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ドキュメント内 真宗研究7号全 (ページ 104-110)

子 へ の 親 近

︿ 公 開 講 演

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の 親 近

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今日は︑真宗連合学会の公開講演会が聞かれますつきましては︑東西の学匠をお迎えして︑私共にこの尊いお話

を聞くことの出来る機会が恵まれました︒御大会の尊い御縁の上に︑容易に聞くことの出来ない尊い御縁を︑重ねて

頂く光栄に浴することであります︒これに先立ちまして︑当山高田の方から御挨拶にかえまして︑私が﹁太子への親

近﹂ということについて︑お話し申し上げたいと思うのでありますじ

昭和五年のことであったのでありますが︑当時︑最同額の紙幣︑百円札にはじめて︑

血小

一徳

太子

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姿が

出て

まい

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これは日本にありますところの聖徳太子のお姿では︑最も古いお姿からとったものであります︒伝

えるところによりますと︑朝鮮百済の聖明王が︑その太子であるところの阿佐太子を日本に遣わしたことがあるので

あり

ます

が︑

この阿佐太子が聖徳太子の御徳を非常にお慕い申し上げ︑そして朝鮮に帰る前に太子の御姿を拝み︑

れを絵に描いたのであります︒そのおそばの右に太子の御長男である山背大兄王子︑そして左に弟様の殖栗王という

御二方を配して︑一二人の御姿をかき残していった︑とこう伝えておるのでありますじその御姿は﹁庶形の御影﹂と伝

えておるのでありまして︑長く法隆寺に伝来いたしておったのでありますが︑明治の初めの頃に︑皇室に奉献いたす

ζとになりまして︑今日では御物となっておるのであります︒最近︑新聞の報道するところによりますと︑東京の博

物館の境内に法隆寺博物館が出来るということでありますが︑おそらく︑この博物館が出米ますと︑只今申し上げた

聖徳太子の尊像も︑そこにかかげられるのではないかと考えておるのであります︒紙幣には︑太子のお顔と共に法院

寺の夢殿︑同寺の全景もかかげられたのであります

そうしまして︑戦時下になりましても︑との百円札は聖徳太子のお姿を奉掲して行われておったのでありますが︑

戦後に変わりまして︑只今の百円札になったのでありますが︑それと共に新しく出来ました千円札︑そこにまた太子

の御姿がおさまり︑夢殿の建物も掲げられました︒太子をしのぶことの出来るような図面がそζに添えられておると

いうようなことでありました︒

その

後︑

五千円札が出来ますと︑ここには太子の御姿と︑また同時に透しの中にも太

子のお姿がありまして一枚の札の中に太子のお姿が二通りも拝めると︑こういう風になっておりました︒また近頃

出来ましたところの一万円札になりますと︑聖徳太子のお姿の他に透しの中に夢殿が描かれておるということになっ

たの

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この夢殿はどうしてそんなに太子のそばに掲げられておるかといいますと︑只今︑夢駐は法隆寺の東の伽

藍の中心のところにありますが︑もとは聖徳太子のお住まいになっておりました斑鳩の宮という御殿のあったところ︑

その御殿が太子のおかくれになりました後に入鹿のために焼かれてしまったのでありますが︑その焼跡が非常に荒廃

してまいりました︒太子の嘉後百十数年︑聖武天皇の天平十一年のことでありますが︑それを遺憾に存じまして︑行

信僧

都の

手に

より

そこに初めて建てられたのが︑

八角

の円

堂︑

丸い御堂と書くのでありますが︑八角円堂であった

太 子 へ の 親 近

太 子 へ の 親 近

ので

あり

ます

ところが後になりますと︑ζの聖徳太子のことを書きました書物﹃聖徳太子伝暦﹄の中に︑太子は始

終お経のお学聞をなさっておられ︑そのお学問所の名前のととを夢殿と書いたのであります︒そこに太子がおこもり

になって︑仏教をおきわめになっておられたというようなことが書いてありました︒その跡に建てられた御堂である

というので︑現在の八角造りの御堂が︑いつのまにか夢殿という名前になってしまって︑現在に及んでおるのであり

ます

これ

はい

ずれ

も︑

その新しい札の中に描かれておる太子のお姿は申すまでもなく︑その夢殿を見ますことによ

って︑その夢般にもとお住まいになっておられたであろうところの太子をしのぶことが出来るというように︑我々に

しらせられておるのではないかと思われる︑その夢殿が描かれておるのであります︒

昭和三十三一年の十一一月一日に初めて一万円札が発行されたのでありますが︑その日に︑大蔵大臣の代理が︑新しく

刷られましたところの一万円札第一号一枚︑それから更に五千円の札を新しく刷りましたものを二枚︑もう一つ千円

札を新しく刷りましたものを十枚︑こういうものを持ってまいりまして︑法隆寺の聖霊院︑俗に太子殿といっておる

そこに奉献いたしました︒そこで太子般におまつりしてありますところの秘仏の太子の摂政御像を御開帳申し上げて︑

感謝報告の法要が償まれたことがあったのであります︒従来︑各地におきまして毎年行われております太子会︑或は

太子祭というような催しの場合に於て︑近来紙幣供養というものが行われております︒高額紙幣を太子の御前に捧げ

て太子の思徳を感謝し奉るというようなことがらが︑あちらこちらに行われているような状態であるのであります︒

更に昨年の夏八月以来︑品目様が平素ふんだんにお使いになっております郵便葉書も︑その切手が変ったのでありま

す︒従って五円切手の図柄が変ったのであります︒何に変ったかと申しますと︑只今申しました処の夢殿に変ってお

ります︒その夢殿を眺め一︑太子の尊像を眺めたりするということによって︑何時も私共の心の行く先を聖徳太子へ︑

聖徳太子へと︑こういうようにしむけられておるような感じがする現在の状態なのであります︒この際︑私はかよう

にして聖徳太子への近づき親しみそ生むような環境がつくられておる︑ζの際にあらためて︑今更のように聖徳太子

を崇めたてまつって太子に極力親近なさったところの︑わが御閉山聖人のことそ思わずにはおれないのであります︒

今︑日本全国はおろか全世界へと弘まりつつありますところの真宗関係の寺院教会等におきましては︑いかなる場

所にも聖徳太子のお姿がおまつりしてあるのであります︒どのような寺院教会にも聖徳太子をおまつりしない所はな

いのでありますωまたことに別堂といたしまして︑太子のおまつりしてある太子堂を持っている寺が随分多いのであ

りますω大谷派の方でお調べになった最近の統計を拝見いだしますと︑全国の末寺の中におきましては︑百カ寺につ

いて一カ寺は本堂の外に太子堂を持っておると︑こういう統計が表われておるというようなζ

とで

あり

ます

また

士口

来この高田の流れをくんでおるもののお内仏の安置の様式はと申しますと︑御本尊の向って右に御開山聖人のお姿を

安置し︑向って左に聖徳太子をおまつりしてきたのが古来のならわしでありましたcまた高田の栃木県にありますと

ころの本寺にまいりますと本堂であるところの如来堂のそばには太子堂があり︑また聖人のお弟子である顕智上人︑

或いは善然房が伝道の拠点といたしました本県の北勢にある一二日市のあの兼帯所を見ましでも︑そこには如来寺︑太

子寺と︑如来堂と太子堂と二つが聾を並べて建っておるというような状態なのであります︒これはわが御閉山聖人が

平素

聖徳太子を御尊重になり︑太子に親しみ近づくζとにまことにまごころをこめておられた︑その宗風が伝わり

伝わって︑真宗に流れをくむものは必ず太子を尊重するというようなことが行われておるものであるということがわ

かる

ので

あり

ます

このように聖人が御在世の時に︑太子に非常に親近なさっておられたということから︑今日の我々もまた太子に親

近するように恵まれておりますが︑成程︑聖人こそはとの太子への親近ということについての先覚者であります︒真

宗の流れをくむ者は︑いよノ\この聖人の意志をくんで︑報恩謝徳の一面に於て太子奉讃ということにも務めねばな

太子への担割近

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