• 検索結果がありません。

★2(横3)奥畑(27-40).indd

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "★2(横3)奥畑(27-40).indd"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1

 1991年末、ソヴィエト連邦が崩壊したが、本稿は奇しくもその翌年に出版 された二作のイギリス小説、ジュリアン・バーンズの『ポーキュパイン(The Porcupine, 1992)』とイアン・マキューアンの『黒い犬(Black Dogs, 1992)』を採 り上げ1、共に1980年代以降の文壇を代表する存在である両作家のテクストが、

冷戦の終わりという新時代の出発点において、「過去」という巨大な亡霊に如何 にして対峙するべきかを探求していたことを明らかにする。冷戦、或いはその終 結といった大きな歴史的枠組みから戦後イギリス文学史を読み直そうとする試み は近年、アンドリュー・ハモンドの二冊の著作やダニエル・コードルの2017 の単著に結実しているが2、これらの中でバーンズとマキューアンの作品は必ず しも詳細に論じられているとは言えない。それゆえ同時期に書かれた『ポーキュ パイン』と『黒い犬』の両テクストを、冷戦とその後の社会に対する一種のクリ ティークとして、もしくは二〇世紀後半のイギリス小説史を冷戦との関わりから 再検討する試みの一環として比較的に分析することには重要な意義があると考え られる。

 バーンズとマキューアンはイギリスが覇権国アメリカを盟主とする資本主義陣 営の一員でありながら、冷戦期を通じて常にアメリカ帝国主義の経済的、政治的、

そして軍事的な影響を受け続けてきたという特異な立場にあることを前提にしつ つ、これらの作品において東西のイデオロギー対立を相対化し、むしろ旧来の価 値観が崩壊した急激な変化の時代における「過去」を巡る倫理的問題を積極的に 描いた。こうした点から、本稿ではまず『ポーキュパイン』と『黒い犬』の歴史 的背景を明らかにするために、冷戦の終結に至る1980年代から90年代初頭にか けての国際政治の動向を確認してみたい。

冷戦の終わりに

―ジュリアン・バーンズ『ポーキュパイン』と イアン・マキューアン『黒い犬』について

奥 畑   豊

(2)

2

 第二次世界大戦後の政治史や文化史に分水嶺があったとするならば、その一つ はアメリカとソ連による東西冷戦の終結に他ならないだろう。1980年代の中盤 から1990年代の初頭にかけて目まぐるしい勢いで変動し続けた当時の国際情勢 を正確に理解するのは容易ではないが、少なくとも差し当たって重要なのは、80 年代という冷戦期最後の十年間が、大きく前半と後半の二つの時代に分断されう るという点である。もちろん、より正確を期すならば、いわゆる「新冷戦」とい う前半の時代区分は、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻がデタントの崩 壊を招いて以後のことを指すと言った方が適切であろう。この年、イギリスでは マーガレット・サッチャー率いる保守党が総選挙に大勝し、それ以降、ヴィクト リア朝的な価値観への回帰と帝国主義へのノスタルジーに立脚する「サッチャリ ズム」が伝統的な福祉国家の枠組みを解体していった。サッチャーは社会主義 の脅威に対抗しつつ「強い英国」の再建を目指すために、新自由主義政策を推 し進めるロナルド・レーガン時代のアメリカとの同盟関係を強化し、米国製の クルーズ・ミサイルを英国内の軍事基地に配備することに合意した。一方でイ ギリスや日本と強固な関係を結んだアメリカのレーガン政権は、1983年にはソ 連を「悪の帝国」と名指しで批判し、同国による核攻撃の脅威を無力化するべ く、「戦略防衛構想(SDI)」、いわゆるスター・ウォーズ計画を発表し、社会主 義陣営のみならず西側諸国をも驚愕させた。核戦争の脅威が現実のものであっ 1960年代前半以来、再び世界はカタストロフィの恐怖に覆われた訳であるが、

こうした不穏な時代状況は英語圏の政治活動家だけでなく、数多くの作家や芸術 家、そして批評家や思想家たちに大きな影響を与えた。例えば歴史家のEP トムスンは『抗議と生存(Protest and Survive, 1980)』、『ゼロ・オプション(Zero Option, 1982)』、『スター・ウォーズ(Star Wars: Self-Destruct Incorporated, 1985)』

といった一連の著作を通して核兵器反対運動を展開したし、彼の妻で社会史家の ドロシー・トムスンが編集した『我らの屍を越えて行け(Over Our Dead Bodies:

Women against the Bomb, 1983)』には、様々な分野の女性の書き手たちが核問題

を論じたエッセイを寄稿した。また哲学者ジャック・デリダは、北米の批評誌

『ダイアクリティックス(Diacritics)』の特集に「黙示録でなく、今でなく(“No Apocalypse, Not Now (Full Speed Ahead, Seven Missiles, Seven Missives)”, 1984)」と 題した論文を発表し、「核批評」の理論的枠組みを提示した。そしてアメリカで はティム・オブライエンが核そのものを主題とした小説『ニュークリア・エイジ

(3)

(The Nuclear Age, 1985)』を出版し、更に少し遅れて、イギリスではマーティン・

エイミスが短編集『アインシュタインの怪物たち(Einstein’s Monsters, 1987)』を 刊行した。

 こうした新冷戦下における緊張の高まりは、しかしながらソ連国内の経済危機 のために次第に緩和していくこととなる。もはやアメリカと軍拡競争を繰り広げ るだけの体力を残していなかった同国では、1982年のレオニード・ブレジネフ の死後、ユーリ・アンドロポフとコンスタンティン・チェルネンコによる短命政 権を経て、1985年に改革派のミハイル・ゴルバチョフが共産党書記長に登板し た。もちろんこれ以降の数年間が先述した時代区分の後半に当たるのであるが、

この当時、ペレストロイカとグラスノスチを打ち出したゴルバチョフは、外交に おいてはアメリカを始めとする西側諸国との関係改善に乗り出し、冷戦終結へと 動き始めていた。事実、急速に接近した米ソの間で1987年には中距離核戦力全 廃条約が結ばれた。そして1989年にはソ連軍のアフガニスタンからの完全撤退 が決定され、同年12月のマルタ会談ではゴルバチョフとジョージ・HW・ブッ シュ大統領が握手を交わし、冷戦時代の終焉が正式に宣言されている。のみなら ず、これに先立つ11月にはベルリンの壁が崩壊し、それに前後してポーランド、

ハンガリー、ブルガリア、チェコスロヴァキア、そしてルーマニアの社会主義独 裁体制が倒れた。

 ゴルバチョフによる改革の甲斐もなく、「悪の帝国」ソ連は1991年に崩壊し、

それによりアメリカは世界唯一の超大国として君臨することとなった。ポスト冷 戦時代を特徴づけるイデオロギー闘争の終焉とアメリカ新自由主義に基づくグ ローバリゼーションについては当時より様々な意見が投げかけられてきたが、例 えばフランシス・フクヤマは『歴史の終わり(The End of History and the Last Man, 1992)』においてアレクサンドル・コジェーヴの議論を踏まえつつ、絶え間ない 進歩と争いのプロセスとしての「歴史の終焉」を論じた。またそれから数年後、

ペリー・アンダーソンはジャン=フランソワ・リオタールが『ポストモダンの条 件(La condition postmoderne: rapport sur le savoir, 1979)』で提示した「大きな物 語の終わり」の言説に対抗しつつ、自著『ポストモダニティの起源(The Origins

of Postmodernity, 1998)』の中で、1980年代を境目として人類史上初めて「世界は

全ての中で最も壮大な支配の下へ、すなわち自由と繁栄という単一かつ普遍的な 物語に向かって、落下し続けている」と警鐘を鳴らした3。ここでアンダーソン は、冷戦後の世界がリオタールの予言とは反対に、むしろアメリカ新自由主義と いう空前の「大きな物語」へと収斂していったことを皮肉交じりに指摘したので

(4)

あった。こうした歴史的背景を踏まえた上で、本稿はまず東欧における独裁体制 の崩壊や社会主義の敗北、そしてその後の政治裁判の過程を描出したバーンズの

『ポーキュパイン』を分析し、続いて冷戦終結に関する問題をナチズムの記憶と の関わりから探求したマキューアンの『黒い犬』について検討する。

3

 ジュリアン・バーンズは風刺小説『イングランド・イングランド(England, England, 1998)』やブッカー賞受賞作『終わりの感覚(The Sense of an Ending, 2011)』などで知られるイギリス屈指の人気作家である。彼は『フロベールの鸚 鵡(Flaubert’s Parrot, 1984)』や『10 1/2章で書かれた世界の歴史(A History of the World in 101⁄2 Chapters, 1989)』といった作品によって、1980年代より既にポスト モダン文学の旗手と目されていたが、第七作目の長編に当たる『ポーキュパイン』

においては概して冷徹な描写に徹している。無論、作者はここで一般民衆の声を 物語中に挿入することにより視点の複層化を図るという手法を用いているが、作 品全体として見れば、技巧を極力排した本作の叙述スタイルは伝統的リアリズム 文学のそれに近いと言える。この小説はいわゆる「東欧革命」直後の架空のソ連 衛星国を舞台とし、失脚し逮捕された前大統領ストーヨ・ペトカノフの裁判を、

主にそれを担当する主任検事ペーター・ソリンスキーとの関係から描いている。

作中には妻エレナと共に処刑されたルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェス クへの言及が度々見られるが、ピーター・チャイルズによればバーンズがモデル にしたのはむしろ、同時期に退陣したブルガリアのトドル・ジフコフ元国家評議 会議長であった4。作者自身の綿密なリサーチに基づいたこの小説は実際のブル ガリア現代史に関するアリュージョンに満ちているが5、ヴァネッサ・グィグネ リーが指摘している通り、それゆえに本作は、一見するとこれまでの彼の作品に 顕著であったポストモダン的要素が希薄であるにもかかわらず、現実とフィク ションとの境界線を見事に融解させるのである6。フレデリック・M・ホルムズ はこの曖昧性について、それはバーンズがいわゆる「大文字の歴史」、すなわち 単一的ないし単線的な歴史観を否認していたからに違いないと述べている7 もちろん、当時の多くのイギリス作家たちと同じく、バーンズは政治的にはリ ベラル陣営に属していたが8、『ポーキュパイン』には左右両派に対するイデオロ ギー的な肩入れは見られない。作者がむしろここで強調しているのは、社会主義 という、昨日まで日常生活の全ての原理を支えていたはずのイデオロギーが崩壊 したことにより、未来に向かって前進しようとしつつも未だに過去を清算できて

(5)

いない国家と民衆の姿である。換言すれば、こうした宙吊り状態の混乱した社会 を描くことにより、バーンズは時の流れがもたらす歴史の審判を待たずして、わ れわれは自らの手で「過去」を清算できるのかという問いを投げかけているので ある。民主化直後のブルガリアが現実にそうであったように、本作において独裁 者の失脚後の国家は暫定的な状態にある。例えばペトカノフが逮捕された後、後 継者となったマリノフは共産党を社会党に改名し、一党独裁制を放棄して総選挙 を実施するが、かつての社会主義勢力がマス・メディアを独占している状態で の選挙に準備不足の野党諸派は猛反発する(Barnes 21)。総選挙の結果、社会党 は辛うじて政権の座に留まり、諸政党に大同団結を訴えるも、野党は与党のこれ までの悪政の数々を厳しく弾劾するばかりで両者の協調はならなかった(21-2)。

こうした状況の中、国内では深刻な食糧難が発生し、冒頭で描かれているように 調理道具を打ち鳴らした主婦たちのデモ行進が始まった。財政難の政府は軍の弾 薬さえ切らしている有様であり(49)、こうした点を指摘しつつペトカノフはソ リンスキーに対して、社会主義下における自らの執政時代を正当化する。

そして人々は何を欲しているのか? 彼らが欲しているのは安定と希望だ。

我々はその両方を与えた。必ずしも完璧ではなかったが、社会主義の下で、

人々はいつの日かそれが上手くいくかもしれないと夢を見ることができた。

お前たちは彼らに不安定と絶望を与えただけだ。(69

ペトカノフは民主化と市場の開放に伴う犯罪の急増や闇市の登場、ポルノグラ フィや売春の氾濫などを挙げて、新政権下の社会情勢がかつてのそれよりも後退 していると批判するが(69)、それに対してソリンスキーは、「お前が民衆に与え たものは幻想に過ぎない」と反論し、「今は過渡期なんだ。痛みを伴う再調整が 必要なんだ」と述べる(70)。本作において「変化(the Changes)」と呼ばれる事 実上の革命が将来的な進歩に繋がるとソリンスキーを始めとするリベラル派や一 般大衆は信じているが、少なくともこの時点においては、社会情勢は「自由」と 引き換えに以前よりも後退したといっても過言ではない状態にある。冷戦及び社 会主義体制の終焉から、アメリカを中心とする資本主義市場への参入に至る歴史 的分水嶺の上に立つ登場人物たちは、暗中模索の状況、つまり未だ進歩か後退か の判断も不可能な宙吊りの状況を生きているが、無論彼らには歴史の審判を待つ だけの時間的な猶予はない。それゆえ彼らはそうした切迫した状況の中で、忌ま わしい「過去」を清算することによって、何とか未来へと歩みを進めようとして

(6)

いるのである。

 しかしながら、『ポーキュパイン』で一貫して描かれるのは、歴史的「過去」

の清算という困難な行為がそれ自身の内に孕む幾つかの問題である。例えばペト カノフは違法に逮捕され(9)、彼自身がかつて大統領として制定した抑圧的な法 の下で裁かれる(15)。これはミイラ取りがミイラになるという皮肉な出来事に 違いないが、新政府側はここでまさに恐るべき「過去」の遺物である法を用いて、

その「過去」そのものの象徴である前大統領を断罪するのである。言い換えれば、

人々はペトカノフが行ってきた暴虐を、いわばかつての彼自身と同じやり方で彼 に対して行使するのであり、その点で「過去」を断ち切ろうとするこの行為その ものが逆説的に「過去」の反復になっているのである。事実、ソリンスキーは前 大統領を「我々の歴史上最悪の犯罪者」として処刑すべきだと考える強い世論に 配慮せざるを得ず(94)、有罪という結論ありきの裁判は彼の妻マリアをして「見 世物」であると言わしめる(113)。作中でペトカノフは、かつて実の娘で文化相 を務めていたアナを「反革命」という理由で暗殺した容疑をかけられるが、その 根拠は粛清を示唆する書類に残された彼のイニシャルのみであった。彼はそれが 正式な署名ではなく容易に偽造が可能なものであると主張するが(109)、(最終 的には棄却されたものの)ソリンスキーはこの証拠不十分の容疑を前大統領の罪 状に加えたのだった。この一連の流れはある意味で、恐らくペトカノフ政権下で 日常的に行われていたであろう形骸化した裁判や、ヨシフ・スターリンによる大 粛清時代のモスクワで行われた残酷な見世物裁判の反復に他ならなかったのであ る。

 このように、『ポーキュパイン』において人々は「過去」と決別するために

「悪」を悪法によって断罪し、一貫して無罪を表明し続けていたペトカノフを処 刑する。だが作中で言及されている通り(37-8)、一体「誰に裁く権利があった のか」という問いはその後にも依然として残る。誰が悪を悪と認定し、かつて 国家そのものであったこの男を、如何なる立場から裁き得るのか―こうした問 いかけに対する答えをバーンズは物語の中で明確には用意していない。なぜなら 本作が描く社会においてこの問題は根本的に解決不可能だからである。物語の中 盤、被告席のペトカノフ前大統領は、公判を主導する法廷のエリートたち一人一 人に向かって「君は良いアパートを持っているだろう?」と繰り返すが(59)、

ここで彼の台詞が示唆しているように、「変化」後の新政権を担う階層はほぼ全 員が社会主義政権の下で多大な恩恵を受けてきたばかりか、その抑圧的支配に何 らかの形で加担してきた者たちに他ならなかった。もちろん主人公であるソリン

(7)

スキーや彼の家族もその例外ではない。例えば彼の父は失脚して今は病床にある とはいえ、かつては初代国家指導者やペトカノフと並ぶ共産党の最高幹部の一員 であったし、彼自身も結党メンバーの祖父と反ファシズム闘争の英雄である父を 持つ女性マリアと政略的に結婚することによって、大学で安定した地位を得るこ とに成功していた。その後ソリンスキー自身は党の活動から距離を置いて反政府 勢力「緑の党」の運動に身を投じるが、一方で筋金入りの共産主義者であった彼 の妻は、自身の祖父が「トロツキストのテロリスト」として1937年に粛清され ていたことを知った後も自らの政治的信念を捨てることはなかった(102)。そし てペトカノフの裁判が結審に向かう頃、彼女は遂に夫に対して「愛情と尊敬」を 失ったと告白するのであった(112)。ソリンスキーは物語の前半、自分はペトカ ノフ裁判において注意深く「ヤマアラシの手袋(porcupine groves)」を嵌めてい ると比喩的に語っていたが、最終的に父親を病気で亡くし、妻と娘を失った彼に とって、ペトカノフを痛めつけるための手袋の針は皮肉なことに内側、すなわち 自分自身の方を向いていたのである。

 本作においてバーンズが主題としたのはまさに、「過去」との決別が不可避的 に産み出すこうしたディレンマに他ならなかった。物語を通して作者が暗示して いるように、未だ暫定的な社会において、歴史による審判を待たずして早急に

「過去」を清算しようとするとき、実のところ何者もその「過去」から完全に無 縁ではあり得ないし、従ってそれに審判を下す超越的な主体も存在しない。それ だけでなく、皮肉なことにソリンスキーを始めとする登場人物たちは、ペトカノ フをペトカノフの法によって裁くという一種の茶番劇を通して、「過去」を断ち 切るためにもう一度だけ「過去」を反復せざるを得ないのである。しかしながら こうした試み―すなわち「過去」をそれ自体の枠組みの中で断罪するという行 為―が倫理上の問題を孕んでいることを承知した上で、彼らはそれでもなお明 るい未来へと前進する可能性に賭けるのである。ペトカノフが社会主義と革命の 完遂のために多くの人々を犠牲にしてきたのと同じように、冷戦後の「新たな時 代」を迎え入れるため、今度は彼らがペトカノフ本人を歴史の生贄にするのだ。

4

 『ポーキュパイン』の終盤、死刑判決を受けたペトカノフはソリンスキーに対 して落ち着き払った口調で、「私のことを普通の男だと思うか、それとも怪物だ と思うか?」と問いかける(135)。そして彼は次のように言う―「もし私が怪 物なら、私はお前の夢の中に現れ、悪夢をもたらすだろう。そしてもし私がお前

(8)

と同じ人間なら、私はお前の日常に再び現れるだろう。さぁ、どちらを選ぶの

だ?」(135-6)ここでペトカノフは、例え自分を殺したとしても「私を消し去る

ことなどできない」と言い切り、最後に「お前を呪ってやる。私がお前に判決を 下すのだ」という印象的な台詞を残す(136)。この場面に象徴されている通り、

バーンズの『ポーキュパイン』は冷戦の終結と社会主義イデオロギーの崩壊とい う出来事を背景に、人々が逃れることのできない亡霊的「過去」の問題を探求し ていたのである。

 興味深いことに、この作品と同年に発表された小説『黒い犬』において、イ アン・マキューアンはバーンズと似通った問題意識をある程度まで共有した上 で、この歴史的転換点において如何に人々が「過去」と対峙し得るかという主題 を物語化している。マキューアンは同世代のバーンズのみならず、カズオ・イシ グロやサルマン・ラシュディ、マーティン・エイミス、グレアム・スウィフトな どと並び称される現代イギリスの重要な書き手であり、ブッカー賞受賞作『アム ステルダム(Amsterdam, 1997)』や代表作『贖罪(Atonement, 2001)』の他、これ までに『時間の中の子供(The Child in Time, 1987)』、『愛の続き(Enduring Love, 1997)』、『 土 曜 日(Saturday, 2005)』、『 初 夜(On Chesil Beach, 2007)』、『 未 成 年

The Children Act, 2014)』といった話題作を発表してきた。ドミニク・ヘッドが

指摘している通り、本作『黒い犬』は前作『イノセント(The Innocent, 1989)』と 共に9、マキューアンの新境地である「ポリティカル・ライティング」に分類さ れる10。そうした理由からか、この作品は発売当初まさに賛否両論の評価を受け、

本作を手放しで褒め称えるレヴューは比較的少なかったとされる11

 しかしながら、マキューアンはこの『黒い犬』において現在と過去を自在に行 き来しつつ、第二次世界大戦中のトラウマ的な出来事からベルリンの壁崩壊に至 る戦後ヨーロッパ史を、イギリスと大陸を舞台に壮大なスケールで描くことに成 功している。後述するようにその中で繰り返し強調される「悪」の象徴はナチズ ムやホロコーストの記憶であるが、もちろんこの小説は同時に、過ぎ去ったばか りの冷戦時代そのものを問題にしたテクストとしても読まれ得るだろう。事実、

作中で主として描かれるのは元共産党員である夫婦バーナードとジューンの物語 であり、彼らは共産主義やマルクス主義が孕む相反する要素をアレゴリカルに体 現する存在として提示されている。「合理主義者と神秘主義者」である両者の対 照性はマキューアン自身によって強調されているが(McEwan 19)、アマチュアの 昆虫学者で常に理性を重視する前者は共産主義の科学的側面を、そして後に二頭 の「黒い犬」と遭遇して以来フランスの片田舎に独りで引き籠って執筆活動をす

(9)

るようになったジューンは、その理想主義的かつユートピア的な側面を象徴して いると考えられる。物語中でバーナードは自分が常に「科学的理論」によって正 当化される社会を求めていたと述べ(77)、生き物に関して迷信めいたことを言 う妻に対して、チャールズ・ダーウィンの進化論を持ち出して反駁する(78-9)。

この夫婦は共にマルクス主義に対して「オブセッション」を持ち、それゆえ共産 党に加入するが(58)、そのイデオロギーに対する二人の立場は全く異なってい た。バーナードが言うように、共産党員としてのジューンは「現実からファンタ ジーを引き離すことができず」、常に「ユートピア」への願望に囚われていただ けでなく(90)、「詩的な真実、スピリチュアルな真実、或いは彼女自身の個人的 真実」のみに目を向けていた(86)。一方で科学を信奉する彼は検証可能な真実、

すなわち「二人の人間がそれぞれ別々に認識しうるような種類の真実」のみを求 めていたと言う(86)。

 マキューアンはここで、冷戦期を通して共産主義のこうした対極的な側面がい ずれも失望に変わっていったことを示唆している。「黒い犬」事件のあとジュー ンは共産主義の理想を捨てて神秘主義への傾倒をますます深めていくが、合理主 義者バーナードも妻にやや遅れて1957年のハンガリー動乱を機に党を脱退する。

彼は1989年のベルリンにおいて本作の語り手であるジェレミー・ハーロウ―

彼の娘ジェニーの夫に当たる―に「しかしあなたは十年間も党にいた。あなた 自身もそれと折り合いをつけるために、数えきれないほどの真実を捻じ曲げてき たのではないですか?」と問われて「その通りだ」と答えている(88)。彼は「見 世物裁判や30年代の大粛清、強制的な集団農場化、大規模な集団移住、労働収 容所、検閲、嘘、迫害、ジェノサイド」などを共産主義の矛盾として挙げ(89)、

次のように語る。

理念は良いが、好ましくない人々がそれを統括しているのだとか、それはい つか変わるだろうとか、そんな風に考えるんだ。そしてどうしてこんなに素 晴らしいもの全てを台無しにできるのか、とも思う。それはいつも困難なの が定めであるし、常に実践は理論の通りになった試しがなく時間がかかるの だとか、そんなことを自分に向けて語り掛ける。自分に対して、耳に入って くるのは単なる冷戦時代の誹謗中傷に過ぎないと言い聞かせる。そして、あ んなに大勢の知的で勇敢で善意に満ちた人々が、どうして誤りを犯すことが あるだろうかと、言い聞かせるんだ。(89

(10)

合理主義者であるバーナードは、もし自分が科学のトレーニングを受けていなけ ればもう少し長く党に留まっていただろうと述べるが(89)、幻滅の末、最終的 に共産党を離れた彼は労働党支持に鞍替えし、のちに総選挙に出馬して国会議員 に選出されることになる。

 『黒い犬』の第二部はベルリンの壁崩壊のニュースを聞いて大きな衝撃を受け たバーナードがジェレミーと共に同地を訪れた際の出来事を描いているが、ここ で強調されているのは言うまでもなく冷戦構造の終焉に伴う「新しい時代」への 無邪気な期待に他ならない。マキューアンは壁の崩壊後、各国から人々が集まり 祝祭的ムードに包まれたベルリン市内の光景を子細に描出するだけでなく、ゴル バチョフ政権下のソ連の外交政策の転換にも言及しつつ(73)、社会主義に対す るアメリカ新自由主義の歴史的「勝利」を表象しようと試みている。しかしその 一方で、作者はたとえ歴史が劇的に動こうとも、社会には決して過去と共に置き 去りにすることのできない無数の集合的記憶が存在することを暗示している。こ の点で、マキューアンの意図は『ポーキュパイン』におけるバーンズのそれと反 響し合っていると言える。事実、死を前にしたペトカノフがソリンスキーに向 かって自身がいつか亡霊の如く復活することを宣言し、「私を消し去ることなど できない」と言い放ったように、『黒い犬』においては先述のナチズムやホロコー ストに関わる集合的記憶が、物語の中でまさに亡霊として何度も現れ出る。換言 すれば、われわれが歴史の流れの中で既に克服したはずのもの、或いは歴史の層 の下に埋もれたはずのものが、再び蘇って顔を出し、過去のトラウマを幾度も繰 り返し想起させるのである。

 『ポーキュパイン』の中でペトカノフと先代の指導者が共にかつて反ファシズ ム闘争を経験していたように、現実において東ヨーロッパの共産主義政権はいず れも、ナチズム/ファシズムを打倒し、その脅威から国家と国民を防衛した「功 績」をプロパガンダ的に強調してきた。これは無論、多大な犠牲の末にドイツと の「大祖国戦争」を制したソ連のみならず、ブルガリアやポーランドなどの衛星 国にも当てはまる。しかし当然のことながら、このように第二次世界大戦中に共 産主義勢力がナチズム/ファシズムの時代を終わらせたとしても、その恐るべき 集合的記憶が大衆の脳裏から消え去ることはなかった。マキューアンの『黒い 犬』においては主にナチズムの記憶が「悪」や「狂気」の象徴として扱われてい るが、その不吉なイメージは作中で時を越えて何度も繰り返し復活する。この小 説は必ずしも時系列順に出来事を物語っているのではないため、ここでは便宜上、

まずは1946年に新婚旅行で南フランスのある小さな村を訪れた際、ジューンが

(11)

例の二頭の黒い犬と遭遇した場面に注目してみたいと思う。この重要なシーンに おいて、夫に先立って独り山道を歩いていた彼女は、遠方にロバほどの大きさを した二頭の黒い犬がいるのを発見し、底知れぬ恐怖を感じる(144)。飼い主がい る様子もなく、辺りを徘徊するこの巨大で不気味な生き物を、彼女は理性では計 り知れない「狂気」を具現化した存在として理解する(145)。犬たちはゆっくり とジューンに近づき、襲いかかろうとするが、そのとき初めて神に助けを求めた 彼女は、自身を包み込む「色のついた不可視の光」を感じる(149-50)。彼女は 後にこのときのことを「私は悪に遭遇して神を発見した」と説明している(60)。

バーナードはこの出来事をナンセンスだとして退けつつも、彼女が「一頭の犬が 個人の憂鬱症だとしたら、二頭の犬は一種の文化的憂鬱症」だと解釈していたと 述べる(104)。それというのも、かつてウィンストン・チャーチルが自身の憂 鬱症を「黒い犬(black dog)」と呼んでいたことを妻に教えたのは彼であり、彼 によると彼女はこの言葉に触発されて複数形の「黒い犬たち(black dogs)」のイ メージを構築したと考えられるからであった(104)。

 ジューンは村のホテルで傷の手当てを受けたが、そこに現れた市長はこの二頭 の黒い犬が、実は第二次世界大戦中にゲシュタポによって連れてこられたもので あったと明かす。フランスがナチスの占領下にあった頃、この村は連合国側に密 かに情報を流していたが、そのことを聞きつけた親ナチ派の民兵団が協力者を 逮捕すべくやって来た。その後、村には黒い犬を連れたゲシュタポが現れるが

(158)、彼らはその地に住み着いたばかりの若い女性を拘束・監禁し、暴行を加え

て強姦したとされる。しかしながら、その光景を目撃した知人から市長が聞いた 話によると、椅子に縛り付けられた女は、恐るべきことに人間ではなくまさにそ の黒い犬によって犯されていたのだという(160-61)。ホテルの人々はこの話を 酔っ払いの戯言だとして強く否定したが、このことから少なくともその忌々しい 記憶は、長らく村人たちにとって一種の語り得ない禁忌と見做されてきたことが 分かる。もちろんその話の真偽は定かではないが、仮に市長の説明が正しければ、

ジューンが遭遇した二頭の黒い犬は、ナチスの撤退によって自然の中に置き去り にされ、野生化したゲシュタポの犬に他ならないのであった。

 第二次世界大戦中のナチズムに関する記憶は、このように戦後の1946年になっ てジューンの前に突然また姿を現したが、作中でその恐るべきイメージは、新冷 戦期の1981年に語り手ジェレミーが共産主義体制下のポーランドを訪れた場面 と、冷戦終結後の1989年に彼がバーナードと共にベルリンを訪問する場面に再 び登場する。ポーランドで戒厳令が発令され反体制派への大規模な弾圧と迫害が

(12)

開始された1981年、後に妻となるジェニーと同国で出会ったジェレミーは、マ イダネクにあるユダヤ人の強制収容所の遺構を見に行きたいと彼女に誘われる。

そこで数えきれないほどの死者たちの靴が収容所内の籠や床の上に散乱している 様子を目撃した彼は、ホロコーストの痕跡を前にして「私の感情は死んだ」と感

じる(111)。一方、ジューンの娘であるジェニーは何も知らない彼に対して、こ

の場所で「黒い犬」というあの言葉を呟く(110, 112)。続いてアメリカ資本主 義の「勝利」と東西冷戦の終結が決定的となった1989年、歓喜に沸くベルリン の街を訪れたジェレミーとバーナードは、ゲシュタポの本部跡などを巡ったあ

(93-4)、遂に崩壊した壁の前にやって来る。だがそこでバーナードは鉤十字の

刺青をしたスキンヘッドの若者たちに襲われ、激しい暴行を受ける(96-9)。こ の場面に描かれているネオナチ風の若者たちは、言うまでもなく幾度も蘇るナチ ズムの亡霊的記憶を象徴しているに違いないが、興味深いことにここでバーナー ドを助けたのは、二年前に白血病で死んだ妻ジューンと瓜二つの女性であった

100)。要するに、ナチスの黒い犬に襲われたジューンがかつて「神」の存在に よって命を助けられたように、ネオナチから暴力を受けたバーナードはジューン の再来とでも言うべき不可思議な存在によって命を救われたのである。

 これまで見てきたように、『黒い犬』においてナチズムのトラウマ的記憶は、

戦後ヨーロッパ史を通じて克服不可能なものとして、歴史の層の下から幾度も幽 霊のように顔を出す。事実、ナチス占領時代の南フランスにおいてのみならず、

ナチスを駆逐した共産主義者たちが支配するポーランド人民共和国において、そ してナチズム/ファシズムを滅ぼした共産主義体制の崩壊後、すなわち新たなグ ローバル時代の幕開けに際しても、その記憶のイメージは亡霊の如く登場人物た ちの前に姿を現すのだ。言うまでもなく、マキューアンが作中で「悪」そのもの や文明の「狂気」の体現として提示した黒い犬という象徴的な生き物は、単にナ チズムの恐怖だけでなく、例えば広島・長崎への原爆投下や社会主義体制下での 粛清といった、二〇世紀における様々なジェノサイドへの暗示を孕んでいると考 えられる。換言するならば、冷戦の終わりを描いた『黒い犬』の中で、作者は時 代の移り変わりに際してさえ、人間が決して過去に置き去りにしていくことので きない集合的記憶の存在を示唆し、われわれの社会が如何にしてそうした巨大な トラウマに対峙し得るのかを問いかけたのである。

5

 バーンズとマキューアンという現代イギリスを代表する二人の作家は、冷戦の

(13)

終結、東欧における社会主義体制の崩壊、そしてアメリカを中心とする画一化し たグローバリズムの確立という歴史的な転換点を背景に、それぞれのテクストを 綿密に構築した。バーンズの『ポーキュパイン』はイデオロギーの崩壊によって 宙吊り状態になった社会が、まさに未来を手探りで掴み取ろうとしている状況を 表象しつつ、その中で誰もが無縁たり得ない「過去」を、人々が如何にして清算 することが可能なのかといった難問を提示した。その一方で、ナチズムと共産主 義の関係をより大きな歴史の流れで捉えたマキューアンの『黒い犬』は、狂気に 満ちた「過去」の集合的記憶が時代の変遷を越えた人間のトラウマとして受け継 がれ続けることを、シンボリカルな手法を用いて見事に描き切ったと言える。こ のように、少なくとも両者は共に逃れ去ることのできない「過去」の忌まわしい 記憶という主題を中心的に扱っているが、バーンズはそうした「過去」に早急に 別れを告げようとする社会の諸相に主に目を向け、マキューアンは清算し克服し たはずの「過去」が歴史の中で幾度も亡霊の如く蘇り、人々にトラウマを喚起さ せる様子を表現したのである。以上のように、奇しくも同年に出版された『ポー キュパイン』と『黒い犬』という二作のイギリス小説は、冷戦の終結という歴史 的事件を単に表層的な背景として取り込むのではなく、むしろそれを契機として 戦後ヨーロッパの「過去」や、ポスト冷戦時代というまだ見ぬ「未来」に対して 真摯な問題提起を行ったのである。

1 テクストはJulian Barnes, The Porcupine (1992; London: Vintage Books, 2014)及びIan McEwan, Black Dogs (1992; Vintage Books, 1998)を用いる。以下、この二作からの引用の日本語訳 は筆者によるものであり、引用頁は本文中の括弧内に記す。

2 Andrew Hammond, British Fiction and the Cold War (New York: Palgrave Macmillan, 2013);

Andrew Hammond, Cold War Stories: British Dystopian Fiction, 1945-1990 (London: Palgrave Macmillan, 2017); and Daniel Cordle, Late Cold War Literature and Culture: The Nuclear 1980s (London: Palgrave Macmillan, 2017).

3 Perry Anderson, The Origins of Postmodernity (London: Verso, 1998), 32.

4 Peter Childs, Julian Barnes (Manchester: Manchester University Press, 2011), 99.

5 『ポーキュパイン』は英語版よりも先にブルガリア語の翻訳版が出版され、同国で大き な成功を収めた。この小説の執筆過程や作者のリサーチの模様については、バーンズ と編集者の書簡のやり取りをまとめた次の記事に詳しい。Dimitrina Kondeva, “The Story of Julian Barnes’s The Porcupine: An Epistolary 1/2 Chapter”, in Julian Barnes: Contemporary Critical Perspectives, eds. by Sebastian Groes & Peter Childs (New York: Continuum, 2011), 81-91.

(14)

6 Vanessa Guignery, The Fiction of Julian Barnes (New York: Palgrave Macmillan, 2006), 88. 

また、ブルース・セストーは虚構の人物であるペトカノフとゴルバチョフの関係性こ そが、フィクション的なものと歴史的なものとが作中で交錯する重要な点であると述 べている。Bruce Sesto, Language, History, and Metanarrative in the Fiction of Julian Barnes (New York: Peter Lang, 2001), 126.

7 Fredrick M. Holmes, Julian Barnes (New York: Palgrave Macmillan, 2009), 135.

8 Merritt Moseley, Understanding Julian Barnes (Columbia, South Carolina: University of South Carolina Press, 1999), 146.

9 この小説は1950年代前半の冷戦下ベルリンにおけるアメリカCIAのいわゆる「金工作

/黄金作戦(Operation Gold)」を描いている。

10 Dominic Head, Ian McEwan (Manchester: Manchester University Press, 2007), 91.

11 David Malcolm, Understanding Ian McEwan (Columbia, South Carolina: University of South Carolina Press, 2002), 132-34.

参照

関連したドキュメント

The mathematical and cultural work of the Romanian geometer Gheorghe Tzitzeica is a great one, because of its importance, its originality but also due to its dimensions: more than

Economic and vital statistics were the Society’s staples but in the 1920s a new kind of statistician appeared with new interests and in 1933-4 the Society responded by establishing

• We constructed the representaion of M 1,1 on the space of the Jacobi diagrams on , and we gave a formula for the calculation of the Casson-Walker invariant of g = 1 open books.

1982 1984 1986 1988 1990 1992 1994 1996 1998 2000 2002 2004 2006 2008 2010 0. 10 20 30 40 50 60 70 80

・大都市に近接する立地特性から、高い県外就業者の割合。(県内2 県内2 県内2/ 県内2 / / /3、県外 3、県外 3、県外 3、県外1/3 1/3

Droegemuller, W., Silver, H.K.., The Battered-Child Syndrome, Journal of American Association,Vol.. Herman,Trauma and Recovery, Basic Books,

・ 改正後薬機法第9条の2第1項各号、第 18 条の2第1項各号及び第3項 各号、第 23 条の2の 15 の2第1項各号及び第3項各号、第 23 条の

あり、各産地ごとの比重、屈折率等の物理的性質をは じめ、色々の特徴を調査して、それにあてはまらない ものを、Chatham