印度學佛敎學硏究第66巻第2号 平成30年3月 (154) ― 821 ―
『菩 地』「真実義品」における
vastumātra
の意味
―有と無との対論―
桑 月 一 仁
はじめに
『菩 地』「真実義品」の思想研究はvastuの実在を焦点に展開してきたといえ る.このvastuについて,高橋 2005は「仮設の基体」という語義と「勝義的実 在」という語義との二側面があるとする.一方で,菅原 2010はvastuには「仮 設の基体」の語義しかなく,「勝義的実在」という側面はvastumātraと表現され る場合にのみ認められるとする.そこで,本稿ではvastumātraという表現が用い られる理由や言葉の意味について,有と無との対論という観点から考察する. 「真実義品」は増益をなす者と損減をなす者という,思想的立場の異なる二者を 立て,彼らの思想を止揚することによって「一切諸法には言語表現され得ない (nirabhilāpyā)自性がある」という自身の立場を理証と教証によって主張する.こ のような増益と損減を否定する構造において,vastuではなくあえてvastumātra という表現が用いられている用例と,また,類似表現であるprajñaptimātraの用 例との対比を通して,両複合語の後分mātraの否定対象を検討し,vastumātraの 意味を考察する.その上で,vastuに二側面があるのか否かという従来の見解を 再検証することを目的とする. 1.増益を否定する文脈に見られる
prajñaptimātra 「真実義品」は真実の特徴を不二なるvastuだとし,有と無の二を否定される べきものとして定義する1).そしてこの定義は増益と損減の内容に一致すること が指摘されている2).有と増益とは,仮設の語に自性を認め実在視することであ り,無と損減とは,仮設の基体を非実在視することである.そのうち, prajñapti-mātraは増益を否定するために用いられることはあっても,損減を否定するため に用いられることはない.以下は理証の導入部であり,増益を否定するために pra-jñaptimātraが用いられている.(155) 『菩 地』「真実義品」におけるvastumātraの意味(桑 月) ― 820 ― およそ何であれ,諸法に対する自相の仮設,すなわち,「色」や,「受」や,先と同様に, 最後は「涅槃」に至るまで,それはまさにprajñaptimātraだと知られるべきであって,自性 ではない.(BBh IV–5.1) ここの諸法に対する自相の仮設の具体例である「色」や「受」や「涅槃」など は,有を定義する際に列挙されたものと同じものを指している3).今は同じそれら が「prajñaptimātraであって自性ではない」とされている.つまり,prajñaptimātra という表現は,諸法が仮設の語を自性とするという有や増益に対して,それは仮 設に過ぎず「自性ではない」という意味で用いられているのである.よって, prajñaptimātraという複合語の後分mātraは,仮設の語の自性を否定しているので あって,あくまで複合語の前分prajñaptiそのものは肯定していると考えられる. 2.
損減を否定する文脈に見られる
vastumātra prajñaptimātraとは逆に,vastumātraは損減を否定するために用いられることは あっても,増益を否定するために用いられることはない.「真実義品」は増益と 損減の過誤をそれぞれ指摘するが,高橋 2005は増益の過誤を指摘する論証と, 損減の過誤を指摘する論証とは,どちらも仮設の基体であるvastuの実在を前提 としている点で,同じ論点にあると指摘する4).しかし,論点が同じであるにも かかわらず,損減の過誤を指摘する論証の方だけ仮設の基体がvastuではなく vastumātraと表現されていることは看過できない5).以下は,仮設の基体が直接 vastumātraとされ,その仮設の基体を非実在視する者,つまり損減をなす者を 「最たる虚無論者」だと強く批判する箇所である. 以下のような見解を持つ者たち,以下のように論じる者たちである.すなわち,「一切は prajñaptimātraであり,そしてこれが真実であり,そしてこのように見る者が正しく見る」 と.彼らには,仮設の基体であるvastumātraが存在しないから,他ならぬその仮設がまっ たくあり得ない.(BBh IV–5.3.4) ここで損減をなす者は,「一切はprajñaptimātraであり,それは真実である」と prajñaptimātraを肯定的に評価している.しかし,この損減をなす者は仮設の基体 を非実在視するからそもそも仮設が成り立たない,という批判が「真実義品」の 立場からなされる.このような虚無論者だからこそ,仮設の基体があえて vastumātraで表現されていると考えられる.よって,vastumātraという複合語の 後分mātraは,仮設の基体を非実在だとする無や損減,すなわち虚無論を否定(156) 『菩 地』「真実義品」におけるvastumātraの意味(桑 月) ― 819 ― し,同時に,複合語の前分vastuだけは仮設の基体として唯一実在することを意 味していると考えるのが妥当に思われる.vastuが唯一の実在であるため,当然 仮設の語の実在も否定されることが含意されていると考えられる. 3.
vastumātra
と
prajñaptimātra一見,vastumātraとprajñaptimātraは対立概念,すなわちvastumātraのmātraは
prajñaptiを否定し,prajñaptimātraのmātraはvastuを否定する関係であるようにも
想定される.しかし,理証の結論部に至ると,prajñaptimātraとvastumātraの両概
念をもって「一切諸法には言語表現され得ない自性がある」ことが証明される.
それでは,その「色」などの名称を有するvastuにおいて余れるものとは何か.すなわち, それこそが「色」などという仮設の語の所依である.そして,その両者を如実に知る,す なわち,現に存在しているvastumātraと,vastumātraにおけるprajñaptimātraとを[如実に 知る].そして,非実在を増益せず,実在を損減せず,増やさず,減らさず,放り出さず, 捨て去らない.そして,如実なる真如,すなわち,[一切諸法には]言語表現され得ない 自性があることを,如実に知る,これが,正しい智慧によって,正しく把握され,正しく 洞察された空性であると言われる.(BBh IV–5.4.2) 下線部において,増益を否定するために用いられたprajñaptimātraと,損減を否 定するために用いられたvastumātraのどちらをも如実に知ることが「言語表現さ れ得ない自性」を知ることであり,すなわちtathatāを知ることだとされている. 従って,prajñaptimātraとvastumātraが対立概念では意味をなさないことが分かる. 4.
vastu
には二つの側面があるのか
以上の検討を踏まえ,vastuには二つの側面があるのか否かを再検証する.高 橋 2005と菅原 2010による解釈の違いは,vastuと真理概念とを並列の同格関係 で読むか否かに尽きる.以下が両者の読みが決定的に異なる箇所である. 実にかの菩 は,その深く悟入した法無我の智によって,一切諸法には言語表現され得ない自 性があるということを如実に知って,いかなる法をもいかようにも分別しない.ただ事物のみ, ただ真如のみを把握することを除いて.そして,彼には,「これはただ事物のみである,ある いは,[これは]ただ真如のみである」というような[考え]も起こらない.しかし,かの菩 は対象/目的に対して行動する.最高の対象/目的に対して行動するとき,[かの菩 ]は一 切諸法をかの真如とまったく等しいものであると,智慧によって如実に見る.(BBh IV–4.7) 従来下線部の解釈が問題となっているが6),今はその直前の太字部分に着目し(157) 『菩 地』「真実義品」におけるvastumātraの意味(桑 月) ― 818 ― たい.菩 は智慧によって,「一切諸法には言語表現され得ない自性がある」と 如実に知った後では,いかなる法をもいかようにも分別しないけれども,例外的 にvastumātraとtathatāmātraとは把握する,という文脈であることが分かる.つ まり,増益と損減の否定を経て導き出される「言語表現され得ない」ということ と関連付けられてはじめてvastuとtathatāとは同格と見なされ得るのであって,
たとえvastuとtathatāとが同格であったとしても,ただちにvastuにtathatāとい
う語義があることを意味しないだろう7).
おわりに
vastumātraという複合語の後分mātraは,仮設の基体であるvastuの非実在を否
定し,同時にvastuの実在を肯定している.だからこそ損減を否定する際には vastumātraが 仮 設 の 基 体 と し て 用 い ら れ て い た. さ ら に,prajñaptimātraと vastumātraの両方を踏まえて「一切諸法には言語表現され得ない自性がある」こ とは知られるのであり,この「言語表現され得ない」ということとの関連におい てはじめてvastuは勝義的実在とみなされるのであって,vastuにそもそも勝義的 実在としての語義があるのではないだろう. 1)BBh IV–3.4. 2)高橋 2005: 22–23. 3)BBh IV–3.2. 4)高橋 2005: 28.
5)BBh IV–5.3.3. 6)従来vastumātraとtathatāmātraが同格であることからtathatāは
vastuの言い換えだとされ,高橋 2005はtathatāをvastuの勝義的側面だと理解する.菅 原 2010は,波線部kaṃcidをvastumātraに,kathaṃcitをtathatāmātraに対応させて読むこと によって並列関係を覆し,tathatāをvastuの言い換え,勝義的側面ではないと理解する.
7)勝義的側面の根拠にBBh IV–5.3.1のnirabhilāpyātmakatayā paramārthasadbhūtaṃ vastuもあ るが,ここでもnirabhilāpyaの影響下にあるからこそvastuがparamārthasadbhūtaと同格で置 かれていると考えられる. 〈略号表〉 BBh Bodhisattvabhūmi. See高橋 2005: 85–117. 〈参考文献〉 菅原泰典 2010 「『修所成地』 の研究II」(私家版). 高橋晃一 2005 『『菩 地』 真実 義品 から 摂決択分中菩 地 への思想展開―vastu概念を中心として―』山喜房佛 書林. 阿理生 1982「瑜伽行派(Yogācāraḥ)の問題点―唯識思想成立以前の思想的 立場をめぐって―」『哲学年報』41: 25–53.
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