縁起解釈と諸学ilftの立場
縁起解釈と諸学派の立場
一一『倶舎論』と『縁起経釈』を中心に一一
楠 本 信 道
【
1 問題の所在】
本稿において,明らかにしたいことは「縁起とは一体何を意味するのか」 ということである。例えば. r縁起の道理」という言葉を耳にすることがあ る。確かに. r縁起」とは「道理」すなわち「法UlJ性Jを意味すると基本的 には理解すべきだと筆者も考えてL必。だが.世親のA
bhidJUll1nakosabJ~ya (AKBh.r
f
具合論J)では.縁起についてさまざまな解釈が提示されている。 例えば.r倶合論』では,「縁起」について‘「j去則性」という解釈以外に. 「有為法j.r
原因j.r
無為」等とし、う解釈が提示されている。これらの解釈 のうち.u
上親(1身は経量部の立場で.縁起を「法11IJ性」と解釈している。だ , が,彼の理解する「法則'性」とは r二つの方向における相互依存的な因果 関係j (A→BかっB→A) というような'1'観派的な解釈を意味するのではな く r一方的な方向における凶果関係j (A→ B)を意味する。しかも,十二 支縁起という文脈で解釈する場合,そのIkl果関係は r複数の縁によって. あるものが生ずるj(A and B
→C
)
という関係ではなしに.r
A
があるとき にのみ.B
が生ずるj(
o
n
l
y
A
→B
)
という関係なのである。 こうした r似合論』の議論というのは,仏教における様々な縁起解釈のう ちの,ごく一部の解釈に過ぎないものかもしれないが、縁起についてこうい った様々な解釈が存在するということは. r各学派が,それぞれの教義的な -115-縁起解釈と紺学事長の立場 立場に基づいて司縁起を解釈している」ということを示している。つまり, 各学派は縁起の正しい意味を客観的に捉えているというわけではなく,彼ら にはまず白分たちの「教義的な立場」あるいは「解釈の姿勢」というものが 前提としてあって,彼らはそれに沿った縁起説を構築していったと言いうる。 本稿では,それを明らかにするために,『倶舎論』を中心にして,様々な 学派の紋起解釈について概観する。そして, r
A
があるときにのみ,B
が生 ずるJ (only A→B)という世親の解釈によって何が導き出されるのか,世 親の理解する縁起説の怠義について最後に考察することにしたい。[
2
各学派における縁起解釈】
【2. 1 有部における縁起解釈} それでは, 11'f
具合諭』において言及される「各学派における縁起解釈」に ついて見ていこう。なお,詳細な議論については,楠本 [2007]ですでに扱 っているので,各学派の立場を明らかにするために,煩雑な議論については 避け,関連する筒所のみを重点的に見ていくこととする。 まず,有部は,「縁起」について四種があることを言及する。その四種の 縁起とは, r系IJ羽目的なものJ (ksanil王a)・「持続的なものJ (prakar?lika)・ 「関係的なものJ(sarhbanclhika)・「段階的なものJ(avasthika)である。 そして,これら四種の縁起のうち,まず,「系IJm>的なもの」及ぴ「持続的 なもの」は,それぞれ,一挙Ij1JIS,及ぴ二季JI那に関わる縁起であり,
~jj , 「段階的なもの」及ぴ「持続的なもの」は,複数の生存に関わる縁起である。 有部にとっての「系IJ}JI>的なもの」及ぴ「持続的なもの」とは,勝義的な縁 起であり.この説は「縁起とは何か。すべての有為法である」というP
r
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・k
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a1;
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の言及を似拠に導かれている。一方,残る「段階的なもの」と 「持続的なもの」とは,世俗的な縁起である。そして, r段階的なもの」と は「三-
U
t
両重の因果」を意味する。有部は「三世i
l
i
u
重の[;J¥I
*
J
を認めること で有名であるが,彼らは「三世両重の因果」を世俗的な縁起として認めてい p o帥起解釈と~I'I学i尽の立場 るに過ぎず,
1
勝義的な縁起としては「利那的なもの」及ぴ「持続的なもの」 といった,一挙]1那及ぴ二季]llJISに関わる縁起を考えているのである。そしてー その根拠となるのは, r縁起とは何か。すべての有為法である」という Pm-初m乎ゆadaの言及なのであり,このことから有部が「経典」よりも「アビ ダルマ論書」を優先して,彼ら独自の解釈をなしていることがまずl切らかと なる。 きて,以上のような有部の解釈姿勢について簡単に触れたので,次に有部 の理解する‘pratityasamutpada'が何を意味するか.という問題について 考えていきたい。 まず,『倶合論』では次のように言及される。 {対論者} 世尊は[次のように]おっしゃった。「比丘たちよ,汝らに, ‘pra tityasamutpada'を私は説こう。また, 'pratityasamutpanna dhar・ mah'を私は説こう」と。さて.これらには.どんな違いがあるのか。 【有部] まず, [アピダルマの]諭舎によれば,何ら[違いは]ない。 なぜなら,両者ともすべての有為法であると[説かれている]からであ る。 有部は,ここでも Pra初ra~zapãda を根拠として,‘pratïtyasamutpãda・も ‘pratityasamutpanna dharmal)'も‘両者とも同じ有為法なのだと説明して いることがわかる。この後‘有部と経lt1:古SIの1
m
の議論が展開されるが‘それ に つ い て は こ こ で は 立 ち 入 ら ず . 有 部 が 「 ‘pratityasamutpada'= ‘pratityasamutpanna dharmal
:
t
'
=有為法」と解釈することをまず1
111さえて お き た い 。 な お , こ こ で 引 用 さ れ る 「 比 丘 た ち よ . 汝 ら に 、 ‘pratityasamutpada・を私は説こう」云々という経典は,Nidan
ωa1J
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1
4
なのだが.有部は,この経典を“文字通り"には解釈せず rアピダルマ 論書」に基づいて, r‘pratityasamutpada'=‘pratityasamutpanna dhar -mah'=有為法」という定義を導き出していることに注意しておこう。 -117-鰍起解釈と m学i恨の\~:JJb 次に,有部は,次のような解釈を提出している。 [有部] 一方, [上引の]経典の怠図を以下のように説明する。 こ[の経典]の
r
l
l
で, r [縁って]生み出すもの (samutpada)J は原因 であり, r [縁って]生み出されたもの (samutpanna)Jは結果である, と認められる。 [-卜二株起の]構成要素が原閃である場介には, r繰って生み出すもの (縁起)Jである。それから[何かが]生ずる(生起の根拠)と考える ならばである。[卜二縁起の]構成要素が結果である場合には, r縁って 生み出されたもの(縁己生)Jである。 上の議論において、有部は,「アピダルマ論書」ではなし今度は「経典 の怠I
'KI
J
(sutrabhipraya)に基づいて,‘pratityasamutpada'は原因であり, ‘pratityasamutpanna dharmal;・は結果であるという解釈を導き出す。なお. この後,プールナーシャが「倣って生み出すもの(総起)ではあるが,縁っ て生み出された諸法ではないものがあるはずである」云々と常及しプール ナーシャはr
l
叫句分別」を行う。その議論をまとめると次のようになる。 A B 縁起 縁巳生法O (
原岡)x
(結果)原l
'sl
であるが結果ではない。 未来の諸法x
(原因)O (
結果)原凶ではないが結果である。 阿縦漢の過去・現 在の最後の1¥持法O (
原因)O (
結果)原l
刈にも結果にもなる。 阿羅漢の最後の諸 法以外の過去・現 在の諸法x
(原閃)x
(結果:)原IAIにも結果にもならない。 無為の諸法縁起解釈と誠学派の立場 プールナーシャの以上問つの解釈は,制1:親によって否定されることになる のだが,四つの解釈のうち‘「無為の諸法は.原因にも結果にもならない」 という言及が見られることに注目しておきたい。この「無為法」についての 定義は有部及ぴ経量部にも共通するものである。縁起は無為法なのかどうか ということが,後に経量部と化地部の間で│問題となるが句化地部は有部や経 量:部とは異なる解釈を提出しようとする。これについては次節で述べよう。 さて,ひとまず‘ここまでの議論を簡単にまとめると,イ
i
部は次のように 理解していることがわかる。 〈表A.
f{具合論J:有部における縁起と縁じ生法〉 〈縁起〉 〈縁巳 ~I~i:去〉 ‘pratityasamutpada' ア ピ ダ ル マ 論 書 有 為 法 ‘pratityasamutpanna dharmal
:
'
有為法 経典の意同 原l
刈 結果 (縁って生み出すもの) (縁って生み出されたもの) プールナーシャ 原│大│ 結果 (縁って生み出すもの) O未来の M~法 (縁って生み出されたもの)x(
未米の諸法) x(阿羅漢の過去・現在O
阿羅漢の過去・現在の儀後の の最後の諸法) 諸法O
過去・現在の諸法O
過去・現在の諸法 x(無為法) x(無為法) 上の表からも│明らかなように,イi
部は‘pratityasamutpada'をアピダルマ 論書に基づいては「有為法」と捉え.さらに経典の怠図としては「原因」と 捉えるのであり,r
i
.
去f!JI性」や「無為法」とは考えていないことをここで押 さえておきたい。 - 119一
縁起解釈と新学ìJ~の』工場 [ 2 • 2 経量部における縁起解釈】 次に,経量部における‘
p
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'
の定義について見ていきたい。 経量部は有部の解釈と,プールナーシャの「四つの旬」に関する見解を否定 して,次のように胃う。 【経J
,
:部]また,lr
こ[の経典]の中で,r
[
縁 っ て ] 生 み 出 す も の(
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)
Jは 原 因 で あ り ,r
[ 縁 っ て ] 生 み 出 さ れ た も の(
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)
.!Iは結果である[と認められる]J(
2
8
侃ab
句),'
1
:
1略, 「四つの句Jが説かれたが,以上のこともまた経典から逸脱する。なぜ なら,経典には別様に説示されているからである。r
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縁って生起するこ とJ(
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)
とは何か。すなわち,“asmins
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"
(X
があるときY
が生ずる )J云々と説いて,r
以上のように,こ こで法性(
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)
・法の確定性(
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J,乃至,r
不 転 倒性(
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J [云々という]r
以上が,r
縁って生起すること』(
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と言われる」と。そして,法性と11予ばれるもの は,i
よ・の種類(
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j
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i),諸法の傾向(
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li)である。したがって, 今 問 題 に な っ て い る こ れ ( 縁 起 ) と は , か の 法 性 で あ り , 決 定 性(
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)
である。ほかならない無明があるとき,諸行が生ずるので あり,別な仕方では[諸行は生じ]ない。これが縁起であって, ,以因が 縁起ではない. 経量部は,Nidanasa'f!'tyukta14という経典に基づいて,‘p
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とはi
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,去'1": (
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去の確定性(
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反例性(
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Jで あ る と す る 。 そ し て . そ の 上 で , ‘p
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とは,「法性J(
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, i法の楠類J(
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i),r
諸法の傾 向J(
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1i), i決定性J(
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だと言い換える。さらに,経量部は,「ほ か な ら な い 無 明 が あ る と き , 諸 行 が 生 ず るJ(
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i)ということが‘p
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の怠味なのであっ - 120一
縁起解釈と諸学派の立場 て.原因が‘
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・なのではないと明言する。つまり,経量.部 は.‘p
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を。rx
があるときにのみ,y
が生ずるJ という限 定的な意味で捉えていることがわかる。つまり.ここには「ある結果には, 必ず特定の原因が存在する」という考え方が示されているのである。ここで は「複数の原因によってlfI.-の結果が生ずる」という解釈がなされているわ けではないことは,大変注意すべきことと忠われる。 なお,‘p
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l).'が何かということについて経量部 は明言しないが,Nidanasamvukta 14の言及を考慮すれば,それらは「無u
月」乃至「老死」という各構成要素であると理解すべきである。そして, ‘p
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・は「ある結果には,必ず特定の原因が存在する」とい うことを示すのであるから, r老死」の本質的な原l
司 は り し と い う 構 成 要 素だけであることになる。そして,その原│羽をずっとたどっていくと,最終 的には「無明」が線本的な原闘であるということが導き出されるのである。 これが何を意味するかということについては.結論でもう一度言及したい。 ところで.さきほどから問題になっているNidanasa1'!Zyukta14についてー 多少長くなるが,大変重要な経典であるから,この経典がどのようなことを 言及しているか,以下見ておきたい。 <Nid伽ωα1fl戸lkta14>[
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J
比 丘 た ち よ,j/,(ら に 「 縁 っ て 生 起 す る こ とJ(
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)
を 私 は 説 こ う 。 ま たr
縁 っ て 生 み 出 さ れ た 諸 法 」(
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dharma
l).)を私は説こう。あなたたちは,それ (私の言うこと)をよく聞き、よく考えなさい。私は説こう。[
2
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繰って生起することJ(
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とは何か。すなわ ち “asmins
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i"(X
が あ る と きY
が生ずる)。、
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"
(X
が生ずることによってY
が生ず る)。すなわち,無明を縁とする諸行[が生じ]乃至, [このようにして, この大いなる苦の集り(苦趨)のみが]生ずる。 ワ 臼帥起解釈と01I'"1!j:1*の立場 [3-5J 無明を縁とする諸行が[生ずる]というように,諸々の知来が 出生されようが,諸々の如来がHII~l: されまいが,この法性はまさに確定 し,
i
去の確定のための界(
d
h
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u
)
である。それを如来は自ずから知り. 現に正覚し,告げ,知らしめ,確立せしめ,分析し解明し.rりjらかに し示し,開示せしめる。すなわち,無町jを縁とする諸行[が生じ]乃 至,生を縁とする老死が[生ずる]というように,諸々の如米が出生さ れようが,諸々の如来がI
I
H
生されまいが,この法性はまさに確定し, ~,去 の確定のための界(
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である。それを如来は1'1ずから知り,現に 正党し,告げ,知らしめ,確立せしめ,分析し,解明し,明らかにし, 示し,開示せしめる。すなわち,生に縁って老死がある。 [6-7J 以上のように,ここで法性(
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)
・法の確定性(
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.
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・ 法 の 決 定 性(
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・ 法 の 知 実 性(
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・非虚偽性(
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・不異如何:(
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・真 実(
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・諦性(
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)
・真理性(
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)
・如実性(
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)
・無倒錯性(
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)
・不転倒性(
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・これを 縁とすること(ida
I!1p
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・「縁って生起することに随順するこ とJ(
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)
.
以.
c
.
が.r
縁って生起すること」(
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)
と言われる。「縁って生み出された諸法」(
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dharma
Q.)とは何か。無明・諸行・識・名色・ 六処・触・受・愛・取・有・生・老死[という]以上が縁 ~~I:法と言わ れる。 経量部は,明らかにN
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αm戸t
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を意識し,この経典をできるだけ “文字通り"に受け取ることによって,‘p
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のなl味を説明 しようとしていることわかるが,先ほどの r{具合論』における経批部の解釈 を以下表Bにまとめた上で,それをN
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4
と比較してみよう。 q L ワ 臼縁起解釈とZIl学li民の立場 〈表
B.
q
具合論J:経量部における縁起と縁巳生法〉 〈縁起〉 ‘pratityasamutpada' 法の種類 (dharmajati) 諸法の傾向 (saili) 決定性 (niyama) はかならない無i引がある とき,諸行が生ずる く縁己生法〉 ‘pratityasamutpanna dharmaち
.
無lり!・諸行・識・名色・ 六処・触・受・愛・取・ 有・生・老死 Nidtinasat[lyukta 14と経泣部の解釈とを比較してみると,「j去の種類」 (dharmajati) , r諸法め傾向J(saili)J, r決定性J (niyama)及ぴ「ほかな らない無~I引 が あ る と き . 諸 行 が ' : 1 : ず る 」 と い う 経 量 部 の 解 釈 は NidtinaSa1!lyukta 14'こ直接あらわれている定義ではないことがわかる。だ が,経量部は「経典を量とする」という経量部の姿勢を守りつつ‘できるだ けNidtinasa1?zyukta14の言及に従いながら,このような定義を導き出してい ると言える。ここにはアビダルマ論告?を所依とする有部とは異なる,経b
t
部 の経典解釈の姿勢があらわれており.その解釈の姿勢の違いによりー彼らの 間で縁起解釈は異なっていると言うことができょう。 【2. 3 化地部における縁起解釈] 次に.化地部の縁起解釈について見ておきたい。 [Mahisasaka] 他 の 音 [ ) 派 に 属 す る 人 々 [ す な わ ち . 聖 な る Mahisasaka (化地部)の人々]は, rなぜなら, r諸々の如米が出生さ れようが.あるいは諸々の加来が出生されまいが,この法性はまさに確 定し』と説かれているから,縁起は無為である」と[述べる]。 {経:批部} その場合.これ[経典の意味]は、[解釈の]意同によって, [君の]言う通りでもあり,言う通りでもない。 q o q , “縁起解釈と諸学li民の立場 さらにここで,化地部が登場し新たな解釈を提示する。彼らは縁起を無 為であると捉える。経泣部は,化地部の見解を
r
[
解釈の]怠図によって」 その通りであるとも,その通りでもないとも言い,二つの解釈を提示する。 では,経量:部はどう解釈するのか見ていこう。[
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]
まず.どうして, [君の]言う通りであるのか。ある いは,どうして, [打の]言う通りではないのか。 [経量部] もし, [解釈の]意図が, r諸々の如来が出生されようが, あるいは,出生されまいが,常に,無明等に縁って行等が生ずるのであ り,いかなるときも, [無明等に]縁らずしては,あるいは[無lリI
等] 以外のものに繰って[行等が生ずることは]ない。したがって, [ ‘p
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は]市住である」と,このようであるならば, これ[経典の意味]は[君の]言う通りである,と受け入れねばならな 経世部は, r無明等に縁って行等が生ずるのであり,いかなるときも, [無 明等に]縁らずしては,あるいは[無明等]以外のものに縁って[行等が生 ずることは]ない」と言及しており,つまり,無明と諸行といった,十二支 縁起の構成要素と構成要素の聞の. r限定的な意味での因果関係」を示すも のとして‘p
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を見る場介には,‘p
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は常 住であるから,無為と考えてもよいと認めるのである。 だが,経最部は,さらに続けて次のように言及する。 もし, [解釈の]意図が,r
‘p
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と呼ばれる, 111Jらか の常住なる別の存在がある」と,このようであるならば,それ[経典の 怠昧]はそのようではない,と否定しなければならない。 なぜか。 (i)なぜなら,生起(
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)
は有為[法]の特徴であるからである。 - 124一
縁起解釈と諸学派の立場
(
i
i
)また,常住なる別の存在が.無常の特徴であることは妥当しない。 ( iii)また, r生 起 (utpada)Jと 呼 ば れ る も の は , 生 起 す る も の (utpattr)の[特徴]であるから,これ[無為なる生起]と無明等と の間には如何なる関係があり,それによって,それら[無明等]の縁起 であると胃われるのか。 ( iv)また.‘
[
pra tityasamutpada'の]語の意味 (padartha)が, [r縁 に到達して現/1',すること (samudbhava)J で あ る 場 合 , ‘pra tityasamutpada'が]常住なるものとも呼ばれ.かっ.繰って現出 すること (pratityasamutpada)とも呼ばれることはできない。 経量部は、以上四つの理由から, 'pratityasamutpada'が「常住なる別の 存在」なのではないと言及する。この詳細についてはすでに議論済みなので, ここでは扱わないが.簡単にまとめれば。次のことが導き出せるだろう。 そもそも無為法は原l
:kl
にも結果にもならないのであるから,無為j去が有為 法とl
刈果関係を持つことはありえない。したがって,無為法が.有為法の特 徴である「生起」を具えるはずはないのである。しかも, ~里繋あるいは虚空 といった「常住なる別の存在」は,無常なものの特徴を持たないのである。 結局のところ.有為法は有為法と!胡果関係を結ぴうるが. r無為法が有為法 の原[klになる」といったことは決してないのである。つまり, r永遠なる存 在」は,有為法の原因とはならないし有為法に触れることはないのである。 もし「何らかの永遠性」を認めようとするならば,それは無明に縁って諸行 が生ずるといった, r特定の有為法と特定の有為法における因果関係という 法則性」と見るべきなのである。そして,その法則性は「常住なる実体では ない」から「無為法ではな ~)J 。しかし「法則性としては常住である」から 「無為」とは呼ぴうる。以上が経世部の主張なのだ、と考えられる。 ところで.化地部が引用するところの「諸々の如来が出生されようが,あ るいは諸々の如来が出生されまいが.この法性はまさに確定しJ (utpadadva tathagatanam anutpadad va tathagatanarp sthitaiveya
l
1
'
dharmata)F D
つ 臼
縁起解釈とJ哲学派の立場 と い う 『 倶 合 論 』 に 引 用 さ れ る 文 言 は , “
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dva tathagatanam
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"
という Nidanasa1!lyukta 14及 ぴ Nidanω(l1?'lyukta 17の言及に類似するものだがi Abhidharmakosatíf~ゅのikã (AKUp) に基づけば, r倶合論』に引用される文言はNidanasa1'[lyukta17 の引nJと見倣すべきである。この経典も非常にm.要なので,これがどのよう な経典なのか見ておこう。 (Nidanasa1!lyukta 17>[
l
J
ある比丘が世尊.に近づいた。近づいて世尊の足下に[触れるまで] 完全に頭を下げて礼拝し立ち上がった。完全に立ち上がったかの比丘は, 世尊に次のことを言った。[
2
J
一体,I
吐尊が縁起を作ったのですか。あるいは,他の人が作った のですか。[
3
J
比丘よ,私が縁起を作ったのではないし,他の人が作ったのでも ない。[
4
J
そうではなくて,諸々の如来が出生されようが,諸々の如来が出 生 さ れ ま い が , こ の 法 性 は ま さ に 確 定 し ,i
去 の 確 定 の た め の 界(
d
h
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u
)
である。それを知来はJ'Iずから知り,現に正覚し,告げ,矢u
らしめ,確立せしめ,分析し解明し,明らかにし,示し開示せしめ る。[
5
J
すなわち,“a
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i"(X
があるときY
が生ずる)。 “a
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idam u
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"
(X
が生ずることによってY
が生ずる)。 すなわち,無l明を縁とする諸行[が生じ]乃至,生ずることと滅するこ とがある。 このNidanasarrzyukla1
7
[
5
J
において, r無~IIJJを縁とする諸行J及ぴ「生 ず る こ と と 滅 す る こ と 」 と い う 台 葉 は 言 及 さ れ て は い る も の の , ‘p
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dharma
l)'という言葉については全く言及されない。- 1
2
6一
縁起解釈と諸学Ji,氏の立場 つまり,このNidiinasm,!lyukta 17とL、うのは,‘
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'
とL、フ 法則の常住性を強調することに重点、が置かれている経典である。しかも.興 味 深 い こ と にNidiinasω?lyukta17に 対 応 す る パ ー リ 経 典 は 存 在 せ ず , Nidiinasat[lyukta17に対応する r雑阿合経』第二九九経も,北伝系統以外に は見出しえないという。 -)j, Nidiinasm!zyukta1
4
は‘p
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と‘p
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dharmah'
との両方について取り上げ.前者が「法lIJJ
'
性」であり.後者が 「その法則性によって生じたもの」であるということをできるだけ過不足な く説明しようとする経典である。もし化地部が,Nidiinas仰 zyukta1
4
を所依 帝主典としていh'i
,‘p
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を.‘p
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-mãh' から~!lt立した「無為法」であると解釈することは附脈であったかもし れな1,.'
0
むしろ.化地部は,Nidan俗 仰!zyukta14ではなく,‘p
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の常住性を強調する Nidanasa1?Zyukta17 をあえて所依経~I! とするこ とによって‘p
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が「何らかの常住なる実体」であるという 解釈を打ち出そうとしたのだと考えられる。つまり,化地部は,最初から自 分たちの教義に合うように.あえてNidanasm?Zyukta17を怠凶的に採m
し
この解釈を導き出していると考えられる。 では,化地部の解釈を以下にまとめておこう。 〈表c
.
r倶合論J:化地部における縁起と縁巳生法;) 〈縁起) <縁己生j去〉 ‘p
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常住なる別の存在 ‘p
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dharma
・)l 説明なし ところで,もし「縁起という法則'性」が r確定的な法W
J
'
性」ではなく, 「確定性のない法則性J (あやふやなj去ftlJ性)であったとしたら. r縁起とい う法則性」は無秩序な法則性を示すものになってしまい.厳密なj去JlIJ'I企が成 り立たなくなってしまう。その結果.偶然論や無l
且諭に陥ることになってし 円 i q r u縁起解釈と諸学派の立場 まう。そのような偶然論や無図論を否定する意味で,縁起は「?首位なる法則 性」すなわち「確定的な法則性」でなければならないのである。それゆえ, 「縁起は常住」と定義されるのである。 だが,
r
縁起は常住」という定義は,r
常住悶論J(
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)
と結 ぴつく危険性をはらんでいる。もし化地部のように, r縁起が常住なる実体 である」と主張するならば,「常住なる実体が苦を生み 11~ す」というような, 常住因論が導かれてしまう。だが,このような解釈は『倶合論』の別の議論 において否定されていることは注意すべきであろう。 [ 2 . 4 法性・法の確定性・法の決定性】 さ て , こ こ で , 「 法 性 」 の 意 味 に つ い て 考 え て い き た い 。 先 の Nidanasarrzyukta 14において,「法性(
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・法の確定.性(
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:i去の決定性(
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J云々と言及されていたが, これらは何を意味するのか。この問題について『倶合論」は無言であるが, 世親のPratityωamutpadaりakhya(PSVy, 0"縁起経釈J) において言及があ る。なお,『縁起経釈』における「法性・法の確定性・法の決定'性」につい ては,松岡和信氏によってすでに詳細に考察されており,以下はその議論と 重複するが,大変重要な言及と忠われるので以下触れておこう。『縁起経釈』 には次のように言及される。 さらに,別の経典に「ここで(i)法性(
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・(i
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去の確定性(
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J云々から 「以上が『縁って生起すること.0(
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と言われる」 と[仏が]お説きになられていることについて。 (i)r
法性(
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)
Jとは何か。諸法の本質[性](
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,*atma [
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に ほ か な ら な い 。 [ す な わ ち ]r
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(
X
が生ずることによってY
が生ずる)Jということである。 o o q b結起解釈と諸己r:i}~の_I'[_t,必 「生起(ヘltpada)J とは,諸法が本質[性] (・atma[ta])を得るこ とである。 法性はどのように生ずるのか。あるダルマが別のダルマに依存して本 質[性] (匂tma[ta])を得るのである。
[
“
asmin satidam bhavati
"
(XがあるときYが生ずる)という]現 在世の「紋って生起することJ(pratityasamutpada)が説かれている ことによって. [過去・未米を加えた]三世に属する[
r
縁って生起する ことJ (pratityasamutpada)も]知らしめるために,法性が説かれた 官冊 のである。 まず, (i)法性(めarmata)とは「諸法の本質[性](*atma[ta])J と説 明される。また, r生起(汽Itpada)J とは, r諸 法 が 本 質 [ 性 ](*atma [ta])を得ること」と説明される。したがって, rあるダルマが別のダルマ に依存して『生起することJJとは rあるダルマが別のダルマに依宥・して r本質[性]を得ることJJなのであり.それが「法性が生ずること」を怠 味するのである。つまり, r法性」とは「あるダルマが別のダルマに依存す る本質[性]
J
すなわち「あるダルマが別のダルマに依存すること」である と理解できる。 さて.ここで「本質[性J
J
と訳した‘bdagnyid'という訴は. どのような 意味なのか理解しにくいため, r縁 起 経 釈 』 の 注 釈P
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-vyakhya!ika(PSVyT)の言及を見ておきたい。 rr法 性 (dharmata)J とは何か」という [PSVy]について。何を 介してか[と言えば] r別の経典にJ[世尊が]お説きになられているの である。 「ここで(i)法性 (dharmata)J という [PSVy]について。「諸法の 本質[性](bdag nyid. *atma [ta])にほかならないJ[すなわちJ
, このような本性 (ngo bo nyid,ちvabhava)が r“ おmin satidam n y ワ 臼締起解釈とM1学派の立場
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(X
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ということであるが, [それは] “[
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([X
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1
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じ な い ) と い う こ と で あ る 。 [ さ ら に そ れ は ] “a
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が]生じなL、
ことによって[y
が]生じない)ということである。 rIi"生起(日t
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Jとは,諸法が本質[性](
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,匂tma
[
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)を得ることである」という[PSVy]
について。[先には]無く て[今]有るという特徴をもつものである。 「法性はどのように生ずるのか」という[PSVy]
について。「すな わち, “asmin s
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(X
が あ る と きY
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(X
が生ずることによってY
が生ずる)
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というこ[の表現]も法性(
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であると言われると示すもの が「あるダルマが別のダルマに依存して本質[性] (匂t
m
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[
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]
)を得 るのである」という[PSVy
の言及l
であり,この法性(
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は,このような白性(
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,*
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[すなわち]このような 本質性(
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であって, 5JJIのダルマに 依存して[ある]ダルマが本質[性](
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,*
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)
を得る ことである。 したがって,かの法性が生ずるのであると説示されたのである。 まず,法性について,r
一本質[性](
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という言葉で説明されているが, 「 “asmins
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(X
があるときY
が生ずる}
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等の言葉で説明さ れているから,ここで問題となっている「法性」や「本質[性]
j (
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)
等とは,r
何らかの実体」を意味するのではなく,「性質」と見倣すべ きであろう。少なくとも,「永遠に常住なる実体としての法性があって,そ 白 υ q J緑起解釈と諸学派の立場 れが何かを生み出す」というようには決して解釈されていない点については 改めて注意しておきたい。 また, rli生起 (*utpada)Jとは.諸j去が本質[性
J
(bdag nyid,ヨtma [taJ)を得ることである」ということについて, r [先には]無くて[今] 有るという特徴をもつものである」という説明があるから,これは経量部的 な解釈であることが明らかである。経量部的な解釈であるから.何等かの実 体が三世にわたってずっと存続しているとは決して見倣されないから司ここ で問題となっている「法性」や「本質[性J
J
と呼ばれるものが、「何らかの 永遠なる実体ではない」ということはより一層明白であろう。 次に, (ii)法の確定性 (dharmasthitita)について『縁起経釈』の言及を 見ょう。 (ii)r法の確定性 (dharmasthitita)J とは何か。その同じ法性とい う意味で用いられているのである。 なぜかというと,人為的なもの (krtrima)ではない,という意味に よってである。例えば,世尊は「比丘たちよ,私が『縁って生起するこ とJ (pratityasamutpada)を 作 っ た の で は な い し ま た . 他 の 人 が 作 ったのでもない。[そうではなくて]諸々の如来が出生されようが, 諸々の如来が出生されまいが,この法性はまさに確定し,法の確定のた めの界であるJ(Nidãnωα1?~yukta 17.3-4)と[世尊は]お説きになら れている。 「界 (dhatu)J というこ[の表現]は何か。諸々のYが別のものXを 原因とする,特殊性 (bye brag, *visel?a)である。言葉の解釈(日ir -ukti)としては,それによって原因牲を保持するから, r界 (dhatu)J と言われる。 (ii):i去の確定性 (dharmasthitita)とは,「人為的なもの (krtrima)では な い 」 こ と と 説 明 さ れ て い る が ‘ こ こ で 引 用 さ れ て い る 経 典 は , q δ鰍起解釈とJ科学派の、工場 Nidana
.
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α1
f
l
yukta 17であることが注目される。つまり,I
J
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親は,Nidanasa1
f
l
-yukta1
4
及ぴNidanαsmfZyukta17の両方を考l
慮、して,この fj:去の確定性」の 意味を考察していることがわかる。 また,「界 (dhatu)Jについて, f諸々のYが月JIのものXを版IAIとする特殊 ↑生J と説明されるが,これは,例えば「諸行が無lりjを原│大l
とする特殊性」と 言い換えることができる。この定義は「はかならない無l引があるとき,諸行 が生ずる」という r{具合論」と非常に類似した解釈と言える。また,f
J
点l
材 性を保持するから,『界 (dhatu)Jと言われる」という言及については,界 (dhatu)そのものが「原因」と解釈されることがあるから,このこととも 関連している。なお,有部が縁起を原凶,縁己生法を結果と解釈したのは, この界 (dhatu)を「原閃」と理解したことに関連するとも考えられる。 だが,この文脈においては.f界 (dhatu)Jとは.r原│羽そのもの」では なく rはかならない無明があるとき,諸行が生ずる」というような「特殊 性」と説明されていることは注目すべきだろう。 では最後に, (iii)法の決定性(dharmaniyamata)について『縁起経釈』 の言及を見ょう。 (iii)r法の決定性 (dharmaniyamata)Jとは何か。法性[に]乱れが ないことにほかならない。 そのような場合,法性の二つの[同義]語によって,絶えざること 伺 (*atyantikata)と必然的なこと(*aikantikata)が説かれたのである。 [Nidanωa1
f
l
yukta 14に示される]それ以外の諸々の認は関連するも ω のを説いたのであると知られるべきである。 (iii)法の決定性 (dharmaniyamata)とは.r法性[に]乱れがないこと」 と言及される。それ以上の詳しい説明はないが.I
夫│果関係の結ぴつきが確l
古l
たる性質を示していることが見て取れる。 さてここで.r絶えざること(可tyantikata)と必然的なことれaikanti -- 132-縁起解釈と諸学派の立場 kata)J とし寸語が見られる。これら二つの語は一体何を怠味しているのか。 そこで,これについて PSVyTの言及を見てみよう。 rr法の決定性 (dharmaniyamata)J とは
1
i
i
J
か。法性[に]乱れがな いことにはかならなしリという [PSVy]は「必然的なこと (*aikanti -kata)Jである。 「そのような場合,法性の二つの[同義]諸によって.絶えざること (可tyantikata)と 必 然 的 な こ と いaikantikata)が 説 か れ た の で あ る」という [PSVyJについて。「法の確定性 (dharmasthitita)J とい う,こ[の表現]によって,絶えざること(*atyantikata)が示されて いるのである。「法の決定性 (dharmaniyamata)J という[表現によっ て]必然的なこといaikantikata}が示されているのである。 「それ以外の諸々の語は関連するものを説いた[のである]と知られ る べ き で あ る 」 と い う [PSVyJに つ い て 。 お の お の の 後 の も の いuttarottara)によって,おのおのの前のものいpiirvapiirva)が説 かれているのである。 つまり,先程問題となった(iI)法の確定性 (dharmasthiti ta)とは「絶え ざること(可tyantikata)Jであり, (iii)i,よ・の決定性 (dharmaniyamata)と は「必然的なニといaikantikata)Jであるという対応関係になっているこ"
とカfわかる。 以上のことを図示すると次のようになる。 〈表D.
r縁起経釈』における法性〉 ( i )法性 (dharmata) 諸法の本質[性] (日)法の確定性 人為的なものではない (dharmasthitita) (iii)法の決定性 (dharmaniyamata) 法性に乱れがない 、 、 . , , , 、 ‘ . , F-a-a
と 抗 と 抗 こ 比 こ 比 る 此 な M C ・ahJ2
2y-Rk
l -4 L h 尺凶・ 1 ﹂ ︿-a
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絶い必い
q d q a縁起解釈と諸学派の立嶋 なお,以下についても,松田和信氏によってすでに考察されているが, 『織的
1
1
論.!I(Yogacarabhilmi,YBh)
r摂 lJ~分」においてもこれら三つが別 の仕方で定義されているので見ておきたい。 「紋って生起することJ (pratityasamutpada) と「縁って生み出され た諸法J (pratityasamutpanna dharmab) は.二つの原因によって二 つの部分に区別される。「どのように生ずる(流転する)のかというこ と」と「諸々の生じたW
1
t
i
l
反した)ものということ」である。 それ[ら二つ]のうち,生存 (*bhava) についての十二の構成要素 は「生じた(流転した)もの」である。 それら[の構成要素]も,場合に応じて,原凶とあ1
;
果というliIW
宇をも っ論理 (*yukti)によって生ずるからであり,その原│刈と結果という順 序をもっ論理 (*yukti) は,始まりのない時から次々と連続する規則 ( ホnaya) なのであって, それが rj泣法J
去,;ど,性│ 現在時という"))点'瓦によつては,法の確定性 (dharmasthitita) である。 側 過去時という点によっては,法の決定性 (dharmaniyamata) である。l r縁起経釈』とは解釈が異なってはいるものの. (i)法性 (dharmata) が, 「原t
-
"
,と結果という順序をもっ論理 (*yukti)Jあるいは「始まりのない時 から次々と連続する規則 (*naya)Jと説明されていることからも│りlらかな ように11'珠伽論Jr摂事分」においても, (i)法性 (dharmata) は. r永遠不 変の実体」等のようなものとは全く解釈されていない。さらに,ここで「十 二の構成要素」という'ことがlりl
常された1
.
.
で,そこにはrA
→BJ
というよ うな一方的な法則性があり, しかもそれが連続しているということが示され ている。以上のことを図示すると次のようになる。- 1
3
4一
縁起解釈と諸学j恨の立場 〈表
E
.
r
瑞伽論JJr
摂事分」における法性〉 (i)法性 (dharmata) 原l材と結果という順序をもっ論理 (*yuktD 始まりのない i砕から次々と連続する 規 則 ドnaya) (iiH
去の確定性 (dharmasthitita) 現在時という点[での論理あるいは 最H
I
i
J
J
(iii)法の決定性 過去時という点[での論理あるいは (dharmaniyamata) 規111J
]
表D
と表E
を比べてみると.解釈がかなり異なっていることがわかる。こ れが『縁起経釈』と『喰伽論Jr摂事分」との聞の思想的な違いを意味して いるかどうかは判然としないが.両者において司縁起とは.少なくとも実体 を意味するのではなく.rA
→BJ
というような一方的な法則性として理解 されていることは明らかだろう。 以上の考察により,縁起とは.r倶舎諭』の経量部の解釈.r縁起経釈』に おける解釈.及び『球伽論Jr
技半分」における解釈においてはrA
→BJ
というような一方的な法則性を怠昧し特に『倶合論』と『縁起経釈』にお いては「はかならない無明があるとき,諸行が生ずる」というような特殊な 側 困果関係として理解されていると言える。 【2.
5
縁起の語義解釈】 さて, r倶合論』では,化地部との議論の後.‘pratityasamutpada'の 語 義解釈が問題になる。この議論はすでに検討済みなので.煩墳な議論は避け, 簡単にまとめておきたい。 f{具舎論』は‘pratityasamutpada'という語について「語の意味」と「文 の意味」というこつの面からそれぞれ言及する。 まず, r訴の意味」についてまとめると,世親とシュリーラータによって 二つの解釈が提出される。世親は‘pratityasamutpada'を「縁に到達して F 吋 u q t u縁起解釈と諸学派のJL嶋 (prapya)現出すること (samudbhava)Jと解釈する0・一方,シュリーラ ータは「それぞれの原│材の集合ごとに,諸々の減すべきもの(itya)が一緒 に 現 出 す る こ と 」 と 解 釈 す る 。 た だ し , シ ュ リ ー ラ ー タ の 解 釈 は ,
P
r
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α,s
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こ対してのみ妥当するが,適用しうる経典の範囲が 制限されてしまうとして世親から批判されている。具体的に言えば,“ cak~ul] pratitya rupa1).i cotpadyate cak手urvijnanam" (A and B→C)
と説明する経典においては,シュリーラータの解釈は妥当しないと世親は批 判するのである。この解釈において,世親が
r
x
があるときにのみ,Y
が生 ずる」という限定的な意味で捉えていないことは興味深い。彼は「語の意 味」を考える場合については, ‘pra tityasamutpada'を十二支縁起を説明す る定義として考えるのではなく,できるだけ適用範囲の広い定義を打ち出し ていることがわかる。それはなぜかと言えば, r語の意味」というものが経 典で直接的に言及されていないこと,及ぴ経泣部の立場として様々な経典に 適応しうる定義を模索する必要性があったことが,その理 (IJと考えうる。な お,世親とシュリーラータの解釈は,いずれも「有為法」の生起に│均わって おり,きわめて存在論的な解釈の上に成り立っていることが以上の議論より 明らかである。 次に, r文の意味」の議論について見ておこう。「文の意味」とは二つの定 型句を意味する。その定型句とは“asminsatidam bhavati" (Xがあるとき Yが生ずる)。“asyotpadadidam utpadyate" (Xが生ずることによってYが 生ずる)という句である。これらの句は一見r
i'l]じことを意味しているように 見えるのだが,両者はどのように違っているのか。『イ具合論』では次のよう に言及される。 【反論] しかし,どうして,世尊は「“asminsatidam bhavati" (X があるときYが生ずる)。“asyotpadadidam utpadyate" (Xが生ずるこ とによってYが生ずる )Jというこつの定型句を御説きになられたのか。 【答え1
(i) <第一解釈〉 限定するためである。例えば, }]IJ[の経 p h v q J縁起解釈と諸学:j/Kの立場 掛けでは[世尊は次のように]御説きになられている。
r
[
はかならな い]無明があるときに[のみ]諸行が生ずるが句無明以外のものがある ときには諸行[が生ずることは]ない」というように。 (ii') <第二解釈〉 あるいは,構成要素の連続性を示すためである。r
x
[無町]という]構成要素があるとき,y
[諸行という構成要素]が 生ずる。さらに,y
[諸行という]構成要素が生ずることによって‘ X [識という構成要素]が生ずる」というように。 (iii) <第三解釈〉 あるいは,生存の連続性を[示すためであるJ
o
r前 生があるとき.現生が生ずる。現生が生ずることによって後生が生ず る」というように。 (iv)<第四解釈> [あるいは]直接的あるいは間接的[な連続をなし て無明等の]縁となることを示す[ため]である。「実に,ある時には 無明の直後に諸行が生ずることもあり,またある時には間接的に生ずる ω こともある」というように。 まず.r語の意味」と比較しておくと.世親は.r語の意味」については卜 二支縁起の説川を離れ,広義の怠l味で‘pratityasamutpada'を解釈するのに 対して,「文の意味」については'卜二支縁起を説明づけるものとして.狭義 的 な 意 味 で 解 釈 し よ う と す る 。 な ぜ こ の よ う に 解 釈 す る の か と 言 え ば 句、
sminsatidam bhavati"(XがあるときYが生ずる)という句そのものが 「経典」に直接胃及されているからであり,その「経典」の文脈に基づいて 解釈しなければならない,と開:親が考えているからであろう。一方,「語の 意味」については,経典で直接説明がなされていないだけに,広義の解釈を なすべきだと世事U
!
は考えたのだと,也われる。 さて,ここで四つの解釈が提出されたが,なぜこのような解釈が可能なの か簡単に考察しておこうり まず, <第一解釈〉は.“asminsatidam bhavati"(XがあるときYが生ず る)と“asyotpadadidam utpaclyate" (Xが生ずることによってYが生ず 円 i q t u縁起解釈と諸学派の立場 る)の両者を,
rA
→BJ
と解釈したものである。そして,なぜ同じことを 二回言ったのかと言えば.それはrB
の原因がA
だけであるJということを 強調するために,念を押して二回h
.
]
じことを言ったのだ, と世親は解釈した ものと考えられる。 〈第二解釈〉と〈第三解釈> 'j,“a
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(X
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Y
が生ずる)をrA
→BJ
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"
(X
が生ずるこ とによってY
が生ずる)をrB
→CJ
と置き換え, ζれらを結ぴつけること によって, rA
→B
→CJ
という連続性を示す,と世親は解釈したものと考え られる。 〈第四解釈〉については,称友によれば,二つの解釈が提示されている。 まずーっは,“a
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があるときY
が生ずる)がrA
ー(直接)→B
J
を意味し,“おy
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(X
が生ずること によってY
が生ずる)がrA-(1
間接)→B
J
を意味するという解釈であり, もう一つは,“a
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(X
があるときY
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-(直接)→B
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を意味し,“a
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(X
が生ずること によってYが生ずる)がrA-(
間接)→C
J
を意味するという解釈である。 この二つの定型句から以上四つの解釈を導き出すことが可能で、あると世親 は説明するのだが, U"イ具合論』において,世親はどの解釈を自分自身で是認 しているかをここで述べていない。しかし, <第一解釈〉は「ほかならない 無明があるとき,諸行が生ずる」という先の経量部の解釈と通じるから, r倶舎論』においては,世親はこの〈第一解釈〉を是認していると兄てよい だろう。 【2. 6 無因論と常住因論】 さて,二つの定型旬について│刻述する議論が,世親とヴァスヴアルマンと の問で行われる。 【ヴPアスウゃアルマン] r無閃諭と常住l
大│論を否定するためである」と他 o o q δ縁起解釈と諸学派の立場 の人々[長老ヴァスヴアルマン]は[言う