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伴大納言絵巻の詞と絵 木谷眞理子 何故 ずれ ているのかを考えていく 二 舎人の目撃譚を描かない から使者がやって来る 左大臣家の者 たちは処罰の使者と思って嘆き騒いで いたが 赦免の使者であったため一転 無実の罪に遭うのだと言って 以後は れたが 朝廷に仕えているとこうして して嬉し泣きとなった

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─ 1 ─ 成蹊國文 第四十九号 (2016) はじめに 「伴大納言絵巻」 (出光美術館蔵)は一二世紀後半に作られた絵巻 である。八〇〇年以上が経過した現在、制作当初と変わってしまっ た点は少なくない。主なものを挙げれば、①制作当初は一巻だった が、現在では三巻に分けられている )1 ( 、②制作当初は存在した上巻巻 頭の詞が、現在は欠失している、③上巻の第 13紙と第 14紙(図 1) は、制作当初つながっていなかった )2 ( 、といったところであろう。③ にかんしては、第 13紙と第 14紙のあいだには制作当初、詞があった とする説、絵があったとする説など諸説ある )3 ( が、本稿では立ち入ら ない。 こ の ③ に 原 因 の 一 端 が あ る の だ が、 第 13紙 の 後 ろ 姿 で 立 つ 人 物 ( 図 1の 人 物 a ) と 第 14紙 の 清 涼 殿 広 廂 に い る 人 物( 図 1の 人 物 b)はそれぞれ誰なのか、ということが長らく問題になってきた。 第 13紙の人物については伴善男であるという説が有力であるが、第 14紙の広廂の人物については伴善男・藤原基経・源信・藤原良房・ 頭中将・藤原良相など諸説入り乱れている )4 ( 。が、この問題にも本稿 では立ち入らない。 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 は、 応 天 門 の 変を題材とした説話を描く。ほぼ 同 文 の 説 話 が『 宇 治 拾 遺 物 語 』 ( 一 三 世 紀 前 半 成 立 ) に 収 め ら れ ており、両者は共通の源から発し ていると考えられる )( ( 。つまり、ま ずはじめに説話があり、その説話 を ほ ぼ そ の ま ま 詞 に す る と と も に 、 絵 を 作 成 し て 、「 伴 大 納 言 絵 巻 」 という絵巻に仕立てたのである。 だとすれば、詞と絵はよく合って いそうなものである。にもかかわ ら ず、 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 の 詞 と 絵 を 比 較 し て み る と、 さ ま ざ ま な 「 ず れ 」 が あ る。 本 稿 で は、 詞 と 絵が「ずれ」ている諸点を指摘し、 図1 「伴大納言絵巻」第一段(部分) 天皇と良房 人物 b 人物 a 上巻第 13 紙と第 14 紙の境目

伴大納言絵巻の詞と絵

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─ 2 ─ 木谷眞理子 伴大納言絵巻の詞と絵 何故「ずれ」ているのかを考えていく。 舎人の目撃譚を描かない 絵巻は、右端から順に見ていくと、普通はまずはじめに詞があり、 それからその詞に対応する絵が現れる。絵が終わると、また詞が現 れ、それに対応する絵がつづいて現れる、……という具合に、詞と 絵が交互に出てくる。一続きの詞とそれに対応する一続きの絵を合 わせて、一段と言う。 現在「伴大納言絵巻」は五段から成っているが、上巻第 13紙と第 14紙のあいだにもともと詞があったならば六段構成だったことにな る。その可能性も否定できないが、本稿では現状に即して、この絵 巻を五段から成るものとして扱うことにする。 ここで、 「伴大納言絵巻」各段の詞のあらすじを確認しておこう。 なお、第一段の詞は失われているので、同じ説話を収める『宇治拾 遺物語』に拠る。 ①◯ 【第一段の詞】火災発生と朝廷の対応 清和天皇の時代に応天門が焼けた。放火であった。伴大納言 が左大臣源信の犯行であると申し出たので、天皇は左大臣を処 罰しようとしたが、藤原良房は讒言かもしれないと奏上する。 調査の結果、左大臣の嫌疑は決定的でもなかったので、左大臣 を赦免する旨の宣旨が下された。 ②◯ 【第二段の詞】左大臣の悲嘆と蟄居 左大臣源信が自邸で天道に無実を訴えているところへ、朝廷 から使者がやって来る。左大臣家の者 たちは処罰の使者と思って嘆き騒いで いたが、赦免の使者であったため一転 して嬉し泣きとなった。左大臣は赦さ れたが、朝廷に仕えているとこうして 無実の罪に遭うのだと言って、以後は 宮仕えをしなかった。 ③◯ 【第三段の詞】  舎人の目撃と子どもの喧 嘩 右兵衛の舎人は東の七条に住んでい たが、夜更けて勤め先から帰宅する途 中、応天門から降りてきて走り去る伴 大納言らを目撃する。二条堀川あたり まで来たところで「内裏のほうで火事 だ」と騒ぐので、走り戻ってみると応 天門が燃えていた。伴大納言らの犯行 であると分かったが、口外はしなかっ た。 九月になって、舎人の子と、隣に住 む伴大納言家の出納の子とが喧嘩する。 止めようと舎人が出て行くと、同じく 出てきた出納が舎人の子を踏みつける。 舎人は腹を立てて出納と口論になり、 図2 「伴大納言絵巻」第二段

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─ 3 ─ 成蹊國文 第四十九号 (2016) 伴大納言の秘密を握っていることを匂わせる。 ④◯ 【第四段の詞】舎人の拘引と供述 舎人と出納の口論を聞いた人々が語り散らしたため、朝廷の 聞くところとなった。召し出され尋問された舎人は、放火目撃 の件を供述した。 ⑤◯ 【第五段の詞】伴大納言の逮捕と配流 伴大納言は逮捕され、配流となった。大臣になるための犯行 であったが、かえって処罰されて、どんなに後悔したことだろ う )6 ( 。 絵巻の制作者は、応天門の変にかんする説話を右のように五つの 段に分け、各段の詞に対応する絵を作成した。それにしても、なぜ 五つに分けたのだろうか。たとえば、説話を分けず、すべてを絵巻 冒頭に記し、つづいてその説話を長大な絵によって描き表していく、 というふうになぜしなかったのか。絵が横に長く続く絵巻には、横 長の紙面を生かしきった醍醐味があるはずなのに。 それは、詞や絵が長く続くことにはデメリットがあるし、また詞 や絵が適宜切れることにはメリットがあるからだろう。詞が長くな りすぎると、鑑賞者はその内容を覚えきれなくなり、絵との対応が 分からなくなるし、先々の展開まで予め分かってしまい、つまらな くなってしまう。また、詞の連続を絵によって断ち切ることや、絵 の連続を詞によって断ち切ることには、さまざまな効果がある。具 体的に見ていこう。 まずは、詞の連続を絵によって断ち切ることの効果を見よう。右 に 見 た よ う に、 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 の 詞 は、 あいだに絵を挿入することによって、 ①◯ ~ ⑤◯ の五つに分かれている。 ①◯ が起、 ②◯ が承、 ③◯ が転、 ④◯ ・ ⑤◯ が結となっていよう。時間 の経過に沿って並べれば、 ③◯ の前半「舎人 の目撃」→ ①◯ → ②◯ → ③◯ の後半「子どもの喧 嘩」→ ④◯ → ⑤◯ となるが、この詞は時間の経 過に沿って淡々と語るわけではなく、話に 起伏がある。そうした物語のプロットが、 五つの部分に分けることで、より見えやす くなっている。 次に、絵の連続を詞によって断ち切るこ と の 効 果 を 見 よ う。 た と え ば、 「 伴 大 納 言 絵巻」の第二段の絵(図 2)は左大臣邸を 描くが、この次に第三段の詞 ③◯ が挿入され、 続く第三段の絵(図 3)は舎人の家がある 東の七条を描く。 ③◯ の前後の絵では、描か れる場所が替わっているだけではなく、描 かれる時節も、場面の雰囲気も替わってい る。 あ る い は、 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 の 第 四 段 の絵(図 4)の前半は舎人の家を描いてお り、第三段の絵と同じ場所である。しかし、 そ の あ い だ に 第 四 段 の 詞 ④◯ を 挿 む こ と に 図2 「伴大納言絵巻」第二段

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─ 4 ─ 木谷眞理子 伴大納言絵巻の詞と絵 よって、時間を飛躍させるとともに、場所の雰囲気をすっかり替え ている。第三段の絵は庶民たちの空間だが、第四段の絵は朝廷の支 配する空間となっているのである。 このように詞と絵を交互に配置していくつかの段に分けることに よって、絵巻という連続しすぎる媒体に、断絶と飛躍を生み出すこ とが可能になっているのである。 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 の 作 者 が 説 話 を い く つ か の 段 に 分 け た 理 由 は 理 解できたとして、なお、なぜ五つに分けたのかという疑問は残る。 気になるのは、第三段の詞 ③◯ である。 ③◯ は「舎人の目撃」と「子ど もの喧嘩」から成る。前者の舞台は、舎人の勤め先である右兵衛府 →応天門→二条堀川→応天門であるが、後者の舞台は、舎人の家が ある東の七条である。また、前者は応天門炎上の前後、後者は炎上 からしばらく経った九月のことである。場所も時間もまったく異な るのだ。なぜこの第三段の詞 ③◯ をさらに二つに分けなかったのだろ うか。 そ の 答 え は、 絵 を 見 る と 分 か る。 じ つ は、 ③◯ の 前 半「 舎 人 の 目 撃」に対応する絵は存在しないのだ。第三段の絵は図 3であるが、 これは ③◯ の後半「子どもの喧嘩」のみに対応しているのである。 それにしても、 ③◯ の前半「舎人の目撃」は非常に重要な場面であ る。おおむね時間の経過に沿って進行してきた物語に、火災当夜の 「 舎 人 の 目 撃 」 が 差 し は さ ま れ る こ と に よ っ て 真 犯 人 が 明 か さ れ、 「 子 ど も の 喧 嘩 」 を き っ か け に 事 件 は 解 決 に 向 か う の で あ る。 そ ん な重要な場面を、絵巻作者はなぜ絵に描かなかったのだろうか。 時間の経過に沿って絵を並べたいという 意図が絵巻作者にあったのかもしれないが、 それだけでは答えとして不十分であろう。 この問題については後ほど考えることにし たい。 移動撮影的描法 絵巻は横に長い巻物である。たとえば、 制作当初の「伴大納言絵巻」は、縦幅約三 二センチ、横幅は二六メートル以上あった らしい。非常に横に長いこと、これが絵巻 の特徴である。 絵 巻 の な か の 人 物 た ち は、 顔 だ け が ク ローズアップされるようなことはなく、画 面の縦幅のなかにその全身がおさまるよう な大きさで描かれる。絵巻の横長の画面に、 人物たちの全身像がいくつか描かれ、その 周 囲 に は 物 語 の 舞 台( 町 並 み や 山 や 川 な ど)が描かれている、そんな様子を想像し てみてほしい。それは、一筋の道に沿って 移動撮影したように見えるのではないだろ う か。 絵 巻 の 横 長 の 画 面 は、 一 筋 の 道 に 沿って移動撮影したような描き方と、たい 図3 「伴大納言絵巻」第三段 C B A

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─ ( ─ 成蹊國文 第四十九号 (2016) へん相性が良いのである。 もちろん絵巻の横長の紙面を、詞によって分割し、絵の横幅を短 め に 抑 え た 絵 巻 も あ る。 代 表 例 が 国 宝「 源 氏 物 語 絵 巻 」( 一 二 世 紀 前半成立)である。この絵巻の絵の大きさは、縦幅約二二センチ、 横幅は約三九センチと約四八センチの二種類のみなのである。この ような、絵の横幅が六〇センチを超えない絵巻を、段落式絵巻とい う。ちなみに、絵の横幅が六〇センチを超える絵巻は連続式絵巻と いう。 あ る い は「 春 日 権 現 験 記 絵 巻 」( 一 四 世 紀 前 半 成 立 ) の 場 合、 横 幅が六〇センチを超える絵であっても、たとえば図 (のように、緑 青や群青の霞によって分断されていて、霞の前後で物語の時間・空 間が切り替わっている、ということが多い )( ( 。これもまた、移動撮影 したような描き方とは言えない。 こ の よ う に、 「 一 筋 の 道 に 沿 っ て 移 動 撮 影 し た よ う な 描 き 方 」 は すべての絵巻において採用されているわけではないが、しかしこの 描き方が絵巻という媒体と相性の良いことは確かであろう。 と こ ろ で、 「 一 筋 の 道 に 沿 っ て 移 動 撮 影 し た よ う な 描 き 方 」 は、 さらに 2タイプに分かれる。次のⒶとⒷである。 Ⓐ  特定の人物(たち)に密着して、その姿を追いながら、彼ら が進む道程を移動撮影した、というふうに描く方法 Ⓑ  特定の人物(たち)の姿を追うことはせずに、一筋の道を移 動撮影したように描くことによって、そこで起こっている出 来事を伝える方法 Ⓐの方法を採用している例としては、た とえば「信貴山縁起絵巻」を挙げることが できる。この絵巻は、信貴山に住む命蓮と い う 聖 ひじり に か ん す る 3つ の エ ピ ソ ー ド か ら 成 る が、 ど の エ ピ ソ ー ド も、 信 貴 山 へ 向 かって旅をする人に寄り添い、その姿を繰 り返し描くことによって、物語を語り出し て い る。 た と え ば 図 6は、 3つ め の エ ピ ソードを語る尼公巻の一部だが、弟の命蓮 を探して旅する尼公の姿が繰り返し描かれ ているのである。 Ⓑ の 方 法 を 採 用 し て い る 例 と し て は、 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 を 挙 げ る こ と が で き る。 たとえばこの絵巻の冒頭は、朱雀大路を北 上し、朱雀門を抜け、その北の炎上する応 天門、さらにその北の会昌門まで、南北に 走る道筋を移動撮影をしたような、長大な 絵となっている。 あ る い は、 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 第 二 段 の 絵 ( 図 2) を 見 る と、 左 大 臣 邸 の 門 を 入 り、 朝廷からの使者 )( ( を追い越して、中門を抜け、 庭で天道に訴える左大臣を過ぎて、建物の なかに入ると大勢の女たちがいる。女たち 図4 「伴大納言絵巻」第四段

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─ 6 ─ 木谷眞理子 伴大納言絵巻の詞と絵 の多くは嘆き悲しんでいるが、左端に描かれた左大臣の奥方は嬉し 泣きをしている )( ( 。この場面もまた、Ⓑの方法によって物語を巧みに 表現しているのである。 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 は 移 動 撮 影 し た よ う な 描 き 方 を よ く 採 用 し て い るが、第四段や第五段の絵にかんしては、如何なる描法を採用して いるかの判定が難しい。たとえば第四段(図 4)では、舎人が自宅 から拘引される場面と、舎人が役所で尋問を受ける場面とのあいだ に、霞と紅葉した樹木が描かれている。舎人の家から役所までの道 中を、霞と樹木によって大胆に省略しながら移動撮影したように描 いている、と読み取れなくもない。その場合Ⓐの方法を採用してい る こ と に な る が、 む し ろ そ れ を 避 け、 「 春 日 権 現 験 記 絵 巻 」 巻 五 第 一段(図 ()の霞のように、霞と樹木によって場面転換をしている ようにも思われる。第四段と第五段の霞と樹木には、その前後をつ なぐ機能と断ち切る機能とがあるが、後者が勝っているように思わ れるのである。 ところで「伴大納言絵巻」の詞には、次の(ア) (イ)のように、 特定の人物に寄り添ってその行動や感情を語っている箇所がある。 ( ア ) は 第 一 段 の 詞 ①◯ の 一 部 で あ る が、 欠 失 し て い る た め『 宇 治 拾 遺物語』に拠ったもの、 (イ)は第三段の詞 ③◯ の前半の一部である。 (ア)忠仁公、世の 政 まつりごと は御弟の西三条の右大臣に譲りて、白川に 籠り居給へる時にて、この事を聞き驚き給ひて、御烏帽子直垂 ながら移しの馬に乗り給ひて、乗りながら北の陣までおはして、 御 前 に 参 り 給 ひ て、 「 こ の 事、 申 す 人 の 讒 言 に も 侍 ら ん。 大 事 になさせ給ふ事、いと異様の事なり。 かかる事は返す返すよく糺して、ま こと、空事顕して、行はせ給ふべき な り 」 と 奏 し 給 ひ け れ ば、 「 ま こ と にも」と思し召して糺させ給ふに、 一 いち 定 ぢやう もなき事なれば、 「許し給ふ由 仰せよ」とある宣旨承りてぞ大臣は 帰り給ひける )(( ( 。 ( イ ) 秋 に な り て、 右 兵 衛 の 舎 とねり 人 な る も の、 東 ひむがし の 七 条 に 住 み け る が、 司 つかさ に参りて、夜更けて家に帰るとて、 応天門の前を渡りければ、廊の脇に 隠れ立ちて見るに、階 はし よりかかぐり 降るる者のあり。見れば、伴大納言 なり。次に子なる者、降る。また次 に、 雑 ざう 色 しき と き よ と い ふ 者、 降 る。 「 何 わ ざ す る に か あ ら む 」 と つ ゆ 心 も得で、この三人の人、降り果つる ままに、走ることかりなし。南の朱 雀門ざまに走りて往 い ぬれば、この舎 人も家ざまに行くほどに、二条堀川 のほど行くに、 「内 う 裏 ち の方に火あり」 とてののしる。見返りて見れば、大 お ほ 図5 「春日権現験記絵巻」巻五第一段

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─ ( ─ 成蹊國文 第四十九号 (2016) 内 う 裏 ち の方と見ゆ。走り帰りたれば、上 かみ の層 こし の半 なか らばかり、燃え た る な り け り。 「 こ の あ り つ る 人 ど も は、 こ の 火 つ く と て 登 り たるなりけり」と心得てあれども、人の極めたる大事なれば、 あへて口より外に出ださず。 こ れ ら は Ⓐ の 方 法 で 描 く こ と が 相 応 し い よ う に 思 わ れ る。 ( ア ) は 忠仁公藤原良房に寄り添って、白川の自宅から馬に乗って内裏へ急 ぎ、北の陣で馬から降りて、清涼殿へ行って天皇に対面、左大臣の 赦 免 を 聞 い て か ら 帰 宅 す る 様 子 を 描 け ば 良 い し、 ( イ ) は 舎 人 に 寄 り添って、勤め先を出て帰宅途中、応天門の前で、伴大納言らを目 撃、さらに二条堀川まで来たところで「火事だ」の声を聞き、走り 戻ってみると応天門の上層が燃えていた、という様子を描けば良い ように思われる。しかし実際はそうしていない、Ⓐの方法を採用し ていないのである。 とはいえ、良房の参内と舎人の目撃の取り扱いは、すこしばかり 異なっている。良房については、参内の過程はいっさい描かないも の の、 天 皇 と 対 面 す る 場 面 は 描 い て い る( 図 1)。 他 方、 舎 人 の 目 撃の一部始終は、完全にカットされているのである。 異時同図法 次に掲げるのは、 (イ)のすこし後、第三段の詞 ③◯ の後半である。 ( ウ ) か く て 九 月 ば か り に な り ぬ。 か か る ほ ど に 伴 大 納 言 の 出 納 の 隣 に あ る が 子 と、 こ の 舎 人 の 童 と、 諍 いさか い を し て 泣 き の の し れ ば、出でて障 さ へむとするに、この出納も同じく出でて、障 さ ふと 見るに、寄りて取り放ちて、わが子をば家に入れて、この舎人 の子の髪を取りて、打ち伏せて、死ぬばかり踏む。舎人の思ふ やう、 「わが子も人の子もともに 童 わらは べ諍ひなり。ただ、さては あらで、わが子をしもかく情けなく踏むは、いとあやしきこと な り 」 と 腹 立 た し く、 「 ま う と は い か で 障 さ え に は 障 さ え で、 幼 き 者 を ば か く は す る ぞ 」 と 問 へ ば、 出 納 の 言 ふ や う、 「 お れ は 何 ごと言ふぞ。舎人だつが。おればかりの 公 お ほ やけ 人 びと は、わが打ちた らむに何ごとのあるべきぞ。わが君の大納言殿おはしまさば、 いみじき過ちをしたりとも、何ごとの出で来べきぞ。痴 し れ言 ごと す る 乞 かたい 食 か な 」 と 言 ふ に、 舎 人 お ほ き に 腹 立 ち て、 「 お れ は 何 ご と言ふぞ。わが主 しう の大納言を高 かう 家 け と思ふか。わが主 しう はわが口に よりて人にてもおはするとは知らぬか。口開けては、わが主 しう は 人にもありなんや」と言ひければ、出納は腹立ちて、家へ入り にけり。 こ の 箇 所 も ま た、 ( イ ) に 引 き 続 き、 舎 人 に 寄 り 添 っ て 語 ら れ て い る。とすればやはり、Ⓐの方法で描くことが相応しいだろう。しか し、 ( ウ ) に 対 応 す る 絵( 図 3) を 見 る と、 Ⓑ の 方 法 で 描 か れ て い るのである。 まず、図 3のBを見よう。巧みな異時同図法が用いられた、有名 な場面である。この絵は、時計の 12時あたりから時計回りにクルッ と一周するように見ていく。 1取っ組み合う子どもたちと、駆けて くる出納、 2舎人の子を蹴飛ばす出納と、その脇で囃し立てる出納 の子、 3自分の子を連れて家に入る出納の妻、の順に見ていくので

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─ ( ─ 木谷眞理子 伴大納言絵巻の詞と絵 ある。 絵巻のなかの異時同図法は、絵巻の進行方向に沿って右から左へ と見ていくように描かれているならば、鑑賞者が戸惑うことはない が、右から左へと描かれていない場合、見る順が分からなくなる可 能性がある。しかし図 3Bについては、その心配がないだろう。秘 密は、図 3Aの部分にある。Aに描かれた野次馬たちの視線が取っ 組み合う子どもたちに集中しているので、鑑賞者の視線も自然とそ こへ導かれるのである。その後も、人物たちの視線や形姿などが誘 導してくれるので、鑑賞者が見る順を間違えることはない )(( ( 。 つづいて、図 3のCの部分を見よう。群衆が半円を描いており、 その内側には男女二人がいて、群衆に向かって何やら訴えかけてい る。舎人夫妻である。半円の左端の人々は、舎人夫婦に耳を傾ける のではなく、互いに話しあっている。Cの左端には、左方へ走り去 る童の姿がある。舎人夫婦の発言を誰かに伝えに行くのだろう。 つまり図 3は、Bが出納夫妻の行動、Cが舎人夫妻の行動をそれ ぞれ描いており、出納夫妻の行動に腹を立てた舎人夫妻が、出納の 主人伴大納言にかんして何やら言いふらした、という物語を表して いる。詞が語る物語とはすこし違っているのである。 詞を忠実に絵画化するのならば、舎人らの家の前の通りを舞台と し て、 右 か ら 左 へ と、 ( 1) 取 っ 組 み 合 う 子 ど も た ち と、 家 を 飛 び 出す舎人と出納→( 2)舎人の子を踏みつける出納と、その様子を 見て驚く舎人→( 3)舎人と出納の口論と、それを聞く野次馬たち、 を描いていけば良かったはずである。なぜそうしなかったのだろう か。 そのように描くと、舎人と出納の姿を追いながら移動撮影するよ うな描法になり、つまりⒶの方法になってしまうからではないだろ う か。 す で に 述 べ た よ う に、 ( ウ ) は 舎 人 に 寄 り 添 っ て 語 ら れ て い るのだから、ほんとうはⒶの方法で描くのが自然なのである。しか しこの絵巻の絵は、Ⓐの方法を避け、Ⓑの方法で描くべく、細かく 気を遣っているように思われる。 図 3Bの異時同図は、右から左へと描くこともできたはずである。 しかしそうしないで、 12時あたりから時計回りにクルッと一周する ように描いているのは、前者よりも後者のほうが 2つの点で優れて いるためであろう。まず、後者では前者よりも空間的に凝縮した表 現が可能となり、そのことによって、出来事のスピード感を伝えう るからである。また、後者ではⒶの方法を避けることが可能となる からでもある。 12時あたりから一周するような異時同図法を採用す ることによって、図 3のBが一つのまとまりとなり、AやCと分離 される。そうしておいて、図 3のA・B・Cという三つの部分に同 じ人物が描かれることのないよう配慮することにより、特定の人物 の姿を追うⒶの方法を避け、Ⓑの方法で描くことが可能となってい るのである。 それにしてもなぜ「伴大納言絵巻」の絵は、頑なにⒶの方法を避 け、Ⓑの方法で描こうとするのだろうか。

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─ ( ─ 成蹊國文 第四十九号 (2016) 顔貌表現 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 の 絵 に 描 か れ た 人 物 た ち は、 そ の 役 柄 に ふ さ わ しい顔つきや表情を与えられている。たとえば、伴大納言家の出納 は悪相に描かれていると指摘されている )(( ( 。子どもの喧嘩にしゃしゃ り出て、相手の子どもをしたたか蹴飛ばす人物なのだから、悪相が ふさわしいのであろう。他方、舎人はいかにも軟弱そうに描かれて いる。出納が憎々しげでしかも力が強そうに、そして舎人が軟弱そ うに描かれていればこそ、舎人が腕力ではなく言葉によって出納に 対抗しようとする展開が納得されるのである。 しかしだとすれば、次のような疑問も湧いてくる。

舎人は出 納に、言葉によって対抗するほかなかった。とすれば、言葉によっ て対抗するためのネタ、つまり伴大納言の放火を目撃したというの は、本当のことなのだろうか? 子どもを蹴られて腹を立てた舎人 が、伴大納言家の出納を言葉によってやりこめたいがために、嘘を デッチあげただけではないのか? 伴大納言はほんとうに犯人なの か?

そんな疑問も湧いてくる舎人の顔ではある。 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 の 人 物 た ち は、 個 性・ 表 情 の 豊 か な 顔 で 描 か れ ている。それは「信貴山縁起絵巻」も同様である。しかし「信貴山 縁起絵巻」の場合、身分高い貴族については引目鈎鼻やつくり絵な ど の 方 法 を 用 い、 表 情 を 抑 え て 描 い て い る。 他 方「 伴 大 納 言 絵 巻 」 は、貴族であっても遠慮しない。冒頭の応天門炎上場面で、会昌門 を背にして炎を眺める人々のなかには身分高い人もまじっているが、 その顔は引目鈎鼻とは言い難い。身分低い人よりもやや表情・個性 が乏しいかもしれないが、それは貴族らしさの表現であろう。清涼 殿内の天皇(図 1)は引目鈎鼻で描かれてはいるものの、その顔は けっして無個性・無表情ではないし、さらになんと露頂で描かれて いる。この時代、冠や烏帽子をかぶらない露頂はたいそう恥ずかし い格好とされていた。露頂の天皇からは、きわめて慌てていること、 祖父にあたる良房に親しみを感じていることなどが読み取れるだろ う。貴族たちにも、個性や表情が与えられているのである。 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 で 問 題 な の は、 第 一 段 の 清 涼 殿 右 側 に 後 ろ 姿 で 立つ伴大納言らしき人物(図 1の人物a)や、天皇に面会する藤原 良房(図 1)、第二段の天道に訴える源信(図 2)、第五段の連行さ れ る 伴 大 納 言 と い っ た 主 要 人 物 た ち が、 い ず れ も( 斜 め ) 後 ろ 姿 だったり、顔を描かれなかったりで、表情・個性を読み取りえない ことである。さらには、清涼殿広廂の人物(図 1の人物b)も引目 鈎鼻で描かれ、表情・個性がきわめて読み取りづらい )(( ( 。第一節で述 べ た よ う に、 後 ろ 姿 で 立 つ 人 物 や 広 廂 の 人 物 は 長 ら く「 謎 の 人 物 」 とされてきたが、表情・個性に乏しい人物表現もその原因の一つで あろう。 この絵巻が重要そうな人物たちを、表情・個性が読み取れないよ う に 描 い た の は、 な ぜ だ ろ う か。 「 サ ス ペ ン ス 物 で は、 犯 人 か も し れない人たちの正体が最初から彼らの顔つきによって明かされない ことが重要 )(( ( 」だからなのかもしれないが、ならば絵巻の最後、伴大 納言が逮捕・連行される場面に至ってもその表情が描かれないのは

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─ 10 ─ 木谷眞理子 伴大納言絵巻の詞と絵 不審である。連行場面の伴大納言については、牛車に乗せられてい るから顔を描きようがなかった、という反論もあろう。しかし、連 行ではなく逮捕の場面を描けば、伴大納言の顔を描くことができた はずである。悪人面の伴大納言が検非違使によって捉えられる様子 を描けば、鑑賞者としてもカタルシスを感じることができたのでは ないか。にもかかわらず逮捕の場面は描かれない。黒田泰三氏は、 次 の よ う に 指 摘 す る。 「 注 目 し た い の は、 主 人 公 で あ る 伴 善 男 自 身 の行動をほとんど描かないことである。つまり、応天門への放火、 天皇への讒言、逮捕、取調べという場面がない。かろうじて、讒言 後 の 退 出 と 連 行 さ れ る 場 面 が 描 か れ る )(( ( 」。 第 二 節 で 述 べ た よ う に、 この絵巻の絵は「舎人の目撃」を描かず、つまり伴大納言らが放火 する様子を描かない。伴大納言の放火・逮捕等の場面を描くことは、 重要人物たちの表情・個性を描くことと同様に、あえて避けられて いるように思われる。 重要そうな人物たちを表情・個性が読み取れないように描いたの は、その人物たちの役柄を人相から特定させないためではなかった か。伴大納言の行動をほとんど描かないのは、彼の役柄を行動・態 度から特定させないためではなかったか。誰が真犯人か、誰が濡れ 衣を着せられたのか、描かれた人相・行動・態度からは特定できな いようにしたのではなかったか。 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 の 詞 は、 伴 大 納 言 を 真 犯 人 と す る。 し か し 絵 の ほうは、誰が真犯人なのか断定するのを最後まで避けつづけている ように思われるのである。  詞と絵、それぞ  れの語り方 「伴大納言絵巻」の絵を、 「信貴山 縁起絵巻」の絵と比べてみる )(( ( と、さ まざまな違いに気づく。 「 信 貴 山 縁 起 絵 巻 」 は、 Ⓐ の 方 法 で描かれた絵巻である。特定の人物 ( た ち ) に 寄 り 添 っ て 語 っ て い く こ の 絵 巻 の 場 合、 そ れ ら の 人 物( た ち)に鑑賞者は感情移入してしまう。 この絵巻のなかの光景が、登場人物 から見たように描かれることさえあ る。その光景を鑑賞者も見るわけで あるから、鑑賞者は登場人物と一体 化することになる。また、この絵巻 では人物の大きさが変化する。尼公 巻の尼公は、集落を過ぎて山道に差 し か か る と 小 さ く 描 か れ( 図 6)、 次の東大寺大仏殿の場面では一段と 小さくなる。その小さい姿からは、 弟を探しあぐねる尼公の心細さ、無 力さが伝わってくるのである。 図6 「信貴山縁起絵巻」尼公巻(部分) 尼公 尼公

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─ 11 ─ 成蹊國文 第四十九号 (2016) これと対照的なのが、基本的にⒷの方法で描かれた「伴大納言絵 巻」である。特定の人物(たち)の姿を追うことはしないので、鑑 賞者が誰かに感情移入することもない。また「伴大納言絵巻」の絵 はほぼ常に、一定の高さから一定の角度で俯瞰するように描かれて おり、人物の大きさが変わることもない。感情移入なしに、客観的 に語っていくのである。 こ こ ま で 述 べ て き た こ と を ま と め て み る と、 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 の 絵は次のような方針を採っていることになろう。 ❶ 特定の人物(たち)の姿を追うことはせずに、一筋の道を移 動撮影したように描くことによって、そこで起こっている出来 事を伝える。 (Ⓑの方法) ❷ 対象を俯瞰する高さ・角度をほとんど変えない。特定の人物 への感情移入を促すような表現はない。役柄が明確でない主要 人物たちは表情・個性が読み取れないように描くが、その他の 人物たちには身分にかかわらず役柄にふさわしい顔つきや表情 を与える。 ❸ 出来事が起きた順に従って語っていく。 つ ま り こ の 絵 巻 の 絵 は 基 本 的 に、 ㋐〈 客 観 的 事 実 だ け を 淡 々 と 示 す〉という語り方なのである。 一方この絵巻の詞は、異なる語り方を採用する。 Ⅰ 特定の人物(たち)に寄り添って語ることがある。 Ⅱ 人物の心の内まで語ることがある。 Ⅲ 出来事が起きた順に語っていくとは限らない。 絵巻の詞のほうは、㋑〈出来事を語る順にも工夫を凝らし、物語を 面白く語りなす。特定の人物に寄り添い、その心の内にまで踏み込 んで語ることもある〉という語り方なのである。 ㋑のような語り方の詞を絵に描く際に、㋐のような語り方を採用 したことが問題であろう。ちなみに「信貴山縁起絵巻」の絵の語り 方は次のごときものである。 ⅰ 特 定 の 人 物( た ち ) に 密 着 し、 そ の 道 程 を 描 き 出 す こ と に よって物語を語る。 (Ⓐの方法) ⅱ 特定の人物への感情移入を促し、その人物が感じている感情 を味わいうるような表現がある。 ⅲ 時間が逆行する表現もある。 ⅲ に つ い て 簡 単 に 補 足 し て お こ う。 「 信 貴 山 縁 起 絵 巻 」 延 喜 加 持 巻 の第二段冒頭を右から左へと見ていくと、まず剣の護法が清涼殿に 到着した様子、つづいて剣の護法が清涼殿に向かって天翔る様子が 描かれる。絵巻では右から左へと時間が進んでいくはずであるが、 ここでは時間が逆行しているのである。 「伴大納言絵巻」の詞を絵に描くにあたり、 「信貴山縁起絵巻」の 絵の語り方を採用したならば、よく合っていたはずである。にもか か わ ら ず、 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 の 絵 は あ え て ㋐ の 語 り 方 を 採 用 し て い る。その結果、どういう効果がもたらされることになったか。 「伴大納言絵巻」の詞を、 〈客観的事実は何か〉という目で読み返 してみると、応天門炎上についてさまざまな人がさまざまな主張を していることが分かる。伴大納言は天皇に、左大臣が放火したと申

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─ 12 ─ 木谷眞理子 伴大納言絵巻の詞と絵 し出る。藤原良房は天皇を、伴大納言の告発は讒言の可能性もある と諫める。左大臣は天道に、我が無実を訴える。舎人は連行された 役所で、伴大納言らが応天門から降りてきて走り去るのを目撃した がその直後に出火したと供述する。こう並べたかぎりでは、どれが 本当でどれが嘘か判断できない。にもかかわらず詞は、藤原良房と 舎人に寄り添い、彼らに肩入れした語り方をしている。他方、伴大 納言の主張については、左大臣犯人説の根拠なども紹介せずに、ご くあっさりと語っている。 絵のほうはこのような肩入れを一切排する。良房にも舎人にも肩 入れしない。だから良房が内裏に駆けつける道程を描かないし、舎 人が放火を目撃した様子も描かないし、子どもの喧嘩の場面でも舎 人に寄り添わない。絵においては、伴大納言の告発も、良房の諫言 も、左大臣の訴えも、舎人の供述も、扱いに軽重はない。すべて等 価なのである。 つまり、詞は伴大納言が犯人と決めつけているが、絵のほうは誰 が犯人なのか明らかにしていない。絵は、応天門の炎上に端を発し た事件が、伴大納言、清和天皇、藤原良房、左大臣源信、舎人、出 納、といったさまざまな人々の思惑が絡まりつつ進行していった結 果、 伴 大 納 言 の 逮 捕 と い う 結 末 を 迎 え る に 至 る こ と を、 客 観 的 に 語っていくのである。 詞と絵とでは、もののとらえ方が異なり、伴大納言を犯人とする か否かでも立場が異なる。絵巻の鑑賞者は、詞に導かれて絵を見る けれど、しかしまた、絵巻においては絵がメインでもある。その詞 と絵を、あえて齟齬したままにして、どちらも提示するのである。 詞と絵という異なるメディアを、両者の語り出す物語に齟齬のある ままに、並置しているのである。 応天門の変の捉え方 応天門の変について、 『平安時代史事典』は、 「重要な点は、結果 的に応天門炎上を最大限に利用したのが太政大臣良房であったこと で、事件が解決をみない時点で人臣として最初の摂政になっている。 そして、これ以後、藤原氏の強力な発展がみられるわけである。そ の意味で不審火を利用した他氏排斥事件との見方も可能である )(( ( 」と 述べている。 このような、伴大納言が放火犯であるとは限らないとする見方は、 「伴大納言絵巻」が作られた時代にもあったのだろうか。 『 宇 治 拾 遺 物 語 』 に は、 伴 大 納 言 に か ん し て 二 つ の 説 話 が 収 め ら れている。一つはここまで見て来た、応天門炎上事件の顛末を語る 話。 も う 一 つ は、 伴 大 納 言 が 見 た 夢 の 話 で あ り、 こ ち ら は『 江 談 抄』や『古事談』にも収められている。 夢の話では、すぐれた相人である佐渡国の郡司が伴善男に対し、 彼の見た夢について解き明かしてみせるのだが、そのなかに応天門 の 変 を 予 言 す る 言 葉 が あ る。 そ の 言 葉 が、 『 江 談 抄 』 で は「 不 慮 ノ 外 事 出 来 テ 坐 レ 歟 」( 「 類 従 本 」) 、『 古 事 談 』 で は「 不 慮 之 事 出 来。 有 二 事 一 」( 「 国 史 大 系 本 」) と な っ て い る の に、 『 宇 治 拾 遺 物 語 』 では「事出できて、罪をかぶらんぞ」となっていることに注目した

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─ 13 ─ 成蹊國文 第四十九号 (2016) 長野嘗一氏は、以下のように指摘する )(( ( 。 「不慮ノ外事」 「不慮之事」とは、思いがけぬこと、考えてもみな かったことの意で、本人としては身に覚えのないことを指す。とこ ろが『宇治拾遺物語』では、たんに「事」となっているのだから、 これは、身に覚えのあることとも、または全くないこととも、いず れ に も 解 釈 で き る 可 能 性 を 残 し て い る 。 ま た 「 坐 レ 歟 」「 有 二 事 一 は、 「連坐」を意味する。善男自身はかかる犯行を実行しておらず、 計 画 も し な か っ た に か か わ ら ず、 子 や 家 人・ 党 類 が や っ た た め に 「 連 坐 」 し た こ と に な ろ う。 と こ ろ が、 こ こ で も『 宇 治 拾 遺 物 語 』 は「罪をかぶらんぞ」 (罪を得るぞ)とあって、 「連坐」とは言って いない。 『 宇 治 拾 遺 物 語 』 は、 こ の 夢 の 話 と と も に、 応 天 門 放 火 事 件 の 顛 末を語る話をも同時に集録した。後者の話は、伴大納言が左大臣源 信を陥れるために、自らが首謀者となって応天門放火を計画・実行 し た と 語 る。 と す れ ば 前 者 の 夢 の 話 で も、 「 不 慮 の こ と 」 と か「 事 に坐す」といった文句は使えない。 『 江 談 抄 』 や『 古 事 談 』 は『 宇 治 拾 遺 物 語 』 よ り も 前 に 成 立 し た 説 話 集 で あ る。 『 宇 治 拾 遺 物 語 』 の 作 者 は、 そ れ ら を 参 照 し、 特 に 『 古 事 談 』 は 必 ず 座 右 に 置 い て 模 し た で あ ろ う と さ れ て い る。 そ れ でいながら彼は、伴大納言の夢の話を集録するにあたり、先輩の両 書のような文言では具合が悪いと考えて、あえて変改を加えたので はないか。 以 上 の よ う な 指 摘 で あ る。 つ ま り、 『 江 談 抄 』『 古 事 談 』『 宇 治 拾 遺物語』の時代、伴大納言は応天門に放火した犯人とする立場と、 それに疑問を抱く立場とが、併存していたことになる。 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 の 詞 は 伴 大 納 言 犯 人 説 の 立 場 で 事 件 を 面 白 く 語 るが、絵のほうは客観的事実だけを淡々と述べる態度に終始してい る。絵が提示する客観的事実を見ていると、伴大納言はほんとうに 犯 人 な の か、 疑 問 を 持 た ざ る を え な く な る。 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 と い う一つの作品のなかにも、二つの立場の併存が認められるのである。 おわりに ──場所と人物── 第二節に述べたように、詞の挿入によって絵の時空や雰囲気を完 全に切り替えうること、第三節に述べたように、絵巻の絵は「一筋 の道に沿って移動撮影したような描き方」と相性が良いこと、この 2点を有効利用する「伴大納言絵巻」において、各段の絵はおおむ ね一つの場所に対応している。第一段は大内裏、第二段は左大臣邸、 第三段は舎人の家の前の通り、第四段は例外で舎人の家と役所、第 五段は伴大納言邸である。 それらの場所と主要人物の関係に注目しよう。大内裏を描く第一 段において、その中枢である清涼殿内にいるのは清和天皇と藤原良 房である。左大臣邸を描く第二段において、その主人源信は自邸の 庭にいる。一方、伴大納言邸を描く第五段において、その主人伴善 男は自邸の外を牛車に乗せられて進んでいる。

これらは応天門 の変の帰結、すなわち藤原良房が政治の中枢に返り咲くこと、源信 は自邸に蟄居すること、伴善男は配流されることを、それぞれ示し

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─ 14 ─ 木谷眞理子 伴大納言絵巻の詞と絵 ているように思われる。場所と人物との関係が、この変の帰結を示 すのである。 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 の 作 者 は、 伴 大 納 言 犯 人 説 の 立 場 で 語 る 説 話 を 取り上げながら、それに、客観的事実のみを淡々と示す絵をぶつけ る。その結果、鑑賞者は伴大納言犯人説に疑問を抱かざるをえなく なるが、さりとて伴大納言は無実だったということになるわけでも な い。 《 真 相 は 藪 の 中 で あ る が、 応 天 門 の 変 の 結 果、 政 界 は 良 房 の 一 人 勝 ち と な っ た こ と は 確 か で あ る 》 と、 「 伴 大 納 言 絵 巻 」 は 語 っ ているようにも思われるのである。 注 1 上野直昭「伴大納言絵詞」 (『美術研究』一四二、一九四七年) 、上野憲 示『双書美術の泉 3( 伴大納言絵巻

国宝絵巻』 (岩崎美術社、一九七 八年) 。 2 山 根 有 三「 伴 大 納 言 絵 巻 覚 書

そ の 演 出 と 謎 の 人 物 に つ い て

」 (『出光美術館蔵品図録 やまと絵』月報、一九八六年) 。 3 第 13紙と第 14紙のあいだには、詞を書いた一紙があったと、山根注 2 論 文 は 推 測 す る。 ま た、 高 畑 勲『 十 二 世 紀 の ア ニ メ ー シ ョ ン

国 宝 絵 巻物に見る映画的・アニメ的なるもの

』(徳間書房、一九九九年)と 黒田日出男『謎解き 伴大納言絵巻』 (小学館、二〇〇二年)は、霞と地 面と樹木を描いた一紙があったとする。 4 注 3黒田書に諸説が整理されている。 ( 源 豊 宗「 伴 大 納 言 絵 詞 に 就 て 上 」( 『 史 林 』 二 四 ─ 二、 一 九 三 九 年 四 月) 。 6「 伴 大 納 言 絵 巻 」 の 詞 は、 「 い か に く や し か り け む 」 と 結 ば れ て い る。 従 来「 ど ん な に 悔 し か っ た こ と で あ ろ う 」 な ど と 訳 さ れ て き た が、 蔦 尾 和 宏「 御 霊 と し て の 伴 大 納 言

今 昔・ 絵 巻・ 宇 治 拾 遺

」( 『 文 学 』 一〇─四、二〇〇九年七月)は、 「どれほどしなければよかったと思った だろうか」と解さねばならないとする。 ( 瀧尾貴美子「絵巻における「場面」と「景」 」( 『美術史』一一一、一九 八一年一一月) 。 ( 門 と 中 門 の あ い だ に は、 弓 を 持 っ た 男 性 が 二 人 描 か れ る が、 彼 ら の あ い だ が ぽ っ か り と 空 い て い る。 こ こ に は も と も と 朝 廷 の 使 者 が 描 か れ て いたが、伝来するあいだに切り取られてしまったらしい。 ( 黒田泰三『新編名宝日本の美術 12 伴大納言絵巻』 (小学館、一九九一 年) 。 10 『 新 編 日 本 古 典 文 学 全 集 宇 治 拾 遺 物 語 』( 小 林 保 治・ 増 古 和 子 校 注・ 訳、小学館、一九九六年)に拠る。 11 注 3高畑書。 12 山 本 陽 子「 伴 大 納 言 絵 詞 鎮 魂 説 の 再 検 討

脇 役 の 顔 貌 表 現 を 中 心 に

」『 明 星 大 学 研 究 紀 要[ 日 本 文 化 学 部・ 言 語 文 化 学 科 ]』 一 三、 二 〇 〇五年三月。 13 注 12論文。 14 テ ィ エ リ・ グ ル ン ス テ ン『 線 が 顔 に な る と き

バ ン ド デ シ ネ と グ ラ フィックアート

』(古永真一訳、人文書院、二〇〇八年) 。 1( 黒田泰三「伴大納言絵巻研究」 (『国宝 伴大納言絵巻』 、黒田泰三・城 野誠治・早川泰弘、中央公論美術出版、二〇〇九年) 16 秋 山 光 和『 平 安 時 代 世 俗 画 の 研 究 』( 吉 川 弘 文 館、 一 九 六 四 年 )、 佐 野 み ど り「 説 話 画 の 文 法

信 貴 山 縁 起 絵 巻 に み る 叙 述 の 論 理

」( 『 日 本 絵 画 史 の 研 究 』、 山 根 有 三 先 生 古 稀 記 念 会 編、 吉 川 弘 文 館、 一 九 八 九 年 )、 若 杉 準 治『 日 本 の 美 術 二 九 七 絵 巻 = 伴 大 納 言 絵 と 吉 備 入 唐 絵 』 (至文堂、一九九一年) 、注 1(黒田論文など。 1( 『 平 安 時 代 史 事 典 』( 角 川 書 店、 一 九 九 九 年 ) の「 応 天 門 の 変 」 の 項 (朧谷寿執筆) 。 1( 長 野 嘗 一「 伴 大 納 言 の 説 話

『 宇 治 拾 遺 物 語 』 の 鑑 賞 と 批 評( そ の 一 )」 (『 説 話 文 学 の 世 界 第 二 集 宇 治 拾 遺 物 語 』、 説 話 と 文 学 研 究 会 編、 笠間書院、一九七九年) 。

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─ 1( ─ 成蹊國文 第四十九号 (2016) ※  本 稿 は 成 蹊 大 学 長 期 研 修「 徳 川・ 五 島 本「 源 氏 物 語 絵 巻 」 の 研 究

絵 巻 の表現と物語の絵画性

」の成果の一部である。 ※  図 1・図 4・図 6は『 十 二 世 紀 の ア ニ メ ー シ ョ ン

国 宝 絵 巻 物 に 見 る 映 画的・アニメ的なるもの

』(高畑勲著、徳間書房、一九九九年)より、 図 2は『新編名宝日本の美術 12 伴大納言絵巻』 (黒田泰三著、小学館、一 九九一年)より、図 3は『思いっきり味わいつくす伴大納言絵巻』 (黒田泰 三 著、 小 学 館、 二 〇 〇 二 年 ) よ り、 図 (は『 続 日 本 の 絵 巻 13 春 日 権 現 験 記絵 上』 (小松茂美編集・解説、中央公論社、一九九一年)より、それぞ れ転載させていただきました。 (きたに・まりこ 本学教授)

参照

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