, ,a、 UDC 613.62: 546.49(091) 労働科学 42巻 9 号(1966)( 613) J.Science of Labour Vol.42,No.9
水 銀 中 毒 の 歴 史
一一通説衛生史(その
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豊 彦 *
A IDSTORY OF MERCURIAL POISONING IN JAPAN By
Toyohiko MIURA*, M.
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Sc.It seems that considerably large quantity of mercury was used
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ancient Japan because moulded statu巴s
of Buddah and their like were gilded by gold amalgam.Around 752 A
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several tons of mercury was consum巳,din gilding the gr,田tstatue of Buddah of Nara, and' many workers were, without doubt, exposed to mercury vapour during五
ve yeaτs of its construction.Niu Mine, the largest mercury mine of old Japan was locat'etl' in Ise District nea士Naraand it was worked for about one thousand ye紅sfrom 7 th to17 th century. Fig 1 shows a mercury miner illustrated in a book publish巴d around1492. it is doubtless that mining, extracting and
refining of mercury brought about the risk of mercurial poisoning, but no exact record of poisoning was left in the literature, as for as the gilding by gold amalgam or • mining at that fan巴,wascon・ cerned.
Besides metallic mercury, mercurous chloride (calomel,) was produced for use as face powder and later as antiluetica at Izawa, Ise District, and mercurial poisoning was not rare among workers ,ex戸 S巴dto mercury vapor during the production. (Fig. 3, 4)
After the dissolution of the shogunate government、in1867,the me
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igovernment made strenuous efforts iri introducing the science・ and the industrial technique from America and western countries and the industries and the mining of this country were gradually modernized.After the World War i, mercurial poisoning occurred frequently in small plants nianufactwing thermometers arid so on.
As well knowri, the most characteristic symptom of chronic mercurial poisoning is mercurial tremor, and in patients of that ailment writing is interrupted in every few minutes by coars巴jerky
movement as demonstrated in Fig 7 and 11.
The largest deposit of mercury in Hokkaido District was discovered in1940 and incidence of mercurial poisoning was hi
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jnthis mine. (Fig. 1均
After the World War II, mercurial poisoning . is observed in various fields of industries, because of the expansion£
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mercury consumption, and attention is paid to the poisoning caused by organic mercury. compounds besides inor.伊rticon四. ネ労働科学研究所・労働衛生学研究部・労働衛生学第2研究室 Lab. of Hygiene qr)・, Division of Hygiene, Institute for Sむier問 。fLabour( 614)
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古代金属中毒 Alice Hamilton は 1947 年に Tele~yt> の著書の序文で スペインの Almada鉱山(Almaden min回)の水銀中 毒にふれてこの鉱山は古くローマ人の支配したところ で,ただ奴隷が坑内で働いたわけであるが,この鉱山の 名前は死と同じであったと書いている。 また Ramazzini.,ほb“
DeMorbis Artificum Diatriba”
のなかの色々な章で水銀にふれている。以下松藤元訳の 同書からいくつかをひろってみる。 第1章の鉱夫の病気2)のなかでは次のようtこいつてい る。「鉱夫が罷るどんな病気も,致命的な点からいえば, 水銀鉱山で鉱夫が権る病気より恐ろしいものはない。 『金属鉱石論』の中で,ファロッピオは,水銀鉱山では, 作業者がやっと 3年がんばれるだけだと述べ,エットミ ュラーはその『鉱物学』という本の水銀k
関する章のなl かで,神経に一番有害な水銀の蒸気のため,4
カ月後止 は,振顛,舷量および麻療に揺り始めると述べている。 ベニスからイギリスの王立協会へ送られ,lその『学術報 告』の中に載せられている手紙を読むと,フリワリ地方 のある水銀鉱山では,採掘来が6時間以上働ら《ととを 許されていないし,また同じ手紙では銅の小片を口iに当 てる方、あるいはそれを指でこすると,白くなるという 1人の鉱夫の例が記されている。 トyチはその著『実用医学』第2章哨息の章において 鉱夫が端息にかかること,また歯を失なうに至るとと, さらに水銀の蒸気を直接口へ入れないようにするため, 働く時には風の方向へ肩を向ける習慣のあることを述べ ている。」 第 2章「鍍金屋の病気Jのでは主に水銀中毒について ふれでいるのは当然といえる。 「銀や銅の鍍金に従事している金鍛冶が躍る!恐ろしい 病気を知らぬ者はない。この仕事政金と水銀のアマルガi ムをつくP
,ついで火をもって水銀を蒸発させるもので あって,顔を外に向けるなど,作業者がどんなに注意し でも,口から有害な蒸気がはいるのを,避けることが出 来ないから,短時日のうちに,舷量,麻療に擢り,屍の 様相を示すようになる。この職業で年をとっている人は 少なし短かい年月のうちにまいらないと,悲惨な状態 に陥って,死にたくなるほどである。J として数多い例示をしている。 第6 章「錫取扱作業者の病気J~>でも金属水銀に関係 があるといっている。 「夜咳が出て,ついで, ひどい圧迫と呼吸困難が現わ れ,その結果新鮮な空気が吸いたくなり,寝床から起き 出て,窓をあけ,苦しみが楽になるので,夜明けまで夜ト
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中,家の中を歩き廻っていた, 1人の錫取扱作業者の興 味ある話を述べて,経験豊かな藍師エットミュラーは, とれらの重篤な症状の原因を,金属水銀の蒸気に帰して いるJ1
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ガラス製造人と鏡製造人の病気」日では鏡製 造の際の水銀による中毒が記載されている。 第8章「画家の病気」9)では画家の長命でないこと, 例えばラファエロは若死した,とれらの原因の一つに旗 料を考えているが,朱なども鉱物性の顔料の一つであっ た。 このように水銀は鉛とともに古代金属(Ancientme- -tals)の中毒として知られていたわけである。 また中国では水銀は丹薬として不老長寿のための薬 物,神仙への道をゆくための薬として用いられ,王侯貴7 族のなかには水銀中毒者のあったことも知られている。I
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大仏開眼と水銀中毒
日本の水銀中毒の歴史を考えてゆく場合,どうしても 忘れることの出来ないのは奈良の大仏の鍍金の事実であ る。この鍍金の技術が早くから日本に定着したのは,鍍 金に使用する水銀の産地が,現在の奈良,和歌山,三重 の3県にわたって早く発見されたからであるという。こ れらは自然水銀であるが,自然朱つまり辰砂(しんしゃ)。 はもう少し早く,続日本紀巻ーによると,文武天皇の 2 年(698) 9月に伊勢,常陸,備前,伊予,日向などの諸ー 固から朝廷に辰砂が献上されている。とのf辰砂は硫化水一 銀で自然朱であって,丹砂,朱砂,真朱,光明砂ともよ ばれた。 自然水銀の記事のみ包れるのは,lこれより遅く,和銅; 6年 σ13)のことで続日本紀巻六の和銅 6年 5月の条に 「又令大倭参河並献雲母y 伊勢水銀」という記録がある。 また「延喜式J内蔵寮式の「諸国年料供進jの条に伊勢A の国進むる所として「水銀小四百斤」の文字がみられる し ,lまた「民部省式J下の「交易雑物」の条にも「伊勢 国,白絹十二疋,絹三百疋,水銀四百斤(以下略)Jh
あ. る。つまり水銀はこの頃から,伊勢国の主要な産物とし て注目されていたことが,うかがわれる。 そして水銀を利用した鍍金の技術はおそらく,帰化人 によって伝えられたものであろうが,当時最も大きな鍍 金の作業は,東大寺の大仏に対して,行われたと考えて よい。 東大寺の大仏は天平 15年 σ43)10月 15日聖武天皇の 詔勅によって計画されたわけであうて,天平 17年(745} 8月23白から, 東大寺の現在位置で大仏造立がはじま っている。翌天平 18年(746)10月6
日には大仏の原型 と思われるものが出来,それからほぼ1年たった天平1!)(
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年 σ47)9
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29日から大仏の鋳造がはじめられ,その後 3カ年に 8度の工程を経て,天平勝宝元年(749)10月 24 日にその鋳造を終9た。そしてその年の 12月から大仏 頭部の螺髪(966個)の鋳造がはじまり,さらに天平勝宝 4年 σ52)3月 14日から塗金!(鍍金)を始めたが,まだ 十分出来あがらぬ同年4月 9日には有名な大仏関眼供養 が行われている。これで一応本体は出来上ったわけであ るが,天平勝宝 9年(757)頃,大仏台座の蓮弁に蓮華蔵 世界図が刻みこまれ,天平宝字 7年(763)から宝亀 2年σ
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)にかけて大光背がつくられ,ごれで完全な大仏が できあがっている。これらの工程を今一度ふりかえってみる~,:鋳物の模
型と塑像を造るのに 15カ月, これをもとにして鋳型を つくり,仏体の鋳造には 3年余, 966個の螺髪の鋳造, 仏体鋳物の加鋳,鋳はだの仕上げに数年,鍍金に 5年を 費やしている。つまり仏体の鋳造よりも鍍金には長い年 月を要したことになる。 この鍍金の技術は漢の頃からみられているが,大仏の 鍍金では多数の人が死んだと伝えられている円つまり 水銀中毒を想像しているわけである。この点について野 村田は大仏の鍍金の際に多くの労働者が中毒に擢患し, 大仏師国中公麻呂は水銀中毒を防ぐために口覆を用いさ せたと伝えていると記述しているが,出典は確認してい ないということである。また勝木9)も大仏の金鍍金の際 tこ水銀の蒸気を吸って,職人の多数が水銀中毒を起した という記録が残っていると書いている。その後,勝木は 記録の残っていると書いたのは誤であったと訂正をここ ろみている10)。将来の研究に資するためこの記事を再録 しておしこの訂正は松藤元博士の教示によるものだと 前書きして, 「東京国立博物館内の文化財研究所・科学 研究部に勤務の立回三朗氏杭東大寺中門の近くにある 五百立像は水銀中毒ぎせい者の供養塔ではないかと,友 人の岩崎友吉氏に話されたことがあるが,岩崎氏がそ の著『我は修理屋(昭和 37年 7月朝日新聞社刊)』でそ の点にふれられたが,ととの発端のようで,松藤氏が立 田氏に電話で確められたところでは,それ以上の根拠は 何もないとのことだった。」 このようにみると水銀中毒のはっきりした記録は今の ところ残っていない,と考えてもよさそうであって,こ の点は史料の発掘を期待したいものである。 5年間の大仏の鍍金はどのようにして行われたかとい うと,まず鋳はだを平滑にみがく必要があった。恐らく たがねで鋳張りを取りl,やすりでならし,砥石でといだ ものであろうが,その苦労が想像される。さて鋳はだの 仕上げができあがると鍍金ということになる。鍍金(塗 金)の方法は,まず金を水銀のなかで溶解して,アマノレf
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(615) ガムをつくるおけで,金lに対して水銀5えらいを使用 したらしい。大仏の体表 5,740平方尺(527in'りあるから アマルガム塗金に必要な黄金だけでも約 60kgを要し た11),その 5∼ 6倍というと 400kg 近い水銀が必要だ ったわけである。 2.5トンの水銀が使用された回といっ ている人もある。 東大寺要録に練金と水銀の量として 練 金 一 万 四 百:/
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六両 水銀i 五万八千六百廿両 という数字があがっている。これでみるとその記合率 は金1対水銀 5.6であって,水銀の量にくらべ奈良時代 の金の量は極めて少ないのが特長で,それだけ中毒の危 険は大きかったと考えてよい。 仕上げた鋳物の面は青梅または石棺の酸できれいにふ き,その函の上を,硬い布ぎれなどにアマルガムをつけて こすると一面白色になる。 この白い面を 350°c くらい の温度で焼くと,水銀がとんで黄金の面があらわれる。 これを布でよくみがき3回くらいくりかえすと,鍍金が できるわけである。この時発生する大量の水銀の蒸気が 問題であることはいうまでもない。 これらの仕事に直接たずさわった人員を,天平宝字7 年 σ63)正月の造仏所の例でみると,工人の監督である 将領が 93人,もろもろの工人が 1,292人,雑事をした 使丁 222人,臨時の雇夫 9人の総数 1,616人で,雑工と いうのはいろいろな工人で,仏師(仏工),画師(画工), 銅工,鉄工,木工,漆工,克工,さらに特殊なものに金 薄工などがあった。しかしながらこれらは現在の技術者 であって,一般の労働者は次にあげるようにもっと沢山 働いていたわけである。 東大寺要録巻第二「造寺材木知識記」は東大寺造営に 対してなされた知識たちの寄付や労カ奉仕を記録し,多 額の寄付者の氏名を記録しているわけで,次のような数 字がみられる。 材木知識五万一千五百九十人 役 夫 ー百六十六万五千七十一入 金知識 対七万二千七十五人 役夫 五十一万四千九百二人 ここで材木知識といっているのは建築資材を寄付した 人,金知識とは大仏を造るために銅や黄金の資金を出し た人,役夫とは労力奉仕した延人員である。もちろん多 額寄付者の数は少なく,一般のわずかな寄付や労力奉仕 が圧倒的に多かったわけである。このような多数の人た ちの働くなかで鍍金が行われたわけであるから,どのよ うな障害が起ったか記録がないのでわからないが,当然 水銀中毒が発生したとしても不思議はなlいと思われる。 さらに天平 19年(747)の「法隆寺伽藍縁起弁流記資財1-!
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(616) 帳J令「大安寺伽藍縁起弁流記資財帳」には,おそらく は鍍金のための必需資材として水銀の貯えられていたこ とを記録している四九ここにも中毒の危険が存在してい たわけである。 このような大規模なものでなくても,小仏像や金属器, さらには甲宵の部分の銅の鍍金も行われたのであって, この場合は金属面をよくみがいて,梅醸の中に水銀と器 物をいれてよくかきまわし,表面が銀白色になったとこ ろで器物をとり出し,ふきかわかした後金箔をおしそ の後これを火であぶって水銀をとばし,よくみがき望み の金色を得るまで, 3度くりかえしたのである。こんな 方法が水銀中毒を発生させなければ不思議である。
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伊勢の水銀鉱山 先にもあげたように伊勢は古くから水銀の産地として 知られていた。 今昔物語は 11世紀末から 12世紀末にかりでつくられ た説話集ということになっているが,この今昔物語集 巻第十七に「伊勢国人依地蔵助存命語第十三J18)'とさら に今昔物語集 巻廿九に「於鈴鹿山蜂蜜殺盗人語第:I
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十 六JU>という二つの説話がある。前者は伊勢国の飯高の 郡に住む下人が水銀を掘る穴で働いていたところ,穴の 口がくずれふさがり出られなくなったが,日頃,地蔵菩 薩を信心していたために,地蔵に助けられるという話で ある。後者は京の水銀商が,伊勢の国へ商売に通ってい たが,ある時伊勢の国から馬数百余匹に財をのせて運ぶ 途中,盗賊におそわれ財をすべてうばわれたが,日頃そ の家で酒をのませて養っていた蜂の大群がやって来て, 盗賊をさし殺したという話,つまり因果応報物語である が,しかし, これらの話は伊勢の国で水銀を産したこ と,伊勢と京の間を水銀の隊商の往来したことを示す物 言吾でもある。 このように古くから伊勢は水銀の産地として栄えたの であって,伊勢の国でも丹生が水銀の産地で水銀鉱山の 町としてさかえたようで,この丹生の水銀が湧出水銀で あったかどうかという点については宗国同の論文にくわ しい。宗田1日は「丹生大神宮儀範Jに「丹生河原湧出水 銀・・・・Jとあること,室町期,明応年問。492∼1500) に書かれた「七十一番職人尽歌合J
の五十六番に“金掘 り”と“宗ほり”の職人が商かれている。 Fig. 1がそれ であって,金掘りは木桶をもっているのに“家ほり”は 桶がなぐて,細長い竹筒のようなものが画かれているこ と,湧出水銀をいれた容器であろうとしている。 この「職人尽歌合Jには次のような歌がある。 みつかねの草に置かとみゆる哉 露にやどれる月のうもを(
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Fig. 1 水かねほり(七十ー番職人尽歌合による) A Mercury Miner in 15 th Century あちきなやにふのみ山になるかねの みつから人に思ひいりぬる 前者は自然水銀が草においた露のように光っているさ まを歌っているわけである。 以上のような点から宗問16)はわが国の水銀(特に伊勢 丹生産水銀)は室町期頃までは湧出水銀を採取していた ものと考えるといっている。 これに対して土肥16)は「丹生ニテハ主トシテ辰砂ヲ以 テ水銀ヲ製造セシモ傍ラ自然水銀ヲモ産生セシモノ』如 シ」といっている。 丹生でも後年には辰砂から水銀をとったことは確実で あって, Fig.2は精錬の方法を示したものであるm。Fig. 正 火 ヰ 中 火 土 中 之 Fig. 2 辰砂から水銀をとる法1り Ancient Refining Method of Mercury fromSulphide of Mercury
( 617) 重に維持されていた。文安・永禄年間(1444∼1569)には
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釜を算したというが,のち釜元を制限したので元和頃 (1615;...; 1623)には 16釜位になっていた。 明和 5年(1768)には株仲間が結成され,種々の規則が きびしくきめられていた。たとえば身体が悪くて引越を 希望する者は早速役人に注進することだとか,仲間のう ち身体が惑し営業不振になれば仲間が相談の上,頼母 子を取り相談するように努めることなど,製造中に中毒 発生を思わせるような記録がある11
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さて, との軽粉はどんな風に製造したかというと,・
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2問7分-
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XlJ 吹 田 ENF 万 部 氏 地 面 ︵ 中 西 氏 巳 貸 地 ︶ 繕 戸 棚 担円 F 2の上の首の細い徳久利型の陶器に赤褐色の炭砂をくだ いていれ綿で口をしめ,また別の口の広い徳久利型の陶 器を土中にうめて,その日へ初めの徳久利を図のように さかさに掃入して,その結合部分へ土をぬってかため, 地上の徳久利の四方に炭火と籾糠の火をおきゃし次第 に火力を強くするため栃などで焼くと,上の徳久利から 水銀が出て,生綿をこして下の陶器へおちるという方法 であったという17)0 だからここにも水銀中毒の恐れがあ りそうである。 この丹生の水銀鉱山は室町末期から産出が減少し,近 世初期の明暦・万治(1655∼1660)年代には全く療坑にな ったようである。 この丹生の鉱山は伊勢国松阪の南西 12kmばかりの櫛 田川の清流にのぞんで射和村があり,ぞれから 6kmば かりのところにある丹生村の南の丘陵一帯に存在してい た。 このような水銀鉱山の水銀採掘は,中毒をもたらした はずであるが,記録は残されてはいない。ただ今昔物語 却にもあらわれていたような,坑夫の生埋の話がかなり 伝っている。ある谷の水銀坑では,坑夫が自分の浴衣を 坑外に乾して坑内に入ったととろ,その男は坑の崩壊で 生埋めとなり,その浴衣だけが寂しく残っていた。この 悲惨なことが村人の同情をひいて,その地は今でも浴衣 広という地名となってのこっている1目。このような話が かなり多い。危険なせまい坑内の労働であったことを想 像させる。 水銀鉱山の丹生に近く,旧伊勢国飯南郡射和村,現在 の松阪市射和町では,平安末から鎌倉期にかけて,水銀 製の“はらや”という白粉が製造されて,京の貴族や上 流階級に愛用されていた。射和では世襲の白粉座が出来 て,文安年間(1444∼
1448)頃が一番栄えたようであるo しかし他の地方で鉛製白粉が製造されるようになって 水銀白粉の製造は衰微したが,鎌倉時代には薬用として 皮膚病に軽粉として外用された。内帰されるようになっ たのは梅毒流行以来のことで,わが国での梅毒流行の、最 古の記録は永正 9年(1512)のことであるからそれ以後の ことである。このようにして軽粉(甘求の一種)は駆梅 剤として内服され,さらに薫薬(フスペグスリ)や喚薬 (カギクスリ)として用いられた19,20。) なお軽粉は武その他の外部寄生虫の駆除剤として,し らみ紐などといって利用さJれたし,下剤としても用いら れた。 この軽粉製造は,水銀を釜にいれてやくので,その本 家を釜元といって仲間の組織はかたし釜元の権利は厳F
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3 軽粉や朱の製造と水銀中毒IV
この水銀の加熟化よって発生する水銀 Fig. 3のように釜元の屋内,奥の釜場に大きな軽粉釜が あり,その釜の上に小さな鉄鍋を 40∼
50個
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Lせて,この 銀鍋め中も日径1寸ばかりの穴を残して赤ことでぬりつぶ すで。鍋と鍋め接合点も赤土で塗りつぶし,鉄鍋の穴へ食 塩と苦塩と赤土とをよくまぜて小塊にして投入し,上か ら水銀少量をそそくう鍋lの口には「ホッツキJという素 焼の陶器で菱をして,釜に火をかけて4時間ほどたっと 水銀が蒸発して「ホyツキ」,の内面に白い軽粉が付着す る。これを羽毛で採取して製造したのである17,則。 ζの 「ホッツキJという土器について圭肥聞は「ほうづきj とよぴ「五鈴遺響」の「射和村ノ村民軽粉ヲ焼テ四方2 驚グリ多気郡四疋田ニテホヴヅキト云土器ヲ製ス」とい う文章を引用している。しかしホッツキかホワヅキかよ くわからない。 いずれにせよ,t
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勺( 618) 蒸気のために健康を害する者の多かったのは当然のこと で,天保から明治初年(1830∼1868)のわずかの年月の問 に, 16株の釜元に対して40∼50件にのぼる程の株の譲 渡が行われているという,しかもその理由は本人の病気 というのが多かったというから17),職業病のために多く の人がこの仕事からはなれ,死んだものにちがいない。 これがまたこの産業の大きく発展出来なかった理由であ ろう。 明治維新になってからも,かなり軽粉製造は盛んであ ったが,明治7年頃から水銀が非常に高価になり,さら に新薬の輸入が始まって,明治10年(1877)頃から衰退 して行くわけである。表1は明治初年と大正の頃の生産 高である10,17¥ 表1 射平日軽粉生産高16,17) 明治2(1869) 明治3(1870) 明i台4(1871) 大正4(1915) 大正5(1916) 大正6(1917) 大正7(1918) 生産高(斤) 1,935 1.800 1,665 1,350 1,300 630 790 Fig. 4軽粉釜16)(1918年頃),(上の台上になら んでいるのが鉄鍋である) Furnace of Manufacturing ofColome! in 1918 大 西21)と土肥16)はほぼ同じ大正7年(1818)頃に射和を 訪問している。この頃すでに釜元は2軒で国分平次郎と 宮田吉兵衛の両家に軽粉工場が残るだけであった。そし て国分氏が3釜,富田氏に1釜あったことを記録してい る。そして昭和28年(1953) 7月には最後の富田吉兵衛 の釜元が廃業して,伊勢の軽粉は全くなくなってしまっ た。(Fig目 4は1918年頃の軽粉釜)
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宗国は「最近まで軽粉製造に従事していた唯一の釜元 宮田氏は, 40年間その製造に従事したというが,水銀中 毒のためか,手がふるえ,年齢より迄かに老けて見えた とは,そこを訪れた 1見学者の印象であった」ω と書い ている。 軽粉製造は上記のように水銀中毒をおこし,それがこ の産業を急激に衰微させる原因の一つになりながら地上 から消滅して行ったわけである。 その他朱(赤色硫化水銀)の製造にも水銀をつかう関 係から,水銀のフュームがどのような影響をおよぼした か興味ある問題であるが,これらの史料は発見されてい ない。V
産 業 の 近 代 化 と 水 銀 中 毒 錬金術の時代から水銀は盛んに用いられ,さらに物理 化学の実験などにもその性質上使用されるために,学者 や技術者の問にも水銀中毒がみられているし,産業の方 面では水銀鉱山の各種作業,金属精錬,各種計器,フェ ルト製造,化学工場などで中毒発生の恐があるわけであ る。 現日本産業衛生協会の鯉沼茄吾理事長は最近僕との対 談22)で大正 11年以降の水銀中毒について誇っている。 体温計工場の作業者のなかには京毒振顛で手がふるえて 爪が切れないので, 爪が延びほうだいのびた者がいたと いっているし,記念品のかぶとの鍍金をやっていた工員 に急性の水銀中毒があり,これを新聞記者が興味本意に 書いたために,その工員から名誉段損だといって,ねじ こまれた話をしている。これらは後段でもう一度ふれる が,昭和に入る前のことである。 第一次大戦で輸入がとだえたために,体温計製造の群 小工場が急にわが国で発達したわけであるが,水銀中毒 が多発し,精神科で臨床講義が行われたことは奥味をひ し 大 正7年(1918)に呉秀三によって2例の水銀中毒症 についての臨床講義23)が行われている。1例は17歳の男 子で大正 5年 11月莱体温計製造所にやとわれているが, 大正6年4月には手の震えに気付き,言語障害,運動失 調で入院している。今1例は.
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歳の男子で大正6年9 月9日に某体温計工場に雇われたが, 12月22, 23日頃 から両手の振頭, 27,28日頃から言語障害があらわれた という例で, いずれも数カ月で発病しているわけであ る。 さらに大正12年(1923)には三浦議之助によって臨床 講義24)が行われている。 この例は21歳の寒暖計製作職 工で大正6年9月8日から寒暖計製作に従事している。 この患者は「常に真鈴網に布をつけたるマスクを口と鼻 にはめて働いて,仕事終れる後は必ず含献し歯をみがき/、/伊
両手は石鹸を以て洗い, 中毒を予防して居ったそうであ りますが・・・・」それにもかかわらず 3年前から字を書く 時に手の震えるのに気付き,大正11年の暮から言語障害 があり,大正 12年中間以降は唾液分泌,汗分泌の増加, 脚部の振頗を認めている。三浦はこの講義で慢性水銀中 毒症は水銀を取扱う職工に多く,この予防にはマスクを 用い, 室内の通風をよくし, 含搬し,衣服をかえるよう にし, なおマスクに酷酸アムモニウムをしませるとよい ともいっている。その他甘宋の下斉jlを大量に与えたH寺な どにも急性中毒としての口腔炎のおこることがあること を述べている。 このように臨床家の眼につく程であるから当然職場で は多発していたはずである。 上記した対談でも鯉沼が諮っているように,大正年代 に水銀を取扱う計器工場が増加したのであって,寒暖計 体温計,晴雨計などの計器工場が大正 10年(1921)には 東京だけで同業者の数が 89名にのぼり,寒暖計の製造 所は住宅の一部を作業場として妻子又は徒弟を助手とし て作業lこ従事していたが,大正 10年(1921)に農商務省 が計器の強制検定制を布いたために, これまでの家内工 業から脱して作業場の規模を拡大し,或は合同して会 社を組織し,次第に工場としての形をととのえたとい "'25)
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大正 13年(1924)7月の調査では寒暖計その他の製造 工場は東京府11(関東大震災でなお整備が不十分)に減 少, 三名古屋市上京都市 2,大阪府 2,山口県 2工場, で全国で工場数 18,その製作者の数は674人,うち男子 職工 582人,女子 92人となっている。これらのうちで も水銀と関係のない業務をしている者もあるのでそれを 除くと347名で,この健康診断の結果,水銀中毒者の数 は症状の著明なものが男職工 35人(危険作業者の約 10 %)現在職工でないものに 8人,総計43名であった。 中毒者の仕事では水銀詰をする作業が多しなかでも加 熱排気によるものが大部分で, 中毒率 62%といってい る26)。 Fig. 5, 6は当時の工場と水銀詩作業であり, Fig.7 は震顔のある寒暖計製造工の筆跡である。 これと同じ時期に鯉沼は鍍金にアマlレがムを使用する 鍍金業者の中毒をみている25,26)。すでにこの時期には電 気鍍金が行われていたが,製品の耐久力がおとるので万 貧jl,甲胃,仏具などの鍍金には水銀が使用されたのであ る。 大正 10年(1921)春,神奈川県鎌倉町某氏別邸で鍍金師 T Mは助手 3名と共に甲胃の製作に従事し,亜急性の 水銀中毒に権ったことを聞いて調査している。その方法 は古い時代のものと同じである。 「使用水銀/全量ハー f、l
−(寸b ( 619) Fig. 5 T.G.体温計工場の水銀詰仕上作業 (大正 13年,鯉沼26)による) Manufactory of Thermometer in 1924 Fig.6 A工場での寒暖計水銀誌作業(大正 13年,鯉沼による) Manufacturing of Thermometer in 1924f
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Fig. 7 寒暖計製造工の禾毒震額(大正13 年,鯉沼による) ,. Handwriting by a Man Suffuring from the Tremor ofChronic Mercury Poisoning in 1924( 620) 六
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匁(四O
両目)ニシテ之ニ金粉四六匁ヲ加フ,其割 半ヵ年後頭重尚存シ,記憶力減退,重聴アリ,震 合ハ金ーニ対シ水銀四ナリ・・・・(中略)・・・・甲ノ牽ノ、銀ニ 頭ナシ シテ之エ梅酢ヲ塗リテ脱錆シ,箆ヲ以テ『ア7ノレガム』 上記の鍍金業はマニュファクチュアにも達しない前近 ヲ塗リ炭火上ニ温メッ、局lj毛ヲ以ナ摩擦スレパ水銀ハ蒸 代的な色彩のものである。計器工場はその後も発展して 発シ去リテ蓋上ニハ金ノミ残留ス,刷毛ヲ用フノレハ蓋ニ ゆくわけであるが,その後も相変らず水銀中毒は発生し 彫刻セノレ模様ニ平等ニ鍍金センタメナリJ25)。この時の ている。 作業場は3坪の物置を改造したもので,一方に入口があ 昭和3年(1928)に星合27-29)の報告しているところによ り,中央に火鉢にむかつて作業している。水銀は容易に ると,当時東京の警視庁管下の15工場は大部分がなお 熱せられて蒸発し,刷毛で四方に散乱する。職工は作業 小規模の家内工業的なもので,小工場は大工場にくらべ の危険なことは知っていて, l日作業すると数日休養す 衛生状態も悪い。労働者数は男女計275名とU、うのが1 るのが普通であるが,この作業では製作を急ぐ必要上, 工場で,10名以上30名未満が6工場,10名未満が8工場 1日10時間7日間作業を行った。 となっている。これらの数字から大正10年代の鯉沼の この作業に従事した鍍金師の T Mは亜急性中毒にかか 調査25,26)から余り変化していないようにもみえる。検温 久 助 手3名は健康を害し,そのうち2名は途中で作業 器,寒暖計,湿度計を製造していた。調査工場の使用職 を中止している。(Fig.8はその鍍金場である) 工数は男工298名(72.2%),女工115名(27.8 %)合計 Fig. 8 鍍金場(大正10年)(鯉沼による) Small Manufactory of MetallizingPlating in 1921 この鍍金師T Mの中毒の経過25)は輿味があるので再録 してみる。 鍍金師 TM22歳長ク鍍金ヲ業トシ生来健康体格強 壮ナリ 作業第一日 作業後l咽喉異状ヲ呈シ声音l愛ノレ。 第二日 朝洗面ノ際口内ヨリ出血、ン,食欲減退ス。 第三日 舷量ヲ感ジ,記憶力減退、ン,顔色悪シク, 下顎淋巴腺腫脹シ,口臭7リ 第四日 以降身体次第二疲労ヲ崎、ン,頭痛,悪感ア リ,歯叡腫版、ン,夕刻lニ至レパ歯車Eノ薄膜破レテ多量 ノ出血アリ。 第八日 「クロールH
幻j日里液ニテ含駄シ,夜ハ「ウ エスキー」ヲ飲用ス。 第十日 下顎第三臼歯脱落ス,血尿ヲ排i世シ,下沖i アリ。 ーヵ月後歯飯炎尚ホ存シ,発w
出血アム頭重ヲ 訴フ。g
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413名(100%)で,このうち水銀中毒の恐のある銀諾工, 度取検査工,克新加工およびこれと同一室内で作業して いる男子160名(84.2%)と女工30名(15.8%)合計190 名の健診を行っている。当時は20歳未満の労働者の多 いことも特徴である。 検査をうけた工員のなかで最も多数にあった患者は, 色素沈着のない歯蝕炎の18名(34.0%)色素沈着のある 歯般炎の13名(24.5%),震顛と色素の沈着した歯車E
炎 のある者8名(16.3%),震額の5
名(9.4%)其の他で患 者総数53名であったが, このうち臨床上の所見から水 銀中毒と認めたのは男工12名(検査男工総数の7.5%) であった。この12名中,尿中に水銀の陽性者は 8名 (66.7 %)であったという。いずれにしてもかなり問題 になる職場が多かったのである。 大阪府健康保険課の八木30)は昭和11年(1936)に昭和 10年(1935)2月から, 6月までの5名の水銀中毒患者を 報告している。このうち3名は計量器工場の水銀注入工 で,他の1名が仕上工である。との 4名はこれまで報告 されたものとほぼ同じと考えてよいが, 5名のうちの 1 名が大阪市某製薬工場の53歳の男子の製薬工である。 この工場ではそれ以前にも1名の水銀中毒患者が発生し たがダ不幸死亡している。 それではどんな仕事かというと,:倭性昇末600十7
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銀 500+水約1合を直径l尺 5寸の石臼(Fig.9)にいれて 大きな乳棒で混和撹枠し,灰色砂状になったところで耐 火煉克でつくられた炉(Fig.10)の上部にある方形1尺 5 寸,深さ5寸の鉄製釜にいれる。この釜は内部が全部粘 土で固めであって鉄蓋がある。これをコークスの火力で 熱すると原料から黄色のガスが発生して,ガスの出口か ら出て来る。これを磁製容器にあつめて冷却すると甘禾 が出来る。このガスを吸入して水銀中毒が発生する。し 人/伊Fig目 9 甘京製造用石臼(八木30)による)
A Stone-Mill forManufacturingof Calomel in 1936
Fig.10 甘家製造炉(八木舶による) A Furnace for Manufacturing of Calomel in 1936 かもこの製法には一種の秘伝があるらしいとも書いてあ る。つまり射和の軽粉製造の方法を少し大きくしたよう なものであったらしい。この製薬工の中毒症状はかなり 重症であったが,治療によって軽快したと書いている。 さらに昭和 13年(1938)の 4月に鯉沼31lは水銀中毒と その予防についての論文を書いている。このなかで水銀 中毒の危険工業として,(1)水銀鉱石の取扱,(2)水銀 化合物の製造,(3)計量器具及び実験用器具の製造(4) 灼熱燈, 真空管等の製造に於て水銀目前|筒をl使用する作業 (5)製帽材料の製造(獣毛の加工), (6)アマルガム鍍金 (7)雷宗の製造をあげている。そして我が固には元来水 銀鉱山のみるべきものがないので,水銀中毒の発生はそ れ程多くないこと,大正末期には寒暖計製造の小工場が 多く, 中毒患者も多く発見されたが,現今は小工場は次 第に整理され,衛生設備の比較的良好な工場で作業が行 なわれるので工業的水銀中毒はさらに減少しているとい っている。 ところが同じ昭和 13年(1938)S月,9月に武居32,叩は 全く反対の報告をしている。その工場は大阪府下の一計 ¥.' V /,/στ〉 ( 621) 量器工場であって, 約 15年前家内工業から工場組織に 拡大されたもので当時約50人の従業員をもっ寒暖計, 浮秤を製作する工場である。このうち水銀話工の作業場 は東西 4問,南北 2問,天井 2間,作業人員は 4名で気 積は 1人 13.4m8で,窓面積と床面積の比は1/a.75で規 準の1んよりは大きいといっている。
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こだ水銀詰作業は原 始的な加熱排気法で,土問に高さ1尺位の火鉢を置き, 従業員はこの仮I]にすわって作業し,ガラス管の球部を加 熱排気し,ゴム管でガラス管の関口端と小漏斗を接続し て水銀を注入し, ガラス管を火中から取出して冷却しつ つ自然に水銀をガラス管内に導入するわりで,これを数 回くりかえす。従って水銀加熱のために水銀は蒸発し, あやまって火中にこぼれた水銀もまた盛んに蒸発する。 その上この室には水銀を詰終ったガ、ラス管内の71<.分をと るために注入口を閉塞しないで, 200∼300。Cの乾燥器 に約30分間いれておくので, いよいよ室内空気中の水 銀濃度は大となる。こうした環境で10時間作業が行わ れていたわけである。こうした作業場で過去において*・ 銀を取扱ったもの,および現在水銀を取扱っている者の 8名の健診を行った結果,8例中8例とも何らかの中毒 症状を示し,ことに 41歳の水銀詰工は全身の震顕,言語 障害,記憶力減退,精神不安,不眠症などの自覚症があ り,臨床所見でも全身が強度に震顔し,頭部は前後に甚 しし手指は文字の判断困難なほど震顕する。舌も震顕 して発音不明瞭,歩行は失調性で,一直線上を歩行し得 t手?,,f!波叫ケベeぷ'1!'. 、、同品詞』〆《、ーーレ j
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Fig. 11 菜計量様工場の水銀中議患者の築幼: (I昭和 13年)(武居33)による)Handwriting by Workers Su任ringfrom the Tremor ofChronicMercury Poisoning in 1938
-( 622) ないと記載され,末期に近いものだろうといっている。 (Fig. 11参照) そして武居却は次のよ与にいう。大正 13年鯉沼が計 器工場の水銀中毒について調査し,347名中水銀中毒に 擢怠した者 35名(権患率 10%)であることを報告してい る。その後 10数年を経過した。「此の間此種の生産機構 の拡大と共に工場諸設備は完備し,水銀中毒に恐らくそ の跡を絶ったであろう如く想像されるのであるが,当工 場に於て水銀取扱者全部(擢恵、率 100%)に水銀中毒の発 生せる事実は全く比の想像を裏切るもので,鯉
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氏の調 査成績と比較する時恩い半ばに過ぎるものがある。鯉沼 氏調査後拾数年の期間中生産機構の整備拡大従って生産 能力の増加は満されて来たが,水銀中毒の発生予防には 何等の進歩も致さなかったことを察知することが出来る のである」と。つまり鯉沼31)と反対のことを言っている。 現代の産業でも案外とんなことがありそうに思われる のである。 鯉沼31)は我が国にはめぼしい水銀鉱山がないので,そ の方面の水銀中毒はないといっているが,ちょうどその 頃北海道では水銀鉱山の開発が進んでいたのである。こ の鉱山は北海道のイトムカ鉱山である。昭和11年(1936) の晩秋大暴風のための風倒木調査員によって倒木の根本 に辰砂の露頭が発見されたのが,この鉱山の発見の端緒 で,昭和 15年(1940)5月に本格的操業を開始している。 この鉱山は埋蔵量の多い優秀な鉱山であるだけに,間も なく水銀中毒の報告があらわれている。 村上34)は製錬夫と採鉱夫を健診し,慢性水銀中毒の症 状の頻度からみると歯飯炎,心臓症状,胃腸症状,口腔 咽頭気管支炎を最多とし,次いで脳神経症状,性慾減退え
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Fig. 12 水銀中毒者の筆跡(昭和 18年)(村上34)による)Handwriting by Mercury Miners Suffering from the Tremor of Chronic Mercury Poisoning in1943
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皮膚毛嚢炎,結膜炎,発汗等多く,神経痛,関節痛,中 毒性発疹が最も少川震顔,悪、i
夜質は中毒の高度のもの にあらわれる。末檎血液像では,赤血球,血色素のi
斬減 を認めた。また尿中に多量の水銀も証明出来るとャって いる。製錬労務者は作業継続1カ月で,採鉱労務者では 一定しないが,通常 3∼4カ月-;f中毒症状があらわれる といっている。 Fig.12浄水銀鉱山の水銀中毒者の震顔 を示す筆跡である。 未発表の原閏彦輔の調査35)によると西島が昭和18年 (1943) 2月にこのイトムカ鉱山で調べた 228名の従業員 中 133名 58%に何らかの症状があったというし, 昭和 19年(1944)2月に主として震顛の有無を対象として健 康診断を施したときには,震顔の明らかなもの 3.8%, その疑のあるものは 6.7%に達していた。 ζのようにみて来ると産業のなかで近代工業が次第に 発展してきた大正から昭和,さらに第 2次大戦にかけて 水銀中毒を中心として概観すると,余り対策に進歩は見 られなかったともいえそうである。VI
戦 後 の 水 銀 中 毒 戦後の混乱の時期には戦前,戦中と余りかわらない情 況のあったことは当然である。例えば原ら36)1950年 12 月に大阪府下の寒暖計製造工場の水銀中毒について調査 を行っている。そして,銀詰めを行う者では 2名の長期 勤続者に高度の注意震顛,アタキシー,流誕などの症状 を認め, 3名の比較的短期間勤続者中に 1名に軽度の注 意震顕と口内炎を認めたことを報告している。重症 2名 のうちの 1名は八木30》が 1936年に報告した l名であっ て,昭和 15年(1940)に水銀作業をやめているが,現在 も症状軽快せず苦しんでいる症例である。 さらに労働省労働基準局労働衛生課が昭和 40年1 月1日現在で編集した「職業性障害発生事例」の水銀 中毒叩をみると,上記した例制はあげてないが,その 他にもかなり中毒が発生している。もちろん,これら はかなりひどい障害であって,この他にも届出のない ものが当然あると考えてよい。 昭和 23年から 26年にかけて滋賀県の化学工業で殺 虫剤jの製造作業で口内炎を主とした中毒が 23年9名, 24年 4名, 25年 1名, 26年 1名発生した。昭和 23年 3月と 8月に東京の体温計製造工業では 121名中 27 名,同じく 78名中 16名の異状者を発見している。そ の後この事例集では水銀中毒が途だえているが,昭和 36年 6月から 7月にかけて,三重県の光学機械製造工 業で温度計製造の際の水銀で 78名中 18名の異常が発 見されている。 同じ昭和 36年の 8月,東京の体温計製造工場で 426 /_ (や
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名が異状で,うち要治療が2
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名,要注意10名 を出している。この工場はその年の2月に生産設備を拡 張して,水銀詰作業を流れ作業にしたのだが,作業環境 の整備が間に合わず,作業量が増加して,中毒が発生し たと考えられる。この例では職業病と認定されない3名 が会社の指定しない病院で手当をうけたというので解雇 され,これに抗議して「水銀中毒の真相を語る集会Jが もたれた。そしてそれがN国王・TVの「日本の素顔」 で「職業病」と題して放送されるという後日諒38)までつ いている。 昭和3
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日まで山口県のパ ルフ。工場の電解工場サイクレーターの補修が行われた。 この槽は電解槽から放出された塩水の不純物除去を目的 とするが,この循環水には水銀が少量,塩水に含まれてい る。普通水銀はこのサイクレーターの下部から,沈澱物 として除去される。このサイクレーターの補修工事に, 現場監督を含めて3
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名の製缶工,溶接工が内部の乾燥, 錆落し,電気溶接などの作業を行った。 ところが初日の8月1
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日からすでに自覚症のあるも のが発生し,2
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名が自覚症を示し た。その症状は頭痛,全身倦怠などの全身症状,咽頭痛 咳嚇,呼吸困難などの呼吸器症状,食欲不振, H医気,下 痢などの消化器症状,それに歯のういた感などが主なも ので,他覚的な所見では咽頭炎,下顎部圧痛,歯肉炎, 発熱,発疹が認められ,尿ウロピリノーグン陽性者がき わめて多く,尿中の水銀量は0
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月山口県のある電解食塩水のタ ンクの内部の塗装作業で水銀中毒が発生している。 北海道のイトムカ鉱山の中毒は戦前から報告8心されて いるが,最近毎年のように問題になっている。昭和4
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月には鉱山の労働組合である全鉱は1
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であるとして, 水銀鉱山の中毒予防について強い要望を出している。 体温計をはじめとする計器製造業の水銀中毒は,上に もあげたように戦後も発生しているわけである。東京の 近代的な設備を誇る工場での例では,空気調整を行って いたが,水銀蒸気を含む空気を再循環させていたために, 次第に水銀蒸気濃度が高まり,中毒した例もあるという ととだ。 しかし最近のこうした計器工場が全く近代化したわけ ではない。その1例であろうが鈴木舶はK体温計工場が 倒産し,その従業員4∼
5人が資金をもちより小さな工 場をつくった例をあげている。との工場は普通の家を改 造したもので, 6畳ほどの所でガラス切り3 留点,真空 だし,頭切りなどの仕事をし,少しはなれた物置のなかで 水銀詰の仕事をしている。もう一つの室にそのうちの 1 人の家族が同居している。 6月の窓を全て開放した状態 で気中水銀濃度は0
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震顔が著明で,一見感情にとぽしく,言語障害がある。 主婦も手,f足の震顛が著明で,感情の抑制がきかず,j戻 もろく,歯肉炎のために歯が何本の抜けていたb子 供 が 2ぷおり' 1:Aは2歳の男子であるがa発育がどj主り, 前はまくしゃべっていたものが口がき汐なくなって,明 らかに異常を示していた。もう 1人 は6カ月の女児で, 未熟児である。働いている人達の関には軽い震顧を示す 人がI∼2
あったが,一番問題なのはこの家族というこ とになり,家族の居室の引越し,治療,環境改善が行わ れて,やや安心というところまでなったと報告している。 表2 水銀中毒発生状況 昭和3
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年9月(労働省労働衛生課資料より久保田作成40)》 対 月平均水銀使用量 環気中水銀濃度 a 特殊健診結果 象(
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( 624) これが東京都で 4∼5年前に現実にあった例である。 を経て有機水銀中毒説におちついたわけであるが,症状 このように近代化のすすむ計量器工場でも,くりかえ としては求心性視野狭窄,難聴,言語障害,運動失調, し水銀中毒が発生するわけであるし,新しい水銀の利用 末梢知覚障害等が 80∼100%に出現している。 (水俣病 たとえば農薬の製造などでも問題があるし,一時電光ニ 関係、の多数の文献は省略した) ユースの作業がとりあげられたこともある。 1964年から 1965年にかけて新潟県の阿賀野川沿岸に 久保岡舶は少し古いけれども表 2のように水銀中毒発 水俣病に似た病気が発生したが.これも臨床上ア/レキノレ 生状況をまとめている。水銀の使用がひろがるにつれて 水銀中毒とされ,水俣とともに工場排水中に原因がある 中毒発生の危険も拡大されると考えてよい。 ことになった岨.ω。 このなかで電光エユースに関する報告が皆川叫によっ 有機水銀による職業性の障害については,大企業は問 てなされている。水銀接点式の電光ニュースは接点板の 題の性質上その対策にカをいれるであろうが.問題は計 上に絶縁紙を穿孔した文字テーフ.がおかれ,このテープ 量器工場と同様,中小企業の場合であってすでに鈴木仰 の上ーに水銀を流し,水銀頭に鉄板製の電極をうかせるわ は小企業で有機水銀を取扱い,重症の中毒の発生した例 けである。そして電流を通ずると穿孔された文字の部分 を報告している。無機水銀と同じことをくりかえしては だけの水銀と接点が接触し,その接点と接続した電光雄 なるまい。 の電球が点灯し,テープはモーターで移動し,夜の空に あの電光文字があらわれるわけである(Fig. 13)。この Fig. 13 電光ニュースの操作室の 1f§!J (1959年)(皆川1mによる)
Operating Room of an ElectricNews Board
操作室の空気中水銀量は作業時 0.13∼0.77mg/m3で, 水銀蒸気の発生源は,発信機水銀槽,穿孔テープに付着 した水銀,床にこぼれた水銀と考えられる。作業者はほ とんど学生アルバイ トで11名の健康診断結果では尿蛋 白陽性 2名(18%),ウロピリノーゲン排池増加 3名(27 %)がみられ, 尿中水銀濃度はO∼104.0μgllを示した が,口内炎,震顛などは認められなかったとしている。 久保閏は水銀接点、式電光ニュース作業者に震顕と尿中水 銀量 345月/Iをみているという。 有機水銀については水俣病以来急に注目されるように なった。水俣地方の奇病が噂にのぼリはじめたのは1956 年頃からのことであるが, 患者は 1953年12月に 1例が 出て以来毎年発生し, 1956年には 43名, 1957年からは 水俣湾の魚獲を禁止したために減少した。この臨床所見 は Hunter,Russellらが報告した有機水銀中毒とよく一 致していた。 この中毒の原因はマンガンp セレン,タリウム原因経
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日本の職場でおこる水銀中毒について概観したのであ るが,現在の統計資料さえ不十分であるから,古い時代 の中毒の状況などほとんどわからないといってよい。た だ先覚者が非常な苦労のすえ記載しておいてくれたわず かな資料によって,その現実を想像出来るにすぎない。 しかし無機水銀の中毒を考えると,産業の近代化のな かで中毒はかえって増加し,現代までそれがたとえ中小 企業の問題であっても続いていることは,色々考えさせ られる問題をはらんでいる。 戦後水銀の利用は拡大され,そこで障害が発生してい るわけで,しかも時々は災害を思わせる中毒の発生をみ ることは残念でならない@ 有機水銀中毒は公害問題として社会的に注目H,45)され るに至っているが,職場の有機水銀中毒についても,注 目すべきであろう。 (本報告の前半の要旨は第 69団関東産業医学会で報告 し,「医学のあゆみ」仰にも紹介した。) 参 考 文 献 1) Teleky, L.: HistoryofFactoryand Mine Hy giene.Columbia UniversityPress, New York, 1948. 2)Ramazzini, B.松藤元訳:働く人々の病気(1)産 業医学, 4(2),105, 1962. 3)Ramazzini, B.松藤元訳・{事Jく人々の病気(2)産 業医学, 4(4), 283,1962. 4) Ramazzini,B.松膝元訳.働く人々の病気(2)産 業医学, 4(4),289,1962. 5) Ramazzini, B.松膝元訳.{動く人々の病気(2)産 業医学, 4(4), 291,1962. 6) Ramazzini, B,松藤元訳:働く人々の病気(2)産 業医学, 4(4),291,1962.{
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7)三井安蘇夫:朝日新聞社編, 日本科学技術史, 鍛金, 488,朝日新聞社刊, 1962. 8)野村茂:古くて新しい職業病,労働の科学, 17 (10), 13-16, 1962. 9)勝木新次:労働科学読本, 労働科学叢書19, 8 労研出版部, 1964. 10)勝木新次:奈良の大仏と水銀中毒,労働の科学, 20(4), 29, 1965. 11)角田文衛:佐伯今毛人, 105,吉川弘文堂, 1963 12)小林行雄:古代の技術, 214,塙書房, 1962. 13)丸山二郎校訂:今昔物語集.本朝篇 (三), 27, 岩波文庫. _ ...~_ 14)丸山二郎校訂:今昔物語集,本朝篇(五), 222, 岩波文庫. 15)宗回一:;本邦における水銀製造史考,医言草復刊 第18号, 27, 1958. 16)土肥慶蔵:軽粉ニ就テ,皮膚科及泌尿器科雑誌, 20(4), 255-276,大正9年(1920). 17)野飼只夫:伊勢の白粉, 日本産業史大系(6),近 畿地方篇,東大出版会, 1960. 18)大西源ー:日本産水銀(特に伊勢水銀)の史的研 究(2),考古学雑誌, 8(11), 662-676,大正7年 (1918). 19)宗回一:日本製薬技術史の研究, 35, 薬事日報 社, 1965. 20)土肥慶蔵:和漢に於りる軽粉及び爾他水銀弗jの 応用,中外医事新報, 499号,明治34年(1901). 21)大西源ー:日本産水銀(特に伊勢水銀)の史的研 究(3),考古学雑誌, 8(12), 709-720,大正7年 (1918). 22)鰹沼菰吾:対談,労働の科学, 18(7), 24-37, 1963. 23)呉秀三:;水銀中毒症,神経学雑誌, 17(6), 375 379,大正7 (1918). 24)三浦謹之助:慢性水銀中毒症,神経学雑誌, 23 (4), 167-168;大正12年(1923).