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ミュージアムの彼方へ

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Academic year: 2022

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

ミュージアムの彼方へ

福住, 廉

九州大学大学院

https://doi.org/10.15017/2340951

出版情報:九州人類学会報. 30, pp.57-58, 2003-07-05. 九州人類学研究会 バージョン:

権利関係:

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池坑づくりと簿物危

ミュージアムの彼方へ

福住 廉

(九州大学大学院)

北九州市は小倉、旦過市場から南に数分 度から、ある程度自律したスペースを指す 歩いたところに、古い日本家屋が立ち並ぶ が、多くの場合、作家自身が自らの表現の 一帯がある。木造住宅が密集し、そのあい 場を自前で作り出してきたことから、「アー だを狭い路地が迷路のように入り組んでい

る。そのひとつをくぐりぬけると、そこに

「成長型アートスペース levell」がある。

大正時代に建てられた平屋を貸し展示場 としてそのまま利用している。建物自体は 一般の民家だから、展示場といっても基本

ティスト・ラン・スペース」ともいわれて いる。

美術の展覧会はもちろん、ライヴイヴェ ントや、

DJ/VJ

イヴェント、あるいは詩の 朗読や政治的なトークショウなど、文化の ジャンルを横断した多様な表現活動の拠点 的には和室である。とはいえ、展覧会の内 となっている。また、マイナーの表現者た 容によっては、ホワイトキューブとするた ち が 集 う 場 で も あ り 、 そ の な か か ら メ めに白壁を建てることもあるし、あるいは ジャーの世界に跳躍していくケースもある。

畳を引き剥がし、床下を開けることすらあ つまり、オルタナテイヴ・スペースとは、

る。大きな音を使うことを除けば、その空 既存の制度にたいして二重の意味で批判的 間は比較的自由に使えることになっている。 である。すなわち、美術制度は美術という

美術館や画廊で展覧会を行うとき、最大 ジャンルを強固に形成しようとするが、オ のネックとなるが、高額な場所代である。 ルタナテイヴ・スペースは個々の文化領域 そのため、特別な団体に所属していない若 を横断しようとする。また、美術館で発表 者たちは、展示場を確保することそのもの できる作家はその領域のなかで上位の等級 が難しい。そうした駆け出しの若者たちに

低廉な価格で展示場を提供することが、こ のアートスペースの主要な目的である。

実際、 2001年に活動を始めて以来、これ までにおよそ17回の展覧会を開催してきた が、その作家の多くは、プロフェッショナ ルの美術家というより、むしろアマチュア のそれであり、なんとかして自分の表現を 発表したいと静かに願っている人びとで あった。

ここで、こうしたスペースをオルタナナ テイヴ・スペースとしてとらえることがで きるだろう。オルタナティヴ・スペースと は、一般に、美術館や画廊といった美術制

にいる者だけだが、オルタナテイヴ・スペー スは無名の表現者たちのための吹き溜まり なのだ。

改めて繰り返すまでもなく、そもそも ミュージアム(美術館・博物館)は西洋近代 の再生産装置として歴史的に機能してきた。

非西洋のモノは西洋によって搾取され、美 的価値を付与されたモノは美術館へ、資料 的価値があると認定されたモノは博物館へ、

それぞれ分類された上で収蔵されてきた。

そしてそのことによって近代美術と人類学 が制度化されてきた。美術館の場合、現地 の土地に根ざしていたはずのモノを、強引 に引き剥がし、無理矢理ホワイトキューブ のなかに展示する。そこで展示されたモノ

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地城づくりと簿物飯

は、白く漂白された空間に展示されること によって「作品」となり、それを眼差す審 美的な視線を鑑賞者に強いる一方で、同時 に作品の質の普遍性を標榜することができ た。だが、実はそれはたんに死んだ標本に すぎない。

オルタナティヴ・スペースは、生きた芸 術を取り戻すための試みといえるように思 う。制度化された表現活動にはない、より 生の、リアルな、可能性が仮定され、それ

を取り出すための装置として、オルタナ テイヴ・スペースは位置づけられる。した がって、オルタナテイヴ・スペースとは、

美術制度とは異なる表現の可能性を探る場 所なのだ。

とはいえ、オルタナテイヴ・スペースに はそうした可能性がある一方で、明らかな 限界もある。近代とは、つねに異質な他者 や新たな差異を貪欲に搾取することで自己 更新してきた運動体である。すでに多くの 美術館がワークショップやトークショウ、

あるいはライヴイヴェントを美術館活動の 一部として組み込み始めているように、か

して妥当なのだろうか。私にはそうは思え ない。今あるミュージアムを認識論的に読 みかえていくことで、生産的な議論を導き 出すことはもちろん無駄ではない。だが、

まさにそれがミュージアムの議論であるが ゆえに、近代の再生産過程に回収されてし まう恐れがあるのではないか。エコミュゼ が「生きられた経験」に根づいているとす れば、それを「死体置き場」としてのミュー ジアムに回収させてしまうのは、本末転倒 としか言いようがない(とりわけ梶原氏の

「アソミュゼ」という魅力的な活動を、

ミュージアムとして語ってしまうには、あ まりにも惜しいではないか)。

だとすれば、ミュージアムとは別の、オ ルタナティヴな理論的枠組みが必要とされ ているのではないだろうか。既存の博物館 学や人類学の分析言語でエコミュゼを語る

こと自体、すでにその生き生きとした運動 体の生命力を削いでしまっている。アカデ ミックな専門用語は、それに従事する研究 者たちにとっては自明のものだが、ローカ ルな土地で暮らす人びとや市井で生活する つてオルタナテイヴ・スペースの特徴だっ 人びとにとってはそうではない。前者が後 た表現形式を、今や美術館は積極的に採用 者を理論化するのであれば、後者にとどく

している。近代による回収の論理を不問に 言語で語らなければならない。その語り方 したまま「別の可能性」を賞揚することは、 を模索する努力は今以上になされていいは 結局のところその再生産に加担することに ずだ。

ほかならない。 必要なのは、博物館学や人類学を再想像

いわゆる「エコミュゼ」をめぐる一連の 報告や議論にたいする私からの応答は、こ うした枠組みと重なっている。端的に言う ならば、エコミュゼはミュージアムなのだ ろうか。近代的な文化装置にほかならない ミュージアムの新たな形態、新たな機能と して、エコミュゼをとらえることは、はた

することではなく、ローカルな生活やリア ルな活動をそのまま汲み取る言語を再想 像=再創造することだろう。それは今ある 知の枠組みを根底から再考させることにな るのかもしれない。だが、それをしない限 り、理論が実践に追いつくことは決してな いだろう。

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