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一 、

ドキュメント内 真宗研究49号全 (ページ 31-55)

﹁真 仏土 巻﹂ 所引

﹃浬 繋経

﹄ の構 成

周知のように︑親驚が用いた﹃浬繋経﹂は︑詳しくは﹃大般浬般市経﹄と言い︑部派仏教において編纂された︑

わゆる小乗の﹃浬繋経﹂とは別して︑﹁如来の法身常住﹂﹁浬繋の常楽我浄﹂﹁一切衆生悉有仏性﹂の三つの主題を

3

(13)  (12)  (10  (10)  (9)  (8)  (7)  (6)  (5)  (4)  (3)  (2)  (1) 至 真乃 「 言 言 同 詰 孟 同 三 三 三 三 同 三 三 」 仏

貧 責 右 責 蚕 右 責 貧 責 責 右 買 責 の 土

数 」回 巻

も 中 合 の

せ 浬わ 『

て 繋

列 経挙 』

す に る っ と し 〉 次 て

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あ 芸

モ 題

沿

f

文 三

引 用 て る そ 含

ま れ

教説

する

いわゆる大乗の﹁浬繋経﹄である︒

﹁四

相品

﹂|

l

知来の法身常住

﹁四

依品

﹂ー

ーー

同右

﹁聖

行品

﹂|

l

浬繋の常徳

﹁党

行品

﹂|

|同

﹁徳王品﹂||浬繋の楽徳

﹁徳王品﹂||浬繋の浄徳

﹁徳王品﹂|i

同右

﹁迦葉品﹂||一切衆生悉有仏性

﹁迦

葉品

ii

同右

﹁党

行品

i| 同 右

﹁迦

葉品

l

|同右

﹁迦

葉品

l l

同右

﹁師

子肌

品﹂

||

同右

︿﹁

乃至

﹂五

回﹀

︿な

し﹀

︿﹁

乃至

︿﹁

乃至

﹂二

回﹀

︿な

し﹀

︿な

し﹀

︿な

し﹀

︿な

し﹀

︿﹁

乃至

L

四回

︿﹁

乃至

︿な

し﹀

︿﹁

乃至

︿﹁

乃至

一 回

一 回

一 回

一 回

︵頁数は﹃定親全﹄一のものであり︑品名は南本に拠った︶

大別

する

と︑

ω

から的までの文は︑浬繋の体とその果徳を説示し︑浬般木の実相を論じる︒附以降では︑悉有仏性

の義を教示する仏性論が展開する︒今︑これらの中から︑﹁乃至﹂の回数がもっとも多い

ω

﹁四相品﹂の文を取り

﹁真仏土巻﹂所引﹁浬繋経﹄の文の意義

﹁真仏土巻﹂所引﹁浬繋経﹂の文の意義

/ ¥  

上げて考察を加えてみたい︒

一 一

﹁四相品﹂と乃至された箇所

ト ナ リ ナ リ ナ リ ノ ナ リ ー

﹃浬

繋経

﹂一

言口

A又解脱者名目二虚無一虚無即是・解脱解脱即是如来如来即是虚無非作所作献①B真解

ニ ナ リ カ ナ リ ニ シ テ ス ノ ニ テ ノ ノ ヲ ニ テ

脱者不生不滅是故解脱即是知来如来亦爾不生・不滅・不老・不死・不破不壊非二有為法一以二是義−故名日一

如来

入大

浬崎

一制

C又

解脱

説︒

和二

無上

L

一割

D無

上上

主即

真解

脱リ

真解

脱主

即是

如占

拠リ

闘争

E若

伺﹁

此一

トヲ

於ニ

阿薦

多羅

三親

三 菩 丸 呈 愛 護 リ 無 愛 無 見 即 真 展 リ 真 解 脱 志 望 如 札 リ 意

F如来春即是浬県リ喜志即日疋無尽リ懇話

ナ リ ト シ テ ニ サ ク シ ト ト ト ト

是仏性仏性者即是決定決定者即是阿蒋多羅三貌三菩提迦葉菩薩白二仏一言・世尊若浬繋仏性決定如来是一

ナ ラ ハ ソ テ タ マ ヘ ル ヤ ト 卜 ハ ク ニ ヰ ス ル カ ヲ こ ム ヲ ノ ヲ ニ ル ナ リ ト

義名云何説言三有ニ三帰依−仏告二迦葉−善男子一切衆生怖二畏生死一故求二三帰一以二三帰−故則・知ニ仏

︑ ナ リ ナ レ ナ リ ヲ

性決定浬繋一善男子有二法名一義異−有二法名義倶異−名一義異者仏常法常比丘僧常浬繋虚空皆亦是常是名ニ名

一義

異︸

名義

倶異

者仏

名為

二覚

一法

名二

不覚

−僧

名ニ

和合

一浬

繋・

名二

解脱

一虚

空名

ニ非

善一

亦名

ニ無

碍−

是為

二名

義倶

異一

善男子三帰仇者亦l

復札

一日

早捕

︵﹃

定親

全﹄

一・二三一三二三四頁︑記号及び網掛筆者︶

この

す︿

は︑

五つの短い文︵

AiE

︶と仏と迦葉菩薩の﹁三帰依﹂についての問答︵F︶

から

なる

一読

して

分か

るよ

うに

A

から

Eの五文を一貫する主題は﹁解脱﹂﹁如来﹂である︒﹁解脱は如来である﹂ことが︑それぞれ﹁虚

無﹂﹁不生不滅﹂﹁無上上﹂﹁無愛無疑﹂の転釈をとおして押さえられている︒

そしてFでは︑前文で示された﹁如来﹂は︑﹁浬繋﹂﹁無尽﹂﹁仏性﹂﹁決定﹂﹁阿輯多羅三貌三菩提﹂であること

が︑仏と迦葉菩薩の問答をとおして明らかにされている︒それが﹁名一義異﹂﹁名義倶異﹂である︒この二つの説

示によって︑これらは︑用きの側面に応じて名付けられているのであって︑その本質はなんら相違ないことが究明

されている︒このことは︑この﹁四相品﹂の文において︑煩墳な転釈の解読や文脈の整合性が求められているので

はないことを教示するものである︒

次に︑﹁乃至﹂された箇所を確認してみたい︒

まず

乃韮

m w で

は︑

凡是作者猶如城郭楼観却敵︒真解脱者則不如是︒是故解脱即是如来︒又解脱者即無為法︒警如陶師作己還破︒

解 脱 不 爾

︵ 北 本

・ 三 九 二 頁

a

︑南本・六三二頁b︶

4︶ の文が省略されている︒これは︑直前の﹁非作所作﹂の語を受けて︑衆生における﹁作﹂について説明を加える一

文である︒おおよそ﹁作﹂とは︑城郭楼観を造作したり︑陶芸家が器を作ったり壊したりするようなもので︑有為

を超えた真解脱はそれらと全く異なることが示されている︒

乃避窃では︑二一

O

九字が省略されている︒概見するに︑﹁解脱﹂の別名が誓喰や具体例に依りながら明示され

てい

るの

であ

るが

一例を挙げれば次のとおりである︒

不老不死︒有何等義︒老者名為遷変︒髪白面敏︒死者身壊命終︒如是等法解脱中無︒以無是事故名解脱︒如来

亦無髪白面簸有為之法︒是故如来無有老也︒無有老故則無有死︒︵北本・三九一一頁a︑南本・六三二頁b︶

解脱は﹁不老不死﹂にして﹁有為法﹂でないことが︑﹁髪が白くなり顔に雛ができる︵老︶﹂﹁身が尽き命が終わ

る︵死こという人間の現実状況と対比することによって確かめていることが窺える︒この文は︑前文B中の﹁不

老不死﹂の内実を補説するものである︒

乃査

窃は

警知北方之於東方為無上上︒解脱亦爾無有上上︒

︵北

本・

コ一

九三

c︑南本・六三三頁c

﹁真仏土巻﹂所引﹃浬繋経﹄の文の意義

﹁真仏土巻﹂所引﹃浬繋経﹄の文の意義

と︑﹁解脱﹂はこの上なく優れた﹁無上上﹂であることを︑方角の優位という警轍でもって示している箇所である︒

また乃歪ゅでは︑二九一一字が割愛されている︒その中から︑Eの直前の言葉を引用することにしよう︒X解脱者名目離愛︒警如有人愛心稀望釈提桓因大究天王自在天王︒解脱不爾︒

︵北

本・

二一

九五

c︑南本・六三五頁C

解脱が﹁離愛﹂と名付けられるのは︑我々が抱く執着心を離れていることによることが︑誓喰をもって語られて

いる

ので

ある

乃査場は以下のとおりである︒

若言解脱有愛疑者無有是処︒又解脱者断諸有貧︒断一切相一切繋縛一切煩悩一切生死一切因縁一切果報︒如是

解脱即是如来︒知来即是浬繋︒一切衆生怖畏生死諸煩悩故故受三帰︒警知群鹿怖畏猟師︒既得免離若得一跳則

轍一帰︒如是三跳則時三帰︒以三跳故得受安楽︒衆生亦爾怖畏四魔悪猟師故受三帰依︒一ニ帰依故則得安楽︒受

安 楽 者 即 真 解 脱

︒ 真 解 脱 者 即 是 如 来

︵ 北 本

・ 三 九 五 頁

c︑

南本

・六

三一

a

まず︑前文Eの﹁無愛無疑﹂を受けて︑もし解脱に﹁愛・疑﹂があるならば︑それは﹁如来﹂﹁浬繋﹂ではない

と定義する︒さらに︑衆生が三帰依を求めることについて︑鹿が三つの跳躍をもって猟師の危機を回避するという

警仏慨を出し︑衆生も三つの帰依によって安楽を得ると説かれ︑

るの

であ

る︒

その安楽とは﹁真解脱﹂であることが明らかにされ

二︑﹁四相品﹂に託された意義

﹁真仏土巻﹂に引用される﹁四相品﹂は︑﹃浬繋経﹄本文では︑﹃大正大蔵経﹄において約四員にも及ぶ文の中か

︵ 日︶

ら選び取られている︒したがって︑これら六文の選択には何らかの必然性があるに違いない︒そこで︑﹁乃至﹂さ

一つの共通する事柄が浮かび上がってくる︒

それは︑具体的な例や警輸を用いている箇所が何れも﹁乃至﹂されていることである︒例えば乃至③に端的に

窺えるように︑﹁解脱﹂が﹁無上上Lであることを︑方角の警えをもって説明するわずか二

O

文字の短い一文を

れた

箇所

を確

かめ

ると

﹁乃

至﹂

して

︑﹁

また

解脱

は無

上上

と名

づく

︒﹂

C︶と﹁無上上はすなわち真解脱なり︒﹂︵D︶

の文

を︑

一連

の展

開として読むように配置されている︒このような操作は︑他の﹁乃至﹂の箇所についても同様であって︑我々の現

実に即して説かれた具体的な例や警輸を︑その長短を問わず意図的に﹁乃至﹂していることが分かるのである︒

とのような営為によって教示されていることは︑真仏土は︑我々人間の観念や想像の及ばない︑人間界を超越し

た浬繋の境界であるということである︒もとより真仏土は︑衆生を救済しようとする大悲の誓願に酬報する仏土で

あり︑救済を求める衆生の現実に相応する本願の浄土であるが︑この浄土︵即ち真仏土︶は根源的・本来的に大般

浬繋界である︒このことを示すのが︑﹁真仏土巻﹂の文脈における﹃浬繋経﹄﹁四相品﹂の文であるといえよう︒こ

れによって︑﹃大経﹂とその異訳の経典に説かれる本願の浄土が︑大般浬繋界であることを明証するのである︒

きて

︑﹃

浬繋

経﹂

の文にこのような見定めができるならば︑続いて引用される﹃浄土論﹂﹃浄土論註﹂

への

展開

明瞭

にな

るで

あろ

う︒

﹁浄土論﹂日世尊我一心帰二命尽十方無碍光如来一願=一生ニ安楽国一観二彼世界相−勝二過三界道−究寛如ニ虚

− 広 大 無 二 辺 際

− 日

︵﹃

定親

全﹄

一・

二四

九頁

この

﹁浄

土論

の文

は︑

まず﹁帰命願生﹂によって浬繋・仏性が開顕されることが示されるのであるが︑

そこ

説かれる﹁荘厳清浄功徳成就﹂﹁荘厳量功徳成就﹂は︑真仏土の清浄無量性︑すなわち真実報土の浬繋性を確かめ

る文

言で

ある

﹁真仏土巻﹂所引﹃浬繋経﹄の文の意義

ドキュメント内 真宗研究49号全 (ページ 31-55)

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