て無意映な自的のない打兼としてある弥制カの下にわはれる場合が多いのである。
かくして本務の‖的が忘れられた行常に、漸に別の効基‖的の阻念が結びつけられて、ついにそ
れが一の呪彷として成宜寸一〇過程は、本米無意的な他の発現術的行鶉が呪捕となる場合と全く同様
である。而してかゝるわ謁に僻殊の効果が認められる原因をば、べートは託として偶然に共起した
串象の原田・で説明せんとする慾求にあらとして居るが、︵。p・Cit・−持諾⊥○け︶同時にまた締鶉その 物に今山意挙芸腑め畔妹の効果む想定せんどする傾向が,その無意識な行虎王効某観念の螢托する我妻な湖機であること一灯認めなければならない。即ち無意義になつた術常形式亨でのまゝ無意櫨た
何承雄和することが同郷になつた場合に、一方で椚仰の梢力や軋曾的献血カがその野村を止めさせ
ないが凋めに、人は腔々故意に或は多少無理にある日的をそれに想定し,強ひてその効鵜を採火し 脱硝行強の原覿674 ゲ備ゎ頒の原型 ﹂一一 て、それを特殊の効果口約と結びつけてその密行に甘んじようとす乙。而してその行書しL〓的との 因果的結分が勢ひ不自然であ∵リ、特異であるために、それは他の自然的な行書に於けろそれと対比 してその超自然炸榊和性が意識され、呪術としての特蛮一で∬ハへて非るのでJりる。 かゝる過程は窄憤とハ与つた﹁眉鶉に於てことに多いのであつて、あィ0引数の掃内訳朋のためにその 原因として結びつけられる桁鶉は、偶然的へ付随仲村甥や一時的な‖的の桝かでへ仏い桁詔が多いが. 打兼をの物の効果や‖的一で想け化するには、それが現在無意義ではあるがその習ゎノご心ることが出水 ないやうな、また人々にその意義打的の思索哲そ∼るやうな、多少永締約強制的㍍軋命=的利昭古た は儀祀で行ければならない。例へば出漁の峠誰かご亦い祁をしてゐたことがn宜漁の税関だL﹂認めら れたり、朝起きて口mノ川いたから暴風が起ったと考へられることはあるが、これらの毎霊はそれ自 身にその・効来車追求されるに上帝亜育苗盆ではない、それは全く共起山串免の頂閏J£小めて、偶然 その術鶉に鋸点せしめたに過ぎない。然るに畑の四隅に立てた竹が抑圧作に効軍功る呪術と宮芸られ た♭、椚蹄線型兄い婁音別七のが如嘉零細ふ蕾めと兄徹されるのに、本状鳥ノで追ふためや畑作川な 、 れに二川伸甘かの意華効準で想定 意味ぉもつた〓的わ兼が、習惜となつてその日的を舵失ししかもそ せんとする〓仙索の結果でふつて/でれはこれらの術粟が本凍の〓的Jで火ひつ∼、なほ郡mとして木骨 頂強制されてゐたから可植なのであぇ。
∩7占
この滋味に於て‖的折兼の督柄化は、それが呪術となる過程に於て二薫り意鶉を揮って居るので
あつて、その術焉から囲右の目的税念が忘失脱落すちのに、それが邪椚となることが興って力みる
ことは先に逓べ花油りである。而して今またこれに新な別の‖的枇念が付加せられるに常って、そ
の無意味な行鶉形式を緋柿赤紙せしめ、これについて特殊の効来む考へ‖的■で想定せしめ一〇機曾を
輿へるのも、それが墾田となつて居るが秀めである。それで行鶉の窄情恍隼で山呪術化を促す有力
な原因であることは、マレットのいふやうに必ずしも﹃俵祀Lとしての呪彿の成就要件であ一〇ばかhソでない。自由行鶉としての呪備の成立に於ても極々認められなげればならぬ。とにかく本雑呪術で
はなかったn然的な口約神馬の多くは、かく胡椒となることによつて、その効果巨l的が晒抱され、行男とその効果との因果闘係が性質上多少挺化して、静粛的ハ仏日的行粛即ち呪術となるのである。
五 侶伐博拍
かくしてn然的仁‖仙術点から呪術が隊生する過稚は、まとしてその木非の〓的観念が忘れられ、 さらに別の効果‖的の租念がをの一缶謂と結合して.両者の問にn然的とは考へられない畔殊の因尭桝係が意識せられる耶であつて、言‖にして云へばこれは術謂の目的租念柚化の由据である。これ
帥ちマレソトの桝紺文化の昭瓜樽換tヨ彗L邑ぎ。︻邑宕の一形式であつて、特に同一の術粛形式 呪術折角の原担676 呪晰行路の原型 一期 が畔と彪によつてをの意義目的を癌化する稗鶉日e已ep2.彗 に属するものである。マレソトによると ある文化や行鶉の形式は、時代と場所主よつて常にその政令生活に於ける位附と正妻さに樺勘があ って輔位己et?tPHiCすると同特に、軒断行馬、宗教、呪術、薮術.燕戯などは経えヰその惜他と忠 義が生滅轍捜し、和正の問に2e邑ep訃が行はれて、仝他として情疏極換の現象を成して軍Q、︵宇 弓ettこ眉互10−藁y喜d句。lハ一〇re、ど11d。︰l・l諾0、pp・冨1〓り︶。この現象は主として蔓ECrつに糾して マてトが説いたのではあるが、今口り問題であるn然的ぢ口約行易から兄姉の教生する過稚は、 特にこの情仇輔換の塵めて踊著な場合に外ならない。 それで、かう云った呪術締焉の発生を価値納換として考へると、それは必すしち自然的左目的行焉 らの慨偵柑換のみには限らす、他の宗教的呪術的行承の恵轟の怖化によつても、一の漸な呪術の慰 生することも認めなければならぬ。呪締行成の教生は自然的術点からの晒換によるものが一府明瞭 であるから、上には立としてこれについてその過程を説則したのであるが、然し他の宗数的儀絶や 呪術桁凋もその忠魂口約が特化して怖黒土別な呪術となることがある。例へば誠実や所領のための 新藤文が、同じ目的に紳を強−1iりし、また他の口約を遂げんとする呪文と行了り、地を冷し盟餞を得ん が凋めの呪術的供械が、疫病や悪魔一で沸ふ行串に硝化するが如きは、多くの艮状の文化史に於て絶 えず現はれる現象である。これらは単なる呪術矩栗の畢眺と擬化と且順すことも招来一心が/︶た仰 ′
¢77
々の兜補わ満として考へると、その行瑠と目的との結合抑係が著しく縫化したので今匂から、股麗
には佃他榔櫓による一の新しい兜補の静坐と認めなければなら氾。
かく僧職晒換といふうちには一般にある桁粟の口的の慶化のほかに、その行基と‖的の捌係など
公醗として行渇の内面的性栗の特化を合んで居る。それで上に詳説したやうな自然的桁濁がその自
的の弼換によつて呪補となる場合のほか、その日的ほ塵化しないでたぃその折謂と‖的の鯛係に於
て呪術的性貿が現はれるやうな場合、換言すれば性貿上自然的と考へられて居た行兼が、その特典
の国英帆係から榊制約な行満と務められることによつて、呪術となることも、惜倣樽換の一つであ
↑つで、これまた先呪術的行満としての‖的行礪が呪碗化する一形式でぁる。撥愛児の起源は衣川運
動でぁるものも多いが、またべートのいふやうに自然的と考へら寸lた愛を野心方法から特化したものが多く、これらは目的の慶化なしに自然的行届の呪捕化する郎例である。その中でも蕉理的葉物
的に英性の愛憐を刺戟すると認められる方法は、柄気拾鮨のための閏披m鼓eineと性葉上同一であるが、一般に自然的な博嫉の方法が、その自然性七失ふか紳秘的となるかして呪術となる場合は甚
だ多い。リザーズはこれを文化の礎形tr邑r日邑。nと柿し.幾多の寄例をあげて、その原田は多 く文化の地理的榊移と英民放の接触にあbとし、特に異民族の博捜の方法が況硝宗数的な配合に取 入れられた時にそれが呪術化するといつて居る︵巨責仇い更訂官,試鼠β呂d記∬甘Pど已0日、l呂 呪術行瓜¢鰯由G78 呪僻祈岱り原型 ︼六 小、ワ7−つか−H・〇。なは狩独に於て御物を招き寄せ・ま端めにその郡亨﹂品一?−とも、初めは臼然的 方法と考へられ柁のが、後に同じ目的の謂にする呪純血のわ秀と特化したものと寸れば、またこの 椰の梢徹輌換の一例と見佃すことが出凍る。 なほマレットの桝珊⋮髪已e鼠仇に射するー一︼e汀1ど訃はある行秀形式または文化り敢行的地位の滑走 を意味するが、もしこれがあぇ口的の凋めにする行袋形式そのもの∼箪化成は生滅をも意味するも のとすれば、朝仰的行秀が漸次に童形して、同じ口約の溺めにすも薪五形式一で年子?1とも、呪術 和栗隼雄の一校式と兄撤すことが出水る。例へば外敵を防ぐために村落の入日に大石一ですえちこと 、 が耶脚となつて本の滋味を火ひ、後にはたゞ小石一ざ並べる粥となつたり、指先上の必架から岸兄 を水浴させる風邪が、いっか頭上に少沌の水密そ∼ぐ形式ノで生んだりする。べートが狩瓶に勃物に 近き易い男めその毛戊一で新たことから、稜に動物の動、足、爪な十を痛帯する邪甲で珪じたといふ のも帥ちこれでぁる。即ちこの場合に羽m的形式となつた行男は、多少そのー1的や滋鶉も桝瞭でな くなつて居るから、これらは先に述べたやうな口約術鶉の似伯鴨世の一例−或は先呪術的わ粛とし ての随伴祈秀から呪術一で聴珪了0場分と見徹すことも出水ないではへ甘い。然しこれらは多くめる程 度まで無意識的にでも本非め‖的が維持されて居て、行鶉形式そのものが捷化して一の新しい呪術 となるのであつて、この・毎焉形式の嘩化の焉めに、その日的観念との内果闘係が特典のものとなり、
679 をこに紳和的な呪細雨性貿が澄雄し、、少くともその呪術性が強くへu・るのであるから、これらはめる
目的毎兼から呪柚が張碓する特殊山過程と恕めた方が通常であらう。尤も一方でこれらの行鶉は全
醗の代りに部分む川ひ、米象が門物に代ったやうなものが多いから、それは一の粕比的な先呪縮約
行焉とも考へられ、ブロイスやフィーアカントの所謂獅比的呪絹A−−Pl︵︶giczau訂rの教生の中に色合し狩るものも少くないが、普通獅比的呪摘は次に説別するやうに、める因果粗念に基いて企てられ
た目的行謂であるのに対して、今め問題でぁる邪惜的術謁の純化弟くは桐易化は、殆んど無意識に
その神馬形式が現はれて、換にみる効鵜糾合や因果関係が意盃されるのでぁるから、多少これを芯
別して考へなければならぬ。
大 類比的行霜
ブロイスは先呪術的行鰯として立として本能や模倣表出の運勒などをカ諭しながら、他方で類比
呪彿を最も術畔な原始的な呪秘として居るが、これは前衷がそれn身出初から呪胸でないのに対して、獅比的術栗はそれ自身時に呪術的な性質をもつて居り、本雄呪純的に撥生し那くは企てられた
混も胆純な姉弟だからであらう。フィーアカントも自然的い共と呪循的因果、膵に呪力板金の未だ
完全に分化しない状膿に於ての呪術行承の形式として、階段的に表出邦勒.頗比和虜及び反邪的打 呪術行瓜の廠勃680
呪術行瓜の原型
一八
焉の三つを怒げ、特に琴一の類比行名はそれ自身呪術的であるかのやうに説いて居る。然し厳密に
云ふとこれはべートが押したやうに、むしろ先呪術的行鶉の稲畑と見化すペきものであつて・これ
らの行秀形式が自然的神馬と砿別されて呪術的となつた暗号.節二の菰比行栗もまた始めて新比呪術となると見るのが至蕾でめらう。
この忠妹での新比和満とはある目的や結果の焉めにする人鶉的の方法または日然的の原因と如似
する術鶉によつて、それと同一または茹似の結果を樺んとするものである。例へば芳で人を諾する
再の頂因である室の代りに、
代りに、その人形を作ってこれに尤む加へて本人に軍ぎ輿へんとし、
これに斬似した煙や棉一で散らして雨を得んとし、また豊作の原掲である花の珪雅一ピ助けるためm園に胡女の性李ど術ふ如きは、みな他山人粟的な方法や自然的頂囚に布似する行秀によつて、またこ
れに如似すろ排撃曾碓んとするものであろ。もとより未聞人に於ては或る脱起または北ハ剋の現象や
行鰯の頂⋮と結射と一で諾って頼倒することが少くないから、
か1る類比石英が北ハ紡梨たる現象や行秀の模倣であることが鰯々ある。例へば雨降の結果である傘をさして雨を降らさうとしたり、同様
il− 何承である。即ちこの場合、紋等にとつては臓据な相川や結果の租念がないから、たいその相通の 姉象やゎ鶉の一部を宿って、他の結果を椎ようとするのであつて・従って桝洲帥斬比打粥には必すしに石を濡らし、狐ぉ水消させると耐が凍ると倍するなどは、
多くの原始札付け存在する風習または
¢8
も戯嬬な関根税念む孜想しないいである。
然しこい椰の獅比毎月に鱒て、その効北に射する内張粗食は締めて肛純ではJのるが、その折粛はこの枇念が兆擢になつて現はれるのであつて、他り勒焼から出た術兼形式に稜から或る効果軋念や
国英閲係が付加されるのではない。帥も鹿兢に云ふ翫比行粟ほ或る意味に於て計劃的㍍〓的如盃で
あつて.此釦で⊥に述べた外形上一抑の勅比和満と見られるやうな邪侶的和栗の仙一日易化したものとは砧別されるのである。川様にまたそれは一般に先呪術的行満としての桝動的な非賓隙的術栗や、
本雄別の‖的む以て呪はれて情概略掩によつて呪術的となるやうな目的術満とも、その呪術として
成立寸る過程な異にして居一・0。即ちこの椰の赦比術栗は別にこれに薪な‖的を相加することも目的の輌換もなしに、そのまゝ呪的的となるのであつて、たぃその術満と効果との因果闘係が楷典の紳
腫的なものと忠識される帖に、それは臓塘に呪術として成立するのである。
故に凱比的術鰯はあえ自然現象や人用的行翁の模倣である釦からは,また構栽の椎倣行惑示二つであるが、然しそれは本能的衝動的の模倣運動ではなく、ある‖的む対する針劃的な模倣︰侶秀であ
る。帥ち澱初に北呪術的鋸粛として森げた本鵬的術鶉り一である模倣運動と、こヽに云ふ新比行満
とは性質上公然これを隔別して見なければならねのであつて、同じ北呪術的鋸刃としても火にその
趣を英にして居る。
呪術わ焦の原封63⊃
呪晰行焉の原盤
二〇
而して類比行虜は性貿上その行満と効火の因果閥係が紳秘的と認められ易いのであつて・その方
法としての行満とその日的たる効果との因果閤係は担鹿上白然的のものとは多少その内容を異にす
ることが多い。帥ちある自然的な術琴哲原型として、それに頬似する方法わ男を企て、しかも直に
これを略々同一の目的効北と結びつける時、その聞の何基関係は捕型たる行凋に於けるとは多少薫
ることが意識され、かつその間に特殊の令盟約説明が奥へられるのではないから、勢ひそれは特典
な因鵜と籠められて、原理たる桁鶉が自然的でぁつても、これと対照して超自然的紳鹿的といふ成
が晰︿呪はれて凍る。例へば芳を以て肛接人を崩することは自然的であるが、その人形・生傷けて本
人を宰することは、たとひ吋経でありかつ合印的であつても、日然的ではない特異の国英と見傾さ
れる。同機に斬新申で托すろことは未胴人にも自然的な現象でぁるのに射して、人翁的に焼を立た
せて両を翻すことは.彼等にも多少その国英闘係を異に†る紳私的なわ凋と考へられて凍る。かくして類比仙術凋はそれ自身呪空しはないけれども、性質上呪柵的となる囲向ぉもつて居るのであつ
て、この郡ではブロイスやフーーアカントが翫比行基ぉそれ自身呪術的なものと見侶し、難比呪術
をば呪術の敢初の形と考へたのも仝︿坪山のないことではない。
七 分裡的計調い呪術
¢S3
かくて一般に瓶比的行秀は北呪抽的行鶉の一として、衝動的な非野際的行兼や窄憤的捏∴目的行満
と同校に、あ乙便仲と過程の下に呪術となる性貿を典へて屠り、特にそれらの中でも呪術となら傾
向の著しいものでぁるが、その原型となる桁鶉がすでに一の呪術でぁる場合には、その斯比的行栗
は常然戯動から呪術として成立する。蓋し楷英の因果閲係の土に立つと静められた呪術的毎渇の如
比は、決して自然的な田来による和栗とは考へられないのでぁつて、例へば頂捕を鮭す呪文を多少
樟化して腹痛に対する呪文た唱へたり、礎に血をそ∼いで家屋の安定をはかる代りに洒を用ひだわする場令に、その相比的行翁の方法と効果の因果は、その原型となる行粟の由来が特異的呪絹的で
ある以上、それと同根に或はそれ以上に紳秘的と考へられこそすれ、決して自然的とは認められな
い。かくして一の呪術が頂理となつて、それの如拙から幾多の呪紡が派井することは、呪術発展の
土に蹴耕な粥粟でわつて、これらほもはや党規術的術栗と名くべきものではないが、呪術行翁の形
式一で決定する有力行要素の一つである。
それで低調先行論の元場からいふと、すべての呪術行承の撥井lま偶然的であつて.をれが呪繍的勒念と伴って故密に呪締として成立する以前にその折秀形式が決定し、而して嘩ある條仲と過程
の下にそれらが呪紬と圧るのであるが、さらに色々呪術費挫い串僻む一般的に考結すぇと、すべて
の呪術的術粛は必ずしもその先呪術的段階を絆で後に呪術化するのではなく.出初から裾に祝彿と 呪術行嬉の原型GS・l 呪術行須の原型
二二
して現はれるもの∼あることを認めなければならね。少くとも入朝文化に於ける敢初の呪術の澄現 を諭するのでなしに、帥々なる呪術の教生宮腰史的心埋坤的に考察する場合には、大概土偶祀光村 のき拝賓を認めると同時に、また特殊の呪術的因果や呪力阻念に裁く計劃的術満としての呪術敬珪の 昭鱈をも無融してはならない。此釦ではフィーアカントが排斥した呪術の韮知的目−的脊鞘諭的紋別 il已︼つktu已証等︼→ヨつ︵′kr已ぎ︰L㌃こ衿訂︼宣ハ︼ぎー腐も呪術現象の可なり多くのものに適用し得るのであ って、他の呪彿の郊比としてそれから派生した櫛比呪術は野際上後代の呪術の大部分を占めて屑る といはなければならね。 而してかく計測的に現はれた呪彷の申で櫛比呪術はその基礎観念の最も簡鰐なものでぁつて、必 すしも時殊の呪力粗食によるのでないことは云ふまでもなく,その行秀と効果との因果刷係の内容 についても榊紳な軌念を右せす、た︸その原型となつた行常が呪術的であゎ舶兼的でぁるために, それと同蛸に呪捕的と経められ、他の自然的な宿鯛と臨別されて居るのみである。しかしとにかく それが企てられた敢初から一の呪術Lし認められ、自然的な術粛とは其の理法を異にするものとして 計測された鮎に於て咤先呪術的緑薫としての段階Jで経て、目的の附加や情肌用掩や紳秘化によつ て、初めて呪捕としての仲里Jで現はす他の打謂形式とは著しい差英がかる。要するにかゝる類比呪 術は種々の偶塘的な呪術と陸別して合理的に計劃された呪術の一つと認めなければならないが、そ¢88
れは計割的な呪捕の弛も澗胆な職式でぁつて、この外になは梢々の呪術的軌念を基礎として形成さ
れた幾多の呪術形式がある。べートはこれを組柵して合理的に形成された呪術th彗etiscl→P磨ebi宇 e百害鼠eといつたが、︵Op,Cit・、p●−−βそれは騨に自然的でない特典の因果観念によるものから、エマニズムやアニマチズムの観念を根底とするものー、ア一〓、、ズムや粕定規念紳砥軌念を基礎とする
ものなど、基礎枇念の螢展の程度に従って無数の柵頬があることは云ふまでもない。しかしとにか
く先呪楯的段臨から澄坐した偶然的な呪備の外に、令制約な計測的呪術の別種の発生を認めたこと
は・粥純な構祀先行論に対する亜嬰な修正の一つであつて、この鮎はベートではまだ十分絆にされ
てはゐないが、呪術の一説明時にその発生は、基先呪術的形式の考察と同時に、またその令埋駒形成
について十分の考慮を彿ふことぉ巽する。而し亨また先呪術的行男の形式についても、箪にこれを
街動的な非歴際的術承にのみ限らないで、種々なる目的魯馬の椚構槽換や、上に説いたやうな第一
次の斬此的村名などを顧みることによつて、呪術の教生が周到に説明されるのである。
呪術行瓜ゆ原型888
二
支那円市政州中、我が邦の偶数との附備に於て、敢も重要な位刑帆を収るものは、北方にあつては 長安と五台由、揚力にあっては、明州と天台山である。長安は弘法晶心根等の逝蝉せる桝、五台山は 登仙・意兜等の弊習せる桝、天ム〓山ほ倦教・智詮等の息跡・ざ印せる研、明州は発西・道東等の修柿に妬 めたる桝であるから、足守の土地は.土地そのもの∼上に於て、早や吾人り心を惹く鉛が、他に比 して軟倍する。是辞の外に揚州に於ける柴谷・普照、開封に於ける成串.岩山に於ける準彗杭州・妹 州に於ける諦蹄彼等、共範閲が偶猿となるけれども、蓋、庸代に於ては北方の長安・西方の天台山、 来代に於ては輔方の・桝州・杭州を以て最とする。而して研代は敢棉排扁の峠であり、宋代は膵泣唯 修の暗があるから、従って長安・天ム〓山は隼的偶数に於て、桝州・杭州は行的俳故に於て、我邦との 交渉が甚澤である。是等の土地を椚む時は、彿敢の威力が鵡然弛む沸へる今‖で寸らも、遊ぶの心 の奥深く、一椰いふペからざ一よ放戯む湧かしむる。批んや粟洋文化の爛熟せる唐代、妊いて先代に 貌が来合閉館の資源地わろ研の帝流布lニつきて我が東台所密の螢源地たる庸の脊髄寺につきて
常 盤 大 定
二田8S7
於ては∵如何ばかりか先穂の身心を脱落せしむる効果む石して居た串であらう。蕎里の波涛を越え、
身命を捧げて辛くも茄州にたどり著ける畔には、天台山の山色を仰いだ︸けで、況んや修櫛池場に 於ける天ム=大輔の英身措前に勒ついた∵Jけで、更生の気分を映ったに舶違ない。金地といひ、銀地 といふ名響あもの∼山た、早や人世に非すといふ忠妹を衷はして居る。天台山にして然り。獅一府奥深く行恨の渉を進めて、今日すら獅入り難しする長安に遊んだ時には、宛然享‡ニ天に上った
祥の心境が開け、精紳の緊脱が極度七通したらうと⋮心ふ。我が弘法が伐に左の滞在に於て、既に
数十年の租功にネ超えた所得のあつたのはー素より基天麦の傑出による苧空けれども−怖恨の長安に入った栗の心紅紫張が舶⋮くては、期し村ペからぎる桝である。
〓
康代の長安城は、現今の西安脾に比して・十二情以上の大きさで雪て、城中には南方の些帽・典
き、のの
平出議諦寺の如西南肛械守如き毒力の西明・盟卒親典講ヰの如き▼西北の塁剰・千頑・典
両紙寺の如き、兼北の保守安岡舐事の如き、東方の常軌・玄は綿寺の如き、東南の印影姦恩前章の
如きいづれ阜沸教史上に名ある匡剥があつた。是等はいづれも現今にては府城外にあり、中に於て
薦涌・典琴意思の三大尊は、基遺跡現存して、遊子の心を満足せしむ・匂けれども、他の精薄に至っ
ては、その道址すらも容易にこ∼と指鮎するを得ざる状況にある。是辞の中に於て、特に日本沸教 我が盤台剛糖の軟派地㍗ろ析の軒楓帝につきて6S8
我が彗品村り訝淑地たろ塘り野瀧守につきて
二六
と牌係の覇なる帝難事に就ごし、多少研究の結果をまとめて、埋界の批評一ぞ荊はんと†るのが、此
㌻小論文の期する桝である。題目は㌍に盲に㈲する郎でめり、記郎は煩胡な岬に考繚を安へて居
るけれど、日本との文化㈲係に於て、一の題目とするに足るとや㌔
覇能事は不露三滅の嗣にして、我が弘法大師の師であつた悪葉阿閃梨の郁せる寺で、悪果は寺中
の東塔院に居たのである。音拙守には、大師と同門の鴻操を初として、法洞義学識浦・義明義敏・
親政姦智の如き幾多の龍象満山し、而トて鵡操の釣手には、法今義束耳抹潤・詣舟の如きがあゎ、
正に法会の弟子には弘悦がJぢて、足守はいづれよ品薄にあつた。我が悪党大仲間仁・和紀大師園珍を初とし、眞如別‡宗叡・阿載はいづれも、法会に従申し、聞仁は獅また別行姦述と共に義兵
に従申したが、比企も鴻巣も市鵜事に居たから,脊髄事は我が邦の浩明に耽っても、ム‖密に取っても、寵袈な位舵を有する。その帝靴章巾に於ても、義範は悪果の任せる光拷院に摺った。斯くて長
安の帝桃場末漕院は、我が平安朝の沸教に取って、拭藍とも祁すべき場桝である。この脊拙守は駐
時長安府城の左折亜流の延典門に近き漸〓坊の洞門の火力に位して層たのであるが、現今はその位
脛を林野にこ∼と指示する姉が阿難となつた。垂㈲や、輿半や、慈恩の臓存するに関らす、殊に11 本俳放との問係上、上の三大守に比して一掃韮要な帝親等の不明に抑した姉は退城干満であTる。三
引用 弘決大師は、娃僻廿三年、支那の貞一光二十年︵西暦八〇憫︶の七ハノで以て、滝雄大偵榛原蒐野鵬の︼ 絹に加はつて、入川求法の途に就き、翌八月に面州長藻順に捜右し.十‖む以て備州に遁−﹁陸路た
由りて、十二月を以て長安に到るを得た。出船以後元ケ月の日子を鯉し、あらゆる因苦を骨め並し
て、︰辛くも怯仰の長安に到る一箪得たのである。翌年印㍉延層二十四年二月む以て、大悦の一行は締団
の故に就いたが、弘弘大師はこれよb自由の身となり、求法に心を祁にするを待て、右術の西明寺に入った。西明守は載埋の道場で、創宜の常初玄些二減が勧化し追宣・園測の如き有名な尊者の任
せる所である。六月には左術の市報寺に入りて、悪果阿聞梨に従ひ、八月には早くも便法阿聞梨位
の溝椚七受け▼決闘七相承する満となつたが、その年の改・冗永点元年十二月に、仰の悪果は春秋六
十にして、入寂したのであるから、大師と悪果との榊係は、畢に冒偶作水の奇経と制⋮つてもよい。
偶に平成の榔発は、欝に米持の文化に取って、千城の一過であつたので、若しこの叩寧で壊れたな
らば、円木沸教む豆非常に些ったものとなつたらう。特に大柿によつて大l=名暫彼此に迫した悪果は、若し此隼歳の好機を過したならば、或は脛史以外に埋没せる人となつたかも知れない。‖本に
凍って大仰によつて初めて組抑を裡た兼敏は、若しこの年歳一ピ失ったならば、或は媚右の位椚を沸
教邸に巽北するまでのものとならなんだかも知れぬ。斯く考へれば、両扉八〇宜年の後車は、俳数
学に耽って、韮婁な忠鶉む対する姉となるのである。翌年元和元年︵酉層八〇六︶の一月に、大師 我が張合肘裾の詳減地主ろ槽の常沌坤lニつきて6つ0 我が架台閑雅り散光地主る店の野党守lニつきて 二八 は恵来阿附梨の非俵に列し∵基碑文を撰し、且つ沓し、報恩の行基を並して絃、長安む去って正に錆 来すろ串となつた。邦人にして自分い師匠の碑文を媒した人には、前に描の帖代の大師めり、後に 元の時代に於て、ユlj山小林事の郡元がある。郡元の碑文は現存して居るけれども、大輔のものは、 恐くは現存して巧まい。碑文その一ものを比較する畔ほ.大仙のものは、比較し得ペからぎる程に生 々たる≠派なものである。櫻に竿炭の門侶、而も渥外の留草生化る大師が、林り如き畢批の中.より、 名車ある此役に選ばれたのを見て、大師と悪果との問の師表の如何に密通なるものであつたか一で想 定し得る。丙明佃測は新羅人たるの放であらう不遇の地位に置かれ、我が紳⋮此仙≡減は、和束人たる が放であらう、諒宰せられたのである。斯くまで中園思想の旺盛な支那に於て、而も同じく捷い時代 に於て、大輔が斯くまでに帥山窓先の信頗を受けたのみならす、師の寂彼に於て同部のぶに推服せ られた所を顧みれば、大師の人格の阿満にして、而も準力才能の非凡行アりし串せ推定せねばなら氾。 四 大仰の撰文せる悪果碑は、大店抑邸骨髄事故三朝国帥肺頂大阿聞梨悪果和椅之碑と超し、日本観 軍法由子必須蕪如挽文並祁としてある。必ずや帝溌薄に柑てられたものに和違めるまい。文中、仰の 悪果につきて、﹁乃就放火照描伸輔乏叫乏▼基大穂也、則大典薄幸大横朝不埜二弦之入室也Lといひ、又 ﹁飴胴囲分節扶、校則三躾沸頂﹂といつてある。辟と秤と一㌍兼任して穐に.群数の推頃ぉ受けたので
¢91 ぁる。大師の伐たる﹁骨法梢﹂の中に,不寧二戒¢過言として、窓先の密教に於ける位龍を知らしむる
ものを記して属ムから、これによつて碑文に無い研一で祁ふ郎が出水る。日く﹁車齢代嘩坦二十除年、
人的授法弟子煩多、五部琢肋、成立入間、袷亡舶次,唯有夫人∵基経得乏、則有日金閃愈光・新羅蕊 超.野鶴悪琴雄編盤肋・保得元佼・見過[と。これによれば、不室二減の晩年に、骨法の些十八人小、五基山企槻♯の骨光と、新羅の恵超と二屈伸昔龍事の悪果と、同じく涼帥塁湘薄の悪則と、同じく
涼帥悍議事の元峻。堤超のみが遺つで居た串が知らるる。又、いふ﹁就レ巾七人、得ゐ剛界一部︰両
難則兼得南部輔佐こと。大仙の常時悪購も、元唆も兇超も、恐くは康存して居たであらうが、基中
に於て大師が特に悪兆を選んだのは、正しく両部の師位を得たるが栗であつたに相述ない。猶ま元
﹁骨法栂Lには、﹁和仰山元二十年、㌍出泉堂鶉払子付議恕︰細立命例外大漫茶羅“乃排和帝位︰チ峠般新二蝿及講大穂等、華南決些﹂と言ってあるが、これ恐くは悪果が阿聞梨としての朗初の法
延でぁつたらう。山元二十年といへば、大師がその十二月を以て長安に着かれた年でぁるから、大
師はこの法先には列せなんだが、翌年二月に西明寺に入って後には、帝拙守以前に於て、既に悪果
に接した恥と恩はれる。般革二減に避退したのも、必や常靴事に入る以前で,大師は此両帥に遇へる郎を、非常に醤んで周る。すなはち﹁串遇暑中天筆問般苅三脱及内仏和悪果大阿関野條渉姥足・
仰迦甘野Lと言って居るに撤して、之を知るべきである。大師が脊溌尊に入ったのは、恐くは悪果 我が光台村据¢蜃瀕地主る席の帝楓守につきて 二九692
三〇
我が架台耐据の哲源地㍗ろ析の帯龍雄につきて の晋山に従ったもので無からうか。いづれにせよ、大仰は†避の帥と仰ぐ悪果和銅が、初めて法定 を張れろ基年の末に長安に着き、翌年之に従ひ学ぶ哲得て、火に喜ん仁甲斐もなく、早くもJl︰ハ年の 茄に死別の悲哀に旅愁を痢したのである。悪果と大仙との交渉は、重晶い帖H一望典ふるも︰ケ年に 満た曲。貞元甘一年、所柄八〇五年は、東西の草托に取って、千歳一遇の好機であつた串を、繰り 返して威せぎる一で得ね。五
大師は、碑文中に、悪果の・茄子につきて、﹁新羅悪日渉≧韓−而頂戴、綱陵非弘、㌫=五天一面抜足. 剣術則椎上、河北即準呵・・⋮薮役印可解抜ポ、栽別供東女人也、云々﹂と言ひ、この外に九人の名 を列して、いづれも之■で賞訳して後、特に悪果と自分との閥係につきて咋韓して居る。−和銅掩色之 梗.於コ塊外車∵野蛮チ自、汝未レ如、吾典レ汝桁際之深乎、多元之中、舶北ハ誓願、弘−流布成︰彼此 代周一伸葬∵罪女一両度l也−是政鋤コ汝滝渉︰授一一我深法り 受法云異 音跡見炎、汝西土也接−知見︰ 吾旭光珪入1汝之畢∵装乏近留︰五=在レ前去也Lといふのが、それである。慧〓心と衝動との仰の走出倉 上の法契に比して、一桁の深度を加へたものである。大仰は此文一で堂々と同僚の眼前に展開した研 から見て、自信があつたのみならす、他もまた之■で認めた郎を和すべきである。大輔と向じく悪果 に従った両人逸土嚢燈り起草せィU略修和問わ状の中にも、常に悪果が門人に紺へる託として、阿陵693
の醇弘、新雅の悪日には輸液帥位を授け、創面の椎上、河北の義固にほ金剛大は・で授け一義明供奉に
は両部大怯を撞けたる里・〓つた枚に.大輔に閤して、1今か︰〓本抄門寧狸∵琴野馳放り 以コ両部秘奥 約儀印契︰撲梵卵琴悉受コ於心痛加ユ栂池︼といひ、最後に之を総括して、﹁此是六人、蛸梅3書法燈︰吾漸尤炎﹂と緋んでぁる。これによつて、窓兆と大仰との閲係が、蛋と麗との深き奥底の上に成り
立てる郎、且つその節は他の一般の極めて開く諒催せるものたるを知る事が出水る。大仙が熱血を
振って、この堂々たる大文字を準し、以て長安城内に一の光彩を添へたのも、この恩徳に報いんが
鶉であつた。大帥が帥に死別の彼の抑留には、師の非偶に列する郎と、この碑を建てる串との二大
要件があつた。これを終って後、正に録束の途に上ったものと㍊ふ。非儀は一月十五日であつたが、
二月中には早や長安を去られたのである。
大
斯くまで彿敢史上に一大地位を占め、特に日本偶数との㈲備に於て、茄要なる意義を対する背馳
苛の超脱鑓遽及びその︼位躍如何。先づ起原鼻遼を叙述しで後に、その位置に論及する串とする。そ
の瓶祉をいへば、桁の血虫二年︵所願五入二︶の創立で、もとは鮎戚尊と名けられた。文帝が郡を移せる際、城中の陵鵜お堀り移して、之を郊野に非り、囚万て此事を聡けるが兼に、麗戚の名を輿へ
たのでぁつた。川の武槽閏年︵西暦六ニー︶に至りて一たび麿せられたが、城陽公ま甚しき次に摺れ 我が架台雨情の響源地ぉる騨の帯電l韓につきて694 我が悪霊榊据の覆瀬畑わろ㍍り滞磁ヰ1こつ︸て
三二
る時、鮨州の仰法則が聖“揮を諦して乞厳し、焉に癒ゆるを得たので、親朔二年︵苗楢六六二︶に奏 して之を祝典し、枇常♯と名け、蕊憲二年︵西暦七二︶に至り、改めて青親ヰと果した。これ、#瀧尊の起原でぁる。北は高最に枕し、摘は爽塩を望み、草眺の業を以て⋮ば時に名が高かつた。大師の
こゝに草んだのは山元廿一年︵西㍍八〇五︶であつたが、北ハ綾凹十年宜堅し、命日=五票西朋入門五︶ の石賓仏式仰の僚彿に際して磨滅の榊に準フた。此嘩∵石狩に両肌荘腿の二寺の■み、売出に意思● 堪醐の二幸のみを止めたのであつたが、大中六年︵西暦八草一︶に至り、左右稿朽に寺入所を清明机せる際、粥満車は誰同寺の名一軍以て復活した。此誰観専なるものは、蕾位龍に建てられたものにや、
又川呼一号州㈱出せしものにや、基後一向その名を見る串が無い。清の嘉歴年問に府城の北路西燕門
の西方にこの名の華で見るが、それは古S再親尊の揖頂にや否や、未だ何人の椚究も無い。兎も角誰闊薄は情末に至上し殆ん卜し憧史外に椚え失せた。末代に凍りて誰川寺い名が見えすして、却って
斬拙守の名が再び文習に見えて層る。元姉元年︵西暦一〇八六︶、城西に遊べる張祀は﹁逝城南記﹂一で草し、之に自ら乱七加へ、曲江の下の証の申に、次の様にいふてある。
無遊之摘、曲江之北、新〓=坊有二音親尊り北枕託原︰桶野福叫事態胱之絶勝︰出刃仏所紺行坐施術山是也。
これは同じく栗山靴墨九年︵西購二︵り七六︶に葦はされた一〇朱敏求り長安志lぃわ冬打撃ったも′ひ ︵V − 点U
のである。朱敏求は萬年醸の下に鱒瑚、慈恩、弗駿等の講守お載せて居るけれど、誰陶寺について
は重く記して加⋮い。之む熟考するに、末代に常親ヰがあつたと見るのは、北ハ軍で得て居らぬが、誰
闘寺として損紺したと見るのは、一府基辟む椙て屠らぬ。
明代に至り、苗脛年間を以て城南及び南中で棍逝せる赴嫡は、﹁訪音逝記Lを著はし、惑恩寺の條下に附記して、また湘龍事の名を出して居る。
江︵曲江︶正北一ぺ故欒逝明今歩永典‡肝撃頂下郎石和瀧弐今亦毀。
常時斯の如く.磨滅して新たに刷らす、粥満祐の名祁は、獅遊鱒り人の記憶を新にしたのであつた。新し確聞寺の名によつて掲出して層化なら、畢に今亦毀といふ謂は無い。以て辛が無くて▼唯
古の名刺の名のみが佃榊せられて居たを知るべきである。
しし
− 然るに描の嘉慶已卯︵両断一入一九︶韮修の﹁戌革楯志Lに至り突如として桐此の下に記していふ。石僻事即捕骨髄に衝志在コ館窮村︼深紡籠
又▼ 名勝阿の下にいふ、
城内誹妨−署安仁坊之堪舶♯洋間催呼小肺搭、鵡昌坊之意思鶉浮間俗呼人碓噌.講苅坊之興華彗新H坊之骨拙守今名和俳廿、軍準今不敵
我が東∧〓締贈り詳瀬地㍗る蛸の常識守につ︸て69¢ 我が火山=開架り哲源地㍗ろ楢の部龍守−こつきて
三日
この二偶の記準によれば、常耽‡は大中六年、護観寺の名を以て縦縞し、いつの代よゎか不休寺と
呼ばれ、爾橡通紬として緯頂し化串と定る。これ、明の斌順が・今亦勝と鶉せ一っ精華記車・′井桁するも
のである。若し石併薄の名によつて.榊佃績したものとすれば、常靴やで殊に焦心せる親佃が、別名一ぜ 以て現に紛糾して捕るのを知らぬ澤は無い。是に至らて、不備寺なるものJで詮絹了小必婁がある。 仝楷コ童些蝶走﹂は、何によって・今り不備寺は価の帝瀧宰なりと抑じたものであらっか。それーi萬 志に披ったと仁一ら弼して居宅。隼志とは何であるか。﹁茄優蝶志Lに、序冬山■中に、成串詰海r鮪於 陳北渥︰北ハ批H不極今朗読武志り軍畑鞘七年如喘黄家曲研佗︼と言って居るから,蛸批⋮桝他の幌志 の恥である。而してまた同初草創い峠、習摘まだ備らなかったから/〆め援リーする桝、鵡謬が多い ので、悉く之一で甜正Lたといひ、また郁志は托寧で引くもその桝⋮叫む経せ出い・で、今悉く椚文.ヤ検して証を加へたが、所出の評ならざるものは、苅志と乱して欣て北面に私七加へ申と言って捕る。
鞘志修私的初︰畔力草創、習撒末砧.凡所転引︰升鋸頗多、今悉軍瑚異邦志凡引紘輩不レ旺加担悉研武文l声之、湘純宥東独新出l新緑祉軸衝童不敵璽空
然らば、、署慶棺恵Lは、根城が分らぬながら、﹁慄楷順志Lのま∼・で描糾したのであるから・﹁康鵜螺志﹂の判晰が捕って居れば、浩然、成雄雌志しの叙遇も謀って居る糾とならざるむ得ね。﹁舵階梯志﹂の
著者は、恐くは祭瑞相の石俳草が大冊上に於て同じカ向にあるが栗に、何の耕究むも加へすに、容易
仰7 に之を青桃満と速抑したものでみ乙。備ヰに閤して至って往蕊七純はの清朝の儒満は、差付の心力 を芳せすして、往々にして斯い如き速晰Jで謁すのであつて、一たび通糊が誹れば、北ハ碓に至り、桝制⋮ 一大の吠えた脱が、苗火の歴と打で心。少しも珍らしい輿で如い。頼志や府志の・斯の如き紀車にはし て、無益の努力む栗せる串の除りに多きに借く予は、蜂志や仰志を耕究や椚査の手懸ト▲とはするが、 他の謹抜を得ぬ限りは、決してそのま∼には従はぬ矩として屑・0。﹁成寧顆志Lの視き1iは、少くも迅 順の賓地椚祁の記き1iとオ 爪する。親摘は明代に磨滅して層る姉を明言し、螺志は名が鼻って㍍るけ れど、連綿として法膵を維持して潜るとコふ。いづれに従ふ.へきかと需はゞ、予は絹踊なく池摘わ 紀姉に倍を就くのである。 騨に一の文習と“の文苗とのみにては、水懸故に終古から、次に超瞞一で信する叩山に進まねばな らぬ。元凍、予が拙順に兼きJで躍くのには舶前の叩由がある。それは、雅赤村の位択と、青親輩の それとは、到瓜二致せぬといふ印璽からである。これにつき相調な姉ではあるが、﹁成碑順ぷlそれ 庸の烏城は、東西証里−!二打一十五華甫北三里一打囲十華外郭城ほ東西一十人里い〃一十五華 自身の地阿︹叩乙二間塵照︺に基き一膳の叙逓を承し、然る後に両者の不一撃ピ葡兜する雄とする。 市北一十五里二〓七十五井でぁつた。泉城は外郭城の中央北方に位し,その中心に南北を賞油する 我が東山ーー耐桝の敬源地tる購の新鶴寺につ古て
698 我が架台阿糖の敬源地㍗ろ燻の骨毯瑠lこつきて 今城研地合脚︵成寧蜂志準ニ︶﹂輔ほ閥樽 強力こ十姐 延典門 q︼坑興沓守 りり賃対訳守 守滋典 班穐隼 三六 南開触回海軍豆︵成箪頼志巻一︶ ・…柑基′ト‥
−
⋮・・⋮・古池曲射
.⋮1.!享きー ﹂ 1蒋琴楚
頸坊廟699
大迫あら、その大迫の外部に〓る桝に批准門があえから、これを先議ねと名け、この先裾術の最南
備に明徳門がめる。此大迫によつて長安府城は全く左右均等に分たれ、この二等分せるものを左術.右術と名け、両術共に五十囲坊と一冊とを有するのである。而して外郭城の隅剖を見れば、恰も二
坊を合して二里門カとなるのである。唯金城の正面だけが、六里を四分するので、二坊合して、東
西一里竿、南北二児となるに過ぎぬ。斯く砧剥が明瞭に分って居るから、此坊制を心得て居ればー
現存せざる有情む探る上に於ても、幾何草的に求め縛る恥となるのである。
是の如き整然たる府城の中に於て、この研究に必要㍍名刺は有能.慈恩、興亜の三等である。大典筆端は、朱裾績の束第一術の、西より数へて窮五の蛸華坊にあり、一坊全惜を占めて、西の出“業
坊全部を占ひる三都軌と利対して居た。慈恩事は末節二術の由より淑へて第三の進昌坊の来車を長
め、市部♯は末節五術の面より教へて節四︵他に比すれば野山ハとなる謂であるが、戯甫の二は曲池 であるから、坊は無い︶の新H坊の南門の束にあつた。常拙守の前を来に過れば、延輿門に出る。脊親章の前ぉ米西に並る大村は、異に光酉を賞通して郊外に光る三大術の一つであるから、春満寺の
位膣は頗る人通りの多い桝である。殊に郊外との閉門たる延興門の近くであるから,常然雑蹄寸べき形肪の地である。大典諏・大法恩の名刺たるは勿論の串であるが、諦甜も之に次ぐべき名刺であ
った難は、その位離の上からも別自である。以上甲固につきて越々滑鮎する剥が出凍る。
耽が架台耐幣の甘源地米る俳の常軌苛ドつきて700