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」より帰任後の雨森芳洲とその周辺

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(1)

享保十五〜元文四年(一七三〇〜一七三九)「裁判

」より帰任後の雨森芳洲とその周辺

その他のタイトル Amenomori Hoshu (雨森芳州) and the Persons concerned after his Diplomatic Service to Korea, Kyoho(享保)15〜Gembun(元文)4 years

著者 泉 澄一

雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要

巻 29

ページ 1‑35

発行年 1996‑03‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/15976

(2)

享保六(‑七ニ︱)年︑朝鮮方の佐役を辞任した雨森芳洲︵当年

五十四歳︶は翌享保七年︑長男の顕之允︵当年二十四歳︶に家督を

(1 ) 

譲り隠居生活に入ったといわれているが前稿でのべたようにそれは

史料によらぬ勝手な解釈というもの︒芳洲はその後もそれまで同様

に藩儒として藩主に論語や孟子を講じ享保九!十三年︵五十七!六

十一歳︶には御用人をつとめ︑さらに享保十四!十五︵一七二九

i

1 0

︱ ︱

)

年には公作米年限の裁判に任ぜられ釜山で朝鮮との交渉にあ

たっている︒一方︑顕之允は確かに享保七︵一七︱︱︱‑︶年から藩士

として出仕してほいるがそれは無禄の奉公であって芳洲のもつ家禄

︵二百三十石︶を受けついだのではない︒つまり雨森家では芳洲が

そのまま戸主であり顕之允は家禄をつがないままに死去した︒した

がって﹁享保七年︑長男の顕之允に家督を譲り⁝⁝﹂などという見

﹁裁

判﹂

より

帰任

後の

雨森

芳洲

とそ

の周

は じ め に

﹁ 裁 判 ﹂

より帰任後の雨森芳洲とその周辺

︵ 一 七 一

1 0 )

C

七三

九︶

享保十五ー元文四年

解は成り立たず芳洲は八十一歳の延享五︵一七四八︶年一二月︑嫡孫

の連︵当年二十二歳︶に家禄をつがせるまで戸主であり隠居してい

たのではないのである︒前稿ではそういう芳洲の御用人時代をたど

ってみたが本稿では裁判より帰任後の芳洲を前稿同様に藩庁の表書

札方︑奥書札方︑組頭方の各毎日記︵以下﹁表︑奥︑組毎日記﹂と

略記する︶の勤仕記録を中心に跡づけてゆくことにする︒なお当初

は連の家督︑芳洲の隠居までを予定していたが享保期に入ると表︑

奥︑組頭の各毎日記はそれまでにくらべ関連の記事も多くそれゆえ

調査は意外に手間どり本稿ではほぽ中間にあたる顕之允の死去まで

を論考することにした︒また芳洲は朝鮮方佐役在任中から﹁朝鮮筋

之儀別而功者﹂︵﹁表毎日記﹂享保六年七月二十六日条︶と評され辞

任後も朝鮮方の相談役的な存在であり朝鮮通交の諸事をめぐって藩

から依憑されることが多かった︒そのうえ藩に勤仕以来すでに四十

余年がすぎ藩政の運営においても欠かせない人物になっていた︒し

(3)

庁や行事の場に参じ危急の折には御用人同様の奥勤あるいは江戸行

すら命じられた︵後述︶︒このようなことはこれまでまったく知ら

れていなかっただけでなく朝鮮方佐役の辞任あるいほ裁判のあと芳

洲は後進の教育や著作に専念する隠居生活であったなどと解説され

てきていた︒のちにのべるようにこの時期芳洲は確かに後進を育て

内政︑外交に関する書物あるいは藩主の実録などを著わしてはいる

が隠居生活の中で行なっていたのではない︒以上のべてきたような

これまでの︑雨森芳洲の勤仕をめぐる誤解の原因は前稿でもふれた

ように史料によらぬ勝手な思い込みや藩政の機構あるいは人事組織

を十分理解していないゆえのもので本稿でもその点を十分に留意し

ながら論を進めてゆくことにしたい︒

雨森芳洲ほ裁判の任務を終えたが釜山出立の直前になって童をわ

ずらい帰国︵享保十五年十月二日︶したものの藩庁へ報告に行けず

芳洲に同行の松浦文平が名代としてそれを届け出ている︒松浦文平

とは芳洲の次男`徳之允のこと︒享保九年四月︑松浦儀右衛門︵霞 や朔望の出仕日あるいは藩の諸行事に際しては年寄や諸役同様に藩 たがって毎日記等の芳洲をめぐる記事には注目すべきことも多く芳洲の周辺にも十分留意しながら筆を進めてゆきたい︒ところで雨森芳洲は御用人時代に藩主義誠から信頼され辞任後は﹁御用人格﹂に任ぜられ藩内では御用人同様の処遇をうけていた︒それゆえ五節句

︑ 半 弓 壱 挺 一︑蠅鞭壱本

右 者 殿 様 江

以上

壱双 沼︶の養子となり文平を名乗っていた︵享保十六年七月に家督を嗣ぎ九月に賛治と名を変える︶がこのとき学文稽古のため芳洲に同行していたのである︒のち朝鮮方へ出仕し実父の芳洲や義父の霞沼をつぐ存在となるがあとでのべる︒芳洲の病気は十月下旬になっても回復せず﹁奥毎日記﹂十月二十八日条にはつぎのような記事がみら

雨森東五郎儀頃日朝鮮i帰国仕候処病気付御土産進上差拍罷在

候︒然処子今快無之段々及延引候付今日松浦文平を以御土産品

々被致進上ル︒両殿様之進上物ハ幸便之節可申上事︑尤御姫様︑

御内所様へ之御上物ハ女年寄を以差上ル︒東五郎方i進上之品

左記

之︒

︑ 塩 霞 壱 羽 御 賄 方 へ 相 渡 ス 一

︑ 粕 潰 鮒 壱 桶 御 内 所 様 へ 差 上 ル 一︑孔雀石緒メ壱対

一︑

唐扇

一︑

胸背

弐本 覚

れる

強箭

共︱

(4)

﹁裁

判﹂

より

帰任

後の

雨森

芳洲

とそ

の周

右者

十月廿八日 以上

︵義誠室︑のち仙寿院︶御内所様江

五日

一︑玉枢丹

一︑茶末

一︑粕漬鮭 岱

壱桶 王丸

︑ 色 糸 壱 包

︑ 唐 扇 弐 本

右者お鍛治様江

雨森東五郎 釈に親しみ藩士の平田左仲を師とし剣法をもよくした︒凡庸というべき器ではない︒この約十年前︑享保四年に来日した朝鮮通信使の 以上 一︑香丹子一

︑勾

一︑粕潰鯉

一桶

弐ツ 弐ツ

︑ 色 糸 壱 包

︑ 唐 扇 弐 本

右者 以上

︵義誠の第二子︑浅之允か︶若殿様江

一︑

勾玉

一︑唐扇弐本 弐ツ 一︑唐墨拾挺入壱包以上だが朝鮮への使行のあと誰もがこのような土産進上に及ぶわけではない︒毎日記をみていても同様な記事は稀である︒ではこの芳洲の土産進上の理由は何か︒それは今回の裁判行が藩主︵宗義

誠︶の推薦によるからでその経緯については前稿にのべたが﹁組毎

日記﹂享保十五年十月十五日条によるとこれは芳洲に与えられた

(2 ) 

﹁重キ扶助﹂であった︒扶助についてもすでにのべたのでそれを参

照されたいが芳洲はこの裁判行によって多額の所務を得ることがで

きた︒御用人勤務に対する功労金ともいえるありがたい臨時収入で

ある︒藩士たちはこのような扶助と称する朝鮮への使行あるいは和

館への勤務により臨時収入を得︑辛うじて生計を維持していた︒芳

洲とてその例外ではない︒芳洲は藩主の計らいで﹁重キ扶助﹂をう

けたのだがこの土産進上はそれに対する返礼なのである︒品物は当

然ながらどれも朝鮮のものだが芳洲の心遣いがうかがわれる︒芳洲

は病気の回復が長引くため進物の時宜を計り奥座敷まで届けたもの

と思うが残念ながら藩主への想いは届かなかった︒芳洲の病気もさ

りながら参勤途上の藩主は大坂で庶疹を患い町医の診療もうけたが

効なく十一月六日当地で没したからである︒約二年前の享保十三年

九月︱︱一日︑芳洲は江戸へ出立する藩主を府中の港で見送ったがそれ

が芳洲にとって藩主を見た最後の日となった︵翌享保十四年一︳一月十

芳洲は釜山へ出立した︶︒藩主義誠は芳洲の論語や孟子の講

(5)

製述官・申維翰は﹃海瀞録﹄の中でこの義誠について﹁貌浅而不省

事︑政令皆出於下﹂﹁為人不慧︑使臣送言︑則其状似開口︑奉行従

芳替語﹂と記すがこれはやや尊大にかまえた申の評ゆえ割引く必要

(4 ) 

がある︒芳洲が著わした﹃大雲院︵義誠︶公実録﹄によると生前の

義誠ほつぎのようにあり﹃海漉録﹄の評とはまったく異なる︒

公為人雅亮沈黙︑待下有恩︑頗好学問︑不喜邪侯︑属績之日︑

閾州莫不痛惜焉︒

ここには毎日記にみられる義誠の日常や人柄がそのまま集約され

( 5)  

ていると思うが芳洲の心からの讃辞でもあろう︒かような義誠の厚

意であったからこそ芳洲は所務の一部をさき土産に心遣いしたので

ある︒それゆえ﹃海漉録﹄の記述にしたがい義誠が藩政を家臣に任

せる無能な大名のごとくのべる著書もあるがそれは鵠的からはずれ

た評言というべきではないかと思う︒藩主死去の﹁御凶変﹂に対し

藩ではつぎのように奥向の要である御用人の補充を図り︵﹁表毎日

(6 ) 

記﹂十二月︳︱‑日条︶なお藩主の長子・弥一が若年のため義誠の異母

弟・樋口主馬を急拠襲封させることにした︒

︵ 御 用 人

吉川内蔵之允

右者御留守之内奥中之御用被仰付置候︒然処今度御凶変︱ー付壱

人︳︳而相勤候段大切二被存殊蜘臼畔御内所様御機嫌︳︳依暫

夜番等被仰付―—而可有之候。左候而者心之不及義も可有之候間

相談被仰付被下候様︱ーと被願出左様可有之事候故雨森東五郎︑

杉村伊右衛門両人被差加候事︒諸事被申談夜番代々被相勤候様 可被申渡旨組頭中江書付を以申渡︒

杉村伊右衛門

雨 森 東 五 郎

右者吉川内蔵之允江御留守之内奥中之御用被仰付置候処此度御

凶変き付両人被差加候間奥中之御用之儀内蔵允被申談同前︱ー可

被相勤候︒尤御姫様御内所様御機嫌ーー依暫夜番等者不被相

勤候間難叶節者代々可被相勤候︒東五郎儀者病後之儀故夜向難

被相勤候間全快之節夜番被相勤候様︳︳可被申渡旨組頭中江以書

付申

渡ス

これによると藩主の参勤に御用人二人︵古川繁右衛門︑中江藤

助︶が同行し国元では吉川内蔵之允が一人で奥向を担当しているこ

とがわかる︒御用人は藩主を補佐するだけでなく宗家奥向きのこと

も司どる奥向諸役人の総元締めでもあった︒したがってこの緊急時

に一人では対応しかねることも多い︒そこで近習役の杉村伊右衛門

︵翌々享保十七年正月︑正式に御用人となる︶に老練で御用人格の

芳洲を配し吉川内蔵之允とともに奥向を差配させることにしたので

ある︒ただ病後のこととて当分の間芳洲に夜勤を免じている︒前稿

でもその勤務状況をみたが表向とはちがい御用人をはじめ奥向の諸

﹁奥毎日記﹂による 役には夜番があった︒老人︵当年六十三歳︶でしかも病後の芳洲にほ酷な勤務である︒しかし藩ではこの﹁御凶変﹂に際し内外の諸事に通じた老巧の芳洲を奥へ詰めさせそれへの対応を図ったのであろ

う︒芳洲もまたこの時態をよく理解していた︒

(6)

﹁裁

判﹂

より

帰任

後の

雨森

芳洲

とそ

の周

ク吉川内蔵允 と十二月二日条に︑

十二月三日

右者吉川内蔵允江被差添候旨頃日申渡置侯得とも内蔵允儀此度

江戸表へ被差越候付奥御用向之儀古川繁右衛門︑中江藤助到着

迄者右両人引請勿論御道具等之儀も引請候様︱一と之御事御組頭

中か被申渡ル︒

なお﹁表毎日記﹂の翌五日条にはこれに関連してまたつぎのよう

な記

事が

ある

吉川内蔵允︑杉村伊右衛門︑雨森東五郎被申聞候者内蔵之允義 晴天幕方小雨降杉村伊右衛門 番雨森東五郎

杉村伊右衛門

雨 森 東 五 郎

とあって芳洲がさっそく当番御用人をつとめていることがわかる

︵国分藤右衛門は日帳付番︶︒このあと新藩主となる樋口主馬︵第

二十五代方漁︶の江戸行にしたがう御用人として吉川内蔵之允を任

じる記事がありそれに応じて翌四日条にはつぎのようにある︒ 番国分藤右衛門 杉村伊右衛門雨

森 東 五 郎 右者今度御凶変―一付吉川内蔵允――被差添奥御用相勤候様I—被仰

付候由——而被罷出ル。

とあり二人は二日に藩庁で特命をうけていた︒そして翌日の﹁奥毎

日記

﹂に

は︑

今度江戸表へ被差越侯付奥御物置御封印有之所三ヶ所井内蔵允

封印仕候所一ケ所︑以上四ケ所伊右衛門︑東五郎相請取申候付

内蔵之允封印仕置候所ハ御目付検分之上伊右衛門︑東五郎上封

仕置候︒古川繁右衛門︑中江藤助罷下候節引渡可申旨遂案内候

付承届候旨申達ル︒

この記事は内蔵之允の不在中︑伊右衛門︑芳洲の両人に対しつぎ

のような用務を伝え承諾を確認したもの︒

巳古川繁右衛門︑中江藤助の両人が帰国するまで奥向の諸用を担当

する

用務の中には当然ながら納戸銀の支配なども含まれていて伊右衛

門︑芳洲の両人は気の休まる間もなかったはずである︵樋口主馬︑

吉川内蔵之允らの府中出帆は十二月十八日︶︒このあと﹁奥毎日記﹂

十二月十七日条には︑

右者御姫様

レ︒

9  

御 提 重 一 組 雨 森 東 五 郎

︵義誠室︑のち仙寿院︶宝琳院様御朦中為御慰進上仕︑則御目付を以差上

とあり御用人・芳洲の心遣いが知られる︒また芳洲は病後といいな

がら十二月晦日まで休むことなく出仕していて﹁御凶変﹂に対処し

責務を果していることもわかる︒芳洲ら奥向諸役のかような労苦に

対し﹁奥毎日記﹂の翌享保十六年正月十一日条につぎのような宝琳

院の配慮が記されている︒ ⇔奥向の諸道具︵四か所の蔵に収納し封印済︶の管理をする︒

(7)

とあ

る︒

﹁ 奥

今度御凶変︳一付奥中為御念杉村伊右衛門︑雨森東五郎其外御用

承リ医師︑日帳付臨時ー一夜番相勤御目付加番等相勤候へ共上々

様御機嫌御替不被成只今ニハ御気遣成事無之候付皆中夜番相勤

︵ 年 寄

候——及ひ申間敷哉之旨女年寄を以大浦忠左衛門殿へ被相伺候処

夜番相勤候ーー不及之旨宝琳院様&被仰出候付皆中へ申渡ス︒

結局︑この﹁被仰出﹂により夜番がなくなったのだが宝琳院も藩

主同様に家臣を思いやる心の持ち主だったらしい︒それはまたつぎ

のようなことにもうかがえる︒﹁奥毎日記﹂の二月朔日条に年寄衆

六人︑御用人四人に対し﹁頭巾壱包宛﹂の﹁被成下﹂の記事があり︑

︵下 脱か

右者仙寿院様i冬之内可被成と御用意被遊候得とも御取込ー一付

被差拍時分遅>候得とも御用意之品故被成下候と之御事一︳而女

年寄みちの持出候付表江雨森東五郎持参夫々ーー相渡ス︒

﹁冬之内可被成と御用意﹂とあるので﹁御凶変﹂で苦労を

かけたからではなく仙寿院︵正月十九日に宝琳院を改名︶は日ごろ

から年寄衆や御用人などへかような心遣いをしているのである︒年

寄衆や御用人の苦労あるいは奥向への配慮に対する仙寿院の感謝の

気持ちなのであろうが藩主夫人の思わぬ一面を知り得る好個の史料

でもある︒なお﹁御用人四人﹂とあるが藩主に同行していた古川繁

右衛門.中江藤助の両人は藩主の遣骸とともに正月十七日帰国して

いた︒今回の芳洲の奥勤はこの繁右衛門︑藤助の帰国までという臨

時の処置だが二月六日になってようやくその任を免じられた︒

毎日記﹂には翌二月七日から当番に繁右衛門︑藤助が記録されるよ うになり芳洲の奥勤をめぐる最後の記事がつぎのようにある︒

杉村伊右衛門︑雨森東五郎儀昨日奥勤被差免候付仙寿院様御逢

可被遊候処昨日ハ御寺参芳御取込二付今日御逢可被成之旨昨日

被仰出候付罷上リ候処御奥江御通ッ被成ル︒

芳洲`伊右衛門に対する仙寿院の衷心よりの謝意が行間によみと

れるようであり同時に前記の史料にもみられたような仙寿院の人柄

をここでもうかがうことができる︒芳洲が病後にもかかわらずこの

難局に尽したのほかつて信頼をうけた藩主の死という理由があるか

らだが仙寿院がかような人柄であったこともその一半に加えてよい

ように思う︒また仙寿院のかような家臣に対する心遣いをみている

とどのような社会体制であれ人間関係の基本的な部分には変わりが

ないこともよくわかる︒なお新藩主となる樋口主馬は二月五日に江

戸着︑二月二十一日老中から家督の書付をうけこの日から﹁殿様と

奉称﹂ことになった︒その新藩主のもとへも伊右衛門︑芳洲の奥勤

を免じたむね国元から報告が届いているが﹁去冬御凶変已来昼夜致

苦労候段申越候﹂と書き加えられていてその苦労はやはり並み大抵

でなかったようである︵﹁方漁様御在府毎日記﹂︶︒

かくて芳洲は﹁御用人格﹂にもどり朔望等の出仕日に藩庁へ出る

ことになったが二月十五日がその最初である︵﹁表毎日記﹂同日条︶︒

ちなみにこの日の出仕をみると︑

姦丘村采女︑古川図書︑杉村三郎左衛門︑大浦忠左衛門︑杉村仲︑

見習平田将監︑寺社奉行吉川六郎左衛門︑組頭大浦兵左衛門︑

 

(8)

平田内膳︑御印判役俵四郎左衛門︑御用人格松尾杢︑雨森東五

郎︑物頭乎田所左衛門︑大目付鈴木市之進︑古川忠右衛門︑幾

度治左衛門︑町奉行平田源五四郎︑御勘定役乎田助之進︑小田

五郎左衛門︑原左平︑志賀甚五左衛門︑御船掛西村栗右衛門出

仕 ゜

とある︒朔望の出仕日は政務担当の年寄︑表・奥勤の諸役が藩主の

もとへ参じることに意義がありこの日に政策に関する会議などは行

なわない︒かような談合は月六回の藩主︑年寄及び諸役の寄合日に

行なわれそれに御用人が参加することはない︒ましてや芳洲はいま

は﹁御用人格﹂であって現役ではない︒だが出仕日にかかわらず藩

政や奥向の諸事について芳洲が藩主や年寄衆から意見を聞かれるこ

とはあった︒芳洲の意見といえばこの年︵享保十六年︶八月四日の

﹁奥毎日記﹂につぎのような記事がある︒

l

一而

之伺

書左

記之

御初入被遊候得者訳官被召寄侯先規ー一候故当年も可被召寄儀ニ

候得共以前ハ四月御入国被遊候処今度ハ七月ーー御着被遊候︒就

月︳一渡海仕候︒然者裁判差急キ被差渡候而も九月比ならて着仕

︵対 馬︶

間敷候付来二︑三月比訳官御国へ可罷渡候哉︑左候而ハ御出船

硼︳︳成御繁多之節致混雑御用筋被仰含候︱ーも可差支哉と奉存侯

間今般ハ被差延重而之御入国之節訳官被召寄可然奉存侯︒如何

可被仰付候哉︑奉伺之侯︒以上︒

﹁裁

判﹂

より

帰任

後の

雨森

芳洲

とそ

の周

夫訳官渡リ方相考候処早キ時ハ四︑五ヶ月︑遅キ時ハ六︑七ヶ

土右

伺之

通被

仰出

ル︒

これは新藩主の初帰国を祝賀するため渡来する訳官の延期伺とそ

れに対する藩主の判断を示したもの︒要約すると通常藩主の帰国は

四月ごろゆえそれから朝鮮へ渡来の要請をしても訳官は年内には対

馬へ

到着

でき

翌年

︱︱

l

四月の参勤出立までに祝賀の諸行事をすませ

ることができる︑だが今回は藩主の襲封が二月ゆえ帰国が七月にな

「表―—而之伺書」 り訳官の渡来が翌年になれば参勤の準備と重複し訳官と交渉すべき諸用があってもできなくなる︒それゆえ今回は中止し次回の帰国に

際し訳官渡来の要請をすればどうかというもの︒

とあるように年寄衆から伺を立て藩主の承認を得たが年寄衆の中心

となっていたのは朝鮮御用支配を預る杉村采女である︒杉村采女は

藩主の帰国︵七月四日︶後まもなくこのことに関し芳洲をよびその

意見を求めていた︒伺書につづいてつぎのようにある︒

上右

訳官

之儀

ーー

付雨

森東

五郎

方ヵ

返答

之手

紙左

ー一

記之

︵七 月十 九日

以手紙申上候︒昨日被召寄御尋被遊候訳官之儀罷帰得と了簡仕

候処兎角御呼不被遊候而ハ成申間敷と奉存候︒御通交以来定リ

たる前規二御座候処ケ様之重キ先例有之儀を此方ヵ御変し被成

候時彼方ヵ若又先例をかへ可申と申候事有之候時如何御意可被

成哉︑別幅ー一而も此方か鹿末︱︱被成候故落着彼方ふも鹿末︱一仕

候様ー一罷成候得ハ外之儀とても其恐有之事二御座候︒且又堂供

送使之儀成否難定事ニハ御座候得とも最早被仰掛候事ーー御座候

得者是又訳官迎之裁判よろしき機会一︳御座候故被仰掛度御事奉

(9)

を示すゆえ今回の処置ほ重大である︒ 杉村采女様

日新藩主の初帰国を賀す訳官の渡来は古くからの定規でありかよう

な﹁重キ先例﹂を対馬側の事情で変更してはならない︒

⇔歳遣船が持参する贈答品の目録︵別幅すなわち別紙目録のこと︶

についてもそれを施末に取扱えば必らず朝鮮側もそれ同様の反応

白自分が裁判のとき交渉した堂供送使一件はいまだその諾否を知り

難いがもう一度こちら側から請求してもよいのでこの際訳官要請

の裁判を派遣しついでにそのことも交渉してはいかがか︒

四藩財政のよろしくないいま訳官をよべぱ物入りが多く不都合だが

大切なことゆえ年寄衆と熟談されたい︒

となり芳洲の主張は前例重視のひとことに尽きる︒では﹁朝鮮筋之

儀別而功者﹂である芳洲のこの意見がまったく用いられず藩主の参

勤が優先してしまったのはなぜか︒それは幕府がこの年︵享保十六

年︶から諸大名の上米を停止し参勤の制を元にかえしたことが主因

ではないかと思う︒それに加え藩主にとっては初参勤でもあり藩で

はその日程を違えないようつとめたこともあろう︒翌享保十七年︑

藩主は例年のように一︳一月二日参勤のため乗船︑三月十七日に出船し この芳洲の回答を要約すれば︑ 七月廿日 存候︒御勝手向之儀重キ御事︱‑^御座候得共何とそ御熟談被遊度御事奉存候︒大切之儀と存候付不顧憚申上候︒以上︒

雨森東五郎 ているゆえこの日程では訳官が渡来しても会うことすらむずかしいように思える︒だが杉村采女の諮問に答えた芳洲には理を尽して前

例重視を訴えていただけにこれは不満の残る処置だったにちがいな

い︒もっとも方漉は健康を害いこの年︵享保十七年︶九月十一日に

隠居し前藩主の長子・弥一が封をついだ︒第二十六代藩主・義如で

ある︒したがって訳官の渡来があっても藩主は程なく隠居していた

ゆえ偶然ながら若干の冗費を省けたことにはなる︒しかし芳洲が憂

慮するようにこの処置が外交に負の効果をもたらす可能性は高く表

面には出ていないがこの一件の影響についてほ留意しておく必要が

あろうと思う︒ところで芳洲の意見の中に自分の裁判在任中のこと

にふれているが裁判の用件の︱つに公作米の品質をめぐる交渉が

あった︒﹃裁判記録﹄には和館に搬入されてくる公作米について

﹁ 有

1 1

レ水

雑レ

沙等

1以補

l1減剋之数種々姦巧畳出無窮﹂とありつ

づけてそれが﹁有

狡猶之吏盃翌換悪米︱利I I

1

i其貼銭こと朝鮮側官吏

の悪行によるものとあってその是正を求める交渉である︒幸いこれ

ほ館守や裁判︵芳洲︶の強硬な申し入れに朝鮮側が是正を確約し実

行に移された︒この年︵享保十六年︶九月二十三日の﹃表毎日記﹄

には和館の館守・杉村帯力の勲功を八カ条掲げているがその中につ

ぎのような一条があってそのことがわかる︒

︵平 田内 膳︶

︵雨 森芳 洲︶

一︑公作米之儀籾沙を相雑江年々悪敷罷成候付前館守井裁判を以

申掛段々相改リ帯刀代一︳至リ猶又厳鋪申達候故近来御米運送之

船目付分之者壱人ツ︑被相添候︒依之後々之儀ハ不相知候得共

J ¥  

(10)

︵朝 鮮︶

当時米宜相見へ当年者彼方も凶年︳一而入送方も相滞勢ーー付館守

催促強ク段々無滞致入送候事︒

対馬が貴重とする輸入米に籾や沙︵砂︶がまじっていたのでは話

にならず対馬ならずとも当然の申し入れである︒館守の交渉はとも

かく﹃裁判記録﹄によると搬入の途中で付添の軍官らが﹁酒肴之費——米を盗取り其代りーーもみを雑せ」たりするためで芳洲は訳官に対

﹁︵かようなことでは︶民食之用︳一相立不申候故下々之者貴国之

恩恵を感し可申様無之﹂とのべ﹁左様之悪舗品を請取対州へ送リ遣

候得は⁝

. .  

誠信之道も相立不申⁝⁝﹂と詰めよっている︒このよう

な強硬な申し入れが奏効したのであろう︑朝鮮側ほ搬入の際に﹁目

付分之者﹂を同乗させることにし抜取りの再発防止にふみ切ったの

(7 ) 

である︒ここで芳洲が交渉の切り札のごとく用いている﹁誠信之

道﹂の用語だが芳洲が﹃交隣提醒﹄の中で﹁誠信之交﹂を力説する

ゆえこれをもって芳洲の外交姿勢を云々する向きもあろうかと思う︒

しかしこれは日朝間では古代以来外交上の常套語といってよくとく

に芳洲だけがそれを主張していたのではない︒交渉が難航すると双

方とも﹁誠信之道﹂をもち出しその打開をせまるのが常道なのだが

この公作米一件もその一例なのである︒

つぎに朝鮮方佐役の辞任︵享保六年七月︶以来すでに十年がすぎ

ているのに朝鮮方と無縁になり得ない芳洲を伝える﹁表毎日記﹂

︵享保十七年正月十五日条︶の記事をみてみよう︒

﹁裁

判﹂

より

帰任

後の

雨森

芳洲

とそ

の周

味 木 金 蔵

右者朝鮮方添役被仰付置候処松本源左衛門義江戸表被差越越常右衛門帰国迄一人二叩相務候付御用筋大切——奉存候間源左衛門

代リ之人被仰付被下候様願出承届候︒雨森東五郎儀被居候間重キ御用之節ハ申談常右衛門帰国迄者乍苦労一人―—而相勤候様可

被申渡旨与頭中江以書付申渡ス︒

このとき朝鮮方佐役は越常右衛門と松本源左衛門の二人だが常右

衛門は参勤お供︵使者番︑若殿様刀持兼帯︶のため江戸にいた︒帰

国はこの年七月である︒このことは事前にわかっているはずだが藩

は前年︵享保十六年︶八月に松本源左衛門に参勤お供を命じ源左衛

門はこの年︵享保十七年︶三月に対馬を出立している︒味木金蔵の

申し出をまつまでもなく約五か月間︵享保十七年には閏五月があ

る︶佐役の不在が生じていた︒もっとも味木金蔵は早くから朝鮮方

に勤務し佐役が不在であれ用務の大方については処理でき藩もさほ

ど案じていなかったのかと思う︒しかしそれは金蔵への申し渡しに

もあるように背後に芳洲がいるからであって藩のこのような芳洲ヘ

の依存は芳洲が隠居する延享五︵一七四八︶年までつづいていたの

ではないかと思う︒﹁朝鮮筋之義ハ別而大切﹂といいながら藩では

朝鮮方は政務にも外交にも直接関係のないいわば文書局ゆえその人

事に配慮することが少なかったように私には思える︒たとえば今回

の越常右衛門︑松本源左衛門の場合もそうだがのち元文二︵一七︱︱︱

七︶年には松浦文平も朝鮮方佐役でありながら長崎へ聞役として派

遣され二年間も勤務している︒佐役の補充を申し出ている味木金蔵

(11)

右朝之出勤遅ク候付一昨年以来度々相咎候得共不埒ーー付其後一

人充朝出いたし相勤候様二表書札方其外諸役所とも︱︱早朝ヵ罷

出御書札方ハ夜番も相勤候得共朝鮮方之儀ハ無其儀候処加用捨

一人ッ︑早く罷出候様二申渡候以来間々遅く申渡を鹿末ーー相心

得勤方大様ーー候︒以来入念可令精勤候︒

これによると朝鮮方は享保五︵一七︱

1 0 )

年に藩庁の一.役所とな

って以来十余年もなるのに他の役所のような勤務を行なっていない︒

他ほ早朝より出勤し夜番もあるのに朝鮮方がそうでないのは通交関

係の文書や記録の作成には急務がなくそのため﹁朝之出勤遅ク﹂

﹁勤方大様﹂が当たり前となっていたのであろう︒数年前から注意

されているのに朝鮮方の役人自身が勤務を軽んじこのお呵りを招い

たように私には思えるがこのことは朝鮮方が藩政の枢要や外務の実

務に関係ない役方であることを示しているといえる︒そのことがま

た芳洲の存在もあって人事への配慮を欠かせる一因になったのでは

ないかと思うが留意しておこう︒この下役人の﹁不埓﹂といわれる

勤務に佐役や添役がどう対処していたのかよくわからないが後述す 日帳付

朝 鮮 方 案 書 役

御佑筆 の場合は元文二年に朝鮮方佐役に任じられたが一一年後に和館の一代官に転出している︒﹁表毎日記﹂元文三年正月二十七日条にはこの

ような朝鮮方のあり方を考えさせる記事があるのでつぎにあげる︒ るように両役の勤方も﹁大様﹂に近かった︒同じ文書記録を担当する役所でも書札方や表︑奥の書札方は古く藩政の初期から存在しなお藩政の根幹に関する記録を取り扱かうだけに役々もそろい勤務の

あり方も整っている︒人材の育成など芳洲がその基礎づくりに力を

入れた朝鮮方だが各書札方などと同様に機能するにはそれなりの年

月を要したことがわかるのである︒

本章では雨森芳洲の長男・顕之允︑次男の松浦賛治︑三男の玄徹

を順次みてゆくことにする︒まず顕之允については﹁奉公帳﹂の記

事のほかにその足跡を伝える記録は乏しいのだが病没に至るまでを

たどってみよう︒顕之允は享保七︵一七二二︶年に無禄で奉公して

以来御供頭︑打廻頭︑朝鮮横目頭などをつとめながら芳洲から家督

をうけないまま死去した︒享年四十二歳︒病気のため長く番役から

もはずれ父にも先立ち顕之允はやや薄幸の感を免かれないのである︒

顕之允がつとめた最後の役職は朝鮮横目頭︵和館では表老頭とよん

でいる︶だが享保十七年七月四日に釜山へ着き勤務についた︒しか

し和館館守の﹁毎日記﹂翌享保十八年正月二十二日条によると顕之

允から﹁痛所有之:.此間二至痛募リ候﹂とて役儀断わりの申し出が

あり館守は折から参判使として滞釜中の年寄・大浦忠左衛門に相談

し国元へ飛船便で連絡している︒その結果﹁表毎日記﹂正月二十四

日条

には

1 0

 

(12)

﹁裁

判﹂

より

帰任

後の

雨森

芳洲

とそ

の周

︵朱︶病気二付御断申出候付右ハ雨森顕之允為代二番目地謡組子被仰付︒ 也 ︒

梯音右衛門の着任は三月二十六日︑役儀引きつぎのあと顕之允はよ

うやく四月十五日に帰国できた︒

朝鮮御横目頭雨森顕之允

右者夜前被致帰着候処痛所有之候故御渡被置候御壁書︑御書付

︵杉 村︶

井添状等名代松浦賛治を以被差出候付朝鮮御支配采女殿江差出

和館及び佐須奈関所へ赴任の役々︵館守︑代官︑横目頭など︶は

誓紙血判のあと朝鮮御用支配の年寄から禁令を記した壁書などをう

けて出立︑帰任報告と同時にそれらを返還することになっている︒

これはそのことにふれた記事だが次弟の松浦賛治が名代としてそれ

らを藩庁へ届けている︒名代によるこのような例は多いが賛治はこ

のあとつぎのようなことでも顕之允の名代をつとめている︒この約

二十日あとの﹁組毎日記﹂五月十一日条に地謡頭と組子の交代に関

する記事がありつぎのように記されている︒ 日条にはつぎのようにある︒

樋口惣五郎 ﹁組毎日記﹂享保十八年四月十六 朝鮮御横目雨森顕之允義痛所有之難相務由——而交代之願書差越候︒差掛たる当病ーー候故被差免候⁝⁝︒

とあり藩は交代の梯音右衛門に﹁早々相仕廻﹂赴任するようにと申

しつけている︒顕之允は赴任後半年で役儀交代を願い出たのだが

﹁差掛たる当病﹂ともありよほど具合が悪かったのである︒しかし

名 代 松 浦 賛 治 雨 森 顕 之 允

右地謡被仰付候処病気ー一付御断申出願之通被差免との御事則名

代へ

申渡

ス︒

顕之允がつとめることになっていた地謡とは六月十五日に府中八

幡宮で行なわれる祇園会能に際し藩士が十余人ずつ二組に分かれて

うたう能曲のこと︒藩士たちにはこのようなっとめも課せられてい

たのである︒顕之允の組子辞退が認められ賛治が代わってその申し

渡しをうけているのだが芳洲が老人ゆえ贅治が父に代わって出かけ

ているものと思う︒帰国したものの病状は思わしくなく六月晦日

の﹁表毎日記﹂につぎのような顕之允の湯治願いに関する記事があ

る ︒

雨森顕之允

右者痛所有之侯付壱州湯之浦江五廻リ入湯仕度由願出候付願之

通被

差免

候︒

顕之允が湯治を願った湯之浦とは現在の湯ノ本湯泉︵壱岐郡勝本

町︶のことと思われる︒当時対馬藩士らが比較的手軽に利用したの

が壱岐の温泉だがそのほか筑前の武佐志も記録によく出てくる︒ま

た摂津有馬温泉もその効能ゆえか折々に利用されている︒かつて宝

永︱

︱‑

︵一

0

六︶年には芳洲も一時は﹁廃人にも罷成﹂︵宝永四年

(8 ) 

三月朔日付新井白石あて書簡︶かと思われた脚疾︵痙か庁の類かと

思われる︶のため有馬で湯治をしていた︒顕之允の﹁痛所﹂という

のはこのあと十月の番役免除願︵後出︶からみて重度の﹁脚疾﹂に

(13)

よるもので壱岐での三か月に及ぶ湯治も効果はなく﹁表毎日記﹂の

十月二日条には︑

雨森顕之允

︵勝 本︶

右者痛所有之︒依願先比為入湯風本へ罷越今日帰着被仕候処痛

所今以碇と無之ーー付名代松浦賛治を以御切手添状差出之︒

とあり病状は﹁碇と無之﹂歩行も困難であったらしくまたまた賛治

が名代として旅切手などを藩庁へ届けている︒そして七日後の﹁表

︵十月九日条︶には顕之允の御番免除にかかわってつぎの

雨森顕之允

右者脚疾有之︒壱州致入湯候得共今以全快無之候間当時御番被差免置被下候様―—尤歩行相止メ候而ハ養生方二小宜由医師申聞

候由二叩気分快節ハ近所等歩行仕度旨願出無拠相聞へ候付願之

通御番井近所歩行之儀も被差免候︒仮成ぎも可相勤鉢ー一罷成候

ハ︑訴出御番被相勤候様可被申渡侯゜

この記事から顕之允の疾息が脚疾とわかるがどの部分かはわかり

かねる︒通常の歩行が困難であったことは確かでそれゆえ番役免除

を願い出たのだがそれは認められた︵番方の藩士には宿番や火消番

役もあった︶︒なお医師の助言もあって近所まわりの歩行は認めら

れている︒かくて顕之允は自宅で療養生活を送ることになったがお

そらく適切な治療法もなくそのままに打ち過ぎていたのではないか

と思う︒翌享保十九年は顕之允に関する記録はみられない︒享保二 ような申し渡しが記録されている︒ 毎

日記

+︵一七三五︶年に入ると﹁表毎日記﹂正月二十七日条につぎのよ

雨森顕之允

右ハ脚疾今以快無之不行歩︳一有之︒長々御番等も不相勤難儀之

由二叩有馬入湯之儀願出無拠相聞へ候付願之通被仰付ル︒

この記事からみて顕之允は近所まわりの歩行もすでに困難になり

思いきって有馬での湯治を決心したのではないかと思う︒むろんか

つて有馬での湯治経験をもつ芳洲の勧めがあってのことと思うがい

わば最後の手段であった︒顕之允の有馬行について﹁奉公帳﹂には

︵享 保二 十年

﹁同七月廿三日出帆同十二月入船﹂とある︒﹁表毎日記﹂の十1

一 月

二十四日条には入船と乗組のものを伝える記事がありその中に顕之

允の名が見える︒このとき有馬から帰ったものと思うが湯治の効果

については記録もなく不明というほかない︒翌享保二十一 うな記事がでてくる︒

︵元

文元

一七一一一六︶年も顕之允についてはまったく記録がないが元文二年に

入ると﹁表毎日記﹂二月十六日条につぎのような顕之允の申し出に

関する記事がみられる︒

雨森顕之允右者病気―—罷在候処月額仕候而者病症―—相障候様ー一覚候付長髪

仕見度候間被差許被下候様ー一願出候付願之通被差免候間被申渡候様―—願書―—附紙いたし組頭中江相渡ス。

顕之允の病気だが月額剃りの免除を願い出ているゆえ寒気に関係

があり従来の脚疾とは別のものと思う︒胸部か気管支の疾息と思う

(14)

が長髪にしたゆえかこの年も翌年も寒気を乗りきったようでこのあ

と顕之允の病気をめぐる記事はない︒だが番役あるいは役方の勤仕

を伝える記録はなく顕之允は自宅療養の日々であった︒ところで二

度の湯治行︑病気の治療に出費も多く元文三年九月に芳洲からつぎ

のような石米拝借願が出ている︵﹁組毎日記﹂同月七日条︶︒

雨森東五郎右者悴顕之允多年病気―—有之物入多被致難義候付石米拝借之儀

願出

委細

願書

︱ー

有之

御附紙

︵元 文四 年︶

願書遂披見候︒来未ノ年春季前借之義被相願候得共差支之義

有之不被仰付候︒然処東五郎義及老年候へ共朝鮮向御用専相勤其上悴顕之允多年病気―—而心遣も有之可為難義候。先年御

銀三百目被成下候へ共此節難義之次第無拠相聞へ候付朝鮮方

用銀弐百目拝借申渡候︒上納之義者来未ノ夏季之石米を以引

取候様ーー役方へ申渡候間此旨可被申渡候︒

九月七日

このころ対馬藩は最悪の財政状況にあり朝鮮貿易の資銀もなくす

べてを上方商人からの借銀に頼るありさまでこの記事にみられるよ

うに藩士の借米︑借銀に応じる余裕もなかった︒だが藩は朝鮮方に

欠かせぬ芳洲の困窮を打ち捨てておけずその用銀から﹁弐百目﹂を

捻出している︒芳洲の知行高は二百三十石︵ただし一︱︱ツ成知行︶ゆ

え一季分の蔵米は約二十五石となる︒銀﹁弐百目﹂では春季分蔵米

﹁裁

判﹂

より

帰任

後の

雨森

芳洲

とそ

の周

々を送っていたのである︒ よりかなり少額だが一時を浚ぐことはできたはずである︒だがこのあと顕之允は健康を回復することなく﹁表毎日記﹂元文四(‑七︱︱︱九︶年四月十七条にほ死去したむね記録されている︒顕之允は和館の横目頭を辞任したあと六年間出仕することはなかった︒芳洲の長男でありながら家業の儒学はおろか家督を嗣ぐこともなく藩士としても功半ばで終わった︒むろん本人は不本意なことであったにちがいない︒このあと四月二十三日には顕之允の死去が藩主にも伝えられていて︵﹁奥毎日記﹂同日条︶それが顕之允に関する最後の記録となった︒嫡子の連はまだ十一一一歳︑家督をつぐには十年早くなお芳洲は現役をつづけねばならなかった︒したがって芳洲は本務である藩主への講釈をこのころ︵享保末

i

元文年間︶もずっと行なってい

た︒また芳洲は﹃大術院公︵宗義倫︶実録﹄︵享保十八年三月に藩

へ提出︑松浦賛治と共編︶にひきつづき﹃大雲院公︵宗義誠︶実

録﹄も編集していた︵元文三年五月に藩へ提出︶︒芳洲は老齢にも

かかわらず家業にいそしみ家長の責を担い隠居とはおよそ縁遠い日

つぎに次男の松浦賛治についてみてゆこう︒すでに若干ふれてき

ているが賛治は学文稽古のため芳洲の裁判行に同行し約一年半を釜

山で過ごしたあと兄の顕之允とはちがい父や義父の霞沼に近い道を

歩みはじめていた︒賛治は帰国して約半年後︑享保十六︵一七三

‑︶年四月十五日にかつて芳洲もっとめたことのある文庫掛を︑そ

の五か月後の九月三日には書翰吟味役を朝鮮方添役の味木金蔵と

(15)

﹁申談念を入相勤﹂よう命じられている︒その八日後に文平を賛治

と改名し藩の承認も得た︵﹁表毎日記﹂九月十一日条︶︒これは賛治

が結婚したためと思う︵七月二日︑小田五郎左衛門女との婚姻が承

認されている︶︒このあと賛治は朝鮮方佐役や長崎役などをつとめ

藩政に深くかかわってゆくが順次みてゆくことにしょう︒賛治が文

庫掛になった約四か月後︑その加役に二十一歳の阿比留久五郎が任

じられた︒久五郎は朝鮮通交の故事先例に明るくかつて﹁朝鮮向功

者﹂と称えられ朝鮮方の創設にかかわった阿比留惣兵衛の孫で芳洲

が面倒をみていた︒実はこの少し前︑久五郎が朝鮮方で作成してい

る﹁分類紀事大綱﹂の書役の候補となったが芳洲がそれを差しとめ

ているのでみてみよう︵﹁奥毎日記﹂七月十三日条︶︒

表&之伺書左記︒

阿比留久五郎

右者真字行字ともl一大概書載いたし最早弐拾余一︳罷成候付紀事

大綱役ー一被仰付度旨佐役之人i申出候処雨森東五郎書付を以申

出候ハ久五郎義学問之方殊外精l一入相勤侯故往々は御用二相立

可申候間今五︑七年は外之役不被仰付学問一方相励候様被仰付

度候︒只今二皿も祖父惣兵衛ニハ及間敷候得共養父惣左衛門︱︱

ほ抜群相増候由御座候︒然処紀事大綱役被仰付候ヘハ御切米可

被成下候得共右之訳にて御当用ハ不相勉候得共年もたけ候者ニ

御座候間御切米被成下四︑五年も学問精出し相励候様i

被仰

如何可有御座候哉︑奉伺之候︒以上︒ はじめに久五郎が﹁真字行字ともー一大概書載﹂できるようになったとあるが数年前から朝鮮方で書役の見習をしていたようで約一年前の記録︵﹁表毎日記﹂享保十五年七月十日条︶には︑

阿比留久五郎

右者儒者家業之者——而幼少i養育扶持として御扶助一割半引ニ

而被成下置候処最早十七︑八歳︳一罷成文学も相励跡留等も致書

載候程相成候由二叩越常右衛門i委細以書付申出候二付此節半

分御増被下一割之御減少二被仰付候︒弥文学も相励御用ーー相立侯程―—罷成侯ハ、一割方御増可被成候。随分精ラ人相励侯様ニ

と之

事︒

とある︒最初説明があるように久五郎は儒学をもって藩に仕える家

業人で芳洲も松浦賛治も越常右衛門もみな同じであった︒久五郎が

﹁文学も相励﹂かつ﹁跡留︵記録のこと︶等も致書載候程︱ー相成﹂

と藩へ届けた越常右衛門は朝鮮方の佐役︒部下の勤務成績を報じ家

禄の減額停止を具申しそれが認められているのである︒久五郎はす

でに二︑三年朝鮮方にいたものと思うが阿比留惣五郎の孫とて芳洲

も折々に越常右衛門に尋ねていたものと思う︒久五郎の日々を見て

いた常右衛門は﹁真字行字とも︳︳大概﹂筆写できるようになり年齢

的にも十分︵わずか一年で十七︑八歳から弐拾余︵歳︶と若干記述

に矛盾があるが︶と判断し紀事大綱役にと推薦したのだが芳洲の考

えはちがっていた︒芳洲のねらいはなにより朝鮮方に実力ある有能 ︵御用人︑中江藤檄の孫︶右伺之通被仰出表江中江勘助申達ル︒

一 四

(16)

な人材を登用することにある︒

それゆえ﹁祖父惣兵衛ニハ及間敷

候﹂とあるような学力や識見ではとても芳洲の意に適うはずがなく

久五郎を﹁今五︑七年は外之役不被仰付︵紀事大網役などに任命し

ないで︶学問一方相励﹂ようにさせたいというのが芳洲の主張であ

る︒もっとも紀事大網役として奉公すれば扶持をうけ得るがそうで

かというわけである︒些細なことだがこれは芳洲の︑将来を見通し

た人材の育成を教えてくれる好事例でこのようなことこそ高く評価

すべき芳洲の功績の一つではないかと私ほ思う︒かくて久五郎の紀

事大綱役への就任は中止となったが久五郎は文庫掛加役として松浦

賛治のもとで勤務をつづけることになった︒久五郎を賛治のそばに

おいてなおいっそう学問修行をと願う芳洲の考えであろうと思う︒

そしてこの五年後に久五郎は改めて紀事大網役に任じられるがそれ

ほのちにのべる︒

さて書翰吟味役に任じられた松浦賛治だがその約一か月前から藩

﹁奥毎日記﹂の七月二十七日条によると︑

松浦文平江兼而御講釈可被遊御聞之段被仰付置今日御講日一一付

御書院︱︱おゐて初而被御聞候故於御次之間先格之通御麻上下一

具被

成下

ル︒

とある︒賛治の藩主への講釈はこれが初見だがこのほかに記録がな

く何を講義したのか︑またいつまで講釈がつづいたのかも不明なの

﹁裁

判﹂

より

帰任

後の

雨森

芳洲

とそ

の周

主の侍講をつとめている︒ させそのうえで﹁四︑五年も学問﹂に精励するようにさせればどう はなく久五郎に﹁年もたけ候者﹂同様の扶持米を与えて収入を安定

一 五

杢が収集した資料などもいっしょに賛治に手渡された︒それゆえ である︒あるいは新藩主︵方漁︶が享保十六年七月三日に帰国し翌年三月にはまた参勤に出立しているゆえその間賛治が芳洲の代講をっとめていたことも考えられる︒それはともかくこれは賛治が儒学に通じ父や義父・松浦霞沼のあとを嗣ぎうる力をもっていたことを示すものとみてよかろう︒賛治は長崎での唐音稽古に加え一年半朝鮮留学の実績もある︒それがまもなく朝鮮方佐役の松本源左衛門︑越常右衛門両人の死去で生かされることになるがその前にもう一っ賛治の業績をみておこう︒それは先に少しふれたが﹃大術院公︵宗義方︶実録﹄の編集を命じられ芳洲とともにそれにあたったことである︒享保十七年正月︱︱十日の表︑組両毎日記に関係の記事があるがその間の事情をよく伝えている﹁組毎日記﹂の記事をあげよう︒

松浦賛治

右大術院様御実録被仰付候間雨森東五郎申談随分念入相認候様

可被申渡候︒勿論草稿等御渡被置候間万一火災等之節念入取出

可申旨是又可被申渡候︒以上︒

文中に﹁草稿等御渡被置:

. .  

﹂とあるが﹃大術院公実録﹄の凡例

をみると﹁今修

1

大術

院公

実録

1一依=松尾氏本文ことあり草稿とい

うのは奉公以来ほとんど奥勤であった松尾杢︵もと好見杢之允︑こ

のころ芳洲とともに御用人格に任じられている︶の手になるもので

﹁万一火災之節⁝⁝﹂と注意があるわけだがその危惧の念は的中し

た︒このニカ月後の三月二十七日府中は大火に見舞われ︵午前二時

(17)

加役をつとめる阿比留久五郎が担当していた︒

銀五匁卜壱両八分但シ真文字紙数弐百四拾四枚認ル

右者大術院様御実録書載仕候付御定法之通被成下候︒此段可

被申渡旨組頭中江申渡ス︒

一昨享保十六年七月﹁真字行字ともl一大概書載いたし﹂とて紀事

大綱役の候補にあげられた久五郎だがその筆写能力については芳洲︑ 右者

阿比留久五郎 ごろ出火︶藩士の多くが罹災した︒朝鮮方では越常右衛門︑味木金蔵宅が焼失している︒このとき以酎庵をはじめ国分寺︑長寿院︑天沢庵など二十四か寺も類焼した︒幸い藩邸や芳洲︑賛治宅ほ火災から免かれ実録の草案等も無事だったがこの日賛治は緊張と安堵が交錯しつづけたことと思う︒だがそれ以上にこの仕事は若い賛治︵当年︱︱一十歳︶にとっては重責で重任だったにちがいない︒賛治には及びもつかぬほど奥向に通じた杢之允は当時も奥御番でありそれゆえ藩では芳洲と﹁申談﹂と指示に及んだのであろう︒この間編集の過程等を伝える記録はないが約一年二か月後︑翌享保十八年一二月十五日の﹁表毎日記﹂には︑

雨森東五郎

松 浦 讃 治

大術院様御実録仕立被仰付置候処清書相済差出候——付年

寄中面謁被致苦労之段致挨拶︒

とあり編集を終え清書された実録が藩へ提出されたことがわかる︒

なお清書についてはつづいてつぎのようにあり賛治のもとで文庫掛

二月

二十

︱︱

一日

条に

はつ

ぎの

よう

にあ

る︒

賛治も認めていたのであろう︒久五郎の才能が存分に生かされたわ

けだが﹃大術院公実録﹄はいわば芳洲門下の作であることがわかる︒

今日的にいえば編集の作業は賛治︑清書は久五郎︑監修が芳洲とい

うことになろうが同実録の序には﹁享保癸丑十八年二月穀旦雨

謹撰﹂とあって賛治の名はどこにも記されていない︒藩庁

の毎日記とその記事をひいた﹁奉公帳﹂のみ賛治の︑この業績を伝

えているのである︒なお芳洲と賛治へは六月朔日に実録編集の褒美

︵芳洲へは黒米五俵と人参弐両︑賛治へは黒米三俵︶が渡されてい

る︵

﹁組

毎日

記﹂

同日

条︶

この六月十︱︱︱日に松本源左衛門が︑七月二十二日に越常右衛門が

没した︒源左衛門は江戸藩邸で取次役を︑常右衛門は和館で一代官

をつとめていた︒ために朝鮮方は佐役を欠き添役の味木金蔵が差配

﹁表

毎日

記﹂

していた︒金蔵は前年の正月につづきこの年︵享保十八年︶二月に

も佐役の不在を藩へ訴えたが藩はとりあげなかった︒

味木金蔵

右者朝鮮方添役被仰付置候処佐役両人共ー一旅ー一被召仕置御用繁

多之時節壱人l一而相務候段無心元其上先比以来時々不快︱ーも有

之彼是大切千万奉存候問相役被仰付被下候様委細以書付願出侯趣尤――相聞候得共支―—付相仕者不被仰付候。松本源左衛門下着

無間事候間病身乍苦労相務候様ーー可被申渡旨与頭中江以書付申

渡ス︒依之願書差返ス︒

森東五郎

一 六

(18)

前章でも朝鮮方の若干解しかねる人事にふれたが今回も同様で金

蔵の申し出を当然と思うのは私一人だけではあるまい︒しかし今回

ほ佐役両人が死去する事態でさすがに藩も打ち捨てておけなかった︒

﹁表毎日記﹂九月十︱︱︱日条には松浦賛治を佐役に任じ味木金蔵と

﹁諸事申談入念相勤﹂よう記されている︒費治は三十一歳︑芳洲が

朝鮮御用支配役の佐役に任じられたときと同年齢であった︒賛治が

佐役をつとめ得る学力︑識見をもっていたであろうことは想像に難

くない︒ところで賛治の佐役就任にあたり﹁表毎日記﹂に思いがけ

ぬ記事があるのでみておこう︵九月二十八日条︶︒

松浦賛治

右者朝鮮方佐役被仰付候処諸役格之儀被指免被下候様︳一願出承

届候︒前々雨森東五郎︑松浦儀右衛門相勤候節諸役格ー一而無之

侯得共不差支候故願之通御免被成候間可被申渡旨与頭衆中江以

書付

申渡

ス︒

六年前の享保十二年︑朝鮮方佐役であった松浦儀右衛門と越常右

衛門が朝鮮方の長として諸役同然の待遇を藩へ求めたことがあった︒

そのとき従来の仕来りを重んじ藩は二人を諸役の格に準じるにとど

(9 ) 

めた︒その後は関連の申し出もなく佐役になればそのまま諸役格に

なるものと思っていたがこの申し出によるとそれは本人の選択にま

かせられていたことがわかる︒賛治の辞退の理由がわからないが諸

役格になってもかえって諸役同様の出仕があって煩わしかったので

あろうか︒だがこの四年後つぎのような事情で賛治も諸役の格をう

﹁裁

判﹂

より

帰任

後の

雨森

芳洲

とそ

の周

けることになった︒

一 七 同 所 添 役 山 田 兵 蔵

松浦賛治 ﹁表毎日記﹂元文二年十月二十四日条によると︑

松浦賛治右者朝鮮方佐役被仰付候節近例諸役格-—被仰付候付諸役格之儀

申渡候処諸役格之儀ハ亡父存寄之筋も有之由︱︱而御断申出候付

被差免候︒就夫此節味木金蔵儀朝鮮方佐役︱︱被仰出候処賛治義ハ先輩と申其上知行之違も有之候処金蔵儀ハ諸役格―—被仰付賛

治儀ハ其儘ー一被差置侯段如何敷所も有之候故又々此度諸役格ニ

被仰

付候

右ハ朝鮮方佐役之儀前々&諸役格ー一被仰付候故贅治次ーー諸役格

︱︱

被仰

付候

とあって味木金蔵が佐役に昇任し諸役格を受け入れたため賛治が無

格では釣り合いがとれずこの申し渡しとなったものとわかる︒文中

﹁贅治義ハ先輩と申其上知行之違も有之﹂とあるが先輩とは年齢で

はなく先任のこと︑﹁知行之違﹂とは賛治の二百石︑金蔵の七十石

をいい同じ佐役とはいうものの歴然たる差があることをいっている

のだが封建社会の現実をこういう点に垣間見ることができる︒かく

て賛治ほ諸役格となったがそのためとくに負担がふえたようでもな

い︒この約二年後の﹁組毎日記﹂に朝鮮方佐役と添役の勤務に関す

る記事があるのでみてみよう︵元文四年九月朔日条︶︒

朝鮮方佐役 味木金蔵

(19)

右之面々義兼而ハ御寄合日又者御用之節計朝鮮方へ出勤之格ニ

被仰付置候へ共左候而ハ間々御用差支候間向後者壱人ッ︑毎日

被罷出尤御寄合日ニハ両人共出勤有之候様︱︱可被申渡旨采女殿

噂ね誌蒻門へ被仰聞候ー一付則両人召寄申渡ス︒

あとは本人まかせであったことがわかる︒両役のこのような出勤制

が先述した下役の不埓な勤務につながったのかと思うが諸役格をめ

ぐる問題といい役方となって二十年ぐらいの朝鮮方にはまだまだ未

整備の部分が多かったのである︒この後朝鮮方の佐役と添役は寄合

日には諸役同然に出仕し寛保三︵一七四一︱‑︶年になると馬廻格の佐

役は頭役と名を変え諸役に列することになるがこのことは別稿での

( 10 )  

べたのでそれを参照されたい︒

享保六︵一七︱二︶年には朝鮮の薬材鳥獣草木︑享保八年には海

東青︵朝鮮の鷹︶について幕府から調査の依頼があり藩では越常右

衛門に調査を命じそれぞれ報告書を提出した︒そのあと享保二十

︵一七三五︶年になって今度は産物調査の依頼があった︒﹁表毎日

記﹂の元文元年七月二十五日条につぎのような記事があって調査の

あらましがわかる︒

松浦賛治

味木金蔵

右者去年丹羽正伯老ふ産物之品御尋lー付右両人江被仰付候処夫

々︳一致吟味帳面︳︳仕立難相分品者絵図又者押葉等︳︳いたし持役 これによると佐役と添役の朝鮮方への出勤は諸用あるときのみで 有之内ヵ数ヶ月之間精了人相務致苦労侯間此旨可被致称美侯゜つづいて﹁産物吟味二付⁝⁝令苦労﹂とて阿比留太郎八︵伯麟が

元服して改名︶︑﹁絵之御用被仰付⁝⁝致精勤骨折候﹂とて俵多平

次︑小田安平の三人に称美の記事があるがこの産物調査は﹃庶物類

纂﹄の増修に関連して享保十九︵一七三四︶年︑丹羽正伯が行なっ

たもの︒全国諸藩に﹃産物帳﹄の作成を依頼したが対馬藩では分類

の困難な動植物を﹁絵図又者押葉﹂にして提出するなど実にきめの

細かい対応をみせている︒幕府からの通達があったとはいえ藩が調

査の趣旨をよく理解していたからでこの真摯さは評価されてよかろ

うと思う︒一方︑調査に従事し報告書にまとめた賛治らの労も多と

すべきで﹃産物帳﹄の真価は対馬のような小藩も全力を挙げて協力

した点にあるといえるのではあるまいか︒対馬藩では賛治︑金蔵︑

太郎八ら朝鮮方の役人がこの調査にあたったのだが一二人がとくに産

物に造旨が深かったわけでもない︒享保六︑八年の調査にはそのこ

ろ朝鮮方添役であった越常右衛門があたったが対馬の産物調査には

朝鮮の産物のかかわりが深く今回も朝鮮方で担当することになった

( 11 )  

のであろう︒また丹羽正伯が朝鮮に関心をよせていたことも関係し

たであろう︒それはともかく貴重な産物調査に賛治らの協力があっ

たことなどこれまで知られることもなかったが改めてそれをここに

銘記しておく︒ところでこの称美をうける四か月前に賛治は長崎行

を命じられていた︒﹁表毎日記﹂享保二十一

条にはつぎのようにある︒ ︵元文元︶年三月五日 一 八

(20)

鮮方は閑職の役方であったためかとも思う︒ 右之通念入可相勤候︒尤両人︵もう一人は京都役交代の小田五郎左衛門︶ともー一来正月交代之稼二当冬中上船可被仰付候問其覚悟︱︱手前相仕廻候様ーー可被申渡旨与頭中江申渡ス︒

朝鮮方佐役の賛治を現職のままなぜ長崎役に起用するのか︑江戸

や和館へ兼勤させるのと同様その人事の方針がよくわからないが朝

﹁来正月交代之積﹂が

九月になって﹁彼方差支之筋有之﹂とて﹁来年二月中旬﹂に変わり

翌元文二年正月になってまた延期になった︒このことに関し賛治あ

て年寄中の申し渡しがあり﹁表毎日記﹂につぎのように記されてい

る︵正月二十二日条︶︒

松浦賛治

右者長崎役被仰付来二月中旬可被差渡之旨申渡置候︒然処於朝

鮮看品之角甚差支候付急ー一才覚候而不被差渡候而ハ不叶訳ーー候︒

︵対 馬︶

妥元か角為調長崎江被差渡相調候様ーー可被仰付候得共今程御役

人其外共有之筋功者之人も無之龍田六左衛門儀ハ兼而申組置候

訳も有之不功之人愛元ヵ被差渡侯より六左衛門を少々被差留右

角調候様ー一被仰付候段宜候︒然処賛治儀二月中旬︳一被差渡候而

者彼地江両人罷在御費ーー候故賛治儀を四月中旬︳一被差渡其間ニ角調候様——可仕旨六左衛門方へ申越候、依之贅治儀来月中旬出

船を四月下旬l一被仰付候間此旨可被申渡候︒以上︒

﹁裁

判﹂

より

帰任

後の

雨森

芳洲

とそ

の周

右者長崎役龍田六左衛門為代被仰付候︒

松浦賛治

正月廿二日

一 九

松浦賛治 対馬藩が朝鮮へ輸出する水牛角︵黒角︶は中国︑オランダ船が長崎へ持ちこむものでこのころその調達がむずかしく長崎役のオ覚によるところが大きかったらしい︒その調達について現長崎役の龍田六左衛門が﹁兼而申組置侯訳も有之︵その筋に話を通してある︶﹂とていまどき新任が行っても役に立たずしばらく六左衛門を現役に留め贅治の赴任を四月下旬に遅らせてはとの藩の判断である︒だが賛治にも都合があったらしく二日後の﹁表毎日記﹂︵正月二十四日条︶には賛治の赴任をめぐってまたつぎのようにある︒

右者看品角調用龍田六左衛門暫被差留賛治儀四月下旬出船可申

付之旨頃日申渡候処難儀之次第被申出候趣承届無余儀相聞候︒

看品角調方之儀六左衛門功者之事ーー候故賛治罷渡角調方之儀申

談六左衛門今帰着候而者調方無覚束訳も候ハ︑六左衛門儀帰国差延候様賛治方かも中達候様——可仕旨可被申渡候。右之通ーー候

故賛治儀兼而被仰付置候通一一月中旬出船可被仰付候︒

右之通夫々可被申渡旨以書付与頭中江申渡ス︒

四月下旬の赴任では﹁難儀﹂と賛治が申し出たは奉行所役人との

交渉など六左衛門にできるだけ聞いておきたかったからだろう︒帰

国を延期するよう贅治からも申し入れよと年寄中の指示があるのは

長崎で丸四年をすごし六左衛門自身は早く帰国したかったからにち 与頭衆中 年寄中

参照

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