174(174〜 176)
教育講演 4
遺伝 シナ リオ と環境 因子の相互作用
ひ との一生 において,遺 伝子 に よ り決め られ た シナ リオ と環境 か らの働 きかけは,相 互 に関 わ りあいなが ら健康 な心 とか らだ を作 り,維 持 してい ます。胎 内では遺伝 因子が,ひ とたび生 まれた後 は環境 因子が大 きな比重 を しめている わけですが,そ の割合 は変化 して も,遺 伝 と環 境 は生涯 にわた って互 いに影響 しなが ら作用 し てい ます。ひ と りの人間 を大 きな木 に例 えれば, 太 い幹や枝 は遺伝子 によって作 られる基本構造 にあた り,立 派 に茂 った緑 の葉,花 や実 は豊か な環境 によって育 まれる ものです。
脳 を含 むすべ ての組織 ,臓 器 は遺伝子 によっ てあ らか じめ決め られた個体発生の シナ リオに したが って作 られ ますが,シ ナ リオには個性が 織 り込 まれてい ます。そのため,ひ と りひ とり の体 質は少 しずつ異 なることにな ります。体質 が異 なるために,環 境 に対す る反応 の仕方 も異 な ります。生体 の 反応"に
は,免 疫反応 ・ア レルギー反応 ばか りで な く,感 情 や心 の動 き, 考 え方や行動 の起 こ し方 な どが含 まれ ます。 こ れ らがイ固性 ・気 質 と呼 ばれ る もの だ とすれば, イ固性 の少 な くとも一部 は,遺 伝子 によって生 ま れ る前か ら作 られているのです。気 質は遺伝す る,と 言 って もよいで しょう。
環境 に よって遺伝子のスイ ッチが オ ンになっ た リオ フに な った りす る こ と も知 られ てい ま す。環境 の個体への働 きかけを修飾 した り補填
した りす ることに よって,遺 伝子が決めたシナ リオを書 き改めることが可能 なわけです。環境 がイ固体 に働 きかける仕方 を修飾 した り補填 した
小 児 保 健 研 究
高 橋 孝 雄 (慶應義塾大学医学部小児科)
りす るこ とが教 育の本質だ と考 える と,教 育 と は遺伝 と環境 の相互作用 を操作 す る試 み,と も 言 えます。た とえば,生 まれつ き読み書 きが苦 手 な方 で も,特 殊 な訓練 によって障害 を克服す る ことに成功す ることが知 られているのです。
育児環境 で遺伝 シナ リオ を書 きかえる
環境 を制御 し遺伝 子のシナ リオを改変す るの に最 も適 した時期 は,ひ とが急速 な成長発達 を 遂 げる乳幼児期 である と考 え られ ます。育児の 時期 が それ にあ た ります。つ ま り育児 こそが, 最 も効率的 に行 われ る遺伝子 シナ リオの補強 ・ 改変作業であ り,最 初 の,そ して最大 の教育で あ る と言 えます。正常 に生 まれ,正 常 に育 って い く子 どもを,養 育者が 自らの本能 に従 って, つ まり親であれば当た り前のや りかたで,本 能 的に子 どもの成長,発 達に関わる過程が本来の 育児であるとも言えます。決め られたことが決 め られたように自然に起 これば,あ た りまえの ように,子どもは健やかに育つわけです。一方, もし遺伝子のシナリオに問題があった場合,つ まり生 まれつ きの障害をもっているお子 さんの 場合,問 題 を修正するのに絶好の時期 も乳幼児 期 です。多 くの発達障害が生 まれつ きの もの, 遺伝子に織 り込 まれた問題です。早期発見,早 期介入の重要性が強調 されるのは当然で しょ
う。
ここでさらに重要なことは,遺 伝子 シナリオ によって予定通 り立派に出来上がった′亡、身機能 が,劣 悪な育児環境によって破壊 される可能性 もあるということです。たとえば,ラ ッ トの母 親が生後間もない子 どもをなめた り毛づ くろい
育児環境 と発達
慶應 義塾大学医学部小児科 〒 1 6 0 8 5 8 2 東 京都新宿 区信濃 町3 5 Tel :03‑3353‑121l Fax:03‑3356‑7022
Presented by Medical*Online
第66巻 第 2号 ,2007
した りす る行動が少 ない と,子 どもの脳 にお け るス トレスホルモ ン受容体 の量が変化 し,脳 内 で起 こるス トレス応答反応 に変化が起 こる,と い うことが報告 されてい ます。つ ま り,生 後早 期 の育児環境 に よって脳 内の遺伝子 レベ ルが変 化 し,そ の結果,子 どもの高次脳機 能の発達 に も変化が起 こる可能性がある,とい うことです。
この ような動物実験 に よる証拠 を示す まで もな く,好 ま しくない育児環境が子 どもたちの発育 発 達 に影 を落 とす こ とが稀 ではない こ とは,実 感 として理解 され る と思い ます。
さて,科 学技術 の進歩が,子 どもを取 り巻 く 環境 を変化 させ てい ます。携帯電話 や イ ンター ネ ッ トの普及 は大人の生活 を便利 で快適 にす る 一方,子 どもの成長発達に与 える影響 について 検 討 され る間 もな く,子 どもの生活 の 中に浸透 してい ます。科学技術 の発展 のみ な らず,環 境 汚染 や 自然破壊 ,家 族や学校 な ど子 どもを取 り 巻 く環境 の変化が,発 達途上の子 どもの脳 に悪 い影響 を与 えるのではないか と感 じている方 は 多 いで しょう。 しか し,科 学 的根拠 を示す こ と は大変難 しい ことで,赤 ちゃんの脳 について正 確 にわか つてい るこ とは,い まだに脳 の体積 と 重 さ くらいの もので しよう。
大脳 の発生 にお ける遺伝 と環境
大脳機 能 は,遺 伝子 によって決め られたシナ リオに従 って,胎 内で級密 な発生過程 を経 て周 到 に準備 され,生 後 の数年間で急速 に育 まれ ま す。 したが つて,感 情や心の発達の謎 を解 き明 か し,育児環境 と発達 について考 えるためには, 大脳 の発生 ・成熟過程 を科学 的 に理解 す るこ と が不可欠です。
大脳皮 質 は縦軸 と横軸 の 2次 元構 造 を もって 機 能 してい ます。横軸 とは,大 脳 表面 に描 かれ た機能別 の区分です。す なわち,大 脳皮質 は前 頭葉,頭 頂葉,後 頭葉,側 頭葉 に分かれ,各 々 の領域 は更 に細 か く機 能的 に細分 され, 機 能 地 図"を
形成 してい ます。 た とえば,後 頭葉 は 視 覚情報 を受 け取 るばか りでな く,画 像 を解析 し理解す る機 能 も担 ってい ます。前頭葉 の一部 は単純 な運動機能 を担 ってい ますが,他 の部分 は人間 らしい高度 な脳機能 に重要です。
一方,大 脳 の横軸 に沿って どこを選んだ とし
175
て も,前 頭葉であれ,後 頭葉であれ,大 脳皮質 は表層か ら深層 に向けて 6層 構 造 をな してい ま す。これ を大脳皮質 の縦車由と呼ぶ こ とに します。
大脳 の 6層 構 造 は 3段 階 を経 て作 られ ます。第 1段 階は,神 経幹細胞 の細胞分裂 によつて神経 細胞 が作 られ る過程 です。大脳皮 質 の神経細胞 の大半 は,側 脳室壁 を取 り囲む特殊 な神経上皮 か ら産生 され ます。 ヒ トの場合,妊 娠 6週 頃か ら約 3か 月間に起 こる と考 え られてい ます。第 2段 階は,若 い神経細胞 が大脳 表層へ移動す る 過程 ,第 3段 階は,大 脳皮質 におけるシナプス 形成,ミエ リン形成 な どの成熟が進 む過程 です。
生後 の神経発達,特 に生後 1年 間の大脳機能の 発達 には,第 3段 階,つ ま リシナプスの形成 と ミエ リンの形成が大変重要です。前頭葉,頭 頂 葉 ,側 頭葉,後 頭葉 を機 能的に結 びつ け,横 軸 に沿 った連携 を作 り上 げる過程 ,と も言 えます。
これ らは生後 1年 間の間に急速 に進行す る もの です。近年,MRIな どの画像技術 の発達 に よっ て,そ の過程 をリアル タイムに見 ることが可能 にな りま した。
私 どもは,環 境汚染が脳の発生に及ぼす影響 についてマウスを使 って研究 してきました。妊 娠中に母体が ダイオキシンに曝露すると,細 胞 分裂に関わる p27とい う遺伝子の発現量が増加 し,生 まれて くる子 どもの脳が小 さくなる,と い うことを発見 しました。胎内での環境因子の 作用が遺伝子の発現 を変化 させた結果,脳 の発 生 シナリオが狂い,ガヽさな脳が作 られたとい う ことです。先 ほど,母 親の養育態度 によつて, 赤ちゃんの脳内でホルモ ン関連遺伝子の発現量 が変動 し,ス トレス応答に変化が起 こる可能性 がある,と お話 しました。以上のように,胎 内 環境や育児環境の変化によって子 どもの脳 に構 造変化が起 こる,と いうことが科学的に裏付 け られつつあ ります。このような変化が実際に子 どもの知能や人格形成にどのように関係 して く るのか,さ らなる検討が必要です。
大脳基底核 と心の発達
すでにお話いた しました通 り,高 度な大脳機 能を獲得するためには,縦 軸 (6層 構造)を 作 り上げることはもちろん,横軸 に沿つた連携 (機 能地図)を 作 り上げること,つ まり脳 のネッ ト
Presented by Medical*Online
176
ワー クを育てることが不可欠です。機能地図 を 育 む過程 で 中心 的役割 を果た しているのが,大 脳 の中央 に位置 している線条体や淡蒼球 な どの 大脳基底核 です。大脳基底核 は,前 頭前野や辺 縁系 との連携 において,子 どもの心や感情の発 達 に大変重要 な役割 を果た している と私 は考 え てお ります。
大脳基底核 は体のスムーズな動 きをつかさど り,そ の障害,た とえばパーキ ンソン病では, 歩行や姿勢の維持が難 しくな ります。 しか しそ ればか りでな く大脳基底核 は,日 の動 き,心 の 動 きをスムーズに行 うためにも重要な役割 を呆 た しています。 日は口ほどにものを言い,感 情 のコン トロールが うまく行かないと,手 足の動 きもギクシャクするのは当然のことと言えるで しょう。大脳基底核 を中心 とした大脳各部の横 の連携は,運 動機能の発達のみならず,心 や感 情の発達に も深 く関わっていると考えられるの です。
デジタル情報 と想像力
子 どもは絶えず外界 とコミュニケーシ ョンを とりなが ら成長 しています。物の色,形,におい, 感触,手 を伸 ば した時の相手か らの反応。 自然 界における実体験では,外 界への働 きかけは一 方通行ではな く,相 手からの複雑 な予期せぬ反 応 を伴 っています。この予期せぬ反応 とのや り 取 りこそが想像力 を育むと考えられます。予期 せぬ事態に順応 し,慌 てず先 を読んで しなやか に行動する。他人の心 を推 し量 り,思 いや りの ある豊かな人間関係 を築 く。高度な脳機能の原 動力は想像力です。多 くの脳科学者たちが,想 像力 を育むためには実体験が不可欠であると強
小 児 保 健 研 究
調 します。
さて,科 学技術 に支 え られた今 の生活環境で は,お びただ しい量 のデジタル情報が一方的に 押 し寄せ て くる一方,こ ち らか ら働 きかける手 段 は限 られてお り,相 手か らの反応 はあ らか じ め プ ログ ラム され た紋切 り型 です。遺伝 子 に よって決め られた運命的なシナ リオが,予 想以 上 に柔軟性 に富み,環 境 因子の働 きかけによっ て,良くも悪 くも変化 しうるの とは好対照です。
実体験に乏 しく,大 量のデータが高速に一方通 行で押 し寄せて くるという異質な世界で,現 代 日本の子 どもたちの多 くが育っています。それ が子 どもたちの発達にとって,と りわけ想像力 の発達にとって どのような意味を持つのか,長 期 にわたる縦断的研究が不可欠です。
冒頭で,ひ とを木に例え,遺 伝子のシナリオ によって作 られる基本構造は大い幹や枝,環 境 の恩恵を受けて育 まれる成長過程 は緑の葉,花 や実であると述べ ました。 しか し,ど んなに立 派な大木で も,大 草原に 1本 だけで生えている のでは健全なひとの姿 を表 しているとは言えま せん。異なる個性 を持った木々が集 まって,互 いに影響 しあいなが ら生態系 を形成 している, 林や森の ような環境が必要で しょう。 さらに, 秋 になれば,黄 色 く紅葉する木 もあれば,赤 く なる木 もあ り,常 緑樹 もある。そのような環境 が子 どもたちばか りでな く,わ れわれ大人にも 必要なのではないで しょうか。
この講演 をさせていただいた学会場の近 くに は甲府昇仙峡があ ります。 さまざまな色に紅葉 した木々が私 どもの心 を豊かに して くれるもの と思います。遺伝子に織 り込 まれた個性 と,豊 かな環境に育 まれた想像力の表れで しょう。