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明治国家創成期の内政と外政 : 対朝鮮政策と内政と の関連を中心に

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

明治国家創成期の内政と外政 : 対朝鮮政策と内政と の関連を中心に

諸, 洪一

九州大学文学研究科史学専攻

https://doi.org/10.11501/3122889

出版情報:Kyushu University, 1996, 博士(文学), 課程博士 バージョン:

権利関係:

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明治国家創成期の内政と外交

一文寸朝f!�羊I攻升芝と内H去ととの1:)李]JlJ1をrl-l心Lこ

諸 洪 一

(4)

司月宇台国語芝倉リ疋文其司の内I改とタトヨ芝 一対朝鮮政策と内政との関連を中心に-

序言・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3

第一編 明治初期における朝鮮問題の展開

第一章 明治初期日朝関係の再編 と対馬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1 0 第一節 目朝交渉の争点と朝鮮政策・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10 第二節 「政府等対」 論と宗氏派遣論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 20 第三節 朝米戦争と宗氏派遣論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 24 小括・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・. . . . . .. 29

第二章 廃藩置県後の国際関係と朝鮮政策・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4 7 第一節 廃藩置県後の宗氏派遣論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4 7 第二節 廃藩置県後の国際関係と朝鮮政策・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5 5 小括・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 6 3

第三章 明治初期における日朝交渉の放棄と倭館・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7 1 第一節 交渉放棄策の展開・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7 1

第二節 倭館の処分と朝鮮政策・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8 1 小括・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 92 補論 「征勝論」 と皇使派遣論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9 9

-EEA

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第二編 明治六年政変の政治過程

第一章 廃藩置県後の政治状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・105 第一節 太政官三院制改革をめぐる政治状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・105 第二節 岩倉使節団案の登場と大久保利通・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・113 第三節 約定書の成立をめぐる政治的対立・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12 1 小括・.. . . 128 第二章 留守政府の変転過程と対立の拡大・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・132

第一節 マリア ・ ルズ号事件と副島種臣 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・132 第二節 大蔵省と司法省の対立・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・111 第三節 新参議任命と太政官「潤色」の政治的意味・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・119

小括・. . . 1 5 5 第三章 太政官「潤色」後の政治状況と明治六年政変・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15 9 第一節 太政官「潤色」後の政治状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15 9 第二節 留守政府の展開と西郷隆盛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・170 第三節 大久保利通の帰国と明治六年政変・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・181 第四節 明治六年政変と木戸孝允の動向・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・.... '1 9 7 第五節 明治六年政変と西郷隆盛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2 11 小括・.. . . 237

結語・. . . .・・・247 資料

q,b

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序き

本論文は、 明治国家創成期の内政と外交を、 維新変革から 明治六年政変 ( I fïE 韓論」政変)までの対朝鮮政策と内政との関連を中心に考察する。

明治六年七月より-0月まで、 西郷は自ら朝鮮に渡航して交渉に臨むため朝鮮 遣使論=皇使派遣論を主張した。 皐使派遣論は、 明治三年の対清交渉先行論の =

行、 明治五年の交渉放棄論の実行の末、 最後に残された対朝鮮交渉の選択肢であ ったく1)0 維新政府は西郷 を皇使として朝鮮に派遣する問題をめぐって真;つに分

裂し、 西郷と西郷 を支持する四参議は政府を去ったのである。 明 治初期のj二族反 乱と民権運動勃発のきっかけを提供したこの明治六年政変は、 明 治元年以米行き 詰まっていた日朝交渉のもつれと対朝鮮政策をめぐる 維新制府内の対立がきっか けとなったのは言うまでもない。

従来この時代の対朝鮮政策に関する考察は、 「征斡論」を中心として描かれが

ちであり、 「征 韓論」政変によって完結される。 そして、 内政との関連で唱えら れた木戸の「征鵠論」は明治三年までには解消され、 朝鮮問題は明治六年の丙郷 の朝鮮遣使論をきっかけに再び登場して政変を誘発していくこととして儲かれる のである。 しかし、 維新初期の対朝鮮政策をめぐる論争を、 「征持論lを争点、と して単線的な二項対立の精造として捉えるだけでは、 何故明治三年と同六年の木 戸と西郷の主張が逆転され、 何故外交政策論が権力抗争と化していったのかは

充分に説明できないであろう。 明治初期の朝鮮問題は、 I f正 問論j の問題だ けで なく、 外交政策をめぐる政策論争と内政における対立と競合の政治過程との関連 の中で捉えて、 初めて全体像が明らかになるのであろう。 そこで本論文では、 ま ず、 当の外務当局者から提案されていた皐使派遣論、 交渉放棄論、 円滑交渉先行 論の三ヶ条の選択肢と、 近世以来日朝関係を取り持っていた対馬から出されてい た宗氏派遣論を中心に、 明治初期の対朝鮮政策をめぐる政策論争の展開過粍を明

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らかにする。 次に、 当然、生じるべき政策論争が何故権力抗争の焦点になってい っ たのかを、 留守政府期において展開されていった各政治勢力のリーダーシ yプを め ぐる対立と競 合の政治過 程を通して明らかにする。

従来明治初期の日朝交渉については、 戦前の田保橋潔の大著『近代円鮮関係の 研究Jl (朝鮮総督府中枢院、 一九四O年)があり、 近来には幕末あるいは近II�以 来の長いスパンの中で明治初期の日朝交渉を位置づける成果も出ているく2>0 FTI保 橋研究は、 周知のように、 戦前の様々の制約の中でもイデオロギーに捕らわれず、

膨大な史料を駆使して綿密な実証を行い、 以降の明治初期の日朝関係史研究の枠 組みを築き上げた名著である。 この著書は、 日清戦争に際しての両闘の宣戦布告 文(清国の宣戦の上諭、 白木の宣戦詔勅)を最後に戦せて終っている。 同宵: 戦布 告文の対照的な点は、 清国側が「朝鮮為我大清藩属Jとしているのに対して 本側は「朝鮮は帝国が其の始に平年誘して、 列同のイ7i {、ドに就かしめたる独なの ー同 たり(中略、 日清戦争によ って)帝国が率先して之を独立国の列に伍せしめたる」

く3>としていることろであろう。 明治元年より日清戦争に至る過程を椅めて閃式的 に整すると、 維 新以 来朝鮮を「啓誘j していた 本は江 事島条約に て朝鮮 を独立国にさせたものの、 「藩属」関係を固執する清国から完全なる独立を保証 するため戦争に至ったわけである。 確かに朝鮮は日本によ って開国され、 清岡と の 「藩属」関係は 日清戦争の結果によって断ち切られた。 しかし、 この面だけに 着目すると、 日本に「啓誘|され「独立問」となった朝鮮と、 間もなく円本の楠 民地となった朝鮮の間には落差が大きすぎる。 特に、 本稿の対象とする江草島条 約に至るまでの日朝関係は、 「啓諭」する 側とされる側との対立関係で描かれが ちであり、 単線的歴史把握に陥没する嫌いもなくなはなし\0 このような観点から すると、 朝鮮を「啓諭」し「独立国」とした江華島条約は成功の歴史として描か れ、 その前段階の明治初期の日朝交渉は、 「啓諭j する日本とこ れを拒 み 続ける 朝鮮側との交渉 失 敗の歴史と して描かれるのである。

-�-

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したがって、 明治期の対朝鮮政策を、 清 ・ ロ ・ ヨーロ ッ パ諸国との相関関係か ら理解するためには、 「啓諭」する立場にあった維新政府の対朝鮮政策を重屑的 に捉える必要があろう。 明治初期の対朝鮮政策は、 伝統的辛夷秩序の原PP:と万同

公法秩序の原理が錯綜して表れ、 日朝交渉は試行錯誤を繰り返していた。 維新政 府が伝統的華夷秩序の原理を完全に払拭するまでの日朝交渉においては、 相容れ ない外交原理と政策の優先順位をめぐって、 緩急、論、 強硬 ・ 穏健論の対立と競合 が展開されたのである。 また、 初期の日朝交渉には「平等諭」する側とされる側の 聞に、 両国間の交渉を取り持つ交渉のエキスパートたる対馬があった。 両同の交 渉の争点を的確に把握していた対馬からは、 朝鮮側の交渉拒絶の論珂と維新政府 の対朝鮮強硬論の折衷策を用意しており(朝鮮通信使復活、 宗氏派遣論、 「政府 等対」論)、 交渉打開の可能性は大であった。 江華鳥条約に至るまでの維新政府 の対朝鮮政策は、 「啓諭」する一枚岩的な外交政策ではなく、 対馬の折衷策をめ ぐって交渉の主導権争いが展開されたのである。 このような観点から本稿の第一品 編では、 対馬の折衷策のなかでも主として宗氏派遣論を中心に、 明治初期の対朝 鮮政策の展開過程を考察する。

対朝鮮交渉の基本方針であった「対鮮政策三箇条Jのうち、 対清交渉先行論と 交渉放棄論はいずれも奏功しないまま円朝交渉は停滞し、 最後の選択肢の望使派 遣論を待つこととなった。 しかし、 皇使派遣論は外務当局者からではなく、 留守 政府の筆頭参議西郷によって提起された。 維新以来、 主として内政と軍事に関心 を寄せ、 「征韓」反対論者の横山正太郎の諌死を讃えて止まなかった丙郷が、 何 故この時期に朝鮮問題に関心を持ち、 戦争をも辞さない皇使派遣論を唱えるよう になったのであろうか。 また、 維新政府は何故大分裂しなければならなかったの であろうか。

従来、 西郷の朝鮮遣使論=皇使派遣論に端を発する明治六年一O月の政府の分 裂は、 「征韓論政変Jという呼称が表しているように、 ほとんどが明治初期の「

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征鵠論」との関わりで説明されてきた。 先行研究は、 政変に至るまでの内政と外 交の客観的状況と近代日本政治史上の政変の意義を論じながらも、 政変における 西郷の発言の意図と役割を分析する際には、 その対象はほとんどが明治六年の市 象に限られている。 その理由は、 政変のきっかけであった朝鮮遺使論のt慌が 明治元年以来の日朝交渉にほとんど関与したことのなかった、 西郷によって明治 六年七月より-0月の聞にだけ主張された唐突さにあるように思えるの 確かに明 治三年の横山諌死事件以来朝鮮問題には関心を示さなかった西郷の朝鮮遣使論は、

明治六年に突出しているようにも見える。 しかし、 明治六年の西郷の朝鮮遣使論 は、 西郷の主観的意図はさておいて、 明治二年以来外務省から主張されていた皇 使派遣論に他ならなかった。 したがって西郷の朝鮮遣使論は、 明治六年に唐突に 表れたものではなく、 明治二年以来の維新政府の皇使派遣論の流れの中に位置づ けることも可能であろう。 また、 西郷の行動パターンは、 朝鮮遺使論の主張とア ピールの方法、 西郷と西郷を支持する政治勢力との横のつながりの希薄さ、 辞表 提出と政変後の唐突な帰郷など、 政治における対立と競合の原理に必ずしも沿わ ない独特なものであった。 本稿では、 このような西郷の朝鮮遺使論の主張の背景 を、 廃藩置県前まで遡って、 上京後政変までの三年足らずの東京滞在中の西郷何

人の政治的関心、 政治的立場、 政治的ジレンマに焦点、を合わせて分析する。

次に、 政変に至る政治状況の変化に注目し、 岩倉使節問と「約定書jの成立過 程および留守政府の変転過程を明らかにする。 この変転過程をトレイスする際に は、 内政と外交の転換期の局面において最も重要な財政 ・ 外交 ・ 軍事の面をめぐ る政権争いに注目したし\。 以下、 維新政府の最重要問題であった財政、 軍事、 外 交の三部門におけるリーダーシ ッ プの競合と対立の過粍を略述しておきたい。

まず第一に、 廃藩置県改革の[-fJで窮屈な立場に立たされた大久保利通と宥余使 節団の成立問題である。 大久保は、 条約改正のための洋行案を自らの窮屈な政治 的立場を打開する好機とし、 強引に使節団への参入を謀ったため、 留守を閉かる

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井上馨大蔵大輔に莫大な権限と政治的保証を取り付けて置かなければならなか っ た。 I約定書」はその結果を大いに反映したものであり、 留守政府のあり方と変

転過程をみるうえで、 物差しになるものでもある。

第二に、 「約定書」は、 留守中の政府の権限を大幅に制約し、 使節問の帰同ま で井上と大蔵省を中心に現状凍結を図るためのものであったが、 留守r1Jに起きた

いくつかの事件によって機能喪失に陥った。 まず、 日米単独条約改正のため洋行 中に帰国した大久保の失態は、 -0ヶ月半の使節団の旅程計画を狂わせ、 期限付 の「約定書Jの権威と効力を疑わしいものにした。 また、 明治五年六月に起きた マリア ・ ルズ号事件から日清修好条規の批准という国事行為に至るまでの刷鳥の

「国権外交」は、 「約定書」をほご同然、にした。 なお、 名省の改革政策就[f!司法

省の改革は、 現状凍結策を貫く井上大蔵省との正面衝突を引き起こした。 このよ うな留守中の変転の結果、 明治六年五月の太政官「潤色Jがあったのである。

第三に、 太政官「潤色Jの結果強力な権力機構となった正院の参議は、 :1:佐 ・ 肥前出身の官僚が大勢登場するようになり、 政府の財政と外交を実質的に拘h ・ 運用するようになった。 大久保 ・ 木戸の帰国と有余使節団の帰国を符えていたl 潤色」された留守政府は、 折りよく表出された西郷の朝鮮遣使論を留守政府の積 要な外交政策として据え置くようになった。 開戦の可能性の高かった西郷の朝鮮 遺使論は、 留守政府の政策の継続性と改革の正当性を宥倉使節団側に示せる璽要 な争点となりつつあったのである。

最後に、 明治六年政変に関する先行諸研究においては、 朝鮮との開戦を試みる 西郷の意図を否定する研究はなかった。 しかし、 毛利敏彦『明治六年政変の研究』

(有斐閣、 一九七八年)は、 西郷を「征斡即行論者はおろか征税論者自体でもな かった」とし、 「平和的交渉論者Jとして評した。 この評価については、 近来川

村貞雄氏が従来の説に基づいて反論し、 両者の間で激しい論争があったくわ。 両者 の論争点、は、 朝鮮遣使に臨む西郷の意図に焦点、が合わされ、 毛利氏の主張の根拠

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となっている七月以降の板垣退助宛の西郷書簡と、 -0月の「朝鮮使節派遣決定 始末」の解釈問題にあった。 本稿では、 先行諸研究において分析の対象にならな かった八月の閣議決定と「勅旨」に注同して、 政変に宅るまでの政治状況の変化 と西郷の発言の一貫性を明らかにする。

本稿は、 以上のような観点から、 維新政府の財政、 軍事、 外交を中心に、 これ に携わっていた各政治家(勢力〉の行動と発言をその政治家(勢力)の胃かれて いた政治的立場を通して、 明治国家創成期の内政と外交の一段面を照らしてみた

し、。

1) W大日本外交文書』第三巻、 「対鮮政策三箇条伺の件」、 一四四一一四五頁。

2 )上野隆生「幕末 ・ 維新期の朝鮮政策と対馬藩J (W年報 本研究� 7、 111 川出版社、 一九八五年)。 荒野泰典『近出日本と東アジア� (東京大学出版会、

一九八八年)。 木村直也「幕末における日朝関係の転回J (W歴史学研究.n 6 5

1、 一九九三年) 。

3 )田保橋潔『近代日鮮関係の研究』下(朝鮮総督府中枢院、 一九四O年、 文化資

料調査会復刻、 一九六三年)、 六三四一六三七頁。

4 )毛利敏彦 『明治六年政変の研究� (有斐閣、 一九七八年)。 同『明治六年政変』

(中央公論社、 一九ヒ九年)。 同「明治六年政変論の検証J (W暦史学研究』

624号、 一九九一年一0月)。 同「明治六年政変と征鵠論問題J (明治維新史学 会編『明治維新の政治と権力』吉川弘文館、 一九九一二年〉。 田村貞雄r iiE持論 政変の史料批判J (W歴史学研究� 615、 一九九一年一月)。 同I r征持論j政 変をめぐってJ (W日本史研究� 354、 一九九二年二月)。 同「西郷は征怜を企 てなかたのかJ (明治維新史学会編『明治維新の政治と権力』吉川弘文館 九九二年〉。

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第吉一一系扇 司月才台才り]其弓CニネヨE二子 る

宅用魚羊任司是亘α〉居蔓'*月

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第一章 明治初期日朝関係の再編と対馬

第一節 目朝交渉の争点と朝鮮政策

維新直後の朝鮮問題は、 山積した内外の諸問題に比べてその比重は相対的に低 く、 内政改革の陰に葬られがちであったが、 その一方には激烈な「征斡論」が提 唱されるなど、 激しい起伏曲線を描きながら展開された。 その問、 朝鮮に派遣さ れた使節団は朝鮮の玄関口である釜山の倭館でつまづき、 維新後の日朝交渉は 向に捗らなかった。 清園、 樺太、 琉球問題がさほど緊迫性を持たない段階で、 朝 鮮問題が常に維新政府の重要な政策課題たりえた原因は、 とりもなおさず、 アジ アで唯一の国交国であった朝鮮に対する維新変革の通告と新しい日朝関係の樹立 が妨げられていたことに由来する。

このような維新初期の日朝関係については、 既に膨大な史料を駆使して交渉の 展開過程を詳細に分析した田保橋氏の研究があるく1>。 以降の研究は第ーに、 日朝 外交貿易体制の転換の中における対馬の位置と「征鴨論Jの論理を解明しつつく2

〉、 東西の相矛盾する外交原理と「征税論jをめぐる対立として日朝関係を捉えく

3>、 幕末維新期の新旧外交の葛藤とI fïF.税論Jの論理を明らかにしており、 第 ー に、 維新政府の外交一元化(政府の直接管掌、 宗氏家役罷免)の問題を近ILt以来 の日朝関係の長いスパンの中で位置づけ、 基本的に対馬と維新政府の間の家役を

めぐる対立が存在していたことが指摘されているくわ。 特に、 これらの研究は幕 維新期における対馬の立場と役割を検討し、 常にセ ッ トになって唱われる対馬の 外交刷新と援助要求の論埋を明らかにしているくわ。

しかし、 朝鮮の交渉拒絶を自明の前提にして朝鮮政策の国内的過程分析に電点、

を置いたこれらの研究は、 交渉の相手である朝鮮の事情と対応を視野にいれてお らず、 日朝交渉における重要な選択肢が見落とされている。 したがって、 朝鮮政

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策における争点とこれを巡る混乱した議論のプロセスは必ずしも明かではない。

交渉相手である朝鮮側の主張(交渉の主休は宗氏をはじめとする対馬藷L 具体 的交渉方法は江戸幕府以来の旧例)を視野に入れて維新後の交渉の終過を見る限

り、 対馬側から出された宗氏派遣論と「政府等対Jの論は電要な交渉打開策であ

った。 維新政府の朝鮮政策をめぐる対立と種々の議論、 特に対馬と外務符の対立 は、 この両案(明治四年一二月に最終的に否定されるまで)をめぐって行われた ところが大であった。 また、 明治政府は国家権力自体が非常に不安定で、 意志、決 定システムも確立せず、 新政府の明確な対外政策が打ち出せない状況であったこ とを念頭におきながら、 その中で朝鮮の江華島で起きた朝米戦争<6>の日朝関係に 対するインパクトなども考慮に入れなければならない<7 >。

本稿は、 以上のような研究状況を踏まえて、 維新後廃藩置県までの日朝交渉の プロセスに、 主に交渉の主休と方法を巡る維新政府と対馬の対立点、の検討を通し てアプローチする。 このような観点、から、 明治初期における朝鮮政策の形成 ・ 対 立 ・ 決定に至る過程とその特質を究明し、 明治九年の日朝修好条規の締結に至る までの日朝関係史を再構築する基礎としたい。

明治元年一二月一一目、 「大政一新」を知らせる大修大差使(以下、 大差使と 略す)樋口鉄四郎一行は、 釜山に渡って維新後初めての日朝交渉を開始した。 し かし、 樋口の持参した書契は、 これまでの日朝関係では見られなかった新しい書 式によるものであった。 まず、 形式面(差出入、 宛名、 印鍛)では、 「対馬鳥主

宗某」を「左近衛少将平朝臣義達」に、 「干し曹参平IJ大人」を「礼曹参判公!に 朝鮮国発行の旧来の「図書」を「新印」に換えており、 内容面では、 「望J r勅j などの文言が新しく使われていたく8>0 これに対する朝鮮側の訓導くわ、 東莱府<1

0>、 そして朝廷の反応はく11>、 「大政一新」通告以前の問題として書契の|休式J

の「違格例」を指摘し、 その「改修正呈納」を要求して書契の搾出を断った。 維 新後初めての交渉は、 釜山の玄関口であった倭館を---歩もfBられずに頓座してし

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まったのである。 しかし、 朝鮮政府が拒絶したのは「違格J r違例」の書契であ り、 交渉そのものではなかったく12 >。

内戦の最中にあった維新政府においても、 外交方針は近代国際法秩序を全而的 に打ち出してはおらず、 伝統的日朝関係を完全に廃棄したわけでもなか「た。 ま た、 最初の交渉は「大政一新の御達のみ」の通告であり、 新関係樹立の具休的な 日程も展望も見込まれていなかったく13 >。 従って、 日朝両国間の争点、は、 まず朝 鮮側が提示した書契奉出の前提条件であった書契の「休式Jに あったといえようの

以降の日朝交渉では、 朝鮮を取り巻く東アジアの情勢を変数としながら、 書契の

「体式」と受理如何をめぐって日朝間及び対馬を含む維新政府内の対立が展開さ れたのである。

従来の日朝交渉、 即ち「宗氏の私交」については、 r r墜来の食を食」い、 「薄

臣の礼を取」り、 「屈辱を渠に請」う等の「謬例」が「国威」に関わっていると 認識し、 これを改革せねばならないという点では、 当事者の対馬もそして維新政 府もひとまず一致していたく14 >0 また、 朝 鮮側の書契の「改修正呈納」の要求を 交渉拒絶として受け止めた結果、 朝鮮の「偏回の国習」く15> r侭倣自尊の保子J

< 16>に関しても認識を共にしていた。 しかし、 交渉に関する具体的な方法につい

ては基本的な姿勢や意見に食い違いがあった。 以下、 朝鮮政策の立案に直接関わ っていた対馬と維新政府の交渉に取り組む基本的姿勢を見てみよう。

江戸幕府以来二百余年間にわたって日朝交渉を担当し、 日朝外交貿易体制の変 革が藩の存立問題とも関わっていた対馬は、 頓座していた交渉を打開するため積 極的に朝鮮政策を建言した。 まず、 対馬の藩論を主導していた大島友之允は明治 元年五月、 「兼て対馬守建白の条件」の一つであった「通信使来朝の儀lの ・件 を建言したく17>0 これは江戸幕府以来の伝統的外交原理にのっとった朝鮮通信使 を復活させ、 「外国館に於て厚く御説諭」のt、 維新の通告及び日朝新関係の樹

立を目指した-旧例をもって新例を建てる 柔軟かっ段階的な朝鮮政策てあった。

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維新政府には「謬礼」として映りかねなかった「通信使来朝」の件を敢えて伺 ていることからも、 対馬は日朝新関係の円満な妥結を某本的に願望していたとい

えよう。 ところが、 六月になって維新政府が「大政御 a新朝鮮国へ相逮可fドポl

「其藩(対州)儀(中略)遂て御詮議の上相当の御沙汰可有之事J r朝鮮問応酬

の礼式其他御国体御関係致候事件等天下平定の上被仰H'r候事jの三つの万引を打 ち出してからく18>、 大島の「斡使来朝J I外国館に佼て厚く御説諭Jの建芦は|

使節来朝の儀対馬守限及掛合候様可仕」と変説されたく1 9 >。 こうして「通信使来 朝」の件は事実上葬り去られ、 予め交渉破綻が予期された害契の作成に弔ったの であるく20>。 この背景には、 朝鮮に対して|国威Jと「同休」を盛んに明えてい た新政府の志向と、 維新直後の気宇拡大の対外観などが考えられよう<21>。

一方、 内戦が終結し外務省が設置(明治二年七月)されると、 維新政府におい ては対馬の対朝鮮交渉権を取り上げようとする外交一元化の方針が活発に議論さ れるようになった。 明治二年一二月の外務省出仕佐田白茅一行の派遣は、 その端

的な現れであった。 これは対馬の立場からすれば、 「大差使」の交渉持折を後

に進められていた政府の直接交渉と外交一元化の方針によって、 自藩の存花意義 が薄れるのは決して望ましいことではなかったのであろう。 対馬は援助要求があ る程度解決してからもく22>、 依然として外交 ・ 貿易において朝鮮と日本を結ぶ要

衝であり、 日朝間の仲介の役割を担当するか否かは、 対馬の将来に関わる需要な

問題であった。 対馬は、 現に許されていた「宗家の私交|をもって頓座した交渉 の突破口を開き、 対馬の存在意義を大いにアピールせねばならなかったのであろ

っ。 ここで宗氏自らが朝鮮にわたらなければならない現実的な必要性が山てきた のである。 東莱府使との面談を試みながらも、 末端の訓導の線でつまづいていた 大差使の交渉は、 宗氏の派遣によってひとまず解決されるはずであったく23>0 * 氏派遣論は「兼て知事申付置候lとあるように、 宗氏及び対馬側の交渉妥結の切 札として残されていたと思われるく24>0 しかし、 朝鮮に対して「国威lを感んに

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唱えて対馬の「謬例」を強く警戒していた外務省の対朝鮮強硬論者らにとって、

「屈辱を渠に請」て来た宗氏の派遣は「謬例Jに外ならなかったのであろう。 宗 氏派遣による交渉妥結策が如何に実現可能性が高いとはいえ、 外務省強硬論脊の 認めるところではなかった。 宗氏派遣論は対馬側の建言として出されているだけ であり、 太政官で議論されることなく葬り去られてしまったのであるの

このような穏健策を講じていた対馬に対して、 維新直後の新政府は円朝交渉に ついて無経験であり情報量は絶対的に不足していた。 維新政府の朝鮮政策は交渉 のエキスパートたる対馬の助言と助ノ〕に頼らざるを得なかったのである。 しかし、

樋口大差使の交渉決裂と内乱の終息後、 維新政府は「征持論」を含む朝鮮政策を 本格的に議論するようになった。 太政官弁官宛外務省の伺いは次のようである。

「朝鮮国の儀は昔年御親征も被為在烈聖霊念の国柄故仮令皇朝の藩属と不相 成候とも永世其国脈保存為致置度然るに目今魯西軍を初其他の強閏頻りに垂 誕机上の肉となさんとす此時に当り公法を以て維持し匡救撫綬の任皇朝を除 くの外更に無之一朝是を度外に置弥魯狼等の強固に先制更を被為着候ては其実 皇国永世の大害燃眉の急、に可相成と奉存候依ては速に右の大義を述里使被業 遣候様仕度然るに彼国人情井蛙管見日音滞空渋加之詐術小数を挟屑り侭倣向尊 の様子にて突然、一封の書を送候ても我情実に照応せす容易に其厚詑を受る場 合に至間敷却て其真情に反対し恥辱を仕向候様に至候ては以の外の儀に付先 最初は兵威を示して其侮慢の謄を破り薬力候肢のとならでは旧習汚染 ー洗い たし難かるへくと存候間速に御軍艦一二般を用使節其外役員とも為乗組彼同 へ渡航為致御一新の往IJ政体井交隣の大義を述厚く盟約を噴候様との趣至急御 沙汰御座候様仕度奉存候尤御決議の上は文書往復其他の休裁は条日をす�jß々 可相伺候

但本文の通申上候へとも宗家の儀私交とは乍申積年の交通故自然、親押の情実 可有之方今一概に其条規を廃止候ては物情跨然却て侭抗力を起し実効速挙に

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不至不都合不少と奉存候間近日知藩事御暇を賜厳原へ帰藩の節当省より人撰 の上官員一二名対馬国へ差越時誌により朝鮮へも渡海為致従前対馬朝鮮交誼 往復の内情実地上にて篤と観察の上私交の体裁委細に品評為致霞御軍牒を初 銘々の支度相整彼国へ渡航の節を待居其用便を為達候様仕度奉存候|く25 外務省は、 ロ シアおよびヨーロ ッ パ「強同Jの朝鮮進出を即ち円本の!大言|

と認識していた。 したがって外務省は、 ヨーロ ッ パ列強の朝鮮進出に先んじて、

日本が「先鞭」をつけるべく皇使派遣論を主張したのである。 しかし、 望使派・

による交渉方法は、 旧来の「交隣の大義を述厚く盟約を竜lることであった。 外 務省の朝鮮政策には、 「公法」即ち万国公法のルールを想定しながらも、 「交隣j

という旧来の伝統的枠組みが錯綜して現れていることが窺えよう。 また、 対馬サ イドでしきりに主張された援助要求について、 外務省はその善後策に積極的に取 り組んだ。 対馬への善後策と対馬の交渉権の外務省への一本化(外交一元化)が 不可分の議論であることは、 既に先行研究が指摘している通りである< 2 6>0 この ように、 外務省は外交一元化と皇使派遣論を朝鮮政策の両軸に据置いたが、 これ らは何れも将来の展望として位置づけられており、 その聞は「御軍慌を初銘々の

支度」等の猶予を設けたのであるく27>。

ところで、 このような外務省の交渉方針に対して、 最高政策決定機関であった 太政官は、 対馬からの「朝鮮交際の儀は外務省に御委任被仰付候に付宗家より使 節は可相止候事」を指令したく28>0 上記の外務省の皇使派遣論と外交一元化の)J 針を当面の早急な課題と判断したのだろう か、 対馬を交渉の主体から外す意思を 明らかにしたのである。 しかし、 これは太政官の日朝交渉に対する認識不足と無 知を暴露したに過ぎなかった。 即ち、 この指令に対して交渉の詳細を知悉してい た対馬藩は、 「漂民送還J í和館J í館守(中略〉其以下附属の役員J í公貿易j

「切手(勘合印) Jの問題など、 一二ヵ条にわたる日朝間の現実的な難問題を政 府に問い悲ししたく29>0 これに対しては、 「是迄のjffi J í是迄の侭l等のような答

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えの外はなかったのも、 当然、であったろうく30>。 しかし、 続く太政官の「厳原藩 へ御沙汰案」では、 「俄に荒立て改革Jを暫く棚上げにしながらも、 外務省と同 様に将来的には「外国の交際の義は一途」にするのが、 政府の基本方針であるこ とを明らかにしたり1>。 要するに、 太政官 ・ 外務省は究械的な皇使派遣論と外交 一元化の方針においては原則的に一致していたが、 それまでは「宗家私交|と対 馬の役割を認めざるをえなかったわけである。

かくして、 外務省は「突然、皇使被差遣候ては返て不都合Jとの判断の下で「先 是迄の通宗家の私交に為任置候方可然、」と主張しているく32>。 また「太政宵弁占 より宗義達公用人への口達Jにも、 「激烈応酬候ては却て後害可相生も難噴何困 迄も信義を不破保全の心得」とあるようにく33>、 朝鮮政策は穏健な論調に傾いて いた。 ところが、 このよう な穏健論に対して外務省の「宗義達への達害」には、

「其藩執政の内朝鮮へ使者に差越候者は世上公共の官名相称別段大差等の作唱に 不及」とあり、 対馬の「謬例」の是正を押し進めていた( r大差等の作唱jは明 治五年正月に「大差使」が引き揚げるまで引き継がれている)く34>。 また、 r ;宗 氏私交」による複雑多端な「古来の文格」に対しても「可成丈簡易に御制度被為 立候様仕度」く35>、 「一体外国交際の儀朝鮮国一ヶ国に限り候事に無之西洋諸大 国へ被為対候ても夫々御文格の儀も有之Jとしておりく36>、 伝統的な交渉手続き を排除して万国公法による交渉手続きを志向する動きも出ていた。 このように 外務省の一角からは、 「宗家私交」を認めざるを得なかった太政官の優柔不断さ

や維新政府内の穏健論に対して、 原則論の早急な確認を求める対朝鮮強硬論者が 台頭して来ていることが分かる。

ここで、 朝鮮政策をめぐる外務省内での議論を見てみよう。 外務省はI宗家私 交」をしばらく黙認せざるを得ないジレ ンマと共に、 佐田のr {正鵠論Jの提唱や

丸山作楽の征韓計画、 そして横山諌死事件で見られるような「ナシ ョ ナリスムの エネルギー」を「政治的に利用しようとする動きjにも無関係ではいられなか っ

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たく37>。 幕末以来の対外進出論= I征勝論」は「対外貿易振興論としての性格を 具有」しておりく38>、 木戸の「征勝論」とて「恨軸確立Jのための[不満の外転 策」としての意味が強かったことはく3 g>、 先行研究が指摘している通りである。

しかし、 木戸の「征緯論Jは、 木戸の維新政府内で占める地位と考え合わせると、

外務省にさきかけて唱えられた一つの朝鮮政策だったといえよう。 その実態はど うあれ、 外務省の早急な対策を促す要因だったのである。 問権論的I f正問論」と 対馬の「謬例」の狭間で朝鮮政策を推進する外務省からは、 主として皇使派遣論 と外交一元化(交渉放棄如何と対馬処分問題)をめぐって、 様々な主張と選択肢 が出された。 結論を先取りしていえば、 対馬の「謬例」の即時撤廃をめざし、 問 権論的「征勝論」に傾斜していた強硬論(明治三年四月の外務省より弁宵宛のI 対鮮政策三箇条伺の件J< 40 >、 明治三年七月の外務権大丞柳原前光の「朝鮮論稿|

く41>、 以下前者をB、 後者をCと略す)と、 これを将来の課題として位置づけ その聞は対馬の私交に任して(政府は)関与しない穏健論(明治二年末の外務権 少丞宮本小一く42>の「朝鮮論」く43>、 以下八と略す)との対立が存在していたの 以下、 三つの意見を比較検討してみたい。

まず、 交渉放棄と対馬処分問題について、 Aは、 「姑く打捨置宗家に任」して

「追て十分皇国の威力全備する迄は手を下さ 、 るJことが、 現段階の取るべき朝 鮮政策であると主張している。 これに対してBには、 「朝鮮の交際を廃止し対州 の私交をも為相鎖両国の間音聞を絶し倭館の人数為引払風馬牛不相関渉も のに御 一定Jとあるように、 徹底した交渉断絶策を主張している。 これは、 「左候得は 対州の謬例も自然、に廃阻差向不都合も有之問敷」とあるように、 対馬のI謬礼j を強く意識し、 これを排除するがために出された選択肢であった。 またCにおい ても、 皇使派遣の前提として対馬の「年来の衰弊lをI宵!が清算し、 外務省宵 員を「厳原藩に至らしめ」るなど、 交渉の主体としての対馬の役割を明確に再定 していた。

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次に、 皇使派遣論について、 Aは、 「方今日本の兵力金穀とも足らさるを苦し

む未た朝鮮を井呑するの力なし徒らに手を下し初め半途にして廃する時は天下の 笑とならん」との前提に立ち、 「其中策に出蘇張の弁を振ひ住て説とも ー使節の 力にして及ふ処にあらす故に是非とも用度三四万を費さ 、るを得す然、る時はいっ そ西国の強藩に命し軍艦を出さしめ官よりも一二般の軍慌を仕出し是れに使節其 外の官員を乗組せ」云々と、 短期的ではなく将来的展望として位置づけているの

これに対して、 Bは、 木戸を正使、 宗氏を副使とする皐使派遣論を主張している。

軍艦を率いる「皇使被差遣候一条」は「火急」とあり、 朝鮮の対応如何によって は戦争をも辞さない強硬策である。 cにおいても、 「魯仏英米の彼地を属せんと するは照然、論を挨たす」との国際情勢認識の下で、 「皇国の荷も因循すへきの

にあるましく」と、 朝鮮への着手の急務を説いて太政官の政策決定を促した。 そ の具体策は、 「急速先鞭を着候に前件宗氏を前導し皇使を下し廟略大に定り候上

必す一回の出兵を議定致し置候Jという、 出兵を前提とした皇使派遣論であった。

要するに、 BとCは、 宗氏を「前導」とし、 出兵を前提とした皇使派遣の急務を 説いた。 そしてその根拠として、 Bには「其節は存背tr�功望后御一征の雄績被為 継候〈中略〉決て無名暴動の挙に有之間敷」とあり、 Cには「皇国保全の某礎に して後来万国経略進取の某木」となる朝鮮は「列聖笹11 ïl号念の地Jとある。 説得の 手段として有効であったはずのこのような朝鮮認識は、 他にも太政官のI (朝鮮 は)内藩同様」云々(44)、 木戸の「征韓」論等々から数々窺うことができる。 し かし、 このような朝鮮認識に対して、 AのI朝鮮論」そのーには、 「朝鮮を費む るに古代王政の例を以て論するは行れかたからん」と、 近世の国学流の歴史認識 を批判しく45>、 そのこでは、 天皇と朝鮮同モを同等に位置づけ、 その宍では、 朝 鮮の国際的地位を「半独立国」と位置づけながらも「支那朝鮮の間連続せさる事 理論上にをいて明なりJと、 朝鮮の清国への従属という ー般の認識を鋭く批判し ている。 要するに、 宮本は実態とはかけはなれていた ー般の名分論的朝鮮認識を

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退け、 究極的には西欧化をめざすビジョ ンに某づいて、 現実的な観点からの朝鮮

政策の樹立を主張していたといえよう。

「古代王政の例を以て」論ずる名分論的朝鮮認識に基づくBとCの宅使派遣論 と外交一元化が採択される可能性は少なかったが、 その名分論を以てする迂何的 な朝鮮政策に日清交渉先行論があった。 当然ながら八には名分論的な日清交渉先 行論の視点は存在しなかった。 Bの第三の選択肢として出された日清交渉先行論 は、 木戸欽差大臣の清国派遣決定をフ ォ ローするものであった。 木戸の清同派j

は山口脱隊騒動、 天津教案などを理由に結局取りやめられた。 そして、 欽差大同 木戸に代わ って信任状さえも持たない柳原の清閑出張に格下げされたのである。

対清交渉の下準備としての柳原の派遣は、 しかし予想外の成果を収める結果とな り、 日清新関係の樹立は意外な展開となったがく46>、 名分論による対清交渉先行 論が日朝交渉の打開に ストレートに結びつくことはなかった。 この点で宮木のい う「支那朝鮮の間連続せさる」との指摘は、 的を射ていたといえよう。

このように、 外務省の朝鮮政策は主に皐使派遣論と外交一元化(対馬処分)の 緩 ・ 急をめぐって議論が展開された。 望使派遣論においては、 宮本が将来のビジ ョ ンを提示しているのに対して、 「三ヶ条l ・ 柳原は「火急J I急速jに政策決

定を促し、 戦争をも辞さない強硬論を主張した。 対馬処分においては、 三者共に 対馬の善後策には配慮しながらも、 宮本が対馬の!円例を幾分認めているのに対し て、 「三ヶ条」と柳原は交渉主休としての対馬をあくまでも排除する意見であ っ た。 交渉主体と方式において旧例を取り入れようとした対馬主導の「宗氏派遣論!

と「信使来朝」の件が何れも葬り去られたのは、 このような強硬論に抑えきられ たからであろう。 柳原らの強硬論者にとって、 対馬主導の朝鮮交渉は、 I同威j に障る「謬礼Jそのものに他ならなかったからである。

以上のように、 明治三年までの朝鮮政策をめぐる対馬と維新政府との対立の中 では、 第一に、 対馬は通信使来朝による穏健な交渉策を否定され、 維新政府の外

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交一元化(対朝鮮交渉においての対馬の排除)に危機感をつのらせていた。 そこ で、 宗氏派遣論をもって対朝鮮交渉においての対馬の存在意義をアピールし、 外 務省に対する対馬主導の交渉をもくろんだのである。 第二に、 太政官 ・ 外務省は 究極的には皇使派遣論と交渉一元化の構想、を明確に打ち出したが、 当面は有効な 交渉妥結策を見いだせなかったため、 「俄に荒立て改革」を棚上げにして叶分の 猶予を設けた。 これに対しては、 「宗家私交」の「謬例Jを除こうとする外務省 強硬論者の反発があった。 外務省内部の意見は必ずしも一枚岩ではなく、 望使派 遣論と対馬の処置方(外交一元化)をめぐって、 省内の緩 ・ 急、 強硬 ・ 穏健論が・

対立競合しながら、 太政官の政策決定を促していたのである。 その対立構造はさ きに述べた通りであるが、 積極的に朝鮮政策を具申していた外務大少永クラスの 柳原と宮本の政策の相違が、 外務省内の対立の軸になって展開されたことは問・島 いなかろう。 第三に、 維新政府内の試行錯誤と太政宵の優柔不断の背景には、 朝

鮮問題への情報 ・ 認識不足と共に、 この時期においての不安定な権力構造、 意思 決定システムの不備などが挙げられよう。 明治二年七月のI職員令|の下でも、

各省卿は総て公卿 ・ 旧 護主勢力が占めてお り、 三職、 各 省卿、 士族出身の大 柄以 下実務官僚との聞の相互関係及び権限の範囲は必ずしも明確ではないく17>。 かよ うな制度的不備が朝鮮政策に混乱をtH �\た一要因であったことも、 論を進めるう

えで念頭に置かねばならない。

第二節 「政府等対」論と宗氏派遣論

佐田一行の朝鮮派遣と帰国後の「征勝論」の沸騰及び外務省の外交一元化に向 けた動きなどが活発化する中で、 交渉の主体たるべき対馬は、 徐々にその地位を 失いつつあった。 また、 「信使来朝l案と宗氏派遣論は黙殺され、 !大業使j

よる交渉は一年以上も停滞していた状況であった。 明治三年四月、 このような事

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態に危機感を募らせていた対馬藩サイドでは、 重要な交渉妥結策が持ちとがって いた。 宗氏の側近であった大島友之允〈旧対馬藩大参事)の「政府等対Jの論(

以下、 「等対論」と略す)であるく48)0 I等対論」の基本的な趣旨はI於廟常

に御胸懐を被為開大修士御書契中渠不服の廉相除き無異儀可致承伏文休を以大政 一新の顛末速に御報知有之先以両国御迫交の御結ひを御取置かれ」ることであり、

具体的lこは「君上御宮称を初め公の字朝間等渠の願意に応し御書契の休式総て御 旧復の姿Jにすることであった。 そして、 朝鮮側を説得する際の主な心得事項と して、 対馬藩の置かれた立場と維新政府の出方を各々、 「若し朝議の出る所辞職 所に無之免職の上厳重謎責も可蒙哉又是迄の応援因循杯と中を以て兵馬に先導可 被命哉是等何れに出可申も難計州中苦慮愁眉罷在候情態の事l、 「当節朝鮮不応 の現実奏聞の上は廷議寛猛何れに出可申哉必然朝野議論紛々多くは其不礼を特め 討伐の論に帰し可申機会に被考」と説明している。 これは説得のための手段であ

り、 やや大げさではあるが、 当時の「征開論Jの沸騰や外務省の積椅的な朝鮮政 策への取り組みなど、 強硬論が台頭してきていた状況を反映しているといえよう。

また、 このような状況は対馬を窮地に追い込もうとしており、 これは即ち|対州 に在ては朝鮮の禍は眼前対州の禍」という危機意識に基づいていたのである。

ともあれ、 対馬の「謬例」を警戒して皇使派遣論と外交一元化の急を説く外務 省強硬派が存在する中で、 「御書契の休式総て御旧復の姿Jに戻すことは、 交渉

方法において維新以来の政府の方針とは打って代わ った画期的な提案であった。

またこの背景には、 「一 昨年御新政管IJ 通報に被及候1初と旧冬応接向激烈応酬候て は後害可生難計の御沙汰振とは朝議の御旨趣前後少敷御達同も育之jとしている ように、 佐田の朝鮮出張を境に「朝議」が軟化し、 太政官は!後害lを,t:_じさせ るような強硬論を警戒していたことが窺えよう。 交渉のエキスパートたる大鳥の

「等対論」は、 このような状況から生まれたものであり、 交渉主体は宗氏を含む 対馬藩士を想定していると考えられ、 朝鮮側の交渉拒絶の名分をめぐる問題をほ

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ぼクリアするものであった。

五月一三日、 通詞浦瀬裕は交渉の根回しのため釜山に渡り、 倭学訓導安東俊と 会談して、 「等対論」の可否を打診した。 訓導はI等対論Jを「格別の御中.

と大いに同意し、 即時朝鮮朝廷に報告したく49>。 ところが、 会談前の五月竺円、

ドイツ領事と倭館在勤の通詞中野許太郎を乗せたドイツ船へルサ号が、 通商を求 めて釜山に入港上陸し、 朝 鮮官憲の要求によって翠日退港した事件が発斗:してい たく50>0 事件は何事もなく終わり、 一三日の浦瀬 ・ 安の会談にへルサ号事件は何 等影響を与えなかった。 しかし、 「格別の御卓見」と認められた「等対論」の報 告は、 ヘルサ号事件の報告で疑念を強めていた朝鮮朝廷(または大院君)の中で 審議された。 ドイツ船に倭館在野jの対馬のjffi詞が乗っていた事実は、 朝鮮明廷を して日本を西欧勢力の手先( í異人と御合体」く51>í倭館之和応洋醜lく5 2> )と いう疑念を植え付けかねなかった。 朝鮮明廷の回答が得られた後に行われた六月 一三日の浦瀬 ・ 安の第二次会談では、 安東俊の態度は一次会談とは打って変わ っ て、 へルサ号事件をもって白木側の態度を責めるばかりであったく53>。 しかし、

訓導は最後に「我朝の御講申安き様に被仰掛候へは御難題と可被存様も無之左候 時は異人云々の疑は忽ち氷解いたし候J I最前御内話に及ひ候通り御互政府等対 の御交際の儀御変通を以帰国より被仰掛候は 、成百は必難期候得共随分尽力周旋 仕見度」と、 依然「等対論」を有効としていたく54>0 末端の官吏とはいえ日朝交 渉における訓導の役割は大きなものであった。 司11 J撃をjillさずには交渉は始まらな か ったのであり、 大院君との関係からも訓導の発言を「一己」の発言と無視する わけにはいかないく55>0 i甫瀬の帰国後の報告以降の日本側の姿勢にもíj品目対州 人浦瀬最助訓導と応援の大意を考候処到底政府と政府との交際に相成候は 、彼の

希望する処と被存候jとありく56>、 |其応援tj]彼か弥親交拒絶の意なきI �Ji然い たし候」との判断からもく57>、 へルサ号事件にも拘わらず、 「等対論Jは円本側

においても大きく評価されたのであるく58>0

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ところで、 そもそも大島が「等対論」を唱えた理由は、 釜山で頓座して苧aしく 滞在中の大差使樋口の交渉を促進するためであった。 円朝交渉の詳細を概めてい た大島にとって、 「等対論」による交渉主体はあくまでも対馬蒋士でなければ. 1:"l

らなかったはずである。 森山茂 ・ 広津弘信 ・ 宮本小←ー等、 朝鮮交渉の直拷相当者 逮においても、 宗氏もしくは森川王城(大莞使樋口の実弟)の派遣が挙論されて いたく59>。 しかし、 外務卿輔〈沢宣嘉、 寺島宗即J)は宗氏もしくは対馬蒋七派遣 案を無視し、 「両人(森山 ・ 広津)之外今一人政府にて御人撲に相成対州よりも

紹介致し尤大差杯と申す名義に 無之外務省より命を以て渡韓」との趣旨を太政官 に上申しく60>、 決定に至った。 要するに|等対論」は、 大鳥の本来の意図と対馬 の論理が排除、され、 外務省主導の下で進められ、 「三ヶ条」や柳原の主張にあっ たように、 一気に外交一元化の方向に動きだしたのである。 初交渉以来の日朝交 渉の懸案であった交渉方法( I書契の休式J )の問題がクリアされるや、 今度は

対馬が交渉の主体から外されてしまったのである。

このような決定はどのように行われたのであろうか。 吉岡使節団成立において の外務卿 ・ 輔の太政官への上申のポイントは、 第一に「政府互の交際に致し胃く 時は敢て後日の害と相成間敷と考候」ということ、 第二に「政府丈の御交際Jが

「穏妥」な方法であったということ、 第三に、 これが「交手[1;を破り候様の暴談に は決して至り不申左すれは御!懸念の廉も有之問布御儀」ということでありく61>、

これらが太政宮の決定を導きだしたといえ よう。 日朝交渉における「後日の害l や「暴談Jに至るような「御懸念、の廉」をなくした「穏妥」な交渉でなければな らないことが、 太政官の朝鮮政策決定要因の一つであったことは、 維新直後の政

策決定過程を理解する上で、 重要な示唆になるであろう。

これに 対して宗氏は、 外務省主導による「等対論J の実行に際して、 「覆轍を 以て将来の形勢を熟考するに当節官員再渡猶大修使応援の!順序を追ひ反復弁論に 至り候時其効無之は多言を待たすlと、 失敗を予期していたく62>っ なぜなら、 対

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朝鮮交渉の実態の詳細を把握していた宗氏は、 対馬藩士ではない使節に対する朝 鮮側の対日交渉拒絶の論理を、 充分熟知していたからであろう。 なお、 宗氏は「

此度臣家役御免許の蒙御沙汰度奉願候」と、 家役の返上を巾し出たく63>。 交渉ペ、

調と対朝鮮交渉上の特権の事実上の廃止によ って、 |円来の家役 ・ 貿易は共に形骸

化しつつあるうえ、 莫大な負債く64>を背負っている宗氏側の立場からすれば、 家 役返上の願出は、 幕末以来の外交刷新と藩財政立て直し(援助要求)のための者 肉の策でもあった。 しかし、 その一方には、 対馬を排除して一方的に進められる 外務省主導の交渉に対する反発の意味も込められていたと思われる。 このよう に、 「等対論」に基づく交渉は外務省案がまかり通った結果、 交渉主体が外務省 官員という新しい局面を迎えた。 徳、川幕府の日朝国交樹立以来初めて、 日本間政 府の使節が交渉に直接臨むようになったのである。 両人(森山茂、 広津弘信)の 地位が低かったことから、 こののち外務権少丞吉岡弘毅が加わってやがて育問使 節団が成立した。 I等対論」の原則に従って、 吉岡使節団が持参する害契には 今までの日朝交渉の障害物であった字句などは含まれていなかったく65> 。

一一月三日、 釜山に到着した吉岡使館i聞は早速訓導と会談したが、 訓導は対馬 藩以外とは交渉に応じないことを明確にしてく66>、 「等対論Jは早くもfH鼻をく じかれた。 そして、 外務省においては朝鮮の拒絶の論理が対馬を通さなければな らない「先格Jにあったことからく67>、 宗氏の「夜、交|を根本的にとり除、くこと が求められた。 折しも宗氏の家役返上の願いもあったので、 広津は二月谷山を退

港して、 対馬で宗氏と会談した後、 善後策を講じるため上京した。

第三節 朝米戦争と宗氏派遣論

広津が帰国して種々画策していた明治四年三月、 横浜駐屯米軍を載せたアメリ カ艦隊は長崎に碇を下ろしていた。 朝鮮侵攻はまもなく実行されようとしていた。

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アメリカ艦隊の長崎からの出港によって、 日本は否応なく朝米聞に介在されざる

を得なかった。 へルサ号事件を経験している朝鮮政府をして、 「倭館之和1応洋問j 即ち「倭」と「洋」の一体の認識を益々強く植え付け兼ねないことでもあったの

政府官吏の派遣によってまたもや交渉の入lJで搾折していた維新政府は、 なんら かの対策を講じなければならなかった。 また、 朝米間の武力衝突による経過と結 果は、 名分論に基づいて戦争をも辞さないという外務省の強硬論(早急な雫使派 遣論と対馬藩の排除〉の進退に直接的に関わる問題であった。 緊迫した情勢の変 化によって、 日本の対朝鮮政策は朝仏戦争以来の一つの山場を迎えたのであるく6 8>。

朝米戦争に際しての日本の外交政策は、 朝鮮駐在の吉岡使節団に出された外務 卿の「内諭」によく表されている。

「内諭

吉岡弘毅 ・ 森山茂 ・ 広津弘信

一、 朝鮮は接壌旧交殊に方今既に官員を派して親交を求るに当る然るに其|玉 に事あらんとす須らく其法策を尽し其国の危急、を患ふるの意を表し其害を避 くる寸を勧め以て皇朝隣接の親情を顕はすへし

一、 米利堅は旧交なしと離も既に政府と公然友誼を結ひ朝鮮は未た政府と交 友の誼を表せさるに当て公然たる皇朝の所分に至りては米を助く可きの義あ りて鮮を援ふの理なし故に皇朝朝鮮と交誼を結はさるに先って一旦事起る時 は我皇朝は之を傍観して米の為す所に委ね敢て之を妨くる1能わす而して米 とは友親の誼敏く寸能はす(中略)

方今米鮮の間我皇朝所分の大綱なり汝輩宜く之を領承し敢て其措置を誤り後 患を招く寸勿れ」く69>

太政官は朝米戦争lこ際して、 「接壌旧交Jのある朝鮮に米艦隊の侵攻を前もっ て知らせて「皇朝隣接の親情!を表す一方、 朝鮮を侵攻する米国との関係も配u・

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しなければならなかった。 I内論」の主な趣旨は、 「米を助く可きの義ありて朝

鮮を援ふの理なし」ということであり、 万国公法の下で「政府と公然友誼を結j んでいる米国との「友親の儀Jに重点が置かれていた。 しかし、 米国際隊の長崎 からの出港が、 「方今既に官員を派して親交を求」めようとする日本の立場を閃 難にさせたのは推測に難くなしì0 I望朝隣接の親情を顕はす」ためには、 もっと 積極的な措置が必要であった。

江華島で戦火を交えていた朝米戦争のさなか、 白木が戦争の成行きやその結果 に重大な関心を払っていたことは言うまでもない。 広津は交渉妥結策として宗氏 の「私交」を断つべく帰国したが、 朝米戦争の消息に遭遇すると状況は一変した。

広津は「知藩事殿自ら渡鵠相成懇々説得候は 、現に熟成の功を奏せすとも隣究相 立」云々と、 朝米戦争に際して宗氏派遣論の他にないことを外務省に建言せぎる を得なかったく70>。 広津の宗氏派遣論に対して、 宗氏は五月六日「夫程の尽力は 当然、の義」と賛成しながらも、 「結局の御廟義如何と案労Jしていたく71>。 宗氏 は交渉打開に積極的であり、 自ら朝鮮に赴こうとする強い意思を明らかにした。

しかし、 宗氏が「案労」しているように、 政府は朝米戦争を「一大事」と認識し ながらもく72>、 はっきりとした政策決定には鰐略していた。 このような状況の下 で論議は百出し、 政策論争の熱い焦点、になったのが、 対馬の処遇と宗氏派遣論で あった。

柳原は吉岡ら三人に、 朝米戦争に際して起きた政府内の議論の様相を次のよう に伝えている。

「一、 今般米国朝鮮と兵端相関け候に付ては我望朝の所分に付ては当地に於 て種々議論も 沸致し候其一つ外務省出仕の輩は連々引揚て其担当に過き禍 害を我に請けさるを要す其二は其機に投し厳藩知事を開地に渡らし懇に宏、持 して其末我交際の利を得んなり其モ本省より別に大承権大丞の辺は人望才知l 相備わる者を遣し対州を鼓舞して機会に投して市を挙ん是等種々百端の説街!

(30)

座候得とも諮る処実地の形勢且彼国の引受工合に拠り申さす候ては適宵の 策も難立但し愚案には此時に会し外務省の出(更を帰朝せしむるは迂閥儒弱の 論にして信するに足らす又対藩知事を朝鮮に遣わす如きは其詰末を予行せす は事軽易に度り外外国の笑を招かん故に唯外務省w使即ち閣下等の能く対州、|

藩の望みを得て彼の力を尽さしめ協力同心して機会に投して事を謀るある貝a 万里の遁涛を隔て百諭をなすよりも閣下等の実地上の一計画に拠て処分する に著する耳なり

一、 対州知事家役御免願の通り被仰付候様の事先般中御建言御座候得共此時 に当り候ては緩急適宜共難申旦広津氏東京御発足の瑚申談し置候事も有之今

一応の御書通を合待巾候J (73)

朝米戦争に際しての政府内の「種々百端の説」の「其一」は、 吉岡使節団の引 き揚げ、 「其二」に、 宗氏派遣論、 「其三」に、 外務省宵員を対馬に派遣して「

対州を鼓舞して機会に投して事を挙んJなどの議論を認めている。 柳原は外務省 官員の引き揚げ論を「迂閥軟弱の論」と非難し、 「対落知事を朝鮮に遣わすJ宗 氏派遣論を「外国の笑いを招かん」と反対した。 しかし、 宗氏派遣をI謬例lと 受け止めていた強硬論者柳原も、 宗氏家役罷免を主張した従来の態度は保伺して いたく74>。 戦争の結果によっては、 宗氏は不用のものにもなれば、 絶対に必要な 存在にもなりえたからである。 このため外務省は、 この時期の宗氏家役免願を|

御家の儀は従前彼国情御熟達儀に有之此際別して御添心被成功業相運ひ候様為朝 家一層御尽力所百11目に候」と、 一応引き留めて置かねばならなかったく75>。

戦争の結果、 アメリカ舷隊が何等の日的も達成できず撤退(五月 -六円)する と、 仏艦隊の撃退に次いで米舷隊をも撃退した大院君政権は、 全国の主要都市に

「斥和碑」を建立し、 排外熱は益々高まるばかりであったく76>0 外務省は朝鮮に 対する積極的な善後策が必要となり、 戦後交渉において宗氏派遣の他に打開策は なかった。 戦争の結果は、 朝鮮との武力衝突(日朝間の強硬策の衝突)が得策で

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ないことを物語り、 対馬を交渉の主体から排除して早急な皇使派遣論を主張する 強硬論も後退を余儀なくされたのである。

吉岡使節団宛ての小林匡(吉岡使節団随行、 史生)書簡は、 朝米戦争終了後の 朝鮮政策をめぐる政府内の論争を次のように伝えている。

「劣生共去十八日朝横浜着(中略)十九日本省へ出仕幌国の状実井見込の次 第委曲陳述仕候得共兎角是迄の本省の論説或は引揚又は米の結局まて傍観或 は知事渡韓等の説紛々何れも厳藩の手を断候ては不相成との事にて劣生等陳 述の次第とは大に翻館いたし山口公に至ては別して不承知にて我々の論多く 論破被致候へとも強て頑論も不仕候併し是と申定論も無之候へとも亜細亜州 の交際は銘々勝手に取結ひ候約束にて西洋の如き交際上の定法無之対斡の私 交とても同様の事にて西洋各国へ対し敢て可恥事にあらす故に厳原藩依然屑 へ置官員は機を見て引揚くべし杯との論も有之候花房佐田渡辺等不相手寺尽力 卿公大輔公は御所労笹11印龍園位は黙々なり」く77>

朝米戦争後の外務省の議論には、 「引揚」、 米国の後続措置までの傍観、 宗氏

派遣論などがあった。 そのうち、 宗氏派遣論については、 柳原 ・ 小林などの宗氏 派遣反対論が後退し、 「何れも厳藩の手を断候ては不相成」とあるように、 宗氏 派遣論を支持する穏健路線が勢力を伸ばしてきていたことが分かる。 折衷策とし ても、 対馬藩を据え置いたまま官員を引き揚げ、る(宮本の「朝鮮論Jにあったよ

うな)穏健な交渉放棄策であった。 対朝鮮強硬論者と同される外務省のI花房佐 田渡辺(洪基)Jなどは柳原 ・ 外務省の基本方針のためI不相替尽力lしていた が、 「卿公大輔公」その他は「黙々」と明確な意見を示さなかった。 政府内は朝 米戦争の経過と結果を考慮しつつ、 外務省主導の交渉のあり方を見直そうとする 動きが強く勢力を保ってきていた。 その結果、 柳原を中心とする外務省強硬派の 主張は後退し、 宗氏派遣論が重要な解決策としてそま場してきたのである。

広津は五月六日の宗知事との会談のすえ、 宗氏から家役罷免の合意を得て、 家

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役罷免( =外交刷新)と「朝廷の恵賜J (=援助要求)をセ ッ トにし(これは既 に維新政府の認めるところであり、 対馬の従来の主張とも矛屑しなし\ )、 交渉主 体としての宗氏の派遣を力説したく78>。 同月二五目、 沢外務刑]は広津の意見をを とに宗氏の家役罷免と、 外務省内の強硬論を押し切った宗氏派遣論をL巾するよ うになったく79>。 ここに宗氏派遣論と「等対論」が一休となった-交渉主休と万 式において朝鮮側が容認できる一対馬主導の交渉が、 朝米戦争後の朝鮮政策の村 として進められる段取りとなった。 宗氏の家役罷免と外務大永任命(予定)によ って、 強硬論者の主張であった外交一元化の点でも大きく前進した。 これと同時 に、 宗氏の派遣を「謬例」と受け止めていた強硬派の主張は退けられ、 円朝交渉 の重要な争点がクリアされるようになったのである。 要するに、 外務省は初]米戦 争をきっかけに宗氏派遣論を認めざるを得なかったが、 同時に一元的外交と対馬 への善後策という旧来の維新政府の原則論を曲がりなりにも固守する形となりく8 0>、 対馬に対しては持論の宗氏派遣論と等対論を認め、 そして朝鮮に対しては交 渉拒絶の名分をなくす妥協案となったのである。 ところが、 宗氏の上京が命じら れ、 対朝鮮交渉の突破口を切り開くように見えた宗氏派遣論と「等対論」は、 廃 藩置県という国内の大変革に遭遇し、 再び暗礁に乗り上がることになる。

小括

維新後廃藩置県までの日朝両国間の交渉における主な争点は 、 交渉の主体と方 法をめぐる対立であった。 そして、 朝鮮問題をめぐる対立の閏内過程においては、

国内情勢及び朝鮮をとりまく間際情勢の変動を考慮しつつ休而と現実的制約との 合間をくぐり妓けてい った。

内乱の終結と権力機構の整備と共に、 皇使派遣論と外交一元化に向けた動きと

議論が活発化するにつれ、 対馬の存荘意義は徐々に薄れてい った。 このような状

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