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〈明治維新〉一五〇年と『資本論』一五一年

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〈明治維新〉一五〇年と『資本論』一五一年

著者

綾目 広治

雑誌名

清心語文

20

ページ

1-14

発行年

2018-11

URL

http://id.nii.ac.jp/1560/00000399/

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一 清心語文 第 20 号 2018 年 11 月 ノートルダム清心女子大学日本語日本文学会 二十年」の方を重視するのか、ということを提起したわけであ る。この提起で山田宗睦は、 「明治」 によって専制と侵略を表し、 「 戦 後 」 で 平 和 と 民 主 主 義 を 表 し て い た の だ が、 む ろ ん 反 右 派 の評論家であった山田宗睦は、 「維新百年」 よりも 「戦後二十年」 の方が重要であることを言いたかったのである。   こ の こ と に 関 し て 言 え ば 、 お そ ら く 一 九 六 ○ 年 代 後 半 は 、 当 時 の 多 く の 人 々 に は 、 敗 戦 か ら 復 興 を 成 し 遂 げ た 戦 後 と 、 近 代 化 を と もか く 成 し 遂 げ た 明 治 時 代 と を 重 ね 合 わ せ る 意 識 が あ っ た の で あ る 。 実 際 、 戦 後 を 〈 第 二 の 開 国 だ 〉 と す る 議 論 も あ っ た 。 と も か く も 、「 維 新 百 年 」 に し ろ 「 戦 後 二 十 年 」 に し ろ 、 当 時 は そ れ ら を 言 祝 い だ り 問 題 に し よ う と す る エ ー ト ス が 日 本 に は あ っ た わ け で 、 そ れ は 前 途 に 希 望 を 見 る 姿 勢 で も あ っ た と 言 え よ う 。   そ の 姿 勢 に 連 な っ て い た 文 学 者 の 一 人 に 、「 維 新 百 年 」 を 評 価 し て い た 司 馬 遼 太 郎 が い た 。〈 明 治 維 新 〉 百 年 論 議 か ら ず っ と 後 に な る が 、 司 馬 遼 太 郎 は 『「 明 治 」 と い う 国 家 』( 上 ・ 下 )( N H 一   近代直前の人々のあり方      〈 明 治 維 新 〉 と い う 言 い 方 は、 薩 長 土 肥 を 中 心 と す る 明 治 新 政府が、自分たちの〈偉業〉を称揚するために言いだした言葉 であるが、あの体制変革が徹底した革命であったか否かは別に して、 やはり 〈明治維新〉 は一種のブルジョア (市民) 革命であっ たと言えよう。その〈明治維新〉百年を前にした一九六五年あ た り に は、 〈 維 新 百 年 か 戦 後 二 十 年 か 〉 と い う テ ー マ で 議 論 が あったようである。このテーマは評論家の山田宗睦が論壇に出 し た も の で、 そ の 著 書『 危 険 な 思 想 家 』( 一 九 六 五 ・ ) の 序 文で「三年後の一九六八年は、明治維新百周年にあたる。 (略) 維新百年が勝つか、戦後二十年が勝つか。それは日本の将来に かかっている」と述べていた。   つまり山田宗睦は、近代化に向けてともかく出発した「維新 百 年 」 を 祝 う の か、 そ れ と も 民 主 化 に 向 け て 出 発 し た「 戦 後

〈明治維新〉一五○年と『資本論』一五一年

 

 

 

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二 代という時代の災厄による死傷者の数は、それまでの時代と比 べて桁違いに多いのである。それらのことを思うとき、双方と も、 近 代( 「 戦 後 」 も 含 ま れ る ) を 素 直 に 肯 定 で き な い は ず で ある。   私たちは、近代以降の考え方を根本的に転換しなければなら ない時期に、来ているのではないだろうか。山本義隆は『近代 日 本 一 五 ○ 年 ―― 科 学 技 術 総 力 戦 体 制 の 破 綻 』( 岩 波 新 書、 二 ○一八 ・ 一)で、こう述べている。 「生産第一・成長第一とする 明治一五○年の日本の歩みは、つねに弱者の生活と生命の軽視 をともなって進められてきたと言わざるをえない。 その挙句に、 日本は福島の破局を生むことになる」 、「そして経済成長の終焉 を象徴する人口減少という、明治以降初めての事態に日本は遭 遇している。大国主義ナショナリズムに突き動かされて進めら れてきた日本の近代化をあらためて見直すべき決定的なときが きていると考えられる」 、と。   たしかに、そうである。私たちは、近代を見直し、そして転 換する必要があるだろう。歴史家のエリック・ホブズボームは 『 20世 紀 の 歴 史   極 端 な 時 代 』 上・ 下( 河 合 秀 和 訳、 三 省 堂、 一 九 九 六 ・ 九 ) で、 二 一 世 紀 に 重 要 な の は 成 長 で は な く 分 配 で あり、それに向けての社会変革に失敗するならば、人類の未来 K ブ ッ ク ス 、 一 九 九 四 ・ 一 ) で 、「 十 九 世 紀 の 半 ば す ぎ と い う 時 代 に お い て 、 古 ぼ け た 文 明 の 中 か ら 近 代 国 家 を 作 ろ う と し た の は 、 日 本 だ け だ っ た の で す 」 と 述 べ て い る 。 これ は 、 明 治 と 近 代 と を 肯 定 し よ う と す る と こ ろ か ら 出 た 発 言 で あ っ た と 言 え る 。   さて、今年は「明治維新」一五○年であるが、それをめぐっ ての議論は少なくともマスコミの話題になるくらいには行われ るだろう。しかし、 鈴木洋仁が『 「元号」と戦後日本』 (青土社、 二○一七 ・ 九)で、 「もはや「明治一五○年」をめぐって「戦後 七 ○ 年 」 や「 戦 後 八 ○ 年 」、 あ る い は「 昭 和 百 年 」 と の 間 で、 どれを選ぶのか、という論争が巻き起こる余地はない」と述べ ているように、一九六〇年代後半のような議論はなされないで あろう。何故そうなのか。おおよその見当はつくであろう。   お そ ら く、 「 戦 後 八 ○ 年 」 を 強 調 し た か っ た で あ ろ う 陣 営 に 即して言えば、実はその陣営が「戦後」以後の展望を拓くこと ができないからだと考えられる。別言すれば、 「明治一五○年」 に対して、明確なアンチテーゼが提出できないからだ。と言っ て、 「明治一五○年」を言祝ぎたがっている陣営の方も、 〈明治 維新〉百年の時ほどの自信はないだろう。日本人は、近代の時 代であるこの一五○年の間に実に多くの災厄、とりわけ戦争や 原発事故に代表される酷い人災に見舞われて来た。そして、近

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三 る人生を送っていたようで、そのことを同書で知ることができ る、と赤坂憲雄は述べている。   たとえば『逝きし世の面影』には、一八五八年に日英修好通 商条約締結のためにやってきた使節団の一員のオズボーンとい う人物の見聞が紹介されている。オズボーンは最初の寄港地長 崎 の 印 象 を こ う 述 べ て い る、 「 こ の 町 で も っ と も 印 象 的 な の は ( そ し て そ れ は わ れ わ れ 全 員 に よ る 日 本 で の 一 般 的 観 察 で あ っ た)男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるという ことであった」 、と。またオズボーンは江戸上陸当日に、 「不機 嫌でむっつりした顔にはひとつとて」出会わなかったと語って いる。 あるいは、 一八六七年に訪日したフランスの青年伯爵だっ た ボ ー ヴ ォ ワ ル は、 「 こ の 民 族 は 笑 い 上 戸 で 心 の 底 ま で 陽 気 で ある」と述べている。といって当時の日本人が礼節を弁えてい なかったのではなく、 その逆に礼儀正しかったようである。 『大 君の都』で有名なオールコックが、初めて長崎に上陸した日に 注意を引かれたのは、人々が「人に出会うたびにまじめにてい ねいな挨拶を交わ」すやり方だったのである。   こう見てくると、当時の日本人には精神的な余裕というもの が確実にあったことを知ることができる。もちろん、当時の一 般 庶 民 た ち が 裕 福 で あ っ た わ け で は な い。 む し ろ 貧 し か っ た。 は暗黒である、ということを述べている。私たちは変わらなけ ればならない。   変 わ ら な け れ ば な ら な い と い う の は 、 社 会 だ け で な く 、 私 た ち の 生 活 の あ り 方 、人 生 に 対 す る 姿 勢 に つ い て も 言 え る こ と で あ る 。 民 俗 学 の 赤 坂 憲 雄 は 、『 明 治 維 新 1 5 0 年 を 考 え る ――「 本 と 新 聞 の 大 学 」 講 義 録 』( 一 色 清 他、 集 英 社 新 書、 二 ○ 一 七 ・ 一 一 ) の 中 の 講 演「 何 が 失 わ れ た の か ―― 近 代 の 黄 たそがれ 昏 に 問 い な お す 」 で、日本近代史家の渡辺京二の『逝きし世の面影』に論及しつ つ、幕末から明治初期に日本を訪れた外国人たちの眼に映った 当時の日本人たちが、いかに満ち足りた様子で生活していたか ということを紹介している。   『 逝 き し 世 の 面 影 』 は 一 九 九 八 年 に 葦 書 房 か ら 刊 行 さ れ、 二 ○ ○ 五 年 に は 平 凡 社 ラ イ ブ ラ リ ー と し て 刊 行 さ れ た 大 冊 で あ る。 赤 坂 憲 雄 は そ の 本 を 読 ん で、 「 近 世 の 社 会 に は 格 差 が き わ めて少なく、しかも見えない相互扶助のシステムによって支え ら れ て い た の で は な い か、 そ う い う こ と に 気 づ か さ れ ま し た 」 と述べている。私たちは、近代以前では被支配階級の人びとは 領主たちからの搾取で苦しめられ極貧の生活をしていたと漠然 と思いがちだが、実はそうではなく、たしかに決して裕福では ないものの、案外に人々は自足した満ち足りた生活と余裕のあ

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四 うか、と思わざるを得ない。   戦争の悲惨さ、差別と格差の酷さ、追い立てられるように前 へ前へと進むことを強いられている生活、弱者を社会不適合者 として切り捨てる社会――このように、近代社会とは実に苛酷 な社会であったのであり、そしてその行き着く先があの原発事 故 と そ の 後 の 対 応 で あ っ た と 言 え る。 そ れ に 比 べ て、 『 逝 き し 世の面影』で語られている、近代に入る直前の日本社会は、実 に 穏 や か で 優 し い 社 会 で あ っ た。 私 た ち は、 〈 明 治 維 新 〉 後 の 一五○年、すなわち日本が近代社会となってからの一五○年間 の あ り 方 と 決 別 し、 『 逝 き し 世 の 面 影 』 で 語 ら れ て い る よ う な あり方に学びながら、新たな社会像、生活像を模索するべきで は な い だ ろ う か。 そ れ と と も に、 忘 れ て な ら な い の が、 こ の 一五〇年間とは絶対主義的あるいは象徴との違いはあれ、近代 天皇制が続いてきた期間であるということだ。この天皇制、と くに象徴天皇制をどう捉えるべきだろうか。それについて次に 考えてみたい。 二   連続する「象徴」天皇制     〈 明 治 維 新 〉 か ら 百 年 の 年 を 前 に し た 一 九 六 七 年 一 月 四 日 の し か し、 明 治 期 の 高 名 な ジ ャ パ ノ ロ ジ ス ト の チ ェ ン バ レ ン は、 日 本 に は「 貧 乏 人 は 存 在 す る が、 貧 困 な る も の は 存 在 し な い 」 と 述 べ て い る の だ。 そ れ に つ い て 渡 辺 京 二 は、 「 つ ま り、 日 本 では貧は惨めな非人間形態をとらない、あるいは、日本では貧 は 人 間 ら し い 満 ち た り た 生 活 と 両 立 す る と 彼 は い っ て い る の だ 」 と し て い る。 で は、 ど う し て そ う い う こ と が 可 能 な の か。 そ れ に つ い て 渡 辺 京 二 は、 イ タ リ ア 海 軍 中 佐 の ヴ ィ ッ ト リ オ・ ア ル ミ ニ ヨ ン の 見 解 を 紹 介 し な が ら、 こ う 述 べ て い る。 「 つ ま り彼は、江戸時代の庶民の生活を満ち足りたものにしているの は、ある共同体に所属することによってもたらされる 相互扶助 0 0 0 0 であると言っているのだ」 (傍点・引用者) 、と。   『 逝 き し 世 の 面 影 』 で 紹 介 さ れ て い る、 欧 米 人 が 見 た、 近 代 直前の日本の庶民の姿とその生活ぶりに、羨ましさを感じない 現代人はいないのではなかろうか。彼らには落ち着きと礼節さ があり、そして互いが助け合いながら、決して裕福ではないも のの、満ち足りた、余裕のある生活を営んでいたのである。そ れらの多くは、 〈明治維新〉後の一五○年の間に失われてしまっ たのではなかろうか。この一五○年間とは、日本社会が近代社 会の仲間に入ってからの一五○年間ということであるが、一五 ○年の間に、私たちは真の幸福感をどれほど実感できたであろ

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五 性格づけたのが、岩波書店が刊行した『日本資本主義発達史講 座 』( 一 九 三 二 ・ 五 ~ 一 九 三 三 ・ 八 ) に 執 筆 し た、 講 座 派 と 言 わ れる経済学者や歴史学者たちであった。彼らによれば、小作農 が農民の圧倒的多数を占めるという半封建的土地所有に基づく 農業が一方にあり、他方では小作農たちから収奪した余剰利益 を工業とりわけ軍需工業に投資することで日本の資本主義は成 り立っていて、このように半封建的要素と資本主義的要素との 均衡の上に天皇制が立っているという点において、天皇制国家 は絶対主義的な性格を持っていたのである。戦前の天皇制国家 を絶対主義的と捉えた講座派の見解の方が、おおむね妥当して いるのではないかと私は考えている。   もちろん、戦前昭和においては「天皇制」という言葉などは 遣えなかったわけで、実際にも講座派学者たちの論文には「天 皇制」という言葉は無いのだが、論文の文脈から「天皇制」を 意味していることを理解することができるし、 また、 戦後になっ て講座派の学者たちが、かつての論文の文意を明確にするため に「天皇制」という言葉を加筆していることからも、やはりそ うであったことを知ることができる。   おそらく、労農派と講座派との見解は、一方が正しくて他方 が間違っているというものではなく、観点の取り方によって正 「 朝 日 新 聞 」 に、 当 時 の オ ピ ニ オ ン リ ー ダ ー の 一 人 で あ り、 ま た「明治百年」を祝うことをいち早く提案した人物でもあった 桑 原 武 夫 は、 「 明 治 百 年 を 迎 え て 」 と 題 す る 小 文 を 発 表 し て い る。 桑 原 は、 そ の 百 年 の 間 に「 人 民 主 権 の 思 想 が 根 づ き に く かったことは日本近代文化の弱点」であるものの、しかし「明 治維新は日本民族による世界市史上にも稀れな近代化の達成で あ っ た 」 と 述 べ、 以 前 の 文 章「 明 治 の 再 評 価 」( 「 朝 日 新 聞 」、 一九五六 ・ 一 ・ 一)に言及して、そこでの自説に変更が無いこと を確認している。それは、西洋の古典的ブルジョワ革命と対比 して明治維新の「欠点のみをあげる」ような論を展開するので はなく、 〈明治維新〉を「後進国型のブルジョワ革命」と認め、 明 治 以 後 の 日 本 に は 多 く の 欠 点 と 矛 盾 が あ っ た け れ ど、 「 明 治 の革命は巨視的にみて、一つの偉大な民族的達成であったと認 める」べきである、という主張であった。   この桑原武夫の論は、桑原自身は言及していないが、戦前昭 和で言えばいわゆる労農派の 〈明治維新〉 論に重なるであろう。 労農派の論とは、 何の条件も付けずに、 〈明治維新〉はブルジョ ワ革命であった、とする論である。   そ れ に 対 し て、 〈 明 治 維 新 〉 は ブ ル ジ ョ ワ 革 命 で あ っ た こ と を認めるものの、それは極めて不徹底な革命でしかなかったと

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六 を言祝ぎたがった側はともかく、それと対抗すべく「戦後二十 年 」 を 問 題 に し よ う と し た 側 も、 な ぜ「 明 治 百 年 」 の そ の 近 代 天 皇 制 の 問 題 を 論 お う と し な か っ た の で あ ろ う か。 「 明 治 百 年」の歴史とは、近代の天皇制(絶対主義的天皇制、象徴天皇 制の違いはあれ)の歴史と重なっていたわけで、たとえ敵対す る側が盛んに鼓吹していたことであったにせよ、そもそも明治 という元号を用いて「明治百年」ということが言われていた以 上、 天 皇 制 の 問 題 が 議 論 の 俎 上 に 上 っ て 良 か っ た は ず で あ る。 ひょっとすると、絶対主義的な天皇制の命脈が敗戦によって絶 たれた以上、 改めて象徴天皇制のことを問題にすることはない、 と「戦後二十年」の論者たちは思ったのかも知れない。あるい は、戦時中には人々の日常の挙措までも縛っていたと言える絶 対主義的な天皇制、そして人々の精神を戦争の狂気に動員した と言えるその絶対主義的な天皇制が無くなり、今は象徴天皇制 になった以上、それは政治的には何の効力も無いはずであるか ら論う必要はない、と判断したとも考えられる。   し か し な が ら、 本 当 に 効 力 が 無 く な っ た と 言 え る で あ ろ う か。天皇制は一九四五年で一旦は途切れて、全く新しいものに 変わったのだ、と果たして言い切れるだろうか。 否が別れる性質のものであろう。ただ、 両者ともに残念なのは、 当時としては当然のことであったが、天皇制についての深い分 析がなされていないことである。とくに日本共産党と繋がりが あった講座派にとってはそのことは、むしろ致命的であったと さえ言える。 なぜなら、 コミンテルンからのいわゆる二七年テー ゼおよび三二年テーゼにおいて、日本共産党は天皇制(二七年 テーゼでは「君主制」と言われていた)に対する闘争を指示さ れ て い た か ら で あ る。 そ の こ と に つ い て 伊 藤 晃 は、 『 天 皇 制 と 社 会 主 義 』( 勁 草 書 房、 一 九 八 八 ・ 三 ) で こ う 述 べ て い る、 「 日 本におけるプロレタリア革命は天皇制との対決を避けて通れな いということをみずから決心して言いだすまえに、コミンテル ンから命令されてしまった」 、と。   その後の彼らが、天皇制国家によっていかに残忍で且つ狡猾 な弾圧を受けて敗退していったかは、よく知られていることで あるが、それにも拘わらず、彼らの組織から除名された神山茂 夫が一九四七年に刊行した 『天皇制に関する理論的諸問題』 (葦 書房)などの例外を除いて、彼らやその末裔たちは、その後も 天皇制の問題を正面から深く追究したことは無かったのではな いだろうか。   こ こ で 再 び「 明 治 百 年 」 の 問 題 に 戻 る な ら ば、 「 明 治 百 年 」

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七 徴 天 皇 制 へ の 道 』( 社 会 評 論 社 、 二 ○ 一 五 ・ 一 二 ) で 、「 象 徴 」 と し て の 天 皇 は 今 も 国 民 一 体 形 成 の 重 要 な 媒 介 者であ り 、 社 会 の 矛 盾 の 緩 衝 者 で あ る と し て 、次 の よ う に 述 べ て い る 。「( 略 )私 は 、 「 国 民 の 天 皇 」 を め ざ す 戦 後 天 皇 制 を 戦 前 と の 断 絶 に 重 点 を お い て 見 る わ け に は い か な い と 思 う 。 だ が そ れ は 、「 古 い 権 力 的 天 皇 制 」 が 残 っ た と い う だ けの こと で は な い 。む しろ 、戦 後 天 皇 制 の 戦 後 民 主 主 義 と共 存 し う る面 が 戦 前に 起 源 を も っ て い る の では な い か と い う こと だ 」、 と 。 伊 藤 晃 は そ の 戦 前の 「 起 源 」 を 、 美 濃 部 達 吉 の論 敵 で あ っ た 法 学 者 の 上 杉 慎 吉 の 学 説 に 見 て い る 。 そ の 学 説 は 、「 天 皇 と 国 民 と の 直 結 に よ っ て 一 つ の 意 志 を 作 り 出 す 」 と い う 「 天 皇 主 義 ポ ピ ュ リ ズ ム 」 の 学 説 で あ っ た 。   たしかに君民一体のあり方は、大日本帝国憲法よりも日本国 憲法の方に端的に語られていると言える。よく知られているよ う に、 そ の 第 一 条 に は、 「 天 皇 は、 日 本 国 の 象 徴 で あ り 日 本 国 民の統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民 の 総 意 に 基 く。 」 と あ る。 こ の 条 は、 日 本 人 が 一 人 一 人 別 々 の 存在である私人を超えて国民としてまとまるときには、天皇を 媒介にして国民としての一体性を構築するということを語って い る の で あ る。 こ の こ と に つ い て 伊 藤 晃 は、 そ れ は 主 権 者 と なった国民がその総意をもって天皇の地位を根拠づけることで   菅孝行が論考「現代日本の政治的権力と天皇の機能――「象 徴 天 皇 制 」 と は な に か 」( 菅 孝 行 編『 叢 論 日 本 天 皇 制   Ⅰ 現 代 国家と天皇制』 〈柘植書房、一九八七 ・ 三〉所収)で、どんな制 限 君 主 で あ っ て も 王 た る 者 は、 「 必 ず 国 家 と 国 民 統 合 の 象 徴 と しての機能をはたすのであり、それは戦前の日本君主制におい て も 例 外 で は な か っ た 」 と 述 べ て い る よ う に、 「 象 徴 」 は 戦 後 の日本国家に固有のものではないのである。戦前においては天 皇は主権者であるとともに「象徴」でもあったのだ。戦後では 天皇は主権者ではなくなったが、それだけに「象徴」の機能が 前 面 に 出 て 来 た と 言 え る。 つ ま り、 注 意 し た い の は、 「 象 徴 」 という点において戦前の天皇制と戦後のそれとは連続している ということだ。   だからたとえば、そのことをよく理解していたと思われる松 本清張は、戦前の天皇制が山県有朋たちによる作為的な言わば 設計作品であったことを、ノンフィクション・ノベルと言うべ き『 象 徴 の 設 計 』( 一 九 六 二 ・ 三 ~ 一 九 六 三 ・ 六 ) と い う 作 品 で 説得力ある叙述で描いているのだが、そこで語られているのが 明治の天皇制の 「設計」 についてであるのに、 それはやはり 「 象 0 徴 0 の設計」 (傍点・引用者)であったと言っているのである。   こ の こ と に 関 し て 、 伊 藤 晃 は 『「 国 民 の 天 皇 」 論 の 系 譜   象

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八 の で あ る 。 だ か ら 白 井 聡 が 同 書 で 、「 天 皇 制 民 主 主 義 の 成 立 と は 、「 国 体 護 持 」( 変 容 を 通 過 し つ つ も ) そ の も の で あ る 」 と 述 べ て い る こ と は 首 肯 で き る だ ろ う 。「 国 体 」は 「 象 徴 」の 力 を 持 っ た ま ま 、 戦 後 も 護 持 さ れ た の で あ る 。 た だ 、「 国 体 」 と い う 言 葉 は 、や は り 同 書 で 述 べ ら れ て い る よ う に 、「 そ れ は た か だ か 「 天 皇を 中 心 と す る 政 治 秩 序 」 と い う よう な 抽 象 的な 事 柄 を 意 味 す る に す ぎ な い 」も の で あ っ て 、神 秘 化 し て 受 け 取 っ て は な ら な い 。   『 国 体 論   菊 と 星 条 旗 』 に お け る 注 意 す る べ き 論 述 は 他 に も あって、天皇制の存続が憲法第九条とセットであったことだけ でなく、日米安保体制ともセットであったことを指摘している ことである。白井聡によれば、昭和天皇裕仁はそのことを当時 の政府首脳陣の誰よりもよく理解していたのである。たしかに そうであったろう。たとえば、昭和天皇裕仁は戦後において米 軍の沖縄駐留をマッカーサーに提案したのである。これはむろ ん、日本国憲法で禁じられている天皇の政治行為であるが、死 ぬまで新憲法を理解しようと全くしなかったと言ってよい裕仁 には、それが日本国憲法違反だという意識さえ無かったであろ う。とにかく、日米安保体制は「天皇制の存続」を保証するも の で も あ っ た の で あ る。 白 井 聡 は こ う 述 べ て い る、 「 つ ま り、 天皇制の存続と平和憲法と沖縄の犠牲化は三位一体を成してお あり、 「その国民の心の総体は天皇を志向する、ということだ」 と し て、 次 の よ う に 述 べ て い る。 「 こ れ は つ ま り、 万 世 一 系 の 国体を君民一体・万民翼賛と統合することで国民イデオロギー 化しようとする、明治以降の国体思想の一つの流れを汲んだも のだ」 、と。   つまり、明治から平成の今日に至るまで、天皇は国民統合の 「 象 徴 」 と し て 君 臨 し 続 け た の で あ る。 私 た ち は、 戦 後 民 主 主 義と言われる体制と象徴天皇制とが融和的であるということに 眼を向けなければならない。   そ の こ と に つ い て は 、 白 井 聡 が 『 国 体 論   菊 と 星 条 旗 』( 集 英 社 新 書 、 二 ○ 一 八 ・ 四 ) で 説 得 力 あ る 論 を 展 開 し て い る 。 そ の 書 で 白 井 聡 は 、 新 憲 法 を 中 心 に 持 つ 戦 後 民 主 主 義 は 、 象 徴 天 皇 制 と ワ ン セ ッ ト の も の と し て 生 ま れ て い る と し て 、戦 後 民 主 主 義 が 危 機 に 瀕 す る こ と は 象 徴 天 皇 制 も 危 機 的 状 態 に お ち い る こ と で あ る 、 と 述べ て い る 。だ か ら 、暗 愚 な 宰 相 安 倍 晋 三 の も と に 進 ん で い る 、 戦 後 民 主 主 義 を 蔑 なみ す るあ り 方 は 、 す な わち 象 徴 天 皇 制 の危 機 で も あ る と 見 て 、 平 成 天 皇 明 仁 は生 前 退 位 の 話 題 に 包 ん で そ の 危 機 感 を 国 民 に 対 し て 直 接 に 語 っ た と 言 え よ う か 。   ともか く も 、 た し か に た と え ば 平 和 主 義 を 謳 っ た 日 本 国 憲 法 第 九 条 は 、 第 一 条 の 天 皇 条 項 と セ ッ ト に な っ て 国 民 に 示 さ れ た

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九 な と こ ろ に お い て 連 続 し て い る こ と が、 改 め て 了 解 さ れ て く る で あ ろ う。 〈 明 治 維 新 〉 一 五 ○ 年 あ る い は 日 本 に お け る 近 代 一五○年とは、天皇制一五○年の歴史でもあった。今、平成天 皇の生前退位と改元のこととが大きな話題として浮上してきて いて、再び私たちは天皇制の問題を突き付けられていると言え る。もちろん、天皇制の問題を現在において問い詰める場合に も、昭和のあの一五年戦争と昭和天皇裕仁との関わり、つまり は 彼 の 戦 争 責 任 の 問 題 を 抜 き に す る こ と は で き な い。 そ し て、 そ れ は 明 治 一 五 ○ 年 の 歴 史 の 総 体 を 深 甚 に 考 え る こ と で あ る。 高 橋 彬 は『 安 倍 政 権   総 括 』( 牧 歌 舎、 二 〇 一 七 ・ 六 ) で、 「 明 治以来の戦前体制を、侵略戦争についての反省と民主主義の視 点から総括し直すことは、日本の統治体制を昔に戻そうとする 右傾化を阻止し、反革命の動きを封ずる為にも必要な作業であ る」と述べているが、まさにそうである。   その際、 天皇制に対する批判は、 中野重治が小説「五勺の酒」 ( 一 九 四 七 ・ 一 ) で そ こ に 登 場 す る 初 老 を 思 わ せ る「 中 学 校 長 」 に語らせているように、高い地平において成されなければなら な い。 「 中 学 校 長 」 は 言 っ て い る、 天 皇 制 へ の 批 判 は「 天 皇 そ の 人 の 人 間 的 救 済 の 問 題 」 で も あ る べ き で、 「 恥 ず べ き 天 皇 制 の頽廃から天皇を革命的に解放すること、そのことなしにどこ り、その三位一体に付けられた名前が日米安保体制(=戦後の 国体の基礎)にほかならない」 、と。   だ か ら、 日 米 安 保 体 制 を 批 判 す る 人 間 は、 象 徴 天 皇 制 を も 批 判 の 俎 上 に 載 せ な け れ ば な ら な い の で あ る。 象 徴 天 皇 制 の 問 題 を 括 弧 で 括 っ て 不 問 に 付 し て は な ら な い。 そ の こ と に 関 連 し て 思 い 起 こ さ れ る の は、 文 学 者 の 坂 口 安 吾 が「 続 堕 落 論 」 (一九四六 ・ 一)において天皇制の内奥の秘密を鮮やかに暴いた こ と で あ る。 安 吾 は こ う 述 べ て い る。 「 自 分 自 ら を 神 と 称 し 絶 対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇 にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押し つけることは可能なのである。そこで彼等は天皇の擁立を自分 勝手にやりながら、天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利 用 し て 号 令 し て い た 」、 と。 た し か に、 そ の よ う に し て 戦 前 の 天皇制は機能していた。そのように明治の山県有朋たちは「設 計」したのである。因みに、このような天皇制のあり方は、新 興宗教の教祖と取り巻きのあり方に酷似しているのである。そ して現在においても、反動的な政治勢力はそのようなことを画 策するのではないかと想像されなくはない。   このように見てくると、 「象徴」天皇制という点においては、 戦前の絶対主義的天皇制と戦後民主主義体制とは、実は根底的

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一〇 その逆に現代社会では、資本主義は多くの人々を悲惨な状況に 陥らせているのである。その端的な現象が格差社会と言われて いる事態である。さらには、今ではすでに格差社会という次元 も超えるような事態にまで至っているようである。   格差社会の問題は、前世紀末から経済学者や社会学者が指摘 し始めていたのだが、現在はその格差の事態はさらに一層悪化 しているのである。社会学者の橋本健二は『新・日本の階級社 会』 (講談社現代新書、二○一八 ・ 一)で、格差拡大が始まった のは一九八○年前後からであり、それはすでに四○年近くも続 いていて、しかも富裕層と貧困層との格差の階層が固定化して い る こ と を 指 摘 し て、 次 の よ う に 述 べ て い る。 「 こ う し た 意 味 で現代の日本社会は、もはや「格差社会」などという生ぬるい 言葉で形容すべきものではない。それは明らかに、 「階級社会」 な の で あ る 」、 と。 そ し て、 労 働 者 階 級 が「 資 本 主 義 社 会 の 下 層階級としての性格を失ったわけではない」としつつも、さら にその正規労働者の下にアンダークラスの人々がいて、この層 の 人 々 は 長 時 間 営 業 の 外 食 産 業 や コ ン ビ ニ、 デ ィ ス カ ウ ン ト ショップ、あるいは宅配などの流通業で低賃金労働に従事して いると述べている。 このアンダークラスの人々は、 『共産党宣言』 などで語られていたルンペン・プロレタリアートと呼ばれてい に 半 封 建 制 か ら の 国 民 の 革 命 的 解 放 が あ る だ ろ う 」、 と。 た し かに私たちは、天皇を天皇制から解放するためにも天皇制を廃 絶 す る べ き な の で あ る。 そ れ が、 〈 明 治 維 新 〉 一 五 ○ 年 に 改 め て確認するべきことではないだろうか。     三   現代社会と『資本論』   〈明治維新〉 が完了する一年前の一八六七年は、 マルクスが 『資 本論』第一巻を刊行した年である。マルクスが資本主義のメカ ニズムを解明したその一年後に、名実ともに日本社会は資本主 義の道を歩み始めたのである。今年は『資本論』第一巻の初版 本が刊行されて一五一年になるが、その資本主義は、以前と形 態と性格を少しは変えながらも、しかし基本的なところではそ の本質に変化はなく、現代に至っていると言えよう。つまり現 代の資本主義は、 マルクスが『資本論』で明らかにした事態に、 ほとんど変更を加える必要はないままに今日に至っているので あ る。 別 言 す れ ば、 『 資 本 論 』 は 今 な お 資 本 主 義 批 判 に お い て 効力を持っていると言えるのである。そして、今なおそうであ るというのは、やはり残念なことである。   私 た ち は 資 本 主 義 の 主 要 な 問 題 を 克 服 す る こ と か ら 程 遠 く、

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一一 本 来 な ら、 『 資 本 論 』 が 古 び た 本 に な る 方 が 望 ま し い の だ。 も しそうならば、 資本主義の問題が克服されたことになるからだ。 だが、残念ながら、今はまだ『資本論』の時代なのである。   哲 学 が 専 門 の 熊 野 純 彦 は『 マ ル ク ス   資 本 論 の 哲 学 』( 岩 波 新書、二○一八 ・ 一)で、 「『資本論』を読むとは、ひとつには、 マルクスの見てとっていた資本制の原初の光景、その暴力的な 原像を、現在の風景のなかにも見とどけることです」としてい る が、 経 済 学 者 の 浜 矩 子 は『 ど ア ホ ノ ミ ク ス の 断 末 魔 』( 角 川 新書、二○一七 ・ 六)でその「見とどけ」を行っている。なお、 「どアホノミクス」 というのは、 いわゆるアベノミクスが 「アホ」 の経済政策だという浜氏の判断から言い換えられた「アホノミ クス」という造語に、関西弁の強意の接頭語「ど」を付けた言 葉である。   浜氏は、いわゆる「働き方改革」では自由で多様な労働とい うことが言われているが、それは実は長時間労働と苛酷な職場 環境を連想させ、 それは 「『資本論』 の第一巻第 10章」 の 「一節」 を読むようである、と述べている。ただ、浜氏は「第 10章」と しているが、おそらくこれは浜氏の記憶違いであろう。正確に は、 『 資 本 論 』 第 一 巻 の「 第 8 章   労 働 日 」 で 語 ら れ て い る こ とを指していると考えられる。たとえばマルクスはそこで、 「資 た層に近いと言っていいだろう。   現代の私たちは、マルクスが生きた一九世紀の時代に逆戻り したのかも知れない。   第二次大戦後のかなりの期間、資本主義陣営は社会主義陣営 との対抗上、社会福祉を充実しなければならなかった(そうし な け れ ば、 革 命 が 起 き る!) 。 だ か ら 資 本 主 義 国 家 は、 と も か くも福祉国家を標榜していたのである。経済政策も、労働者の 福利厚生を重視するマーシャルやピグーなどの厚生経済学を組 み込みながら立案されることもあった。しかし、一九九○年代 以降に、すなわち旧ソ連や東欧の社会主義政権が崩壊してから は、言わば〈敵〉がいなくなったからであろう、安心して資本 主義はグローバリズムや新自由主義の名の下に、やりたい放題 のことをやり、格差、貧困、環境破壊などの多くの災厄を世界 中に撒き散らしてきたのである。その結果、 二一世紀の世界は、 『 資 本 論 』 で 語 ら れ て い る よ う な 事 柄 が、 そ の ま ま 現 出 し て い るような事態になったのである。ポストモダニズム全盛期の頃 に は、 『 資 本 論 』 で 論 じ ら れ て い た 問 題 は、 高 度 資 本 主 義 社 会 に よ っ て 克 服 さ れ た の で あ っ て、 『 資 本 論 』 さ ら に は マ ル ク ス の思想は前世紀の遺物である、といった言説が、盛んに語られ たことがあった。しかし、 事態はそれとは逆に進んだのである。

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一二   そのことは現代日本文学の小説作品からも読み取ることがで きる。たとえば、 第一五五回芥川賞を受賞した村田紗耶香の 『コ ンビニ人間』 (文芸春秋、二○一六 ・ 七)である。芥川賞の選評 で川上弘美や山田詠美が指摘しているように、 この小説には 〈笑 い〉の要素もけっこうあって、物語は軽やかに展開していくの であるが、現代社会における〈人間疎外〉の様相を掬い取って 描いているのである。   主人公の 古 ふるくら 倉 恵子は現在三六歳で、コンビニのバイトで生活 している。恵子は幼い時から人との常識的な対応が出来ず、い ろいろとトラブルを起こすことがあった。彼女には「普通」の 感 覚、 対 応 と い う こ と が 分 か ら な か っ た の で あ る。 と こ ろ が、 大学に入学しコンビニでバイトをし始めてからは、コンビニの 世界の中だけでは「普通の人間になれる」のであった。彼女の 言 葉 で 言 え ば、 「 世 界 の 正 常 な 部 品 と し て の 私 」 に な れ る の で ある。それはコンビニには「完璧なマニュアル」があり、その マニュアル通りに動けばいいからであった。   もっとも、コンビニに勤めるようになっても、恵子には自分 の中に言わば常識の規格外の要素が有ることに変わりは無かっ た。しかし、その要素を抑えていることに恵子は不満を感じて いないのである。恵子は言う、 「つまり、皆の中にある、 『普通 本は、生命力の集中、恢復、更新のための健康な睡眠を、絶対 的に消耗しきった有機体の蘇生が、必要不可欠とするだけの時 間の凝縮に圧縮する」として、 「労働力の日々可能な最大支出」 を、たとえそれが労働者にとって無理で不健康なものであろう と、資本は引き出そうとすると述べている。そして、 「資本は、 労働力の寿命を問題にしない。 資本が関心をもつのは、 ただもっ ぱ ら、 一 労 働 日 に 流 動 化 さ れ う る 労 働 力 の 最 大 限 の み で あ る 」 (向坂逸郎訳) 、と。   要するに、一九世紀の資本家たちは、労働者が健康を損なっ ても、気力体力の限界まで労働者を働かせたのである。問題な のは、この一九世紀の労働のあり方が、昨今のたとえば派遣労 働 者 の 労 働 状 況 な ど と か な り 重 な る こ と で あ る。 そ の こ と は、 労 働 社 会 学 が 専 門 の 今 野 晴 貴 に よ る『 ブ ラ ッ ク 企 業 2』 ( 文 春 新書、二○一五)や、経済記者の竹信三恵子の『ルポ雇用劣化 不況』 (岩波新書、 二○○九 ・ 四) などの報告を読めば了解できる。 経済地理学が専門の著名な学者であるデヴィッド・ハーヴェイ も『資本の〈謎〉   世界金融恐慌と 21世紀資本主義』 (森田成也 他 訳、 作 品 社、 二 ○ 一 七 ・ 二 ) で、 「( 略 ) 今 日 の 状 況 は か つ て な い ほ ど に マ ル ク ス が 描 き 出 し た 様 相 に 近 い 物 に な っ て い る 」 と述べている。

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一三   物語の終盤で、二人は喧嘩をすることになる。白羽はそうい う恵子のことを、 「気持ちが悪い。お前なんか、人間じゃない」 と 詰 なじ る の だ が、 そ の 難 詰 に 何 の 痛 痒 も 感 じ な い 恵 子 は、 「 私 は 人間である以上にコンビニ店員なんです。 (略) 私の細胞全部が、 コ ン ビ ニ の た め に 存 在 し て い る ん で す 」 と 言 い、 「 私 は コ ン ビ ニ店員という動物なんです」と言う。   こ う し て 見 て く る と、 こ の 小 説 は 吉 村 萬 壱 が「 「 普 通 」 と い う化けもの」 (「文学界」 、二○一六 ・ 九)で指摘しているように、 「 叫 び 出 し た く な る ほ ど の 問 題 意 識 に 満 ち た、 恐 ろ し い 作 品 」 に思われてくる。物語の中で恵子は、自分を「形成」している のは自分の周囲の人たちで、自分には固有の「私」など無いの だと思うが、ただ周りの人たちも服装や話し方を含めて、やは り他の周囲の人たちから「伝染」されたものを受け入れている だけではないかと思う。恵子だけでなく他の人たちも、固有の 「私」などはどうも無いらしいのである。   「 正 常 」 や「 普 通 」 に 慣 れ 親 し ん で い く こ と に 生 き 甲 斐 さ え 感 じ て い る、 「 コ ン ビ ニ 店 員 と い う 動 物 」 の 恵 子 を 中 心 に、 周 囲からの「伝染」にも気づいていない人たちのあり方なども描 いた『コンビニ人間』の世界は、以前流行した言葉で言うなら ば、 〈 人 間 疎 外 〉 の 極 点 を 描 い た も の と い う こ と に な る か も 知 の 人 間 』 と い う 架 空 の 生 き 物 を 演 じ る ん で す 」、 と。 さ ら に こ う も 言 う、 「 正 常 な 世 界 は と て も 強 引 だ か ら、 異 物 は 静 か に 削 除される」 、と。しかし恵子は、 「架空の生き物を演じる」こと によって、 「削除」されないようにしているわけである。   ここまでの話でも、この小説はすでに重要な問題を語ってい る。 そ も そ も、 「 普 通 」 や「 正 常 」 と は 何 だ ろ う か、 マ ニ ュ ア ル通りに動いていさえすれば、 「普通」 「正常」と認められるの ならば、思考や懐疑など一切せずに時代社会の規範に 唯 い い 々 諾 だくだく 々 と 従 う こ と が「 正 常 」 と い う こ と な の か、 「 普 通 」 や「 正 常 」 というのは、実は「異物」を「削除」することで成り立ってい るものではないのか、というような問題である。   物 語 は、 コ ン ビ ニ の バ イ ト 店 員 と し て 白 し ら は 羽 と い う 男 性 が 加 わってきたところから新たな展開がある。 やがて恵子と白羽は、 恋愛感情も性的関係も一切抜きにした同棲生活をし始めるのだ が、 興味深いのは 「異物」 を排除する社会のあり方に白羽は憤っ ていて、彼によればそのあり方は「縄文時代」から変わってい なく、白羽自身は排除される側にいると思っている。恵子と白 羽とでは、置かれた状況にほとんど変わりは無いのだが、白羽 はそれに怒りを持っているのに対して、恵子の方はその状況を むしろ嬉々として受け入れているのである。

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一四   もちろん、このような提言は抽象的たらざるを得ない。だか ら、 そ の 目 指 す べ き 将 来 の 具 体 的 な 社 会 像 は、 「 反 資 本 主 義 」 の現実的運動の中で構築されていくべきである。マルクスとエ ンゲルスも『ドイツ・イデオロギー』 (全集第三巻)で、 「共産 主 義 は わ れ わ れ に と っ て は つ く り だ さ れ る べ き な ん ら か の 状 0 態 0 、現実が 則 のつと るべき〔であるような〕なんらかの 理想 0 0 ではない。 われわれが共産主義とよぶところのものは現在の状態を廃止す る 現 実 0 0 的 運 動 の こ と で あ る 」( 傍 点・ 原 文 ) と 述 べ て い る。 な るほど、 そうであろう。私たちは、 『資本論』から学びつつ「反 資本主義」運動の中で、新たな社会像の展望を拓いていかなけ ればならない。なお、最後に付け加えるならば、その新たな社 会像においては原発などが皆無であることは言うまでもない。 〔 付 記 〕 本 稿 は「 週 刊   新 社 会 」 九 八 六 号( 二 ○ 一 六 ・ 八 )、 一〇七六号(二○一八 ・ 八) 、一〇七七号(同) 、「季報 唯物論研究」一四四号(二○一八 ・ 八) 、「千年紀文学」 一 二 三 号( 二 ○ 一 八、 七 ) に 掲 載 し た 小 論 を 加 筆 訂 正 して一つの論文にまとめたものである。 (あやめ   ひろはる/本学教授) れない。また、飼い慣らされることに喜びを見出している恵子 には、 「コンビニの「声」 」さえ聞こえてくるのである。これは ほとんど宗教的な洗脳の世界とも言えよう。   先 に 述 べ た よ う に、 こ の 小 説 は、 〈 笑 い 〉 の 要 素 も あ っ て 明 るい筆致で展開するが、実は現代社会と現代人の、その恐ろし い実相が描かれている小説である。もちろん、この小説におけ る作者の眼は、 現代の資本主義社会の問題まで届いてはいない。 しかし、 物語の背景にそれが厳然とあることは言うまでもない。 事態は、ここまで来たのである。   では私たちは、そのような事態にどう立ち向かえばいいだろ うか。   ハーヴェイは 『資本の 〈謎〉   世界金融恐慌と 21世紀資本主義』 ( 前 掲 ) で、 「( 略 ) す べ て の 者 に と っ て 利 益 と な る よ う な 倫 理 的で非搾取的で社会的な公正な資本主義というのは不可能だと いうことである」 と語っている。 そして、 「何らかのオルタナティ ブな社会秩序」の可能性を示唆しながら、それが「反資本主義 的転換」であると語る。そしてハーヴェイは、社会主義や共産 主義という言葉を遣わず、それが「ラディカルな平等主義」で あることを語り、 「共同所有の権利というまったく新しい概念」 が要請されるとも述べている。

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