博士学位論文概要
子どもへの体罰・暴力の禁止と安全な養育への権利保障に関する
実証的研究
——— 代替的家庭環境に育つ子どものための『子どもの権利ノート』理論の 構築を求めて
中川 友生
1.研究の背景
近年、子どもへの暴力問題は深刻な社会問題になっている。この子どもへの暴力は、家庭、
学校、地域、施設など子どもが生活するあらゆる環境で生じているが、中でも、子どもが安 全に安心して成長する拠点であるべきはずの家庭環境において、2018 年度に全国の児童相 談所が児童虐待相談として対応した件数は、約15万9千件と過去最多となった。その中で、
養育者から「しつけ」と称した暴力をうけて2018年には目黒区で5歳児虐待死事件が、2019 年には千葉県野田市で10歳児虐待死事件が発生しており、親の体罰禁止法制化の契機とな った。しかし、その後も、親・養育者による子ども虐待事件はあとを断たず、子どもの安全 な養育が実現しているとは言えない状況である。
家庭環境における養育者から子どもへの体罰・暴力は代替的家庭養育においても同様の 問題が生じている。2016年の児童福祉法の改正により、社会的養護が必要となった場合で も、子どもの権利擁護の観点から従来の集団的な施設養護から里親委託を中心にした代替 的家庭養育の優先へと児童福祉政策が方針転換された。しかし、子どもの権利として優先 的に検討される代替的家庭環境においても里親から子どもへの被措置児童等虐待が発生し ており、子どもは実親からの虐待・暴力から保護された場所で再び暴力をうけるという重 大な権利侵害の問題が解決していない。
子どもへの暴力は重大な権利侵害であるため国際的にも問題となっている。1989年に採 択された国連子どもの権利に関する条約(以下、子どもの権利条約と称す)では、19 条で 養育者から子どもへの身体的・精神的暴力から保護されることが規定されており、それに依 拠しつつ、子どもの権利委員会一般的意見8号(2006年)および13号(2011年)により、
子どもへの暴力の定義がなされ、同条約の締約国へ、子どもへの暴力根絶の義務と早急な取 組みをうながすなど国連機関でも対策がすすめられてきた。
このような子どもへの暴力根絶への動向に呼応して、1979年以降に広がった法的に体罰 を全面禁止している国も2019年8月現在、56か国となり国際的潮流は確実に子どもに対す る暴力根絶に向かっている。しかし、このような、国際的な子どもに対する暴力禁止の潮流 に逆行するかのように、日本では子どもへの暴力は危機的状況である。
2.本研究の目的
以上のような背景から、本研究では、子どもに対する体罰・暴力の禁止及び、国際的には 法理念となっている、安全な養育への権利の保障という課題について、子どもの権利学を研 究の基盤として、実証的かつ理論的に考察する。そこでは、筆者が直面してきた里親家庭な ど代替的家庭養育における子どもの安全な養育への権利の保障の実践的課題を解明してい く。総じて、本研究では、子どもの権利条約および子どもへの暴力禁止に関する国内外の取 組みの理論的検討、具体的な子どもの権利ノート理論の構築により、子どもの安全な養育へ の権利の理論構築に寄与するとともに、今後の具体的な養育方法研究や教材の開発といっ た実践研究を展開していくための基礎的研究となることを目的とする。
3.本論文の構成
本論文は二部で構成した。本研究で子どもへの体罰・暴力の現状把握に努め、第Ⅰ部で は、一般家庭における親・養育者からの体罰等に関する実態と意識について子どもの視点 から実施した実証的調査の結果に即して述べる。次に、代替的家庭養育における里親から 里子への暴力の実態および家庭養育で行使される体罰・暴力に関する里親と里子の意識に ついて実証的調査の結果に即して述べる。
第Ⅱ部では、子どもの安全な養育への権利保障と代替的家庭養育の展望について述べ る。なぜ今、子どもの安全な養育への権利の理念形成が必要なのかについて、2019年に成 立した「児童虐待防止対策の強化を図るための児童福祉法等の一部を改正する法律」にお ける親・養育者の体罰禁止規定の成立と子どもの権利条約や子どもへの暴力防止に関する 国内外の取組みや資料を子どもの権利学の視点で調査することにより安全な養育への権利 の理念を理論的に検討する。また、代替的家庭養育と安全な養育への権利について、社会 的養護における家庭養護優先の制度の展開、代替的家庭養育において生じる被措置児童等 虐待の問題などについて述べ、家庭での安全な養育への権利保障のために実践されている 取組みを参考に、安全な養育への権利の理念を実践的課題から検討する。第Ⅱ部では、里 親家庭における安全な養育への権利の保障について、里親家庭で生活する子どもに配布さ れる子どもの権利ノートからも見ていきたい。
終章では、本研究の成果をふまえて、あらためて安全な養育への権利保障としての子ど もの権利ノート論を展開する。
4.養育者から子どもへの暴力に関する実証的調査の概要と調査から見えてきたこと 本研究では、養育者から子どもへの暴力に関する5つの実証的調査を実施した。以下に 各調査の概要および実証的調査の結果から見えてきたことを説明する。
1)若者を対象とした家庭における体罰等に関する実態・意識調査(第1章)
(1)調査の概要
親・養育者からの体罰等に対して、子どもがどう感じてきたのかを問うことにより、問題 解決の主体として子ども自身が相談救済機関などに安心して相談することができるために 求められる環境、条件の解明をめざすことを目的とした。
一般家庭で育った若者(18歳から25歳)約3千人の子ども期の体罰等に関する実態・意 識についてインターネット調査を実施し、安全な養育への権利に必要な理念を探求した。
(2)調査から見えてきたこと
① 養育される側は体罰等の行使に否定的な感情が強い。
子どもは、親・養育者からあらゆる形態の暴力をうけていたことが明らかになった。
親・養育者からうけた体罰等に対して、子どもは否定的感情をもったと半数以上が答えて おり、特に、相手にされない、馬鹿にされるといった心理的暴力に対しては8割以上のも
のが否定的な感情を持ったと答えた。子どもは、身体的暴力だけでなく心理的暴力への否 定的感情が強いことが明らかになった。
② 養育される側は養育する側よりも子育てにおける体罰等の行使に否定的である。
成人を対象とした調査結果と比べると、若者は子育てにおける体罰の行使に否定意識が 高い傾向があった。それでも、子育てにおける体罰行使を容認する意識を持つと答えたもの
が 46.3%を占めており、その体罰容認意識の特徴は、それしか方法がない場合のみ体罰を
行使するという消極的な体罰容認意識が主流であった。
③ 養育者からの体罰等を子どもは誰にも相談しないという現状がある。
親・養育者からうけた体罰等に対する否定的感情が強いにもかかわらず、子どもは自らが うけた体罰等を誰にも相談しない現状が明らかになった。その理由として、子ども自身にお いて親・養育者による体罰の不当性や人権侵害性を理解し、憤り、助けを求めて良いのだと いう権利認識が不十分なことがうかがわれた。子どもが問題解決の主体として自発的に相 談し、そこから問題解決へ踏み出すためには、子ども自身がうけた体罰は人権侵害であり、
問題解決に子どもの意見や希望が尊重されるべきだという権利意識を子どもが高める必要 がある。そのために子どもへの暴力禁止にとどまらない、子どもによる行動につながるよう な子どもの権利学習が求められていると考える。
2)里子への暴力に関する実態・意識調査 (第2章第1節)
(1)調査の概要
一般的な家庭環境に育つ子どもにとどまらず、里親家庭で生活した経験のある元里子5名 に2018年にインタビュー調査を実施し、代替的家庭養育における養育される側(里子)の 視点で、養育者から子どもへの暴力に関する実態・意識調査を行った。
(2)調査から見えてきたこと
①里子は、いかなる目的の体罰であれ体罰によって傷つき否定的な感情を持つこと 里親がしつけや教育などの目的をもって体罰等を行使しても、里子は、その行為をうけ た際に恐怖感、不信感などの否定的感情を持つことが明らかとなった。里親から里子への 多様な形態の暴力が確認されたが、里子が深く傷ついたのは、身体的暴力もさることなが ら、社会的養護に特有の問題にまつわる暴言などの精神的な暴力であった。
②里子の悩みが相談・救済支援の仕組みにつながりにくいこと
里子は自らの居場所となった里親家庭からの措置変更への強い不安と社会的養護にいた る過程で生じた不信感から、悩みを里親や児童福祉司など周囲に相談することができず、子 どもが悩みを相談したり、子どもを支援、救済する既存の仕組みが活用されにくいことが明 らかとなった。
3)里親の体罰等および子どもの権利に関する意識についての質問紙調査(第2章第2 節)
(1)調査の概要
里親の担う社会的養護は子どもの権利であり、子どもへのあらゆる形態の暴力の禁止は、
子どもの権利条約に規定された子どもの権利である。里親制度の根拠法である児童福祉法 に子どもの権利条約が基本理念であることが明記された2016年前後の、里親における子ど もの権利条約の認知度と学習経験の実態、子どもの権利条約を学ぶことをどう考えるかと いう意識について確認する目的で、2015年に68名の里親に質問紙調査を実施した。また、
2017年から2018年にかけて、筆者がX県で里親研修の講師を担った際に、主催者が行った 里親67名への質問紙調査の結果から子どもの権利に関する項目を分析した。
(2)調査から見えてきたこと
①里親が重視する子どもの権利
里親によって意見表明権などの子どもの権利が重視されやすいことが明らかになった。
一方、プライバシーの権利は他の権利より里親によって重視されにくいことが明らかにな った。
②里親の子どもの権利条約の認知状況は低いが、学習意欲は高い
2016 年の児童福祉法改正により子どもの権利条約が同法の基本理念として位置づけられ た後も、子どもの権利条約を詳しく理解している里親は少なく、その要因の一つとして、同 条約に関して学習する機会が少なかったことがうかがえた。しかし、里親は子どもの権利条 約に無関心なのでなく、里親として子どもの権利条約を学ぶ必要があると8割以上のもの が答えており、子どもの権利についての学習意欲が高いことが見えてくる。今後、里親が持 つ子どもの権利条約や子どもの権利についての学習意欲を、実際の学習の機会に結びつけ る取組みが必要になると言える。
4)里親による子どもの権利侵害に関する実態・意識についてのインタビュー調査(第 2章第3節)
(1)調査の概要
里親の子どもの権利についての意識と里親から子どもへの権利侵害が生じる構造的要因 を明らかにする目的で、2015年に里親21名に、養育における子どもへの体罰・暴力に関す る意識についてインタビュー調査を実施した。代替的家庭養育における養育する側(里親)
の視点を踏まえて子どもへの体罰・暴力の実態と、それらが生じる構造的要因を考察した。
(2)調査から見えてきたこと
① 里親によって意識されるが擁護されにくい虐待・放任からの保護の権利
里親が、虐待・放任からの保護を子どもの権利として捉える意識があるにもかかわらず 里子の養育で暴力を用いてしまう背景には、感情のコントロールが困難になる、しつけの ため状況により暴力が必要と考える、暴力に対する認識が不十分である、という3つの要
因があることが示唆された。
②里親によって意識されるが擁護されにくいプライバシーの保護の権利
プライバシーの保護の権利は里子の年齢が上がるにつれて里親に擁護されていった。幼 少期は他の子どもの権利擁護を優先した結果、プライバシーの保護の権利侵害が生じるこ とが示唆された。
5)里親家庭で生活する子ども向けの子どもの権利ノートの検討(第5章)
(1)調査の概要
自治体が代替的家庭養育に生活する子どもへ伝えようとしている内容から、安全な養育 への権利を構成する理念を考察する目的で、2019 年に都道府県及び政令市が独自に作成し ている里親家庭で生活する子ども向けの子どもの権利ノートと、多くの自治体が子どもの 権利ノートを作成する際に参考にした、朝日新聞厚生文化事業団が作成した里親家庭で生 活する子ども向けの子どもの権利ノートの合計19点の内容分析を行った。
(2)調査から見えてきたこと
里親家庭で生活する子ども向けの子どもの権利ノートでは、特に里親家庭で生活する子 どもたちの安全な養育を保障するために、里親から虐待をうけた時や悩みなどについて安 心して相談できることを特に子どもたちに知らせようとしていることが明らかになった。
また、子どもの権利ノートは里親家庭での生活の手引きとしての機能にとどまらず、子ども が権利主体として、社会的養護のもとで育つこととなった状況の理解や里親制度のもとで 自らができることおよび、おとなにしてもらえることを知る権利を保障することに寄与し ていることが明らかになった。
4.子どもの安全な養育への権利保障と代替的家庭養育の展望(第Ⅱ部第3章、第4章)
1)なぜ安全な養育への権利なのか
今までも日本国内では子どもの成長への権利、とくに生命への権利を保障するために、
子どもへの暴力に対する罰則規定の強化や人権問題として暴力禁止の意識啓発をはかる取 組みは実施されてきた。しかし、これらの取組みにもかかわらず、子どもへの暴力を容認 する意識や養育における暴力の行使は根絶されていない。今後、子どもの成長への権利を 保障するためには、罰則規定を強化したり、人権問題として暴力禁止にアプローチするだ けでは不十分である。「しつけ」の名による暴力に正面から対抗し、実践的に体罰容認意 識を克服していくために、子どもが暴力をともなわない安全で適切な養育をうけて成長す る権利、すなわち安全な養育への子どもの権利の理念を確立し、子どもは安全な養育への 権利を有しているという認識を社会に徹底して普及させていくことが必要と考える。
現在、安全な養育への権利は、日本における現行の子ども法制上、明文的には規定がな されておらず、先行研究でも十分に立論されているとは言えない状況である。そこで第Ⅱ 部第3章では、①今日的課題として安全な養育への権利の立論が必要とされている状況を
のべ、②体罰全面禁止国でその根拠となった理念や体罰全面禁止への国際的な取組みを検 討して、安全な養育への権利を基盤とした、子どもへの暴力禁止の取組みがひろがってい ることを述べる。そして、③日本国内でも、小児科医の問題提起やNPOによる虐待防止運 動などに、安全な養育への権利の萌芽がみられることに触れ、子ども虐待問題の展開にお いて2019年に成立した「児童虐待防止対策の強化を図るための児童福祉法等の一部を改 正する法律」による親の体罰禁止の法制化及び、「東京都子供虐待防止条例」による心理 的暴力への規制など、さまざま取組みがなされていることを述べて、子どもの安全な養育 への権利の立論とその課題について論じていく。
2)代替的家庭養育における安全な養育への権利の保障
第4章では、代替的家庭養育の制度の展開を考察した上で、里親制度が日本の社会的養護 制度において、どのように位置付けられているのかを検討し、その課題と将来像についての べる。次に、第Ⅰ部の実証的研究で明らかにした代替的家庭養育のもとで育つ子どもへの体 罰・暴力の実態などから、代替的家庭養育で取り組まれている、子どもへの暴力禁止の実践 的な取組み、例えば代替的養育環境のもとで育つ子どもの意見表明を保障するためのシス テムである子どもアドボケイト制度などを紹介し、子どもの安全な養育への権利の実現に 必要な制度の理念を考察していく。
5.子どもへの体罰・暴力禁止と子どもの権利ノートの理論構築(終章)
必要性は認識されながらも、里親家庭で生活する子ども向けの子どもの権利ノートの作 成は、まだ一部の自治体に限られているという課題はある。しかし、それらの自治体が作 成した子どもの権利ノートの内容をみると、子どもが問題解決の主体として位置づけられ ており、子どもが権利侵害にあった際の相談先を複数紹介するなどの配慮がなされてい る。また、相談方法の記述も具体的で子どもの発達段階に応じて工夫されている。したが って、里親家庭で生活する子どもが安心して相談できる権利を保障するためのツールとし て活用するための条件は満たしていると言える。それに加えて、里親家庭で生活する子ど もに、措置に関する内容や日常生活について意見表明を行うことができることなど自らが 有する権利について、子どもに知らせるツールとしての機能も果たせるようになってい る。
しかし、里親家庭で生活する子ども向けの子どもの権利ノートの内容の向上や作成自治 体の増加だけで、多くの困難を抱え、逃げ場を失ってきた里親家庭で生活する子どもたち を権利侵害から守ることができるのであろうか。これまで考察してきた論点をふまえつ つ、終章では、里親家庭で生活する子ども向けの子どもの権利ノートが活用されるための 課題として、子どもの権利ノートの作成への子ども参加、里親家庭で確実に子どもの権利 ノートを子どもに提供していくこと、子どもの権利ノートを子どもが自らの人権感覚を磨 くための、また日々の生活で権利学習を行うためのツールであると里親や児童福祉関係者
がとらえることこそが重要であることを論じる。
また、子どもが権利侵害をうけた時に相談に踏みだすためには、すべての子どもに子ど もの権利条約で規定されている子どもの権利を総合的に理解することが求められている。
子どもの権利ノートは、子どもが子どもの権利を知り行使する権利について知らせる機 能を持つ。その機能は里親家庭で生活する子どもだけではなく、すべての子どもに必要な ものであり、家庭や学校における子どもの権利ノートの配布の可能性を検討するべきであ ると考える。
これから子どもの権利ノートの活用や、子どもが安心して相談する権利を保障するため の取組みを前進させていくためには、安全な養育への権利の理念を普及させることが必要 である。心理的暴力も含めた暴力全体を規制する法整備とともに、安全な養育への権利の 理念を土台として、それぞれの親子に適したオリジナリティある養育すなわち、安全かつ 自由で多様性に富んだ養育を普及させていくことが必要である。
6.残されたいくつかの課題
本研究では、少し前まで子ども期をすごしていた若者への調査を行ったが、今後は、
まさに子ども期を生きている子どもを対象として、暴力問題への思いやその意識を探るた めに調査を行うという課題が残されている。特に養育者から権利侵害をうけた際に、子ど もが、どのような相談体制や権利救済システムを求めているのかを、直接子どもを対象に して調査し、明らかにすることは緊急の課題である。また、子どもの安全な養育への権利 を実現するための取組みによって、子どもが本当に安心感・安全感を満喫して成長してい る実感を持てているか、長期的な視点では、子ども期に利用した子どもへの暴力防止のシ ステムが、子どもが成長した後、安全で安心できる成長をもたらすのに役立ったと感じら れるのかなどについて、直接子どもや若者を対象とする調査手法を用いて、継続的にモニ タリングしていく必要もあると考える。
また、法律的な課題として、国際的には法規範となっている安全な養育への権利の理念 を、国内でも実定法化していく課題が残されている。そして体罰禁止の法規制により、体 罰を行使する養育から、あらゆる形態の暴力を排した養育を実現する代案を示すために、
子どもの安全な養育への権利の理念を、児童福祉学や教育法学の領域へも展開していくこ とが求められている。