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幕末蘭学︑﹃陽だまりの樹﹄ の時代  

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(1)

文化論集弟号  一九九七年十月  

一 三百坂  

東京文京区は坂の町である︒由緒ある名前を拾っただけでも︑菊琴安藤坂︑播磨坂︑御殿坂︑団子坂などと枚  

挙にいとまがない︒そんな中の一つ宮坂は︑今日では春日通りの一部を成し︑少なからぬ数の車輌を日夜行き来さ  

せている︒中央大学理工学部を左手に見ながら富坂をのぼりきり︑伝通院前の交差点を右折しよう︒すると︑今ま  

での喧嗅がうそだったかのように閑静な住宅街が拡がりだす︒正面奥に見えるのが無量山伝通院寿経寺︑通称伝通  

院である︒   

伝通院とはもともと徳川家康の生母︑於大の法号であって︑それまで荒廃していた寿経寺が家康の手で再興され  

菩提寺とされて以来﹁伝通院﹂の名で呼ばれるようになったものである︒今日でも於大の墓は他を圧して大きい五  

幕末蘭学︑﹃陽だまりの樹﹄ の時代  

− 医学史への視点 −  

宇田川   

(2)

文化論集第11号  

輪の塔として聾えており︑少し離れたところには︑千姫をはじめ徳川家ゆかりの墓を並べた墓域も拡がっている︒  

そして︑歴史の皮肉と言うべきか︑徳川家に坂旗を翻した清河八郎が眠っているのも︑ここ伝通院である︒この尊  

皇凍夷の志士は︑まさにこの場所で浪士隊を結成したのであった︒時に幕府崩壊の四年前︑文久三年︵一人六三︶  

のことである︒ついでながら︑清河八郎の横には生垣を隔てて詩人︑佐藤春夫の遺骨が眠り︑さらに墓所内には︑  

画家︑高畠連四郎や橋本明治︑作家の柴田錬三郎らの墓も点在してい為︒家康の再興当時十万坪と言われた壮大さ  

には比べるべくもないが︑訪れる者は都心にいることをしばし忘れてタイム・スリップを楽しむことができる︒   

だがわれわれの歴史探訪の目的地はここではない︒伝通院山門から西方向に二百メートルばかり歩くと︑小高い  

坂の上に出る︒右手は住宅街︑左手には都立竹早高校︑学芸大附属竹早小中学校の校舎が連なっている︒なんの変  

哲もない坂ではあるが︑百二十年以上も前にこの場所で︑一つの出会いが果たされた︒半ば現実で半ば架空の出会  

いである︒ここで遭遇した二人の青年のうち︑一人は近くに開業する蘭方医・手塚良仙の息子︑良庵︑二十九才︒  

もうl人は︑四ケ月前に隠居したばかりの父・伊武谷千三郎から十五俵二人扶持の家禄を譲り受けた府中藩士︑伊  

武谷万二郎︑二十六才︒それぞれが新米の医者であり︑駆け出しの侍である︒   

まず史実から始めることにしよう︒手塚治虫は晩年の大作﹃陽だまりの樹﹄ の最終部分で︑次のように志してい  

る︒  

﹁薩摩の不満分子は西郷を担ぎ上げて明治政府に真っ向から牙をむいた︒明治十年︵一八七七年︶︑世にいう   

西南の役の勃発である︒手家良仙は第l一族団中央小楯帯所付軍医として参加したのだった︒その年︑手塚良仙は   

九州の地で赤痢に罷り︑大阪の病院へ送られて死んだ︒行年五十一歳であった︒私︑手塚治虫は彼の三代目の子  

︵1︶   孫にあたる﹂ ︵七−三七八︶  

(3)

幕末蘭学、r陽だまりの樹」の時代   

手塚治虫の曽祖父︑良庵が陸軍歩兵屯所の初代取締を勤めたことは︑まぎれもない事実である︒手塚治虫が自分  

の先祖をモデルに長編コミックを構想したきっかけは︑ある医大で講演をしたとき聴衆の中に医者の歴史を研究し  

︵2︶  ている小児科医がいて︑手紙とともに良庵に関する資料を送ってくれたことだったという︒すでに北海道開拓時代  

を題材に﹃シュマリ﹄ ︵﹃ビッグコミック﹄一九七四年六月一〇日号〜一九七六年四月二五日号︶を描き終えていた  

手塚は︑時代を少しバックするような形で幕末群像に取り組んだのであろう︒﹃陽だまりの樹﹄ の連載︵﹃ビッグコ  

ミック﹄︶ は一九八一年四月二五日号から一九八六年一二月二五日号まで五年余りに及び︑手塚はこの間︑八四年  

三月にこの作品で第29回小学館漫画賞を受賞した︒また︑彼は現代史をテーマにした ﹃アドルフに告ぐ﹄ ︵﹃週刊文  

春﹄一九八三年一月六日号〜一九八五年五月三〇日号︶を同時進行させており︑彼の劣えぬヴァイタリティーと歴  

史に対する晩年の飽くなき関心にも驚嘆の思いがする︒   

﹃陽だまりの樹﹄ に戻ろう︒冒頭の二人の青年の出会いを﹁半ば現実で半ば架空﹂と呼んだわけは︑一方の主人  

公︑伊武谷万二郎のモデルが不明だからである︒良庵に関しては︑江戸古地図を手がかりとして︑三百坂の頂上か  

ら向かって左手ハ軒日に居を構えていたことさえ確かめられるが︑万二郎についてはリアリティーのある架空の  

人物と見なしておくほかはない︒本拙論では後者についてほとんど論じる余裕がないという事情もある︒   

さてその両者の﹁出会い﹂ のさまは通り一編ではない︒朝六ツ半︑三百坂に江戸邸を構える松平播磨守の登城時︒  

行列に従う供の着たちは︑駕寵に居座る播磨守の扇を合図に︑急な三百坂を頂上まで駆け登らされる習慣になって  

いた︒槍持ちが走る︑駕籠が走る︑藩士が走る︑家老然とした老人が息を切らして走る︑そしてもちろん︑われら  

が万二郎も走る︒﹁内外の情勢緊迫の折りに︑いまの若い者は根気がなく体力がない︒一度戦ともなれば十里二十  

里︑駆け抜ける忍耐力が必要﹂という口実めもとでの﹁早駆け﹂・であるが︑落伍者からはすべて三百文徴収という︑  

(4)

文化論集第11号  

ちゃっかりしたおまけまでついていたで︒作者の手塚治虫は三百坂という名称の由来を︑江戸市中を見渡せる一等地  

であるために︑親藩︑譜代の大名たちの江戸屋敷が軒を連ねていたせいだとしているが︵一1五︶︑現在ハ坂の中  

程に立てられた案内板の方が︑むしろこの作品にふさわしい由来を伝えている︒  

﹁三百坂主二栢坂︶︒﹃江戸誌﹄によると︑松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である︒松平家では新   

しく召抱えた﹃徒の者﹄を屋敷のしきたりで︑早く︑しかも正確に︑役に立つ着かどうかを試すのにこの坂を利  

用したという︒   

主君が登城の時︑玄関で目見えさせ︑御衣服を改め︑この坂で供の列に加わらせた︒もし坂を過ぎるまで追い   

っけなかったときは︑遅刻の罰金として三百文を出させた︒このことから︑家人たちは﹃三緬坂﹄を﹃三百坂﹄   

と唱え︑世人もこの坂名を通称とするようになった﹂   

この説明が正しいとすれば︑家老までが走らされたのはフィクションということになるが︑それはともかくとし  

ょう︒興味深いのは︑﹁走る﹂ことの歴史性を︑さらにはイデオロギー性を︑この行列の早駆けが物語っていると  

いうことである︒なぜ走らされるのかの意味を大方の藩士は理解していない︒走ることが広く一般に奨励されるよ  

ぅになったのは明治以降︑﹁富国強兵﹂をイデオロギー的背景とした初等・中等教育においてであった︒寺子屋に  

徒競走は存在しなかったのである︒万二郎はのちに幕府陸軍の指導者に取り立てられ農兵を訓練することになるの  

だが︑徴募された農民たちは案の定︑軍事訓練としてのランニングが持つ意味を理解しない︒﹁百姓は鍬さ持た  

しヤァ︑三日がひと月働こうとへとも思わんが︑おっ走るのは苦手でがんすだ﹂︵六1一五一︶と諭されて愕然と  

する万二郎︒﹁刀﹂から﹁鉄砲﹂ への変化にも︑﹁鍬﹂から﹁鉄砲﹂ への変化にも︑つまり天皇制を支える軍隊の要  

員へと四民がこぞって自己変革を成し遂げるには.︑﹁走る﹂ことのイデオロギー的意味づけが必要だったというこ  

(5)

幕末蘭学、イ陽だまりの樹」の時代  

とである︒   

三百坂での早駆けは︑かくして物語展開の重要な伏線とな▼つ▲ているわけであるが︑﹁坂﹂が含意するもう一つの  

象徴的な意味にもここで触れておかなければならない︒登城の行列に加わる万二郎は︑いざ早駆けの段になると先  

頭を切って走り出す︒同僚のやっかみを買うほどの体力で︑大汗をかきながらひたすら走りに走る︒と︑前方に︑  

路上に正座して待ち構える若者︑良庵の姿が三コマに渡って次第に大きくクローズアップされてくる ︵一−一一︶︒  

手塚のごく初期から漫画ファンを剖日させた映画的手法であるが︑特に興味深いのは︑坂の下手︵画面右手︶から  

大汗をかきつつ駆け上がってくる万l一郎と︑そのすぐ数メートル上手︵画面左手︶ で︑土下座しながらも薄笑いを  

浮かべて早駆け見物をしやれこむ良庵が︑同時に捉えられたショットである︒﹁タケノコ医者め! おれたちが登  

城する時間をみはからって︑︑いつでもここでニヤニヤして座ってやがる⁝⁝くそったれのヤジ馬野郎⁝⁝﹂と心の  

中でののしる万二郎︒彼は武士の正装に身をかため︑権力の代理人︵藩主︶ がかざす扇子を合図に︑幕藩体制の権  ヽヽ  力の中心 ︵江戸城︶ に向け︑ひたすら上方へと駆け登る︒一方医師の身なりをした良庵は︑登城の行列に向けてわ  

ずかに視線を上げてはいるが︑その日は冷笑的であり︑心中では権力者たちの醜態を見降ろしつつ居座っている︒  

動と静︒能動的行為者と傍観者︒しかし地に両手を着いて安定しているかに見える良庵も︑坂の傾斜に重心を奪わ  

れ︑左肩から転げ落ちてゆきそうに身をかしがせている︒あたかも運命の大波によって︑今にも下方に突き転ばさ  

れてしまうかのように︒   

没落階級に属する青年武士が重力の宿命に逆らって上昇を試み︑上昇階級に属する青年医師が︑下方へと誘う重  

力の宿命と危うい均衡を保っているというこの逆説的な図式は︑両者のその後を暗示していると言ってもよい︒封  

建時代から近代への過渡期を象徴する﹁坂﹂は︑同時に二人の若者の宿命を象徴する場でもあった︒まさに﹁坂﹂  

(6)

文化論集第11号  

において︑両者の宿命は交差したのである︒   

先走って言えば︑単行本にして全七巻︑二千五百頁以上に及ぶこの長編コミックは︑短いエピローグを除くと︑  

慶応四年五月の彰義隊壊滅で幕を閉じる︒  

冒頭の安政二年二八五五年︶二月からそれまでの︑本書に直接︑間接に関わる重大事件をまず拾っておくことに  

しょう︵項目名は主として集英社版冒本の歴史﹄十五巻︑十六巻の年表による︒太字は﹃陽だまりの樹﹄登場人  

物︶︒  

﹁陽だまりの樹﹄第一巻   

安政二年︵一八五五︶八月 − 幕府︑条約締結の事情を調停に具陳︒   

十月 − 江戸大地震︵安政大地震︶︒藤田東湖圧死︒堀田正睦︑老中主産となる︒  

﹃陽だまりの樹†第二巻   

安政三年︵一八五六︶三月 − 幕府︑駒馬に洋式調練を行う︒   

七月−−−米駐日総領事ハリス︑下田に来航︒  

﹁陽だまりの樹し第三巻   

安政四年︵一八五七︶五月 − 日米条約︵下田条約︶調印︒   

十月 − ハリス江戸城登城︒将軍家持引見︒  

﹃陽だまりの樹﹂第四巻   

安政五年 ︵一八五八︶一月 − 堀田正隆︑勅許奏請のため上京︒   

三月 − 天皇︑条約調印拒否の勅註を正睦に伝える︒  

(7)

幕末蘭学、r陽だまりの樹jの時代  

四月 − 井伊直弼︑大老に就任︒  

五月・−・束軍艦ミシシッピ号乗員から感染したコレラ︑長崎で発生︒のちに江戸まで拡大︒  

八月 − 天皇︑条約締結に不満の勅詫を水戸藩などに下す︒将軍家恵投︒  

九月Ⅰ梅田雲浜︑京都で逮挿される ︵安政の大獄開始︶︒  

十月−・−橋本左内︑江戸町奉行に拘禁される︒家茂︑将軍となる︒   

﹃陽だまりの樹﹄・第五巻  

十一月卜江戸大火︒  

安政六年︵一八五九︶ 八月 − 幕府︑徳川斉昭に国許永蟄居を命じる︒  

九月 − 梅田雲浜︑獄死︒  

十月 − 橋本左内︑処刑︒  

安政七年︵閏三月改元︑万延元年︑一人六〇︶一月 − 福沢諭吉ら︑成臨丸で米国へ向け出発︒  

三月 − 井伊直弼︑桜田門外で水戸浪士らに暗殺されみ ︵桜田門外の変︶︒  

﹃陽だま牲の樹﹄第六巻  

十二月卜米国通訳官ヒユースケン︑三田で斬殺される︒ 

万延二年︵二月改元︑文久元年︑一人六一︶︑五月卜十高輪の英公使館︑浪士に襲撃され館貞負傷︵第一次東禅寺  

事件︶︒  

十月1伊豆韮山代官江川英敏︑農兵設置を幕府に建議︒  

十二月 − 福沢諭吉ら︑開市開港延期交渉のため渡欧︒  

(8)

文化論集第11号  

文久二年︵一八六二︶一月 − 老中安藤信正︑水戸浪士らに襲われ負傷︵坂下門外の変︶︒  

五月 − 藩所調所を洋書調所と改称︒  

八月 − 生麦事件︒  

十二月−−高杉晋作ら︑品川御殿山に建設中の英公使館を焼き打ち︒  

文久三年︵一八大三︶ 四月 − 幕府︑五月十日を凍夷期限とすることを上奏︒  

五月 − 長州藩︑下関で凍夷決行︒  

六月 − 米・仏軍艦︑長州藩砲台を報復攻撃︒緒方洪庵︑急死︒   

r陽だまりの樹﹂第七巻  

七月 − 薩英戦争︒  

八月 − 洋書調所を開成所と改称︒  

文久四年︵二月改元︑元治元年︑一八大四︶ 三月 − 天狗党の乱︒  

七月1第一次幕長戦争︒  

八月 − 四国連合艦隊︑下関砲撃︒  

元治二年︵四月改元︑慶応元年︑一八六五︶六月1西郷隆盛︑京都で坂本龍馬らと会見して長州藩の武力購入  

助力を約す︒  

慶応二年︵一八六六年︶一月 − 坂本龍馬の斡旋で︑西郷と木戸︑薩長同盟を密約︒  

五月 − 江戸などで打ちこわし︒  

六月 − 第二次幕長戦争開始︒  

(9)

幕末蘭学、r隈だまりの樹」の時代  

見られるとおりこの時期は︑大獄︑嬢夷︑内戦の嵐が吹きすさび︑テロ︑暗殺が横行していた殺伐たる時代であ  

る︒これらの主として政治的事件が︑医師・手塚良庵よりは武士・伊武谷万二郎の身に激しく降りかかってくるこ  

とは当然であろう︒万二郎は開明派の老中・阿部正弘の肝入りでアメリカ使節の警護役に任じられたがために ︵そ  

して偶然の縁から井伊大老の悪行を知ったがために︶︑否応なく安政の大獄の大渦に巻きこまれてゆく︒だが時代  

は︑生来浮わついた青年医師・良庵をも安閑とさせてはおかなかった︒幕末蘭学の時代は︑医学の激動と闘争の時  

代でもあったのである︒   十一月1−−幕府︑講武所を陸軍所と改称︒  慶応三年 ︵一八六七︶ 五月︑坂本︑西郷ら薩土盟約を締結︒  八月 − 名古屋地方に﹁ええじゃないか﹂起こり︑東海道︑江戸その他一円に拡大︒  十月 − 大政奉還の上表︒  十一月 − 坂本籠馬︑暗殺︒  慶応四年 ︵九月改元︑明治元年︑一人六八︶  一月−−鳥羽・伏見の戦い︒  二月 − 徳川慶喜︑上野寛永寺に閉居︒  三月 − 西郷・勝海舟会談で江戸開城決定︒  四月 − 江戸城開城︒福沢諭吉︑鉄砲津の塾を芝に移し︑慶応義塾と命名︒  五月 − 上野彰義隊︑敗北︒  

(10)

文化論築第11号   10  

二︑適 塾  

大阪︑船場︒土佐堀川のほど近くに適塾はある︒緒方洪庵が天保九年︵一人三八︶ にまず瓦町に開き︑次いでこ  

こ過書町 ︵現在︑中央区北浜︶ に移したこの蘭学塾は︑洪庵逝去ののち明治元年に閉鎖されたが︑戦災なども奇跡  

的に回避︒戦後三十年余りを経て解体修復され︑昭和五十五年から一般公開され今日に到っている︒敷地の東側と  

西側の公園も次第に整備され︑高層ビルに囲まれながらそこだけは時が歩みを止めたかのような雰囲気を今なおと  

どめている︒  

木造二階建ての建物は間口が約十二メートルに対して奥行きが三十九メートルであるから︑ウナギの寝床の比喩  

にたがわず南北に細長い︒北端の入口から玄関部屋︑第一会読部屋 ︵現在休憩室︶︑第二会読部屋 ︵現在受付︶ を  

通って一階順路を辿ると︑中庭︑次の間︑書斎︑奥座敷を経て南端の前栽に到る ︵以上東側半分︶︒西側半分には  

南から家族部屋︑納戸︑食事部屋︑台所が並んでいる︒かつて塾生たちが立ったまま飯をかきこんだという食事部  

屋から︑急峻な階段を登って二階に出てみよう︒いわゆるヅーフ部屋 ︵後述︶ の手前に女中部屋があり︑ここに学  

んだ福沢諭吉らの写真が飾られている中で︑ただ一人漫画で善かれた人物がひょうきんな笑いを浮かべているのが  

目を引く︒これこそわれらが主人公︑手塚良庵である︒   

冒頭に書いたとおり︑ − ﹁陽だまりの樹﹄ の読者は︑最終巻の最終頁でそれを知ることになるのだが 一 手塚  

良庵は文政九年︵一八t一六︶ から明治十年までを生きた実在人物である︒したがって︑本書を読み解くには虚実の  

薇を腑分けする必要が生じるわけだが︑第一章に書かれた日付に作為が働いていないと解釈すると︑良庵が適塾か  

らの入門許可証を受け取ったのが安政二年二月十三日 ︵物語冒頭の日︶直前︑江戸を発ったのがその十日後の二月  

(11)

幕末蘭学、F陽だまりの樹」の時代   11  

二十三日ということになる   

大阪に着いた良庵は︑適塾に赴く駕寵の中でさっそく好色漠ぶりを発揮し︑曾根崎の遊廓に寄り道︒そこで一悶  

着︵後述︶起こして一週間近くも居続ける破首に陥り︑晴れて適塾の門をくぐつたのが︑三月五日のことと計算さ  

れる︒なぜこのような細かい日付にこだわるかと言えば︑一つには︑現存する﹁適々斎塾姓名録﹂に﹁同年︵安政  

二年︶十月廿三日入門 手塚良仙 悼 手塚良庵﹂の記載が見られるからである︒通常二年を遊学期間に当てた適  

塾入門者の通例に洩れず︑彼もまた二年経ったら江戸に戻る旨を万二郎に告げていたのであるが︵一−二一︶︑  

実際に帰府したのは予定を越えて二年半後の秋のことである︒それはともかく︑物語上と姓名録上の入門首が半年  

以上も隔たっている謎は容易に解けない︒わずかにヒントとなるのは︑良庵より先着していた原田森蔵が︑適塾の  

塾是を体得するまで意図的に正式入門せず︑聴講生のままにとどまったと語られていることである︵一−﹁九六︒  

原田の正式入門は姓名録によれば翌年三月二十日︶︒良庵が最初に出会ったこの優秀な同僚の影響を受けたかどう  

か︑まるで勤勉とは言えぬ良庵が正式入門を延期したと推測できないではない︒   

虚実の皮膜に論及するならもう一点︒良庵は入塾当日から︑黒い着流し姿で酒徳利を肩にかついだ福沢諭吉に出  

会い︑﹁新入り同士だ︑仲ようやりましょうや﹂︵一−二〇七︶と声をかけられることになるのだが︑同じく姓名録  

によると諭吉の入門は同年三月九日で良庵よりわずかに遅れている可能性があるから︑この部分もフィクシ︑ヨンで  

ありうる︒   

諭書にまつわるフィクション皇苧えば︑両者が入門した翌年の安政三年に関してはとくに虚構の匂いが強いので︑  

この点にちょつと寄り道してみよう︒実はこの年は諭吉にとってきわめて多難な一年であった︒  

一月︒大阪の中津藩蔵屋敷に勤務中の兄が重いリューマチにかかる︒  

(12)

文化論娘第11号    12  

二月︒かねて世話になっていた適塾の先輩が腸チフスに雁息︑のち死亡︒必死に看病した諭吉も感染して四月ま  

で病む︒   

五月︑大阪勤番を終えた兄に伴い︑保養も兼ねて中津に帰国︒   

八月︒再上阪︒   

九月︒兄病死の報せに再帰国︒福沢氏を家督相続するが︑なんとか大阪再遊の許しを母より得る︒家の借財︵兄  

の病気や勤番中の入費など︶ の清算に一苦労︒   

十一月︒再び大阪へ︒   

r陽だまりの樹︼第三巻では︑ハリスがアメリカ総領事に着任した七月二十一日直後︑諭吉は通塾の物干台で仲  

間を前に国情を開陳し︑﹁また福沢の大言壮語が始まったぜ︒﹂ ︵二−一九三︶とからかわれる設定になっている︒  

だが見られるとおり︑その時期に諭吉は故郷中津にとどまっているのである︒そしてまた作中の諭吉は亭っ︒﹁お  

ぬしら︑この適塾を出て︑国許へ帰ったらどうするんだ? せいぜい藩医か町医もしくは藩校の講師におさまる程  

度であろうー・今や︑日本の未来を考え︑世界の中の日本を考えて行動すべきではないかッ⁚おれァ ︹吉田松陰  

のように︺密航なんてケチなことはせん︒堂々と役人から金を出させ︑外国を見聞して回るさ!﹂︒のちの成臨丸  

随行の壮挙を思わせるセリフであり︑事実諭吉は医者志願ではなく名目的には砲術家志願なのであるが︑当時の諭  

吉がこれほど明瞭に諸外国︵とりわけアメリカ︶に目を向け︑自分の将来のことを考えていたとは俄に信じがたい︒  

﹁何のために苦学するかといえば一寸と説明はない︒前途自分の身体は如何なるであろうかと考えたこともなけれ  

ば︑名を求める気もない﹂と︑﹁福翁自伝﹂において諭吉は回顧している︵以下﹃福翁自伝jを自伝と略記し︑岩  

波文庫版の該当頁を掲げる︒九二頁︶︒医学書であれ物理学書であれ ︵この二種類の書籍しか適塾にはなかったと  

(13)

幕末蘭学、r陽だまりの樹j の時代   13  

諭吉は自伝に話しているが︶︑難解なものを読む楽しみ自体のために昼夜読書に耽るのが塾生の気風だったのであ  

れば︑自国の政治や外国事情にまで意識が及び切らなかったというのが本当であろう ︵橋本左内のような塾生を除  もと  いて︑と補足しておく︶︒﹁医師の塾であるから政治談は余り流行せず︑国の閉鎖論といえば固より開国なれども︑  

甚しくこれを争う者む﹂ ︵自伝︑九三頁︶ なかったのが実情なのである︒   

諭吉がアメリカに目を向けるようになったのは︑藩命により江戸に出た翌年の安政六年︑当時開け始めたばかり  

の横浜に赴き︑外国語がまるで通じぬどころか一語として文字を解しなかったという︑有名なエピソードをきっか  

けとしてであろう︒﹁これは︿どうも仕方がない︑今まで数年の間︑死物狂いになってオランダの書を読むこと  

を勉強した︑その勉強したものが︑今は何にもならない︑商売人の看板を見ても読むことができない︑さりとは誠  

に詰らぬことをしたわいと︑実に落胆してしまった﹂ ︵自伝︑九九頁︶︒その諭吉が猛然と英語習得を心がけ︑翌年  

一月には早くも成臨丸で渡米することになるのだが︑彼のアメリカ開眼が ︵﹃陽だまりの樹﹄ に善かれたような諭  

吉の開かれた精神からというより︶ 言語をきっかけとしてであったことは興味深い︒彼を蘭学修行へと導いたもの  ヽヽヽヽヽヽヽヽ  が言語としての言語への志向であったように︑英学へと転向させたものもまた︑横浜で出会った英語という言語の  

異質性︑さらには看板に善かれた英語文字の物質性であったのではをいか︒稀代の洋学者誕生の物語を司る主人公  

は︑言語そのものでもあったのである︒   

福沢諭吉を巡る虚実の皮膜談は一時措くとして︑﹃福翁自伝﹄が昔も今も適塾に関する第﹁級の一次資料である  

ことは疑いない︒実際﹃陽だまりの樹﹄ に描かれた塾生括のエピソードは︑そのほとんどが﹃自伝﹄から借用され  

ていることが判明するのである︒順を追って対応を示してみよう︒   

糾諭吉︑良庵と出会った最初の日から﹁中津藩︑福沢諭吉だ︒なにはともあれ酒だけはつきあいますぜ!﹂と自  

(14)

文化論集第11号   14   

己紹介し︑良庵を酔い潰す ︵一−二〇七︶︒   

福沢諭吉は大酒家として名高く︑とくに幼少時代︑ご褒美の酒飲みたさに痛みをこらえ︑母に月代を剃っても  

らったという逸話は有名である︒酒を好むことが﹁﹂大欠点﹂﹁天性の悪癖﹂ ︵自伝︑五七頁︶と自覚しながら︑塾  

長となり新書生からの入金で多少懐が豊かになっても一﹁これが大抵酒の代になる﹂↓少しでも手もとに金があれば  

直に飲むことを考える﹂ ︵自伝︑六三貫︶ といった始末だから︑実に呑んべえの遊学時代を送ったことであろう︒   

㈱塾生たち︑気の弱い牛屋のために豚を殺してやり︑礼にその頭をもらってきて解剖したのち食す ︵一−二〇  

三︶︒   

計ったく同様の話が︑自伝六七頁に託されている︒なお諭吉はこのエピソードを︑牛屋が︵それのみならず町の  

娘たちが︶塾生のことを︑まるで被差別部落民︵諭吉はその蔑称をそのまま用いている︶ のよケに見ていたという  

コンテクストで書いている︒次の㈲と並び︑当時の蘭学書生のステイタスを物語るものとして興味深い︒   

㈱良庵︑適塾に泊まるようになった初日の夜から乳の襲撃を受け︑曾根崎新地の遊郭に寝に帰る ︵一−二〇八︶︒   

﹁軋は塾中永住の動物で︑誰一人もこれを免れることはできない︒一寸と裸体になれば五疋も十疋も捕るに造作  

はない﹂ ︵自伝︑六六頁︶︒その理由は︑﹁塾生は不規則といわんか不整頓といわんか︑乱暴狼籍︑まるで物事に無  

頓着︒その無頓着の極は︑世間でいうように潔不潔︑汚ないということを気に止めない﹂ ︵同︑六五貫︶ ことにあ  

る︒あたかも旧制高校生が標傍した弊衣破帽のダンディズムを思わせるようであるが︑微妙な違いもある︒つまり︑  

旧制高校生が将来の国家エリートとして甘やかされた環境にいたのに対して︑﹁蘭学書生といえば世間に悪く言わ  

れるばかりで︑すでに己に焼けになっている﹂ ︵同︑九二頁︶︒その分︑勉強もしただけ狼籍ぶりもより筋金入りと  

いう印象を受けるのだが︑いかがだろうか︒  

(15)

幕末蘭学、r陽だまりの樹j の時代   15   

㈲塾生たち︑炊事場で立ったまま朝飯を取る ︵一−二三〇︶︒   

﹁食事の時には連も坐っで食うなんてことは出来た話ではない︒足も踏み立てられぬ板敷だから︑みな上草履を  

穿いて立って食う﹂ ︵自伝︑六四頁︶︒これを諭告が﹁百鬼立食﹂と形容しているのもおかしい︒   

㈲塾生 ︵大島圭介︶︑汁の鍋を洗濯ダライとして使う︵一−1二二二︶︒ ﹁洗手藍も金藍も一切食物調理の道具に  

なって﹂ いたことが六大頁に託されている︒なお﹃陽だまりの樹﹄ では︑そこへ諭吉が﹁洗濯なら俺のフンドシも  

たのむー﹂と真裸で階段を降りて来て洪庵夫人と鉢合わせし︑赤面しながら駆け戻ることになっている︒このエピ  

ソードも﹁私の大失策﹂ ︵自伝︑六五頁︶ として詳述されているが︑時や場合などはだいぶ脚色されている︒   

㈲芸者にふられて諭吉と痛飲した良庵︒帰りに橋のたもとにかかったところで︑ちょうど真下を通る屋形舟から︑  

当の芸者と客たちの笑い声︒自分が一杯食わされたと知って激怒する良庵に諭吉︑﹁こういう時は男らしく仕返し  

をするのだ︒今の居酒屋で皿を七︑八枚くすねてきたさかい⁝・⁚これをこうやって投げて︑あの船へぶっつけるん  

だ﹂ ︵一−二四七︶︒   

芸者への意趣返し︑という設定は虚構であるが︑塾生が猪口や皿の万引常習犯であったことも ︵自伝︑七五頁︶︑  

さらには芸者を乗せた屋形舟に諭告が小皿を投げつけたことも事実である︒﹁あんなことをしてやがる︒此方は百  

五十かそこらの金を見付け出して︑ようやく一盃飲んで帰るところだ︒忌々敷い放らだ︒あんな奴があるから此方  

等が貧乏するのだ﹂ ︵同︑七六貢︶ という理屈づけもめちゃくちゃで︑愉快この上ない︒青年諭吉の野放図ぶりを  

雄弁に物語るエピソードである︒   

S塾生数人︑アンモニアを自家製遺せんとし︑馬の爪の削り層を徳利に入れ︑瓶で熟して抽出する︒その鼻持ち  

ならぬ匂いに︑他の塾生からのみならず下男︑下女からも苦情が殺到して中断の止むなきに到る ︵二〜八四︶︒  

(16)

文化論集第11号    16  

この様子も﹃自伝﹄ で詳細に語られている︒この続きを引用してみよう︒﹁淀川の一番粗末な船を借りて︑船頭  

を一人雇うて︑その船に例の瓶の七輪を積み込んで︑船中で今の通りの臭い仕事をやるは宜いが︑矢張り煙が立っ  

て風が吹くと︑その煙が陸の方へ吹きつけられるので︑陸の方で喧しくいう︒喧しくいえば船を動かして︑川を  

上ったり下ったり︑川上の天神橋︑天満橋からズット下の玉江橋辺まで︑上下に逃げて回ってやったことがある﹂  

︵自伝︑八八頁︶︒と言っても諭吉自身は船上の武勇伝には加わっておらず︑﹁中村恭安という讃岐の金比羅の医  

者﹂︵同頁︶ほか二︑三名であったと明記されている︒﹃陽だまりの樹﹄ では良庵が船上でのアンモニア製造を発案  

したことになっているが ︵二−八五︶︑確たる証拠はない︒   

㈱良庵︑刑死人の腑分けの場に知り合いの娼婦︵お紺︶を同道した廉で破門の危機に頻すが︑洪庵の訳書﹃扶氏  

経験遺訓﹄ ︵後述︶ の内容を一と月で丸暗気することを条件に辛うじて破門を免れる︒なじみの遊郭通いも断って  

死に物狂いで取り組む良庵と︑毎日のように講釈してやる諭吉︒二度と悪所に足を踏み入れたら﹁坊主にされても  

苦しからず﹂という約束であるから良庵も必死であるが︑諭吉の方が一枚上手であった︒諭吉が贋作したなじみの  

遊女からの偽手紙にだまされ︑ついに朝帰りの現場を押さえられた良庵︒坊主になるかわりに︑酒や鶏で大盤振舞  

をさせられるのであった ︵三−一五四以下︶︒   

﹃陽だまりの樹﹄ の四十頁以上を占めるこの長大なエピソードも︑そのほとんどを﹃自伝﹄ に負っている︒かつ︑  

われわれにとってことさら興味深いのは︑ここで諭吉が手塚の名に直接言及していることである︒﹁そのとき江戸  

から来ている手塚という書生があって︑この男はある徳川家の藩医の子であるから︑親が拝領した葵の紋付を着て︑  

頭は塾中流行の半髪で太刀作りの刀を挟していふという風だから︑如何にも見栄があって立派な男であるが︑如何  

も身持ちが善くない﹂︵自伝︑七一−七二頁︶︒まさにわれらが主人公を彷彿とさせる描写であるし︑安政年間に手  

(17)

幕末蘭学、r陽だまりの樹jの時代   17  

塚姓の入塾者は良庵以外にいないから︑まず彼自身のことと見なして間違いない︒﹁偽手紙﹂の詳細をここに引用   する余裕はないが︑まことに巧妙かつ手が込んでいるし︑それを書いた動機がまた諭吉らしくふるっている︒つま  

り︑約束どおり﹁手塚が真実勉強するから面白くない︒こういうのは全く此方が悪い︒人の勉強するのを面白くな  

いとは怪しからぬことだけれども︑何分興がないから﹂︵自伝︑七二貫︶七いうのである︒ともあれ︑良庵がその  

風宋の良さと身持ちの悪さゆえに︑﹃自伝﹄を執筆した六十四才の折まで諭書の記憶にとどめられたのは︑なにや   ら我が意を待たような思いがする︒   

さて︑適塾生の生活に閲し︑われわれは今まで彼等の勉強ぶりについて語るのをあえて延ばしてきた︒亭っまで  

もなく︑これが彼らの生活の中藤を為すからである︒諭吉もまた数々▼のほほ笑ましい︑あるいは呵々大笑させる逸  

話を紹介したあとで︑﹁今までの話だけを聞いたところでは︑如何にも学問どころのことではなく︑ただワイ′\  

していたのかと人が思うでありましょうが︑T⁝﹈学問勉強ということになっては︑当時世の中に緒方塾生の右  

に出る者はなかろうと思われる﹂︵自伝︑′八〇頁︶と誌している︒   

オランダ語の初学者・良庵はどのような教育を受けたのだろうか︒﹃陽だまりの樹﹄では︑入塾直後︑良庵は諭  

吉と肩を並べ︑坊主頭の先輩から﹁これはガランマチカと言うて︑江戸で版を起こしたオランダの本やが︑初歩的  

な文法で書いてある︒新入生はまずこれの読破から始めるのや︑手塚君︑今迄の部分を素読してみい﹂と命じられ  

ている︵﹁−二二四︶︒ガランマチカ︵Grammatica︶︑すなわち文法であり︑冒伝﹄の次の記述に合敦している︒  

﹁そのとき江戸で翻刻になっているオランダの文典が二冊ある︒一をガランマチカといい︑一をセインタキスとい  

ぅ︒初学の者には︑まずそのガランマチカを教え︑素読を授ける傍らに講釈をもして聞かせる﹂︵八一貫︶︒筆者は  

この文法書をいまだ手にしたことがないので判断がつきかねるが︵表紙の写真だけは︑適塾記念会編﹃緒方洪庵と  

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文化論集第11号   18   

適塾﹄などで見ることができる︶︑良庵に指摘された箇所︵彼にはまともに発音できず︑諭吉がかわりに当てられ  

る︶は︑初学者には相当に複雑な文である︒ただし︑そもそも意味の解釈を加えずにただ読み下すのが素読である  

から︑あながち無茶というわけでもない︒   

﹃陽だまりの樹﹄では︑その翌日が﹁会読﹂の日に当たっている︒つまり︑月に五回︑十人から十五人ほどの塾  

生が集まり︑鼓で決められた順番で原書を読んでゆく試験のことである︒その成績により︑会頭が白い三角︑白玉︑  

黒玉︵それぞれ秀︑良︑不可に相当しよう︶ の印を名簿に付けるので塾生も真剣であるが︑そこには次のような実  

際的な理由も含まれていた︒﹁塾中量一枚を一席とし其内に机夜具其他の諸道具を置き此に起臥することにて頗窮  

屈なり︒就中或は往来筋となり又は壁に面したる席に居れば︑夜間人に踏み起こされ︑昼間燭を点して読書するな  

どの困難あり︒然るに毎月末席喚へとて輪講の席順に従ひ上位の者より好み好みに席を取ることゆゑ︑一点にても  

︵3︶  勝を占めたる者は次の人を追退けて其席を占むるを得るなり﹂︒良庵︑諭吉と同時期に在塾した長与専斎の回想で  

ある︒ちなみに︑会読という方法は適塾に固有のものではなく︑当時の国学塾で行われていた方法を踏襲したもの  

である︒  

ところで︑その会読において良庵は︑オランダ語の読みだけは無事パスしたものの︑急に命じられた和訳に失敗  

し︑会頭から黒丸印を喰らうことになっている ︵良庵は会読の前夜も新地の遊郭に通い︑だまされているとも知ら  

ず芸者に入れ上げていたのである︶︒ただし︑これはフィクションで 

チカ﹈ を一冊読了るとセインタキスをまたその通りにして教える︒如何やらこうやら二冊の文典が解せるように  

なったところで会読させる﹂ ︵自伝︑八一頁︶と証言しているし︑適塾の研究書にはいずれも﹁この2冊﹇ガラン  

︵4︶  マテカとセインタキス﹈ を終了すると︑はじめて会読に参加することができた﹂という旨の記述が見られる︒つま  

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幕末蘭学、r陽だまりの樹」の時代   19  

り会読とはそもそも︑オランダ語の初歩を終えた中上級者に与えられる原書講読の試練であって︑ガランマチカ︑  

セインタキスレベルの話ではなかったのである︒では良庵ら初学者は︑どうやってオランダ語を習得していったの  

だろうか︒﹁但前後文典の会は初学なれば随意に他人の講義を受けて翰講︹会読︺を為すことを得れども︑1多くは  

︵5︶  同級の人揃ひて先輩の講義を聞くを骨とせり﹂と長与専斎は書いている︒先に引用した諭告の﹁初学の者には︑ま  

ずそのガランマチカを教え︑素読を授ける傍らに講釈をもして聞かせる﹂という証言ともあわせ︑ほとんどの場合  

初学者がただ受動的に﹂先輩の教えを傾聴するにとどまっていたことは間違いない︒やはり入門したての良庵の会  

読参加は大いに虚構臭いのである︒   

良庵は度し難い遊び人であったから︑破門の脅しを受ける以前には猛勉強をした形跡がまったくなく︑作品に描  

き出されてもいない︒では塾生たちは日ごろ︑ノどのような勉強に明け暮れていたのだろうか︒先に述べたように月  

六回の﹁会読﹂が学習の節目を構成していたわけであるが︑意外なことにと言うべきか︑会読の予習に関しては  

まったくの独学自習︑教えたり教えられたりはとんとなかったという︒頼りになるのは塾中唯一の蘭和辞書﹁ヅー  

フ﹂で︑塾生たちはこれを奪いあうようにして引いていたのである︒   

﹁ヅーフ﹂とは︑一一人〇二年から一八一七年まで長崎オランダ商館長を勤めたヘンドリック・ドゥーフ  

︵HendrikDOef︶ のことである︒彼は異例なことに︑十五年間の長きに渡って商館長の地位にいたわけだが︑その  

理由には風雲急を告げる国際政治の影があった︒少し寄り道してみよう︒鎖国日本にと一つて世界への唯一の窓口で  

あったオランダ連邦共和国は︑ナポレオン戦争によって﹂七九五年に崩壊︒翌年にバタビア共和国としてフランス  

の属国になり︑イギリスと戦火を交えるようになった︒一人〇六年にはナポレオンの弟ルイを国王に戴くオランダ  

王国が成立し︑イギリスとの戦争状態を継続︑翌々年には長崎を舞台とする﹁フェートン号事件﹂が勃発した︒さ  

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らに一八一一年にはオランダの植民地ジャワがイギリスに占領され︑一八〇八年から一人一二年まで出島に来航す  

るはずのオランダ船は完全に途絶した︒ドゥーフが十五年ものあいだ商館長としてとどまらざるをえなかったのは︑  

まさにそのせいだったのである︒余談として︑遊女瓜生野との間にできた男児︑文書に道富姓を与え︑離日時には  

子の将来を案じる切々たる嘆療育を長崎奉行書に差し出し︵混血児を出国させることは許されていなかった︶︑そ  

の情愛の深さがのちのちまで語り草になったという︒   

ドゥーフの人柄や名館長ぶり︵イギリスの圧力にもめげず商館にオランダ国旗が翻り続けたのは︑彼の努力によ  

る︶ はともかくとして︑・異例の長期日本滞在による最大の成果が︑﹁ヅーフ﹂だったと言うべきだろう︒﹁ヅーフ・  

ハルマ﹂とも呼ばれるこの蘭和辞書を︑諭吉は﹁長崎の出島に在留していたオランダのドクトル・ヅーフと言う人  

が︑ハルマというドイツオランダ対訳の原書の字引を翻訳したもの﹂︵自伝︑八三貫︶と誤記している︒実際は︑  

フランソワ・ハルマの蘭仏辞書︵FrancOisHa−ma⁚W00rdenb00kderNederd邑scheenFranschetaa−en曽ctiOnnaire  

︵6︶  f−amandeこraロCOis︶ をもとに︑ドゥーフが日本人通辞と協力して一八一一年に作り上げたものである︒その後︑  

幕府の命によりさらに校訂が加えられて完成したのが一八三三年︒諭吉らが愛用したのはさらにその写本である︒  ヅ ーフ・ハルマに関する逸話をいくつか挙げておけば︑   

仙ヅーフ・ハルマの写本は各地に行き渡▼ったが︑魔大な量であるだけに高価で︑かつ写し間違いが多かった︒そ  

こで佐久間象山が幕府に出版を願い出たが許されなかった︒   

倒刊行が許されたのは︑ようやく安政二年から五年にかけてである︒刊行者は桂川甫周︑書名は﹃和蘭字彙﹄ で︑  

十三巻の分冊であった︒刊行許可の理由が︑黒船来航のショックによる外国語学習の必要性というのも興味深い︒  

フェートン号事件が英語の重要性に幕府を開眼させたように︑洋学の扉を大きく聞かせたのは﹁外圧﹂だったので  

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幕末蘭学、r陽だまりの樹Jの時代   21  

ある︒   

㈱ヅーフ・ハルマより早く︑一七九六年に稲村三伯︑宇田川玄真らが完成させた﹃江戸ハルマ﹄がある︒底本は  

同じで︑語数八万︒一八一〇年には藤岡淳道が簡約版﹃訳鍵﹄を刊行したが︑それにしても語数約二万七千五百で   

︵7︶  ある︒   

適塾に置かれたヅーフの分厚さが想像できるであろう︒実際﹁ヅーフ部屋﹂ のガラスケースには︑電話帳の比喩  

に恥じない大冊が積み重ねられていて︑﹁これが諭吉や良庵の手垢を吸った辞書か﹂と︑筆者などは目を皿めよう  

にして凝視したものであった︒実は︑適塾ゆかりのヅーフは洪庵が江戸に転居する際のどさくさに行方不明となり︑  

現在展示されているのは︑一人の塾生︵岡村義理︶ の子息からの寄贈品であったのだが︑筆者がそれを知ったのは  

後日のことである︒   

もう一つ筆者の思い出を語れば︑中学二年の時の国語教科書で ﹃自伝﹄ の抜粋を読み︑生涯忘れられぬ感銘を受  

けたのであるが︑なかでも奇異な思いとともに印象深かったのは諭吉の勉強ぶりであった︒夕食後一眠りして十時  

頃に起き︑明け方まで本を読む︒﹁台所の方で塾の飯炊がコト︿飯を焚く仕事をする音が聞こえると︑それを合  

図にまた寝る︒寝て丁度飯の出来上がったころ起きて︑そのまま湯屋に行って朝湯に這入って︑それから塾に帰っ  

て朝飯を給べてまた書を読む﹂ ︵八一貫︶︒なんとも不健康そうな日常である︒だが︑諭吉は好んでこのような毎日  

を送ったわけではなく︑まさにヅ﹂フが然らしめ︑余儀なくさせた生活であった︒﹁百余人の生徒皆一部のヅーフ  

を杖とも柱とも頼むものなれば︑立替り入替り其部屋に詰め込みて瀞後左右に引っ張り合ひ︑容易に手に取ること  

も叶はぎる程なり︒斯て昼間は字義の詮索も届かざれば︑ 

︵8︶  フ部屋には徹宵の燈火を見ざる夜ぞなかりし﹂︒諭善が徹夜常連組となった背景にはこのような事情があった︒塾  

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文化論集第11号   22  

頭来任じられるほど頭角を現すには︑天賦の語学の才能に加えて︑連日の徹夜も辞さぬ努力が必要だったのである︒  

それにしても︑電子辞書や︑やがてはCD.ROMの教科書さえ携えるであろう現今の若者たちは︑﹁其頃塾中の雑談  

に︑字書を坐右に控え原本にて書き読むことを得ば﹇当時は各自が筆写した写本を用いていた﹈天下の愉快ならん  

といひ合えり﹂という言を︑どう聞くことであろうか︒  

三︑緒方洪庵の業績  

仙﹃病学通論﹄   

いままでの記述からすでに明らかなように︑緒方門下に入つたからといって直ちに洪庵の該博に接することがで  

きたわけではなかった︒塾生たちの自学自習﹂切磋琢磨に期するのが塾風であったから﹂おそらくは最上級生だけ  

が所を見て︑洪庵の高説を求めたのだろう︒塾中の原書を読み尽くした塾生たちは︑実用もない原書の緒言や序文  

などを集めて会読するか︑洪庵の講義を願ったこともあると諭吉は回想している ︵自伝︑︑八四頁︶︒その赦密さ大  

胆さには毎度舌を巻き︑﹁今日の先生の破の卓説は如何だい︒何だか吾々は頓に無学無識になったようだ﹂などと  

話し合ったと彼闇書いているが︑その内容にまでは踏みこんでいない用自伝の性格上︑難解な事柄にまで筆を進め  

なかったのはもとよりとして︑洪庵の﹁高説﹂がたんに語学的なものであったのか︑医学的なことにまで及んだの  

かは明らかでない︒そもそも砲術志願を名目に適塾に遊学した諭吉が︑当時︑医学修得にどの程度の関心を抱いて  

いたかも詳らかでない︒後年︑自らが発刊した﹃時事新報﹄に︑かなり程度の高い医学啓蒙論文を発表したこと︑  

そして付け加えるまでもなく︑慶応義塾医学所を明治六年に開設︵大正九年︑大学医学部に昇格︶ したことからも︑  

諭吉が医学に並々ならぬ熱意を払っていたことは明らかである︒だがそれは︑洪庵の学説に対する彼の理解を単純  

(23)

幕末蘭学、r陽だまりの樹」の時代   23  

に物語るわけではない︒あえて言えば︑洪庵の﹁形而上学性﹂と諭吉の﹁実学性﹂にどの程度の接点があったかは︑  

今後の興味深い研究課題なのである︒   

したがってここではもう諭吉の線から洪庵を追うのはやめて︑洪庵の業績そのものへと筆を急がせることにしよ  

う︒まず︑緒方富雄編の詳細な年譜から重要な事項を︑蘭学史︑医学史と併せて抜粋してみる  

した安政年間は︑やや詳しくしてある︶︒  

文化七年︵一八一〇︶  

文化十二年 ︵一八一五︶  

文政六年︵一入二三︶  

文政八年 ︵∵八t一四︶  

文政九年二八二六︶  

文政十二年︵一人二九︶  

天保元年 ︵一入三〇︶  

天保二年︵一八三一︶  

天保三年 ︵一人二±一︶  

天保四年︵一八三三︶  

天保六年︵一八三五︶  

天保七年︵一八三六︶  

天保九年 ︵一人三八︶   五才   

十四才 

十六才   

十七才  

二十才   

l一十﹂才   

二十二才   

二十三才   

二十四才   

t一十六才   

t一十七才   

二十九才   一才 備中足守︵岡山県︶ に生まれる︒  

︵杉田玄白の ﹃蘭学事始﹄まとまる︶  

︵シーボルト日本来航︶  

父惟因とともに大阪へ出る︒  

中天瀞の門に入る︒   

︵シーボルト︑日本追放︶   

蘭学修養のため江戸へ︒ただし上総国木更津にとどまる︒   

江戸へ出て坪井信道に入門︒   

ローゼの ﹃人身窮理学小解﹄を訳し終える ︵初の訳書︶︒   

宇田川榛斎にもついて学ぶ︒  

一旦帰郷ののち大阪へ︒故中天瀞の塾で蘭学教授のため︒   

長崎修行のため大阪を立つ︒このときから緒方洪庵と名を改める︒   

長崎から帰郷したのち大阪に出て︑瓦町に適塾を開く︒八重と結婚︒   ︵諭吉︑良庵が在塾  

(24)

文化論集第11号    24  

天保十年 ︵一人三九︶  

天保十四年 ︵一人四三︶  

嘉永二年︵一入四九︶  

嘉永三年︵一八五〇︶  

安政元年︵一人五四︶  

安政二年 ︵一人五五︶  

安政三年︵一八五六︶  

蔵 ︵同じく洪庵の門下︶ についたため勘当︒︵﹁洋学書﹂を﹁暮春調所﹂と改称︶  

安政四年︵一人五七︶ 四十人才﹃扶氏経験遺訓﹄ の出版始まる︒︵江戸︑大槻俊斎宅で種痘所設立の相談を  

して︑川路聖誤の名義で幕府に願い出る︒ボンベが長崎で西洋式医学教育を始める︶  

安政五年︵一八五入︶ 四十九才 ﹃扶氏経験遺訓﹄出版進行中︒大阪小手町の除痘館の仕事が日本最初の官許  

を得る︒七男重三郎生まれる︒大阪にコレラ大流行︒洪庵︑﹃虎狼痢治準﹄出版︒︵江戸お玉ケ他種痘所が開  

設されるが︑半年で類焼︒蘭方医︑戸塚静海と伊東玄朴が奥医師に採用される︶  

安政六年︵一八五九︶ 五十才 ﹃扶氏経験遺訓﹄出版進行中︒次男平二﹁長崎の医学伝習所に入り︑ボンベに  

つく︒  

万延元年︵一八六〇︶ 五十一才 長男専斎︑長崎の伝習所でボンベにつく︒洪庵︑﹃除痘館記録﹄を書く︒︵江  

戸種痘所が幕府の直轄となり︑大槻俊斎が初代頭取となる︶  

文久元年二八六こ 五十三才 ﹃扶氏経験遺訓﹄出版完了︒︵江戸種痘所を﹁西洋医学所﹂と改称︒法眼伊    三十才 ︵蛮社の獄︶   

三十四才 適塾を過書町に移転︒  

四十才 ﹃病学通論﹄出版︒︵牛痘苗が長崎のモーニケのところに着く︶  

四十一才 ︵高野長英自殺︶  

四十五才 次男平三 ︵惟準︶︑洪庵の門下︑渡辺卯三郎の塾に入る︒  

四十六才 六女十重生まれる︒︵九段坂下に﹁洋学所﹂開設︶  

四十七才 平三︑四郎︵三男︶が︑父の許しを得ずに渡辺卯三郎の塾をのがれ︑伊藤憤  

(25)

幕末蘭学、r陽だまりの樹」の時代   25  

東玄朴︑蘭方医としてはじめて法印に叙せられる︶   

文久二年 ︵一八大二︶ 五十三才 奥医師になる要請を受諾︑江戸に行き西洋医学所頭取を兼務︒﹃勤仕向日   

記﹄を書く︒   

文久三年︵一人六三︶ 五十四才 家族を呼び寄せて三ケ月︑突然の大略血で急死︒︵西洋医学所を﹁医学所﹂  

と改称︶   

洪庵の著作は︑共訳書や一部執筆のものも含めば︑著訳者十五点︑筆録三点︑日記三点を数える︒この内︑点数  

だけから見ればやはり天保年間︵洪庵二十一才から三十五才まで︶ のものが圧倒的に多く︑若い頃から積極的な研  

究に励んでいたことがわかる︒また︑主要書訳書十二点を分類した石田純郎によれば︑物理学一︑化学一︑生理学  

一︑病理学一︑薬物学一︑内科学三︑眼科学二という内容であり︑﹁西洋医学として︑実にバランスのうまくとれ  

︵川︶  た科目名であり︑基礎医学から臨床医学までをカバーしている﹂ことも確認できる︒   

洪庵最初の主著は﹃病学通論﹄ ︵天保九年刊︶ である︒題意によれば︑オランダ語のシーキテキュンデ︑ラテン  

語のパトロギーを訳したものであり︵従来の訳語﹁原病学﹂から﹁原﹂の字を省いたと注記されている︶︑﹁諸病ノ  

本然ヲ敷知シ︑病因病証ヲ究識シ︑以テ標本治不治ヲ弁噺スル所の学﹂である︒また﹁病学通論﹂とは︑一つ一つ  

の病気を論じる病学各論に対し︑前記病学の対象を﹁統括﹂した﹁給論﹂のことである︒現代風に訳せば病理学通  

論ということになろうが︑十九世紀後半においては病理学と内科学がほぼ同一の学問であったという指摘がある︒   

病理学総論であれば︑かなり大部の著作という先入観が抱かれるであろう︒実際︑第一巻冒頭の総目次を参照す  

ると︑巻之一︑生機論︑巻之二から巻之六︑疾病総論︑巻之七から巻之九︑病因総論︑巻之十から巻之十二︑病証  

総論と︑計十二巻に及ぶはずであった︒しかしフーフエランドの最新内科書 ︵のちに ﹃扶氏経験遺訓﹄として刊行︑  

(26)

文化論集第11号   26  

︵12︶  後述︶ の訳完成の方に精力を尽くしたか︑第四巻以降は未完に終わった︒筆者の所有している復刻版で計算すれば︑  

二百字詰め弱程度の用紙で総計七十九枚であるから︑決して大著と呼べるほどの分量ではない ︵巻之一︑二十三枚︑  

巻之二︑三十人枚︑巻之三︑十人枚︒目次などを含まず︶︒   

洪庵は﹁提言﹂において︑なぜ自分がこの一書をまとめたかの来歴を語っている︒すなわち︑我が国においては  

病学の翻訳を試みる者がいなかったため︑宇田川榛斎が門人・青木周弼にフーフエランドの病学書を︑洪庵にコン  

スブルック︑コンラヂらの病学者をそれぞれ訳させ︑それらを折衷して一書を編み︑刊行せんとした︒しかし塙半  

ばにして榛斎は重篤な病に陥り︑自分の志を継ぐように洪庵に命じた︒洪庵は︑ハルトマン︑リセランド ︵リシュ  

ラン︶︑ブリユメンバック︑ローゼ︑スプレングルらの著書︑及び化学︑物理学︑内外科学の諸書を参考にして遺  

稿に手を加え︑ついに脱稿に到ったのである︒原著者︵フランス人リセランドを除く七人すべてがドイツ人︶と蘭  

訳者については︑石田純郎の詳細な調査があるのでそちらに譲ることにする︒ドイツ人原著者は大学医科教授︵と  

くにゲッチンゲン大学関係︶が多く︑蘭訳者は臨床家が多いということ︑そして︑オランダの開業内科医や外科医  

︵13︶  を対象とした本が﹃病学通論﹄ の原著として利用されたのだろうということが︑石田の結論である︒   

さて ﹃病学通論﹄ の内容であるが︑巻之一﹁生機論﹂は次の文言で始まっている︒﹁宇宙聞方物ノ品類蕃庶卜錐  

モ︑之ヲ統テ両体トス︒其一ヲ有機体ト調フ︒動物植物是ナリ︒﹇⁝⁝﹈其一ヲ無機体卜謂フ︒﹇⁝⁝﹈動植二物ヲ  

除クノ他皆是レナリ﹂︒西欧人にとっては当り前の発想であっても∵我が国にはなじみのない二元論である︒さら  

に文言は続く︒﹁凡ソ天地万物︑剛柔屈伸動静︑変化得テ究極スベカラズト錐モ︑一モ進化力ノ三作用ヨリ出デザ  

ル者ナシ﹂︒小学校時代からニュートン力学の初歩を習うわれわれ現代人でも︑宇宙を支配するすべての力が︑た だ四つの力︵重力︑強い核力︑弱い核力︑電磁気力︶ に還元されることを理解するのに困難を覚えるのではないか 

(27)

幕末蘭学、F陽だまりの樹Jの時代   27  

ましてや江戸時代のことである︒万物の変化が﹁造化力﹂ の三作用に還元されるという説を︑医師︑医学者がどの  

程度納得したかは興味深いところである︒   

もとより洪庵が典拠した原書には︑原子構造論を潮ること一世紀近いものも含まれるから︑﹁三作用﹂ の内容も  

メカニスミュス  かなり混乱している︒その一︑﹁黙加尼私謬斯﹂ の作用を生じさせる力は﹁黙加力﹂ であり︑それは﹁引力﹂﹁衆  

力﹂ ﹁張力﹂﹁重力﹂ に分類される︒洪庵があえて訳さなかった ︵訳しょうがなかった︶ ﹁黙加尼私謬斯﹂は ﹁カ  

学﹂に相当しようが︑今日的な内容とはまったく異なっており︑化学との混同も見受けられる︒また第二の﹁舎密  

スミュス  私謬斯﹂こそ化学に相当するわけであるが︑この作用のもととなる﹁舎密力﹂あるいは﹁親交力﹂は︑古くからの  エレキガルハニ  デイナ・ミスミユス  仮説である化学的親和力の引き写しに過ぎない︒第三の﹁納那密私謬斯﹂は︑﹁温素︑︑光素︑越列幾︑瓦爾華尼︑  

マケネチ  末偲漫質等ノ如ク︑権衛以テ測ル可カラザル素の作用を総称ス﹂るものである︒T殆ド無形二属スル﹂ものをこの  

ように一括するのであるから︑やむをえないとも言えるが︑混乱はもっとも著しく︑動力学と無関係であることも  

明瞭である︒ドイツ語原著のオランダ語訳を持ち︑それを重訳するという当時の翻訳状況を考えに入れでも︑彼我  

の相違は大きいと言わなければなるまい︒ちなみに︑﹁熟素﹂︵洪庵はこれを﹁温素﹂と訳している︶説を打ち破る  

エネルギー保存説が確立されつつあったのはちょうどこの頃であったし︑マックスウェルの電磁理論が完成される  

のも幕末のことなのである︒   

ところで洪庵は︑これら三作用をもって人体の働きを説明しようとするのだろうか︒適塾の門人 ︵のち討幕軍の  

総司令官︶︑大村益次郎の生涯を措いた司馬遼太郎の ﹃花神﹄ の冒頭には︑洪庵のことが触れられ︑.﹁﹃人間は︑機  

械と同じかもしれない﹄という︑およそ非神秘的なことを︑独特のおだやかな物言い方で︑門生に説ききかせた人  

である﹂と善かれてある︒しかし︑洪庵︵が拠って立つフーフエランド︶ の説を︑単純に橡械論と解釈することは  

(28)

文化論集第11号   28  

避けられなければならない︒確かにフーフエランドは人体の働きを﹁造化の三力﹂ − 黙加力︑舎密力︑納那力   

− をもとに説明しようとはする︒ただし︑有磯体にあってこれら三力は転化されるため︑本来の性質を発揮する  

ことができず︑有機黙加力︑有機舎密力︑有機納那力として働く︒なぜなら有機体には﹁生力﹂が備わっていて︑  

これら三力を支配しているからである︒   

﹁生力﹂は﹁発生化育ノ機﹂と﹁感覚活動ノ用﹂に二分される︒前者は﹁賦機力﹂と﹁成形力﹂から成る﹁資生  

力﹂であり︑後者は﹁感受力﹂と﹁抗抵力﹂から成る﹁感応力﹂である︒訳語は煩雑であるが︑資生力は﹁補給  

力﹂の別名が示すとおり︑有機体が自らの組織を形成し維持する力であり︑感応力は﹁覚機﹂ ︵神経︶ ﹁動機﹂︵筋  

力︶など︑外部の刺激に対して反応する力と捉えることができよう︒▼ただし後者は︑五感の働きと心臓の機能︑胃  

の消化機能︑腎臓の排泄機能などを同次元で包含しており︑分類として粗雑であるのはやむをえない︒だが︑問題  

の所在はそこにではなく︑黙加力︑舎密力︑納那力といった一見機械論風の説明原理が用いられながら︑実は﹁生  

カ﹂という仮象が想定されているところにある︒生力について・﹃病学通論﹄では﹁其物クルノ本現実二未夕究識ス  

ベカラズト鞭モ︑唯共作用二徴シテ之レヲ言フノミ﹂と善かれている︒つまり生力とは︑現象︵有機体の作用︶ の  

背後に存在する未知の生命原理なのであり︑その限りでフーフエランドの説は明らかに生気論に立脚しているので  

ある︒洪庵が生力を注釈して︑中国で言われる﹁元運生気︑元気︑正気︑臭気﹂などは皆これである︑と書いてい  

るのもそのためであろう︒   

人体の活動とは︑内外の﹁刺衝物﹂によって生力が﹁変動﹂することによって生じる活動である︒刺衝物の意味  

するものは広く︑体外に存する有形無形の﹁外刺衝物﹂のみならず︑体内にある血液︑意識︑神経力︑各分泌液な  

ども︑それぞれ心肺︑神経力︑動機︑各分泌液に対して﹁内刺衝物﹂として働く︒したがって疾病とは結局︑﹁其  

(29)

幕末蘭学、F陽だまりの樹」の時代   29  

原ヲ生カト刺衝物ノ変常二得ル者﹂なのである︒生力変常と刺衝物変常の区別︑及び疾病に関わる細かな分類につ  

いてここでは割愛するが︑拠って立つ生気論的な立場から︑フーフエランドが﹁自然良能﹂を重視したことは推測  

がつくであろう︒洪庵は﹁凡ソ活体ノ医冶ヲ須タズ自カラ病敵ヲ退ケテ平常二復セントスルノ妙機﹂を自然良能と  

呼ぶと書き︑これを感応力の用︑資威力の用︑抗定定則に分類して訳述している︒ただし自然良能を重視したのは︑  

フーフエランド説を信奉した洪庵ばかりではない︒杉本つとむは︑自然良能を真正面にすえ積極的にチャレンジし  

たのが幕末の蘭方医であると見なして︑青木浩斎訳の﹃察病亀鑑﹄を引用する︒﹁凡ソ疾病ノ治スルハ︑自然良能  

ノ営為ニシテ︑医術ハ唯々之ガ補相タリ︒故二治病ノ柄ヲ専ラ掌撞スルコト能ハズ︒凡ソ病ヒノ外表二親ハルルハ︑  

︵聖  体内ノ生機︑常ヲ錯り病的運営ヲ起スニ基ス﹂︒同じフーフエランドの著作であるから﹃病学通論﹄との類似性が  

顕著なのは当然のことだが︑杉本は自分が手に取った刊本が旧鳥取藩医の所蔵本だったことから︑フーフエランド  

の訳書の地域的な拡がりを推測している︒実際︑フーフエランドの訳書は十九点というその数の多さからのみなら  

ず︑医の倫理の重視という思想面からも幕末の蘭方界に広く浸透していったのである︒   

最後に﹁自然良能﹂について補足しておこう︒西欧の﹁自然﹂概念には神の意識が反映されているJ痛いを癒す  

原動力が﹁自然﹂であるとしても︑それは東洋流の﹁ありのまま﹂ではなく︑神の恩寵によって与えられたものだ  

からである︒幕末の蘭方医がこの点を理解しえたかどうかはともかくとして︑たとえ理解しえたとしても︑キリシ  

タン禁制下でこのような思想まで説くことは不可能であっただろう︒もっとも︑自然が主で医術が従といった考え  

方は普遍的なものでありうるから︑キリスト教的な背景を無視しても医師を魅了しえたわけではある︒魂代医療と  

ひき比べることは差し控えておくが︑自然良能がもっぱら漢方の専売特許となり︑いわゆる先端医療がますます細  

分化と技術化の道を邁進しているように見えるのは皮肉な︑また寂しい傾向であると言えよう︒  

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東北大学大学院医学系研究科の運動学分野門間陽樹講師、早稲田大学の川上

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