天皇制 と明治神宮体育大会
(第
1報
) 保健体育科教育教室 は じ め に 戦後の国民体育大会が,敗
戦後 のスポーツのみな らず,全
般的な国民生活 の再建,発
展等 に多大 の貢献 をして きたであろうことを全面的 に否定す るつ もりはない。 しか しなが ら,そ
れ とともに, 戦後の象徴天皇 の復活 と浸透 とい う戦後 の国家政治のうえに重大 な意味 を提起 して きた こともまた 事実である。この問題,す
なわち戦後 の国民体育大会 の創設 と象徴天皇制 の関係 については,『象徴 天皇がやって くる 戦後巡幸 。国民体育大会・護国神社助 (坂本孝次郎著)に
よってようや く明 ら かにされることになったが,こ
の国民体育大会の先導的試行 とも言 える明治神宮競技大会 (これ は 第1回大会 の名称で,第
3回
大会 は体育大会,第
10回大会 は国民体育大会,第
13回大会 は,国
民錬 成大会 に変更 されてい るが,以
下「神宮大会」 と呼ぶ)の
全貌 については,な
お具体的 につ まび ら かにされてはいない。昭和天皇 の「大葬」 に ともな う政教分離 という憲法の原則 をなしくず し,天
皇制 を美化する一大 キャンペー ン,果
てにはあの15年戦争 は,侵
略戦争で はなかった とす る歴史的 事実の歪曲等復古的な政治動向のなかで,少
な くとも当初 は民主的で国民的なスポーツ行事 を志向 していた国民体育大会が次第 に天皇制 を心理的,情
緒的 に許容 させ る機能 を果 たして きたことは極 めて重大である。 かつて神宮大会 は,大
正13年か ら昭和16年 (12回大会)ま
での間 (昭和17年か らは明治神宮国民 錬成大会 となる)国
民 を天皇制絶対主義国家の崇拝 と追従 に,さ
らには満州事変,日
中戦争,そ
し てアジア・ 太平洋戦争 と多 くの青少年 を侵略戦争へ と駆 り出す役割 を果たした。 この神宮大会 は, 天皇制体制下におかれて きたわが国近代 の体育・ スポーツの総決算で もあ り,そ
の意味か らもこの 大会 を過去の もの として葬 り去 ることは出来 ない。 神宮大会 はた しか に天皇制権力,と
りわ け内務官僚,文
部官僚 によって創出された。 この大会 に は選手,役員で延べ約30万人 もの国民が動員 され,地方予選への出場者や観客,さ
らにはマス・ ゲー ム,体
育 デー,体
操祭等神宮大会 にかかわ る国家主義的な行事 に動員 された児童 。生徒等 を含 める とおそらく数百万人 に及ぶ もの と推測 される。それにして も,こ
れほ どの国民 を動員す ることは単 に権力的な強制 をもって して も不可能であったはずである。それを実現 させた背景 には神宮大会の 政治的,イ
デォロギー的意味 を厳 しく見つめることもな く,む
しろそれ に喜々 として駆せ参 じ,協
力 した体育研究者や中央 の各種体育・ スポーツ組織の幹部のみな らず,地
方の各種体育・ スポーツ ※日本サッカエ協会機関誌『サッカー』編集部己
修
克
江
島
入
鹿
団体役員
,青
年,医
師,教
師,学
校職員,町
内会役員,婦
人会等 あ らゆる階層 を網羅 した一般国民 の存在 によって初 めて可能であったのであ り,ま
た こうした中央か ら末端 の権力機構 の犠牲 にな り, 戦場 に送 られた数 え きれないほ どの青少年があった ことを忘れてはな らない。昭和か ら平成 という 元号の変更 とともに,昭
和戦前 における戦争責任 とい う重大 な問題 を風化 させ ようとす る風潮や天 皇制論議 に歯止 めをか けようとす る動 きが顕著であるが,昭
和期 における国民体育 な らびにスポー ツ史 における重大 な汚点の一つで もあると言える明治神宮大会が,国
民 に とって何であったかが明 らかにされる必要が ある。 この小論で は,秋
季大会 を中心 に次の諸点 について報告す る。 (1)体育史研究 にお ける神宮大会の性格規定 の問題 (2)天皇制絶対主義体制下の神宮大会 と戦後 の象徴天皇制下 にお ける国民体育大会 の連続面 0)神宮大会創始の社会的背景 と明治神宮造営の目的 (4)第 1回大会の創設 の過程か ら第4回
大会 に至 る神宮大会の展開の過程 と天皇制 との位相1.体
育 史 研 究 に お け る明 治 神 宮 大 会 の性 格 規 定 と位 置 づ けの 問 題 戦前の明治神宮大会 は,大
正期 におけるデモクラシーの浸透 に対 す る反動 として浮上 して きた国 家主義,民
族主義,国
家社会主義的な動向のなかで登場 して きた。昭和戦前の体育,
もし くはスポ ーツ事象 に関す る科学的研究 はこれ まで機会 あるごとに指摘 して きたように,ほ
ぼ完全 に欠落 して お り,こ
れか らとりあげる「神宮大会Jの
問題 について も例外ではない。近年 における国民体育大 会の政治性,つ
ま り象徴天皇や皇族 とのかかわ り方 を見 るとき,そ
こには戦前の この神宮大会が眼 前にちらついて くる。 ところで,こ
れ までの体育史研究 によれば,神
宮大会 は;次
のような もので あった と規定 されている。すなわち神宮「大会の趣 旨は明治神宮祭 に結合 し,運
動競技 を通 して国 民身体 の鍛練 と精神作輿 に資せん とす るものであった。国際オ リンピック大会が国際競技 の中心で ある如 く神宮大会 は国内的総会大 会の最大 の ものであった。末期 に性格上多少の変更 はあったが神 事奉仕の大会であること,民
族的競技であることな ど古代オ リンピック大会 になぞ ら得 るものであ った。競技記録 の点か ら見れば種 目別選手権大会 その他 に及 ばなかったか も知れないが,参
加種 目 の多数,地
方,中
央 の大会 を通 じての参加者 の数及び国民的関心 の度 に於 て国内の代表的大会であ った。各種 スポーツが漸 く普及 し競技団体 も一応 の体制 を整 えた当時 に,政
府主権 の大会が毎年定 期的に行われるようになった ことは注 目すべ き出来事で,又
単 にスポーツに限定せず広 く体育・ ス ポーツの祭典であった ことも特色 であった。昭和十八年第十四大会で終わ りを告 げる迄体育 。スポ ーツの普及 と発達 に致 した貢献 は頗 る大 きな ものがあった②。」 と。 これがあの敗戦後間 もない民主主義が高揚 し,フ
ァシズム体育 な り,ス
ポエツに対す る批判 をか い くぐって きた段階での認識であった。 た しかに神宮大会 は,明
治天皇 を奉体す る「神事奉仕の大 会」であ り,「運動競技 を通 して国民身体 の鍛練 と精神作奥 に資せん と」した ことは事実である。 だ が,神
宮大会がオ リンピックに「なぞ ら得 る」 ことがで きるとすれば,そ
れ はせいぜいベル リン大 会 ぐらいの もので,ま
してや「体育・スポーツの普及発達 に致 した貢献 は頗 る大 きた ものであった」 はず はな く,体
育やスポー ツという「見 えない制度。も(中村雄二郎)を
巧みに利用 し,ス
ポーツの 普及,発
達 どころか,国
民 を戦争 に動員 し,破
滅 に追い込んだ悪 しきスポーツの典型 と言 うほか は ない。また別の指摘 を見 る と,「この大会 の目標 は,明
治天皇 の聖徳 を憧仰 し,併
せて国民心身 を鍛 練 し,国
民精神 を作奥す ることにあったので,い
わば一つの祭典競技であ り,国
民運動の一環であ った。 この点でゼウスの神 を讃 えて行われ,ギ
リシャ人 の民族的統一 に重要な役割 を果た したオ リ ンピアの競技 と似通 った性格 をもっていたωJと ある。神宮大会が,「民族的統一 に重要な役割 を果鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第31巻 第
2号
(1989) たした」 ことな どは一度 もな く,む
しろ天皇制体制 の上台が揺 らぎ,危
機的状況 を迎 えていた段階 で,国
民 の思想的緊縛 と軍事訓練 を目的 としていた ことは明 らかで,国
民精神総動員体制が確立す る段階で は,ま
さに国民の全人格 を15年間 にわたる侵略戦争 に駆 りたてるとともに,ア
ジア,太
平 洋地域 の民族 を抑圧す る装置であった ことに,疑
間 をさしはさむ余地 はない。 さらにある指摘 は, こう分析 してみせている。 「一九二四 (大正一三)年
第一回明治神宮競技大会 は内務省主催で開催 され ることにな り,以
後 それ は国内の総合的な体育大会 として恒例化 していった。 とくに一九二六 (大正一五)年
第二回大 会か らは,民
間団体 として明治神宮体育会が主催 し,大
会名称 も明治神宮体育大会 と改称 されて一 九二八 (昭和一三)年
第九回大会 まで続 いた。 しか し国家総動員体制が確立 し,学
校体育及 びスポ ーツに対す る国家統制が全面的 に強化 されてい くに連れて,一
九二九年第十 回大会 か らは,明
治神 宮体育大会 は政府主催 に移管 され,厚
生省 の管轄下 におかれることになった。 そ してその名称 も明 治神宮国民体育大会 と改称 され るにいたった。 とくにこの第一〇回大会 は,競
技種 目中に国防競技 (中略)が
登場 するなど,戦
時体制 を反映 した体育大会 となったもそして一九四― (昭和一六)年
太平洋戦争が開始 された年 に開かれた明治神宮国民体育大会か らは,文
字通 り国家総動員体制 のな かに組 み込 まれた体育大会 となっていった。(中略)こ うして国内における総合的な体育大会 となっ た明治神宮大会 は,大
東亜共栄圏 にもとづ く 戦争遂行 の国家的政策 の枠 のなかに強力 に組 み込 まれ,軍
国主義的体育行事 としての歩み を早 めることになったのである0。」 まさに指摘の とお りである。 しか し, この 明治神宮大会 についての具体的な分析 はなさ れていない。その後,沖
縄国体 をきっかけに 木村吉次が「明治神 宮大会 か ら国体 を考 え る101」のなかで ようや く触れてお り,ま た山本 徳郎が,「スポーツ と天皇制 の歴史」のなかで 神宮大会 に改めて新 たな視点 を当てている。 本村 は,両
大会 の共通 の性格 として(1沐申宮 大会が国体創始 の段階で人的 にも発想 として も同 じであった こと,(2)両大会 とも皇室 と密 接な関係 にあった こと,は )両大会 とも単 に「ス ポーツ精神」の重視 を至上 とす ることには消 極的で,「体力向上」と「精神 の作興」が付加 されていることを指摘 している (資料-1参
照)0。 一方山本 は,一
歩踏み込んで大正後期 にお ける大正 デモ クラシーに対する抑止 とい う観点か ら位 置づけている。 しか し,紙
面の都合 もあった と思われ るが,神
宮大会 の具体的で,詳
細 な分析 はな されずに終わっていることは,惜
しまれ る。 資料-1
神宮大会 と国体の比較 神 宮 大 会 国 体 的 目 格 催 性 主 開 催 年 開 催 地 競技方式 参 加 者 明治天皇の聖徳 を憬仰 し, 国民の身体鍛練,精神の作 興 に資す 神事的体育行事 内務省→明治神宮体育会→ 厚生省 毎年→隔年→毎年 明治神宮外苑競技場 。その 他 府県対抗・学校対抗・ 陸海 軍人試合・在郷軍人支部対 抗 。日本選手権など 青年 団 (府県単位)・軍人 (師団・鎮守府)。一般およ び女子 (地方予選による) 国民 にスポーツを普及 し, スポーツ精神の高揚,国民 の健康増進,体力向上,地 方スポー ツの振興 を図 る。 国民的スポーツ祭典 大 日本体育会→ 日本協 。東 京都→ 日体協・文部省→ 日 体協・文部省 。開催地地方 庁 毎年 地方持 ち回 り 日本選手権 。東西対抗・ 地 区対抗→都道府県対抗(天 皇杯・皇后杯授与) 一般 。中等学校 。大学高専・ 実業団・ 教員・壮年・ 少年 など→一般 または実業団・ 高校・教員→成年 (男子・ 女子)・少年 (男子・ 女子)2.国
民 体 育 大 会 の 創 設 と象 徴 天 皇 制1.国
民体育大会創始の過程 敗戦 の昭和20年12月 26日,お
茶 の水 の岸記念体育館 に大 日本体育協会 の理事平沼亮三 (後の横浜 市長),末
広厳太郎,清
瀬二郎,久
富達夫,石
田啓次郎等が,Ц
l)荒れ果てた国民生活 の潤滑剤 とし て,ス
ポーツをどのようにして再建す るか。(2)これ までの臨戦態勢の体育 を純粋 スポーツに衣替 え するには,ど
うした らよいか。儡l14育団体 としての使命,特
に所属競技団体 の組織や事業 は,今
後 どのように在 るべ きか0」 について話 し合 っている。 そのなかで石田が「 この際,全
国体育大会 を開 いてはどうか19jJと の発言が発端 になっているとい う。翌昭和21年,平
沼,清
瀬等 は,関
西スポーツ 連合 (同年 6月26日正式発会)会
長春 日 弘 と懇談 し,「1.戦
後の荒廃 によって健全娯楽 を失 った 国民,特
に青少年 にスポーツの喜 びを与 えたい。2.進
駐軍 に対 し,民
族 の気概 を示 そ う。3.荒
廃 した国土,と
くに旧軍隊 の施設 をスポー ツ文化 の場 に改建 しよう。4。 戦禍 にあ え ぐ国民,と
くに退廃 した青少年 に平和 と民族愛の表徴 としてのスポーツを浸透 させ よう。5.純
粋 スポーツの 再建 と指導陣の充実 を計 り,今
後 の日本 スポーツの再建 を期 そう。6.全
国的な体育大会 を開 こう。 その実施 の具体案 を一 日も早 く示 されたい(1° 」等 といった ことが話 されている。 こうして昭和21年 5月 の理事会以後大会実施要綱が検討 され,ま
た 8月 7日 の理事会で はGHQ
の全面的な承認が伝 えられ,政
府 も補助金40万 円を支出す ることを決定 し,同
年8月は宝塚市で夏 季大会 を,秋
季大会 は同年■月1, 2, 3の
3日間,京
都 を中心 に西宮,中
百舌,柳
灘,宝
塚,大
阪YMCA,藤
井寺,橿
原,瀬
田川 を会場 に役員,選
手5,600人が参加 して開催 された。第2回大会 は東京都 な どの首都圏で,そ
の後 は関東,東
北,中
国等 を巡 回開催 し,全
国 を九ブロ ックに分 けて, 一巡 した ら打切 りとすることが体協理事で確認済みであったが,石
川県が第1回
大会 開催 中に金沢 市 を中心 に単独開催 を名乗 り出たため,急
きょ方針が変わ り,県
単独主催 になっている。2,国
民体育大会 と地方巡幸 こうして出発 した国民体育大会が天皇 とかかわ りを持 つ ようになるのは,具
体的 には第2回
の石 川県大会からである。『歩み は』 は,そ
の経緯 をこう伝 えている。 「天皇陛下 はかねてか ら,大
戦後 の民情視察 のため全国 を巡幸 されていたが,た
また ま,一
〇月下 旬 は北陸巡幸 の予定 になっていたので,清
瀬理事長か らこの機会 に国体大会 に御立寄 り方 を宮内府 田島長官 を通 じ要請 していた ところ,九
月一七 日,非
公式なが ら,開
会式 にご臨席 の上,所
属競技 団体,都
道府県支部長 にも列立拝謁 を賜 わ り,そ
の後一部 の競技 をご覧になる旨の内示があった。 開会式 は,一
〇月二〇 日午前九時二〇分,陛
下 をお迎 えして,金
沢市営運動場で行 われた。前夜 の 豪雨 は奇跡的に晴れ渡 り,役
員 も選手 も月叉装 こそまちまちであったが,心
は一つ,晴
々 とした気持 ちで入場,プ
ログラムにしたがって式 は進 め られた。開会宣言後,大
会初 の `若 い力″吹奏 のうち に最初 の大会旗が掲揚 され,つ
づいて禁制 の国旗掲揚 も申請 の許可を待 たずに決行 され,二
万 の観 衆 は国旗が上が るとともに,期
せず して `君が代″が涙 を浮かべて斉唱 され,万
感 こもごも満場 は 感激 と歓喜 の渦 となった。`若 い力″も勇 まし く斉唱 され,閉
会式の後 白シャツ姿 になった市 内小学 六年男女四、五〇〇名の元気 のよいマスゲーム も展開された。天皇陛下 には兼六公 園野球場 の中等 野球 を御覧の上,お
帰 りになった(11も と。 この天皇の国体臨席が,戦
後地方巡幸 の一貫であることは指摘するまで もないが,そ
の「象微的 意義」 について は,坂
本の次の指摘 にゆず りたい。鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 31巻 第
2号
(1989) 「l―l一九四六年年頭 の『神格否定』宣言によって舞台状況 を再構成 して装 い新 に登場 して きた天皇 は,(中
略)一連 の地方視察の過程で,直
接地方の人々 に会 いその生活 の実情 に触れ るとともに国家 再建 の激励 の儀式 を展開 して きた。他方国民の側 は`人間天皇、更 には `象徴天皇、の容姿や演技 を直接間接 に見聞 して天皇 のそれにみあった表現行動や関係儀礼 を習得 してい くとともに,日
本再 建への着実な努力 を儀礼的 にも天皇 に呈示 して きた。口天皇 は自己をとりま く政治状況や国民 の社 会経済状態の推移 のなかにその混乱か ら秩序化への漸進 を読 み とり,(中
略)天皇 を運営す る側 に と っては,そ
の政治環境 にとどまらず,天
皇 の諸種 の表現 レベルやその心理的側面 において も,困
難 状況か ら安定状況へのモメンタムを探 り確認 してい く機会で もあった。9こ
うして,諸
種 の戦後状 況の収束 と拡散 のなかで,自
信 を回復 し平常 に復帰 した天皇 は,新
しい 日本建設のための国民 の努 力 と成果,自
分 の念願 の結実 といわば鑑賞 してゆ く機会 として地方旅行 を楽 しみ となす に至 る(1り 」 のである。翌第3回
福 岡大会か ら東竜太郎 (後の東京都知事)の
発案で天皇,皇
后杯が設 けられ, ここに神宮大会 を行佛 とさせ る国民体育大会 における象徴天皇制が登場 し,浸
透す る道 を開 くこと になった。 「天皇・ 皇后杯 は,国
民体育 の普及奨励 に最 も顕著 な成果 を挙 げた都道府県に授与 され る趣 旨であ つたが,そ
の評価方法が困難 なために,三
季 の競技成績 を (中略)採
点法 により,各
都道府県別 に 総合 して順位 を定 め授与す ることになった。 したがって,同
一歴年の冬季大会が第二回大会 の皮切 りとなったわ けである。 なお,皇
后杯 は二三年五月,女
子体育奨励 の思召 しに より下賜 され ること になった(10。」 そして第4回
東京大会か ら天皇,皇
后が開会式 に招かれ,天
皇 は,「此処 に全国より選 ばれた諸子 と相会 し,淡
刺 たる元気 な姿 を見 ることは喜びに堪 えません。体育 は心身健康 の鍵であ ります。諸 子の公明な健闘 を期待 し,健
全明朗 な心身 をもって,日
本再建 のために努力せ られん ことを望み ま す(10」 と述べている。『歩み』は,こ
の「お言葉 を賜 った ときは,ま
さに開会式 はクライマ ックスに 達 した(15ち と記 しているが,天
皇制絶対主義体制下 における神宮大会 の開会式 と同様 に,国
民 を「赤 子」 と同 じ意である「諸子」 とい う言葉が使われている。 こうして この大会 を契機 に天皇・ 皇后 の 開会式出席 と皇族 の招待 は次第 にエスカレー トし,定
常化 してい く。その結果,「元来非政治的なス ポーツ・ イブェン トは『国民統合 の象徴』 とい う象徴天皇制 の正統性 を周期的 に客観化す る,重
要 な制度的イブェン トの位置 を占めるようになった(lω 」のである。第10回秋季大会 (横浜)で
は天皇, 皇后 のみな らず,皇
太子,清
宮,秩
父宮,高
松宮,同
妃,三
笠宮,同
妃等が各競技場 に出席 してい る。 そして昭和35年 には「国民体育大会開催基準要項」が制定 され (昭和52年に第7次
の改訂がな され る),天
皇が臨席す ることが規定 された (資料-2を
参照)(in。 これ ら今 日までの国体 の過程 を見 るとき,あ
の戦前の神宮大会の創設の経緯 とあまりにも似てい ることに驚か され る。国体 の発足 当初,大
日本体育協会理事平沼,末
広,東
等 は,神
宮大会 の副会 長な らびに総務委員 を歴任 してお り,例
えば『歩 み』は,「当時の関係者 の心底 に,戦
前 の明治神宮 大会への追慕 とスポーツヘの郷愁 と情熱 との流れがあ り(18も と記 しているように,彼
等が国体 の創 設に際 してかつての神宮大会 を想い浮かべていたであろうことは,想
像す るに難 くない。 これか ら 次第 に明 らか になるように,現
在 の国民体育大会 のモデル ともなった神宮大会 は,そ
の第1回大会 (大正13年)以
後,昭
和戦前の天皇制絶対主義 の もとで皇道主義,日
本精神主義等 といつた日本 フ ァシズムの浸透 とともに,満
州事変以後 には全国にわたって数万 の国民 を侵略戦争 に動員 し,他
民 族 と他国 を支配 し,圧
殺す る戦争 に駆 りたてる一大国家的装置であつた。 それ は,ま
たわが国近代 にお ける体育やスポーツの もつ体質が,何
であったか を象徴す るもので もある。今 日の国民体育大会 は
,再
びそ うした神宮 大会 のモデル を再現 しつつある。3.明
治神 宮 大 会 創設 を め ぐる政 治,社
会情 勢1.大
正後期の民主主義の後退 とファ シズムの台頭 明治神宮大会が開催 される大正後期 は,大
正天皇 (嘉仁)の
健康問題 に終始することに なった。大正天皇の健康状態が宮内庁から初 めて発表 されたのは,大
正9年
3月30日であ つた。首相原敬が天皇の病状を知るのは,彼
の首相就任後 5ケ 月経った大正8年
2月15日 のことであった。天皇嘉仁の時代 は在位わず か10年で実質的に終わ りを告げ,大
正10年11 月25日の皇族会議により皇太子裕仁 (昭和天 皇)を
摂政 とすることを決定 した(19ち 資料-2
こうした天皇体制 の危機的状渉 皇陛下 お こ とば 正6年
のロシア革命,同
7年
の労 手代表宣誓 年の大戦後 の恐慌等が大正 デモク後発表彰状授与 響 を受 けた民主主義運動
,社
会全 皇杯,皇后杯授与 働運動 をこれ までにな く高揚 さヽ会会長挨拶喚降納 動
,普
通選挙運動,さ
らには農炉 会旗,競技団体旗,都道府県旗降納 り広 げられていった。折 しも大]
会宣言霊季大会については,秋季大会に準じ,よ 日にマグニチュウド7.9の激震が関 とする。 この大震災 は死者,行
方不明者14万人 を出 し,政
治的 にも,社
会的 にも,ま
た文化的にも多大 の影響 を与 えたが,権
田保之助 は,「実 に比 の大 震災 に見舞われた関東地方の住民 は経済未だ生ぜず,経
済未だ開明せ ざる野蛮最下級の民族 の生活 に立 ち戻 って,其
処 か ら第二十世紀 の所謂文化人 の生活一資本主義的経済生活 の状態 に至 るまでの 上下二十五万年 の人類社会史 の発展 を僅かに六十 日の間に体験 したのである9の」と描写 している。 大正天皇 の逝去 とい う前兆 をかか えるなかで,天
皇制国家 を補強す るために天皇制政府 による大 正デモクラシーに対 する弾圧 は,関
東大震災 をきっか けに嵐 の ように吹 き荒れ ることになる。激震 と火災 とい うパニ ックのなかで社会主義者や朝鮮人 に対す る流言輩語が飛びかい,自
警団 は何 の根 拠 もないまま暴行,虐
殺 を くわだて,虐
殺 された在 日朝鮮人 は,数
千人 にのばっている01ち また無 政府主義者大杉栄,伊
藤野枝等が憲兵大尉甘粕正彦 に虐殺 され,そ
の 4日 後 には労働組合「南葛労 働会」の組合員8名
と「純労働組合」の労働者一名が習志野騎兵第13連隊の兵士によって虐殺 され た,い
わゆる亀戸事件が発生 した ことはよ く知 られている。り。 加藤友二郎 内閣のあ とをうけた第2次
山本権兵衛 内閣 は, 2日
に東京府下 に戒厳令 を発 し, 3日
には東京 に関東戒厳司令部 を設置す るとともに,神
奈川県, 4日
には埼玉,千
葉県へ とその範囲 を 拡大 し,関
東 は約4万
の軍 の支配下 に置かれた伊°。 さらに■月10日には「帝都復興二関スル詔書」 国民体 育 大会 開催基 準要項 (昭和52年7月13日第 7次 改訂)よ り 17.大会の式典 位)各
季大会 の開閉会式式典 を行 う場合 は,原則 として冬季 大会 はそれぞれの競技会場地,夏季大会 は水泳競技会場地, 秋季大会で は陸上競技場で行 う。ただ し二つ以上の都道府 県において開催 される場合 は,別に協議する。 121 式典 の所要時間 は原則 として1時間30分以内 とする。 13)各競技別 に競技の開始 に先 だち簡単な開始式。競技終了 後表彰式 を行 うことがで きる。この方法にういては別 に細 則で定 める。 他)式
典 はで きるだけ簡単な もの とし,次の項 目を必ず式典 中に取 り入れるもの とする。但 し,その他の項 目について は開催地都道府県実行委員会 において企画のうえ,日 体協 と協議 して定める。 ① 秋季大会 開会式開会宣言 国体旗 引継 国旗掲揚 大会旗,競技団体旗,都道府県旗掲揚 大会会長挨拶 文部大臣挨拶 開催都道府県の歓迎 のことば 天皇陛下お ことば 選手代表宣誓 閉会式
成績発表 表彰状授与 天皇杯,皇后杯授与 大会会長挨拶 国旗降納 大会旗,競技団体旗,都道府県旗降納 閉会宣言 ② 冬季大会,夏季大会 について は,秋季大会 に準 じ,よ り簡素な もの とする。
鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 31巻 第
2号 (1989) 341
と「国民精神作興二関スル詔書Jを
発 している。以後,わ
が国の思想状況 は危機的様相 を呈するよ うにな り,震
災恐慌 に伴 う全般的な経済危機,な
かで も農業経済 は深刻 の度 を深 めていった。 また 大正14年には護憲二派内閣の もとで 3月 には普選法の制定,治
安維持令 の廃止 と引 きか えに治安維 持法が制定 され(4月22日公布, 5月
11日実施),虎
ノ門事件の後,思
想善導 に乗 り出 し,天
皇制警 察国家へ と急速 に再編 させていつた90。 大正天皇 の病状の悪化 につれて,戒
厳体制 はよ リー層強化 されるとともに,い
わゆる「 自粛」のムー ドづ くりが始 まった95ち こぅして「関東大震災 という天 災 を引 き金 として国家 による民衆への包囲網が明確 にせばまっていった。0」のである。大正天皇 は, 大正15年12月25日に逝去 した。享年45歳であつた。 2。 「帝都復興 二関スル詔書」 と「国民精神作興二関スル詔書」 ところで,先
に発表 された「帝都復興工関スル詔書」 は,こ
う述べている。 「朕神聖ナル祖宗 ノ洪範 ヲ紹 キ光輝 アル国史 ノ成跡二鑑 ミ,皇
考中興 ノ宏譲 ヲ継承 シテ肯テ額 ラサ ラムコ トヲ庶幾 シ,夙
夜競業 トシテ治 ヲ図 り,祖
宗 ノ神佑 卜国民 ノ協カ トニ頼 り,世
界空前 ノ大戦 二処 シ,克
ク小康 ヲ保 ツヲ得 タ リ,灸
ソ図ラム九月一 日ノ激震ハ事咄嵯二起 り,其
ノ震動極 メテ峻 烈エシテ家屋 ノ潰倒,男
女 ノ惨死幾万 ナル ヲ知 ラス,剰
へ火災四方二起 リテ炎歓天二沖 り,京
浜其 ノ他 シ,邑
一夜ニ シテ焦土 卜化 スノ間交通機関杜絶 シ,為
二流言飛語盛二伝ハ リ,人
心淘々 トシテ 培々其 ノ惨害 ヲ大ナラシム,之
ヲ安政 当時 ノ震災二較 フレハ,寧
口凄惨 ナル想知セシム,朕
深 ク自 ラ戒娠 シテ巳マサルモ,惟
フエ天災地変ハ人 カ ヲ以テ予防シ難 ク,只
速二人事 ヲ尽 シテ民心 ヲ安定 スルノー途 アルノ ミ,凡
ソ非常 ノ秋二際 シテハ非常 ノ果断ナカルヘカラス,若
シ夫 レ平時ノ条規ニ 膠柱 シテ活用スル コ トヲ悟 ラス,緩
急其 ノ宣 ヲ失 シテ前後 ヲ誤 り,或
ハー会社 ノ利益保障ノ為二多 衆災民 ノ安固ヲ脅 カス如キアラハ,人
心動揺 シテ抵止スル所知 ラス,朕
深 ク之 ヲ憂揚 シ既二在朝有 司二命 シ臨機救済 ノ道 ヲ構 セシメ,先
ツ焦眉 ノ忽 ヲ丞 フテ以テ恵撫 ノ実 ヲ挙 ケム ト欲 ス,抑
モ東京 ハ帝国ノ首都ニシテ政治経済ノ枢軸 トナ リ,国
民文化 ノ源泉 トナ リテ民衆一般 ノ謄仰 スル所 ナ リ, 一朝不慮 ノ災害二羅 リテ今 ヤ其 ノ旧形 ヲ留 メス ト雖,依
然 トシテ我国都 タル地位 ヲ失ハ ス,是
ヲ以 テ其 ノ善後策ハ独 り旧態 ヲ回復 スルニ止マラス,進
ンテ将来 ノ発展 ヲ図 り,以
テ巷衡 ノ面 ロヲ新ニ セサルヘカラス,惟
フエ我忠良ナル国民ハ義勇奉公嵌 卜共二其 ノ慶二頼 ラムコ トヲ切望 シ,之
ヲ慮 リテ隊ハ宰臣二命 シ,速
二特殊 ノ機関 ヲ設置 シテ帝都復興 ノ事 ヲ審議調査セシメ,其
ノ成案ハ或ハ 之 ヲ至高顧問ノ父二諮 ヒ,或
ハ之 ヲ立法ノ府二課 り,筆
劃経営万違算ナキヲ期 セム トス,在
朝有司 能 ク朕 力心 ヲ心 トシ,迅
二災民 ノ救護二従事 シ,厳
二流言飛語 ヲ禁遇 シ,民
心 ヲ安定 シ,一
般国民 又能 ク政府 ノ施設 ヲ翼 ケテ誠梱 ヲ致 シ,以
テ興国 ノ基 ヲ固ムヘ シ,隊
前古無比 ノ天狭二際会 シテ邸 民 ノ心急々切二寝食為 ノ安 カラス,爾
臣民其 レ克 ク朕力意 ヲ体 セヨ。つJ ここには大正後期 の社会不安 と混乱ぶ り,さ
らには権力の狼狽ぶ りが適確 に反映 されているが, この詔書 は,「帝都」を対象 としていた ことか ら,そ
の限界 を補 うために全国 に向 けて出 されたのが 「国民精神作興二関スル詔書」であった。その詔書 は,こ
う述べている。 「朕惟 フエ国家興隆 ノ本ハ国民精神 ノ剛健二在 り,之
ヲ涵養 シ之 ヲ振作 シテ以 テ国本 ヲ固 クセルヘ カラス,是
ヲ以 テ先帝意 ヲ教育二留 メサセラレ,国
体二基キ淵源二遡 り,皇
祖皇宗 ノ遺訓 ヲ掲 ケテ 其 ノ大綱 ヲ昭示 シタマ ヒ後,又
臣民二昭 シテ忠実勤倹 ヲ勤メ,信
義 ノ訓 ヲ申ネテ荒怠 ノ誠 ヲ垂 レタ マヘ リ,是
レ皆道徳 ヲ尊重 シテ国民精神 ヲ涵養振作 スル所以 ノ洪誤二非サルナシ,爾
来趨 向一定 シ テ効果大二著 レ,以
テ国家 ノ興隆 ヲ致セ リ,朕
即位以来夙夜競競 トシテ常二紹述 ヲ思 ヒシエ,俄
ニ 災変二遭 ヒテ憂陳交々至 レリ,軌
近学術益々開ケ人智 日二進ム,然
ン トモ浮華放従 ノ習漸 ク萌 シ,軽つ `詭 激 ノ風モ又生ス
,今
二及 ヒテ時弊 ヲ革メスムハ,或
ハ前緒 ヲ失墜セムコ トヲ恐ル,況
ヤ今次 ノ災禍甚 夕大ニシテ文化 ノ紹復国カ ノ振興ハ皆国民 ノ精神二待 ツヲヤ,是
レ実二上下協象振作,更
張ノ時ナ リ,振
作更張ノ道ハ他 ナシ,先
帝 ノ聖訓二格遵 シテ其 ノ実行 ヲ挙 クルニ在ルノ ミ,宜
ク教 育 ノ淵源 ヲ崇 ヒテ智徳 ノ遊進 ヲ務 メ,綱
紀 ヲ粛正 シ風俗 ヲ匡励 シ,浮
華放縦 ヲ斥 ケテ質実剛健二趨 キ,軽
挑詭激 ヲ矯 メテ醇厚中性二帰,詩
人倫 ヲ明ニ シテ親和 ヲ致 シ,公
徳 ヲ守 リテ秩序 ヲ保 チ,責
任 ヲ重 シ,節
制 ヲ尚│,忠
孝義勇ノ美 ヲ揚 ケ,博
愛共存 ノ誼 ヲ篤 クシ,入
リテハ恭倹勤敏業二服 シ, 産 ヲ治メ出テハー己ノ利害二偏セスシテカヲ公益世務二渇 シテ,国
家 ノ興隆 卜民族 ノ安栄社会 ノ福 祉 トヲ図ルヘ シ,朕
ハ臣民 ノ協翼二頼 リテ弥々国本回クシ,以
テ大業 ヲ恢弘セム コ トヲ朕 フ爾臣民 其 レ之 ヲ勉 メヨ90」4.社
会 教 育 団 体 の 国 家 主 義 的 再 編1.青
年団 と少年団の官僚的組織化 明治神宮大会 に とってそれを基本的 に支 えた組織 として青年団,在
郷軍人会等の半官半民組織 を ぬ きにすることはで きない。青年団は,も
ともと村落 における若者連,青
年会 を母体 とし,明
治20 年代 に有忘 によってその近代化が はか られ,必
ず しも地方権力か ら独立 していたわ けではなかつた が,そ
れで も多少 とも自主的な青年運動 としての意味あいをもっていた。 それが田中義― によって 村落青年会か ら町村青年会へ,さ
らに郡連合青年会 に統合 され,中
央・地方 の内務官僚 によって支 配 され,次
第 に国家権力 の機構 内に吸収 され るようになるのは,日
露戦争後 であった。 "。 田中は,「義務教育一青年団―在郷軍人会 とい う組織系列 を構想 し,青
年団の自治性,事
業性 を排 して,こ
れを修養団体,被
指導団体 た らしめようとした。Oも のである。明治38年 10月に設置 された 文部省 の「通俗教育調査委員会Jは ,明
らかに大逆事件 を意識 しての もので あったが,明
治43年に は「通俗教育調査会官制」が公布 されるとともに,第
1回の全国青年大会が開催 され,内
務省が作 成 した「青年団十二則」が決定 されている。 それ は「一、教育勅語並びに戊 申証書の御趣 旨を奉戴 すべ きこと 一、忠君愛国の精神 を養ふべ きこと 一、団体 を重 んじ祖先 を尊ふべ きこと 一、克 く父母 に仕ヘー家和合 を図 り身 を修 め家 を興す こと 一、行 を励 み産 を治 め国力 の増進 を心懸 ける ことべ きこと 一、質素 にして分度 を守 り進んで公益 を広め慈善 を行ふべ きこと。1も というもので あつた。大正元年■月には「第1回青年団調査会Jが
設置 され,大
正4年
9月15日には内務大臣一 木善徳郎 と文部大臣高田早苗 による訓令が発せ られている。 「青年団の設置 は今や漸 く全国に沿 く,其
の振否 は国家 の伸暢,地
方開発 に影響す る所特 に大なる ものあ り。此際一層青年団体 の指導 に努め,以
て完全 なる発達 を遂 げしむるは内外現時の情勢 に照 し,最
も喫緊の一要務 たるべ きを信ず。抑々青年団体 は青年修養の機関た り,其
の本 旨 とす る所 は 青年 をして健全 なる国民,善
良なる公民たるの素養 を得 しむるに在 り,随
て団体員 をして忠孝の本 義化 を体 し,品
性の向上 を図 り,体
力 を増進 し,実
際生活 に適切 なる知能 を研 き,剛
健勤勉,克
く 国家 の進運 を扶持す るの精神 と素質 とを養成せ しむるは,刻
下最 も緊切 の事 に属す。其 の之 をして 事業 に当 り,実
務 に従い,以
て練習 を積 ましむるもの又固より修養に資せ しむる所以 に外ならず, 若 し夫れ団体 にして其の轡 う所 を誤 り,施
設其 の宜 しきを得 ざることあ らむか,菅
に所期 の成績 を 挙 げ得 ざるのみな らず,其
の弊の及ぶ所測 り知 るべか らざるものあらむ。故 に地方当局者 は須 く此 に留意 し,地
方実際の情況 に応 じ,最
も適実なる指導 を与 え,以
て団体 をして健全 なる発達 を遂 げ しめむ ことを期すべ し。。う」 これ ら青年団の組織化 とその官僚統制の背景の第一 には,よ
く指摘 され るように「地方改良運動」鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 31巻 第
2号
(1989) 343
がある。 この改良運動 は平 田東助,岡
田良平,一
木喜徳郎等 を中心 に内務省市町村課長井上友― を 推進役 に自治矯風,奨
善,教
化,経
済等 における伝統的な国民道徳 (教育勅語 に代弁 され る)に
も とづ く善導,修
養 を策す とともに,改
良運動 を通 して伝統的な共同体的秩序 を再編 し,国
家的秩序, 言葉 を換 えれば天皇制家族国家 に再組織す ることを意図す るものであった°3ち そして大正13年11月 に全国各府県の連合青年団 を単位 とする大 日本連合青年団が組織 され,第
1回大会が 日本青年館で 開催 され,「一 我 らは純真 な り 青年の友情 と愛郷 の精神 によ り団結す 二 我 らは若 し 心身 を 修練 し,勤
労 を楽 しみ,自
主創造 の人 たるを期す 三 我等 は希望 に燃 ゆ 清新の意気以 て愛 と正 義の為 に奪闘す 四 我等 は国家 を愛す 忠孝 の本義 を体 し,献
身奉公国運の進展 に基す 五 我 等の心 は広 し 人道 の大義 に則 り世界 の平和 と人類 の協栄 に努む。つ」べ きであるとの青年団綱領が 制定 されてい る。 また「青年団員修養 に関す る施設」 によると「智的方面」,「徳育方面」,「公共事 業」,「産業方面」,「体育方面」,「娯楽方面」 に関す る活動内容が示 されている。 そのなかの「体育 方面」 を見てみると,運
動会,遠
足,登
山,撃
剣,柔
道,相
撲,庭
球,水
泳,体
操,ス
キー,耐
暑 耐寒練習,早
起会,軍
事訓練,体
育講習会,武
道会,体
育研究会,体
格検査,弓
術,其
他 となって いる。 これ らの活動 について青年団の育成 と推進 に中心的役割 を果たした田沢義鋪(よ しはる)は
, 「娯楽即修養」,「修養即娯楽」 とい う観点 を力説 し,こ
う述べている。働。 「青年団の中心的標 的 は修養即娯楽,娯
楽即修養 と云 う点 にあってほ しい。健全 な娯楽,楽
しい 修養である。娯楽の問題 を考 えるにして も,その娯楽が積極的の弊害がなければいいや うな ものの, 出来 るな らば,何
等かの方面 に於 て修養 に役立つ娯楽であってほしい。(中略)少し例 を挙 げて見れ ば,先
年来,大
日本連合青年団で は信州のアルプスな どを舞台 にして登山講習会 を開いているが, 登山に当って専門の人 を頼 んで高山食物 の話 をして もらうとか,又
登山専門家 の直接 の指導 を受 け ることになっている。高山動物 の習性 な どに就て も立派な研究の機会であるが,殊
に団体登 山の方 法 に対す る訓練 に至 って は,青年団の修養方法 として実 に偉大 なる効果 をもた らす ことを実験 した。 (中略)運
動競技 にした処で青年 に とっては勿論愉快 な娯楽である。併 しその全力 を蓋す意気,敗
れて恨 まず,勝
ちて騎 らざる心境 の修養,審
判者 の判定 に絶対服従す る雅量,或
い は団体競技 に於 けるティーム・ ワーク,か
う云 う点 を考 えて見 る と,そ
の修養訓練 に資する点の非常 に多い ことを 知 ることが出来 る。従 って指導者 な り,幹
部 な り,青
年団の当事者 は運動競技 に当って,この修養訓 練の意義 を充分 に察知 して,其
の取扱ひ方 に周到な注意 を払 はなければな らぬ。敗 けた くや しさに 文旬 をつ けた り,祝
勝会で酔 っぱらった りす るや うな ことで は,青
年団の運動競技 として は落第 と 云 はなければな らぬ。登山や運動競技 ばか りぢゃない。一切 の ことが この気持 ちで行 はなければな らぬ。青年団の読書会 な どは勿論修業 の行事であるが,少
し頭 のある青年 にとっては,冬
の夜長 に 団炉 りを囲んでの読書会 を開 くことは,此
上 もない精神的娯楽 に相違ない。従 つて中堅青年 の講習 な ども一面 には厳粛 な静座,遥
拝,朗
唱等の行事であるが,同
時 に音楽があ り,遊
戯があ り,体
操 があつて,修
養 と娯楽が講習会 を通 じて渾然 と調和せれ る ゝや うにあ りたい と思ふい。。」 青年団による体育運動 とその他 の体育団体 との組織的構図 は,(資料-3)の
ようになっているが, そのイデオ ロギー的背景 には,例
えば文部省体育官岩原 拓が「体育運動 はそれ 自体が青年 の もの である,青
年の血 と肉 との中に巣喰 うものである といって も過言で はない と信ず る」が,「現在 の各 種 の体育運動が,青
年団の中に飛び込んでい くことを悦 ばぬ ものなのである。何故 な らば,現
在行 はれている体育運動 は余 りにも濃厚 に都会的色彩 に染 ま り過 ぎている。 また余 りに都会的風味 を持 っている。従 って動 もすれば農村 の純本卜なる色調 を害 し,質
実 なる風習 を損す ることを恐れ るので あ る。故 に現在行 はれている各種 の体育運動が,
もっ と我国農村 の色調 に同化 し,我
国農村 の風習資料
-3
に合 うや うになって,自
然 に何 の無理 もな く,(中
略)少な くとも勤労生活 に親 しんでいる農村青年 の生活 を少 しも破壊す ることな しに,体
育が農村青年 の生活 のなかに取入れ られて行 く日の決 して 遠 くない ことを,予
言 し得 られ る°つ」 と述べているように,絶
えず農本主義がつ きまとってい る。 こうした青年団の動向 は,「天皇制絶対主義 の政治体制お よびイデオロギーが,資
本主義 の進展 に よって破綻 しようとした危機 の克服 の手段 として うちだされた°9」 ことを意味 してお り,以
後大正 デモクラシーか ら天皇制 ファシズムに至 るまで「天皇制 の行政的・思想的基礎 としての地方公共 団 体 の強化 のために教化団体が組織せ られ,内
務行政 と表裏一体 となって体制イデオ ロギーが 日常的 に流布・浸透 され,一
方反 ない し非体制的 と目され る諸 イデオロギー・ 組織 の発生 と成長 を阻止す る。9」 中心的組織 として機能す ることになる。そして この団員 は昭和6年
には268万人 に達 し,ア
ジ ア・ 太平洋戦争勃発の昭和16年には1500万人 にも達 してお り,会
合 に当たっては「―,大
御心 を奉 戴 し,心
をあわせて奉公 の誠 をつ くし,天
壌無窮の皇運 を付翼 し奉 らん。一,肇
国の精神 に基 き, 正気の気 をあつめて確固不抜 の志操 を養ひ,力
をあわせて大東亜の興隆 に邁進せん。一,身
心一体 の鍛練 を積 み,共
励切磋 して進取創造の力量 を大 にし,挺
身各々其職分 を努 めん “ 0」 との「大 日本 青少年団綱領」 を唱和 したのである。 この青年団 は,そ
の他の皇国主義団体である在郷軍人会,愛
国婦人会 のほか,大
日本連合婦人会,大
日本国防婦人会等 とともに神宮大会 を組織的 に支 え,あ
ら ゆる階層の国民 を動員す る役割 を担 うことになる。 また少年団 は,大
正3年
2月 9日 に小柴博 によって東京で初 めて組織 された。小柴 はもともと子 供の社会教育 を手が け,東
京の各所で「 コ ドモ通俗教育幼年会」や「少年臨海団」 な どを組織 して いたが,第
1次
大戦 をきっか けに前陸軍幼年学校長伊崎良熙少将の援助 の もとに同年の12月に九段 大 日 本 野 球 協 會鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 31巻 第
2号
(1989) 偕行社 に109人の少年 を集 めて入団式 を行 っている。式 には高島平二郎,久
留島武彦等が出席 し,軍
人勅論 と教育勅語が唱われ るとともに,団
長 には伊崎が就任 してい る。少年団の結団式以後東京の みならず地方か らの支部結成 の申し込 みが殺到 し,「東京連合少年団」が組織 され,翌
年 の同4年
に は団旗や徴章,団
杖,制
服等が決 め られている。 こうして生 まれた少年団 は当然青年団の下部組織 としての意味 あいをもち,神
宮大会 のマス・ ゲームや体操祭等 とのかかわ りをとお して学校 におけ る天皇制 イデオロギー教育 を補完 してい くことになる。2.帝
国在郷軍人会 と愛国婦人会の性格 と機能 陸軍大 臣を会長 とす る帝国在郷軍人会 は,寺
内正毅,田
中義―等 の努力 によって明治43年 11月に 設立 され,昭
和■年 に法制化 され ることによって日本軍国主義 を推進す る軍直属の中心的な組織 と なったが,設
立 の目的 は言 うまで もな くいわゆる「思想善導」対策 であ り,
さらには軍隊 と国民 を 結びつけ,「
兵営生活 の家庭化」(田中義―)を実現す ることであ り、 そうした目的 を実現す るため に青年団 と統合 し,「良兵良民」 を得 ることであった。大正7年
には会員250万人 を数 え,毎
年30万 人が加盟 している。 なかで も陸軍予備将校 は,帝
国在郷軍人会規則第七条「本会ハ軍人二賜 リタル 勅諭 ノ精神 ヲ奉戴 シ,在
郷軍人 ノ品位 ヲ進 メ,親
睦 ヲ醇ハ シ,相
互扶助 シ,軍
人精神 ヲ新作 シ,体
躯 ヲ練 り,軍
事知識 ヲ増進スル ヲロ的 トス」 との規定 を受 けて,町
村単位 の在郷軍人分会長か,も
しくはそれに相当する地位 に就 き,下
士出身の在郷軍人 にいわゆる軍人精神 を叩 き込む指導的役割 を演 じている。「良兵良民 は本来軍隊の道徳思想 と国民一般 の道徳思想 とが同心的 に一致す るもの と 前提 している・ 1ち」だが,そ
れには大 きな制約が存在 した。つ まり「在郷軍人 の階級秩序 と社会的序 列 とはしばしば一致 しない。 この乖離 は在郷軍人 の秩序が社会秩序 と異質であることを示 し,満
州 事変以後,在
郷軍人会が軍隊 と共 に資本制社会秩序 を批判・攻撃す るに至 る契機 を作 り出 している。 この場合,青年団が 自治 を叫んで天皇制 と直結 したように,在
郷軍人 は資本制社会秩序 を批判す る ことによって,天
皇 の在郷軍人 たる性格 を強化す る・ 2Ъ ことが出来 たのである。以後,対
支侵略, シベ リア出兵 な どの軍部 の台頭 によって,次
第 にその発言権 を強化す ることになる。 一方,奥
村五百子 によって明治34年 に組織 された愛国婦人会 は,具
体的には義和団事件 (北清事 変)を契機 にしている。奥村 は,こ
の義和団事件 に対 し北清派遣 日本軍 に慰問使 を送 ることを考 え, 公爵で貴族院議長 の近衛篤磨,小
松宮の援助 により東本願寺連枝大谷活信 を正使 とす る一行 を派遣 している。奥村 は自らも一行 に加わ り,明
治33年10月に天津 に到着 し,戦
禍 の惨状 を眼 にし,朝
鮮 の仁川,釜
山で軍人遺族 の後援事業 の必要 を説いている。 これが きっかけとなって釜山に日本婦人 会が結成 され,募
金活動が行われている。帰国後,奥
村 は旧藩主小笠原長生子爵,近
衛 とともに軍 人遺族救護 の運動 を起 こす ことをはか り,小
松宮夫妻,閑
院宮妃等の賛同をえ,明
治34年 2月24日 に麹町の礼法講習会で愛国婦人会 の発起人会が開かれ,近
衛が設立趣 旨を述べ,そ
の結果当 日に趣 意書の決議,諸
規則,常
務委員が決定 されている。 常務委員 には一条悦子,近
衛貞子,島
津田鶴子,大
山捨松子,谷
くま子,伊
集院繁子,下
田歌子 等が任命 され,事
務所 は礼法講習所内に置かれた。 この発起人会 には,そ
のほか二条公,岡
部子, 東本願寺新法主等 も参加 し,こ
うしていわゆる上流婦人 によって愛国婦人会が創設 されてお り,そ
の趣意書 は,こ
う述べている。 「(前略)畏き吾が皇国の御盾 となる軍人 たち戦場 に臨みて或ひは弾丸 に砕かれ,或ひは庫気 に斃 る ゝ に当 り,是
の国民 として其功 に報 ゆるには自づか ら種々の方法 あるべ しと雖 も生計困難 なる遺族 の 救助 こそ最 も先 にすべ きものな らめ,抑
も我が帝国に征清 の役 あ り,去
夏復 た兵 を北清 にだし ゝに忠勇義烈の軍人 は命 を鴻毛の軽 きに比 して
,雨
なす弾丸の下 に身 を弛 ち剣 なす氷 の床 に夜 を守 り, 名誉 の戦死 を遂 げ,不
起 の病 に罹 り,異
域 の鬼 となれ る者果 た してそれい くば くぞ,公
けにも深 く これを憫みおば してつぶ さに救護の道 を尽 くさせた給へ り,然
れ ども救 ひの手 には限 りあ りて,救
はれ人 は数限 りな し………之 を救ぶの方法将たいかにすべ き博愛 に富み,慈
善 を体せ る巾臓社かの 力 を協せて以 て是等 の遺族 を賑ullするにし く者 なか らん………愛 に愛国婦人会 なるものを設立 し, 普 く有志の諸媛 を糾合せん とす るに当 り,畏
くも各妃殿下の聞 し召す所 とな りて,漸
次御賛同の光 栄 を給 はん とす,希
くは世 の秀 だち吾等が徴愛 を賢哀 あ りて賛成助力せ られん ことを切望 して止 ま ざる所 になん143ち」 そして同月の27日 に 3月 2日 の愛国婦人会会員奨励会への招待状950通 を送付 し,当日九段坂上の 偕行社 に160名が参集 してい る。その後同年 7月 に地方官会議 に出席中の各道府県知事 を華族会館に 招 き,内
海内務大臣が愛国婦人会 の拡張 を依頼 し,ま
た 9月 にも日本体育会が招待 した各道府県警 察部長会議 に奥村等が出席 して入会勧誘 を依頼 し,さ
らに12月には内務大臣が各道府県知事 に愛国 婦人会 に対す る地方官の援助 を求 める通牒 を発 している。奥村 は,同
会 を全国的組織へ と拡大する ために仏教団体,慈
善団体,寺
院,女
学校,女
子師範学校,高
等小学校,軍
隊等 を中心 に全国を遊 説 し,支
持 を求 めている。こうして明治35年 1月 の評議会で軍人遺族 に対 して救護金226円 80銭が贈 与 され, 3月
には機関誌『愛国婦人』が創刊 された。 この創刊 に際 して会長岩倉公夫人 は「希 くは, この新聞によ りて我会の趣 旨をなほ広 く世 に知 らしめ,ま
す ます愛国尚武の精神 と勤倹質素の美風 とを世の母儀 た り主婦 たる人々 に啓沃 し,儒
弱奢靡 の弊習 を一掃 し,其
が家庭 に生ひたつ児童 をし て,健
全有意 の良国民 た らしむるの資 け “ 0」 にしたい と述べている。明治36年 3月 には関院宮妃 を 総裁 に,東
伏見妃等皇族妃 を名誉会員 に推す とともに,下
詔金,恩
賞金 を財源 とし,次
第 に同会の 組織的拡充が はか られていった。明治37年の 日露戦争 には満州への軍隊,軍
病院への慰間のほか, 出征軍人の歓送迎,ull兵 品の寄贈,各
地での講演 を活発 に行い,組
織 の拡大 を行 った。 その結果明 治39年新宿御苑で開かれた総会 には皇后が行幸す る一方,会
員 は全国で46万人,明
治40年 には70万 人 を数 え,以
後毎年2∼ 3万
の入会者があった という。そして昭和17年 には450万人 を擁 し,大
日本 連合婦人会 (1400万人),大
日本国防婦人会 (850万人)等
の20数 団体 とともに,軍
の命令 により「大 日本婦人会」 に統括 され ることになる。5.大
正 期 に お け る体 育・ ス ポ ー ツ状 況1.文
化産業 と大衆的スポーツの成立 ところで大正 の後期 になって全国的な体育・ スポーツ大会が可能 になったのは,何
故 なのか,そ
の点 について若干ふれてお きたい。 明治初期 に移入 された欧米 の近代 スポーツは,主
として少数の高等教育機関 (大学,高
等・専門 学校,高
等師範学校等)を
中心 に富裕階級 の独 占的な余暇活動 として出発 した。 そこには大衆不在 のスポーツとい う色彩が濃厚である。明治44年 にようや く大 日本体育協会が設立 され,同
年11月に は第5回国際オ リンピック大会 (ス トックホルム)予
選競技会が羽田で行われてい るが,そ
の参加 資格 は「学生 た り,紳
士 に恥 じざるもの」 と規定 され,大
衆,殊
に労働者 を排除 している。 また大 正10年3月 の大 日本体育協会規定 によれば,競
技者 を「普通競技者」,「競技指導者」,「準職業競技 者」,「職業競技者」に区分 し,「準競技者」に関 しては「特二本会二於 テ認定 シタル場合工限 り之 ヲ 許」す という,極
めて悪質な差別的条項 を規定 している “。。 こうした身分差別的なスポーツ状況に 対 して,ス
ポーツもし くは体育 の民衆化 (大衆化)を
促 したのは,第
一 には大正 デモクラシーの影鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 31巻 第
2号 (1989) 347
響 による民主的諸権利 の獲得,国
民生活擁護 の運動 を背景 に,生
産力の発展 と都市化現象の拡大 に 伴 うホフイ トカラー (新中間層)の
台頭,そ
して大衆スポーツ文化状況 の成立である。第二 は,交
通機関の発達 とマス・ メディア,殊
に新聞,ラ
ジオ,ジ
ャーナ リズムの登場 も無視 で きない。そ し て第二 には,大
衆操作 の手段 として国家が体育・ スポーツに注 目するようになった ことである。 1第一 について は,当
時中間階級層が全国民 に対 して どの程度 の割 り合いを占めたか,統
計的に明 らか にす ることは困難であるが,日露戦争前の明治36年 には全世帯数に占める比率 は3.8%で
あった ものが,世
界大戦後 の大正6年
か ら7年
にかけて約5∼ 6.5%,ほ
ぼ150万人前後 を占めた とされてい る(46)。 これ ら新中間層の増加 は,生
活意識や レジャー活動 に変化 を与 えずにはおかない。例 えば大阪市 社会部調査課が,大
正10年に市民 を対象 に実施 した余暇生活調査の報告『余暇生活 の研究』(大正12 年 2月)と
昭和 に入 ってはいるが,『大阪市労働年報』(昭和3年
8月)が
ある “ 7ち 前者 の調査 のス ポーツ行事だけを拾 いあげてみると,同
年 に開催 された市内各新聞社主催 。後援 のスポーツ行事 だ けで も48大会,日数 にして185日にも上 ってお り,参加者数 は12,124名,観
覧入場 者数1,618,818名 に も達 している。 また市民 による「 日曜祭 日其他 ノ休 日」のスポーツ活動,も
し くは野外活動 として は,小
学児童(男児)の場合 は遊戯,野
球,登
山,遠
足,海
水浴,水
泳,魚
釣 り,旅行,散
歩,女
児 では遠足,海
水浴,水
泳,旅
行,散
歩,さ
らに女学校生徒で は遊戯,登
山,遠
足,海水浴,水
泳,旅
行,散
歩等が挙 げ られてお り,一
方20歳以上30歳未満の工場労働者 (男)で
は,野球,庭
球,登
山, 遠足,海
水浴,競
技,散
歩。15歳以上20歳未満 の女子労働者 については海水浴,遠足,散
歩等 となっ 資料-4
職工余暇利用状況其の1(平
日昼一春期) 利 用 種 類 実 数 比 例 20歳 未満 20-29歳 30-39歳 40-49歳 50歳以上 20歳 未満 20-29歳 30-39歳 40-49歳 50歳以上興
行
物
l g動
写
写
1 1 1 一 1 一 一畔 ギ
行 ツ 猟 事 旅 行 足 , 一 狩 , 的 遠 ポ 魚 歩 , 節 散 ス 釣 季 ■ 1〇 一 1 56 49 一 4 35 ・0 1 4 調 5 一 1 11せ虻
99 28 03 11Ⅲ
噴
mド
書 学 養 読 誌 雑 聞 新 勉 休 39 2 3 26 2 24 74 2 13 30 1 7哨
ヾ
囃
養 琶 タ プ 琵 ル 飼 山 , , ヵ ン 士為 夫,謡 騨 ラ 太 碁 園 義 田 ト 3 5 5 8 1ギ
罷
r
社 交 的 娯 楽 6 6 其 他 ノ 娯 楽 4 2 3 3 12 家 事 手 伝,家事 難 用 3 29 8 計 備考 「散歩,遠足,旅行コ には神仏参詣をも含め り。 「季節的行事」 とは花見,月見,紅葉狩等 を云 う。 「社交的娯楽」 とは訪問,接客,談話,会合等 を云 う。 「其他の娯楽」中には写真,洋楽,作歌,作旬並びに飲酒等 をも含む。ている(資料
-4,5参
照)。 権 田は,こ
れ らの調査結果 についてスポーツが「近 年殊 に著 しい新興娯 楽 として労働者 の生活 に入 り込み,その為の設備や団体が労働者 の間に生 じて いるのに接 し得 る・ 0」 と指摘す るとともに,「流石 に戸外的娯楽の天地 であって,散歩,遠
足,旅
行 に,ス
ポー ツに,其
他 の行楽 に一 日を暮 らす ものが多い “ 9ち と書いている。 また後者 の調査では,(資
料-6, 7)の
よ うになっている。 さらに権 田は,大
正初期 の「都会娯楽の種類及 び其 の愛好順位 に於 ける府県数」 を調査 しているが(資料-8参
照),そ
の結果 について依然 として興行物が高い値 を示 して はいるも のの,「其の駿足 の進展 を為 したるスポーツ愛好が,今
日に於 てはスポーツをして都会娯楽 としての 相当重要なる地位 を占めしむるに至 ったであろうとも推 し得 らるるのである。の」と注釈 を力日えている。 これ らの調査 は,体
育・ スポーツ活動が次第 に大衆娯楽 として市民生活 に浸透 しつつあることを 示 してい ると言 えよう。 また同4年
には全国中等野球大会が朝 日新聞によって主催 され,同
13年に 新設 された甲子園での大会 には5万
人 の観客が押 し寄せている。 さらには大正後期 は,「スポーツJ とい う用語が定着 してい く時代で もあ り,雑
誌「スポー トJ(竜
洋社),同
「スポー ツマ ン」(中央運 動社 以上大正8年
),週
刊誌「アサ ヒ・ スポーツ」(同12年)等
のスポーツ 。ジャーナ リズムの登 場や「スポーツマ ンの精神」(八島鐘二),「趣味 のスポーツ」(寺田 英),「スポーツ・ パ ンフレッ ト」(朝香屋 以上大正13年 ),「最新スポーツ全集」(日本 スポー ト協会 同14年 ),「スポー ト・ マ ッサージ」(出口林次郎 同15年 )等のスポーツ書 も出版 されていることか らも理解 され る。 また下 津屋俊夫が「災震の惨状眼 もあて られない帝都 はすべての意味 に於 て くつが えされた。吾が競技会 に於 ける状況 も一時悲観的に観 られた感があったが。 ところが震災 その ものによって,復
興第一 は 先つ身体か らだ といぶ強い自覚 をすべての人 に下層深 めさせたため,衰
へるどころか益々盛 んな傾 向を表 はし,震
災― ケ月た ゝぬ内か ら各種 の競技会 は続々 と行 はれた°1ち と述べているように,大
震災直後 には早 くも種々の大会が開催 されている様子が推察 され るが,こ
の現象 は都市 の市民層や 資料-5
職工余暇利用状況其の2(平
日夜一春期) 用 種 類 実 数 比 例 20歳 未満 20∼ 29歳 30-39歳 40-49歳 50歳以 上 20歳 未満 20-29歳 30-39歳 40-49歳 50歳以上興
行
物
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動
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4 2 一 6 3 2 1囃
行 ツ 猟 事 足 ,旅 ・ 狩 行 , 的 速 ポ 魚 歩 , 節 散 ス 釣 季 11 3 一 1 98 ・4 1 1 割 6 1 1 74 3 2 1 30Ⅲ
悟
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新 聞 雑 誌 読 勉 休 書 学 養 24 9 27 59 18哨
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養 琶 タ プ 琵 ル 飼 曲 , ,ヵ ン , 謡 棋 芸 夫 , 将 ラ 太 碁 園 義 囲 ト 1 2 5 19 1 3 13 1 9叱
琳
社 交 的 娯 楽 4 其 他 ノ 娯 楽 3 6 家 事 手 伝,家事 雑 用 4 22 6 計鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 31巻 第
2号
(1989) 349
資料-6
職工余暇利用状況其の3(休
日祭 日―春期) 用 種 類 実 数 例 20歳 未満 20-29歳 30-39歳 40-49歳 50歳以 上 20歳 未満 20-29歳 30-39歳 40-49歳 50歳 以上興
行
物
l g動
写
写
13 4 2 64 45 8 33 28 7 16 14 6 6 2 4畔
囃
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散 歩,遠 足,旅 行 ス ポ ー ッ 釣 魚,狩 猟 季 節 的 行 事 41 18 1 5 39 54 8 65 287 8 17 25 200 11 17 10 62 1 3 2囃
囃
囃囃叫
新 聞 雑 誌 読 書 勉 学 休 養 15 2 12 35 4 14 7 6鵡 哺
養 琶 タ プ 琵 ル 飼 曲, ,ヵ ン と、 夫, 謡 騨 ラ 太 碁 園 義 田 ト 1 一 一 8 4 12 3 3 13 7 7 1 一 一ギ
社 交 的 娯 楽 3 4ユ 其 他 ノ 娯 薬 4 31 家 事 手 伝,家事 雑 用 計 100 0 100 0 100,0 1000 1000 資料-7
職工余暇利用状況其の 4 一本 用 種 類 実 数 例 平 日 休 日 平 日 体 日 興 行 物 │ 活 動 写 真 芝居 寄 席 15 3 7 168 23 16 行 ツ 猟 事 旅 行 足 , . 狩 , 的 遠 ポ 魚 歩 , 節 散 ス 釣 季 113 11 1 185 47 16 13.911:: 25 01::‡ 新 勉 休 聞 雑 誌 読 書 学 養 86 16 83 ∼ t 園
芸,飼
養 義 太 夫
,謡
曲,琵 琶 囲 碁,将
棋,カ ル タ トラ
ン
プ 31 6 34 2 . 4 25 7.91il‡ 5.01:│: 社 交 的 娯 楽 1 童 ︵ 他 ノ 娯 楽 家 事 手 伝,家 事 雑 用 20.2 20.5 日 シ 余
暇
,休
ナ 2.2 計 100,0 100.0資料