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解を発表している 当初アメリカは 3 月 13 日に 第一次ブライアン ノート を日本に提示し 東アジアにおいて日本の 特殊権益 が認められるという態度を示した 2 しかしながらアメリカは 5 月 11 日に 第二次ブライアン ノート と呼ばれる声明を再び発表し そこでは アメリカ政府は日中両国政府

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対華 21 カ条要求とアメリカの不承認主義 東京大学法学部 3 年 番定賢治 1.はじめに 2.本論 (1)日中交渉の開始とアメリカの情報収集 (2)対応決定過程と第 1 次ブライアン・ノート (3)第 1 次ブライアン・ノートをめぐる相互作用とアメリカの方針転換 (4)日本側の要求改訂・最後通告と不承認主義 3.結び 1.はじめに 第一次世界大戦への日本の参加からワシントン会議に至るまでの日本外交の軌 跡は、日本にとって、日清・日露戦争を経て日本が帝国主義国家としての地位を 確立していく過程だった。しかしそこには、門戸開放(Open Door)の理念を掲げて 日本の権益拡大に待ったをかけるアメリカの思惑が対抗するものとして存在し、 帝国主義国家としての日本外交と門戸開放の方針とをいかにして折り合いを付け るかは、日本外交にとっても、アメリカ外交にとっても焦点となった。この意味 で、1915 年 1 月に日本から中華民国政府に提示された 21 カ条要求1 、並びにそれ を巡り 1 月から 5 月に渡って行われた日中交渉の過程は、門戸開放の外交方針を 共和党政権から引き継いだアメリカのウィルソン政権にとって、自国の対東アジ ア政策を再検討させる最初の大きな機会となった。 21 カ条要求を巡る日中交渉の間、アメリカ政府は二度にわたって自らの公式見 1 21 カ条要求の具体的な内容については、この論文の主旨と若干異なるため、簡 単な記述にとどめさせていただきたい。 第 1 号:山東省に関する要求(4 カ条) 第 2 号:南満州および東部内蒙古に関する要求(7 カ条) 第 3 号:漢冶萍公司に関する要求(2 カ条) 第 4 号:列強に対する沿岸不割譲の要求(1 カ条) 第 5 号:希望条項(7 カ条) 5 月 25 日に最終的に成立した日中合意では、第 5 号のうち福建省における日本の 経済的特権を求める 1 カ条以外の条項が破棄され、21 カ条のうちの 15 条が実現す ることとなった。 条文の詳しい内容については、池田十吾『第一次世界大戦期の日米関係史』(成文 堂、2002)p2-5 などを参照。

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解を発表している。当初アメリカは 3 月 13 日に「第一次ブライアン・ノート」を日 本に提示し、東アジアにおいて日本の「特殊権益」が認められるという態度を示し た2。しかしながらアメリカは 5 月 11 日に「第二次ブライアン・ノート」と呼ばれる 声明を再び発表し、そこでは「アメリカ政府は日中両国政府間にすでに結ばれ、も しくは結ばれることあるべきいかなる合意、もしくは約束について、中国におけ るアメリカおよびアメリカ市民の条約上の権利、中華民国の政治的もしくは領土 的保全、門戸開放主義として一般に知られた中国に関する国際的政策を害するも のは、これを承認することが出来ない(傍線番定)」という形で日本の権益に対して 不承認の立場を取ることになった3 A. S. Link、細谷千博の研究は、対華 21 カ条要求に対するこのようなアメリカ の対応について、日本に外交上の取引を求めるために 21 カ条要求を部分的に容認 しようとする立場と 21 カ条要求を日本による門戸開放の侵害として否定的に見よ うとする立場が混在し、4 月中旪を境にして日中交渉が進む途中でアメリカの態度 が部分的な容認から積極的な不承認へと変化したということを、アメリカ外交文 書(Papers Relating to Foreign Relations of United States)や個人書簡などに より実証的に証明した4。その上で、近年はその Link と細谷の研究を下敶きにして 北岡伸一がさらに掘り下げた研究を行い、さらに池田十吾と高原秀介が新たな考 察を行っている5 北岡の研究は日米の相互作用からアメリカの対応を考えるという点で評価され るが、そこでの考察は第二次ブライアン・ノートの発表までではなく、アメリカ が中国の主権と領土の保全を擁護することを中国側に非公式に伝えた 4 月 15 日ま でにとどまっている。細谷、池田、高原の研究は 4 月 15 日から第二次ブライア ン・ノートが発表されるまでの経緯についてまとめているが、短い記述にとどま っており、日中交渉の相互作用を踏まえた考察には至っていない。先行研究にお いては、Link の研究が比較的にこの難点を克服している。 2 ブライアン国務長官から珍田大使宛、3 月 13 日、Department of State

Publication "Papers relating to the foreign relations of the United

States (以下、FRUS) : 1915" Washington: Department of State Publication , p105-111

3 ブライアン国務長官から珍田大使宛、5 月 11 日、FRUS 1915,p146

4 Arthur S. Link "Wilson : The Struggle for Neutrality" Princeton , New

Jersey : Princeton University Press , 1960 細谷千博『両大戦下の日本外交』岩波書店,1988

5 北岡伸一「21 カ条再考」近代日本研究会編『年報近代日本研究 7』山川出版

社,1985

高原秀介『ウィルソン外交と日本:理想と現実の間 1913-1921』創文社,2006 池田、前掲書

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この論文では、対華 21 カ条要求についてアメリカが日本の「特殊権益」を一度は 認めつつも、最終的になぜ第二次ブライアン・ノートのような不承認主義の形を 取るに至ったのかを、先行研究を整理した上で、4 月下旪以降の日中交渉の進展に 対するアメリカの対応について考察しつつ、日中交渉の過程に見られた日本の態 度に対するウィルソン大統領の見方に注目しながら検討したい。 2.本論 (1)日中交渉の開始とアメリカの情報収集 日本から日置益駐華公使を通じて中国北京政府の袁世凱に初めて 21 カ条要求が 提示されたのは、1915 年 1 月 18 日のことだった。それがアメリカ政府に伝わった 第 1 報は、ポール・S・ラインシュ駐華アメリカ公使から 1 月 23 日から 26 日ま でに連続して送られた電報、並びにそれと同時に出された『シカゴ・デイリー・ ニュース』の報道だった6 要求について最初に伝えたラインシュの報告には、要求の全容をそれまでの日 中関係に照らし合わせた場合、いささか誇張とも思われるような表現が目立って いた。この背景には、ラインシュは中国高官からの中国に有利な潤色を施された 情報をワシントンに送っていたということがある。事実、当時ラインシュの部下 であったジョン・マクマリ書記官は自らの母に宛てた手紙の中で、ラインシュが 彼を自分と親しい関係にある(少なくともそう見なしている)人間の情報を無批判 に受け入れ、その情報について部下と相談しようとせず、その情報に基づいて独 断で仕事を行っているという不満を伝えている7。ラインシュの重要な情報源は、 当時日本に招待されたにもかかわらず北京に居残った反日色の濃いジャーナリス トであり、また、ウェリントン・クーをはじめとする中国政府高官は、日本が秘 密保持を要求したのを逆手にとってラインシュの同情を引き出すように断片的・ 抽象的に情報を流していたのである8 そのような潤色への懸念もあり、ワシントンのウィリアム・J・ブライアン国 務長官は当初、2 月 8 日に珍田捨巳駐米大使から受け取った情報(要求のうち、第 五号などを省いて 11 カ条のみを記したもの)を信頼し、ラインシュからの情報を 6 ラインシュ公使からブライアン国務長官宛、1 月 23 日から 2 月 1 日にかけて、 FRUS 1915 , p79-80 7 北岡、前掲書 p128-129 8 北岡、前掲書 p129-131

Noel H.Pugach "Paul S. Reinsch:open door diplomacy in action" Millwood : KTO Press , 1979 , p147-148

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信憑性に欠けるものと見なしていた9。しかし 2 月 18 日になると、夏偕復在米中国 公使を通じて、21 カ条の内容が第 5 号を含めた形で国務省に通告された10。これ に対して 2 月 21 日に加藤外相がガスリー駐日大使に対しこの駐米中国公使からの メモについて誤りがあると伝え、その時に「第 5 号は要望(request)にすぎず、第 1 号から第 4 号の要求(demand)とは異なる」としたことにより、外相からアメリカ側 に第 5 号の存在が伝えられた11。これにより、ブライアンの下にも第五号の存在が 信頼できる情報として到達することとなった。 21 カ条要求を巡る日中交渉が始まって以降のこの間、ウッドロー・ウィルソン 大統領は 21 カ条要求問題についてどのような考えを持っていたのだろうか12。2 月 8 日にラインシュ公使に直接宛てた電報において、ウィルソンは以下のように 述べている。 「私は中国における現在の状況について日本の要求を鑑みてよく考えており、中 国の利益に働きかけるために間接的に出来ることを行っている。中国に対して直 接アドバイスをしたり、現在の交渉について直接干渉したりすることは、日本の 嫉妬と敵意をかき立て、それが最初に中国に対して向けられることを考えると、 利点よりも弊害をもたらすだろう。イギリスの代表が状況と日本の企みについて 重要性を認識することを確かめることにより、良識ある友人としての役割を演じ たい。今のところ、私は状況を実に注意深く見守っており、適切なところで動き 出す用意が出来ている。」13 「適切なところで動き出す」と言うところからは、確かに中国の利益を守るとい 9 FRUS 1915,p83-84 北岡伸一は、ラインシュがドイツ系でかつドイツへの留学経験があることをブラ イアンが危惧していたのではないかと推測している。(北岡、前掲書 p132) 10 夏公使からブライアン国務長官宛、日付なし、FRUS 1915 , p93-95 11 ガスリー大使からブライアン国務長官宛、2 月 21 日、FRUS 1915 , p96-97 12 ウィルソンについて高原は、当時の宣教師による政府の圧力が強かったことを 指摘し、ウィルソンが日本や中国についての情報に乏しく、宣教師からの心中・ 反日的な情報に依存していたと主張している。また、ジェームス・リードがラン シングの長老派キリスト教徒としての経歴を重視し、他の親中派と同様の「布教の 精神」を共有していたと見ていたこと、当時ウィルソンがヨーロッパでの潜水艦戦 への対応に追われ、アメリカの権利一般を再確認する必要に迫られていたことを 指摘している。高原、前掲書 p38-40

13 ウィルソン大統領からラインシュ公使宛、2 月 8 日、Authur S. Link ed.

"Papers of Woodrow Wilson" Princeton , New Jersey : Princeton University Press (以下、PWW) , vol.32 , p196-197

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うウィルソンの意志も読み取れる。しかし、アメリカの行動を間接的なことにと どめようとしていることを考えると、それ以上に日本の嫉妬を招く可能性に配慮 し、干渉を控えようとする態度が見られる。これだけを見れば、最終的なアメリ カの公式見解が日本の権益への不承認という形になったというのは、驚くべきこ とである。またこの時点で特徴的なのは、日中交渉を見守るに当たってアメリカ が自ら積極的に干渉にはいるのではなく、イギリスに 21 カ条要求の重大性を認識 させるという間接的な方法を当面の対策としていることである。実際、1 月にライ ンシュから報告を受けて国務省がまず取り組んだことは、イギリスに 21 カ条要求 についての情報を求めることだった14。しかし、アメリカがイギリスに情報を求め る電報を送ったのが 2 月 2 日だったのに対し、イギリスから返答が返ってきたの は 2 月 12 日のことであり、しかもその内容は、2 月 8 日に珍田大使からアメリカ 側に伝えられた情報以上の成果はないというものだった15。返答がこの程度のもの にとどまったことにより、イギリスの役割に期待しようとすることが出来ないと 判断したことが、アメリカが積極的な形で見解を発表することにつながったもの だと推測される16 (2)対応決定過程と第 1 次ブライアン・ノート さて、第五条の存在が明らかになったのを受け、ブライアンはウッドロー・ウ ィルソン大統領に意見を申し立てた。ここで焦点になるのが、ブライアン自身は 日本が南満州・東部内蒙古の権益を得ることが合理的であるとみなし、中国の譲 歩により日本と中国の緊張関係が説かれることを望んでいた、ということである 17 。このブライアンの提案を受けてウィルソンは返信し、アメリカ政府の見解を 公式声明として発表することに賛同した。しかし、それは「先手を打って日本の 「要望(request)」へのアメリカの率直な見解を伝えることに賛成する」という形に なっており、あくまでウィルソンが第 5 号への牽制として捉えていたところが見 られていた。また、この応答でウィルソンは「北京で状況が切迫しているのは明ら かだ」と補足しており、アメリカが積極的に策に乗り出すことを急がせる意図を見 14 ブライアン国務長官からページ駐英大使宛、2 月 2 日、FRUS 1915,p82 15 ページ駐英大使からブライアン国務長官宛、2 月 12 日、FRUS 1915,p88 16 このときイギリスのグレー外相は、ロシア大使や中国高官を通じて第 5 号の存 在についての情報を受け取っていたが、それらへの信頼を留保して状況を注視し つつ、日本に要求の全容を問いただしているところだった。

Peter Lowe "Great Britain and Japan 1911-1915" Macmillan : St Martin's Press , 1969 , p231

17 ブライアン国務長官からウィルソン大統領宛、2 月 22 日、FRUS The Lansing

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せていた18 このとき、ブライアンの提案をより現実主義的な方針として打ち出す案として、 日本の 21 カ条要求を容認することで日本との外交問題を解決しようとする、すな わち、容認を外交カードとして日本に門戸開放原則の再確認19と日本人移民問題に ついてのアメリカの立場を受け入れることを求めようとする構想が、ロバート・ ランシング法務顧問とエドワード・T・ウィリアムズ極東部長20によって打ち出さ れていた21。しかし、21 カ条要求への承認と引替に日本にアメリカへの譲歩をも くろむウィリアムズ=ランシングの案について、ウィルソンは 3 月 4 日に「中国の 権利を犠牲にしてまでアメリカ自身の問題を問題を解決することはできない」とし てこれを拒絶した22。この電報においてウィルソンは「私達は要望の問題について 直進しなければならない」とした上で、「要望の問題が生きているうちに対処でき るよう、これは出来る限り早くなされなければならない」として素早い対応を求め た。また、3 月 10 日にもブライアン宛に、「第五号についての」ノートの交付を急 がせる電報を送っていることから、ウィルソンが要求全体の中でもあくまで第 5 号に限って強い関心を示していたことが伺える。 この方針が結実したものが、3 月 13 日にブライアンが日本に送った長文の声明 (第一次ブライアン・ノート)である23。の第 1 次ブライアン・ノートは、21 カ条 要求の第 4 号および第 5 号第 1 条・第 3 条・第 4 条・第 6 条についてはアメリカ の条約上の権利や中国の政治的独立・行政的統一を犯す恐れがあるとして懸念の 意を表しながらも、第 1 号や第 2 号にある山東半島および満蒙での利権に関して は、アメリカとして反対する理由はあるが、日本が領土の隣接による「特殊利益」 を有しているとし、これを問題として提起しない、という方針を示すものであっ た。これをもってアメリカが一度は日本に対して融和的な態度を見せたと読める ものだった。しかし、これが交付されるまでのウィルソンの態度から見る限り、 ウィルソンはあくまで介入する用意をしつつ状況を注視すべきと考え、第一次ブ ライアン・ノートの承認に際しても要求のうちの第 5 号の不承認をいち早く伝え ようとするものと見なしていたように思われる。このような明確な取引でも単純 18 ウィルソン大統領からブライアン国務長官宛、2 月 25 日、同上 p407 19 具体的には、満鉄における差別的運賃の是正が挙げられる。 20 北岡は、ウィリアムズが日本への二つの「見返り」の要求に加えて、第 3 号第 2 条(漢冶萍公司周辺の鉱山の採掘権を漢冶萍公司の許可の下に置くこと)が問題で あることを日本に要求せしめようとしていたと指摘している。北岡、前掲書 p138 21 ウィリアムズ極東部長からブライアン国務長官宛、2 月 26 日、およびランシン グ顧問からブライアン国務長官宛、3 月 1 日、PWW vol.32,p319-323 22 これについて北岡は「ウィルソンらしい心情倫理的判断である」と評価している。 北岡、前掲書 p138 23 ブライアン国務長官から珍田大使へ、3 月 13 日、前掲

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な不承認でもない両義的な内容が、後の日中交渉に混乱をもたらしたと見ること が出来るだろう24 (3)第 1 次ブライアン・ノートをめぐる相互作用とアメリカの方針転換 第一次ブライアン・ノートにアメリカの融和的態度を見た日本は、山東半島へ の増兵を裏で進める一方で中国に対して「アメリカが 21 カ条条約を承認している」 として交渉に臨んだ。その結果日中交渉も少しずつ合意に近づいていったが、た だ一つ、東部内蒙古において日本人の居住と土地所有を認める件については、中 国側が断固反対し、交渉は難航した。日本の要求が第五号まで含めて行われてい た背景には、日本の中国主権に対する野心よりも、東蒙古における土地所有権問 題についての交渉のために外交カードを残しておきたいという意図が強くあった と言える。 さて、外交カードとしての側面は持つものの、第 5 号の中でも特に日本が憂慮 していたのが、福建省への資本投下に関してであった。3 月 21 日に加藤外相はガ スリー大使を通じて、かつてアメリカのジョン=ヘイ国務長官が福建省沿岸に軍 事施設を建設するとの風説が流れたことと、ベツレヘム製鉄が福建省に進出する との風説を引き、福建省への資本進出が台湾との接近性から鑑みて憂慮すべき事 態だということを根拠にしつつ、アメリカの態度を問いただしている25。これに答 える形でブライアンは 3 月 26 日、福建省に野心を持ってはいないという反論を日 本側に示した。 この件についてブライアンから意見を求められたウィルソンは、福建省問題に ついては簡単に解決しうるとした上で、以下のようなコメントを残している。 「他の問題のほうがやっかいである。率直に言って私は、珍田の覚書に示された 他の「要望」についての説明は信頼ならないと思っており、日中両政府の率直な交 渉がそれらを十分に明らかにすることを願っている。動機は明らかになっており、 それについて日本政府を批判するする気はしないが、「要望」で提案された権利保 護は行き過ぎであると思う。意図が何であれ、これは結果として中国の行動の自 立をひどく限定し、門戸開放を望む他の政府に対する日本の明らかな優越につな 24 高原は、日本に取引を求めることがウィルソンによって放棄されたことにより 第一次ブライアン・ノートをより妥協的な印象を与えるものになり、それが日本 が第一次ブライアン・ノートを要求の容認と考える原因になったと解釈している。 高原、前掲書 p48 25 ガスリー大使からブライアン国務長官宛、3 月 21 日、FRUS 1915,p113-114

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がるものである。」26 ここから伺えるのは、ウィルソンが第一次ブライアン・ノートが出て以降もな お第 5 号に対して疑いを持って取り組もうとしていたことであり、その疑いが第 5 号を巡る交渉過程ではなく、日本から伝えられた第 5 号の内容にまで及んでいた、 ということである。ここから判断できるように、第 5 号が他の要求とは違う「要 望」条項でしかないというだけではウィルソンの疑いを晴らすことは出来なかった のであり、むしろ、当初から存在した第 5 号に対する執拗な疑念は、第一次ブラ イアン・ノートを発表してから第 5 号要求が出され続けたことによりいっそう高 まっていった。 このような中で、北京にいたラインシュが東蒙古権益の交渉が難航していたと は考えず、日本が第 5 号を依然として崩さないことを中国の主権と領土に対する 挑戦と受け取り、交渉過程の全容について誤った認識をしていたことは、ウィル ソンの疑いをさらに強めることになった27。さらにラインシュはこの上で 4 月 14 日の国務省宛の電報で、中国の新聞記事が「ある傑出した日本人」が「国務長官は大 いに珍田男爵の影響下にある」と発言したことを取り上げ、それを「事実はこの見 方を根拠づけており、アメリカ政府が門戸開放政策の擁護を放棄したように見え るにまで至っている(傍線、番定)」と評していたことを伝えた上で、「アメリカ政 府は中国における物質的利益も、道徳的義務も放棄しておらず、そうした権利や 義務が傷つけられぬことを期待して交渉を見守っており、もしその期待が裏切ら れる場合には適切な行動を取るであろう(傍線、番定)」という非公式な見解を中国 に申し入れることの許可を求めた28。それまでと同様に中国の主権と領土の保全に 対するアメリカの道義的義務を訴えるのに加え、傍線部に挙げたような形でアメ リカの具体的な利益を保護する必要性を示すことによりアメリカが日本の要求に 対して不承認の態度を取ることを中国に示すように促したことは、日本の態度に 関するウィルソンの認識を大きく動かすものだったと判断できる。 またこのような中で、4 月 8 日に在華アメリカ人宣教師と現地の教育者からなる 団体からワシントンへ、日中交渉の中断と日本軍の撤退を要求すべきだという陳

26 ウィルソン大統領からブライアン国務長官宛、3 月 24 日、FRUS The Lansing

Papers vol.2,p411 27 北岡、前掲書 p143 28 ラインシュ公使からブライアン国務長官宛、4 月 14 日、PWW vol.32,p519-520 細谷は、この報告が「日本が武力示威により第五号を要求として迫ろうとしてい る」という疑念をウィルソンに抱かせ、ここを転機としてアメリカの態度が日本に 対する融和的態度と日中間緊張の調停というものから中国への積極的支持と日本 への押さえ込みというものへと変化した、と判断している。(細谷、前掲書 p29-30)

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情を述べた電報が送られたことが、ウィルソンの積極的な判断を促した29 このような状況の中で、ウィルソンはそれまでファジーなままになっていた 21 カ条要求への見解を明確にするべく、決定的な判断を下した。「我々は状況が許す 限り積極的に、中国の擁護者であることを示すべき」と主張した上で、ラインシュ が提案した草稿をより強い語調にした形で中国側に申し入れることを指示したの である。30この方針転換により日中交渉における中国の態度は急変し、日本に有利 な形で進むかと思われた日中交渉は再び紛糾することとなった。 (4)日本側の要求改訂・最後通告と不承認主義 アメリカによる非公式の通達を受けて中国側の態度が再び硬化したことは、日 本側の政策決定過程において要求内容の見直しを求める声が噴出するという形で 新たな相互作用を引き起こし、これにより、日中交渉は日本側の要求改訂と、要 求を再改訂した上での最後通告に至った。このように要求が改訂され、アメリカ が不承認とした要求が引き下げられていくことに対して、どのような態度を取る かがアメリカの対応決定における議論の焦点となった。 4 月 24 日にラインシュは国務省に宛てて、イギリスを巻き込んだ形での共同勧 告を提案した。これを受けてウィルソンはブライアンに、21 カ条要求問題に対す るアメリカの見解がこれまで日本に対してだけ発表されていたことがアメリカの 弱さになっているという見解を伝えた上で31、「中国の対外関係の問題が幾度とな く合衆国とヨーロッパ列強の協調の問題であった以上、共同声明という形で我々 の立場を明らかにすることが、私達の義務になるだろう」と提案している32。第二 次ブライアン・ノートに見られる、不承認を列国の共同勧告として日本に伝えよ うとする準備は、このウィルソンの返答をもって始まったと言えよう。 しかし第 5 号を強硬な形で残して交渉に臨む加藤の方針に対し、日本政府内の 元老の間から不満が噴出したことにより、事態は急な進展を迎えることとなった。 これを受けて 4 月 29 日にはそれまで譲歩されることの無かった日本側の要求がよ り穏便な形に書き換えられ、さらに 5 月 4 日には、福建省の件を除いて第 5 号の 要望が全て取り下げられる形で、最後通牒が宣告された。 4 月 29 日の修正案について議論を進めている途中で最後通牒についての知らせ を受け取ったウィルソンは最後通牒を踏まえた上でのアメリカの見解を日本大使 29 ハッバード牧師からウィルソン大統領宛、4 月 8 日、PWW vol.32,p508-509 30 ウィルソン大統領からブライアン国務長官宛、4 月 14 日、およびブライアン国

務長官からラインシュ公使宛、FRUS The Lansing Papers vol.2,p416-417

31 ウィルソン大統領からブライアン国務長官宛、4 月 27 日、FRUS The Lansing

Papers vol.2,p417-418

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に伝えるようにブライアンに要請した33。ウィルソンにとって、日本がそれまで第 5 号を貫き続けたことへの不信感は、最後通牒の内容を踏まえた上でもなお拭いが たいものになっており、5 月 6 日にはイギリス、フランス、ロシア各国のアメリカ 大使館を通じて共同勧告の打診に踏み切り、珍田大使、ホイラー駐日大使代理に そのことを伝えるに至った34 しかし、イギリスは第 5 号が取り下げられる限り日本の要求を認めるべきだと 中国側に打診することで日中合意を導き出すことになり35、フランスやロシアも、 共同勧告について明確な答えを出さない形でイギリスの見方を踏襲することにな った。これにより、アメリカによる共同勧告案は結局空回りすることになってし まった。 中国が日本の最後通牒を受諾した情報を得たブライアンは、5 月 8 日にウィルソ ンに宛てて、第 5 号が取り下げられたことに対する安堵を伝えた36。イギリスの見 方と同様、ブライアンは何よりも日中の武力衝突の危険が避けられたことに安心 を示し、これにより日中間の関係回復が見込まれると信頼したようである。事実、 ブライアンは同日珍田に、アメリカは中国に対して「いかなる忠告も送ろうとして いない(傍線は原文そのまま)」ということを伝えていた。 しかしこれに対し、ウィルソンは日中交渉の妥結だけではなく、さらに積極的 な行動をとることを望んでいた。ブライアンに対する返答で、ウィルソンは次の ように述べている。 「私はランシングが提案したような警告を申し入れるのが賢明だと思う。我が国 の権利を何も定義されないままにしたり、日本が中国に関する各国の厳格な協調 関係を侵害するよう計画することを黙認したように見せたりしていては、不十分 である。このような警告は、第 5 号について議論することを引き延ばすことの賢 明さに関して、日本の公式見解に影響を及ぼすだろう。(傍線、番定)」37 ウィルソンのこのような反応の前提として、共同勧告案が失敗した場合に備え て単独勧告案を準備しておくべきだというランシングの進言が挙げられる38。しか し、ランシングがこのような単独声明を提案したのは日中の合意成立の情報が入 33 ウィルソン大統領からブライアン国務長官宛、5 月 5 日、同上 p105 34 ブライアン国務長官から東京大使館、北京公使館、ロンドン大使館、パリ大使 館、ペテルブルグ大使館宛、5 月 5 日、同上 p105 35 ページ大使からブライアン国務長官宛、5 月 7 日、FRUS 1915 , p144-145 36 ブライアン国務長官からからウィルソン大統領宛、5 月 8 日、FRUS The

Lansing Papers vol.2 , p424

37 ウィルソン大統領からブライアン国務長官宛、5 月 10 日、同上 p426 38 ランシング顧問からブライアン国務長官宛、5 月 7 日、同上 p424

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ってくる前のことであった。3 月のランシングの提案に日本との取引としての側面 が強く表れていたことを考える限り、日中交渉が合意に達してもなお不承認主義 を掲げるという方法は、ランシングらしいものとは言い難い。日中の合意の後も なお執拗に第 5 号要求についてのアメリカの不信を公開しようとした意図は、ウ ィルソンに特有のものだったと考えられる。 以上の過程により 5 月 11 日、日中交渉が合意に達したことを踏まえた上で、日 本の権益拡大に対する不承認を伝える第 2 次ブライアン・ノートが発表された。 この発表はあくまで一般原則であり、日本の要求のうち特定の条項に対する不承 認を述べたものではなかったが39、アメリカ外交において「不承認主義」という方法 が採られるようになった最初の例という点で、大きな意味を持つこととなった。 3.結論 21 カ条要求問題をめぐるアメリカの対応は、第 1 次ブライアン・ノートに見ら れるようなウィルソン・ブライアン・ランシング(ウィリアムズ)という様々なア クターの政策構想をないまぜにした上での妥協案から、それが日本に及ぼした作 用による利権擁護の再認識を経て、日本の特殊権益に対する不承認という形に収 斂していった。そしてそれは日中交渉の妥結によっても引き下げられることなく、 第二次ブライアン・ノートという形として残ることになった。 アメリカを最終的に不承認に駆り立てたものは、いったい何だったのだろうか。 その一つは、日本が要求を突きつけるに当たり、ヨーロッパの列強はアメリカの 権利を守るための力にならないのではないかという不安があったことではないか と思われる。21 カ条要求問題が浮上した 2 月初旪当初ウィルソンはあくまでイギ リスを通じた問題解決を望んでいたにもかかわらず、イギリスが情報収集に慎重 になっておりアメリカが期待した情報を提供しなかった。むろんこれはイギリス を出し抜いて交渉を進めようとした加藤の意図によるものだったが、このような 意図はアメリカにとって、逆に焦燥と積極的介入へのインセンティブを促すもの となった。そしてそれは日本にとって、結果として外交交渉を難航させる原因と なったと言うことができるだろう。 また、最後通牒の段階で削除されたのを認識したにも関わらずなお不承認勧告 にこだわった点を考えると、ウィルソンの脳裏には、日中間の緊張をアメリカの 力により打開したいという願望以上に、21 カ条要求問題という機会を利用して中 国においてアメリカ資本が進出する権利を確かなものにしようとする意図があっ たように思われる。結果として、日本にとって東アジアにおける権益を再定義す る好機と目された第一次世界大戦の勃発は、アメリカにとっても東アジアにおけ る権益を守るための手段を再確認させる機会になったと言うことが出来るだろう。 39 Link、前掲書 p308

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参考文献 日本語文献: 増田弘・土山実男編『日米関係キーワード』有斐閣双書 加藤陽子『戦争の日本近現代史』講談社現代新書 井上寿一『日本外交史講義』岩波書店 増田弘・佐藤晋編『日本外交史ハンドブック』有信堂 細谷千博『両大戦下の日本外交』岩波書店,1988 北岡伸一「21 カ条再考」近代日本研究会編『年報近代日本研究 7』山川出版社,1985 高原秀介『ウィルソン外交と日本:理想と現実の間 1913-1921』創文社,2006 池田十吾『第一次世界大戦期の日米関係史』成文堂 2002 英語文献: Noel H.Pugach

"Paul S. Reinsch : open door diplomacy in action" Millwood : KTO Press , 1979

Burton F. Beers

"Vain endeavor : Robert Lansing's attempts to end the American-Japanese rivalry"

Durham : Duke University Press , 1962 Arthur S. Link

"Wilson : The Struggle for Neutrality"

Princeton , New Jersey : Princeton University Press , 1960 Peter Lowe

"Great Britain and Japan 1911-1915" Macmillan : St Martin's Press , 1969 刊行史料:

Authur S. Link ed.

"Papers of Woodrow Wilson"

Princeton , New Jersey : Princeton University Press Department of State Publication

"Papers relating to the Foreign Relations of the United States" Washington : Department of State Publication

参照

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