後鳥羽院と定家との歌の好尚の相違について
││﹃順徳院御百首﹄の歌評をめぐって││
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ま じ め 後鳥羽院と藤原定家との歌観の違いについてはこれまでも問題にされてきたことである。特に﹃新古今集﹄の撰 歌を巡っては、﹃明月記﹄には院と定家が対立しているように見られる記事があ仏、また﹃後鳥羽院御口伝﹄の定 家評には、院と定家が対立している様子が見られみ。これらの一見両者が対立している記事を見ると、それが両者 の歌観の相違からくるものと考えがちであるが、これについて細谷直樹氏は﹃後鳥羽院御口伝﹄を詳細に分析され 次のように結論づけられていふ。 ﹃新古今集﹄の撰歌切継に示した定家の怠慢は院と定家との歌観の不一致に起因したものではないこと、また ﹃御口伝﹄の定家評は院と定家との歌観の不一致ならずして一致をこそ意味していること、この二点は明らか に な っ た で あ ろ う 。 細谷氏の論証は説得力があり、十分に納得のいくご論ではあるが、歌観の方向は同じであっても、やはりこの両 者には歌に対する好尚の違いがあるように思えるのである。特に本稿で問題とする﹃順徳院御百首﹄の歌評におい 後鳥羽院と定家との歌の好尚の相違について(大取) -459一て、両者の加点のあり方を見ると、後鳥羽院と定家の合点のあり方が必ずしも合っていないのである。例えば詠ま れた順徳院歌に対して定家が両点を付して高い評価を与えた歌でも後鳥羽院は何の評価もしていない場合があり、 反対に後鳥羽院が両点を付して大いに評価した歌に対して、定家は単に合点だけを付している場合も見られるので ある。更に定家が合点を付けずに何の評価もしなかった歌に対して、後鳥羽院は両点ではないが合点だけ付してい る場合も見られるのである。 ﹃順徳院御百首﹄に対するこれら両者の評価の相違は、少なくとも晩年の定家と後鳥羽院との歌の好尚の違いを 示しているように思えるのである。 ﹃順徳院御百首﹄は、承久三こ二二こ年に起きた承久の変によって佐渡に配流された順徳院が、配流地で詠 まれた歌であり、それを京都にいる定家と、隠岐に配流されている父後鳥羽院のもとにそれぞれ送って評価を請わ れたものである。従って本百首の伝本を見ると、単に百首の歌のみを書いているものもあるが、多くは百首の歌の 他に各歌に定家と後鳥羽院の合点が付いており、定家による歌評も付いている。また更に定家が評価しなかった十 一首の歌に対してその理由を書いたもの(これを﹁裏書﹂という)、つまり﹁裏書﹂が付されている伝本も見られ る の で あ る 。 この百首の詠まれた時期と、それが後鳥羽院と定家の両者に送られてきた時期、更には定家が﹁裏書﹂を付して 順徳院の元に返送した時期、それに両者が合点を付け、定家が歌評を付して佐渡の順徳院に返送した時期等につい ては、唐揮正実氏のご論に詳しい門。唐津氏によると、貞永元(一二三二)年に﹃百首﹄が詠まれ、定家や後鳥羽院 の元に送られてきたのは嘉禎二(一二三六)年以降、それに定家は合点を付し、ー裏書 L を順徳院の元に送り、﹃百 首﹄の各歌に歌評を付して返送して最終的に完成したのは嘉禎三年十月とされている。 本稿では直接にはこの﹃順徳院御百首﹄に対する院と定家との批評のあり方を問題にするが、両者に佐渡から -460一 龍谷大学論集
20 19 18 17 16 15 14 13 121110 9 8 7 6 5 4 3 2 1
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O O O O O O O O O 院 O O O O O O O O O O O O O O O O C O 定 40 39 38 37 36 35 34 33 32 31 30 29 28 27 26 25 24 23 22 21/
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O O O 定 ︿注記﹀右の表の O は合点、。は両点を表す。校訂した箇所はお定 O ← ナ シ 、 M 院ナシ・定ナシ←院定共 O 、 閉 山 院 ・ 定 ナ シ ← 院 ・ 定 O 、η
院 ナ シ ←院 O 、 m m 定 O ← 定 。 、m
院・定ナシ←院 O ﹃ 順 徳 院 御 百 首 ﹄ が 送 ら れ て き て 、 それに一連 の点が加えられた最終の時期が嘉禎三(一二三 七)年と考えられることから、後鳥羽院として は承久の変で隠岐に配流されてから十五年程経 ったころであり、定家にとっては﹃新勅撰集﹄ を編纂し終えた嘉禎元二二三五)年三月以降 のことであって、両者にとっては最晩年のころ の歌の好尚の一端がそこに表れているものと考 え る の で あ る 。 以下、本百首に対する両者の加点のあり様を 分析し、特に大きな相違と考えられる歌群につ いて考察してみることにする。 ﹃順徳院御百首﹄には後鳥羽院と定家の合点 その合点の状況は諸本によ って異同がある。唐津正実氏﹁﹃順徳院御百首﹄ の伝本についも﹂にはそれを一覧表にして整理 が 付 さ れ て い る が 、 されている。本稿では唐津氏が﹃新編国歌大 観﹄に翻刻され、解説された本文に基づいて考 察するが、合点状況については唐津氏のご論文 後鳥羽院と定家との歌の好尚の相違について(大取) p o a H 2によって数ヶ所校訂を加えることにしたい。その上で本百首の合点状況を一覧表にしたものが前頁の表である。 前頁の表によって本﹃百首﹄の両者の合点状況を見ると、﹃百首﹄の中、後鳥羽院が合点を付して評価した歌は 日首(内、両点を付した歌は 8 首)、定家が合点を付して評価した歌は部首(内、両点を付した歌は日首)である。 つまり、後鳥羽院の例から考えると、本﹃百首﹄に対して院は同首を評価し、 M M 首は評価しなかったわけであるが、 評価した日首の中でも両点を付して特に高い評価を与えた歌が 8 首ある。一方、定家の側から見ると、部首の歌を 評価し、その中の日首は特に高い評価を与えているのである。 両者の歌の好尚の相違を見る場合、特に相違が明瞭になるのは、どちらか一方が評価していながら、もう一方が 同様に評価していない場合であろう。従って本稿では、
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定家が両点(二重合点)を付して特に高い評価をしてい ながら、後鳥羽院が何の評価もしなかった場合、。定家が何の評価もしなかったが、後鳥羽院は合点を付して評価 した場合、②後鳥羽院が両点を付して特に高い評価を与えていながら、定家は単なる合点を付しているだけの場合 の三つに分けて検討を加え、両者の歌の好尚の違いがどこにあったのかを明らかにしたい。一
章
定家が両点を付しながら、院が評価しなかった場合
定家が両点を付して特に高い評価を与えた歌は、 M-m ・ 初 ・ 却 -U ・日・日・日・拘・剖 -M ・ 出 ・ 印 ・ 拘 番 歌 の M 首である。この中、後鳥羽院も両点を付した歌は訂・別番歌の二首で、討- m
・ 訪 -M ・百・白の六首は合 点を、却・日・花 -M ・却の五首は院が何の合点も付けず、評価しなかった歌である。つまり、定家が両点を付け て特に評価した U 首 の 中 、 8 首まで後鳥羽院も両点乃至合点を付けて評価していることになり、それから考えると 定家と後鳥羽院の和歌の好尚についてはほぽ同じ方向にあったと考えられる。しかしながら、定家が特に評価して いながら院が何の評価もしなかった歌は五首あり、ここに定家と院との相違が見られると考えてよかろう。その五 462ー 龍谷大学論集首の歌と定家の歌評を示すと次のとおりである。 羽人ならぬ岩木もさらにかなしきはみつのこじまの秋の夕暮 此三十一字毎字難抑感涙、玄之玄最上候撤 回ひとめみしとをちのむらのはじ紅葉またも時雨て秋かぜぞふく (巳上回首調花加光彩景気銘心府候、毎度催感興候) 花鳥のねのあか月よりもつらかりきおとせぬ人のゆふぐれのそら 長鶏再鳴征馬頻噺いきて別れし暁の怨よりも、みち行人も跡たえてあまとぶ雁もおとづれぬ雪のはたての つれなきは猶色まさり候らむ、薄暮の心体をせめ肝にそみ候 U M月もなほみしおも影はかはりけりなきふるしてしそでの涙に 不似昭陽花衰看かはるひかりもふるきためしに候へど、なきふるしてし袖の涙、猶古今向後無比類候 却すずわくるしのにをりはへ旅衣ほす日もしらず山の下露 宿をかる夕、験におもむく朝、とりどりに染心肝候 右にあげた却番歌﹁人ならぬ L は、後に﹃続古今集﹄巻第十七・雑歌上に採られている。谷山茂氏は﹃群書解 題﹄の﹁順徳院御百首﹂の解題の中で、本百首の何番歌﹁聞くたびに哀とばかり言ひすてて幾世の人の夢を見つ らん﹂と共にとりあげて﹁よすがに現実の悲境の投影をおもわせて、鋭く胸を刺すものもある﹂と、配流地での 順徳院の境地のよく表れた歌として指摘されている。第四句﹁みつのこじま﹂については諸説があるが、当該歌 は、﹃古今集﹄巻二十、東歌の陸奥歌﹁小黒崎みつのこじまの人ならば都のつとにいざと雷同はましを﹂(一
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を本歌にして、﹃白氏文集﹄巻四﹁李夫人﹂の中の﹁人非木石皆有情﹂の句をふまえて詠んだ本歌・本説取 の歌で、樋口芳麻呂氏は次のように解釈しておられる。 後鳥羽院と定家との歌の好尚の相違について(大取) -463一都へさあ行こうとだれもいってくれない私は、みつの小島同然で、人ではなく非情な木石みたいな存在だが、 寂しい秋の夕暮に接すると、いよいよ悲しさを禁ずることができない。 と抑制した椀曲な表現ながら、帰京の許されぬ身を詠嘆されています。 却番歌は、順徳院の配流地佐渡での現在の心境がよく表れた歌で、定家はこの歌に対して感涙を止め得ませんと 歌評を付し、﹁玄之玄最上 L と最も高い評価を与えている。当該歌は本歌・本説取の歌で、文学的技巧は凝らして いながらも決して象徴的な歌ではなく、順徳院の心情が直接汲み取れる歌である。 次の臼番歌﹁ひとめみし﹂は、大和国の歌枕﹁十市村﹂のはじ紅葉を詠みあげた歌である。櫨紅葉は紅葉したは ぜの木の葉のことで、先に一目見た遠くの紅葉した十市村のもみぢに再び時雨が降り、吹く秋風にさそわれて色あ せてしまった、その寂しい景色をありのまま詠んだ歌である。叙景の中に、順徳院の配流地での寂しい心がにじみ 出ている歌とも考えられよう。定家はこの歌を含む日
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番歌の四首に情景が深く心にしみて興味深いという同じ 歌評を加え、その中の臼 -M 番歌の二首には両点を付して特に評価している。日 1 M 番歌は、次の四首である。 日霜はればあすも来てみん鶏なくいはたのをのの紅葉しぬらん 回かぜになびく雲のゆくてに時雨れけりむらむらあをき木木の紅葉ば 日ひとめみしとをちのむらのはじ紅葉またも時雨れて秋かぜぞふく 白谷ふかきやつをの椿いく秋の時雨にもれて年のへぬらん この中、出番歌は寸八尾の椿﹂に順徳院ご自身を投影させた歌と考えられる。﹁八尾﹂は多くの山の峰々の意で、 その深山幽谷の底にある椿は、毎年降る時雨に濡れることなく葉の色を変えずに生えていることよと、配所で十数 年変わることなく欝々と暮らす院ご自身を八尾の椿に見立てて詠まれた歌と受けとれる。定家は順徳院の現在の心 境がより汲み取れる日・日番歌に心をゆり動かされ﹁景気銘心府候﹂と評して両点を付していることが知られる。 -464一 龍谷大学論集それに対して後鳥羽院は、右四首の中、日番歌に両点を付し、回 -M 番歌に合点を付して評価しているが、日番歌 は無点で何の評価もしていないのである。後鳥羽院が両点を付けた日番歌は﹁今日は霧がかかっている中で鶏が物 悲しく鳴いているが、霧が晴れたなら、明日もまた来てみよう、ここ輔の鳴く石田の小野ではきっと色濃く紅葉し ははそはら ていることであろう﹂との意。﹁石田の小野﹂は山城の歌枕で、﹃万葉集﹄には﹁山科の石田の小野の枠原みつつ か君が山路こゆらん﹂(一七三四)と詠まれている。﹃千載集﹄にも﹁秋といへばいはたのをののははそ原時雨もま たず紅葉しにけり L ( 三六八・覚盛法師)の先行歌があり、秋の紅葉の名所としてははそ原と共に詠まれている。 後鳥羽院にも、詠作時期は不明だが、﹁いろかはるははそのこずゑいかならんいは田のをのに時雨ふるなり L ( ﹃ 続 後撰集﹄・四六六)の作品がある。当該の順徳院の歌は﹃万葉集﹄以降詠まれてきた名所﹁石田の小野﹂を趣向を 凝らして詠んだ叙景歌である。但、鶏と組み合わせて詠んだ歌は珍らしく、先行の作品としては、﹃股富門院大輔 百首﹄(文治三年春)で詠まれた家陸の、﹁まてとやはここに潜めし鶏なくいはたのおのの秋の夕ぐれ﹂の歌が見ら れる程度である。本歌は﹃古今集﹄の﹁霧立ちて雁ぞ鳴なる片岡の朝の原は紅葉しぬらん﹂(二五二)の歌である。 順徳院の歌は、本歌をもとにして紅葉を賞でる風流な心を詠んだ歌で、後鳥羽院はこの歌に両点を付して高い評価 を与えている。定家が両点を付して評価した臼 -M 番歌は、共に秋の景色によせて配流された順徳院の現在の境地 がよくにじみ出た歌と考えられるが、後鳥羽院の評価基準とは相違していることが知られる。 河番歌﹁鳥のねのあか月よりもつらかりきおとせぬ人のゆふぐれのそら﹂は、後に﹃新後撰集﹄に採られた歌で、 ﹃古今集﹄の忠本歌﹁有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂き物はなし﹂をもとにして詠んだ本歌取の歌であ る。﹃古今集﹄の忠本歌をふまえた歌に、﹃新古今集﹄所収の小侍従の歌﹁待宵の更行くかねの声聞けばあかぬ別れ の鳥は物かは﹂の有名な歌がある。順徳院の当該歌は小侍従の歌を更に逆転させたもので、後朝の別れのつらさよ り、恋しく思う人が訪れることのない夕暮時のつらさを詠みあげている。定家の歌評にも 後鳥羽院と定家との歌の好尚の相違について(大取) F 内 u p n u a n 宮
長鶏再鳴征馬頻噺いきて別れし暁の怨よりも、みち行人も跡たえてあまとぶ雁もおとづれぬ雪のはたてのつれ なきは猶色まさり候らむ、薄暮の心体をせめ肝にそみ候 とあり、誰も尋ねて来る人もない夕暮時のやるせない思いがにじみ出た歌であり、それが定家の心を打ったのであ る。それは今の順徳院の心境のよく出ている歌でもあったからであろう。定家の歌評からしても決して歌の技巧の おもしろさを評価したものではなく、寂しい順徳院の境涯のよく表れていることに心を打たれて評価したものと考 え ら れ る 。 次の制番歌﹁月もなほみしおも影はかはりけりなきふるしてしそでの涙に﹂の歌は、﹃古今集﹄恋歌五の在原業 平の歌﹁月やあらむ春や昔の春ならむ我身ひとつはもとの身にして﹂(七四四)をふまえた歌であろう。歌意は ﹁わが身は昔と変わったが、月もかつて見たものとは変わってしまったよ。長年泣き暮らして襟を古くさせたその 涙にくもってしまって﹂の意。定家評では下句﹁なきふるしてしそでの涙に﹂に対して寸猶古今向後無比類候﹂と その新しい言葉遣いを評しているが、単に使用例がなく珍らしい点だけで評価したのではなく、配所で長年泣き暮 らしてきた順徳院のつらい境地がよくにじみ出ていて、較べるもののない程に深い悲しみが感じられることをも指 摘した上での評価と思われる。 次の関番歌﹁すずわくるしのにをりはへ旅衣ほす日もしらず山の下露﹂の歌も、定家は両点を付したにもかかわ らず、後鳥羽院は無点であった歌である。歌は、篠の繁る山路を分け入る道は露深き道なので、衣が干る時もない といった意味である。紀貫之の﹁川社しのにをりはへほす衣いかにほせばかなぬかひざらん﹂(貫之集・四一五) を本歌とした本歌取の歌である。定家は部番歌と当該歌の二首まとめて歌評をしており、﹁とりどりに染心肝候﹂ と記している。両点は朗番歌のみに付している。当該歌が雑歌であることから考えて単なる叙景歌ではなく、配所 で泣き暮らしている悲しみを含んだ歌として理解すべきであろう。定家は順徳院の配所での悲しみをより深く感じ -466-龍谷大学論集
た点を﹁染心肝候﹂と歌評し両点を付して評価したものと考えられる。 以上、定家が両点を付して高い評価を与えた歌でありながら、後鳥羽院は何の評価もしなかった却・日・河-M ・
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番歌の五首の歌について検討してきた。その五首は表面的には叙景歌や恋歌のようであっても、その景色や 恋にこと寄せて順徳院の配所での悲しみを詠み込んだ歌である。定家はその心情に心を打たれ、歌評で﹁難抑感涙 候 ﹂ ﹁ 景 気 銘 心 府 候 L ﹁ 猶 古 今 向 後 無 比 類 候 L 寸染心肝候﹂﹁銘肝入骨甚深無双候﹂と調を添えて評価したものである。 ここでは詳しくはふれなかったが、定家・後鳥羽院共に両点を付した訂- m
番歌は、前者には定家の歌評で﹁心 肝に染﹂とあり、後者には﹁妖艶﹂の評語を用いて評価している。本百首歌に対して﹁艶 L ﹁ 優 艶 L ﹁ 妖 艶 ﹂ の 語 を 付して評価した歌は 5 ・ 日 ・ω
・ 口1
九 ・ 叩im
の日首である。この中、院が両点を付げて高い評価を与えた歌は 必 ・ω
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・仰の四首である。それに対して定家は、別番歌の一首にだけ両点を付けて評価している。その点でも 晩 年 の 定 家 は 、 ﹁ 艶 L と歌評した歌を最上位に置いていたとは言い難い。それよりもむしろ、歌に詠作者の心情が にじみ出ているような点に定家の評価基準があったと考えられるのである。二
章
定家が何の評価もしなかったが、後鳥羽院は合点を付した歌 次に﹃順徳院御百首﹄の中で、定家が合点を付げなかった(評価しなかった)歌で、後鳥羽院が合点を付して一 応の評価をした歌五首について検討したい。定家が合点を付けなかった歌は日首見られる。すなわち 2 ・ 6 ・n
-m
-m
・ 犯 ・ 岨 ・ 日 ・π
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-m
番歌である。これらの歌に関しては基本的には、定家は合点を付けなかった理由 を﹁裏書﹂で述べている。この日首の中、 2 ・ 6 ・幻・お・必・乃番歌の 6 首については、後鳥羽院も合点を付け ていないのである。従って定家と後鳥羽院とは、歌の好みの面では両者はほぽ同じ方向にあったと見てよかろう。 認番歌﹁かぎりあればふじのみ雪のきゆる日もさゆる氷室の山の下柴 L は、その歌評で﹁富士の雪 ま た 、 こ の 中 、 後鳥羽院と定家との歌の好尚の相違について(大取) 467一みな月の望にきゆる心氷室の風情、又催感興候 L と、評価しており、﹁裏書﹂では寸柳も其難不候、雌神妙候、毎 数合点無念恩給候故漏之候﹂とその理由を記している。つまり担番歌の場合は歌の良し悪しの基準とは異なった理 由で合点を省いているので、院との対立の対象にはなり得ない。従って、ここでは残る四首の歌を対象として両者 の好尚の相違を見ることにする。 ﹃順徳院御百首﹄の中で定家が合点をしなかった日首の歌については、その理由を﹁裏書﹂で記しているが、こ の﹁裏書﹂については唐津氏が﹁﹃順徳院御百首﹄の﹁裏書﹂について LO のご論考の中で次のように六つに分類し て 考 察 さ れ て い る 。 -本歌(万葉歌摂取)に関する指摘が中心となっているもの←⑥・@番歌 H 俊成の訓説を引用したと思われるもの←@・⑩番歌
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一首の趣向を問題にしていると思われるもの←⑩・@・⑮番歌W
近代批判A
(
近代・当代歌人の秀句的表現を摂取することについての批判)←⑮・@番歌 V 近代批判B
(
特定表現の安易な乱用とその常套化に対する批判)←②・@・⑮番歌 羽その他(具体的な加難理由が示されてないもの)←⑪・⑩番歌 定家が合点を付さなかった歌口首の中、両者が共通して評価しなかった 6 首と、先に考察した担番歌を除くと残 り 4 首になるが、⑪・⑩番歌については﹁裏書﹂に具体的な加難理由が述べられていない上に、歌評も示されてい ないのでこの二首も省かざるを得ない。従って、ここで後鳥羽院と定家との相違が見られるのは犯・出番歌の二首 に限られる。その二首の歌と﹁裏書﹂及び歌評を次に示しておこう。 犯秋風や千種ながらにみだれけん花さきかはすみやぎのの原 (裏書)かはすの詞、枝かはすなど申には不立耳候、俊頼朝臣、思くまなくても年のへぬるかな物いひかはせ -468一 龍谷大学論集秋の夜の月、此体頗非尋常被聞成時候 (評)宮城野の原千種花みだれあへる景気又美麗候、かはすの調、於愚意柳存旨候 臼こまとめてしばしはゆかじ八橋のくもでにしろき今朝のあは雪 (裏書)尤其興候、元久元之比以後、世間寄仙不倫初学旧老、詠寄一向白き青き嵐ふく也、次嵐哉、此外寄不 候 (評)八橋のくもで説説おほく候へども古歌にも詠来候、近年しろきと申調あしかるべき事には候はねど、 末生初学毎人毎歌詠候之故余満耳候て献却之思候 右、犯番歌は、歌に詠まれた景色に対して﹁美麗﹂と称美してはいるが、定家は第四句の﹁かはす﹂のことばの 用い方が不適切だと感じたために合点を付けず、﹁裏書﹂でその理由を述べたのである。先の唐津氏の分類では H の項目に入れられている。問題とした﹁かはす﹂の語は、﹁枝かはす﹂などのように﹁枝をまじえる﹂﹁互いに枝を 交錯させる﹂といった意味に用いるのが一般的であろう。この用例であれば定家の﹃拾遺愚草﹄の歌の中に見つけ る こ と が で き る 。 枝かはす松のみありし梢にて雲と浪とにたどる春かな(六二五・﹃花月百首﹄) 枝かはす玉のみぎりの松の風いく千代君に契そふらん(二四九五・﹃正治二年九月歌合﹄) 犯番歌の﹁花さきかはす﹂も、歌から考えると、吹いている花が秋風に吹かれ、ゆれて花の枝が交わり乱れてい る様子をいうものであろうが、この用例は他に見ることができない。定家はその言葉の持つ特殊な用例に敏感に反 応し、指摘したものであろう。定家が﹁裏書﹂で挙げた俊頼の歌は、﹃散木奇歌集﹄・第三・秋部に載る次の歌であ る 殿下にて月秋友といへる事をよめる 後鳥羽院と定家との歌の好尚の相違について(大取) 469一
制思ひくまなくてもとしをへぬるかな物いひかはせ秋の世の月 右の俊頼歌で用いた﹁物いひかはす﹂は月と詠作者が互いに語り合うという意で、これを定家は﹁裏書﹂で﹁此 体頗非尋常﹂と、その使い方の一般的でない点を敏感に感じ取って指摘し、犯番歌で用いた寸花さきかはす﹂と同 様、耳に立つ用い方であると考えたのである。この羽番歌に対して後鳥羽院は、両点ではないが合点を付砂、良い 歌として一応の評価を与えている。定家も歌評では一首全体の景気を寸美麗﹂として評価しているので、その点で は後鳥羽院と共通しているが、定家が指摘した﹁花咲きかはす﹂の用い方に対しては定家程気にならなかったとい う こ と で あ ろ う 。 次の白番歌では、定家は第四句﹁くもでにしろき﹂の﹁しろき﹂の語について、寸裏書﹂及び寸歌評﹂で否定的 な見解を述べて合点をしなかったのである。﹁裏書 L では﹁元久之比以後﹂初学の者も、熟練の者も皆歌毎に﹁白 き、青き、嵐ふく也、吹嵐哉﹂と詠むようになり、そういった歌壇の傾向に対して歌評では、あまりにも多く類歌 が詠まれるようになったので聞き飽きたとして否定したものである。この白番歌について唐津氏は、﹁裏書﹂であ げた﹁白き﹂以下回つの歌句について、用例を調査されている。特に寸白き(白し・白く)﹂については具体的に それまでに詠まれた別首程の先行歌を挙げて建久・元久期にすでに﹁模倣・亜流が多くなって来ている感が否めな い﹂とし、次の建保・貞永期の作例から﹁建保期歌壇が新古今歌壇の亜流的存在といわれることの実作面での一端 をある程度示し得るのではないだろうか L と 指 摘 さ れ て い 旬 。 以上、羽・臼の両首について検討してみたが、定家と後鳥羽院との評価の相違は、歌の好尚の相違ではなかった ことが知られる。すなわち、両者の評価の違いは歌の好尚の相違ではなく、指番歌は語句の用い方に対する感受性 の問題であり、日番歌の場合は、模倣・亜流といった元久期以降の歌壇の風潮に対する捉え方の相違であった。定 家から言えば、歌語の持つ意味あいに対してより敏感であり、歌壇の長老として詠歌のあるべき方向を真剣に考え -470-龍谷大学論集
る立場から、それを憂えた批判だったと考えられるのである。
ニ
章
後鳥羽院が両点を付し、定家が合点を付している場合
﹃順徳院御百首﹄の中、後鳥羽院が両点を付して高い評価を与えた歌は叫・必・必・釘・印・日-m
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番歌の 8 首である。この 8 首 に 対 し て 定 家 は 、 U ・加番歌に両点を、その他の 6 首の合点を付して一応の評価をしている。 従って、このことからは両者の評価が全く異なるものではなかったことが知られるのである。そのことをふまえた 上で、後鳥羽院が両点を付し、定家が合点を付した 6 首について両者の差異を考察してみたい。対象とする 6 首 の 歌と定家の歌評は次のとおりである。 叫はし鷹のとや野の浅茅ふみ分けておのれもかへる秋の狩人 (評)上下句相叶始末詞相応候 品しら露も雁の涙もおきながら我が袖そむる荻の上かぜ (評)もる山の露時雨にはあらでまぢかき袖のうへは荻の上吹風の音に染らるる心、ことにめづらしく艶に きこえ候 羽山鳥のうらみも秋やかさぬらん八重たつ霧の中のへだてに (評)遠山鳥の尾をへだっる怨も秋は八重たつ霧にかきなるよし、詞のよせことわりもかくこそ候へかりけ れ 印さらしなの山のあらしも声すみてきその麻衣月に揖つなり (評)なぐさめかぬる山のあらし月下にうちそへて候らん、砧のおと、 ほしのまへの雁のつばさより飛立ち ぬべくや候らん 後鳥羽院と定家との歌の好尚の相違について(大取) 句 d a n τ日霧はればあすも来てみん鶏なくいはたのをのの紅葉しぬらん (評)(己上四首調花加光彩景気銘心府候、毎度催感興候) 但夢路にはかよひてしほる袖をだに人の涙のぬらしやはする (評)(五首一一に妖艶、いづれと申がたく候) 右の叫番歌は、後に﹃新続古今集﹄巻五・秋歌下に入集した歌で、小鷹狩を詠んだ歌となっている。歌意は、鷹 狩をした後、腐は鳥屋に帰るべきなのに鷹も鳥屋野を出て狩人と共に帰ることよの意。定家は歌評では、上旬と下 旬の対応関係に着眼し、それを評価している。趣向のおもしろさが感じられる歌である。次の品番歌は、﹃古今集﹄ 秋歌下・貫之の﹁しらっゆも時雨もいたくもる山はしたばのこらず色づきにけり﹂(二六
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の歌と、同じ﹃古今 集﹄の秋歌下・よみ人しらずの歌寸なきわたるかりの涙やおちつらむ物思ふやどの萩のうへのつゆ﹂(一一一一一)の 二首に基づいて詠まれた歌である。前者の貫之の歌は、霧や時雨が下葉の色を染めるという発想の歌で、後者は悲 しみの象徴である萩の上の露は折しも鳴き渡る雁の涙の落ちたもの、という発想の歌である。品番歌はこれら二首 をふまえて詠まれたものである。白露も雁の涙も我が袖の上に置きながら、それらには袖は染められることなく、 荻の上風のさびしげな音に感じて出る紅涙によって染められることだという歌となっている。定家は露や時雨によ って袖が染められるのではなく、荻の上を吹く風のさびし気な音に感じて出る涙で袖が染められると詠んだ、趣向 の新しさを﹁めづらし﹂と評し、荻の上風の物悲しい音によって紅涙を流すという点を﹁艶﹂と評したものであろ う。技巧を凝らした上で、新しい趣向を用いて深い悲しみを表した歌である。この歌に対して定家は合点のみを付 し、後鳥羽院は両点を付して高い評価を与えている。 判番歌﹁山鳥の﹂の歌は、山鳥が雌雄一緒に寝ることがないという習性をふまえて詠まれた歌で、秋になって幾 重にも立ち込める霧に隔てられ、山鳥の嘆きが一層重なるといった意であろう。第二句の寸うらみも秋や﹂の n 〆 “ n t a a‘ 龍谷大学論集﹁も﹂に、詠作者である順徳院の寂しい思いを重ねた歌と解することのできる歌である。趣向を凝らした歌で、順 徳院の現在の心境が伝わってくる歌である。 次の印番歌﹁さらしなの山のあらしも声すみてきその麻衣月に揖つなり﹂は、後に﹃続拾遺集﹄巻五・秋歌下・ 三三二番の歌で、﹃古今集﹄巻十七・雑歌上のよみ人しらずの歌﹁わが心なぐさめかねつ更科やをば捨山に照る月 を見て﹂(八七八)を本歌とし、﹃大和物語﹄を本説として詠まれた歌である。歌意は、更科の月の光も山の嵐の音 も共に澄みわたって心を慰めかねる秋の哀れに、更に砧の音がさやかに聞こえてきて一層寂しさがつのるという意。 本歌・本説取の歌で、技巧をこらして深まりゆく秋の寂しさを表現しており、この歌を後鳥羽院は高く評価したの で あ る 。 日番歌﹁霧はればあすも来てみん鶏鳴くいはたのをのの紅葉しぬらん﹂は、﹃古今集﹄秋歌下・よみ人しらずの ﹁霧立て雁ぞ鳴くなる片岡の朝の原は紅葉しぬらむ﹂(二五二)の歌に基づいて詠まれたものである。﹁岩田の小 野﹂は山城国の歌枕である。﹃万葉集﹄に寸山科の石田の小野のははそ原みつつかきみが山路越ゆらむ L ( 一 七 三 四)と詠まれて以来、﹃洞院摂政家百首﹄でも﹁この里をわきて時雨やそめつらむいは田のをのの秋のもみぢ葉﹂ (夫木・六二四三)と詠んでおり、家隆も﹁まてとやはここに溜めし鶏鳴くいはたのおのの秋の夕ぐれ﹂(壬二 と詠んでいる。順徳院の日番歌は、本歌とした﹃古今集﹄の歌に添いながら、時間の経過を一首の中 に詠み込んだ趣向の勝った歌といえよう。本歌取の歌としては成功している。定家はこの歌を含む五二・五三・五 四番歌の四首の歌に対して﹁調花加光彩景気銘心府候、毎度催感興候﹂と評しているが、当該の日番歌には合点を 付 す の み で あ る 。 集・二九四) 次の別番歌﹁夢路にはかよひてしほる袖をだに人の涙のぬらしやはする﹂は、夢の中では恋しい人と逢って別れ を惜しむ相手の涙でぬらす袖さえも、現実には実際に逢えない自分の悲しみの涙でぬらすことですよ、といった歌 後鳥羽院と定家との歌の好尚の相違について(大耳元) -473一
意であろう。この歌は恋にことよせて、一人恋しく思われる人々と遠く離れた配所にいる順徳院の境地を暗に表現 した歌ともとれるもので、この歌を含む叩
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出番歌の五首の歌に対して定家は、寸五首一一妖艶、いづれと申しが たく候 L と一括して評している。この五首については別番歌を除いて、後鳥羽院と定家の評価は一致している。両 別 番 歌 は 両 点 、m
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番歌は共に合点のみを付している。わずかに剖番歌の一首のみ両者 の評価が異なっており、定家はこの歌を﹁妖艶﹂と評価しながらも両点ではなく合点のみを付したのに対し、後鳥 羽院は両点を付して高い評価を与えているのである。 以上、後鳥羽院が両点を与えながら定家が合点のみを付した六首の歌について考察してきた。この六首の歌はど の歌も作者の心境を直叙した歌ではなく、どちらかというと技巧を凝らして詠みあげた新しい趣向の歌と考えられ る。本歌・本説取の歌であったり、先行歌をふまえながらも従来詠まれたことのない新しい境地を詠んだ歌である。 定家はこれらの歌に対して一応の評価はするものの、両点は付していない。それに対して後鳥羽院は、趣向の勝っ た新しい境地を求めたような歌に最も高い評価を与えているのである。 者共に乃番歌は無点で、 お わ り 後鳥羽院と藤原定家は、﹃順徳院御百首﹄の歌評においては共通した評価の多いところから、歌の好尚において はほぽ同じ方向にあったものと思われる。しかし、両者の評価のずれに視点を置いて考察してみると、その違いが おぽろげながら見えてくる。 後鳥羽院の好んだ歌とは、第三章の﹁後鳥羽院が両点を付し、定家が合点を付している場合 L において考察した ように、本歌・本説取をはじめ、技巧を凝らして新しい境地を詠み上げた、趣向の勝った歌であったように身受け られる。その院の好んだ歌は、おおよそ新古今新風歌人たちがかつて庶幾した歌であったとも言えるが、定家は、 -474一 龍谷大学論集院が両点を付した八首の中、二首について両点を付しているものの、残りの六首には合点を付するのみで、その評 価は院とは異なっている。また、定家が歌評の中で﹁艶﹂﹁優艶﹂﹁妖艶﹂の美的評語を用いて評価した歌は、当百 首歌中日首見られるが、この中、院は四首に両点を付して評価するが、定家が両点を付した歌は一首に過ぎない吋。 これらの美的評語が付された歌は、結構技巧を凝らした珍しい風情の歌であって、院の両点を付した中の三首はこ の傾向の歌であった。あとの一首は、定家も両点を付した別番歌であるが、詠作者である順徳院の境地がにじみ出 た歌であった。ここにも両者の好みの違いを見ることができる。 一方、定家が本百首で好んで高く評価した歌とは、第一章で考察したように、趣向を凝らして珍しく詠み上げた 歌ではなく、定家が歌評で﹁染心肝候﹂とか﹁難抑感涙候﹂﹁景気銘心府候﹂﹁染心肝候﹂などの評語を付して評価 した歌である。すなわち作者順徳院の配流地での心情がにじみ出たような歌であったといえよう。 この両者の歌に対する好尚の相違は、どこに由来するものと考えるべきであろうか。稿者は﹃新古今集﹄撰集以 後の両者の置かれた立場が少なからず影響を及ぼしているものと考えるのである。﹃新古今集﹄は元久元こ二
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五)年七月に一応の成立を見たが、後鳥羽院はそれから十年余り切継作業を継続し、建保四(一二二ハ)年には源 家長に清書をさせて﹃新古今集﹄の撰集に区切りをつけ、その五年後には承久の変を起こし、隠岐に配流されるこ とになる。配流後も院は、都にいる藤原家隆や基家等の院に近い人々を通して都の情勢はかなり把握しておられた ようであるが、やはり都に居た時とは違って都の実情にはかなり陳くなっており、わりても和歌文芸については、 都で共に文芸活動が出来ないこともあって、一段と疎遠になっていたものと考えられる。 一方、定家は、京の都で歌壇の中心にいて、指導的立場に置かれており、それゆえ常に歌のあるべき姿を考えて いたものと思われる。こういった﹃新古今集﹄撰集後の両者の立場の相違は、歌の評価や好尚に影響を及ぽすのは むしろ当然であったと考える。本稿の第二章で定家が合点を付げず院のみが合点を付けた歌を考察した結果には両 後鳥羽院と定家との歌の好尚の相違について(大取) R h u n t a a τ者の立場上の相違が特によく表れていて、元久期以降、模倣・亜流が多くなっている風潮を憂慮する定家は、これ に類似した順徳院の詠歌を認めていない。それに対して後鳥羽院は何の抵抗もなく合点を付げて認めているのである。 定家の晩年の詠歌作品について佐藤恒雄氏は、漢詩句摂取の詠作史に即して次のように述べておられ弘。 総じて定家晩年の歌には老境の感懐や心情がそのままに表出露呈したような作品が多い。詠まれる内容として の心が、詠む主体的な心の側に包摂されて、一つの融けあった心のあり方の中に、定家晩年の歌は成り立って いるといっていい。﹁有心﹂とはそのような心のあり方であるとともに、かくすることによってはじめて可能 となる、主一客にとらわれぬ深い持情をたたえた歌の境地を言ったものであったと考える。右にみた染心・澄心 の方法の延長上に﹁有心﹂の歌論を説いたのであるが、それに相即するように、晩年の作品は十分にそのいう ところを実現していると見える。 定家の説いた寸有心﹂の歌論が、晩年の定家の実作の上で十分に実現している点を指摘しておられる。本稿では 定家の詠作自体は問題にしなかったが、少なくとも晩年の定家の歌の好尚については後鳥羽院と比較して、技巧を 凝らした趣向の勝った歌よりも、実情歌で、詠歌主体の心境のょくにじみ出た﹁有心﹂の歌を高く評価していたも のと考えられるのである。 註
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﹃ 明 月 記 ﹄ で は 建 仁 二 年 三 月 十 八 日 の 記 事 及 び 、 元 久 元 年 九 月 二 十 四 日 の 記 事 等 、 ﹃ 新 古 今 集 ﹄ の 撰 歌 切 継 に 関 す る 記 事 。ω
﹃ 後 鳥 羽 院 御 口 伝 ﹄ ( ﹃ 日 本 古 典 文 学 大 系 ﹄ 日 ・ ﹃ 歌 論 集 能 楽 論 集 ﹄ 所 収 ) 参 照 。ω
細 谷 直 樹 著 ﹃ 中 世 歌 論 の 研 究 ﹄ ( 昭 和 五 十 一 年 九 月 ・ 笠 間 書 院 刊 ) の 第 五 章 ・ 第 一 節 ﹁ 後 鳥 羽 院 と 定 家 の 歌 観 に つ い て ﹂ 。ω
両者の歌の好尚の相違について明らかにするには、隠岐で書かれたとされる﹃後鳥羽院御口伝﹄の記述や、隠岐で催 された﹃遠島御歌合﹄の院の判調等をも再検討する必要があるが、本稿では﹃順徳院御百首﹄における両者の歌評のあ -476一 龍谷大学論集り方を通して、両者の歌の好尚の相違を考察することにした。