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シャフツベリーにおける自然と道徳

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全文

(1)

作 兼 山 横

4,シ

ャフッベ リーの道徳論 における 自然の問題

2.道

徳 と 自然的傾 向性

5,自

然 的存在 の二重構造 と本来性へ の志 向

4.道

徳 と幸福

5.道

徳 の根底 と宗教

1.

シ ャ フ ツ ベ リー の 道 徳 論 に お け る 自 然 の 問 題

周知 の よ うに

,シ

ャフッベ リーにおいて徳

Virtueと

は「 自然に従 う」(acCOrding to nature)

と ころに存す るものとされ

,道

徳 的で あ る ことと「 自然的」

(natural)で

あ る ことは

,そ

の限 り, ほ とん ど同 じ意味を もって いた。倫理 は

,

シャフツベ リーにおいて

,

自然 的存在 の理法 とい うこと にな る。 しか し

,存

在 の理法 を もって倫理 とす ることの難点 を

,

シャフッベ リーは一体

,如

何 に して克服 す るとい うのであろうか。 ま して

,甚

だ多様 な意味を もつ「 自然」 の概念 が

,如

何 に して倫理 と同 義 にな りうるか。 結局 は 自然主義 の立場 に立つ ヒュームで さえ

,

<自

然 的

>を

もって有徳 とな し

,<非

自然的

>を

もって悪徳 とす る考 え方 ほど

,非

哲学的 な もの はない」 と批判 してい るのを見 る(1)。 しか しまた

,翻

って考 えて見 るまで もな くこの「 自然的」 であることを もって有徳 とす る考 え方 は十七・ 八世紀英 国には一般 の ものであ り

,か

の理性主義の立場 に立つ ケ ンブ リッジ・ プ ラ トニス トたち

(Cambridge Platonists)で

さえ

,何

らか の形で とり入れてい るものであ る。 いわゆ るモ ラル・ セ ンス学派 の租 と して彼以降の感情主義 の立場を導 き

,他

方 このケ ンブ リッジ・ プ ラ トエス トたちとも境を被 して多 くの影響 関係を もった シャフッベ リーにおいて

,そ

の倫理 の根拠 と して の 自然が甚 だ複雑 な もの とな ったのは

,む

しろ当然の ことで もあった。 シャフシベ リーについて の多 様 な解 釈 は

,そ

の複雑 さを如実 に示 して い るといえよ う。

(1)D.Hume;Treatise of Human Nature.Oxford,p.475

cf, C, D. Broad: Five Types Of Ethical「Γheory, P. 57

「 私 は 自然的 とか非 自然的 とかい う言葉 は好 まない。 何故か といえば, それ らは大変 あい まいであ り, 普 通, 自分 の個人的な好悪 を権威づ け る人 々に よって用い られてい るか ら。」

(2)

兼 山 横 何 よ りもまず

,

シャフツベ リーの 自然 のオプテ ィミズムが指摘 されて来たのは 周 知 の ことであ る。 これは

,マ

ン ドヴ ィルの鋭 い批判 を晴矢 と し

,程

度 の差 はあれ数多 くの人 々によ って な され た シャフツベ リー批判 に共通 のものであ った。実際 また

,彼

の描 くところの 自然は美 しく調和 的で, 至 ると ころ秩序 的全体 の リズムを感 じさせ るものがあった。人間 もまたその 自然 の一部 と して 当然 に美 しく

,調

和 的存在 とい うことにな る(2)。 人間の本性 は

,ホ

ッブスな どが語 るよ うな利 己的 で孤 立 した もので は決 して な く

,社

会 的で仁愛 あ り

,他

と調和的連 関の中にあるもの

,と

い うのが シャ フツベ リーを貫 く人間観であ った。 シャフツベ リーにあ って は 自然 に悪 は存 しないかのよ うで

,

こ の 限 り

,彼

のオプテ ィ ミズムも否定 されえないわけである。 ただ

,特

に近年 にな って

,若

千 の人 々によ って指 摘せ られて来て い るよ うに

,そ

のオプテ ィ ミズ ムが決 して単純 な ものではない とい うことに

,わ

れ われ と して は深 く注意 しな くて はな らない と思 わ れ る。つ ま り

,

シャフツベ リーはた しかにオプテ ィ ミステ ィックな 自然観

,人

間 の社会性

,仁

愛 な どを強調 して はい るけれ ども

,

しか し

,そ

こにおいて

,現

実 の人間 の醜 い側面 を決 して見 のが し て いたわけではない とい うことである。「 気性 の最高 の進歩がな されたのは人類 においてで あるけ れ ども

,最

大 の腐敗

,堕

落 が見 られ るの もこの人類 なのだ」 と し

,更

に動物 と比較 して

,動

物 は一 般 に秩序 と調和 の中 に生 きてい るのに

,「

人間 はといえば

,宗

教 の助 けや法 の導 き に も か ゝわ ら ず

,

しば しば 自然 に反 して生 きてお り

,い

,宗

教 その ものによ って返 って よ り残酷 に

,よ

り非人 間 的 にさせ られてい ることも しば しばで ある。 …………そ うい うわけで

,ど

こかで人間的な法を も ぅた人間社会を見 出そ うと して も甚だむつか しいのであ る。上 のよ うな社会 の中で 自然的 に

,そ

し て一人 の人間 と して生 きている人を見 出す ことが甚だ困難であると して も驚 くには当 らない」(3)と い う。人間社会 における現実 の醜 い側面を シャフツベ リーはかな り鋭 く見つめていた ともいえ るで あ ろ う。 そ こか ら

,あ

らゆ る存在す るものの中で人間が最 も恐 ろ しい(4)とまでいわれ る ことにな る が

,

これは

,単

な る一有 閃貴族 の 日ではない。後 にも見 るよ うに

,

自然 に一 切根拠 を もたない と さ れ て い る 「 非 自然的感情」

(unnatural affections)も

,現

実的 には明 らかに存す る ことが示 さ れ てい るが(5), 現実 におけ るそのよ うな側面 を深 く見つ めなが らも

,あ

えて

,調

和 あ る

,美

しい 自

然観を展開 したわけであろう。シャフツベ リーにおいて

tま

すべてが調和に満ちているが

,人

間だけ

はよくないのだ

(6)と

ぃぅ皮肉な見方まで生れる所以である。

(2)筆

者 はか って

,「

モ ラル・ セ ンスの一考察Jと題す る刀ヽ論 の中で

,シ

ャフツベ リーの 自然 とモ ラル ●セ ン スについて簡単 にぶれた ことがあ るが (日本倫理学会「 倫理学年 報」第14集

),御

参照 戴けれ ば幸 い で あ る と共 に

,以

下 においてそれ と重複 し

,あ

るい は修正 されてい る箇所 は御寛恕乞 う。

(3)Shaftesbury;Inquiry concerning Virtue or Meit(1699)(Characteristics of Men,Manners,

OPinions.ed.Robertson,Vol.I,P.291∼

2)(以

,Inquiry,C,I.291∼

2な

ど と略)

(4) ibid. 290 (5) ibid, 332

(6)Cf,IVilliam E,Alderman,``ShaFtesbury and the Doctrine of OPtinism in the Eighteenth Century.''(TranSactiOns of the lIViscOnsin Academy of Science,Arts,and Lettersi XXVIII.P,301)

(3)

形 而上学 や認識論 を好 まず(7), その概念規定 も必 らず しも十分 にはな されていない シャフッベ リ ー にあって

,全

く斉 合 的 な解釈 をなす ことの如何 にむつか しいかは多 くの研究者 の指摘す るところ で あるけれ ども

,当

,「

偉大 な哲学者」 と して思想界 は勿論

,ポ

ープ

(A.POpe)を

は じめ とす る十八世紀英 国文学 などにも大 きな影響を与え

,そ

の功罪少 なか らぬ ものがあ ったともいわれ る(8) シ ャフツベ リーにあ って

,一

,「

自然 に従 う」 とは如何 な る生 き方を指す のであるか

,倫

理 は如 何 に して 自然 にその基礎を もち うるかを

,以

,特

に シャフッベ リーにおいて比較的に体系化 され て い るともいわれ る『 徳 や価値 の研究』

(Inquiry concerning Virtue Or Merit)(16ワ

9)を

中 心 に

,刊

行 年代 の若千異 な る他 の ものを併用 して少 しく堀 り下 げて考 えて見 ようと したのが

,小

論 の意図であ る。

2.

道 徳 と 自然 的 傾 向 性

まず

,マ

ン ドヴ ィルの シャフッベ リー批判 の一端か ら考察をは じめよ うと思 う。マ ン ドヴ ィルは その『 社会本質論』

(A Search into the Nature of Society)冒

頭 で

,次

のよ うに シャフッベ リーを批判 した。即 ち

,彼 ,シ

ャフッベ リーは

,「

人間 は 自分 自身に何 の難儀

(trOuble)も

させ ず

,力

(

01enCe)を

加 え るこ ともな しに 自然 に有徳で あ りうると思 ってい る」(1)と。 この見方 は 果 して正 しいで あろ うか。 シャフツベ リーにおいて人 は何 の難儀 もな しに易 々と道徳的であ りうる だ ろ うか。 あ る意 味 においていえば

,決

して そ うではない。む しろ シャフツベ リーにおいて徳はあ る意 味で は 自己 自身 との戦 いであ り

,

自己の 自然的

,恣

意 的傾 向性 に対 して甚 だ拘束的

,規

範的で さえ あ っ て

,強

い意志 的努力 な しには決 して有徳 ではあ りえない といゎな くてはな らない。 その次第を

,ま

,モ

ラル・ セ ンスの考察か ら取 り扱 って見 よう。 シャフツベ リーのモ ラル・ セ ンスにおいて まず注 目され ることは

,

このセ ンス

,あ

るいはよ りしば しばいわれてい る正邪の感 (

sense of right and wrong)が

,何

よ りも実践的機能 において多 く語 られていることであ る。 こ

の限 り

,ハ

チス ンよ りはむ しろバ トラーに似て

,

しば しば良心

(cOnsCience),反

省 (refleCtiOn) の セ ンスとも呼ばれてお り

,

これを「多少な りとも持つ ものは

,必

らず や

,そ

れ に従 って行為せ ざ るを えない」。)と までいわれてい るものである。

ところで

,

こ くで特 に留意 しな くてはな らない ことは

,

シャフッベ リーにおいて真 の意味で の道 徳 的行為 は

,

このモ ラル・ セ ンス (あるいは良心

,反

省 のセ ンス

)に

よ るもののみ に限 られ るとい

cf, Stanley Grean ;Shaftesbury's Philosophy of Religion and Ehics, p. 14-5 cf, C. A. Moore. ``ShaFtesbury and the Ethical Poets in England. 1700-1760'1 (PubliCatiOns of the Modern Language AssociatiOn,XXXI.)

Bo hrandeville;The Fable of the Bees,OxEord.vol.I.p.323

Enquiry.C.I.265

´ m 口   側 囲

(4)

作 兼 山 横 うことで ある。 それについて シャフツベ リーは

,例

えば

,わ

れ われの心 の 中に

,正

,善

悪 に対す る独 自な働 きがあると し

,更

,次

の よ うにつ け加 えてい る。「 われわれが ある人を価値 があると か有徳だ とかい うのは

,そ

の人が公共的利害 の念を持 ち

,道

徳 的善悪

,賞

讃 や非 難

,正

邪 につ いて の思索 と研究が出来 る場合 にのみである」(a)と。 もっとも

,バ

トラーの良心 につ いて もいわれてい るよ うに

,あ

りとあ らゆ る行 為 が常 に このモ ラル・ セ ンスによ って意識 的 に行 われな くてはな らな い とい うことではないで あろ うが①

,

しか しとにか く

,如

何 な る行為 もこのモ ラル ●セ ンスに導 か れ

,そ

れ に統御 された ものでな くては決 して道徳的行為 とはいえない とい うことになれば

,道

徳性 と 自然的傾向性 との 区別 は明 白で あ る。 それ は

,た

とえ

,

シャフツベ リーにおいて最 も高 く賞讃 さ れ て い る自然的感情

(natural affections),つ

ま り

,社

会 的

,仁

愛 的感情 といえ ども

,決

して例 外 にはな らない。「 た とえあ る存在者 が

,如

何 に寛容で親 切 で あ り

,恒

,思

いや りの心 を もって い たと して も

,も

し彼が

,何

が価値 あるものであ り

,ま

た何が正直な るかを知 って価値 や正直の観 念 を 自分 の感情の対象 とな しうるよ うに 自分 自身の行為を反省す ることが出来ず

,ま

た人の為す と こ ろを見 ることも出来 ないな らば

,そ

の人の性格 は有徳 とはいえない」(5)とされているのであ る。 改 めてい うまで もな く

,モ

ラル・ セ ンス

,あ

るいは正邪 の感 は

,シ

ャフツベ リーによれ ば人間 に 生 得的

(innate)な

,「

生得的 とい ゝた くなければ本能 (instinct)」 (。

)と

い ってよい原理であ り

,宗

,慣

,教

育 な どか ら独 立 に人間の 自然 に備わ った能力 で あ るけれ ども

,他

の 自然的傾向 性 ともまた異 な った道徳独 自の原理 で あ り

,

実 に しば しば 道徳 的善へ の独 自な感情

,

道 徳的善 の 愛

,理

性 的感情な どといわれて もい るものであ る。 これによる行為 のみ がいわば徳 のための徳であ り

,そ

の反対 に

,た

とえ結果的 には如何 に有徳な行為で もその道徳 の原理 によるのでなければ真 に 道 徳 的行為 とは呼ばれない ともい う(7)。 ゎれわれ は ここに シャフツベ リーにおけ る道徳 の純粋性 を 見 る。 もっとも

,

シャフツベ リーにおいてモ ラル・ セ ンスは必 らず しも体系 的 に展 開 されてい るわ けで はな く

,そ

の義務論 は決 して十分 な ものではないけれ ども

,上

に見 たよ うに

,厳

密 な意 味 にお い て は このモ ラル・ セ ンスにもとづ く行為のみが真 に道徳的

,あ

るい はその意 味での 自然的な行為 で あるとすれば

,シ

ャフツベ リーの道徳論 におけ るモ ラル・ セ ンスの比重 は決 して小 さ くない とい わ な くてはな らない(a)。 と ころで

,先

に も述べたよ うに

,モ

ラル・ セ ンスはまた反省 の原理で あ った。 自己の実 践 の原理 (3) ibid. 252

(4) Cf, C. D. Broad ; Five Types oE Ethical Theory. p. 79

(5) Inquiry. C, I. 253

(6)The MOralists,C,H。 135

(7)Inquiry,C, I. 256 cf, Freedom otヽVit and Humour.C. I. 83-4

(8)シジウ ィックは, モ ラル ●セ ンスは シャフツベ リー道徳論 の要石 (keystOne)では な く

,単

な る冠 (

CrOWn)に

す ざない としてい るが (H,Sidgwick;Outline ol the History of EcHcs,P.189), こ れ は

,少

し軽 く見 す ぎ るのではあ るまいか。た しか に

,シ

ャフツベ リーの道徳論 は

,モ

ラル ●セ ンス より もむ しろ

,社

会 的感情

,全

体 と個 との調 和 な どに多 くふれ てはい るが

,真

の道徳 的行為には常に このモ ラ ル ●セ ンスが前提 されてい ることに注意す る要があ ると思 う。

(5)

と して は何 よ りもまず

,反

省 と して機能 し

,

自己の行為

,感

情を顧みて そ こで正 しい

(juSt),ま

ちが って い る

(Wrong),

いまわ しい

(odiOus)な

どと感 じさせ る作用 をい うわ けで あるが

,そ

の よ うな原理で あるか らには何よ りもまず

,そ

こにある一般 的価値 の認識があるわ けであ り

,そ

の 評 価 の基 準が実 はセ ンスに先立 っていな くてはな らない道理 であろ う。従 って例 えば

,良

心 につ い て も

,そ

れ は

,「

い まわ しい

,あ

るいはよ くない ともともと自分で知 ってい る何 らかの不正 な行 な いを 自分 の心 において顧み ること」(。)とされてい るよ うに

,ほ

とん ど理性 的

,あ

るいは直覚 的 とも いえ る価値認識がその具体的な反省の感 じに先立 ってい るわけであ り

,そ

の意味でモ ラル・ セ ンス は実 は甚 だ理性 的性格 を ももつ ものであ ることは

,か

つ ての報告で もふれた ところであ った。 シャ フツベ リー 自身

,

明確 に これを理性

,

善 悪 の知識

,

判 聯

,

意見な どと呼んでい る ことは しば しば で

,そ

こか らも

,モ

ラル・ セ ンスを単純な本能

,単

な る感情 と見 なす ことは とうて い出来 ないわ け で ある。 ヒュームはこれを, シャフッベ リーにおける混乱 と指摘 している。。)。 さて

,モ

ラル・ セ ンスの これ以上 の作用機序 は後 にまたふれ ると して

,

このよ うに実践 の能力 と して

,ま

ず反省 とい う形を とり

,自

己におけるいわば「 ポケ ッ ト・ ミラー」(11)と して 自分 の行為 , 感情の外側 に立つ ところか ら

,わ

れわれ の 自然的傾 向性 に対 して統御的原理 とな るのはむ しろ必定 といわな くてはな らない。特 にわれわれ の感情が恣意的であればあるほどに

,そ

の対立 は激 しく, 最初述 べ たよ うにそれは拘束的

,規

範 的性格を帯 びて くることにな るわけであろ う。否

,

シャフツ ベ リーによれ ば

,ま

さにその 自然的傾 向性 の統御

,そ

れ との戦 いの中にこそ

,真

の徳 があることに な る。単 に感覚 によって動か され る存在 とちがい

,「

道徳 的善 の対象を理性 的 に構成 出来 る存在者 にあっては

,問

題 は全 く別 である。 なん となれば

,こ

の存在者 においては

,た

とえ実際 の感情 は甚 だ しく障害せ られていて も

,

既 に述 べ た あの別 の理性 的感情 (ratiOnal affectiOns)1こよ って そ の障害せ られている感情が広 ま らないよ うにな っていれば

,気

性 は ま だ大体 において菩 さを保 ち え

,彼

はすべて の人 々か ら有徳 であると思 われて何 らおか しくはないので ある。 いや

,そ

れ どころ か

,た

とえある人が

,そ

の気性 と しては政情的で怒 りっぼ く

,臆

病 で好色 的で あ った と して も

,

し か しこれ らの感情 に抗 し

,そ

れ らの感情 の強い力 にもめげず に徳を守 りぬ くな らば

,わ

れ われは普 通

,

このよ うな場合徳 はよ り偉大 であるとい う(12)。 このよ うに見 て くるとき

,

徳 はた しか に 「 自然 に従 う」 ところにあ り

,「

自然的」 とはい って も

,そ

れ は 自然的傾向性 のま \に

,ま

して恣意 のお もむ くがま ゝに生 きることでは決 してない こと が明 らか にな った といわな くてはな らない。道徳的であること

,そ

の意味で「 自然的」 で あること

(9)Inquiry.G.I.305

11111 D. Hume ; Enquiry cOncernin g the PriniciPles Of ヽ10rals. t〕

The MOralists,C.H.128,133

こか Inquiry, C. I. 256

(6)

作 兼 横 (・

)は

,マ

ン ドブ ィル の批判 のよ うに 自分 に何の難儀 もさせず

,力

も加 えず に易 々と出来 ることで は決 してないのである。 シャフツベ リーは単 な る気 ま ぐれ

(fancy)に

従 って行為す ることを きつ く戒め⊂

4)き

び しぃ修練

,訓

,意

志 的努力 の必要性 を しば しば説 いて いる。気 まぐれは常 に訓練 と管理 の下 におかれな くて はな らず

,そ

の訓練 は きび しければ きび しいほどい ゝともい う(15)。 マ ン ドヴ ィル は シャフツベ リーの倫理 は怠 け者

(Drones)を

つ くるだ けであ り

,

まぬ けな僧院生 活 の享受者

,

せ いぜい田舎治安判事 に適 させ るにす ぎない もの とい うが(16), 勿論マ ン ドヴ ィル とシ ャフツベ リー とで勤勉や訓練 の 目的のちがいはあると して も

,こ

の批判 は決 して正 しくない といわ な くて はな らない。 シャフツベ リーにおいて

,道

徳 の根本原理 で あ るモ ラル・ セ ンスは

,美

感 とほ とん ど同 じもの と 見 な されて い る こともた しかで はあ る。芸 術 は徳 と友 で あ り(17), 美 と菩 は同 じであ る(り ともい う。 しか しなが ら

,

シャフツベ リーにおいて甚 だ特徴 的な ことは

,そ

の美 といって も必 らず しも静 的な ものでな く

,む

しろ甚だダ イナ ミックに とらえ られ,「 美 しくされた もの」 (the beautified) よ りも 「美 しくしてい くこと」

(the beautifying)の

方 が真 の美 で あ るといわれて い るので あ る(19)。 そ して彼 によれば

,

あ らゆ る美 の中で道徳 的な美 にまさるものはない とされ

,「

この世 に おいて最 も自然的に美 しい ものは正直 さと道徳的真実」 であ り(20), 善 を のぞいた美 の享受 はあ り えない ともい う(21)。 ここで注 目され ることは

,シ

ャフツベ リーはた しか に 自然 の讃美者で はあ っ て も

,そ

れ は

,必

らず しもなまの 自然をそのま 扶讃美 して いるのではな くて

,人

間の行動を合 めて 自然の啓発 された姿 に こそ

,真

の美を見てい るとい うことである。 シャフツベ リーによれば

,人

間 の行 動や身体 を見 る場合 で も

,

自然 か らのみ教 え られ た者 と反省 や芸 術 の助 けをか りた もの との間 には一般 的には大 きな差 があ り

,「

行 動 にお ける優雅 さと適 切 さは

,高

等 普通教育を うけた人 々の 中にのみ見 出 され るとい うことは否定 出来 ない ことで ある。 し か も この種 の優雅 な人 々の間で さ え

,更

,幼

い時 か ら訓練 を うけ

,最

良 の教師 の下 に 自分 の行 動を形 づ くった最 も優雅 な る人 々が 見 出 され るので あ る(22)。 」 この点 か らす るとき

,

例 えば

,

シャフツベ リーにおいて「 (自然 の) すべて は正 しい。 もっとも人 間はよ くない とい う事実 はあると して も。 しか しそのよ くないのは文

19

「 自然 的」 とい う表現 は

,シ

ャフツベ リーで もや は り多 様 な意味を も っていて細心 の注意を要す るが

,グ

レィンに よれ ば

,そ

れは五 つに分 け られ るとい う。Stanley Grean i Shaftesbury's Philosophy of Rel― igion and Ethics.p.142f.し か し

,グ

レィンも指摘す るように

,「

道 徳的」 と同 じ意味でいわれ る場 合 が

,や

は り基本 とい える。

l141 1nquiry, C. I. 302

t51 Advice to an Author. c. I. 208

161 B, Mandeville;The Fable of the Bees, Oxford. P, 333 1切 Adviceo C. I. 217 位

9 The MOralists,C,H.131

1191 ibid

lml FFeedOm.C. I.94

911 The MOralists.C.H.141

921 Advice.C.I.125

(7)

明人で あ って

,

自然 的人 間で はない」('3)とぃ ぅ

,

は じめ見 た ことに関連 した見方 は

,

必 らず しも 正 しい もの とはいえないで あろ う。 た しかに シャフツベ リーは文 明の悪影響を鋭 く見 ていたが

,

し か し決 して文明的

,文

化 的な ものを斥 けてなまの 自然を讃美 したわ けではないのである。最 も自然 的な原理 で あ るモ ラル・ セ ンスその もので さえ

,実

は生来 のま ゝではな らず

,き

び しい修練

,啓

発 によ らな くては決 して十全 な る原理 とはいえないので ある。(24) シャフツベ リーにおいて道徳 とは

,

このよ うに見 る限 りでは

,

自然 にあ りなが らいわば 自然を超 出 して理想 に迫 るダ イナ ミックな働 きともいえ る。逆 にその努力を怠 り

,あ

るい はその道徳 の独特 な機序 に狂 いの生 じた とき

,は

じめ に見 たあの醜 い現実 に堕 す るのではあるまいか。 従 っ て 例 え ば

,も

ともとの気性 と しては数 々の善 さ

,正

しさを もってい る人 で も

,障

碍 に耐え うる強い意志 の 力を併せ もたない とき

,期

難 に遭遇 して全 く逆 にな ることもあ り うるので あ る。5)。

3.

自 然 的 存 在 の 二 重 構 造 と本 来 性 へ の 志 向 では

,

シャフッベ リーは

,徳

は「 自然 に従 う」 ところにあ ると しなが ら

,道

徳 のその独 自な働 き において実 は超 自然的理想 を説 こうと したものであろ うか。 い うまで もな く

,決

して そ うで はない。 シャフツベ リーにおいてその徳 の標準 は

,あ

くまで 自然 以外 にはな く

,道

徳 はや は り自然的存在 の理法 で しかないのである。「 自然の外 の どこに一 体

,わ

れ われ の基 準を定 め

,自

然 を見 な ら う以外如何 に してわれわれ 自身を規制 出来 るとい うのか。 自然 を越えては もの事 の如何 なる尺度 も規定 もあ りは しないのだ(1)。 」 この道徳 の標準 となる自然が , 最初述 べ た美 しく

,調

和 的な姿で あ り

,社

会的

,

自他 連 関的

,秩

序 的 なあ り方 に外 な らないわ けで あ るが

,

しか しそれ も

,何

も非現実的な理想の姿 を述べた ものではな く

,悪

い教育 か ら くる偏見 に よ らない限 り

,わ

れわれが

,存

在 して い るものや

,人

間 自身 の 自然な状 態を眺め るところか ら知 ら れ る姿に外 な らないのであ り(つ), 事実 と しての 自然で しかないとい うのである。 シャフツベ リーに よれば

,わ

れわれ に人類へ の愛情 が存す るとい った ことも

,「

動物体 や単な る植物 の器 官 や 部 分 が

,そ

れぞれ の きま った動 きを し一定 の発達過程をた どるの と全 く同 じよ うに

,

しか るべ くしてあ

90

ヽ「ハilliam E.Alderman:op.cit.

9ひ cf,Esther A.Tiffany.“ ShaFtesbury as Stoic."(PubliCations oだ the modern Language Asso―

dation,X X XVIII,P,670.679).シャフ ツベ リー のPhi10sophical Regimenは ,Characteristics全般

ともか な リニ ュア ンスを異 にす るので

,同

一 に扱 うにはい ろいろ問題 もあ るであろ うが

,テ

ィフ ァニイは こ の論文 で

,Regimenと

Characteristicsと は密接な関係が あ るとし

,Regimenを

中心 に Characteristics とも関連 させ て シ ャフツベ リーのス トイ ックな面 を とり出 してい る。筆者 の

Resimenの

研究 は十分で ない が

,そ

の最初 の Natural Affectionゃ, Deity,Cood and 111の箇所 に限 っても

,

テ ィフ ァニイの強調 す るところはうなづ け るようで

,筆

者 としては この論文 に教 わ る ところ少 な くなか った。

12rdl lnquiry, C, I. 270-1

(1)Inquiry.C.I, 325

(8)

兼 横 り

,

自然 なので ある。 それ は胃が消化を し

,肺

が呼吸を し

,い

ろいろな腺か ら液 が分泌 され

,そ

の 他 の内臓 がそれぞれの役 目を果すの と全 く等 しく自然的なのである(3)。 」 こ \で述 べ られて い る限 りで は

,

シャフッベ リーにおける「 自然的」 とは

,全

く科学的

,実

証 的 な意 味で の 自然法則 的なあ り方を さ してい ると見 ることも出来 よ う。人間の本性 は

,全

くの事実 と して美 しく

,調

和 的で あ る とい うことにな る。た ゞ

,そ

の ことを人 が必 らず しも知 っているとは限 らないわけで ある。「 この 内的世界 の秩序 と調和 は

,明

らか に身体 のそれ と同 じよ うにそれ 自体

,事

実 で あ り

,正

確 なのだ。 しか しなが ら

,こ

の種 の分析 家 になろ うとす る人 がほ とん どない ことも明 らかで あ り

,そ

のよ うな こ とに大変 に無知であって も誰 も恥 じよ うとも しないのである(4)。 ところで

,

自然 とは

,わ

れわれ の知 ると知 らぬ とを問わず

,美

しい調和

,均

,秩

序 の中にあ る ことが このよ うに全 くの事実 と してあるとす るとき

,

これを

,わ

れわれ が先 に見 たあの徳 の戦 いの 側面 と照 らし合せ て見 て

,何

よ りも切 白にな って くることは

,シ

ャフツベ リー において人 間の 自然 は実 は二重 の構造をな してい るとい うことで あろ う。 つ ま り

,

自他連 関的

,

社会 的

,

調和 的存在 と

,そ

れ とは必 らず しも相 即 しない傾 向性 の力 の側面 との二つの世界 である。 もっとも

,二

重構造 とはい って も

,両

者 が全 く相 反 す るほ ど常 に分裂 的に考え られているとい うわ け で は な く

,む

し ろ

,傾

向性 の側面 も一般 的には

,調

和 的存在 とその方 向においては同 じであ ると見 るべ きで はあろ うが

,た

,現

実 の人 間 にあ って は

,一

切 の統御を必要 としないほどにそれが はじめか ら完全 に相 即 して はいない とい うことで あ る。 シ ャフツベ リーは

,こ

の二 つ の側面 を認めた上で

,

しか し前者 の

,自

他連 関的

,調

和 的

,秩

序 的 存在 を

,人

間 におけ る自然 の本 来 と見 た とい うことで あろ う。後 にふれ る福徳 の一致 が

,い

わ ばそ のあか しとも

,ま

,そ

の結果 ともな るわけである。 従 って

,

シャフツベ リーにおいて道徳 とは結局

,現

実 の人間 にあ って は

,そ

の調和 の姿

,即

ち本 来 的 自然 に向って

,そ

れ とは必 らず しも相即 しない傾 向性 の側面を統御 してい くそのプロセス

,あ

るいはその努力のダイナ ミックな態度 に こそ存す るもの とい うことにな るので はあ るまいか。 その 任 に当 るものが, シャフツベ リーにおいて

,結

,先

のモ ラル・ セ ンスとい うことで あろ う。 モ ラル・ セ ンスは

,そ

の全体 的連 関

,調

和 の観点か ら

,部

分 の姿

,現

実 の傾 向性 を眺め

,そ

の対 応 において美醜 に分かつ原理 であ り

,更

にそ こか ら

,「

新 たな る好悪 の感」 を生ぜ しめ る(5)力 とも な るもの といえよ う。 これが先 に見 た反省 による統御機能 なのである。 そ もそ も

,シ

ャフッベ リーにおいて美感 の標準 は

,

結局

,

均整

(prOpOrtion),

規則正 しい こ

(Fegularity),調

(harmOny,symmetry),秩

(Order)な

どで あるといえよ うが

,先

に述べたよ うにモ ラル・ セ ンス も美感 とほとん ど同一視 され るところか ら

,

これを絶対的直覚能力 ibid。 280--1 ibid. 284 ibid. 251 e は 6

(9)

と見 るよ りは

,よ

り適 切 には

,人

間 の行為 におけ る調和

,均

整 の感 ととるべ きもので あろ う。従 っ て そ こに当然重大 な問題 が生起 して くることに もなるが

,そ

れ は後 に改めてふれ ると して

,と

にか く

,

シャフツベ リーによれば

,例

えば身体や感覚 的な事 が らにおいて部分 の様 々な度合 い

,配

置 に よ って美醜 が きまるよ うに

,道

徳 の場合 で も

,行

為 が規則正 しいか否か に応 じて明 らかな差 が出て くるのであ る(C)。 それは秩序 と均整 のセ ンスであ る(7)か

,「

徳 とはそれ 自体

,社

会 にお け る秩序 と美 の愛 に外 な らない」(8), とぃ ぅことにもな るわけである。 た ゞ

,

こ ゝで甚だ注意を要す ることは

,

このよ うに美的

,社

会 的

,調

和的な姿が人 間 における自 然 の本来 と見 な された とい って も

,シ

ャフッベ リーにおいて

,必

らず しも

,単

な る社会 的感情 のみ が 自然 の本来 とされてい るわけではないとい うことである。社会的感情 のみな らず 自己感情 (Self affections)も 立派 に 自然であ り

,

しか も

,

シャフッベ リーにおいて強調 されてい ることは

,単

な る感情 の次元だけの ことではな くて

,そ

れを通 した

,自

他 連 関的

,

調 和 的 存在 その ものなのであ る。 も しそ う考えなければ

,

シャフツベ リーが 自然的感情

,つ

ま り「 公共 の善へ と向 う感情」 が必 らず しも「 自然的」 とはいえず

,時

には「 非 自然的」

(unnatural)と

な り

,

逆 に

,現

に 自然 に存 在 す る もので あ りなが ら一 度 も「 自然的感情」 とは呼 ばれていない「個人 の善 のみ に向 う」 自己感 情 が

,時

には「 自然的」で

,絶

対不可欠 であるとされ るとき(。), シャフッベ リーの 自然の意味

,道

徳 の真 意 は遂 に理解 出来ない ことにな るで あろ う。 シャフッベ リーが社会的感情を強調 し

,ま

たそ の 自然性 を実証 しょうと してい ることはた しかであ る。 しか しそ こにおけるシャフツベ リーの力点 は

,必

らず しもその ことにとどまるものではな く

,ま

して

,単

な るその社会的感情 のみが 自然 の本 来 で あ るとす ることにあるのではな くて

,む

しろそれを通 しての

,人

間 の 自他連関的な

,調

和 的, 秩序 的存在性 にあ るので あ り

,従

って道徳 の問題 は

,結

,何

よ りもそのよ うな存在 と

,そ

れ に必 らず しも相即 しない傾 向性 との関係 にあった と考え るべ きではなかろ うか。 勿論

,こ

こに方法論上の問題 は残 ることにな るが

,

しか しここで

,あ

くまで も

,

シャフッベ リー の力点 は社会的感情 の 自然性 とその本来性 の実証 にあ り

,従

って道徳 の主題 は

,そ

れ との 自己感情 の調和 にあったととるな らば

,

シャフッベ リーにおいて更 に解決 のむつか しい問題 に遭遇す ること にな るであろ う。っ ま り

,そ

れ は

,

シャフッベ リーが社会的感情 の経験的実例 と してあげてい るも の と

,全

体的調和的 自然観 との間 に

,埋

めがたいほ ど大 きなギ ャップがあるとい うことであ る。 シ ャ フツベ リーは

,親

,親

族 の情

,友

,異

性愛

,仲

間 の愛

,そ

の他 人類 愛 など仁 愛的感情を社 会 的感情 の経験 的実例 と してあげ

,そ

して それ らを もつ ことの喜 び

,そ

れ らによ る他 との連帯か ら 来 る同感 の快 など述べてい るが

,

シ ャフッベ リーのそれ らの例 に即 して見 るとき

,そ

れ が ホ ッブス な どのエゴ イズ ムの論 ぱ くにはあるいはな って も

,

シャフッベ リーの基本的な 自然 のオプテ ィ ミズ (6) ibid.

(7)The MOralists.C.II.63

(8)Enquiry. C, I. 279

(10)

作 兼 横 ム

,調

和的

,秩

序 的全体 に直結す るとは限 らないか らである。 これを明 らかに したのは ヒュームで あ った。 ヒュームによれば

,わ

れわれ の 自然的な愛情 は これをすべて集め ると利 己心 よ りも増す ほ ど

,人

間 は利他 的側面 を ももって い るが

,

しか し

,そ

の愛情 は実 は甚だ偏 ぱであ って

,従

って それ にのみ従 うとき

,つ

ま りはその通常 の姿を義務 とす る「 自然的徳」 にのみ従 うとき

,社

会 は返 って 混 乱 して しま うとい うのであ る。 こ ゝに正義の徳 が人為的徳 と して登場 して来 ることにな ったので あ る(10)。 シャフッベ リーの人間観 は ヒュームのそれ とは決 して同一 ではないけれ ども

,

シャフツ ベ リー 自身 も上 の ことはある程度認 めて もいた といえ る。「 思 うに

,

このよ うな群生的な原理や結 合傾向とい うものはほ とん どの人 々において甚だ 自然で

,ま

た強力な ものだか ら

,人

間社会 におい て極 めて多 くの混乱 が生 じるのは この感情の力か らで もあ ると直 ちに断言 してい ゝであろ う」(11) とい って い るので あ る。 シャフツベ リーが社会的感情を甚だ賞讃 してい ることはた しかな ことで あ るが

,そ

れ は

,社

会的感情 のすべ てでは必 らず しもないので あ る。 われわれ の社会的愛情 は決 して 部分 的で偏 ぱな

,程

度 の低 い もので あって はな らず

,常

,社

会全体

,あ

るい は人類全体に向 う完 全 で

,真

実 な る

,真

に道徳 的な もの

(entire,sincere,truly moral one)で

な くてはな らない と 注 意 してい るので あ る(12)。 そ こか ら

,甚

だ奇妙な ことに

,友

情 や

,親

,人

間愛などもこの世的 な もの と して軽 く扱 われて くることに もな る(13)。 『 モ ラ リス トた ち』 の中で も

,

テオ ク レスの口を 借 りて

,「

個 人 の友情 で はな く

,全

体 の友情 」

,「

個 人の友 で あ る前 に人類 の友 」であ ることが要 求 されてい るが(14), このよ うな愛情 のあ り方 は

,

懐 疑論者 フ ィロク レスか らすれば

,

自然的 ど こ ろか

,む

しろ

,「

自然を攻撃 して い るもの」(15)と ぃ ぅことにな るわ けであ る。 シャフツベ リー に お ける「完全 な感情」 (entire affection)と ぃわれ るものは

,常

に全体系 の 調 和 と 秩序を 目ざ す

,あ

る意 味では

,道

徳 的愛情

,実

践的愛 とい って よい もので あろ う。 これ らは社会的感情 の経験 的実例 と して シャフツベ リーのあげ るもの とはやは りかな りの距離を有す るといわな くてtまな らな ゃ、(16)。 ギ ャップの問題 に長 々とふれたわ けであるが

,わ

れわれ と して はや は り

,社

会 的感情 の強調 にお け るシャフツベ リーの力点 は

,

それ らの実在性

,

自然性 の強調 に と ゞま らず

,

更 に それ らを通 し て

,結

局 は

,人

間 の 自他連関的存在性 の強調 にあった と思 わ ざるをえない。 それは

,例

えば

,「

個 (9) ibid. 286--3 は

0

拙稿「 ヒューム道徳感情の一考察―一 同感理論を中心 として一―」 (鳥取大学教養部紀要第二巻

)参

lJ Freedom.C,I.75

ttt lnquiry.C.I.299∼300 131 ibid・

tO The MOralists.C.H,41

1151 ibid. 128

10

テ ィファニイは先の論文,“ ShaFtesbury as Stoic"で

,シ

ャフツベ リーの こあ「完全な感情」の道徳性, そのきび しさに特に注 目しているが

,

中でも

,

シャフツベ リーは, Phi10SOPHcal Regimenの 第一章の Natural AfFectionの 中で,natural affectionと ,natural affectionsと を区別 しているとし

,

単数形 の前者のみが真に道徳的な意味をもった感情であると指摘 している。Esther A.Tiffany,oP.cit・ P・ 6791

(11)

々の存在者 の情緒

,愛

情 は種族 の利 害や共通す る本性 と一定 の関係 があるとい うことは既 に示 した と ころであった。 この ことは

,

自然的感情

,親

の情愛

,子

孫へ の熱情

,…

…… の場合 に証 明 された ところである(17)」 とぃ ぅ説 明の仕方 にまであ らわれてい るともいえよ う。 勿論

,

このよ うに解 し たか らといって

,上

に!留摘 したギ ャ ップの問題 が完全 に解決 したわ けで はな く

,

これ については後 に またふれたい と思 うが

,

とにか く

,

シャフツベ リーにおいて人間 は決 して孤立 してのみ あるもの で も

,

またそれ に耐 え うるもので もな く(10, 他 との連関の中に存在す るものであ り

,そ

れが人間 の真 に 自然な姿 であることと 何 よ りも強調す ることにあったであろ うと思われ る。否

,そ

れ は

,存

在 す るものすべ て にいえ る ことで

,シ

ャフッベ リーによれば

,す

べ て は他 の もの と何 らかのか 積わ りにおいて あ り

,従

って

,そ

この部分 とい うことにな り

,更

にその関係 は別 の体系

,種

族 との間の 一 部をなす とい うよ うに

,

すべ て は秩序的連 関の中にあるのであ って(1つ), 枝が木 に

,

木が 大地 や 空 気や水 と直接結合 してい るよ うに

,「

この世界 のすべてのものは結 ばれている」 ので ある(20)。 ま こと

,

トレル チが シャフッベ リ‐の背景 と して とらえた「世界有機体」 あるいは「世界有機体の

調和」

(die HarmOnie des Weltorganismus)(21)と

ぃゎねばな らないが

,そ

れ も

,平

井俊明氏 も指摘 され るよ うに(22), 単 な る中世的有機体説へ の復 吉ではな くて

,

人 間において は近代的 自覚 を経 た ものであることを

,

くり返 しておかね ばな らない。「 人 は約束を守 らねばな らぬ とされ る。 何 故か。 それは彼 が約束を守 るとい ったか らで ある。 …… これ は

,道

徳 的正義の起源 や

,市

民 国家 と忠誠 の発生 についての立派な説 明ではなか ろうか」(23)と もいわれてい るよ うに

,人

間 は

,単

に 自然必然的に調和 と秩序 の中に組み込 まれたま 【の動植物 とは異 って

,

自覚 的にその全 体的連関の 関係 に入 ってい く存在 で あ り

,

そ こに自己 自身を見 出す存在 なので ある(24)。 その故 に こそ

,

シャ フツベ リーも単 な る菩 さ

(mere goodness)と

,「

人間にのみあ りうる徳 や価値」 とを区別 して 論 を進 めて もい るので あ る(25)。 シャフツベ リーの 自然観

,特

に人間の 自然 に対す る考 え方 の特色 は

,何

よ りもそれを甚 だダ イナ ミックな姿 において とらえた ところにあるといえる。即 ち

,自

然 は

,あ

る意味においては 自己との 戦 いにおいて

,

自己を超克 しょうと し

,

しか し結局 はそれにおいて 自然 の本来を生 きる

,つ

ま り, 真 の 自己を生 きるとい うこの見方 は注 目されて よい と思 う。 この意味 においてはマ ン ドヴ ィルの批 判 がみ なまちが って い るとい うわけではない ことに もな る。 シャフッベ リー 自身

,楽

器 の演奏 にた lη

lnquiry,c,I.280

住81 CF,ibid.315, 335 The MOralists,C, II. 83

191 1nquiry. c. I. 244

90 The MOralists.G.II.64 Phi10sOPhiCal Regimen.P,13(B,Rand,ed,)

1211 E. Troeltsch i Aur tze zur Geistesgeschichte und ReligiOnssoziologie, S, 420-1

92平

井俊 明「 ロ ックにおけ る人間 と社会」増補版

,202-4頁

120 Freedomo C.I.74

120 Advice.C.I.123 Freedom,C,I.81

(12)

兼 横 とえてい るよ うに(26), 自然は これを一大 オーケス トラと見 ることも出来 るであろう。 そ して

,

そ の シ ンフ 男ニーは シャフツベ リーにあ って限 りな く美 しくあ りうるであろう。 た ゞ

,人

間 において そ のオーケス トラは決 して安易 に成 り立つ ものでな く

,そ

の メ ンバ ー と して の 自覚 ときび しく

,正

しい修練 を欠 くとき

,そ

の美 しい シンフォニーの実現 はおろか

,団

員各 自の 自己破滅を も来 た しう る もの とい うことであろう。悪人 とは結局

,そ

の人間 と しての本来の存在 にそ っていない ものとい うに外 な らない(27)。

4.道

徳 と 幸 福 これ まで見て来 たよ うに

,

シャフツベ リーにおいて道徳 とは

,

自然的傾向性 の統御

,否 ,そ

れ と の戦 いにおいて

,

しか し結局 は真 の 自己の 自然を生 きるもの

,あ

るい はその志 向で あ った。 ここか ら

,道

徳 と幸福 とは

,一

,相

反す るかのよ うでその実

,先

に も一言ふれたように

,全

く一 致す る こ とにな るのである。 これが

,バ

トラー とも共通す る

,

シャフツベ リーの福徳一 致 の思想で ある。 シャフツベ リーによれば

,「

如何 な る存在者 に も本 当 によい状 態 と悪 い状 態 (a really right

and wrong state)と

い うものがあるものであ り

,そ

の よい状態 とは

,本

来 的 にお し進 め られ, 自 己 自身によって熱烈 に求 め られ るものの ことである」(1)といわれ るよ うに

,も

ともと

,よ

い状態 と は欲求せ られ るものの ことであ り

,従

って そ こか ら

,真

の 自然的存在 と幸福 とは

,

シャフツベ リー に あ って は

,は

じめか らいわば表裏一体 の関係 にあ った とい って もよいであろ う。幸福 は真 の 自然 的 存在 の結果 と して必然的に もた らされ るものであ り

,そ

の意味で真 の幸福 は 自然的存在 の

,つ

ま りは道徳 のバ ロメーターであるともいえ る。 この徳 の幸福を説いた ものが

,

特 に『徳や価値 の研究』第二巻 (BOOk工

)で

あ るといえ る。 そ の骨子 だけ記せ ば

,ま

ず 自然的感情 に生 きることの幸福な ること

,つ

ま り

,社

会 的

,仁

愛 的感情 そ の ものの菩 び

,そ

れを もつ ことを反省 して の道徳 的喜 び

,そ

して他 との連帯 か ら来 る同感 の喜 びで あ り

,第

二 の 自己感情 について は

,

これは適 度 には是非 とも必要な ものであるけれ ども

,過

度にな る と返 って初期 の 目的に反 して不幸 にな ると して

,こ

ゝではその 自己感情を主 に利 己的感情 と して と らえ

,第

二 の非 自然的感情 について は

,最

初 に も述べ た よ うに 自然 に基礎 を もたない もので

,む

しろ他人の不幸を喜ぶ邪悪 な感情であ り

,

自他 に とって何 の益 に も幸福 に もな らない もの

,と

結 ぶ の で ある。 ちなみ に

,

特 に 自然的感情 を 中心 とす る幸福感 につ いて少 しつ け加 えて お くと

,

幸 福 は

,

シャフッベ リーによると大別 して身体的感覚的快 と精神的快 とにな るが

,い

うまで もな くその 中 で精神 的快 がよ り大 である。 なん となれ ば

,精

神 的 に気 がか りのあるとき

,感

覚 的快 は失せ て し 1261 ibid. 290-1 ?D ibid. 285

(1)Inquiry,C.I.243

(13)

ま うか ら。 そ して精神的快 に も実 は質的な区別 があるのであ り

,結

,哉

も快適 なのは他 と交 わ る 社交 の喜 びで あ るとい うので ある。異性間の愛 も

,否,放

蕩者 です ら結局 はその社交 の喜 びを求 め て い るのだとい う(2)。 そ こか らシャフッベ リーは

,わ

れわれ の幸福 は

,そ

の社会的愛情 が完全 か否 か にか \って い るとい う(3)。 この「 完全 さ」に問題 がないではないが

,と

にか く , このよ うに して 社会的 に調和 し

,他

と関係 してあるところに最 も喜 びがあるとい うのである。社会的 に調和 し

,関

連 して あるとき

,最

も幸福であるのは

,何

よ りも実 はそ こに 自ず と追徳 的反省 によ る是認 とい う最 高 の喜 びが加 わ るか らで もある。か くて

,徳

と福 は完全 に一致す ることにな る。 シャフツベ リーは この世 において徳 にまさる美 しさ

,徳

にまさる喜 びはな く(4),

,人

は徳 においてのみ幸福 とな る のだ ともい う(3)。 た ゞ

,こ

Iで

問題 とな って来 ることは

,特

に この『研究』第二巻 において

,

シャフッベ リーは上 の ように主張す ることによって道徳的義務

,あ

るいは道無的実践 の動機を幸福

,快

において説 き, 結局快 楽主 義 の立場 に立 ったので はないか とい うことで あ る。事実

,

シャフッベ リー 自身第二巻 冒 頭 で次 のよ うに述べ たので あ る。「 われわれは徳 の何た るかを

,そ

して その品性 が如 何な る人 に帰 属すべ きものな るかを考察 し終えた。残 る問題 は

,徳

に対 して如何な る責務

(Obligation)が

あ る か

,徳

を奉ずべ き如何な る理 由

(reasOn)が

ぁ るか

,と

い うことのみである」(6)と。 そ こで

,

ロジ ャースはは っき りと シャフッベ リーにおける快楽主義的視点 を指摘 し(7), マルテ ィノウはわれ われ が これ まで見 たような形 に近 い徳 の きび しさを見ていただけになおの こと

,

シャフツベ リーは こ 蛍 で「 快楽主義の立場 に降 りてい った。が

,

これ に対 して は弁護 の余地 はない」 ときめつ け ることに な ったので ある(3)。 これ らの指摘 も示す よ うに

,

シャフツベ リーにおけ るその快楽主義の側面 は

,あ

る意味で は

,た

しかに否定 されえないであろ うと思 う。 こ ゝでは

,常

に徳 の幸福 と快 が前面 に出され

,あ

の徳 の き び しさ

,モ

ラル・ セ ンスの独 自な機能 ははるか彼方 に後退 してい ることは何人 も認 め ざるを えない と ころである。 この点 か らみれば

,同

じよ うに「 徳 は 自然に従 う」 ところにあると し

,ま

た福徳の 一 致を となえたバ トラーによって, シャフツベ リーの欠陥 は良心 の崇高性

,そ

の権威を認 めない と ころにあると批判 された(9)の

,無

理 もない ことであ った。 だが

,

しか し

,シ

ャフッベ リーの この面 が

,全

く弁解 の余地 のないほ ど矛盾 し

,あ

るいは

,明

確 (21 ibid・ 297,310 (3) ibid・ 299 (4) ibid, 296--7, 201

(5)The MOralists,C.H.67

(6) ibid. 280

(7)R,A.P.Rogers i Short History of Ethics,p.156

(8)J.Martineau;Types of Ethical Theory,Vol, ェ

.P.500

(9)J・ Butler;Fifteen Sermons.Preface.〔27〕 f.n(The w17orks of Bishop Butler, T. H.

(14)

作 兼 山 横 な快楽主義の立場 を示 しているものであろ うか。必 らず しもそ うではないで あろ う。道徳 のきび し い戦 いの側面

,モ

ラル・ セ ンスの独 自な働 きの面 はた しか に後退 し

,快

が前面 に出ていることは, 今述 べ た通 りで あ るけれ ども

,

しか し

,

この第二巻 において も

,モ

ラル・ セ ンスあるいは反省 の原 理 は常 に徳の前提 とせ られてい ることに何 よりも注意 しな くてはな らないと思 う。 その前提の上 に 立 っての

,徳

へ の

Obligation,reasonな

のである。 そ もそも

,先

に引用 した『研究』第二巻 冒頭の文 も示す よ うに

,道

徳性 その もの につ いての検討 は第一巻で既 に一応終 ったのであ り

,そ

れ に続 く文 の運 びか ら考 えて見て も

,

こ ゝでは何 よりも, 徳 は幸福 と対立す るもの

,従

って幸福であるためにはむ しろ徳 を捨 て るべ しとす るよ うな

,甚

だ し い偏見 をた ゞす ことに力点 があったと見 るべ きものであろ う。 それ によ って

,徳

へ の不必要なル ーキを とり除 こうと した もの ともいえ る。 そ うだ とすれば

,先

Obligation,reasonも

,必

らず しも厳密な意味での「 道徳 的義務」をあ らわす と見 る必要 はないのではないか。 その意味での義務 な らシャフッベ リーはむ しろ `duty、 の語 を多 く用 いてい るのを見 る(10)。 っ ま り

,

ここで徳ヘ の責務 が幸福

,快

におかれているとはい って も

,そ

れ は

,い

わば二次 的

,副

次 的 な動機 を意味 し, 必 らず しも

,先

に見 たよ うな道徳 の純粋性をおかす ものと見 る必要 はないといえ るで あろ う。 こ \ で は

,例

えば

,モ

ラル ●セ ンスは存 して も

,徳

の不幸 とい う観念 において実践をため らっている人 や

,真

の幸福 の何た るかを知 らない人のために

,む

しろ徳 の幸福な ることを示す ことによ って実践 にい ざな うとい う

,あ

くまで次善 の動機を問題 に した もの といわねばな らない。否

,既

に第一巻 に おいて さえ

,シ

ャフッベ リーは

,徳

の喜 びそのもののために徳 を行 な うことを決 して斥 けず

,む

し ろそれは

,

真 の徳を

,

徳 それ 自体 のために愛 してい る証左で もあると して賞 讃 しているほどであ る(1つ それ とい うの も

,

そ こに既 に高 い道徳性 が前提 されているか らである。 勿論

,シ

ャフツベ リーに問題がないとい うわけではない。 シャフツベ リーの快楽主義的側面 は全 般 的 に さえ も否定せ られえないものがあ り

,後

に見 るよ うに

,視

点 のズ レが あ り

,現

実面 に余 りに も譲歩 しす ぎた結果 の逸脱 といえ る面 も決 してないわけではないが

,

しか し

,既

に これ まで見 て来′ た よ うに

,人

間 の 自然 その ものが

,そ

の本来性 においてはた しか に 自他連関的

,調

和 的

,秩

序 的で はあって も

,現

実 的 には

,そ

の傾向性 の

,力

の側面1ま必 らず しもそれ に相即す るとは限 らない存在 であ った。 それ故 に こそ徳 は戦 いともな るわけであるが

,

しか し

,そ

こで道徳 の原理 が必 らず しも 十分 に強力でない者 において

,如

何 に して その強い力 の体系を克服 しうるとい うので あろ うか。現 実 にお ける人間の実践 が間われ るとき

,

この傾向性 の力の体系を全 く無視す るわ けにはいかないで あろ う。特 に快楽

,幸

福へ の欲求 は甚 だ強い ものがあるか らであ る。「 人 はそ こに快 を見 出さない 限 り

,決

して その習慣 をよ りよ く守 るよ うにはな らない もので ある」(1の ともいわれているのを見 l101 Cf, Enquiry. C. I. 286, 287, 291, 303, 313 仕〕 ibid。 273これ が や が てハ チ ス ンに よ って も問題 に され る こ とに な った。F,Hutcheson;IIIustrations

upon the hIOral Sense(Selby― Bigge. ed, British WIoralists, p. 418)

(15)

る。非 自然的感情 も現実的にはは っきり存在す ることはい く度か述べた ことであったが

,そ

の 自他 何れ に対 して も何 の益 も幸福 ももた らさない この感情 も

,実

は倒錯 され た ものなが ら

,当

人 自身の 主観 と してはあ くまで 自己の快 と して追求 されてい るものである(19)こ とに注意 しな くて は な ら ない。 シャフツベ リーによれば

,宗

教 的修練 において さえ この広 い意味 で の 自己愛 は決 して否定 さ れ てお らず

,む

しろ

,「

われわれ において甚だ力を もつ」 その原理 は

,規

制 され るどころか

,益

々 強 め られ るよ うにな って い るとい うことで ある(14)。 しば しば述べたよ うに

,そ

の現実へ の譲歩 においてた しかに視点 の移動

,逸

脱 が あ った ことは否 めない と して も

,

シャフツベ リー 自身 と しては

,あ

くまで

,

この快

,幸

福 のみか らの徳 の実践 は, 二 次 的

,副

次的な もので しかな く

,ま

たその ことを十分承知 の上で福徳 の一 致を説 いたのであろ う と思 われ る。「利 己心 の習慣や さまざまな利害的な物 の見方 とい うものは

,真

の価値 や徳 にはほ と ん ど役立 たないけれ ども

,

しか し

,徳

と真 の利益

,

自己幸福 は決 して相 争 うもので ない と思 うこと は

,徳

を保つために

,是

非 とも必要 な ことで あ る(15)。

5.道

徳 の 根 底 と 宗 教 最 後 に

,

シャフツベ リーにおける道徳 の究極的根底 について

,特

に宗教 との関係を中心 に少 しく 掘 り下 げて見 ることによ って

,結

論 に代 えよ うと思 う。 改めて い うまで もな く

,

シャフツベ リーにおいて道徳 の根底 をな してい るものは 自然である。 そ して その 自然は

,

これ まで見て きたよ うに

,い

わば 自己超克 の形において しか し結局 は真 の 自己を 生 きるとい う

,独

自な構造を もつ ものであった。 その 自然の本来性へ のダ イナ ミックな志 向に道徳 が あ り

,そ

こにこそ真 の幸福 もまた結果す るとい うのが

,こ

れ まで見 た と ころで あ った。 しか しそ れ な らば

,何

故 には じめわれわれ のかい間見 たあの醜 い現実 の姿 が現 われ るので あ るか。 それ は, これ まで折 々のぞいた ところでは

,そ

の 自然の本来へ の努力 の欠除であ り

,そ

の独 自な機序 の狂 い で あ ったが

,で

,そ

れ らは

,結

局 は何 に帰着す るものであ ろ うか。 まず そ こか ら考察 して見 よ う と思 う。 さて

,

シャフツベ リーによれば

,悪

徳 の真 の原 因

,つ

ま り「 徳 の原理を排 除 し

,あ

るいはそれを 無効 に させ るもの」 は二 つ で あ る。 その第一 は

,「

正邪 の 自然な

,そ

して真正 な るセ ンスを取 り去 る こと」であ り

,第

二 は

,「

それの まちが ったセ ンスをつ くること」

,第

二 は

,「

その真正 な るセ ンスが逆 の感情 によって反対 され ること」であるとい う。)。 しか しなが ら

,

シャフツベ リーによれ ば

,こ

の 中の第一 の場合 は

,実

際 的 には決 して あ りえない。 なん となれば

,

このセ ンスは

,先

ほ ど l131 Enquiry, C, I. 334 1141 ibid。 268--9 11D ibid・ 274

(1)Enquiry.Bk I.part

(16)

兼 山 横 も見 たよ うに生得的な もので

,わ

れわれを構成す る第一原理 であ り

,他

の如何 な る力を もって して も完全 には取 り除 き得 ない性質の もので あるか ら。残 る第二 と第二 の中

,最

後 の場合 は

,モ

ラル・ セ ンスに対す る傾 向性 の力の強 さであ り

,結

,そ

の強い力 との戦 いに勝 たない限 り

,道

徳 プ ロパ ー と しては如何 とも しがたいもの といわな くてはな らない。 その故 に こそ

,上

に見 た補助的原理 と しての広義の 自己愛 が登場す ることにな ったわけである。 そ こに

,徳

の幸福 に対す る正 しい認識 が 不 可欠 ともな る。残 る第二 の場合 は

,統

御 の原理 その もののあや ま りとい うことで

,こ

れ も道徳 と して は致命 的であ るが

,

シャフツベ リーによれば

,そ

れ は結局

,あ

や ま った慣習

,教

,迷

信 に も とづ くもの とい うことにな る(2)。 モ ラル・ セ ンスは生来的 に存す る独立 した原理 ではあ って も

,内

容 的 にはそれ らの もの に大 き く影響 され るわけで ある。 ところで

,

こ 卜で注 目され ることは

,

これ らの原 因 も

,更

にその根源 にさかのば ると

,結

,宗

教 に

,よ

り正確 にはあや ま った宗教 に帰着す るとい うことで ある。 なん となれば

,

シャフッベ リーによれば

,無

神論 の立場 ではそのよ うな価値 設定 を行 ないえ ないか らであ る。「 無神論 がまちが った正邪 を立て ることに直接影響す るとは考 え られ ない。 ……・……例えば人 肉を食べ ることが出来 るとか

,獣

の よ うに欲望を満す ことがそれ 自体 菩 で

,す

ば ら しい ことだ と思 わせ るよ うな ことはそれは決 してな しえない(3)。 」価値設定 に及 ぼす この無神論の無力 さに比 して

,宗

教 の もつ力

,そ

の悪影響 た るや

,図

り知れ ない ものが あ るともい え る。「 明 らかに悪 い性質を もつ神を愛 し

,賞

讃す る ことをそれが教 え るとき

,そ

れ は常1と

,そ

れ と同時 に

,そ

の悪 を愛 し

,悪

を賞讃す ることを も教 えているわけであ り

,も

ともと恐 ろ しく

,嫌

悪 すべ きことを

,ま

さに善 きもの

,愛

すべきものと思わせて しまうのである(4)。 」 シャフツベ リーの 考察は

,悪

徳の原因のすべて ゞは必 らず しもな く

,主

に宗教 との関係においてなされているという 事情はあるとして も

,

この宗教の及ばす力は決定的といわな くてはならない。 こ咲か ら

,シ

ャフツベ リーの宗教批判がはじまるわけである。そもそも『研究』冒頭か ら

,宗

教 と道徳 とのかい離の問題が提起 され

,宗

教的でも悪徳な人もあり

,無

信仰に見えて道徳的な人がい るとし

,わ

れわれはある人の宗教をたずねて も更 に彼の徳性を問 うが

,彼

の徳性をきけば

,

もはや 宗教 についてはたずねは しないという。 シャフツベ リーによれば

,神

の存在を信 じ

,神

は正 しく, 善であると信 じているとき

,実

はその信仰に正・ 不正

,真

・ 偽などが先立 っているのであ り(5), まり

,神

が善悪の根拠なのではな くて

,神

の菩 し悪 しを半J別す るものが人間の側にあるのだという のである。 これが宗教か らの道徳の独立であり

,大

きな意味をもったものでもあった。「徳の敵は 宗教である(6)」 ともいわれているように

,ホ

ッブスのエゴイズムに対す るように宗教に対す るシャ フツベ リーの批判には甚だきび しい面があ り

,そ

れだけにまた多 くの批判

,攻

撃を うけることにも cf, ibid. C. I. 254, 255, 261, 307, 325, 332 ibid. C. I, 261-2

ibid.c.I.262

ibid。 264

The MOralists,C. II。 46 図

0 囲 D 何

(17)

な ったわけであ る。 しか し

,そ

れ な らば

,

シャフッベ リーにおいて道徳 は宗教 か ら完全 に独立 したもの として あるで あろ うか。決 してそ うではない。 それが既成宗教 では必 らず しもないけれ ども

,シ

ャフツベ リーに お いて道徳 と宗教 はむ しろ極 めて密接な関係をな してお り

,上

の ことと一見 矛盾 す る よ うで ある が

,道

徳 の根底 か ら神 あるいは宗教を切 りはなす ことは不可能 であるといわな くてはな らない。 それは

,何

よ りもモ ラル・ セ ンスにあ らわれて くる。 モ ラル・ セ ンスは

,既

に見たよ うに人間本 性 に生来 的 に存 す る

,道

徳独 自の

,道

徳 の根本 的原理 といえ るもので あ った。 しか し

,先

に もふれ た よ うに

,そ

れ は必 らず しも生来 的に普遍妥 章的で

,絶

対無過誤 の原理 で はなか った。 それ も他 の 自然 的感情 のよ うに

,啓

発 され

,教

化 され

,修

練 を うけて は じめて確 固た る原理 とな りうるもので あ る。 その よ うな性質を もつか らこそ

,逆

,あ

や まった宗教 によ ってあや まったセ ンス ともな っ て い くわけである。 特 にそのモ ラル・:センスが美 感 と同一視 され

,

調和

,

均整 の感 とせ られ る と き

,そ

の基準 の とり方 によってその調和

,均

整 の感 は異 な って くる ことにな るのは道然で

,か

くて は結局相対 的なセ ンス とい うことにな らざるをえ まい。 シャフツベ リーは道徳 の相対 的な面

,そ

の よ うな考え方 のあることをよ く知 っていた。(7)が

,し

か し相対主義,懐疑主義 は シャフツベ リーの と る ところで は決 してない。徳 や価値 の標準 は永遠 的であ り

,そ

れ らは不変独立 なるものであると見 て い るか らである(P)。 しか しなが ら

,一

,何

によって

,如

伺 に して

,そ

の絶対的な標準を定 め る とい うので あるか。 内容的には必 らず しも十分 とはいえない本能 と してのモ ラル・ セ ンスを如 伺 に 啓 発 し

,あ

や ま ったセ ンスは何を もって訂正す るとい うのであるか。 こ 積に

,調

和 的

,秩

序 的 自然 の真 の法貝Jを

,世

界 の完全 な る姿 を見 うる絶対 的知がな くて はな らない道理 となろ う。 しか し

,無

神 論 にはか \る力 はあ りえない とすれば

,神

以外 の何 にそれを求 めえよ うか。か くて シャフツベ リ ーの 自然宗教 は道徳 の根底 その もの とな る。 その 自然宗教 の信仰 において は じめて人 は各人のモ ラ ル・ セ ンスを通 じなが ら普遍的価TtL世界へ と導かれ うるといえ るであろ う。「 この完全 な感情や精 神 の高潔 さを もつ ことが

,

自然 に従 って生 き

,至

高 の知恵 の命令 や規則 に従 って生 きるとい うこと な ので ある。 これ こそが道徳 であ り

,正

義で あ り

,信

心 で あ り

,

自然宗教 なのである(91。 」 汎神 論 に近 い ともいえ るシャフツベ リーの 自然宗教 の立場 において

,モ

ラル・ セ ンス と神 とを完全 に切 り はなすわけにはいかず

,そ

れ はいわば

,バ

トラーの内な る「 神 の声」

(VOiCe of God)と

もいえ るわ けであ るが

,た

,甚

だ注 目され ることは

,わ

れ われ個人 のモ ラル・ セ ンスは個 々の行為 の評 価 と実践 の能力ではあ って も

,道

徳 的菩悪一般 の究極的絶対 的根拠では必 らず しもない とい うこと で あ る。 そ うだ とすれば

,た

しかに神の菩 し悪 しを見 るのは人間の側であ り

,つ

ま りはわれわれの モ ラル・ セ ンスであるはずであ りなが ら

,そ

のモ ラル・ セ ンスの根底 に

,実

は絶対的に正 しい神が cF, Inquiry. C. I. 246, 286 Freedomo C. I. 56 1nquiry. C. I. 255 ibid, 301--2 7 俗 0

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