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第二次大戦と日本の経済システムの転換(*)伊藤修

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(1)

論 説

第 二 次 大 戦 と 日 本 の 経 済 シ ス テ ム の 転 換 (* )

伊 藤 修

(*)稿()(↓Φ=8mo

ooo8qO8αqΦωω)

25

1調

(1)

(2)

(一1)

(12)

(13)

(11)

(2)

商 経 論 叢 第30巻 第3号 26

ノ \

七 (四2)中小企業層の拡人

(四13)ド請け制

政府・企業間関係

(五ー1)戦時経済統制

(五2)戦後の政府・企業間関係

社会構造

(六ー1)社会階層構造と所得分配

(六12)財政構造

結論

は じ め に

﹁日本型経済システム﹂という用語が︑日本経済の特徴的な性格を表現するためにしばしば使われている︒しかし︑

戦前における日本の経済システムは︑戦後のそれとはかなり違ったものであった︒したがって戦時期(日本については

それは一九一︒ーヒ〜四五年である)は︑戦後の改革の時期(ここでは一九四五〜五四年としておく)とならんで︑重要な転換点

であったことになる︒そこで本稿では︑第一次大戦期前後の期間における日本経済のシステム転換の主たる要素︑そ

れらの転換の要因︑そして結果について︑簡潔に整理することにする︒

そのさい†に分析の対象となるのは︑国内的な諸要素であり︑ミクロ的・制度的な問題である︒とはいえ︑これら

の諸要素は︑もちろん国際的環境およびマクロ経済的条件と密接な関連をもっている︒そこでまず︑戦時期の前後に

生じた環境条件の変化について確認しておこう︒その主なものは以下の通りである︒

(3)

第 二次 大戦 と 日本 の経 済 シ ステ ム の転 換 27

図1固 定資本形 成/GNP

(当 年 価 格 べ 一 ス)

Vへ

̀.J

'\

ハ仏ノ.4/

C

粛 嚥》

 

端 ㍊ 賜 脇 脇 陥 賜 腸

so 90 70 60

50 40

Zo 30 Isso 90190010

A民 間 企 業 設 備 投 資(グ ロ ス) BAプ ラ ス公 的 固 定 資 本 形 成

C‑一 総 固 定 資 本 形 成(Bプ ラ ス民 間 住 宅 建 設)

(資 料)大 川 ・司 ほ か 「長 期 経 済 統 計1』(〜1940年), お よ び 経 済 企 画 庁 推 計(1941年 〜)

(1)第二次大戦は世界システムの転換点であった︒

戦前においては︑個々の主要国(列強)の間で︑万人を

敵とするアナーキーなパワー・ゲームが展開されたが︑

それに代わって︑共倒れ的な結果(いわゆる囚人のジレン

マ的状況)を避けるための協力のシステムが形成される

ようになった︒それは連合国に始まり︑やがて東西の両

陣営となった︒同時に︑むき出しの植民地体制が崩壊を

始めた︒日本もまた植民地を失い︑軍備を放棄した︒

(2)一九三〇年代末から︑日本経済は対外的な閉

鎖体制に移行した︒それは戦後しだいに緩和されたと

はいえ︑基本的には}九七〇年代まで続いた︒この枠組

みのもとで︑異常な緊張状態をともなう急速なキャッ

チアップ過程が可能になったのである︒

(3)日本経済は︑一九三〇年代の後半から︑高投資

局面に入った︒図1をみられたい︒投資比率‑固定資

本形成/GNP比率は︑民間部門についても︑さら

に政府部門についても︑この時点でジャンプしている︒

両者を合計した総投資比率は一九四〇年には三〇%に

(4)

も達する︒戦後初期の落ち込みののち急速に回復し︑この高水準は戦後期をつうじて継続した(住宅建設の比率も大き

くなっている)︒戦時期の主要な資金不足セクターは政府と企業であり︑戦後においてはもっぱら企業となった︒この

ような高投資︑拡張的な企業行動︑高成長︑資金不足(資金市場のタイトな状態)は︑戦後の日本型経済システムの基

礎的条件であった︒

さて︑戦時期に変化が生じた諸要素のうち主なものには︑企業の構造(すなわち所有︑支配︑資金調達のあり方)︑金融

システム︑企業間関係︑市場構造︑政府・企業間関係︑社会構造などがある︒以下ではこれらの諸要素について順に

分析を加えよう︒

企業の構造所有・支配・および資金調達

日本企業の構造は︑戦前と戦後の間で︑顕著な変貌を遂げた︒

戦前には︑多くの企業は個人出資者ないしその家族によってパーソナルに所有されていた︒個人出資者による共同

出資型の企業も多かった︒日本型のファミリ!・コンツェルンと呼ばれる財閥は︑それらの個人型大規模企業の代表

であった︒ほとんどの大企業は︑通常︑専門的経営者によって管理されていたが︑最終的な決定権は所有者に属した︒

財閥の多くは︑排他的な内部ファイナンスの構造を維持し︑株式の公開や借入れを避けようと努めた︒例外は︑株式

の発行によって成長を遂げたいくつかの新興財閥(たとえば日産コンツェルン)である︒

ところが︑表1に示されるように︑一九三〇年代末以降︑企業は外部資金への依存を強めはじめた︒急速に成長す

る資金調達需要に︑内部金融能力が追いつかなくなったためである︒同時に︑戦時経済統制によって所有者の意志決

(5)

第 二次 大 戦 と 日本 の経 済 シ ステ ムの 転 換 29

表1資 本 構成(主 要企 業)

(%) 1945年 上 期1950年 上 期

72.2 23.4 8.7 12.0 28.1 27.8 20.9 s.9 100.0

77.3 23.1 3.8 27.1 23.E 22.7

×1.0 11.7 100.0

51.5 48.5

61.5 38.5 1935年F期1940年 ド期

負 債

買 入 債 社

借 入

そ の

資 本 資 本 剰 余 金 総 資 本

務 債 金 他

金 等

38,547.5 10,616.4 16,510.6 4.17.1 7,313.0 61,552.8 46,737.1 14,815.7 ioo.oloo.o (流 動 負

(資本 ・固 定負債)

債) 17,929.4 82,170.6

(資料)三 菱経 済 研 究 所 『本 邦 事 業成績 分 析』

定権が制約されるようになった︒このようにして︑企業の所有︑資

金調達︑支配における排他的(閉鎖的)でパーソナルな性格が︑戦

時期に弛緩したのである︒それは日本の経済システムの歴史の上

で重要な変化であった︒さらに戦後︑アメリカの占領権力によっ

て実施された財閥解体政策が︑戦前の構造を最終的に破壊する︒

二 金 融 シ ス テ ム

(ニー1)タイトな金融規制システムへの転換

金融システムのあり方は︑上述した企業構造と密接な関連を

もっている︒

︒一〇世紀の初頭には︑金融システムは基本的に放任のもとに

あった︒規制によって金融セクターの成長を抑えることになるよ

りも︑まずは金融的な潜在能力を最人限に引き出すという戦略が

とられたのである︒しかしながら︑銀行システムにおける一連の

困難な状況とパニックの発生という現実を受けて︑一九二〇年代

に新たな規制的スタンスが導入される︒銀行やその他の金融機関

の合併.統合を促進し︑それらの間の競争を制限するという政策が開始された︒すなわち︑金融部門において︑規制

の導入および個人的所有・支配の希薄化という方向が︑他の部門より先行して(また意識的に)開始されたのである︒

(6)

なお個人的性格の希薄化とは︑個人所有の銀行がオーナーの系列事業に融資を集中し(﹁機関銀行﹂と呼ばれた)︑貸出資

産の分散によるリスク低減がないたあに破綻に直面したという教訓から︑それらを合併させて系列性ー集中性を薄め

るという戦略が政府によってとられたことをさす︒戦時下には︑金融機関の集約化はさらに速いペースで進められた︒

戦後日本の高度に集約化された金融業の産業組織は︑こうした戦時期の変化の直接の結果である︒

戦時期のもう一つの重要な政策は︑資金配分の統制であった︒その目的は︑資金を﹁重要産業﹂すなわち軍需産業

に集中することにあった︒この政策は︑金融機関に(軍需融資がもつ)リスクを軽視させること︑軍需産業に対する融

資の拡大競争︑いいかえればそれらとの密接な取引関係締結(顧客関係というストックの拡大)競争を組織することをつ

うじて︑実現された︒このようにして金融機関の拡張的行動パターンが形成された︒

資金配分規制は戦後も一〇年近く続けられたが︑高度成長の開始とともに後退していった︒戦後には︑金融に対す

る政府規制のセ要目的は︑金融システムの安定性の維持となった︒

(ニー2)﹁メインバンク制﹂

さきにもみたように︑戦時期における主要な資金不足部門は政府と企業であった︒証券市場は主に政府負債を消化

する役割を割り当てられ︑企業金融は銀行貸出に依存するようになった︒金融取引に占める銀行および預金のウェイ

トが(郵便貯金とともに)高まり︑信託や保険のそれは縮小して︑多様性が低下した(表2)︒

それと同時に︑貸出をより効率化するため︑政府は﹁共同融資﹂(協調融資)制度および﹁指定金融機関﹂制度を導入

した︒後者は︑各軍需会社について原則一つの銀行を政府が指定し︑指定された銀行はできるだけ大量かつ容易に︑

要求された資金を提供するという制度である︒一部の研究者は︑これらがαΦ一Φσq舞Φ島ヨo巳8ユロσQω蜜ω9日としての

(7)

第 玖 人 戦 と 日本 の経 済 シ ス テ ム の転 換  

31

表2主 要 金融 機関 の資金 量 シェア

(%) 19401945195019701990

23.5 21.5 12.2 4.7 1.3 1.2 7.5 10.5 20.1

30.0 17.9 10.s 2.7 1.0 1.4 10.7 s.s 2fi.3

39.8

9.2 1.2 3.2 3.2 8.8 3.6 18.1

25.5 15.1 5.7 7.s s.s 8.1 6.5 7.0 14.3

20.0 13.Q 4.9 8.3 5.2 7.1 4.9 12.3 21.5

100.0100、0100.0100.0100.0

郎経 済 統 計 』 『経 済 統 計 年 報 』 1935

銀 行23.E 銀 行19.8 用 銀 行11.8 勘 定7.5

金 庫L3 組 合o.s 同 組 合5.9 会 社12.9 貯 金20.9

f100.0

市 方 鵬 託 用 用 縮 険 便

都 地 長 信 信 信 農 保 郵

一 計100.0

(資 料)日 本 銀 行 『本 芦  

問の余地があり︑少なくとも立証されていない

供給者として行動することによって取引先企業に有事のさいの保険を提供し︑さらに政府が銀行をほぼ完全に防御し

た︒これは︑ビジネス・リスクが︑メインバンクによってほとんど引き受けられ︑そしてメインバンクと政府のみか

ら構成される領域で効率的に処理されたことを意味する︒そのため︑企業や投資家を含む他の経済主体は︑さほどリ

スクに考慮を払わないことに慣れるようになった︒このことが︑日本企業の攻撃的拡張行動の重要な基盤要因であっ

た︒ ﹁メインバンク制﹂︑およびそれをつうじた戦後日本型企業統治(8弓9

﹁鎮Φ︒自︒<Φ3き8)システムの発端であると主張している︒戦時期のこ

の措置によって︑企業と銀行との特定化された組合せが形成されたの

は事実である︒しかしながら︑事実の問題として︑戦時期においては

銀行はモニタリングの機能を果たさず︑むしろその機能は低下したと

いわなければならない︒借手企業に関する情報生産を行なわず︑十分

な審査なしに貸出を行なった︒政府や銀行自身の中に︑こうした事態

を問題視し︑改善を図ろうとした動きがあったことも一面の事実であ

るが︑結果は意図とは異なるし︑末期までそうした動きがあったこと

自体︑問題が深刻に存続していたことを示すものである︒

戦後についても︑メインバンク制の役割で重要なのはいわゆる保険

機能であったーすぐれた情報生産機能が本当に果たされたのかは疑

(8)

図2金 融資産 ス トック/GNP

7

6

5

4

3

2

1〆

〉 一妥

0

8090190010203040」(}60708090

a;総 金 融 資 産(松 浦 宏 「明 治 以 降 マ ネ ー ・フ ロ ー の 特 色 ⊥ 『STATISTICALDATA BANK』 筑 波 大 学 社 会.r.学 系,3‑1,1985年)

b:民 間 非 金 融 部 門 金 融 資 産(法 人 企 業 お よ び個 人)(藤 野 正 三郎 ・寺西 重 郎 「資 金 循 環 の 長 期 動 態 予備 的 分 析 」,『経 済 研 究 」29‑4,1975年)

c:同 ヒ(秦 郁 彦 ・経 済 企 画 庁 経 済 研 究 所 『金 融 資 産 負 債 残 高 表1930‑1945』,1963年)

d:同f"(西 川 俊 作 ・大 村 敬 … 「金 融 資 産 負 債 残 高 表 」,大 蔵 省 財 政 史 室 編 『昭 和 財 政 史 一 終 戦 か ら講 和 ま で:第19巻 ・統 計 』,1978年)

el総 金 融 資 産(日 本 銀 行r資 金 循 環 勘 定 』)

f:民 間 非 金 融 部 門 金 融 資 産(法 人 企 業 お よ び 個 人)(同L)

(三11)財閥支配の弛緩

企業間の﹁垂直的な﹂(縦の)関係は︑すでに

述べたように︑戦時における閉鎖的・個人的性

格の弛緩と︑戦後の財閥解体によるその破壊を

つうじて︑弱まった︒その結果︑個々の企業(経

企 業 間 関 係

とりわけ預金

ある︒ のかたちで保有させたので に︑戦後初期のハイパー・インフレーションに

よって金融資産の実質的ストックが激しく減

価し︑またその分配が財閥解体・農地改革.財

産税などの社会改革諸措置によって低水準で

均等化されたことであった︒そのような条件

が︑人々に︑金融資産の大部分を安全資産ー1 2 銀行ないし預金取扱機関は︑戦後において︑

量的な面でも金融仲介市場の中核的役割を

(9)

営者)の意志決定はより自立的となった︒

33第=次 大 戦 と 日 本 の経 済 シ ス テ ム の 転 換

(三12)業界団体の経験

戦時中︑政府は︑企業を組織化し︑その経済行動をコントロールするために︑産業ごとに﹁統制会﹂などの業界団

体を設立させた︒それらは戦後︑占領軍・によって解体される(ただしその多くは業界団体に姿を変える)ことになるが︑業

L︒雛66援︒・⁝署︑との﹁水平的な﹂(横の)結合の経験は︑戦後の企業に対して大きな影響を与え

数 ベ ー一 ス,%

970‑「‑199

04512523㎜

表3株 式保有分布

(株

胴闇}一 甲一 一 一

1949 195 4970

2.80 a.39 0.24 9.91 23.fii 30.96 12.5s 7.94 1.19

5.59 14.64 23.09 69.14 53.2 39.93 100.00 100.00 100.00 1945

政府 ・公 共団体 金 融 機 関 証 券 業f1 法人(非 金融)

個 人 他

8.29 11.17 2.82 24.65 53.07 100.oa 全国証券取引所協議会

(資 料)

た︒

(三13)企業集団と﹁系列﹂

大企業セクターにおける所有の閉鎖的・個人的および﹁垂直的﹂な横造は︑財閥

解体によって破壊された︒そののち一九五〇年前後から企業集団が再組織されはじ

あたが︑新しい結合のスタイルは︑﹁垂直的﹂な支配ではなく︑諸業種大企業の間の

多角的な株式持ち合いにもとつくものであった(表3によれば︑すでに一九五五年には

金融機関および非金融企業の株式保有が増加しはじめている︒そして戦後の非金融企業には

持株会社は含まれていない)︒したがって新たな組織は︑戦前のそれとは大いに性格を

異にしている︒

新たな企業集団は︑その結合の水平的要素および垂直的要素によって特徴づける

ことができる︒水平的結合は大企業間の株式持ち合いを基礎とする︒﹁六大企業集

(10)

表4生 産 の 累 積 集 中 度 の 変 化 一一一 変 化 方 向 別 の 産 業 数(47産 業 中)一 一

1937・1949年(カ ッ コ 内1937・1955年)

累積集中度 上 昇

上 位1社 上 位3社 上 位5社 上 位10社

12(ll) 12(11) 11(8) 11(7)

低 ド

32(33) 27(32) 23×30) 17(26) (注)た と え ば,1行 目1列 の12と は,

業 が12あ る こ と を 示 す 。 (資 料)

『日 本 産 業 集 中 の 実 態 』 東 洋 経 済 新 報 社,

そ の 他 3{3) 8(4) 13{9) 19(14)

計 47(47) 47(47) 47(47) 47(47)

1937年 か ら1949年 に か け て ト位1社 集 中 度 のf一昇 し た 産

公IE取 引 委 員 会 「日 本 に お け る 経 済 力 集 中 の 実 態 』 実 業 之 日 本 社, 1957年

1951年,お よ び 同

表5各 産 業 第1位 〜 第5位 企 業 の マ ー ケ ッ ト ・ シ ェ ア (非 累 積,io産 業 の ケ ー ス)

(%) 企業 数(社)第1位

銑 鉄

普通鋼材

電 動 機

鋼 船

洋 紙

セ メ ン ト

ビ ル

バ タ

綿 紡 績

綿 織 物

第2位 第3位 第4位 第5位

797979797979797979343434343434343434999999999999999999111111Ll111l111¶11 0302794975854330242537324182151831

19371約45000 19491照i 」5000

L

9707154670126558443330166354173238075477844232317222638611 120640970062982607190584496365868593025612121112123111 86292036444907295419327020505083751381452111111121

1.3 5.4

・i XO.3

8.5 12。0 9.8 3.8 6.9 7.6 9.7 0。6

8822827186704686773468

1.o

A

5.0 10.0 3.6 5.8

o.s Q.9 3.9 8.7 2.7 5.1 (資 料)公 正取 引 委 員 会 『[本 に お け る 経 済 力 集 中 の 実 態 』 実 業 之 日本 社,1951年

(11)

第 一二次 大 戦 と 日本 の経 済 シ ステ ムの転 換 35

団﹂は水平的結合の典型である︒この六グループのうち︑三菱︑住友︑三井︑芙蓉(安田)の各グループは︑かつての

四大財閥の後身にあたる︒他の二つ三和および第一勧銀グループはそれぞれ︑かつての中規模以下財閥のう

ちのいくつかの系列の企業の集合体を基礎とする組織である︑と性格づけることができる︒この性格は旧安田系以外

の芙蓉グループ構成員にもみられる︒六グループのそれぞれは︑主要諸産業における上位企業によって構成され︑グ

ル!プのメインバンクであるセ要都市銀行およびセ要総合商社を中核とする︒(旧)四大財閥を例外として︑多くの企

業は︑結合の要であるメインバンクとの長期的取引関係を戦時期に形成した︒したがって︑この意味でわれわれは︑

企業集団としての結合の直接の出発点が戦時期にある︑と言うことができる︒

さらに︑トヨタ︑パナソニック(松下)︑新目鉄などのような独立系集団がある︒これらは︑巨大企業を頂点とし︑

その下がいくつかの企業の層から構成される︑ピラミッド型の構造をもっている︒こうした構造は六大グループにも

一側面として組み込まれている︒これが企業集団の﹁垂直的﹂結合の要素である︒その直接の起源は戦時期に広がっ

た下請け制にある︒

四 市 場 構 造

(四ll)寡占企業間の競争

戦前には︑ガリバー1ー︑一位以下と隔絶した規模をもつ支配的なトップ企業lIを有する産業が多数派であった︒

しかし戦時期に︑こうした市場構造に重大な変化が生じた︒表2にみるように︑多くの産業でマーケット.シェアの

上位集中度が低下した︒また表3(これは累積の集中度でなく︑各産業上位五社のそれぞれのマーケット.シェアである)が示

すように︑各産業内において︑上位数社の間の規模の近似化(均等分布型寡占化)したがってトップと他との間の格

(12)

商 経 論 叢 第30巻 第3号 3fi

表6会

総 数

(う ち)工 業 (う ち)商 業

1920 .・ 14,058 18,578

1930 X3,545 16,148 34,854

1935 94,592 23,992 54,740

1940 91,028 29,204 47,003

1944 102,316 49,527 41,211

194 95,773 48,307 36,801

1950 235,515 116,663 85,628 1955 411,997 162,595 170,424

(資 料)大 蔵 省 ・国 税 庁 『会 社 表』

場表7工

全製造業

84,fi25 137,079 125,680 84,393 15fi,173 187,101  

学化

㎜械

4,s29 8,766 8,493 6,807 13,380 13,36fi 10,250

22,972 24,910 19,688 20,961 23,937

口口

繊 維 金 属

1935 13,684 29,378 7,351

1939 22 ,793 38,272 X1,717

1942 21,194 28,251 11,190

1946 9,927 lL860 9,260

1950 26,243 31,923 12,804

1955 33,911 39,01s 16,925

(注)調 査 対 象 は1947年 ま で ■場,1948年 か ら製 造 業 事 業 所 (資 料)通 産 省 「工 業 統 計50年 史 』

差の縮小が生じた︒このことが戦後にも

たらした結果は︑実力の接近した数企業によ

る激しい競争(競争的寡占)である︒このフ

レームワークは戦後の高度成長の基盤の一つ

になったと考えられる︒

市場構造のこうした変化の原因の一つは︑

金属や機械といった軍需産業に対する需要が

一九三〇年代後半から急速に拡大し︑それが

二位以下企業のキャッチアップと新規参入の

波を誘発したことにある︒もう一つの重要な

要因は︑反独占政策による戦後初期の大企業

分割であった︒この政策については︑通常︑

当初の構想に比べて実施された規模は綾小で

あるという評価がなされるが︑市場構造に与

えた影響には大きなものがあったのである︒

(四ー2)中小企業層の拡大

右に述べたように︑軍需産業ないし重化学

(13)

工業において中小企業の数が増加し︑それによって産業のピラミッドにおける﹁厚いすそ野﹂が形成された︒これに

対して︑食品︑繊維︑商業といった民需ないし消費関連産業では︑多くの企業が退出させられたことによって集中度

は上昇した︒しかし戦後︑潜在的消費需要が爆発するとともに︑これらの産業の多くで再参入の波が発生し︑中小企

業の厚い層がふたたび形成された(以L︑表6・7)(*)︒これらのことも︑寡占間の競争とならんで︑日本経済の競争

的性格の一要素を構成することになる︒

(*)戦時期に抑圧された消費が︑戦後に回復した西欧型(≦o︒︒8ヨぞ℃Φ)と︑投資・軍事優先のために引きつづき抑圧された旧

ソ連・東欧型(Φ山06け①円ゴ一け︽℃Φ)とがあるが︑この点では日本は≦Φω仲興コ¢OΦに属した(政府の意図に反して)ことになる︒

右の点は学会大会当日にフロアーから質問を受けた︒厚く感謝する︒

第 一二次 大戦 と 日本 の経 済 シ ステ ムの転 換

(四13)下請け制

戦時期に︑急速に拡大した重化学工業で︑下請け制が普及した︒下請け制は︑内製方式とスポット型市場取引方式

との中間的な形態にあり︑長期的取引関係と競争の要素を双方含んでいるというメリットをもつと評価されている︒

機械工業のような組立型産業で下請け制(部品ド請け)が広まったことは︑とりわけ重要である︒なぜなら︑それらの

産業は︑戦後の日本経済におけるリーディング・セクターとなるからである︒下請け制の広まりはまた︑資金面その

他において中小企業が問屋に支配されていた戦前のスタイルからの︑大企業・巾小企業関係の重要な変化を意味して

もいた︒問屋は︑戦時流通統制によって大幅に排除され︑弱められたのである︒

37

(14)

五 政 府 ・ 企 業 間 関 係

(五Il)戦時経済統制

戦時期には︑利潤最大化原理や所有者の支配を害悪の根源とみるイデオロギーに支えられて︑経済統制あるいは計

画化への指向が強まり︑かつ広まった︒いうまでもなくそれは︑直接にか間接的にか︑マルクスセ義の影響を受けて

いた︒そして︑ソ連およびナチス・ドイッの経済体制が具体的モデルと考えられた︒そのような考え方がイデオロ

ギー的・政治的軋礫を惹起するのは不可避であった︒

結果的にみれば︑戦時統制下にあっても利潤最人化原理は否定されなかった︒あるいは否定することが不可能で

あった︒むしろ︑経済統制が多かれ少なかれ有効となったのは︑軍需生産を拡大せよという政府の指令が︑企業自身

の拡張へのインセンティブと適合した(8ヨ冨口げ一Φ)場合であり︑それゆえにこそであった︒すなわちそのとき︑各企

業にとって︑利得の最大化のためには拡人がベストの選択であると考えられたのである︒しかし他方︑戦時下で企業

の意志決定の自由が制限されているという与えられた条件の制約のもとでのみ︑そうした8ヨ℃鋤鉱げ葺qが存在した

ということもまた事実である︒そして同時に︑以上の経験は︑企業が政府に指導されることに慣れるにあたって貢要

な作用を果たした︒

(五12)戦後の政府・企業間関係

経済統制は︑戦後も︑一九四〇年代末に至るまで継続され︑その内容も戦時と基本的に同一のものであった︒ジョ

セブ.M.ドッジの指導による安定化(反インフレ)政策および臼由化政策が開始される一九四九年以降︑経済統制は

(15)

第 二次 大戦 と 日本 の経 済 シ ステ ムの転 換 39

急速に廃止された︒たしかにそののちも︑貿易や対外資金取引の統制︑特定産業に対する育成手段などを含むいわゆ

る産業政策が︑一九五〇年代一杯とられつづけた︒しかしその後は︑政府介入は後退していったのである︒高度成長

は︑基本的に民間セクターがリードしたものであって︑﹁政府†導の成長﹂というような図式は正しくない︒

既存企業等の既得権益を守るという性格をもつ規制が︑現在でも無視できない規模で存在しているのは事実であ

る︒加えて政府は︑行政指導と呼ばれる︑直接の法的根拠をもたない裁量的規制を広く実施してきた︒そうすると︑

非市場的な統制という要素が戦時から継続して強く作用しているようにみえる︒しかしながら︑それらは︑戦時期の

経済統制と直接に関係するものその継続ではない︒行政指導のような手段は︑個々の企業における経済合理

的な計算と選択に適合する限りにおいてのみ︑実効力をもったのである︒すなわち企業は︑何らかの相対的な利得が

期待されるからこそ︑政府の指導に従う︒逆にいえば︑こうである︒もし指導に従わないならば︑出し抜かれたライ

バル諸企業の報復の意図と︑それに支持された当局のペナルティ賦課が︑将来の利潤に無視できない打撃を与え︑そ

の損失が指導無視によって得られる利得を上回ると予想されるときには︑長期期待利潤は削減される︒その場合に︑

長期期待利潤の最大化の観点から︑企業は指導に従うことを選択する(この逆のケースでは行政指導は有効でない)︒そし

て業界団体は︑ライバル企業間の﹁相互監視﹂を容易にする仕組みとして︑右のような指導のメカニズムを効率化す

るのに用いられたのである︒

この意味で︑戦後日本の政府・企業間関係は︑﹁経済合理性から外れた戦時経済統制の直接の継続﹂といったもので

はない︒戦後の行政指導は︑そのシステムが経済合理性と適合的であるときにのみ︑その結果として︑有効であった︒

戦時経済統制も︑最人化をめざした企業の選択の結果として有効になったという点で同様であったが︑その選択がき

わめて強い制約のもとでのものだった点で異なる︒ただ︑戦時の経験が︑その後の企業の選択.行動パターンに(闘接

(16)

的な)影響を与えたとはいえよう︒従来のパターン(慣習)を変更するにも費用がかかり︑そのために粘着性が生ずる

側面がある︒したがって︑もし戦時の経験がなかったとしたら︑行政指導のようなゲームの均衡に達するには︑その

分だけ遠かったはずだからである︒

公的介入は︑きわめて広い範囲に解釈された﹁市場の失敗﹂の補整たとえば資源配分の動学的効率性の改善や

表8所 得分配 の ジニ係数

10β0

A B L D

1890 0,311

1900 Q.417

1910 0,357 0,420

1920 0,417 0,463

1930 0.43 0,451

1940 n.4s7 o.s41

1956 0,313

1962 0,382 0.36

1973 0.35

1986 0.35

A:Ono,A.andT.Watanabe,"ChangesinIncomeInequalityin

JapaneseEconomジ,inH.Patrick(ed.),ノapaneseIndustrialization anditsSocialConsequences,UniversityofCaliforniaPress,197fi.

B:Otsuki,T.andN.Takamatsu,"AnAspectoftheSizeDistribution ofIncomeinPrewarJapan",InternationalDevelopmentCenterof Japan,1978.

CWada,R.O.,"lmpactofEconomicGrowthontheSizeDistribution ofIncome",JapanEconomicResearchCenter,1975.

D寺 崎 康 博 「世 界 の 所 得 格 差 」,『 日 本 経 済 研 究 』2Q,1990年

パニック回避のたあの金融システムの防御

目的として行なわれた︒

六 社 会 構 造

(六ー1)社会階層構造と所得分配

戦前の日本社会の性格は︑﹁個人資本主義(¢甲

旺巳Φ﹃Φα02ωoコ巴︒巷一一巴一︒︒ヨ)﹂と特徴づけられよ

う︒表8の所得分配のジニ係数にみられるように︑

社会諸階層間の格差も大きかった︒このような性

格は戦争前後の時期に弱まることになる︒すでに

みたように︑閉鎖的な個人的所有のような要素は

後退したし︑不平等度も戦時の諸条件によって(お

そらく主として上位が抑えられることにより)縮小し

た︒さらに︑戦後初期のハイパー・インフレー

(17)

第 二次 大 戦 と 日本 の経 済 シ ステ ムの 転換  

41 ション︑財閥解体︑財産税︑農地改革︑労働改革などの

戦後変革が︑日本社会を全面的に再編成した︒

(六12)財政構造

財政のあり方は社会構造と密接に関連している︒

第一に︑政府支出は︑軍事費の激増にセ導されて戦

時期に膨張した(図3)︒しかし政府支出は戦後にふた

たび縮小し︑日本は戦後をつうじて相対的に﹁小さな

.oooδΦ

(9︒︒8ΦΦhhΦg)

については明瞭に見られない(ただし戦後後期には︑図

に現れない移転支出は増加する)︒

第二に︑タックス・ベースが個人および法人所得に

シフトした︒図4をみられたい︒↓九世紀には税収の

主力は地租(図のA)であり︑ついで一九〇〇〜一九四

○年には関税(D)を含む間接税(E)であったが︑一

九四〇年の税制改革ののち個人所得税(B)と法人課

(C)(法)

図3政 府 支出/GNP 40%

30%

20%

10%

0%

1880901900102030405060708090

・政 府 消 費 支 出

政 府 消 費 支 出+公 的 固 定 資 本 形 成

(注)1.1951年 ま で1934‑36年 平 均 価 格,1954年 ま で1970年 価 格1988年 ま で1980年 価 格 1989年 以 降X985年 価 格 基 準 の 実 質 ベ ー ス

2.1940・41年,1944・46年,1951・52年,1954・55年 の 間 で そ れ ぞ れ 接 続 し な い 。 (資 料)大 川 ・司 ほ か 『長 期 経 済 統 計1』(〜1940年),お よ び 経 済 企 画 庁 推 計(1941年 〜)

(18)

図4国 税 収 入 の 構 成 100%

90%F

80%、 い》'、》ρ

70%

60%轄/五 〆

50%vvf

4・%必 ん \/嚇 ハ

30%ノ

Cゾ へ.ノ

20% 、、"、

10%

0°/a

1$809019001020304050007080 A二 地 租

B:個 人 所 得 税

C:法 人 課 税(法 人 税,第 一種 所 得 所 得 税,営 業 収 益 税,営 業 税) D:関 税

E:間 接 税(関 税 除 く) F:そ の 他

(資 料)大 蔵 省 『大 蔵 省 百 年 史 』 別 巻,国 税 庁 『国 税 庁 統 計 年 報 書 』

表9政 府 支 出の構成(国 の一 般会 計決算)

(%)

費費費費費費費

係政醗済化係び関

関財緻経文障債

全保衛方課業育会ゴ防地国産教社国

28.6

5.9 15.

9.0

17.7

1935 4s.3 0.0 5.8 2.4 6.8 1.4 17.6

1940 50.3 5.2 3.1 9.0 3.5 1.s 15.5

igso 7.s 19.1 1s.9 9.4 12.1 13.3 1.5

・'1

5.2 18.1 13.8 9.2 10.7 21.3 12.7 (資料)大 蔵 省 『大 蔵 省 百年 史 』 別 巻,『 財 政統 計」

(19)

第 玖 大戦 と 日本 の経 済 シ ステ ムの転 換 43

同時に︑直接税(特に所得税)の対象が人衆にまで拡大する︒こうしたトレンドは戦後占領下の﹁シャウプ税制改革﹂

によってさらに強められた︒

第三に︑表9が示す通り︑政府支出の構成における大項目が︑戦時における軍事費から︑高度成長期における産業

発展のためのインフラストラクチュア整備へ︑そしてポスト高度成長期の社会保障へとシフトした︒

以hのような諸要素は︑社会構造の変化に対応した統治システムの変容・調整であるということができる︒個人間

の格差が縮小し︑企業組織中心の社会となったことから︑個人・法人への広範な課税に依存しつつも︑軍事の軽減も

あって政府規模は抑えられ︑成長への集中とそのパイの分配によって社会が整序された︒成長は︑かつて血縁.地縁

共同体が処理してきた領域を分解し︑その処理は一方では市場的に︑他方では公的に代替されることになっていった

のである︒

七 結 論

これまでの分析は次のように要約できよう︒

第一に"日本経済の長期的な発展プロセスを術轍するとき︑第二次大戦から高度成長の終わりまでの期間を︑ま

とめて一つの局面とみなすことができる︒この期間を通して︑対外閉鎖体制のもとでの高投資経済︑拡張的な経済行

動パターン︑異常な経済的緊張状態のもとでの急速なキャッチアップ過程︑といった条件の存在が共通していた︒戦

時期はその最初のパートにあたる︒

(20)

第国一に"事実の片面として︑戦後日本の経済システムを構成する諸要素のうちいくつかの原型ないし基礎的構造

が︑戦時期を契機にして形成された︒たとえばー1

(1)企業構造の閉鎖的・個人的性格が弱まった︒

(2)相対的に実力の接近した寡占企業数社の間の競争︑中小企業の厚い層︑下請け制の広まりといった産業組織

上の特徴が形成され(はじめ)た︒

(3)銀行.企業間の長期的取引関係をコアとする︑強固に保護された金融システムが形成された︒

(4)政府は︑業界団体に組織された企業を規制し︑それをつうじて戦後の行政指導などの規制手法の基盤をつく

りだすことになった︒

(5)日本の社会的H政治的構造は︑﹁個人資本t義﹂から︑より平等かつ﹁企業中心の人衆社会(8唇︒逗Φ︒︒票Φ器α

ヨoωωωo巳Φ蔓)﹂に変わった︒

第三に"しかし他面では︑多くの要素が︑戦後に再度の変化をへているのである︒たとえばーー

(a)右の(1)の事実にもかかわらず︑企業構造を決定的にそして最終的に変えたのは︑政治的な要素ーI‑すな

わち戦後の財閥解体であった︒

(b)政府の大きさは︑主として軍備が大幅に廃棄されたために︑戦後急速に縮小した︒

(c)戦時経済体制の中核を占めていた資源配分統制は︑戦後の高度成長の開始とともに後退した︒

(d)インフレーションと社会改革という戦後ショックが︑戦後の経済・社会のあり方に強い影響を与えた︒

(e)メインバンク.システムのフレームワークは︑その形態としては戦時期に確立されたが︑情報を生産し企業

(21)

のモニタリングを行なうというその機能は︑戦時期には働いていなかった︒

そこで︑一般化していうとすれば︑われわれは次のように結論しなくてはならない︒

日本の戦時と戦後とが︑直接の︑あるいは直線的な継承の関係にあると爵うとすれば︑それはしばしば正しくない︒

より正確には︑われわれはこう理解しなければならない︒すなわちー戦時期に形成された原型︑枠組み︑あるい

は基礎構造が︑戦後の高度成長期における固有の諸条件のもとで﹁機能﹂しはじめることになったのである︑と︒

第 二次 大 戦 と 日本 の経 済 シス テ ム の転 換 45

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参照

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