• 検索結果がありません。

医療制度と生存権

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "医療制度と生存権"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

論 文

はじめに

けがや病気は嫌なものである。でも、誰もが 自分の人生の中で、怪我や病気にかかったこと はある。病院が嫌いな人もいるが、それも程度 の問題で、辛くて我慢できなければ自ら医療機 関に赴いて治療を受ける。また、事故や突然倒 れたりすると、自分の意志にかかわらず担ぎ込 まれることもある。そして、その支払いの過半 は、医療制度に基づき賄われている。又、内容 にもよるが、通常は医療サービスを受けるたび に大金が必要というのではなく、手元の所持金 で対処できるのである。言うならば、この日本 と言う国では、無医村のような一部の地域を除 き、商店に赴くのと同じように健康の回復のた めの処置の利便性が実現できているのである。

しかし、この今や当たり前のはずの医療サービ スの提供も、地域や診療科目によっては種々問 題が出てきているのは紛れもない事実である。

その原因は色々言われているが、例えば医療 過誤等の訴訟リスクを回避するため、リスクが 高い診療科を新たに医師を志す者が敬遠したり、

また、大病院の勤務の過酷さから、そのような 現場から、サービスを行う主体である医師が挫

折や消耗により姿を消していたりしている。

そしてまた、現行の医療制度自身が持つ開業 医重視の対価の配分が、この傾向を更に加速し ている。そこへきて、昨今取られている財政赤 字削減を目的とする医療関係支出の削減等の政 策が、医療制度を一層動揺させている。

医療に関する資源配分の不適合や資源不足、

またリスクの増大等が制度を揺す振っているの である。日本は世界に冠たるヘルスケア制度が 完備しているはずである。しかし、このように 動揺するということは、実態は必ずしも盤石で はなく、その基礎も脆弱なものではないのかと 思わせるのに十分である。つまり、日本の現行 制度は、その時々の修正だけで制度の維持を図っ てきたので、今や小手先の変更では、もうその 動揺を抑えきれない時期に至っているのである。

そうなった原因は、結局のところ、社会で暮 らす人々にとっての医療をどう考えるべきなの かという点の検証が不十分なまま、制度が推移 してきたことにあるのではないかと思う。

今の医療制度は、戦後一旦途切れた健康保険 制度を、復活させたものである。戦前の制度は、

幼児死亡率を減少させ、健康な兵士を確保し、

労働力を確保するためのものであったが、戦後

山 下 耕 司

─ 医療保険制度を考える上での理念的根拠について ─

医療制度と生存権

*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程3年(指導教員 田村正勝)

(2)

のものも結局のところ、労働力の確保を主たる 目的とするものといっても良いのではないだろ うか。生産性向上というある意味総和主義的な 考えが合理主義的思考から選択され、政策とし て採用されてきたのである。

このような合理主義的な理念の場合には、環 境変化の影響を大きく受ける。戦前戦後ともそ の理念は国の繁栄のためのものであった。だか ら繁栄を損なうとなれば、制度の変更は躊躇さ れない。つまり、現行の理念は各個人のための 政策ではないのである。

命を尊重する理念をとるなら環境の変化が あっても、あまり動揺することはない。その反 対に、人の命を繁栄への手段と考えるなら、繁 栄を脅かすような状況に陥れば、いつでもその 制度を見直すというスタンスとなる。後者なら、

精々、国家・社会が成長中なら、経済成長に資 する範囲内なら命の保護のための支援を行なう が、成長が停滞すれば支援は鈍り、とりわけ生 産力とならないものには支援は切り捨てること になる。繁栄に役に立たないと「ムダメシグラ イ」扱いされることにもなるのである。つまり、

いつだって助かるのは自助ができるものだけと なるのである。

今の日本は、先に述べた後者の合理的思考に よる経済主義に基づく理念で形作られてきた。

しかし、このようなことでは、経済が低迷する と救われないものが出るし、そうであれば弱者 へのセーフティーネットなど十分な訳がない。

また、医療はリスクを伴う技術である。既存 の技術水準と制度の中で対応可能な方法をとる 努力を現場はしている。しかし、マスコミが問 題点をいささかデフォルメして取り上げすぎる と、逆に国民に、医師や現行の制度がリスクや

負担をもたらしているのでないかと本来のリス ク以上の危惧を生む(1)。制度への不信は制度の 不安定をもたらす。そもそも、医療の技術水準 について素人が口を出すのは、判断を誤らせ、

より大きな災いを生むので、専門家に確認が必 要なのである。

私たちが今考えなければならないのは、その ようなことではなく、少しでも人々が安定した 生活をおくるために、リスクを伴う技術である 医療について、制度をどのような観点から作る べきなのかである。これが、制度を安定させ、

色々な揺らぎを防ぐことにもなるからである。

また、気になる動きとして、震災で一時棚上 げになっていた TPP も再び遡上に上がってき た(2)。論者は様々な事を言うが、実際がどうな るのかわからない。つまり、TPP の観点から 他国がこの制度を規制と捉える可能性があるな ら、TPP と医療制度も無縁ではないことになる。

日本をはじめ多くの国でヘルスケアシステム として皆保険制度を採用しつつある。EU や中 国、韓国にしても皆保険に進んでいる。この傾 向にありながら、制度を規制しかねない論理を 持ちかねない TPP に進むのは、社会の安定を 揺るがすことになりかねない。制度を規制とし て取り外そうという方向に突き進むとすれば、

短慮としか言いようがないのである。

政府は各種議論について解説するとしている が、医療をはじめとする夫々の国固有の制度につ いて、他国が規制とはみなさないと言う確約がな い限り、その保証はないわけである。そもそも医 療制度は規制なのか、また、医療自身市場サービ スに馴染むのかを問われているのである。

以上のように医療の動揺は社会で生活する者 を不安定にする。安定した医療の提供をすべて

(3)

のものに提供する為には、何を理念として制度 を考えるべきなのか、これが今回の論文のテー マである。

第一章 近代社会における生存権 医療は人の生死を司るものであるから、生存 権に結びつく。生存権は人権の内の社会権の一 つである。今回のテーマを考える時、これらの ことを整理し、その関係を踏まえて考えなけれ ばならない。そこで、社会権がなぜ必要なのか、

そのことを哲学的根拠は何であるのかという観 点から検討を始めることとする。

第一節 社会の中で人権

テーマを医療制度とする時、避けて通れない のは、人権についてである。生きていてこそ人 はなにごとか為すことができる。そう考えると、

人権とはこの生きていくことを支えるものと考 えられる。その一方、人権とは、近代に至り市 民革命を経て実現してきた権利である。そこで、

時代の経過のなかでどう捉えられてきたのかを 確認することとする。

第一項 近代市民革命における人権

私たちが一口に人権と言っているものも、そ の内容は時代とともに変化してきた。このいわ ゆる人権は、市民権、つまり、市民の自由な活 動を認める権利の獲得から、スタートが切られ た。近代市民革命を代表するフランス革命では、

よく知られるように自由・平等・友愛がその理 念として掲げられた。それに先立つアメリカ独 立でも、自由が求められた。つまり、近代革命 では、力をつけてきた階層の人々が個人の自由 を主張し、それを阻むものへの破壊衝動がその

原動力となったのである。

従って、この時代の人権は個人の自由がその 中心にあり、かつ、その自由も既に富を得た者 の所有権を前提とするものであったため、持つ 者にとっての自由であった。逆に、持たざる者 は自由があっても、持たないが故に、自己の実 現を図ることは困難な時代であったのである(3)。 先の言葉に戻れば、人権宣言でも明らかなよう に、この革命は「市民と人のためのもの」であっ たが、この革命を推し進めた者から見ての「市 民や人」のためのものであったのである(4)。だ から、これらは、実質的に市民階級の自由、市 民階級の機会の平等、そしてこの革命遂行する ための倫理観念としての友愛が唱えられたので あり、言葉からイメージされる人類全てのため の理念とは自ずと次元を異にするものであっ た。

だから、兎にも角にも、理想として、また、表 面的にもこれらの言葉が人権の実現を体現する 言葉とされたのだが、実態は別だったのである。

これらの言葉の解釈は、自由とは、個人の自 由であり、平等とは、機会の平等であり、友愛 とは革命を推し進めるための団結のための倫理 だとされている。しかし、何度も述べるように、

こられが誰のためのものだったのかが問題なの である。

自由をとってみても、古代ギリシャでは奴隷 制を前提とした自由であり、近代市民革命もブ ルジョワや貴族のための諸権利であった。つま り、市民革命の当時に掲げられたことは、これ らの階層のための自由だったのである。従って、

宣言にいう「市民や人」からすると自分たち以 外のものの諸権利は想定外であったのである。

例を挙げれば、市民革命を経た諸国での奴隷や

(4)

インデイアンの扱いを見ればそれは明らかであ る。当時の市民とみられる者にのみ自由を中心 とする諸権利を認めたにすぎないのである(5)

第二項 市民権獲得の意義

持てる者の権利とはいえ市民的権利が認めら れた意義は否定できない。それは所有権を前提 とはするが、個人の自由を認めたからである。

この市民革命は、個人の資本家的活動を促進し、

資本主義経済発展及び所有権を保護された市民 階級の興隆を促した。しかし、平等という点で は、当時の宣言を見る限り、あくまで表面的な 機会の平等をうたったものに過ぎない(6)。つま り、ブルジョワジーや貴族のための平等であっ て、いわゆる第三身分の平等ではなかったので ある。言葉に表現された理想は実質面では伴っ ていなかったのである。

第二節 自由「人権」の拡大

上述の通り市民権は認められたものの、それ は限られた層のものであった。その対象範囲を 拡大するために何が必要であったのかを次に検 討する。

第一項 市民権と社会権

市民革命で得られた権利を、すべての者が等 しく活用することはできなかった。また、そも そも全ての者に政治的権利が与えられた訳では なかった。持つ者の権利行使の妨げとなる制限 が取り払われることにとどまったのである。所 有権を前提とする市民として個別に活動するた めの権利が認められたにすぎなかったともいえ る(7)

このように、所有権を前提とするのでは、財

のないものからすれば、権利があってもそれら を発揮することができない。なぜなら、市民権 とは移動・居住・契約・思想・学問の自由・権 利・財産権などを保障するものであったが、こ れらを実際に生かして自由に欲するところを行 うには、権利を行使するために必要なものを、

個人で賄わなければならないからである。

ここでいう市民権は自助を中心とする権利な のである。だから、私有財産が不足するものや 無所有のものが、これらの市民権を行使しよう としても、そのための元手がなければできるこ とは限られるし、場合によっては結局何もでき ない。従って、個人の権利を行使するためには、

各個人の状況を整える必要がある。そのための 権利が社会権であり、全ての個人が自由な活動 をするためには市民権と同時に社会権も併せて なければならないのである(8)

第二項 平等と国家観

前項のように近代至り、市民権が成立した。

その成立の際の中間団体の破壊に目を奪われが ちであるが、その国家観は、いわば消極的国家 観に基づくもので、可能な限り国家が社会に介 入することを避け、私的自治に委ねようとする ものであった。しかし、それでは、持たざる者

「財産だけでなく、教育がなかったり、健康を 損ねているという意味である」が人権を享受す るのは事実上無理であった。国家がむしろ介入 する積極国家の側面が必要なのである。即ち、

私的自治・経済的自由の制限を伴う再配分を必 要とする「社会権」である。これが、理想を謳 いあげた権利宣言を行った市民革命ではなく、

その後の労働運動や社会的ニーズの中で、徐々 に形成されていったのである。こうなったのは、

(5)

先述の「市民や人」がその権利を行使し、より 一層その権利を追及するには、その他の階層と の協働が必要となり、彼らの要望を認めざるを 得なくなった為である。

この権利の形成過程で、市民権の恩恵に浴さ なかったものにも、その利益を広げることが可 能となった。そして、この動きの中で社会権の 一つである生存権も、権利・制度として認めら れるようになってきたのである。つまり、国家 に国民の生存権の配慮を要請する生存権を認め させるようになったのである。積極的国家観が 持つ者、もたざる者双方から必要にされるよう になったといえる。

結論的に言えば、人権は市民権と社会権との セットで機能する。つまり、人が等しく人権を 行使できるようにするには、社会権の確立が必 要条件だったのである。我が国の現行憲法を作 成する際にも、当初は「幸福追求権」で十分と されたのが、「生存権」も必要として、それが 織り込まれることになったのは、このことを示 す具体例である(9)

第二章 平等について

誰もが等しく人権を行使するには社会権が必 要条件となると述べた。ではなぜ人は等しく扱 われなければならないのか。このことを簡単で はあるが検討することとする。

第一節 尊厳と平等

平等の根拠はどこにあるのか。私はそれを人 の尊厳にあると考える。ここでは、その点を述 べていくこととする。

第一項 近代以前の尊厳の根拠

人権は市民権だけで無く社会権が整ってはじ めて社会に存在する人々がその目的である自己 の自由な活動を行使することが可能となる。で は、社会に存在する個々の人々がなぜ等しく人 権を行使できるべきであるのか。そこで、人が 平等である理由をここで検証してみることとす る。

平等は人の人格及びその尊厳と結びつけて考 えられる。これらのことを歴史的にみると次の ようになる。例えば、カトリックでは、人は誰 でも神性を宿す神格があり、その限りにおいて 平等であり兄弟である。そして、人間にはかみ の神性としての人格があるから尊厳がある。ま た、西欧では、社会の中での役割に結びつく人 の気位こそ尊ぶべきとして、これに尊厳を認め、

気位のあるものに人格を認めた。中国も儒教思 想でこの職人の気位と似て、社会の中で役立つ ものが人間であるとされ、社会と人格が関連付 けられている。

このように近代以前においては、上記の理由 を根拠として、人に尊厳が認められたのである。

第二項 理念的行き詰まりと回復への希求 前項のように、尊厳には社会と関連付けて考 えるものと、超越論的な人格論との両方の方向 性があった。しかし、近代に至ると神からの開 放や分業の発達と労働内容の単純化により社会 の中での各自の気位の希薄化が現象として生じ た。「他の人といつでも代替可能であれば社会 の中での人間の尊厳は薄れてしまう」(10)。人格 に対する尊重がなくなってしまえば、人は装置 の中のパーツになってしまう。全体と一体と なって機能するものなら補修するが、そうでな いなら取り替えればよいというだけの存在に

(6)

なってしまったのである。

しかし、不都合なものは捨て去り、都合の良 いものだけで存続を図るのも実は困難なことで ある。生態系で見てもわかるように、生物にとっ て都合の良い条件と不都合な条件のバランスが 取れることで生物の存続が可能となる(11)。し かし、歯車となってしまえば、不具合があれば 切り捨てられる。一種の優生思想のようになる。

それでは生態学的には、逆に種としての存続も ままならなくなるのは上述の通りである。だか ら、人の尊厳や人格を薄れさせてしまってはい けないのである。

第三項 自律と尊厳もしくは平等

カントは、人間や、あらゆる理性的存在者は 目的自体として存在すると述べている(12)。そ して、すべての人の人格に存在する人間性を単 なる手段として使用してはならず、目的として 使用しなければならないと言っている。すべて の人の人格の中にある人間性が、行為や意志の 自由を制限し、自分の意志の格率で自分自身を 普遍的に立法するというのである。

理性的存在者の意志として人は行為を行う。

言い換えると、すべての人の人格に人間性があ るので、人は理性を持って自立して行為を行う。

人間は、理性を持ってなすべきことをなす存在 であるがゆえに、一切の理性的存在者と平等な のである(13)。だから、人には尊厳があるので ある。この尊厳自身は等価物を持たない価値、

即ち、市場で交換できない価値でもある(14)。人 はこのように市場で交換できない内的価値であ る尊厳を持っている。等価物がないとは、比べ られないということだから、人は個々には違い があるのにもかかわらず、平等なのである。

第四項 平等の解釈による違い

人には尊厳があるから個々の人は平等である と述べた。しかし、そもそも平等とはなんなの であろうか。

人は皆人格をもっているとするなら、それぞ れがその尊厳を冒すことがないよう努めなけれ ばならない。人の尊厳を守るとは、各自の人格 が犯されないように公正に対処することであ る。それが、人格を平等に扱うということなの である。平等に扱うためには、公正さが求めら れる。このことを巡って色々な立場から公正を 図る為の正義が語られている。この正議論と いっても、その立場で様々である。ただいえる のは、いずれもある種の平等がその前提にある ということである。

例えば新自由主義やリバタリアンによる平等 とは、国家権力に支えられた市場秩序ルールを 守ることでの平等である。この立場では、強者・

弱者であることに対する修正がされることはな い。だから、力関係から生じる不平等・格差は 一層拡大することになる。しかし、これも平等 と言えば平等といえる(15)。つまり、平等は、そ の位置づけによって、その結果が全く異なって くるし、逆説的に言えば平等論は不平等論との セットで語られるものなのである。そこで、立 場の違いの説明を以下述べることとする。

平等論の根拠として先に紹介した人間の尊厳 という点では、リバタリアンがそれを認めてい るかといえば、ハイエクの発言からするととて もそうとは思えない(16)。リバタリアンは自身 の能力は全て個人に帰属するものと考え、それ を行使した結果も全てその個人に帰属するもの と考える。だから、累進課税などもっての外で あり、この考え方からすると、それなどはある

(7)

種の窃盗となってしまう。所有権を前提に自分 の能力も含めて発揮した結果は、すべて自分に 帰属するというのが彼らの考え方であり、再分 配のための累進課税など、その理念から適用さ れるはずはないのである。

コミュンタリズムの考えを取れば、これが全 く異なってくる。能力も共有資産ということに なるからである。つまり、共同体の共通善を果 たす為に能力を発揮することで得たものは、共 有財産が拡大したのであるからみんなのものと なる。また、リベラルにしても、ロールズは能 力を共有資産と見て、それを発揮した結果に対 して累進課税を行なうことで、再配分を検討し ている。これらの考え方の違いは、公正がどう あるべきかという考え方の相違に由来するので ある。

第五項 生存権における平等

このように平等論は、その視点の取り方で一 変する。一つの平等を基準にすると別の不平等 が結果的に付随する。往々にして、自由と平等 というように二項対立する概念として平等は捉 えられるが、そうではなく、何を目的とした平 等かということから、一つの平等の採用は別の 不平等を生むのである。だから、平等自身を注 視しなければならない。人に付随するものであ る「所有する物や・権利・能力等」をどうとら えて平等を図るかで、平等は全く異なってくる からである。

どの考え方も、平等を否定しているわけでは ない。しかし、一つの平等は不可避的に別の点 で不平等を生むのであり、平等とはそのような ものであると理解した上で、どの様な平等が望 ましいものか、「公正なものか」を考え、それを

前提に制度を構築しなければならないのである。

社会権は個人の自由のための市民権を自助で は行使できないもののために、国家の積極的介 入で、権利を行使するための土台を作る権利で ある。社会権とは具体的には教育を受ける権利 や生存権などであり、これらが担保されること で、市民権を持たざる者も含め、各自が自己の 自由を発揮できるようになるのである。では、

社会権、いわんや生存権にかかわる平等とはど のような平等なのだろうか。

生存権、これは我が国においては憲法 25 条 1 項で「健康的で文化的な最低限度の生活を営 む権利」とされている。上述のように人には尊 厳があるので人に値する生活を送る権利があ る。これが、生存権である。医療問題について 言えば、人として尊厳のある営みをおくれるだ けの健康を保てるようにすることになる。

人により、その健康状態は当然異なるわけで あるが、個々の人が、健康的な生活を送れるだ けの条件を整えることが、生存権にかかわる平 等の有様ということになる。健康を損なった人 や健康状態が思わしくない人を支えることが、

この意味で、人々の平等を保つことになるので ある。制度設計上の基本的考え方としては、こ の観点を平等観念としてとらえるべきなのであ る(17)

第三章 制度設計上の平等の基礎づけ 条件が整はなければ、できることもできない。

例をあげてみてみる。たとば、飢餓に苦しんで いると、生きることすら出来かねる。だから、

権利など行使できようはずがない。各自がその 自我の欲するところを実行するには、市民権の みの容認だけだと、自助できるものは良いが、

(8)

そうでないものは自身の市民権の行使すらでき ない。それをできる状態に引き上げなければ望 むこともままならないのである。

そのため、持つものに対し社会が介入し、そ の権利の制限や資源の再配分を通じて持たざる ものに権利行使を可能にするように条件を整え なければならない。

このようにして、条件を整えるための制度を 設計するために、どういう平等を持つべきかと いう平等の基礎づけが求められるのである。

第一節 制度における平等

医療制度の基底となる哲学を検討するため、

ここまで、人権・社会権・生存権と平等観念に ついて検討してきた。ここまで検討を加えてき たことでは、人は自由にその権利を行使するた めには、自助に任せてその自己実現を図るので は、限られた者しかそれができないこととなる。

一方、人は自律し、市場で交換できないよう な価値を持つ尊厳を持っているため平等であ る。だから、平等な人は、少なくとも自己実現 を図る為の条件を整えられた状態であるべきで あり、その状態を形成するための制度が必要と いうことであった。今回のテーマは医療にかか わるものであるから、医療制度を構築するため の基本思想として、改めてこの平等について検 討を加えることとする。

第一項 基礎づけ

人が平等であるのは、それは人間の尊厳の問 題に帰結する。各々の人間が尊厳を持つので、

それぞれが尊ばれなければならず、その意味で 人は平等なのである。そして、この人間が尊厳 を有する根拠は、人間が人格を有するためであ

る。つまり、人が平等なのは、人は理性的かつ 自律的な存在者であるための人格を持つ存在だ とされていることにある(18)

では、人は平等であるとするなら、人は個人 の自由を謳歌するため、その前提条件を整えね ばならない。いわゆる社会権で教育や医療がそ れにあたる。では、平等を実現するには医療で はどのような制度を成立させねばならないので あろうか。生存権を担保するためには、どのよ うな制度が必用なのであろうか。そこで、制度 を形成する前提としての平等の基礎づけが必要 となるのである。

第二項 健康と機会の平等

前章では、人は平等なので生存権が保障され なければならないと述べた。つまり、生存権も 個人の自由を実現するための基底となる権利な のである。自由を求める考え方ということでは、

先にもいくつか紹介したが、少なくともリバタ リアンの考え方は生存権のための制度に馴染ま ない。この思想は、ある意味闘争のための自由 であり、勝者や強者のみが生き残るための戦略 である。従って、そもそもスタートラインの異 なる各人の条件を整えるという考えはここには ないのである。

資源の偏在を認め、規制を極力少なくした闘 争のための環境を積極的に容認するのだから、

貧しいものを救うという発想は出てこない。だ から、医療制度をこの考え方で制度設計すると、

自助できるものしか生き残れないものとなって しまう。つまり、敗者や弱者、また、持たざる 者を事実上切り捨ててしまうのである。

弱者や敗者とされるのは、そのものに能力が ないからであり敗者となるのはやむを得ないと

(9)

彼らは考える。この能力に事実上所有権も含ま れているが、その一方で各人の潜在的能力は問 題にもされない。結局は、持つ者を前提とした 適者生存ということになり、既に持っている者 のための権利擁護の理論に至る危険が高い。

この考えに立てば、人自身の形式的平等を認 めはするが、認めているのは各自に人格がある という点までに過ぎない。人格があるから尊重 するとはなっていないのである。格差を是認し、

スタートの平等すら認めていない。とても、人 間の尊厳を認める考え方とは言えない。

当然、この考え方に立てば、人権を構成する 社会権を積極的には容認しないことになる。だ から、医療についてこの考えをとると、すべて 自助ということになる。譲っても、市場原理主 義的な民間の保険までが認められるのが精一杯 となる。

医療サービスや保険を購入できない人は、そ もそもその人の購買力に問題があるのであっ て、本人の不足を、他の余裕がある人が支援す る必要はないことになる。従って、限られた者 のみが健康を得られることになるのである。

この考えでは、人の尊厳を認めるとはいえな い。人格があっても、すべての者が等しく人権 を発揮するという立ち位置には立たないからで ある。ゆえに、リバタリアン的な平等を認める 訳にはいかない。よって、医療制度について、

そのような考え方をとることはできない。

第三項 現代社会を前提とする平等の哲学 我々は自由主義経済社会で生活している。こ の社会では個々の所有権を前提として人々は暮 している。リバタリアンはその事実をなにより も優先する。しかし、リバタリアンでなくても、

どうあるべきか以前の前提として、資源の偏在 の事実は認めざるを得ない。この事実から遊離 して論じるのは現実逃避となる。

所有権や資源の偏在を現実のまま事実として これを前提に、人の尊厳を理念とする公正な制 度を目指すための哲学的根拠を持った原理が必 要なのである。そのための理論的根拠として、

ロールズの正議論における平等概念を検討する こととしてみたい。

ロールズは正義を社会的諸制度や実践を定式 化するものとしている。そして、その正義概念 の一側面として平等を取り上げている。その際、

この平等は包括的な社会的理想の一部である平 等とは区別すべきであるとわざわざ断りを入れ ている(19)。この理想と異なるロールズの平等 とは、恣意的差別の除去と、競合する諸要求間 の適切な均衡を図る公正さを意図するものとし ている。

自律する人格をもつ人は、それ故に平等に自 己の自由を行使する権利を持つ。これを制度と してサポートするために行なうのがロールズの 正義のニ原理なのである。この正義のニ原理は、

第一原理が大原則で、第二原理でその修正を行 う。第一原理は基本的個人の権利の保障である。

つまり、個人の自由を保障し、第二原理の前半 で機会の平等を約束する。そして、その後半が 格差原理で、第一原理・第二原理を適用しても 生じる最も恵まれないものに、再分配を行うと いうものである。

このように個人が既に持っている差異を否定 しているわけではない。それを前提に自立した 人の人格を尊厳として認め、それに相応しい社 会を目指そうというものなのである。

この原理を提示したロールズは、その著書で

(10)

ある『公正としての正義再説』で医療について このように語っている。「医療は、機会の公正 な平等を保障し、処々の基本的な権利と自由を 我々が利用できることを保障するために、だか らまた、我々が全生涯にわたって十分に協働す る普通の社会構成員であるために必要な一般的 手段に属するものなのである」[J, Rawls, 2001, as Fairness: A Restament(Harvard University Presss)田中成明編 P304 から引用]としている。

医療の供給を、基本財の場合と同様に、権利と 自由を保障するものとしているのだ。つまり、

医療も機会の平等を保障するための基本財と位 置付けているのである。

社会を構成する普通の社会構成員の生活が脅 かされるような状況になれば、普通の生活を取 り戻させる緊急性が生じる。このような緊急性 は、機会の公正な平等の原理から、解決されな ければならない。その緊急性が病なら、治療の ための医療は保障されなければならない。この 緊急性が、医療が基本財である証左である。そ の一方で同じ医療であっても、緊急性を伴わな いもの、例えば美容整形は必ずしも基本財とは 言えない(20)。このように、ロールズは機会の 平等を実現するための基本財として健康を考え ていたのである。

しかし、基本財の判断が緊急性のみによると は、私は言えないと考える(21)。つまり、普通 の社会構成員の生活が脅かされるような状況を 回復するための財なら、それは基本財と考えら れ、医療がそのような要件を備えるときには、

基本財と考えるべきと思うからである。だから、

必ずしも必要でない治療「美容整形等」は別と して、普通の社会構成員としての生活が脅かさ れるような傷病に対する治療は、基本財として

誰にもその補充の機会が提供されねばならない のである。

第二節 健康に置ける平等を哲学する

前節で個人が社会生活を送る上で健康は必要 不可欠であると論じた。では、人が健康を獲得 するためには、どのような方法で資源の配分が 為されるべきなのであろうか。その際の平等に ついて、更に検討していくこととしたい。

第一項 何についての平等か

前項で書いたようにロールズは病で普通の生 活を脅かされるような事情が発生すると、そこ から脱するために医療が保証されなければなら ないとしている。これは平等という点について 解釈すれば、結果の平等に近い。そもそも、平 等は大きく分けると機会の平等・結果の平等の いずれかになると思いがちである。しかし、考 えてみよう。そもそもここでいう平等とは、普 通の生活を取り戻すのに必要なものをケースに 応じて配分するという結果の平等をいっている のであろうか。

平等は評価の方法で違ったものになる。健康 な状態を保てるようにすることが、医療制度に 期待されることであり、それが人の機会の平等 の前提にもなる。平等は人間の尊厳にその根拠 を求めるとしてきた。しかし、これは、結果の 平等をその答えとするのであろうか。そこで、

この点を制度としての仕組みを構築するため に、検討を加えることとする。

健康を損なえば、それを取り戻すために医療 にアクセスできることが必要である。正義のニ 原理では、機会の平等を実現にするために、こ の点を要請することになる。しかし、さらに、

(11)

改めて人間の尊厳を、平等の根拠とするなら、

それに加えて機会の平等の状況に無理に引き上 げるのではなく、自ら選択する自由があってし かるべきと考えられる。

センは平等を評価する変数は複数存在するた め、平等を論ずる際には何のための平等であるか をはっきりさせなければならないとしている(22)。 すると、何のためかといえば、自律した人の自 らの活動のための平等となるのだから、ここで の平等とは個人が自ら選択して自分の機能に応 じた方法で、普通の社会生活を脅かされないよ う生活できるようにする。これが求められる平 等だと考えられる。そのため、各人がその持て る自己の判断に従って、自ら病になればそこか らの回復の方法を選択できるようにすること が、それを実現するための平等となる。誰もが 健康の維持と回復にその内容を理解した上でア クセスできるようにする、つまり、結果がどう なるかではなく、どういう方法をとるかを自ら 判断する自由が平等を保つために望まれるので ある。

第二項 潜在的能力を引き出す機能の平等 誰もが平等に健康の維持と回復に自らの判断 でアクセスできるようにするとは、健康に関し ては、どのような結果になるかではなく、選択 してそのサービスを享受することの平等を実現 できるようにすることである。そうすることで、

人は自分の持つ潜在能力を発揮する条件の一つ が整うのである(23)

人間の尊厳、つまり、人間を無個性に考える のではなく、個々の人格を尊重することが平等 であるとするなら、こうした形での平等が求め られるはずなのである。正義のニ原理の解釈と

も、矛盾するものではない。

このように、健康へのアプローチは、各自が 自らの選択でアクセスできるようでなければな らない。単なる資源の配分なら、資源の受け取 り手の消化能力で無駄が出るのは勿論、極論す ると、そもそも配分が強制されるのは人格を認 めたやり方であるとも言えない。人格を持った 個人が自分の能力を自分の意志で使用するため に、選択して資源「健康」を手に入れ、その機 能を発揮することが、尊厳を認めることになる のである。

センによると、福祉とは人としての生き様で あり、その「やり方」や「生き方」でどんな成 功を収めているかということである。つまり、

その人にとっての問題であり、一般に良いとさ れていることだから、それが与えられれば、そ の人の福祉が充実したものとはならないとして いる。その人にとって福祉が充実したものと なっているかどうかは、「やり方」や「生き方」

を反映するその人の機能ベクトルを何らかの方 法で評価することで、判断されるのである(24)。 つまり、選択し、活用して機能を発揮するこ とを認められて、ようやく人としての尊厳が認 められることになるのである。また、自ら判断 して選択するのだから、苦痛と結果との比較考 量等を各自が判断して治療を選択するとなる。

例えば、この考え方をとると、延命措置の要否 も自ら判断するということになる。

ここまで医療制度には個々の人の平等が実現 するために、どのような点を注意しなければな らないかを検討してきた。しかし、制度は、理 念的注意点だけでなく、実際の制度上の根拠と どう結びつけていくかも考えなければならない。

それが社会制度上の根拠となる生存権である。

(12)

生存権について第一章でも、すべての人間が人 権を行使するために必然的に求められる権利で あると述べた。しかし、実際の運用でその解釈 がどうなっているのかはまた別である。そこで、

改めて、次章でこの生存権と具体的医療制度の 関係について検討を加えることとしたい。

第四章 権利としての生存権と医療制度 既に人が自由に自己を発揮するために市民権 だけでなく生存権が必要なことは検討したし、

そこでの生存権の在り方として、平等の基礎づ けも私なりにしてみた。しかし、現実の社会で それを当てはめるには、現行の生存権の解釈と その背後にある考え方を理解しておかねば実際 的とは言えない。そこで、通説的な生存権の考 えを確認し、その評価と現実的な制度を構築す るための基本的考え方を、まとめてみることと したい。

第一節 現行の生存権の理解とその評価 最初に通説的な生存権についてその考え方を 確認し、そのうえで動向を見ていくこととする。

第一項 現行の生存権の解釈

生存権とは憲法 25 条で「健康的で文化的な 最低限度の生活を営む権利」とされ、条文上は 権利のように読める。これの解釈は、国が積極 的にそれを実現するための義務規定とする考え が通説であった(25)。つまり、目標が示され、そ の目標をプログラムに沿って積極的に実現して いくべきものとするのが、元々の通説であった。

条文上は権利とされているが、権利が満たされ ていないとして、社会に暮らす国民にその実現 を要求する権利とはされていないのである。

学説はプログラム規定説と法的権利説とで対 立していた。最高裁はこのプログラム規定説も しくは、法的権利説の中の抽象的権利説に近い 立場をとっている。だから、下級審で具体的権 利的判断がされても、上級審でそれを覆してき た。生存権にかかわる判断は立法の範疇のもの であり、権利として訴訟でその是非を正すもの ではないという考えをとっているのである(26)。 条文上は権利という体裁をとりながら、それ を確立するには裏付けとなるファンドがなけれ ばならず、その点は司法が判断する立場にはな いとしているのである。従って、立法自身がこ れを権利とする具体的立法をすすめないと、こ の憲法条文を根拠とする権利を主張することの 実現性が乏しいのが実情なのである。

第二項 ニューライトと財政

そもそも社会権を強力に推し進めるには、国 家の介入・規制により、資源の再配分が必要で ある。その行き詰まりから、サッチャー時代の イギリスでは「ニューライト」政策がとられた。

これはイギリスの「救貧法」以来の伝統的な扶 助ではなく、ライト即ち権利と名を打った政策 なので、個人の自由を尊重するようにもみえる。

しかし、サービスを購入するのが権利という形 であり、社会権を市場化して、財政的支出を減 らそうとするものであった。

権利はあっても、その権利とは購入できるも のにとっての権利であって、そうできないもの にとっては、ないも同然の権利とすることで結 局は、自助努力を前提とした小さな政府を目指 す政策であったのである。しかし、実際には福 祉のように公共性が高く、労働集約的で、情報 の非対称性も高いサービスは完全な市場化には

(13)

馴染まず、うまくいかなった。

制度を形作るには財政的裏付けと理念の双方 が必要である。ニューライトは生存にかかわる 権利を認めているようでいて、大きな政府とし て扶助を行っていたことを実質的には市場化す ることで、スピンアウトしたのである。そして、

この市場化は効率化だけではなく、市場化故の 劣悪化も生み出したため、成功とはいかなかっ たのである。

制度を作るにはその財政的裏付けは必須であ り、それも含めて現実的な制度が必要なのは言 うまでもない。しかし、押さえておかねばなら ないのは、理念が明確でなければ、制度変更は その制度の目的を喪失してしまう危険もあると いうことなのである。ニューライトはその証左 となってしまったのである。

以上のように、現行の生存権は条文の権利と いう言葉と実際の運用は異なっていることがわ かる。これは何も日本だけの話ではなく、どこ の国でも直面することなのである。つまり、理 念と財政の緊張関係をどの様に折り合いをつけ ていくのが現実的なのかという課題が、生存権 の実現には需要なハードルなのである。

第二節 制度を考える上での留意点

前項で実際の制度を考えるには理念をないが しろにはせず、できることを行うということが 肝心だと述べた。なぜなら理念が蔑ろにされれ ば、違ったものとなってしまうし、できること からスタートを切らなければ始まらないからで ある。この制度設計に関し、ロールズは現実的 に折り合う点を示唆しているので、それに沿っ て、次に検討を行っていくこととする。

第一項 成熟飽和経済と格差原理

χ2

χ1 a

P

45°

上記がロールズの格差原理を説明する図であ る。χ¹ を最も恵まれた者・χ² を最も恵まれな い者とし、45 度線は両者の利益が相等しい、つ まり完全平等の水準を示している。そして、こ の OP 曲線は、χ¹ の期待がより大きくなるこ とへのχ² の期待への寄与を示し、それと交わ る最高の無差別曲線と交わるとき、格差原理は 満たされるとしている。それが a である。恵ま れ者の報酬は確かにそうでない者のそれより多 くなる。それは恵まれた者は、それだけのコス トをかけているからでもあり、このような努力 へのインセンティブもファンドを作るためには 必要であるからである。しかし、a を超えると、

恵まれない者への配分が下落し、もはや協働に よる互恵性が崩れてしまう。だから、格差原理 ではこのa 点が公正な点とされることになる(27)

制度を考えるとき、それが協働して社会を構 成する者のためにあるとすれば、これはわかり やすい説明である。社会の生産性が向上する限 りは、この期待値が拡大することで、その中で の折りあいをつけながら、理論上の a 点を見出 し制度の財源を考えることになる。経済主義的 な根拠を求める時にも、ある意味親和的な考え 方である。しかし、成熟飽和経済、もしくは、シュ

(14)

リンクしていく社会となれば、a 点はどんどん 0 に近づくことになる。つまり、等しく分配し なければ公正が保てないことになるのである。

このことは、今まで述べてきたことと、公正の 観点も同じことを示唆している。では、平等な 資源配分を行うための仕組みはどうあるべきな のだろうか。それを次に示してみることとした い。

第二項 医療制度に必要な仕組み

医療のための資源がどれだけあれば十分なの か、これは明確なものを示すことはできない。

その基準がないからである。ただ、言えることは、

理念を変えることなく、現実的なものを作るた めにはどうすればよいのかということである。

まず一つには、そもそものそのサービスの性 格からコストの上昇を規制することで、必要な サービスを提供するようにしつつそのコストを 合理的にコントロールすることが必要である。

そういう意味では現行のトリプルスタンダード の価格や、開業医への配分が大きい報酬制度は、

コストを引き上げ、かつ、制度を疲弊させる元 と考えられる。一物一価の原則で対価の制度を 考えるべきだし、医療の核となる場所で働くこ とへの魅力を高める必要があると思う(28)

また、もう一点は日本の制度についてしばし ば赤字とその負担額の多さを指摘されるが、果 たして諸外国と対比してどうなっているのか、

また、他の先進国といわれるところはその財源 をどうしているのかを明らかにすることで、改 めて問題の所在とその糸口を見つけるべきだと 思う。医療制度を対比する場合、GDP に占め る医療費を先進国別で対比すると、日本のそれ は極めて少ない(29)。これで危機とするなら、

財源の集め方に問題があるのではないかとも思 われる。

また、少なくとも、日本では他国と対比して 雇用主の負担が少ない。法人税が高いといわれ るが、赤字なら政府が自由に配分する一般税か ら補てんするが、そのような不明瞭な形より、

その分法人税を下げて、いわば目的税として雇 用主の保険料の負担を高めたほうが、医療サー ビスを受ける側は勿論、保険料負担する側にも 納得感が高まるのではないかと思われる。

そして、医療にかかわる制度は複数並立して いるが、価格体系の一本化とともに、その負担 についても、一般化が望ましいと思われる。現 行のようにリスクの少ない集団は保険料が低 く、そうでないものは高いというのは保険の理 屈からすれば、当然ではあるが、負担者の重荷 を考えると制度を破たんさせる原因にもなる。

現行のやり方では弱者に高負担を求めるという ねじれが生じ、現行の格差社会の進行を考えて も、その一般化が求められている。

最後に

私は損害賠償の業務の中で医療制度の一端を 見ただけで、その制度の専門家でもないでもな い。しかし、そこから関心を持って、周辺を探 るうちに自分が少なくとも建前はこうあるべき と考えていたことが、現実の前に崩れてしまっ た。そこで、改めて理念を自分として調べ、そ れなりに出したのが、今回の見解である。まだ まだ、思い込みや浅学のため、至らない内容ば かりと思う。引き続きこの問題を自分なりに検 討していきたいと考えるので、ご批評、アドバ イスを願うものである。

〔投稿受理日 2011.11.19 /掲載決定日 2011.12.8〕

(15)

⑴  過去の医療過誤としてマスコミが大きく取り上 げた事件で、有罪となった事件は殆ど見られない。

例えば杏林大病院割り箸事件がある。マスコミは 大学病院で割り箸が刺さっているのを見逃すのは 何事とかと、煽ったが、刑事・民事とも無罪となっ た。医療はそもそも危険と隣り合わせであり、訴 訟となれば、現在の医療水準から見て、明らかに 違法性があるかどうかで判断される。従って、医 療の常識ではなく商業的にセンセーショナルな結 果からこのように煽ると、医師も人間であり、ト ラブルを避けようとしてしまう。不正確な情報で も商業主義的に商品とするマスコミの市場原理主 義が医療というインフラを破壊するのに一役買っ ているのは嘆かわしいことでもある。

⑵  毎日新聞 2011 年 10 月2日毎日新聞社説「混合 診療が全面解禁され健康保険制度が崩壊する、と いう人もいる。しかし、サービス分野は各国の国 内制度を前提に、再恵国待遇や内外無差別原則を 協議するものだ」。社説ではこの解説で TPP で 皆保険制度が規制とはとらえられないように述 べ、前向きな対応をすべきとしているが、これだ けではそれが保障されているのかわからない。答 えが明確でないなら、そこを十分確認してから意 見を公にすべきである。

⑶  川北稔編(1997)『岩波講座世界歴史 17 環大西 洋革命』岩波書店「環大西洋革命の時代」P41 ~ 45 アンシャンレジーム下の支配階級の権力闘争が その本質であり、ギルドを廃止するなどして社団 的な中間権力をなくし、権力の一元化は図るもの であった。また、同時にこのような条件下での経 済活動の自由を保障する点に特徴があり、貴族と 富裕なブルジョワジーの妥協であったともいえる。

⑷  川北稔編(1997)『岩波講座世界歴史 17 環大西 洋革命』岩波書店「フランス革命・女性・基本的 人権」P150「人および市民の権利宣言」に言う「人 および市民」とは、成人白人男性市民であった。

それ以外のものは政治的権利から排除されていた。

⑸  竹内章郎(2010)『平等の哲学』大月書店 P8

⑹  高木八尺・末延三次・宮沢俊義編(1957)『人 権宣言集』岩波文庫 P129 ~ 131 人および市民 の権利宣言(1789 年)この宣言は個人主義的・

市民階層中心の傾向を持ち、個人の自由・所有権・

安全及び圧政の抵抗を認め、旧特権階級の身分の 廃止を主張するもので、法の前の平等を言ってい る。人および市民の権利宣言では平等について次 のように規定されている。「第6条…すべての市 民は、法の目からは平等であるから、その能力に 従い、かつその特性および才能以外の差別を除い て平等にあらゆる公の位階、地位および職務に就 任することができる。」

⑺  カント(1950)『啓蒙とは何か他四篇』篠田英 雄訳 岩波文庫「理論と実践」P147 ここでカ ントは所有権や相続権を正当なものとしている。

カントが、才能、努力、幸運によって、持つもの と同等の資格をえることを妨げてはならないとし ている。この時代の考え方をここから読み取れる。

⑻  高橋和之(2005)『立憲主義と日本国憲法』有 斐閣 P29

⑼  竹内章郎(2010)『平等の哲学』大月書店 P133 1946 年の憲法改正賞委員会で、「幸福追求権を行 使しようとして、独自の生存権保障がなければ幸 福追求が不可能なものが多数いる。まっとうな生 存が可能なように貧者を救済せずして、国民主権 の意味はない」と、森戸辰男委員が述べ、元々 GHQ の憲法草案になかった生存権が組み入れら れることになった。

⑽  田村正勝(2007)『社会科学原論講義』早稲田 大学出版部 P59 ~ 62

⑾  田村正勝(2000)『新時代の社会哲学』早稲田 大学出版部 P239 ~ 240

⑿  カント(1960)『道徳形而上学原理』篠田英雄 訳 岩波文庫 P101

⒀  カント(1950)『啓蒙とは何か他四篇』篠田英雄 訳 岩波文庫「人類の歴史の憶測的起源」P62 ~ 63

⒁  カント(1960)『道徳形而上学原理』篠田英雄 訳 岩波文庫 P116 「あるものが目的自体であり うるための唯一の条件をなすものは、…内的価値 即ち尊敬を備えているのである」

⒂  竹内章郎(2010)『平等の哲学』大月書店 P20 ~ 22

⒃  竹内章郎(2010)『平等の哲学』大月書店 P16 によれば、 ハイエク(1986)『自由の条件』『ハイ エク全集』7巻〔64〕9巻[102]「血縁や生まれ などの運や先天的特質は個人や家庭の自己責任だ から、血縁や生まれの不運などには個人的に対処 せよ。逆に先天的資質や過程の恵みも個人的に享 受すればよい」

(16)

⒄  高橋和之(2005)『立憲主義と日本国憲法』有 斐閣 P256 ~ 257 個人の尊厳は本来各人の経済 活動による私的自治で獲得されるべきものである が、実際には生存の確保さえ困難な場合が多々出 ることから、国家がサポートするものとされてい る。あくまで、主体は個人の自立にあり、国はサ ポートする存在として生存権が憲法上規定されて いる。

⒅  カント(1960)『道徳形而上学原理』篠田英雄 訳 岩波文庫 P115 ~ 119 理性的存在者は尊厳 という理念で行為する。この尊厳とは、何か外の 等価物で置き換えることができないものである。

結果や効用にかかわりなく、全くの真意からの行 為で自分自身を開示しようとする道徳的尊厳に関 して、尊厳を認めるのである。

⒆  J. ロールズ(1958)『公正としての正義』田中 成明編訳 木鐸社 P32

⒇  J. ロールズ(2004)『公正としての正義再説』

田中成明編訳 岩波書店 P304 ~ 306

 全ての人に必要な医療は何も緊急性のある場合 だけではない。慢性病は、必ずしも緊急性を伴う とは言えないが患えばだれでも治療を必要とする。

 アマルティア.セン(1999)『不平等の再検討  潜在能力と自由』池本幸生外訳 岩波書店 P30 ~ 33

 N. ダニエルズ、B. ケネディー、I. カワチ(2008)

『健康格差と正義』児玉聡監訳 勁草書房 P5 健 康問題は医療制度だけで解決できるものではな い。人が生きていくうえで必要なもっと上流に位 置する事柄も含めた取り組みが必要なのである。

例えば、基礎教育や物質的貧困の水準、健康な労 働環境に、政治の善が必要なのは当然である。

 アマルティア.セン(1988)『福祉の経済学財 と潜在能力』鈴村興太郎訳 岩波書店 P44  我妻栄(1974)『法学概論』法律学全集 2 有

斐閣 P121 ~ 123「この規定の目的を達成するた めに、…(国は)適当な設備を設け、施策を実行 しなければならない」と解釈し、国の積極的義務 を認めた。

 樋口陽一外(2011)『新版憲法判例を読みなお す下級審判決からのアプローチ』日本評論社 P179 ~ 180

 J. ロールズ(2004)『公正としての正義再説』

田中成明編訳 岩波書店 P105 ~ 110

 日本の医療制度での医療費は、自由診療、労災 保険診療、社会保険診療と大きく分けてこの3種 の方法があり、同じ治療行為に対し、異なる価格 付けを行っている。そして、この順に対価が逓減 する。

 武内和久・竹之下泰志(2009)『公平・無料・

国営を貫く英国の医療改革』集英社新書 P23

参考文献

Immanue,Kant,1784,Beantwortung der Frage:Was ist aufklarung.(= 篠田英雄訳 1950『啓蒙とは何か 他四篇』岩波書店)

Immanue,Kant,1785,Grundlegung Zur Metasphysik der Sitten.(= 篠田英雄訳 1960『道徳形而上学原 理』岩波書店)

J,Rawls,1957 Justice as Fairness(= 田 中 成 明 編 訳 1979『公正としての正義』木鐸社)

J,Rawls,2001,as Fairness:A

Restament(Harvard University Presss)(=田中成 明編 (2004)『公正としての正義再説』田中成明 編訳 岩波書店

AmartyaK,Sen,1992 Inequality

Reexamined(= 池本幸生編訳 (1999)『不平等の再 検討潜在能力と自由』岩波書店)

AmartyaK,Sen,1985 Commodities and Capabilities

(= 鈴村興太郎訳 (1988)『福祉の経済学財と潜在 能力』岩波書店)

Norman Daniels,Bruce Kemmedy,and Ichiro Kawachi 2000 Is Inequality Bad for Our Health

(=児玉聡監訳 (2008)『健康格差と正義』勁草書 房)

高橋和之 (2005)『立憲主義と日本国憲法』有斐閣 高木八尺・末延三次・宮沢俊義編 (1957)『人権 宣言集』岩波文庫

武内和久・竹之下泰志 (2009)『公平・無料・国営 を貫く英国の医療改革』集英社新書

竹内章郎 (2010)『平等の哲学』大月書店

田村正勝 (2007)『社会科学原論講義』早稲田大学 出版部

田村正勝 (2000)『新時代の社会哲学』早稲田大学 出版部

樋口陽一外 (2011)『新版憲法判例を読みなおす下 級審判決からのアプローチ』日本評論社 我妻栄 (1974)『法学概論』法律学全集 2 有斐閣

参照

関連したドキュメント

と言っても、事例ごとに意味がかなり異なるのは、子どもの性格が異なることと同じである。その

(( .  entrenchment のであって、それ自体は質的な手段( )ではない。 カナダ憲法では憲法上の人権を といい、

自閉症の人達は、「~かもしれ ない 」という予測を立てて行動 することが難しく、これから起 こる事も予測出来ず 不安で混乱

今日は13病等の短期入院の学生一名も加わり和やかな雰囲気のなかで

としても極少数である︒そしてこのような区分は困難で相対的かつ不明確な区分となりがちである︒したがってその

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

にちなんでいる。夢の中で考えたことが続いていて、眠気がいつまでも続く。早朝に出かけ

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので