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2 京都産業大学を創設荒木俊馬 TOSHIMA ARAKI 本県立中学濟せい々せい黌こう( 現 県立濟せい々せい黌こう高等学校) に入学しました 入学したものの 二年生のときはビリから二番目でした 成績の悪い順から前の席に座すわらされていたので 席は最前列でしたが その後徐じょ々

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Academic year: 2021

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019

西

                              そ う せ つ し ゃ  と し ま                 そ う だ い                              か ん げ い                                                        ゆ か わ   と も な が し ん い ち ろ う                      り ょ う し り き が く                                     は け ん                                                                 う ち ゅ う                                                               し ょ く                  か い こ ん ち    い ん せ い                                                   だ い う ち ゅ う   ぎ ん が て つ ど う                  う ち ゅ う せ ん か ん               ま つ も と れ い じ                              き ょ う                                         し ょ う ら い  う れ               つ く                      と う ほ ん せ い そ う け ん                                                        つ                       さ い こ う こ う ろ う じ ゅ う じ く ん し ょ う  じ ゅ し ょ う

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本県立中学 濟 せいせいこう ( 現、県立 濟 せいせいこう 高等学校 ) に入学しました。 入学したものの、二年生のときはビリから二番目でした。成績 の悪い順から前の席に 座 すわ らされていたので、席は最前列でしたが、 その後 徐 じょじょ に成績も上がり、卒業するころには一番後ろの「 壁 かべ 付 き」の 名 めい の席を 占 めました。特に数学や物理がよくできました。 濟 せいせいこう で 五 年 間 学 び 、 大 正 四 年 ( 一 九 一 五 ) に 卒 業 し 、 広 島 高 等 師 はん 学 校 の 理 科 一 部 に 入 学 。 四 年 間 学 ん だ 後 、 大 正 八 年 ( 一 九 一 九 ) に 卒 業 し 、 滋 けんりつひこ 中 学 校 の 教 師 に な り ま し た が 、 そ の 翌 年 に 教 師 を 辞 め 、 京 都 帝 国 大 学 ( 現 、 京 都 大 学 ) 理 学 部 物 理 学科を受験し、合格しました。

京都帝国大学時代

大 正 十 年 ( 一 九 二 一 ) 、 京 都 帝 国 大 学 教 授 の 新 しんじょうしんぞう 博 士 が 、 ド イツ留学によって、世界 最 さいせんたん の 天 てんもんがく 、物理学の知識を 吸 きゅうしゅう し て帰国し、 宇 ちゅう 物理学教室を 新 しんせつ しました。 俊 とし は、広島高等 師 はん 学校に学んでいた 頃 ころ から天文学に関心があり、宇宙物理学教室 に 移 り た い と 思 い 新 しんじょうきょうじゅ を 訪 たず ね ま し た 。 俊 馬 は 、 新 城 教 授 と 会って、「この方こそ、私の 師 する方だ」「これから一生、天 文学をやっていこう」と心に決めました。 大 正 十 一 年 ( 一 九 二 二 ) 十 一 月 、 相 そうたいせいろん に よ っ て 世 界 的 に 有 名な科学者となっていたアインシュタイン博士が来日しました。 東 京 帝 国 大 学 ( 現 、 東 京 大 学 ) で 、 日 本 の 物 理 学 者 や 優 すぐ れ た 学 生 た ちのために、六回にわたって特別講義が開かれ、新城教授は京都 帝国大学からただ一人俊馬を連れて参加しました。 この後、十二月十四日に京都帝国大学でもアインシュタイン博 士の講演会が行われました。俊馬は、学生 総 そうだい としてドイツ語で 歓 かんげい の言葉を 述 べました。 大 正 十 二 年 ( 一 九 二 三 ) に 大 学 を 卒 業 。 そ の ま ま 理 学 部 講 師 と し

生い立ち

あらとし は 、 明 治 三 十 年 ( 一 八 九 七 ) 三 月 二 十 日 、 熊 くまもとけん 鹿 もとぐん 鹿 もとまち ( 現 、 山 やま 鹿 鹿 もとまち ) 来 たみ で 、 父 竹 たけろう 、 母 記 寿 じゅ の 長 男 と し て 生 ま れ ま し た 。 近 く に は 、 大 正 十 三 年 ( 一 九 二 四 ) 熊 本 県 初 の 総 理大臣となる 清 きようらけいはくしゃく が生まれた 明 みょうしょう がありました。 父 の 竹 次 郎 は 、 東 京 高 等 師 はん 学 校 に 学 び 、 明 治 二 十 九 年 ( 一 八 九 六 ) に 熊 本 に 戻 もど り 、 濟 せいせいこう の 城 じょうほくぶんこう ( 鹿 本 町 来 民 ) の 主 任 を 務 つと め、その後、 城 じょうほくぶんこう が県立鹿本中学校に 昇 しょうかく したときに、 初代の校長となりました。 明 治 三 十 九 年 ( 一 九 〇 六 ) 、 竹 次 郎 は 、 恩 おん の 東 京 高 等 師 はん 学 校 長 嘉 のうろう ( 柔 じゅうどう の 創 そうしゃ ) に 、 東 京 で 中 国 人 留 りゅうがくせい に 教 育 指 導 をして欲しいと強く 頼 たの まれ、県立鹿本中学校を 退 たいしょく し、 上 じょうきょう しま した。そのため母 記 寿 じゅ は、 来 たみじんじょう 小学校に入学していた俊馬と 幼 おさな い 千 さと と 亨 とおる の三人の子どもを連れて、熊本市の 新 しんしき に 転 てんきょ 、 俊馬は熊本市立 碩 せきだい 小学校に転校しました。 し か し 、 翌 よくとし ( 一 九 〇 七 ) 、 俊 馬 が 十 歳 の と き 、 父 竹 次 郎 ( 三 十 九 歳 ) が 旅 たびさき の 愛 知 県 で 急 きゅう し ま し た 。 母 は 子 ど も た ち を 育 てるため 碩 せきだいようえん の教師となって働き始めました。 俊馬は、小学校を 卒 そつぎょう し中学を受験しましたが不合格でした。 熊 本 高 等 小 学 校 に 通 い 、 再 さいちょうせん し て 明 治 四 十 三 年 ( 一 九 一 〇 ) に 熊 未来の熊本の秀才・荒木三兄弟、 左から千里、俊馬、享

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て大学に残り、 翌 よくとし に 助 じょ 教授となり、新城教授の 娘 むすめきょう と 結 けっこん し ました。 大 正 十 四 年 ( 一 九 二 五 ) の 三 月 二 十 日 の 午 前 〇 時 三 分 に 、 長 男 の 雄 ゆうごう が生まれました。俊馬は、自分と同じ月日に長男が生まれた ことに感動を覚え非常に喜びました。午前三時ごろ自宅に帰り、 わ が 子 誕 たんじょう の 興 こうふん で ほ と ん ど 寝 て い な か っ た 俊 馬 は 、 夜 明 け を 待って、モーニングを着こみ、病院へ出かけました。父子の初対 面は 厳 げんしゅく なものであると考えたからでした。 雄豪は、 後 のち に、父俊馬が教えていた京都帝国大学 宇 ちゅう 物理学科 に進みました。 昭 和 三 年 ( 一 九 二 八 ) 、 俊 馬 は 、 「 天 てんたいりきがく 」 の 講 義 終 了 後 の 夏 休みに、「 量 りょう 力学」の講義を十五回にわたって集中して行いま した。 後にノーベル賞を受けた 湯 かわひで 博士と 朝 ともながしんいちろう 博士がまだ 物理学科の学生だった 頃 ころ で、学生らが俊馬に 頼 たの んで当時としては 最新の「量子力学」の講義をやってもらいました。 岩 いわなみ 書 店 の 『 図 書 』 ( 昭 和 五 十 七 年 ( 一 九 八 二 ) 出 版 ) に 「 ふ た り が学生だったころ」として湯川秀樹博士と朝永振一郎博士の対談 が 掲 けいさい されています。その中で、湯川博士が「私が三年生のとき で 、 荒 木 助 教 授 は 新 しんしんえい 。 ち ょ う ど 量 子 力 学 が 現 れ た と き で 非 常 に 印 象 が 強 か っ た 」 と 言 う と 、 朝 永 博 士 が 「 名 講 義 だ っ た 。 僕 ぼく も 印 象 に 残 っ て いる」と返し、湯川博士が「なかなかロマンチックにおやりにな る。それで 僕 ぼく らを大いにアジったわけやね。そのときから量子力 学をずっとやるつもりだったから」と語っています。

ヨーロッパ留学

昭 和 四 年 ( 一 九 二 九 ) 一 月 、 俊 馬 ( 三 十 一 歳 ) は 、 文 部 省 派 けん の 海 外研究員として、神戸港から日本の 客 きゃくせん 鹿島丸でヨーロッパ留学 に向かいました。そのころ、日本から海外に行くには、船しかな く、日本からヨーロッパまで四十日ほどかかっていました。 俊馬は、二月 下 じゅん にヨーロッパに着き、イタリアのナポリに三 週間ほど 滞 たいざい 。素晴らしい語学の才能を持っていた俊馬は、下宿 生活を始めて二週間経ったころには「イタリア語で大体しゃべる ことができるし、人の言うことを 大 だいたん に聞き流すことができる」 と妻への手紙に書いています。 四月、ドイツのベルリンに着いた俊馬は、聞きなれないドイツ 語にとまどい、あわてました。「ドイツ語の発音が、日本でやっ てきたのと全然違う」。京都帝国大学の学生、教官時代の勉強を 通して、ドイツ語の 論 ろんぶん は不自由なく読み書きできました。 ド イ ツ 語 会 話 学 校 に 通 い 、 九 月 、 ベ ル リ ン 大 学 の 新 学 期 が 始 ま り 、 研 究 生 活 が ス タ ー ト す る 頃 ころ に は 、 「 な に げ な く ド イ ツ 語 で こ の 国 の 人 た ち と 会 話 し て い る 自 分 に 気 づ く 」 よ う に な っ て い ま し た 。 俊馬は、日本を出発する前に、京都帝国大学に「セフェイド 変 へんこうせい の 大 たいけん の圧力変化に関する高温 電 でん の 理 ろん による研究」と いう博士 論 ろんぶん を提出していました。七月にその論文が認められ、 博士号を 授 じゅ されることが決まりました。当時の日本では「末は 博士か大臣か」と 立 りっしんしゅっ の目標とされていた時代です。お祝い の電報や手紙がたくさん自宅や大学の研究室に届きました。俊馬 は、ドイツのベルリンの下宿先に届いた妻京子からの手紙で、博 士 論 ろんぶん が通ったことを知りました。俊馬は非常に喜び、ベヒシュ タ イ ン の ピ ア ノ を 購 こうにゅう し 、 京 都 に い る 妻 さい に 送 り ま し た 。 ベ ヒ 京都帝国大学助教授時代の俊馬

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シュタインピアノは「ピアノのストラディバリウス」といわれる ほどの 名 めい で、戦前の日本では最高のピアノの 代 だいめい ともなって いました。 俊馬は、ベルリン大学とポツダムの天体物理研究所で二年にわ たる研究生活を送りました。ドイツにはアインシュタイン博士や 物理学の 最 さいせんたん をいく 優 ゆうしゅう な学者たちが集まっていて、俊馬は 相 そうたいせいげん や 量 りょうりきがく の 理 ろん について研究を深めました。 その一方では、オペラ 座 にもよく通い、また、いろいろなとこ ろへ旅行に行き、スイスのアルプスの山歩きも楽しんだりしまし た。俊馬は、子どもの頃から非常に絵が上手で、旅先ではスケッ チをよく 描 きました。また、旅先からは妻の京子あてに一七〇〇 通ものたくさんの絵はがきを出しています。

 

昭 和 六 年 ( 一 九 三 一 ) 、 俊 馬 は 、 二 年 間 の ヨ ー ロ ッ パ 留 学 を 終 え 、 シベリア鉄道を利用して日本に帰って来ました。 翌 よくとし 、京都帝国 大学の 宇 ちゅう 物理学第一 講 こう を 分 ぶんたん することになりました。また、 外国の書物を原文で読むために再びロシア語の勉強を始め、翌年 には中国語の勉強もしました。 昭 和 九 年 ( 一 九 三 四 ) 一 月 、 皆 かいにっしょく を 観 測 す る た め 、 日 本 が 統 とう していた 南 なんようしょとう のローソップ島へ、 大 おお かりな観測隊が日本 から 派 けん されました。隊員は、俊馬をはじめ、海軍技術研究所、 逓 ていしんしょう ( 郵 ゆう 便 びん や 通 信 を 管 かんかつ す る 省 庁 ) 、 東 京 天 文 台 、 東 京 帝 国 大 学 などの当時の一流の天文、 宇 ちゅう 物理学者たちでした。 昭 和 十 年 ( 一 九 三 五 ) 、 新 城 博 士 は 、 中 国 の 上 シャンハイ 自 然 科 学 研 究 所 長 と し て 、 中 国 に 渡 り ま し た 。 翌 よく 十 一 年 ( 一 九 三 六 ) 、 俊 馬 は 皆 かいにっしょく 観測のため中国に行き、新城博士と共に観測を行いました。 し か し 、 残 念 な こ と に こ の 二 年 後 の 昭 和 十 三 年 ( 一 九 三 八 ) に 新 城 博士は中国の 南 ナンキン で 亡 くなりました。 昭 和 十 六 年 ( 一 九 四 一 ) 、 四 十 四 歳 の 俊 馬 は 、 京 都 帝 国 大 学 理 学 部の教授となりました。この年の十二月八日、日本がハワイの 真 しんじゅわん を 攻 こうげき し太平洋戦争が始まりました。

夜久野村へ

昭 和 二 十 年 ( 一 九 四 五 ) 八 月 十 五 日 、 日 本 は ア メ リ カ な ど 連 合 国 側に 降 こうふく し、戦争が終わりました。 俊馬は「戦争を始めた以上、祖国を守るためには勝たなければ ならない」と、大日本 言 げんろん 報国会の理事を 務 つと め、軍部に協力して いました。 日本が負けたことは俊馬にとって「 驚 きょうてんどう の 驚 おどろ き」であり、 その夜は 一 いっすい もせずに、これからどうするか思い考えました。 「 占 せんりょうぐん がまもなく 進 しんちゅう するであろう。日本の 官 かん はすべてそ の 指 を受ける。いままで戦ってきた占領軍の 禄 ろく を 食 むつもりは 毛 もうとう ない。ではどうするか。 官 かんしょく を捨てるか、それとも 屈 くつじょく を 忍 しの んで大学教授のポストにしがみつくか」 考えた末に、俊馬は 山 さんそん に 籠 こも り、 晴 せいこうどく し、家族とともにわ が人生のこれからの生き方を考えたいと決心しました。 終戦から九日目の八月二十四日、俊馬は、 辞 ひょう を大学に提出し ました。 兵 ひょう 県 境 に 近 い 京 きょうあまぐんむら ( 現 、 福 ふくやまちょう ) で 開 かいこん の仕事をし、終戦の 翌 よくじつ に友人と俊馬を 訪 たず ねてきた 菱 ひしぬままさ を 頼 たよ って、家族とともに夜久野村へ移りました。 俊馬は、夜久野村で畑を借り 開 かいこん 生活を始めました。最初に住 んだのはスイカ小屋でした。 板 いたしき にコモを 敷 いた、吹きさらしの 粗 まつ な小屋でした。長女みそらと三男の 俊 としひで は小学生で、みほし、 靖 やすひで はまだ 幼 よう でした。長男の 雄 ゆうごう は京都帝国大学学生で、 馬 じゅつ

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に 所 しょぞく し、馬小屋で 寝 まりしていました。 しばらくして、川のほとりに家を借りることができました。冬 はインクも 凍 こお りつくほどの寒さでしたが、夏になるとたくさんの ホ タ ル が 舞 う の を 見 る こ と ができました。 俊 馬 は 、 畑 仕 事 に 従 じゅう し な が ら 三 人 の 子 ど も た ち に 数 学 や ピ ア ノ な ど を 教 え 、 夜 は 文 ぶんがく か ら 専 せんもんしょ まで 幅 はばひろ く本を読み、特に 哲 てつがくしょ を熱心に読みました。 ま た 、 子 ど も た ち 向 け に 、 『 大 だいちゅう の 旅 』 や 「 楽 し い 理 科 教 室」シリーズ『昼夜の長さと季節』『黄道をさまよう天体』『 日 にっしょく と 月 げっしょく 』など宇宙の 神 しん についての本を次々に書きました。 有名な『 銀 ぎん 鉄道999』や『宇宙 戦 せんかん ヤマト』を書いた 漫 まんまつもとれい は、小学六年のときに『 大 だいちゅう の旅』を読んで、 宇 ちゅう への 眼 が開かれたそうです。松本零士は平成十三年春に、「私に 大宇宙という名の未来をさずけて下さった 大 だいおん 、 偉 だい な荒木先 生に心から感謝しています」と書いた 色 しき を京都産業大学に送っ ています。 月日が 経 つうちに、俊馬が天文学や宇宙物理学の学者で、京都 帝国大学の教授だったということが周りに知られ、文化人が集ま り、講演の 依 らい も次々に来て、俊馬の教育に対する熱い思いが広 く知られるようになりました。 昭 和 二 十 七 年 ( 一 九 五 二 ) 、 地 元 の 人 た ち か ら 熱 心 に 頼 たの ま れ 、 夜 久野教育事務組合の教育委員長になりました。 昭 和 二 十 九 年 ( 一 九 五 四 ) 、 俊 馬 の か つ て の 教 え 子 た ち が 、 俊 馬 先生をこのままにしておくのはもったいない、 優 すぐ れた 人 じんかくしきけん を 今こそこの世にいかすべきという声が強まり、三月、俊馬は家族 とともに夜久野村から京都に戻り、私立 大 おおたに 大学教授の職に 就 き ました。 昭 和 三 十 二 年 ( 一 九 五 七 ) に は 、 以 前 勤 つと め て い た 京 都 大 学 ( 戦 後 、 学 制 改 かいかく に よ り 名 めいしょうへんこう ) の 理 学 部 と 大 学 院 の 講 義 に も 戻 もど る こ と ができました。

新しい大学を

俊馬は、日本の国が大切に持ち続けて来た「美しい歴史的伝統 を 基 ばん にした心」が消えようとしていると感じ、さらに、教育現 場の 混 こんらん を見て、「大学が今のままであれば、日本は 滅 ほろ びる」と 心を 痛 いた め、国の 将 しょうらい を 憂 うれ う気持ちが高まり、日本の 将 しょうらい を 背 う 人 材 育 成 の た め の 大 学 を 造 ろ う と 、 昭 和 三 十 七 年 ( 一 九 六 二 ) の 秋 、 動き出しました。 俊馬は、日本の 将 しょうらい のために自分の理想とする新しい大学を 創 そうせつ することの必要性を、 寝 しんしょく も忘れ 忙 いそが しく 説 いて回り、土地探し に 奔 ほんそう しました。 京都府のある議員から、土地を提供し全面的に協力するのでぜ ひ自分のところに大学を造ってほしいという話がありましたが、 金 かねもう けしようという人たちがからんできたため、やむを 得 ず 断 だん 念 しました。 俊馬は、 国 こくゆうりん に目を付けました。 林 りんちょう の理解と協力を得て、 三 十 八 年 ( 一 九 六 三 ) の 初 しょ 、 京 都 府 内 の 国 有 林 を 一 つ 一 つ 見 て 回 り、八月二十一日、本山十三区国有林に大学を建設しようと決め ました。 土地の次は建設するための 資 きん 集めに 奔 ほんそう しました。大谷大学 夜久野で子どもたちと。自給自足、晴耕雨 読の日々を送る

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の退職金や自身の思い出の品々を売って得たお金を資金としてつ ぎ込みました。俊馬が資金集めに苦労していることを知った、か つての教え子や知人友人たちから 浄 じょうざい が寄せられるようになりま した。 このころ、日本は高度 経 けいざい 成長時代に入り、十八歳 人 じんこう が増え、 進 しんがくりつ も 急 きゅうじょうしょう し、私立大学、短大が次々に 誕 たんじょう していました。 大学建設を考えていた京都の東山学園の 藤 ふじわらこうどう 学園長が、俊馬 の熱い思いと 緻 みつ な計画に深い理解を示し、全面的な 支 えん を 約 やくそく しました。 大学を新しく造るためには、土地や資金だけでなく建設工事、 教 授 集 め な ど 非 常 に 難 むずか し い 問 題 が た く さ ん あ り ま し た が 、 俊 馬 は た く さ ん の 人 た ち の 協 力 と 支 えん に よ っ て 、 遂 つい に 昭 和 三 十 九 年 ( 一 九 六 四 ) 十 二 月 十 八 日 、 文 部 省 の 大 学 設 せっ の 認 にん ( 内 ないてい ) を も ら うことができました。 ( 正式認可は翌年一月二十五日 )

京都産業大学の開設

大 学 の 名称 は 京 都産 業 大 学 に 決 定 し 、 昭 和 四 十年 ( 九 六 五 ) 月、 俊 馬 は 京 都 産 業 大 学 の 初 代 の 学 長 兼 けん 理 事 長 と な り 、 経 済 学 部 経 済 学 科 、 理 学 部 数 学 科 、 物 理 学 科 の 二 学 部 三 学 科 で 大 学 が 開 学 し ま し た 。 俊 馬 は 、 経 済 大 たいこく と し て 成 長 し 続 け て い る 日 本 の 国 の 将 来 を 担 にな う 経 済 人 、 独 どくそう 的 な 科 学 者 、 技 術 者 の 育 成 を め ざ し ま し た 。 募 しゅう 期間が三ヵ月もなかったにもかかわらず、 予 そう もしなかっ た受験者数があり、期待を上回る六百九十七名もの入学者を迎え ることができました。 父俊馬と一緒に大学創設に関わり、 開 かいがく とともに移ってきて理 学部教授となった長男の 雄 ゆうごう は、すぐに馬術部を作りました。雄 豪は、京都帝国大学の学生のときから馬術の名手として国内外で 活躍し、五年前のローマオリンピックにも出場していました。馬 術部は、雄豪の 名 めいどう により、すぐに全国大会で 優 ゆうしょう するなどし て、またたくまに日本の学生馬術界の 頂 ちょうてん に 駆 け上がりました。 できたばかりの京都産業大学は、教職員と学生が一体となって、 理想の総合大学を自分たちの手で 創 つく り上げようという 意 に燃え ていました。 俊馬は、教育と研究施設の充実に力を入れました。特に、コン ピュータの 導 どうにゅう については、国内の大学の最先端を行く充実ぶり で、関西の他の私立大学より十年先を行くものでした。 また、学生たちのために、毎年のように世界的に有名な学者を 大学に 招 まね き、講演をしてもらいました。 昭 和 四 十 二 年 ( 一 九 六 七 ) 十 一 月 、 歴 史 学 者 と し て 世 界 の 最 高 権 けん だったアーノルド・トインビー博士を招きました。その後、有 名なハーマン・カーン博士も招き講演会を開きました。この偉大 な 二 人 の 学 者 に は 大 学 の 学 事 顧 もん に な っ てもらいました。 昭 和 四 十 六 年 ( 一 九 七 一 ) 七 月 か ら 十 月 に か け て 、 俊 馬 は 、 世 界 交 流 の 地 な ら し の 目 的 で ヨ ー ロ ッ パ か ら ア メ リ カ を 回 り ま し た 。 イ ギ リ ス で は ト イ ン ビ ー 博 士 の 自 宅 を 訪 たず ね 、 懐 なつ か し い 再 会 を 果 た しました。 昭 和 四 十 八 年 ( 一 九 七 三 ) の 秋 、 俊 京都産業大学に着いたトインビー博士夫妻。熱い拍手に迎えられた

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馬は、ポーランドで開催されたコペルニクス 生 せいたん 五〇〇年記念の 会議に招待を受け、記念講演をしました。 昭 和 五 十 一 年 ( 一 九 七 六 ) 五 月 、 俊 馬 は 、 前 の 年 に 亡 く な っ た ト インビー博士の墓参りのためイギリスに行きました。 京都帝国大学医学部教授となり 脳 のうがく の 第 だいいちにんしゃ とまで言わ れていた弟の千里が、七月二日、 亡 くなりました。俊馬は、昭和 二十五年に末の弟 亨 とおる も 亡 くしていました。 同じ昭和五十一年、俊馬は、ポーランドから最高功労十字 勲 くんしょう を 授 じゅ されました。 昭 和 五 十 三 年 ( 一 九 七 八 ) 七 月 十 日 、 俊 馬 は 、 い つ も の よ う に 大 学に 出 しゅっきん 。大学総長となっていた俊馬は自分の部屋で仕事をし、 副総長や理事たちと 歓 かんだん しながら昼食を食べ、午後、元気に自宅 に帰りました。しかし、その夕方、 急 きゅうせいしんぜん を起こし、午後七 時、息を引き取りました。八十一歳でした。 七月二十二日、京都の 相 しょうこく で 大 だいがくそう が行われ、約三千人もの 人たちが参列し、俊馬の死を悲しみました。 お墓は、相国寺 塔 たっちゅう 、大光明寺にある弟千里の 隣 となり に建てられま した。 そ の 後 、 京 都 産 業 大 学 は め ざ ま し い 発 展 を し 、 現 在 で は 一万三千名の学生が学ぶ総合大学となっています。 平 成 二 十 年 ( 二 〇 〇 八 ) 十 月 に は 、 京 都 産 業 大 学 の 益 ますかわとしひで 教 授 が 、 ノ ー ベ ル 物 理 学 賞 を 受 賞 し ま し た 。 な お 、 平 成 二 十 二 年 ( 二 〇 一 〇 ) 三 月 十 三 日 に は 、 益 ますかわ 教 授 が 山 鹿 市 に 来 ら れ 、 中 高 生 のために 八 で講演されました。 ま た 、 平 成 二 十 三 年 ( 二 〇 一 一 ) 七 月 か ら 二 か 月 間 、 熊 本 近 代 文 学館で、熊本近代文学館特別展「大宇宙の旅   荒木俊馬展」が 開 かいさい され、たくさんの人が見学に 訪 おとず れました。 京都産業大学のキャンパス(平成22年4月撮影) 熊本近代文学館特別展のチラシ

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参考文献・ご協力頂いた方(敬称略) 『学祖 荒木俊馬先生と京都産業大学』(学校法人京都産業大学) 『異風者伝 近代熊本の人物群像』井上智重(著) 京都産業大学 大学史編纂室 白本正二 近代の山鹿の偉人たち 019 京都産業大学を創設 

荒木 俊馬

平成 24 年 3 月 発行 山鹿市教育委員会 教育部 文化課 〒861-0501 熊本県山鹿市山鹿 156-3 TEL 0968 - 43 - 1691 十 年 ▼ 九 七 ︶ 六 年 ▼ 〇 三 ︶ 九 年 ▼ 〇 六 ︶ 十 年 ▼ 〇 七 ︶ 三 年 ▼ 一 〇 ︶ 年  ▼ 一 五 ︶ 年  ▼ 一 九 ︶ 年  ▼ 二 〇 ︶ 年  ▼ 二 一 ︶ 二 年 ▼ 二 三 ︶ 三 年 ▼ 二 四 ︶ 年  ▼ 二 九 ︶ 年  ▼ 三 一 ︶ 年  ▼ 三 二 ︶ 年  ▼ 三 四 ︶ 一 年 ▼ 三 六 ︶ 三 年 ▼ 三 八 ︶ 四 年 ▼ 三 九 ︶ 五 年 ▼ 四 〇 ︶ 昭 和 十 六 年 ▼ ︵ 一 九 四 一 ︶ 昭 和 十 八 年 ▼ ︵ 一 九 四 三 ︶ 昭 和 十 九 年 ▼ ︵ 一 九 四 四 ︶   昭 和 二 十 年 ▼ ︵ 一 九 四 五 ︶ 昭 和 二 二 年 ▼ ︵ 一 九 四 七 ︶  昭 和 二 六 年 ▼ ︵ 一 九 五 一 ︶   昭 和 二 七 年 ▼ ︵ 一 九 五 二 ︶   昭 和 二 八 年 ▼ ︵ 一 九 五 三 ︶   昭 和 二 九 年 ▼ ︵ 一 九 五 四 ︶   昭 和 三 二 年 ▼ ︵ 一 九 五 七 ︶ 昭 和 三 九 年 ▼ ︵ 一 九 六 四 ︶   昭 和 四 十 年 ▼ ︵ 一 九 六 五 ︶   昭 和 四 二 年 ▼ ︵ 一 九 六 七 ︶   昭 和 四 四 年 ▼ ︵ 一 九 六 九 ︶ 昭 和 四 八 年 ▼ ︵ 一 九 七 三 ︶   昭 和 四 九 年 ▼ ︵ 一 九 七 四 ︶   昭 和 五 一 年 ▼ ︵ 一 九 七 六 ︶   昭 和 五 三 年 ▼ ︵ 一 九 七 八 ︶ 熊 本 県 鹿 本 郡 鹿 本 町︵ 現 、山 鹿 市 鹿 本 町 ︶で 、父 竹 次 郎 、母 記 寿 の 長 男 と し て 生 ま れ る 来 民 尋 常 小 学 校 入 学 熊 本 市 立 碩 台 小 学 校 に 転 校 碩 台 小 学 校 卒 業 。父 竹 次 郎 急 死 熊 本 県 立 中 学 濟 々 黌 に 入 学 濟 々 黌 卒 業 。広 島 高 等 師 範 学 校 理 科 一 部 入 学 広 島 高 等 師 範 学 校 卒 業 。滋 賀 県 立 彦 根 中 学 校 教 諭 に 採 用 彦 根 中 学 校 を 休 職 し 、京 都 帝 国 大 学 理 学 部 物 理 学 科 に 入 学 物 理 学 科 か ら 宇 宙 物 理 学 科 へ 転 科 京 都 帝 国 大 学 を 卒 業 。同 大 学 の 理 学 部 講 師 に 恩 師 の 新 城 教 授 の 娘 京 子 と 結 婚 。京 都 帝 国 大 学 理 学 部 の 助 教 授 に な る 文 部 省 の 海 外 研 究 員 と し て ド イ ツ に 留 学 。京 都 帝 国 大 学 よ り 理 学 博 士 号 を 授 与 さ れ る 二 年 間 の ド イ ツ 留 学 を 終 え 、帰 国 京 都 帝 国 大 学 理 学 部 宇 宙 物 理 学 第 一 講 座 分 担 ロ ー ソ ッ プ 島 で 皆 既 日 食 を 観 測 中 国 で 皆 既 日 食 を 観 測 義 父 の 新 城 博 士 が 中 国 の 南 京 で 急 死 中 華 民 国 行 政 院 文 物 保 管 委 員 会 顧 問 。中 国 の 南 京 の 紫 金 山 天 文 台 復 旧 を 指 導 日 本 学 術 会 議 天 文 学 ・ 物 理 学 研 究 会 議 委 員 京 都 帝 国 大 学 理 学 部 の 教 授 に な る 。日 本 学 術 振 興 会 委 員 。中 国 の 漢 口 で 皆 既 日 食 を 観 測 。  十 二 月 八 日 、太 平 洋 戦 争 京 都 第 三 高 等 学 校 の 講 師 を 兼 務 。大 日 本 言 論 報 国 会 評 議 員 京 都 府 中 等 学 校 理 数 科 物 象 教 員 臨 時 養 成 所 の 所 長 兼 務 。京 都 帝 国 大 学 評 議 員 大 日 本 言 論 報 国 会 理 事 。八 月 十 五 日 、終 戦 。京 都 帝 国 大 学 を 辞 職 し 、夜 久 野 村 へ 隠 棲 公 職 追 放 公 職 追 放 解 除 夜 久 野 教 育 事 務 組 合 教 育 委 員 長 大 阪 商 業 大 学 出 講 京 都 へ 戻 る 。大 谷 大 学 教 授 京 都 大 学 理 学 部 、同 大 学 院 出 講 大 谷 大 学 退 職 。日 本 天 文 学 会 名 誉 会 員 京 都 産 業 大 学 が 開 学 。初 代 学 長 兼 理 事 長 に 台 湾 や ヨ ー ロ ッ パ へ 出 張 。ト イ ン ビ ー 博 士 来 学 、講 演 京 都 産 業 大 学 の 初 代 総 長 に 。同 大 学 の 第 一 回 卒 業 式 コ ペ ル ニ ク ス 生 誕 五 〇 〇 年 記 念 事 業 で ポ ー ラ ン ド へ 招 待 さ れ 、 講 演 す る 京 都 大 学 名 誉 教 授 ポ ー ラ ン ド の 最 高 功 労 十 字 勲 章 を 受 章 七 月 十 日 、自 宅 で 、急 性 心 不 全 の た め 逝 去 。享 年 八 十 一 歳 。七 月 二 十 二 日 、大 学 葬 く ま も と け ん か も と ぐ ん か も と ま ち       や ま が し か も と ま ち                          き じ ゅ く た み じ ん じ ょ う               せ き だ い せ き だ い                       せ い せ い こ う せ い せ い こ う                      し は ん               し は ん                                              き ょ う ゆ                     き ゅ う し ょ く                       う ち ゅ う お ん し                       か い き に っ し ょ く ぎ ふ                              な ん き ん                                                    こ も ん                      し き ん さ ん                                                                                             し ん こ う                  か ん こ う                                         け ん む                                                     り ん じ                             い ん せ い                                             め い よ た い わ ん               め い よ                                         く ん し ょ う                                                       せ い き ょ き ょ う ね ん                     そ う

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