【研究ノート】ヒューム『人間本性論』における道
徳と法
著者
遠藤 和朗
雑誌名
東北学院大学論集. 経済学
号
100
ページ
369-390
発行年
1986-03-01
URL
http://id.nii.ac.jp/1204/00024435/
ヒ ュ ー ム
「
人間本性論」
における通徳と法 【 研 究 ノ ー ト 】ヒ ュ
ー
ム 『 人 間 本 性 論 』 に お け る
道徳と法
遠
藤
和 朗
市民社会の自律性は, ス ミ ス(Adam
Smith,
l723
-
9 0 ) の「
道德情操 論」
(The
Theoryof
MoralSentiments,l759)においてはじめて認識さ
れるが, ヒ
・
二 ー ム ( D a v i dH u m e , 1 7 l l
-
7 6 ) の 主 著「
人間本性論」
( A
Treatiseof
HumanNature,l739
-
40)は,それよりも20年前に公刊され, 利己的人間の把握や道德論における同感の強調, そして市民社会の法思想 などにおいてスミスに大きな影響を与えたと言われている。
そ こ で 本 稿 で は ,「
人間本性論」
を 取 り 上 げ,
そ の な か で の ヒ ュ ー ム 市 民 社 会 に お け る 道 徳 と 法 の 間 題 にっ
い て 考 察 し よ う と す る も の で あ るo さ て , ヒ ュ ー ム に よ れ ば,あらゆる学問は人間本性(humannature
) に か か わ っ て い る と し て 次 の よ う に い う。「
いったい明かに, すべての学 は多かれ少かれ人間本性(humannature)
に関係があり,
外見は如何に 人間本性から離れた学があるにせよ, それらもやはり何にか彼にかの経路 を通つて人間本性へ帰つて来るものである。
数学, 自然学,
自然宗教すらある程度まで人間学(the
science of
Man)に依存する。
そのわけは,
こ れ らの学が人間の管結下にあって,
人間の力能,
機能によって真偽を判定さl::ュ ー ム
「
人間本性論」
における道德と法 れ る か ら で あ るl11
」。
こ の よ う に,
ヒュームによると人間本性はすぺての学間の基礎だという の で あ る。
したがって,
道徳哲学を研究する上においても人間本性の解明 と把握が出発点になる。
彼は, 日常的な交際,仕事,
換楽における人々の 生活のなかに人間を捉えようとした。
すなゎち, 身近な社会生活の経験と 観察のなかに人間を把握しようとしたのである。「
人間本性論」
の副題に「
実験的推論の方法(experimentalMethod
of Reasoning
)を道徳の諸間 題に導入する一
つの試み」
と あ る よ う に,
経験的方法を道德哲学に適用し よ う と し た の で あ るn
。
その結果彼は,
人間の理性においてではなく感情 においてこそ道徳的世界が成立することを認識した。
「
道德性(morality
)は,
判 定 さ れ る と い う よ り , いっそう適切には感じられるのである3:
l」
と。
ヒュームにおいては, 感性的人間こそが現実の社会生活における人間像で あった。
理性は,
ただ観念の比較か事実間の関係によって, 真偽の判断に のみ関わりを持つのであって, 道德の間題に立ち入ることは不適切であっ た。
か く し て ヒ ュ ー ム は ,「
道德的区別は理性(reason)から生まれない◆:l」
と い うo さて,
それでは, ヒュームはどのように道德論を展開したのであろうか。
道德論の根本は,德(virtue
)と悪徳(vice)とがどのようにして判断され るかという道德的判断能力の間題であるが, 彼は,
それを道德感(moral
sense
) に 求 め て 次 の よ う に い う。「……
あ る 行 動 も し く は 心 持 も し く は 性l ) David Hume,A Treatise of Human Natureed,by L
.
A.
Selby-
Bigge O x-ford,(以下T
.
と略記する) p.
xix 大税春彦訳「
人性論」
(岩波文庫版)l
ll2l買。
(以下,これからの引用はほば 邦訳通りだが, 若千変えた簡所もぁ る ) 2) cf.
T.
p.
xxiii邦訳(l)25-
26貢。
参照「……
道德哲学 (moral phibsophy)に於ては人生を慎重に観察して実験を収 集しなければならない。
しかもそのとき.
人と交り業務に励み又は遊び段れ る人間の挙動を見て,
人世の日常的経過に現れるままに実験を行わなければ な ら な い」
。
3) T.
p
.
470 邦訳(4)34買。
4 ) T.
p.
455 邦訳(4)ll買。
2-
370-ヒ ュ ー ム
「
人間本性論」
における道德と法格は有徳あるいは悪德である。 何 故 か , け だ し , こ れ を 視 る と , あ る 特 殊
な種類の快または不快(pleasure
or uneasiness of a particular
kind)が惹
き 起 さ れ る か ら で あ る
。
して見れば, この快不快の理由を与えれば,
徳ま たは悪德を充分に解明するのである。
およそ德の感をもっ
とは, ある性格 の熟察からある特殊な種類の満足を感じることに他ならない。
感じそのも のが称贊ないし資嘆の念を組成するのである。
われわれはこれ以上には進 まないS1
」
と。
こ の よ う に ヒ ュ ー ム に よ る と , 有德か悪徳かの区別は,
人間の行為や性格 を観察するときゎれわれの心に生じる特殊な快・不快に基づくというので あ る。
こ れ が ヒ ュームのいう道徳感である。
こ う し て ヒ3.ームは,一
応シャ フ ツ べ リ
(Earl
of
Shaftesbury,
l67l
-
l7l3)やハチソン(Francis
Hut
-cheson,l694
-
l 7 4 6 ) な ど の モ ラ ル ・ セ ン ス 学 派 の 立 場 を 継 承 し た6 l。
し かし, ヒ ュームにあっては, 彼らのような人間に固有な特殊能力にではなく ,
後に詳述するように自己と他人との感情の交通, すなわち同感(sym-pathy
)に基づく快・不快を道徳的判断の原理としたのであった。
ヒ=
-ムは, こ の こ と を「
人間本性論」
第三篇「
道徳にっ
いて」
の結論において 強 調 し て い る。
「
同感こそ道徳的区別の主要源泉であることを疑わないで あ ろ う7'
」
と。
か く し て,
ヒ ュ ー ム に お い て は,
同感に基づく快・不快こそが道德的世 界を形成する根源となった。
そして, 彼はまず,
德を人為的(artificial)
なものと自然的(natural)なものとの二つに分けて考察している。
ヒ ュ ー ムは人為的徳の後に自然的徳を論じているが, 道徳的判断の原理である同 感が後者の部分において多くを説明されていることから,
ここでは自然的 徳 か ら 考 察 し よ う。
5 ) T.
p.
47l 邦訳(4)35-
36買。
6 ) 水田洋「
ア ダ ム ・ ス ミ ス に お け る 同 感 概 念 の 成 立」
一
橋論錢,第60卷第6 号.
参照 7 )T.p
.
6l8 邦訳(4l245貢。
-
37l-
3lii t:ューム
「
人間本性論」
における適徳と法 自然的德(natural
virtue
)とは, 人間の人為や工夫に依存しないで, 当 事者に直接に快苦を生ぜしめるような德をいう。
人々に快感を与える性格 は有德であり, 不快を与える性格は悪德である。
ヒ ュ ー ム に よ る と 快 苦 の 源泉は次の通りである。
「……
われわれがある人物の性格から快感を収得するとき,この性格は,
他人にあるいは本人自身に有用であるように自然に適しているか, 又は, 他人にあるいは本人自身に快通である8 )」
かのばあいである。
すなわち, ある人物の性格が, 本人自身と他人に対して有利または快適な場合は快感 を与え, 有害または苦痛の場合は不快を生むというのである。
しかし, も し そ う だ と す る と , 快・不快の感情は主観的であるから個人によって相対 的 に な ら ざ る を え な い。
そこで, ヒ ュームは, 快・不快を観察者の同感に 求 め よ う と す る。
それでは同感とは何か。
ヒ .,
ー ム は 次 の よ う に い う。
「
およそ人間本性の性質のうちで, それ自身にも又その結果に於ても最 も顕著な性質と言えば.
他人に同感する向癌, すなわち他人の心的傾性(inclinations
)や心持(sentiments
)がゎれわれ自身のそれといかほど異なっ ていても, いや反対でさえあっても.
それら他人の心的傾性や心持を交感 伝達(communication
)によって受取る向廳, これに勝るものはないo
)」
と。
すなわち,
感t
l
liの交通こそが同感の本質であるというのである。
そして彼 は, 同感による感情伝達のメカニズムを弦の連動にたとえて次のように述 べているo「
い っ た い,
すべての人の心はその感情及び作用に於て相似する。
換言 すれば, いかなる人も.
他のすべての人がある程度に於て感じることので 8 ) 9 ) T.
p.
59l 邦訳l
4)207頁。
T.
p.
3l6 邦訳l
3)69買。
-
372-ヒュー ム
「
人間本性論」
における道德と法 き な い よ う な 情 念 に よ っ て,心を湧き立たせられることは不可能である。
二つの弦を等しく張ると,一
つの弦の運動は殘りの弦に伝達されるが, そ れと同様に,
すべての情念はひとりの人物から他の人物へ即座に移つて,
すぺての人間に対応的な連動を生む。
私がある人物の声や身振りのうちに 情結の結果を見ると, 私の心は直ちにこの結果からその原因へ移つて, 情 結の極めて生気ある観念を造る。
そして, 観念は生気の故に忽ち情緒その ものに転換される。
同様に.
ある情感の原因を知覚すれば,
私の心は結果 へ伝えられ, 似よった情感によって湧き立たせられる。
……
い っ た い,
他 人のいかなる情結も直接には心に現出しない。
われわれはただ, 他人の情 結の原因あるいは結果を感知するだけである。
これらから我々は情結を推 論する。
従 つ て,
これらが我々の同感を生起するのである'
o)」。
以 上 の よ う に,
ヒ ューム の い う 同 感 と は,
他人の内的情緒を観察者と して受動的に知り, 他 人 の そ れ ら と 同 じ 感 じ を 抱 く こ と で あ っ た の で あ る''
)。
し た が っ て, 同 感 は そ れ 自 体 , 利 己 的 で も 利 他 的 で も な い。
と こ ろで, 同感は自分との身近な関係にある人と, そ う で な い 人 と の 間 で は 強弱があらわれて変動しやすい。
そ れ に も か か わ ら ず,
われわれは道德 的性質にっ
いては,
個々の人間の利害を離れ,
時代や地域を越えても等し く有徳であると評価するのである。
これはどのようにして可能になるので あ ろ う か。
ヒューム に よ る と , われわれは「
ある不動な且つ一
般的な視点」
(
some steady
and generalpoint
of
view)に立
つて客観的にかっ
公平に判 断 し よ う と す る と い う。「
われわれはある不動な且つ一
般的な視点を定め て,
思惟に当つて常に,
われわれの現在の位置の如何にかかわらずこの視 点に自己を置くのである'
2 )」。
こ の「
一
般的視点」
によってのみ自己の特殊な立場を離
i
t.
,て, 客観的な判断をなすことができるのである。
こ の よ うl 0 ) T
.
pp.
575-
576 邦訳(4)l85-
l86頁。
l l ) cf.P.Mercer
.
Sympathy and Ethics,A study of the relationshipbetween sympathy and moralitywithspecialreferenceto Hume's Treatise,Clarendon press,l972, pp.
20-
44l 2 ) T
.
pp.58l-
582 邦訳(4)l941
買。
ヒ
=
.ーム「
人間本性論」
における道德と法 な ヒ=
.ームの考え方は,
周 知 の よ う な ス ミ ス の「
公平な観察者」
(impar
-tialspectator)を想起させる
。
ヒュームは以上のような同感が,
人間の美 的情操及び道德的情操を生む原理であることを次のように強調している。
まず美的情操にっ
いて。
「
われわれの美感もこの原理に非常に依存する。
ある事物がその所持者の心に快を産む順向を有するとき, 該事物は常に美 し い と 看 做 さ れ る。
同様に,
苦を産む傾向を有する事物はすべて快通でな く , 酸 い。
例えば家屋の便益・野の肥沃・馬の強さ・船の積較量や安固性 や快走性, それらはこれらさまざまな事物の主要な美を造る。
この場合,
美しいと呼称される事物は.
ある結果を産む傾向によってのみ快感を与え る。
そして結果とは, ある他の人物の快感ないし利益であるn1
」
と。
次に,
道德的情操にっ
いては,
「
……
同感はまた他の多くの德を生む,
と 推 定 で き よ う。
換言すれば,
いろいろな性質は,人類の善福(thegood
of
mankind)への傾向の故に称費を得る,と推定できよう'
●)」
と述べている。
すなわち, ヒ ュ ー ム に よ る と,
「
人類の善福」
への領向をもっ
性質が同 感に基づいて道徳的情操を産むというのである。
それ故,
自然的德の多く は社会的善福への傾向を有するがために社会的徳と して称費されるのであ ったo「
……
自然的德の多くが上記の・社会的善福(thegoodof society
)への領向を有する点は
.
誰 れ も 疑 う こ と が で き な い。
柔 和 (meekness
)や慈恵(benefi
cence
)や慈善(charity)や更
.
仁 (generosity
)や仁慈 (clemency
)や 節制(mod
eration
)や公正 (equity
)は, 数ある道德的性質のなかでも最も 顕著であり.
それが有する社会的善福への價向を表示するため, 普通には 社会的徳 (socialvirtues
)と呼称されるl S )」・
以上のように,
ヒ ュームにおいては, 同感の原理は美的判断及び道徳的 判断をなす能力として是認されるのであった。
そして,
そのばあい.
「
あ 的 ) l 4 ) l 5 ) 6 T.
p.
576 T.
p
.
578 T.
p.
578 邦訳(4)l86-
l87頁。
邦訳(4)l88買。
邦訳(4)l89買。
-
374-ヒ ュ ー ム
「
人間本性論」
における道德と法 る不動な且つ一
般的な視点」
をもっ
観察者としての快・不快が有德か悪德 かを決定する基準であることはいうまでもない。
か く し て,
ヒ
3 ・ームは次 の よ う に 結 論 す る。
「
およそ我々は確信できるが,
同感は人間本性の甚だ強力な原理である。
また確信できるが, 同感は,
道德に関する判定のときのみならず, 外的事 物を眺めるときの美感に非常な影響を及ぽすのである。
われわれの見出す ところでは, 同感は,
正義や忠誠や貞操や作法の場合のように,
他のいか なる原理の協力もなしに単独に作用するとき, われわれに称費の心持を最 も強く感じさせるに充分な力を持つている。
そして更に言えるが,同感の 作用に必須な事情は悉く, 始どすべての德に見出される。
すなわち德の大 部分は, 社会の善福への傾向をもっ
か,
さもなければ, 德を所持する人物 の善福への領向をもっ
の で あ る。
これらすぺての事情を比較すれば.
われ われは,
同感こそ道徳的区別の主要源泉であることを疑わないであろ うlCll」
o l川 次に, ヒ=
ームは人為的徳 (artificia
lvirtue)に
っ
いては「
人類の諸事 情ならびに必要から起る人為ないし工夫によって快感と称費とを産む''
1l」
ものと規定して,正義(justics
) を あ げ て い る。
そして, 彼は(l)人為によ つて正義の諸規則が確立される仕方の間題と, (2)これらの諸規則の連守ま たは無視に道德的是認・否認を帰する理由との二つを順次考察している。
換言すれば,
ヒ ュー ム は.
まず正義の法の成立過程を考察した後に, そ の 正義の法を連守するところに正義の德が生じるものであることを明らかに す る の で あ る。
さて,それでは正義の諸規則はどのようにして確立されるのであろうか。
l 6 ) T.
p.
6l8 l 7 ) T.
p.
477 邦訳(4l244-
245買。 邦訳(4)44買。-
375-ヒューム
f
人間本性論」
における道德と法 ヒュー ム に よ る と , この地球上に住んでいるすべての動物のなかで, 人間 ほど自然から一
見して残忍な取扱いを受けているものはない。
なぜなら人 間は, 数えきれない要求や必要を自然から荷わされておりながら,
それを 解決するに最も食弱な手段しか与えられていない。
人間が自然から与えら れている会弱さを克服するためには社会を形成するほかはない,
と い う。
「
社会によって人間のあらゆる虚弱は補償される'
o
1
」。
そして, 彼は社会 形成の利点を次のように述べている。
「
一一
各個人が別々に,
ただ自分自 身のために労働するときは, 人間の力は小さすぎて, 何らかの著しい仕事 を遂行するに足りない。
ひとりの人の労働がそのさまざまな必要のすべて を補うために用いられ, 従つて個々の技術が完全の域に達することは決し て な い。
各人の力と首尾とはいつも等しくはない。
従つて, いずれかの点 の些少の不足も, 破減と不幸とを不可選的に伴わざるを得ない。
然るに社 会は, これら三つの不便を救済する策をあてがう。
各人の力を速接して,よって以てわれわれの力を增大する
。
分業(the
partition of employment)
によってわれわれの能力は增す
。
相互援護によってわれわれが連命や偶然 に 藤 さ れ る こ と は 少 く な る。
こ の よ う に 力 と 能 力 と 安 固 さ と が 加 わ る た め,
社会は有利となるのであるl 911」。
このように社会の形成は,
各人の結合によって力を增大させ, 分業によ ってわれわれの能力を進展させ, 相互扶助によって運命や偶然に支配され る こ と が 少 な く な り , 安全性が保障されるというのである。
しかし, 社会 が形成されるためには「
社会が有利であることだけではない。
この有利さ を人々が気づくことも必須である2o)」
と い う。
そして, ヒ ュ ー ム に よ る と , この有利さに人々が気づくのは, 教育や省察によるだけではなく, 價習に よ っ て 自 然 に 気 づ く よ う に な る と い う。
例えば, 両性間の自然的情愛に基 づく家族のような最初の社会形態において, 親はその優れた知恵で子供を 8 9 0 8 l l 2 T.
p.
485 T . p.
485 T.p.486 邦訳l
4156頁。
邦訳(4)56-
57買。
邦訳(4)57買。
-
376-ヒューム
「
人間本性論」
における道徳と法 支配するが, 同時に自然の情愛によって権威の行使を抑制する。
子供たち は,
そのなかで償習によって社会の利益を知り, 社会に適合するようにな る と い う の で あ る。
しかしながら,
われわれの自然の性向や外部的事情のうちには, 社会的 結 合 を 阻 害 す る 要 因 が あ る。
第一
は,
利 己 心 と 限 定 さ れ た 寛 仁(selfi
shnessandlimited
generosity
)である。
第二は, 人間の欲求と比較しての財貨の稀少性である
。
まず,
ヒュー ム は 次 の よ う に い う。
「
……
各人は,
自分以外のいかなるひとりの人物より自分自身を更に愛する。
また,
他人を愛するさいは, 関係ある者や知己に最も大きな情愛を抱く。
この点 から他方では, 情結間の対立と従つ て行動間の対立とが,
必然的に産まれ なければならない。
そしてこの対立は, いま漸く新たに樹立された社会的 接合にとって危険なものとならざるを得ない2'
)」。
こ の よ う に ヒ ュ ー ム に よ る と , われわれは人間本性の自然的性質からし て相対立するというのである。
その上, 利己心は財貨の獲得をめぐる対立 に 鮮 明 に あ ら わ れ る か ら,
私的所有とのかかわりあいにおいて社会的結合 を脅かすのである。
ヒュームは, このことを次のように説明している。
「
い っ た い,
我々の所持する善福には三つの異る種類がある。
すなゎち,
心の内的満足と肉体の外的秀抜と,
動勉ならびに幸運によって獲得した財 物の享受と, この三つである。
と こ ろ で , 第一
の享受は完全に保証されて い る。
第二は, 我々から強尋
す る こ と も で き る が , 奪 つた者の利益である こ と は で き な い。
ただ最後のみ,
他人の基力に曝らされると共に,
他人に 転 置 さ れ る こ と が で き,
しかもなんらの損失も変更も蒙ることがないので あ る。
然るにまた同時に,
財物の量はすべての人の欲望と必要とを補うに 十分でない。
それゆえ,これら財物の增進は社会の主要利益であるが,
同 時にまた,
それを所持する上の不安定とその稀少性とは主要障害なのであ るn1l」
o 2 l )T.p.
487 邦訳l
4)59買。 22) T.
pp.
487-
488 邦訳(4159-
60買。-
377 -9ヒ ュ ー ム
「
人間本性識」
における道德と法 こ の よ う に , ヒュームによれば,
第一
の心の内的満足は全く安泰であり, 第二の肉体の外的秀抜はわれわれから奪い得ても本つた者の利益とはなら ないが, 第三の財物のみは他人の暴力に環らされ, しかもなんらの損失も 変更もなしに他人に移發されるという不安定があり, そして稀少であるた めに人間相互の間に対立を生ぜしめ,社会的結合を妨げるというのである。
こ う し て, ヒ ュ
ームにおいては,
利己心はそれ自体としてもまた私的所有 との関速においても社会的結合の阻書要因となるのであった。
それでは, 利己心を抑制し外的物財の所持の安定をうながすにはどのよ う に す れ ば よ い の で あ ろ う か。
そ れ は コ ン ヴ ニ ン シ ョ ン (convention)に
よ っ て 可 能 に な る と い う。
「
……
社会の全成員が結ぶコンヴェンションによって上述のような物財 の所持に安定性を成与し, 各人が幸運と動勉とによって獲得できたものを 平和に享受させておく,
と い う 途 で あ る。
このようにして各人は, 自己が 安全に所持できるものを知る。
そして,
情結の偏願な・互いに矛后する運 動は押制されるのである。
……
コ ン ヴg.
ン シ ョ ン に よ る の で な い か ぎ り わ れわれ自身や友人の利害を最もょく念頭に置く途はあり得ないのである。
何故なら,
こ の よ う に し て 始 め て,
われわれ自身の安寧と存立にとっても 必要であるばかりでなく他人や友人の安寧と存立にとっても全く必要であ る社会は, 保持されるからであるnリ。 こ の よ う に,
ヒ3.ー ム に よ る と,
コ ン ヴニン シ ョ ン に よ って物財の所持 に安定性がもたらされ,
自分と他人相互の安全と存立の保障という社会形 成の利益が通成されるというのである。
そ れ で は コ ン ヴ ニ ン シ ョ ン と は一
体 何 で あ ろ う か。
コ ン ヴニン シ ョ ン とは,
t:
ュームによれば, 単に「
共通利益の一
般的な感覚(ageneralsens
e
of
common inte
11es
t)である。
社会の全成員はこの感覚を互いに表示し合 い,
この感:
i通
:
に誘致されて, 各人の行為を若千の規則によって規制するの で あ る。
私は, もし同様に他人が私に就いて行動するとすれば, 他人の物 23) T.
p.
489 邦訳(4162-
63買。
l 0-
378-ヒ3.ーム
「
人間本性論」
における道德と法 財を他人に所持させておくのが私の利益に合うであろう,
と観察する。
ま た他人は, 自己の行為を規制することに似よった利益を感受する。
そ し て,
利益のこの共通感覚が相互に表示されて,
私にも他人にもょ く 判 る と , そ れに適当した決意と行いとが産まれるのである2'
1l」。
こ の よ う に,
コ ン ヴ,
; ン シ ョ ン と は,
他人も自分と同様に相互の物財を 尊重して侵書しないならば,
自分も同様にするであろうという意志を暗黙 のうちに表明し合う共通利益の一
般的な感:
国:
に他ならない。
それは, 例えば,
二人で小舟をこく'時,
かれらは約東(promise
) に よ っ て で は な く コ ン ヴ ェ ン シ ョ ン に よ っ て 相・を動かすのと同様である。
こ う し て,
ヒ3. ームにおいては,人間の利己心と物財の稀少性という条 件 の も と で,
社会を形成しなければならないが,
利己心は自らを抑制する こ と が , 自分自身にとっても社会にとっても利益であることを悟るという の で あ る。
すなわち,コンヴェンションは,各人の利益のために各人の利 己心の自己抑制をうながしてむすぶ社会の全構成員の個習的とりきめに他 な ら な い。
これは約束とは異なる。
約束は自覚的な拘束関係であるのに対 して,
コ ン ヴ,
,
ンションは暗黙のうちに合意するある経験的慣習である。
コ ン ヴ ェ ン シ ョ ン は「
漸次に起り,その力は除々に,
すなゎち規則違背の 不都合を反復して経験することによって, 獲られるのである:u
】1
」
と ヒ ュ ー ム は い う。
そ し て, コ ン ヴ ェ ン シ ョ ン の 成 立 に よ っ て , 各人の物財の安定 性が得られたならば, 人々のあいだには, 正義と不正義との観念が, また 所有や権利や責務の観念が起こるという。
ただし, 所有, 権利, 責務など の観念は,正義,
不正義の観念の解明に付随する。
「
正義の起源が所有の 起源を解明2S;l」
す る の で あ る。
このように述ぺて,
ヒ ュー ム は,
社会秩序 24) T.
p.
490 邦訳(4)63買。
25) T.
p.
491 邦訳(4)64-
65買。
-
379-ヒ ュー ム
「
人間本性論」
に お け る 適 總 と 法 に と っ て 最 も 重 要 で あ る 正 義26) は コ ン ヴ ェ ン シ ョ ン か ら 生 じ る こ と を 次 の よ う に 述 べ て い る 。「
一
一
正 義 は 人 間 の コ ン ヴ ェ ン シ ョ ン か ら 起 る 。 そ し て こ の コ ン ヴ ェ ン シ ョ ン は , 人間の心の一定の性質と外的事物の状況との協力から生ずるあ る 不 都 合 を 救 済 す る 策 と し て , 意 図 さ れ た の で あ る 。 この心の性質とは利 己心と制限された'更 仁 と で あ る。
また, 外的事物の状況とは, それら事物 が 容 易 に 変 え る こ と , な ら び に こ れ と 結 び っいて, 人々の要求や欲望と比 較するとき事物が統・少 で あ る こ と , で あ る27)j 。
「
一一
正義は一
種 の コ ン ヴ ェ ン シ ョ ン な い し 合 意 ( a g r e e m e n t ) に よ っ て 樹 立 さ れ る 。 す な ゎ ち , 方 人 に 共 通 で あ る と 想 定 さ れ る ・ 他 人 も 似 よ っ た お こ な い を 営 む 書 で あ る と 期待して一
つ一
つ の 単 独 な お こ な い を 営 む と き の 利 益 感 に よ っ て 樹 立 さ れ る の で あ る 。 か よ う な コ ン ヴ ェ ン シ ョ ン が な け れ ば , 正 義 の よ う な 德 が あ る と 多 想 す る 者 は 決 し て な か っ た で あ ろ う し , 自己の行動を正義に通合さ せ る よ う に 誘 致 さ せ る 者 も 決 し て な か っ た で あ ろ う28)J。
こ の よ う に , ヒ ュームによれば, われわれの利己心と制限された更仁, そして事物の稀少性とが正義の生みの親であった。 コ ン ヴ ェ ン シ ョ ン は 各 人相互の利益のために, 共通の利益感に1導びかれてむすぶ慣習的とりきめ で あ り , 正 義 を 成 立 さ せ る も の で あ っ た 。 し た が っ て , コ ン ヴ ェ ン シ ョ ン による正義の成立は, 各人の利己心の抑制と社会形成から生じる利益によ る相互の利己心の充足とぃ う 二 重 の 意 味 を 持 つ こ と に な る。
か く し て , ヒ ューム に よ れ ば「
正義の法を確立させるものは, われわれ自身の利益及び 公共的利益 (public interest)への配慮、29)」
で あ っ た 。 26) 正 義 が 社 会 の 大 照 性 で あ る こ と を ヒ ュ ー ム は 次 の よ う に 表 現 し て い る 。「一
一
正義がなければ, 社 会 は 直 ち に 解 消 す る に 相 違 な く , 各人はあの未開で孤 独な状態へ, す な ゎ ち , お よ そ 社 会 の な か で 想 定 さ れ 得 る か ぎ り の 最楚i
な状 況 よ り 無 限 に 態 い , 来l用 で 孤 独 な 状 態 へ 落 ち 込 む に 相 違 な い か ら で あ る」
。 T.p.497 邦訳l
4)74直。 27) T.p.494fl;
訳(4169:
i i
。 28) T . p . 4 9 8 il;訳(4)74頁。 29) T.p.496a
1訳(4)72直。 l 2-
380-ヒ ュ ー ム
「
人間本性論」
における道總と法 前 述 し た よ う に,
人間は社会を形成することによって相互の力を增大さ せ, 分業によって能力を進展させ, 相互援護によって安全性を保障される と い う 利 益 が あ っ た。
このような社会の利益を人々は経験と慣習によって 感 じ と っ て い る か ら , コンヴェンションによって社会秩序の大黑柱である 正義の法を成立させるのであった。
これによって自分自身の利己心も充足 せられ, 社会の利益も達成されるのであった。
ヒュームにあっては, 社会 の利益を尊重することが個人の利益でもぁっ た。
つ ま り,
個人の利益のた めに公共の利益は不可欠なのであった。
したがって, 正護の法は個人の利 益を押制しながら個人の利益を增進させるという役割を担つているのであ る。
以t
: の よ う に , 正 義 は , 人 間 の 必 要 性 か ら 生 じ た 考 案 と い う 意 味 で ま さに人11l
0的 期u
であった。
]:
l
i
l さて, 次に正義論の第二の間題, すなわち正義の規則の連守, 無視に道 德的是認と1
ll
,
認とを結びっける間題である。
ヒ ュ ー ム に よ れ ば , 人々は,
各人の利己心と制限された寛仁.
そして物 財の稀少性とが社会形成にとって阻害要因であることを経験上知つてい る。
し か し , 他 方 , 利 己 心 を 満 足 さ せ る た め に , あ る い は 物 財 の 增 大 を 図 るためには社会が必要であることも知つている。
したがって,
人々は正義 の法を連守することによって相互の安全と利益を確保しようとする。
換言 すれば, 人々は自らの利益のために正義の諸規則を守るというのである。
社会の最初の形成においては, この動機は十分に作用し強力であった。
と ころが, 社会が発展,拡大するにっ
れて「
利益への顧慮」
(regard
to
in
-terest)という動機は弱まってくる。
「
一一
社会が多人数になって,一
つの種族もしくは民族にまで增大して し ま う と , この利益は比較的隔つた も の で あ る。
換言すれば,
人々は正義 の規則に速反することに素乱と混乱とが随伴することを, 比較的に狭溢狭-
38l-
l 3t:3.ーム
「
人間本性論」
における道德と法 小な社会ほど即座には看取しない3oll」
の で あ る。
したがって,
「
利益への 願慮」
だけでは正義の諸規則を守ることはできない。
しかし, ヒュー ム に よ る と , 人間は直接的な利書関係から隔たっていても不正義はわれわれを 不快にする。
なぜなら不正義は人間社会に有書であり, われわれは同感に よ っ て こ の 不 快 を 感 ず る か ら だ と い う の で あ る。
「
われわれは, 不正義を犯す人物に近づく者の不快を同感によって享有 す る。
と こ ろ で , およそ一
般的に日階して人間の請行動に於て不快を与え るものはすべて悪德と呼ばれ, 同 じ く一
般的に日階して満足を産むものは すべて德と呼称される。
それゆえ,
このことが, 正義と不正義とに道德的 善悪の感の随伴する理由である3o
」
) と。
こ の よ う に,
われわれは同感によって, 正義が与える快感を德として是 認し, 不正義の与える不快を悪德として判断するというのである。
そ し て,
正義に対して, われわれが道德的是認を与えるのは, それがもっ
公共善(public
good)
^
'の傾向に対してである。
「……
正義が称費される理由は確 かに,公共善への價向を有するという理由の他にはない。
そして公共善は, 同感がそれへの関心をゎれわれに起させないかぎり, われわれにとって無 関 係 な こ と な の で あ る3 lリ。
か<
し て , ヒ ュー ム は 次 の よ う に い う。「……
自 利 (self
interest)は正
義を樹立する根源的動機である。
が,公共的利益への同感(asympathy
withpublic interest)は,
正義の德に伴う道德的是認の源泉なのである:n1」。
公共的利益とは,
言うまでもなく社会形成によって得られる各人の利益の こ と で あ る。
こ う し て , ヒ ュ ー ム に お い て は , コ ン ヴ ニ ン シ ョ ン に よ っ て 確立された法としての正義を前提に,
人々は同感の原理によって德論とし ての正義をはじめて成立させる契機を持つことになるのであった。
「
正義ほど教重される德はなく, 不正義ほど忌み機われる悪德はない。
30) T.
p.
499 邦訳l
4l76買。 3 l ) T.
p
.
6l8 邦訳l
4l245買。
32) T.
pp
.
499-
500 邦訳l
4W
買。
l4-
382-ヒュー ム
「
人間本性論」
における通德と法 換言すれば,
これら正義や不正義ほど, ある性格を愛すべきものあるいは 忌まわしいものと確定する性質はない。
ところで正義は, 人類の善福への 傾向を有するが故にのみ道德的徳である。
実を言えば, 正義はただこの日 的のための人.
ll
1
ll的案出に他ならない。
一一
ところで,ある目的への手段は,
i
孩目的が快通であるときのみ快適である。
且つまた.
われわれ自身の利益 や友人の利益にかかわりない社会的善福は,
ただ同感によってのみ快感を 与 え る。
従つて, 同感こそあらゆる人為的徳に対して我々の払う敬重の源 泉である道理になる331」。
こ の よ う に , 正義は社会的効用を目的としているがゆえに, われわれの 同感によって道德的是認が与えられ, 違 守 さ れ る と い う の で あ っ た。
以 上 か ら 明 ら か な よ う に.
ヒ;,
ーム正義論においては,
正義の法と正義 の徳の起源が別々に考察されていた。
し か も , コ ン ヴ ェ ン シ ョ ン に よ る 正 義の法の成立を前提にしてはじめて同感による正義の德が成立するのであ る。
換言すれば,正義の法は「
共通利益の一
般的な感覚」
に よ っ て , 人 々 の利己的行あを抑制しながら経験的慣習によって成立するもので, そ こ で は道徳情操は何らの役割も持ちえない。
しかし, 正義の法が樹立され承認 された後は,「
それら規則の連守に於ける道徳性の感覚(thesense of
morality)が自然に,
それ自身に, 随伴する3●ll」
のであった。
v
以上の考察から本節では, ヒ ューム道德論における注目すべき特徴をス ミ ス と の 対 比 に お い て 考 察 す る こ と と す る。
まず,
第一
に,
ヒ ュームの同感は.
コ ミ ュ=
・ケーションの原理として, 他人の内的情結を知り.
他人のそれらと同じ感じを抱くことであった。
そ して.
それは道徳的判断の原理でもあった。
33) T.
p.
577 邦訳l
4、
l87-
l88買。
34) T.p.
533 邦訳l
4ll25買。
-
383-ヒ3.ー ム
「
人間本性論」
における道德と法 自然的徳であろうと人為的德であろうと,
その判断基準は同感に基づく 快 ・ 不 快 で あ る。
ヒュームの同感概念は, スミスへと継承発展するものと して一
般的に受け入れられているが, ス ミ ス は「
道德情操論」
において自 分自身の同感とヒューム の そ れ と を 次 の よ う に 対 比 し て い る。
「
われわれの道徳情操の起源を同感から説明しようと試みながらも, 私 がこれまでに樹立しようと努力してきた学説とは異るところの別個の学説 が存在する。
それはすなわち美德を功利性(utility
)に求め,
観察者が何 らかの性質のもっ
功利性を見る場合に感ずる快感を, そのような性質の影 響を受ける人々の幸福に対する同感にもとづいて説明しようとする学説で あ る。
この同感はわれわれが行為者の動機に移入する場合に抱く同感とも 異 な り,
またわれわれがかような行為者の行為のために利益を受ける人の 感謝に共鳴する場合に抱く同感とも異なっている。
かような同感はわれわ れが巧みに考案された機械を是認する場合に用いるのと同一
の原理であ る3Sl」
とo こ の よ う に,
ス ミ ス に よ る と , ヒュームの同感は「
巧みに考案された機 械を是認」
す る ば あ い の よ う に,
道徳の基準を観察者が功利性から受ける 快感やその功利性の利益をうける人々の幸福に同感するという意味で把握 さ れ て い る。
これはすでに述べたように,
ヒ3.ームにおいては, 自然的德 であろうと人為的德であろうともそれらが有する社会的利益のために,
あ るいは個人的利益のために,
同感によって道徳的是認を生むということを 意味するものであった。
ヒ ュームは,
こ の こ と を「
人間本性論」
第三篇の 結論部分において次のように強調している。
「
い っ た い,
始どすべての人は,
心の有用な性質がその効用(utility
) の 故 に 有 徳 で あ る こ と を 認 容 し よ う。
この考え方は極めて自然であって,
極めて多くの場合に起る。
従つて, この考え方の許容を達巡する者は殆ど35) Adam Smith,The Theoryof MoralSentiments
.
Clarendon Press.
l976(以 下 M.
S.
と 略 記 す る ) P.
327米林富男訳
f
通德情操論」
( 下 ) 未 来 社 , 6 8 2買。
-ヒ3. ーム
「
人間本性論」
における道德と法 な か ろ う。
さて,
これがひとたび許容されれば, 同感の力は必然的に承認 されなければならない。
およそ徳は, ある目的への手段と考えられる。
然 るに日的への手段は, 目的が価値あるかぎりに於てのみ価値がある。
と こ ろ で,
赤の他人の幸福は, ただ同感によってのみ我々の心を動かす。
それ ゆえ, すべての社会にとって有用な德を目暗するところから,
あるいはま た, 所有する人物にとって有用な徳を日階するところから起る称費の心持は,
この原理に帰せられるぺきである。
それらが, 道徳性の最も著しい部 分を造るのである36ll」。
と こ ろ が , ス 、 ス は,
ヒ3.ー ム の こ の よ う な 効 用 性 に 対 す る 快 感 と い う 考 え 方 を 退 け て ,観察者(spectator)と行為者
(agent)との間に生じる
「
適正感」
(asenseof propriety
)の概念を示した。
ス ミ ス は い う
。
「
よく研究して見るならば, いかなる心意傾向であろうとその有用性(usefulness
)は,
減多に, われわれが是認を与える場合の最初の根拠たり え な い こ と , 是認の情操は常にそのうちに効用性(utility )の知覚とは全 く性質を異にした道德的適正の感覚(asenseof propriety
)を含んでいる こ と が ゎ か る で あ ろ う37'
」
と。
そして, スミスのばあいの同感の原理は次のように説明される。
すなわち
,
観察者は「
想像上の立場の交換」
(imagi
narychange of
situation)を
行つて行為者に移入し(enter
into)
,
その行為者の感情や行為なりを刺激し,
生ぜしめた原因をくゎしく知つた上で, その行為者にどこまでっ
いて行く(goalong
with)ことができるかを見極める。
他方,行為者もまた,
観察者の理解を得るため観察者がっ
いてこれる程度までに自己のいだく激 しい感情を抑制する。
このばあい,
観察者の感情と行為者の感情とが双方 から歩みよって一
致するとき同感が成立し, 行為者の感情なり行為なりは 観察者によって「
適正」
(propriety
) で あ る と 判 断 さ れ る。
こ の よ う に,
スミスの同感は観察者, 行為者双方の感情の一
致するところに決定的な意 36) T.
pp.
6l8-
6l9 邦訳(4)245-
246買。
37) M.
S.
p
.
l88 邦 訳 ( 下 ) 4 0 3 買。
-
385-ヒ ュ ー ム
「
人間本性論」
における通德と法 味がある。 これに対し, ヒ ュームの同感は感情の一
致はない。
観察者が他 人の内的情結や意見を受けとって, それと同じ感じを抱くにすぎないので あ るo と こ ろ で , ス ミ ス と ヒ ュームの同感論の進いにおいてさらに注目すべき こ と は,
スミスが同感の原理を発展させ, 自己判断にも通用したことであ る。
すなわち,
同感の生じる状況のなかで, 自分自身が公平無私な眼で自 己の感情や行為を見ることができる, と い う 自 己 判 断 に お け る「
良心」
(conscience
)の形成を導いたことである。
「
かれは自分自身をほとんどその公平無私なる観察者と一
致させ, 自分 自身がほとんどその公平無視なる観察者になりきってしまうu」
l と。
スミスの道徳理論におけるこの良心の作用は,道徳秩序を確立し,市民 社会における新しい市民的倫理と市民社会の自律性をもたらす原理として の役割を担うものであった。
ス ミ ス は い う。
「
われわれが絶えず他人を観察しているうちに,
われわれはいかなるこ とがこれをなすのに妥当であり,
道德的に適正であるか,
あるいはいかな る こ と が こ れ を 回 選 し な け れ ば な ら な い か と い う こ と に 関 し て,
知らず知 ら ず の う ち に 自 ら あ る 種 の一
般原則(genera
lrules
) を 作 り 上 げ る よ う に な る も の で あ る39].」。
こ の よ う に,
「
一
般原則」
はわれわれの道德t
育操の集積から自然に形成 された道德秩序である。
こ の「
一
般原則」
を尊重することが人間の義務で あ る。
それによって人間社会は存立できるのである。
「
一…
これらの義務 を か な り よ く 守つてゆくところに人間社会存立の基礎があり, もしも人類 が一
般にこのような重要な行動原則に対する強い尊重心をもたなくなれ ば,
人間社会はおそらく雲散霧消してしまうであろうo
」
と。
こ こ に,
ス ミ ス は「
同感」
の原理に基づいて, したがって良心の作用に基づくところ 8 9 0 8 3 3 4 l M.
S.
p.
l47 M.
S.
p.
l59 M.
S.
p.
l63 邦 訳 ( 上 ) 3 l 8 頁 。 邦 訳 ( 上 ) 3 4 4 貢。
邦 訳 ( 上 ) 3 5 4 買。
-
386-ヒ ュ ー ム
「
人間本性論」
における道德と法 の自律的な道徳秩序の形成を明らかにしたのである。
ヒュームのばあいの同感は, 観察者の同感にとどまって自己判断には及 ばない。
したがって, 個々人が自律的な道德秩序を形成するという方向は 示されていない。
か く し て,
t:
ューム同感論とスミスのそれとの決定的な違いは, 是認の 知覚における「
効用」
と「
適正感」
との違い,
そして.
自律的な道德秩序 を 導 び く と こ ろ の「
良心」
の形成の有無にあるといえる。
第二に,
ヒュームにおける正義は,
法としての領域と道德としての領域 が別々に,
しかも前者を前提にして後者がはじめて成立するものであった。
すなわち,彼の論理によると,法としての正義は,個々人の利益の調整と し て の コ ン ヴニンションによって経験的慣習的に確立され, それを前提に して,「
公共的利益への同感」
によって徳としての正義が成立するものと されたのである。
しかし, このような論理構造は, 実定法の重みが正義の 徳 を 生 ぜ し め る こ と に な る か ら , スミスがなしえたような現実の法体系を 批 判 す る よ り ど こ ろ と し て の 道 徳 情 操 に 基 づ く「
自然的正義」
(natural
justice
)の導出は不可能である。
ス ミ ス は「
自然的正義」
と実定法を次の ように明確に区別している。
「
い か な る 国 で あ ろ う と も , 成文法にもとづく判決が, あらゆる事例に お い て , 自然の正義感が命令するはずの語原則と厳密に一
致 す る 国 は な い◆ll」
と。
ス ミ ス が「
道德情操論」
を通じて展開した正義論は,あくまで 同感の原理によって基礎づけられた德としての正義であって, 法 と し て の 正義ではなかった。
言わば,
スミスの道德論においては.
正義を同感論的 に 基 礎 づ け る こ と に よ っ て,
その連守を, 市民個々人の内面倫理化するこ とが主題であって, 法としての正義の領域には踏み込まなかったのであ る'n
、
。
ス ミ ス は.
正義が個人の内面の道德と強制力を伴う法としての両面 4 l ) M.
S.
p.
34l 邦 訳 ( 下 ) 7 0 7 買。
42) 田中正司「
ア ダ ム ・ ス ミ ス の 正 義 論」
較1
民市立大学論強,
第26卷第l,
2合併号,参照。
-
387-ヒ ュ ー ム
「
人間本性論」
に お ll る 道 總 と 法 の接点であるがゆえに,
その面者を明確に区別したのである。
も と よ り,
正義の法の間題は, スミスが最後まで完成を願つていた法学全体の間題で あるが, それは現実の歴'
i
_
的・社会的・経済的人間関係のなかで考察され る も の で あ っ た◆3)。
ヒ ュームのばあいは, 正義の徳は, 正義の法を前提と し て は じ め て 成 立 す る こ と に な る か ら,
実定法批判としての自律的な道徳 理論体系は存立しえないことになる。
第-
: に , ス ミ ス が「
道徳情操論」
第二部第二篇「
正義と仁恵にっ
いて」
と 題 す る な か で , 目 的 因 (finalcause
)と作用因(efficient
cause)を区別
せよという主張は, ヒ ュームの正義にま
っ
わ りっ
い て い る「
公共的利益へ の同感」
に対する批判であった。
すなゎち, ヒューム正義の根拠が社会全 体の利益という観点にあるゆえ,
こ の こ と は , 個々人の権利と人精とが公 共替の名の下に侵害される危険性を有するものであった。
つ ま り , こ の よ うな思想においては, 個々人の人格や権利の保護よりも社会全体の利益が 優先されるから, 連守しなければならない正義の内容が不当に拡大される こ と に な る。
◆●) ス ミ ス は,
このようなヒューム法思想の危険性を批判して,
目的因=
公 共の利益と作用因=
個々人の道德情操に基づく行為を区別せよと主張した の で あ る。
すなわち, われわれ人間は社会全体の利益などということは配 l極.しなくても良い。
作用因のなかでの理解で十分だというのである。「
し か し な が ら,
一
般に,
あ ら ゆ る 放 微=
習慣が社会の安寧を破壊する傾向の あ る こ と を 見 分 け る の に そ れ ほ ど た い し た 鑑 識 限 を 必 要 と し な い に も か か わらず, 最初にわれわれを促してかような悪習慣に反対させるものがかよ うな社会的な考慮であることは減多にない。
すべての人間は, 最も頭の悪 い,
最も考察力の鈍い人間ですらも,
許欺や不誠実や不正をひどく嫌い, 詐欺や不信や不正を働く人間が処罰されるのを見て 1廳しがる。
しかるに社 会の存立のために正義の必要なことがいかに明自にわれわれの限に映じよ 43) cf.Adam Smith,Lectureson Jurisprudence (Report of l762-
3,Reportdatedl766),Claredon Press,l978
44) 内田義彦
f
経済学の生震」
( 未 来 社 l 9 7 l ) l l l-
ll5貢参照。
-ヒ ュ ー ム
「
人間本性論」
における道德と法 う と も , かような必要を殊更反省してみるような人間はほとんどいないは ず で あ る'
51
」
と。
か く し て , スミスは,正義を始礎づけるのはあくまで直接に個人の生命 財産に対して加えられた侵害を防止することにあることを強調した。「
あ る一
人の人l
割が傷つけられたり段されたりした場合, われゎれは社会の一
般的な利害関係を考lt
i
するためにその人に加えられたi
u
i
事の処1f
il
を要求す る の で は な く て,
むしろ危害を受けた当の個人だけの間題としてかような 処1
的を要求する●61
」
と。
こ の よ う に ス ミ ス に よ る と,
正義の根拠はあくまでも個人と個人との間 の同感現象のなかに求められるべきであって, ヒューム の よ う な「
公共的 利益」
に 求 め る べ き で は な い と い う の で あ る。
個々人の道徳情操の集積の 結果としての道徳秩序こそが実定法の基礎になりえるのであった。
それが「
自然的正義」
である。
こ こ に は じ め て , ス ミ ス の 道 徳 理 論 が 実 定 法 批 判 の よ り ど こ ろ と し て の 意 味 が あ る 。 当時の実定法とは重商主義の法体系で あ る。
こ れ に 対 す る ス ミ ス の 批 判 は「
血でi轉力れている●7)」
法体系と呼ん で い る よ う に 厳 し い も の で あ っ た。
ヒュームが現実の法体系を前提に正義 の徳を成立させる論理を持つて い た こ と を 考 え る な ら ば,
この違いは,「人 間本性論」
と「
道徳t
-fi
操論」
との間に20年の公刊の差があることに,した 45) M . S . p . 8 9 引 l 訳 ( 上 ) 2 0 9-
2l0頁。
46) M . S . p . 9 0?
l 訳 ( 上 ) 2 l 0:
f i。
「
グ ラ ス ゴ ウ 大 学 前 義」
に お い て も ス ミ ス は 次 の よ う に 述 べ て い る。「
侵書は 当然,協,観者のt
llり を よ び 起 し , そ れ 故 に , 犯罪者の処l同は, 公 平 なl旁観者 が そ れ に 共 感 し 得 る か ぎ り 正 当 で あ る 。 これは処罰の自然の尺度である。
こ こに注目すべきは, われわれが刷前を是認する第一
の根l
lは,
通常考えられ ているような公益(public utility)の尊重ではなぃということである。
真の原 理は, 被害者のt
l lりに対する我々の同感(sympathy)である」。
Adam Smith, Jurisprudence
.
Report datedl776,p.475 高島善裁・水国洋訳「
グラスゴウ大学講義」
286-
287買.。
47) Adam Smith,An Inquiryinto the Nature and Causes of the Wealth of Na
-tions,Clarendon Press,l976vol.2,p
.
648大内兵衛・松川七郎訳
「
請国民の富」
(岩波文庫版)(3田0買。
-ヒo.ーム
「
人間本性論」
における適總と法がって
,
それぞれの書の背景にある時代の要請の差に起因しているように恩われる
。
22