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調査ノート・中国の知日派をめぐる一考察 : 帰国 留学生という方法論

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調査ノート・中国の知日派をめぐる一考察 : 帰国 留学生という方法論

著者 王 敏

出版者 法政大学国際日本学研究所

雑誌名 国際日本学

巻 3

ページ 77‑92

発行年 2005‑03‑31

URL http://doi.org/10.15002/00022577

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王  敏

中国の新語、流行語も時代を映すものであるが、1950年代の新語「赤い資本 家」(中国語で「紅色資本家」)ほど国家にもてはやされて、あっけなく消えて いったものはない。半世紀後の今、改革開放のもとで経済の膨張を続ける中、

忘れられた「赤い資本家」の新種が国家発展の支柱として活躍している。一人 の日本留学経験者を追いながら「赤い資本家」の創業奮闘を紹介する。

1、 「赤い資本家」の原風景

1949年、中国共産党が広大な中国を統一し社会主義政権の樹立を宣言したあ と、日本軍との長期の戦いと国民党との内戦で荒廃した国土の再建に乗り出し た。準備段階から建国事業として着手したのが、同盟国のソ連をモデルに1953 年から始まる第1次5カ年計画である。大きな特徴が個人経営の集団化だった。

商工業のあらゆる領域で、タバコ屋のような小さな店までも国有化あるいは集 団所有型に移された。「公私合営」と呼ばれた。全国津々浦々、抵抗なく移行 を受け入れた資本家と個人経営者が歓迎され、「赤い資本家」とたたえられた。

しかし、1957年の「反右派運動」で「赤い資本家」の地位が逆転した。

1956年5月、毛沢東が共産党政権に対する識者の意見・提言に耳を傾けよう と開放的な政策を唱えた。この建設的な運動のスローガンが格好いい四字熟語

「百花斉放」、「百家争鳴」である。かまびすしい声が各地で沸き起こる。党と 政権への批判が高まる中、毛沢東主導の政権を揺るがし、政治安定の支障にな りかねないと判断され始め、抑制が始まった。それが1957年に開始した「反右 派運動」である。右派及びその傾向が見られるものが批判の対象とされ、「赤

調査ノート・ 中国の知日派をめぐる一考察

――帰国留学生という方法論

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い資本家」も標的になった。それ以来、警戒され、排除される階級と見なされ たのである。

毛沢東の政治理念に基づいて、共産党政権における指導的な階級とされたの は、労働者、農民である。これらの出身者で構成される兵隊が政権を支えると している。これ以外を「小資」(プチブル)を生み出す可能性のある階級と見 なした。その根拠となっているマルクス理論では、小資産階級の略語の「小資」

は革命性を持つこともあれば、革命に敵対することもある両義性の階層とされ るからである。

長征(1934−1936)のあと陝西省の延安に革命拠点を置いた中国共産党は 1940年代、共産主義の精神性を強調し整風運動(思想整頓運動)を起こした。

知識階層にも蔓延したプチブル意識を自己批判すべき不良思想とし、整風運動 を革命達成の重要な柱にした。この延長上の1957年代後半、新中国の建設を軌 道に乗せるため党・政府は、反共産主義・反社会主義の右派思潮としてプチブ ル批判を展開し処罰した。さらにプロレタリア文化大革命(1966−1977)では、

都市部の中学生以上が「プチブル毒素」の予備軍として農村や工場に下放され、

肉体労働を通じて労働者階級、農民階級による「再教育」を受けさせられた。

小資の両義性のうちの一面「革命の敵」の一掃がつねに国家の課題だったので ある。

しかし、1978年12月、歴史が動いた。教条的なイデオロギーのしがらみを脱 出して、中国共産党は第11期3中全会で経済の改革開放路線を決定した。貧困 を脱して豊かな国づくりへ、ハイスピードの経済成長を目標に掲げた。改革開 放で市場経済に弾みがついた1990年代以降、中国社会に大激変が起きた。大量 のミドルクラスの形成である。都市部の発展によって「中間階層」「中産階級」

「ホワイトカラー」「ニューリッチ」(新富)といわれる階層・階級が膨張を続 ける。今も毎年、人口の1%がミドル化しているという。これらはマルクス理 論によって、労働者階級に属しながら主観的には有産階級の意識を持つという プチブル階層にほかならない。社会主義の中国にも無視できないほど大量のミ ドルクラスが作りだされたのである。

この中国社会の階層的変化を追認するように1999年3月、全人代で憲法を修 正した。 小平理論を明記し、私営企業などの非公有制経済を「社会主義市場

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経済の重要な構成部分」と規定した。9月には、党第15期4中総会で2010年ま での改革目標を盛り込んだ「国有企業の改革と発展に関する若干の重要問題の 決定」を採択した。さらに江沢民前主席は2001年7月1日、「七一講話」で私 営企業主(資本家)の共産党への参加を可能とする党・政府の考えを示した。

これは革命に敵対するとして否定していた個人資産家や資本家の解禁を意味し た。プチブルを容認する国策の大転換である。実質、「赤い資本家」の復活で ある。

日陰の「小資」が表舞台に躍り出た。2001年は「小資」という言葉が流行語 になった。洗練されたセンスを持つ都会人という意味合いで使われた。都市の 隆盛を映しているライフスタイルを表現して、格調高いあこがれの都会的生活 で裏づけされている。多くは個人に使い、ほめ言葉になった。若い層がこぞっ て、この言葉を好んだ。

一方、都市の繁栄と経済発展を支えたのは、政府の外資導入政策によって進 出した多国籍企業の貢献によるところが大きい。改革開放以前、外資系の経営 者は、「赤い資本家」と並べて、「買弁資産階級」「買弁資本家」と敵視された。

国策の変化につれ、歓迎される地位を獲得した。彼らの所属する機関も「熱烈 歓迎」されている。2002年10月における統計によれば、北京市に登録した外資 系企業が9,172社、外国企業の駐在代表機関が8,020カ所である。外資系の銀行 の駐在事務所が181カ所あり、資産総額は379億6,500万ドルである。

2003年1〜9月に全国で新たに設立認可された外資系企業は2万9,539社、前 年の同期間に比べ18.59%の伸びだった。契約外資は792億700万ドルで、前年同 期比で35.97%増。実際に利用された外資は402億3,800万ドル、前年同期比 11.85%増だった。また、この年に外資系法律事務所の数は71カ所に達した。

2、帰国留学生から「赤い資本家」が再生

留学帰国者が活躍している。国立大学学長の78%、博士指導教官の62%、ア カデミー・中国科学院と中国工程院の主要ポストの8割、国立と各省直轄の研 究機関でも主要なスタッフの7割を占める。目を見張る数字であろう。第5次 5カ年計画中(1995−2000)の「国家863計画」プロジェクトリーダーの72%

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を占めた。また長江学者奨励計画に選ばれた識者の93%という数字もある。知 的分野での活躍が目立つのも特徴である。

個人資産家、資本家も続出している。1990年代に「全民皆商」「下海(個人 企業、商売に転向する)」風潮が怒涛のように高まった。「下海をしたかい?」

が挨拶言葉になったほどであった。在日の筆者のようなところにも投資や「下 海」の誘いが何度もあった。現実に留学帰国者による起業は北京だけでも現在 3万6,000社という。経済の高成長、知的財産の増殖をもたらした要因に帰国組 の優秀な頭脳があることはいうまでもない。

帰国者の起業を支援するモデル地区制度も盛んである。沿岸部を中心に110 地区にのぼっている。現在6,000社が稼動し、留学経験者は1万5,000人。中国 人による自力の企業として業績拡大に努めて、軌道に乗るところも多く、売り 上げの総額は約4,900億円(『神洲学人』2004年4月号)という。政府の期待は 大きい。曾慶紅国家副主席(当時)が2003年9月の「全国留学帰国者の先進的 な個人と先進部門表彰大会」で、帰国して活躍している実情を「(ほかのもの に)代わることができない、(その功績と役割を)決して消すことができない」

と賞賛した(『神洲学人』2003年12月号)。その実績を紹介する「中国留学帰国 者創業成果展示会」が2004年2月末から4日間、北京で開催された。コンピュ ーター分野から精密機械まで1,100項目にわたって先進的な技術と発明が目を引 き、取り引きまで行われた。

帰国留学者の貢献を特別に表彰する制度まである。留学後の起業地区の多い 河北省では、2004年までに労働模範者11人、国家突出貢献称号5人、政府特殊 補助金の受給者59人を選んだ。省や市でこうした取り組みが競われ、実績のあ る留学生の名誉心をくすぐっている。

帰国留学生の代表金会慶さん(49歳、1956年11月19日生)は産・学・研の共 同体である私営産業の三聯グループの総裁であり、中国における自動車事故予 防研究の第一人者でもある。2005年3月15日、北京で開かれた第10回全国人民 代表大会に出席した。金さんは共産党員でも、国家公務員でもないが、中国工 商連合会副主席である。国家幹部の次官クラスといえる。第9回全国人民代表 に「赤い資本家」の中から選出されて以来、30以上の機関・団体の役員を掛け 持ち、仕事に追われている。

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金さんの奮闘は中国の変化を物語る典型的な一例であろう。全人代から急ぎ 戻って一段落するところを狙って、3月20日午後、安徽省合肥市環湖東路45号 の三聯グループのビルを訪ねて、筆者はインタビューをした。

3、日本との出会い

(1)上海から山村へ、大学へ

1966年、中国全土で毛沢東主導の文化大革命が始まった。国家発展の妨害とさ れる四旧(古い文化、古い思想、古い習慣、古い風俗)を一掃して、プロレタリ ア階級中心の革命的新文化、新思想、新習慣、新風俗を樹立しようとした。数千 年来の歴史にメスを入れ、伝統文化と外国文化を担う知識人層の責任を問い、そ の存在を否定した。やみくもに「古いもの」をすべて批判する「造反有理」が「創 造」手法となった。「大批判」の行為こそ新しい規範を生み出す動力とされた。

これまでの社会秩序から日常生活の営みまであらゆるものが批判の対象とな った結果、職場で職務放棄が一般化し、教育機関で学生生徒の学習放棄が常態 化した。教養学習が実質禁止され、教育機関も正常の営みの停止に追い込まれ た。子どもたちを巻き込んで学校ではほとんどの教師が自己批判の作文を書か された。「大批判」は正しいという「常識」が怒涛の流れとなって、知識人や 中学以上の学生の在り方を問われて、農村や工場での労働を通しての「思想改 革」「更生」が要求された。金会慶さんも上海から安徽省の山村に「下放」さ れていた。

1977年、 小平(1904−1997)が3度目の復権を果たしたとき、文化大革命 が終わった。最高実力者としていち早く手をつけたのが教育重視と知識重視で ある。文革は全土で学校教育を荒廃させた。ともかく高等教育の再構築が急務 とされた。事実上閉校状態だった各高等教育機関が全土で再開された。文革約 10年の間進学を断たれていた若者が、大学の扉が開くのを待っていた。向学心 に燃える若者たちで大学という大学が超満員の状態になった。翌年の78年、金 会慶さんは安徽医科大学公共衛生学部に入り、予防医学と流行病学の知識を生 かして事故予防科学研究を始めた。1986年には修士号を得たあと、翌87年に日 本留学に踏み切ったのが人生の転機になった。

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(2)留学ブームの興起

当時の8億国民を動かした大政治運動の文革が異常な方向に傾く中で、その 終焉が来ることを政治の中枢にいて冷静に見通した人物がいた。歴史のゆり戻 しを予想していたのは周恩来(1898−1976)である。1970年、周恩来は北京外 国語学院、北京大学外国語学科の教員たちと、外国語教育の再開を前提に長時 間意見を交わした。日本語学習の必要性も意見交換された。これが、日本との 交流再開への、政府による恣意的なシグナルであったことが間もなく明らかに なる。

1972年2月27日、米中関係改善の上海コミュニケが発表された。日本は米国 の動向に敏感である。7月就任して間もない田中角栄首相は国会に諮ることを 後回しにして9月25日から30日まで電撃的に訪中した。田中首相と周恩来首相 が北京の人民大会堂で国交回復をうたう日中共同声明に調印したのは29日であ る。日中の長期にわたる不幸な歴史に転機をもたらした国交正常化の実現に至 るまで水面下の動きが連綿とあったことは忘れてはならないが、田中首相の決 断力は評価されるべきであろう。田中はすぐさま反応して、侵略対被侵略の関 係から友好関係への切り替えを一気に実現したのである。5年後の1978年8月 12日には、日中平和友好条約が締結された。

米中、日中の相次ぐ正常化はまだ「大批判」の常識で動いている中国国民に とって、極めて「非常識」な大事件であった。このため政府当局は、マスコミ などを通して国民に直接話しかけ、日本映画の名作を通して日本への親近感を 醸成する文化政策も展開した。『ああ、野麦峠』『お吟さま』『遥かなる山の呼 び声』『君よ、憤怒の河を渉れ』『サンダカン八番娼館 望郷』などが中国各地 で集中的に上映された。映画の日本人の主人公に親近感を抱き、あこがれる中 国人が少なくなかった。とくに、日中戦争を体験していない若い世代の間で日 本への好感度が急にアップした。

閉ざされた日中交流の幕が開かれた。政府の意図が具体的な政策となるにつ れ、日本語教育の再開が軌道に乗り出すことに国民が気づくのも時間の問題で あった。日本を侵略国として嫌う風潮が強かったことは否めないが、戦後復興 を果たして経済発展を遂げた日本という国への関心がにわかに高まった。日本 語教育の再開の扉が開けられると、早くも1972年には、日本学習、日本語研究

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関係の雑誌が53誌も発行された。1973年、商務印書館、湖南人民出版社などが 日本語教材を刊行した。その後1970年代の終わりまでに約30種の教材が市場に 出た。電波も即応した。ラジオ全盛期で、1973年から上海社会人日本語放送講 座が、1974年から北京人民放送局の日本語放送講座が始まった。大学側も前向 きに取り組むうちに、1970年代末までに日本語専攻を設ける大学は57校に増え た。中国史上見られなかった最良の日本語学習、日本学習への態勢が着々と整 っていった。

文化大革命で停滞した国力を回復することが急務である。1978年末、 小平 の打ち出した改革開放政策を軌道に乗せるため、全国人民代表大会に続き、全 国科学大会、全国教育大会など各レベルで矢継ぎ早に高等教育の必要性が叫ば れた。人材育成を急ぐこととし、高等教育を先進諸外国に頼り留学生派遣を再 開した。これを加速させたのは、 小平がその年の6月23日に行った「留学生 派遣の拡大に関する講話」だった。 小平はフランス留学を経験している。外 国の進んだ学問を謙虚に学ぶことが国力回復に不可欠と説き、「数千人数万人」

という大量派遣を進めようと指示した。外国語習得の予備校設立など具体案ま で明示したのである。この号令により、2003年までの25年間で留学生を103カ 国に送り出し、70万人を超えた。

1984年、中曽根康弘元総理がアジアへの貢献を理念とする留学生十万人受け 入れ計画を発表している(参考①)。日本の積極的な受け入れ策に、当時31歳 だった金会慶さんは素早く反応した。自費で日本留学を決断し、1987年に日本 に渡航し東京の日本語学校に入校した。

(3)留学生生活

当時の中国は貧しかった。物価高の日本では、中国における大金も高が知れ ている。金会慶さんは日本円に直せば大体2、3万円程度の全財産を携えて身 寄りもいない日本に渡ったのである。金さんはすぐに食べるものにも困る窮境 に陥った。毎食が即席めんの生活で、やむを得ず最寄りの日本人が経営する中 華料理店に飛び込んで、片言の日本語でアルバイトの「自己推薦」をした。

「3カ月だけでもかまいません。働かせていただけませんか。将来、必ずい い仕事を持ってご報告しますから」

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金さんの必死の頼みに動かされて、店長が受け入れた。ほかに、天津甘栗売 りとバナナ売りの仕事が見つかった。三つのアルバイトの収入に支えられ、金 さんは半年後、日本語学校から東大医学部の交通事故予防博士課程に入ること ができた。6年後の1993年4月、東大の医学博士号をとった。同時に客員助教 授、4カ月後に客員教授の肩書きを得た。

4、帰国、創業へ

(1)研究成果の社会化

東大での勉強を通して金さんは、米国と日本の交通事故対策が道路の改善と 自動車自体の安全性の向上によるところが大きいと分かった。この域に達する には巨大な投資と高度なテクノロジーの発達が不可欠である。金さんは、発展 途上の中国の実情にあった事故対策を真剣に思案した。道路の改善も自動車の 性能を高める能力をつける時間も待てない。それなら、運転者対策を進めるの がもっとも手っ取り早いと気づく。

医学を専攻した実績の活用を考えたのである。事故を起こす心身の状態を分 析して事故発生の予防を目標にした。研究を重ねて、中国の実情に合う運転者 を教育・訓練する事故予防総合システム(運転手選抜技術、運転手育成と試験 技術、交通環境管理技術など)を考案した。金さんは東京のWHO事務局の就 職内定を断り、帰国して研究成果を中国で実現させる道を決心した。

1990年、金さんは安徽省に戻った。親族一同を説得して支援が得られると、

日本のアルバイトでためた貯金と帰国後に集めた3万元を元手に、中心都市の 合肥市で個人経営の三聯事故予防研究所を設立した。発足時は主な社員といえ ば兄弟、親族7人だった。日本で研究してきた成果の事業化のスタートである。

研究所設立から1年で、事故防止検査精密システム「運転適性検測系統」を作 り出した。運転能力を高めるほかに、運転に適任かどうかの識別まで目指した 優れもの。交通事故を抑制することが可能と、一挙に国家特許8件を申請した ところすぐに取れたという。

当時の中国には、交通事故予防の概念がまだ一般的に薄く、科学的な医学的 な研究はゼロであった。当然、運転適性検測システムに対してなかなか理解さ

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れず、受け入れられなかった。設置を売り込むため、長距離列車の座席下の床 で寝る苦労をして(当時の中国では列車本数が少なく寝台車も極めて少なかっ た)全国各地を回った。誠意をこめた啓蒙教育式の「セールス」を繰り返した。

最初に交通警察がその効果を信じるようになった。そして杭州という大都市で の設置を突破口に、各地から注文が相次ぐようになった。現在、運転適性検測 システムは約400の都市が揃えるまでになった。中国の交通管理と事故防止領 域における意識革命を引き起こしたといわれている。

金さんが主宰して1991年2月、上海で中日運転適性理論と事故対策検討会を 開いた。「中国は交通事故による死者が世界一という(資料②)。しかし、交通 事故に関する研究はまだ未成熟です。中国では、運転している人の6%から 8%が危険と見ています。交通事故の70%以上がこのような人によって引き起 こされています」。計量学に基づく発言は中国人を仰天させた。科学的に交通 事故を防止できる発想を持っていなかった時代であったからだ。

金さんが啓蒙教育に努めながら、研究にもいそしんだ。成果は国家科学技術 成果重点推進項目と国家重点新製品に3件ずつ選ばれている。また、51種の技 術を商品化し、400以上の都市で活用されている。金さんの技術の導入により、

以上の都市で交通事故の死亡率が42.5%から7.5%に下がり、運転者の責任によ る発生比率は14.3%から10.4%に下がったという。事故の減少により、年間2.1 億元の損失を免れたと算出されている。

1996年、金さんと研究所の研究者たちは、事故予防機能型自動車総合模擬運 転システム、運転手自動検査システム、計算機法規検査システムなどの製品を 開発して、事故防止研究の応用を第2段階に押し進めた。さらに、2000年に、

交通事故現場監察測察システムと都市知能交通指揮システムなどを交通環境整 理に必須な製品として世に送った。これで、第3段階に進んだとしている。

2003年2月28日、金さんらの「中国道路自動車交通事故主要予防技術研究お よび応用」が2002年度における最高な賞・中国国家科学技術進歩1等賞を受賞 した。民営の研究所として最初の受賞である。2005年1月21日、安徽省重大科 学技術成果賞を受賞した。研究所の研究成果は数多い。国家重点新製品は3点、

省重点新製品12点、国家特許取得15点を数える。研究所で働く人は2,000人以上 である。研究者として博士号取得者が16人、修士号修得者が63人、帰国留学生

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が21人いる。人々に「人材集まる現象」の現場といわれている。

1997年から、金さんは破産した国有企業の買収を始めている。跡地を活用し リストラされた人々に救いの手を伸ばして、安徽省一の自動車部品超級市場の

「自動車城」を開いた。子会社が国内外に18もある。大学と専門学校各1校を 作った。

(2)日本への「返済」

改革開放が打ち出されたのは1978年12月。試行錯誤して14年後の1992年10月、

第14回党大会は「社会主義市場経済体制」の徹底を確認した。この方針が翌93 年3月、憲法に追加された。さらに拡大策として1999年3月には人民代表大会 で私営企業などの非公有制経済も「社会主義市場経済の重要な構成部分」と規 定された。これらの決定はどれも従来タブー視され、否定されてきたものであ る。このような逆転は恐らく大多数の中国人にとって想像もつかなかったこと であろう。

というのは、建国以来、中国人は、革命対反革命、プロレタリア対ブルジョ アという階級闘争が、政治、経済から日常の営みまで支配しているという理念 を教え込まれてきた。私営企業を革命勢力に組み入れる変革によって、新たな 文化大革命・意識革命の時代がやってきたと理解されてもよかろう。ともあれ、

とくに1980年代以来、政府が提唱した「思想解放」が進んだ結果、既成概念の 殻がどんどん破られて社会システムの急速な変革期が到来した。連動して民営 企業を取り巻く環境から障害がひとつずつ除かれ、大きく前進できる条件が整 っていくのである。

しかし、社会変革の進歩にふさわしい人材の育成が追いつかないのが実態で ある。金さんが研究所の資金2,000万円を投入して、三聯職業技術学院という私 立大学を作った。1999年、中国における学歴認定可能な初の私立総合大学(計 25校)に加わる1校として、国家教育部が開校の許可を下した。ちなみに中国 には現在、学歴が認可されている私立大学は300校ぐらいある。学歴未認可の 私立大学が1,000校ぐらいあるという。

現在、学院は、理科系から社会系まで8学部30の専攻がある。自動車事故予 防や伝染病予防専攻の博士号センターの2大拠点で形成されている。在学生が

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7,000人、教員は326人。送り出した卒業生はもう4,000人を超す。さらに2005年、

政府から定員拡大の認可がおり、1学年で3,000人の学生を迎えることになった。

モダンな欧風校舎が一層賑わうことはまちがいない。

学院の学費は専攻によって多少違うが、年間3,000〜4,000元ぐらいという。

普通の公立校と同じ全寮制のため、構内に宿舎と食堂など、生活に便利な設備 が揃っている。学生寮には6人部屋と4人部屋が用意され、年間の費用が800 元と1,000元となっている。

(3)日本語学部の開設

1980年代、中国国家教育委員会主導の中国日本語教育研究会の設立、中央電 視台を中心とした日本語講座放送及び夜間大学、通信大学などの講座の開講、

日本語関係の辞書類が131類、1990年代には70余種出版された。さらに1991年 に大学外国語教育指導委員会、1992年には高等学校外国語専攻教育指導委員会 が設置された。1996年には、日本語専攻のある大学が82校、教員が1,123人、在 校生は6,054人になった。第2外国語としての日本語科目を置いた大学が550校、

教員が1,500人、在校生が7万2,000人にのぼった(資料③)。

中国の日本語教育の規模と学生数は着実に増えている。国際交流基金による 2004年の調査であるが、日本語を学ぶ人口が48万人という。その増加の背景に、

支援する日本政府や企業の協力を挙げないわけにはいかない。1980年代に日本 語ブーム、日本への関心が高まった。この時期の顕著な実績として、1980年か ら5年間、日本の国際交流基金と中国国家教育委員会との共同主催の「日本語 教師研修」があった。毎年11月、北京語言学院で120人ずつ、5年間で600人の 教員が研修した。

この延長線上に1985年9月9日に設立された北京日本学研究センターがあ る。1997年まで同センターは修士200人以上、教員300人以上を養成した。同時 に『日本学刊』『日本学研究』などの日本研究誌を発刊した。日本の支援態勢 は、建国以来1990年以前までは日本語教育関係が中心だったといえる。20余の 日中共同プロジェクトを数える。1990年代に入ると、国際交流基金の協力支援 は幅を広げ、日本語教育のほかに日本研究も対象にするようになった。語学教 育への支援から必然的に研究へという道筋がここでも見られる。国際交流基金

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の資料を調べれば、1990年から2002年3月の間に日本研究関係の出版を助成し た件数が127あることが分かった。

だが、安徽省のような内陸地では、沿海都市や日本に関係の深い東北地域と 違って、日本語教育のスタートが少し遅れている。日本への思いからもこの現 状を変えようと、金さんは2002年、三聯職業技術学院に日本語学部を開設した。

第1期生は5クラス、約200人である。2年後の2004年には12クラス、480人と 倍以上になった。60代の教務担当によると、予想を超す日本語熱に対応させた という。学生の勉強意欲に応えて、日本の国際協力団体を通して日本人教師を 招いた。27歳の志願者で、教師と学生の間で熱血先生として評判がいいそうだ。

教務担当の案内で、三聯職業技術学院との交流を求めにきたオーストラリア の専門学校経営者と教員たちの会食に参加した。豪州では学生数3万人の大規 模校と教えられた。受け入れ側の挨拶で教務担当は、日本人の若者に啓発され たことがあると実例を語ったのが印象に残った。

日本語のレベルアップを図るために、学院は時々日本人との交流の機会を作 っている。ある食事会のとき、提携関係のある安徽省医学大学で勉強している 日本人留学生が会食がすむと食器などをきれいに片付けて、食べ残しを持ち帰 った。中国の若い世代にない習慣である。経済大国でありながら、「もったい ない」と持ち帰る日本人の習慣に感動を覚えたというのである。いずれこの話 を全学朝礼の講話で喋る予定でいるという。また、同学院の事務担当者の話で は、中国教育部による日本語検定試験が毎年行われている。だが、安徽省では まだ受験の場がない。学院を試験場として提供したいと、各方面と交渉してい るそうだ。

2005年3月20日、中国を代表する名山・黄山の麓にある黄山金龍門実業有限 会社(三聯グループ所属)で学外研修中の張薇薇さんにインタビューした。

2002年に、テレビでサッカーアジアカップ戦を見て、日本チームの奮闘と技術 と団結精神に感動した。国土も人口も中国より小さくて少ないのに、どうやっ てあんな強くなったのか、その訳を知りたくて日本語を選んだのだという。研 修中の会社も自分で選んだが、その理由が、同会社の重要な企画、太平湖リゾ ート開発プロジェクトで日本人の設計が使われているからである。日本に近づ き、学びたいと切望している。研修の合間にいつも大学の日本語教科書を暗記

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したり、借りてきた中国語字幕付きの日本のドラマを見たり、日本人歌手の歌 を聞いたりする。卒業したら、日本への留学または日系企業で働きたいと希望 していると語った。

張さんに案内され、古代民家建築の名所・宏村を見学した。宋代(960−

1279)に建てられた家々が今も使われている。村自体が古代建築の博物館のよ うな価値を有している。日本でも知られている中国映画『グリーン・デスティ ニー』『花の影』『愛、いつまでも』『南京のキリスト』などの撮影が行われた。

村の細い道沿いにある家を覗いたら、70代のおばあさんが現れた。「8歳の ころ、合肥市で商売をしていた父が日本軍の爆撃で亡くなった。それで母につ いて12歳の姉と2歳の弟とこの村にいる有力の親戚の家に居候した。今は、こ の邸宅を一人で守っていながら、見学に来るお客さんへの解説を担当している」

と話した。70代以上のお年寄りには共通した戦争体験が今も生々しい。

若い張さんたちは、不幸な戦争は忘れられない歴史として学校教育などで学 ぶ。だが、暮らしの中で体験するもう一つの日本像がある。戦争体験の学習と は明らかに異質の日本である。不特定多数の若者に共通する分裂した日本観が 形成される。張さんも、分裂した日本のイメージ持ち合わせている。「愛憎二 重性の日本観」というべきものである。

5、日本へのメッセージ

文化大革命であらゆるものが停滞し荒廃したとされる。伝統的な美徳は歪ま れ、教養と常識も失われた。勉強は許されなかった。人々はただ生き延びるた めに苦労した。賢明な生き方ではなく物理的に生き抜くことが命題だった。文 化大革命が終わったとき、青少年たちは自分たちの欠けたものを取り返そうと 懸命になった。自助努力で日本留学が選択肢になった。金さんもその一人であ ったことはすでに述べた。

金さんはいう。日本に留学して、進んだ科学技術や学問も勉強したが、日本 を高度な先進国にした理由を学ぼうと躍起になったという。それは、日本人の 真剣さ、誠実さ、厳密さ、やさしさ、信頼しあう集団心と気づいた。これらは 長所として、中国の文革世代(40代以上)は吸収すべきものと考えた。金さん

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は学問研究よりもより多くのエネルギーを日本社会の観察や社会勉強に使った というのである。帰国後、学んだことを実践し、成功に結びついた。

6、金さんの日本観

今は客観的に眺められるようになったという金さん。日本をどう見ているか、

尋ねた。

開口一番、アジアのリーダーとして日本は疲労状態から脱出する必要があろ うと手厳しい。小さな改善の積み重ねでは変化の牽引力になりにくいと見なし、

明治維新のような大革命を起こすしかないと断言した。日本は能力と知恵を持 っているし、不安と危機の原因を分析してもう一度維新を起こすことができる だろうといった。

日本がまだ果たしていない歴史的な役割として平和構築への貢献を挙げた。

戦後の日本は平和国家として出直した。その努力は国内にとどまり、世界に平 和をもたらす努力はまだ微々たるものといい、世界から認められていない。そ の原因の一つには恐らく高い次元の平和戦略の組み立てが弱いためという点 で、筆者とは同意見だった。

日本はすべてのものについて心を込めて作るのでものの完成度が高い。が 一方で、小さいことにこだわりすぎることを短所として挙げた。外国人にと っては、その雰囲気を壊さないようにと気を緩めることが許されず、窮屈で しかたがなかったという。日本人との付き合いに気疲れをよく感じたそうだ。

ちなみに私は世界の文化人12人にインタビューした「映画 日本国憲法」の アメリカ人映画監督ジャン・ユンカーマンさんからも似たような感想を聞い たことがある。

日中関係については、歴史認識をめぐる対立の解決に、両国が誠実に話し合 ってほしいと切望している。日本には「誠実」を美徳とする風土があるから、

日本に求めたい物が多い。日本の神社文化を理解できる国は少ないが、それを 一方的に拒絶する理由もなかろう。しかしA級戦犯については神社信仰と切り 離して、周辺諸国に納得される処理と説明ができるはずという。アジアのメン バーとして日本の責任は大きいとも指摘した。誤解が拡大している現状を悲劇

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といい切った。歴史認識が日中間をこじらせているとし、領海問題は派生的な 問題で、たがいに根底の問題を見逃さない姿勢を忘れないでほしいと希望を述 べた。

最後に金さんが聖書の言葉を出した。「神よ、寛容を賜れ、変えることので きない事実と人に対して。勇気と力を賜れ、変えることのできる事実と人に。

知恵を与え賜え」

終りに

金さんは2003年、有能な留学生が帰国した際、受け皿になる「光彩産業園」

を整えた。起業のために土地や施設を提供しようというものだ。2004年、金さ んは自ら米国ボストンなどを回り、帰国誘致の講演をした。これに応える留 学生がいるのがうれしい、と金さんはいう。光彩産業園を受け皿にした成果 である。

金さんがアルバイトの貯金、3万元からスタートした研究所の資産が、今、

11億元となった。2004年8月、大胆な改革をした。親族中心の経営を放棄し、

金さん自身もCEOを有能な米国留学経験者の幹部に譲った。新しい理事会は、

創業者、留学経験者、地元の社員それぞれが各3分の1の構成となっている。

親族も経営権のうえでは少数である。

「私は事業を軌道に乗せただけ。これからは立派にやってくれるでしょう。

若い留学経験者のグローバルな視野を生かしてくれますよ」という金さん。後 進を育てる第2の創業に力を注ぐと語った。「これこそ、中国の発展に必要か もしれない。留学で得たのは人を育てることの大切さでしたから」

中国には開発を待つ空白が多すぎる。たとえば、サービス業も外国の先進的 な経験を習得した留学生の力がほしい分野である。これまでに「海帰」(帰国 留学生)が研究、教育、実業の三つの分野で注目されているが、今後、政治や 国際関係での活躍にも期待したい。各方面における留学経験者の成果が10年後 に一層浮かんでくるだろう。金さんは願う。

知的再生産を目指す「赤い資本家」のさらなる夢に期待したい。

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【参考資料】

①2005年2月25日――3月3日 朝日新聞連載特集「21世紀の留学生戦略」

2005年3月3日 朝日新聞・社説「アジア留学生、受け入れて日本を輝かす」

②2005年3月4日付き中国の新聞『新安晩報』「時代前線に立つ新しい安徽商人」

③王敏編著『<意>の文化と<情>の文化』・2004年10月10日・中公叢書

●この調査は朝日新聞アジアネットワークのご協力をいただきました。感謝の意を申 し上げます。

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Choices taken by Chinese after studying in Japan

W

ANG

Min

Japanese dislike of China focuses on the following points: 1. its old-fash- ioned‘isms’(Communism, Socialism); 2. its economic backwardness; 3. its export of crime to Japan in the form of waves of illegal immigrants; 4. its insis- tence on a self-righteously Sinocentric view of history that sees its neighbors as client states.

On the other hand, Chinese dislike of Japan arises from a sense that Japan is an arrogant country that has abandoned its traditional culture in an attempt to curry favor with the West. The Chinese find it difficult to appraise Japan as an advanced Asian country, and retain a certain anti-Japanese senti- ment even while using Japanese products. Chinas modern history of fending off invasions has had a lasting effect. The sour notes in the Sino-Japan relationship are heard worldwide, and attract much unwelcome attention.

The truth is, however, that the two countries have shared a history of friendly interchange for more than two thousand years. In order to rectify the present situation, we have no choice but to return to a study of the cultural interrelationship at its base. A target attainable from two different directions may become a practical reality if both sides take the time to study the strengths of their cultural interrelationship, and analyse the reasons behind the current disparities in mutual awareness. This task, practical but difficult at the same time, is one that international Japan studies must undertake.

When contemplating the possibilities of Sino-Japanese dialogue through crosscultural communication, the experiences of foreign students, especially those who have returned to their home countries, become paramount.

Students like this have real experiences of living in a foreign culture. Chinese who have studied in Japan have experienced the goodwill and efforts of their

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cooperation, and patience. They, more than anyone, should have valuable ideas for making the relationship between the two countries more complementary.

They form a group of people who will be responsible for repairing the Sino- Japanese relationship, and their views of Japan and research on the country should prove to be excellent reference sources in the construction of international Japan studies. They provide valuable data for the authors topic of research: the cultural interrelationship of Japan and China, and analysis of the disparities in mutual awareness.

In spring 2003, the author began a survey of Chinese who have studied in Japan. This report takes up the case of a single individual who experienced life and studied in the‘laboratory’of Japanese society. It is hoped that the fruits of this survey may contribute to the foundation of international Japan studies.

参照

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