いわゆる actio libera in causa : その原理的考 察
その他のタイトル Die sog. actio libera in causa
著者 川口 浩一
雑誌名 關西大學法學論集
巻 59
号 3‑4
ページ 699‑715
発行年 2009‑12‑18
URL http://hdl.handle.net/10112/1522
こ全全 ~actio libera in causa
―― や 0 話囲起楽啜后
一、
口
尭
目 次
心神喪失と心神耗弱
1単なる量的相違か?
構 成 要 件 モ デ ル と 例 外 モ デ ル ニ 者 択 一 か
?
人格︑行為︑自然いわゆる
a c t i o l i b e r a i n c
au sa
とは︑精神の障害により︑行為の違法性を弁識し
︵ 六
九 九
︶ の問題が混在しており︑そ
︵欠如する程度までには至らな
﹁人 格は
⁝⁝
生きておらず︑考えてもい
ない
︑
それはコミュニ
ケー ションの目的
のた め のコ ミュ
ニケ
ーショ
ンの
構成である
︒ ﹂ ( "
︾P
e r s o n e
・ n
: l e b e n n i
t c h ,
s i e de nk en ni c
h t ,
s i e s i n d K o n s t r u k t i o n e n d e r K o m r n u n i k a t i o n f i i r Zw ec k e d e r Ko mm un ik at o i
n. " ) 1ニ
クラス・ルーマ
ン(
N i k l La s uh ma
nn ,
O r g a n i s a t i o n n u
fd E2000S90 ) n t s c h e i d u n g . ., ,
日本刑法 三 九条は﹁①心神喪失者の行為は︑罰しない ︒ ②心神耗弱者の行為は︑その刑を減軽する ︒ ﹂ と規定し
ているが﹁心神喪失及び心神耗弱の意義の理解についてはもっぱら解釈にゆだねて
﹂ おり︑通説・判例は﹁心神喪失
を 欠
く 状
態 ﹂
︵ 弁識能力 ︶ ︑その弁識に従 っ て行動を制御する能力 ︵
制 御
能 力
︶ であり︑﹁心神耗弱とは︑精神の障害により︑弁識能力又は制御能力が
(1)
い が
︶
著しく限定されている状態をいう﹂と定義している
︒ それは︑同じ能力に関する単なる 量
的な
差 異のように考
(2)
えられているように思える ︒ これに対してドイツ刑法の 二 0
条は﹁行為の遂行に当たり︑病的な精神障
害 ︑根深い意
識障害︑又は精神薄弱もしくは重大なその他の精神の変性のため︑行為の不法を弁識し︑またはその弁識に従って行
(3)︵4)
為する能力がない者は︑
責 任なく行為したものである ︒ ﹂ と規定し︑同
ニ ︱ 条は﹁行為者の︑行為の不法を弁識し︑
またはその弁識に従って行為する能力が︑
二 0
条に記載の理由のいずれかにより行為遂行の際に著しく減少していた
ときは︑四九条により刑を軽減できる ︒ ﹂ と規定している ︒ ドイツ刑法の 二 0 条の規定には︑狭義の責任能力︑すな
わち帰属︹帰責︺無能力
(N
ur ec hn un gs un fa hi gk ei
と期待不可能性
(t)Un zu mu tb ar ke it)
(5)
れを区別するぺきだとする主張が見られる
(Jak ob )s
︒
この説によれば︑﹁意識障害や変性に基づき︑行為者の行為
心 神 喪 失 と 心 神 耗 弱 ' │
│ 単
な る
益
想 的
涅 か
?
三 八 七
態様がこれ以上調整されえない客観的な雛型
(M us te r)
に尽くされ︑この客観的なことの中に埋没することが個人
(6 )
的行為の 一
時的な可能性とは理解されえない場合には帰属能力が欠け
﹂ るのに対し︑﹁意識障害や変性の所
の完全な喪失︑すなわち帰属無能力とは別に︑なお存在している帰属能力における期
(7)
待可能性のルールとして理解される場合﹂にも考慮され︑実務上はより重要となる ︒ 前者の主体性を喪失してしまっ
た場合︵帰属無能力︶
は規範に関する意味表現としての行為は存在しており︑言い換えれば︑前者は少なくともその状態においては人格
(P er so n)
見は︑主体性
(S ub e j kt iv it at )
関法
第五九巻――-•四号つまり当該規範に ︵この人格概念については後述する 三八八 ︵ 七
0 0 ) には︑もはやそこに行為を語ることはできず︑自然の経過に過ぎないのに対し︑後者の場合に
でないのに対し︑後者は︑なお人格であるといえる
この見解によれば︑責任無能力にも帰属無能力の場合と期待不可能性の場合の二つの事例が存在する
︒ そしてドイツ
刑法ニ︱条の限定責任能力については︑期待可能性のみで説明される
(8
) ba rk ei t
︺ ︶
︒ すなわち﹁いわゆる限定責任能力においては︑常に︑犯罪を回避する能力を持つ︑
よってなお十分な強さで対応可能
(a ns rp ec hb ar )
と同様の判断枠組みは︑最近日本でも有力に主張されている ︹ 三
︺ ︶
︒
す な
わ ち
︑
︵部分的期待不可能性︹
di e p a r t i e l l e n U zu mu
t ,
である主体
(S ub je kt )
は︑なお存在している︒それゆえ刑法ニ ︱
条の領域においては︑期待可能性と期待不可能性の区別が問題となるのであって︑婦属能力と帰属無能力の区別が問
題となるわけではないのである
︒ ﹂
この責任無能力における帰属無能力︵狭義の責任無能力︶と期待不可能性の区別
(9)
︵
安 田
︶
︒ そ
こでは﹁自由で答責的な人間の持つ統制力
に関わる問題﹂である①﹁答責主体論﹂と
(1 0
)
二
分する﹁制御能力二分論﹂が採られ︑限定責任能力の場合は﹁主体性の問題においては︑認識・制御主体が完全に
﹁その意思を衝動との力関係に関わる問題﹂である②﹁制御可能性﹂論に
損なわれているかどうかだけが重要であるから︑主体が著しく損なわれているというだけでは︑心神耗弱を認める理
いわゆる
a c t i o l i b e r a i n c
au sa
由はない﹂が︑﹁その主体に残された能力を前提としても︑当該違法性の認識あるいは当該衝動の制御が著しく困難 であり︑認識可能性・制御可能性が著しく減少している場合には﹂︑﹁能力
(F
ah ig ke it ) l i c h i t k e )
が減少しており︑もって責任が減少することになる﹂とされる
︒ そして 主 体性判断においては︑事実的基
礎︑すなわち精神医学の知見が重視されるのに対し︑制御可能性判断においては仮定的な衝動抑制判断が重要であり︑
(1 2
)
﹁制御可能性論において︑国家標準説による期待可能性判断と同様の枠組みをとる﹂としている
︒ この見解に対して
は ︑
﹁ 精
神 の
障 害
が ︑
はあるが︑可能性 ( M
o g
,
いわば宿命的なものであるか自ら招いたものであるのかによって︑制御可能性を判断する際の
(1 3
)
規範的要求の寛厳が異なる﹂ことを容認している点につき︑責任には事実的基礎が必要であるという
立 場がここで揺
(1 4 )
らいでいるように見えるという批判があるが︑これは制御主体論ではなく︑制御可能性論に関する主張であるから︑
( 1 5 )
この立場は一貫しており︑妥当な批判でない︒重要なのは制御主体が失われてしまっている場合と︑それがなお残っ ている場合の判断を質的に異なるものと捉えていることである
︒
この見解については︑責任能力論全体の大きな構想 を含むものであり︑なお詳細な検討が必要であるが︑制御主体性の喪失による責任無能力事例と限定責任能力の判断 の質的差異を意識している点で示唆に富む見解であるといえよう
︒ これらの見解からは︑帰属能力 ︵ 主体性 ︶ を完全
に完全に喪失してしま っ ている場合
︵ 責
任無能力の 一 部 ︶
と期待可能性のみで説明される限定責任能力の場合は︑単 なる量的な相違ではなく︑全く質的に異なった状態であるといえ︑次節で論じるいわゆる
a c t i o l i b e r a i n c
au sa
の 問
題の考察の際にも︑この区別は︑非常に重要な意義を有するのである
︒
三
八九
︵ 七 O
I)② 例 外 モ デ ル
(2 6
)
れる
︒
まず︑前者のモデルは︑議論の対象となっているすべての事例群に適用できるものでないことはその主張者に
(2 2
)︵
理論的構成については︑処罰不要説を除けば︑①構成要件モデル ︵ 原則論的アプローチ
2 3 )11
間接正犯的構成説︑
︶ と
(2 5
)
︵ 修正論的アプローチ
11
同時存在原則修正説︑責任モデル︑遡及モデル︶の 二 つに学説は大きく分か
よ っ ても認識されつつある ︒ 特に︑間接正犯構成を採り︑間接正犯を道具理論で説明しようとするならば︑限定責任 状態の利用の 事 例について︑このモデルで説明することは困難となる ︒ また︑このモデルに対する有力な批判として 原因行為に実行の着手を認めるのは早すぎるということが︑他方︑例外モデルについては︑例外を認める説得的な理 論的根拠が示されていないということが指摘されている ︒ さらに︑最近では③両モデルを併用する見解 ︵ 山口 ︶ も
(2 7
)
主 張されている ︒ いて自由な行為を 含
め ︑
(2 1
)
としても必要である ﹂ とされる ︒ 関 法
構 成 要 件 モ デ ル と 例 外 モ デ ル
ーー
ニ 者
択 一
か ?
第五九巻三•四号
三九 〇 ︵ 七 0
二 ︶
(1 6
)
以上の考察と関連していわゆる
a c t i l i o b e r a i n c a u s
として問題となる 二
aの つ
事 例として﹁ある者が過 去 の経験に
(1 7
)
より酪酎状態で何をするかを知ってい﹂た﹁にもかかわらず再度酪酎するという事例群 ﹂
において①その者が上述 の帰属無能力の状態においてそのことを行 っ た場合と②その酪酎状態が限定責任能力の状態だ っ た場合について考 察する ︒ 全面的否定説や立法必要説も存在しているが︑受け皿構成要件として完全酪酎罪 ︵ ドイツ刑法
三 二
三 条
a )
が存在しているドイツと異なり﹁酪酎犯罪処罰規定をもたないわが国においては︑限定 責 任能力状態利用の原因にお
一 定の原因において自由な行為 事 例の処罰を根拠づけるものとしての解釈論が酪酎犯罪対策
いわゆる
a c t i l i o b e r a i n c a u s a
(2 8
)
このような学説状況の下で日本におけるより有力な見解は︑構成要件モデルであるとされるが︑最近では例外︵責 任︶モデルを違法性の錯誤に類似した構造のものとして理解し︑同時存在の原則の例外を理論的に説明しようとする 見解も主張されており︵中空︶︑現在では︑どちらが通説か確定しがたい状況になっている
︒ このように理論的に錯
綜した状況から抜け出すためには︑前述 (
‑ )
能力︵さらにいえば人格性の否定︶
あろう ︒ のように心神喪失と心神耗弱が単に量的な相違にとどまらず︑帰属無
と期待可能性の減少という質的に異なるものであるということを認識する必要が
その上で注目されるのは両モデルの併用説︵山口︶ である︒この説は︑①構成要件モデルと②責任モデルは﹁原因
において自由な行為の可罰性を肯定する論理基準として︑問題とする側面を異にするものであり︑
他方が採用できないという意味で相互排他的なものでない﹂として﹁問題となる事案に即して可能かつ適切なモデル
(2 9
)
を採用し︑それに基づいて可罰性を肯定することは可能だと解される ﹂ とする ︒ この見解は︑従来は特に﹁実行行為
に対する責任非難は実行行為時の事情のみにもとづいてなされるぺきもの
三 九
則に依拠した①のモデルで説明していたものを︑違法性の意識の可能性との対比において︑同様に﹁実行行為より
遡って責任を問うこと﹂が承認されるとして②のモデルとの併用を認めるのである ︒ この見解には批判も加えられて
( 3 0 )
いるが︑両モデルがその適用領域を異にし︑併用することができることを指摘した点は正当である
︒ 問題は︑併用を
認めた場合︑①と②の適用領域はどのように分配されるのかということと︑それとも関連して②の根拠であるが︑そ
(3 1
)︵
3 2 )
の点について︑この見解は︑若干の留保を加えているが︑基本的には﹁禁止の錯誤援用説﹂︵中空︶に依拠するもの
と考えられる ︒
︵ 七 0
三 ︶
︵実行行為との同時的な非難︶﹂という原
一 方を採用すると
第五九巻―――•四号
そこで︑この禁止の錯誤援用説を検討する ︒ この説は﹁責任説の前提とする責任構造が︑違法性の意識が存在しな
い場合にも違法性の意識があったならば当該行為を抑制しえたであろうという仮定的基盤に基づく仮定的判断として
責
任判断がなされることを意味することを前提にして︑責任能力についても︑責任能力が維持されていたならば
当 該
( 3 3 )
行為を抑制しえたであろうという仮定的判断としての 責 任判断もなしうるはずであるとする点にその本質がある ﹂ と
される ︒
そして精神の障害に基づく責任無能力の問題と﹁精神の障害以外の自由に基づいて法秩序が合規範的意思決
定を期待し得ない状態である違法性の意識の可能性の問題と非難可能性を根拠づけるという機能では同質のもので
あ﹂り︑﹁それゆえに︑実行行為時に違法性の意識がなくともそれ以前の時点で違法性について調査等をする契機が 存在するために違法性の意識の可能性があったと評価される場合と同様に︑原因行為の時点で︑結果行為と同種の構
成要件該 当 行為が 予 見でき︑原因行為を中止することで 責 任能力状態の発生が回避できる場合には︑そのことによ っ
( 3 4 )
て法秩序は合規範的意思決定を期待しうることになる﹂とするのである ︒
この見解が︑前提としてこの問題を合規範的意思決定を期待し得るかどうかという規範的な問題として捉えている
ことは妥当である ︒ しかし︑①この禁止の錯誤の理解は責任説に依拠しているが︑そのことが妥当かということと
② そ れ が 完 全
責 任無能力︵上述の帰属無能力 ︶ の場合にも限定責任能力の場合にも同 等 に妥 当 するかという二つの
( 3 5 )
点について疑問がある ︒ そのうち ① については責任説に関する全面的な検討が必要となるので︑詳しくは別稿で検討
することにし︑本稿では②の点について考察する ︒ 三 九 二 ︵ 七 0 四 ︶
まず︑行為者が限定責任能力の場合に規範に対応できる能力という意味での人格性は︑減少しているとはいえ︑な
お残存しており︑その時点で合規範的判断を行う可能性も存在している ︒ これは禁止の錯誤に陥った場合とは状況的 関 法
いわゆる
a c t i o l i b e r a i n c
au
sa
︱ ︱ ‑
J L
に異なるのではないだろうか ︒ むしろ
Ja ko bs
のいうように限定責任能力は︑管轄
(N
us ta nd ig ke it )
としての期待可
(3 6 )
能性が減少した場合と考えるぺきであり︑期待可能性が否定・減少するような状況を自招した場合については管轄が
(3 7
)
否定されない場合がある︒この詳細についても本稿では留保せざるをえないが︑少なくとも自ら意図的に限定責任能
力状況を作り出した者については︑管轄として期待可能性は否定されず︑禁止の錯誤を援用せずとも︑刑法 三 九条 二
次に完全な帰属無能力の場合にも︑この禁止の錯誤援用モデルが妥当するかどうかには疑問がある ︒ 帰属無能力の
場合︑およそ規範に対応する能力が失われてしまっているため︑そうではない禁止の錯誤に陥った者とは状況が異な るから︑規範的観点からも同視できず︑むしろ︑この場合には︑間接正犯として説明した方が事態に即したものとい
(3 8
)
えよう ︒ しかもそれは間接正犯に類似した状況ではなく︑間接正犯そのものなのである ︒
Ja ko bs
の 言 葉を借りれば
時的に人格性を喪失し︑自然となり︑そのような状況に陥れば特定のパターンの行動をとる
うことを認識しており︑かつそれを利用して犯罪を行ったとすれば︑間接正犯を認めることには何ら問題はないと考
間接正犯構成説には︑飲酒開始時に実行の着手を認めるのは早すぎるという批判がある ︒ 確かに酒を 一 口飲んだだ
一 定時間︑飲酒を続け︑これ以上飲むと
(4 0
)
︵特定のパターンの行動をとる︶責任無能力状態に陥ってしまう直前の段階を実行の着手と見ることができよう
︒ こ けで直ぐに責任無能力状態に陥るということは非常に稀であり︑
通 常
は ︑
︵ 七 0 五 ︶ える ︒
︵ 例
え ば
人 を
殴 る
︶
ヽ
とし
正 犯
は ︑
﹁原因において自由な行為は︑
その発現形態によりいくぶん不明確にされた間接正犯の 一 事例であり︑さらに︑間接
(3 9
)
その発現形態によりいくぶん不明確にされた自己遂行の一事例である ︒ ﹂婦属無能力状態に陥った自己は 一 項による刑の軽減は認められないと説明できるであろう ︒
こで問題となるのは︑そこまで実行の着手を遅らすと︑そのような状態においては︑既に限定責任能力状態になって
いるのではないかという疑問が生じることである︒しかし︑その限定責任能力状態も︑行為者が自ら意図的に引き起
こしたものであるから︑実行の着手時点における三九条二項の適用も否定されると考えれば問題はない︒後の事象は
(4 1
)
すべて自然の因果経過にすぎない︒
このように前述の併用説は︑
Ja ko bs
説と同様の責任能カ・原因において自由な行為の理解に立つことによって︑
( 4 2 )
その妥当な適用領域を見出すことができるのである︒
最後に︑以上のような考察の基礎とされている人格の概念について︑いくつかの補足しておく︒
Lu hm an
n
によれ
( 4 3 )
ば︑人格
( P e r s o n )
とは機能的に観察を互いに区別するための手段として理解され︑それによって秩序が作り出さ
(4 4 )
れるが︑同時に行動の可能性
( V e r h a l t e n s m o g l i c h k e i t )
が制限されるという代償を伴う︒すなわち︑﹁人格として理
解されなければならないのは︑特別の客体でも︑色々な客体が属する種類でも︑様々な客体の
の﹄ということになるかもしれないが︶性質でもなく︑ある特別の種類の区別︑二つの側面を持つ形式として観察を
導く区別である︒人格は︑人間や個人とは別の対象であるだけではなく︑人間としての個人のような対象を観察する
ための別の形式なのである︒そうだとすれば︑この形式の外側は何か︑どのような観点からすれば人格が人間で
(4 5
)
ないとか個人でないとかということにならずに非人格
( U n p e r s o n )
あ る
︒
︹ 原
文 改
行 ︺
関法第五九巻三•四号
この目的を達成するためには 人格︑行為︑自然
﹃ 人
格
﹄
と い
う 形
式 を
︑
三九四
でありうるかということが決定的に重要で ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ヽ
(4 6 )
行動可能性が個人に認められる際の制限と
︵ こ
の 場
合 は
﹃ 主
体
︵ 七 0
六 ︶
いわゆる
a c t i l i o b e r a i n c a u s a
式 ﹂
(F or m)によって心理システム の副産物として︑諸人格が凝結してくる
( k o n d e n s i e r e
n )
して規定されなければならない ︒
⁝⁝重点は行動可能性の制限自体にあり︑従って形式は︑その制限によって何かが
(4 7
)
外側として︑すなわち人格に属さないものとして示されるということである
︒ ﹂そして
の社会システムを形成しようというなら社会的状況の 二
重の不確定性の問題を解決しなければならないという必要性
t un g s d i s z i p l i n )
のである ︒ そのために生じるのが期待の規律化
(E rw ar
,
であり︑行動レパートリーの制限であり︑何かであるようなふりをすればそれを続けていかなけれ
ばならないという必要である ︒ さらに︑心理システムが役 立
てることのできるその他様々の可能性の枠内で外側への 横断ができる場合に備えて︑その外側のことも考えておくということである
︒ したが っ て形式自体は︑様々な心理的
(4 8
)
欲求を満たすわけではなくて︑他の様々の参照と共に︑すべての社会システムの諸問題を解するものである
︒ ﹂
﹁ 心
的 システムと人格を主体概念に集約して両者の区別をやめるような倫理学は︑こうした微妙なニュアンス
(4 9
)︵
5 0 )
h e i t e n )
を無視するか︑それとも︑不誠実だとして倫理的に軽視するものである
︒ ﹂﹁⁝⁝人格は心理システムと社会
システムの構造的連結に役 立 つ ︒
人格は心理システムに︑社会的交流においてどのような制限に服することになるか
自分で経験することを可能にする ︒
人格であるという意識は︑心理システムにノーマルな場合は社会の
O K 与 を える ︒
ノ
ーマルでない場合においてはシステムがまだ対処しうる刺激という形式を
与 える ︒ システムは人格としての 自 分自
(5 1
)
身との間に問題を生じたときはある程度それに気づいて︑打開の道を探る機会を持つ
︒ ﹂すなわち︑人格という﹁形
(p
s y c h i s c h e s Sy st em
)
は︑それに向けられた期待
(Er wa rt un ge
n)
を 認
識 し
︑
逆に人格という形式はその心理システムの社会的重要性を 示 す
(s i g n a l i s i e r e
)(n
ものであり︑人格
Pe rs on en )
会システムに秩序を作り出し︑二重の不確定性
(d o p p e l t e Ko nt in ge z n
)
三 九 五
︵七 0 七
︶は社
において行為可能性を制限するものなので
(Fei
n ,
﹁このように︑そもそも様々
区坦綜ば兵嵌 u 111 ・国歯 111
兵4 く(ギ o<)
(斜)~!-0゜Jakobs旦将ti-0-<匡(Mensch)刈-<辛e凶忌忍堆姿起旦述,))Q
知没翠母 i 刈#<唄譴鋸娼認⇔聾埒
心゜ Jakobs 竺, ..y 祟 Q 知
F旦涎宰捕訳達凶笹や竺'軋鉛#単華 ‑RQ 淫完旦将::,
~ 終将祖~(Subjekt)刈::,J吋華俎如王二
~::,
心吝 1
-R-R-R母
Qffil~担淀縄以旦将::, ~ 迂,~ 菜如-<*謳念社』吋(\~ 痣苔
,..J~::,心゜怜各心心'茉謎阜造索
(Zurechnungsunfahigkeit) 以将::, ~ 竺「鞘届虚収
~m起旦
0::,~ ぎ品宍如詑(\~ 憮征翠
1恰如
'F'l-0神
,..\),...J~0-<淀
(Per-(怨)son)
茶尽茫〔咲華怪メ送
1営孟メ迂器泰孟旦莱的
,..J~::,i‑00」「‑<*藝'茎坦忌囲淀旦将::, ~ 竺窯淀母心 n ,,,
ti11
(苫)ふ―'~m;、S巨的抑や~.s;:;...'~Q~ヰ如坦Ill誓如船窓ヤ心ーや菜弐苓豆怜"(~
皿苺 i (Natur) や母心゜
」「薬塩迂,
{Il]条坦吋(\~
如駆餅認
J菜か)叫
Q母心器避孟終宰叫竺踪終
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沓如如 0 翠屈担弓 0
ぼ)~Qぐ香誤ゃ却ふ菜!-00」,..J北茶(\~~
総
Q宰晦里澁翠抑送,
-<茫や送終"V'{Il]条予埒.s;:;...'~菜旦竺「垢認こ瞑
」叫二
ぼ)•I'~
誌茶ヰ梵ふ菜~::, 心茶,~ 菜廷社咲 0 案坦孟憮社和且 g 丈心に掟や送終::, Q p 母心゜
(
一) ヨロ臣・至坦縮縄(翠嗚・ 1 100 ギ母) 11 ば II ] 賦゜
(N)§20
Schuldunfahigkeit wegen seelischer Storungen
Ohne Schuld handelt, wer bei Begehung der Tat wegen einer krankhaften seelischen Storung, wegen einer tiefgreifen‑
den BewuBtseinsstorung oder wegen Schwachsinns oder einer schweren anderen seelischen Abartigkeit unfahig ist, das
Unrecht
der Tat einzusehen oder nach dieser Einsicht zu handeln.
(
M) 共田立・轄瘤案瞑出・詣縄
(I]OO<母) llH く判図即恥謬山位
゜(
寸
)§21 Verminderte Schuldfahigkeit
1st die Fahigkeit des Taters, das Unrecht der Tat einzusehen oder nach dieser Einsicht zu handeln, aus einem der in
§20 bezeichneten Grlinde bei Begehung der Tat erheblich vermindert, so kann die Strafe nach§49 Abs. 1 gemildert wer‑
( 5 )
( 6
)
いわゆる
a c t i o l i b e r a i n c
au sa
用している
den
.
三九七
Ja ko
bs ,
S t r a f r e c h t A T
2.
Au l f
. 1991 , 18
¥7
"
14
f f .
すなわちその行為者が︑情動行為のように﹁機能経過の消極的客休﹂になってしまう場合
18 ¥ 14
Fn
. 3
1)
で 土
3
る ︒ なお︑必ずしもそれは病 気︵ 類似 ︶ でなくてもよい ︒
( 7 )
Jak o
食前掲書︵注
5 )
18 ¥ 14.
( 8 )
Ja ko
bs
前掲
,書 ︵
注
5 )
18 ¥
2
8.
( 9 ) 安田拓人・刑事責任能力の本質とその判断︵二
0
0 六年︶︹同書の書評として村松太郎・法と粘神医療
二 三
号
年 ︶ 一 〇 六 頁
以 下
︺ ︒
( 1 0 )
これは明示的に
Ja ko bs
説から 示唆を受けたものであるとされる︒安田
・ 前 掲 書 ︵ 注 9 ) 1 0
九頁以下 ︒
( 1 1
) 安田・前掲書︵注
9 )
‑ ︱ 七頁 ︒
( 1 2
)
安田・前掲
書 ︵ 注 9 )
二三頁︒ 私見によれば︑これは﹁同様の﹂ではなく全く﹁同 一 の﹂判断である︒同書・六七頁では
期待可能性を
Fre ud en th al
(d e
r s .
, S
ch ul d un d Vo rw ur f i m g el te nd en S t r a f r e c h
t 1922;
この説に対する批判として
,Ro
芦
HS t r a f r e c h t A T
I4. ,
Au fl
. 2
2
143 ¥
︹ 訳 五 四 七 頁
︺
;
Ach en ba ch
J
R
1975 , 492
などを参照 ︶の意 味における超法規的 責 任阻却 事
由と理解しその枠組みにとどめることは妥当でないとするが︑
Ja ko bs
は期待可能性を その様に位置づけてはおらず︑むし
ろ﹁消極的 責
任 構 成 要 件 ﹂
(J
ak ob
s ,
前 掲 書 ︵ 注
5 )
17 ¥
5 3
f f .
)
と 捉 え て い る
︒ ( 1 3 )
安田
・ 前 掲 書 ︵ 注 9 ) 一 三二頁
(14)村松•前掲
(注9)-―四頁。(
) 1 5
むしろ批判されるべきなのは︑この制御主体論が﹁精神医学の経験科学的手法における手法により︑事実的なレベルでの
判断がなされることになるものと考えられる﹂︵安田・前掲
書 ︵ 注 9 )
一 六
五 頁 ︶
とされている点である ︒病気 概念自体につ
いても
Ja ko bs
は
Ra sc h
の﹁構造的・社会的病気概念﹂
(Ra sc
h ,
Fo re ns is ch e P s y c h i a t r i e
, 1 .
Au fl ag e
1986 , S.
43
£
.; 2.
Au fl
.
1999 , S.
50
£ .
〔ゎ
5お同〖事国はRaschの死(―1000年九月二二日)後に
NorbertKo nr ad
により改定され
R8 Ch
¥K
om ra 4 Fo e r ns is ch e P s y c h i a t r i
3e ,
. ,
U b e r a r b e i t e t e A uf
l2004.
と が
5
っ
て い る が
︑ 同 s 峯 吉 .
51
で i ︑この記述は踏襲されている︺︶を援
(J
ak ob
s ,
前 掲 書 ︵ 注
5 )
18 ¥ 5Fn
. 6
)
︒
安田・前掲書︵注
9 )
三二頁 も﹁法律的病気概念﹂が妥当だとしているが︑
︵ 七 0 九 ︶
︵ 二 0
0 八
J(ak o
茎 前 掲 書
︵ 注
5 )
A T( 1 6
) これは純粋に事実的判断だといえるのであろうか ︒ 事実的
(Jak ob s11 Lu hm an
n
流の用語によれば認知的︹
ko gn it iv
︺ ︶ な 判
断と規範的判断の関係が︑そこにおける規範の意味を含めて再検討されるべきだと思われる ︒
この点に関し︑
Go nz al ez
,
Ri ve ro
は ︑
Ja ko bs
の見解をより徹底させ︑帰属能力も 事 実的判断ではなく︑管轄としての 専 ら規範的判断であるとしてそ
れに関する欠損状態
(De fe k t z u s t i i n d e 11 s i t u a c i o n e s de de fe ct
o
べ
)に関する管轄があればす て帰属可能であると主張してい
る
(Go nz al ez ,R iU er o
こ
S t r a f r e c h t l i c h e Zu re ch nu ng b e i D ef ek tz us ti in de n
│ N
u
gl ei ch e i n Bei tr ag zu r al lg em ei ne n Zu re ch , nu ng sl eh re , 20 01
, S.
15 6
f f .
︹
9女m i
.苛5
埠 } 事
自
︵ " 汗
9 )
一 三 百 バ以下に同書の基本構想の紹介がある︺ ;
d i e s ,
Im pu ta ci 6n ju r i d i c o
,
pe na l en
s i t u a ci on es d e d ef ec
to ,
i n : M n o te al eg re Ly ne tt (C oo rd in ad or ) , El fu nc io na li sm o en
de re ch o p en al
I ,
20 03
, 2
91
f f .
) ︒
Ja ko bs
教授は︑以前は刑法的な判断における規範化を徹底させるように考えていた が ︑この
Go nz al ez
, R
iv er o
の 博 士論
文の鑑定 書 を 書 いていたときに︑これは徹底しているが極端ではないかと感じたことが︑規範的判断と認知的判断の関係を
再考する切 っ 掛けとなったというエピソードを
Ja ko bs
先 生 から直接伺 っ たことが︑大変印象深かったので︑ここで紹介し
ておきたい ︒
この問題の 歴 史的展開については
He tt in ge r , Di e≫ ac ti o l i b e r a i n c
au sa
^
< :St ra fb ar ke it we ge n Be ge hu ng st at t r o t z Sc hu ld ' un fa hi gk ei t , 19 88
・: ; :
弄
吋 し
い
︒ 日本の談論に関しては︑最近の論文として︑浅田和茂﹁原因において自由な行為 全 面否定
説の展開﹂現代刑 事
法 二
0 号 ︵ 二 000 年 ︶ 四二頁以 下 ︑伊東研祐﹁﹃原因において自由な行為 ﹄ の法理︑責任無能力等の
効果﹂法 学 セミナー六 二 0 号 ︵ 二
0
二 七七号 0 六年︶八三 頁 以 下 ︑岡上雅美﹁原因において自由な行為﹂月刊法学教室
︵ ニ
o o
︳ 二 年
︶
八 七
頁 以 下 ︑神田 宏 ﹁ドイツにおける原因において 自 由な行為の法理をめ ぐ る 最 近の判例・学説の動向と わ が国
に及ほす 影響 について﹂近畿大學法 學 五二巻 一 号︵二
0
頁 原 因において 由な行 為
(1)そ 0 四 年︶三 三 以下︑高 良 玩 二 ﹁ 自
の 学 説の再検討﹂沖縄法 学三 一 号
︵ 二 0
0 二 年 ︶ 一 頁 以 下 責 任能力と行 為 の同時存在の原則 ] の 意義 九 ︑中空壽雅﹁﹃
に つ
いて﹂刑法雑誌四五巻 三号︵二
0
六 0
年 )
原因において 為 論
(l)︵ 2 ) ﹂ ] 立 頁 以下︑同﹁わが国の ﹃ 自 由な行 ﹄ の再検討
関東 学 固大 学 法 学 紀要 一 0 巻二号︵二 0
0
年 ︶ 0
︱ 二 九 頁
以 下
︑
q
一 巻 二 号
︵ 二 0 0
一 年 ︶
七 五
頁 以下︑畑山 聡
﹁ 原
因 に
お
いて自由な行為について﹂刑法雑誌四 三 巻 二 号
︵ 二 0
0 四年︶二四九以下 同﹁ ﹃ 原因において 自 由な行為 ﹄ 再論﹂青森法 ︑
政論叢 二号︵二
0 0
一 年 ︶
ニニ頁 以下︑平川宗信﹁原因において 自
由 な 行 為 否 定 説 と 立 法 的 解 決 の 提 案
﹂ 現 代 刑
事 法 二 0 号
︵ 二 0 0
年 ︶ 0
三六 頁 以下 ︶ ︑山本雅子﹁﹃原因において自由な行為 ﹄ 再論 ﹂ 中央 学 院大 学 法 学 論 叢二二 巻 1 号
︵ 二 0 0
関法第五九巻三•四号
三九八 ︵ 七 一
0 )
( 2 0
いわゆる )
a c t i l i o b e r a i n c
au sa
言
23aヽ
︑
ー,1し
九 年
︶
一 頁以下︑同﹁原因において自由な行為
ー実行行為時規範的考察説の主張ー﹂同・実質的犯罪論の考察︵二
0 0 七 年 ︶
一 〇八頁以下︑山口厚﹁﹃原因において自由な行為
﹄
をめぐって﹂研修七 0 八号
︵ 二 0
0 号︵二 000 おいて自由な行為遡及禁止論の立場から﹂現代刑事法二 七年︶三頁以下︑同﹁原因に 0
年︶三.頁以下等がある︒ドイツの最近の議論
に関しては
D o l d , G A
20
08 , 427
( この論文にはドイ ツ
における最近の重要な文献が網羅されている︶及び通説の構成要件
もデルの帰結を批判した
Sc hw ei nb er ge
r ,
uJ S
2006, 507
のみを挙げておく ︒
( 1 7
)
Ja ko
bs ,
Di e s og en an nt e a c t i o l i e b e r a i n c
au sa
西原古稀五巻(
‑ 九九八年 ︶
一〇
一頁︵
中空寿雅[訳]﹁ギュンタ
l ・
ャ 1
コプス・いわゆる原因において自由な行為﹂関東学園大学法学紀要九巻
一 号 ( ‑ 九九九年 ︶
一七 八 頁 ︶
︒
( 1 8
)
浅田和茂・刑法総論︵補正版・ニ 0 0
七 年
︶
二 九 ︳
︱ ‑ 頁 ︒
( 1 9
) さらに現行法では不可罰であるが立法論としては特別の規定を設けるべきであるという
主 張もある
︵ 平
川宗信﹁原因にお いて自由な行為﹂現代刑法講座第
二 巻
(
‑九七九年
︶ 二
九四 頁 以 下
な ど
︶
︒ なお日本民法では︑故意又は過失によ っ
て ︑
︱
時的に精神上の障害により自己の行為の責任を弁識する能力を欠く状態を作り出した場合は︑損害賠償の責任を負う旨が明
文で規定されている ︵ 民法七 一
条 三
但 書
︶ ︒
Vo ll ra us
ch
三九九︵七
‑︶
We r s i c h v o r s a t z l i c h od er f a h r l a s s i g
< l u r c h a l k o h o l i s c h e Ge r t an ke o d er n a de re be ra us ch en de Mi t t e l i n e i n e Rn au sc h v e r s e t z t
, w
ir d m it r e F i h e i t s s t r a f e b i s zu
f i . i n f J ah re n o de r m it Ge d l s t r a f e b e s t r a f
t ,
we nn e r i n di es em N us ta nd e i n e re ch
,
t s w i d r i g e Ta t b eg eh t u nd ih re tw eg en i n c h t b e s t r a f t w er de n k an
n ,
w e i l e r i n f o l g e de s Ra us ch es s ch ul du nf ah ig w ar od er w e i l d i e s n i c h t a u s z u s c h l i e . B e n ist . Di e S t r a f e d a r f n c i h t sc hw er er se i n a l s d i e S t r a f e
, d i
f e u r d i e im a R us ch be ga ng ne e T at an ge dr oh t i
s t .
2
An rt ag
, m
it Er ma ch ti gu ng d o er a u
£S tr af ve rl an ge n v e r f o l g t we rd en ko nn te
.
第三二三条
a︵完全酪酌︶①ァルコール飲料又はその他の酪酎剤により︑故意又は過失により酪酌状態に陥った者が︑
この状態で違法な行為を行ったにもかかわらず︑酪酎の結果︑
責
任無能力であったために︑又は︑その可能性を排除で きないために︑その違法な行為を理由としては罰することができないときは︑五年以下の自由刑又は罰金に処する
︒
Di e T at wi rd n
ur u a f An tr ag
, m
it E rm ac ht ig un g od r e a uf S t r a f v e r l a n g e n v e r f o l
g t ,
we nn i d e Ra us ch ta t n
ur u a f
( 2 1 )
( 2 2 )
関法 第五九巻三•四号
②刑は︑酪酌状態で行った行為について定められている刑より重くすることはできない ︒
③行為が︑告訴︑授権又は処罰請求があって初めて訴追し得るときは︑酪酎状態で行った行為は︑告訴︑授権又は処罰
請求に基づいてのみ訴追される︒︵法務省大臣官房司法法制部縮・ドイツ刑法典[二
O O 七 年 ] ェ 几 四 頁
︶
中空•前掲(注 16) 刑法雑誌四五巻三号
一七頁。この構成要件モデル/例外モデルの対比は︑
Ne um an
n ,
Zu re ch nu ng n u
d ,,
Vorverschulden
"•
V o
r s t u d i e n zu i e ne m d i a l o
,
g i s c h e n M od el l s t r a f r e c h t l i c h e r Z ur ec hn un
1985S15 g . , ,
f f .
に中出米するものとされる︵町野朔﹁﹃原因において自由な行為﹄
の整理・整頓﹂松尾浩也古稀上巻(
‑ 九九八年︶三四六頁︶ ︒
Ne um an n
は﹁構成要件モデル
(T a t b e s t a n d s m o d e l l )
﹂ ︵
a.a.0
•S.
15 )
と﹁例外モデル
(A us na hm em od el l)
﹂ ︵
a.a.
0
. S.16 )
の他に﹁義務モデル
( P f l . i c h t m o d e l l )
﹂と﹁補填モデル
(K om pe ns a t i o n s m o d e l l )﹂ ︵
a.a.
0 .
S.15 )
というモデルも提示していた ︒
Ne um an n
説に関してはウルフリット・ノイマン
︵葛原力三・訳︶﹁刑法解釈学の方法論的問題としての﹃原因において自由な行為﹄ノモス 一 八号︵二
0 六年︶六三頁以下 0
も参照︒なお
D o l d , G A
20
08 , 427
は構成要件モデルと道具モデル
( W
e r k z e u g m o d e l l )を区別し︑後者は
a c t i o l i b e r a i n c a u s a
( 1 1
a l i c )
を直接正犯の特別事例とみるのに対し︑前者は
a l i c
を間接正犯の特別事例と見る点に相違があるとする︒
( 2 3 )
山中敬 一 ・刑法総論︵第二版・ニ
0
0 八年︶六 0 七頁 ︒
( 2 4 )
山中・前掲書︵注
2 3 )
六 0 八頁︑同六 一 0 頁以下は︑これをさらに①原因行為時支配可能性説︵中︶②意思決定行為時
責任説︵西原︶︑③正犯行為時責任説︵平野︶④相当原因行為時責任説︵山口︶に分類し︑自説としては﹁事後的実行行
為時責任説﹂︵同・六 一 七頁以下︶を主張する ︒ これに対し石井徹哉﹁責任能力と行為の同時存在の原則の意義について﹂
刑法雑誌四五巻二号︵二
0 0 六年︶八八頁注
( 9
は︑遡及禁止論およびこれに類する見解は﹁私見では︑同時存在原則を維 )
持しようとする点で構成要件モデルに分類すことになる﹂と批判している︒
(2 5) Le nc kn er
¥ P e r r
o n ,
i n : Sc ho nk e ¥ Sc hr od er
, S
t r a f g e s e t z b u c h
,
27
. A u
f l .
. 2006,
§ 2 0
Rn
35
a : s og
.
, ,
Sc hu ld
"ー‑
od er , , Au s' na hm em od el l" .
( 2 6 )
日本の学説の分類に関し中空ふ則掲︵注
1 6 )
刑法雑誌四五巻 三 号 一
六 頁 以 下 は
① 不 処 罰 説
︑
② 原 因 行 為 説
︑
③ 結 果 行 為説に三分し︑さらに②を①原因行為実行行為説と②正犯行為説︑③を①責任遡及説︑②最終的意思決定説及び③
非難可能性説に︑最後の非難可能性説を口権限濫用説と伺禁止の錯誤援用説に分類している︒ 四
0 0
︵ 七
︱ 二 ︶
( 2 7 )
( 2 8 )
いわゆる
a c t i l i o b e r a i n c
au sa
﹁ も
っ と
も ︑
四〇
︵ 七
一 三 ︶
山ロ・前掲書︵注
l ) 五 二 四 頁 以 下
︒
例えば山口•前掲書(注
l)二五五頁は「構成要件モデルは、現在多数の学説のよって支持される立場となっている」とす
る ︒
責任モ
:
九 二
であると
( 2 9 )
山ロ・前掲書︵注
l)
二 五 八 頁
︒ 同 所 で は
︑ さ ら に 二 つ の 解 釈 モ デ ル の 適 用 可 能 性 と い う 点 で い え ば
︑ デルがより重要であるということは否定できない﹂ともしている
︒
( 3 0 )
山本雅子
・ 前 掲
︵ 注 1 6 )
・中央学院大学法学論叢ニニ巻 一 号三頁以下︑立石二六・ 刑法総論 ︵ 第三版・ニ
0 0 八 年
︶
頁 以 下 ︒
( 3 1 )
山ロ
・ 前 掲 書
︵ 注
l)
二五七頁は﹁違法性の意識の可能性に関するこうした理解
には︑故意との関係で問題が存在するよう
に思われる﹂とする ︒
( 3 2 )
中空寿雅﹁﹃原因において自由な行為の法理﹄の検討故意の原因において
自 由な行為の成立要件 ( ‑ )!︵三
'9元
︶ ﹂ 早
稲田大学大学院法研論集五ニ ︱ 七
三 頁
以下︑五三号 一 四 一 頁以下︑五四号ニ ︱ 七 頁 以
下 (
‑ 九九 0 年︶なお同論文の書評と
して林美月子﹁﹃原因において自由な行為の法理
﹄
の再検討﹂中空寿雅︵早稲田大学大学院法研論集五二から五四号︶︹含原 著者コメント︺︵現
代刑
事法学の視点︶﹂法律時報六一二巻四号(
‑ 九
九
一 年︶九 0 頁 以下がある ︒
( 3 3
) 中 空
・ 前
︵ 掲 注 1 6 ) 刑法雑誌四五巻三号二四頁︒
(34)中空•前掲(注16)
刑法雑誌四五巻三
号二五頁。(
3 5 )
これに関しては
Kaせ
a g u c
h i ,
i n : a J ko bs
, F
Sff•S2007259 も参照。. , ,
( 3 6 )
Ja ko
bs ,
前 掲 書 ︵ 注
5 )
18 ¥ 28.
( 3 7 )
Ja ko
bs ,
前 掲 書 ︵ 注
5 )
18 ¥ 34.
(3 8) Do
前掲論文
l dG A
2008 , 427
f f .
( 3 9 )
Ja ko
笈 前 掲 書 ︵ 注
1 7 )
西原古稀五巻 一
三一頁︵中空訳
・ 一
八 八 頁 ︶ ︒
(4
0) Ho ye r;
I n
Ru ck er in ne u r ng a n E ck ha rd Ho rn : A nf an g u nd En de de r a c t i o l i b e r a i n c
a u s a
"
G A
2008 , 711
f f
.は ︑
鈴
g
准( S i c h
, B
e t r i n k e n
)
時点への遡及は︑
一 般に行為者が結果の惹起の観点からみて目的的回避力
(f i
n a l e Ve rm ei de ma ch t )を失
い︑その結果さらなる因果経過が違法な構成要件的行為
( r e c h t s w i d r i g e s T a t v e r h a l t e n )
ではなく単なる﹁自然﹂
( 5 0 )
( 5 1 )
関法
第五九巻三•四号︵ 山ロ・ニ五五 頁 ︶が︑後述のようにそれ ︵ 七
一 四 ︶
(z we ck t a t i g
)
操縦することができないなら︑禁止の効率 される場合であり︑行為者が結果回避に向けて目的活動的に
(V e
r b o t s e f f i z i e n z )
が失われてしまうとする ︒
( 4 1
)
したがって﹁結果行為自体は問
責 の
対象から除外されることになる﹂とされる
は規範の妥当性は自然によっては侵害されないからである ︒
( 4 2 )
以上が本稿の中間的結論
(Z w i s c h e n e r g e b n i s )
であるが︑原因において自由な行為論の刑法解釈論的な個別問題︑特に期
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
待可能性の具体的甚準については︑紙面と時間的関係から別稿に譲らざるをえなくなった ︒ なお解釈論的問題に関しては過
失犯との関係もなお解釈論的問題に関しては過失犯との関係も重要であるが︑これに関しては本間 : 也﹁過失犯と﹃原因に
おいて自由な行為﹄﹂小暮古稀︹二 0 0
五 年
︶ 一 三
三頁以下を参照 ︒ 以下では関連する概念を明確化し﹁原理的考察﹂のま
とめとしたい ︒
( 4 3
)
人格概念に関する最近の法哲 学 的考察として桜井徹﹁人格概念の法思想史的淵源とその変容 ﹂ 井上達夫編・現代法哲 学 講
義︵二
0 0 九年 ︶ 所収 二 七頁以 下 参照 ︒
( 4 4
)
V g l .
au ch da zu Br a s s e
r ,
Pe rs on
, 1999 , S. 194.
( 4 5
) 村上訳では︑﹁没人格﹂と訳され︑﹁コミュニケーションを担う﹃人格
﹄ と顧慮されない者﹂という訳注 ︵ ニ
ニ ︱ 頁 ︶
が付
されている ︒ ニクラス・ルーマン[著]ヽ村上淳 一
[ 編
訳 ]
● ポ
ス ト
ヒ ユ
l マンの人問論[後期ル l
マ ン 論 集 ]
︵ 二 O O 七 年 )
︱ 一 七頁以下参照 ︒
( 4 6
) 村上訳では︑﹁すぺての個人ではなく人格にのみ認められるという意味での﹃制限﹄﹂という訳注
( ‑ 三 一 頁︶が付されて
い る
︒
(4 7
)
Lu hn
ミ2
ミ
n ,
S o z i o l o g i s c h e A uf kl ar un g
6 , 2.
A u f l
・ ( u n v e r a n d e r t : 1 . A u f l
. 1
99 5)
, 2005 , S. 142.
(4 8
)
Lu hm an n"
前掲
書 ︵ 注
S4 7 )143
( 村
.上 訳
.
︱ 二九頁︹訳は 一
部 変
更 し
て 引
用 し
た ︒
︺ ︶
.
(4 9
)
Br
前掲書 ︵ 注
8 s e r,S196
4 4 ) は編者注として︑これは﹁諸人格のコミュニケーション的存在態に関する﹂ものであると
.している ︒
Lu hm an n"
前 掲 書 ︵ 注
4 7 )S. 144
( 村
上 訳
・
一 ︱ ︱
二 頁︹訳は 一 部変更して引用した ︒
︺ ︶ .
Lu hmミ芦前掲書︵注
4 7 )
s .
14 6£
.
(
村 上 訳 ・
一 三四頁︹訳は 一 部変更して引用した ︒ ︺
︶ .
四〇
( 5 2 ) ( 5 3 ) ( 5 4 ) ( 5 5 ) ( 5 6 )
いわゆる
a c t i o l i b e r a i n c a u s a
KKu
食
Lu hm an nL ex ik
on4. ,
A u f l . ,
2005 , S. 206.
J a k o
b s ,
前 掲
︵ 注
1 7 )
西原古稀五巻 一
00
頁︵中空訳・ 一 七七頁︹訳は 一
部 変 更 し て 引 用 し た ︺
︶ ︒
Jak 0