はじめに ヴォルフ学派の哲学者バウムガルテン︵Alexander Gottlieb Baumgarten, 1714-1762︶による学科としての美学の創始は、啓蒙合理主義の旗手であるヴォルフ︵Christian Wolff, 1679-1754︶の論理学的ないし数学的な論述方法を規範としつつ、個別具体的なものにおいて現れる美・芸術・感性を哲学の対象へ算入する試みであった。近代思想研究で著名なボイムラーは、カント以前の一八世紀ドイツ哲学を、ヴォルフによる抽象への傾向とバウムガルテンによる個体への傾向という二つによって特徴づけ、バウムガルテンの美学を﹁個別的なものについての論理学︵Logik des Individuellen︶﹂と呼ぶことでその事態を表した︵Baeumler 1974, 208, 212︶。個体への眼差しは、ヴォルフ学派美学の要諦と言える。
本稿は、ヴォルフ学派美学における個体の問題に関して、文学作品のなかの個体の表現という観点から、固有名について考察する。先行研究では、バウムガルテンが学位論文の﹃詩に関する少なから ぬことについての哲学的省察﹄︵一七三五年、以下﹃省察﹄︶のなかで、個体およびその記号である固有名を﹁極めて詩的である﹂と述べたことは頻繁に引用されるにもかかわらず、固有名がいかにしてかつどのような詩的効果をもつとされているのか、詳細には検討されてこなかった︵
がある。 固有名論におけるマイアーの重要性を指摘する点に、本稿の独自性 固有名論に関しては彼のテクストが採りあげられることはなかった。 れ、師の思想を矮小化ないし通俗化したと低く評価されがちであり、 しば、寡作だったバウムガルテンの思想を読解する補助として読ま それに則して固有名の詩的効果について検討する。マイアーはしば が敷衍している点に注目することで、両者の固有名論を明らかにし、 Georg Friedrich Meier, 1718-1777ていない論点を弟子のマイアー︵︶ 1。対して本稿は、バウムガルテンが明示的には記し︶
本稿は次のような構成をとる。第一節では、個体と固有名に関するバウムガルテンの見解を整理し、そこでは存在論的概念を美学的問題へ適用する際の隔たりが残されていることを指摘する。この懸隔を解消するために、第二節では、マイアーが固有名を﹁強意﹂の
A ・ G ・ バ ウ ム ガ ル テ ン と G ・ F ・ マ イ ア ー に お け る 固 有 名 と そ の 詩 的 効 果 井奥 陽子
美学 . 第 70 巻 1 号(254 号)2019 年 6 月 30 日刊行 .
一種と定義することに焦点を当て、さらに第三節では、マイアーが個体の表象は数学的に無限の徴標を含むと述べる点に注目する。それによって、バウムガルテンにおいては記されずに残されていた固有名の詩的効果について、マイアーに依拠することで一定の説明を与えうることを示す。
第一節 汎通的規定性に由来する強さ バウムガルテンとマイアーはともに、文学において個体︵individuum︶を表現することを推奨し、なかでも固有名︵nomina propria︶を重視する。その主張は、存在論における個体の﹁汎通的規定性︵omnimoda determinatio︶﹂という概念と、経験的心理学における表象の﹁外延的明瞭性︵claritas extensiva︶﹂という概念によって根拠づけられており、これらの概念の整備はバウムガルテンの主著﹃形而上学﹄︵初版一七三九年、第四版一七五七年︶の第一部﹁存在論﹂および第三部﹁心理学﹂と、美学を初めて提唱した﹃省察﹄においてなされる。それゆえ本節では、バウムガルテンがこれらのテクストのなかで汎通的規定性と外延的明瞭性を土台に、個体の表象および固有名は非常に﹁詩的︵poeticus︶﹂あるいは﹁強い︵fortis︶﹂と主張するに至る、その道筋を整理する。
まず汎通的規定性という存在論的ないし論理学的概念についてまとめよう。ヴォルフ学派の存在論においては、個体は余すことなく、すなわち汎通的に規定されているという点で、普遍から区別される︵MT 148︶︵§
characterMT ︵︶のことである︵ nota2。規定とは、事物がもつ徴標︵︶ないし特徴︶
36︶。類や種は未規定の部分があ § る︵ しかも予め含まれている、と考えられている点に注意が必要であ のみならず未来においても生起する出来事や行為や状態がすべて、 性はたんに規定の多さを表す概念ではなく、或る個体に過去と現在 るがゆえに、複数の存在者に当て嵌まりうる。ただし、汎通的規定
な規定が認識可能であるかという点については、第三節で検討する。 念が、予め遺漏なく含まれている。なお、各々の個体がもつ汎通的 には、その個体を主語にした真なる命題において述語となりうる概 は論理学的には次のように説明しうる。すなわち、或る個体の概念 しばしば命題モデルで考えられるから、個体の汎通的規定性の概念 praedicatumibid.3。規定は述語︵︶とも言われ︵︶、規定づけは︶
次に、外延的明瞭性という認識論的概念について見よう。バウムガルテンはライプニッツおよびヴォルフによる、判明性を上位に置く認識の分類方法を踏襲しながらも、徴標の量に力の強さが比例するという基準を導入することで、認識の階梯が逆転しうることを主張した。ヴォルフ学派の経験的心理学において、認識は明瞭かつ判明、明瞭かつ渾然、不明、という三つに大別され、この順番で認識がより完全になるとされる︵cf. PE
31f.; § §
§ §
38f.; DM
§ §
198-215;
MT §
510;
§ §
520f.;
MK §
485
︶。ヴォルフは明瞭かつ判明な認識に至ることを追求し、明瞭かつ渾然とした認識と不明な認識を確実でないと切り捨てる。対してバウムガルテンは、強さの点では、判明な表象より渾然とした表象が、あるいは明瞭な表象より不明な表象が上位になりうると考える。﹃形而上学﹄第三部の第一章﹁経験的心理学﹂より引用する。
知覚︹=表象︺は、より多くの徴標を含むほど、いっそう強く
なる。それゆえ、明瞭な知覚よりも多くの徴標を含むような不明な知覚は、その明瞭な知覚よりもいっそう強く、判明な知覚よりも多くの徴標を含むような渾然とした知覚は、その判明な知覚よりもいっそう強い。︵MT §
517︶
明瞭かつ渾然とした表象が多くの徴標を含む場合、その強い表象がもつ明瞭性をバウムガルテンは﹁外延的明瞭性﹂と呼ぶ︵MT §
530; MP
16f. § §
︶。明瞭かつ渾然とした認識は、ヴォルフにおいては判明性へ至るための﹁さらなる明瞭性が不足していること﹂が、つまり錯雑とした面が否定的に捉えられていたのに対して︵DM
によって独自の明瞭性をもつ点が肯定的に捉えられるのである。 214f.︶、バウムガルテンにおいては、渾然一体となった徴標の充満 § § 外延的明瞭性がもつ性格は、﹁生動的︵vividus︶﹂と言い表される︵MT § 531︶。また、バウムガルテンが外延的明瞭性の概念を最初に導入したのが詩を論じた﹃省察﹄においてであったことに示されているように、バウムガルテンはこの概念をまずもって、詩的言語がもつ特徴を説明するために用いた。そのため﹃省察﹄では、外延的に明瞭な表象すなわち多くの徴標を含む明瞭かつ渾然とした表象は、﹁強い﹂ではなく﹁詩的﹂と言われる︵MP §
17︶。よって、明瞭かつ渾然とした表象に対して言われる﹁強い﹂とは、充実している、生き生きしている、詩的ないし美的である、などと読みかえることができる。
以上のような汎通的規定性と外延的明瞭性という概念が合わさって、個体を表象することおよび個体の記号である固有名を使用することは非常に詩的である、という規則が﹃省察﹄で提示される。バ ウムガルテンに従えば、外延的明瞭性が非常に高いこと、すなわち明瞭に認識された或る事物の規定がかなり多いことは、﹁最大限に詩的﹂である︵MP § 17︶。この命題が大前提となって、次のように述べられる。 個体は汎通的に規定されている。したがって︿個々の表象︹repraesentationes singulares︺は、極めて詩的である﹀。︵MP § 19︶
個体の表象が非常に詩的であるなら、個体の記号である﹁固有名もまた︿詩的﹀である﹂︵MP §
強さの観点から次のように述べられる。 89︶。あるいは経験的心理学においては、 固有名のもつ力︹vis︺は、小さくない。︵MT § 517︶
この一文は、先に﹃形而上学﹄からブロック引用した第五一七項の末尾に記される。よってここでの﹁力﹂とは、徴標の多さに起因する表象の強さを意味する。処女作の﹃省察﹄ですでに、個体の表象は極めて詩的だと論じられたのだから、この二重否定は婉曲表現ではなく強い肯定を表している。
しかしながら、個体の汎通的規定性によって認識の外延的明瞭性が高いレヴェルでもたらされることを根拠に、固有名は非常に詩的ないし強いと主張するバウムガルテンの議論では、汎通的規定性という存在論の概念が、文学における固有名の表象という美学および認識論の問題へ直結させられている。固有名が使用された際に汎通
的規定性がどのように表象されるのかという点については、バウムガルテンは説明を与えていない。
MP どである︵ § Ov. Met. 3.206-225み殺す三五匹の犬の名前が列挙される箇所︵︶な あるいはオウィディウスの﹃変身物語﹄におけるアクタイオンを噛 HH21. 30-44讃歌﹄におけるアポロンの聖地が枚挙される箇所︵︶、 Hom. Il. 2.484-877三九四行にわたる軍船表︵︶や、﹃アポロンへの ウムガルテンが例に挙げるのは、ホメロスの﹃イリアス﹄における ﹃省察﹄において個体の表象が詩的だと述べられるくだりで、バ
19 Scholium︶︵
κατάλογοςゴス︵︶﹂と呼ばれる。 げる修辞技法の一種であり、目録的な列挙を行うことから﹁カタロ わすために、その事柄に属するいっそう個別的なものを例として挙 4。これらは、或る事柄を言い表︶
カタロゴスは、バウムガルテンの固有名論を理解するために最適の事例とは言い難く、誤解も招きかねない。というのも、固有名が詩的であるのは各々の個体がもつ規定ないし徴標の多さに由来するはずであるのに、カタロゴスでは枚挙される固有名の多さに力点が移っているからである︵
MP 多くならないようにすることは、詩的である﹂︵ § と認識の明瞭性が失われてしまうから、﹁知られていない固有名が 用いないように勧めてもいるからである。未知の事柄が増えすぎる 名が詩的だと述べた直後に、読者に馴染みのない固有名を大量には 5。またバウムガルテンは﹃省察﹄で固有︶
90; 強調省略︶︵
現として否定的に評価されてきたことに対して、三流詩人たちはそ タロゴスが一般には、物語の流れを中断してしまう唐突で冗長な表 ムガルテンは例外とみなしているようである。そして、これらのカ 6。この規則に上記の表現は抵触しうるにもかかわらず、バウ︶ MP 19 Scholium︵︶。 § る、とホメロスやオウィディウスを擁護することに終始している の美を解さずに鼻で笑うが、簡単には模倣しえない詩的な表現であ
固有名の強さが汎通的規定性に由来するのであれば、我々は固有名を聞いたとき、その指示対象がもつあらゆる徴標を一挙に表象したり、あるいは順次枚挙し続けたりするのであろうか。そのような事態が実際に生じるとは考えにくいであろうし、幼少時から詩に親しんでいたバウムガルテンが実践からあまりに乖離した理論を提示するとも想定し難い。それでは、固有名がもつ大きな力とは、具体的にはどのような詩的効果を指し、汎通的規定性はどのようにしてその効果を与えるのか。従来問われてこなかったこの点を詳らかにすべく、次節以降はマイアーの固有名論に焦点を移す。
第二節 強意としての固有名 本節では、マイアーが固有名を﹁強意された表現︵nachdrücklicher Ausdruck︶﹂ないし﹁強意︵Nachdruck; emphasis︶﹂の一種と定義する点に注目する。
バウムガルテンが固有名を﹁個体を意味表示する名前︵[nomina] indiuidua significantia︶﹂と定義するのに対して︵MP §
的心理学の章から引用する。 上学﹄第三巻︵初版一七五七年、第二版一七六五年︶における経験 はここへ﹁強意された﹂という形容詞を加える。マイアーの﹃形而 89︶、マイアー 強意された表象を意味表示する表現は、︽強意された表現︾と
いう。個々の事物を表現する強意された表現は、︽固有名︾と呼ばれる︵
MK2 7。︵︶§
494, S. 38︶ この定義文から、マイアーが固有名を﹁強意された表現﹂の一種とみなしていることは明白である。強意された表象とは、﹁多くの徴標︹Merkmal︺を自らのうちに含む﹂表象とされる︵MK2 §
494, S. 38︶。個体は極めて多くの徴標をもつのであった︵cf. MK § 141︶。よって定義上、個体についての表象は強意された表象となりえ、個体を表す記号は強意された表現となりうる。だが、固有名が強意された表現であるとは、どういう事態を指すのであろうか。
強意に関するより詳しい記述は、﹃一般解釈学の試み﹄︵一七五七年︶の第一部﹁理論的解釈学﹂第二章﹁言表の解釈について﹂のなかに見いだされる。先に、前提とされる﹁語義︵Bedeutung; significatus︶﹂と﹁意味︵Sinn; sensus︶﹂の区別について整理しておこう。語義とは﹁表現︵Ausdruck; terminus︶﹂あるいはとりわけ﹁語︵Wort; vocabulum︶﹂が表す内容であり︵AA §
103f.︶︵
eine bezeichnete Sache; signatumAA 対象︵︶﹂に対応する︵ § 8、﹁指示︶
7︶︵
VerstandAA 内容であり、﹁理解︵︶﹂とも言い換えられる︵ § Rede; oratio他方で意味とは、一連の語すなわち﹁言表︵︶﹂が表す 9。︶
103f.︶。解釈の対象としての言表は﹁テクスト﹂と呼ばれる︵AA § 105︶。これらを踏まえて、強意に関する記述をみよう。
意味のうちに含まれているものや意味から正当に導き出されうるものがもつ量や多様性は、︽意味の実り多さ︹die Fruchtbarkeit des Sinnes︺︾︵foecunditas sensus︶と呼ばれる。︹⋮⋮︺実り多 い意味をもつ言表は、多くの語義をもった比較的短い記号であり、したがっていっそう完全な記号である。それゆえ、意味の実り多さは言表の実り多さをもたらす。或る語の語義が多くのものを自らのうちに含むかぎりで、その語には︽強意︾︵emphasis︶が認められる。したがって強意された言表は、強意されていない言表よりも完全である。︵AA § 201︶
右の引用に従えば、解釈をとおして引き出されるテクストの意味すなわち理解は、多くの様々な内容を示し、かつそこから多くの様々な内容がさらに生み出されうるとき、実り多い理解だと言われる。テクストを豊かにするそうした理解は、解釈者だけでなくテクストにも依存する。すなわち、多くの語義を担いつつも表現が冗長ではないようなテクストが、多産な理解を引き出しうる。
引用文にあるように、強意とは、語義が多くのものを含むこと、﹃形而上学﹄の記述を適用すれば、多くの徴標を含むこと、あるいはそのような語のことである。別の言い方をすれば、﹁強意は、語義のなかで主要概念︹Hauptbegriff︺に結びついている付随概念︹Nebenbegriff︺をとおして成立する﹂︵AA §
202︶。つまり或る対象を指示する概念に内在する付随概念としての徴標が、主要表象とともに喚起されることによって成立する。ここから明らかなように、マイアーにおける強意とは、発声や身振りによって強勢を置くことでもなければ、語のもつ或るひとつの意味が強調されることでもない。そうではなく、多くの意味を孕むことによって、表現が強められること、あるいはその表現を指す︵
意を使用した言表は使用しない言表よりも多くの意味をもち、それ 10。したがってマイアーの結論としては、強︶
ゆえいっそう実り多く、いっそう完全である。そのため解釈者は、﹁テクストのこのうえなく実り多い︹allerfruchtbarst︺直接的︹=字義的︺意味を想定せねばならず、したがってこのうえなく強意された︹allernachdrücklichst︺意味をも想定せねばならない﹂︵ibid.︶。
マイアーが固有名を、指示対象に内在する徴標を喚起する﹁強意﹂と捉えているということは、固有名にはその定義のうちから、或る個体をラベルとして指示する機能だけではなく、その個体がもつ徴標を認識主体に喚起させる修辞的機能が担わされていることを意味する。マイアーは語の使用に焦点を当てているかぎり、或る固有名のあらゆる可能的な述語を同列的に捉えているわけではなく、その時々の使用に応じて、強く喚起される徴標とそうでない徴標の濃淡があると考えていると言える。
では、或る個体がもつ大量の徴標のなかで、喚起される徴標はいかにして決定されるのであろうか。この点についてマイアーは説明を与えていないが、強意が修辞表現であるかぎり、強意される内容は基本的には作者ないし発話者の意図に依存し、なおかつテクストの文脈や、作者および受容者が属する集団の通念や規約によって決まるであろう︵
生きとしたものになるだろう。あるいは物語を読むとき、登場人物 てよりも多くの徴標が喚起され、それゆえいっそうその名前は生き 的に関わりの深い個体の名前を聞く場合、そうでない受容者におい らである。そのため、或る受容者が自身にとって直接的ないし間接 識量や関心の強弱などによって、喚起される徴標が変動しやすいか 大きいと我々は考える。個体は徴標の選択肢が多い分、受容者の知 合はとりわけ、指示された個体と受容者との関係に基づく度合いが 11。ただしそれだけでなく、固有名による強意の場︶ 大王という特定の個人を描写することを指していると思われる︵ 39︶。前者は、英雄的な人物を表現するために、アレクサンドロス MK2494, S. パーという名前を与えるのだ、と述べるのみである︵ § クサンドロス大王について考え、守銭奴を登場させるときもカス との証拠として、それゆえに詩人や弁論家は英雄一般ではなくアレ において、詩人や弁論家が抽象概念より固有名を使うことを好むこ 固有名に関して、マイアーが挙げる例は多くない。経験的心理学 その名前はいっそう強意された、充実したものになりうるだろう。 の名前から喚起されうる徴標は物語の終盤へ近づくにつれて増大し、
cf. AE うな︵ § あるいは別の解釈としては、戦術に長けた人をハンニバルと言うよ 12。︶
797f.︶、種の代わりにその典型例としての個人を用いる表現とも考えられる。後者の﹁カスパー﹂については、架空の名前によって特定の性格をもった人物を類型的に指す表現のことである。日本語文化でも、江戸落語で間抜けな人物を与太郎と呼ぶような用例がある。前者の二つ目の解釈と後者とを修辞技法で説明するならば、部分で全体を表す﹁提喩︵synecdoche︶﹂の、なかでも固有名で一般名詞を表す﹁換称︵antonomasia︶﹂に相当する。
読者の理解を得やすくするためか、マイアーは多かれ少なかれ類型化された表現を挙げているが、この場合の固有名の効果は次のように説明できる。たとえばプラウトゥスの戯曲における﹁この道をともに進め、私のユーノーよ﹂︵Plaut. Mercator 690; cf. AE §
797︶というくだりで、古代ローマ文化に基づいた規約を知っている読者であれば、ユーノーには妻が含意されていることを理解する。ここで仮に﹁妻﹂と言われた場合よりも、様々な芸術作品に描写されてきたこの女神の優美な姿や、アトリビュードである孔雀のイメージ、
あるいは貞節さや多産さといった、ユーノーに結びついている多くの徴標が喚起されるであろう。こうした美的な効果によって、固有名による喚称はテクストをいっそう実り多いものにする。なお、類型化されていない固有名との相違については、次節で言及する。
多様な語義をもった表現がテクストの豊かさをもたらすという見解自体は目新しいものではないが、固有名そのものを強意として捉える点に、マイアーの独自性があると我々は考える。ただしバウムガルテンにおいても、固有名を強意の一種と捉える発想自体はおそらく懐胎していた。というのも、バウムガルテンの﹃形而上学﹄で固有名について唯一言及される﹁固有名のもつ力は小さくない﹂︵MT §
517;
前節参照︶という一文の直前には、強意の定義が示されているからである。同項ではその強意と固有名に関する記述のみが第二版︵一七四三年︶で加筆されたことから、固有名と強意がまったくの無関係とみなされているとは考えにくい。また、本節で明らかにされたマイアーの見解は、前節で示したバウムガルテンの見解と対立せず、前者は後者を敷衍したものとみなしうるからである。とはいえ、バウムガルテンは強意と固有名の関連について、明示的には何も記していない。したがってマイアーは、個体の汎通的規定性ゆえに固有名は強い力をもつというバウムガルテンの固有名論を基礎にしつつ、固有名がもつ強意としての側面を強調することで、その詩的ないし修辞的効果についての説明を与えたと言える。
だが、次のような疑問が残る。受容者が思い浮かべうる徴標の数には限度があり、それゆえ固有名を強意として捉えたとしても、汎通的規定性による徴標の多さはさほど活かされないのではないか。次節ではこの問いに答えるために、強意としての固有名がもつ効果 についてさらに、喚起されない徴標の観点から検討する。
第三節
固有名における徴標の数学的無限性と
個体の汲み尽し難さ 個体がもつ汎通的な規定は、原則として、超越的な視点からはすべて把握可能でなければならない。ヴォルフ学派では、神は可能世界のあらゆる規定を見通したうえで最善のこの世界を創造したと考えるのだから、たとえ個体の規定が類や種に比して多いとはいえ、被造物が有限であるかぎり、規定の数は端的に無限ではない。しかしながら、或る個体に現在・過去・未来にわたって生起する出来事や行為をすべて把握することは、人間によっては不可能であろう︵cf. SME 間の認識が限界づけられていることに自覚的であった︵ § マイアー自身、彼の思想の特徴としてしばしば指摘されるように、人 13。︶
1︶。美学書である﹃あらゆる美しい学芸の基礎﹄︵全三巻、初版一七四八~一七五〇年、第二版一七五四~一七六九年︶においても、たとえば次のような記述にその姿勢が示されている。﹁我々人間はいかなる事象についても、まったく詳細な概念や、対象をまったく汲み尽した︹erschöpfen︺認識など有していない﹂︵SW2 § 327, S. 142︶。
人間認識の限界を強調する立場にあるマイアーは、﹁私﹂による認識を出発点に論じる経験的心理学において、個物がもつ徴標の総量を無限という語を用いて言い表し、さらに続けて美的な表現における固有名の使用に言及する。その記述から、超越的な視点からは有限であるべき個体の徴標が、人間認識によっては十全に把握されえないことを、マイアーが美の観点から肯定的に捉えていることが
明らかとなる。﹃形而上学﹄からの引用である。
個物についての表象は、汎通的に規定された事物を、すなわち無限に多くのものを自らのうちに含む︹unendlich viel in sich enthält︺事物を我々に表象する。したがって、そのような表象は大きな強さをもち、通常は抽象概念よりも強くかつ強意されている。また個物についての表象の表現は、僅かなものを自らのうちに含む表現よりも、強くかつ強意されている。弁論家や詩人が、可能であるはずの程度よりも抽象概念をあまり口にしないのは、それ故である。彼らは一般的な表現の代わりに、固有名を用いる。︵MK2 §
494, S. 38f.︶
個体の表象がもつ強さおよび強意と汎通的規定性との関係については、各々第一節と第二節で考察したとおりである。ここでは、汎通的な規定が﹁無限に多くのもの﹂と言われている点に注目したい。マイアーに従えば、個体についての表象および表現が強さと強意をかなりの程度で有するのは、個体が﹁無限に多くのもの﹂を内包すると表象されるからである。そして個体の表象とその表現がそのようにして強さと強意をもっているがゆえに、詩や弁論では抽象概念よりも固有名が好んで用いられる。マイアーは引用箇所に続けて、我々が第二節で確認したアレクサンドロス大王などの例を挙げることでこの項を終える。この記述から読みとれるように、マイアーの見解では、固有名の使用が詩や弁論において効果的である理由は、個体のもつ汎通的な規定の総体が﹁無限に多くのもの﹂と表象されることにある。 ここで個体の徴標に対して言われる無限性は、むろん神について言われる無限性とは異なる。マイアーは、いかなる制限もない﹁形而上学的に無限なもの︵das metaphysisch Unendliche︶﹂から区別して、或る特定の観点からみて制限がないように思われるものや、境界はあるが決定されていないか決定されえないものを、﹁数学的に無限なもの︵das mathematisch Unendliche︶﹂と呼ぶ︵MK § 181;
306 §
︶。マイアーに従えば、神は形而上学的に無限なものであるが、魂の不死性や、数学における直線および最小の恒星と地球との距離などは、数学的に無限なものである︵ibid.︶。個体がもつ徴標の量を無限と呼ぶ用例では明らかに、人間認識の観点からみた数学的無限性が言われている。
たしかに、﹁無限に﹂という副詞はたんなる強調のために使われることもあるから︵e. g. MK2 §
548, S. 117︶、上記の引用文でも字義どおりに読む必然性はないかもしれない。しかしながら、この箇所で無限という語が用いられたことにまったく意味がないとみなす理由もない。なぜなら、個体には大量の徴標が帰せられているからというだけでなく、終着の見えない汲み尽し難さは、マイアーの美学理論の根幹に関わるからである。
マイアーは無限で汲み尽しえないと表象されるような対象を、多様性の増大という観点から積極的に肯定する。そのことを明確に記したテクストは、マイアーの初期の代表的な美学書である﹃諧謔についての見解﹄︵初版一七四四年、第二版一七五四年︶のなかに見いだされる。諧謔という限定的なテーマが掲げられているものの、マイアーはこの論考を当時誕生したばかりの美学の一部として執筆し︵GS2 §
9, S. 23︶、美一般に関する見解も提示している。同書の
前半部分の、諧謔には多様性が必要であると主張される﹁諧謔の第一の美﹂という節から引用する。
心地よい対象における差異性ほど、我々の魂を強く楽しませるものはない。極めて僅かなものを自らのうちに包み込んだ事象へ我々が注意を向ける場合、我々はその事象を観察によって一瞬にして汲み尽してしまう︹⋮⋮︺。反対に、いかなる終わりも見つけられず、無限に多くの互いに異なる対象で満たされているような場所を、眼はうっとりと楽しみながらあちこち彷徨する。大きく無限なものはすべて、また非常に多くの多様なものを自らのうちに掴み込んだものはすべて、魂に心地よい感覚を引き起こす。︵GS2 §
33, S. 79︶
多様性は我々を楽しませるから、すぐに汲み尽してしまったと思わせる僅少さよりも
│
ただし前述のとおり、人間認識が或る対象を実際にまったく汲み尽してしまうことは原理的に不可能とされるが│
むしろ終わりが見つけられないような無限の多様性が、美においては望ましい。そのためマイアーにとって、﹁大きく無限なもの﹂は心地よい感覚を起因する。個体は数学的に無限の徴標をもつのであったから、マイアーに即せば、個体は﹁無限なもの﹂やさらには﹁大きなもの﹂でありえ、その汲み尽し難さをとおして快い感情を引き起こしうる。個体が﹁大きなもの﹂でありうるのは、大きな対象とは﹃あらゆる美しい学芸の基礎﹄の説明によれば、その原因と結果が多大である対象だけでなく、﹁無限の量﹂の規定ないし部分を含みもつような対象のこと を言うからである︵SW2 § 65, S. 117-119︶。なお、美は基本的に主体の認識の仕方にかなり依存するものの︵SW2 § 23︶、この多様性と大きさという美をもたらす二つの性質は、認識の仕方よりむしろ対象に由来するとされる︵SW2 § 30, S. 48︶。
マイアーが﹃形而上学﹄で徴標の数学的無限性を根拠にして、個体の表象と表現は強くかつ強意されていると主張する際、彼は個体の表現として固有名にのみ言及し、確定記述は度外視している。ここに、喚起の候補となる徴標の量が関わると我々は考える。たとえば﹁アレクサンドロス大王の教師﹂という表現でアリストテレスを指示するような、或る特定の徴標でもって個体を表示する確定記述は、指示に用いられた徴標を前景に出す作用がある。それによって、使用された徴標およびそれに関連の強い徴標を優先的に喚起させ、他の徴標を後景へ追いやってしまう。固有名と確定記述を詩的効果の点で比較すれば、確定記述には、徴標の選択の仕方に作者ないし発話者の意図や機知がより鮮明に表れるという積極的な面もある。しかしながら、個体が人間認識によっては汲み尽しえない無数の徴標を孕む存在者であることを反映する点では、確定記述は固有名に及ばない。たとえば物語において、或る登場人物や場所をその役割名でのみ呼ぶ場合と固有名が与えられた場合とで生じる美的な点での相違も、ここに起因するのではないだろうか。また、前節で挙げた喚称のような類型化された表現も、徴標の選択が或る程度は規約によって限定されるため、喚起の候補となる徴標の量という点では劣るであろう。
汲み尽しえないほど多くの徴標を内包するものとしての個体を表すために、固有名が確定記述よりも適していると仮にマイアーが考
えており、その理由が確定記述では或る特定の徴標のみを前面に出してしまう点にあるとすれば、固有名は喚起されていない大量の徴標によって、すでに強い力を持っていると言える。したがって固有名の使用においては、たとえ受容者が具体的な徴標を実際に多く表象することがなくとも、その個体が数学的に無限の徴標を孕む存在者であることを表すという、その名前自体がもつ充溢性によって、固有名は生き生きとした美をもたらしうるであろう。
おわりに 本稿は、バウムガルテンによって﹁詩的﹂であると言われた固有名が、いかにしてどのような詩的効果を持ちうるのか、マイアーのテクストに注目しつつ考察してきた。本稿で示したことは以下のとおりである。
第一節では、バウムガルテンが固有名を非常に詩的ないし強いと主張する際、個体の汎通的規定性という存在論の概念を、文学における固有名の表象という美学および認識論の問題へそのまま適用しており、例示されるカタロゴスも、固有名の徴標の多さというより固有名の多さを利用した表現であるため、最適の事例ではないことを指摘した。それゆえ、固有名が使用されたときに、そうした汎通的な規定がどのように表象されて詩的な効果をもたらすのか、不明であることが浮き彫りになった。
第二節では、マイアーは固有名に或る個体をラベルとして指示する機能だけではなく、その個体がもつ徴標を認識主体に喚起させる、修辞的な機能を担わせていることを指摘した。そこから、固有名の 使用においては、徴標が喚起されるかたちで汎通的規定性が活かされることを明らかにした。加えて、固有名による強意は一般名詞による強意よりも、喚起される徴標が受容者によってかなり変動することに、その特徴があることを示した。 第三節では、個体の徴標は超越的な視点からは有限であるべきだが、人間認識によっては十全に把握されえないこと、そしてマイアーがそのことを根拠に、固有名は抽象概念より強力であると主張し、人間認識の限界を美の観点から肯定的に捉えていることを明らかにした。また、数学的に無限の徴標を孕むものとしての個体を示す表現として、マイアーが確定記述ではなくもっぱら固有名を考えていたことを指摘した。これらの点から、固有名は個体が極めて汲み尽し難い存在者であることを表すがゆえに、その使用においては個体の汎通的な規定が必ずしも実際に大量に喚起される必要はなく、その個体の名前そのものが、潜在している徴標の充溢によって生き生きとした美をもたらしうる、という見解を提示した。 以上の考察をとおして、固有名の詩的効果と汎通的規定性との関連について、強意と徴標の数学的無限性という二側面から説明が与えられた。これによって、バウムガルテンが美学という新たな学を宣言した学位論文のなかで、個体および固有名を極めて詩的だと主張した後に、それを受けたマイアーは固有名の詩的効果に関わる論点を敷衍していたことが示された。本稿の結論は、マイアーが人間認識の限界を強く自覚していたことと、美学という新たな学にいち早く可能性を見出してその普及に尽力したことが、表裏一体であったことも示唆する。このことは、学科としての美学の発祥を解明する、ひとつの糸口となりうるであろう。
二次文献Baeumler, Alfred.︵1974︶: Das Irrationalitätsproblem in der Ästhetik undLogik des 18. Jahrhunderts bis zur Kritik der Urteilskraft. Tübingen. Bahr, Petra. ︵2004︶: Darstellung des Undarstellbaren: Religionstheoretische Studien zum Darstellungsbegriff bei A. G. Baumgarten und I. Kant. Tübingen.Campe, Rüdiger. ︵2014︶: “Effekt der Form: Baumgartens Ästhetik am Rande der Metaphysik.” In Baumgarten-Studien: Zur Genealogie der Ästhetik. Rüdiger Campe et al., S. 117-144. Berlin. Goldenbaum, Ursula.︵2011︶: “Mendelssohn’s Spinozistic Alternative toBaumgarten’s Pietist Project of Aesthetics.” In Moses Mendelssohn’s Metaphysics and Aesthetics. Ed. Reinier Munk, pp. 299-327. Dordrecht.Peres, Constanze.︵2000︶. “Komplexität und Mangel ästhetischer Zeichen:Baumgartens︵proto︶ semiotische Theorie und Goodmans Symptome der Kunst.” Studia Leibnitiana 32 ︵2︶: 215-236.Pimpinella, Pietro. ︵2000︶. “Hermeneutik und Ästhetik bei A.G. Baumgarten.” In Die Hermeneutik im Zeitalter der Aufklärung. Hrsg. Manfred Beetz und Guiseppe Cacciatore, S. 265-286. Köln-Weimar-Wien.
註︵
る﹁二重の欠陥﹂を被るのに対して、美的な表現としてはそうした Nachdruck: Hildesheim. 2009 1983.と外延的明瞭性︵すなわち判明性と徴標の充実︶の双方を犠牲にす︵︶ Seele des Menschen, auch allen Dingen überhaupt. 11. Aufl. Halle.に、個物の表象および固有名が論理的な表現としては内包的明瞭性 Peres 2000, 2271751: DM Vernünfftige Gedancken von Gott, der Welt und der不足していることに起因する。︵︶も﹃省察﹄を典拠│││︵︶[] Hildesheim. 1980.これは本稿の第一節でも指摘するように、バウムガルテンの記述が 1746: LL Philosophia rationalis sive logica. Helmstadt. Nachdruck: 詩的である、というバウムガルテンの言葉を繰り返すのみである。│││︵︶[] Nachdruck: Hildesheim. 1968. し固有名については、個体が汎通的規定性を持つがゆえに固有名は 1738: PE Psychologia empirica. editio 2. Frankfurt-Leipzig.ンにおける個体に関する議論を簡潔かつ的確にまとめている。しか│││︵︶[] Pimpinella2000, 226f.Campe2014, 131f.Frankfurt-Leipzig. Nachdruck: Hildesheim. 1977.1︶︵︶や︵︶は、バウムガルテ Wolff, Christian.1736: LO Philosophia prima sive ontologia. editio 2. ︵︶[] Wolff. Gesammelte Werke. Abt. 3. Bd. 108.3. Hildesheim. 2007. 1765: MK2 Metaphysik. 2. Aufl. Bd. 3. Halle. Nachdruck: Christian │││︵︶[] 1996. 1757: AA Versuch einer allgemeinen Auslegungskunst. Hamburg.│││︵︶[] 1755-1759: MK Metaphysik. 1. Aufl. 4 Bände. Halle.│││︵︶[] Erkenntnis. Halle. 1755: SME Betrachtungen über die Schranken der menschlichen│││︵︶[] Aufl. 3 Bände. Halle. Nachdruck: Hildesheim. 1976. 1754-1769: SW2 Anfangsgründe aller schönen Wissenschaften. 2. │││︵︶[] Meier, Georg Friedrich. 1754: GS2 Gedancken von Schertzen. 2. Aufl. Halle.︵︶[] heiligen Schrift. Halle. Baumgarten, Siegmund Jakob. 1742: AHS Unterricht von Auslegung der ︵︶[] 1757: MT Metaphysica. editio 4. Halle.│││︵︶[] Hildesheim. 1986. 1750/1758: AE Aesthetica. Frankfurt an der Oder. Reprint:│││︵︶[] de nonnullis ad poema pertinentibus. Halle. Reprint: Berkely. 1954. Baumgarten, Alexander Gottlieb. 1735: MP Meditationes philosophicae︵︶[] 一次文献 文献表
欠陥を免れると述べるが、詳細には踏み込んでいない。Bahr ︵2004, 97f.︶は抽象と具体に関するバウムガルテンの議論を扱った節のなかで個体についても言及し、バウムガルテンにおける個体の概念を、﹁具体性﹂と﹁汲み尽しえない複雑性﹂と﹁潜在性﹂という三点によって特徴づける。後二者は本稿が第三節でマイアーに基づいて主張する見解とおおむね一致するが、バーの論拠は、やはり﹁個体には汎通的規定性が適用される﹂という一点のみである︵S. 97︶。︵
MT 定性︾である﹂︵ おけるあらゆる共可能的な規定の総体は、その存在者の︽汎通的規 2︶バウムガルテンによる汎通的規定性の定義は次のとおり。﹁存在者に
MT しないことである︵ であるという互いに矛盾する述語が、或る主語について同時に存在 148Anon A︶。﹁可能的﹂とは、でありかつ § LL できる。同様の定義はヴォルフの論理学にも見うけられる︵ とは、或る主語についての真なる述語の総体とも言い換えることが 7︶。それゆえ﹁共可能的な規定の総体﹂ §
cf. LO 75; §
︵ 225f.︶。 § Cf. Leibniz, Gottfried Wilhelm. Discours de métaphysique. 1686, 3︶
8-9; § §
︵ 3. §
AE による犬の枚挙を模範的な表現として挙げる︵ 挙げる方がよいと述べ、イリアスにおける軍船表やオウィディウス より個別的なものを例に挙げる技法は、類より種を、種より個体を 4︶バウムガルテンは後年の﹃美学﹄︵一七五〇/五八年︶においても、
751; §
︵ 756︶。 §
︵ を否定しないが、本稿では立ち入ることができない。 ゴスは十分でない。むろん我々は、カタロゴスがもつ他の詩的効果 名そのものが詩的である例としては、その列挙を特徴とするカタロ るなら、外延的明瞭性の説明としては好例である。だがやはり固有 また﹃美学﹄におけるように︵前註参照︶、各固有名を徴標と捉え 出陣状況も記述されるように、個体の徴標にも言及するものはある。 5︶たしかにカタロゴスにも、たとえばイリアスの軍船表では各将領の MP 交ぜるのがよいとされる︵ 6︶固有名に限らず、未知の事柄を描く際は、既知の事柄を適切に織り
13; §
48; §
︵ 56︶。 §
eigentliche Namen7︶﹁固有名﹂は第一版ではと、第二版では ︵ eingenthümliche Namenと表記される。
AA あるいは聞かれうる表現﹂とされる︵ Stimmeされ、語は﹁通常、人間の声︹︺において存立する表現、 Zeichen der Erkenntnis8︶表現は﹁認識の︹ための︺記号︵︶﹂と定義
︵ は動物の声なども含まれるのであろう。 103︶。よって、表現に § MK 件に課されている︵ それが表す事物の現実存在が記号を介して認識可能であることが条 題となっている。この換言が可能であるのは、指示対象と語義に、 ここでは記号︵語︶と内容︵指示対象・語義︶という二項関係が問 9︶マイアーは指示対象をただちに語義と言い換えており、したがって
︵ 律に反するそうした事物は、マイアーにとっては端的に無である。 えないものとは、﹁冷たい炎﹂といった不合理な概念である。矛盾 21, S. 35f.︶からであろう。現実に存在し § praegnantisMT ︶﹂と定義する︵ 10termini significatus ︶バウムガルテンは強意を﹁含蓄ある意味をもった語︵
︵ 517︶。 § AHS の歴史的状況も考慮して遂行されねばならない︵ § の理解は作者の最終目的によって定められ、さらにテクストや作者 1706-1757︶による﹃聖書解釈講義﹄︵一七四二年︶によると、強意 Siegmund Jakob Baumgarten,されている、バウムガルテンの兄︵ たからだと思われる。﹃一般解釈学の試み﹄へ強い影響を与えたと アーがあまり紙幅を割いていないのも、すでに理論が確立されてい 11︶強意は敬虔主義神学の聖書解釈学で重視された概念であり、マイ
117;
︵ cf. Goldenbaum, 2011的があったとも想定しうる︵︶。 が固有名の強さを主張した背景には、聖書の詩的表現を擁護する目 129︶。なお、強意の概念が聖書解釈学に由来することから、マイアー §
︵ 岩波文庫、一九九七年、四三~四四頁︶。 1451b5-15; 遍的なことを目指すのである﹂︵松本仁助、岡道夫訳、 と述べるが、﹁詩作は、人物に名前をつけることによって、この普 れている。周知の如く、アリストテレスは詩が普遍的なことを語る 12︶この場合、アリストテレスの﹃詩学﹄第九章がおそらく念頭に置か 13Cf. Leibniz, op. cit., ︶
13. §