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経済理論からみた高橋財政の特徴

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(1)

経済理論か らみた高橋財政の特徴

経済学研究室 藤

I

はじめに 一 問題 の所在 一 Ⅱ 第

1次

世界大戦以後 における日本経済 と経済政策の課題 Ⅲ 経済理論か らみた井上財政 と高橋財政 Ⅳ 欧米 の経済理論 と高橋財政

V

高橋是清 の経済政策論 と金解禁政策 Ⅵ 高橋是清 の経済政策論 と金輸 出再禁止政策 Ⅶ ケインズ経済理論 の高橋財政 による日本的変容

I

は じめ に …― 問 題 の 所 在 ― 本稿 の課題 は,1930年代 のわが国で高橋是清蔵相 によって実施 された財政経済政策,いわゆる「高 橋財政」 を経済理論か ら特徴づ けることにある。 その際

,こ

こにい う経済理論 には

, 2つ

の意味 をもたせている。 第

1は ,欧

米 の経済理論 とい う意味であ り,と りわけケイ ンズ経済理論 と高橋財政 との比較か ら, 高橋財政 の特徴 を究明 しようとす るものである。 もっとも

,ケ

インズ経済理論が 日本で はじめて紹 介 されたのは明治 にさかのぼるが

,広

くケインズの名 と彼 の経済理論がわが国で知 られ るようにな ったのは1920年代以降の ことに属す る。 その時 には

,ケ

イ ンズに限 らずアーヴィング・ フィッシャ ー (IrVing Fisher)ゃ グスタフ・カッセル (Gustav Cassel)等 の欧米 の経済学者の経済理論が

,日

本で盛 んに翻訳 され流布 された。そうなった主な理 由には

,世

界的な再建金本位制 の動向に運動 し て行 なわれた金解禁論争 にあつた ことは言 うまで もない。わが国の再建金本位制三金解禁の非妥当 性 をめ ぐる経済理論的 うらづけを

,こ

れ ら欧米 の経済理論 に求める理論活動が活発 になっていたか らである。金解禁 をめ ぐる政治舞台での攻防戦 に呼応 して

,石

橋湛 山や高橋亀吉 な ど東洋経済新報 社 に集 まった経済学者 を中心 に活発 な論争が くりひ ろげられた。本稿で は

,こ

うした経済理論のな か に高橋財政 を位置づ けてみたのである。 第2に

,高

橋財政 の経済理論的特徴 を浮 き彫 りにす るにす るとい う意味か ら

,経

済理論 という用 語 を用いた。 そ こには

,高

橋是清 の経済理論 は

,決

して欧米経済理論か らの借 り物 で はなかった こ とが意味 されている。高橋 の経済理論 は

,彼

が政友会 の伝統的な積極的財政経済政策 におけるリー ダー としての経験か ら

,次

第 に彼 の頭 のなかで理論化 されていった側面の方が

,は

るかに強かつた 安

(2)

藤田安一 :経済理論か らみた高橋財政の特徴 のである。政友会 の地方利益 に対す る積極的な政治的対応 は

,日

露戦争後 における全国各地の産業 基盤開発への諸要求 とともに顕著 になって くるが

,政

友会 はこの要求 を

,鉄

道敷設 とか港湾修築, 橋梁架設 な どによって応 え

,郡

部農村地帯 の支持 を急速 に広 げていつた。 こうした政友会 の経済政 策 に高橋是清 は経済閣僚 として参画 し

,彼

の経済理論 を次第 に体系化 していつたのである。 本稿で は

,以

上の第 1と 第2の点 を統一 して考察 しようとした。すなわち

,高

橋是清 は当時 日本 が置かれた経済状況 と彼 の実践的経験 の中か ら

,ケ

イ ンズの経済理論 に通づ る有効需要論 を導 きだ し

,高

橋 は彼 の経済理論 を正当化す る裏付 けとして

,ケ

イ ンズ等の欧米経済学者 の経済理論 を利用 した ことを本稿で強調す る とともに

,高

橋是清の財政経済政策である高橋財政 は

,ケ

インズ理論 そ の もので はな く

,高

橋財政 によるケインズ経済理論 の 日本的変容 の実態 を明 らかにすることに重点 を置いた。 これによって

,従

来か ら通説 として言われているような

,高

橋財政 はケインズ理論 の 日 本での実践であ り高橋是清 は日本 のケイ ンズである,とい う見解(1)を批判的に検討することを意図 し たのである。

H

1次

世 界 大 戦 以 後 に お け る 日本 経 済 と経 済 政 策 の 課 題 第

1次

世界大戦 によって,「漁夫の利」的に戦争景気 を享受 した 日本資本主義 は

,1920(大

正9)年 本格的な戦後恐慌 にみまわれた。終戦 とともに狭 まった国内市場が

,戦

時中に水ぶ くれ した生産力 との矛盾 を早 くも露呈 したのである。つづいて22年 には

,大

阪の株屋石井定吉商店 の破綻 をきっか けとして銀行恐慌がお こり

,翌

年23年の関東大震災の打撃が癒 えないうちに勃発 した金融恐慌 は, 文字 どうり全国各地の銀行 を破綻 させ

,時

の若槻礼次郎 内閣 をも倒壊 させ る大事件 に発展 した。 以上 のような第

1次

世界大戦以降の過程 を経て

,独

占資本 は徐々 に強化 され

,日

本 の金融寡頭制 支配 は確立す る。 とはいえ

,国

民経済 はこの頻発す る恐慌 によって疲弊 しつづ けた。恐慌 のたび ご とに行 なわれた政府 の救済 インフレ政策が

,か

えつて水脹 したわが国の経済体質 の抜本的整理 を遅 らせたか らである。 この脆弱 な体質が

,対

外的 にわが国の物価 を高位 に保 つ ことになったため

,輸

出が不振で輸入超過 をつづ け

,正

貨 の絶 えざる流出 と為替相場 の動揺 をひ きお こした。 これが原因 で

,再

び 日本経済 の体質改善が遅れ るとい う「悪循環」 を くり返 していたのである。 そ こで

,こ

の悪循環 を絶 ち きるために

,金

融資本 の一層の発展 を基礎 として長年の懸案であつた 金解禁 を断行す ることによって「財界 の整理」を一挙 に行 ない,「世界経済 の常道」への復帰 と「国 民経済 の抜本的立て直 し」 を同時 に図 ろうとい うのが金解禁のね らいであった。 しか し

,当

時の支 配層 の大部分 は

,こ

うした療法で はもはや治癒で きない ところまで

,わ

が国経済の危機がすすんで いることに気がつかなかった。 まもな く襲来 した昭和恐慌 は

,こ

の経済的危機 を日本資本主義の体 制的危機 にまで

,決

定的 にお しすすめることになる。その危機 に対処 しなが ら

,い

かに資本主義体 制 を護持 してい くか ―― この課題 を共通項 にしなが ら,「井上財政」と「高橋財政」は展開するので ある。 井上準之助大蔵大臣による財政経済政策=「井上財政」と高橋是清大蔵大 臣による財政経済政策

=

「高橋財政」 とが展開す る基盤 と

,彼

らが直面 していた経済政策 の課題 は以下の とうりであった。 戦前 のわが国において

,1920年

代 の後半か ら30年代 の初 めにか けての時期 ほ ど

,大

蔵大臣の地位 と権限が強化 された時 はない。当時

,日

本 の行政機構 の中で

,経

済政策 を担当す る機関 としては大 蔵省 の外 に商工省や農林省があったが

,大

蔵省 は予算 を編成す る権限 を握 っていたため

,各

経済行 政 を総合的に調整す る機能 を果た していた。 したがって

,そ

の長である大蔵大臣 は

,経

済政策の総

お け る︲

第. ︲

撒鋼

た す︲

Iコ 64 どめ とヤ│

(3)

鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第46巻 第

1号 (1995) 37

括責任者 としての地位 にあった。か くて

,第

1次

世界大戦時の繁栄 と戦後 の恐慌

,金

融恐慌か ら昭 和恐慌へ とゆれ動 く日本資本主義 を背景 に経済政策 の重要性が増大す るにつれ

,大

蔵大臣の閣内に おける発言力お よび行政機構 内における地位 も次第 に強化 されていった。 具体的 に分類す る と

,こ

のような大蔵大臣の地位 と権限の向上 は

,第

1次

世界大戦以降の日本資 本主義が直面 した次の3つの政策課題 に起因す る。 第1に

,第

1次

世界大戦 とその直後 の戦後恐慌 を契機 として成立 した日本独 占資本 を

,い

かに強 化・ 発展 させてい くか とい うことである。 この課題 は

,金

本位制復帰 の国際的流れ を背景 として

,国

際金融資本 との協調 と対抗 のなかで, わが国の独 占資本 の命運 をか けた金解禁政策

=「

日本資本主義発達史上

,少

な くとも第

2次

大戦以 前 における

,最

大規模 の貨幣・ 金融論争」121と して展開す る。

2は

,農

業・ 中小企業問題や

,労

働 問題への対応 としての社会政策的課題が重視 され るように なって きた ことである。 まず農業分野で は

,第

1次

世界大戦 による農産物価格 の高騰か ら一変 して

,1920年

代 の戦後恐慌 は農産物価格 の暴落 を招 き,そのために小作争議が激化 し農民組合 の結成 も急速 に前進 した。また, 独 占資本 の強化 による大企業 の成長が

,対

極 としての中小企業 との経済的格差 を拡大す る

,い

わゆ る「経済 の二重構造」 を深刻 にした。 さらに

,労

働分野で は

,第

1次

世界大戦後 の重化学工業部門 の発展が

,労

働者 の量的増大 をもた らしただけでな く

,質

的にも大正デモ クラシーの影響 を受 けて 発展 し,「冬 の時代」か らようや く脱 して労働運動活性化の時期 を迎 えたのである。政府 は以上の動 きに対 して

,一

方で は苛烈 な弾圧 を加 えると同時 に

,他

方で は農民や中小企業 に対 し,「救済」を名 目とした社会政策 を重要な政策課題 とす るに至 るのである。 第

3は

,国

家財政 と軍事費 との関係 を

,い

かに調整す るか とい う課題である。 確かに

,こ

れ は戦前 をつ うじて膨大な軍事費 の重圧 にあえいで きた日本資本主義 の宿命的課題で あるとさえ言 える。 しか し

,第

1次

世界大戦 を契機 として

,わ

が国 において も総力戦体制 を構築 し ようとす る軍部 の活発 な動 きを牽制 し

,世

界的な軍縮 の流れをわが国に取 り入れ ることは

,時

の政 党政治の力量 と

,財

布 の紐 を握 る大蔵大臣の政治信条がためされ る課題であった。 さらに

,満

州事 変 の勃発 を契機 とす る「軍縮」か ら「軍拡」への転換期 にあたって

,大

蔵大臣には

,イ

ンフレー シ ョンを避 け

,軍

部 の過大 な軍拡要求 を抑 えなが ら財政 をコン トロールす る とい う

,困

難な課題 を果 たす ことが期待 されたのである。 「首相 の代わ りはあって も

,蔵

相 の代わ りはない」K31とは

,高

橋是清の行政手腕 を讃 えた言葉であ るが

,こ

れ は高橋個人への期待 とい うよりも

,政

党政治 を背景 に

,第

1次

世界大戦以降の大蔵大臣 の地位 と権限が高 まる客観的情勢 を象徴 した言葉 として

,受

けとめて もよいであろう。まさに,『大 蔵省百年史』が述べているように,「この時期 は

,大

蔵省 の諸政策がわが国の政治

,外

,経

,社

会 の全般 にわたって極 めて大 きな影響 を及 ばした時代であ り

,ま

た大蔵省 として は井上

,高

橋 とい うはっきりした政策 目標 をもった個性 の強い大臣に率い られた時代であつた」④のである。 Ⅲ 経 済 理 論 か らみ た井 上 財 政 と高橋 財 政 64年間におよぶ生涯の大部分 を

,金

融のエキスパー トとして活躍 した井上準之助の名を歴史にと どめたのは

,た

った

2年

足 らずで失敗に終わつた金解禁政策である。それほど

,金

輸出を解禁する という課題 は

,歴

代の大臣が試みようとして行ない得なかった1920年代の日本資本主義にとって,

(4)

藤田安一 :経済理論か らみた高橋財政の特徴 最大 の争点 の一つであった。

1929(昭

4)年

7月 2日 に成立 した浜 口雄幸民政党内閣 は

,井

上準 之助 を蔵相 に迎 え

,た

だちに宿願 の金解禁 にむけて準備 に とりかかった。 この金解禁 に丼上準之助 を駆 りたてた社会的勢力 の中心 は

,国

際金融資本 と遊休資本 の海外投資 を望 んでいた我が国の金融資本であ り

,さ

らに丼上 の金解禁政策 を支 えた理念 は

,金

本位制への絶 対的信頼 であった ことは良 く知 られている。井上蔵相 の視野 の広 さは

,第

1次

世界大戦後 の国際的 な金本位制への復帰の動向 と

,そ

れに利害 を見出 して きた内外 の金融資本が もつ

,こ

の国際的視野 の広 さに基盤 をお くものであった。 それだけに

,井

上蔵相 の眼 には

,派

手 に立 ち舞 つているこれ ら の資本 こそが

,日

本経済 を支 えている主体 だ と映 って しまう。井上 は言 う一― 「銀行 は現時経済組 織 の基礎 となるものであ りまして,こ れが健実 にしてさへ居れば

,他

の経済機関が相当に痛んで も, 大体経済界 を破壊す るや うな ことはないのであ りますが

,之

れに反 して

,こ

の基礎的の機関である 銀行が疲弊 し,或は支払 い停止 を致 しますれば,この経済界全体 を破壊するという恐れがあ ります。」K51 井上蔵相 の この視点 は

,議

会 において も当時野党であつた政友会か ら,「銀行 ノ狭 イ窓 ロナ ドカラ ー般経済 ヲ見テ居ル」16Jと 攻撃 され

,在

野 の経済学者か らは,「銀行家偏重 の対策」0と して批判 さ れた。「銀行家偏重」の井上蔵相 の視野が財政政策 に反映 され ると

,国

家財政 の収支均衡予算への固 執 となる。井上 は言 う一― 「収入が減 ったな らばそれに応 じて 自分の暮 らしを立て る。政府で申し ます と歳入が減 ったな らば減 った歳入 によって歳出を決 めるといぶのが

,天

下の理法であ ります。 ……歳入が減 った らそれに応 じて歳 出を減 らすのが当た り前であ ります。」

0

しか し

,こ

の井上「緊縮」財政 は金解禁政策 の挫折 とともに

,折

か らの世界大恐慌 の前 に破綻 し ていった。皮肉にも

,こ

の過程で国民経済 の基礎 は銀行で はな く

,日

本経済の根底で金融資本の重 圧 にあえ ぐ膨大 な農民層や中小業者であることが

,明

らかにされてい くのである。井上準之助 は国 民経済 を余 りにも狭 く限定 し

,我

が国の経済構造 を支 える真 の生産力の担い手 を見す える視野の広 さを持 たなかった

,と

いえるであろう。 これに対 して

,高

橋是清 の財政政策の特質 はどこにあるのであろうか。島 恭彦氏 は

,高

橋財政 の特徴 を第1に,「アウタルキー経済の確立 の方向」 をめざした こと

,第

2に,「井上財政 の指導原 理たる財政収支均衡論 の軽視」に求 めている。ちアウタルキー経済への指向 と財政収支均衡論 の軽視 は

,そ

れぞれ井上財政 による国際金融資本 に強制 された金本位制への復帰

,な

らびにその準備 とし ての緊縮財政 とは明 らかな対照 をなす。 前者

,高

橋是清の「アウタルキー経済指向論」について

,高

橋 は,「いか に産業 の振興 を外国貿易 によらうとして も世界 の大勢で はこれ を許 さぬ事情 にあ り

,い

づれの国 も自給 自足 に則 とり国内産 業保護 にその振興 の基礎 を求 めや うとしている。我政府の方針 もまた ここにあ り国内産業振興 を主 に貿易 を第二次 に置 く」(10と

,国

民経済 の内包的発展 を外延的拡張 よ りも重視す る立場か ら

,国

民生産力 の保護育成 を経済政策 の根本 にお き

,民

族資本 の経済的利害 を擁護 した。1ち 井上前蔵相が 絶 えず諸外国を引 き合 いに出 して

,金

解禁の正当性 を弁護す るのに対 して

,高

橋蔵相 は,「井上君 は しきりに外国の実例 を引かれるが,それは参考 とすべ きものでお手本 とすべ き筋合のものではない。」。り と言い

,ま

た「産業政策上

,対

外関係 のみに重 きを置 きて

,対

内関係 を忘却す るのは本末 を転倒す るものであ ります。」(10と述べて

,日

本 における国内産業 の特殊性 を踏 まえた財政経済政策 の必要性 を強調 したの も

,以

上 の理 由か らである。 この視点か らさらに高橋 は

,答

立す る少数独 占資本 の裾野 に

,小

規模農業 と中小零細企業が広範 に存在す るとい う日本経済の構造的特徴 を踏 まえて,「日本資本主義の藩屏」たるこれ ら中間層が, 昭和恐慌 によって劇的な没落 を遂 げつつある事態 を注視 した。高橋是清 は言 う一― 「我国の農村,

中刻

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Щ

(5)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 46巻 第

1号

(1995) 中小商工業者等 の状態 を見 ると

,何

は兎 もあれ彼等 をして健康状態 に復せ しめ

,働

かせ るや うにす るのが第一であつて…」(1° o「どうして も農村振興策 を とり

,農

村 の購買力の増進 を計 らねばな らぬ と信 じている。即 ち

,我

が国 は英国な どと違ひ

,農

村人 には全人 口の半数 を占めているので

,農

家 経済 の消長が国民経済 に及ぼす影響 は極 めて大である。か くの如き事情 にあるので

,農

村経済の行 詰 りとなるのである。」°° こうした高橋是清 の農民保護 と中小企業擁護 を標榜 した立場 は

,な

るほ ど「国民経済」 を把握す る上で

,井

上準之助 と比較 した高橋 の視野 の広 さ と認識 の深 さを示 してお り

,当

時の現状認識 にお ける一つの立脚点 をなす ものであつた。 しか し

,高

橋是清が農民や中小業者 を国民経済 を担 う重要 な構成部分 として認 め

,彼

らの経済的改善 を強 く主張す る理由には

,昭

和恐慌 によつて体制的危機 に直面 した 日本 の統治機構 を

,国

内の独 占資本 の利益 にそいなが ら

,広

範 に存在す るこれ等中間層 の協力 をとりつけて再建 しようとす る意図 を読 み取 ることは容易であろう。ここに

,体

制内改良主 義者である高橋是清 の基本的姿勢が示 されてい ると同時 に

,そ

の頃 この中間層 を社会的共鳴盤 とし て

,急

速 に台頭 しつつあつたフアシズム勢力 に利用 され る「高橋財政の悲劇」が内包 されていると 見 ることカミで きよう。 他方

,井

上準之助 の収支均衡論 に対 して

,高

橋是清 は国家の経済 を個人 の家計 と区別 し

,国

家財 政が有効需要 を創出す る機能 を持 ってい ることを重視 して

,つ

ぎのように批判 した。 「緊縮 といぶ問題 を論ず るに当っては

,先

づ国の経済 と個人経済 との区別 を明 らかにせねばな ら ぬ。例へば│こ に

1年 5万

円の生活 をす る余力 のある人が

,倹

約 して

3万

円を以て生活 し

,あ

と2万 円は之れ を貯蓄す る事 とすれば

,其

の人 の個人経済 は

,毎

年それだけ蓄財が増 えて行 つて誠 に結構 な ことであるが

,是

れ を国の経済の上か ら見 る時 は

,其

の倹約 に依 つて

,是

れ迄其 の人が消費 して 居 つた

2万

円だけは

,ど

こかに物資の需要が減 る訳であつて

,国

家 の生産力 はそれだけ低下する事 となる…是れ等 の人々が職 を失ふ事 は

,や

がて購買力の減少 とな り

,か

や うの事が至 る所 に続出す れば

,そ

れに直接関係 な き生産業者 も

,将

来 に於 ける商品の需要の減退 を慮 って

,自

分の現在雇用 せ る労働者 を解雇 して

,生

産量 を減少す るや うになる。その結果 は

,一

般 の一大不景気 を招来す る に至 るのである。か くの如 き事 は国家経済 の上か ら

,余

程考慮 を要す る事柄である。」(19 井上準之助 のように

,国

民経済 を個人経済 と同一視 し財政 の均衡 を重視す ると

,マ

クロ経済で は 縮小均衡 に落 ち込み

,失

業 の増大 はさけられない。 これに対 して高橋是清 は

,社

会が不況 の時には 財政 その もののバ ランスよりも

,財

政 に積極的な有効需要創出機能 を与 え

,デ

フレギャップを埋 め マ クロ経済 のバ ランス を図 るべ きであることを強調 した。 ここには

,財

政 それ 自体 に存在価値 を認 めるので はな く

,国

民経済 との相互関係 において財政のあ り方 を問題 とす る

,高

橋是清 の経済理論 の特徴 を見出す ことがで きる。

IV

欧 米 の経 済 理 論 と高橋 財 政 このような考 え方 は

,ケ

インズによつて理論化 され

,ア

メリカのニユーデイール政策やナチスの 経済政策に応用された。 もっとも

,ケ

インズの『一般理論』(J,M.Keynes,The General Theory of

Employment,Interest and MOney)力

半J行されたのが1936年のことであり

,高

橋是清が暗殺され

た年であることか ら

,高

橋 は『一般理論』に触れるべ くもなかった。 しか し

,つ

ねに対外情勢に注 目し

,英

字新聞をはじめ海外の文献 に眼をとおす ことを怠 らない旺盛な読書家であつた高橋が

,ケ

インズ理論に結実する経済財政理論 に接 していたことは十分予想できる。事実

,高

橋是清の書いた

(6)

藤田安一 :経済理論か らみた高橋財政の特徴 文献 を検討す る限 り

,高

橋が「『ケー ンズ』の説 は総て承服す ることは出来 ぬ。 あれには英米資本家 の説が加 はって居 った もの と推断す る余地が十分 にある。」(1つとして

,ケ

インズの名前 と彼 の所説 に 注 目す るのは

,第

1次

世界大戦後 の国際金本位制 の復帰の現実 を反映 して

,華

々 し く展開 された国 際論争 を通 してであった。 もっ とも

,日

本で最初 にケインズの論文が紹介 されたのは

,古

く明治期 にまでさかのぼることが で きる。だが,ケインズの名がある程度 日本で知 られ るようになったのは,『平和 の経済的帰結』(The

Economic Consequences of the Peace,1919.)や『賀幣改革論』(A Tract on Monetary Reform, 1923.)が

,ゎ

が国で紹介・邦訳 されてか らであるといわれている。『平和 の経済的帰結』は1920年に 『東洋経済新報』誌上で

,石

橋湛 山によって詳 し く紹介 され,『貨幣改革論』は1924年に岡部菅司・ 内山直訳で,『貨幣改革問題』として公刊 された(19。 ケインズ は上記の著書 において

,金

本位制 の欠 陥を鋭 くつ き

,国

際金本位制への復帰 に反対 し

,国

内物価 と信用および雇用の安定 を重視する見地 か ら

,通

貨 の管理 を主張 していたのである。 さらに

,高

橋是清がつねづね

,欧

米 の経済学者の所説 に深い関心 を払 っていた例 として,高橋 は1933年 の第28回手形 の交換所連合会 における演説 の中で,

アメ リカのエール大学 フィッシャー (Ir lag Fisher)教授や

,シ

カゴ大学での研究会の所論 を翻訳

させ

,貴

衆両院議員や実業家 に配布 した と述べている。9。 これな どは

,高

橋是清 の欧米経済理論 に 対 す る関心の深 さを示 しているといえよう。 以上 の ことは

,高

橋是清が 自己の積極的財政政策 の理論的基礎づけに

,広

く欧米 の経済財政理論 を摂取 していた ことを物語 っている。 しか し

,そ

れ は高橋が 自らの経済理論 を

,海

外の経済理論 に よって確立 した ことを意味す るもので はあるまい。む しろ私 には

,高

橋が政友会 の伝統的な積極的 財政経済政策 におけるリーダー としての経験が

,次

第 に高橋 の頭で理論化 されていった側面の方が 強かった と思われ る。政友会 の地方利益 に対す る積極的な政治的対応 は

,日

露戦争後 における全 国 各地 の産業基盤開発への諸要求 とともに顕著 となって くる。政友会 はこの要求 を

,鉄

道敷設 とか港 湾修築

,橋

梁架設 な どによって応 え

,郡

部農村地帯 の支持 を急速 に広 げていった。高橋是清が政友 会 の この具体的政策決定過程 に

,ど

のように参画 していったか は定かで はない。しか し

,高

橋が「財 政経済通 の少かった政友会 の事 とて

,間

もな く其財政経済政策立案実行上 の中心人物 となった」¢ω ことは明白であ り

,政

友会 内閣の閣僚 としての幾多の実践活動が

,前

述 の経済理論 に体系化 されて いったのであろう。 ともか く

,ケ

イ ンズ理論 をさきどりした高橋 の経済理論 は

,金

本位制 を離脱 し管理通貨制 に移 る ことか らくる経済政策 のフ リー・ ハ ン ドの幅 を広 げ

,積

極的な財政金融政策の展開による景気回復 を可能 にしたのである。 以上の高橋 の考 え方 は

,現

実の政治経済的諸問題 に直面 した時

,ど

のように生か されていったの であろうか。 ここで はその事例 として

,金

解禁政策で とった高橋是清の態度 と

,大

蔵大臣 として金 輸 出再禁止後 の赤字公債発行 にあたって示 した経済政策論 についてみることにしよう。

V

高橋 是 清 の経 済 政 策 論 と金 解 禁 政 策

1917(大

6)年

9月

,第

1次

世界大戦の影響でアメリカが金の輸出を禁止するやいなや

,寺

内 内閣の勝田蔵相 はこれに追従 し急還

,大

蔵省令でわが国の金輸出を禁止 した。戦後の1919年にアメ リカが解禁を断行すると

,ふ

たたびこれに倣ってわが国で も解禁を要望する声が高 まっていった。 しかし

,戦

後不況

,関

東大震災

,金

融恐慌 とうちつづ く社会経済的変動のため

,そ

のつど金解禁を

B

剰 ち つ イヨ 19 助 の 本 ら の 考 ね ひ と 款 地 とこ の き 存 山 当 b 蕩   我 J が

(7)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 46巻 第

1号 (1995) 41

政策課題 にかか げなが ら

,1920年

代 のわが国 は

,結

,金

解禁 を行 な うチャンスを逸 したまま1930 年代 を迎 えるのである。 しか し遂 に

,念

願 の金解禁 は

1930(昭

5)年

1月11日

,浜

国内閣 におけ る大蔵大臣井上準之助 の手で断行 された。だが

,金

解禁準備 のために とられた井上緊縮財政 による デフレ効果 に加 えて

,折

か らの世界大恐慌 の影響 は

2年

足 らずで金解禁 を失敗 に終わ らせ

,国

民経 済 は未 曽有 の不況 にあえ ぐことになる。 金解禁 を要望 し実現 にまで こぎつけて きた背後 には

,政

界か ら財界 そして国民各層 にわたる利害 が複雑 にか らみ合 つていた。 これを反映 して金解禁問題 をめ ぐる論戦 は

,時

間の経過 とともに

,同

一論者が全 く正反対 の立場 に変化す ることさえもめず らし くなかった。々 とえば「実業同志会」(の ちに「国民同志会」と改名

)の

武藤 山治 は

,10年

の間に旧平価解禁即行論か ら新平価解禁論 に移 り, ついに昭和恐慌下 には井上蔵相 に対 し国会論戦やその他評論 において

,痛

烈 な金解禁反対 の論陣 を はるにいたつた。また

,東

洋経済新報 において新平価解禁 を要望 していた石橋湛山や高橋亀吉で も, 1920年代初期 には旧平価解禁即行論者であつた。 さらに

,金

解禁 を断行 した当事者である井上準之 助 さえ

,大

蔵大臣の椅子 にすわ るやいなや

,金

解禁時期 尚早論か ら金解禁即行論へ変化 していつた のである。 このような金解禁問題 をめ ぐって闘つた論者 の中で

,高

橋是清 は終始

,金

解禁 に反対 した特異な 存在であつた。「田中の政友会 内閣末期 になって

,政

友会幹部 の大部分 は金解禁論者 になった。山, 山悌

,久

原皆然 りで

,三

土蔵相 も補 それに傾 いていた。高橋 は独 り金解禁 に反対であつた。」91)と は, 当時の著名 な政治評論家・ 馬場恒吾 の指摘である。 で は

,高

橋是清 を一貫 した金解禁反対論者 にしつづ けた理由は何 だつたのであろうか。 第1は

,中

国支配 をめ ぐる日・ 欧・ 米独 占資本 のなかで

,高

橋が経済的 に優位 に立 とうとする日 本独 占資本 の国際的立場 を重視 したためである。 高橋 は言 う一― 「支那 は今で こそ国乱れ

,混

沌 としているが

,い

づれ は国情安定す る時が来 るだ らう

,そ

の時 に国 を治 め

,民

を鎮 めるためには

,鉄

道 を敷いた り

,産

業 を興 した りして

,先

づ要 る のは金 だ

,支

那がか うして多額 の資金 を外国に求 めるのは

,余

り遠い将来の ことで はない

,

と私 は 考へた。 そしてその場合 に日本が5・

6億

ぐらいの金 を立 ち どころに貸せ るだけの用意 をしておか ねばな らぬ。 さうでなければ世界 の現状か らいって

,英

国か米国のいづれか必ず独 占して貸すに違 ひない。一度英米が支那 を経済的 に征服 して しまへば

,武

力的征服 の場合 と違 って これを覆へす こ とは容易の業で はない。 日本 は列 国に先立 って

,た

とへ列国 と借款団を組織す るにして も

,そ

の借 款団 をリー ドす る立場 に立 たねば駄 目だ。か う考へて

,私

はどうして もこの際

5億

6億

の金 は内 地 に余分 に備 えて置かねばな らぬ と思 った。海外 に置いてある正貸 は

,一

度事があれば

,全

く当て にはな らぬ。だか ら内地 に保有す る金 は極力殖やす ことに努 めて

,出

て行 くことを制すべ しといぶ ので (大正

8年

6月

)米

国が金 の輸 出を解禁 した時 にも

,又

その後金が続々 と我国 に入 って来た と きにも

,我

国の金解禁 は断行す る気がなかった。」°劾 第2の理由 として高橋 は

,国

内的に金解禁 に ともなう緊縮政策が社会 の有効需要 を減 らし

,所

得 と生産 の縮小 をもた らし

,結

果的 に社会的不景気 と失業 を増大 させ

,国

民経済の生産力 を必ず破壊 す るとみたか らである。 高橋 は言 う一―「金解禁の如 き国民経済上重大 なる問題 は今 日断行す ることは到底不可能である, 我国の財界 は一昨年の金融恐慌以来未だ充分 に整理が進歩 されていない

,為

替相場 は悪 く国際貸借 も殆 ど改善 されていない

,今

日若 も金解禁 を断行 したな らば

,我

国の金貨本位制度 を覆 される怖れ があるのみな らず

,経

済界 は大混乱 に陥 り収拾すべか らざる事態 になるであろう。」・ °

(8)

藤田安一 :経済理論か らみた高橋財政の特徴 結果 は高橋 の予想 したように

,政

府 の財政緊縮・ 産業合理化 な ど金解禁のためのデフレ政策が, 折か らの世界大恐慌 と重 なって,「経済界 は大混乱 に陥 り収拾すべか らざる事態」とこなった。 このよ うな情勢 のなか

,1930年

に入 って金輸 出再禁止論が台頭 し

,第

58議会(1930年4月21日∼ 5月14日) 及び第59議会(1930年 12月 24日∼31年3月28日 )において華々 し く議論が展開 され(20,浜 国内閣 は苦 境 に立つ ことになる。 しか し事実上

,金

解禁 を破綻 させた直接的契機 は

,1930年

9月18日に勃発 し た満州事変 と,わずかその3日後 の21日にお こったイギ リスの金本位制の停止であった。とりわけ, イギ リスが金本位制 を停止 した とのニュース は

,や

がてわが国 も金輸 出再禁止 にいたるであろうと の観測か ら

,ナ

ショナル

=シ

テ ィ銀行や三井 をはじめ とす る財閥系金融資本 を

,猛

烈 な ドル思惑買 いに走 らせた。 これに対 して

,井

上蔵相が とった政策 は

,横

浜正金銀行 をして徹底的に売 り向か うと同時 に

,高

金利政策への転換 によって ドル買い用の円資金 の調達 を困難 にさせ ることであった。 この結果 とし て

,1930年

7月 か ら翌年の12月 までのわずか 3カ 月間に

,正

金銀行が売却 した ドル総額 は

7億

6000 万円にものばった。5ち 政府 と金融資本 との間で

,

ドル買いをめ ぐる凄 まじい攻防戦が展開 されたの である。 そのため井上蔵相 は

,金

解禁 による多量 の正貨流出の原因 を金解禁それ 自体 にあるので はな く, 一部 の金融資本家 による ドル思惑買いに求めていた。すなわち

,金

輸 出再禁上があれば日本 の貨幣 の価値が下落す るか ら

,金

の再禁止がある前 に円を売 って ドルを買い

,再

禁止後 この ドル を売 って, その差額で利益 を得 ようとした金融資本家 の思惑 にあるとみた。井上 は言 う一― 「今回の ドル思惑 を為 したる者 は

,一

部 の資本家及び少数 の大銀行であ ります。自ら信用機関の当事者であ りなが ら, 斯 くの如 き挙動 にで ると

,全

く自己の立場 をわ きまえざる者 と言ぶの外 はないのであ ります。」90 さかのぼると

,金

解禁 を最 も強 く要求 したのは,この財閥系の金融資本家 たちであった。しか し, いざ解禁がなされ ると

,彼

らは自己の利益 のため真 っ先 に

,金

解禁の破綻 をまね くドル買いに走 っ たのである。上記 の井上 の言葉 は

,こ

うした金融資本家 たちへの怒 りと無念 さが

,実

によ くにじみ でている。

こうして,井上財政の末期における井上蔵相の眼中には,国民経済全般を見渡す冷静さはおろか

,

恐慌によって苦しむ国民の姿などは全 く視野に入らず

,た

だドル買いを行なう内外の金融資本にい

かに対処するか

,

という戦略しかなかったと言えるであろう。

高橋是清 の経済政策論 と金輸 出再禁止政策

満州事変 とイギ リスの金本位制停止か ら 3カ 月後 の

1931(昭

6)年

12月 13日

,浜

国内閣 に代わ る犬養毅内閣の成立 とともに

,高

橋是清 は大蔵大臣に就任 した。彼 に とって は

5度

めの蔵相であ り, 時 に78歳の高齢 に達 していた。 日露戦争時の膨大な外債発行 を成功 させた功績

,お

よび

4年

前の金 融恐慌 を沈静 させ るにあたって発揮 された財政家 としての高橋 の献身的努力 と手腕 は

,財

界 をはじ め広 く社会が認 めるところであ り

,こ

の時 も好意 をもって迎 えられた。以降

,1986(昭

11)年

の 2・26事件で高橋が青年将校 の手 にかか り非業の死 をとげるまでの財政政策 は

,典

型的な管理通貨制 度下 におけるインフレ財政 の序 曲 として

,日

本財政史上 のエポ ックをなした。 高橋 は蔵相 に就任す る以前か ら

,こ

の不況 の原因が井上財政 による金解禁政策 にあると考 えてい たか ら

,さ

っそ く大蔵大 臣就任 の当 日

,金

輸 出禁止 を大蔵省令 によって断行 し

, 4日

後の12月 17日 には日本銀行券 の兌換 を停止 した。 これによって事実上

,わ

が国 は管理通貨制度 に移行 した。重要

ω

(9)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第46巻 第

1号 (1995) 43

な点 は

,こ

の時高橋蔵相 は自己が とつた金輸 出再禁止 を

,単

なる通貨問題 としてで はな く

,今

後の 景気展望 をにらんだ経済政策 の要 として とらえていた ことである。それゆえ金輸 出再禁止は

,高

橋 に とつて単なる防衛的な措置で はな く

,む

しろ「時局匡救 の第一歩」°のとして

,国

民経済 を救済 し 発展 させ るための積極的政策 その ものであつた。高橋 は金輸 出再禁止 を決意 した理 由を

,つ

ぎのよ うに述べている。 「我国において は一昨年の金解禁後

,予

想外 に多額 の正貨流出あ り

,特

に昨秋イギ リスの兌換停 止以来

,そ

の勢ひ急激 を告 ぐるに至 ったのに

,前

内閣 においては極力即定 の方針 を継続せん と努 め た結果

,我

国の金利 はい よいよ高騰 し

,金

融界硬塞 して産業界の圧迫 は一層甚 だしきを加 えん とし た

,こ

の上国民 に大 なる苦悩 を強ふ るは

,断

じて不可なるのみな らず

,金

兌換制度 を維持せんがた めあ らゆる一切 の犠牲 を国民 に忍 ばしめん とす るは本末 を転倒す るものである上 に

,如

何 に努力 を 続 けて も

,内

外 の大勢 は金輸 出禁止必須 の情勢 にあることが明 らか になるに至 ったので

,現

内閣 は 現下 の国民経済対策 として

,も

っ とも肝要妥当の処置 な りと信 じ

,組

閣 と同時に金 の輸出禁止 を断 行 したのである。」°め 高橋蔵相 はこのような認識 の もとに

,井

上準之助前蔵相 とは反対 の財政膨張政策 をとった。そう す ることによつて

,満

州事変 を背景 とす る軍部 の軍事費増額要求 と

,昭

和恐慌で打撃 を受 けた国内 経済復興 のための財政要求 の両者 を

,同

時かつ併行的 に満たそうとしたのである。 その際

,膨

張す る予算 の財源 を増税 による租税収入 に求 めることは

,恐

慌 にあえ ぐ国民経済 に とってマイナスであ ると判断 して

,高

橋蔵相 は大規模 な赤字公債 の発行 に踏 み切 った。金輸 出再禁止 を前提 に

,低

金利 政策 とこの公債発行 によるイ ンフレ政策 を通 じて景気の回復 をはか ること一― これ こそは

,高

橋蔵 相が描いた恐慌脱 出のシナ リオであつた。 そのためには

,赤

字公債 を金融市場で容易 に消化 させ る とともに

,日

本銀行 の発券能力 を拡大す る必要がある。 この条件づ くりとして

,1932年

3月 か ら日 本銀行 の金利 を

3度

にわたつて引 き下 げる と同時 に

,そ

れに見合 って郵便貯金利子 の引 き下 げを行 なった。 また

,同

年 6月 には

,銀

行券 の膨張 に応ず るため「兌換銀行券条例」 を改正 して

,日

本銀 行 の保証発行限度額 を

1億 2千

万 円か ら一挙 に10億円に拡張す るとともに

,制

限外発行税 の最低利 率 を

5分

か ら

3分

に引 き下 げ

,制

限内発行制度 を廃 して新 たに納付金制度 を採用す るな ど

,日

銀発 券制度 の改革 を行 なった?の。 なかで も特 に注 目され るのは

,赤

字公債 の発行 にあたつて高橋蔵相が新 たに考案 した日銀引受公 債発行制度である。 この制度 は

,以

降の歴史が証明す るように

,金

本位制度下で は事実上不可能で あった「金融 の財政への従属」 とい う事態 を生み出 し

,セ

ン トラル・ バ ンキングた る日本銀行 に と って最大 の使命である通貨価値 の安定 を不可能 にした ものである。 しか し当時

,日

銀引受公債発行 制度 は,「新機軸」とまで言われ一般 にもて はや された。新機軸 といわれた理 由を

,深

井英五 はその 著書 『金本位離脱後 の通貨政策』(千倉書房

,1938年

)の

なかで

,次

のように述べている。「国債募 集が困難 となった ときに

,中

央銀行が募集額 の大部分 を引取 り

,若

し くは中央銀行 の政府貸上 を以 て国債募集 に代へ るのは幾多先例 のあることだが

,大

胆 に始 めか ら日本銀行引受の方法 を以て国債 を発行 し

,市

場 の状況 によ り之 を売 り出す ことを工夫 した る所 に新機軸 と云 うべ きものが ある。」 (359∼ 340ページ) 要す るに日銀引受公債発行制度 は

,従

来 のように

,い

きな り政府が公債 を市中に売 り出 し民間資 金 を吸収すれば

,景

気 をいっそう冷 えこませて しまう。 そこで政府 は

,ま

ず公債 を日本銀行 に引 き 受 けさせ

,そ

れで手 に入れた資金 を沈滞 している産業界 に供給す る。 その後

,景

気 の回復 を待 ち, 民間に公債 を買 う余裕が出来た時期 をみはか らって

,日

本銀行が政府か ら引 き受 けた公債 を市中に

(10)

藤田安一 :経済理論か らみた高橋財政の特徴 売 る (いわゆるオープン・ マーケッ ト・ オペ レー ション

)と

い う仕組 みである。 そうすればインフ レを助長 しないで景気 の回復が はかれ る。高橋是清蔵相 はこうした確信 にたって

,1932年

11月か ら 日本財政史上初 の歳入補填公債 (いわゆる赤字公債

)の

発行 を開始す ることになる。以降

,毎

年10 億 円づつ増加 した公債 は,歳入 における国債依存度 を1932年 には前年の

7.8%か

ら一挙 に

32.2%に

増 大 させ

,1935年

の国債残高 を98億円にした°°。いわゆる「公債100億円時代」の到来である。 Ⅵ

I

ケ イ ンズ 経 済 理 論 の 高 橋 財 政 に よ る 日本 的 変 容 イ ンフレーションの生産的効果 を見越 して発行 された これほ ど膨大 な公債が

,国

民経済 の発展 を もた らし

,公

債 自身の消化 も順調 に行 なわれてい るうちは問題 はない。事実

,国

債残高の急激 な累 積 にもかかわ らず

,こ

の間わずかな銀行券発行高の増加 をみただけで

,物

価指数 は1936年頃 まで ほ ぼ安定 していた。他方,1931年か ら36年 までに鉱工業生産指数 は,1935年を100とす ると1981年 62.2 か ら1936年 の110.5へ と約2倍の急成長 を とげ

,貿

易額 も24億 9800万円か ら57億 2200万円・ 1)と

2倍

以 上 の増大 を示 し

,国

民所得 は99億 900万円か ら133億 7800万円°うへ と増加 した。 これ は

,財

政 その も ののバ ランスを重視す るよりも

,国

民経済 との関係で国家の財政活動 を評価 しようとす る

,高

橋是 清 の経済理論が もた らした高橋財政の成果である。 で は,イ ンフレを抑 え,こ うした国民経済の発展 を可能 にした理 由はどこにあったので あろうか。 それ は幸 いにも

,こ

の時期

,日

本が「物資生産力余裕 の時代」。0にあったか らである。すなわち, 第

1次

世界大戦中に蓄積 された生産力が

,後

の軍縮 によって余力 を残 していたの と

,浜

国内閣の産 業合理化運動 によって遊休資本が存在 し

,わ

が国の生産力 に余裕があつたためである。 これが

,高

橋財政 による膨大な赤字公債 の発行 にもかかわ らず

,極

カインフレを抑 えなが ら国民経済 の回復が はか られ

,か

つ公債 の順調 な消化 を可能 にした経済的基盤であった。 しか し

,高

橋財政 を「成功」 に導いた この基盤 は

,そ

う永 くは続かなかった。高橋 自身 も当初か ら

,赤

字公債 の発行 を継続 してい くつ もりはな く

,や

がて景気が回復す るにつれて

,そ

の歴史的使 命 を終 えるもの と考 えていた。高橋 は言 う一― 「赤字公債 はよ くない。 しか し一昨年来 の経済界 の 情勢か ら見て

,政

府が まず刺激剤 を与 えねばな らなかったのである。金融 は極度 に梗塞 して資金 は 得 られず

,資

金 のあるもの も事業 を拡張す る勇気 も挫 けている有様であるか ら

,そ

れ故 に刺激剤 と して赤字公債が生 まれたのである。」。つ したがって,「赤字公債 の発行 は健全財政 に立直 るための手段」。9で あ り

,赤

字公債が国民経済 の 「刺激剤」 として

,そ

の役割 を果た した後 は漸減 され るべ き対象であつた。 したが つて また

,日

銀 引受公債発行制度 も高橋 には

,は

じめか ら「一時の便法」であ り「臨機処置」にす ぎなかった。ω。 この点 を

,長

年 日銀副総裁お よび 日銀総裁 として高橋蔵相 の片腕 となって金融通貨政策 を担 って き た深井英五 は,「高橋大蔵大臣の財政計画 には,日 本銀行 の国債引受発行 と国債発行 の漸減 とが最初 か ら趣 旨 として併行 して居たのである。」。つと述べている。 しか し

,高

橋 の公債発行漸減 による「健全財政再建」の見透 しは

,す

で に大幅 に狂い始 めていた。 高橋 は言 う一― 「財政 の根本的建直 しの時期 に就いて

,私

は一昨年頃 (昭和

8年

)に

,昭

和10年 度の予算 を編成す る頃 に至れば是 に着手す ることが出来 るので はないか と期待 して居た

,又

出来れ ば洵 に結構 だ と思 って居 た。然 るに其後 内外 の情勢 は変 って来 た。… …満州事件費 その他軍費 に付 て は幾 らか段々減少す るもの と思って居 た

,そ

の間内外 の情勢 は私の考へて居た所 と非常 に変 つて 来た

,そ

こで当時財政の収支均衡 を得 さしむることを第一 として重点 を置いて居 た私の考 は変 り, 羽 刊 ﹃ ︱ 鶉 列 ョ 赳 Я 碧 ラ 確

(11)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 46巻 第

1号

(1995) 財政 の収支均衡維持 よりも

,も

っ と目前 に迫 った緊急の支出を認めねばならな くなった。……今日 で も早 く財政の収支の均衡 を維持する方向に行 きたいと勿論希望するが

,今

後国際間の関係

,内

外 の情勢が どう変化 して行 くか

,少

な くも経済上 の ことは国際関係 は前途暗黒である

,見

通 しが付か ない。」。9 上記高橋 の発言 は

,一

見す ると井上準之助 の主張 を聞いているかのような錯覚を与 える。「時局匡 救 の第一歩」 として

,金

本位制 の停止 を宣言 し赤字公債の発行 に踏みきった時の高橋か らは

,

とぅ てい想像で きない内容 の発言である。高橋が乗 り越 えたはずの収支均衡論に

,自

ら復帰 しようとし て苦悩す る姿 は

,ゃ

がて軍事一色 に彩 られる日本資本主義の悲劇 を象徴 しているかのようである。 このように

,満

州事変への対応 を大義名分 とする軍部の台頭 と政治的発言力の増大 は

,軍

事費 の 強圧的な拡大要求 となって高橋蔵相 を悩 ませた。 これに対 し高橋是清 は

,対

外政策 の基本 として, 外交手段 による「平和」的な交渉が第一義であ り

,軍

備 はそれ を有効 な らしめるためのいわば「必 要悪」であるとい う立場か ら

,軍

部 と激 し く対立す る。 しか し高橋 は

,軍

備 の拡充 それ自体 を否定 したわ けで はない。国防の充実 は重要ではあるが

,な

るべ く最小限 にとどめなければ国の財政が耐 え きれない。形式だけ軍備が整 って もダメである。外交 と国防および財政

,こ

の三者が調整 されて 初 めて目的 を達す ることがで きると主張 したのである。の。しかし高橋のこの論理は

,軍

部のイニシ アテイブによって「平和」的な外交手段が徐々に狭められてい くとぃう当時の客観的情勢の もとで は

,勢

い軍備 の拡張に引っぱられる危瞼性 をはらむ ものであった。 さらに高橋 は

,軍

事費 の国民経済 に与 える影響 について

,っ

ぎのような議論 を展開 したこともあ る。「軍事費 の増カロに関 しては

,色

々 と議論 もあるけれ ども

,し

か しなが ら

,こ

れ は今 日内外の情勢 において は

,国

家 の存立上真 に己むを得 ざるものであるのみならず

,

これ とて も国民の生産力

,経

済力 の進展力 を阻害するほどではな く

,寧

ろ我国最近 の産業界 に刺激 を与へているもので

,こ

の意 味か ら見 るな らば他の公共事業や土木事業 を起すのと

,そ

の効果 においては大なる隔た りはない と も思 はれ よう。」律のこのように高橋が

,1933(昭

8)年

の時点 における発言であった とはぃぇ

,当

時の状況下で軍備 の生産性 を説 くことが軍事費への警戒心をにぶ らせ

,時

として自らその手綱 をゆ るめる結果 になった責任 はまぬがれない。文字 どお り

,こ

れが高橋是清 の命 とりとなる。 ともあれ

,高

橋蔵相 の 日銀引受 による公債発行政策 は

,財

政膨張 に拍車 をか け

,そ

の結果

,1932

年度 の予算 は前年度 に比ベー挙 に

32%も

増大 (14億7688万 円か ら19億 5014万円へ

)し

た。っづぃて 33年度 には対前年度比

15.6%(22億

546万 円)増へ と “ 1上 合わせて この

2年

間 に国家予算 は

50%近

の増大 を示 したのである。 この財政膨張の最大の項 目は

,軍

事費 と時局匡救事業費であった。 この うち軍事費 は

,主

に都市むけに軍需 を喚起 してェ業 の生産力を増大 させ ようとする意味をもち

,他

方時局匡救事業費 は

,軍

事費 にいれて もよい と思われ る経費項 目も含 まれてはいたヵ部4か

,主

に農村 むけの救農対策 としての意味あいを強 くもっていた。時局匡救事業は

,救

農土木事業 を中心 に,1932 年か ら34年 までの 3カ 年計画で

,中

央 の事業費約

5億

6000万

,地

方の事業費約

3億

,合

わせて 事業費総額約

8億

6000万 円

,こ

れに大蔵省 の預金部資金による融資

8億

円を加 えると

,合

計16億円 にのぼる事業 を予定 していた。その額 は,ほぼ一年間の国家予算に相当する膨大な ものであったが , 実際 には

,軍

事費 の膨張 により1934年度 の時局匡救事業関係予算 は縮小 され

,こ

の年か ぎりで打ち 切 られたため

,結

,事

業費総額 は

8億

6000万 円に とどまった “ 3ち 時局匡救事業 の継続 を願 う地方か らの熱心な要望にもかかゎ らず

,こ

の事業が打 ち切 られた理由 には

,確

かに軍事費膨張の犠牲 にされた側面があったに違いない。 しか し

,時

局匡救事業 は当初か ら

3年

を限度 に提起 された政策であ り

,時

局匡救事業 の年限を限定 したのには

,高

橋蔵相 の「 自力

(12)

藤田安一 :経済理論か らみた高橋財政の特徴 更生」論が大 きな影響 を与 えていた事実 を見逃すわ けにはいかない。 とい うのは

,日

本 ファシズム の進展 に とって

,高

橋財政 の果た した役割 をいかな るもの とみるか とい う場合

,私

は日銀引受公債 発行制度が ファシズム財政 の基盤 を提供 した制度面 とともに

,こ

の高橋是清 の自力更生論 に基づ く 財政政策が

,フ

アシズム勢力への国民の接近 を下か ら促進 した重要な要素であると考 えるか らであ る。 その理由を述べ ると

,こ

うである。前 田正名 の『興業意見』律°か ら大 きな影響 うけた高橋是清 は, 地方産業 と農村経済 の振興策 を

,彼

一流 の「自力更生」を基本 に組 みたてた。高橋 の自力更生論 は, 次のようにまとめることがで きる。国家が農村救済 と称 して画一的な政策 を農村 に押 し付 けてはい けない。そんな ことをすれば

,農

村が 自分 の力で回復 しようとす る能力 を失 って

,い

つ までたって も農村 は真 に立直 ることはで きない。 まず基本 は

,農

村や農民 自身が創意工夫 によつて農村経済の 振興 をはか ることである。そ うして

,は

じめて国家 の援助 も実 るであろう。 このように

,高

橋是清 が 自力更生論 をΠ昌えたのは

,な

によりも地方団体が国家 に依存す る体質 になって しまうことを恐れ たためである。地方が国家 の政策 に依存す るようになれば

,国

家財政が耐 えきれないばか りか

,国

民経済 を底辺で支 えてい る地方の生産力基盤 を掘 り崩 し

,そ

の結果 は国民経済の衰退 につなが って しまう。 したがつて

,国

民経済 の発展 をはか るには

,農

村や農民 自身 の「自奮 自励」の精神 に立脚 した自力更生 こそが大切 となる。 ここに

,自

ら唱 えた自力更生 を

,国

民経済 の発展 と結 びつけて認 識 しようとす る高橋是清 の視点 を見出す ことがで きる。 もっ とも,「自力更生」とい う言葉 は高橋是清 による造語で はな く

,1932年

5月

,兵

庫県農会が県 下 6カ 所 において

,農

人「自力更生」祭 を開催 した ことに語源 あるとされている律°。だが

,地

方の 農業団体か ら始 まった自力更生運動が

,政

府 の農村対策 の基調 となるのには

,大

蔵大臣高橋是清 の 果た した役割 はあまりにも大 きかつた。第63臨時議会 において財政報告 に立 った高橋 は

,農

村対策 を中心 とした総額16億にもお よぶ膨大 な時局匡救予算 の説明 をお こなった際にも

,次

のように付 け 加 えることを忘れなかった。 「今 日の時局 に善処す るには

,国

民が単 に政府の施設 のみに依頼す るが如 きことがあっては

,到

底所期 の効果 を収むることが出来ないのであ りまして

,国

民 自身 自力更生の意気 を以て

,難

局打開 に適進す るの用意がな くて はな らぬ。」 “ °(傍点 は引用者) こうして

,高

橋 の自力更生論 は

,救

農土木事業 を主体 とす る時局匡救事業 をわずか

3年

で打 ち切 らせ

,恐

慌下の農村対策 を農民や農村 自身の「自奮 自励」 を基調 とす る「安 あが りの農政」へ と導 いていった。1932年9月

,農

林省経済更生部 の設置か ら本格化す る農村経済更生運動 は

,こ

の基盤 のうえで展開され る。昭和恐慌下

,こ

うした「自力更生」の名 による農村対策 は

,工

業 に対す る農 業恐慌 の相対的な深化のをもた らしただけではない。農業 と対照的な軍需 による重化学工業の発達 と財閥の繁栄が

,国

民 の財閥 に対す る反感 をまきお こす とともに

,農

村問題 を解決す る力のない議 会政治への不信 を極度 に高 めていった。 こうした情勢 を扇動 し

,右

翼や青年将校 らによる一連 のテ ロや クーデターを利用 しなが ら

,軍

部 を中心 とす るファシズム勢力が農村 を自己の政治的支持基盤 に とりこみつつ

,権

力の中枢 を掌握 してい くのである。以上の意味 において

,高

橋蔵相 の自力夏生 論 にもとづ く農村対策 は

,高

橋 の意図 にかかわ らず

,1930年

代 における日本 のフアシズム化 を促進 させ るうえで

,非

常 に重要な役割 を果た した と言わなければな らないであろう。 高橋是清の死後

,自

力更生 をスローガンとす る農村経済更生運動 は

,総

力戦体制 の一翼 を担 い, 太平洋戦争の開始 とともに

,人

口 と食糧 の確保 を目指す皇国農村確立運動 に引 き継がれ る。こうし, 昭和恐慌 の農村救済策 として出発 した経済更生運動 は,「日本 ファシズムの農村支配 の端初」“0で あ

(13)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 46巻 第

1号 (1995) 47

,フ

ァシズム体制へ農村 を統合す る組織 として

,農

村 の軍事的支配機能 を果たしていったのであ る。 しか も

,当

時のファシズム勢力 の主な共鳴盤が

,昭

和恐慌で苦脳す る農村であ り

,高

橋財政下 の農村対策 のあ り方いかんが

,そ

の後 における日本資本主義 の進路 を決定 した と言 つてよいほどの 重要性 を有 した。 ここに

,時

局匡救事業 を打ち切 らせた高橋 の自力更生論が

,そ

の後 のアジア・ 太 平洋戦争 につなが る日本資本主義の発展 において持つ意味の大 きさを確認で きよう。 以上

,高

橋是清の経済理論が

,前

述 したように理論構造 の上で

,ケ

インズ経済理論 との類似性 を もっていた ことは否定で きないが

,同

時 に

,高

橋是清の経済理論のいま一つの特徴 は

,そ

の理論の 中に「 自力更生論」 をしっか りとビル ト・ イ ンしていた ことである。 ここに

,ケ

インズ経済理論 と の共通性 に解消 しえない高橋是清の経済理論 の きわだった特徴があると言 えるであろう。 ともあれ

,こ

うした事情 によって時局匡救事業が打 ち切 られて以降

,軍

事費 はその他の経費 を尻 目に急膨張 をはじめた。絶対額で は

,す

でに1933年に租税収入 をはるかに突破 し

,歳

出総額 に対す る割合 も1930年には

28%そ

こそこであった ものが

,32年

には

35%を

超 え

,36年

には47%“9を占める までになった。さらに

,軍

事費 の対国民所得 に対す る割合 も,1931年には

4.5%で

あった ものが32年 には一躍

6.7%,33年

には7.6%。 0へ増大 した。 この膨大化 した軍事費 を

,高

橋蔵相 はもっぱ ら公債 で まかなう方針 を とるが,「これ は巨大銀行 にダブついた遊休資本 に有利 な投資対象 をあたえること になって

,軍

部 と独 占主流 の双方 を満足 させた」。1)のである。 だが

,い

かに日銀引受 けによ り公債 の膨張が可能 になった とはいえ

,無

制限の発行 を意味す るも ので はな く

,こ

れには一定 の国民経済的限界がある。 この限界 を超 えると

,国

民経済がそれ 自体 に 内在す る法則 によって

,国

家 の財政活動 を規制す るようになる。 まもな く

,軍

事費 の膨張 に余儀 な くされた赤字公債 の発行 は,その限界 を公債消化力 の弱 まりとい うかたちで露呈 して くるのである。 こうして,「公債消化の問題 は,満州事変以後 のわが財政政策の内で主要な内容 となるにいたった。」。劾 確かに

,公

債 の消化 は日銀引受発行制度 の導入 によって

,問

題 の形式的な解決 は図 られた ものの, 母 なる国民経済 のなかで消化 されなければ

,真

の問題解決 とはいえない。む しろ

,矛

盾が表面化す るのを一時先 に繰延べたにす ぎない。高橋 も

,こ

の ことは十分承知 していた。それゆえ高橋 は

,公

債 の過度 の膨張 による悪性イ ンフレを懸念 し

,国

民経済が担い うる公債発行 の限度 を次のように述 べて警鐘 を鳴 らしたのである。 「此赤字公債 の際限な く殖 えることは希望 しないが

,今

日俄 にこれ を止 めることはどうして も国 情が許 さぬのである。併 しこれが どん どん殖 えてい くと有害 なるインフレー ションが起 こるのであ る。然 らばその発行限度 はどこにあるか。又何時来 るか。 どうしてそれが分か るか と云ふ ことには 私 は苦心 して居 る。公債発行 の限度 といぶのは

,国

民が公債 を咀啜す る力である。限度 に達 した と きと云ふのは一― 政府が赤字公債 を出 して

,そ

れ に依 って得 た資金 を使ふ。 その使ふ結果が民間の 生業 に害が あるとも益がない。健全 なる発達 に向っての刺激 は無 くなって了ふ ―― 斯 う云ぶ ことに なる時である。」・ 0 兆候 は

,す

でに1934年以降表面化 しはじめて きた。 とい うのは

,高

橋財政 の政策効果が発揮 され 景気が回復す るにつれて

,高

橋 の意図が実現 の端緒 をつかんだかに見 えた とき

,皮

肉にも

,こ

れ ま で存在 していた生産余力が底 をつ き

,企

業 の設備投資が活発化 し

,企

業の外部資金依存が急激 に高 まって きた。そのため

,市

中銀行 には日銀が売却す る公債 に資金 を投下す るよりも

,民

間企業 に資 金 をまわ した方が有利 になる状態が生 まれて きたのである。結果 は

,1934年

をピー クに日銀引受公 債 の消化割合の低下 となって現われた。明 らか に

,日

本銀行 の公債背込み とな り

,膨

張 した通貨 は 日本銀行 の統制力が及 ばない悪性 インフレヘ進展す る様相 を呈 して きた。 さらに

,景

気回復 にとも

(14)

藤田安一 :経済理論か らみた高橋財政の特徴 なう企業活動 の活性化 は

,設

備投資資財や原材料 の輸入 を増化 させ

,低

為替 を利用 した 日本 の輸 出 攻勢 に対抗す る世界各国の輸入制限措置の強化 とともに

,わ

が国の国際収支 を徐々 に悪化 させてい った。か くして

,増

税 を避 けなが ら赤字公債 の発行 によるインフレ効果 によって景気 を回復 してい く財政 は

,こ

こに完全 に行 き詰 まってしまったのである。

'「'子

:4丹

羅齢

ξ

ξ

を可能 に した。 だが

,昭

和 恐慌 にみ る 日本 資本 主義 の構 造 的矛盾 は

,ケ

イ ンズ的処方箋 の有効範 囲 を はるか に超 え

,国

内均衡優 先 の ケイ ンズ的政策 は

,い

きおい軍需市場拡大 に主導 された「 日本 的 国 内均衡優 先 主義 」 へ と急旋 回 して い った ので あ る。 江 (1)さ しあたり,こうした見解の代表として

,後

藤新一『高橋是清一日本のケインズ』(日本経済新聞社,1977年 )が あげられる。 (2)田中生男『日本銀行金融政策史 (増補版)』 有斐閣,1980年 ,104ペ ージ。

0

『大阪朝日新聞』1936年2月23日。 (→ 大蔵省百年史編集室『大蔵省百年史』下巻, 3ページ。

G)井

上準之助「戦後に於ける我国の経済及び金融

J前

掲『井上準之助論叢』第 1巻 ,176ペ ージ。 脩

)「

第59回帝国議会衆議院議事速記録第 4号 」内閣印刷局『官報』号外,1931年 1月24日。 (7)高橋亀吉『大正昭和財界変動史』中巻,東洋経済新報社,1955年 ,898ペ ージ。 (8)井上準之助「国民経済の立直しと金解禁

J前

掲『井上準之助論叢』第 1巻 ,556∼7ページ。

(9

島 恭彦『財政政策論』河出書房,1943年 ,254∼8ページ。

10

『大阪朝日新聞』1933年 1月27日。

11

高橋是清の思想の特徴を表わしたこの指摘は,長幸男『日本経済思想史研究』未来社,1963年 ,191ペ ージに依拠 している。

10

『大阪朝 日新聞』1932年 1月22日。

10

高橋是清遺述 『高橋是清経済論』千倉書房,1936年 ,517ペ ージ。

10

高橋是清遺述,山崎源太郎編 『国策運用の書』斗南書院,1936年,37∼8ページ。

10

『大阪朝 日新聞』1935年 1月 3日 。

10

高橋是清遺著『随想録』千倉書房,1936年 ,247∼51ページ。

10

同上 『随想録』380ページ。

10

詳 しくは

,早

坂忠「ケインズ と日本の経済学」 錫」冊経済セ ミナー『ケインズ生誕100年』 日本評論社,1983年4 月

)及

び,石橋湛山他座談会「『ケインズ』か く日本 に現わる」(『週刊東洋経済』1965年12月 2日)を参照。

QO

日本銀行調査局 『日本金融史資料・昭和編』第 6巻,1963年 ,384ペ ージ参照。

90

西野喜与作 『歴代蔵相伝』東洋経済新報社,1930年 ,168ペ ージ。

90

馬場恒吾『政界人物風景』中央公論社,1931年,20ページ。 1221 大阪朝 日新聞社『朝 日経済史 (昭和 4年版)』 1929年,232∼3ページ。 1231『東京朝 日新聞』1929年5月31日。

90

議論の詳 しい内容 については,「第58回帝国議会衆議院議事速記録第 3号 」(内閣印刷局『官報』号外,1930年4 月26日

)及

び,「第59回帝国議会衆議院議事速記録第 4号 」(同上,1931年1月24日)を参照。

90

『時事新報』1930年12月24日。

90

井上準之助「金再禁止 と我財界の前途」前掲『井上準之助論叢』第 1巻,643ペ ージ。 1271 前掲 『高橋是清経済論』515ページ。

90

『大阪朝 日新聞』1932年 1月 5日 。 硼 記 億 側 局 之 銹 ︱ 側 側 側 ∽ 硼 ︱ ︱     ︲ ︲   日 刺 ﹁ 硼 90 ① 咽 岬 町 月 引 引 咽 ョ ー 的 副 い 嘉 消 い 町 ¶ d H F H l   、 ︲ ゼ r ④

参照

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