• 検索結果がありません。

真宗研究7号全

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "真宗研究7号全"

Copied!
156
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

長宗連合撃曾研究紀要

一一第七輯ーー

爾畠帯慣 37畠手 9 F噂

(2)
(3)

親 驚 聖 人 筆 見 聞 集

ω

事 ;:

(4)

親 驚 聖 人 筆 見 聞 集

ω

(5)

親 鷺 聖 人 筆 見 聞 集

ω

(6)

親 鴛 聖 人 筆 見 聞 集 帥

(7)

~

,羽二

E

.

7

b

L

7育『 刀>:::':ミ"

止口』

広三民』

(8)

己2 刀ミ

浄土論に於ける一心と唯識教学::

j

i

− − : :

宗 祖

に 於

け る

名 号

の 意

義 :

: :

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

・ ・

!大字釈宏契機として|

親驚教学に於ける方便の意義・

j

i

− −

﹃教行信証﹄の成立過程における﹁元仁元年﹂:

j

i

宗祖の釈尊出世本懐の意表::・:::;:・:::

j

i

− −

− 山

慶信宛蓮位添状の文中私見−

j

i

ヒ'., 刀古

土 首

﹁宗学論﹂覚えがき:::::

j

i

− − ・

j

i

1 仏教学方法論として| 妻 道 生 ︵ 一 ︶ 井 元 成 ︵ 九 ︶ 賢 大 田 繁 上 正 J 11 ~ 1T 山 I i頂 田 義 円︵三︶ ニ ︵ づ 一 一 一 ﹀ 尊 ︵ 四 ニ ︶ 信 ︵ 五 口 ﹀ 信 ︵ 五 八 ︶ 文 ︵ 七 口 ︶

(9)

︿公開講演﹀

"

"

-の

刀三

祐 渓 了 光 永 ︵ 完 ︶

1じ明 ︵ 九 回 ︶ 善 ︵ 己 九 ︶ 話 叫 ︵ 一 一 目 ︺ ︶ 学 会 支

r

四 ¥ J ﹃見聞集﹄解説 会 計 報 Lr. 仁1 学 会 規 約

(10)
(11)

心と唯識数学﹄

、 .

F E E d ’ F

私は大谷大学に於いてインド大乗仏教学を専攻した関係上、真宗学を組織的に系統的に学んだことがない。真宗学 に関しては全くの素人である。 ところが最近、大谷学報第三十六巻第四号に掲載されている永田敬信氏の﹁論註に於 ける一心釈の意義﹂と題する論文を読む機会を得た。 そして、唯識教学の立場から考察するならば、 こうも考えられ る の で は な い か 、 ああも考えられるのではないか、 と種々の想いが頭中をかすめた。特別な考慮を払わずして、論註 と唯識教学を結びつけることは、学問上、許されることではないであろうが、 以下の私の所論は論文といった大袈裟 なものではない。永田氏の論文に対するインド大乗仏教学を学んだ者の一雑感にすぎないのである。随って、論註と 唯識教学を結びつけるという冒険を暫らくお許し頂きたい。 そして、永田氏の論文そ読んで、 このようなことを連想 している者もいるのかという軽い気持で一読を賜われば幸甚と思う次第である。 さて、永田氏の論文の中、私の日にとまったのは次の点である。即ち、 ﹃浄土論に於ける一心と唯識教学﹄

(12)

﹁浄土論に於ける了

υ

と 唯 識 教 学 ﹂ ﹃ 論 註 の 二 つ の 一 心 釈 、 即 ち 、 上巻で備の一世尊我一心の句を註釈する下になされる一心釈と、下巻讃嘆門に於いて なされる一心釈とは宗学の伝統的解釈として、 ともに一心を真実信として開顕する同じ内容のものと領解されてき た 。 しかし、宗祖は信巻に於いて、下巻の一心釈は四度も引用せられるのに対して、 上巻の一心釈は一度も引用せら 今υ よ 、 。

ff

し 上巻の一心釈が引用せられるのは行巻である。ここに、 ともかく宗祖が両釈に差別を見ていられる厳然た る 事 実 が あ る 。 その事実に斎目して、 両釈が如何なる意味をもつかを見極める必要がある。その中、 上 巻 の 一 心 釈 、 即 ち 、 世尊我一心の句を注釈する下になされる一心釈に関して、先づ注意せねばならぬのは、曇繍騰が偶墳の帰命尽 十万無碍光如来の帰命を念と置きかえ 寸無碍光如来を念ずる L と釈している点である。 然らば、何故に曇驚は帰命を念と釈したのであろうか。その解明のために、論註に於いて念が如何なる意味で用 いられているかを検討してみると、論註に於ける念は真実清浄の信心そ示すものであり、十住昆婆沙論易行口聞に於 げる念は恒に称名と並べ用いられ、憶念心念の義である。目安驚はかかる易行口聞の意に依って念を信とするものであ り 、 而 し て 、 この上巻の一心釈に於いて帰命が念と釈せられたことは、そこに、信心を釈顕せんがためである、 と 言 わ ね ば な ら な い 。 即ち、曇驚は世親が﹁無碍光如来に帰命するしと表白せられるところに、 世 親 の 清 浄 の 佐 一 旧 心 が あるものとするのである。随って、この一心釈では一心を信心として解したのではなく、帰命を信心として解した 無碍光如来を念ずる信が相続せられるのは自督の一心に依る。即ち、念をして念たらしめ、信 をして信たらしめるものが白督の一心である。これが上巻の一心釈の釈顕し主うとするところであり、これに対し のである。そして て、下巻讃嘆門の一心釈は正しく一心を真実信として釈顕するものであるの﹄ 永田氏の論文の詳細については、大谷学報第一二十六巻第四号をごらん頂きたいが、永田氏がこの論文に於いて、 上 巻

(13)

の一心釈はつまるところ 一心を自督の詞と釈せられたのであり、そして、無碍光如来を念ずる信が相続せられるの は白替の一心に依る。随って、無碍光如来を念ずる信が真実となる所以は自替の一心にある、ということを表わさん と す る の で あ る 、 と領解していられるところに、私は注意してみたいのである ο 以上のような永田氏の上巻一心釈の 理解を出発点として、 以下、私の考えを少しく述べてみようと思う。 ① さて、仏教では﹁心と意と識とはシノニムである﹂というイディオムがある。備の我一心に対して、曇驚は天親窓口 薩白怪の詞と釈しているが 一心という言葉に天親菩薩自督の一詞という一言語が加せられていると ζ ろ、更には論註に 於いて ﹃いう意味は、︵一心に︶無碍光如来を念じたてまつりで安楽︵国︶に生れんと願うこと︵であり、そのことに於 いて︶心々相続して他の想い︵の︶間雑ということがないと︵いうことであるご 心々相続という言語が用いられているところに、私は﹁一心は といい、我一心の心が一であることを説明する時に、 真実信なり﹂と簡単に片付けてしまわずに ﹁心と意と識とはシノニムであるしというイディオムに随って、先づは、 一心の心に注目し、それを天親菩薩のよって立つ唯識教学の立場より考察しつつ、更に、それを基織にして一心とい うことを考察してみなければならぬのではないかと思うのである。 註 1 山 口 、 野 沢 両 博 士 共 著 ﹁ 世 親 唯 識 の 原 典 解 明 ﹂ 一 五 頁 、 二

O

頁 。 山 口 、 横 超 、 安 藤 、 舟 橋 同 博 士 共 著 ﹁ 仏 教 学 序 説 ﹂ 一 六 七 頁 。 上 杉 田 ω 朗 著 ﹁ 解 読 浄 土 論 註 L 二 真 。 2 ﹃ 浄 土 論 に 於 け る て 心 と 唯 識 教 学 ﹄

(14)

﹃浄土論に於ける−心と唯識教学﹄ 四 般若中観より瑞伽唯識へと展開するその動向を指示する文として、 山口博士によって度々、指摘せられている寂天 の入菩提行論疏の言葉、即ち ﹃ 般 若 中 観 の 如 く 一切世間が、幻や陽焔の如き自性であり、実体としては空とせられるときには、外なるものが 幻の如き自性であると同様に、 その外なるものを把握する内なる知覚なるものも、幻の如き自性として空無になる から、そこでは 一切世間が幻の如き自性であることを、何によって認知し、どうして無自性の境地へ、悟入する ζ とになるであろうか そこでそれは、自心こそが実にあって、それが外なる物の形相として顕現しており、 心こそが外なる対象の形相 を具して生起しているから、その心の上に具体的な、 われわれの世俗という能所の世間が実用せられている。 で あ その能所の世間として顕現している心以外の如何なるものによっても、幻の如き世間が、幻の如き世間と ① して覚証せられるのではないれ L る か ら 、 ここでは、能所の世間が実用せられている、 というわれわれの日常の態は、 心によって対象がわれわれに経験せられ るようになっている態であることそいうのである。現に見られている対象物は心によって、 われわれの知覚内容とな っ て い る も の 、 即 ち 、 心によってわれわれに顕われるようになっているもの、 @ われわれの日常なる能所の世間の実用があるのである。 心の顕現である。対象が心の顕われで あ る と き に 、 随 っ て 、 心を離れては何等のものも無いことを一不さんがために、更に、次の如くにもいう。即ち、唯識二十論の境 @ ﹁唯とは対境を遮遣する為なり、しと述べ、乙れを調伏天は 頭に、唯識の唯を註釈し 可唯と一言うのは、識より別なる対境を遮遣する為にいうのであって諸心所をも遮遣するのではない。対境を遮遣す るが為なりとは、識より別なる所取と能取との相ある対境を遮遣するが為であるとの義である。そ ζ でそれは次の

(15)

如き所言となる。即ち、識より別なる所取は何等無く、 @ また彼識を取るところの能取なるものも無いと。﹄ と 復 釈 し て い る 。 こ の よ 旨 つ に し て 、 心・識がわれわれの世間的実用の根底・依事︵

4

2

E

所依としての事体︶とせら れていったの T あ る さて直前に ﹁現に見られている対象物は心によってわれわれの知覚内容となっているもの、即ち、 心によってわ れわれに顕われるようになっているもの、 心 の 顕 現 で あ る 、 ﹂ と い っ た が 、 その心の顕現ということが識転変及び、 心心所という言葉で示されることもある。即ち、識転変に関しては ﹃︵世間と聖教とに於いて、︶実に種々なる我と法との仮説起るとも、 @ それは識の転変に於いてなり。 L という唯識三十領第一備を、安慧は @ ﹃諸法と我とは識の転変より外には無なるが故である。﹄ と註釈している。更に 心心所に関しては ① ﹃彼心は、蕊︵経︶には相応そ具するものなりと青山趣せらる cL という唯識二十論男頭の文を、調伏天は注釈して ﹁この一二界は心心所のみであるけれども独り心のみではないと。 @ 心というのは教説中にはまた心所のことを言う。﹄ と 述 ベ て い る が 、 これらの文等によって心の顕現、識転変、 心心所が同じ内容のものであることを知ることが出来る。 心の顕現ともいわれ、識転変ともいわれたその心の顕現、識転変の上に、更には心心所の上に仏教の ⑨ 根幹である相依相待なる縁起の次第が設定せられていくのである。 是 の 如 く し て 、 註 −山口益著﹁般若思想史﹂五八頁 ﹃ 浄 土 論 に 於 け る 一 心 と 唯 識 教 学 ﹂ 五

(16)

守浄土論に於ける一心と唯識教学﹄ 占 ノ 、 2 ﹁大谷学報第四十巻第二号 L 三 頁 ﹁仏教学序説﹂一六六頁 ﹁仏教学序説﹂一六六

1

一 六 七 頁 ﹁世親唯識の原典解明 L 一 五 頁 ﹁世親唯識の原典解明 L 一 一 一 一 頁 ﹁ 世 親 唯 識 の 原 典 解 明 ﹂ 一 一 丸 七 頁 ﹁位親唯識の原典解明 L 一 六

O

頁 ﹁世親唯識の原典解明し一五頁 ﹁世親唯識の原典解明 L 一 一 一 一 良 ﹁世親唯識の原典解明﹂一六阿

1

一 六 五 頁 ﹁大谷学報第四十巻第二号﹂凹頁 ﹁仏教学序説﹂一八一頁 3 4 5 6 7 8 9 さ て 、 以上のような唯識教学を立場として、浄土論に於ける一心と帰命尽十方無碍光如来願生安楽園を、曇驚の指 ち 一不 に 随 い つ つ 眺 め る 時 、 と理解出来るのではな 一心の心と帰命尽十方無碍光如来云々とを心心所の関係として理解出来るのではないか。即 し、 ρ

。① 更 心 に の ,心 言 が 葉 顕 を 現 費 し や た す も な の ら 』ま 事 で あ る 、 一心の心が転変したものが帰命尽十万無碍光如来云々である、 一心の心は帰命尽十方無碍光如来云々なる心の顕現が依って起る根底であり、 依 ということが出来るのではないかと思う。即ち、 一心の心を依事とすることによって、帰命尽十万無碍光 如来願生安楽国なる清浄の信心を獲得することが出来るのである。 註 1 帰 命 尽 十 方 無 碍 光 如 来 願 生 安 楽 園 を 一 心 の 心 が 転 変 し た も の 。 顕 現 し た も の と 領 解 し よ う と す る わ け で あ る が 、 こ の よ う に 領

(17)

解するについては、唯識三十須の次の交を参考して頂きたい。即ら、 境 の 了 別 と な り 。 L ︵ 世 親 唯 識 の 原 典 解 明 三

00

頁 ︶ その中、了別境転変はっ如何様なる心所と相応するか、或は、それと相応する心所は幾許あみか、といえば、故に 遍行と別に決定せるもかと善との心所、 同じく煩悩と随煩悩との︹心所︺、及び三受と彼は相応す。第九領という。﹂︵問書三五一 j 人 一 五 A ・ 頁 ︶ その中、﹁別に決定せるものに関して 欲と勝解と念とは定と慧と倶に決定せザむものなり。第十頒 a i c ﹂ ︵ 同 書 二 五 山 頁 ︶ その五の中、﹁定とは所観の事に於ける心の一境性である

o

i

一 境 性 と は 一 所 縁 性 で あ る 。 L ︵ 同 書 二 正 八 頁 ︶ ﹄ 心が一なる心所、即ら一境性、一所縁性と相応するのは識転変の中の了別境転変であるということであゐ。↓心の心は帰命尽 十方無碍光如来願生安楽園という一境性、一所縁性と相応していあわけであるが、これを先の唯識三十頒の交と考え合せる時、 帰命尽十万無碍光如来云々は一心の心が転変、顕現したものであると領解することも是認せられるのではないだろうか。 寸 識 の 三 種 転 変 は ﹁ 兵 熟 と 、 思 且 旦 と 名 づ け ら る る も の と 、 そして、心の顕現である帰命尽十方無碍光如来云々ということに於いて、 ① とがない、﹂というそのことによって、心が一心となるのである。即ち、心が、心の顕現である帰命尽十方無碍光如来 ﹁心々相続して他の想いの間雑というこ 云々という一なるもの、即ち、帰命尽十万一五々それ以外の他の想いの間雑がないということによって、 一なるもので あ る が 、 そういう一なるものと心が相応する、 ということによって、 心は一心となるのである。帰命尽十万無碍光如 来一五々という一なるものによって、 心が動かされ、左右されて、 一心となる 先 に 、 心心所の上に相依相待なる縁起の次第が設定せられていくといったが、今この一心と帰命尽十方無碍光如来 を、以上のように領解してくるとき 一心と帰命尽十方無碍光如来願生安楽国とは相依相待なる縁起の道理の上にあ る 1註 と し 、

しー と を 了 解 す る こ

)J; 出 来 る 上 杉 田 ω朗著﹁解読浄土論註﹂一一頁 ﹁浄土論に於げるて

ω

と 唯 識 教 学 ﹄ 日 七

(18)

一浄土論に於ける一心と唯識教学﹂

永田氏の上巻一心釈に対する理解をもととして、 加えて、唯識教学に立場をおきつつ、 上巻一心釈を了解しようと す る と き 、 私 は 、 上巻の一心釈より、真実信心の依所依事が一心であること、 即 ち 、 一心は真実の信心を得るための 依所であり、依事であること、更には 一心と帰命尽十万無碍光如来願生安楽国なる信心とが、 仏教の根幹である相 依相待なる縁起の道理の上にあること、 以上の一’一点を了解することが出来ると思うのであるが如何なものであろうか。 c'= 7じ

(19)

| | 六 字 釈 を 契 機 と し て | |

ii•

浄土信仰の歴史的展開の源流となるものは、偏えに人間の自覚に基ずく易行の開顕にあったということができる。 その意味において、三国に互って西方の教主を念ずる古今の願生者が称仏六字であったこと、異議のないところであ ろう。然るに南無阿弥陀仏なる名号は明らかに阿弥陀仏のみ名であり、 その実践の容易さの故に、 ともすれば単なる 呪術となり、或はまた定心成就のひとつの手段と見倣される危険性を有つのである。 凡 そ 、 こうした問題に対する最も端的な解答そ我々は善導釈の上に見出すのであるが、更にそれを一一層明噺且つ論 理的に究明したのは、自ら偏依善導一師を標拐し、 その念仏が選択本願の念仏なることを主張しつづけた元祖法然上 ① 人である。即ち﹃選択集 L に法蔵菩薩の願意を勝・易の二徳で以って一不されるのはその故であり、ここに称名念仏が 易行であるのみならず、弥陀の仏徳が全具成就していることに於いて往生の行たりうる保証がなされ、本願の行とし ての念仏であることが基礎づけられたのである。けれども易の義が観難称易という場で語られる限りに於いて、 そ ft, 宗祖に於げる名号の意義 九

(20)

宗 祖 に 於 け る 名 号 の 意 義

は相対的易行の意味しか有ち得ず、仏名は固定化し、腰着せるものとなり終るであろう。 然るに ﹁ 棄 一 一 雑 行 一 今 帰 一 一 本 願 乙 と 建 仁 元 年 の 春 、 元 祖 法 然 に 帰 せ ら れ た 祖 聖 親 驚 に よ り 、 更 に こ れ が 徹 底 を み 、 遂に称名念仏が他力廻向の念仏であることが明らかにされたのである。即ち名号を固定化した概念扱いにせず、願心 なり、仏智なり、大悲真実なりと拝し ② ﹁ 斯 行 即 是 摂 一 一 諸 善 法 一 具 ニ 諸 徳 本 ﹁ 板 速 円 満 真 如 一 実 功 徳 宝 海 ﹂ と嘆じ、総序には ③ ﹁故知、円融至徳嘉号転レ悪成レ徳正智、難信金剛信楽除レ疑獲 L 証 真 理 也 ﹂ と示す如く、智慧の実践に於いて、自ずと、現にはたらくもの、 また内なる道程をかえりみて、 そこに感得される久 しくもはたらききたったものであったのである Q 名号の功徳を讃嘆する祖聖の言葉は、 ﹁ 教 行 信 証 L を始めとし、そ の述作・語録に至る処々に見出し得るが、暫らく、六字釈を手懸りとして脚か卑見を開陳し、祖聖の名号観を跡事つけ て み た い 。 周知の如く、祖聖は行に於ける願力廻向の本源そ諸仏称名の願に認めて、 諸仏称名之願酔比一龍一掃 と標挙、経釈の文を正証とし、真実の大行を明して、 仏、南無阿弥陀仏即是正念也、 爾 者 称 レ 名 能 破 一 一 衆 生 一 切 無 明 寸 能 満 二 衆 生 一 切 志 願 1 称名則是最勝真妙正業、 ④ 可 レ 知 L 正業則是念仏、念仏則是南無阿弥陀

(21)

とその領解そ結ぼれている。而るに、 そこに類楽された経文の引用意趣は、諸仏称名の本願とその成就を説くもので あ り ﹃大無量寿経﹄の意を一一照明らかにするものである。然るにその本願とその成就との関係は、曇驚に依れば、 @ ﹁ 願 以 成 レ カ 力 以 就 レ 願 願 不 一 一 徒 然 一 カ 不 一 一 点 設 一 力 願 相 符 畢 寛 不 レ 差 故 日 一 成 就 己 と解せられている。されば本願成就と は、本願それ自身が無限の力を有して現行することであるから、本願の外に成就があるのではない。成就はただ本願 の有する意味である。従って畢寛諸仏称名の願、即ち名号の本質的意義を審らかにする外ないということができるで あろう。六要紗主は ﹁諸仏称名﹂ということに、如何にして行としての意味が見出されるかについて、 ﹁ 諸 仏 称 名 願 者 是 第 十 七 願 也 、 是 則 説 ド 為 一 一 往 生 行 一 之 名 号 b 願 故 当 巻 出 レ 之 、 凡 於 一 四 十 八 願 之 中 一 此 願 至 要 、 若 無 一 一 此 @ 願 一 名 号 之 徳 何 間 一 一 十 方 ﹁ 聞 而 信 行 此 願 之 力 、 若 無 一 一 此 願 超 世 願 意 諸 仏 何 証 依 レ 証 立 レ 信 又 此 願 思 也 ﹂ と、四十八願の中第十八願が至要であるように、第十七願も亦甚だ至要である。何故なら衆生往生の行たる名号が此 願で説かれており、而もそれに十方聞信と諸仏証誠との二義を以って願の力恩在顕彰している。殊に古来より注意さ れて来た如く ﹁行巻﹂に限り経論釈の引用次第・三国一七祖の順序が厳守されてあることは、真実行の普遍性と歴史 性を示したものである。即ち往相廻向の大行は十方詩仏に依って称讃される真実行であり、 且つ諸仏称名ということ は、十万世界に流布する普遍の行であることを示すものである。ぞれ故にこそ、 この真実行はまた三国七祖の伝統と いう歴史的現実を形成し来ったのである。而も選択本願の行において、称名が如来選択の往生の正行であることを示 されるのである。宗祖の名号観はかくの一如き大行としての名号であるが、我々は更に進んで名号釈によりその意味内 容 を 窺 っ て み よ う 。 宗祖に於ける名号の意義

(22)

宗祖に於ける名号の意義 凡そ、善導の六字釈義は摂論家の別時意趣説に対する対外的な弁釈であったと共に、 ぞれがそのまま一宗の本質を 磨き出す対内的な宣揚として格別な意義を残している。即ち、当時中国教学界に於ける重鎮として、その威勢を張つ ⑦ ていた摂論学派が、﹁摂大乗論﹄の別時意説を証権とし、観経下々品の十戸称仏を以って唯願無行であると隠し、往生 は即時でなく別時であり、方便説にすぎないとする論難があった。かかる批難に対し、既に道緯が宿善論の立場より、 @ その妨難に努められた。これを継承し、更に積極的応答を試みられたものが善導の名義釈である。恰かもそれは、元 祖・宗祖に於ける明恵の批判に匹敵すべき真面目な批判であり

1

論家の立場に立つ限り

l

、 その闘いに敗退すれば、 念仏の道は永遠に蔽われるような真の意味の法難となるべきものを内蔵している。 ﹁ 一 事 一 南 無 一 者 即 是 帰 命 、 亦 是 発 願 廻 向 之 義 、 一 吉 一 一 阿 弥 陀 仏 一 者 、 即 是 其 行 、 以 二 斯 義 一 故 、

iY

る 必 妨 得 難

l

」 て

R

i

と、単なる仏の記号ではなく、 願 行 具 足 、 必得往生の念仏である所以を二字と四字に分釈して指摘施釈し、 よく浄土 門念仏の本質を開顕したものである。勿論、南無と阿弥陀仏とを二つにして釈義されてあるが、重点の置き方の相違 によるもので南無阿弥陀仏について語られているのである。曇驚が帰命尽十方無碍光如来を解釈するに、帰命は礼拝 であり、尽十方無碍光如来は讃嘆であると云われるのと意を同じくするが如くである。 ところで、偏依善導一師そ標梼された元祖法然により、 これが念仏不廻向の証文としてとり上げられてから、 そ の 門下は勿論、門流の諸派のすべてに伝承せられ、夫々の立場より本義開顕に努力が払われた。祖聖に於いても、もと よ り そ の 例 外 で は な く 、 ここでは特に往相廻向の大行を裏付ける重要な証権として、その要文を再釈し、覚・存両師 を通して蓮師に至るや、 それは御文構成の中核として縦横に駆使せられることとなった。 然るにこの別時意会通章に於ける善導施釈の方規は、 ﹁ 是 故 今 此 論 中 、 直 一 言 一 発 願 一 不 レ 論 レ 有 レ 行 、 是 故 未 即 得 τ 生、与一遠生一作レ困者其義実ち

(23)

とあるによって知られるように ﹁ 由 唯 発 願 、 ⑮ 於安楽仏土得往彼受生﹂というのが別時意であることを実義として是 認するのである。 けれども摂論の徒が十声称仏を度我救我の祈りとしか受けとらず、それに願ありとは許しても、造 作進趣の行があるとは認めないという皮相的見解に対して、最中口導はその錯誤を指摘措定されたのである。従って先ず 念仏が一行であること在吋華厳経﹂によって論証し、更に﹃阿弥陀経﹄を引いて、称名が往生行であることを証して 願行具足の念仏である所以を顕彰していられる υ 而も六字釈に続いて、 ﹁ 又 来 論 中 称 一 一 多 宅 仏 一 為 レ 求 。 一 仏 果 ↓ 即 是 正 報 、 下 唯 発 願 求 レ 生 一 一 浄 土 一 即 是 依 報 、 一 正 一 依 宣 得 一 相 似 寸 然 正 報 難 レ 期 、 依報易レ求、所以一願之心未レ入、雄 L 然 雪 如 二 辺 方 投 レ 化 即 日 勿 、 為 レ 主 即 難 、 今 時 願 1 往 生 一 者 並 是 一 ⑫ 切投化衆生、宣非レ易也﹂ 行 雄 レ 精 未 レ 担 、 と一不される如く、摂論家も是認しなければならない難易相対の明し方でなされ、 而も問答を先に設けて、 ﹁問日願行之義有二何差別 1 答日如一経中説 1 但 有 一 丘 パ 行 一 行 即 孤 亦 無 レ 所 レ 宅 一 、 ⑬ 願行相扶所為皆魁﹂ 但 有 一 一 其 願 ↓ 願 即 虚 亦 無 レ 所 レ 石 工 、 要 須 と、願行相扶のところに日的が果されるのであるという準通の立場で反論が試みられている。従って最後に、 ﹁ 但 能 上 尽 一 一 一 形 一 下 宅 一 十 全 以 一 仏 願 力 一 莫 レ 不 コ 克 比 一 故 名 レ 易

μ

と、浄土教独自の弘願の立場を示してはいるものの、願行の怠義はここでは明らかにされていない必要するに善導は 摂論家の主張をて

h

認めつつ、相対的な立場に於いて成仏に対して往生を理解しているように、願行具足といろとと も 一般仏教と同じように衆生が願行を具足して果を画するという論理を用いている如くである。その限りに於いて、 善導が﹁必得往生一と云う﹁必﹂は可能性の強調という域を脱し得ないであろう。何故なら、念仏往生の道は特殊的 なる道であるが故に可能性そしか現し得ないが如くである。 宗祖に於げる名号の意義

(24)

宗祖に於ける名号の意義 四 然るに、善導が念仏すれば必ず往生左得ると云うに二つの立場が考えられる。 て念仏それ自らの有する願行具足に依る。 二、弥陀の大願業力に依る。 前者は今の六字釈の義で、南無阿弥陀仏の外に本願をみないで、南無阿弥陀仏そのものの上に願行具足する故往生 ⑮ を得るという立場である。勿論この場合の願は衆生の発願であろう。後者は先述の如く﹁以一一仏願力こと浄土教独自 ⑫ ⑬ 叉 ﹁ 順 一 一 彼 仏 願 一 故 し と い い 、 或 は ﹁ 正 由 レ 託 コ 仏 願 一 以 作 ↓ 一 強 縁 一 ﹂ 等 と の弘願の立場で締めくくりされてあるように ある如く、念仏は本願相応の念仏であり、仏の願力の故に往生は必定であると云う。けれども如上の二義は、その言 葉の指示する処は各々相違するようにみられるが、善導の心情に於いては恐らくひとつであったに相違ない。然九一ば この心情の一致相応とはいかなるものであろうか 凡 そ 、 七祖の上に於ける教に対する態度は、曇驚にあっては信解の道であり、議口導のそれは、行証の道である。前 者は信ずるが故に理を求め、 それにより信を深めるに対し、後者は行じてそこに証せんとする道である。 かかる行証 者善導の六字釈を、善導・法然の指導 L ﹂ ﹃ 論 ﹄ ﹃論註﹄の他力思想の導きによって領受することにより、善導の心情 を 正 し く 把 握 し 、 そこに産み出されて来たものが祖聖の名サ釈であるということができようか。 即 、 ち 、 前 掲 の つ 以 仏 願 力 一 ﹂ の 文 、 或 は 、 ⑩ ﹁ 一 切 善 悪 凡 夫 得 レ 生 者 、 莫 レ 不 下 特 J 来阿弥陀仏大願業力一為中増上縁 k 也 ﹂ と 台、 ﹃ 礼 讃 ﹄ に 川 河 、 一 弥 陀 世 尊 本 発 一 一 深 草 誓 願 ﹁ 以 光 明 名 号 一 摂 二 化 十 万 九 但 使 今 一 信 向 叫 心求念 1 上尽二形一下至一十戸二

Z J

寸 ﹁ 以 一 一 仏 願 力 e 易 レ 得 一 一 往 生 一 ﹂ ﹁ 詰 仏 所 証 平 等 是 若 以 一 願 、 行 一 米 収 列 レ 無 一 因 縁 、

(25)

壮一寸と示す文は願行を仏の願行として理解される無限的背卦としての一意が認められるのであり、宗祖は名号釈と照応し て見るべきものとして行巻に此等の文を連引している c 然らは宗組は議円導の六字釈を如何に領解されたのであろうか。 今は宗組の面目躍如たる行巻の所釈そ僻引見する−﹂とによりこれが考察を進めていこう。 先述の如く、品一雪辱と曇驚の導きにより、品脅迫吋の六字釈そ再釈してその幽意を開顕し、帰命が純粋であるとき必得往 生に対する心情が一致することを明らかにせられたものが相聖親驚の名義釈である。即ち南無阿弥陀仏はその形式に 於いては明らかに衆生より如来へと向って行動されるものである。 けれどもその本駄に於いては如来より衆生へと廻 施される阿弥陀仏の行動が同時に活動しているという深奥の意義を発揮して、 ﹁繭者南無之言帰命﹂と云って、本来 衆生の信を意味した帰命が如何にして仏の勅命となるかの展開を字訓を以って論理づけ、続いて @ ﹁ 是 以 帰 命 者 本 願 招 喚 之 勅 命 也 、 言 一 一 発 願 廻 向 一 者 如 来 己 発 願 廻 一 施 衆 生 行 一 之 心 也 、 一 一 一 口 コ 即 是 其 行 一 者 即 選 択 本 願 是 也 ﹂ と、悉く南無から展開し、 それが本願を以って一貫せられている。即ち宗祖は善導のい弓帰命が如来願心の顕現に外 ならないことを明して、﹁招喚之勅命也﹂と云われたのである。ここでは帰命と勅命とは別なものではなくて、帰命は 勅命の顕現であり、勅命は帰命とあらわれるのであって、 ここに願信一一昨の義が一五されたのである。称名は我々が如 来を呼ぶ声ではなく、如来が業苦に流転する我々を一如の浄土へと招き喚び給う戸である、然れば帰命の信はわれか しこくて信ずるのではなく、 全く如来悲願の廻施による信なることを示すのであり、 しかも諸仏の称讃に依って本願 招喚の戸と思い知らしめられることに於いて、称名念仏は業苦の凡夫が特殊の恩恵そ求むるものではなく、万人同帰 の法であることが知られる。 宗 祖 に 於 け る 名 号 の 意 義 五

(26)

宗祖に於ける名号の意義 一 六 尋いで﹁発願廻向﹂を解しては、浄土の思念も如来願心の賜であることを示して、 ﹁ 言 ニ 発 願 廻 向 一 者 如 来 日 発 願 廻 コ 施 衆 生 之 行 一 之 心 也 ﹂ と領会されている。本来発願廻向は帰命と同じく衆生の側につくべき筈のものであるに拘わらず、祖聖は逆に如来が 己に衆生の為に発願し、衆生のために行を施さんとする恵施の心であるとしている。蓋し、帰命の信心に浄土願生の 心が伴うことは当然であり、従って帰命の信心が真実であれば自ら得生の想を生ぜずにはいないのであろう。ここを ﹃ 銘 文 ﹄ に は ﹁亦是発願廻向之義といふは、二尊のめしにしたがふて、安楽浄土にむまれむとねがふこころなりとのたまへるな @ り ﹂ と、行者の願いとなって示されている。行巻が如来の法として示されるに比較するとき、機法の転換がなされ、 9 銘 文﹂は衆生の道として説き、 両者は一見矛屑するが如くである。思うに祖聖の領解は善導の真意を開顕するものであ る。上述の如く善導は如来の本願を自己の発願廻向の上に行証されたのである。従って行証するものの事実は念仏す る処にのみ仏があり、念仏せざる者は如来を知ることができないのであって、如来の発願廻向心を自証するものは、 我々の発願心の外にはないのである。然るに帰命の帰には至の義︵仏勅が行者へ至りとどくこと︶があるから勅命と は 廻 向 で あ り 、 その廻施は﹁おほせ L の外にはなく、如来の勅命は其の儲に我々の法であり、道なのである。されば 勅命は即ち我等衆生の行を廻施し給うのである。 かかる念仏の外に我々の往生の行はないという処に発願廻向に於い て必然性を顕わすのであり、而もこのことの具体的な相が阿弥陀仏とい弓存在にほかならないのである。それ放に宗 祖は﹁即是其行﹂を釈して ﹁ 一 言 二 即 是 其 行 一 者 即 選 択 本 願 是 也 ﹂

(27)

と、衆生の行としての念仏が、 わが力で称えるものでなく、不行而行の願海に帰して、 ただ選択の願心を仰ぐことに よってあらわれることを示されたのである。即ち選択本願とは具さには﹁選択本願之行﹂の意味であり、第十八願の 乃至十念の称名である。 この称名の当幹がそのまま万行円備の名号であること、換言すれば、如何にしても煩悩具足 の凡夫であり、有限者であるという大地を離れることのできない衆生をして、能く転迷開悟せしめる不可思議の名号 が、発願廻向という如来の悲心に動かされて、衆生の機の上にあらわれたものこそ選択本願の行、即ち乃至十念の称 名であることを顕彰せんとせられたものである Q かくして選択の本願は即ち衆生の行宏廻施したもうの心即ち大悲の 願心に帰せられるので、ここに再度衆生の行を廻施したもうの心を出されているのである。 ここに愚悪の衆生もこれ を願生浄土の行として用い、もって浄土に進趣せしめられるのである。 如上の考察より、帰命も、発願廻向も、 即是其行もすべて如来の願心の顕現であって、 選択の願心の中から廻向は なされるのであることが領知される。祖聖の廻向思想が元祖の選択思想から出て来たものである限り、 一応選択は願 心、廻向は願力と弁別して一五われるが 願力とは願心が働き出た力に外ならない。即ち選択精神の中味が廻向であり、 選択の願心こそ姐向心であると云うことができる。従って善導が六字釈を結ぶに、 @ ﹁ 上 尽 二 形 一 下 至 一 一 十 念 1 以 一 一 仏 願 力 一 莫 レ 不 コ 皆 往 一 ﹂ と 一 五 い ま た @ ﹁ 一 切 善 悪 凡 夫 得 レ 生 者 、 莫 レ 不 下 皆 乗 ↓ 一 阿 弥 陀 仏 大 願 業 力 一 為 中 増 上 縁 ム 也 L @ ﹁ 若 論 ↓ 一 衆 生 垢 障 ︸ 実 難 一 一 欣 趣 汁 正 由 レ 託 一 一 仏 願 一 以 作 ニ 強 縁 一 致 レ 使 一 一 五 乗 客 け 入 一 ﹂ 等といって、仏願に乗託して始めて往生し得るので、衆生の信行で往生し得るのでないことそ強調している如く、真 実の大行が如来願心の顕現として信の上に成就することが顕著に示されていることを領知できるのである。ざればそ 宗祖に於ける名号の意義 七

(28)

宗祖に於ける名号の意義 入 の本願を信ずると云うことも、名号に於いて招喚の戸を聞くことの外はない。ぞれ故に宗祖は善遵の﹁以一一斯義 4故 必 得二往生こを釈して、 ﹁ 一 言 二 必 得 往 生 一 者 彰 レ 獲 レ 至 一 一 不 退 位 一 也 ﹂ と、現生不退の義を釈成し、未来彼岸に往生できる可能性というのではなく、 その﹁必得﹂はむしろ﹁己得﹂であり、 住不退転であることを示している。更に経の﹁即得﹂を釈の﹁必定﹂に合して、 ﹁ 型 一 一 日 由 レ 聞 一 一 願 力 光 一 一 闘 報 土 真 因 決 定 時 魁 之 極 足 一 也 、 必 言 辞 削 減 一 也 金 剛 心 成 就 之 貌 也 ﹂ と、すべての解釈が願意を聞くということに結びつけられているのであって、ここに行信不離を示して、信に離れざ る行の成就を強調せられたと思考される。それは名号を正しく領解することが信であるということであろうか。

上来煩を厭わず、行巻に一川された親驚の名号釈は、名号行の純粋他力性を語らんとせられたものであることを脚か 明らかにした。即ちその領解は如来そのものの衆生に対する端的な事実表現であり、如来願心の動的把握である。故 に称に称功をみず 一分の爽雑物の介在をも許さない旨趣を懇示せられるものである。 ここに称名は救いを要求する 声でなく、それはただ無碍の光念講嘆するものであり、大行釈に﹁称無碍光如米名 L と一五われる所以も領解できるの で あ る 。 思 一 つ に 、 本 願 に 遇 い 得 し 感 激 は 、 た主たま遇、つ処に、或は全く偶然なる処にこそ一入深いのである。 けれどもそれ は同時に普遍必然の自証を有たねばならないのであり、斯様に普遍必然の根拠の上に可能偶然を顕わすものが廻向で ある。普遍必然の仏の願いを我々はたまたま遇うことによって信知するのである。すべての人間の救いの道ば我一人

(29)

が救われると云う処に体験されるのであり、特殊を貫いた処にすべての人が救われる普遍の道理がなくてはならない。 また令一人の救われる道理において、初めて特殊の実感があるのである。 宗祖は善導の六字釈を契機として、特殊の根源に静遍の法を見出し、衆生の上に於ける往生の可能性の根源に如来 の法としての必然性を見出そうとして、宗祖の名義釈がなされたものと考えられる。 それは実に善導の上にその幽怠 あ る を 開 顕 し て 、 その深奥の意義を発揮せらたものとみることができる。 かくして、普導・一万祖が称名を易行となす ことも、単に観難称易という相対的な意味に於いてではなくして、機受無作の故に易行と云われるのである。即ち現 実人聞の惜界はつよろづのこと、 みなもてそらごとたわごと実あることなき L 顛倒虚偽の世界である。 かかる世界に あって智眼を有たず、業報の闇地を辿りつつあり、 而も盤特の輩である我々を救済せずば止まないという大慈悲心よ り、我等衆生に先立って、自らの名として衆生の上に名告り顕現せられたものが名号である。 しかれば南無阿弥陀仏 一つで浄土に往生するということは、永劫の修行によってであり、 そしてそれが廻向と云うことであったのである。 淘に宗祖が @ ﹁ 明 知 是 非 一 一 凡 聖 自 力 之 行 ﹁ 故 名 ニ 不 廻 向 之 行 一 也 . 大 小 聖 人 重 軽 悪 人 、 皆 同 斉 応 下 帰 一 一 選 択 大 宝 海 − 念 仏 成 仏 ヒ ﹂ と結ぼれる如く、名号六字が如来の願心から出生する念仏であるが故に、凡ゆるはからいを超えた如来の名告りであ り、我々には何程の加うべき要もなく、計らうべき術もなく、 生涯かけて名に喚び覚され、名の世界に帰入して行く よりほかはない 註 1

ι

l

一 九 に ﹁ 名 号 者 是 万 徳 之 所 レ 帰 也 ﹂ と い っ て 念 仏 、 か 勝 の 義 を 有 す る こ と 完 全 た ﹁ 念 仏 易 レ 修 諸 行 難 レ 修 ﹂ と 易 行 で あ る 所 以 を 夫 々 例 示 を 以 っ て 明 ら か に し て い る 。 ﹃ 選 択 集 ﹄ 本 宗 祖 に 於 げ る 名 号 の 意 義 九

(30)

宗祖に於ける名号の意義 9 =司~司 安 大 六 楽 正 要 集 蔵 会 』 』 本 ー 一 一 一 上 巻 L 右 じ 左 七 右 七 左 七 十 二 三 号 一 一一 I A 左初 右 主 二 頁 中 2 ~司 論 註 b 下 右 一 右li右初右四 九 ﹃ 御 自 釈 ﹄ 3 −古 同 4 ﹃ 同 5 6 7U 8 9 ﹃ 玄 義 分 ﹄ 10 ﹃ 同 12 E司 同 13 ~官 向 右 L 右 b 右 b 右 右 ι= 下 散 『 『 『 『 『 『 で 喜 享 親i 御 礼 向 玄 散 原 義 襲 撃 自 義 善 の 就 聖 釈 讃 声 ? ? 義 意 行 人 』 』 』 』 』 義 立 右ゴ ー 全 左 六 左 四 右 コ 二右入~信 L右

δ

f

!

I

ー 右

O

未墾

I 和 右 七 々 「 tこ lこ 左

δ

哩於

7J, し て て 行 い の ら 意 れ 義 る そ 如 廻 くl匂 で 発 あ 願 る,C. -C 釈

H H

m n

﹃同右﹄ 左 七 15 17 18 19 24 20 21 22 25 ﹃ 玄 義 分 ﹂ 26 ﹃ 御 自 釈 ﹄

O 五阿頁

(31)

親驚教学に於ける方便の意義

立立 日

親 驚 聖 人 の 宗 教 は 、 真実を顕す宗教である。そのことは真宗または浄土真宗なる宗名を見れば、直ちに看取しろる ところである。また真宗の根本聖典たる﹃教行信証﹄が ﹁顕浄土真実教行証文類﹂と名づけられていることによっ て も 一 層 明 ら か で あ る 。 しかるに この真実の宗教たる真宗において、方便というものが、重要なる地位を占めて い る G ﹁教行信証﹄の前五巻が ﹁真実の巻しであるに対し、第六巻本末が﹁方便の巻﹂であるのは、 このことを証 してあまりがある。真実の宗教たる真宗の中に、方便が説かれるのは如何なる意味があるのであろうか c ζ の 問 題 に ついて一考してみたいというのが、本論起稿の目的である。 な お 、 ここに謂ゆる方便なる用語は、もちろん権仮方便であって善巧方便ではない。議ロ巧方便とは、 ﹃ 高 僧 和 讃 ﹄ われらが無上の信心を、発起せしめたまひけり﹂とある如く、仏が ① 慈悲の立場より、真実在真実として伝える方法である。曇驚大師の﹃往生論註﹄に﹁正直日レ方、外レ己日レ使、依一一正 に﹁釈迦弥陀は慈悲の父母、種々に善巧方便し、 親驚教学に於ける方便の意義

(32)

親驚教学に於ける方便の意義 直 4 故 、 生 下 憐 コ 思 一 切 衆 生 一 心 人 依 一 一 外 己 一 故 、 遠 下 離 供 ↓ 一 養 恭 ヲ 一 敬 自 身 一 心 上 L とあるのは、方便の二字を正直と外己とに 着する心を遠離する︵外己︶をいうものである。 分釈しているが、これは自他同体不二を知るが故に一切衆生を憐敗んする心を生じ︵正直︶、外己の慈悲によって自身に @ また同じく﹃論註﹄に﹁般若者達如之恵名、 方使者通レ権之智称﹂と 云われているように、実智を離れざる権智の立場より衆機を省みて教化をほどこすことを方便というのである。 守 論 註﹄におけるこれらの方便の解釈は、何れも善巧方便に関するものであって、それは仏が真如法性を覚った真実の立 場より行われる衆生救済の活動を指すものということが出来る。これに対し権仮方使とは、 いまだ真実を知らざるも の に 対 し 、 これを真実へまで導くために、 かりに設けられたる方便であって、 ﹃ 本 典 L における﹃方便化身土巻﹄の 方便は、これに相当する。 か の ﹁ 信 巻 ﹄ の 真 仏 弟 子 の 釈 に ﹁ 言 二 真 仏 弟 子 一 者 、 真 一 言 対 レ 偽 対 レ 仮 也 ﹂ と 云 い 、 その仮を 説明して﹁一言レ仮者即是聖道諸機、浄土定散機也しとあり 守 浄 土 和 讃 ﹄ に ﹁ 聖 道 権 仮 の 方 便 に 衆生ひさしくとど まりて﹂とあるものが、 正しくこの権仮方便なのである。古来この権仮方便は暫用還廃を意味するものと云われてい る。暫用とは真実を知らざるものを導いて真実に人らしむるまでの問、 しばらく用いることであり、還廃とは真実に 入り終れば廃し去られるをいう。 ざれば権仮方便とは、未熟の機を誘引して真実にまで入らしむる階梯となるものを 指すということになる。これを親驚の教学の中において、具体的にその物柄を指すならば、 聖道門の法義および浄土 の要真二門の法義がそれである。 本論は顕真実の親驚教学の中で、権仮方便たる聖道門および要真二門の法義が如何なる意義を持っているか、更に 進んでは邪偽の宗教たる外道が如何なる意義を持っているかという問題について、少しばかり論じてみようとするも の で あ る 。

(33)

簡 非 と し て の 万 便 およそ本典の法義に、従生向仏の往生門の立場と、従仏向生の正党門の立場とがあることは、常に云われる通りで ある。この中、往生門の立場は衆生が教・行・信・証・真仏土と、往生浄土してゆく次第を明らかにするものであっ て、この場合、本典一部六巻は大いに分ってことなる。その一は顕是であり、 そ の 一 一 は 簡 非 で あ る 。 教 ・ 行 ・ 信 ・ 一 社 − 真 仏 土 の 前 五 巻 は 、 その題号に何れも﹁顕真実 L の語を冠することによって知りうるように、是を顕す﹁真実の巻﹂ であるに対し、第六巻たる化身土の一巻は、 その題号に﹁顕方便 L の語を冠することによって知りうるように、非を 簡びすてる﹁方便の巻﹂である。真実の巻たる前五巻に対して、方便の巻たる第六巻が説かれてあるのは、 およそ如 何なる意味があるかというに、 これは真実と方便とを対映することによって、方便は廃せらるべきもの、真実は立せ らるべきものなることを明らかにし、もって真実の真実なることを、 いよいよ明瞭ならしめようとするのである。さ れ ば 方 便 と は 、 この場合、簡非の意味をもつものであって、 この立場は真仮廃立を行うものである。 いま往生門における顕是簡非の有様を見ると、先づ﹁化巻﹄の題号そのものに注目せねばならぬ。 ﹁ 化 巻 ﹄ の 題 号 は具さには﹁顕浄土方便化身土文類﹂と題されているが、 これは正しく第五巻たる﹁顕浄土真仏土文類﹂に対照され ている。第六巻の内容は単に化身土に限定されていないのに、身士をもって題号が施されている所以は、方便化身土 を捨てて真仏土に証人せよと非を簡び是を顕されたものである。これけだし、稲稗は白においては分ち難いが、実に 至って弁じ易きが如く、因相に在っては真仮弁じ難いけれども、果相に於いては真仮の得失が判然とし易い。ぞれ故 に果相について寸化身土文類﹂と題し、もって仮を捨て真に帰すべしと簡非の意味を示されたのである。 守化巻﹄の内容について、簡非の意味を明らかすると ﹃化巻﹄には先づ化身化土を示して、仏はコ閉経﹄の真身 親驚教学に於ける方便の意義

(34)

親鷺教学に於ける方便の意義 四 観 の 仏 、 土は﹁観経﹄の九品の浄土としている。 ζ れは何れも数量を計量される要真二門所入の身土であって、真仏 土の不可思議光如来・無量光明土に対比し、もって顕是簡非をなしている。 つ ぎ に 要 門 ︵ 第 十 九 願 ︶ と 真 門 ︵ 第 二 十 願 ︶ との教義が相ついで明かされているが、 これは前五巻に顕されている真 実の四法に対し方便の四法を示し、もって顕是簡非をなしたのである。 十 九 願 の 教 と は ﹃ 観 無 量 寿 経 ﹂ 、 行とは修諸 功徳、信とは至心発願欲生、証とは繁樹林下往生であり、二十願の教とは﹃阿弥陀経﹄、行とは植諸徳本、信とは至心 廻向欲生、証とは難思往生である。このことは守化巻﹂の標挙によく顕わされている@ ︵ ﹁ 邪 定 索 機 ﹂ ﹁ 不 定 緊 機 ﹂ は 十九・二十両願の行信を含んでいる r ︶この十九・二十両願の方便四法に対し、前四巻は真実の四法を出し顕是をなし ている。各巻の標挙を化巻の標挙に対照すると、 このことが明瞭になるが、今は煩をいとうてその説明を省略する。 次に﹃化巻﹄には﹁信知聖道諸教為コ在世正法 ζ と云うより本巻の終りまでは、聖道教について説かれている。 こ れは聖道方便の一二法と浄土真実の一二法とを相対し、一二時の通寒一によって、顕是簡非したのである。即ち聖道の三法は 正像末の三時に衰変があるから仮とし、浄土の三法はコ一時に通入するから真とし、三円相対し約時被機して、 聖 浄 二 門の真仮廃立を行ったのである。 ﹃化巻﹄の末巻には外道邪偽の異執を教誠しているが、 これは前五巻の真実の法義に対し邪偽の教法を一不し、もっ て真偽廃立、顕是簡非をなしたのである. これを要するに、往生門の場合は、前五巻と第六巻とは、真仮廃立と真偽廃立とによって真仮偽の批判をなし、も っ て 顕 是 簡 非 し た の で あ る 。 したがって権仮方便とは、真実を顕わすための簡非の意義を持つものであることが知り う る 。

(35)

権用としての方便

本典組織の中、往生門に対する今一つの立場は正党円である。 これは従仏向生の立場であり、仏が衆生を摂化する 始終をいう。教行信託の四法組織に対する往還二廻向の組織がこれである。 こ の 正 覚 門 の 場 合 、 ﹁化巻﹄の方便は如 何なる意味を持っかというに、それは権用ということになる。権用とは仏がいまだ真実を知らざるもののために、真 実 の 立 場 よ り 、 か り に 方 便 を 垂 れ て 、 これを真実に誘入する作用をいう。 したがって権用は従真垂仮して、未熟の機 を従仮入真せしめようとする立場である。 いま寸化巻﹄の内容について云えば、 主づ化身化土は真仏真土の権用である。 ③ ﹃真仏土巻﹄に﹃玄義分﹄の﹁観音 援記経﹂を会釈する文を引用している。それによれば ﹁援記経﹂に報身入滅を説くのは化土の相であるが、その化 従仮真せしめようとするものである。 身入滅の当体即ち報身常住である。化身化土は真仏真土の体上に於ける権用であって、未熟の機に対し従真垂仮して ﹁末熔仇﹄に﹁仏思のふかきことは僻慢辺地に往生し、疑城胎宮に往生するだ にも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九、第三十の御あはれみにてこそ、 不思議のたのしみにあふことにできふらへ。 仏 恩 の ふ か き こ と 、 の で あ る 。 そのきはもなし﹂とあるのは、正に化身化土は如来の大慈悲の化現せるものなるこ王を示せるも また﹃真仏土色に﹁真仮皆是酬一報大悲願海﹁故知報仏土也﹂というのも亦同様である。 ⑥ ﹁ 化 巻 ﹄ に 要門真門の方便四法も亦、真実体上の権用である る第十九・第二十両願の願相は仮であるが、 その願底には真実が流れているととそ説き、 ﹁ 按 三 方 便 之 願 汁 有 レ 仮 有 レ 真 ﹂ と い う て 、 方 便 願 た ⑦ また﹃真仏土巻﹄に﹁玄義 分 ﹂ の ﹁ 発 一 一 四 十 八 願 ー 一 々 願 告 一 口 若 我 得 レ 仏 、 十 方 衆 生 、 称 二 我 名 号 一 等 ﹂ の 一 文 を 引 用 し て 、 四十八願全体︵この中に 第十九・第二十両願の方便願あり︶に第十八願の真実が遍満していることを示している。 ﹂ れ ま た 真 実 体 ’ ト し の 権 用 で 親驚教学に於ける方便の意義 二 五

(36)

親 驚 教 学 に 於 け る 方 便 の 意 義 ム ノ 、 あって、従真垂仮して、従仮入真せしめようとするものである。 @ 寸化巻﹄に聖道を呼んで﹁利他教化地方便権門之道路也しというものと、 聖道の法門は還相に摂する @ ﹃ 一 一 祉 巻 L に 還相廻向を指して利他教化地益也﹂と云えるものとを対照し、 これそ関連せしめる時は、 聖道一代は還相ということ になる。即ち聖道の法義は弥陀の浄土よりこの世界に還来して説かれたもので、 それは真実に入らしむるための方便 で あ る 。 またこれを﹁大無量寿経﹂序分に於いて窺うならば、来会の聴衆をもって修普賢徳の菩薩即ち還相の並口薩と な し 、 それに釈尊一代の八相成道の相をゆづっている。これけだし、 八相成道して聖道の法門が説かれるのであるか ら、それそ修普賢徳の還相廻向の相としているのである。 されば聖道の法門も亦真実体上の権用であって、従真垂仮 して、衆生をして従仮人真せしむるものである。 ⑩ 外道も亦守化巻﹂に引用せられている﹁弁正論﹄によれば、還相に属して真実体上の権用となる。﹃弁正論﹄に日く ヒ 須 弥 凶 域 経 云 応 声 菩 薩 為 一 一 空 寂 所 間 経 五 加 薬 為 一 老 子 一 二皇統レイ伏義一吉祥菩薩為一云剣一居一淳風之初﹁三聖立レ言儒童為↓孔子一光浄為二顔回一興コ己龍之末﹁玄虚沖一之旨、 黄老盛一其談一詩書礼楽之文、周孔隆一一其教﹁明レ謙守レ質、乃援レ聖之階梯。 と。これによれば伏義と女抽とをもって応戸菩薩と吉祥菩薩の電迩となし、加葉と儒童と光浄とをもって老子と孔子 と 顔 回 の 本 地 な し 、 しかもこれら儒教道教に於ける賢盟主の道を、仏の聖教に登るの階梯としている。 これは外道をも って真実体上の権用とせるものである。 これを要するに ﹃化巻﹄所明の化身士、要真二円、 期 一 一 道 及 び 外 道 は 、 何 れ も 従 真 畳 一 仮 し て 従 仮 入 真 せ し め る 真 実 体上の権用ということになる。

万便の存在理由

(37)

方便は真実ではない。真実を顕す親驚の宗教に於いては、方便は当然、廃せらるべきものである。若し方便と真実 との関係が、単にこの廃立に止まるならば、親驚の教学の中に方便の存在する理由が明らかでない 親驚の教学は 司教行信証﹄の中に、詳しく述べられているが、 その﹃教行信証﹂の総題はっ顕浄土真実教行証文類﹂である。 こ の ﹁顕真実の書しの中に、真実の教・行・信・証・真仏土を顕す前五巻があることは首肯できるが、 ﹁顕方便の書﹂た る第六巻が存在するのは、如何なる理由によるのであろうか。 上米、述べて来た方便に簡非と権用との両義があると い う こ と は 、 この方使の存在理由を充分に説明していおということが出来る。即ち方便は簡非によって顕是し、真仮 廃立することによって、 真実の真実たる事実を明らかならしめようとするものである Q 白は白のみでは白の白たる事 実が明らかでないが、白は黒と対比することによって、 いよいよ白の白たる事実そ明瞭にすることが出来る。今も同 様であって、真実は方便と対比廃立することによって、真実の真実たる事実が明らかにされる。 また方便は権用であ る。それは従真垂仮し、従仮入真せしむるものである。真実を知らざるものを放置しておいては、何時までたっても 真実に入ることは出来ない。 ここに真実の立場より降り来って、 真実を知らざるものの能力に応同し、 とれを真実に まで誘導する必要がある。 ここに権用として方便の存在理由がある υ さてこの方便の持つ簡非と権用の二義は、 両者全く無関係のものか、 それとも両者は切り離すことの出来ない関係 にあるのか。この点について考察を加えて見ねばならぬ。惟うに真実を真実と知り、方便を方便と知るのは、真実信 心 の 立 場 に 至 っ て 、 はじめて能くこれをなしうる。 いまだ真実信心を得ず方便の行信に停滞している聞は、方便を当 然のことと思惟しているのである。 しかるに一度真実信心をうるにいたると、 ことにはじめて真仮の廃立が分明に行 われる。簡非顕是は真仮廃立の上に成立するものであるから、方便を簡非と見るのは、真実信心の上に於いてはじめ て云いうるのである。 しかるにこの真実信心の立場より、過ぎ来し過去を回顧するとき、過去の諸経験はすべて自己 親 驚 教 学 に 於 げ る 方 便 の 意 義 一 一 七

(38)

親驚教学に於ける方便の意義 八 を今日のこの法悦に誘引せる宗教的向上の一路なりしことに気づかざるを得ない。ここに聖道自力の法門も要真二門 の浄土門も、すべては弘願真実に自己を誘入せんとする如来の衆生摂化の方便という意義をもつことになる。筒非の 方便がそのまま権用の方便とならざるを得ない。真実信心の立場に於いては、方便は簡非をその当面の存在理由とし つ つ 、 ぞれがそのまま権用としての意義を持つ。 これを本典の組織について云えば、往生門の立場に於いては、簡非 が 据 り で あ っ て 、 それがやがて権用として回顧せられるということである。 これに対し、如来が衆生を摂化する立場より云えばどうであろうか。如来の本意はもちろん弘願真実にあるのであ って、要真一一門の方便にないことは申すまでもないことであるロ し か る に 、 その本意にあらぎる要真二門を何が故に 与えられるのである。 四十八願について云えば、本意にあらざる第十九・第二十の両願を、何故に誓われたのである か。乙れは思うに、如来本意の第十八願弘願真実の法義を聞きながら、 いまだ仏の本意に達することが出来、ず、自力 執心の域に滞っているものがあるから、 かかる機類を放置するにしのびず、それを救い、 真実に誘導せんとして、 方之 本意ながら設けられたのが、第十九・第二十の両願であると考えられる。ぞれ放に、如来摂化の立場より云えば、方 使はまづ権用在意味すると云わねばならぬ。 しかしながら、如来の大悲は方便を与うることが目的ではなく、 あくま で衆生をして真実に入らしむることが本意であるから、当然権用の背後に簡非の意味がなければならぬ。簡非の裏づ けがなければ、権朋は成立し得ない。 ざれば如来摂化の立場、換言すれば正覚門に於いては、方便の存在理由は権用 を主とし、それがそのまま簡非の意味を持と云うことになると思う。

教 と し て の 万 便 方使に筒非と権用との両義があるならば、教としては、先づ権用の立場に立って、方便を与え、 も っ て 衆 生 を 導 き 、

(39)

しかる後、簡非によって真実を与うべきか、或はその反対に、初めより筒非の立場に立って、方便を廃し真実を立し て 行 く べ き か 。 何 れ に よ る ゆ へ き で あ ろ う か 。 またこれを道を求むるものの立場より云えば、筒非の立場に立って道を 求 む べ き か 、 それとも権用の立場に立って進むべきか。何れによるべきであろうか。若し筒非によるときは、顕是に 対して簡非するのであるから、 われわれは直ちに要真一一門を捨て弘願に帰すべきであるが、若し権用によるときは、 方便は真実に入る階段となるから、先づ商店真二門を修し、 それより徐ろに弘願に入ることになる。教の実際、求道の 実際として、果して何れに従うべきであろうか この課題について、有力なる示唆を与えるものは、 四十八願における教の問題である。 いま如来の四十八願を見る に、弘願の教を誓える願は いうまでもなく第十七願の﹁脊底称我名﹂であるが、要真二門の教左誓える願は、何れ に あ る の で あ ろ う か 心 われわれは誰しも先づ第十九・第二十の両願に着目するであろうが、 この両願は要冥二門の行 信証を誓うてあるけれども、 その教が︶誓える語を発見することが出来ない。 およそ真門の機は教頓機漸と云われる。 第十七願において、名号を脊嵯称するのを聞くとき、 弘願の機は教のまま聞いて、宜宅も機執をかけないから、教頓機 頓 で あ る じ し か る に 、 真門の機は第十七願の奔嵯称我名を聞きながら、それに機執をかけて教のままを受けとらず、 聞損するから教頓機漸となる ω この場合機漸の前に浮んだ教は、聞くものが機漸であるから、教また魁実すれば教漸 となる。この機漸の前に浮んだ教漸が即ち真門の教なのである。ぞれ故に四十八願の中には、真門の教を誓った願は ない筈である。要門も亦同様である。要門の機は第十七願の脊嵯称我名を聞くとき、名号体内の諸善方行に日をかけ その諸善万行をもって往生しようと欲する。即ち要門の機は第十七願の名号を聞きいて、同聴異聞して自力諸行をも って往生しようと願うものである。それ故に四十八願の中には、要門の教を誓った願は、何処にも発見することは出 来 な い 。 親 驚 教 学 に 於 げ る 方 便 の 意 義 九

(40)

親驚教学に於ける万便の意義

かくの如く、如来の願海には、何処を尋ねても要真二門の教は誓われていない。それにも拘わらず、要門の教たる 観経、真門の教たる小経が存在するのは何故であるか。思うに観小両経は釈迦の開説であって、弥陀の願海には要真 二 門 の 教 が な い の は 、 当然のことと考えられる。何故ならば、弥陀の願意はただ弘願真実の第十八願を与えるのが本 意であって、第十九・第二十両願の要真二門を与えるのが本意ではない。第十七願は弘願真実を説くが、要真二門の 機はこれを聞損して、 真門の機は植諸徳本の念仏をもって、要門の機は修諸功徳の諸行をもって、往生しようとする R この聞損の機を思んで、それを救わんがために、如来は不本意ながら第十九・第二十の両願を誓一口われたのである。さ れば願海においては、第十八願の教のみありて、第十九・第二十両願の教は存在し得ない。第十九・第二十の両願は 自力の機執を離れることの出来ないものも、 その行信によって証を得しむることを誓われたるもの、云わば如来が不 本意ながら誓われたものなのである。観小二経はこの如来の仏意を開顕して、釈迦が開説せられたものである。 台、 く て願海そのものに要真二門の教が誓われてないことは、 教として方便を与うべきでないことを示しているのであろ

またこれをわれわれの求道の実際より云うも、真仮廃立が明白になった今日、 わざわざ求めて方便に趣く必要はな い。われわれは真ちに真実に進むべきである。 一体方便と知って修し行くときは、 その方便は決して真実へと導くも のではない。この道は自己を救う唯一の道として求められてこそ、 われわれは真実へと導かれむものである。真実へ 入らんかために、試みに修してみようというような心で修せられた方便は断じて修道者をして真実へ入らしめる警が : 、 。 中 ’ 旬 、 U われわれはあくまで簡非の立場に立って、直ちに弘願を求むべきである。ざれば教としては、簡非によるべき であって、権用によるべきではないと考えられる なお最後に一言を費しておかねばならぬことは、権用の場合における外道の扱い方である。外道が権用となるとい

(41)

うのであれば、宗祖が﹁化巻﹄において﹁外教邪偽﹂と云われたト占祭耐を主とする迷信邪教までをも、これに摂す ると考えてよいであろうか。思うにかかる迷信邪教は、決して権用と称すべきではないであろう。今ここに権用と云 われる外教は、仏教以外の迷信ならざる宗教、例せば孔孟の教の如きを指すのであろう。この点に対し有益なる暗示 を与えるものは、円月の﹃仰信録﹄の所説である。 守化巻﹂の米巻には迷信的邪教の外に孔孟の説をも引用している が、この扱い方につき、円月は内道と外道との聞に、内にして正なるもの、内にして邪なるもの、外にして正なるも の、外にして邪なるものという四句分別をなし、内にして邪なるものは外道に摂し、外に正なるものは内道に属する と い う て い る 。 この円月の解釈によれば ﹁化巻﹂引用の孔孟の教の如きは、仏教中の世法として採用せらるべきは 勿論、余他の諸宗教に於いても、仏教の道理に順ずるものは、 とれを権仮の宗教として判ずべきであると思う。 ま た 外教中仏教の道理に順ぜざる淫記邪教はいうまでもなく、仏教中といえども、これに属するものはすべて邪教として毘 斥するのは勿論である。 註 1 ﹃論註﹂下 ﹃論註﹂下 ﹃ 真 仏 土 巻 ﹄ ﹃ 末 燈 紗 ﹄ ﹃ 真 仏 土 巻 ﹂ ﹁化巻﹄本 ﹃ 真 仏 土 巻 ﹄ ﹃化巻﹄本 ﹃ 証 巻 ﹄ ﹃化巻 L 末 2 3 4 5 6 7 8 10 9 いま権用として摂取される外教は、円月の四句分別で云えば、外にして正なるものであろう。 三 五 六 五 五 一 十 五 十 九 丁 丁 丁 丁 丁 丁 丁 丁 丁 丁 親鷺教学に於ける方便の意義

参照

関連したドキュメント

P.17 VFFF VF穴あきフランジ P.18 VFBF VFブランクフランジ P.18 JISBNW

2003 Helmut Krasser: “On the Ascertainment of Validity in the Buddhist Epistemological Tradition.” Journal of Indian Philosophy: Proceedings of the International Seminar

[r]

代表研究者 川原 優真 共同研究者 松宮

JMUでブロック(組立品)の運搬を見る JMUで建造中の船はビルのようだ!

 渡嘉敷島の慰安所は慶良間空襲が始まった23日に爆撃され全焼した。7 人の「慰安婦」のうちハルコ

堰・遮へい・屋 根付きエリア 整備中の写真 廃棄物規制検討会

甲州市教育委員会 ケカチ遺跡和歌刻書土器の全体写真