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観心寺如意輪観音坐像追考 : 観音の女性性という 視点から

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(1)

観心寺如意輪観音坐像追考 : 観音の女性性という 視点から

著者 井上 一稔

雑誌名 文化學年報

号 63

ページ 22‑42

発行年 2014‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/00027763

(2)

観心寺如意輪観音坐像追考 : 観音の女性性という 視点から

著者 井上,一稔

雑誌名 文化學年報

号 63

ページ 22‑42

発行年 2014‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/00027763

(3)

観 心 寺 如 意 輪 観 音 坐 像 追 考

│ 観 音の 女 性 性と い う 視点 か ら

││

井 上 一 稔

は じ め に 観心

寺如 意輪 観音 坐像 の女 性的 な表 現に つい ては

︑誰 もが 認め なが らも

︑こ れま でそ の目 的に つい て踏 み込 んだ 議 論 がな され てこ なか った とい って もよ い︒ 私は この 女性 性の 理解 こそ が観 心寺 像が 作ら れた 理由 を知 る肝 要な 手掛 か り と考 え︑ かつ て拙 稿を 発表 した

!

︒そ こで は紙 面の 都合 によ り省 いた 部分 や 論 じ 足り な い 点も 見 受 けら れ た

︒ま た 近 年︑ これ 以後 に考 えた こと もあ り"

︑ 前稿 の不 備を 補う ため にも

︑改 めて 観心 寺像 につ いて 考え てみ たい

︒ 一

観 心 寺如 意 輪 観音 坐 像 の女 性 性 その

女性 的な イメ ージ を作 り出 すの は︑ 柔ら かで ふく よか な顔 立ち と上 品で 慎ま しや かと も思 える 表情

︑半 眼に 見 開 いた 目︑ ぽっ てり とし た唇

︑顎 下の ふっ くら とし た肉 付き

︑そ して 豊艶 な体 つき を感 じさ せる 肩の まる み︑ わず か

― 22 ―

(4)

に 頭 を 右に 傾 け 右手 第 一 手 の肘 を 深 く折 っ て 掌を 頬 に あ てる 仕 草︑ 宝 冠の 下 に 表さ れ る 豊 な髪 と い った と こ ろ に あ る

︒ 神護 寺・ 高雄 曼荼 羅中 の如 意輪 観音 は︑ 基本 的な 図像 的特 徴の 他に ふく よか さを 示す こと にお いて 観心 寺如 意輪 観 音 坐像

︵以 下︑ 観心 寺像

︶と 共通 する もの の︑ 右手 第一 手が 肘を 外に 張り

︑掌 をみ せる よう に開 いて 頬に 当て る点 で 異 なり

︑こ れを 比較 すれ ば観 心寺 像に は女 性的 な慎 まし さが 表現 され てい るこ とが よく 理解 でき る︒ さら に東 寺・ 伝 真 言院 曼荼 羅の 如意 輪観 音を 加え て比 較し ても

︑観 心寺 像は 上半 身の 傾き を抑 え︑ 宝珠 手や 左輪 宝手 など の腕 部を 出 来 るだ け前 の腕 に隠 して 六臂 の動 きや 存在 の強 調を 避け

︑そ の怪 異性 を抑 える 工夫 をな し︑ まと まり のよ い造 形を 見 せ てい る︒ これ らの こと は自 然な 人体 把握 につ なが り︑ 女性 性に 寄与 して いる

︒ ま た最 も 作 風と 制 作 時 期 が 近 く︑ 作 者 さ え 共 通 す る と 考 え ら れ る 神 護 寺 五 大 虚 空 藏 菩 薩 坐 像︵ 以 下︑ 神 護 寺 像

︶ は

︑そ の表 情が 観心 寺像 より やや 強く 意志 的で あり

︑頬 から 顎に かけ ての しま りが 強く

︑両 臂を 大き く外 に張 り︑ そ こ に鋭 角的 なイ メー ジを 与え て結 跏趺 坐す る体 勢は 女性 性か ら離 れる

︒観 心寺 像は

︑神 護寺 像よ り頬 の張 りが 豊か で あ るこ とに 加え て︑ 肌に 肉色 を用 いる こと

︑念 珠手 と光 明山 手が 円や かに 大き く外 に伸 びて 包み 込む よう なイ メー ジ を 与え るの も女 性的 な表 現で ある

︒ま た片 膝を 立て て坐 すの は女 性性 を演 出す る要 素で ある こと は︑ 例え ば薬 師寺 八 幡 三神 像の 神功 皇后

・仲 津姫 像を 想起 すれ ばよ かろ う!

︒ ここ で観 心寺 像の 女性 性が 何故 生み ださ れた かを 理解 する ため に︑ まず 現図 胎蔵 曼荼 羅に おい て如 意輪 観音 が位 置 す る蓮 華部 院に つい てみ てお こう

︒注 目し たい のは

︑第 一列 の観 自在 菩薩 の上 下に

︑女 性の 上着 であ る

!

襠衣

︵羯 磨 衣

︶を 着す る毘 倶胝 菩薩 と多 羅菩 薩が 配さ れて いる こと であ る︒ この 二尊 は︑ 現図 曼荼 羅に 先行 する 胎蔵 図像 や胎 蔵 旧 図像 では

!

襠衣 は着 して おら ず︑ 現図 にな って から の変 化で ある こ と が 知ら れ て いる

"

︒つ ま り 現図 以 降 に︑ 改

― 23 ― 観心寺如意輪観音坐像追考

(5)

め て観 音の 中に 女性 的な もの を見 出 そう と す る意 識 が 出て き た と いえ る

︒因 み に︑ 多羅 尊 は﹃ 大 日 経﹄ 具縁 品

︑﹃ 大 日 経 疏﹄ に︑ 中 年の 女 人 の状 に な す と記 さ れ る女 性 尊 であ る!

︒こ の こ とは

︑空 海 も﹃ 五 部陀 羅 尼 問答 偈 讃 宗 秘 論

﹄ で 触れ

"

︑﹃ 諸 説不 同記

﹄に も二 尊の 女性 尊と して の特 徴は 認識 され てい る#

︒ この よう に捉 えて みる と︑ イン ド・ エロ ーラ 第四 窟の 毘倶 胝菩 薩と 多羅 菩薩 を脇 侍と する 観音 三尊 や︑ 敦煌 出土 の 蓮 華部 八尊 曼荼 羅︵ 八世 紀︶ の中 心の 観音 三尊 に関 する 田中 公明 氏の 言 及 は 興味 深 い$

︒ 田 中氏 は

︑こ れ らを 現 図 胎 蔵 曼荼 羅の 蓮華 部院 の形 成過 程と みな して おら れる ので ある が︑ この 両脇 侍は まさ に乳 房を 表し て身 体的 に女 性尊 と し てお り︑ 現図 胎蔵 曼荼 羅に おい ての 女性 装に 連続 する こと が明 瞭な ので ある

︒ 以上 のよ うに

︑現 図曼 荼羅 成立 時に

︑改 めて 観音 の女 性的 な面 に関 心が 持た れた こと が判 明し

︑そ の蓮 華部 院に は じ めて 登場 する 如意 輪観 音に も女 性尊 とい う属 性が 存在 して も不 思議 では ない こと が理 解で きる ので ある

︒ 二

橘 嘉 智子 の 夢 と玉 女 と 如意 輪 観 音 前

稿%

で は 嘉智 子 の 御願 で あ る この 如 意 輪観 音 坐 像を 理 解 す るた め に︑ 嘉 智子 崩 伝︵

﹃ 日本 文 徳 天 皇実 録

﹄嘉 祥 三 年 五月 五日 条︶ に記 され る︑ 弘仁 六年 七月 七日 に仏 の瓔 珞を 著す とい う夢 を見 てか ら六 日後 に皇 后と なっ たと いう 記 事 を考 察し

︑こ こに は仏 教的 な理 想の 皇后 であ る玉 女の 誕生 を告 げる 意図 のあ るこ とを 指摘 した

︒玉 女と は︑ 転輪 聖 王 の七 宝の 一つ であ り︑ 王の 側に あっ て王 の衣 に触 れた だけ でそ の健 康状 態が 分か り︑ また 王の 心が 何を 望ん でい る か を察 知す るこ とが でき る︵

﹃ 涅槃 経﹄ 十二

︶と いう 存在 であ る︒ 本稿 では

︑こ の解 釈を 別の 面か ら論 じて ゆく が︑ まず

︑空 海請 来 の

﹃蘇 婆 呼童 子 請 問経

﹄巻 中 に&

︑ こ の夢 に 通 じ

観心寺如意輪観音坐像追考 ― 24 ―

(6)

る よう な︑ 金瓔 珞を 得る 夢が 説か れて いる こと に注 意し てお きた い︒ この 夢は

︑諸 願成 就の 好相 の一 つと して 挙げ ら れ てい る︒ 改め て︑ 嘉智 子の 夢は 仏教 的解 釈を 可能 とす る根 底が ある こと が判 明し

︑立 后に 仏教 的色 合い を付 加さ せ て いる こと が知 られ るの であ る︒ 次に

︑嘉 智子 及び その 周囲 が玉 女を 意識 する 環境 にあ った こと を︑ 中国 及び わが 国で の︑ 玉女 の主 であ る転 輪聖 王 の 受容 をみ るこ とか ら理 解し てお こう

︒ 古く 中国 北朝 時代 に︑ 造像 銘に 皇帝 を﹁ 金輪 を転 ずる 輪王

﹂と みな す願 文の ある こと が︑ 倉本 尚徳 氏に よっ て指 摘 さ れた

!

︒唐 代で は︑ 不空 が皇 帝を

﹁菩 薩が 衆生 済度 のた めに 国王 とな っ た 転 輪聖 王

﹂と 位 置付 け

︑こ の 立場 は 不 空 の 弟子 たち にも 共通 し︑ 空海 の師 であ る恵 果に も表 れて いる と︑ 苫米 地誠 一 氏 は 述べ ら れ てい る"

︒そ し て苫 米 地 氏 は

︑空 海も

﹃性 霊集

﹄の 中に 天皇 を転 輪︵ 金輪

︶聖 王と 表現 する 文章 がい くつ も見 られ

︑淳 和朝 に出 され た﹃ 秘密 曼 荼 羅十 住心 論﹄ 巻二 にお いて は︑ 国家 観の 中で の理 想の 国主 とし て︑ 仏教 的な 転輪 聖王 が説 かれ てい るこ とを 指摘 さ れ た#

︒ この よう に︑ 中国 北朝 から わが 国の 平安 初期 にい たる 時期 には

︑皇 帝・ 天皇 を転 輪聖 王と みな す思 想が 存在 した こ と が明 らか にな る︒ そし てこ の事 実を 皇后 に及 ぼし て考 えれ ば︑ 皇后 は転 輪聖 王の 妻と もい うべ き玉 女と 結び つけ ら れ てい たと 考え るこ とに 無理 はな かろ う︒ なお

︑空 海の

﹃秘 密曼 荼羅 十住 心論

﹄巻 二に おけ る︑ 転輪 聖王 の説 明の 中 で 女宝

︵玉 女︶ を含 む七 宝も 説明 され てい る$

︒ さら に嘉 智子 と玉 女の 繋が りを 暗示 する 説話 とし て︑

﹃ 日本 霊異 記﹄ 下巻 三十 九話 を取 りあ げて おこ う︒ この 話は

︑ 伊 予国 神野 郡の 石鎚 山で 浄行 を積 む寂 仙菩 薩と よば れる 禅師 があ り︑ 後に 嵯峨 天皇 に転 生す ると いう 内容 であ る︒ 朝 枝 善照 氏は

︑奈 良時 代に 伝わ って いた

﹃歴 代三 宝紀

﹄に 隋文 帝が 菩薩 の応 現に して 転輪 聖王 と見 なさ れて いる こと を

― 25 ― 観心寺如意輪観音坐像追考

(7)

指 摘し

︑こ の考 えが 上記 説話 で浄 行の 菩薩 の生 まれ 変わ りと して の聖 君嵯 峨 天 皇 に表 れ て いる と さ れた

!

上 記 し た 空 海の 転輪 聖王 観か らし ても

︑嵯 峨天 皇を 転輪 聖王 とみ なす 意識 を受 け取 るこ とが でき る︒ そし てこ の説 話に 関連 し て

︑先 に夢 を検 討し た橘 嘉智 子崩 伝に

︑﹁ 故 老相 伝﹂ とし てほ ぼ同 様な 話を のせ

︑嵯 峨天 皇に 生ま れ変 わる 上仙

︵﹃ 霊 異 記﹄ の寂 仙菩 薩︶ とと もに

︑上 仙を 檀越 とな って 供養 する 橘嫗 が登 場し

︑橘 嫗は 転生 して 皇后 であ る橘 嘉智 子と な っ たと いう 話が 加え られ てい る"

︒ この 文脈 にお いて も︑ 天皇 を助 ける 皇后 とし て の 玉 女の 存 在 が浮 か び 上が る の で あ る︒ さて

以上 のよ うに

︑嘉 智子 およ びそ の周 辺に 玉女 が意 識さ れて いた こと は確 かな こと と考 えら れる が︑ それ では 玉 女 と如 意輪 観音 はい かな る関 係に ある のだ ろ うか

︒前 稿 で は︑

﹃観 音 経﹄ の 三十 三 身 に 変化 し て 法を 説 く 中で あ ら ゆ る 婦女 身と なる こと

︑如 意輪 観音 の経 典の 一つ 解脱 師子 訳﹃ 都表 如意 摩尼 転輪 聖王 次第 念誦 秘密 最要 略法

﹄に

︑真 言 の 三昧 によ って 輪王 の七 宝の よう な功 徳が 得ら れる と説 くこ とか ら#

︑ 如意 輪観 音と 玉女 が繋 がる こと を述 べた

︒ 本稿 でも 改め て如 意輪 観音 と玉 女の 関係 をみ てお きた い︒ 如意 輪観 音の 特徴 とし て︑ 先に 女性 尊と いう 性格 を内 包 す るこ とを 述べ たが

︑こ こで は如 意輪 観音 のも う一 面を みて おこ う︒ 岩本 裕氏 は︑ 如意 輪観 音の 梵語 名﹁ チャ クラ ヴ

!

ァ ル テ ィ

チ ンタ ー マ ニ﹂

cakravarti ­ cint ā mani

︶は

﹁ど こ へで も 自 由に 転 が っ てい っ て︑ 衆 生の 願 い を 何 事 で も 聴 き と ど け てく れ る 者﹂ とい う 意 味で あ り︑ こ の 中に 含 ま れる

cakravarti

n

︶は 一 般に

﹁転 輪 聖 王﹂ と訳 さ れ るこ と に 注 意 され

︑先 の﹃ 都表 如意 摩尼 転輪 聖王 次第 念誦 秘密 最要 略法

﹄と いう 経題 名の 中に

﹁如 意摩 尼転 輪聖 王﹂ とあ るこ と も 指摘 され る$

︒ また 朴亨 國氏 は︑ 如意 輪観 音の 二大 性格 が如 意宝 珠と 転輪 で あ っ たと し

︑如 意 輪観 音 経 典に み ら れ る

﹁無 障礙 観世 音﹂

﹁ 無能 障礙 観世 音﹂ とい う名 称は

︑転 輪聖 王 が 持っ て い た輪 が 転 が って 自 在 に敵 を 破 砕す る よ う

観心寺如意輪観音坐像追考 ― 26 ―

(8)

︑観 音の 説法 も衆 生の 迷い やあ らゆ る障 害を 破す とい う功 徳を イメ ージ し た 名 称と 思 わ れる と さ れて い る!

︒こ の よ うに 如意 輪観 音は 転輪 聖王 とも 深い 関係 を持 って いた こと が知 られ るの であ る︒ 次に 如意 輪観 音と 玉女 が結 びつ く最 も明 瞭な 史 料で あ り なが ら

︑前 稿 では 嘉 智 子 の時 代 以 降に 成 立 し た﹃ 覚禅 鈔

﹄ に 記さ れた 史料 であ り︑ その 出典 が不 明瞭 なこ とか ら十 分に 検討 しな かっ た如 意輪 観音 の記 事"

を 取り 上げ たい

︒ 本

尊の 王の 玉女 に変 ずる 事 又 云は く︑ 邪見 心発 り︑ 淫欲 熾盛 にし て世 に堕 落す べき に︑ 如意 輪わ れ王 の玉 女と 成り

︑其 人の 親し き妻 妾と 為 り て共 に愛 を生 じ︑ 一期 生の 間︑ 荘厳 する に福 富を 以っ てし

︑無 辺の 善事 を造 らせ しめ

︑西 方極 楽浄 土に 仏道 を 成 さし む︒ ま

さし く如 意輪 観音 が王

︵転 輪聖 王︶ の玉 女と 変身 して 邪心 を治 め︑ 一生 の間 妻妾 とな って 富貴 を約 束し

︑西 方浄 土 に 導 く とさ れ て いる の で あ る︒ 弥永 信 美 氏は

︑初 め の﹁ 又 云﹂ は︑ 引用 文 の 前 の 記 事 に あ る﹁ 別 本 軌 云﹂ で あ る と し

︑﹃ 覚 禅鈔

﹄が 示す 経典 中の 観

自在 菩薩 如意 輪瑜 伽秘 密念 誦儀 軌一 巻

聖 如意 輪観 自在 菩薩 修行 儀軌 一巻

已上 二本 内︑ 文大 略同

︑初 書若 智證 録書 歟

― 27 ― 観心寺如意輪観音坐像追考

(9)

と いう 二本 のい づれ かで あろ うと され た︒ そ して こ れ ら を︑ 興然

1121

1203

︶・ 覚 禅︵

1143

1213

頃︶ の時 代 か ら あ まり 遠く ない 時期 に日 本で 偽作 され たも のと 判断 され た!

︒ 別本 軌の 比定 に つ い ては

︑弥 永 氏 の考 え に 賛同 す る も の であ るが

︑わ が国 での 偽作 と断 定す るの には 躊躇 させ られ る︒ 中国 にお いて も変 化観 音の 中で は比 較的 新し く登 場し た如 意輪 観音 は︑ 長部 和雄 氏の 述べ られ るよ うに

︑不 空時 代 以 降に 密教 が庶 民化 され る中 で"

︑ 様々 な信 仰の 展開 を見 せて いた と考 えら れ る

︒如 意 輪観 音 の 関係 経 典 には 大 正 蔵 に 収録 され る以 外に

︑﹃ 金 輪呪 王経

# な ど実 態の 不明 なも のあ り

︑敦 煌 な どに は

﹃別 行﹄ な るも の が 残り

︑そ れ を 円 仁 が請 来 し て いる 可 能 性が あ る$

︒ ま た上 記 儀 軌 につ い て 覚禅 は

︑﹁ 可 尋﹂ とし な が ら も二 本 の うち 初 め のも の に 智 證 大師 将来 の可 能性 を想 定し てい るの であ るか ら︑ わが 国の 偽作 とす るこ とは 疑問 であ り︑ 中国 で如 意輪 観音 が玉 女 に 変身 する 考え が生 まれ てい ても 不思 議で はな い︒ 加え て︑ 先に 指摘 した 胎蔵 曼荼 羅蓮 華部 院の 観音 の女 性尊 とし ての 性格 は︑ 不空 以後 にこ の傾 向が 強ま って きて い る こと を思 わせ る象 徴的 な例 があ る︒ それ は︑ 宝思 惟の 訳と され るが

!

経 とみ なさ れて いる

﹃観 世音 菩薩 如意 摩尼 輪 陀 羅尼 念誦 法﹄ の﹁ 観世 音菩 薩毘 倶胝 地結 法﹂ の一 文で ある

%

︒こ こに は如 意 輪 観 音の 他 経 典に は み られ な い

﹁若 し 女 人懐 中に て︑ 但読 誦す れば 必ず 大験 を成 す︒ 念誦 の時 まさ に聖 如意 輪菩 薩の 形相 を憶 ひ永 く依 怙と なす べし

﹂と い う 文が あり

︑毘 倶胝 とい う尊 名の 入る 章の 中に

︑女 人が 懐中 にて 読誦 し︑ ある いは 如意 輪菩 薩の 姿を 思っ て念 誦す る こ との 功徳 を説 いて いる

︒如 意輪 観音 が女 性尊 であ る毘 倶胝 と関 係す るこ とが 示さ れる こと

︑女 人の 用い る読 誦法 で あ るこ と︑ そし て女 人が 念誦 時に 憶う 如意 輪観 音形 相と

︑独 自の 如意 輪観 音と 女性 との 関わ りが 示さ れて いる ので あ る

︒こ のよ うな 傾向 は︑ 如意 輪観 音が 玉女 に変 身す る考 えが 生み 出さ れる 環境 の一 つと 判断 でき よう

︒ また より 観音 と女 身と の直 接的 な関 係を 示す のは

︑不 空の 弟子 であ る含 光の 毘那 夜迦 法の 秘儀 を略 記し た﹃ 毘那 夜

観心寺如意輪観音坐像追考 ― 28 ―

(10)

迦 那鉢 底瑜 伽悉 地品 秘要

﹄に みら れる

︒こ こに は﹁ 菩薩 此の 身を 其の 婦と 為り て現 じ︑ しか して 勧進 し︑ 毘那 夜迦 を し て障 礙を なさ ざら しむ

︒往 昔の 因縁 ある こと

︑餘 部説 の如 し﹂ と述 べら れ て い る!

︒ ここ で い う菩 薩 は 十一 面 観 音 の こと であ るが

︑観 音が 女身 とな って 毘那 夜迦 に身 を任 せる こと で︑ 毘那 夜迦 を善 神に 導い たと いう ので ある

︒如 意 輪 観音 と同 様に

︑十 一面 観音 も女 性と なっ て救 済す ると いう 共通 性が 知ら れる ので ある

"

︒ この よう に︑ 観音 が女 身に 変身 する とい う思 考は 中国 で醸 成を 進め たも のと 思わ れ︑ 如意 輪観 音と 玉女 を結 びつ け る 思考 は︑ 不空 以後 に生 まれ てい た可 能性 が高 いと 考え られ る︒ ここ で︑ 中国 でこ のよ うに 新た に展 開し た如 意輪 観音 信仰 が︑ あま り時 をお かず に嘉 智子 の周 辺に 届く 環境 があ っ た こと を確 認し てお きた い︒ 前稿 では 如意 輪観 音と 玉女 の関 係が 直接 みら れる

﹃都 表如 意摩 尼転 輪聖 王次 第念 誦秘 密 最 要略 法﹄ の請 来が

︑史 料上 では 宗叡 の 貞観 七 年︵

865

︶ 帰朝 後 で︑ 観 心寺 像 造 像 以後 と な って し ま うこ と か ら︑ 円 猷

・円 修な どの 請来 を考 えた

#

︒し かし

︑厳 密に 宗叡 の帰 朝や この 経典 の請 来 を 待 たな け れ ば︑ 上記 の よ うな 女 性 と 密 接に 結び つい た如 意輪 観音 信仰 が伝 来し なか った 訳で はな かろ う︒ この 時代 には

︑承 和の 遣唐 使の 帰朝

︵承 和六 年 八 月二 十七 日条

︶の 成果 も想 定す べき であ ろう し︑ 前稿 でも 述べ たが

︑宗 叡・ 円猷

・円 修以 外の 九世 紀の 入唐 僧た ち も 如意 輪観 音に 関心 をも って いた こと は︑ 空海 をは じめ とし て何 人も の僧 に見 出せ るの で︑ 彼ら の見 聞が 伝わ った 可 能 性 も ある

$

例 え ば︑ 先 述の

﹃如 意 輪 王 摩尼 跋 陀 別行 法 印 一巻

﹄を も た ら した 円 仁 は︑ 開 成 四 年︵

839

︶ 二 月 五 日 に 全雅 から 如意 輪壇 を受 けて いる

︒円 仁の

﹃在 唐送 進録

﹄に みえ る﹁ 観音 壇様 一張

﹂は

︑田 中本

﹃諸 観音 図像

﹄中 の 如 意 輪 曼荼 羅 で︑ 全 雅伝 授 の も のを 伝 え てい る の で は な い か と 考 え ら れ て い る%

︒ま た 円 珍 も︑ 大 正 蔵 に み え な い

﹃如 意輪 勧請 法﹄ を録 外と して 請来 し︑

﹁上 智慧 輪三 蔵書

﹂に は恵 運請 来の

﹃如 意輪 蔵要 略一 巻﹄ を智 慧輪 三蔵 に請 う て いる こと が知 れる

― 29 ― 観心寺如意輪観音坐像追考

(11)

この よう な入 唐僧 たち の多 様な 如意 輪観 音へ の関 心も さる こと なが ら︑ 何と いっ ても 嘉智 子が 唐に 派遣 した 恵萼 が 承 和 九 年︵

842

︶に 帰 朝 して い る こ とを 考 慮 すべ き で ある

!

恵 萼 と 嘉 智子 の 関 わり は

︑彼 の 従僧 と し て 嘉智 子 の 母 方 氏族

︵田 口︶ 出身 の円 覚が いた こと も注 意さ れよ う︒ そし て恵 萼は

︑円 仁・ 恵運 とも 交わ り︑ 五台 山で 得た 観音 像 を 普陀 洛山 寺に 祀っ たと いう 観音 信仰 の持 ち主 であ るか ら︑ 唐に おけ る如 意輪 観音 信仰 を見 聞し てい たと みて よい と 思 われ る︒ また 近年 の外 交史 の研 究に よる と︑ 恵萼 をは じめ とし て入 唐に は海 商の 船を 利用 して いる こと も知 られ て お り︑ 海商 たち の活 躍か ら中 国情 報が 入手 しや すい 状況 にあ った こと も留 意で きる

"

︒ この 章を まと めれ ば︑ 平安 初期 には 天皇

・皇 后を 転輪 聖王 や玉 女と みな す考 え方 が認 めら れ︑ そこ に不 空以 後の 密 教 の 中 で顕 に な った 如 意 輪 観音 に 転 輪聖 王 や 玉女 を 読 み 込も う と する 考 え が伝 わ っ て いた で あ ろう と い うこ と に な る

︒嘉 智子 を中 心に 述べ 直す と︑ 崩伝 の夢 や前 世譚 には 理想 の皇 后と して の玉 女へ の意 識が 確認 でき

︑そ こに 玉女 は 如 意輪 観音 が変 身し たも のと する 考え が結 びつ き︑ 観心 寺像 を造 像さ せた こと にな る︒ 三

制 作 期と 御 願 これ

まで 述べ てき たこ との 上で

︑観 心寺 像が 嘉智 子の 御願 堂の 本尊 であ るこ とに 焦点 を当 て︑ 制作 期の 問題 を考 慮 し なが ら︑ 嘉智 子の 御願 に迫 りた い︒ まず 制作 期に 関す る先 学の 研究 をみ てお こう

︒ 観心 寺像 の造 像年 代お よび その 制作 目 的に つ い ては

︑﹃ 日 本 彫刻 史 基 礎 史料 集 成 平 安時 代 重 要 作品 篇 三

﹄の 西 川 新次 氏の 考え が基 盤と なっ てい る#

︒ 西川 氏は

︑観 心寺 像の 制作 期 は

︑嵯 峨 院太 皇 太 后︵ 橘嘉 智 子︶ の 崩御 す る 嘉 祥 三年

850

︶以 前で

︑嵯 峨太 上天 皇崩 御を 契機 と考 えて 承和 九年

842

︶ 前後 を想 定さ れた

︒さ らに

︑嵯 峨院 の不 予

観心寺如意輪観音坐像追考 ― 30 ―

(12)

は すで に承 和六 年︵ 八月 一日

︑四 日︶ にあ り︑ 承 和七 年

840

︶ 七 月二 十 七 日に 観 心 寺 三綱 が 鐘 一口 を 鋳 るこ と を 檀 越 知識 に請 うて いる こと から

︑本 像の 造立 はこ の頃 に遡 る可 能性 のあ る こ と を示 唆 さ れる

!

ま た 本 像と 様 式

・作 風 に おい て最 も近 い神 護寺 五大 虚空 藏菩 薩像 の 製作 年 代 は承 和 七 年五 月 か ら 同十 二 年︵

845

︶ と考 え ら れ︑ 観心 寺 像 の 造 像年 代と 適応 する とさ れた

︒ 西川 説を 受け て田 中恵 氏は

︑そ の工 房は 官と 繋が りを 持つ とさ れ︑ 新た な観 点と して

︑講 堂︵ 御願 堂︶ は真 紹が 都 で 活躍 した こと に起 因す ると 考え られ た︒ また 神護 寺像 との 様式 的前 後関 係で は︑ 西川 氏が 先行 する と考 えた のに 対 し て遅 れる と判 断さ れ︑ 造像 の契 機を 仁明 天皇 が崩 御に いた る病 を発 せら れた 嘉祥 三年 に求 め︑ 完成 は観 心寺 にあ っ た 工房 を考 慮に 入れ て斉 衡年 間︵

854

856

︶と され た"

︒ 紺 野敏 文 氏 も西 川 説 に立 っ て

︑﹃ 東 宝記

﹄四 に 実 慧が 嵯 峨 太皇 太 后 に 承和 八 年 に潅 頂 を 授け た と す る 記 事 を の せ

︑ ま たそ の潅 頂文 の存 在す るこ とか ら︑ これ にと もな って 講堂 造営 が始 まり

︑承 和九 年に 嵯峨 太上 天皇 は崩 御さ れる の で 完成 は急 がれ たで あろ うか ら承 和十 年に は完 成し てい たと 考え た#

︒ 伊東 史朗 氏は

︑﹃ 観 心寺 縁起 資財 帳﹄ に真 紹が

﹁厚 く 承 和の 聖 主 の恩 を 蒙 り﹂ と 述べ て い ると こ ろ から

︑観 心 寺 は 仁 明天 皇と 関係 が深 いと し︑ 嘉祥 三年 に天 皇崩 御に いた る過 程で 嵯峨 院太 皇太 后が 発願 造像 され

︑御 願堂 たる 講堂 は 嘉 祥三 年頃 に造 営さ れ仏 眼仏 母・ 弥勒

・如 意輪 の三 尊は この 頃に 開眼 供養 され たと した

$

︒ 丸山 士郎 氏は

︑寺 地の 施入 があ った 承 和三 年

836

︶ 説 を主 張 す る︒ 理由 は

︑仏 像 が 製作 さ れ る際 に 用 いら れ る 図 像 がど の様 に消 化さ れて いる かと いう 観点 から

︑承 和六 年に 開眼 供養 され る東 寺講 堂諸 像で は四 菩薩 像・ 不動 明王 像

・ 梵天 像が 観心 寺像 より 先行 し︑ 四明 王像 と四 天王 像は 観心 寺像 以降 に造 像さ れた とす る様 式的 考察 が前 提と なっ て い る%

― 31 ― 観心寺如意輪観音坐像追考

(13)

以上

︑制 作年 代に 対す る見 解を まと めれ ば︑ 様式 史的 には 神護 寺像 との 前後 関係 を問 題と しな がら

︑承 和九 年の 嵯 峨 太上 天皇 崩御 を契 機と する か︑ ある いは 嘉祥 三年 の仁 明天 皇崩 御を 契機 とす るか につ いて 意見 が分 かれ

︑こ れに 東 寺 講堂 諸像 との 様式 史的 関係 の考 察を 基に 真紹 が寺 地を 要請 した 承和 三年 を想 定す る丸 山説 があ る︒ ただ 承和 三年 説 は

︑こ の年 は寺 地の 要求 であ り︑ 真紹 の直 接的 な天 皇と の関 与は まだ なく

︑作 風比 較も 異尊 種の 四明 王・ 四天 王像 よ り も︑ 神護 寺像 との 明瞭 な親 密性 を重 視す べき であ るか ら除 くこ とに する

︒ 拙稿 も基 本的 に西 川説 に基 づき なが ら︑ 後述 する よう に西 川氏

・紺 野氏 の嵯 峨太 上天 皇崩 御に 関わ って の造 像と す る 立場 はと らず

︑田 中氏 およ び伊 東氏 の仁 明天 皇と 真紹 の関 係を 重視 する 見解 に立 つ︒ しか し︑ 田中 氏が 完成 を斉 衡 年 間と する 説は やは り神 護寺 像と の密 接な 作風 から は納 得し がた い︒ 伊東 氏が 仁明 天皇 崩御 の嘉 祥三 年頃 に開 眼供 養 さ れた とす るの は︑ 作風 的な 可能 性の 範囲 に含 まれ ると も思 われ るが

︑後 述の よう に採 らな い︒ また 仏眼 仏母 と弥 勒 ま で同 時期 の作 とさ れる のは 無理 があ ろう

!

︒ 要す るに 先学 の説 に対 して は︑ 造像 の契 機と 考え られ た嵯 峨太 上天 皇と 仁明 天皇 の二 つの 崩御 ある いは その 過程 と は 関係 なく 造像 され たと 考え たい

︒理 由は 既述 のよ うに

︑神 護寺 像と の同 様な 作風 を素 直に 考慮 する こと と︑ もう 一 つ はや はり この 如意 輪観 音像 の女 性性 にあ る︒ 確か に︑ 如意 輪観 音は 病気 平癒 の功 徳も あろ うが

︑先 述の 中国 での 如 意 輪観 音信 仰の 考察 を踏 まえ

︑こ のよ うな 女性 的な 観音 像が 死を 直前 にし た延 命や 病気 平癒

︑あ るい は追 善を 願っ て 造 られ たと は思 われ ない ので ある

︒ さて 嘉智 子の 造像 の願 いは 何で あっ たか を探 るた めに

︑こ れま での 研究 以上 に重 視し たい のは

︑度 々触 れた 神護 寺 像 と観 心寺 像の 共通 性で ある

︒言 うま でも なく

︑同 時代 でこ れほ ど似 た作 風の 像は 他に 見出 せな いこ とか ら︑ 同一 作 者 ある いは 工房 の作 と考 えら れる 他に

︑仁 明天 皇と その 母嘉 智子 が関 わり

︑さ らに 真済 と真 紹と いう 真言 僧が 関与 し

観心寺如意輪観音坐像追考 ― 32 ―

(14)

て いる とい う極 めて 近い 条件 で造 像さ れた こと が知 られ てい る!

︒ ここ でさ らに 考慮 した いの は︑ 五大 虚空 蔵と 如意 輪観 音と いう 尊格 の関 係で ある

︒ま ず︑ 共に 九世 紀初 めに わが 国 に 伝え られ た最 新の 密教 尊で ある こと が注 目で きる

︒神 護寺 像は

︑奈 良時 代か ら知 られ てい た虚 空蔵 菩薩 を密 教的 に 五 尊に 展開 した 尊格 であ り︑ その 最初 の彫 像と 考え られ る︒ 観心 寺像 も︑ 奈良 時代 から 知ら れて いた 二臂 の如 意輪 観 音"

を密 教的 な六 臂に 表し た最 初の 彫像 であ る︒ 言わ ば奈 良時 代か ら知 られ てい た 両 菩 薩の ニ ュ ーモ デ ル であ っ た わ け であ る︒ 次に

︑奈 良時 代か ら平 安時 代初 期に 至る この 二尊 格の 関係 が︑ 以下 の作 例に 一対 のも のと して 見出 され るこ とは 注 目 され てよ い︒ 東大 寺大 仏の 両脇 侍と し ての 虚 空 蔵・

︵如 意 輪︶ 観 音像

︑興 福 寺 東 金堂 の 後 堂東 面 の 釈迦 三 尊

︑嵯 峨 上 皇が 故伊 予親 王と その 母藤 原吉 子の ため に刻 ませ た白 檀の 釈迦 三尊 がそ れで ある

︒観 音は 必ず しも 如意 輪観 音で は な いが

︑観 音・ 虚空 蔵が 一対 の尊 格と して 捉え られ てい たの であ る︒ また 胎蔵 曼荼 羅の 釈迦 院の 三尊 も観 音・ 虚空 蔵 が 脇侍 であ るこ とが 知ら れて いる

#

︒ この よう な観 音・ 虚空 蔵を 一対 とす る流 れの 中で

︑観 音を 如意 輪観 音に 特定 し︑ 仁明 朝に おけ る最 新の 姿を 採用 し て 造像 され たの が観 心寺

・神 護寺 の両 像で あっ たの で はな か ろ うか

︒こ こ に は脇 侍 の よ うな 明 瞭 な一 対 性 は ない が

︑ 作 風・ 願主

・関 係僧 にお いて も親 近性 が高 く︑ 後述 する よう に共 に仁 明天 皇の 護持 の目 的を 見出 せる こと から も︑ 五 大 虚空 蔵・ 如意 輪観 音と いう セッ トの 意識 があ った と考 えた いの であ る︒ この 視点 に基 づき

︑観 心寺 像の 造像 時期 を考 える 上で 神護 寺像 の造 像経 過を 参考 とし たい

︒幸 いな こと に︑ 神護 寺 像 の制 作事 情は

︑安 置さ れる 宝塔 院と 関連 して ほぼ 確定 して いる

︒宝 塔院 は︑ 仁明 天皇 御願 で真 済に よっ て建 立さ れ

︵﹃ 神護 寺承 平実 録帳

﹄﹁ 一 重桧 皮葺 毘盧 遮那 宝塔

﹂︶

︑ 五大 虚空 蔵が 安置 され た︵

﹃三 代実 録﹄ 貞観 二年 二月 二五 日条 の

― 33 ― 観心寺如意輪観音坐像追考

(15)

真 済伝

︶︒

﹃ 神護 寺最 略記

﹄に は︑ 承和 三年 勅宣 で同 七年

840

︶五 月事 始め

︑同 十二 年︵

845

︶完 成と みえ る!

︒ 勅宣 とさ れる 承和 三年 は︑ 真済 が遣 唐使 に任 命さ れた 年で ある から

︑実 慧が 受け た可 能性 が高 い︒ 承和 七年

︑正 月 に 真済 は内 供奉 十禅 師に 補任 され

︑十 二月 に実 恵に 代わ って 神護 寺別 当 に 任 ぜら れ た"

︒ よ って

︑承 和 三 年の 仁 明 天 皇 の発 願理 由は 分か らな いが

︑承 和七 年五 月の 事始 めは

︑真 済の 正月 の内 供奉 十禅 師補 任と 十二 月の 神護 寺別 当就 任 が 関係 する と考 えて よい

︒特 に内 供奉 十禅 師に 補せ られ たこ とは

︑直 接天 皇の 護持 に関 わる こと を任 され る立 場に 立 つ の で ある か ら︑ 仁 明天 皇 の た めの 宝 塔 院 の 造 営 や 安 置 仏 の 造 像 を 動 か す 契 機 と し て は 重 要 な 要 素 で あ る

︒ま た

︑ 佐 々木 守俊 氏#

が 述べ るよ う に 真済 の

﹃五 部 肝 心記

﹄に 五 大 虚空 蔵 菩 薩像 の 印 相 は説 か れ てい る か ら$

︑ 真済 の 指 導 下 で造 像さ れた こと は疑 いな い︒ 因み に承 和七 年に 真済 が開 始し たの は︑ 翌年 八年 の干 支が 辛酉 に当 たる こと にも 関係 する ので はな かろ うか

︒つ ま り 辛酉 革命 の危 険の 回避 とし て造 像が 急が れた ので はな いか とい うこ とで ある

︒後 世の こと なが ら︑ 辛酉 の歳 を無 事 に 過ご すた めに 五大 虚空 蔵法 が修 され てい る例 が知 られ てい るの であ り%

︑ この よ う な 五大 虚 空 蔵菩 薩 の 功徳 を 真 済 が 知っ てい た可 能性 はあ ろう

︒ま た﹃ 続日 本後 紀﹄ の承 和八 年は 仁明 朝で 唯一

︑兵 事が 卜さ れて いる 年で あり

︑辛 酉 革 命は 意識 され てい たこ とが 確か めら れる ので ある

&

︒ 以上

︑神 護寺 像は 真済 が内 供奉 十禅 師に 任命 され たこ とを 契機 に造 り始 めら れた とい うこ とを 述べ たが

︑こ の点 に 鑑 み 真 紹の 内 供 奉十 禅 師 の 補任 の 事 情を 探 っ てお こ う

︒小 山 田和 夫 氏 は実 恵 を 通じ て 真 済 と真 紹 は 親密 な 関 係 で あ り

︑真 済が 承和 十年

843

︶十 一月 九日 に権 律師 に補 任さ れ る こと に よ り内 供 十 禅 師を 退 き︑ そ のあ と の 内供 奉 十 禅 師 を真 紹 が 引 き継 い だ と指 摘 さ れて い る'

︒そ し て真 紹 は 権律 師 に 補任 さ れ る 承和 十 四 年︵

847

︶四 月 二 十三 日 ま で そ の任 にあ った

観心寺如意輪観音坐像追考 ― 34 ―

(16)

また 真紹 は︑ 承和 十年 十二 月九 日に 官牒 が東 寺に 下さ れ︑ 実恵 から 伝法 潅頂 職位 を十 二月 十三 日に 東寺 潅頂 院に て 授 けら れた

︒真 済は 同年 に東 寺二 長者 にな って いる から

︑真 紹の 伝法 潅頂 職位 を授 かっ たこ とと 共に

︑実 恵の 後継 者 育 成と いう 位置 づけ が小 山田 氏に よっ て指 摘さ れて いる

!

︒内 供奉 十禅 師 補 任 を契 機 と して

︑真 済

・真 紹 に実 恵 か ら も それ ぞれ の何 らか の働 きか けが あっ たこ とを 示し てい る︒ この よう に真 紹は 真済 から 内供 奉十 禅師 を引 き継 ぎで いる ので あり

︑神 護寺 像が この 職の 補任 によ って 始め られ た こ とか ら︑ 観心 寺像 の造 像契 機も

︑承 和十 年と 類推 され てく る︒ この 見解 に立 つと

︑同 年十 一月 十四 日に 河内 国国 守 を 観心 寺別 当に 定め ると いう 太政 官符 が発 せら れて いる こと も注 目で き る"

︒こ の 十一 月 の 朝廷 の 動 きは

︑小 山 田 氏 が 真紹 の内 供奉 十 禅 師 補任 を 十 一月 十 九 日か ら 同 二 十七 日 ま での 間 と 絞っ て お ら れる こ と と#

︑ 日時 的 に も 符合 し

︑ 無 関係 とは 思わ れな いの であ る︒ そし てま た︑ 嘉智 子に とっ て承 和十 年は

︑前 年七 月に 嵯峨 太上 上皇 が亡 くな り︑ これ をき っか けに 皇太 子の 恒貞 親 王 らが 謀反 を企 てた 承和 の変 が起 こる とい う世 情不 安な 折で あっ た$

︒ この 時 期 に 嘉智 子 が︑ 仁 明天 皇 を 護る た め の 如 意輪 観音 造像 の発 願が あっ ても 然る べき と考 えら れる

︒ 以上 の考 察が 正し けれ ば︑ 観心 寺像 の制 作年 代は

︑承 和十 年か ら嘉 智子 の崩 御す る嘉 祥三 年の 間と なる が︑ 仁明 天 皇 の護 持と いう 嘉智 子の 御願 から すれ ば︑ 承和 十年 の造 像開 始に 伴い 出来 るだ け速 やか に完 成さ せら れた もの と推 測 出 来よ う︒

― 35 ― 観心寺如意輪観音坐像追考

(17)

お わ り に 一・

二章 では 観心 寺像 の女 性性 から

︑玉 女を 通し て嘉 智子 の望 む皇 后像 と如 意輪 観音 とが 結び つき

︑観 心寺 像の 女 性 性の 中に 理想 の皇 后と して の玉 女の 姿を 読み とる こと がで きる と述 べた

︒三 章で は︑ 観心 寺像 の造 像が 承和 十年 を 契 機と する とし た︒ ここ で言 及し てお かな けれ ばな らな いの は︑ 承和 十年 は嘉 智子 は既 に皇 后を 退い てい るこ とで あ る

︒し かし

︑嘉 智 子 の 崩伝 に 母 子草 の 例 えが み ら れ︑ 同 じ嘉 祥 三 年に 仁 明 天皇 の 後 を 追う よ う に亡 く な る よう に%

︑ 嘉 智子 は母 后と して 病弱 な仁 明天 皇を 生涯 にわ たり 一体 とな って 支え たの であ る︒ また この 仁明 天皇 代に は立 后が な さ れな かっ たこ とか らも

&

︑観 心寺 像に は皇 后の 役割 を包 括す る母 后と して の理 想 の 姿 が反 映 し てい る と 考え ら れ よ う'

注 ︒

! 拙 稿

﹁ 観 心 寺 如 意 輪 観 音 像 と 檀 林 皇 后 の 夢

﹂ 笠 井 昌 昭 編

﹃ 文 化 史 学 の 挑 戦

﹄ 思 文 閣 出 版 二

〇 五

"

拙 稿

﹁ 平 安 初 期 仏 像 に み る 女 性 性

﹂﹃ 週 刊 新 発 見

! 日 本 の 歴 史 一 四 平 安 時 代 二 平 安 仏 教 と 王 権 の 変 容

﹄ 朝 日 新 聞 出 版 二

〇 一 三 観 音 の 女 性 性 に 関 し て は

︑ 弥 永 信 美

﹁ 如 意 輪 観 音 と 女 性 性

﹂﹃ イ ン ド 哲 学 仏 教 学 研 究

﹄ 八 二

〇 一

︑ 同

﹃ 観 音 変 容 譚

﹄ 法 蔵 館 二

〇 二

︑ 岩 崎 和 子

﹁ 観 音 像 に 見 ら れ る 女 性 像

﹂﹃ 歴 史 評 論

﹄ 七

〇 八 二

〇 九

︑ 拙 稿

﹁ 向 源 寺 蔵 木 造 十 一 面 観 音 菩 薩 立 像

﹂﹃ 国 華

﹄ 一 四

〇 七 二

〇 一 三

︑ な ど も 参 照 願 い た い

# 片 膝 を 立 て る 坐 方 が 女 性 特 の も の で あ る こ と に 関 し て は

︑ 山 折 哲 雄

﹃ 坐 の 文 化 論

﹄ 佼 成 出 版 社 一 九 八 一

︑ を 参 照

$ 石 田 尚 豊

﹃ 曼 荼 羅 の 研 究

﹄ 東 京 美 術 一 九 七 五

観心寺如意輪観音坐像追考 ― 36 ―

(18)

# 大 正 蔵 一 八 七 a

﹁ 聖 者 多 羅 尊

︑ 青 白 色 相 雑

︑ 中 年 女 人 状

︑ 合 掌 持 青 蓮

﹂︒ 大 正 蔵 三 九 六 三 二 a

・ b

﹁ 畫 多 羅 菩 薩

︑ 凡 諸 聖 者 皆 面 向 大 日

︑ 今 言 観 音 右 辺

︑ 即 是 座 西

︑ 他 皆 倣 此

︑ 此 是 観 自 在 三 昧

︑ 故 作 女 人 像

︑ 多 羅 是 眼 義

︑ 青 蓮 華 是 浄 無 垢 義

︑ 以 如 是 普 眼 摂 受 群 生

︑ 既 不 先 時 亦 不 後 時

︑ 故 作 中 年 女 人 状

︑ 不 太 老 太 少 也

﹂ 注"

に 加 え て

︑ 観 音 の 女 性 性 に 関 し て は

︑ 岩 本 裕

﹃ 仏 教 説 話 研 究 第 三 巻 仏 教 説 話 の 伝 承 と 信 仰

﹄ 開 明 書 院 一 九 七 八

︑ の 第 四 章

・ 第 五 章 を 参 照 さ れ た い

︒ 岩 本 裕 氏 は

︑ イ ン ド に ま で さ か の ぼ り 観 音 は も と は 女 性 神 で あ っ た こ と を

︑ 仏 教 の 諸 尊

︵ 仏

・ 菩 薩

・ 明 王

・ 天

︶ の 中 で 最 も 女 性 的 な 容 姿 を 持 っ て い る 事 実

︑ 持 物 と し て 女 性 の 象 徴 で あ る 蕾 形 の 蓮 華 を 持 っ て い る こ と か ら 述 べ ら れ

︑ そ れ が 仏 教 に 取 り 入 れ ら れ て 変 成 男 子 の 教 説 か ら 男 性 と し て 処 遇 さ れ た と さ れ て い る

︒ 他 の 観 音 に お い て も 准 胝 観 音 や 葉 衣 観 音 は も と も と ヒ ン ド ゥ ー 教 の 女 神 で あ っ た こ と が 指 摘 さ れ て い る

$

﹃ 弘 法 大 師 空 海 全 集 第 四 巻

﹄ 筑 摩 書 房 一 九 八 四

︑ 一 六 九

〜 一 七 一 頁 に 多 羅 菩 薩 が 中 年 女 人 の 姿 を と る こ と の 意 味 を 述 べ て い る

% 大 正 図 一 二 四

〜 二 六 如 意 輪 観 音 が 女 性 尊 で あ る こ と は

︑ 例 え ば

﹃ 幸 心 鈔

﹄ に 清 瀧 御 事 と し て

︑ そ の 御 正 体 は 僧 形 は 准 胝 に

︑ 女 形 は 如 意 輪 に あ て

︑﹃ 渓 嵐 拾 葉 集

﹄ に は

﹁ 如 女 示 現 観 世 音 者

︑ 六 観 音 中 何 乎

︑ 答

︑ 女 女 示 現 観 世 音 者 如 意 輪 也

⁝ 応 知 以 如 意 輪 為 六 観 音 総 体

﹂ と し て い る

&

田 中 公 明

﹃ 敦 煌 密 教 と 美 術

﹄ 法 蔵 館 二

︑ 第 三 章 及 び 同 著

﹃ 両 界 曼 荼 羅 の 誕 生

﹄ 春 秋 社 二

〇 四 ' 注!

︒ 以 下 の 本 文 中 の 前 稿 は す べ て 注! を さ す

︒ ( 大 正 蔵 一 八 七 二 六 c

︒ 空 海 の

﹃ 三 学 録

﹄ に も 記 載 さ れ て い る

︒ ) 倉 本 尚 徳

﹁ 北 朝 造 像 銘 に お け る 転 輪 王 関 係 の 用 語 の 出 現

﹂﹃ 印 仏 研

﹄ 六

〇 巻 一 号 二

〇 一 一

* 苫 米 地 誠 一

﹁ 真 言 密 教 に お け る 護 国

﹂﹃ 平 安 期 真 言 密 教 の 研 究 第 一 部 初 期 真 言 密 教 教 学 の 形 成

﹄ ノ ン ブ ル 社 二

〇 八 +

﹃ 弘 法 大 師 空 海 全 集 第 六 巻

﹄ 筑 摩 書 房 一 九 八 四 所 収

︑﹃ 性 霊 集

﹄ 第 六

﹁ 右 将 軍 良 納 言 為 開 府 儀 同 三 司 左 僕 射 設 大 祥 斎 願 文

﹂︑ 第 九

﹁ 大 僧 都 空 海 嬰 疾 上 表 辞 職 状

﹂︑ 第 九

﹁ 高 野 建 立 初 結 界 時 敬 白 文

﹂︑ 第 四

﹁ 献 梵 字! 雑 文 表

﹂ な ど

﹃ 弘 法 大 師 空 海 全 集 第 一 巻

﹄ 筑 摩 書 房 一 九 八 三 所 収

︑﹃ 秘 密 曼 荼 羅 十 住 心 論

﹄ 巻 二 ,

﹃ 弘 法 大 師 空 海 全 集 第 一 巻

﹄ 筑 摩 書 房 一 九 八 三 所 収

︑﹃ 秘 密 曼 荼 羅 十 住 心 論

﹄ 巻 二

︑ 一 八 七

〜 二 一 二 頁 - 朝 枝 善 照

﹁ 日 本 霊 異 記 に み ら れ る 聖 君 問 答 の 意 義

﹂﹃ 平 安 初 期 仏 教 史 研 究

﹄ 永 田 文 昌 堂 一 九 八

― 37 ― 観心寺如意輪観音坐像追考

(19)

#

﹃ 日 本 文 徳 天 皇 実 録

﹄ 嘉 祥 三 年 五 月 五 日 条

$ 大 正 蔵 二

〇 二 一 七 b

% 注"

岩 本 前 掲 書

︑﹁ 第 二 章 七 観 音

&

朴 亨 國

﹁ 如 意 輪 観 音 像 の 成 立 と 展 開

│ イ ン ド

・ 東 南 ア ジ ア

・ 中 国

﹂﹃ 仏 教 芸 術

﹄ 二 六 二 二

〇 二 ' 大 正 図 四 八 六 六 b 本 尊 変 王 玉 女 事 又 云 発 邪 見 心

︑ 婬 欲 熾 盛 可 堕 落 於 世

︑ 如 意 輪 我 成 王 玉 女

︑ 為 其 人 親 妻 妾 共 生 愛

︑ 一 期 生 間

︑ 荘 厳 以 福 貴

︑ 令 造 無 辺 善 事

︑ 西 方 極 楽 浄 土 令 成 仏 道

︑ 莫 生 疑 云 々 ) 弥 永 信 美

﹁ 如 意 輪 観 音 と 女 性 性

﹂﹃ イ ン ド 哲 学 仏 教 学 研 究

﹄ 八 二

〇 一

︒ 弥 永 氏 が 日 本 語 的 な 用 語 の 使 用 が 認 め ら れ る と さ れ て い る 点 に つ い て は

︑ 部 分 的 に 和 訳 を 施 さ れ た と 言 え る か も し れ な い

︒﹃ 覚 禅 鈔

﹄ 如 意 輪 上

︵ 大 正 図 四

︑ 八 五 五 b

︶ で は

︑ 後 者 の 軌 に

﹁ 持 本

﹂ の 割 書 が 入 る

︒ 文 中 引 用 は

︑ 如 意 輪 下 の も の

︵ 大 正 図 四

︑ 八 六 四 c

︶︒

* 長 部 和 雄

﹁ 漢 訳 如 意 輪 法 軌 に 関 す る 研 究

﹂﹃ 印 度 学 仏 教 学 研 究

﹄ 二 九 一 九 六 六 +

﹃ 覚 禅 鈔

﹄ に は

︑﹁ 観 自 在 菩 薩 如 意 摩 尼 転 輪 聖 王 金 輪 呪 王 経 一 巻

︿ 法 務 御 抄 云

︑ 無 諸 家 録

︑ 但 諸 師 引 用 之

﹀﹂

︵ 大 正 図 四 八 五 五 b

︶ と あ り

︑ 四 臂

・ 八 臂

・ 十 臂

・ 十 二 臂 な ど の 図 像 を 説 い て い る こ と が 判 明 す る が

︑ 全 容 他 は 不 明 で あ る

︒ ,

﹃ 覚 禅 鈔

﹄ に は

︑﹁ 如 意 輪 王 摩 尼 跋 陀 別 行 法 印 一 巻

︿ 慈

︑ 秘 録 無 之

﹀﹂ と あ る

︒ 円 仁 の

﹃ 入 唐 新 求 聖 教 目 録

﹄ に は

︑ 長 安 に お い て 不 空 訳 の 如 意 輪 観 音 経 軌 に 加 え て

︑ 訳 者 不 明 の

﹁ 如 意 輪 王 摩 尼 跋 陀 別 行 法 印 一 巻

﹂ と い う 他 に は 見 え な い 経 を 得 て い る が こ れ に 比 定 で き よ う

︒ ま た

﹃ 敦 煌 法 藏

﹄ に 収 録 さ れ る 中 国 撰 述 と 考 え ら れ る も の の う ち

︑﹁ 観 世 音 菩 薩 如 意 輪 陀 羅 尼

: 別 行 法

﹂︑

﹁ 観 世 音 菩 薩 如 意 輪 陀 羅 尼 章 句 咒

﹂︑

﹁ 如 意 輪 王 摩 尼 別 行 法 印

﹂ な ど が み ら れ

︑ 同 一 の 経 軌 が 含 ま れ る 可 能 性 が 高 い と と も に

︑ 長 部 氏 の 指 摘 の 不 空 以 降 で は

︑ 大 正 蔵 に 収 録 さ れ る 如 意 輪 観 音 経 軌 か ら 展 開 し た 新 た な 如 意 輪 観 音 信 仰 の 高 ま り が あ っ た こ と が 窺 わ れ る

︒ - 大 正 蔵 二

〇 二

〇 三 a

﹁ 若 於 女 人 懐 中

︑ 但 読 誦 必 成 大 験

︑ 念 誦 之 時 當 憶 聖 如 意 輪 菩 薩 形 相 永 作 依 怙

﹂ . 含 光 記

﹃ 毘 那 夜 迦 那 鉢 底 瑜 伽 悉 地 品 秘 要

﹄︵ 大 正 蔵 二 一 三 二 一 c

︶ の

﹁ 毘 那 夜 迦 生 歓 喜 心 双 身 真 言

﹂を 字 義 的 に 解 釈 す る 中 で 述 べ ら れ る

︒ 壁 瀬 灌 雄

﹁ 毘 那 夜 迦 伽 那 鉢 考

﹂﹃ 龍 谷 大 学 論 集

﹄ 三 四 六 一 九 五 三

︑ 彌 永 信 美

﹁( 象 頭 神 の 歓 喜

﹂﹃ 観 音 変 容 譚

│ 仏 教 神 話 学!

﹄ 法 蔵 館 二

〇 二

︑ な ど を 参 照 さ れ た い

観心寺如意輪観音坐像追考 ― 38 ―

(20)

' 拙 稿

﹁ 向 源 寺 蔵 木 造 十 一 面 観 音 菩 薩 立 像

﹂﹃ 国 華

﹄ 一 四

〇 七 二

〇 一 三 ( 注$ 拙 稿 ) 空 海

﹃ 請 来 目 録

﹄ に は

︑﹁ 如 意 輪 念 誦 法

﹂﹁ 観 自 在 菩 薩 如 意 輪 瑜 伽

﹂ の 他 に

︑ 貞 元 目 録 に 載 ら な い も の と し て

﹁ 如 意 輪 観 門 義 注 秘 訣

﹂ が み え る

* 注&

参 照

﹃ 入 唐 求 法 巡 礼 行 記

﹄ 開 成 四 年

︵839

︶ 二 月 五 日 条

︒ 小 野 勝 年

﹃ 入 唐 求 法 巡 礼 行 記 の 研 究

﹄ 鈴 木 学 術 財 団 一 九 六 九

︑ の 開 成 四 年

︵839

︶ 二 月 五 日 条 の 注 釈

︑ 石 田 尚 豊

﹁ 円 仁 の 揚 州 求 法 に つ い て

﹂﹃ 青 山 史 学

﹄ 八 一 九 八 四

︒ + 恵 萼 に つ い て は

︑ 橋 本 進 吉

﹁ 恵 萼 和 尚 年 譜

﹂﹃ 伝 記

・ 典 籍 研 究

﹄ 岩 波 書 店 一 九 七 二

︑ 高 木% 元

﹁ 唐 僧 義 空 の 来 朝 を め ぐ る 諸 問 題

﹂﹃ 空 海 思 想 の 書 誌 的 研 究 高 木% 元 著 作 集 四

﹄ 法 藏 館 一 九 九

︑ 及 び 注, の 研 究 を 参 考 と し た

︒ 彼 は 三 度 の 入 唐 を 果 た し て い る

︒! 八 四

〇 年 入 唐

│ 八 四 二 年 帰 朝

︑"

八 四 三 年 頃 入 唐

│ 八 四 七 年 帰 朝

︑# 八 四 八 年 頃 入 唐

│ 八 四 九 年 帰 朝 , こ の 時 期 の 活 発 な 日 中 間 の 往 来 に 関 し て は

︑ 佐 伯 有 清

﹃ 最 後 の 遣 唐 使

﹄ 講 談 社 一 九 七 八

︑ 榎 本 渉

﹃ 選 書 日 本 中 世 史 4 僧 侶 と 海 商 た ち の 東 シ ナ 海

﹄ 講 談 社 二

〇 一

︑ 田 中 史 生

﹃ 国 際 交 易 と 古 代 日 本

﹄ 吉 川 弘 文 館 二

〇 一 二 な ど 参 照

︒ -

﹃ 日 本 彫 刻 史 基 礎 史 料 集 成 平 安 時 代 重 要 作 品 篇 三

﹄ 中 央 公 論 美 術 出 版 一 九 七 七 . 承 和 七 年 に 鐘 を 鋳 造 す る こ と は 観 心 寺 の 完 成 を 意 味 す る と 考 え ら れ て い る の で

︑ こ の 年 ま で に 御 願 堂 も 完 成 し て い た 可 能 性 を 想 定 さ れ る

︒ し か し

︑ 嘉 智 子 の 勅 願 堂 を 観 心 寺 の 完 成 と 一 体 の も の と 考 え る 必 要 は な い だ ろ う

︒ / 田 中 恵

﹁ 観 心 寺 草 創 期 の 造 仏 と 真 紹

﹂﹃ 岩 手 大 学 教 育 学 部 研 究 年 報

﹄ 第 四 一 巻 二 号 一 九 八 二 0 紺 野 敏 文

﹁ 観 心 寺 如 意 輪 観 音 像 の 風 景

﹂﹃ 日 本 美 術 全 集 第 五 巻 密 教 寺 院 と 仏 像

﹄ 講 談 社 一 九 九 二 紺 野 氏 が 取 り 上 げ て い る

﹃ 嵯 峨 太 上 大 后 潅 頂 文

﹄︵

﹃ 弘 法 大 師 諸 弟 子 全 集

﹄ 巻 上

︶ は

︑﹁ 観 音 菩 薩 也 応 陶 御 身 授 秘 密 仏 戒 於 七 宝 之 珠 臺

﹂ な る 表 現 が 入 り

︑ 嘉 智 子 と 観 音 の 関 係 を 考 え る 上 で は

︑ 極 め て 魅 力 的 な 史 料 で あ る

︒ そ し て

︑ 西 本 昌 弘 氏

︵﹁ 嵯 峨 天 皇 の 潅 頂 と 空 海

﹂﹃ 関 西 大 学 文 學 論 集

﹄ 五 六 巻 三 号 二

〇 七

︶ が 実 恵 の 著 作 と し て 認 め ら れ て い る

︒ し か し

﹃ 平 城 天 皇 潅 頂 文

﹄ と 一 致 す る 箇 所 が あ る こ と な ど

︑ そ の 成 立 を め ぐ っ て は 慎 重 に 扱 い た い

︒ 1 伊 東 史 朗

﹁ 真 言 密 教 彫 像 論

﹂﹃ 新 編 名 宝 日 本 の 美 術 神 護 寺 と 室 生 寺

﹄ 小 学 館 一 九 九 二 2 丸 山 士 郎

﹁ 東 寺 講 堂 諸 像 と 承 和 前 期 の 作 風

﹂﹃MUSEUM

﹄ 五 三 二 一 九 九 五 3 こ の 二 尊 像 は

︑ 久 野 健

﹁ 観 心 寺 の 平 安 初 期 仏 像 に つ い て

﹂﹃ 國 華

﹄ 九 六 一 一 九 七 三

︑ に よ り 尊 名 比 定 が お こ な わ れ た

︒ こ

― 39 ― 観心寺如意輪観音坐像追考

(21)

こ で 述 べ ら れ て い る 根 拠 の 他 に

︑ 仏 眼 仏 母 像 に 関 し て は

︑ 宗 叡 請 来 と さ れ る

﹁ 理 趣 経 十 八 会 曼 荼 羅

﹂︵ 大 正 図 五 七 九 五

︶ で 同 じ 図 像 が み え る こ と に よ っ て さ ら に 明 ら か と な ろ う

︒ そ し て

︑ 宗 叡 は 貞 観 七 年

︵865

︶ に 帰 朝 し

︑ 貞 観 十 年

︵869

︶ に 真 紹 か ら 本 寺 を 受 け 継 い で い る か ら

︑ こ の 頃 の 造 像 と 考 え る の が 妥 当 で あ ろ う

# 観 心 寺 像 は 注"

︑ 神 護 寺 像 は

﹃ 日 本 彫 刻 史 基 礎 史 料 集 成 平 安 時 代 重 要 作 品 篇 二

﹄ 中 央 公 論 美 術 出 版 一 九 七 六

︑ を 参 照

$

﹃ 性 霊 集

﹄ に は

︑ 空 海 が 五 大 虚 空 蔵 の 画 像 を 作 制 し た こ と が み え る

︵ 日 本 古 典 文 学 大 系 七 一 三 一 一

︶︒ 奈 良 時 代 の

︵ 如 意 輪

︶ 観 音 は

︑ 観 音 が 説 く 如 意 輪 陀 羅 尼 の 信 仰 で あ り

︑ 未 だ 明 確 に 如 意 輪 観 音 と し て は 意 識 さ れ て い な か っ た と 思 わ れ る

︒ こ れ は

︑ 二 臂 像 を 説 く 菩 提 流 志 訳

︵! 一

〇 八

︶︑ 義 浄 訳

︵! 一

〇 八 一

︶︑ 実 叉 難 陀 訳

︵! 一

〇 八 二

︶︑ 宝 思 惟 訳

︵! 一

〇 八 三

︶ な ど に み ら れ る 特 徴 で あ る

︒ 拙 稿

﹁ 奈 良 時 代 の

﹁ 如 意 輪

﹂ 観 音 信 仰 と そ の 造 像

│ 石 山 寺 像 を 中 心 に

﹃ 美 術 研 究

﹄ 三 五 三 一 九 九 二

︑ を 参 照 さ れ た い

%

﹃ 小 野 玄 妙 仏 教 芸 術 著 作 集

﹄ 第 三 巻

・ 八 篇 二 章

︑ 開 明 書 院 一 九 七 七

︑ 初 出 は

﹃ 佛 教 之 美 術 及 歴 史

﹄ 仏 書 研 究 会 一 九 一 六

︒ 田 村 寛 康

﹁ 奈 良 時 代 東 大 寺 盧 遮 那 仏 の 両 脇 侍 像 に つ い て

﹂﹃ 仏 教 芸 術

﹄ 一 二

〇 一 九 七 八

&

注# 参 照 ' 小 山 田 和 夫

﹁ 真 済 に つ い て

│ 実 恵

・ 真 紹 と の 関 係

﹂﹃ 立 正 史 学

﹄ 四 二 一 九 七 八 ( 佐 々 木 守 俊

﹁ 神 護 寺 五 大 虚 空 蔵 菩 薩 坐 像 の 図 像 に つ て

﹂﹃ 美 術 史

﹄ 一 四 七 一 九 九 九 ) 大 正 蔵 七 八 三 八

*

﹃ 覚 禅 鈔

﹄ 五 大 虚 空 蔵 法

︵ 大 正 図 5 四 五 b

・ 四 八 b

│ c

︶ は

︑ 治 安 元 年

︵1021

︶ に 小 野 僧 正 仁 海 が 除 災 の た め に 初 め て 金 門 鳥 敏 法

︵= 五 大 虚 空 蔵 法

︑ か の と と り の ほ う

︶ を 修 し た と す る

︒ 尚

︑ 高 雄 山 神 護 寺 ホ ー ム ペ ー ジ

︑ 寺 宝 紹 介 に

﹁ 金 門 鳥 敏 法

﹂ が 触 れ ら れ て い る

︒ +

﹃ 続 日 本 後 紀

﹄ 承 和 八 年 五 月 三 日 条

︑ 同 年 六 月 二 十 二 日 条 の 二 例 の み

︒ 共 に

︑ 肥 後 国 阿 蘇 郡 の 神 霊 池 の 水 が 減 っ た こ と を 占 う と

︑ 旱 疫 と 兵 乱 が あ る と 出 た と あ る

︒ , 真 紹 に 関 し て は

︑ 注' 小 山 田 前 掲 論 文

︑ お よ び 同 氏

﹁ 禅 林 寺 創 建 と 真 紹

﹂﹃ 古 代 文 化

﹄ 二 八 三 一 九 八 二

︑ 参 照

︒ 小 山 田 氏 は

︑ こ の 親 密 な 関 係 か ら

︑ 真 紹 は 神 護 寺 の 梵 鐘

︵ 貞 観 一 七 年 銘

︶ の 発 願 者 で あ る と さ れ た

︒ - 注, に 同 じ

観心寺如意輪観音坐像追考 ― 40 ―

参照

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