019
京
都
産
業
大
学
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創
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大
学
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都
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大
学
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京
都
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大
学
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七
∼
一
九
七
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︶
本県立中学 濟 せい 々 せい 黌 こう ( 現、県立 濟 せい 々 せい 黌 こう 高等学校 ) に入学しました。 入学したものの、二年生のときはビリから二番目でした。成績 の悪い順から前の席に 座 すわ らされていたので、席は最前列でしたが、 その後 徐 じょ 々 じょ に成績も上がり、卒業するころには一番後ろの「 壁 かべ 付 き」の 名 めい 誉 よ の席を 占 し めました。特に数学や物理がよくできました。 濟 せい 々 せい 黌 こう で 五 年 間 学 び 、 大 正 四 年 ( 一 九 一 五 ) に 卒 業 し 、 広 島 高 等 師 し 範 はん 学 校 の 理 科 一 部 に 入 学 。 四 年 間 学 ん だ 後 、 大 正 八 年 ( 一 九 一 九 ) に 卒 業 し 、 滋 し 賀 が 県 けん 立 りつ 彦 ひこ 根 ね 中 学 校 の 教 師 に な り ま し た が 、 そ の 翌 年 に 教 師 を 辞 や め 、 京 都 帝 国 大 学 ( 現 、 京 都 大 学 ) 理 学 部 物 理 学科を受験し、合格しました。
京都帝国大学時代
大 正 十 年 ( 一 九 二 一 ) 、 京 都 帝 国 大 学 教 授 の 新 しん 城 じょう 新 しん 蔵 ぞう 博 士 が 、 ド イツ留学によって、世界 最 さい 先 せん 端 たん の 天 てん 文 もん 学 がく 、物理学の知識を 吸 きゅう 収 しゅう し て帰国し、 宇 う 宙 ちゅう 物理学教室を 新 しん 設 せつ しました。 俊 とし 馬 ま は、広島高等 師 し 範 はん 学校に学んでいた 頃 ころ から天文学に関心があり、宇宙物理学教室 に 移 り た い と 思 い 新 しん 城 じょう 教 きょう 授 じゅ を 訪 たず ね ま し た 。 俊 馬 は 、 新 城 教 授 と 会って、「この方こそ、私の 師 し 事 じ する方だ」「これから一生、天 文学をやっていこう」と心に決めました。 大 正 十 一 年 ( 一 九 二 二 ) 十 一 月 、 相 そう 対 たい 性 せい 理 り 論 ろん に よ っ て 世 界 的 に 有 名な科学者となっていたアインシュタイン博士が来日しました。 東 京 帝 国 大 学 ( 現 、 東 京 大 学 ) で 、 日 本 の 物 理 学 者 や 優 すぐ れ た 学 生 た ちのために、六回にわたって特別講義が開かれ、新城教授は京都 帝国大学からただ一人俊馬を連れて参加しました。 この後、十二月十四日に京都帝国大学でもアインシュタイン博 士の講演会が行われました。俊馬は、学生 総 そう 代 だい としてドイツ語で 歓 かん 迎 げい の言葉を 述 の べました。 大 正 十 二 年 ( 一 九 二 三 ) に 大 学 を 卒 業 。 そ の ま ま 理 学 部 講 師 と し生い立ち
荒 あら 木 き 俊 とし 馬 ま は 、 明 治 三 十 年 ( 一 八 九 七 ) 三 月 二 十 日 、 熊 くま 本 もと 県 けん 鹿 か 本 もと 郡 ぐん 鹿 か 本 もと 町 まち ( 現 、 山 やま 鹿 が 市 し 鹿 か 本 もと 町 まち ) 来 く 民 たみ で 、 父 竹 たけ 次 じ 郎 ろう 、 母 記 き 寿 じゅ の 長 男 と し て 生 ま れ ま し た 。 近 く に は 、 大 正 十 三 年 ( 一 九 二 四 ) 熊 本 県 初 の 総 理大臣となる 清 きよ 浦 うら 奎 けい 吾 ご 伯 はく 爵 しゃく が生まれた 明 みょう 照 しょう 寺 じ がありました。 父 の 竹 次 郎 は 、 東 京 高 等 師 し 範 はん 学 校 に 学 び 、 明 治 二 十 九 年 ( 一 八 九 六 ) に 熊 本 に 戻 もど り 、 濟 せい 々 せい 黌 こう の 城 じょう 北 ほく 分 ぶん 黌 こう ( 鹿 本 町 来 民 ) の 主 任 を 務 つと め、その後、 城 じょう 北 ほく 分 ぶん 黌 こう が県立鹿本中学校に 昇 しょう 格 かく したときに、 初代の校長となりました。 明 治 三 十 九 年 ( 一 九 〇 六 ) 、 竹 次 郎 は 、 恩 おん 師 し の 東 京 高 等 師 し 範 はん 学 校 長 嘉 か 納 のう 治 じ 五 ご 郎 ろう ( 柔 じゅう 道 どう の 創 そう 始 し 者 しゃ ) に 、 東 京 で 中 国 人 留 りゅう 学 がく 生 せい に 教 育 指 導 をして欲しいと強く 頼 たの まれ、県立鹿本中学校を 退 たい 職 しょく し、 上 じょう 京 きょう しま した。そのため母 記 き 寿 じゅ は、 来 く 民 たみ 尋 じん 常 じょう 小学校に入学していた俊馬と 幼 おさな い 千 ち 里 さと と 亨 とおる の三人の子どもを連れて、熊本市の 新 しん 屋 や 敷 しき に 転 てん 居 きょ 、 俊馬は熊本市立 碩 せき 台 だい 小学校に転校しました。 し か し 、 翌 よく 年 とし ( 一 九 〇 七 ) 、 俊 馬 が 十 歳 の と き 、 父 竹 次 郎 ( 三 十 九 歳 ) が 旅 たび 先 さき の 愛 知 県 で 急 きゅう 死 し し ま し た 。 母 は 子 ど も た ち を 育 てるため 碩 せき 台 だい 幼 よう 稚 ち 園 えん の教師となって働き始めました。 俊馬は、小学校を 卒 そつ 業 ぎょう し中学を受験しましたが不合格でした。 熊 本 高 等 小 学 校 に 通 い 、 再 さい 挑 ちょう 戦 せん し て 明 治 四 十 三 年 ( 一 九 一 〇 ) に 熊 未来の熊本の秀才・荒木三兄弟、 左から千里、俊馬、享て大学に残り、 翌 よく 年 とし に 助 じょ 教授となり、新城教授の 娘 むすめ 京 きょう 子 こ と 結 けっ 婚 こん し ました。 大 正 十 四 年 ( 一 九 二 五 ) の 三 月 二 十 日 の 午 前 〇 時 三 分 に 、 長 男 の 雄 ゆう 豪 ごう が生まれました。俊馬は、自分と同じ月日に長男が生まれた ことに感動を覚え非常に喜びました。午前三時ごろ自宅に帰り、 わ が 子 誕 たん 生 じょう の 興 こう 奮 ふん で ほ と ん ど 寝 ね て い な か っ た 俊 馬 は 、 夜 明 け を 待って、モーニングを着こみ、病院へ出かけました。父子の初対 面は 厳 げん 粛 しゅく なものであると考えたからでした。 雄豪は、 後 のち に、父俊馬が教えていた京都帝国大学 宇 う 宙 ちゅう 物理学科 に進みました。 昭 和 三 年 ( 一 九 二 八 ) 、 俊 馬 は 、 「 天 てん 体 たい 力 りき 学 がく 」 の 講 義 終 了 後 の 夏 休みに、「 量 りょう 子 し 力学」の講義を十五回にわたって集中して行いま した。 後にノーベル賞を受けた 湯 ゆ 川 かわ 秀 ひで 樹 き 博士と 朝 とも 永 なが 振 しん 一 いち 郎 ろう 博士がまだ 物理学科の学生だった 頃 ころ で、学生らが俊馬に 頼 たの んで当時としては 最新の「量子力学」の講義をやってもらいました。 岩 いわ 波 なみ 書 店 の 『 図 書 』 ( 昭 和 五 十 七 年 ( 一 九 八 二 ) 出 版 ) に 「 ふ た り が学生だったころ」として湯川秀樹博士と朝永振一郎博士の対談 が 掲 けい 載 さい されています。その中で、湯川博士が「私が三年生のとき で 、 荒 木 助 教 授 は 新 しん 進 しん 気 き 鋭 えい 。 ち ょ う ど 量 子 力 学 が 現 れ た と き で 非 常 に 印 象 が 強 か っ た 」 と 言 う と 、 朝 永 博 士 が 「 名 講 義 だ っ た 。 僕 ぼく も 印 象 に 残 っ て いる」と返し、湯川博士が「なかなかロマンチックにおやりにな る。それで 僕 ぼく らを大いにアジったわけやね。そのときから量子力 学をずっとやるつもりだったから」と語っています。
ヨーロッパ留学
昭 和 四 年 ( 一 九 二 九 ) 一 月 、 俊 馬 ( 三 十 一 歳 ) は 、 文 部 省 派 は 遣 けん の 海 外研究員として、神戸港から日本の 客 きゃく 船 せん 鹿島丸でヨーロッパ留学 に向かいました。そのころ、日本から海外に行くには、船しかな く、日本からヨーロッパまで四十日ほどかかっていました。 俊馬は、二月 下 げ 旬 じゅん にヨーロッパに着き、イタリアのナポリに三 週間ほど 滞 たい 在 ざい 。素晴らしい語学の才能を持っていた俊馬は、下宿 生活を始めて二週間経ったころには「イタリア語で大体しゃべる ことができるし、人の言うことを 大 だい 胆 たん に聞き流すことができる」 と妻への手紙に書いています。 四月、ドイツのベルリンに着いた俊馬は、聞きなれないドイツ 語にとまどい、あわてました。「ドイツ語の発音が、日本でやっ てきたのと全然違う」。京都帝国大学の学生、教官時代の勉強を 通して、ドイツ語の 論 ろん 文 ぶん は不自由なく読み書きできました。 ド イ ツ 語 会 話 学 校 に 通 い 、 九 月 、 ベ ル リ ン 大 学 の 新 学 期 が 始 ま り 、 研 究 生 活 が ス タ ー ト す る 頃 ころ に は 、 「 な に げ な く ド イ ツ 語 で こ の 国 の 人 た ち と 会 話 し て い る 自 分 に 気 づ く 」 よ う に な っ て い ま し た 。 俊馬は、日本を出発する前に、京都帝国大学に「セフェイド 変 へん 光 こう 星 せい の 大 たい 気 き 圏 けん の圧力変化に関する高温 電 でん 離 り の 理 り 論 ろん による研究」と いう博士 論 ろん 文 ぶん を提出していました。七月にその論文が認められ、 博士号を 授 じゅ 与 よ されることが決まりました。当時の日本では「末は 博士か大臣か」と 立 りっ 身 しん 出 しゅっ 世 せ の目標とされていた時代です。お祝い の電報や手紙がたくさん自宅や大学の研究室に届きました。俊馬 は、ドイツのベルリンの下宿先に届いた妻京子からの手紙で、博 士 論 ろん 文 ぶん が通ったことを知りました。俊馬は非常に喜び、ベヒシュ タ イ ン の ピ ア ノ を 購 こう 入 にゅう し 、 京 都 に い る 妻 さい 子 し に 送 り ま し た 。 ベ ヒ 京都帝国大学助教授時代の俊馬シュタインピアノは「ピアノのストラディバリウス」といわれる ほどの 名 めい 器 き で、戦前の日本では最高のピアノの 代 だい 名 めい 詞 し ともなって いました。 俊馬は、ベルリン大学とポツダムの天体物理研究所で二年にわ たる研究生活を送りました。ドイツにはアインシュタイン博士や 物理学の 最 さい 先 せん 端 たん をいく 優 ゆう 秀 しゅう な学者たちが集まっていて、俊馬は 相 そう 対 たい 性 せい 原 げん 理 り や 量 りょう 子 し 力 りき 学 がく の 理 り 論 ろん について研究を深めました。 その一方では、オペラ 座 ざ にもよく通い、また、いろいろなとこ ろへ旅行に行き、スイスのアルプスの山歩きも楽しんだりしまし た。俊馬は、子どもの頃から非常に絵が上手で、旅先ではスケッ チをよく 描 か きました。また、旅先からは妻の京子あてに一七〇〇 通ものたくさんの絵はがきを出しています。
帰
国
昭 和 六 年 ( 一 九 三 一 ) 、 俊 馬 は 、 二 年 間 の ヨ ー ロ ッ パ 留 学 を 終 え 、 シベリア鉄道を利用して日本に帰って来ました。 翌 よく 年 とし 、京都帝国 大学の 宇 う 宙 ちゅう 物理学第一 講 こう 座 ざ を 分 ぶん 担 たん することになりました。また、 外国の書物を原文で読むために再びロシア語の勉強を始め、翌年 には中国語の勉強もしました。 昭 和 九 年 ( 一 九 三 四 ) 一 月 、 皆 かい 既 き 日 にっ 食 しょく を 観 測 す る た め 、 日 本 が 統 とう 治 ち していた 南 なん 洋 よう 諸 しょ 島 とう のローソップ島へ、 大 おお 掛 が かりな観測隊が日本 から 派 は 遣 けん されました。隊員は、俊馬をはじめ、海軍技術研究所、 逓 てい 信 しん 省 しょう ( 郵 ゆう 便 びん や 通 信 を 管 かん 轄 かつ す る 省 庁 ) 、 東 京 天 文 台 、 東 京 帝 国 大 学 などの当時の一流の天文、 宇 う 宙 ちゅう 物理学者たちでした。 昭 和 十 年 ( 一 九 三 五 ) 、 新 城 博 士 は 、 中 国 の 上 シャン 海 ハイ 自 然 科 学 研 究 所 長 と し て 、 中 国 に 渡 り ま し た 。 翌 よく 十 一 年 ( 一 九 三 六 ) 、 俊 馬 は 皆 かい 既 き 日 にっ 食 しょく 観測のため中国に行き、新城博士と共に観測を行いました。 し か し 、 残 念 な こ と に こ の 二 年 後 の 昭 和 十 三 年 ( 一 九 三 八 ) に 新 城 博士は中国の 南 ナン 京 キン で 亡 な くなりました。 昭 和 十 六 年 ( 一 九 四 一 ) 、 四 十 四 歳 の 俊 馬 は 、 京 都 帝 国 大 学 理 学 部の教授となりました。この年の十二月八日、日本がハワイの 真 しん 珠 じゅ 湾 わん を 攻 こう 撃 げき し太平洋戦争が始まりました。夜久野村へ
昭 和 二 十 年 ( 一 九 四 五 ) 八 月 十 五 日 、 日 本 は ア メ リ カ な ど 連 合 国 側に 降 こう 伏 ふく し、戦争が終わりました。 俊馬は「戦争を始めた以上、祖国を守るためには勝たなければ ならない」と、大日本 言 げん 論 ろん 報国会の理事を 務 つと め、軍部に協力して いました。 日本が負けたことは俊馬にとって「 驚 きょう 天 てん 動 どう 地 ち の 驚 おどろ き」であり、 その夜は 一 いっ 睡 すい もせずに、これからどうするか思い考えました。 「 占 せん 領 りょう 軍 ぐん がまもなく 進 しん 駐 ちゅう するであろう。日本の 官 かん 吏 り はすべてそ の 指 し 揮 き を受ける。いままで戦ってきた占領軍の 禄 ろく を 食 は むつもりは 毛 もう 頭 とう ない。ではどうするか。 官 かん 職 しょく を捨てるか、それとも 屈 くつ 辱 じょく を 忍 しの んで大学教授のポストにしがみつくか」 考えた末に、俊馬は 山 さん 村 そん に 籠 こも り、 晴 せい 耕 こう 雨 う 読 どく し、家族とともにわ が人生のこれからの生き方を考えたいと決心しました。 終戦から九日目の八月二十四日、俊馬は、 辞 じ 表 ひょう を大学に提出し ました。 兵 ひょう 庫 ご 県 境 に 近 い 京 きょう 都 と 府 ふ 天 あま 田 だ 郡 ぐん 夜 や 久 く 野 の 村 むら ( 現 、 福 ふく 知 ち 山 やま 市 し 夜 や 久 く 野 の 町 ちょう ) で 開 かい 墾 こん の仕事をし、終戦の 翌 よく 日 じつ に友人と俊馬を 訪 たず ねてきた 菱 ひし 沼 ぬま 政 まさ 雄 お を 頼 たよ って、家族とともに夜久野村へ移りました。 俊馬は、夜久野村で畑を借り 開 かい 墾 こん 生活を始めました。最初に住 んだのはスイカ小屋でした。 板 いた 敷 しき にコモを 敷 し いた、吹きさらしの 粗 そ 末 まつ な小屋でした。長女みそらと三男の 俊 とし 豪 ひで は小学生で、みほし、 靖 やす 豪 ひで はまだ 幼 よう 児 じ でした。長男の 雄 ゆう 豪 ごう は京都帝国大学学生で、 馬 ば 術 じゅつ部 ぶ に 所 しょ 属 ぞく し、馬小屋で 寝 ね 泊 と まりしていました。 しばらくして、川のほとりに家を借りることができました。冬 はインクも 凍 こお りつくほどの寒さでしたが、夏になるとたくさんの ホ タ ル が 舞 ま う の を 見 る こ と ができました。 俊 馬 は 、 畑 仕 事 に 従 じゅう 事 じ し な が ら 三 人 の 子 ど も た ち に 数 学 や ピ ア ノ な ど を 教 え 、 夜 は 文 ぶん 学 がく か ら 専 せん 門 もん 書 しょ まで 幅 はば 広 ひろ く本を読み、特に 哲 てつ 学 がく 書 しょ を熱心に読みました。 ま た 、 子 ど も た ち 向 け に 、 『 大 だい 宇 う 宙 ちゅう の 旅 』 や 「 楽 し い 理 科 教 室」シリーズ『昼夜の長さと季節』『黄道をさまよう天体』『 日 にっ 食 しょく と 月 げっ 食 しょく 』など宇宙の 神 しん 秘 ぴ についての本を次々に書きました。 有名な『 銀 ぎん 河 が 鉄道999』や『宇宙 戦 せん 艦 かん ヤマト』を書いた 漫 まん 画 が 家 か 松 まつ 本 もと 零 れい 士 じ は、小学六年のときに『 大 だい 宇 う 宙 ちゅう の旅』を読んで、 宇 う 宙 ちゅう への 眼 め が開かれたそうです。松本零士は平成十三年春に、「私に 大宇宙という名の未来をさずけて下さった 大 だい 恩 おん 師 し 、 偉 い 大 だい な荒木先 生に心から感謝しています」と書いた 色 しき 紙 し を京都産業大学に送っ ています。 月日が 経 た つうちに、俊馬が天文学や宇宙物理学の学者で、京都 帝国大学の教授だったということが周りに知られ、文化人が集ま り、講演の 依 い 頼 らい も次々に来て、俊馬の教育に対する熱い思いが広 く知られるようになりました。 昭 和 二 十 七 年 ( 一 九 五 二 ) 、 地 元 の 人 た ち か ら 熱 心 に 頼 たの ま れ 、 夜 久野教育事務組合の教育委員長になりました。 昭 和 二 十 九 年 ( 一 九 五 四 ) 、 俊 馬 の か つ て の 教 え 子 た ち が 、 俊 馬 先生をこのままにしておくのはもったいない、 優 すぐ れた 人 じん 格 かく 識 しき 見 けん を 今こそこの世にいかすべきという声が強まり、三月、俊馬は家族 とともに夜久野村から京都に戻り、私立 大 おお 谷 たに 大学教授の職に 就 つ き ました。 昭 和 三 十 二 年 ( 一 九 五 七 ) に は 、 以 前 勤 つと め て い た 京 都 大 学 ( 戦 後 、 学 制 改 かい 革 かく に よ り 名 めい 称 しょう 変 へん 更 こう ) の 理 学 部 と 大 学 院 の 講 義 に も 戻 もど る こ と ができました。
新しい大学を
俊馬は、日本の国が大切に持ち続けて来た「美しい歴史的伝統 を 基 き 盤 ばん にした心」が消えようとしていると感じ、さらに、教育現 場の 混 こん 乱 らん を見て、「大学が今のままであれば、日本は 滅 ほろ びる」と 心を 痛 いた め、国の 将 しょう 来 らい を 憂 うれ う気持ちが高まり、日本の 将 しょう 来 らい を 背 せ 負 お う 人 材 育 成 の た め の 大 学 を 造 ろ う と 、 昭 和 三 十 七 年 ( 一 九 六 二 ) の 秋 、 動き出しました。 俊馬は、日本の 将 しょう 来 らい のために自分の理想とする新しい大学を 創 そう 設 せつ することの必要性を、 寝 しん 食 しょく も忘れ 忙 いそが しく 説 と いて回り、土地探し に 奔 ほん 走 そう しました。 京都府のある議員から、土地を提供し全面的に協力するのでぜ ひ自分のところに大学を造ってほしいという話がありましたが、 金 かね 儲 もう けしようという人たちがからんできたため、やむを 得 え ず 断 だん 念 しました。 俊馬は、 国 こく 有 ゆう 林 りん に目を付けました。 林 りん 野 や 庁 ちょう の理解と協力を得て、 三 十 八 年 ( 一 九 六 三 ) の 初 しょ 夏 か 、 京 都 府 内 の 国 有 林 を 一 つ 一 つ 見 て 回 り、八月二十一日、本山十三区国有林に大学を建設しようと決め ました。 土地の次は建設するための 資 し 金 きん 集めに 奔 ほん 走 そう しました。大谷大学 夜久野で子どもたちと。自給自足、晴耕雨 読の日々を送るの退職金や自身の思い出の品々を売って得たお金を資金としてつ ぎ込みました。俊馬が資金集めに苦労していることを知った、か つての教え子や知人友人たちから 浄 じょう 財 ざい が寄せられるようになりま した。 このころ、日本は高度 経 けい 済 ざい 成長時代に入り、十八歳 人 じん 口 こう が増え、 進 しん 学 がく 率 りつ も 急 きゅう 上 じょう 昇 しょう し、私立大学、短大が次々に 誕 たん 生 じょう していました。 大学建設を考えていた京都の東山学園の 藤 ふじ 原 わら 弘 こう 道 どう 学園長が、俊馬 の熱い思いと 緻 ち 密 みつ な計画に深い理解を示し、全面的な 支 し 援 えん を 約 やく 束 そく しました。 大学を新しく造るためには、土地や資金だけでなく建設工事、 教 授 集 め な ど 非 常 に 難 むずか し い 問 題 が た く さ ん あ り ま し た が 、 俊 馬 は た く さ ん の 人 た ち の 協 力 と 支 し 援 えん に よ っ て 、 遂 つい に 昭 和 三 十 九 年 ( 一 九 六 四 ) 十 二 月 十 八 日 、 文 部 省 の 大 学 設 せっ 置 ち の 認 にん 可 か ( 内 ない 定 てい ) を も ら うことができました。 ( 正式認可は翌年一月二十五日 )
京都産業大学の開設
大 学 の 名称 は 京 都産 業 大 学 に 決 定 し 、 昭 和 四 十年 ( 一 九 六 五 ) 四 月、 俊 馬 は 京 都 産 業 大 学 の 初 代 の 学 長 兼 けん 理 事 長 と な り 、 経 済 学 部 経 済 学 科 、 理 学 部 数 学 科 、 物 理 学 科 の 二 学 部 三 学 科 で 大 学 が 開 学 し ま し た 。 俊 馬 は 、 経 済 大 たい 国 こく と し て 成 長 し 続 け て い る 日 本 の 国 の 将 来 を 担 にな う 経 済 人 、 独 どく 創 そう 的 な 科 学 者 、 技 術 者 の 育 成 を め ざ し ま し た 。 募 ぼ 集 しゅう 期間が三ヵ月もなかったにもかかわらず、 予 よ 想 そう もしなかっ た受験者数があり、期待を上回る六百九十七名もの入学者を迎え ることができました。 父俊馬と一緒に大学創設に関わり、 開 かい 学 がく とともに移ってきて理 学部教授となった長男の 雄 ゆう 豪 ごう は、すぐに馬術部を作りました。雄 豪は、京都帝国大学の学生のときから馬術の名手として国内外で 活躍し、五年前のローマオリンピックにも出場していました。馬 術部は、雄豪の 名 めい 指 し 導 どう により、すぐに全国大会で 優 ゆう 勝 しょう するなどし て、またたくまに日本の学生馬術界の 頂 ちょう 点 てん に 駆 か け上がりました。 できたばかりの京都産業大学は、教職員と学生が一体となって、 理想の総合大学を自分たちの手で 創 つく り上げようという 意 い 気 き に燃え ていました。 俊馬は、教育と研究施設の充実に力を入れました。特に、コン ピュータの 導 どう 入 にゅう については、国内の大学の最先端を行く充実ぶり で、関西の他の私立大学より十年先を行くものでした。 また、学生たちのために、毎年のように世界的に有名な学者を 大学に 招 まね き、講演をしてもらいました。 昭 和 四 十 二 年 ( 一 九 六 七 ) 十 一 月 、 歴 史 学 者 と し て 世 界 の 最 高 権 けん 威 い だったアーノルド・トインビー博士を招きました。その後、有 名なハーマン・カーン博士も招き講演会を開きました。この偉大 な 二 人 の 学 者 に は 大 学 の 学 事 顧 こ 問 もん に な っ てもらいました。 昭 和 四 十 六 年 ( 一 九 七 一 ) 七 月 か ら 十 月 に か け て 、 俊 馬 は 、 世 界 交 流 の 地 な ら し の 目 的 で ヨ ー ロ ッ パ か ら ア メ リ カ を 回 り ま し た 。 イ ギ リ ス で は ト イ ン ビ ー 博 士 の 自 宅 を 訪 たず ね 、 懐 なつ か し い 再 会 を 果 た しました。 昭 和 四 十 八 年 ( 一 九 七 三 ) の 秋 、 俊 京都産業大学に着いたトインビー博士夫妻。熱い拍手に迎えられた馬は、ポーランドで開催されたコペルニクス 生 せい 誕 たん 五〇〇年記念の 会議に招待を受け、記念講演をしました。 昭 和 五 十 一 年 ( 一 九 七 六 ) 五 月 、 俊 馬 は 、 前 の 年 に 亡 く な っ た ト インビー博士の墓参りのためイギリスに行きました。 京都帝国大学医学部教授となり 脳 のう 外 げ 科 か 学 がく の 第 だい 一 いち 人 にん 者 しゃ とまで言わ れていた弟の千里が、七月二日、 亡 な くなりました。俊馬は、昭和 二十五年に末の弟 亨 とおる も 亡 な くしていました。 同じ昭和五十一年、俊馬は、ポーランドから最高功労十字 勲 くん 章 しょう を 授 じゅ 与 よ されました。 昭 和 五 十 三 年 ( 一 九 七 八 ) 七 月 十 日 、 俊 馬 は 、 い つ も の よ う に 大 学に 出 しゅっ 勤 きん 。大学総長となっていた俊馬は自分の部屋で仕事をし、 副総長や理事たちと 歓 かん 談 だん しながら昼食を食べ、午後、元気に自宅 に帰りました。しかし、その夕方、 急 きゅう 性 せい 心 しん 不 ふ 全 ぜん を起こし、午後七 時、息を引き取りました。八十一歳でした。 七月二十二日、京都の 相 しょう 国 こく 寺 じ で 大 だい 学 がく 葬 そう が行われ、約三千人もの 人たちが参列し、俊馬の死を悲しみました。 お墓は、相国寺 塔 たっ 頭 ちゅう 、大光明寺にある弟千里の 隣 となり に建てられま した。 そ の 後 、 京 都 産 業 大 学 は め ざ ま し い 発 展 を し 、 現 在 で は 一万三千名の学生が学ぶ総合大学となっています。 平 成 二 十 年 ( 二 〇 〇 八 ) 十 月 に は 、 京 都 産 業 大 学 の 益 ます 川 かわ 敏 とし 英 ひで 教 授 が 、 ノ ー ベ ル 物 理 学 賞 を 受 賞 し ま し た 。 な お 、 平 成 二 十 二 年 ( 二 〇 一 〇 ) 三 月 十 三 日 に は 、 益 ます 川 かわ 教 授 が 山 鹿 市 に 来 ら れ 、 中 高 生 のために 八 や 千 ち 代 よ 座 ざ で講演されました。 ま た 、 平 成 二 十 三 年 ( 二 〇 一 一 ) 七 月 か ら 二 か 月 間 、 熊 本 近 代 文 学館で、熊本近代文学館特別展「大宇宙の旅 荒木俊馬展」が 開 かい 催 さい され、たくさんの人が見学に 訪 おとず れました。 京都産業大学のキャンパス(平成22年4月撮影) 熊本近代文学館特別展のチラシ
参考文献・ご協力頂いた方(敬称略) 『学祖 荒木俊馬先生と京都産業大学』(学校法人京都産業大学) 『異風者伝 近代熊本の人物群像』井上智重(著) 京都産業大学 大学史編纂室 白本正二 近代の山鹿の偉人たち 019 京都産業大学を創設