パプアニューギニアにおける民族考古学的調査(一四)七七 はじめに イーストケープのトパ、ケヘララに入り、女性の土器製作に関する聞き取り調査を続ける過程で、「土器を変えるのは私だ」と豪語する老女D女史に出会ったのは、二〇〇九年であった。それまで、イーストケープ伝統の土器型式を見続けてきたが、土器を率先して変革できるほどの、地域全体にイニシアティブをとる人物がいようとは思ってもいなかった。
この発言は、日本の土器型式を研究する者には少なからず驚きであろう。縄文土器型式に擬えていうなら、型式変遷の背後に、多数の製作者が関与するのではなく、誰か一部の人達だけが変革に関与する仕組みを意味するからであ る。 なぜD女史はその様に豪語できたのであろうか。また周囲の人々はそれを受け容れるのであろうか。少なくとも私たちの観察では、D女史ほどではないにせよ、多くの女性たちは一人前の土器作りとして、自前の日常土器を製作する能力があり、事実、日常的使用を超えて友人にそれをプレゼントするくらいの質の高さも備えているのである。 これはD女史がこの地域において知らぬものがいないほど著名で優れた土器製作者であり、多くの尊敬を集めているという技術的理由によって説明できるであろう。しかし、それだけでは説明できない。この地域の伝統社会全体を支える世界観の中に、D女史の発言を容認する世界観が潜んでいるとみなければならない。彼女を包む地域の世界観のなかに、土器製作のイニシアティブを容認する社会的
パプアニューギニアにおける民族考古学的調査(一四)
高橋龍三郎・大網信良・平原信崇・山﨑太郎
史観第一七六冊七八基盤が存するのであろう。
それはこの地域が部族社会の中で、ここ百年間のうちに多くの近代文明を受け入れて、政治と経済、教育、社会、医療・衛生面などで大きな改変を遂げてきた歴史の中でも、決して消え去ることがなかった伝統的世界観であり歴史的基盤である。いわば彼らの文化・社会を支えるコスモロジーに属する分野であり、より根底には精神世界がある。二〇一五年の調査は、まさに土器作りに関わり、地域にひっそりと息づく伝統的な精神世界に注目して聞き取り調査を実施した。
(高橋龍三郎)1.二〇一五年八月調査の概要
今回の調査は、八月八日から二二日までの日程で、ミルンベイ州イーストケープのケヘララ(
Kehelala
)とトパ(Topa
)にて行なった )(((図1)。当地域は、パプアニューギニア本島の東南端にあたり、ミルン湾を挟む北側の半島に位置する。
早稲田大学考古学研究室の調査隊は、たびたび
表1 調査行程
日程 行程・調査内容 調査地
-
) ー ビ ス レ モ ト ー ポ
( 港 空 際 国 ン ソ ク ャ ジ
⇒ 港 空 田 成
】 路 空
【
) 土
( 日
8月
8-
) ウ タ ロ ア
( 港 空 ー ニ ー ガ
⇒ 港 空 際 国 ン ソ ク ャ ジ
】 路 空
【
) 日
( 日
9月
88月10日(月)
ミルンベイ州政府のオフィスにて調査許可証の申請 および昨年度調査報告書の提出
アロタウマーケットにて食料等の購入
【陸路】アロタウ⇒ダワタイ村(トパ)
-
8月11日(火) ミルンベイ州政府のオフィスにて調査許可証の発行
土器製作者への聞き取り調査 ダワタイ村、バグマニ村
8月12日(水) 土器製作、親族組織に関する聞き取り調査
集落の形成に関する聞き取り調査 ルワラゲヤイナ村、ダワタイ村 村 ワ レ メ
、 村 2 ア リ ゥ ド 査
調 り 取 き 聞 る す 関 に 織 組 族 親
、 作 製 器 土
) 木
( 日
31 月
83月14日(金) 土器製作、親族組織に関する聞き取り調査
石製モニュメントの調査 メレワ村
3月15日(土) 土器製作、親族組織に関する聞き取り調査
土器のデータ収集 メレワ村
島 ー ビ ン マ ル ノ 査
調 材 石
) 日
( 日
61 月
8村 リ ダ ゲ ゲ
、 村 ム レ サ ル ェ イ 査
調 り 取 き 聞 る す 関 に 織 組 族 親
、 作 製 器 土
) 月
( 日
71 月
8村 ナ リ パ パ
、 村 ウ ヤ ウ ヤ 査
調 り 取 き 聞 る す 関 に 織 組 族 親
、 作 製 器 土
) 火
( 日
81 月
88月19日(水) 土器製作、親族組織に関する聞き取り調査
集落の形成に関する聞き取り調査 ゴゴモケワ村、ダワタイ村
8月20日(木) 土器製作、親族組織に関する聞き取り調査
土器製作の実見 パパリナ村、バグマニ村
8月21日(金) 【陸路】ダワタイ村⇒アロタウ
【空路】アロタウ⇒ポートモレスビー
--
港
空 田 成
⇒ 港 空 際 国 ン ソ ク ャ ジ
】 路 空
【
) 土
(
日
2
2
月
3パプアニューギニアにおける民族考古学的調査(一四)七九 図1 調査対象の位置
史観第一七六冊八〇当地域を訪れて調査を行ない、GPSを用いた集落の記録、土器づくりや社会組織、土器製作者の経歴や親族関係について調査を行なってきた(高橋ほか 二〇〇八など)。今次調査は、これまでの調査を引き継ぎ、土器製作者の経歴や親族関係に関する聞き取りを中心に、土器の図化作業や土器製作工程の実見などの調査を行なった。また、既往の調査のなかで観察されていた立石や配石の特徴的な石材の産出地を調べるために、ノルマンビー島で調査を行なった。なお、今次調査の詳細な行程は、表1を参照されたい。
(山﨑太郎)2.イーストケープにおける調査
(1)移住の歴史について
イーストケープの親族組織は、クラン(
guguni
)とサブクランという二種の母系出自集団で構成される。成員間の系譜関係が明確でないクランに対し、サブクランの成員は系譜の異同が明確で、とくに分岐の経過が明らかな複数のサブクランは「オリジナルファミリー(original family
)」と呼称されることが多い(表2)。既往の調査では、親族組織のより具体的な構造を明らかにするために、トーテムの把握に加えて、集落ごとのファ ミリーツリーの作成や、故地や移住の来歴について聞き取りを進め、サブクランあるいはオリジナルファミリーの分岐・展開の過程に関する知見を収集してきた(高橋ほか 二〇一〇、二〇一四)。
とくに、ケヘララについては、およそ六〜七世代前から今日に至るまで、ニューギニア島内外からの人々の移住や、サブクランのさらなる分岐によって今日的状況が形成されてきたことを聞き取っている。本節で報告する今次調査の成果は、既往の調査で詳しく聞き取ることができなかった諸点を補填するものである。
(平原信崇)①ドゥリア ドゥリア村(
Duria
)は、ケヘララの北海岸東寄りに位置する。モデワクラン(Modewa
)に属す村のひとつで、もともとドゥリア1村が所有していた土地は、ドゥリア2村とルワラゲヤイナ村(Luwalageyaina
)に分割されている。二〇一二年度の調査において、ドゥリア村はミルン湾を挟んだ対岸に起源があることを聞き取っていた(高橋ほか 二〇一四)。今回の調査では、より詳しい移住の経路を聞き取ることができたため以下に報告する。なお、インフォーマントはドゥリア1村出身の男性I氏(調査時六十九歳)である。
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史観第一七六冊八二 聞き取り調査によれば、ドゥリア1村の祖先は三回にわたって移住を繰り返し、イーストケープへとたどり着いたという。その故地は、ミルン湾を挟んで対岸に位置するグヮヴィリワード(
Gwavili Ward
)のドゥリア村である。その地を後にした人々はミルン湾に沿うように移動し、まず州都アロタウ近辺のラベワード(Rabe Ward
)に移住した。そして、そこからさらに東進してアヒオマワード(Ahioma Ward
)に移住し、その後イーストケープの現ドゥリア1村に至ったという。なかには、ドゥリア1村から、イーストケープの東に位置するヤバム島(Iabam Island
)やヌアカタ島(N ua ka ta Is lan d
)へと移住した人々もおり、その子孫が今日でも両島で生活しているという。 (山﨑太郎)②メレワ メレワ村(
Melewa
)は、ケヘララの北側中央、イーストケープとアロタウをむすぶ道路沿いに位置する。ヒヒヤウラクラン(Hihiyaula
)に属す村のひとつである。過去に製作者を対象として土器づくりに関する聞き取り調査を実施したが、今次調査では当村の年長者である男性I氏(調査時七五歳)をインフォーマントとして、ファミリーツリーとその来歴について聞き取りを実施した。聞き取り調査の結果、I氏の家系を中心に、曾祖母の世 代から孫の世代まで計六世代にわたるファミリーツリーを作成することができた(図2)。I氏の家系の故地はノルマンビー島(
Normanby Island
)中央部のドタウナであり、そこで生まれた曾祖母S氏とその兄弟姉妹が、現メレワの地へと海を渡って移住してきた第一世代だという。イーストケープには、まったく関係がない土地であってもランドオーナーの許可を得て土地を譲渡してもらえば居住できるテレゲレタナ(telegeletana
)という制度があり(高橋ほか 二〇一〇)、おそらくこの制度によって土地を獲得し現メレワ村での居住が始まったと推察される。S氏とその兄弟姉妹はすべてイーストケープ出身者と結婚していることから、おそらくその父母世代とともに移住してきたと推測できるが、その世代については情報が少なく詳しく聞き取ることができなかったため不明である。第二世代にあたるその子どもたち以下はメレワ村で生まれ育ち、インフォーマントのI氏へと至っている。 ケヘララのヒヒヤウラクランに属すサブクランは、メレワとゴゴモケワ(Gogomokewa
)、ゲゲダリ(Gegedali
)およびそこから分岐したサブクランである(表2)。ゴゴモケワもメレワと同様に故地はノルマンビー島ドタウナであるという。また既往の調査で、ゲゲダリの故地はノルマンビー島南部に位置するクラダワード(Kurada Ward
)パプアニューギニアにおける民族考古学的調査(一四)八三
Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅴ Ⅵ Ⅶ Ⅷ
● ▲
● ▲ ● ▲ ● ▲ ▲ ● ▲
(4人)
(2人) I氏 (1人) (1人)(2人)
(6人) (3人)
(3人)
● ▲ ● ▲ ● ▲ ● ▲
● ▲ ● ▲ ● ▲ ● ▲ ● ▲
● ▲ ● ▲ ▲ ▲
● ▲ ● ▲ ノルマンビー島から移住
?
● ▲ ● ▲ ? ?
● ▲ ● ▲ ● ▲ ? ? ? ▲
▲ ●
ヒヒヤウラクラン● ▲
女性 男性 凡例図2 メレワ村
I
氏のファミリーツリー(一部抜粋)史観第一七六冊八四であることを聞き取っており、今次調査でも追認している。したがってケヘララのヒヒヤウラクランに属す人々は、すべてノルマンビー島からの移民に由来することがわかる。
今次調査によって、ドゥリア村など本島の移民に加えて、あらためてノルマンビー島に由来する移民が多いことが判明したが、これまでの調査により両地域にはいくつかの点で強い社会的関係が看取される。ひとつは、イーストケープの人々とノルマンビー島民との間でかつて行われていたキドコ(
kidoko
)というイーストケープ産土器とノルマンビー島産食糧の物々交換である。もうひとつは、後述のノルマンビー島原産の片岩を用いた立石(gaima
)である。今後は、他のクランについても故地や移住の来歴とサブクランの分岐を整理し、かつノルマンビー島での調査を併行して進めることで、イーストケープをめぐる交易システムや信仰体系を解明するための基礎としたい。(2)異系統技術をもつ製作者について
イーストケープの製作者のなかには、ごく少数ながらも在地の土器製作技術のみならず、他地域の製作技術をも習熟している製作者が存在する。本節では、今次調査で情報を得た異系統の製作技術を有する二人の製作者を報告する。
①ワリ島の製作技術を保持する製作者 イーストケープで製作されている土器のなかには、ギルマ(
giluma
)やハバヤ(habaya
)といった在地系土器のほかに、ウォゴ・ワレ・ワレ(wogo-wale-wale
)と呼ばれる模倣土器がある。これは、当域から約七〇キロメートル南に位置するワリ島で製作されているグレワ(gulewa
)という鉢形土器を模倣したものである。グレワはイーストケープ収集土器の約三割を占めるほど当地へ搬入されている一方で、ウォゴ・ワレ・ワレの収集数は十点に満たず、その製作者もほんの数人を数えるに過ぎない。つまり、ウォゴ・ワレ・ワレの製作にあたっては、たとえ在地の製作技術を習熟した製作者であっても、単にグレワの外見を見よう見真似で模倣することは難しいと推察される。この点は、土器づくりの名人と称えられる女性たちへのインタビューでも同様の見解を聞き取っている。ここでは、ウォゴ・ワレ・ワレの製作者のひとりである故O女史について、今次調査の成果を中心に報告する。なお、インフォーマントはO女史の娘にあたるD女史とS女史の姉妹である。 O女史は、ケヘララのゲゲダリ出身で、ヒヒヤウラクランに属す。正確な出生年はわからないものの、当人や同世代の製作者のファミリーツリーなどから判断しておそらく二〇世紀初頭の生まれと思われる。イーストケープから約パプアニューギニアにおける民族考古学的調査(一四)八五 二〇キロメートル南東に位置するパヒレレ島(
Pahilele Island
)出身の男性と結婚し、インフォーマントを含む九人の子どもをもつ。母と母方の祖母はともにゲゲダリ出身で、父はパヒレレ島から、母方の祖父はワリ島からゲゲダリへと婚入した。 O女史は、ほぼ十代の期間をゲゲダリではなくワリ島で過ごしたという。ワリ島で生活することになった直接的な理由は、ワリ島出身の妻をもつ母方オジにあたる男性がO女史を連れてワリ島へ移ったからだと聞く。また間接的な理由として、そもそも母方祖父がワリ島出身者であることも考えられるだろう。母方祖母と母もまた、母方祖父を通じてワリ島で生活したことがあったというが、O女史と時を同じくしてワリ島に滞在していたかどうかは不明であるらしい。 これまで報告してきたとおり、イーストケープでは母や祖母といったごく近い血縁者から土器づくりを習うことが一般的である。しかし、O女史の場合は通常土器づくりを学び始める十代の期間をワリ島で過ごしたため、まず母方オジの妻からワリ島の土器づくりを学んだという。そして、二十歳前後にゲゲダリへと移った後に、母からイーストケープの在地系土器のつくり方を学んだらしい。ここから、O女史がウォゴ・ワレ・ワレを製作できる数少ない製 作者である理由は、ワリ島で製作技術保持者から技術を学習したからであり、親族関係者の姻族にワリ島出身者がいたことやワリ島で土器づくりを初めて学んだことが遠因であったと考える。「粘土が違うためウォゴ・ワレ・ワレをつくることができない」というイーストケープの製作者もいるため、模倣土器の製作には素地の準備から焼成までトータルに経験することが重要であることもわかる。 ②ノルマンビー島の製作技術を保持する製作者 ここでは今次調査で初めて情報を得たドゥリア2村在住の製作者K女史(調査時五五歳)について報告する。本人をインフォーマントとして聞き取りと土器データの収集をおこなった。 K女史はドゥリア2村出身で、十五、六歳頃に母から土器製作を習ったという。K女史の母も同じくドゥリア2村出身の製作者である。母方の祖母、そして母方の曾祖母は、ノルマンビー島のブナマワード(Bunama Ward
)出身である。また、母方の曾祖父は曾祖母と同じくブナマ出身で、祖父はドゥリア2村出身であると聞き取っているため、K女史の母方の祖母が婚入によってブナマからドゥリア2村へ移住してきたことがわかる。聞き取ることができた範囲では、この曾祖母から祖母を通じて母へ製作技術が伝習されており、加えてK女史の母はイーストケープの在史観第一七六冊八六地の土器づくりも習熟していたというので、K女史はノルマンビー島とイーストケープの両地域の土器製作技術を保持する数少ない製作者といえる。
ドゥリア2村では、K女史が製作した三点の土器データを収集することができた(写真1)。1は、胴部に屈曲をもたずに口縁にかけて立ち上がるハバヤの器形を呈する。通常ハバヤでは口端外面に耳形や粒状の粘土を貼付したり、口端内外面に櫛歯状工具による文様を描いたりするが、本例は無文である。2は、胴部が屈曲し口縁にかけて垂直に立ち上がるギルマの器形を呈する。口縁から屈曲部にかけて櫛歯状工具による「X」字状の文様を反時計回りに連ね、かつその上下に単沈線が充填されている。これまでイーストケープで収集したギルマでは、施文域の上下端を横位の波状沈線によって区画されるものがほとんどだが、本例ではそれが見られない。3は、写真では植木鉢として使用されているが、日常調理の鍋や水甕として用いられるウォゴ・カラカラ・ププである。ウォゴ・カラカラ・ププにしては口縁にかけて内湾の具合が弱く、口縁から屈曲部にかけては通常ギルマに描かれる囲い文様が施文されている。
聞き取りによれば、K女史は母から土器づくりを習ったものの、当時から今日までほとんど土器を製作しておら
写真1 K 女史製作の土器(1:ハバヤ、2:ギルマ、3:ウォゴ・カラカラ・ププ) ※縮尺不同
パプアニューギニアにおける民族考古学的調査(一四)八七 ず、ギルマやハバヤ、ピドラ(
pidola
)といったイーストケープに通有の器種でさえつくり方を練習しているところだという。1と2に見られた、在地の製作者の施文方法との差異が、K女史に固有なのか、それともノルマンビー島の土器づくりに遠因があるのかについては、K女史やノルマンビー島の製作技法を実見していないため現時点では不明である。3に見られる器形と文様の対応関係の不一致については、母がウォゴ・カラカラ・ププにギルマの文様を施文していたと聞き取っているので、K女史固有の文様選択と推察される。(平原信崇)(3)立石に関する聞き取り
トパとケヘララの村々には道に面した庭先、あるいは少し奥まった木立の下に立石がひっそりと顔をのぞかせている。単独で、あるいは数本がまとまって樹立することもある。根元に他の石が置かれたものや、連立した立石の囲いの中に丸石が置かれる場合など変異がある。道から隔たって奥まった敷地の墓地の前に立つ例もある。道に面する庭表に立つ場合は、日常生活に不便としか言いようのない場所である。それでも人々は抜去しない。由来と今日の機能と意義を尋ねても、まず無視されるが常で、まともな回答 を得たことはなかった。 今年の調査では、予期に反して二人の住民から立石について聞き取りを行うことができた。 E氏(通常は出身の島名を冠してD氏と呼ばれる)はハナカヤワ在住のヘヘゴクランに属する五〇歳代後半の男性である。ドゥリア2村の庭先で聞き取りを行った。ケヘララ小学校の校庭の端に立つ二本の立石は、それぞれ「トゥヒリリ石」、「ケヘララ石」と命名され現在は基壇をコンクリートで固められ、名称が記載されている(写真2)。本来、「ケヘララ」は樹木に由来する名称で、その木は槍を作るほど硬かったという。昔、伝承上の男、ガイサロが槍を石に投げつけたところ、それがケヘララ石になり、魚に投げつけたところ、今度はそれがトゥヒリリ石になったという。この石が立つ場所はヘヘゴクランの場所で、トゥヒリリ(黒い魚の意)はヘヘゴクランのトーテムである。E氏の話によると、両立石ともヘヘゴクランの所有になるという。立石は配石(
gahana
)よりも古く、それぞれに物語があるという。 E氏によると一昔前、立石は、どの場所でも大切にされたといい、その理由は土地の所有者を示すものだからだという。立石には特別のパワーが宿っており、「ミミトゥア」と呼ばれる妖怪も棲んでいたという。ヤバム島にあるヤラ史観第一七六冊八八
写真 3 環状に連立する立石(ヤワラタ村)
写真 2 トゥヒリリ石(左)とケヘララ石(右)
パプアニューギニアにおける民族考古学的調査(一四)八九 シ石(
Yarasi Gaima
)(高橋ほか 二〇〇八)にもミミトゥアが棲んでいると信じられているという。男たちは呪文を唱えて立石からパワーを得るという。それは男だけで女は関わらないという。時には呪詛にも用いられたといい、E氏の父親の時代には皆そのパワーを信じており、その立石をめぐる信仰はクラン間で秘密にされていたという。 イーストケープの突端に位置するゴゴモケワにも二本の立石があり、それは道から内部に入った墓地の前である(写真4)。この石はすでに傾きかけているが、しっかりと地面に植え付けられており、地下を含めると長さ七〇センチメートルはあるかと思われる。結晶片岩製で長大な作りであるが、表面には加工の痕跡は認められない。 立石には人格が与えられており、ギヒギヒ在住のI氏によると、ヤバム島のヤラシ石は現在のバクマニクランの土地にあるが、その由来はスワウ島からやってきたやんちゃな石で、スワウ島で暴れまわり多くの人を殺したので、スワウ島の人達が流してしまったという。ヤラシとは、本来、「西」の意味で「西からやってきた石」の意味が込められている。ドゥリアに持ってこようとしたが、船を飛び出してヤバム島に戻ってしまったという。「トミリミリ」の名前をもつ。ヤラシ石は女性であるが、男にもなるというから変幻自在のイメージを持つ。由来譚にあるように相写真 4 ゴゴモケワの立石
史観第一七六冊九〇当の暴れ者であり、石そのものに霊性が宿るので、呪詛などの場面でも使われたという。ミミトゥア(精霊、妖怪)も棲むという。
今までの聞き取りを総合すると、ガハナと呼ぶ円環状の配石もノルマンビーに由来するというから、石の構造物は皆、ノルマンビーからもたらされたことになる。
(4)ブウェブウェッソ山に関する山岳死霊信仰
海を隔てて対岸のノルマンビー島には、この地域一帯で信仰の山といわれるブウェブウェッソ山(
Bwebweso
)が聳える。晴れた日にはイーストケープからも眺望できる(写真5)。この山は死者の霊魂が帰る山(霊山)としての山岳死霊観があり、特にドブ島やノルマンビー島で人々の信仰を集めてきた。フォーチュンの『ドブの魔術師(Sorcerer of Dobu
)』には、死後の霊魂がブェブェッソ山に帰るときに、健全な霊魂であれば無事に辿り付くが、傷ついた霊魂であれば、入り口に待ち構える蛇に食べられてしまうという伝承が記録されている(Fortune ( 932
)。蛇はイーストケープ地方の四つのトーテムの一つとなっており、トーテム動物として重要な位置を占めているので、本来的な本貫地との関係を示しているのかもしれない。その山がイーストケープでも信仰の対象となるのは、少
写真 5 対岸のブウェブウェッソ山
パプアニューギニアにおける民族考古学的調査(一四)九一 なくとも一部の住民がノルマンビー島からの移民であることと関係があり、事実、今までの聞き取り調査では家系図上の先祖がそのように位置づけられている場合もある。オーストラリア国立大学に収蔵されるM.ヤングの調査記録には、ノルマンビー島のサブクランにビルビル、ダワタイなどのイーストケープと共通する名称があり、移住の痕跡をとどめている。キドコ交易などもそれらの故地との間の親族関係にある集団同士の交易であったに違いない。今でもイーストケープから婚入する男性が多くあり、古来から通婚圏であった。そのような人々がブウェブウェッソ山に関する信仰を伝えたと考えるのが最も自然である。 この地域にはブウェブウェッソ山以外にも、霊山信仰となる山がある。イーストケープにも民衆の信仰を集める土着の山岳死霊信仰があることが聞き取り調査で判明しているが、今回の報告では扱わない。
(高橋龍三郎)3.ノルマンビー島における調査
(1)立石の石材について
イーストケープの村々には、「ガイマ」と呼ばれる立石が点在する。その扱いは様々で、ビルビル村のように記念 碑として移設されることもあれば、トイレの裏や樹木の根の間にひっそりと確認されることもある。しかしこれらの立石に共通するのは、おしなべて板状節理を伴う片岩を素材とすることである。片岩は広域変成岩に属し、石灰岩を主体とするイーストケープ地域では産出しない。一方、海を隔てて隣接するノルマンビー島では、従前より緑色片岩や黒雲母片岩が分布する地域として知られている(
H.L. Davies ( 967
)。よって今回の調査では、立石の来歴、ひいてはイーストケープの人々の来歴を調査するべく、ノルマンビー島の現地調査を実施することとした。調査期間の都合上、島内の調査は八月一六日の一日間とし、主に河川付近の石材観察を行った。 ノルマンビー島は、イーストケープの北東約一六キロメートルに位置する。島の全域は約一〇〇〇キロ平米で、「v」字状に枝分かれしたような特徴的な形状を呈する。島のほぼ中央に聳える標高八〇〇メートルのブウェブウェッソ山は、死霊が集まる山として現在でも人々に言い伝えられる名峰である。デイビスによれば、島の中央部には北東―南西方向に多数の断層が認められ、特にブウェブウェッソ山の東側には島を二分する活断層が存在する(H. L.Davies ( 967
)。この活断層を境として、西は超苦鉄質(ult ra m afic
)の粗粒玄武岩(do ler ite
)やかんらん岩史観第一七六冊九二(
peridotite
)が分布し、東側には緑色片岩(chlorite basic schist
)や緑色黒雲母片岩(chlorite biotite schist
)が分布する。石材調査はこの東側の片岩地帯を対象とし、イーストケープからモーターボートで約四〇分の距離にあるブウァシアイアイ(B w as iaia i
)川の河口で行った(写真6)。ブウァシアイアイ川は、ブウェブウェッソ山に端を発する河川で、先述の活断層に沿って南流する。現地語で「
bwasi
」は「熱い」、「aiai
」は「水」をそれぞれ意味し、読んで字のごとく「熱い水」、すなわち温泉が湧き出る川としてよく知られている。さて、イーストケープを臨む河口付近では、清流の中に大量の緑色片岩が確認された。河川の淘汰により、石材のサイズはやや小形であったが、河床の基盤も含めて当地域が片岩の産出地であることを確認することができた。河床礫には、他に安山岩や砂岩も散見され、村の木々を囲う石がこれらの石材で構成される光景は、イーストケープとは全く異なるものであった。イーストケープでの聞き取り調査では、ノルマンビー島からの人々の移住や石の移動にまつわる説話もあることから、立石の石材の由来に本島が深くかかわることを改めて認識した次第である。
(大網信良)写真 6 ブウァシアイアイ川河口付近の様子
パプアニューギニアにおける民族考古学的調査(一四)九三 おわりに 今回の論考では、イーストケープのサブクランに関する親族構造などの基本的な調査を継続する一方で、当地域に根付く精神世界の一端について調査成果を報告した。いままでの報告では土器作りに関する技術的、社会的側面に焦点を合わせて調査を繰り返し、事実関係を確認しながらできるだけ多くの事例を紹介してきた。今回は、それらの社会・技術的側面(
socio-technomic
)では解明できない、地域内部の世界観について調査し、それらが死霊観、祖霊観、山岳死霊観などと関係して、この地域のイデオロギィとして大きな影を落としている様子を報告した。ヤワラタ、ベツツ、メレワ、ドリア、ゴゴモケワ、ビルビルなどの集落(
sub clan
)の奥庭や木陰にひっそりと守られるようにたたずむ立石は、大きなものが独立的に一本、あるいは二本立つ場合と、長さが三十センチメートル程度のものが複数集まって配石を構成する場合とがある。それらがトパとケヘララ両地域に分布していることが確認された。いずれの地域でも、それに対して緩やかな秘密が保持されているようで、立石の機能や用途を尋ねても大方は無関心を装い、先住民が残した物だとか、対岸のノルマン ビー島から移民した時の由来を物語るとか、あたかも現在の自分たちとは全く無関係であるかの如く振る舞うのである。判で押したような対応に、却って意図的にそれをぼかそうとする集団の意図を感じざるを得なかった。 立石に関する聞き取り調査では、今回の調査では予期せず二人の男性から話を聞くことができた。過去の出来事を中心に立石の由来や、纏わる神話的な伝説とともに、宗教的、呪術的、魔術的な行為と関係する姿が浮かび上がってきた。死後の世界として、海を渡って対岸に見える屹立したブウェブウェッソ山との関わりは重要に見える。死者の霊魂が帰る山との宗教的意識に支えられ、この地域では殊の外重視される山である。 石棒の石材はイーストケープには自産しない片岩である。それは海を渡って対岸のノルマンビー島のしかもブウェブウェッソ山の麓に産出するのである。今回の調査ではノルマンビー島に渡海して麓のブウァシアイアイを訪ね、結晶片岩が河床を埋めるように産出している姿を確認した。ノルマンビーからそれらが由来したことは疑いないところであり、移民伝承と関連して、文化・社会的な起源地と考えられる。なお、今回の調査に当たっては日本学術振興会の科学研究費挑戦的萌芽研究(研究代表者:高橋龍三郎、課題番号26580 (39
)の助成を受けた。(高橋龍三郎)史観第一七六冊九四註(1)
これまで「ケヘララミッション」「トパミッション」と記載してきたが、これはキリスト教の教区名であり、行政的にはイーストケープワード、ロナナワードである。なお、以下では「ケヘララ」「トパ」と略記する。引用文献高橋龍三郎・細谷葵・井出浩正・根岸洋・中門亮太
二〇〇八「パプア・ニューギニアにおける民族考古学的調査報告4」『史観』第一五八冊、七四―九九頁、早稲田大学史学会高橋龍三郎・井出浩正・根岸洋・中門亮太・根兵皇平二〇〇九「パプア・ニューギニアにおける民族考古学調査(五)―ミルンベイ州トパにおける調査概報―」『史観』第一六〇冊、七二―八九頁、早稲田大学史学会高橋龍三郎・井出浩正・中門亮太二〇一〇「パプアニューギニアにおける民族考古学調査(六)」『史観』第一六二冊、七九―一〇〇頁、早稲田大学史学会高橋龍三郎・中門亮太・平原信崇・岩井聖吾・服部智至二〇一二「パプアニューギニアにおける民族考古学的調査(八)」『史観』第一六六冊、八三―九九頁、早稲田大学史学会高橋龍三郎・中門亮太・平原信崇・岩井聖吾二〇一三「パプアニューギニアにおける民族考古学的調査(九)―クウォマ族の総合的調査―」『史観』第一六八冊、一〇三―一二〇頁、早稲田大学史学会高橋龍三郎・中門亮太・平原信崇二〇一四「パプアニューギ ニアにおける民族考古学的調査(一〇)」『史観』第一七〇冊、九八―一二一頁、早稲田大学史学会高橋龍三郎・中門亮太・平原信崇二〇一五「パプアニューギニアにおける民族考古学的調査(一一)」『史観』第一七二冊、八二―一〇三頁、早稲田大学史学会高橋龍三郎・根岸洋・平原信崇二〇一六「パプアニューギニアにおける民族考古学的調査(一三)」『史観』第一七五冊、九九―一一五頁、早稲田大学史学会