特別寄稿
江戸期大垣藩戸田家統治1635~1869における証拠書類群作成・保管の始まりと終り
―記録管理学・アーカイヴズ学アプローチ序説
安澤 秀一
1 [抄録] 本稿の目的は、文書布達および保存にかかわる官僚制といえる「文書行政」体系が江戸期大名 (藩)統治に確立していたことの提示にある。そして、いかに藩の権威が文書の真正性と信憑性を保障 していたか、そのあり様を検証する。 その事例を大垣藩(現・岐阜県大垣地方)にもとめ、寛永12年(1635)から慶応⚓年(1869)の江戸 期末まで同藩を統治した戸田家の記録を調べることで、行政行為の証拠のために記録を作成し保存する 規則たる根本法のすがたを明らかにする。その法の理解により、いかなる真正性と信憑性が達成された か見定めることができよう。 本稿においては、大垣藩にみるような「文書行政」体系が今日の現代的記録・アーカイヴズ管理へ示 唆するところがあることをも意図している。江戸期の記録書類作成の原点、証拠志向体系から学べる意 義は大きい。 [キーワード]文書行政、証拠保全、官僚制、真正性、信憑性On the Edo period under the sovereignty of Toda Family,
making and keeping of Records and Papers come to begin and finish 1635~1869.
Shuichi YASUZAWA
[Abstract]The purpose of this paper is to show that“administration by document”system, which means bureaucracy about proclamation and keeping of documents, had already been established in Japanese Han states in the Edo period. Moreover, it was investigated how Han authorities ensured authenticity and creditability of documents.
Investigating records of Toda family, who had governed Ogaki Han from 1635 to 1869, the end of Edo period, reveals“underlying law”that rules making and keeping records for evidence of governing action. By understanding the“law”,we can estimate what kind of authenticity and credibility could be achieved.
In this paper, I also would like to show that the“administration by document”system can give some suggestions for modern record and archives management in our days. We can learn a lot from this
1やすざわ しゅういち Shuichi YASUZAWA 〒182-0026 東京都調布市小島町 3-16-1 YS コート601 電話 042-482-0714 E‒mail:[email protected] (原稿受理 2020.1.13)
“evidence‒oriented”system in Edo period.
[Keywords]administration by law, keeping for evidence, bureaucracy, authenticity, creditability
目次 ⚐ はじめに 本稿において利用する主要な藩政資料 とその名称 ⚑ 大 垣 藩 統 治 governance を 支 え る 大 名 の 権 威 Authority と権力 Power ⚒ 大垣藩「定帳」の家中統制法という位置づけ 2.1 「定帳」概要 2.2 定帳各部門における行政行為の証拠 evidence としての記録書類の作成・保管 ⚓ 「定帳」施行細則「喧嘩捕籠者并追懸者帳・火事 帳・外内水帳」合冊について 3.1 まえおき 三帳合繰について 3.2 「定帳」施行細則「火事帳」 3.3 「定帳」施行細則「(洪)水帳」 ⚔ 慶応三年木版本「封内布告」 4.1 はじめに:資料について 4.2 「封内布告」の形態記述と本文構成 ⚕ 当時の現用記録であった大垣藩記録書類群の作 成・保全の含意と展望
⚐ はじめに 本稿において利用する主要な
藩政資料とその名称
A.「大垣藩定帳全十冊」=部門別構成=第一家中の 部・第ニ江戸の部・第三町の部・第四在郷山中の 部・第五普請の部・第六蔵の部・第七買物の部・ 第八勘定の部・第九法度の部・第十雑の部、延宝 年間1673~1680作成写本 B.「大垣藩定帳施行細則三帳合冊=喧嘩追懸者帳・ 火事帳・外内水帳」延宝年間1673~1680作成写本 C.「(大垣藩)「慶応三年1867十月封内布告」木版摺 本一冊、表紙多色摺り<柿図>あり、本文囲み罫 線あり、 D.「(大垣藩)城代日記書抜」寛永20年1615~明和9 年1772、平成20年刊「大垣市史」資料編・近世一 収録翻刻、321~618頁 資料本文引用に当たり、返り点などを多用している原 文の漢文調文体を、読み下し文体に変更し、使用され ている旧字は出来るだけ当用漢字に変更し、近世史料 に分かり易く接する手段としたことをご了承いただき たい。 A.の所在と利用サーヴィス、「定帳」という名称を 持つ資料には幾つかの系統の写本が存在している ようである。本稿で典拠とする写本は、家老戸田 治部左衛門家から大垣市立図書館に寄贈された全 十部九冊から構成さている完本であり、この写本 の翻刻は昭和40年刊「新修大垣市史資料編近世1」 および昭和40年岐阜県史料編近世⚒に収録されて いる。写本の作成は延宝年間と推定できる。翻刻 掲載に利用された原稿は本稿執筆者であるが、誤 読の多いことを恥じる。本稿作成に当たってはあ らためて、安澤撮影(昭和40年ごろ)のマイクロ フィルムからデジタル化した画像を使用・参照 し、上記翻刻の誤読訂正を冨善一敏氏にお願い し、実行できた。もし誤読が残っている、とすれ ば、それは安澤秀一の責任である。上記以外に現 物存在を確認できる「定帳」については、平成20 年刊行大垣市史「資料編⚑近世⚑」に、市立図書 館に寄贈もしくは預託された「定帳」の端本の存 在が列挙されている。 B.の所在と利用サーヴィス、「(大垣藩定帳施行細則 三帳)喧嘩追懸者帳・火事帳・外内水帳」の三帳 は三冊を合綴している。この写本は延宝末年に作 成された、と推定できる。この写本は本稿執筆者 が昭和40年ごろに大阪の古書店から購入したもの で、2016年に大垣市立図書館に寄贈した。定帳本 文においては三冊別々の作成を規定されているも のの、保管・閲読の便宜を考慮しての事であろう、 合綴された状態で存在している。筆跡は三冊とも 同筆である。この三帳に規定されている業務に従 事する家中面々は年々に部署を移動するので、年々に書き換え、ないし書き加えをしなければな らなかったようである。翻刻作成には寄贈以前に 撮影したフィルムからデジタル化した画像を利用 した。 C.の所在と利用サーヴィス、「(大垣藩)慶応三年十 月封内布告」は、大垣藩として発令した最後の藩 法であり、木版印刷版」「布告」の最初である。 その表紙は木版多色摺りの「柿」を描いていて、 新しい大垣藩であることを象徴しよう試みたとい えよう。布告の構成は例言・生産局・皆養院・与 偕園の四節からなっている。ほとんど時間をおく ことなく「大政奉還」を実行するので、まさに大 垣藩最後の藩政行為となった。しかしその発想、 形式、対象のどれをとっても従前の布達とは全く 異なるものであった。このユニークな布告も意図 を公表しだけで、明治維新の大波によって実現で きなかった。なお現物の「布告」も大阪の古書店 から購入し、2017年大垣市立図書館に寄贈した。 翻刻作成には、寄贈以前に撮影・収録したデジタ ル画像を利用した。 D.の所在と利用サーヴィス、「(大垣藩)城代日記書 抜」、利用に当たっては平成20年刊大垣市史収録 の翻刻版を利用させて頂いた。感謝の意を表した い。本資料については同書所収の「解説⚙頁」を 参照されたい。
⚑ 大垣藩統治 governance を支える大名の権
威 Authority と権力 Power
江戸時代に大垣藩を領有していたのは三河以来の徳 川家直臣である戸田家大垣藩領十万石という大名であ る。戸田家は旗本として藩祖戸田一西が徳川家康・秀 忠に仕えて三河で三千石を与えられ、家康の江戸入城 に際して五千石を武州高麗郡鯨井郷で与えられた。慶 長六年に近江国膳所ケ崎城主となり三万石を与えら れ、慶長七年に隠居し、氏鐡に跡を継がせた。氏鐡は 元和元年に摂津国尼ケ崎城に移って五万石を与えら れ、寛永十二年に大垣城に入り十万石を与えられた。 以来、大政奉還まで美濃国西部で七郡を領有する大名 になり、廃藩置県まで統治に当たった。藩祖一西始 め、歴代当主は武威はもとより産業振興、なかでも治 水に尽した為政者であった。本章執筆には昭和⚕年刊 大垣市史上巻(通史編)に依拠した。記して謝意を表 する。 本章には、大垣藩歴代藩主であった戸田家当主の名 を挙げてみた。その際、大名任命権者としての権威 Authorityと権力 Power を意味する征夷大将軍として の歴代の徳川家に拝謁した年度を記入し、太字として みた。加えて律令制施行以後に、武家が実質的な統治 権を掌握して以来、いわば京都御所に存在する天皇家 の授与する官位・官職を、授与年代と併せて記入した。 初代戸田氏鉄以降に天皇から与えられた象徴的な官 位・官職についても太字とし、徳川家から授与された 大名としての実質的な権力規模を示す領有権授与と、 比較できるようにした。ともあれ本稿の主題である作 成され保管される記録書類作成における真正性・信憑 性・(再現性 rendering を加える。現代における目視 出来ないデジタル記録化に対応する真正性・信憑性と あわせて目視できるようにするための再現性)を保証 する権威 Authority・権力 power の歴史的背景を考え るデータとしたい。要するに江戸期における権威と権 力のあり様において任免権の重層するあり様は鎌倉期 以降の武家政権支配とともに、慣行的に構成されるよ うになっていた、といえる。 藩祖一西、天文12年1543生、慶長⚖年1601膳所ケ崎領 ⚓万石、琵琶湖の溢水防衛・田畑新墾を 行った。慶長⚗年1602隠居、慶長⚘年1603 没、62歳 初代氏鐡、天正⚔年1576生、天正17年1589徳川家康近 習となる、文禄四年1596従五位・采女正、 慶長⚗年1602膳所ケ崎城主、琵琶湖からの 溢水防止、元和⚓年1617尼崎城主⚕万石、 武庫川などの河川改修と架橋、寛永⚓年 1636従四位・采女正、寛永12年1635大垣城 主10万石、寛永14年島原乱に軍監として参 加、慶安⚓年1650大洪水と防止策、根尾谷 の山林乱伐禁止・植林奨励・水源地保護、 木曽・揖斐・長良三川の治水と農業振興、慶安⚔年1651隠居、明暦元年1657没、80歳 二代氏信、慶長⚔年1599生、慶長10年1605、⚗歳で徳 川家康に謁、11才にして家康に領内事情を 問われ具に答えて褒賞される、元和⚑年 1615従五位下・采女正、慶安⚔年1651襲封、 寛文七年1667従四位下・釆女正、寛文11年 1671隠居、天和⚑年1681没、83歳 三代氏西、寛永⚔年1627生、寛永15年1610将軍3代家 光に謁、慶安四年1651従五位下・但馬守、 天和三年1683従四位・肥後守、寛文11年 1671襲封、延宝⚘年1680家中人数約⚑割 暇、延宝⚘年1680銀札発行、貞享元年1684 没、58歳 四代氏定、明暦⚓年1657生、貞享元年1684襲封、寛文 七年1667四代将軍徳川家綱に謁、寛文十一 年従五位・采女正、元禄13年従四位下、元 禄14年従弟浅野長矩(赤穂城主)刃傷、元 禄15年1762家中改革、享保⚘年1723隠居、 隠居後も定帳水防規定順守を指示、享保18 年1733没、77歳 五代氏長、貞享⚔年1687生、元禄10年1697五代将軍綱 吉に謁、元禄14年1701従五位下・伊賀守、 享保⚘年1723襲封、享保10年1725伊勢守、 享保17年1732従四位下、治水に功績、領民 敬慕、享保20年1735没、49歳 六代氏英、享保14年1729生、享保20年1735襲封⚗歳、 元文五年1740八代将軍吉宗・世子家重に 謁、寛保三年従五位下・采女正、以来数次 にわたり、幕領預地⚖万⚙千石を請取、明 和⚓年1766年貢増徴反対一揆5万人、増徴 を止めた。氏英は温厚・節倹の性格であっ た、明和5年1768没、40歳 七代氏教、宝暦⚕年1755生、明和5年1768氏英六女と 婚姻し聟養子となる、襲封14歳、明和五年 1768 十代将軍家治謁、明和⚕年1768従五 位下・采女正、天明元~⚔年1781~1784大 垣輪中水路開削指示、寛政⚒年1791幕府老 中職、寛政⚒年従四位下、寛政三年侍従、 寛政九年領地存亡に付、金一万両貸与され る、寛政十一年京都御所光格天皇謁、また 後桜町上皇謁、寛政11年1799蝦夷警備に近 藤重蔵を重用、文化3年1806没、53歳 八代氏庸、天明⚓年1783生、寛政⚘年十一代将軍家斉 謁、寛政⚙年従五位下・伊賀守任官、文化 ⚓年1806常盤橋邸賜・造営費金五千両他を 賜、同年1806襲封22歳、同年采女正、文化 ⚗年1810大垣城天守閣修理、文政10年1827 従四位下、天保⚗年侍従(従四位下は変わ らず)、天保12年1841没、59歳、 九代氏正、文化10年1813生、文政10年1827十一代将軍 家齊謁・世子家慶謁、文政11年1828従五位 下・伊賀守、天保12年1841襲封28歳、嘉永 ⚔年1851に小原鉄心重用・人材登用・財政 整理、嘉永⚖年1853ペルリ来航、安政元年 1854江戸大地震、同年大砲一門鋳造、安政 ⚒年1855再江戸大地震、同年軍制改革= 弓・槍の⚒組廃止・銃隊設置・藩政改革= 洋学奨励、安政⚓年1856隠居、43歳、明治 ⚙年1876没、63歳 十代氏彬、天保⚒年1831生、弘化⚓年1846十二将軍家 慶謁・嘉永⚑年1848従五位下・出雲守、安 政⚓年1856襲封25歳、安政⚕年1858揖斐川 改修、文久⚑年1861従四位下任位、元治⚑ 年1684侍従宣下、元治⚑年1864長州兵京都 侵入を撃退、慶応元年1865没、35歳 十一代氏共、嘉永⚗年1854生、氏共は九代氏正の子、 慶応⚑年1865襲封12才、慶応⚑年1865十四 代将軍家茂謁、慶応⚑年1865従五位下・采 女正、慶応⚓年藩政改革、評定局設置・上 局行政担当・下局財政基盤振興・公選投票 による士民不問の議員選出、明治⚒年1869 版籍奉還・藩知事任命、明治⚔年1871藩知 事辞職・米国留学、18歳、明治⚙年1876帰 国、明治15年1882西園寺公望・伊藤博文に 随行し欧州視察、その後欧州諸国に公使と して赴任、その他官職歴任、昭和11年1936 没、83歳(うじたか)。この間大垣藩は慶 應⚓年藩籍奉還、慶應⚔年⚗月明治と改 元、江戸を東京と改称、明治元年10月明治 天皇奠都、明治⚔年⚗月廃藩置県実施とい う激動に見舞われた。 小原二兵衛鉄心=是水・伊寛、文化13
年1816生、氏正・氏彬・氏共の三代に 仕える、明治政府に登用されて慶応⚔ 年正月参与、明治⚒年1869大参事、明 治⚓年1870廃藩置県と権知事、明治5 年1872没、56歳 ちなみに歴代藩主の菩提寺円通寺に納められている 肖像が昭和⚕年刊大垣市史に収録されている。見る と、藩祖一西は剃髪の法体と説明、初代氏鉄は肖像で はなく、達筆の自筆書状、二代氏信は肖像無し、三代 氏西は乗馬の甲冑姿での肖像であった。ところが四代 氏定の肖像は烏帽子、直し 戸田家12件についてのデータから読み取れること を、若干書き出して見よう。死亡年齢は12件の単純平 均値61.8才、最長最小⚒件を除外するとやや下がって 平均値62.4才となる。江戸時代としては長寿と言え る。ただ⚕代目から10代目までに限ると、単純平均値 49.8才、と10才も大巾に下がってしまう。 また襲封年齢はどうであろうか。藩祖を除いた11人 の単純平均値は24.4才である。また最高・最低年齢者 を除いた単純平均年齢は23.9才となり、やや下廻る。 11人の統治期間については25.2年、最高最低を除いた ⚙人の統治期間は22.9年という数値を示す。他の諸藩 の場合と比較できる計算値を知らないが、藩主11人の 死亡年齢・襲封年齢・統治期間の数値から想定すると、 大垣藩統治はかなり安定的であったろう、ということ である。隠居年齢を考えると、安定に寄与している、 ともいえよう。 12件のうち⚒件が養子で比率は16.75%であるが、 11代は直系の孫なので、養子に数えてよいのか、迷う。 諸藩における当主養子率についての計算例はよくわか らないが、当主が幼少であったり、養子であったりす ると、藩政における当主の統治能力を発揮し難いこと がしばしば起こるようである。その点、大垣藩は江戸 時代を通じて、家老や与頭などとの合議制を巧みに運 用し、藩政混乱を避けていた、といえる。 養子制度は名跡を守るために商家や農家でもよく 行われていた。農村(武州多摩郡のうち距離の離 れていない⚓ケ村)の明治⚓年事例をみると、計 152世帯のうち計86世帯の当主が養子で、56・5% という高率である。ただしA村は48件のうち 89%、B村は54件のうち55.5%、C村は50件のう ち38%と、バラつきがみられる。何か社会経済的 な説明を求めたくなる数値である。 大垣藩主は歴代いずれも水利に長けていて農地の生 産性を高める政策を実行できた人材であった。ところ が江戸後期以降、幕領の預り地が増加した。表面的に は支配地が増えたたように見えるが、収納した年貢な どは幕府に納め、行政費用を負担しなければならず、 また海防強化のための軍備費が増大して、藩財政への 圧迫要因となった。それでも最後の藩主⚙代・10代・ 11代は蝦夷探索の近藤重蔵を重用し、小原鉄心の提言 を受けて洋学を奨励するなど、幕末動乱を予期したよ うな藩政改革を実行するなどして、先見性を発揮した ように思える。 そうした統治能力や先見性のありようを示す資料⚔ 点における法文記述を本稿において紹介する。資料の 一つが大垣藩「定帳」の存在であり、また二つ目は「定 帳」の施行細則である「喧嘩追懸者帳・火事帳・外内 水帳」三帳は三冊を合綴したものである。三つ目は同 時代史料としての「(大垣藩)城代日記書抜」平成⚕ 年刊大垣市史資料編所収を利用し、17世紀における社 会経済環境について、相互補完の役割を補強する情報 源とした。もちろん、時に応じ、事に対応し、個別の 法令を発布しているものの、戸田家統治の根本は、家 中を統制する身分法としての「定帳」に発する、と評 価したい。四つ目は幕末に至って、それまでの度々の 藩政改革から一歩抜きんでた改革が行われようとし た。大垣藩「慶応三年十月封内布告」一冊である。の ちに発布される明治政府による太政官布告とほぼ同じ 寸法の大きさで、和綴じであるが、それまでの手書き 触書ではなく、木版摺である。形態や内容について は、後で詳しく述べるけれど、表紙に、多色摺りで枝 先に柿実を描いて、大垣藩を象徴する図柄である。そ れまでに見ることのなかったシンボルマークとして極 めてユニークな発想といえよう。ともあれ全くそれま での藩政改革を超えた発想と内容を持つ「布告」なの
である。残念ながら発布直後に、藩政奉還(統治権返 上)の挙に出て、藩政改革は実現できなかった。その 改革理念については本稿の⚔において紹介する。 「定帳」という法集成は大垣藩において家中(知行 取・切米取=士分・切米取=足軽)に対して順守すべ き法を集成し、成冊としたものであり、「家中統制法」 と位置付けるのが妥当であろう。家中以外の町人・百 姓に対しては、町法度・在々(百姓)法度という形式 で、順守すべき法の事案内容ごとに布達されていた。 「定帳」は戸田氏統治初代氏鐡没後に、二代氏信が氏 鐡の法令を統合し、統治を担当する家中=行政を担う 官僚たちの担当部局ごとに編綴して「法典」形式で発 布されたこと、を安澤は60年前に論証した1)。以後、 代が変わるたびに家中に対して規制の指示や変更がな されることもあり、それらの条項から行政担当者の順 守事項を代替わりごとに補填しながら、基本法典とし て受け継がれた。残念ながら最初の原本は失われたよ うである。しかしその写本は、本来の法対象である家 中だけでなく、直接の法対象ではない町人・在々(町 役人や村役人)にも流布したようである2)。そうした 町方・在々への情報リークへの反応と情報理解は行政 案件や訴訟などにおいて、多く参照され、活用された、 と考えてよいであろう3)。
⚒ 大垣藩「定帳」の家中統制法という位置
づけ
2.1 「定帳」概要
「定帳」には、最初に安澤が検証した家老戸田治部 左衛門家(もしくは家老戸田縫殿―当時の担当司書中 西忠敬氏から聞いた記憶が曖昧なのをご容赦願いた い)旧蔵市立図書館蔵書本、および昭和⚕年1930刊市 史に引用されている市史引用本三種、および昭和41年 1966刊岐阜県史史料編近世二、ならびに昭和41年1960 刊新修大垣市史資料編に収録された「治部左衛門家旧 蔵定帳10部」翻刻(翻刻作成安澤、誤読の多いことを 愧 はじ るものであるが、漸く訂正の機を得た)、平成20年 刊大垣市史において掲載されている山下家旧蔵三巻本 (上巻奥書に「船町谷弥兵衛」、中巻奥書に「船町谷弥 兵衛」、下巻奥書に「船町谷□□夫(九太)」とあり、 写本作成者と思われる)。氏鐡の大垣入部以前から、 谷家は船問屋を勤めていたようである。しかし補訂の ための定帳追補の合議に参加できる格上の士分=家中 <家老・与頭>ではなかった。他に河合家旧蔵本、櫻 井家旧蔵本、黒川家旧蔵本、林家蔵書本の⚕種の存在 も知られている。昭和⚕年市史引用本および平成市史 翻刻本などについては、実物を見ていなので、本稿で は言及を避けたい。そして本稿五章の「含意と展望」 に記した「デジタル鑑識=デジタル・フォレンジック によるテキスト・クリティークの成果を待ちたい。 つぎに部局別という形態を持つ家老家旧蔵本(依拠 本は昭和40年ごろ安澤撮影マイクロフィルム画像)に おける部局名称と、その管掌対象部門業務を紹介す る。以下の記述において、作成・保管しなければなら ない記録書類がどのような性格を持っているか、を明 確に認識して頂くために、文意の解釈説明ではなく、 原文の読み下し文を列挙することとする。馴れない江 戸期文体に、たじろがれるかと思うが、示される記録 書類の性格把握は、視読によるだけよりも、音読によ るリズムを感覚的に受け入れる方が、むしろ容易であ ろう。 第一家中之部 俸禄をうける家中が順守すべき一般 規定、「定帳」冒頭に書かれた補訂の手続きを 定めた総則にあたる条項に⚐を与え、以下の一 つ書に始まる条項に家中の部限りで⚑から始ま る通し番号をつけ、105条項となった。第一家 中の部は家中統制法の根幹といえよう。 第二江戸之部は江戸詰めの家中が順守すべき規定を 収録している。条項数49、 第三町之部 町方支配に当たる町奉行と、その業務 に従事する者たちの順守すべき法である。規定 項数46、町方に住む町人たちに対する直接的な 指示命令ではないことに注目されたい。 第四在郷山中之部 地方支配に当たる郡代や郡奉行 と、その統制に従う手代などについての規定、 条項数147、此の部門に収録されている規定も、 百姓身分に位置づけられているものたちを直接 の対象としていないことに注目されたい。第五普請之部 建築土木などを管掌する普請奉行・ 破損奉行・作事奉行と、その統制に従う手代な どの順守すべき一般規定、条項数41、 第六蔵之部 租米や租金を収納し管理するなどを管 掌する蔵奉行と、その統制に従う手代などにつ いての一般規定、項数32、 第七買物之部 城中で消費する物品購入を扱う買物 奉行と、その統制に従う手代などの順守すべき 一般規定、条項数⚖、 第八勘定之部 収入・支払の業務および勘定帳簿作 成を扱う勘定奉行と、その統制に従うなど諸部 局と手代などの順守すべき一般規定、条項数 31、勘定帳簿種類と名称規定が具体的に記載さ れている、 第九法度之部 個別案件に関する対象として、町方 町人・在方百姓という身分別に宛てた法度=触 書の集成、町村に設置された高札、および町名 主・村名主あての廻状などを通じて周知させる ことを目的として布達された。最初の⚒法度は 江戸幕府からの通達であり、含めて法度数29、 第十雑之部 上記各部門別の枠内にあてはまらない 管掌領域を超える条文を含む条項を集成、条項 数43、 合計501条項+49法度、条項数は、注記 1-①「定 帳成立考」に挙げた数値を訂正したので、異なる数値 となっている。部門名称をみると、第九と第十以外 は、現代でもそのまま通用する部門名称である。 「定帳」それ自体は家中という身分にあるものを対 象として発布された家中の順守すべき法であり、町方 や在方に属する人間に直接、宛てたものではない。し かし平成「市史資料編」を見ると、その写本は町方・ 在方にも流出していたようである。江戸時代を通じて 幕領・大名領を問わず「他見を許さず」という建前の もとで、実は統治者の法についての情報は広くリーク され、公事宿や大庄屋の間で、流布していたようであ る。とはいえ大垣藩と同じように管掌部門別法典を作 成した徳島藩には、天保年間作成の「元居書抜」35部 門という構成の藩撰法典が存在している。領国規模の 大きさと江戸後期ということを考えると、部局の管掌 範囲を細分化させた結果と言える4)。 「定帳」家中之部の最初に総則として、役職として の月番は常々読んで承知しておかねばならず、定帳の 規定にない案件が生じた場合は非番の家老・与頭と月 番の役職者が合議し、成果を藩主に言上し、裁可を得 て、定帳に書き載せねばならない、とある。つまり藩 主の個人的な恣意に任せるのではなく、組織体として の意思決定会合について、月⚖回(藩主在城時)もし くは月⚘回(江戸詰時)の寄合評定と、そのうち⚒回 には三家老・組頭・寺社奉行も加わる惣寄合日を開催 し、前者には城代・用人・郡奉行・〆奉行・別勘定奉 行・普請奉行・破損奉行・賄奉行・台所預、祐筆・大 目付・詰目付が参加して、合議による意思決定を発 議・立案・決定し、法としての真正性や信憑性を藩の 統治権者から認証される仕組みを実行していたことに なる。なお「第十雑之部(内題には<第四>とある)」 条項⚑には組織体を構成する人員名簿として「侍帳な らびに役者帳・普請役帳」を挙げ、「正月中に月番の 内にて、鬮取仕り、認め、これを差し上げるべきこと」 としている。つまり今風に言えば社員名簿作成であ り、職階・職務・給与・勤務すべき役職名称・負担す べき普請(水防工事)負担労働量と持場、に変更あれ ば改訂して、上記三帳にそれぞれ記入する、というこ となのある(第十雑の部の詳細は後述とする)。 この条項⚑に続けて、のちに触れる条項⚒「火事 帳・洪水帳・追懸者帳」が存在する。なお「雑」とい う部門は雑録というよりも、部局の枠に捉われず、む しろ部局を超える条項を収録するということなのであ る。 なお家中における身分の格付けは制度としてではな く、格(軍事的位置付け)を基本とするものの、与え られた俸禄・役職の在り様に即しながら、格禄職三要 素を組み合わせて互いに認証できる上下関係と考えて いる。以下の記述における法規文章引用に当たっては 読み下し文体とする。また上記法規原文を読み下し文 に変えたのは、目視黙読ではなく発声音読する方が、 家中統制法という法の意図を把握し易いからである。 なおまた記録・書類群にはその時々に存在していた人 の名前や地名、或いは品物の名前その他がさまざまに 文字だけでなく、表象としても書き込まれている。そ のこと自体がそうした文字その他の表象を見えるよう
にするための媒体によって、目視なり、触覚ないし聴 覚を通じてその存在を認知できるのであり、そのこと が存在したことの証明 Identity になるのである。本稿 に引用する多くの原文もしくは書写本というメディア に書き込まれた文字その他の表象を通じて、記録書類 群の存在証明に接して頂きたい、と願うものである。 ともあれ以下の節において、各部門においてなされ ようしている行政行為の証拠を残すために、すべき行 為を命じている事柄から、出来るだけ記録書類群にお ける個々の名称を挙げるようにしたい。読まれる方々 はその種類が予想を超えた分野に及んでいることに驚 かされるかもしれない。
2.2 定 帳 各 部 門 に お け る 行 政 行 為 の 証 拠
evidence
としての記録書類の作成・保管
A 定帳第一 家中の部から見える家中統制
家中の部の最初に規定されている文章を引用する。 家中000「記し置く定帳の趣、月番(役職名)中、油 断なく披ひ見けんいたし、毛頭相違あるべからず、この書面 の外、為置し お きの儀これある節ハ、家老か ろ う・組 頭くみがしら・月番つきばん、 相談の上、言ごんじょう上を遂げ、あい究め、これを申し付く べし、すなわちその旨、これを書き載のすべし、もっと も諸役中え定さだめの通り、違背い は いつかまつ仕 らざるように申し渡す べき者也」とある。要するに「家老・組頭・月番」の 三役職者の合議制と、その決定を藩主が許認すること で、いわば定帳10冊全体の法としての真正性・信憑性 を宣言したのである。なお各部門から引用する場合、 部門見出し語+条項番号を角括弧で囲み、引用個所を 示すこととした。本節最初の引用、定帳全体を包括し ている第一家中の部冒頭文言は家中000とした。以下 に各部門から収録条規から引用するので、各部門が官 僚制を支える家中統制法を構成していることを、確実 に読み取ることができるであろう。各条規全ての末尾 が「べし」という命令形であることに留意されたい。 家中001は、主君への忠誠を誓う「起請文きしょうもん前書まえがき」に 認めるべき文言雛型である。以下に続く条項は何らか の記録書類作成・保管に関連している。全てを引用す べきであろうが、この小論では、いくつかを選ぶこと にしよう。 家中014では「持筒・持弓・惣足軽組・籏之は た のもの・ 水主の者・惣 中 間そうちゅうげん(年俸制の知行取以外の家中構成) の切きり米まい手て形がた、一組切に一枚手形たるべきこと」とし、 手形が持参者である組頭にたいして支払いを指示する 命令を内容としていることは明らかである。知行米取 について触れていないのは、知行米取は組ごとではな く、個々の家中が、その与えられている石高百石あた り40俵(⚔斗入り)を原則として、蔵から請け取れる からである。知行取も切米取も何れの場合でも、実際 には蔵米を買い取っている商人から、知行取本人が、 切米取は組頭が支払い指示手形、もしくは銀・銭とい う貨幣を受け取り、組下に切米俸禄俵分を渡すのが原 則である。しかし通貨不足から、手形とは、尼崎から の転封以後、地方知行を行わなくなった大垣藩におい て多用されるようになった支払い指示を書いた半紙半 分、もしくはその半分大きさの紙片を指すようであ る。寛永12年の転封時に銀札発行という措置があっ た、と故老の記憶が語っているが、現物は発見されて いない。銀札発行は企画されたものの、実行されな かったように思える。手形での決済を藩札発行と思い 違いをしたのかもしれない。藩札発行は藩財政につい ての信用保証が確実な場合に行われるので、転封早々 の戸田家への信頼度が高かったとは思えない5)。実際 の銀札発行は延宝⚘年1680である。 家中028によると、「方々目論見ならびに諸事見分ニ 遣わしそうろう役者まかり帰り、月番・郡奉行その外、 誰に寄らず相談仕まつる儀、堅く停止ちょうじたり、その役者 見分の通り、書付かきつけを以て申し上げるべくそうろう、こ の節、目付の者指添え遣わしそうろう刻ハ、目付の者 ハ相談に加わるべからず、非分の族やからこれ有るカ、道理 を糾ただし、まかり帰り、言上致すべき事」とある。今風 に言えば、企画を立案するためや、視察を行うなどし たとき、担当者は上位の役人に相談することなく、本 人が自分の見た通りを書類に書いて差し上げるべきで ある。監察の役割を果たす者(目付)同道の場合、監 察役を相談に加えてはならない。見分の際、間違いを 発見した場合、その間違いを当事者に指摘し、正しく 事に当たるように言い聞かせなさい。そして帰城して から報告書を提出しなさい、という文脈である。厳 正・公平な官僚としての行為・行動を求められていて、 定帳「定帳」総体、もしくは「家中の部」の家中統制 法という性格が明確に表現されている、といえよう。家中038は、「物もの毎ごと、麁抹そ ま つ・不念ぶ ね ん成る儀これあれハ、 誰に依らず、過怠か だ い(罰則)として、馬廻り(家中にお ける乗馬認可のある有資格者)ハ役人これを出すべ し、人数ハその品によるべし、子小姓・詰小姓・右筆 ハ門留めるべく、日数ハ右同断、(中略)、その外ハそ の科によるべし、重き過怠もこれ有るべき事」、と家 中での格付けによって、処罰として課される日数が異 なる。労働態度に対する評価といえよう。 家中051は、「寄合場にて、諸役人その身の役儀、遠 慮なく相談致すべくそうろう、仲間ぇ気をかね、存じ 寄りの儀、遠慮仕りそうらわㇵヽ、以後聞き出で次第、 その者越度お ち ど申し付ける事」とあり、高位者の寄合出席 での自由な議論を期待しているようでもある。代を重 ねているうちに、次第に格上のものの発議・発言を優 先させるようになることは、自然の成り行きとなるの ではなかろうか。 家中076は、「家中貸し物(持合も や い利用による前借り、 利息付き)、その年の暮に算用を究め、金銀米銭かし 物の品々にて成り共、又ハその年の知行米(実際は蔵 米担保の俵高代金支給)ニて成りとも、差し上げ申す べくそうろう、右の次米奉行(次年繰り越し分・勘定 奉行の下役)、毎年弐人宛あい定め、勘定奉行立ち合 い、念を入れ、算用(貸借額差引計算)仕るべき事」 とあり、家中の経済が貨幣ないし代用貨幣(支払い保 障手形)使用という状況にどっぷり漬かっていること は明らかである。上記項目直前の条項で、持合と、そ の負担しなけれなならない利息を内容としている6)。 家中080は、「大垣構えの外へ、殺生ハ勿論、むさと まかり出でまじくそうろう、若し叶わざる用など、こ れ在ってまかり出でそうらわハヽ、二里・三里に内ハ 断わりなくとも参るべし、尤も自分の用として、百姓 の家へ一円入りまじくそうろう、五里とも参り、日帰 りニ仕まつりそうらわハヽ、その与頭ぇあい断るべ し、一夜とも先ニ泊りそうらわハヽ、暇いとま申し参るべ き事」として、城下から離れて、百姓の家に立ち入る ことを厳しく制限している。 家中083は、「喧嘩口論これあるにおいてハ、其の理 非を糾ただし、非分を申し懸けそうろう方、或いハ切腹、 或いハ改易、申し付くべくそうろう、此の外、喧嘩な らびに火事・洪水の為置し お き、別紙にこれ有る事」、家中 の間で喧嘩口論をした者に対し詮議した上で、切腹も しくは改易に処する、という処罰規定である。それに も拘らず、この条項後半に「此外、喧嘩ならびに火事・ 洪水の仕置き、別紙にこれあり」という文言を見出せ る。また第十雑之部条項⚒にも「火事帳・洪水帳・追 懸者帳」という文言がある。これは毎年参勤交代のた めに江戸に行ったり来たりして、上記の三帳で指示さ れている職務を勤めなかった場合、三帳に欠勤の日数 を書込み、作り直しなさい、という指示の規定なので ある。 なお家中に属する者は雑之部条項⚑で「侍帳・役者 帳・普請役帳」という三種の基本台帳作成時に給与で ある俸禄額・勤務する役職名・義務としての水防工事 受持ち場所・提供する労働負担量(士分は代人となる 従者、扶持米給は本人)を明示することになっており、 家中の雇用条件システムを明示している、と言える。 家中084は、「諸奉公人7)下々に至るまで、当町人な らびに在々百姓を侮り、非分を申し懸け、口論いたし そうらわハヽ、穿鑿を遂げ、奉公人、曲事(処罰)に 申し付くべき事」であった。家中・町人・在々百姓と いう三身分間に軋轢の起こらないように配慮した条項 である。 家中094は、「宗 門しゅうもん手形て が た、毎年三月中に取り集め、 宗門手形奉行へあい渡すべし、定江戸者じ ょ う え ど し ゃ(江戸屋敷長 期勤務者)ハ、江戸において目付中あい改め、手形請 取るべき事」というキリシタン禁制に関する家中への 布達である。これまでのキリシタン研究において、資 料不足からあまり触れられることの少なかった武家の 宗門改め指示である。幕府からの通達は正保元年1644 の城代日記に見ることができる8)。初代氏鉄は寛永14 年16437原 城 乱はらじょうらん制圧の包囲陣指揮者であった。家中に たいするキリシタン禁制実施は強かったであろう。 家中096は、「四通りの目付(大目付・詰目付・徒歩 横目・足軽横目=監察役)、方々見聞ならびに用所申 し付けそうろう節、軽き用たりといえども、是非を書 き付け(書類化)、これを封じ(機密化)、それを申し 渡し方(相手)ヘ、指し出すべき事」とある。家中身 分の上下を問わず、家中の行為・行動を分担して監察 する業務は、町方・在々に対する家中の振舞いにまで 及んでいた。さらに治安業務も含んでいたようであ る。監察役である目付・横目の存在は大垣藩にとっ て、身分の上下を問わず、公平性を保つ重要な制度で
あった。
B 定帳第二 江戸の部から見える家中統制
江戸001は、「江戸供の書付(命令書)出しい だ しそうらわ ハヽ、追付けお つ つ け(間なしに)、貸金、定の通り、相渡す べき事」と、江戸の部の冒頭は、江戸勤務を命じられ た家中に対し、早速に江戸 舫もやいを貸し付ける条項から 始まる。それは江戸への参勤交代に伴う江戸屋敷交代 勤務者にとって、強制された重荷であったように思わ れる。江戸の部の殆どの条項は江戸勤務によって課さ れる江戸舫の返済条件に終始している、といってよ い。C 定帳第三 町の部から見える家中統制
町009によると、「大垣町中、諸奉公人、 万よろず買いか い 掛りか か り七月・極月、年中ニ二度充て、取り切る、則ちあ い済まし申す、との手形致させ、町奉行までこれを申 し出づる、若し手形滞りそうらハヽ、町同心(町奉行 の配下役人)、催促仕るべき事」とある。家中の者た ちの町方での買い物は、年二度の節季払いで済ませる ようにし、現金不足を回避したのである。城下町形成 は日本における消費者社会の到来を齎した。幕府は寛 永通宝という銅銭を全国的に大量に流通させる措置を 講じ、現金不足に備えた。大垣藩もその恩恵に浴して いたことは定帳や、寛永21年1643に始まり、明和9年 1772までについて書かれた「城代日記」にも多く触れ られている9)。 町011によると、「諸職人上・中・下、改めの儀、普 請奉行・破損奉行・大工頭、立ち合い、一年に両度宛、 穿鑿 せんさく を遂げ、法ニ記し置き、作料などあい渡す時、念 を入れるべし、冬前、銀借りそうろう節ハ、普請奉行・ 破損奉行・大工頭ならびに町手代、その町の年寄、呼 び出シ、それぞれにかし(貸し)申すべし、誰ニ寄ら ず、一人ニ渡すべからざる事」という作料(職人手間 賃)の決済仕法を決めている。 町013には、職人の職種を列挙している。「大工・木 挽き・鍛冶・こけら(柿)ふき・瓦ふき・板ふき・茅 ふき・左官・畳刺し・絵師・かさりや・塗師・桧物師・ 表具屋・樋や・具足や・紺屋日雇い・篭作り・杣・石 切、右廿ケ色の手間賃・飯米員数の書付、帳に記し、 月番判形を以て、普請奉行・破損奉行ニあい渡しそう ろう間、その旨、あい守るべき事」、この条項は廿種 類の職人手間賃と飯米量を文字化して証拠となるよう に手を加え、記録として帳面を作成する、という担当 奉行への業務命令なのである。官僚制効果といえ よう。 町014には、具体的な事例を挙げている。「具足屋手 間賃、上ハ一日一匁、中ハ九分ふん、下ハ七分充、飯米上・ 中・下とも、当町の者、一日九合、他所の者ハ壱升弐 合宛の事」とされていて、他の職種手間賃計算と比較 する基準を設定しているのである10)。 以上の他に、揖斐川利用の川船運賃についてのデー タがあるが、省略する。 町044は、町方における宗門改め行使の条規である。 「宗門改めの儀、随分念を入れ、毎年三月ニ至って、 寺請けの手形を取り、宗門奉行ニあい渡すべき事」と、 町奉行への通達となっている。D 第四 在郷・山中の部から見える家中統制
まずは在郷山中の部冒頭の条規を全文引用し、在方 支配全般への関わり方についてみておこう。 在001、「領分の内、郡奉行四人ニ分け、預け置きそ うろう条、川除け・井水樋・荒地・入り百姓などの儀、 随分念を入れ、その手下申し付くべくそうろう、尤も その身、支配所の外たりとも、然るべき儀これ有るに おいてハ、これを捨て置きニすべからず、四人打ち寄 り、相談ニ及ぶべきは勿論、在々用などの儀、郡奉行 判形これ無き手形、在々において用の者、勘定に立て るべからざる事、郡奉行ならびに代官の外、他の者の 申し付け受け用いるにおいてハ、百姓越度たるべき 事」と誠実に対応することを強調している。 此の部門は134条規と多いので、記録書類群の作成・ 保全に関連する条規に限り、記録書類の表題のみを挙 げるにとどめたい。 在002は不法な土地利用を戒め、「その百姓(当事者 本人)は申すに及ばず、十村組の庄屋・代官・郡奉行、 急度き っ と曲事ニ申し付くべき事」と関係者の連帯責任にな ることを強調している。 在005は「代官共、毎年三月、中勘定仕廻い(終結)」 を命じている。また代官などが在々へ出張する場合、 「郡奉行手形持を持参」し、どのような用務でその村 に滞在したかについて、「庄屋手形を取りまかり帰り、郡奉行方ヘあい渡す」のが決まりである。在007は、 出張した際、村から村へ移動する際の「村送り人馬」 について「郡奉行判形致し、月番判を取り、人馬奉行 へ遣わし、村々ぇハ人馬奉行共連判ニて、手形遣わす べき事」と手形受け渡しの手順を詳細に述べている。 在011は、毎年の「領分免相(免率)」交付に触れ、 苦情を申し出ないように注意をしている。 在015は、「免状渡しそうろうて後、免相に付き、 在々百姓少しも訴訟申させ間敷き事」と再度の注意を している。 必ず書類化することを明示している条項もある。次 の条項がそうである。 在022は、「在々ぇ用の儀、代官ならびに役者共ニ申 し渡しそうろう時、口上にて申し付けそうろう儀、無 用たるべし、たとえ少しづつの儀たりとも、その品々 により郡奉行、書付け判形を以て、申し渡すべき事」 と、証拠物作成であることを強く意識しているのであ る。 在025は「毎年免状の黒印居る刻、三之丸大広間に おいて当番の月番一人、用番一人、黒印番弐人、郡奉 行弐人、祐筆弐人、出座致しこれを勤むるべし、附け たり、江戸ニ在ル時ハ、執権の者弐人、月番壱人、郡 奉行弐人、祐筆弐人、まかり出づべき事」と、免状作 成の真正性・信憑性を保障する権威委託といえる。 在064は、「在々庄屋ともより小百姓へおりかけ物 (田租以外の付加税)、その代官、念を入れ、判形致し 置きそうろう様ニ、郡奉行へ申し付くべき事」、庄屋 の恣意的な付加税を制約する条規である。 在065は、「在々庄屋・小百姓ニいたるまで、免状出 シそうろうテより極月迄、米納めそうろう外ニ、用な くして大垣へ参りそうろう儀、兼ねて堅く申し付けそ うろう」という、この条項は年貢納入における不正や 不公平の起こるのを防止するため、郡奉行、町奉行、 その手代、町同心の注意喚起を促している条規であ る。 在066は、「在々より上げそうろう目安め や す(訴状)なら びにその村の公事あい済ましそうろう是非の品々、過 怠などニ至るまで 詳つぶさに郡奉行中、公事帳に記し置き、 以来何ケ年過ぎそうろうともその帳ニて、埒らち明けあ けそう ろう様、仕まつるべき事」、この条規後半に証拠物の 保管・保全を厳しく命じていることは明白である。 在070は、「領分村々の高帳ニ、年々引地高ならびに 夫役米高の子細を書付け、郡奉行より勘定奉行へあい 渡すべき事」、引地高・夫役米高の減額は既得権化し、 そのことが郡奉行から勘定奉行に対し上申される、と いう情報の共有化を行い、業務の蛸壺化を防いでい る。 在071は、「免相、あい極りそうらわハヽ、郡奉行よ り村々物成納め高書付け、大蔵へ遣わすべき事」とあ り、異なる部局間での情報共有が行われている。 在074は、「年貢米、村々ニて俵に詰め申す時、木札 ニ村付け・名付け記しそうろうテ、その俵々へ入れ申 すべくそうろう、米廻しそうろう時、名付けの札、若 しこれ無くそうらわハヽ、其の所の代官・庄屋、急度き っ と 曲事 くせごと ニ申し付くべき事」とあり、納め俵に村名と納め 主名を書いた木札(タグ)を入れて、弁別できるよう にしておかなければならない。若し木札が入っていな ければ、監督怠慢ということで、庄屋と代官の連帯責 任が問われ、処罰されることになる、のである。 在075は、「水出づるの時のために、所々ニ入置きそ うろう材木・縄・俵、色々、年中ニ三度、横目(監察 役)共を遣シ、その小屋々々吟味仕まつるべき事」と あり、三章「定帳施行細則外内水帳」に設置を義務つ けてある「水防小屋」規定と同趣旨である。在076・ 在078も、水防に必要な資材を準備しておくための関 連条項である。 在085は、「毎年、小物成の元帳、正月中ニ郡奉行認 ため、小物成奉行ニあい渡し、念を入れ、請け取り申 すべくそうろう、(中略)相違なく納め勘定、あい極 め申すべき事」と、決算の部局間関連性を承知してい る、といえよう。 在092は、男女同権ともいえる条項である、「在々男 女縁辺の儀、その親・兄弟共、互いに相談の上ニて申 し合いすべくそうろう、若し娘合点、仕かまつらざる を、男方より無理にその娘をよひ(呼び)そうらハん と、非分の申し懸けそうらわハヽ、急度曲事ニ申し付 くべくそうろう、附けたり、自然、女、男をきらい、 親の所へ帰りそうろうとも、無理ニ彼女を取り返シ申 すべくと申さず、子細をその村の庄屋・年寄・百姓ニ 申し届け、右の者共、取り噯いあつかい、互いに言い分これ無 きように仕まつるべくそうろう、若し庄屋・年寄、依 怙なるさばき仕まつりそうらわハヽ、急度曲事申し付
くべくそうろう、然る上ニ自分の覚悟ニて、理不尽成 る儀、仕まつりそうらわハヽ、その者曲事たるべき事」 とあり、厳しい藩の判断といえよう。女性の結婚同意 の必要、あるいは離縁決行を認めているのである。 在098からは、殆どの条項が、氏鉄が最初の領地の 一部を、寛永後期に西北山および根尾谷・外山筋に換 えるように願い、実現した山林水源地域であり、かつ 城下に集住する家中の生活必需品である燃料供給源で もあった地域にかかわる条項であり、定帳原型収録の 藩法とはやや異なる性格を持っているように思われ る。本稿では引用を省略する。その重要性は上位者を 奉行に任命する条項を見れば明らかである。 第⚑表 番号 町名 屋号 宿泊者出身の郡・村名 ⚑ 岐阜町 鳴海屋新兵衛 方県郡雛倉村・則松村・芦敷村・岩崎村・東栗野村・、下城田村・下尻村・ 上曽我屋村・河部村・又丸村・上尻毛村 本巣郡高屋村・柱本村・上真桑村・馬場村 大野郡一ツ木村・岐礼村 蓆田郡芝原村 ⚒ 中町 布屋周助 厚見郡下村本郷・領下村新古町・細畑村両組・高田村・蔵前村西組・蔵前村東 組・中島村・北嶋村・近島村・萱場村古料・萱場村新料 方県郡雛倉村・則松村・芦敷村・岩崎村・東栗野村・下西郷村・下城田寺村・ 西改田村 本巣郡十八条村・下本田村・牛牧内野新田・野田新田・十九条村・牛牧村・ 上本田村・野白新田 大野郡古橋村 不破郡綾野村・室原村・栗原村 ⚓ 中町 鍛冶屋弥平治 厚見郡菅生村・西嶋村・且嶋村・江口村・東嶋村 本巣郡中野村・東早野村・東見延村・更屋敷村・西早野村 大野郡嶋村・志名村・大衣斐村・高科村・西方村 ⚔ 中町 笠屋藤七 方県郡小西郷村・東改田村 本巣郡十五条村・小弾正村・西見延村・下真桑村・別荷村・前野村 ⚕ 本町 目薬屋并兵衛 厚見郡水海道村・岩地村・野一色村・左兵衛新田・前一色村・日野新田・ 切通村本郷・切通村上市場 ⚕ 本町 平野屋新蔵 厚見郡北一色村・岩戸村・日野村東組・日野新田・鏡嶋村 方県郡西黒野村・東黒野村・御望村・中村・鷺山村 本巣郡西秋沢村・只腰村・美江寺村・長屋村・生津村 不破郡福田村・ 安八郡楡俣村・木戸村・南波村・豊喰新田・塩喰村・福東村・楡俣新田・海松 新田・服東新田 ⚖ 竹島町 藤屋九八 本巣郡軽海村・宗慶村・十四条村・下穂積村・上穂積村・小柿村 多芸郡押越村・嶋田村 ⚗ 俵町 万屋源七 池田郡池田野新田・加須河原野新田 ⚘ 俵町 宝来屋定九郎 不破郡綾戸村・塩田村・久徳村 多芸郡五日市村・岩道村・上之郷村・横屋村・直江村・根古地村・大場村・ 大場村新田 ⚙ 船町 勝太夫 不破郡檜村・荒川村 10 船町 九太夫 多芸郡直江村
最終部分在129から在134までの条項では、平坦部の 領有地に対応する内容に戻っている。 最末尾の在134は、「百姓共不用の儀ニて、大垣へ召 し寄せる事、無用たるべき事、但し、叶わざる儀これ 有りて呼び寄せ、逗留においてハ旅籠ニて指し置くべ し、尤も町屋へもその旨、申渡し、代官相談にて旅籠 銭、定め、あい渡させ申すべき事」という文言である。 どうも百姓が城下に出てくることを良しとしなかった のであろうか。用事があってやむを得ないときは「呼 び寄せ」、旅籠を指定して「指し置くべし」という方 針であったようである。そこで「旅籠銭」「あい渡す」 という文言になったのであろう。藩主が二代氏信・三 代氏西・四代氏定(1651~1700)であった同時代の史 料を見ることができないが、後年の安永年間(1772~ 1781)の大垣町所在の郷宿(公事宿)一覧を引用する と、書類作成の専門業者が存在していたように思え る11)。なお筆耕(書類作成業者)を業務とする民間業 者の事例が各地で見られる12)。 上掲の「郷宿」は在方村々において訴訟を起こす場 合、訴訟を起こすための手続きや、訴訟文を作成する 仕事を請け負う業務を行い、かつ訴訟中に大垣町に滞 在する旅籠でもあった。17世紀は村境論、入会地論と いった村が訴訟の当事者になる場合が多かったが、18 世期になると、商品売買にかかわる訴訟が増加するよ うになる。そのような個人が訴訟当事者になると、上 掲の表とは別に、「町宿・米宿・下用宿」という見出 しで、村を顧客としていた「郷宿」と異なる機能を果 たす宿、つまり個別の顧客の依頼に対応できる宿が列 挙されているようである。訴訟の対象ついての実例は よくわからないが、機能別に表示し、専門々々に分化 していることが明白である。 上掲表の「米宿」は米取引、「町宿」は米以外の品 物の取引に関係あるものと思われるものの、「下用宿」 は残念ながらよくわからない。ともあれ18世紀には いった大垣藩は民間での様々な商取引がますます盛ん 第⚒表 米宿・町宿・下用宿所在町名 番号 町名 宿主名 開業年度 所在村・職種 ⚑ ⚒ ⚓ ⚔ ⚕ ⚖ ⚗ ⚘ 中町 中町 俵町 俵町 俵町 俵町 俵町 宮町 桧物屋次兵衛 治平 玉屋藤兵衛 野間屋利兵衛 桔梗屋 野村屋弥右衛門 墨俣屋作右衛門 麩屋元助 宝暦⚔年1754 安政⚖年1684 宝永⚔年1707 明和元年1764 明和元年1704 文化14年1815 安政⚕年1851 慶応⚓年1867 大島村 ・米宿 上開発村・米宿 大島村 ・米宿 大島村 ・米宿 徳光村 ・米宿 浅草中村・米宿 青木村 ・米宿 青木村 ・米宿 ⚙ 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 中町 本町 本町 (後継者カ、本町山縣屋十兵衛 宝暦10年1760 大島村 ・町宿) 本町 俵町 俵町 俵町 俵町 宮町 無し 無し 無し 桧物屋次兵衛 紙屋松右衛門 山縣屋孫十郎 河内屋半蔵 太兵衛 宝来屋清兵衛 高木屋儀兵衛 桔梗屋 美濃屋又兵衛 魚屋宇三郎 沢屋 美濃屋 寛政⚗年1796 宝永⚔年1707 宝暦⚒年1752 文政⚕年1822 延享⚓年1746 明和元年1764 文化12年1815 明和元年1764 慶応⚓年1867 寛政⚓年1795 文化12年1815 嘉永⚒年1849 東田中村・町宿 大島村 ・町宿 大島村 ・町宿 築捨村 ・町宿 池尻村 ・町宿 一色村 ・町宿 浅草中村・町宿 徳光村 ・町宿 青木村 ・町宿 東田中村・町宿 上開新田・町宿 笠木村 ・町宿 21 22 中町本町 松屋弥八椿屋徳兵衛 安政⚖年1859明和元年1764 上開発村・下用宿青木村 ・下用宿
になり、そこから生じる訴訟や紛争に対応せざるを得 なくなったようである。大垣藩のみならず、諸藩での 城下町建設による消費者社会の到来は民間の訴訟を急 増させた。大垣藩における町宿・郷宿の盛行を理解す るための一例として、江戸期を通じての徳島藩訴訟制 度運営の実態のあり様を紹介してみよう13) 注記13の徳島藩を冠した拙稿や、国文研・史料 館において、アーカイヴズ学的発想に基づく目録 作成作業に再び従事するようになったばかりの安 澤の論文である。安澤は、その頃、第⚒次世界大 戦後の福祉国家志向による行政文書の爆発的増大 や、植民地独立から生じた第三世界の新興国家と いう事態に対応できるように、ヨーロッパ限定の アーカイヴズ学を国際的に通用させるために、革 新的に再検討を目指していた当時の ICA 理事会 メンバーから直接に指導を得ることができた幸運 ともいえる時期でもあった。そのことはまた今日 でもまだ継続している技術革新と並行して展開す るコンピュータ利用の導入と結合していくのであ る。この動きが国際的に適応できる記録管理学・ アーカイヴズ学の新生を強く刺激した。こうした 動向に眼を背け、国際的に協力している世界にた いして、日本の独自性のみに固執して、国際協力 への入り口を閉ざすことはできないであろう。
E 第五 普請の部から見える家中統制
普002、「毎年、春中に堤普請目論見、普請奉行壱人・ 破損奉行壱人・足軽横目壱人宛差加ぇ罷出 で、年内埒あくべし、春に至ってあい定め る日限より、普請申し付くべき事」とあっ て、翌年実行予定の目論見つまり企画案を 春に作成して置き、次年の春に実行せよ、 ということである。 普004、「毎年、内外の堤ならびに新田堤出来、請け 取る時、普請奉行・堤奉行、万事念を入れ、 改め、これを請け取るべし、その上にて手 形これを出だすべき事」であり、出来上がっ た堤防の請取手形を書いて渡さねばならな い。 普012、「方々ぇ供・使いに遣わしそうろう足軽、休 日、或いは算用、或いは渡り人足、その外、 定引きの者の外、何ニ寄らず久敷く掛かり 申す者、改むる儀、役者帳にこれ有りそう らわハヽ、毎日、普請割帳、能く穿鑿仕ま つるべき事」とあり、供或いは使いなどの 用事に使役されたものは「普請割帳」と照 合し、普請役日数を調整しなければなら ない。 普021、「中間共、普請仕まつらざる時ハ、この書付 の通り、懈怠無く申し付くべき覚」は七種 類の仕事を挙げて、縄ない、持籠あみ、畳 のこもあミ、米打ち、段木割り、すさ拾い、 「右の外、何にてもその時に至って見はから い、申しつくべき事」としている。 普021、「足軽に申し付けざる仕事の覚」として、塀 土こね、古雪隠掘り、土居の草刈りの三種 類を挙げ、「その外の用事などハ申し付くべ き事」としている。 足軽・中間・家中役人(知行取の場合、割当課役の 人数)の普請動員は、雨降りそうろうとも休ませ申す まじく、ということである。長煩い欠勤は置きかえの 代人を出さなければならない。要するに普請役負担は 家中であることの義務として位置づけられているので ある。F 第六 蔵の部から見える家中統制
蔵001、「両蔵の綸子ならびに万控帳、箱に入れ、惣 蔵奉行、苻を付け、両蔵奉行頭、預かり置 き申すべき事」 蔵002、「免状あい究めそうらわハヽ、郡奉行より村 の物成納め高書付、大蔵ぇこれを遣わすべ き事」 蔵003、「大蔵収め米、請け取り 通かよい、書き様は、何 石・此の俵何俵、此の欠け壱俵ニ付て何合 欠けと書き記しニ、蔵奉行判形仕つり、庄 屋共方ぇあい渡すべき事」、此の通い帳は蔵 奉行と庄屋共の双方で、保管したのであろ う。今は現物を見ることができないが、横 長美濃判もしくは横長半紙判であったので はなかろうか。 蔵004、「年貢米、何の蔵なりとも詰め申す時、俵数かぞえそうらわハヽ、四人、蔵の口両脇に まかり在り、相違なき様に俵数数え、何俵 とその日々々の納め俵数、書付け、蔵の戸 に張り付け置き、蔵詰め申す時、何千俵と 都合のしまりを書き記し申すべき事」、公平 性・公正性・透明性を期してのことであろ う。 蔵015、毎年貸米あい渡す次第、一番ニ持筒・持弓・ 足軽組、二番惣中間組、三番坊主組・手明 き・台所・鷹匠組、四番歩行組・五番大小 姓・小小姓・詰小姓、六番知行取組、右の 貸米三月中ニあい渡すべき事」、身分の低い 方から渡されているようである。 以下に知行取、諸切米取、供廻の中間、貸米の条項 として、蔵016、蔵017、蔵018があるも、省略する。 蔵019、「知行取物成米渡ス手形、表判は勘定奉行、 裏判はその与頭仕まつりあい渡すべし、右 の物成米、七月・十月・霜月・極月、四度 に残らずあい渡すべし、附たり、春貸米手 形、右同前の事」 蔵023、「大蔵ニて毎月渡す扶持方の手形、月々ニ勘 定所ニて下算用、仕まつり、勘定奉行所の 手形を取替え、重ねて清勘定究め申すべく そうろう事」 蔵026、「大蔵鼠食い、毎年能き時分に念を入れ改め、 俵数残らず斗立てあい定むべし、右の節、 勘定奉行・大目付・足軽横目。指し加え、 あい改むべき事」 蔵028、「町人手前より百姓米買い、大蔵ニて立て用 い差し引き、堅く停止せしむ事、但し、家 中諸奉公人と相対、仕まつり、町人手前ぇ 米買い取りそうろう時は苦しからざる事」、 この条項の趣旨は百姓が町人から米を買い、 大蔵での納入に利用することは禁止である。 しかし個別に家中諸奉公人と相談して、扶 持米手形を購入し、入手するのは構わない、 という事であって、取引の相手が家中の者 であるならば認めよう、と解してよいであ ろう。 蔵030、「小物成米請け取り、別帳に仕まつり、置く べき事」 蔵032、「両蔵初納より、納め米の員数、毎日書き付 け、月番方ぇ、蔵横目より、指し上ぐべき 事」 定帳第六蔵の部は、条項数こそそれほど多くない が、数値の正確な把握に尽くしている様相がわかる。 江戸期というと、何か数量的に正確さの把握に欠けて いるような印象をもたれるであろうけれど、17世紀は 「和算」の全国的普及の時代であったことを思い起こ したいものである。また実務としての日常的な商取引 は正確な計算能力向上への意欲を刺激するものであっ た。
G 第七 買物の部から見える家中統制
買001、「大坂ニて万買物調えの儀、倉橋屋又左衛門 これを申し付ける、但し、万買物三歩口銭、 あい渡すべき事」、三歩つまり⚓%の口銭が 買物窓口であった倉橋屋の収入となった。 買002、「色々入れ札ニて払いそうろう時、横目の者 立ち合い、落札の値段、その役者より前簾 代金銀員数ならびに日限の書き付け、請け 取り、奉行方ぇ書付遣わシ、請け取らせ、 申すべき事」、買い物にかんする様々な情報 を、立ち合いの監察役である横目から逐一 の情報として上申される情報ネットワーク が形成されている事が分かるとともに、不 正の起こらないようにに努力している。 買003、「万買物入れ札金子五、六十両の内ハ、当町 ニても申し付くべくそうろう、百両より上 ハ宮・桑名・名古屋、此の外、方々へ申し 遣わし、札入れさせ申すべくそうろう、尤 も、入れ札申し付けそうろう時、目録の札 書きよう・札主の改めよう、請人以下、色々 子細共これ有るべくそうろう間、その役者 共、念を入れ申しつくべくそうろう、右無 念(不念の書き間違いカ)ニ仕まつり、目 録の書き様、悪しくそうろう歟、また好み 悪しき儀そうらわハヽ、其の奉行、越度た るべきの事」、情報を正確に文字化書・書類化する作法が求められている。 買004、「年中時分々々ニ買い置き然るべき物、その 役者々々ニ申し渡し、調わせと と の わ せ、申すべき事、 附けたり、瓦の儀、不断(普段ふ だ ん)五千・七 千宛、焼かせ置き、申すべき事」、附けたり の、瓦は製造に時間が必要なので、あらか じめ作らせておこう、という意図からであ ろう。 買005、「堤篭竹、入るところ(必要場所)これ有る ニおいてハ、普請奉行・破損奉行、月番ぇ 相談致し、調え、申すべくそうろう、但し、 入らざる時分(不必要な場合)ハ、無用た るべき事」、適正な数量の準備ということで あろう。 買006、「万買物仕まつりそうらわハヽ、申し付けそ うろう者より手形認め、則ち、その者の表 判・賄い奉行裏判。を以て、その品々、横 目の者立ち合い、これを調わせ、あい渡す べし、尤も、代金銀渡しそうらわハヽ、請 け取り手形、取るべき事、但し、帳面の金 銀、惣都合の所ニ、黒印を取り、申すべき 事」、これまでの引用において、しばしば見 られているように、現代日本社会でも必要 不可欠な、確認のための印判を押すという 事が要件として求められている