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著者 根崎 光男

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江戸町方における火の見櫓の建設と御鷹御用 : 牛 込揚場町を事例として

著者 根崎 光男

出版者 法政大学人間環境学会

雑誌名 人間環境論集

巻 20

号 2

ページ 80(1)‑65(16) 発行年 2020‑03‑23

URL http://doi.org/10.15002/00023043

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はじめに  江戸の町は近世中期には一〇〇万人を超える巨大都市であり、そこには武士・町人などが混在して居住していた。その支配は身分によって系統が異なり、町人は町奉行に支配されていた。この町奉行が詰める役所は町奉行所と呼ばれたが、ここでは町方の行政・立法・司法のほか、消防・警察も所管した。しかし、町方の支配は町奉行所だけで完結していたわけではなく、事物の内容によって町奉行所では扱えないものもあったのである。

  さて、江戸町方の行政単位は町であり、各町の支配は 町奉行所の管轄に属したが、直接には町人の筆頭である町年寄という役職によって行われ、それを代々世襲した奈良屋・樽屋・喜多村の三家が各町全体を月番で統括した。また江戸町方の各町には、名主・月行事・五人組が組織され、それぞれの町の運営がおこなわれていた。そして、江戸の町では一人の名主が複数の町を支配しており、名主が居住していない町では月行事が町運営の中心となっていたのである。月行事は、町内の家主(家守・大家)らによって構成される五人組から選ばれた人が交代で務めたもので、各町に存在した。町奉行所、町年寄、名主・月行事がどのような関係になっていたのかといえば、たとえば町触の伝達については当番の町年寄が

江戸町方における火の見櫓の建設と御鷹御用 ―

牛込揚場町を事例として

根崎  光男

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第 2 図 牛込揚場町と河川(『江戸切絵図集』ちくま学芸文庫)

  また町の名主は佐内であったが、この佐内(島田氏)家は寛永三年(一六二六)、重次の代に外堀端の田地を埋め立てて市谷田町の各町に割った際、その坂上に町屋を造成した旧家として知られていた。この町屋は田町各町と同じく、開発以前は武蔵国豊島郡市谷領布田新田の 町奉行所に出頭して町触を受け取り、それを各町の名主に触れ、名主は月行事に触れ、月行事は自身番屋に掲示して町内に触れるという順序でおこなわれた。  また江戸の町方には、自身番と呼ばれる町内警衛のための自警制度があり、自身番が詰めたので、転じてこの番所をも自身番(自身番屋・自身番所)と称した。自身番の名称は、はじめ町内の地主町人が自身で交替で務めたところから生じたといわれる。しかし、のちには家主・店番・町内雇いの番人らが組んで昼夜に分かれて詰めるようになった。自身番の任務は、交替で町内を巡回し、喧嘩口論を戒め、夜は火の用心にあたり、また町廻りの奉行所同心などが犯罪容疑者を捕らえたとき、一時的に預かることもあった。そして、火災に対応するために、各町では火の見櫓、もしくは第1図のような枠火の見を設けていた。  そこで本稿は、江戸の町方である牛込揚場町を事例に、自身番屋の屋根上への枠火の見の建設の具体的なありようを検証し、町方支配の構造の一端を明らかにしようとするものである。なお、江戸町方の一部が幕府鷹場(御拳場)に指定され、そのための支配が展開し、さまざまな規制と負担のもとに置かれていたことはすでに指 摘した

。しかし、江戸町方のなかには、幕府鷹場(御拳場)には指定されていないものの、御鷹にかかわる御用を務めているものがあり、牛込揚場町はまさにそうした町方であった。このため、その町の火の見櫓の建設には、さまざまな機関の了承が必要であった。今回、紹介する一件は江戸の町方支配の多元性・重層性という点を浮き彫りにしており、この町が御鷹御用とかかわることによってどのような規定性を与えられているのかについても検討していきたい。

第 1 図 江戸の枠火の見

(『近世風俗志⑴ 守貞謾稿』岩波文庫)

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一  牛込揚場町と自身番屋   牛込揚場町(現在、新宿区揚場町)は、江戸城の北で外堀に面し、大久保通りの神楽坂に隣接する町屋であった。古くは武蔵国豊島郡野方領牛込村に属し、はじめ武家屋敷であったが、のち拝領町屋となり、外堀端の通り(現在、外堀通り)に東面する片側町であった。その三方は第2図のように武家屋敷によって囲まれ、その近くには神田川の屈曲部と外堀の続いたところにあった揚場河岸と神田川との合流部付近の江戸川に架かっていた船河原橋とがあった。

候に付町名揚場町と相唱申 ついては「神田川附に而山の手諸色運送の揚場に相成候   『』名府内備考に来由の町にの町御揚込牛ば、れよ場

」とあり、武家屋敷であった山の手地域へ運ぶ荷物の荷揚場になっていたのでその名が唱えられるようになったといわれる。それを示すように、堀沿いには二か所の荷揚場があった。

第 2 図 牛込揚場町と河川(『江戸切絵図集』ちくま学芸文庫)

  また町の名主は佐内であったが、この佐内(島田氏)家は寛永三年(一六二六)、重次の代に外堀端の田地を埋め立てて市谷田町の各町に割った際、その坂上に町屋を造成した旧家として知られていた。この町屋は田町各町と同じく、開発以前は武蔵国豊島郡市谷領布田新田の

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百姓地で、開発後は市谷坂町と称したが、のち自然に市谷佐内坂町と呼ばれるようになった。なお、重次の父は布田新田の郷士であったと伝えられる。その開発後、佐内家は市谷田町一丁目の佐内坂上り口の角屋敷に代々住んでいたが、明和元年(一七六四)先祖の開発地内である市谷佐内坂町に引っ越した。そして、佐内家は市谷佐内坂町の世襲名主であるとともに、市谷・牛込地域の町屋の名主でもあった

  また町内には、間口五間、奥行五間の自身番屋があり、『御府内備考』には次のように記述されている

右町内東之方木戸際河岸に有之、起立の儀者寛文年中御願済に而相建候よしに御座候得は、何れの御役所え奉願候哉、享保十七子年中類焼の節書留焼失仕相分不申候

  これによれば、揚場町の自身番屋は町内の東方で木戸際河岸にあった。町は寛文年間(一六六一~一六七三)には起立していたようだが、享保一七年(一七三二)の火事によって町関連の書類を焼失したことで、その経緯がわからなくなってしまったという。しかし、近世前期 からこの町名が存在したことから、山の手地域への物資輸送の一拠点として位置づいていたといえるだろう。

二  火の見櫓の建設願いと町奉行所   江戸の町を語るとき、「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉はよく知られる。火事は江戸の町を象徴するほど頻発していたことを示すものだが、それは江戸の人々の生活を脅かしながらも町を活気づけるものであった。江戸の町は火事のたびごとに蘇り発展してきたという、ある意味肯定的な認識も存在したのである。

  こうした地域事情のなかで、弘化二年(一八四五)三月十二日、牛込揚場町の月行事であった佐七は、町内には火災の発生をいち早く把握するための見張り台である火の見櫓がなかったため、自身番屋の屋根上への枠火の見の建設を町年寄の樽藤左衛門役所に願い出た。この町でも幾度かの火事に見舞われ、その損失の大きさは認識し、火の見櫓の建設が懸案事項となっていたということであろう。

  これに対して、三月十四日、火の見櫓の建設願いを受理した樽藤左衛門役所は、次のように返答してきた

)(

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       牛込揚場町月行事  佐  七   右相願候者、町内火之見無之、出火之節差支候ニ付、御堀端木戸際ニ有来候自身番屋屋根上江、高サ四尺五寸、幅四尺四方、根張八尺之枠火之見補理、壱丈三尺之階子取付、半鐘釣置、番屋軒上江足溜手摺幷枠火之見中段迄階子取付申度、右入用兼而積金仕置候ニ付、別段町入用ニ拘リ不申候段、五人組・名主一同申出之候右之通申出候ニ付、手代共見分為仕取調候処、自身番屋棟高サ壱丈八尺有之、此度相願候枠火之見階子上迄惣高サ三丈壱尺ニ相成、番屋裏之方より出入仕候間、往還其外差障等無之段申立之候処、右場所雑司谷筋  御成之節  御道筋ニ相成、幷番屋之儀江戸川・神田川筋船鴨御捉飼之節等御鷹御用所ニ相成候段申立候ニ付、其御筋御掛合被成下、御差支も無御座候ハヽ、願之通可被仰付候哉、則絵図面相添、此段奉伺候、以上但、御堀端之儀ニも御座候間、河岸地掛リ江茂一応御下ヶ被成下候様仕度奉存候、願之通被仰付候得者、出来之節御双方御  組年寄同心見分 被  仰渡、町年寄手代共も差出申候

        巳三月樽  藤左衛門   これによれば、牛込揚場町の願いは町内には火の見櫓がなく、火事の際には支障が生じており、堀端の木戸際にある自身番屋の屋根上に、高さ四尺五寸(約一・三六m)、幅四尺(約一・二一m)四方、土台となる根張八尺(約二・四二m)の枠火の見を建設し、そこに一丈三尺(約三・九四m)の梯子を取り付けて半鐘を吊り下げ、番屋の軒上へ足溜め手摺りと枠火の見の中段までの梯子を取り付けたいというものであった。なお、その建設費用は以前から積み立ててきているので、町の運営費である町入用からは支出しないと、名主・月行事・五人組が連名で申し出ていた。このため、町年寄の樽役所は手代を派遣して取り調べ、自身番屋の棟の高さは一丈八尺(約五・四五m)、建設を願い出ている枠火の見の梯子上までの全体の高さは三丈一尺(約九・三九m)であることを把握した。また枠火の見への昇り降りは、番屋の裏のほうからするので道路やその他に支障を生じさせないと申し立てていた。しかし、この場所は将軍の雑司ヶ谷筋への御成の道筋になっており、また自身番屋は江戸川・神

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田川での「船鴨捉飼」などの「御鷹御用所」にもなっていたので、それにかかわる役職にも相談する必要があった。さらに、この件につき何の問題もなければ願いの通り許可が出るだろうという想定のもとで、絵図面を添えて町奉行所に伺いを立てることにすると説明していた。なお、この場所は堀端でもあったので、河岸地掛からも一応許可を得る必要があることを認識していた。願いの通り許可が出れば、枠火の見が完成した時に南北の両奉行所の年寄同心の見分が行われ、その際には町年寄役所の手代も派遣すると述べていた。

  そこで、町年寄の樽役所はその建設による支障の有無を見極めるため、何度か不明な点を牛込揚場町に問い合わせてきた。次の史料は、樽役所の再度の問い合わせに対する牛込揚場町の返答書である。

       御尋ニ付申上候一、牛込揚場町月行事佐七申上候、私共町内自身番屋火之見無之差支候ニ付、番屋家根上江建、階子取附候枠火之見新規補理申度旨、当月十二日奉願候ニ付、夫々差支有無再応御尋ニ付、左ニ申上候

  町内自身番屋之儀者、御場内ニ者無御座候得共、 江戸川幷神田川筋船鴨御捉飼之節年来御鷹御用所ニ相成、御定例正月二日・三日、幷冬春四五度程茂有之、御鷹匠方・御鳥見方御出役ニ而自身番屋御休息所ニ相成、御鷹之儀者番屋内架場江御居置、町内河岸より御船ニ而御捉飼有之候儀ニ御座候、  御奥向より不時御捉飼之節者御小納戸御頭取様方、其外御鷹匠方・御鳥見方御出役有之、御定式不時とも壱ヶ年凡十度程茂有之、且又江戸川鯉御取溜御用之節茂御鷹匠方・御鳥見方御出役方御休息所ニ相成候儀ニ御座候、然ル処此度右番屋家根上江新規火之見補理、半鐘釣置候ニ付、御差支有無、御鷹匠方・御鳥見方江相伺候処、何れも御差支筋無之旨、雑司谷御役宅御鷹匠組頭近藤鉄蔵殿、千駄木御役宅同上野岩太郎殿、中野御掛リ御鳥見鹿窪善左衛門殿・吉田喜三郎殿被  仰聞候、且又近辺御武家方江茂猶又掛合候処、聊差障無之旨被申聞候一、右番屋より尾州様御屋形江凡拾弐町程、水戸様御屋形江凡六町程隔リ申候右御尋ニ付、此段申上候、以上

       牛込揚場町

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       月行事弘化二巳年三月廿三日願  人  佐  七  印五人組  又兵衛  印 名  主  左  内  印        樽         御役所

  これによれば、牛込揚場町には火の見櫓がなく、いろいろ支障が生じているので、自身番屋の屋根上へ梯子を取り付けた枠火の見を新規に建設したいというものであった。これに関する樽役所からのいくつかの問い合わせに対して、以下のように答えている。①牛込揚場町の自身番屋は幕府鷹場の一種である御拳場内には位置していない、②江戸川・神田川筋の「船鴨捉飼」の際には「御鷹御用所」になっており、年に六、七度務めている、③鷹匠・鳥見が出張してきた際にはその休息所になっている、④鷹狩で用いる鷹は自身番屋内の架場に据え置き、町内河岸より鷹の訓練で出かけることになっている、⑤鷹の訓練がある場合は小納戸頭取・鷹匠・鳥見が出張してきて、年に十回ほどその控え所となっている、⑥江戸川に鯉を取り溜める御用の際にも鷹匠・鳥見が出 張してきてその休息所となっている、⑦自身番屋の屋根上に新規の火の見櫓を建設して半鐘を取り付ける件について鷹匠・鳥見に支障の有無を問い合わせたが、いずれも支障はないと、雑司ヶ谷鷹部屋の鷹匠組頭近藤鉄蔵、千駄木鷹部屋の鷹匠組頭野岩太郎、それに中野筋掛鳥見の鹿窪善左衛門・吉田喜三郎両名から返答があった。⑧近所の武家方にも問い合わせたが、いずれも問題はないという返事であった。⑨尾張徳川家の上屋敷とはおよそ十二町(一・三㎞)、水戸徳川家の上屋敷とはおよそ六町(〇・六五㎞)ほど隔たっていて、問題ないというものであった。  次いで、翌月にも樽役所から「船鴨」や「御用所」の由来について問い合わせがあり、四月十日、牛込揚場町は次のように返答した。       以書付申上候一、牛込揚場町自身番屋之儀者、江戸川・神田川筋船鴨御捉飼之節年来御鷹御用所ニ相成候処、右船鴨幷御用所与唱候訳御尋ニ付、左ニ申上候一、船鴨之儀者御捉飼之節、右町内河岸より神田川通御乗船ニ而御鷹御居出し、川内ニ罷在候鴨御合

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せ被成候儀ニ御座候、且船鴨与申儀者御用前日其御筋より町内江御書付参候節、船鴨捉飼与御認被遣候ニ付、右之通唱来申候一、御用所与心得候儀者、御捉飼之節者明ヶ六時より夕七時迄、終日御鷹幷御道具類御置所ニ相成、御出役様方御休息御控所ニ相成、上ヶ鳥御調等も有之候儀ニ而、既ニ文化十二亥年中御小納戸御頭取長谷川主膳正様・中野播磨守様御勤役中、御捉飼御用之節御控所ニ相成候儀故、囚人御預ヶ物無之様御場掛リ様より  御奉行所江御達ニ相成候旨、同年正月十五日御鳥見方より被仰渡候ニ付、其段翌十六日両   御番所江御訴申上候    右御尋ニ付、此段申上候、以上         牛込揚場町    弘化二巳年四月十日名主  左  内  印        樽         御役所

  まず、「船鴨」というのは鷹匠らが鷹の訓練に出かけるとき、町内の河岸より乗船し、神田川を航行中に鴨がいた場合に鷹を放って鴨を捕らえることをいう。なぜ 「船鴨」と称するようになったかといえば、御用の前日に鷹匠頭より町にその旨の通達があったが、その文面に「船鴨捉飼」と記載されていたのでこのように呼んできた、と説明している。また「御用所」については、鷹匠らが鷹の訓練に出かけるとき、自身番屋が鷹やその道具の置き場所となり、あるいは出張役人の休息所や控え所となり、さらにここでは上ヶ鳥(鷹匠らの鷹の訓練で捕獲した鳥のうち、江戸城に上納された鳥で、地域の農民らの宿継ぎにより江戸城まで運ばれた鳥)の調達などもおこなわれたという。また文化十二年(一八一五)小納戸頭取の長谷川主膳正保邦・中野播磨守清茂の勤役中、捉飼御用があった際にもその控え所となったので、牛込揚場町の自身番屋での囚人預りがないようにと鳥見から町奉行所へ要請した、とこの年の正月十五日に鳥見から連絡があったので、翌十六日に南北の両町奉行所にその旨を届け出たと報告している。  このように、将軍の鷹狩にかかわる鷹匠・鳥見らの御鷹御用に伴う出張、そして小納戸頭取(御場掛)らによる将軍御成の円滑な運営のための出張があり、それらの休息所や控え所、あるいは鷹の架場やその道具置き場として揚場町の自身番屋が使用されていた。このため、自

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身番屋の本来的な業務である囚人預りなどができないことが鷹役人と町奉行所との間で確認されていたことを町年寄の樽役所に報告したのである。

  こうした事情は、文化十二年正月十六日の町奉行所の書上帳にも、次のように記載されていた。書上帳とは今後の参考のために町奉行所が書き残しておくべき書類をまとめたものである。

一、牛込揚場町月行事市郎兵衛申上候、私共町内自身番屋之儀者御奥御鷹捉飼御用之節者御鷹幷御道具類御置所、且御奥向御場掛様方御控所ニ相成、幷千駄木・雑司ヶ谷御鷹御捉飼之節茂、御鷹匠様方・御鳥見様方御控所御取調等ニ相成候ニ付、以来両御奉行所様幷御加役様御召捕もの御預ヶ之儀無之様、御奥向御場掛様方より両御奉行様江御達之上、以来御預ヶ者無之旨、中野御掛御鳥見飯田巳太郎様・橋村八十八様、昨十五日被仰渡候ニ付、此段為御訴申上候由、右之市郎兵衛、五人組次兵衛、名主左内申来候

  これによれば、牛込揚場町の自身番屋は、幕府の奥向 の御鷹捉飼御用の際には御鷹御用で必要となる道具類の置き場所となり、また奥向の御場掛が出張してきた際の控え所、さらに御鷹御用でやってきた鷹匠・鳥見の控え所、あるいは取り調べの場所となってきたという。このため、南北の両町奉行所役人や火付盗賊改役が逮捕した囚人を自身番屋に預けることがないよう、奥向の小納戸頭取(御場掛)から南北の両町奉行へ通達したのである。以後、揚場町の自身番屋で囚人を預かることがなくなったことを、御拳場中野筋掛の鳥見であった飯田巳太郎と橋村八十八の両名から言い渡されたという。このことを昨十五日に町奉行所に報告したと記載されていた。  そこで、町年寄の樽藤左衛門は牛込揚場町から自身番屋への枠火の見建設の要請を受けて、当番の北町奉行鍋島内匠頭直孝にその旨を申し立てた。しかし、この件が奥向の「御鷹捉飼御用」にかかわるものであったので、弘化二年四月十一日、同役の南町奉行遠山左衛門尉景元に相談の書状を送った。その内容は、次のような文面である。       牛込揚場町月行事  佐  七   

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右之もの町内ニ火之見無之、出火之節差支候ニ付、御堀端木戸際ニ有来候自身番屋家根上江枠火之見補理建、階子江半鐘取付置候ニ付、町入用ニ者拘リ不申候段申立候旨、樽藤左衛門より別紙之通申立候間、貴様思召も無御座候ハヽ、御目付・御小納戸頭取・御普請奉行・御鷹匠頭・御鳥見組頭江、差支有無之儀一応可及掛合与存候、依之藤左衛門差出候書面・絵図幷河岸地掛調書共相添、此段及御相談候   ここには、牛込揚場町が自身番屋の屋根上に枠火の見を建設したいと望んでいること、またその費用は町入用から捻出しないとしていることを、町年寄の樽藤左衛門から北町奉行に申し立ててきたので、南町奉行の考えを聞きたいと記載していた。もし南町奉行に何も意見がなければ、目付・小納戸頭取・普請奉行・鷹匠頭・鳥見組頭に支障の有無を確かめたいと考えていたので、樽藤左衛門が提出してきた書面や絵図、河岸地掛の調書を添えて相談しようとしたのである。

  これに対して、同月十三日、南町奉行の遠山景元は「御書面一覧いたし候処、拙者儀何之存寄無之候、依之書類返却及御挨拶候」、つまり、書類は一覧したが何も 意見がないので、書類は返却すると返答してきたのである。  これと並行して、町年寄の樽役所は堀端の河岸を管轄する河岸地掛へも問い合わせていた模様で、四月付で河岸地掛の高橋鉄次郎・由比義三郎の両名より返答がきていた。

別紙牛込揚場町御堀端自身番屋屋根上江火之見補理候儀ニ付、町年寄樽藤左衛門取調申上候書類一覧仕候処、振れ候儀も無御座候ニ付、先格御掛合之向幷御鷹匠頭・御鳥見組頭江も一応御掛合済之上願之通被  御聞置可然哉ニ奉存候   これによれば、町年寄の樽役所が取り調べて報告してきた書類を一覧したが、間違っていることはないので、以前の通り伺ってきた役職のほか、鷹匠頭・鳥見組頭へも交渉を済ませたうえで、自身番屋の屋根上への枠火の見の建設を願い出たほうが承認してもらえるのでないかという返答であった。

  一方で、町年寄の樽役所は、自身番屋の屋根上への枠火の見の建設場所が将軍の御成の道筋になっている過去

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の二つの事例を見出し、どのように対応したのかを参考にしようとしていた。その一つは、天保十四年(一八四三)閏九月の芝車町(現在、港区高輪)のものである。

一、芝車町河岸自身番屋屋根上枠火之見相願、阿部遠江守殿御勤役中申上、右場所品川筋  御成之節 御道筋ニ付、其筋御掛合之儀申上候処、西丸御小納戸御頭取衆・両丸御目付衆幷御普請奉行衆江御掛合済之上願之通可申付旨、同十月朔日被  仰渡候   これによれば、東海道や江戸湊に面した芝車町は、町内の河岸地にあった自身番屋の屋根上に枠火の見を建設しようと町奉行の阿部遠江守正蔵に願い出た。ところが、この場所は将軍の品川筋御成の際の道筋にあたっていたので、西の丸小納戸頭取、本丸・西の丸の目付、普請奉行にも伺いを立て、十月一日に願いの通り許可されたという。こうして、このときは小納戸頭取・目付・普請奉行への伺いで済んだようである。

  二つ目の事例は、天保十四年十一月の芝口一丁目(現在、港区新橋)のものである。 一、芝口壱町目河岸地自身番屋屋根上枠火之見願当御役所江申上、右場所浜御庭  御成之節  御道筋ニ付、其筋御掛合之儀申上候処、夫々御掛合済ニ付願之通可申付旨、翌辰五月十五日被  仰渡候

  芝口一丁目は、町内の河岸地にあった自身番屋の屋根上に枠火の見を建設しようと町奉行所に願い出た。ところが、この場所は将軍の浜御庭(現在、浜離宮恩賜庭園)への御成に際しての道筋になっていたので、関連部署へ伺いを立てたところそれぞれの部署とも問題はないということで、翌年五月十五日に願いの通り許可されたという。この史料では、どの部署に伺いを立てたのかが判明しないが、将軍の御成にかかわる小納戸頭取や目付、それに普請奉行などであったろうと思われる。

  このように、牛込揚場町の自身番屋の屋根上への枠火の見の建設に際して、その手続きに齟齬が生じないよう細心の注意が払われていた。つまり、牛込揚場町が有している情報は町年寄の樽藤左衛門役所にもたらされ、樽役所が有している情報は町奉行所にもたらされるというように、情報は上位役所に上申されていったのである。

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三  町奉行による諸役所への交渉   牛込揚場町が防災・消火の観点から町内自身番屋の屋根上への枠火の見の建設を願い出たことから、その手続きを円滑に進めるため町と町年寄の樽役所、町年寄の樽役所と町奉行所の間でさまざまな情報が交換された。とりわけ、自身番屋の目の前の道路が将軍御成の道筋になっていること、自身番屋それ自体が御鷹御用所として利用されてきたことなどから、これらに関連する諸役所から了承を得る必要があった。

  弘化二年四月十四日、この事案の窓口となった当番の北町奉行鍋島直孝は、本丸・西の丸の小納戸頭取・目付、普請奉行らに、次のような問い合わせの書面を送った。

牛込揚場町ニ火之見無之、出火之節差支候ニ付、同町御堀端木戸際ニ有来候自身番屋家根上江高サ四尺五寸、幅四尺四方、根張八尺之枠火之見補理、壱丈三尺之階子江半鐘取付、番屋軒上江足溜手摺幷枠火之見中段迄階子仕付申度旨相願候間、為取調候処、 往還其外差障も無之、高サ等外並ニ振レ候儀茂無之旨、町年寄共申立候得共、右場所者御成御道筋ニ付、各様方御差支も有之間鋪哉、此段一応及御掛合候

  ここでは、牛込揚場町で火災が発生した際には町自体が支障を生じることになるので、町内の自身番屋の屋根上に枠火の見を建設したいということを願い出てきたことにより、いろいろ調べてみたが、道路などへの支障もなく、枠火の見の高さは他の町のそれと比べても特に問題はないと町年寄は申し立てている。しかし、自身番屋の場所が将軍の御成の道筋に面しているので、その点について問題がないかどうかを問い合わせたいとしている。

  これに対して、西の丸小納戸頭取の江原隼人正親長は、「御書面之趣致承知候、西丸奥向何茂御差支之儀無之候、依之及御答候」と返答し、西の丸の奥向にとっては何の支障もないとしている。また西の丸目付の小栗忠高は、「書面御掛合之趣致承知候、御差支之儀無之候、依之御答およひ候」と返答し、支障はないので問い合わせの内容は承知したとしている。さらに本丸小納戸頭取

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の竹田伊豆守忠吉もまた、「御書面之趣致承知候、奥向何茂御差支之儀無之候、此段及御答候」とあって、本丸の奥向も何の支障もないと返答している。また本丸目付の石谷穆清は、「御掛合之趣相糾候処、差支之儀無之候、且西丸江も掛合候処、差支無之旨申聞候」と返答し、問い合わせの内容を糾明してみたが何の支障もないとしたうえで、西の丸の目付にも聞いてみたが差障りはないということだったとしている。そして、普請奉行の村田阿波守矩勝は、「御書面御掛合之趣拙者共方差支之儀無之候、尤御目付江御掛合有之候儀与存候、此段及御答候」とあって、いろいろ検討してみてもまったく支障はないが、目付へも問い合わせたほうがいいのではないかと返答している。

  一方、北町奉行の鍋島直孝は、御鷹御用にかかわる鷹匠頭・鳥見組頭へも、次のような問い合わせの書面を送った。

牛込揚場町ニ火之見無之、出火之節差支候ニ付、御堀端木戸際ニ有来候自身番屋家根上江高サ四尺五寸、幅四尺四方、根張八尺之枠火之見補理、壱丈三尺之階子江半鐘取付、番屋軒上江足溜リ手摺幷枠火 之見中段迄階子仕付申度旨相願候間取調候処、往還其外差障も無之、高サ等外並ニ振レ候儀も無之旨、町年寄共申立候得共、右番屋者江戸川・神田川筋船鴨御捉飼之節、御鷹御用所ニ相成候ニ付、御差支者有之間鋪哉、此段一応及御掛合

  ここでは、牛込揚場町が町内自身番屋の屋根上への枠火の見の建設を願い出たことに対して、自身番屋がこれまで江戸川・神田川筋での「船鴨捉飼」の際に「御鷹御用所」になってきたので、それについて支障がないかどうかを問い合わせている。   これに対して、鷹匠頭の戸田久助勝喬・内山七兵衛永金・戸田五助勝行の三名は、「御書面之趣取調候処、御鷹方ニ而差障之儀無御座候、依之下ヶ札を以及御答候」とあって、いろいろ検討してみたが鷹方にとって何の支障もないと返答している。また鳥見組頭の後藤与兵衛・田口小右衛門の両名は、「御書面牛込揚場町御堀端木戸際有来ル自身番屋江火之見補理候而も、私共御役方差支無御座候、御鷹捉飼御用之儀者御鷹匠頭江御掛合御座候儀与存候」とあり、自身番屋の屋根上に火の見櫓を建設しても自分たちの業務にまったく問題はないとし、「御

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鷹捉飼御用」については鷹匠頭に問い合わせてほしいと返答している。

  このように、牛込揚場町の自身番屋の屋根上に枠火の見を建設することにかかわって、町方支配の町奉行所と町年寄役所、また自身番屋の目の前の道路が将軍御成の道筋であったことに関係する小納戸頭取と目付、さらに自身番屋が「御鷹御用」を務めていたことに関連する鷹匠頭と鳥見組頭、そして建物建設の許認可にかかわる普請奉行などの承認を得て、その建設に着手することができたのである。

  その結果、牛込揚場町は自身番屋の屋根上への枠火の見櫓の建設に着手し、弘化二年五月に竣工した。これを受けて、町年寄の樽藤左衛門は町奉行所に次のように報告している。

       牛込揚場町 月行事  佐  七   右町内自身番屋屋根上江高サ四尺五寸、幅四尺四方、根張八尺之枠火之見補理壱丈三尺之階子江半鐘取付、番屋軒上江足溜手摺幷枠火之見中段迄階子仕付申度旨、当三月中願出、伺之上願之通申付候処、 右枠火之見出来候段申出之候、依之例之通御双方御組年寄同心見方可被仰渡御儀奉存候、尤其節町年寄手代共差出申候、此段申上候、以上

     巳五月 樽  藤左衛門    これによれば、牛込揚場町の枠火の見の完成報告とともに、このような場合従来通り南北の両町奉行所から年寄同心の派遣により建設場所を見分してもらうことになっているので派遣してほしいと依頼し、その際には町年寄役所からも手代を差し出すとしている。このように、同年三月に牛込揚場町から枠火の見の建設願いが提出されてから、関連部署への支障の有無の問い合わせを経て、そのすべてから支障がないとの返答をもらい、およそ三か月を要してようやくその完成をみたのである。

  この見分は五月下旬に行われた模様で、六月一日、町奉行所の年寄同心と思われる近藤八兵衛・長谷利十郎の両名から町奉行所に、次のような届け出があった。

牛込揚場町自身番屋屋根上枠火之見普請出来致し候ニ付、町年寄樽藤左衛門より申上候ニ付、右為見方私共罷越、藤左衛門手代共并町役人共為立合、右火

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之見見方仕候処、藤左衛門より申上候絵図面之通相違無御座候、此段申上候   これによれば、枠火の見の完成により町年寄の樽藤左衛門から要請があったので牛込揚場町の建設場所へ出向き、町年寄役所の手代や牛込揚場町の町役人にも立ち会ってもらって見分したところ、樽役所から提出された絵図面と相違がなかったと届け出ている。こうして、牛込揚場町の自身番屋の屋根上への枠火の見の建設は落着をみたのである。

おわりに  以上、本稿で述べてきたことを要約して結びとしたい。

  牛込揚場町は江戸城の外堀に面し、江戸川・神田川に隣接する町屋で、町奉行の支配下にあった。一方で、牛込揚場町は幕府鷹場の一種である御拳場には指定されていなかったが、この町の目の前の道路は将軍の雑司ヶ谷筋への御成に際してはその道筋となっており、また自身番屋は江戸川・神田川での「船鴨捉飼」の際には町内の 自身番屋が「御鷹御用所」、つまり「御鷹幷御道具類御置所」となり、本丸・西の丸の小納戸や目付、鷹匠や鳥見らの「御休息所」となっていた。さらに、「江戸川鯉御取溜御用」の際にも鷹匠・鳥見が出張してきてその「御休息所」となっていた。このため、牛込揚場町の自身番屋ではそうした御用があった場合には町方御用の囚人預りができないという特殊性を有していた。  こうした事情のなかで、牛込揚場町では弘化二年三月、頻発する火事に対応するため、自身番屋の屋根上に枠火の見を建設する願書を町年寄役所に提出した。町年寄役所は、前述した牛込揚場町の特殊事情を把握するため、町に幾度か問い合わせをおこない、そのうえで町奉行所に牛込揚場町の枠火の見の建設を願い出た。  これを受理した北町奉行の鍋島直孝は、南町奉行の遠山景元にも相談し、また牛込揚場町の自身番屋の屋根上への枠火の見の建設によって業務遂行上支障が生じないかどうかを本丸・西の丸の小納戸・目付、普請奉行・鷹匠頭・鳥見組頭、河岸地掛にも問い合わせた。この結果、それぞれの役職から支障がない旨の返答が寄せられ、その建設に着手することができたのである。その後、枠火の見が完成すると、町年寄の樽藤左衛門は改め

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て町奉行所にその竣工を報告し、その年寄同心の見分を要請し、申請通りに枠火の見が完成したことが確認されたのである。

  このように、江戸町方である牛込揚場町では、町および自身番屋が御鷹御用を務める特殊性を有していたことから、その屋根上への枠火の見の建設にあたっては町奉行所だけでは決済できず、諸役職から了解をもらわなければこの件が進められなかったのである。つまり、本稿は江戸の町方であっても、事物の内容によっては町奉行以外にも、それにかかわる諸役職から承認を得なければ物事を進められないという、多元的・重層的な支配が存在したことを紹介したものである。

(1)拙稿「幕府鷹場と江戸の町」(『人間環境論集』第一五巻第一号、二〇一四年、法政大学人間環境学会)。(2)『御府内備考』(大日本地誌大系三)第三巻、四六頁。(3)右同、一三四~一三五頁。(4)右同、四七頁。(5)「嘉永撰要類集」二一、町人諸願之部(旧幕府引継書)、国立国会図書館所蔵。以下、本稿で用いた史料は特に断らないかぎり本史料である。 付記  本稿の執筆に際して、加藤貴氏より国立国会図書館所蔵の史料についてご教示いただいた。ここに記して感謝申し上げます。

参照

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