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『源氏物語』における高麗人――「桐壺」巻の予言と相人――

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はじめに

「源氏物語」

における高麗人

ー「桐壺」巻の予言と相人

「源氏物語 j の「桐壺」巻における高麗の相人の予言が、 物語 の全体に大きな影響を与えていることは周知のとおりである。 そ の予言者として登場する「こまうど」に関する研究も、『河海 抄 j の考証的な研究以来進んで来たものの、『源氏物語 j の創作当時 の歴史的事実と、 物梧の舞台としての延喜・天暦時代のそれとの ずれから、 渤海国人、 高麗国人そして中国をイメージした外国人 といった諸説が提出されている。 このような「高罷人」の正体を探る諸説の再検討の中で、 まず、 高麓人は誰か、 または誰をイメージして書いたかを考察するにあ たり、 高麗人を 登場させた原因の一っとして挙げられる王権継 承 と外国からの相人との関係について述べていきたい。『文徳実録 j などに渤海国の使による観相の例もよく見え、 特に「大津皇子」 の新羅俯行心による観相の例は、 光源氏の王権継承の問題と関連 していると思われる。 それから、 予言の実現においても、「澪標」巻で明石の上が懐 妊した時に源氏が「相人のことむなしからず」と言ったのは、 「桐壺」巻の高麗人 の予言に対する感懐であり、「宿世遠かりけ り」と言ったのは王権継承と関わりがあることとして注目したい 「桐壺」巻の予言が王権継承談であるならば、 予言者として登 場する「高麗人」に与えられた政治性 は、 それほど大きいことと 思われる。本稿では、 以上のような点に璽点をおき、「桐壺」巻 の予言の政治性とそれに伴う高麓の相人の役割について考えて み た い。 「桐壺」巻で高麗の相人が登場する場而は次のようである 。 そのころ、 高麗人の参れるなかに、 かしこき相人ありけるを きこしめして、 宮の内に召さむことは、 宇多の帝の御誡あれ ば、 いみじう忍ぴて、 この御子を鴻腿館につかはしたり。 後見だちてつかうまつる右大弁の子のやうに思はせて率て

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{l) てまつるに、 とあり、 その高麗人は源氏を見て、 相人おどろきて、 あまたた ぴ傾きあやしぶ。「国の親となり て、 帝王の上なき位にのぽるぺき相おはします人の、 そなた にて見れば、 乱れ憂ふることやあらむ。 おほやけのかためと なりて、 天下を輔く るかたにて 見れば、 またそ の相違ふべ し」と言ふ。弁もいとオかしこき博士にて、 言ひかはしたる ことどもなむ、 いと典ありける。文など作りかはして、 今日 明日焔り去りなむとするに、 かくありがたき人に対而したる よろこぴ、 かへりては悲しかるぺき心ばへを、 おもしろく作 りたるに、 御子もいとあはれなる句を作りたまへるを、 限り なうめでたてまつりて、 いみじき贈り物どもを捧げたてまつ 。朝廷よりも多くの物賜はす。 物語はこの謎のような予言を解きながら展開していく。高麗人 は桐壺帝の最愛の妃の腹の皇子の運命を占い、 帝はその言葉を信 じ、 皇子を「源氏になしたてまつるべくおぽしおきてたり」に至 るのである。 帝はあらかじめ「かしこき御心に、 倭相をおほせて」内心思う ところもあったし、「宿曜のかしこき迫の 人に勘へさせ」ても同 じことを言っていたのだが、 決定的な判断は外国人の尚麓人の観 相に委ねたのである。 この「桐壺」巻の予言者として登場する「こまうど」に対して、 どこの誰かという論議は様々である。「高麗」に関する現在まで の説を通観してみると、 ①渤海説、 ②高麗国説、③中国に準拠し たという説があるし まず、①の渤海説は、 本居宜長「源氏物語玉の小櫛」にはじめ て現れ、 至上琢弥氏『源氏物語 j( 『日本古典鑑賞講座」第四巻)、 同「源氏物語評釈 J 田亀鑑氏「源氏物語事典 J (東京堂)、「B 本古典文学全集」本(小学館)、『日本古典集成」本(新潮社)が 渤海説を採っている。 ②高麗国説は文字通り高麗と解する説で、 山中裕氏が「平安朝 文学の史的研究」で詳細に展開している。 ③中国説は、 塚原鉄雄氏が「高麗相人と桐壺父帝」(「中古文 学j28)で述ぺている。 (-)まず「高脆人」が渤海国人だという説を見てみよう。 「源氏物語」注釈書の中で準拠という立場から解釈を下してい るものに「河海抄」がある。「桐壺」巻の 高麗の相人 に対して、 「河海芝は言代実録 j `の光孝天皇の例を引いている。•そのく だりを見れば、 嘉祥二年、 渤海国入観、 大使王文矩望見天皇在諸親王中拝起 之儀謂所親日、 此公子有至貨之相、 其登天位必癸、 復有善相 者藤原仲直、 其弟宗直侍奉藩宮、 仲直戒之曰、 君王骨法常為

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2) 天子、 汝勉事君王焉 と、 潜竜時代の光孝天皇を渤海国の使王文矩が観相した例をあげ、 また醍醐朝の 皇太子の保明親王の観相の件についても「大鏡勘 文」に、 古老偲云延喜御時異國相者参来天 皇御子簾中聞御墜云此人為 國主欺多上少下之葵也叶國骰云々 とあるのを引き、 異国の相人による観相の例として挙げている。 また本居宣長も『源氏物語天の小櫛」の中で、 延喜のころ参れるは、 みな渤 海国の使にて、 高麗にはあらざ れども、 渤海も、 高麗の末なれば、 皇国にては、 もといひな れたるま、に、 こまといへりし也、 宝亀八年に、 参れりし渤 海の使の事をも、 文徳実録一に、高麗国遣使と記されたり、 その時にかの大使、 橘消友の弱冠にてあるを見 て、 おどろき て、 骨法非常、 子孫大貰と相せし事あり、 はたして嵯峨皇大 ~3) 后を生奉れりき、 と述べて、 高麗とは渤海であるとしている。 なるほど六九八年か ら九二六年まで朝鮮半島の北部 に在った渤海国のことを「こま」 と呼称したのは間違いではないらしく、 また「古事記伝」三十之 巻「詞志比宮」上巻においても、 聖武天皇の御世、 神亀五年に、 渤海国と云より使を奉遣しま つろひ参れり、 此は嵩麗の別種にて、 姓は大と云、 高麗滅て 後、 其あたりの国を有 ち、 勢大なりし者なり、 からぶみ唐書 五代志などに伝あり、 皇朝に始めて参りし は、 大武芸と云し 王が時なりき、 其後相統きて、 今京になりて 9 延喜のころま (9) でも参れり、 そのかみ狛人と云しは、 此渤海国のことなり、 と説いている。 総合すると、 渤海は・「高麗の別種」で、 それを日 本では「もといひなれたる ま、」に「こま」と言っ た、 との主旨 である。このようにして「桐壺」巻の「こまうど」 を渤海人とす る説が成り立っている。 (二)次に「桐壺」巻の「こまうど」が「高麗国人」である可 能性を披渥したのは、, 山中裕氏である。氏の論旨の出発点は「源 氏物語 l が執紙された「寛弘」のころに、朝鮮半島では 半島を統 一した高麗国が健在したことからだと思われる。 なるほど、 歴史 上には九一八年(醍醐天皇、 延喜十八年)に新羅に代わって半島 を統一し、一三九二年 (後亀山天皇、 元中九年)まで国を保ち、 李氏朝鮮に代わった高脱国があ る。 山中裕氏は「平安朝文学の史 的研究」で、 この高麗国と日本 との交流について、「日本紀略」 の承平七年八月五日、 天脱二年三月十_日、 天延二年十月三十日、 「小右記」の長徳二年五月、 長徳三年六月十 1 二日、 寛仁三年九月 十九日の記録を挙げ、 延喜以降における高麗国との接触の記録を (S) -6) 掲出している。 しかし、 奥村恒哉氏も指摘されているように、 国の交流があ ったとしても、 これらの記録はあくまでも私的な交 流であり、 国家間に公的な交渉があったとは言いきれない。勿論 私的交流でも高麗国からの人を「こまうど」と呼んだり、 またそ

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の高麗国人が日本の高貨な人を観相した事実があったかも知れな い。ただ、記録上ないことと、私的交流だけでは「こまうど」を 論証するには無理があると思われる。 それに「源氏物語 j の研究において欠くことのできないものの ―っとして準拠の問題を考えなければならない。即ち、「源氏物 語」の描写時代が延喜・天暦期であって、作者の紫式部の生存時 期とはずれがあるとす る見解は、「河海抄」以来定説化されてい る 。 「桐壺」巻の高罷人と関連して準拠の問題を考える際、「鴻脳 館」に滞在していて、「文な ど作りかはし」たところに 注目しな ければ ならない。ここで「こまうど」の語あるいは「こまうど」 と「文など作りかはし」た話は、物語文学としては「源氏物語」 が二度目で、『宇津保物語 l に先樅がある。すなわち、「俊蔭」の 巻頭に、 (いまは)むかし式部大輔左大弁かけて消原の大君(ありけ り)。御子ばらにをの こ子一人もたり。その子こ、ろのさと きことかぎりな し。ち、は、‘「いと あやしきこ なり。お い、でむやうをみむ」と て、ふみもよま せず、 いひをしふる こともな くておほしたつる に、年にもあはず、たけたかく こヽろかしこし。七歳になるとし、ち、がこまうどにあふに、 このな、とせなるこ、 ちヽをもどきて、こまうど、ふみをつ くりかはしければ、 おほゃけきこしめして、「あやしうめづ らしきことなり 。 いかでこ A ろみむ」とおぽすほどに、十二 歳にてかうぶりし匁゜ とあるのがそれである。勿論、 紫式部が「宇津保物語」に精通し ていたことは、「源氏物語 j の「絵合」の巻に、 まづ、物語の出で来はじめの親なる竹取の翁に宇 津保 の俊蔭 を合はせあらそふ。 とあるのによって知れよう。また「宇津保物語」には「こまうど とふみ をつくりかはしければ」とあり、「桐 壺」では「文など作 りかは して」とあって、両者の 表現は酷似している。このあたり で準拠のことを考えてみると、少なくとも「宇津保物語」の「こ まうど」と「源氏物語」の「高麗人」とは、同じ発想で書かれた と考えられるのである。 鴻腿館で詩をとり交わした例としては「江談抄 j や『古今著聞 集」に見られる大江朝綱の説話がある。後者により本文をかかげ る。文学第五の一―二話「渤海の人大江朝桐が秀句に感涙を流す 事」に、 前途程遠 後会期遥 馳思於照山之夕雲 露櫻於鴻腿之暁涙 と、後江相公かきたるをみて、渤海の人感涙をながしける。 のちに本朝人にあ ひて、「江相公三公の位にのぼれりや」と 問ひけり。しからざるよし答けれぱ、「日本国は賢オをもち -8) ゐる国にはあ らざりけり」とぞはぢしめ ける。(「古今著聞

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集」巻第四) 付け加えれば、「日本紀略」に、 延喜八年六月。 某日、 渤海使装瑶来朝。 某日、 掌客使諸文士 於鴻脳館、 餞北客帰郷。 とあるので、 この事件は延喜八年のことと判定されている。右の ような点と合わせ て「高脱人」の正体を考える と、一高麗人」の 時代 は「宇津保物語」の創作時期以前に潮り、「源 氏物 語」の 「桐壺」巻の 高罷人」は、 延喜の頃に、 鴻臆館に来て、 日本の 貨族と文を作り交わした渤海国の使ということに絞られる。 (三)塚原鉄雄氏は「こまうど」について先進中国をイメージ したと見て次のように述べている。 嵩麗は、 中国ではない。 だが、 海彼先進の地域として、 中国 に準拠されたのであろう。 選居使が廃止 され、 中国本土との 直接的公式関係が途絶した時代である。 だから、 海彼先進を 代表する人物として、 高麗相人が登場するのであろう としての相人は、 典藉としての中国に相当する。前者は直接 であり、 後者は間接である。 ともに、 同質の次元に成立する。 中国も朝鮮も、「から」と呼称された。 その事実は、 このこ とを証明するであろう。 中国も朝鮮も から」と呼称された事を根拠にして、 このよう に「こまうど」を中国の人物と見る説につ いては、 疑問点がある。 「から という言葉が中国・韓国のどちらをも指して使われた ということには無理がないだろう。 しかしr源氏物語』では両国 の文物に関してはっきりとした区別が見られる。 音楽の記事を見ても、 宮廷の行事に左楽·右楽と分け、 左楽は 盾楽、 右楽は高脱楽と言って、 両国それぞれの独特の音楽の区別 があった。 「紅葉賀」の巻に 行幸には、 親王たちなど、 批に残る人なくつかふまつりたま へり。春宮もおはします。例の の船ども漕ぎめぐりて、 唐土高麗と尽くしたる舞ども、 種多かり。 とあって、 唐土・高麗の音楽が宮廷行事に演奏されたことがわか り、 同じく「紅葉賀」に次のようにも昔かれている。 垣代など、 殿上人、 地下も、 心異なりと世人に思はれたる有 職の限りととのへさせたまへり。宰相二人、 左衛門の督、 衛門の悟、 左右の楽のこと行ふ。拝の師どもなど` 世になべ てならぬを取りつつ、 おのおの籠りゐてなむ習ひける。 この ように、 左楽つまり唐楽と、 右楽つまり高麓楽とを分けて 行っており、 双方の音楽にははっきりとした区別があったのであ る。 またこの唐楽と高麗楽は左・右といった対立語からもわかる ように、 お互いに対立関係にあったらしく、「竹河」巻に、 右勝たせたまひぬ。「高麗の乱声おそしや 」など、 はやりか に言ふもあり。「右に心を寄せたて まつりて、 西の御前に寄 りてはべる木を、 左になして、 年ごろの御あらそひの、 かか

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れば、 ありつるぞかし」と、 右方はここちよげにはげましき こ ゆ ゜ とあることで 、「源氏物語」の時代には「高麗」と「唐土」を明 確に区別し、 それも対立的な意味をもつものとして受け取ってい たことが知られるのである。 . 「桐壺」巻の「高麗人」は、 単に先進中国をイメージしたので はなく、 朝鮮半島からの相人とい った規定の上で、「鴻腫館」で 「文をつくりかはし」た歴史的事実のある渤海国の使をイメージ した ものと思われる。 「桐壺」巻 の高麗の相人の予言内容を見てみよう。 国の親となりて、 帝王の上なき位にのぽるぺき相おはします 人の、 そなたにて見れば、 乱れ憂ふることやあらむ。 おほや けのかためとなりて、 天下を輔くるかたにて見れば、 またそ の相違ふぺし。 この予言の実現は、「藤巫葉」 巻の准太上天皇になる こととよく 言われるが、 この予言に対して源氏が自ら納得するのは、「澪標」 巻で明石に姫君が誕生した時、 宿曜の占いを思い出し、 また相人 の予言を「むなしからず」と思い起こすところである。 ' 宿曜に、「御子三人、 帝、 后かならず並ぴ て生まれたまふペ し。中の劣りは、 太政大臣にて位を極むぺし」と、 勘へ申し たりしこと、 さしてかなふなめり。 おほかた上 なき位にのぽ り、 世を まつりごちたまふべきこと、 さばかりかしこかりし あまたの相入どもの開こえ集めたるを、 年ごろは世のわづら はしさに皆おぽし消ちつるを、 当帝のかく位にかなひたまひ ぬることを、 思ひの ごとうれしと おぽす。 みづからも、 もて 離れたまへる筋は、 さら にあるまじきこととおぽす。 あまた の皇子たちのなかに、 すぐれてらうたきものにおぽしたりし かど、 ただ人におぽしおき てける御心を思ふ に、 宿世遠かり けり、 内裏のかくておはしますを、 あらはに人の知ることな らねど、 相人の言むなしからず、 と、 御心のうちにおぽしけ ' ( 澪標) り 。 「相人の言むなしからず」の内容は、 自らは王位とは縁のない運 命だったとの認識のもとに、 わが子冷泉が王位を継ぐということ である。 父院が源氏の運命を、 高麗の相人の予言により、 王位か ら返いものとして、 感取していたことを思い、 わが街子の即位を、 隠れたる、 天子の父たるべき運命と認識することで、「相人の言 むなしからず」というように、 源氏は高麗の相人の予言を真に正 しく受け止め得たのである。 「桐壺」巻の高罷の相人の予言は、 光源氏の運命を観相し、 ま ことに「相人の言むなしからず」というごとく、 孫氏は帝王相で はあるが、 もし帝王になったら「乱れ憂ふることやあらむ」とい う非常に政治性の強い仕維みになっているのである。

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前掲の「宇津保物語」・「俊蔭」の冒頭部 には、 七歳の俊阪が父 に伴われて「高麗人と文を作りかはし」たことが見える。弁官の 父親に伴われた子が鴻臆館に赴いて高脆人と詩作を競った点で、 このくだりは「源氏物語」の種本といえ るが、 それから後の記述 になると、両者には明らかな差異が見られる。『宇津保物語」.に は、 観相はも とより高麗人側からの俊蔭評は何ら見られない。た だし、 主人公の詩オという点においては「源氏物語」との共通点 を持っている。 そこで、 異国(朝鮮半島)人による異相の子の観相という素材 の先蹂として、 松本三枝子氏が寄孟竿^子伝暦」を指摘したのは (10} まことに説得的であると思われる。「伝麻」によれば、 難波館に 滞留している百済僧B罷のもとに、 身をやっした少年太子が馬飼 の子らに混ってたずねて行くと、 日羅は太子の異相を見とがめて、 逃げる太子を追って詭拝し、「救世観 音、 伝灯東方栗散王」と設 え、 B羅と太子は互いに光を発して夜もすがら消談したという。 松本氏が指摘したように、 源氏も聖徳太子も共に身をやっして異 人館へ行ったこと、 にもかかわらずその瑞相を見破られたことな ど、 両話には共通性がある。 しかしまた、 松本氏も言うように、 型徳太子伝説を踏まえた他の部分(「若紫」巻)の光源氏像は、 源氏像の中でもとりわけ仏教色に彩られてい る。 型徳太子が「伝 灯東方栗散王」と讃え られたように 、「若紫」巻の源氏も、 北山 の僧都から あはれ、 何の契にてかかる御様ながら、 いとむつか しき日の本の末の世に生れ給ひつらむ」と甜え られ、 いとおしが られている 。これに対して、「桐壷」巻の高麗人 の言葉には、 のよう な仏教色は見られない。 つまり、 「桐壺」巻の高麗人観相 のくだりは、 父親に擬せられた弁官と七歳の少年が異人を訪ねて 詩を作りかわし、 異オを発揮して世の耳目を鵞かせた点で『字津 保物語」と酷似し、 身分を秘しながら瑞相を発見される点におい て「型徳太子伝暦」と通うということになるが、 さらに瑞相の内 容という点になると、「翌徳太子伝暦」もまた、 光源氏の場合と 異なることにな る。源氏の異相 は、 仏教的瑞相ではなく、 王権継 承にかかるものだからである。 王権継承を予知する異邦人の一己と して、 先にも挙げたように 「河海抄jは「三代英録jの光孝天且の場合を引いていたが、 こに観相人として登場する「渤海人」が、 つまり「こまうど」と 一致していることは言うまでもない。 ところで、 王権継承と観相の関係において、 異国(高麗)の相 人に指摘されると いう要素は、『悛風藻jの大津皇 子評にまこと によく符合している。「懐風藻」のそのくだりを岩波「日本古典 文学大系j本の書き下し文によって引い.てみよう。 品子は、 浄御原帝(天武)の長子なり。状貌魁梧 、器宇峻速 幼年にして学を好み、 博梵にして能く文をJIIる。壮に及びて 武を愛み、 多力にして能<剣を繋つ。性頗る放蕩にして、 度に拘らず、節を降して士を礼ぴたまふ。是れに由りて人多

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「桐壺」巻の「高麗人」としては、 延喜・天暦時代の日本国の 朝廷と往来が頻繁にあって、「鴻腿館」で鄭煎なもてなしを受け、 日本の貨族と詩を作り交わした渤海国の使が想像される。 また使 として来朝した「こまうど」 が、 日本の高貨な人の観相をした例 もよくあった。 しかしそれだけではなく、 作者が「こまうど」を 登場させるには、 王権継承に 絡む観相が異国人、 特に高麗人に よっておこなわれたという先例が大きく作用したと思われ る。 れで 、『源氏物語 j の主人公に切実な人に一 皇子でありながら 天皇にはなれないーそう いった運命を背負わせようとするため に、 同じ運命として●先例、 つまり狸徳太子を百済の俯日羅が端 おわりに <附託す。時に新羅俯行心といふもの有り、 天文卜筵を解る。 皇子に詔げて曰はく、「太子の骨法、 是れ人臣の相にあらず、 此れを以ちて久しく下位に在らば、 恐るらくは身を全くせざ らむ」といふ。 因りて逆謀を進む。此の誌誤に迷ひ、 遂に不 軌を図らす。(下略) この評言は、古四麗人の観相とその後の道程をつき合わせるとき、 極めて深い関連をもつものと思われる。勿論、 王権継承と絡んだ 観相の問題において。特に観相人が 界邦人(高麗人)だという点 は、「桐壺」巻の例と、「型徳太子伝歴」の型徳太子、『三代実録』 の例と非常によく似ている。 相と観相したのと、 大津皇子を新羅人行心が観相し、 それを信じ た結果、 天泉にもなれなくなったことはよく符合していると思わ れる。 また、 渤海国の王文矩が光孝天皇を観相した例など、 歴史 的な事実を跨まえ、 その上、 王権 継承と関連が深い先例を考えて、 主人公の源氏の運命を占う人物として「こまうど」を抜擢したの ではなかろうかと考えられるのである。 (1) 以下、『源氏物語」本文の引用は「新潮日本古典集成」本による。 (2) 「河海抄 j 本文の引用は「源氏物語古註大成」(日本図杏)本によ (3)「本居宜長全媒」第四巻(筑麿柑房) P . 327 (4) 「本居宣長全集』第十一巻(筑庶掛房) p .384 (5)日本と高脆との交流の記録については、 森克己氏の「日宋貿易の 研究 j 第三絹第二章に詳しい。 (6)奥村恒哉「桐壺の巻「高麗人」の解釈」(「文学」S53.4(7)引用は「字津保物語 本文と索引 j 本文編(s48.笠IUJ害院)に よる (8)引用は日本古典文学大系84「古今著間集 J (岩波杏店)による。' (9)塚原鉄雄「高麗相人と桐壷父帝」(「中古文学」 28、 S.56.11) (10)松本三枝子「光源氏と蛮徳太子」(「へいあんぶんがく」創刊号、 s42.7)。 (岡山大学大学院文学研究科)

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