アリストテレス『自然学』における時間の概念
──「〈より先・より後〉に関する運動の数」としての時間に関する試論──
田之頭 一 知
TANOGASHIRA Kazutomo
序──
動について
アリストテレスは、哲学の歴史の中ではじめて体系的に時間を論じた人物と言うことができ るであろうが、その時間論は『自然学』第4巻で集中的に語られている。その著作はタイトル が示す通り、自然(φύσις)を対象に取り上げて、その仕組みを、現代ふうに言えばその構造を、 解き明かそうとしたものである。その際彼は自然を、動いたり変化したりするものに内在的 な、動(κίνησις)ないし変化(μεταβολή)の始原・原因と捉え(cf. 192b8-193a2)、そのよう な自然の根本問題として、文字通り自然の原理となるもの、および運動、場所(現代ふうに言 えば空間)、時間などを取り上げている。ただし、その自然の捉え方からも分かるように、動 および変化と自然は密接な関係を持っているので、自然についての哲学的探究は、動に関する 考察を中心のひとつにして展開されると言っても過言ではない。ではその動とはいかなるもの か。アリストテレスはそれを、「可能態にあるものが、そのようなものとして、完全現実態に あることが動である(ἡ τοῦ δυνάμει ὄντος ἐντελέχεια, ᾗ τοιοῦτον, κίνησίς ἐστιν)」1 (201a10-11)と定義する。そしてそれに続けて動の例として、性質的変化(ἀλλοίωσις)、〔量の〕増大・ 減少(αὔξησις, φθίσις)、〔実体の変化としての〕生成・消滅(γένεσις, φθορά)、場所移動 (φορά)を挙げている。ただし、この4つのうち、厳密には実体の変化としての生成・消滅 は動には含まれず、「性質・量・場所の変化」が動と規定される2。つまり、動と変化の関係は、 動よりも変化のほうが意味範囲が広く、変化の中でも性質・場所・量に関わるものが動と呼ば れるのである。このように規定される動を、木製の机の制作を例に取って言えば、木材(=質料) は机(=形相)として実現される可能性を持っている、つまり、可能的に机であるというあり 方(=可能態)をしているが、そのままの状態では机になり得るという可能性は発揮されない。 しかし制作活動が始まると、木材の持っていた机になり得るという可能性が、可能性として現 実化されているあり方(=完全現実態)へともたらされる。つまり動は、木材が有する机にな り得るという「可能性」が、まさに可能性として十二分に、すなわち、あくまでも「可能態として」という資格において、現実化されているあり方のことを言う。したがって、机が完成し て制作活動が終了してしまうと、木材の持っていた机になり得るという可能性が消失し、動は そこに存在しなくなる。アリストテレスにあって動は、可能態から完全現実態への移行ではな く、可能態そのものの完全現実態であると言えよう3。 自然はこのように理解された動をいわば通奏低音のように響かせているのであり、時間 (χρόνος)もまたその響きに包まれている。中心となる概念はあくまでも動や変化のほうであ って、時間もその角度から眺められてくるのである。以下、彼の時間論の要点を考察してみた いが、あらかじめ記しておけば、私たちは彼の時間論に西洋古典学的あるいは文献学的アプロ ーチを試みるのではなく、あくまでも私たちの関心事にしたがって、つまり時間論の立場から、 難解な部分も多々含まれるその議論を検討してみたい。
1 時間の定義──
「〈より先・より後〉に関する運動の数」
まずは私たちの実感から出発しよう。私たちは時間が刻々と過ぎ去り、流れ去ってゆくと感 じている。もしくは、物事が変化していることに気づいたとき、私たちはそこに時間が流れ去 っているのを感じ取るというふうに言ってもよい。もしも時間が過ぎ去らなかったならば、物 事は何ひとつ変わらないであろうし、逆に何も物事に変化がなかったならば、そこに時間があ るとは感じられないであろう。あるいは、私たちはどこかへ移動しようとするとき、目的地に 着くのにどれほどの時間がかかるか必ず考慮に入れるが、時間量を用いてその運動のあり方を 示すこともよく行なわれることである。このように、総じて何かがどこかへ動いてゆくとき、 あるいは、何かが変化してゆくとき、それには時間が必要だ、と私たちは捉えているのであって、 変化や運動に必須のこの時間を消去することはできない。その点で、時間と変化や運動は不即 不離の関係にあると言ってよい。とはいえもちろん、両者は同じものではなく、こう言ってよ ければ、時間は変化や運動が成り立つ場である。アリストテレスにとっても、事情は基本的に は同じであって、性質的変化・量的変化・場所的変化としての動にとって──さらには実体の 変化としての生成・消滅にも──、時間は必須のものである。ただし彼は、次の2つの点で変 化および動と時間は異なっていると考える。まず、変化や動は、変化しているもの、あるいは、 動いているものにおいて認められるが、時間はどこにでも、どんなものにでも認められるとい う点(cf. 218b10-13)。次に、変化や動には遅速の違いがあるが、時間にはそれがなく、むしろ 時間が遅速を規定するという点(cf. 218b13-18)である。もっとも、時間と動および変化が密 接な関係にあるのは疑い得ない以上、アリストテレスは時間が「動の何か(τῆς κινήσεώς τι)」 (219a9-10)でなければならないと考える。そして時間経過の知覚の問題を論じた後(この点は後に取り上げる)、時間を「〈より先・より後〉に関する運動の数(ἀριθμὸς κινήσεως κατὰ τὸ πρότερον καὶ ὕστερον)」(219b2)と定義するのである(なお、時間の定義が語られる少し前 の219a10以降、時間の問題は場所移動としての運動をモデルに考察されてゆくので、以下本論 では κίνησις の訳語として動ではなく、運動を当てることにする)。このようにアリストテレ スは、時間を運動との関係において規定しているが、そこには〈より先・より後〉という先後 関係の要素と、数という要素が加味されている。したがって、この定義を考えてゆくには、そ の2つの要素について考察を加えることが肝要となるだろう。まずは数から見てゆきたい。 (1)運動の数 アリストテレスによれば、「運動の数」としての時間は、「数を持つかぎりにおいての運動」 (219b3)であり、それゆえまた、「一種の数(ἀριθμός τις)」(219b5)だということになる。 ただし彼は、数という言葉には2通りの意味があると言う。すなわち、「数えられるもの(τὸ ἀριθμούμενον)」「数えられ得るもの(τὸ ἀριθμητόν)」としての数と、「それによって私たち が数えるところのもの(ᾧ ἀριθμοῦμεν)」としての数である。まず、「それによって私たちが 数えるところのもの」というのは、抽象的な数(2、3、4等々の自然数。ただし、1は数の 単位であり原理であって数ではない4)のことで、「数えられるもの」「数えられ得るもの」とは、 抽象的な数が適用され得る具体的対象の数量、たとえば10頭の馬とか10本の木、5人の人間な どといった数のことを指す。この数は、いわばこのものはいくつあるか、といった問いに対す る答えとして呈示されるものである。そしてアリストテレスは、「時間は数えられるものであ って、それによって私たちが数えるところのものではない」(219b7-8)と述べる。実際、時間 が抽象的な数であるとすれば、そのような数は馬にも人間にもそして運動にも適用可能で普遍 的なものとなるので、わざわざ「運動の」という限定をつけることに必然性が感じられなくな ってしまうだろう。とすれば、「運動の数」としての時間は、こう言ってよければ、「数えるこ とのできる運動の数」である。 ここで、「数える」という作業を考えるならば5、たとえば馬の数を5頭、10頭と数えること は、馬と呼び得るもの、馬とはこれこれのものであるという定義に適うものがどれくらいある のか、を数を用いて表わすということである。あるいは、馬という種に含まれる個体としての 馬がどれほどあるか、を数によって示す作業であると言ってもよい。この場合、留意しなけれ ばならないのは、ものの数を数える場合、対象領域の構成要素が、少なくとも互いに明確に区 別されなければならないという点、すなわち、まずもって不連続なものでなければならないと いうことである。これに対して、対象が連続的なものである場合はどうなのであろうか。たと えば、水を数えるということは可能なのであろうか。液体である水については量を測るという
言い方がなされるが、この測るという作業は、或る意味では数えるという作業に変換可能であ る。たとえば、水の量を言い表わすのにコップ3杯の水とかバケツで10杯という言い方をする ことがあるが、これは水の量をコップやバケツの数を数えることで示したものである。水は固 体容器に合わせた形を手に入れて、不連続な領域を形成することができるので、容器として使 用できるものを「水の量を測る基準」つまり「水の量を数える単位」に取り、それがいくつあ るか、を示すことによって水の量を表わすことができるようになるのである。このことは距離 や長さ、面積等に関しても同様で、たとえば「数える単位」を歩幅に取れば、歩いて10歩のと ころ、などと言うことができる。こういった作業が意味するところは、連続している対象の場合、 それに楔を打ち込んで対象を分節ないし分割することができるならば、その楔を打ち込むもの、 対象の連続性を限定することができるもの──コップであるとか、歩幅であるとか──を「基 準単位」として用いれば、対象を数えることができるということである。言葉を換えれば、数 えるという作業は、対象が「基準単位」の何回の繰り返しで構成されているのかを示す作業と いう面を持つ。このように、連続量は何らかのものを「数える単位」として用いたとき、不連 続なものへと変換されるのであって、「基準単位」がその変換装置の役割を果たしている。も っとも、変換装置、「数える単位」となり得るものは、数える対象と共通性を持っていなけれ ばならない。対象が液体であるならば、単位となるものは容積(嵩)を持っていなければならず、 広さであるならば面積を持っていなければならない。つまり基準単位は、対象が示す連続性と 数が示す不連続性という性格を併せ持つものでなければならないのである。このように見たと き、運動は通常、測定の対象であって、1つ2つと数える対象ではないのであるから、まずは 運動を数えられ得るものに変換する必要がある。そのためには、まずもって運動を分節ないし 区分する仕方を明確にしなければならない。それはどのようにして行なわれるのであろうか。 (2)運動における〈より先・より後〉 数えることができるものに運動を変換するために、アリストテレスはまず、運動がそこで行 なわれる場所の空間的な拡がりと運動および時間の間に、それぞれが示す連続性の点で依存関 係があると考える。彼はこう述べる。 「さて、運動体(τὸ κινούμενον 動いているもの)は或るものから或るものへと動いてゆき、 〔そこで運動が行なわれる拡がりとしての6〕どんな大きさ(μέγεθος)も連続しているの であるから、運動は大きさに準ずる(ἀκολουθεῖ)。すなわち、大きさが連続しているので、 運動も連続しているのである。そして、運動が連続しているので、時間もまた連続してい ることになる。というのも、運動が行なわれた分だけ、それに応じて時間もまた常に、経
過したと思われるからである。」(219a10-14) この引用における運動は場所移動を意味しているが、その場所移動としての運動は、空間的 拡がりが連続性を有しているがゆえに、それに応じた連続性を手に入れ、運動が連続している がゆえに、時間もまたそれに準じた連続性を手に入れるとアリストテレスは考えている7。し たがって、連続性に関して三者の間に繋がりが見いだされるならば、逆に区分や分割に関して も繋がりが見いだされるはずである。アリストテレスは続けて次のように述べる。 「ところで、〈より先・より後〉はまず第一に場所〔事物を包み囲む空間的拡がり〕におい て成り立つ。そこでは位置関係によって(τῇ θέσει)それが決まる。大きさ〔場所の空間 的拡がり〕において〈より先・より後〉があるのだから、必然的に運動においても、大き さの場合と類比的に(ἀνάλογον)、〈より先・より後〉が成り立たなければならない。そ してさらに、時間においても〈より先・より後〉が成り立つのであって、それはそれらの うちの一方〔時間〕が常に他方〔運動〕に準じているからである。運動における〈より先・ より後〉は、その存在主体8 について言えば運動であるが、しかしながら、その本質(τὸ εἶναι)は別であって、運動〔と同一〕ではない。」(219a14-21) すなわちアリストテレスは、〈より先・より後〉という先後関係の基盤を空間的拡がりにお ける位置関係に見て、そのような空間的区分が運動における先後関係に受け継がれ、それがさ らに時間にも受け継がれると考えている。ただし、空間的先後関係がそのまま運動における先 後関係に引き継がれるわけではない。空間における先後は、基準点からの距離によって決まる ので、事物の並置ないし布置による何らかの同時的秩序の形成を意味する。これに対して、運 動における先後は順序を必要とするので継起的秩序となり、両者は必ずしも一致しない9。こ う言ってよければ、空間的先後関係は、単なる回路図すなわち布置構造であり、運動的先後関 係は、通過地点の順番をその回路図に記したもの、すなわち順序構造であると言えよう。この ことを、たとえば自宅から大学の研究棟へ歩いて移動するという運動で考えてみるならば、そ の運動は目印となる地点によって区分される。すなわち、①まず4 4 4、自宅から交差点のあるA地 点へ移動、②次に4 4 4、その交差点を右に折れて大学正門があるB地点へ移動、③その次に4 4 4 4 4、正門 から坂を登って研究棟まで移動、というふうに。運動全体はこのように3つに分節ないし区分 され、それによって移動運動が持つ順序構造が明確化されるのである。つまり、運動は空間的 拡がりが有する布置構造を基盤としてはいるものの、それを順序構造に変換したうえで、その 先後関係を受け入れるのである10。とすると、運動に順序をもたらすのは、空間的拡がりでは なく運動そのものだということになる。
先にも述べたように、アリストテレスにとっての動(運動)は、可能性が可能性として現実 化されているあり方(完全現実態)のことであり、この動にはそれへと向かう目的が備わって いる。今の例で言えば、私が有している研究棟に行くことができるというる可能性が、現に歩 いているという活動において現実化されており、その活動の目的は研究棟に到着するというこ とである。この目的を実現するために、運動に順序が導き入れられる。言葉を換えれば、目的 達成のためには手順を踏まなければならないのであって、私は一挙にして研究棟へ行くことは できない。もし一挙にそれを成し遂げることができたとしたら、そこにはアリストテレスが考 えるような運動や変化は存在しなくなるであろう。或るルートを通ることによってしか移動で きないがゆえに、したがってまた、運動に楔を打ち込んでそれを先後に区分する目印が空間的 拡がりの中に見いだされるがゆえに──ここに空間的布置構造が関係する──、目的達成のた めには順序が必要となるのである。このことから分かるように、空間的拡がりの布置構造を順 序構造へと変換させるのは、運動そのものが持つ目的へと向かう方向性である。この方向性に よる順序構造への変換に基づいて、運動における先後関係が規定され、その関係が少なくとも、 「まず(1番目に)→次に(2番目に)→その次に(3番目に)」というかたちで数的なもので あることができるようになる。運動の数としての時間が「数を持つかぎりでの運動」であると いうことは、その根本において「順序構造を持つ運動」という意味に解することが可能であろう。 では、この運動における先後関係が、そのまま時間における先後関係となるのであろうか。 時間における先後関係、それは言うまでもなく、過去−現在−未来という時間様相の関係で あり、時間に関わる日常の言葉のひとつを用いて表わせば、「かつて−今−いつか」という関 係である。この時間的先後関係、それは端的に時間経過の問題と言ってよい。ところが、運動 における先後関係は「まず−次に」「1番目−2番目」という関係であって、時間関係にはな っていない。したがって、空間的布置構造を運動の方向性が順序構造へと変換させたように、 運動の順序構造を時間的なものへと変換させる装置が必要である。ここにアリストテレスにと っての〈今〉の位置が浮かび上がってくると考えることができる11。
2 〈今〉について
(1)〈今〉の多様性 今の問題を考えるに当たって、アリストテレスは先ほど取り上げた依存関係を再び問題とす る。あらかじめその大枠を記しておけば、「空間的拡がりとしての大きさ−運動−時間」とい う系列──これを系列Ⅰと呼ぶことにする──をもとに、それにパラレルな系列として、「点 −運動体−今」という系列──これを系列Ⅱと呼ぶことにするが、これは系列Ⅰより具体的な関係となる──を想定し、そして、両系列の各項の間に、「大きさ−点/運動−運動体/時間 −今」という対応関係を見て、系列Ⅰは系列Ⅱによって認識されると考えている12。まずアリ ストテレスは次のように言う。 「すなわち、先に述べたように、運動は大きさ〔場所の空間的拡がり〕に準じ、時間は 運動に準ずる、というのが私たちの主張である。したがって同様にして、運動体(τὸ φερόμενον)は点(στιγμή)に準じ、この運動体によって私たちは、運動およびその運 動における〈より先〉と〈より後〉〔順序構造を構成するもの〕を識別するのである。そ してまた、運動体は(それが点〔のように小さなもの〕であれ、石であれ、他の何かその ようなものであれ)その存在主体について言えば同一であるが、その語られ方(λόγος) について言えば異なったものになる。それはちょうどソフィストたちが、リュケイオンに いるコリスコンとアゴラにいるコリスコンは異なっていると考えるのと同様である。こ のように、運動体は次々と違う場所にあるということによって異なっているのである。」 (219b15-22) ここでアリストテレスは、場所の空間的拡がりに対応するものとして点を取り上げ、運動に 対応するものに運動体(動いている具体的な当のもの)を取り上げている。そしてさらに、運 動が大きさに準ずるように、運動体は点に準ずると述べている。したがって、少なくともその 個所で用いられている「点」という言葉は、抽象的な拡がりとしての大きさ、あるいは、拡が りを持たずに位置のみを有するもの、といった幾何学的な点ではなく、むしろ運動体が存在し ている具体的な場所、アリストテレスが挙げている例で言えば、リュケイオンとかアゴラがそ れに相当し、空間的拡がりにおける具体的な「地点」を意味するものと言うことができる。そ れゆえ、運動の順序構造は運動体が通過する具体的な地点の順序として識別され、運動体その ものは同一性を保つものの、それがどこにいるのか、どこを動いているのか、という点では異 なっていることになる。コリスコンという人物〔=存在主体のレヴェル、動いているものとい う規定を受け入れるレヴェル〕は同一であるが、その人物がいる地点〔=語られ方のレヴェル、 運動体の具体的様相〕は異なっているのである。もっとも、これは先ほど述べたこと、すなわ ち、運動体は運動に内在している目的の実現という方向性に沿った順序を示すということと同 じことを述べたにすぎない。ただ、ここで留意しておかなければならないのは、運動(系列Ⅰ) を体現して運動体(系列Ⅱ)と規定される存在主体は同一性を保つが──運動「体」は点のよ うなものでも石であっても構わないので多様である(系列Ⅱ)──、運動が有する順序構造(系 列Ⅰ)は、その運動体が位置する地点(系列Ⅱ)の順序として多様なかたちで識別される、と いう点である。つまり、系列Ⅰは同一性を軸とした系列であり、系列Ⅱはその同一性の現われ
方や具体化における多様性の系列と考えることができよう。とすれば、運動そのものが持つ方 向性によって布置構造から順序構造への変換が行なわれるのであるから、系列Ⅰのレヴェルで は、時間そのものと関係する何かによって、運動の順序構造が過去−現在−未来という関係へ と変換されると言えるであろうし、さらに、時間的先後関係を示し得る過去−現在−未来(系 列Ⅰ)は、系列Ⅰの時間に対応しかつ系列Ⅱの運動体に準ずる何らかの具体相によって、系 列Ⅱのレヴェルでさまざまなかたちで現われ、識別されるのではないかと考えることができる。 すなわち、アリストテレスは上の引用に続けて、〈今〉および数あるいは数えるという要素を 持ち込んでくる。 「さらに、運動体には〈今〉が準じているのであって、それは時間が運動に準じているの と同様である(というのも、運動体によって私たちは、運動における〈より先・より後〉 〔順序構造〕を識別し(γνωρίζομεν)、そしてまた、〈より先・より後〉が数えられ得るも のであるかぎりにおいて、〈今〉が成立するからである)。したがって、この場合においても、 〈今〉の存在主体については同一である(というのも、運動における〈より先・より後〉〔順 序構造〕がそれだからである)。だが、〔具体的な〕あり方(τὸ εἶναι)は異なってくる(と いうのも、〈より先・より後〉が数えられ得るものであるかぎりにおいて、〈今〉が成立す るからである)。」(219b22-28) ここでアリストテレスが、点−運動体という系列Ⅱのなかに〈今〉を含めているのは注意す べきである。つまり、この〈今〉もまた具体相を示すものと考えなければならない。言葉を換 えれば、〈今〉が成り立つためには、その〈今〉は抽象的なものではなく、具体的なものでな ければならないということである。このことは、引用にもあるように、〈より先・より後〉と いう先後関係にあるものの数を数えることができるということを意味している。もっとも、具 体的な〈今〉が炙り出す先後関係は、運動の順序構造と同じではないだろう。運動体によって 運動の順序構造が識別されるのであるから、運動体に準ずる〈今〉によって、時間における先 後関係がそれと知られ、数えられ得るものになるであろう。ただし、アリストテレスが〈今〉 の存在主体は同一であると述べている点には注意が必要である。〈今〉の存在主体とは、「今で ある」という規定を受け入れる当のもののことであリ、その点では〈今〉を支えるものである。 アリストテレスはそれを運動における先後関係つまり順序構造と捉えている。運動は必ず順序 構造を持っているのであるから、〈今〉の存在主体はしたがってその点で同一である。しかし、 〈今〉そのものは具体的であるから、そのあり方、その具体的な意味内容(具体的な先後関係) は多様性を示すとアリストテレスは考えていると言えよう13。
(2)変化を析出する〈今〉 ここで一端アリストテレスのテクストそのものからは離れて〈今〉について考えてみたい。 先ほど挙げた自宅から大学の研究棟へと移動する例をもう一度呼び戻してみよう。このとき、 自宅を出て歩いている私がそれぞれの地点でどのような状態にあるのか、あるいは、移動中の どんな状態にあるのかを考えてみたとき、それはたとえば、「自宅を出た」とか「交差点を渡った」 「正門に着いた」等となる。ただ、この言い方に「今」という言葉を付け加えて、「今正門に着 いた」「今交差点を渡った」などとなると、様子が変わってくる14。「今」を用いない言い方は、 「到着した」とか「横断した」という事柄に光が当てられていて、それ以前・以後が示す事柄 つまり運動のコンテクストに対する意識が希薄である。こう言ってよければ、移動運動を輪切 りにしてその断面だけを引き抜いてきた点的な言い方になっている。これに対して、「今」を 加えた言い方は、到着以前と以後、交差点を渡る前と後では何かしらの変化があるということ への暗黙の注意が含み込まれている。つまり移動運動のコンテクストへの意識が働いているの であって、とりわけ「今自宅を出た」と語る場合、その「今」と呼ばれた時点を境にして、そ れ以前は出かける準備をしていたとか、他の用事を片付けていたといった、移動運動とは別の 文脈が暗に語られている。このように、「今~した(している)」という語り方は、連続した運 動に「今」という楔を打ち込むことで、その運動を「それまで」と「これから」(〈より先〉と 〈より後〉)に暗に区分ないし分割し、そうすることによって両者の間の対比を何かしら浮き彫 りにして、そこに変化があるということを析出する働きを持っている。〈今〉は変化の相を含 み込んだものであり、変化があることを前提にして初めて成り立つものなのである15。アリス トテレスもまたこのことを意識していたと考えることができる。彼はこう述べている。 「〈今〉は或る意味では同じものとしてあるが、しかし或る意味では同じではない。すなわち、 〈今〉は〔運動の〕別々の時点においては異なっているが(そしてこのことが、まさに「今 であること」にほかならない)、しかし、〈今〉の存在主体に関しては同一である、という かぎりにおいて、そうなのである。」(219b12-15) 〈今〉が異なっているというのは、運動のさまざまな局面に関して、「今」という言葉を付加 することができるということを意味しており、その場合、〈今〉の具体的な内容(運動体が何 をしているのか、どんな状態にあるのか)はその都度異なっている。しかしながら、そのよう に〈今〉をいろいろに語り得るのは、運動が順序構造を所有しているがゆえであり、したがって、 〈今〉はその存在主体のレヴェルでは同一性を保っている。すなわち、多様性系列Ⅱに属する 〈今〉は、同一性系列Ⅰに立脚してそれに支えられることで、運動の多様な局面において変化 の様相を析出し、それを浮かび上がらせる働きを有していると言ってよい。しかも、〈今〉は
同一性系列Ⅰに属する「時間」に対応しているのであるから、〈今〉によって析出されるその 変化の様相は、時間における変化の様相を意味していると考えることができる。運動の多様な 局面において〈今〉を語り得ることは、「時間」において「多様な今」を析出し、それによっ て時間の変化の様相を規定することに繋がるのである。すなわち、「運動がたえず次から次へ と移り変わってゆくのと同じように、時間もまた移り変わってゆく」(219b9-10)のであり、「〈今〉 は〈より先〉と〈より後〉を規定する(ὁρίζει)かぎりにおいて、時間を規定する」(219b11-12) ことになる。〈今〉は運動の順序構造に依存することで、時間的先後関係を規定するのであって、 これはすなわち、「時間は〈今〉によって連続的となるとともに、〈今〉において分割されている」 (220a5)ということである。アリストテレスは次のように言う。 「すでに述べたように、〈今〉は時間を連続させるもの(συνέχεια χρόνου)である、とい うのも、〈今〉は過ぎ去ってしまった時間〔過去〕と、これからやってくる時間〔未来〕 を連続させるからである。そして、〈今〉は時間の限界(πέρας)16」でもある、というのも、 〈今〉は一方の時間〔未来〕の始まりであり、他方の時間〔過去〕の終わりだからである。〔…〕 また、〈今〉は可能的に〔時間を〕分割する。そして、〈今〉はそのようなものであるかぎ りにおいて、常に異なっているが、他方、〔時間を〕一つに繋ぐ(συνδεῖ)かぎりにおいて、 〈今〉は常に同一である〔…〕。」(222a10-15) 過去と未来の限界をなす〈今〉は、そこにおいて時間が過去と未来に分化するという点にお いて、時間を分割して変化の様相を、すなわち、「時間における〈より先・より後〉」というあ り方を具現している。それは多様性系列Ⅱに属する〈今〉であり、同一性系列Ⅰに含まれる 連続した時間にさまざまな時点で楔を打ち込み、それぞれの局面で時間的先後関係を炙り出す。 この意味において、それはその都度その都度異なる〈今〉と言うことができる。もちろん〈今〉 による時間の分割は、たとえば紙を2つに切り分けるように、実際に時間を2つに分断して両 者を別々のものとすることではない。それは現に行なわれている運動を2つに切り分けること ができないのと同じであって──切り分けることができるとしたら、それは運動を止めて途切 れさせてしまうことになる──、それゆえ、時間の分割はあくまでも可能的なものにとどまる のであり、むしろ時間の分節と言ったほうが適切であろう。しかし一方で、〈今〉において過 去と未来が連続しているのであれば、「過去の限界」としての〈今〉と「未来の限界」として の〈今〉は同じものでなければならず、したがって、そのような〈今〉を分割することはでき ない17。とすれば、過去と未来を連続させる〈今〉は、同一性系列Ⅰに支えられた〈今〉であり、 それは運動の具体的な局面ではなく、運動が有する順序構造(運動の本質的要素)に立脚した 〈今〉、アリストテレス的に言えば、その存在主体が運動における〈より先・より後〉であると
ころの〈今〉である。この運動が有する同一的側面に依存することで、〈今〉は時間の諸局面 を連続させ、こう言ってよければそれを「時間」として統一し、まさに時間の同一性を保証す るのである。しかしながら、運動が立脚している空間的拡がりの布置構造と運動そのものの有 する順序構造が同じものではないように、運動の順序構造と時間における〈より先・より後〉 も同じではないはずである。なるほど現代の私たちであれば、後戻りできないのが時間の時間 たるゆえんであると考え、運動に可逆性を、時間に不可逆性をあてがうであろう。またたしかに、 アリストテレスの考える〈今〉が異なり続けてゆくものであるならば、その点に、同じ今はな いという意味で不可逆性のようなものを認めることもできるかもしれない。しかし、この点に ついて、アリストテレスはただ、今は異なっていると述べるにとどめており、時間のいわば方 向性については語らない。この運動の順序構造と違う時間の構造、その意味での時間に本質的 な要素とは何なのか。そのためにはアリストテレスが時間経過をどのように捉えていたのかを 見る必要があり、それが本論の最後の課題となる。
3 時間経過と変容する〈今〉
〈今〉は運動体に準拠しているのであるから、それを異なったものにするのは、その〈今〉 において生起している出来事(運動体の運動内容)である。たとえば、「今駅に着いた」と語 られるときの今と、「今食事をしている」と語られるときの今が異なっているのは、その各々 の今における到着・食事という出来事による。先ほど私たちは、「今~した(している)」とい う言い方は変化の様相を炙り出すと述べたが、その変化は基本的に運動におけるものであるた め、その意味で運動体にウエイトを置いている。そこでこの言い方を、今を中心にしたものに 変えることができるとすれば、それは「……した(している)今」というかたちになるであろう。 この言い回しにおいては、「……」の部分にそれぞれの今の具体的な内容が語られることで差 異が示されることになるが、そうすることによって今が、運動における変化の様相を炙り出す ものから、さまざまな運動を受け入れる器となり、運動の内容によっていろいろに染め上げら れるものとなる。したがって、数多くの今、「今の数多性」がそこに炙り出されてくる。他方、〈今〉 の存在主体は運動の順序構造なのであるから、到着した今と食事中の今に順序が引き継がれ、 「より先の今」と「より後の今」という区別が成立する。この〈より先・より後〉の〈今〉は、「…… した(している)今」というかたちで示される「今の数多性」を纏め上げる基本形式と位置づ けられるものである。数多くの具体的な〈今〉は、運動の順序構造に従って、「より先の今」と「よ り後の今」に整理されるのである。この点にこそ、〈今〉が時間の先後関係を規定できるよう になる土台がある。というのも、こういう言い方が許されるならば、そのような〈今〉からは運動体が抜け落ちているからである。すなわち、〈今〉は運動体から抽象される。 このように、運動における〈より先・より後〉という順序構造が〈今〉に引き継がれること で、逆に運動体が〈今〉から抜け落ち、それによって、〈今〉そのものに対して〈より先・よ り後〉の区別が認められるようになると、それは当然、1つ目の今、2つ目の今と数えられ得 るものになるであろう。けれども、先後の区別を感知したとしても、それがそのまま2つ、3 つと数によって規定されることにはならない、という点には留意しなければならない。言うま でもなく対象の差異に気づくことと、対象を数えることは同じではないからである。この数え るという作業についてアリストテレスが、それを行なうのは魂の働きつまり知性(νοῦς)であ ると考えている点は重要である(cf. 223a255-2618)。つまり、「より先の今」「より後の今」を「2 つの今」と規定することができるとすれば、それは魂の働きによるということになるからであ る。言葉を換えれば、〈今〉の数を数えるという作業は、知覚や経験のレヴェルの問題ではなく、 知的要素を多分に含んだ作業だということである。アリストテレスはこう述べる。 「すなわち、両端にあるものは中間とは別ものであると私たちが考え(νοήσωμεν)、そして、 〈今〉が2つあると魂が語る(δύο εἴπῃ ἡ ψυχὴ τὰ νῦν)場合──ひとつは「より先の今」、 いまひとつは「より後の今」──、まさにその場合に、私たちはそのようなものこそ時間 であると言うのである。というのも、〈今〉によって(τῷ νῦν)境界づけられたものが時 間であると思われるからである。」(219a26-30, 下線引用者) 「より先の今」と「より後の今」、およびその間にあるものがそれぞれ異なっている、と考え られるとき、知性は両端の〈今〉を数えて、2つであると規定する。すなわち、〈今〉の数を 2つと数えるということは、漠然と違いを感じ取ることではなく、その〈今〉が異なっている ことを「理解する」ということを意味する。アリストテレスにあっては、知性が〈今〉に関し て先後の違いを弁別し、「より先の今」と「より後の今」を「2つの今」と規定することによ って、その「異なる2つの今」で区切られたものが「時間」として現われてくると言うことが できよう。とすれば、時間経過は実は経験の対象ではなく理解の対象である。それは〈より 先・より後〉の2つの〈今〉について、まさしく〈今〉が〈今〉として異なっている、と理解 することなのである。ただし、その「2つの今」は並置されたものではない。並置された〈今〉 は、多様性系列Ⅱに属する運動体Aと運動体Bの〈今〉が同時(共存)であるということを意 味し、それは当然時間経過ではない。アリストテレスは「2つの今」をいわば右と左に「並べ て」考えてはいないのであって、〈今〉がまさしく〈今〉として変容してゆくこと、そこに時 間経過の意味を見いだそうとしているように思われる。すなわち、時間とは変容する〈今〉の ことである。このように見たとき、知性は異なる〈今〉を「2つの今」として数えるのではなく、
異なる〈今〉を「2つの今」として数えることのできる関係にあると考える、ないしは、その ような関係へと導き入れる、と言うことができる。そうすることによって、変容するしかない 〈今〉、つまりは経過してゆく時間が、まさしく数的構造を有するものとして規定されることに なるであろう19。 たとえば、過ぎ去った出来事(過去)が、数を用いて10年前の出来事とされたときに、おそ らく現在と10年前との間に過ぎ去った時間が立ち現われてくる。また、これからの出来事(未 来)について語るとして、それが数を用いて20年後の事柄であるとされれば、その20年後と現 在との間に流れ去るべき時間が浮かび上がってくる。たしかにこの10年や20年という数量は太 陽の運行によって規定されるものではあるが、しかし、アリストテレスの言う「運動の数」は、 少なくともそのことだけを意味しているとは思われない。10年、20年と数を用いて時間を区切 ることによって、そこに時間の厚みが出てくる、という点が重要なのであって、数を用いると、 まさしく「現在との隔たり」が「意識化」されるのである。「運動の数」とは、運動体から抽 象された「2つの今」によって限界付けられたものがまさしく基準単位となり──太陽の運行 に従って「日の出の今」と「日の入りの今」で区切られるものを基準単位にすることは、ひと つのケースにすぎないのであって、その基準単位が具体的にどのようなものなのかはさして重 要ではない(cf. 223a29-223b1)──、その基準単位がいかほど繰り返されるのかによって時間 が数的に構造化され、それによってまさしく現在との隔たりが意識化されるのだ、ということ を語っているであろう。 このように考えたとき、「運動の数」は、運動がいくつあるのかを数えることに重点が置か れているのではなく、さらには、数えるというかたちを取った運動量の測定に重心が置かれて いるのでもなく、運動の進行をまさしく時間の進行と考え──運動体から〈今〉を抽象してそ れを〈今〉そのものの前後関係へともたらすことがそれにあたる──、それにまとまりや構造 を与えてゆくこと──〈より先・より後〉の〈今〉を「2つの今」と規定することがその土台 となる──ではなかろうか。こういう言い方が可能であるとすれば、多様な運動にまとまりを 与え、それによってまさに過ぎ去るものとしての時間を、あるいは、変容するものとしての時 間を、いわば理解可能にするもの、それが数なのである。 もちろん〈今〉が〈より先〉と〈より後〉に振り分けられたとしても、「より先の今」が過 去のことであり、「より後の今」が未来のことであるということにはならない。なるほどアリ ストテレスは、時間に対して魂の働きの重要性を考慮に入れているのであるから、過去と未来 がともに非存在の領域であるとすれば、その魂の働きによって、過去と未来が純粋に私たちの 内面の問題として取り扱われる可能性はある。しかし彼は、これまで述べてきたことからも分 かるように、過去と未来について多くを語らない。それは彼の時間論できわめて重要な位置を
占めているのが、同一性系列Ⅰと多様性系列Ⅱが示す依存関係、および、その両系列間の対応 関係だからである。したがって、空間的拡がりの布置構造が、運動の方向性を触媒として順序 構造へと変換されるように、運動の順序構造を時間の数的構造へと変換させる触媒が必要とな る。そしてその働きを担うのが、おそらくは数える知性(ないし数えるという作業)になるだ ろう。もちろんアリストテレスはそのようなことを明確に語っているわけではないが、彼の時 間の定義は変容する〈今〉、経過する時間を、こう言ってよければ、意識の前景へと浮かび上 がらせる装置になり得るものなのである。 注 1 『自然学』からの引用はすべて拙訳で、訳文中の〔 〕は訳者の補足である。なお、訳出に当たっては 藤沢令夫訳に教えられるところが多かった。 2 第5巻225b7-9において、「動は必然的に次の3つである、すなわち、性質(ποιόν)に関するもの、量 (ποσόν)に関するもの、場所(τόπος)におけるものである」と述べられている。また、同じ第5巻 226a23以下も参照のこと。 3 動の定義の捉え方に関しては、藤沢訳97頁の訳注、Hussey, pp.58-60 および次の論考を参照。松浦和 也「アリストテレスにおける時間の実在性」(『哲学』第60号、日本哲学会、2009年、249−262頁)。なお、 動の定義の中で用いられている ἐντελέχεια を actualization(現実化)の意味にとるロスの解釈(Ross, p.537)は採用しない。 4 この点に関しては『形而上学』第5巻第6章1016b18、第10巻第1章1052b1-24を参照。 5 『形而上学』第5巻第13章では、「量(ποσόν)」に関して、それが「数えうるときには、この数えう る量は「多プレートスさ」であり」、その「多さ4 4というのは可能的に非連続的な部分に分割されうるものの場合」 であるとされ、「限られた多さは数」であると述べられている(1020a8-13、出隆訳『形而上学』岩 波文庫(上)、1965年、187−188頁)。すなわち、一般的には、数は限定された非連続量、と言うこ とができるだろう。また、数および数えることと測定することの関係については、Richard Sorabji, Time, Creation and the Continuum: Theories in Antiquity and the Early Middle Ages, Chicago: The University of Chicago Press, 2006 (1st published 1983), chap.7 等を参照。
6 Simplicius, p.119 および Themistius, p.57 により、大きさに関してこの説明を補う。 7 この三者の間の依存関係は、連続性の場合に先立って第3巻において、ἀκολουθεῖνという動詞は用い られていないが、無限なものに関しても適用されている。すなわち、「無限なもの(τὸ ἄπειρον)は、 大きさと動と時間において、或るひとつの自然本性として同じものなのではなく、より後なるものが より先なるものに従って〔無限と〕言われるのであって、たとえば、動は、ものがそれに基づいて場 所移動したり(κινεῖται)性質変化したり(ἀλλοιοῦται)量的変化をしたりする(αὐξάνεται)とこ
ろの大きさ〔が無限であると言われること〕のゆえに〔無限と〕言われるのであり、時間は動のゆえ にそう言われるのである」(207b21-25)。
8 存在主体と訳した原語は ὅ ποτε ὄν で、この訳語は藤沢令夫に従っている。この語は『自然学』第 4巻の時間論の個所に集中して登場してくるので、研究者の間でいろいろと議論がなされている。こ の ὅ ποτε ὄν が用いられている個所の解釈等については、Ross, p.598 etc.; Hussey, p.148f., p.152 の ほ か に、Rémi Brague, Du temps chez Platon et Aristote: quatre e'tudes, Épiméthée, Paris : Presses Universitaires de France, 1982, pp.97-144 ; Ursula Coope, Time for Aristotle: Physics IV. 10-14, Oxford Aristotle Studies, Oxford: Clarendon Press, 2008 (1st published 2005), pp.173-177 等を参照。 また、土屋賢二「アリストテレスの時間論Ⅰ」(『哲学雑誌』第87巻第759号、哲学会、1972年、163− 185頁)および「アリストテレスの時間論Ⅱ」(同誌、第89巻第761号、1974年、139−165頁)は、その 考察の中心にこの語の哲学的解釈を据えており、きわめて刺激的な論考となっている。 9 すでにシンプリキオスが、大きさにおける先後は共存の関係にあるが、運動変化における先後は、先 のものが消滅して後のものがそれにとって代わるという関係にあると指摘している(cf. Simplicius, p.121)。もっとも、アリストテレス自身も、そのことに気づいていたように思われる。おそらくその ために ἀνάλογον という語を用いたのではないだろうか。なお、運動は秩序・順序を持つので方向性 を示すことになるが(これに対して、たとえば線分ABにはどちらに向かうのかという方向性がない)、 この点に関しては次の論考を参照。Michael Inwood, “Aristotle on the Reality of Time”, in: Lindsay Judson (ed.), Aristotle’s Physics: A Collection of Essays, Oxford: Clarendon Press, 2003, pp.151-178 (reprint of 1st ed. 1991). ただし、インウッドが指摘している方向性は、本稿で後に言及する方向性と は意味合いが異なる。 10 この意味で〈より先・より後〉の存在主体は運動となる。なお、Ross, p.386, p.598 を参照。 11 〈今〉の問題はアリストテレス時間論の核心部分をなすが、この〈今〉を文字通り中心に据えたアリス トテレス時間論の解釈としては、主として以下の論考を参照。篠澤和久「アリストテレスの時間論──エ ネルゲイア論への一序説として──」(『倫理學年報』第41集、日本倫理学会、1992年、3−18頁)およ び「アリストテレスの〈今〉──『自然学』時間論の〈現在主義〉──」(『哲学の探究』第27号、全 国若手哲学研究者ゼミナール〔現「哲学若手研究者フォーラム」〕、2000年、11−24頁)。 12 この依存関係はアリストテレス時間論の論理的支柱をなすものであるが、これについては、主とし て次の論考を参照。G.E.L Owen, “Aristotle on Time”, in: Jonathan Barnes, Malcolm Achofield and Richard Sorabji (eds.), Articles on Aristotle, Vol. III: Metaphysics, London: Duckworth, 1979, pp.140-158 (originally published in: Peter Machamer and Robert Turnbull (eds.), Motion and Time, Space and Matter: Interrelation in the History of Philosophy and Science, Columbus: Ohio State University Press, 1976) および、武宮諦「アリストテレスの時間論」(『山口大学文学会誌』第37号、山口大学文
学会、1986年、17−38頁)、篠澤和久「アリストテレスの〈今〉──『自然学』時間論の〈現在主義〉 ──」、大木崇「アリストテレスにおける〈時間〉の定義について」(『古代哲学研究』第38号、古代哲 学会、2006年、34−50頁)等。
13 ボストックは、アリストテレスの通常の手続きからすれば、時間はいろいろな意味で語られる、と いうことが言及されていてもよいはずなのに、〈今〉の多様性は言及されるが時間の多様性が言及さ れていないのは欠点であるとしている(David Bostock, “Aristotle’s Account of Time”, in his Time, Matter, and Form: Essays on Aristotle’s Physics, Oxford Aristotle Studies, Oxford: Clarendon Press, 2006, p.143;originally published in Phronesis, 25, 1980)。しかし、〈今〉は系列Ⅱ、時間は系列Ⅰに 含まれる以上、多様性が語られるべきは〈今〉でしかないであろう。 14 以下の「今」に関する考察については、土屋賢二「時間概念の原型──プラトンとアリストテレスの 時間概念──」(『新・岩波講座 哲学』7『トポス 空間 時間』岩波書店、1985年、36−67頁)の特に 54−58頁から大きな示唆を得た。 15 それゆえ、変化が認められないような事柄には「今」を付加することはできない。たとえば、「人間は 理性的動物である」という言い方は、人間とはいかなるものかを語ったもの、人間の本質を述べたも のと言ってよく、現在においても、遥か彼方の過去も、そしてまた遠い未来もそのことに変わりはな いであろう。ところが、この言い方に「今」という言葉を加えて、「今人間は理性的動物である」と すると事態は大きく変わってしまう。この言い方には、かつて人間は理性的動物ではなかったし、ま た、将来理性的動物でなくなることもあり得るということが、あるいは、過去や未来はどうかは分か らないが、少なくとも今現在は人間は理性的動物なのだということが、暗に示されている。したがって、 人間は理性的動物だということが常に変わらぬ真理であるとすれば、「今」という言葉をそこに付け加 えることはできないのである(土屋、同論文、54−58頁を参照)。 16 限界については、『形而上学』第5巻第17章を参照されたい。そこでは、「ペラス〔限り、限界〕というは、 まず、(一)それぞれの事物の窮ト ・ エ ス カ ト ン極の端、すなわち、そこより以外にはその事物のいかなる部分も見い だされない第一の〔最後の〕端であり、それのすべての部分はその端より以内に存在するようなその 第一の〔最初の〕端である」(1022a4-5、出隆、前掲訳書、196頁)と述べられている。 17 第6巻に過去と未来の限界としての〈今〉について同様の議論があり、そこでは、〈今〉は過去と未来 の端である以上(つまり、過去の終わりとしての端と未来の始まりとしての端)、同じものなのだから、 分割不可能であると語られている(cf. 233b3-234a24)。 18 この個所全体は以下のように訳し得る。「魂および魂が有する知性以外の何ものも、その本性として数 える能力を持っていないとすれば、魂が存在しないならば、時間も存在し得ない。もっとも、その場 合でも時間の存在主体と呼ばれるものがあり、それは魂なしに運動であり得るようなもののことであ る。運動には〈より先・より後〉があり、それらが数えられ得るかぎりにおいて、そういったものが
時間なのである」。これは次のように解釈できよう。すなわち、時間は数えられ得るものとしての運 動の数であるから、数える知性がなければ当然、時間は存在し得ない、ただし、運動の本質的側面は 順序構造であるから──つまり、「まず−次に」であって、「1つ−2つ」ではないのであるから──、 数える知性がなくても運動は存在し得る、この順序構造を数える関係へともたらしたときに、時間が 姿を現わすのである、と。したがって、本論で後に触れるように、運動を時間へ変換するのは、数え る知性である、と言うことができるであろう。この意味において、時間は知性に依存しているのである。 この点については、Coope, op, cit., pp.159-172 も参照されたい。なお、「時間である」という規定を受 け入れる存在主体は、運動の順序構造と言ってよい。 19 ここで私たちの脳裏に或る事柄が浮かぶ。それは音楽に関してのことであるが、音楽ではよく数を数 えることによってリズムを取るということが行なわれる。音楽の進展は音響運動の展開とみなされる ことがあるが、その音響運動には言うまでもなく構造がある。その構造(たとえば拍節構造など)── これがアリストテレスにおける運動の順序構造に相当する──を実際に鳴り響かせる場面で、声に出 す出さないはともかく、数を数えることによって、その音楽の時間的展開を分節化してまとまりを持 たせてゆくことが行なわれる。つまり、音楽におけるリズムは、数と深い関係を持っていることが多 いので、その音楽を数的に構造化する役割を担っているのである。アリストテレスの考える数の役割 あるいは「運動の数」の意味は、これと類比的に考えることができるのではなかろうか。 本稿執筆のために使用したテクスト、注釈書、翻訳は以下の通りである。 <テクスト>
Ross, W.D., Aristotelis Physica, Oxford Classical Texts, Oxford: Clarendon Press, 1977 (reprint with corrections of 1st ed. 1950).
<注釈書>
Hussey, Edward, Arsitotle Physics: Books III and IV, translated with introduction and notes, Clarendon Aristotle Series, Oxford: Clarendon Press, 1993 (1st published 1983).
Ross, W.D., Aristotle’s Physics, a revised text with introduction and commentary, Oxford: Clarendon Press, 1936.
Simplicius, On Aristotle’s Physics 4.1-5, 10-14, trans. J.O. Urmson, Ancient Commentators on Aristotle, Ithaca/N.Y.: Cornell University Press, 1992.
Themistius, On Aristotle’s “Physcs 4”, trans. Robert B. Todd, Ancient Commentators on Aristotle, Ithaca/N.Y.: Cornell University Press, 2003.
<翻 訳>
5e tirage, Paris : Les Belles Lettres, 1973 (1ère éd. 1926).
Hardie, R.P. and Gaye, R.K., Physica, in: W.D. Ross (ed.), The Works of Aristotle translated into English, Vol. II, Oxford: Clarendon Press, 1947 (1st published 1930).
藤沢令夫訳『自然学』(抄訳)(田村松平責任編集『ギリシアの科学』世界の名著9)、中央公論社、1972年。 出隆・岩崎允胤訳『自然学』(『アリストテレス全集』3)、岩波書店、1976年。
田中美知太郎他訳『自然学』(第1巻─第4巻)(田中美知太郎編『アリストテレス』世界古典文学全集16)、 筑摩書房、1966年。