藤井教授古稀祝賀晩餐会記事
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 6
ページ 65‑83
発行年 1953‑12
URL http://hdl.handle.net/10114/9820
藤 井 殺 授 古 稀 祝 賀 晩 餐 命 日 記 事
L、 て 昭、 和 本 廿 学 入
教 年
震 宮
沢 廿 武 四 雄 日 光 ( 生 日
ノ 、
本 午 学 後 誘 五 師 時
膝 井 教 授 の 御 拶 挨 小 よ
西 り
j十 ! め 事 官 員 士 社 団 三 生 学 位 古 を 君 子 に 四 東
宇 野 京 長 三 叙 、 会 長 先 、 総 し 稀 招 ハ 宍 ・ 郎 京 国 都 慈 善 零 木 自 党 礼 生 文 長 た 祝 待 鐙 人 藤 先 主 大 帝 沼 践 亨 由 三 元 、 学 大 。 賀 し 紡 及 弁 生 野 学園~~女弘党輪侯理部内来晩て化び教方精
・ 大 校 子 元 参 寿 欝 学 長 会 餐 藤 級 長 授 司 養
東 学 女 学 文 需 拡 ・ 博 谷 兵 者 会 先 課 男 ・一会 計 北 ・ 史 園 部 院 代 右 土 川 簡 は を 教 長 光 俸 の に
務 九 初 理 次 議 議 派 黒 徹 先 本e開 授 ) 之 珠 下 於
国大学にて受業の諸先生︑日本歴史地理学会︑開国百任記念文化
事業会︑黒田家奨学会︑元維新史知縄基会の明治文化研究会関係
者福岡県出身者︑友人知己各位︑失れに木学卒業生の諸氏︑遠
︿は佐賀より︑広島より︑京都より殻んで来会せられた方合せて百
二十余名︑和気寵々の裡に︑滞りなく会は進行した︒
是日朝会後清朗︑上野の新緑叉絡別でるった︒
関
メ入
間
先づ小西四郎先生(東京大学伊‑斜絹芸所員﹀司会して開会
︑板 沢教授立って︑関人恨の趣旨と事業の経過とを述べられιぃ︒
O
板 沢 武 雄 先 生 ハ 本 学 教 授 )
際問越ですが︑実行長員の一人として藤井先生古稀祝賀会の経
過を御報告申上げます︒
藤井先生には本年三月二十五日︑目出度く古稀の寿をお迎え
られたのであります︒ととろが御覧の通り︑先生は非常なお元
気で︑今日お年寄めいたお取扱を申上げるのは如何かと考えた
のでありますが︑ヂは先生還燃の機会に︑早︿もとの祝賀の議
が持上りまして︑有志の聞に︑話が大分進行し允のでるりまし
六 五
たが
︑戦争のために実践を見なか
ο
たのでるります︒左様なことから今回は是非共お祝いを申上げたいといろ気持がより/¥
皆の聞に盛上って来たのであります︒取あえず数名の者が︑先
生の御内慮を伺いに参上いたしたととろ︑御謙遜な先生は初め
お受け下さいませんでしたが︑それでは折角なζ
と で る る か
ら︑皆様方に民るベ︿御迷惑の係らないような程度でやれJ
て貰
いたいと︑とういう
ととで御承諾を得ま
して︑早速皆様のお
手許まで御支援をお
願いする書面を差上
げた次第でございま
す︒処が早速御返事
がありました︒或る
先 輩 の お 一 人 か ら
・
は︑藤井先生のよう
な元気な万に古稀と
は何事だ︑よろしく
参議院に送れとうい
ろお叱りの手紙が舞
込 ん だ の で あ り ま
す︒これを以って見
ましでも︑先生を誰 場一ザ一
一か
一 一般
を
宵 ふ
況
勺zt包
六六
しもさようなお年寄倣いをしておらず︑今後益々先生の御活動
に期待をお願いしている次第でございまして︑弘同とも企画をい
たしました者も衷心から︑先生がいよ
f
︑御批健︑ます/︿1御活動るらんζとを念願する意味からとの会を催しましたζと
を︑ことに改めて閉らかにしておきたいと恩号のでるります︒
きて只今まで三百七十四人の方々から五百七十七口の醸金の御
賛同を憎まして︑本日は叉百二十九名の方々の御来会を得まし
たととは︑とれ偏に先生の人徳のいたすととろではございます
が︑叉各位の厚い御志の賜物で︑関係者一同感被いたしておる
次第でございます︒きて記念品代として接金を得ましたうちか
ら︑木臼先生の記念の撮影をいたしましたので︑との写真を引
伸しました額面をこ面調製いたし︑一面を先生のお宅に︑一面
を現に先生が主任教授として非常な黙意を以
ο
て護立てておられます法政大学史学研究室に寄贈さして頂きたいと思うのであ
ります︒で︑るとは近く来月の初めに実行委員会を聞きまして
清算の上︑残金を記念品代として先生に贈呈したい︑と考えて
おりますが︑詳しい報告は印刷物を以てお手許に来月初旬には
差上げられるだろうと存じますので︑この点御了承置を願いた
いと存じます︒なお先ほHf﹂司会者の方からもお註ぴ申上げまし
たが︑私どもの不馴れのた必︑木目はお席次万端行届きません
点が多々るろうと存じますが︑その点何卒御覧訟の上︑どうか
木タはゆる/¥皆様と共に歓を尽して頂きたいと切望する次第
でございます︒
なお最後に余分なようでございますが︑忍共が本タこの記念
の会をとの上野の精養軒に設けましたことについて一言申添え
ます︒一水わりますれば︑先生御夫妻には突にとの塀所において
華燭の典を挙げられた︑とういうととの縁るる場所を特に考え
て︑会場を選んだ次第でございます︒先生今日るるは全く先生
の御努力にもよりますけれども︑永い聞の令宍人の御内助の功
誠に大なるものらるととを私どもは確信いたします︒幸い木タ
は令夫人並びに御長男様がはるん¥御出席頂きまして︑皆様と
共に藤井先生御一家の隆盛を祈るととを得ましたととを︑司会
者
とい
たし幸いとして申添えてお︿次第でございます︒ハ拍手﹀
次いで日木歴史地理学会震事岡田章雄先生(東京大学史糾編纂
所員﹀の手より一同拍手の裡に記念品代を贈呈し︑次で木学総長
大内兵衛博士の音一凶にて一同﹁藤井先生万歳﹂を三唱して乾杯の
儀を行ひ︒次いでは旧藩主黒田家の当主黒田長礼理学博士の祝詞 らって︑晩餐の間諸氏立って祝詞を述べ︑藤井教授の学徳を碩し︑
其間左記諸氏より致された祝電等を︑本学竹内直良教授より披露
がらった︒
東北
大学教授 元京都稽国大学教授
元文部省維新史料編纂会編纂民
間郷の親友
参罷院議員
豊 田 武 先 生
(仙台
)
西田直二郎博士(京都﹀
岡 田 実 先 生 ( 鎌 倉
)
荒 木 駒 雄 博 士 ハ 福 岡 ) 常 岡 一 郎 殴
(広島の旅先より﹀
最高裁判所判事︑元九州帝国大学教授河村叉介博士(東京) 来 会 詩 氏 へ の 謝 辞 を 含 め て 教 授 の 姉 上 筏 崎 ち か 殴 ( 福 岡 )
賀藤井田町兄之古稀ニ首
一泊三井鉱山株式会社重役
元 三 成 金 山 株 式 会 社 長 肝 胆 傾 尽 比 同 胞 五 十 年 来 莫 逆 交
了得君家長寿
訣 一 水 天 時 不 愚 商 庖
田
山市 殴
燃犀史限如供庖
令室於君霊百世 治判附著編余汗牛
悶他栄耀佼時流 祝辞は黒田長礼博士︑本学文学部長谷川徹三先︐生'ご
一輪
寿批
代 議士︑小野秀雄教授︑努沼繁校女史︑柴田実教援︑岡田章雄先生︑
時野谷勝教授︑渡辺省三助教授︑垣見八郎右衛門殿より述べられ
た︒宴将に終らんとする時︑最後に︑一冗文部次官参議院議段級木
亨弘先生立って祝詞を述ベ︑議員の音頭によって﹁
藤井甚太郎先 生方歳
﹂を三唱︑一同唱和し目出度感宴を終った︒
﹂ 脱
露 宇
席上︑諸氏の述べられた祝辞の大援を設に録する︒
O
黒 田 長 礼 博 士 ( 旧 福 岡 藩 主 家 当 主 一 克 侯 爵
)
藤井教授の家と弘の家とは普から代三二百年の親密な間柄に
〆
、
七らります︒のみならず黒田奨学会という会を持っておりまする
がその会の理事といたして藤井氏は非常な努力をされ︑氏の
人格︑学徳等によって幾多の優秀なる学生をJ指導されて︑その
人逮が世に尽しました功績は︑少くないと思います︒とれは備
に藤井先生の指導の賜物でるります︒叉福岡藩の歴史につき研
究を積んでおられます︒福岡落からは古くは貝原益軒叉近くは
井上哲次郎先生が出
ておられます︒との
人々の残した業蹟.
殊に貝原先生は六十
代を過ぎた後におい
て︑学聞を完成され
たように承っており
ますですから今後
藤芥氏は養生をせら
れとの上とも長寿を
保たれ幾多優秀なる
業績をお出向しになる
ように希望すハる次第
でるります︒とれは
自分のことで︑甚だ
失礼ですが︑直接藤
井氏に関係のあると
谷 川 文 学 部 長 の 祝 辞
六八
とですから一言申添へます︒私が時間慢の何せを受けました時
に︑組先の歴史にラき極く不案内でるることが多かったため
.に︑特に藤井氏に妥蝿いたし︑隠持払の家で諮
問 団を ‑ 設
け︑
ー弘
夫
妻︑長男等が参席いたし︑藤弁氏から三四百年の昔か一現代近
くまで
my
一h詳しい歴史を放ったのでるります︒そういうよう
な関係もありまして︑今日ととに古稀のお祝いを附述べるとと
は︑非常に愉快でありめでたい次第と存じます︒(拍手)
O
谷 川 徹 三 先 生 ( 木 洋 文 学 部 長 )
藤井先生と一日政大学における同僚の故を以って.との府に参
上し.お祝いを申述べ宏す︒実は今日は日一高︑今の東大教養
学部で安倍能成さんの古稀祝賀会がご身﹄いまして︑忍は出席し
たばかりでるります︒安倍さんは同時芥先生より少し月にしてお
伎を宿されていますが︑今日伺いますと安倍さんのお母さんは
九十幾つまで御存命だった人で︑安倍さんも九十過ぎまで元気
でいろいろ活挺なさるだろうというととに一決したのでござい
ます︒ところが藤井先生も安倍さんに劣らぬお元気で︑只今の
祝竃によりぎすとお姉上はまだ叫郷里でお元気
hL
ょ︐
ヮで
ござ
い
ますから︑多分一家制長命のお家でらろうと思います︒
学校の問僚といたしましては.忍は一政弁先全が突に精励格
動︑若い人たちの先頭に立って
A
心にお仕事をなさって下さっているのを.常々拝見いたしているのでるります︒叉どんなζ
とに対して弘常に誠意を以って実に疎かにしないで尽して﹁去
ってゐる何で︑私ども平会非常に感心をいたし︑叉感謝もいた
している次第でございます︒
今日安倍さんむ祝賀の席では︑寮歌を歌い︑安倍さんも先頭
に立って若い人穴ちと一緒に会場を踊りまわったような状態で
ございました︒私は
一 漆
芥先生はやはり安倍さんと同じように九
十過ぎまでお元気で
お働
き頂ける方でるると存じます︒そうい
たしますと︑人生五十とすれば藤井先生はまだ三十のわけです
からどうぞ皆さんも精々若いお気持になって︑ζのめでたい
席を少しでも賑やかにして頂きたいと願います︒︹拍手)
︒ 三 輪 寿 世 先 生 ( 衆 議 院 議 員 ﹀
私は藤井先生の同郷の後設といたしまして︑今日とのおめで たい席に逮るζとを感謝いたします︒本日は誠におめでとうご
ざいま
す ︒ 判 仙 の郷里は︑丁度
の郷里‑ L豚井先生
と一 里程
度の近い所でござ
います3
出 品が 烹京に出て参りますると東京で同村の先設で今は
故人朋治大学の北崎進先生のお宅に
同 郷 の 学 生 が お 世 話 に な
り︑そとで郷塁出身
の学
生が︑いろ/¥と先議の話を伺ったり
いたしておりました︐その会合には必ず藤井先生がお出でにな
り︑怠ど
も因 企同 から 出
て参りましたばかり
の学
生で︑まる田舎
者でもありましたが︑併
し一 一回 に
は非常に生意気なようなとと
ろがあったと患います
が ︑
そういう学生を前にいたしまして︑
先生持前の非常に温厚な態度で而も親切に︑そして先ほどのお
ま 御 で 起 し 話
す 容 あ し た に
よ 貌 り ま ζ も
号 な ま す と あ な り し の を り わ 態 よ で 、 ま け 度 う ど も し で な が ざ う た
、 り 、 い 三 よ
そ が 私 ま 十 う / ア 叫 事W
勝 目 :L d cWIL
れ そ も す 数 に‑<0¥;;'
、 門
内町 二 号 弘之 正:;I!I." " ' , . ̲
穆 縄,...~..~ ほ の 叉 。l:̲'̲頃 年 先 に 意年 誠事 ~"lャ夕、、‘ 4 4 そ と を 生 な 溢
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.?;}i:Ct"4'勝
~‑ " " 込
拘~一 当 り り お ま るの余ともりれ4Ui' 守 ,時 変 ま 年 す 態
向って左より大内総長、三輪寿批代議士 に ら し を け 度
お な た お れ で
て 郷 申 い し れ と 編 生 の を の そ の の と ま き い 故 召 ど 色
も の し う で か し 基 の で 受 後 れ で 出 老 あ ま よ か し も 々
、 後 ま も の ら て 、 関 連bけ 輩 以 ど 来 成 言 し う 、 に ま 御
非 翠 し の お 学 の そ 治 り て と 来 ぎ た し つ て な ど な ざ 指
常 に た と 仕 校 お の 維 ま 参 し ず い 方 た て も 錯 う り / 導
に 対 よ 一 事 の 仕 他 新 す り て つ ま で 本 み 、 覚 も ま ¥ を 御 し う 緒 、 先 事 歴 史 が ま 御 と す る 当 ま 先 を 先 し と 受
親 ま な に と 生 、 史 料 、 し 指 向 。 て コ に す 生 持 生 Tこ 想 け
切 し 同 今 う と そ 家 の 先 た 導 郷 又 た 人 る は ち の の い ま
•
ノ
、 九
な態度で指導されたといラことを︑悲は皆さん方に御披露申上
げるわけでございます︒先生ますノ'¥お元気でおられますの
で︑まだお残しになっておるお仕事は多々怠ろうと思いますの
で︑どうかとれからます/¥とのお仕事の方面で御努力を顕い
まして︑大きな仕事を我荷
後輩
のた必に残して頂きますように
お願い申上げます︒ハ拍手)
O
小 野 秀 雄 先 生 ( 日 本 新 聞 学 会 身 長
・元
東
大教授)
突は新聞記者を長くしておりまして︑一つ新聞の歴史を書い
てみようという気になりまして︑それで初めて歴史学者の門を
潜るととになったのでございます︒その時に考えました一人がP
藤井甚太郎先生でるりました︒その時忍ども余ほど偉い先生だ
と恩ヲておった︒A寸伺ってみるとやっと七十にな包かならない
か︑忍すでに六十八になっておりまして︑忍より僅か二年先輩
で︑実は余り尊敬し過ぎたととを後悔しております︒(笑声)
そんなわけで藤井さんの本を読み︑維新の歴史なんかを知りま.して初めて歴史の面白さを知ったのでるります︒もう一人訟と
郷里の先輩で東大の史料に中村勝腕呂という維新史の権威者が
らりました処がとの方は余ほど政治的な感覚がある︑藤井先生
は絶対にないどとまでも学究なんです︒偉い人が世の中広島る
︐ものだと思って︑それからまる大変お世話になりました︒・辛う
じて七︑八年かかりまして日本新聞史を書
いた
の で あ り ま す
が︑そうしきしたら吉野作造氏が君の歴史は非常に面白
い︑
一
。
七つ明治文化研究会を設けたらどうかというお話でるった︒それ
は面白い朋治文化研究会を作れば色hな先生がいらっしゃるの
で大いに助けになるだろ号︑とんな話から尾佐竹猛︑石井研堂︑
それから宮武外骨︑外品目というのは吉野先生の教室で政治史の
史料を集めておった︒その関係で︑それからととに見えており
ます渡辺幾治郎先生︑とれは閉治史研究の先生で先輩でありま
すけれども︑此人達を集めねばならないというととから︑話が
進みまして︑どうしても藤井甚太郎先生は一つお願いしなけれ
ばならないといラ話が出た︒吉野さんは非常に偉い人で自分で
藤井先生宅に行かれた︒そして菅野さんの家で朋治文化研究会
を開きました︒まゆ由皆素人の集りで︑中で相当研究してをった
のは尾佐竹猛君くらいの・もので︑藤井先生が一番専門家なんで
す︒丁度明治文佑と徳川文化との閣の繋りを先生にいろ/¥指
道願って我々大いに得るとζろがらった︒それで同人連中の手
で明治文化全集というのを編纂した︒皆な真面目に仕事をした
のでるりますけれ
E
も︑どうもその仲間が非常に短命で︑吉野作造氏が一番先に死んだ︒尾佐竹猛氏が終戦後すぐ死んだ︑石
井研堂氏が終戦の一寸前るたりでるりましたが死にました︒宮
武外骨翁は極めて老年になった︒結局創立者同人は藤井先生と
忍と二人だけ︑そのうちに附治文化はだん/¥若手の仕事にな
りまして︑木村毅氏が世話しておる︒大分空気が変って来て社
会的な研究団体になクた︒一つ藤井さんどうだろ号本当に研究
の好きな人々が集ってやろうじゃないか︑とい号話を忍はしま
した︑藤井さんは非常に賛成されその後も︐大分賛成がございま
した︒ところが御承知の述り皆引ばり廻されて︑なかなか明治
文化研究会を作る折がない︒どうか一つ若手の方で本当に好き
だという方をお世話なすって組織して頂きたい︑我々喜んで参
加いたします︒まらそんな配で大変に篠井先生にお世話になり
ました︒第一の社会先笠です︒との人に参られ
一 や
と弘はその次
に伐る︑どろも尻が落つかない︒さつをも藤井さん一つ百才ま
で生きて下さいと大いに激励した︒どうか藤奔さんお仕合せ
・
で︑奥さんも御批健で︑立派な御令息をお持ちで誠にお羨し
い︒割払も家内は持っておるが︑子供がない︑人がいい子供を持
っていると羨し︿てしよろがない︒ハ笑声)誠に藤井家は多事
多福でるりまして︑とれから何年生きられでも︑藤井さんは誠
に社会のため︑学界のたる︑叉国家のためになるのでるります
から︑どうか百才の長寿を保たれ︑立派な業績を残されるよう
心からお願いいたします︒甚だ信越でるりますが:・︒(拍手)
O
捕者沼繁枝先生︿実践女子学園理事長)
‑藤弁先生お目出度うございます︒先生が一憎がたい学者で︑人
格者でいらっしゃるととは︑忍申上げるとともないと思いま す︒昭和六年から私のほうの実践女子学園も大変お世話にな
り︑或るときは専門学校の校長として︑叉大晶子になりました時
には色々とお世話様になったのでございます︒殊に戦災を受け
ました時に本が一一怖も残らず焼けてしまいました後︑図害館長 として︑なりもふりもお構いにならない方なんですけれども︑大きな本υ包を背負っていらづしゃって頂いたり︑いろ/¥お
世話になりました皆様おっしゃいましたように︑お元気でお
若うございますから︒実はもっとお若いかと思っておりました
のに︑今度古稀と伺ったものですから.それではμ﹂うぞ忍共も
一絡に参って祝わして頂きたいと思いまして︒伺ったわけでご
ざいます︒どうもいろノ¥と長い間お世話頂きました︒どうぞ
先生お元気でお栄えになりますように︑叉出品どもの学校もどう
ぞお世話頂きますよろに︑お祝いを粂ねましてお願い申上げる
次第でございます︒(拍手﹀
O
柴 田 実 先 生 ハ 京 都 大 学 教 授 )
京都大学で藤井先生から教えを受けました一人として︑との
席に迷るととができましたことを︑大変喜んでおります︒先生
が初めて京都大学に維新史の講義においでましたのは︑たしか
大正十四年のととと思います︒当時忍はまだ入学早々でしたが
その翌年その議謹に連るζとができたのでるります︒先生の御
講義は極めて行届いた・短い期間の聞に維新史のすべての問題
に豆って洩れなくお話頂きましたばかりでなく︑これから先維
新史を研究します者のζとを考えて︑いろ/¥と史料とか︑な
お研究の残されている問題とかを御指示を頂いたのでありまし
た︒其頃御出版になった明治維新史講話は恐らく京都大学陀お
ける御諮義が一つの縄線になったのじゃないかとひそかに拝察
七
いたしておりますが︑るの書物は今日明治維新の概略を知る上
に最も簡採にして要企得︑記起が一番正融で信頼のできる書物
だと思っております︒御議義中藤井先生はかりそめにも皇室に
対する不敬などというととは一度もなく︑敬意を払っておら
れ︑叉徳川将軍家とか︑或いは旧藩主黒田家などについても︑
はいつも我々に話す時に敬誌を用いておられた︑出品には印象的に
残っておりまして︑それは先生のお人柄の然らしむるととろで
るろうと存じますが︑歴史家としての先生は過去の人物に対し
ても極めて同情的な見方をなさって︑それが勤皇の側に立︒た
人でるろうと︑佐幕の側にらった人であろ号とそれらのそれ
︐ぐの人物がそうせざるを得なかったその地位︑境遇等から来
るところの苦衷とでも言うととろをよく汲んでお話なされまし
た︒当時怒どもはまだ若かったのでありますが︑維新のような
烈しい変革¢ときに当つては︑進歩的な立場に立つ人も︑保守
的な立場に立つ人も共に時代の制約を菟かれないで︑市も最後
は時代の方が先へ其等の人をとり残して行くというようなとと
ろが︑ひどぐ感を受けたととでらりました︒先生は単にそうい
うよ号に過去の人物に対して同情的に親切な見方をなさってゐ
るばかりでなく︑判私ども後進の者に対しても非常に親切で︑我
々が学生として東京へ見学放行に参りますと︑維新史料編纂会
の所蔵史料の縦覧とか︑黒田家などの平常容易に拝見できない
ととろの古文書︑あの有名な渓委奴国王の金印など︑我々学生
として拝見のできましたのは︑突に藤弁先生の御齢制旋
によ
円
Jた 七
ととと未だに深︿感謝いたしておる次第でるります︒先生はそ
の後昭和のはじめにヨlロyパへ史料の採訪にお出かけに♂り
ましたので︑そのお留守の聞は同じ維新史料編纂会の今は故人
の大塚武松先生が代って京大においで下さっており︑その後た
しか臨年交替くらいで昭和の十四︑五年︑ちょっとζの辺正確
でございませんけれども:・:::︑其頃までお越し頂いておりま
したので︑前後恐らく十数回お越し頂きましたと恩いますが.
先生の門に学びました者も京都に相当多いのでるります︒今日
もとの席にもっと大勢上るべきでらったのでるりますけれ
E
も.
いろ
/'
¥の
差支えができまして来られなかったことを皆残
念に思っておりまして︑出品から代ってお詫び申上げます︒戦後
一時大変お老けになったようにお夙受けしたことがらったので
るりますが︑昨今叉すっかりお元気におなりになヲたようであ
ります︒まだお元気で御活躍るらせられますことを
ζ ζ
にお祈
り申上げます︒(拍手)
O
時 野 谷 勝 先 生 ( 広 島 大 学 教 授
﹀
甚だ信越でございますが︑藤井先生に非常にお世話になった
関係で︑一言御挨拶申上げます︒今から二十年前︑昭和六年頃
に︑先生が京都大学の講義にお見えになりました際︑出品は受議
者でございます︒その前年︑先生がヨ1ロyパに御留学になり
非常にスマートになられたそのお姿に最初に接したわけでるり
ますが︑京都でのいろいろな学問的な︑とれば只今柴田教授か
らお話がございましたので省財附いたしますが︑ただ払ども学生
としまして非常に先生のお人柄に親しみを感じたわけなのでご
ざいます︒当時の教授の方A
より
一 一層人間的に非常に親しみ在感ずる︑まあ平たく言えば親父のような感じを持ったわけなのでるります︒事実叉忍共のような学生を自分の子供として寄せ
られておりまして︑打らけたととを申上げて恐縮ですがその
当時︑幾許かの京都大学からの謝礼が﹃公式に出たわけなんです
が︑先生は京都で貰ワた謝礼は一切京都で使って帰る︒とんな
金は東京まで持(Jfv帰るつもりは毛頭ない︑そういうお考えを
とられまして︑割払どもにしきりに奪︿Jて下さるわけなんです︒別にまらそれに買収されたとい︑ととを申上げるわけじゃない
のですけれども(笑声)︑とにかくお茶でも飯でも金のある限
りは奪って下さる︒そういうととで今でも親父の腔をかじる伴
というふうな気持で先生に接して参ったわけなのであります︒
その後私︑大学を出ましてから後︑文部省の維新史料編纂事務
局で︑再び先生と閉じお部屋でお世話になりました︒実は本タ
維新史料編纂会関係の方が多数見えておりますが.忍Hf
﹂も
がと
れを代表しましては甚だ信越なのでございますが︑忍が結局御
挨拶申上げるわけなのでございます︒やはりとの維新史料へ入
りましてから後も︑親父的な風格はちつと'h変らないわけなん
です
︒
現在弘ども三
等教授
か四等教授くらいをやっております
けれ
ども
︑
藤
井先
生に見
習っ
学生や助手なんかを警ってやろ号という志だけはあるのですけれども不可能なんですハ笑声)︒
そういう点でまだ先生のお教えを実践しておりませんけれど
も︑維新史料へ入りましてから後も叉教職に就いた今日まで終始その
耐 胞
をか
Cり続けて来た一人なのであります︒実際お見
受け申上げますと年と共に非常にお元気になっておられます︒
まるいわば現役のちやき/¥でございます︒願わくばまだ/¥
将来長く活躍されまして︑慾を付加えますれば忍ども伴どもが
もっとその腔をかじれるように︑こういうふうにお願い申上げ
る次第でどざいます︒(拍手)
O
岡 田 章 雄 先 生 ( 日 本 歴 史 地 翠 ナ 会 理 事 )
白木歴史地理学会は︑御承知のように非常に古い学会で︑判仙
のような末席を汚しております者が代表としては︑非常に借越
なことでございますが︑都合によって私から御挨拶を申上げま
す︒お目出度うござい交す︒承りますると先生は初めて日本歴史地理学会に御関係になったのは吋治三十九年︑それから明治
四十二年︑先生がまだ学生内頃に太宰管内志八十二巻の校訂を
して日本歴史地理学会から出版になられたというお話でござい
ますが︑その頃ですと︑まだ弘な炉﹂は母の摘出の中ですや/¥と
眠ってい↑頃でどざいます︒その頃からすでに歴史地理学会の
為に非常に立派なお仕事をなさいまして.長い聞いろノ11今日の斯会の発援の為に御苦労を賃ねられておりましたが︑広が幹事をしておりました時に︑終戦前に雑誌を一旦休刊の止むなき
に至りましたととは本当に申訳ないと思っております︒殺体内非
七
常に物資が窮乏し︑叉雑誌の再判な
P
は到底おぼつかないような時期に当りまして︑先生がいろ/¥御奔走下さいまして︑新
しく﹁歴史地理﹂の再刊の途を開いて下さいまして︑その途に
従いまして︑出私どもが僅かながらのカを援って参ってゐる次第
でどざいます︒先生にはいつも忍
E
ものために月々の例会戚いは理事会に必ず御出席下さいまして︑・後輩のためにいろ/¥御支援を下さいまして︑叉何かといろ/¥お世話下さいまして︑
悲たち一同木当に心から感謝申上げている次第でございます︒
(拍
手﹀
︒︑渡辺省三先生(大妻女子大学助教授︑法政大学卒業生﹀
藤弁先生には非常に御厄介になりました︒先撃の方も全国に
少くとも数千の方がいらっしゃるととと思いますが︑Hとちらも
今日のお祝いを非常に喜んでいらっしゃることと思います︒定
刻前から既に諸先生から︑先生の御高徳についてのお話がござ
いましたが︑割払はまる藤井先生の片鱗を一一︑三申上げて見たい
と患います︒先生は全︿出品
P
もの学生達の中心でるられまし
た︒学校などでは︑率直に申すと.一部の学生達にはやんちゃ
共が沢山おりましてなか/¥面倒でございますが︑藤弁先生は
謹直な者達は無論やんちゃ共
4
非常によぐ敬版いたしておりました︒とれは偏に先生のお徳のしからしむるところと思うので
ありますが︑叉藤井先生の︑多年御研醐酬を経られました御研究
やら︑いろ/¥の点が︑掌生遥を圧倒的に心服させたと恩号の
七 四
であります︒今お話がらりましたような美徳がたくさんござい
ますが︑非常にいいととろがあるのでるります︒前かがみの︑
少し猫背のお姿でありますとか.お国言葉ま
ο
りのユーモアたっぷりのお話振りとか︑それから非常に丸いくるくる回転する
お限玉とかいうよ号なものが︑非常にチヤl
ミ ソ グ で る り ま
す︒学生還も藤井先生には︑一歩を置いておりました︒いづも
忍どもが藤井先生にお眼にかかりますと︑社者を凌ぐような︑
非常なお元気なお姿でるります︒これには非常に忍も篤いてお
ります︒これは先生が歴史の犬家でいらっしゃるものですか
ら︑例の秦の始由量出閣が手に入れなかった不老長寿の︑何かホル
モシをお見付けになりまして︑とっそりと常用なすっているの
ではないかと思っております︒(笑声)どうかまる我々にも一
︒︑特別講座を闘かれまして︑藤井先生の教え子や︑叉藤井先
生取巻く縁故者に︑先生の長寿法を御伝授頂きたいと思いま
す︒還暦︑古稀は勿論のとと︑米寿までも︑不老長寿を全うせ
られたいと願うのであります︒(拍手)
向当日は藤井家祖先の縁家垣見八郎右衛門氏より藤井教授の謝
辞に因んで祝訴を述べられた︒
O 垣見八郎右衛門殿
=一
百年
前の
緑ありと話された垣見です︒昭和三︑四年の頃麹
町区史編纂の為︑御訪ね申したのが初めで︑教にコ一百年の縁が
匙るのでるります︒只今話された通均一垣見が出陣する︒その後
を藤井先生の先祖が引き受けられた一疋一玄︑これは私方の系図と
合致する︒そこで親族の交際をいたし︑十三年前に長男次男の
結婚式にも仰列腐を願った︒終戦後お互に文通が中絶していたが︑先頃日本工業倶楽部に参りま
した
時︑
藤井さんの消息も判
り︑交際いたしています︑此度は関西の方への旅行から去る十
九日帰ると御案内を受け︑出席いたして︑心から御喜びを申し
ます︒(拍手)
謝 語 字
O 藤井甚太郎先生
今日は誠に有難うございました︒実は私︑古稀の祝賀の会を
お聞き下さるような日に会う
とい
よ
Jことは︑毛頭考えていなか
った︒然るに今日は︑諸先窓及辱知がたが多数御参集下さつ
て︑此丈の盛大な宴をお開き下さったととを︑実に心から感謝・を致しております︒私ばがりでな︿家族の者までもお招き下さ
って・との者共も親爺はそんなに偉かったのかなると疑いながら難有かつていると思います(笑声﹀︒家内もとれは何十年か考えが違っておったと考え・明日るたりから私に対すゐ態度を
変えゐのではないかと思います@ハ笑声︑拍手)︒併し忍が今まで皆様方からお褒のお言葉を頂戴いたしたが︑穴にでも入り
たい気持であります︑当節柄大分心臓を強くしておるのであり
ますけれども︑誠に恐縮いたしております︒あれは藤井に対
するイソフレlの評価でるりまずから︑平価切下げて御聞取援
を願いた・いのでるります︒先づ訟が世の中に出まする時の︑最
初の第一歩を申上げて置きたい︑これは私が︑如何︐に今日の御
催しを有難く思っているかといふ事の材料にもなり︑叉先ほど
お話のるつた長持法にも関係のらるととでるります︒(拍手)
忍は中学を出まして︑それから上の学校に進む学資もなけれ
ば︑勿論学才もない者ですから︑郷里の小学校の代用教員をし
なければならん︐ものだと︑深く覚悟をいたしましてそれから
先多少の地位の上りますことは︑とれは儲ものだという考え方
をいたしていたのであります︒偉いお方の伝記を見ますと﹁幼
にして犬志るり﹂と書いてらりますが︑忍は幼にして︑実に人
生の下の方を標準と致して来ておるのでるります︒昭和十五年
の十二月に︑今上陛下に御進講の光栄を得ました︒との時にも退
下いたしました後に︑自分も流れ流れて︑とう/¥御所の御学
問所まで来たという気持で怠ったりでらります︒つまり忍の人
生の標準は常に小学校の先生にらった︒
A7
から考えて見まする
と︑中学卒業の時に境遇上のシヨツグを非常に強く受けたのじ
ゃないかと考えているのでるります︒でるりまして︑今日とと
まで参りますに就ましでは︑私自身の努力︑私自身の天から亨
けている才能というものは︑少しも無いのでるりまして︑自分
が偉いなどというととを︑曽て考えたととはない︒自分はつま
らない者だと.常に考えているのでるりますBとれが私のいわ
ば処世観と申しまするか長寿法と申しまするか︑人生標準と
七 五
なっているのでるります︒でるりますから︑ずっと今まで来ま
した跡を摂返って見さすると.同分でやったととは少し・もな
い︒皆人様のお蔭で参っているのでありまして.全︿他力木願
の仰い蔭であります︒とれを具体的に申しますると先づ高等学校
まで行︐
¥卒業した︑では大学に行ってみょうか︑そしてとも
かく大学まで流れて︑卒業をしました時に︑ハタと困った︒学
生時代は義兄から学資を貰いましたが︑卒業すると左燥には参
らな
い︒
明日から裁械をしないと︑自分一人が路一闘に迷うのみ
ならず︑老い穴両親が路頭に述ふので︑心配をいたしていまし
た︒実は私は高等学校に入学しました時.合受千円也の生命保
険をかけて向今日もそのまL続けています︒今私が死去いたし
ますと︑割払の体よりはとの洋服のほうが十倍位高いのでありま
す︒幸いに占企十卒業の時に︑渋沢青淵先生の山門家に︑十五代将
軍徳川慶喜公の伝記の編纂が始まっていました︒それに先ほど
お話になりました日本歴史地理学会の幹事を致させて頂ていた
お蔭で︑喜田貞古口先生や︑藤田明先生U御推挙︑三上参次先生
萩野由之先生のお世話になりまして︑徳川慶喜公伝記編纂所に
御採用して頂いたのであります︒そこで一年も前から非常に心
国をいたしていました就職に就いては一日4失職の箸痛を体験
しなかった︒これは全く渋沢青淵先生のお蔭だと︑今日でも
思っているのでるbます︒この編纂所Kお世話になヲていまし
た中に︑紘一新史斜編纂会というのが文部省内に出来ました︒と
れは維新の史料を編纂するのでるりまして︑殊に維新の史料編
七六
ノ纂でらりまするから︑管の藩とい号ものの色彩を非常に持ヲて
おる編纂所でるります︒ときの副総裁が︑同じ福岡惑の出身で
るります金子堅太郎伯でるりました︒そこで弘が︑先ほどから
お話のらりましたように︑福岡落士の家の者でありました関係
上︑維新史料編纂局の方に参れと金子伯から繰返し申されたの
でありますが︑その時に本が申しました︒前払は渋沢車問淵先生の
お蔭によって︑人生の一大事︑﹁分れ目と一疋ふ就職について一日
も失職の苦痛を嘗めてはいない︒とれは感謝に犠えない︒で主目
淵先生の御意思に反して︑自分の進退は一切せないのだと金
子伯閣に申したのであります︒それでは自分が渋沢子留に会って
お話をしようということで︑知町の渋沢子留の事務所に伯がお
出でになりました︒そのときの話に︑藤井け膏淵先生に対して
非常に御息女感じているけれども︑とれはまあ十年の御恩だと
思う︒併しとの度のことは︑事旧落︑王の黒田家に関係のあで﹂
とでるって世駒井家が黒田家から御恩を受けているのは一二百
年︑(笑声)十年と三百年は大分違ょうでるるから︑どうか
藤井の身柄は私の方に下さい︑(笑.戸)と金子伯がいわれて︑
それでは半分分けにしようということになりまして︑
(笑
声)
一週間の内に三日渋沢編纂所に行き︑三日は維初史料編纂局の
方に勤めたような次第でるります︒それから叉今日は京都大学
の方のかたがお出になっておりますので︑これに就きまして︑
一事申しますが︑坂口昂先生が文営部長でちりました︒
町払
に諮
師になって参れという話がるりました︒そのときに︑維新史料
‑
e繍纂局の方には︑悲よりも先輩が玉︑六人おられる︒それに忍
丈が京都大学の諮問になヲて行くととは︑引払と深い関係のある
金子副V裁としてはちょっと立場に困られる場付でるる︒で
忍dh種々お願を・いたしたのでありますけれども仲立許可が局 の方で出ない︑或る時に局長から・一との事に就いては金子伯
と君とが同郷でるるととを︑君に対して同情する﹂と︑いわれ
ましたので︑それならばよe判ります︒それでよろしうござい
ます︒私は︿円子伯を苦しい立場に追い込もうという気は無いん
だからと申しました︒それに対する坂口文学部長の御処置に︑
忍は今以ず感制限をいたしているのでありますが︑まる普通に考
えますれば︑それδは致し方が無いと挨拶されてお終になるの
でるりますが︑その時に坂口文学部長はそれではこの話は保留
しようといわれました︒それで翌年に︑叉その話が出ま
υ
た待に︑金子伯も︑そう二度も重ねていうならば︑とれは承知して
も同僚の皆さんに対して非難も受けないだろうから︑といわれ
まして︑今柴田教授からお話がらりましたように︑大正十四年
度から昭和の十七︑八年頃までですが︑十数同議義に参った次
第でるりますe今京都で貰った金は京都で使うんだと︑偉そう
なととを広がいったよう仁お話がるりましたが︑そんな偉いζとでも何でもないのでるりまして︑忍はよく学生に言っておっ
た︑自分は文部省で月給を貰っており︑京都の方でも叉金有貰
って
いる︒二重に貰っておる︒るなた達︐親の腔かじりだから
僕がコーヒーをご馳走す一三(笑一一円﹀けれども︑学問上の話は しない︒学聞の方は︑皆先生方がやられる︒とれから先諸君が卒業しての後の世の中と申すものは非常にむつかしいのだ︑
君遣は書物に書いてるるととは︐何でも読めるのだから︑それ
を今僕がいふ必要はない︒審物に書いてない世渡りの途を︑こ
れから教えるから︑(笑声)それでひまのらる岩は︑一一絡にお
茶を飲みに来なさい︒と申して連れて行った︒決して買収する
なんといラ︑(笑声﹀そんな卑怯なととはいたしません︒そし
てお茶を飲みながら世間話をいたしました︒例へば一東京の丸ピ
ルのように化粧煉瓦をして一分の臨も無い建物は︑見た処如何
にも奇麗でるるが︑雀一羽巣を懸けない︒廃媛のように煉瓦が
落ちたり嬰れたりしていると︑雀や鳩や烏も巣を営む︒人間も
同様︑人の上に立つには少しは人聞に隊闘がなくては子分が出
来ないとか︒宮木武蔵と云う叙道の達人は長短二木の木万を持
って
いる︒世の中が六同一致な↑﹁と︑諸君も二木を持って世や波
︑らないと路頭に迷うとか︒国一万に親のいる学生は︑一一一度の食
事は二度にしても親の急病と聞いて帰国の放従丈は常に肌身を
離すな︑僕は親の病気の急電に接して汽事賃を工面して一日帰
国が後れた為め親の死白に会はないで一生取りかへしのつかぬ
一大恨事を経て来たとか︒凡て世の中のとしr湯加減と云ろとと
を考えて処して行きなさいと一弐?つことなど︑四方山の俗事を話
して聞かせたのであります︒
今申しました宮本武蔵のととでありますが︑町松は幼少の頃か
ら宮本武蔵の二刀流の級術を教はっていて︑例の阿呆椿で世の
七七
中を渡って来た︑何
処か
らでも相手から打ち込まれる様な︑隙
間だムけで七十年を過ごして来た︒是れは叙術の修業から来て
いるのではなくして︑本来の阿国木からでるって︑大極は無極と
一致する訳でるりまして皆人様がよいようにして下さった︒
維新史料編纂会に三十余年御世話になりそれから実践女子学
園の竹内前理事長怒沼場理事長の御世話で実践女子専門学校
長となり今実践女子大学の教授を粂任いたし︑叉開国百年記念
文化事業会の理事を勤比りますのにも羽田会長銀木元理事長日高
現理事長等の御世話になり︑浅政大学に奉戦いたしますには竹
内丸山両教授等の御推挙によって大内総長谷川部長の御世話
になワていますような次第で︑皆人様の御世話にばかり咋って
います︒独り先笠諸先生から引き立てられたばかりでなく︑若い
方々の御世話になっています︒先に申しました御進講の光栄に
浴しました時な
E
も︑心当りの筋?を探しましたが︑設が推挙し たのか︐一週間許り判らない︑漸く怠よりも後輩の山田侍従が言い出し︑石川東宮伝育官長︑今の国学院大学長ですが︑御推挙
して下さづたことが判り︑急ぎ御礼に参った様のこと.ですか
ら実を申せば︑今日の会の知きも︑出品よりして七十年間御世話
になりましたと一腐を設くべきが順当でらる位に
思 っ て い ま
す︒従って今夕の会は一入感削いたし℃います︒相変らず先輩
からは引立てられ後輩からは推され︑流れ流れて今日に至った
のでるります︒推され引き立てられながらも︑自分はつまらぬ
奴ぢやと常に考へています︒左様な心構ですから︑一一回から見
七八
ますと︑忍の行動が非常に鈍な処がらります︒そこで今日御出
席なさっている吉田常吉サジが︑かつて忍を評して︑﹁藤井先
生は石間聞を叩いて渡らぬ人rりや﹂と評せられた︒此は確かな批
判で︑木人謹みて御請を申します︒
先程三輪サγから若い頃の御話がありましたが︑此席を借り
まして︑三輪サシに御詑を申さねばならぬととがあります︒そ
の頃何かの会の帰りに︑日本橋の方から須田町の方に︑三輪サ
シ達と一一絡に徒歩で本郷の方に向って歩いて参りました︒確か
犬正十二年の震災前でるりましたが︑三越の居頭に金物の
イ‑ 7
オシが据ってありました︒出品一元来野次馬でるりましたので︑そ
のライオシに乗って見たくなった︒処が御覧の通り私短身尺足
らずでるりますので︑乗れない︒処が三輪サシが︑では拡が踏
ムロにならうと云って︑四這になられた︒そとで三輪サシを踏台
にして︑一フイオシに跨ワてよい気になりました︒今考えて見ま
すると︑誠に勿体ないととを致したと考えています︒今深く御
詫びを申し︑定ねて三輪サシの御性格の片鱗を申し上げまし
て︑国民の為めに喜んで踏台にせぜられる方でるるととを︑特
に東京都第三区有権者の方に御紹介申して置きます︒
向先程司会の方より御話のありましたが︑或る方よりして忍
を参議院に送れ一玄一去と申されたとる旬︑ましたが︑車︿は忍も政治
には興味を有していまして︑昭和十年頃立候補の野心を蔵して
いまして︑懇意にしていました政友会の領袖の小泉策太郎老.
とれは御承知の方もあるかと存じますが︑三申と号し名文家で
らり︑かつて横田千之助氏と詑ぴ称せられた政友会の大策士で
あります︒との人の鎌倉の邸で朝から晩迄話しを致して有候補
の相談を致しました︒処が三度
m u食
一 耕
よりも政治が好きの
同氏
が︑政党界奔走の苦心主として党門小会派を繰縦する苦労と金
のかLる
こと
を打ち明けて話して呉れまして︑その苦労と金を
学問の研究に費した方が︑君の為でもらり国の為でもるると︑
懇々
と申して呉れまして︑立
候補
一件は止めた訳でるります︒
併し命多少の芙方面への野心は残っています次第でるります︒
斯くの如く忍は何の目的もなく・目的の無い訳ではるりませ
ぬが︑マア見込もなく期待もなく人生の流れに縛して移りまし
たが︑世の中と申すものは︑不思議なものと申しますか︑顧る
と四十年も近く︑維新史と申す極るて狭き範囲の研究に朝から
晩えで毎日俊一践しながら︑飯を喰って来たのでるります︒維新
史と申せば日本歴史の内でも僅かに三十年だらります︒それ丈
を四十年近くもやワて飯を食︒て来たというのは︑此れは百万
長者の御曹子も出来ない幸運でるります︒その幸還を払が天か
ら授かっている︒とれは誠に難有いことでるる︒斯る幸福を享
けながら学界に忍がバットしないというのは︑実は此の研究が
役所の仕事であります︒官仙の研究の史料の蒐集なP
﹂も
官費
でら
ります︒それからこの史料の蒐失も十数名の同僚の力が加はっ
ている︒ですから忍は維新史に関する論文な
E
は自分一人の力で出来ているのではないこれをよく心得ている︒維新史料編纂
会官制の廃止の時に︑修史の勤功を以て従三位に絞せられ勤四 等旭日掌を拝受いたしました︒もう此れで沢山でるります︒かくの如く七十年を楽に過して来たのは︑偏に渋沢青淵先生
金子堅太郎伯田中光顕伯の御蔭でありますが︑向簡易科小学校
時代いろはより教はった諸先生︑中学・高等学校・大学の諸先
全方︑叉社会に押し出して下さワた方として京大関係では坂口
昂先生︑三浦周行先生︑西国直二郎先生︑東北帝大関係では古
田良一先生︑九州帝大関係では長沼賢海先生︑撃目察譲別由一防関係'では石原雄二郎君満洲国憲法起草関係では金森徳次郎先生︑
日本歴史地理学会を通しては喜田貞吉先生︑藤田問先生︑吉田
東伍先生︑明治文化研究会を適しては吉野作造先生︑尾佐竹猛
先生
︑国
自民
会を
通しては徳富蘇降先生︑其他山口八十入氏︑長
尾欽磁氏在米中御世話になった奴西志保女史方に対し︑此際厚
︿御礼を申します︒特に中学修猷館の生徒時代に水弁文古口先生
の学問上の感化を受けたととを御礼申させて頂きます・
倫私事を申しLLげて誠に恐縮ですが︑私に健康体を授けて下
さった父母に感謝いたします︒父母は老年でありましたので︑
時十生時代休暇中はすべて農業に従事致しました︒無銭放行もし
て見たい︑海水浴にも行って見たいと思はないではなかった
が︑且民事に日も足りない︒夏の照りつける日茅畑の草取り︑反
射する地熱と青草の葉のイキレ︑今以って苦しさを覚えてゐま
すが︑それが今日の健康体の基となっています︒今は働かせた
父母に感謝しています︒向学業に志さして呉れた篠崎辰次郎と
申す義兄に対し叉私の遊学中老父母の面倒を見て呉れた藤沢元
七 九
医と申す義兄に対して感謝いたしています︒引品事を申し上げて
誠に恐れ入ります︒
ぬ同
出品
が若
返っ
てい
る理
由の
一
yに︑私は五十余才までは子供
でらったととでらります︑当時私が非常に御世話になり御面倒
を見て頂い趨方が皆九十才前後の老人でるりました︒日く渋沢
青淵子震︑金子堅太郎伯爵︑田中光顕伯爵︑若い処で徳富蘇峰
先生︒かつて忍が欧米から昭和六年に帰って参った時︑田中光
顕伯が岩淵の俺の別荘で暫らく休養せよと申されましたが︑出血
は帰朝の翌日から平常渇り出動している位ですから参らなかっ
た︒すると一日招かれて参った︒同席は木山大毎社長と徳富先
生︑円卓に四人︑御互に年齢の御話が出て忍は九十円た愁は八
十げた︑弘は一廻り下の七十円た︑と町一目されているが︑弘丈は﹁君
は幾才か﹂と尋ねる方もなかった︒とんな風ですから年の取り
ょうが無かったので・あります︒世間ではよく老人は若い人を側
に置くのも若返りの
一方
法と申しますが︑老人に交るのも確か
に不老の万法と存じます︒
左様な次第で︑何も私自身でやづたζとは︑ないのでるりま
す︒すべて皆様のお蔭によって︑ζこまで参っております︒従
って自分が偉いというよろなととを.確信したことはないので
るりまして︑たど身体の強健に任せ︑務める丈は一川懸命に努
力しています︒今日は又皆さまの御同情御尽力によりまして︑
とろして私古稀の祝宴を聞いて下さいましたととは誠に有弘
︿思クております・よく人からお話があります︑君は七十才の
i¥ 0
古稀どは思っていない3まだ若い︑少し年の鯖読みをしている
のじゃないか︑叉先日柳田国男先生は︑藤井の七十の祝をする
とお聞になって︑いやられは八十だ︑僕が藤井君を知ってから
は随分古いのだが八十じゃないか︑といわれたそうです︒その
開聞きが大分山岳町ます︒ハ笑声)との先も始終お世話になると
とと思います︒若い方にもお世話になります︒よろしくお願い
いた
しま
す︒
ととにちょっと一言︑忍加えて申上げておきたいと思うので
ございますが︑国許の姉が非常に喜んで︑皆様にお礼を申上げ
る電報を打ちました︒前払からも妨がお礼を申しておるこ
とを
︑
皆様にお伝え申し上げます︒それとなお一
ο
︑と乙に忍の遠い親類であります垣見さんがお出でになづております︒とれは麹
町にお住いになって和泉屋の屋号明泊問屋をお手広くしておら
れる︒実は今日は︑宝弁馬琴君にでも来て貰ヲて︑一席先祖の
御話をお願いしょうかと思っておりましたのですが︑忍から議
談として一席申し上げます︒割払の先祖が︑摂州池田の城主池田
筑後守の一一家老十勤めておりました時に︑池田家が断絶を致し
たので︑浪々の
身と
な︹
Jた︒その時の長田
町の
家の
拭闘
が︑
前女
子
学習院の教頭佐成謙太郎君の家︒とれが井伊家に仕え藤井の弁
の字と︑弁伊家
u u弁の字を問聞かり佐成姓となっています︒真中
の姉が豊後富来の城主垣見和泉守の室になヲた︒ととろが丁度
関ケ原の戦の時︑との垣見和泉守が石田方で大垣に出陣をさ
れる︑そとで義弟即ち弘の家の先祖が︑富来の城の留守誉を致
している号ちに︑とれは黒田博士の前では申上げ難いのです
が︑黒田如水公から攻められまして︑(笑声)夜討をかけ︑城
を杭に討死をしようというととになりましたけれども︑るの頃
は戦国の際で︑今の言葉で申しますと︑人的資源を︑非常に重
︿見ていました︒降参した者はなるべく助けゐというととであ
りまして︑既に関ケ原の戦に勝敗が判った以上︑城を枕にした
処で犬死じゃないか︒おれの方へ来いということで︑黒田家に
お仕えをいたしまして何千石かの大変な高松を頂戴致しており
ましたのであります︒これが先ほど金子伯が今の甚太郎君が渋
沢家に受けた恩は
十年
︑
黒
田家
に一
交
げた恩は三百年だとJ
一 一 日 は
れたわけであります︒その先祖の一一一兄弟の姉の連添の子孫の垣
見さんが︑との席におみえ下さっておられます︒生きておりま
す姉が喜ぶのみならず︑三百年以前から藤井家の人々も垣見さ
んを通じて喜ん花いられるζとと︑存じます︒
街皆さま方非常なお多忙の際︑まげて御出下さいまして貴重
な時聞をお費し下さいましたことを厚く御礼を申し上げます︒
甚だ長くなりまして誠に恐縮に存じますが︑板沢教授から上野
符表軒を還はれた理由のお訴がありました︒御心尽しの程厚く
感謝いたします︒今迄の話では藤井は貧乏者であったのが何で
とんな処で披露をしたかと一去ふ御疑念がるるかと存じますがこ
れは私が催したのでは無い︑(笑声)衰の父萩野由之先生が催
されたのでるります︒今は萎も鍛くちゃ婆でるりますが︑その
頃は芳純正に何とやらで美人でるったのでちります︒ハ拍手﹀ 思い出しますのはその披露の席に列せられたけ人身が在東京の史
学界の諸先生方でありましたが
.
渡A寸は辻先生辺先生位のみ御
存生であります︒そして其席にハニカシでいた青年の新郎が︑
七十の老爺になっている始末でるります︒席上までのとの御心
尽し誠に難有存じます︒今日の私の気
持は
︑
突に言葉に尽せな
い︒
Hf
の号ぞ言外気持をお汲みとりを願いたいと思うのでるり}
ます︒らりがた︿存じます︒(拍手﹀
O
藤 井 先 之 君 ( 先 生 の 長 男 )
甚だ高い席から申訳ないのでどざいますが︑御礼を申し上げ
ます︒今日は御先輩のかたん¥︑御友人のかたん¥相集り下さ
いまして父の寿を蹴って頂きまして︑私共家族もお招きに渡り
弘といたしまして非常に感謝いたしております︒母も非償に感
謝し︑特にゆかりの場所所官官んで頂いたというととについては︑
非常に喜んでいるととは︑拡が証明いたします︒‑ (
笑声
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も有難うございました︒父も老年でありますので︑今後とも父
のととについては︑いろいろ御厄介になると思います︑
2
うぞ宜しくお願いいたします︒(拍手)
戸支責在記録者)
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野 藤 川 辺 林 藤 賓 賓 地川 後 島 橋 藤 村 村 松
常 和 近 猛 勇 勇 綾 吉 夫 泰 秀 吉a二 省 幸 進 次
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藤 田 部 原 根 山 一 沼 筒 中 山 山 田 林 沢 礼 郎
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(敬 称略
v署名順)
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