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英医ウィリアム・ウイリスについて

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Academic year: 2021

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英医ウィリアム・ウイリスについて

著者

鮫島 近二

雑誌名

鹿児島大学医学雑誌=Medical journal of

Kagoshima University

47

Suppl. 1

ページ

33-37

別言語のタイトル

British Medical Doctor, William Willis

(2)

英 医 ウ ィ リア ム ・ウ イ リス に つ い て

鮫 島 近 二 眼科 医 ・ウ ィリス研究の先駆者

British

Medical

Doctor, William

Willis

Kinji SAMESHIMA M.D.

Ophthalmologist, A pioneer of the study of Dr. William Willis

今 般,私 は 鹿 大 医 学 部 の 招 きに応 じて16年 振 りに帰 省 して,懐 しい 故 山の 風 物 に接 し,又 今 日 は敬 愛 す る 来 賓 先 輩 並 びに 知 友 各 位 の 面 前 で,私 が 多 年 研 究 致 し ま した ウ イ リス博 士 の 御 話 を致 す 事 は,本 懐 の 至 りで 且 つ 一 生 の悦 び と致 す 処 で あ ります. ウ イ リス に 就 て は,先 程 佐 藤 八 郎 先 生 が 式 辞 に述 べ て居 られ る し,又 本 日配 布 の ウ イ リス 略伝 も,昨 年 秋,原 稿 を見 て呉 れ と云 う事 で 拝 見 致 しま した.中 々立 派 な もので あ ります か ら,私 が 蛇 足 を添 へ る必 要 もあ りませ んが,乞 わ る る ま ま,今 迄 余 り発 表 しな か った 秘 話,こ ぼれ 話 と申 しま し ょうか,裏 話 と 申 しま し ょ うか,そ れ を3,40分 に 亘 り御 話 致 した い と思 ひ ます. 私 が ウイ リス の研 究 を思 ひ立 った 動 機 は,昭 和8年5月,私 は 重 い 腎臓 炎 に か か り,徒 然 な る ま ま,昭 和8年6月 発 行 の 『文芸 春 秋 』 の 随 筆欄 に,入 沢 達 吉 先 生 の 「相 良 知 安 翁 の 功 績 」 と云 う題 の 随 筆 を読 み,日 本 の 医 学 を独 乙風 医 学 に転換 し様 と し,当 時 東 京 医 学 長 兼 大 病 院 長 で あ った ウ イ リス の 処 置 を 大 西 郷 に 依 頼 し,大 西 郷 は快 諾 して ウ イ リス を 鹿 児 島 に連 れ て行 っ た,そ の経 緯 が 書 い て あ った の で あ ります.ウ イ リス の 名 は,私 が 少 年 時 代,今,名 山小 学 校 の あ る鹿 児 島 師範 附属 小 学 校 に生 徒 の 頃,先 生 に連 れ られ て,城 山 公 園 に ウ イ リス の 記 念 碑 を見 て,ウ イ リ スの 名 前 を 知 っ て居 た.又,私 の 中学 時代,ウ イ リス の 遺 児 ア ルバ ー ト氏 が,母 堂 の江 夏 八重 子 さん と相 携 へ て鹿 児 島 を訪 問 し,父 の 門 下生 が,磯 の風 景 楼 で盛 ん な 歓 迎 会 を催 した 事 を記 憶 して 居 る の で,ウ イ リス が 英 国 の 医 師 で あ る 位 は知 っ て居 た の で あ ります.然 し,ウ イ リス に就 て は,無 知 で あ りま した の で,少 し調 べ て 見 た い と云 う念 が 起 っ た の で あ ります.こ れ が,私 の ウ イ リス研 究 に 手 を 染 め た 動 機 で あ ります.そ こで,富 士 川先 生 の 『日本 医 学 史』 を繙く に,ウ イ リス の事 は,数 ペ ー ジ位 書 い て あ り ま した.そ れ で ウ イ リス の ア ウ トラ イ ンを知 る事 が 出 来 ま した.当 時 私 は,芝 の 田村 町 で 開 業 致 して居 りま した.茲 に お 出 で の樋 口 先 生 の 樋 口 病 院 と同 じ町 で,目 と鼻 との 間 に あ る近 距 離 の 処 で した.そ こ か ら 程 近 い 日比 谷 図 書 館 や,東 京 大 学 の 明 治 文 庫 等 の,明 治維 新前 後 の文 献 を 手 当 り次 第 に 漁 りま した.そ して そ の 第 一 声 を,昭 和9年11月 の 日本 医 史学 会 で 発 表 し,入 沢,富 士 川 両 先生 を初 め,先 輩 各位 の 追 加 や 激 励 の辞 が あ りま した. 記念式典 に於いて講演する筆 者

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〔34〕 鹿 児 島 大 学 医 学 雑 誌 第47巻 補冊1平 成7年8月 都 合 の 良 い 事 に は,昭 和10年4月,鹿 児 島 県 史編 輯 所 が 丸 ビ ル に設 け られ た の で,私 はそ こ に通 っ て 鹿 児 島 方 面 の資 料 を漁 りま した.岩 村 家 の丁 丑 日記,又 は忠 義 公年 表等 で,鹿 児 島 方 面 の ウ イ リス の 事 を知 る事 が 出 来 ま した.昭 和10 年9月 に,日 本 医 史学 会 で 第2回 目の 発 表 を致 し ま した.そ の後 ウ イ リス に関 す る 史料 は,断 簡 零 墨 と雖も 保 存 致 しま して,又 写 真 も集 め ま したが,昭 和20年3月,強 制疎 開 を喰 っ て移 転 の 際,紛 失 した もの もあ り ま した.そ して 明治 文 化 研 究 会,汲 泉 社,薩 藩 史研 究 会 や雑 誌 で 発 表 致 し ま したが,昭 和12年 に入 り,我 が 国 は戦 争 に 突 入 し,雑 誌 の方 は, 紙 の 配 給 が 窮 屈 に な りま した の で,か か る不 急 の 記事 は載 せ て呉 れ ん様 に な りま した. 私 は,ウ イ リス が足 跡 を 印 した 処,即 ち,鹿 児 島,東 京 は勿 論,京 都,横 浜,新 潟,会 津 若 松,遠 くは ロ ン ドン,バ ンコ ック迄 も訪 ね ま した.つ ま り,手 で 書 くの で な く,足 で書 い たの で あ りま した. 前 置 が 長 くな り ま した が,ウ イ リス と云 う人 は,筆 不 精 で あ っ たか,或 い は多 忙 の た め か,シ ー ボル トや ポ ンペ 等 が, 日本 に 関す る大 きな 著作 が あ ります の に,そ う云 う著 作 は あ りませ ん.只,専 門書 と して,鹿 児 島 時 代 に 『黴毒 新 論 』 が あ ります.こ れ は,こ この 県 立 図 書 館 に所 蔵 して 居 ります.も う一 つ は,東 京 時 代 に『 薬 範 』 と云 う本 で,こ れ は 本 郷 の順 天 堂大 学 の 本 院 で あ っ た 佐 倉 の 順 天 堂 病 院 長 の 佐 藤恒 二 と云 う先 生 が,先 年 私 へ,端 本 で あ るが 進 呈 す る と云 っ て寄 贈 下 さっ た の で,薬 物 の 本 で,三 冊 の 内 下 巻 だけ で あ る.そ の他,鹿 児 島 時代,化 学 に 関 す る本 が あ る と 聞 い て居 り ます が,よ く知 り ませ ん.東 京 時 代,及 び鹿 児 島時 代 の 「日講紀 聞」 が 沢 山 あ り ます が,こ れ は著 作 と は云 へ な い で し ょ う. ウ イ リス が 脚 光 を浴 びた の は,戊 辰 の役,鳥 羽 伏 見 の 戦 争 以 後 の事 で あ り ま して,そ の 以 前,横 浜 時代 の 事 は余 りよ く分 り ませ ん で した が,ウ イ リ スの 親 友,ア ー ネ ス ト ・サ トー(日 本 人 み た い な 名 前 で す が)の 著 書,直 訳 す れ ば, 『日本 に於 け る一 外 交 官 』 で知 る事 が 出 来 ま した.こ の本 は,サ トーが 日本 に着 任 の,文 久2年 か ら明 治2年 の 賜 暇 帰 国す る迄,6年 間 の 日本 の 事 を 日記 に基 い て書 い た もの で,こ れ に は3種 類 あ り ます.其 一 は,文 部 省 維 新 史 料 編 纂 事 務 局訳 編 で,書 名 は,『 維 新 日本外 交 秘 録 』 昭 和13年3月 発 行,孝 明 天 皇 が 毒 殺 され た とか,色 々 の 処 が カ ッ トし て あ り ます.其 二 は,塩 尻 清 市 氏 訳 『幕 末 維 新 回想 記 』 と云 ひ,昭 和18年8月,日 本 評 論社 か ら発 行.其 三 は,坂 田 精 一 氏 訳『 一 外 交 官 の 見 た 明 治 維 新 』 と云 ひ,昭 和35年9月,岩 波 書 店 か ら発 行 され て居 る. 私 の研 究 して 居 た 頃 は,未 だ訳 本 が な か っ た ので,原 書 に よる 外 な か っ た の で あ り ます.サ トー は,親 薩 摩 で,書 中 到 る処 サ ツ マ 藩 士 の 名 前 が 出 て 参 りま して,(サ トー は 日本 名 を 「薩 道 」 と云 ひ,サツ マ との親 近 感 が あ っ た 様 で す) この 本 で 非常 に 啓 発 され ま した. 英 国 の ア イル ラ ン ドは 南 北 に分 れ,南 部 は独 立 して ア イル ラ ン ド共 和 国 とな っ て居 る.北 部 は英 領 で あ っ て,ウ イ リ ス は1837年,我 が 天 保8年,英 領 ア イ ル ラ ン ド,フ ェ ルマ ナ ー 州 の フ ロ ー レ ンス 街 に生 れ た.ウ イ リス の 遺 児 ア ル バ ー トが,昭 和17年 私 に 寄 せ られ た ウ イ リ ス の家 族 書 き に よれ ば,ウ ィ リア ム ・ウ イ リス は,3人 兄 弟 の 末 弟 で,長 兄 は, James A. Willis.次 兄George Willis.3番 目,William Willisで,ウ イ リス に は,Dr. George Owen Willisと 云 う 子 供 が あ っ た.Albert Willisに よれ ば,half brother to me by another mother即 ち異 母 兄 で,医 師 で あ っ て,ア メ リカ の カ リフ ォル ニ ア,Glass Valleyに 行 っ て53才 で死 ん だ.そ の 後 の事 は 分 らぬ と書 い て あ りま した.私 は,昭 和38年 か ら39年 に か け て,カ リ フ ォ ルニ ア に半 年 行 って 居 り ま した か ら,調 べ て 見 ま した が,分 りませ ん で した.昭 和 10年,天 長 節 の 日,三 田 村 ス エ 子 さん と云 う老 婦 人 を訪 ね た.夫 人 は,ウ イ リス の 高弟 で あ っ た 三 田 村 一 氏 の弟 の 三 田 村 敏 行 と云 う医 者 で,鹿 児 島 医 学 校 に勤 務 した 人 の 未 亡 人 で,東 京 大 学 教 授 で あ っ た 三 田村 篤 志 郎 氏 の 叔 母 さ ん に 当 る 人 で,三 田村 氏 の紹 介 で 訪 問 致 し ま した.鹿 児 島 市 の 出 身 で,ウ イ リス の近 くに住 ん で,ウ イ リス夫 妻 とは特 に親交 あ っ た そ うで,そ の 話 に,ウ イ リス にはGeorgeと 云 う男 の 児 が あ りま して,当 時12・3才,混 血 児 で は な く,ウ イ リス が 英 国 に居 る 時 出 来 た子 供 と聞 い て 居 ります,と の 事 で した が,こ の家 族 書 と一 致 して居 り ます.こ れ に就 い て,面 白 い 話 が あ ります.昭 和26年5月 頃,米 駐 留 軍 軍 隊 情 報 部 に 勤務 して居 た 山 口清 隆 と云 う未 知 の 人 か ら,一 通 の 手 紙 が 舞 ひ 込 み ま した.文 面 に よれ ば,自 分 と同 じ処 にW.ウ イ リス少 佐 と云 うア メ リカ の 軍 人 が い る.そ の 人 が,何 か の 本 で ウ イ リス と云 う英 国 の 医者 が 日本 に 来 て,日 本 の 医 学 教 育 に非 常 に貢 献 した そ う だが,ヒ ョ ッ トす る と 自分 の 親 戚 か も知 れぬ,誰 か ウ イ リス の事 を よ く調 べ て 居 る人 は な い か と,方 々 聞 き合 わせ た処,あ な たが 一 番 よ く知 って 居 られ る相 だ か ら,話 を 聞 きた い と云 うか ら一 度 逢 って 呉 れ な い か,東 京 大 学 の小 川博 士 の 紹 介 状 を持 っ て居 る との 事 で した か ら, 私 は来 訪 の 日時 を指 定 して返 事 を出 し ま した ら,そ の 時刻 に,こ こ に御 出で の 小 川 先 生 の紹 介 状 を持 っ て 参 りま した. 見 るか ら に,6尺 豊 か の偉 丈 夫 で,ウ イ リス の 孫 か も知 れぬ と興 味 を持 って 居 りま した.色 々話 して や りま した 処,自 分 は歴 史 の事 は余 り よ く知 らな い が,国 の オ ヤ ヂ に 通 知 して 聞い て見 様 との事 で した が,後 日,親 戚 で は な い 事 が 分 り ま した. ウ イ リス は,1859年(安 政6年)エ ヂ ンバ ラ大学 を卒 業 して,直 ち に ロ ン ドンの ミ ドルセ ッ ク ス病 院 に 勤 務 した と あ

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るが,ど の 位 居 た か 不 明 で あ るか ら,私 は 昭和10年 に そ の病 院 に照 会状 を発 した 処,1859年5月19日 か ら18ケ 月 間 ,1 年 半,Physician's Pupil直 訳 す れ ば,医 生,医 局 員 と して勤 務 した とあ ります.私 は,一 昨 年8月 ロ ン ドン に 行 っ た 時 分,こ の 病 院 を訪 問 致 しま した.こ の 病 院で,The History of the Hospitalと 云 う本 を呉 れ ま した.こ れ に よ る と, この 病 院 は,200余 年 前 の1746年 に創 立 され た もの で,ウ イ リス は100余 年前 この 病 院 で 医 学 修 業 して,文 久 元 年 英 国公 使 館 附 医 官 と して 日本 に 来 朝 した の で あ る.時 の 英 国 公 使 は オ ー ル コ ッ クで,間 も な くパ ー ク ス が 代 っ た の で あ る. 『 近 世 名 医 伝 』 に は,ウ イ リスの 来 朝 を慶 応 元 年 と書 い て あ ります が,こ れ は誤 りで,文 久 元 年 が 正 しい の で す. ウイ リス と鹿 児 島 との 関係 は,生 麦 事 件 か ら始 ま る.文 久2年 の生 麦 事 件 に は,ウ イ リス は真 先 に馳 け つ け て 負 傷 者 の 手 当 を して居 る.文 久3年 の 薩 英 戦 争 に は,外 輪 船 ア ー ガ ス号 に乗 り込 ん で鹿 児 島 湾 に来 て 居 る.そ の 後 薩 英 は仲 直 り して 非常 に よい仲 とな っ た.(サ ツマ か ら も英 国へ 留 学 生 を送 り,又 英 国 か ら もサ ツマ に文 明 の 利 器 を提 供 した り し て,非 常 な 親 善 な 関係 に な り ま した.)斯 う考 へ る と,生 麦 事 件 や 薩 英 戦 争 は サ ツマ に 目を 明 か し て 呉 れ た も の と 私 は 考 へ ます.そ れ で,慶 応2年6月 に は パ ー クス 夫 妻 及 び キ ュ ーバ 提 督 一 行 を鹿 児 島 に招 待 して,非 常 な歓 待 を した.そ の 時 ウ イ リス も随 員 と して鹿 児 島 に上 陸 して い る.徳 富蘇 峯 翁 の近 世 日本 国民 史 に よれ ば,サ ツマ 方 の饗 応 に は 料 理 が 凡 そ40品,三 鞭 酒,日 本 酒,麦 酒 等 を供 し,頗 る 鄭重 を極 め た.そ の時 刻 は約5時 間 を 費 した と書 い て あ る.か か る御 馳 走 は徳 川 将 軍 家 に もな か っ た で あ ろ う と思 ひ ます.作 家 の獅 子 文 六 氏 の 海 軍 と云 う作 品 に,40品 の 事 が 書 い て あ りま す が,蘇 峯 翁 の近 世 日本 国民 史 か ら引用 され た もの と思 ひ ます. そ の席 上,パ ー クス はサ ツ マ の家 老 喜 入摂 津 に 向 っ て,突 然,「 あ の桜 島 を英 国 に 譲 って 下 さる 訳 に は 参 り ま す まい か」 と云 う 申入 れ を した.こ れ こ そ英 国 の恐 れ るべ き東 洋 侵 蝕 の奥 の 手 で あ った.そ の 時,喜 入 摂 津 は に っ こ り と笑 ひ なが ら,極 め て 鷹 揚 な態 度 で パ ー ク ス に 向 っ て,「 そ れ はい とお や す い こ とで ご ざる.御 所 望 とあ れ ば い か に もお 譲 り 申 さ う」 と何 気 な き体 で 云 っ た の で あ る.更 に か わ らず に っ こ り笑 ひ なが ら,「 しか し閣 下,あ の 島 を 英 国 まで お 運 び に な る に は さぞ 大 きな船 が 要 りま し ょ うな …」 と云 っ てパ ー ク スの 顔 をの ぞ き こ ん だ,と 中 田 千 畝 氏 の 『日本 外交 秘 話」 と云 う本 に書 い て あ ります.家 老 と して は,パ ー ク ス の こ の無 法 な 申入 れ を正 面 か ら拒 絶 す れ ば,折 角 の 招 待 の座 が 白 け て しま うの で,こ れ を一 つ揶揄 してや るが よい と云 う気 に な って,一 旦 は 公 使 の 申入 れ を す な ほ に 聞 き入 れ てや り, 最 後 に巧 妙 な手 で 見 事 な背 負 投 を喰 わせ た の で あ る.(流 石 の パ ー ク ス も家 老 の軽 妙 老 練 な る外 交 手 腕 に は ま ゐ っ て し ま い,そ の ま ま引 き さが る よ り仕 方 が な か っ た.)喜 入 摂 津 が不 用意 に も桜 島 を英 国 に 売 払 っ た ら,今 頃 は 鹿 児 島 市 は 香 港 の九 竜 み たい で,英 領 に な っ て居 た か も知 れ ませ ぬ.思 へ ば慄然 と致 します. 慶 応4年 正 月,鳥 羽 伏 見 の戦 争 が 始 ま り,京 都 の相 国寺 内の 養 源 院 に薩 藩 病 院 を設 け,ウ イ リス を して治療 せ しめ た. 西 郷 慎 悟(後 の 従 道,頚 部 の 負 傷)も 治 療 を受 け た一 人 で あ る.途 中,警 護 に当 っ た隊 長 は,野 津 七左 衛 門(野 津 元 帥 の兄,後 陸 軍 中尉),隊 員 に は 日本 海 々戦 の 勇 将,上 村 彦 之 丞(後 海軍 大 将)も 居 りま した.私 は 養 源 院 を3回 訪 問 致 しま した.第1回 は昭 和17年,第2回 は 昭和34年,第3回 は昨 年 の 昭 和42年 で,住 職 の平 塚 氏 と も よ く知 る様 に な り ま した.薩 藩 の 負 傷 兵 が 徒 然 な る ま ま に 刀 で柱 に斬 りつ け た刀 痕 が5本 の 柱 に残 っ て居 る. 4月13日 に は横 浜 に軍 陣 病 院が 設 け られ,ウ イ リス が治 療 に 当 って 居 る.最 初 に,芝 の赤 羽 根 の 有 馬 上 屋 敷 に病 院 を 建 てて 治 療 す る筈 で あ っ たが,横 浜 の英 国 公使 館 で病 気 中 のパ ー ク スの 伜 を治 療 して居 た の で,江 戸 に行 く事 は 困 難 で あ っ た事 や 当時 副 領 事 で あ っ た の で,横 浜 を去 る事 が 出 来 な か っ た等 で,横 浜 野 毛 町 に 軍 陣 病 院 を設 け る様 に な っ た の で あ ります.ウ イ リス の外,シ トル,ゼ ンケ ン,ド ン グ リー等 の外 人医 師 も勤 務 して居 る.こ の 病 院 は,仮 病 院,横 浜 病 院,養 生 所,修 文 館,野 戦 病 院,天 朝 病 院等 の 異 名 が あ る. こ の病 院 の 日記 が 先 年 東 大 医学 部 の小 使 室 の棚 か ら偶然 発 見 さ れ,そ の写 本 を私 は秘 蔵 して 居 る.非 常 に 貴 重 な文 献 で あ る.官 軍 の病 院 で あ るが,サ ツ マ の 負傷 兵 が 主 で あ る.試 み に,薩 藩 士 の入 院患 者 で 後 年 名 を な した 人 々 を挙 ぐれ ば,野 津 七 二(会 津 六 番 隊 長,後 元 帥 道 貫)5月2日 入 院,6月9日 退 院,上 村 彦 之 丞(日 本 海 の 勇 将)5月16日 入院 7月18日 退 院,黒 田才 蔵(後 鹿 児 島 県 師 範 学 校 長 とな っ た.)5月17日 入 院,10月17日 退 院,山 本 英 輔 大 将 の 先 考,山 本吉 蔵. 直 木 の 『南 国 太平 記 』 で 活 躍 した快 男 児 で,西 郷,勝,の 両雄 の会 見 の橋 渡 した 益 満 休 之 助 は,5月15日 上 野 の 彰 義 隊 の 戦争 に黒 門前 で負 傷 して 入 院 した が,病 室 の 採 光 が 悪 い の で,気 分 の好 い 日に 是 非 と云 って 病 室 の 移転 を希 望 した. 丁 度折 悪 く,当 日は大 雨 に も拘 らず 担 架 に被 ひ もせ ず 運 ん だ た め,傷 口 か ら黴菌 が這 入 って 化 膿 して,こ の た め28才 を 一 期 と して5月22日 夕7時 死 亡 ,中 村半次郎,後 の桐野利秋は5月19日 入 院,8月21日 退 院.関 寛 斎 の 『戊 辰 役 軍 陣 病 院 日記 』 に よれ ば,半 次 郎 は5月21日 ウ イ リス の 手 術 を受 け て,刀 傷 右 掌 右 指 を切 断 す とあ り,私 が何 処 か の 図 書 館 で 見 た本 に,西 郷 以 下 の屍 体 検 案 書 に は 半 次 郎 は右 指 で な く,左 中 指 旧切 痕 とあ っ た.何 れ が 真 か 分 り ませ ん.誰 か教 へ て い た だ きた い.序 で に 申 上 げ ます が,そ の 屍 体 検 案 書 に,西 郷 と桐 野 の睾 丸 は 大 きい.私 学 校 幹 部 の 睾 丸 は大 きい.

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〔36〕 鹿 児 島 大 学 医 学 雑 誌 第47巻 補冊1平 成7年8月 最 後 に鹿 児 島 県 人 の睾 丸 は 一般 に 大 な り.こ れ焼 酎 を飲 む た め也,と 書 い て あ っ た事 を記 憶 して 居 る.セ ゴ ドンの ウキ ン タマ と云 へ ば有 名 な話 で あ る.(私 は こ の事 を郷 土 雑 誌 の 三 州雑 誌 に書 い た が,昭 和20年,強 制 疎 開 を命 ぜ られ,そ の 際 古 雑 誌 な ど は捨 て て し まい ま した.)話 が 睾 丸 の話 に飛 躍 致 しま した が,ウ イ リス は 東 北 戦 争 従 軍 の た め,8月20 日江 戸 を 出発 して高 田,柏 崎,新 潟 を経 て,新 発 田 で は10月5日 征 討 総 督 仁 和 寺 宮(後 の小 松 宮)に 謁 見 した記 事 が, 香 川 経 徳 の『 慶 応 戊 辰 北 越 従 軍 日記 』 と云 う本 に書 い て あ る.そ れ か ら会 津 若 松 に至 り,敵 味 方 の 区 別 な く負 傷 兵 を手 当 して居 る.謁 見 の 場 所,新 発 田 城 は今 は ど う な って 居 る か,新 発 田市 長 に本 日照 会 致 し ま した 処,自 衛 隊 の駐 屯 して 居 る 由.こ の 従 軍 記 を ウ イ リス はパ ー クス に報 告 し,パ ー クス か ら本 国政 府 に報 告 し,政 府 か ら英 国議 会 に報 告 し,議 会 か ら発 表 したBlue Bookが あ ります.Blue Bookに 対 して,White Bookな る政 府 が 発 表 す る も の が あ り ます.日 本 で も真 似 を して 経 済 白 書,厚 生 白書 と云 うが 如 きで す. ウイ リス の書 い た 従 軍 のMemorandumはBlue Bookと して英 国 議 会 か ら発 表 さ れ,私 は 仮 に 「東 北 戦 争 従 軍 記 」 と名付 け ま した.こ のBlue Bookは,昭 和17・8年 頃私 の友 人 の 某 大 学 の 経 済 史研 究 室 で偶 然 発 見 致 した もの で す が, 門 外 不 出 の 貴 重 本 で あ るた め,夜 陰 私 か に複 写 して私 に提 供 して 呉 れ ま した.既 に 翻 訳 を了 へ て 肉 と骨 とは 出 来 て 居 り ます が,未 だ 衣 裳 を着 せ られ ん の で そ の ま ま に な っ て居 ります.私 は これ を,ウ イ リス の 「東 北 戦 争 従 軍記 」 と銘 打 っ て 出 版 致 そ う と思 ひ ます.従 来 の資 料 で は,富 士 川 先 生 の『 日本 医 学 史』 初 め,そ の 他 の 文 献 に は,こ の 戦 争 で ウ イ リ ス が ア ンプ タチ オ ン を16回 行 っ た と書 い て あ ります が,ウ イ リス の 報告 に は,切 断 術 を行 う事38回,23個 の 銃 弾 を摘 出 し,200名 以 上 の患 者 の腐 骨 を切 除 した と書 い て あ ります か ら,本 人の 書 い た ものが 一 番 正 しい もの で,従 来 の 記 載 は 訂 正 す べ き もの と思 ひ ます. ウ イ リス は 明 治 元 年12月 に帰 京 して2年3月,東 京 の 医 学 校 長 兼 大 病 院 長 とな っ て 市 井 の 患 者 を診 療 し,又 学 生 に講 義 して クロ ロホ ル ム 麻 酔,支 肢 切 断術 を行 っ て,わ が 邦 外 科 学 の 発 達 に 貢 献 す る 事 大 で あ っ た.此 処 の 入 院 患 者 の 負 傷 兵 は気 が 荒 くて,枕 を投 げ た り等 乱 暴 す る もの です か ら,女 の 看 護 人 をつ け た ら優 し くな る だ ろ う と附 近 の 女 を集 め て 看護 せ しめ た 処,果 して 優 し くな っ た と云 う.こ の 中,気 の 利 い た 女 に杉 本 か ね と云 うの を,佐 藤 尚 中 が 順 天 堂 創 立 の 際 連 れ て 行 っ て 看 護 婦 と な し,後 に婦 長 とな した.之 が 日本 に於 け る 看 護婦 の最 初 で あ ろ う と思 い ます. ウイ リス は,明 治2年12月3日 附 の辞 令 で鹿 児 島 に赴 任 して い る.之 を太 陽 暦 に 換 算 す れ ば,明 治3年1月4日 で あ る.是 れ よ り先,明 治2年4月 に は ウ イ リス と共 に横 浜 軍 病 院 に働 い て居 た 英 医 シ トルの 雇 傭 方 を政 府 に 願 出 で,許 可 され,契 約 が 成 立 した が 実 際 に は着 任 しな か っ た. 鹿 児 島へ 赴 任 した ウ イ リス は,午 前 を診 療,午 後 を講 義 と した.学 生 は 本科 と別 科 と に分 れ,本 科 即 ち原 語 科 は正 科 と して英 語 を教 へ,原 書 で 講 義 した.別 科 は訳 語 科,簡 易 科 と も云 ひ,2年 修 業 で 多 くは医 者 の子 弟 で,実 地 研 究,調 剤 等 を教 へ,後 年 蘭 方 医 と云 っ た の は こ の 人達 の事 で あ った.こ れ は,高 木,三 田 村 氏 が 教 授 した 由 で,慈 恵 医 科 大 学 の創 設 者,高 木 先 生 は2年 位 ウ イ リス の 門下 に あ って,明 治5年 海 軍 に 入 り累進 して 海 軍 軍 医 総 監,男 爵 とな られ た. 同大 学 は我 が 国 唯 一 の 英 国 流 の 医 育 機 関で あ っ て,ウ イ リス の 亜流 を 汲 ん だ もの と云 っ て も差 支 へ な い と思 う. ウ イ リス が使 用 した あ の 赤 倉 は,私 は少 年 時 代 あ の 辺 を散 歩 致 し ま した か ら,よ く知 って 居 ります.昭 和14年 帰 省 の 折 り,所 有 者 の 藤 田 氏 を西 田 橋 の 近 くに訪 問 致 しま して,色 々話 を 聞 きま した.同 氏 に よれ ば,赤 倉 を 同氏 の 先 代 が 私 学 校 崩 れ の 三 州 義 塾 か ら購 入 して 質 屋 の 倉 庫 に使 用 した.私 は 同氏 の許 可 を得 て倉 の 内 に 這 入 りま したが,暗 くて 病 院 に使 っ た か ど うか,面 積 な ど測 りま したが,そ の 記 録 を紛 失 して あ りませ ん. 昭和18年10月,当 市 の 郷 土 史 家 の 池 田米 男 さ んが 来 訪 して の御 話 に,今 年1月 赤 倉 の煉 瓦 壁 破 壊 した と藤 田氏 が そ の 1個 を持 参 した.見 る に,小 根 占 と刻 して あ った か ら,大 隅 の小 根 占 に 関係 が あ る だ ろ う と思 って,二 中 の校 長,池 田 俊 彦 氏 に 聞 い た が,知 らぬ と云 う し,更 に小 根 占出 身 の 当 時 の 県会 議 長,坂 口壮 介 氏 に 聞 い た 処,小 根 占 に 「カ ラ ッパ 山」 と云 う のが あ り,英 人 の カ ラ ッパ が そ の 土 を採 取 して煉 瓦 を焼 い たか ら,そ の名 を とっ て カ ラ ッパ 山 と云 う との話 も,東 京 で 坂 口氏 に逢 ひ ま した か ら聞 き ま した 処,同 様 の話 で した.十 年 位 前,同 地 出 身 の代 議 士 で あ った 津 崎 尚武 氏 を訪 ね て 聞 きま した処,小 根 占 に 雄 川 と云 う川 が あ る,そ の河 口で 昔 煉 瓦 を焼 い た と云 う話 で あ った との事,こ の カ ラ ッ パ と云 う は,慶 応 元 年3月,森 右 永 等 留 学 生 一 行15名 を 串木 野 羽 島か ら,英 人 貿 易 商 グ ラ ヴ ァー の 所 有 船 で 出発 した記 録 が あ ります か ら,あ の赤 倉 は 慶応1,2年 の 頃 建 て た もの と想 像 され ます.そ の ガ ラ ッパ は,今 長 崎 で 名 所 の 一 つ に 数 へ られ て 居 る グ ラバ ー邸 の グ ラバ ー で あ ります.私 は先 月の 末,小 根 占町 長 に照 会 致 しま した処,慶 応 元 年,藩 主 島 津 忠 義 が 藩 士 園 田清 吉 に命 じて,小 根 占 郷 の 川北 須 崎 に煉 瓦 製 造 所 を設 け て,煉 瓦 を焼 か した と云 う返事 で あ りま した. ウ イ リス は,明 治8年 一 旦 帰 国 して,9年 再 来致 して居 りま した.そ の折,大 西 郷 か ら ウイ リス にサ ツマ焼 陶器 を贈 っ て 居 ります.そ れ が,林 権 助 さん が駐 英 大使 時代 の大 正11年 に,ロ ン ドンで 売 りに 出 て い た の を買 わ れ,日 本 に 持 って 帰 られ た.私 はそ れ を,昭 和15年 に林 家 の 当 主林 安 氏 か ら見 せ て貰 ひ ま した.そ の 薩 摩焼 は,バ ス ケ ッ ト状 をな した 把

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柄 が つ い て い る菓 子 鉢 と,ウ イ リス 自筆 の 由来 書 が あ りま した.そ れ に よる と,大 西 郷 が 藩 主 か ら頂 戴 した もの で,数 百 年 前 に焼 い た もの で あ る,と 林 権 助 さん の箱 書 もあ りま した.こ れ は 今 度 の 戦 災 で 皆 焼 け た そ うで す. ウ イ リス は,御 土 産 と して 大 西 郷 に金 時 計 を贈 っ て居 ります.そ れ は 今,市 来 家 にあ ります.昭 和27年 帰 省 の折,市 来 政 敏 さん に逢 ひ ま した.そ の 時 計 は,家 宝 と して息 子 正 武 氏 が 東 京 に持 っ て 行 って 居 る との事,私 は 東 京 で そ の時 計 を,正 武 さん が 持 って 来 て 見 せ て 呉 れ ま した.大 形 の 懐 中時 計 で,鍵 巻 と政敏 さん の 箱 書 が つ い て居 ります.そ れ に よ る と,南 州 翁 が10年 役 に携 帯 され た が,戦 半 ば に不 便 を感 じ,本 営 附 で 始 終 翁 に 随 行 した 甥 の市 来宗 介 が,米 国 か ら持 ち帰 った 小 形 金 時 計 と陣 中 で 交 換 され た.宗 介(翁 の 妹 の 子)は,城 山 陥 落 まで この 時 計 を使 用 した が,身 辺 危 きに 臨 ん で 翁 と相 前 後 して 戦 死 す る間 際,城 山洞 窟 に於 て 急 に遺 族 へ の 形 身 と して従 卒 末 吉 兄 弟 へ 托 した が,一 人 は尻 へ 挟 み て褌 で 堅 く体 に締 め付 け,辛 ふ じて 城 山 を脱 出 して,二 人 は 遠 く遺族 の避 難 した 県 下 日置 郡 東 市 来村 に訪 ねて 手渡 した. 之 れ が,今 日迄 市 来 家 に伝 わ り,代 々秘 蔵 して 居 る とい うの で あ り ます. そ の 他,ウ イ リス が 江 夏 八 重 子 さ ん との 結 婚 確 認 証 等 あ ります. (昭 和43年4月21日,鹿 児 島 大 学 医 学 部 開学25周 年 記 念,鹿 児 島 西 洋 医学 開 講 百 年 記 念 式 典 に お け る記 念 講 演)

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