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プレビッシュ再論(下) : 「周辺資本主義」論によせて

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レ ビ ッ シ ュ

ー「周辺資本主義」論によせて一

再論(下)

羽  鳥  敬  彦

1 はじめに 1[ 「プレビッシュ理論」について  1 対外的制約要因論 一「プレビッシュ命題」一 (以上,第220号) 2 国内的制約要因論 一特権的社会構造  小 括 3  「周辺資本主義」論   「周辺資本主義」の構造ユ (以上,第224号)

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「周辺資本主i義」の対外関係 「周辺資本主義」の危機 「周辺資本主義」の変革 と め  本号)  2. 「周辺資本主義」の対外関係  前述のように, 点は, 「中心」によって しまうために, Center と Periphery一

CenterとPeriphery一

        この「周辺資本主義」論における「中心」・「周辺」関係の重       r周辺」地域の「余剰」が吸収(siphon−off)されて        ますます資本蓄積の不十分性は促進される,というところにあ る。ここでは,プレビッシュの見解を発展過程として検証する立場から,かつて の交易条件論とのつながり,あるいはしだいに懸念を表明するようになった多 国籍企業に対する考え方のその後の変化,そして,国内的制約要因と対外的制 約要因との関連等々の問題に着目することにしたい。まずはじめに,「中心」・ 「周辺」関係の歴史的展開についての彼の議論に触れておこう。そこでも興味

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 80 彦根論叢 第226号 深い論点を担い出すことができるからである。   a. 「中心」・「周辺」関係の展開  「中心」・「周辺」関係において, 「周辺」が「周辺」として立ち至った原因 として,プレビッシュは「時聞的遅れ(time−lag)」を強調する。「資本主義の 求心的(centripetal)傾向」(P.〔9〕, p.229)に由来するこの遅れは,「周辺」 にさまざまな不利をもたらし,「中心」と同様な発展を歩むことを困難なもの としている。 r中心資本主義は周辺の統合的発展を促さないので,長期的な時 間的遅れが生じた。この遅れは,われわれの中心・周辺体制に顕在化している 次のような重大な結果を件うものであった。すなわち,大きな構造的相違,周 辺の分断,交易条件の悪化,そして経済力・技術力の中心への集中などであっ て,そのすべてが中心資本主義の〔周辺における  引用者〕再生産を妨げて いるのである。」(同,pp,221−222)  「中心」・「周辺」関係の初期において,「周辺」はいわゆる「外向きの発展」 という形態が与えられた。そこでは,「周辺」は「中心」の「一種の付属物で あり,中心の必要とする一次産品を安価に供給する役割を果していた」(同,p・ 222)。また,おのおの別箇に,いわば放射状に「中心」に結びつけられていた 「周辺」各国は,ほとんど相互貿易を行なうことがなかった。つまり,「周辺」 の分断であって,これは現在まで尾を引いている問題でもある。さらに,「周 辺」の一次産品生産の発展から「中心」諸国は多くのものを得ていたわけだが, 「周辺」の上流階層も同様であって,とりわけ大衆を排除しつつ技術進歩の利 益を彼らの問で共有しあっていた。したがって,上流階層は「工業化に何の興 味も示さなかった」(P.〔8〕p.62)。  ところが,こうした「中心と周辺との連節(articulation)は中心の大きな危 機(第1次世界大戦,大恐慌,第2次世界大戦)で分解してしまった。」(P. 〔9〕,p.222)。この事態に直面して「周辺」は,手に入れることのできなくな った工業製品を自らの手で生産することを迫られた。また,工業製品需要に 比して一次産品のそれが相対的に鈍いのびしか示さないことに由来する,「周

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辺」の対外的不均衡を是正するためにも,これは必要とされた。すなわち保護 主義的手段を伴った輸入代替工業化である。  この戦略の「開始にあたって,中心は周辺の工業化に反対した。」ところが, 現在「中心」の態度には注目すべき変化が起こっている。なぜならぽ「その 後,多国籍企業の膨張のための肥沃な土壌がそこに博い出された。保護的手段 によって引きつけられて,消費社会の要求を直接に満たすためにしろ,あるい はとくに中心の持続的なイノベーションと結びついた,その他の財貨の輸入を 容易にするためにしろ,多国籍企業は輸入代替過程においてますます重要な役 割を担っている」(同,p.223)からである。  ここで,輸入代替工業化と多国籍企業との結びつきを強調しているのは,興 味あることである。というのは,1950∼60年代,彼は政策論として輸入代替工 業化論を唱えたわけだが,事実上,以前のような単純ともいえる戦略が救いと はならなかったことを,受け入れているともとれる内容となっているからであ る。  それゆえ、問題はこの多国籍企業をどのように評価するか,ということにな る。   b.多国籍企業について  この「周辺資本主義」論において,看過することのできない点の1つは「周 辺」での多国籍企業の役割を正面から取り上げ,いちだんと厳しい批判的見地 を貫いていることである。  一般的にいって,「周辺」にとって多li臣籍企業のもたらす技術はぎわめて革 新的なものであるため,より大きな「余剰」をそれは確保することができ,し かも配当その他さまざまなかたちで「中心」に送金している。「中心」による 「余剰」吸収の形態の1つはこれであって,そのぶん資本蓄積の源泉が「周辺」 から奪われることになる。  また, 「周辺」では,輸入代替工業化の進展とともに,貿易の入超傾向を免 れることができず,しだいに優位をもつに至った工業製品の輸出が不可欠とな

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 82  彦根論叢 第226号 ってくる。ところが,この要請に対する多国籍企業の態度には不十分なものが ある。「2,3年前まで,工業製品輸出に多国籍企業は消極的であった。しか しそれ以来,補助金などのインセンティブによって,彼らは注目すべき反応を 示したとはいえ,相対的にその貿易のほとんどは中心諸国を相手とするもので はなかった」(P.〔9〕,p.223)。つまり,多国籍企業の輸出活動は主として他 の「周辺」国に向けられており,けっきょく1つの「周辺」国の対外不均衡を 他に転嫁するだけで,「周辺」全体の改善をもたらすものではない。その理由 として,多国籍企業の導入する技術がたとえ「周辺」にとって新しいもので も,「中心」では古くなってしまったものである点をプレビッシュは挙げてい       48)       、 る(同,p.224)。  そのうえ,特権的消費社会と結びついて,多国籍企業は「生産の国際化」な らぬ「消費の国際化」を推進する。このことによって,上流階層の消費性向を ますます刺激するのだが,既にみたように「中心」の消費パターンの模倣にお いて, 「周辺」では資本蓄積のポテンシャルが浪費されるのであるから,それ         は「周辺資本主義」の排他的性格をいっそう強めることになる。  最後に,多国籍企業のもたらす従属性の問題である。「中心」においては,多 国籍企業のまわりは「多様な支配的利害群(constellation of diverse inteエests)」 におおわれており,しかもこの多国籍企業が「周辺」において「その掌中に大 部分の生産手段を集中させていることによって,上流階層とともに経済力・政 治力を分けあっている」(P・〔8〕,p.71)ため,そのi勢力の拡大は「中心」の 48) もちろん,「周辺」の「中心」への輸出がのびない大きな原因の1つは,後者の前   老に対する市場開放の不十分性であるが,それについてはかってと同じようにプレビ   ヅシュはしばしば指適している(例えば,P.〔9〕, p.224)。さらに注昌しておいてよ   いことは,「周辺」の低賃金が多国籍企業を引き寄せる原因だとする見解に,彼が批   判的な点である(同前,同ページ)。そして,このことは,「中心」にとって中古的技  術によっては,「中心」市場における競争力をもちえないという議論につながること   になるのであろう。 49) この「生産の国際化」なき「消費の国際化」という概念は,いくぶん曖昧である  が,「周辺」では生産力・資本蓄積の水準がそれを可能としているほど高くはないの   に,より高度の消費パターγだけが普及してきている,という程度の意味であろう。

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ヘゲモ=一の強化を意味する。したがって,「周辺」で多国籍企業は「ときに は国内企業の力を凌ぎ,周辺国政府の意志決定を明示的に支配するような政治 力」を得ることすらある(P.〔9〕,PP.229−230)。  以上のように,「周辺資本主義」論では多国籍企業は「周辺」の排他的性格・ 従属性をますます促進するものとして把握されている。そのため民主主義の発 展とともに勃興してくる中間階層を中心とした「余剰」をめぐる闘争の攻撃対 象の!つともなるわけであるが,多国籍企業に対するかつてのプレビッシュの 懸念がここに1つの帰結を迎えるに至った,とみることができるであろう。

  c.交易条件

 この新しい研究で,かつての交易条件論がまったくその影をひそめてしまっ た,ということはできない。むしろ各論文で一定のスペースをこのために費し ており,相変らず関心の高さを示している。とはいえ,論理自体は基本的に変 化していないため,ここで詳述の要はないが,次の2点だけ指摘しておきた い。  まず第1に, 「周辺」の交易条件の悪化とは,生産性上昇の利益が「中心」 へ移転されてしまうことを意味すると評価されていた以上,「周辺資本主義」 論では「中心」による「周辺」の「余剰」吸収の一形態をなすものとして現わ れてくることである。したがって,この点からすれば,かつてのように「中 心」・「周辺」関係における基底的要因という位置づけよりも,いくつかの要因 のうちの1つというぐあいに変化したというべきであろう。  第2に,注目されるのは,一次産品と工業製品の需要の取得弾力性の格差と いう基本線は,確かに維持されているものの,「周辺」の工業化を反映してか, 同様のシェーマを工業製品のなかまで持ち込もうとしていることである。例 えば,「〔周辺の構造的不均衡の〕傾向は,次のように説明される。すなわち, 中心からわれわれ周辺が輸入しなくてはならない技術的に進んだ財に対する需 要が,ますます強くなっていくにもかかわらず,周辺が大量に輸出しうる一次 産品と工業製品に対する中心の需要ののびが,相対的に緩やかだからである」

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 84   彦…根論叢i 第226号 (P.〔16〕,p.18,傍点引用者,以下ことわりのない場合同じ)というように。 もちろん,議論が全面的に展開されていないため,どの程度の意味を彼がもた せているか明らかではない。さきの多国籍企業のもたらす技術が,「中心」に とっては中古的なものだという見解と関わっているのかもしれないし,また現 実の説明として一定の有効性はあるだろう。しかしながら,一次産品と工業製 品との間に境界線を引いていた「プレビッシュ命題」からすれば,基:本的前提 に大きな変更をもたらしかねないものであることは否めないと思われる。かく て,ここにおいても,「命題」の頃から変貌し,隔たりつつある彼の姿が見い 出されるわけである。   d.国内的要因と対外的要因  既述のように,「周辺」の発展を困難にしている国内的要因と対外的要因と の位置づけに関するプレビッシュの以前の見方はかなり曖昧だったが,それは 今どうなっているであろうか。そこでまず注目されるのが,次の新従属派批判 である。  「しばしば,低開発は従属に起因するものとされている。しかし,それでは 従属と周辺とを混同することになろう。周辺の概念は従属の表現であるととも に,低開発を特徴づける排他的なそして対立的な傾向をも含むものである。ほ かのところで述べたように,もしすべての従属の指標が魔法によって消えてし まったとしても,この2つの傾向は依然として残るだろう。」「低開発の原因と して従属を非難する人たちは,この論文で繰り返し指摘してきた次のぎわめて 重要な事実を忘れている。すなわち,この周辺資本主義の排他的性格と対立的 性格とは,主として資本蓄積源の国内的浪費に起因するのであって,この浪費 のかなりの部分は消費社会およびそれが基礎を置いている大きな不平等分配に 由来しているという事実である。」(P.〔9〕,pp.231−232)  確かに,彼は対外的要因がなくなっても,国内的要因が解消されない限り, 「周辺資本主義」は「周辺」的性質から脱しえないとしている。したがって, 内的要因重視説であるとみることができるかもしれない。

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 けれども,立ち入ってみると,もう少し議論は入りくんでいるようである。 というのは,彼の掲げる国内的要因とは,「周辺資本主義」の模倣的性格に大 ぎく規定されているものであり,しかもその模倣性は資本主義の「求心的」性 格が「周辺」に投影されたものにほかならないからである。そこで,国内的要 因を彼がより大きなものとして扱ったとしても,「中心」との関係をぬきにし ては語れない要素が伏在しているわけであって,単純に国内的要因重視説と割 り切ってしまうわけにはいかないように思われる。むしろ,以前のように国内 的要因と対外的要因とも別箇のものとしていた立場から,一歩進んで両者を総 合する方向が追求されている,と評価すべきであろう。  「周辺資本主義」の構造をめぐる議論の骨格は,ほぼ以上のようなものであ る。続いて,中間階層を中心とした闘争の激化によって,体制的危機を迎える プロセスを追ってみることにしよう。  3, 「周辺資本主義」の危機   a. 中間階層の勃興  まず,「周辺資本主義」の危機の背景をなしている中間階層の勢力の強大化 について述べておかなくてはならない。プレビッシュによれば,皿でみたよう な「周辺」の工業化を通して,さまざま部面で中間階層の力量が増してきた, という。その経過は4つの局面に分けて描かれているが,とりわけ第3局面で は「一般に,工業化および技術の伝播が惹き起こす中砂階層の増大と都市への 集中は………民主主義運動の道を開」き,さらに第4の局面は「中間階層の膨 張と,教育,マス・コミュニケーション・メディアの影響の増大とによって, 中間階層が自らの利害を明確に認識するという特微をもつ。しかも,労働組合 の力と政治力の作用を通じて,以前のような上流階層の力に屈服しているとい った関係はなくなり,そのために,彼らの指導者たちは所得分配や雇用に関し ても,交渉ないしは妥協する能力を獲得している。」(P.〔9〕,pp.214−215)  このことを基礎として,市場および国家の2つの領域でとくに顕著な変化が 生じる。

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 86 彦根論叢第226号  まず市場領域。いわゆる市場メカニズムの下,かつて中間階層は基本的に不 利な立場にあり,生産力上昇の利益を享受しえなかった。ところが今や,労働 組合の強大化とともに賃金の引き上げ要求が貫徹されるようになり,さらにこ の改善された賃金を不況期などにおいて引き下げようとする動きに対して,大 きな抵抗力を身につけるに至った。当然のことながら,そのことは上流階層の 専有する「余剰」への第1の圧迫要因となる。  また,国家機構においては,以前は主として上流階層の利害のみが貫かれて いたが,しだいに「中間階層は市場法則からくる不利な作用に対する救済を国 家領域に求め」て,自分たちに向けられる公共サービス(教育・保健・社会保 障等)の拡大や,公共企業を含む国家支出の膨張によって雇用の確保を図る。 この要求が通れば通るほど財政は拡大し,しかも経済的効率性の範囲を逸脱す るにまでなろう。こうして,「官僚制度の異常発達」が顕在化し,労働者の1 部はいわゆる「偽装吸収」されることになる。他方,この増大した国家支出を 賄うために税負担は上昇し,上流階層の保持する「余剰」への第2の圧迫要因 を形成する。たとえ,ここで上流階層がこの負担を下の層に転嫁しえたとして も,今度は再び労組の力などによって賃上げ要求が高まるだけのことである。  かくして,中間階層の興隆とともに,「余剰」には2つの方向から圧力が加 えられることになる。けれども,観点を換えるならぽ,それらの事態は,「周 辺資本主義」における民主主義の一定の前進を表わしており,それ自体として の意義を看過すべきではない。ただ,その過程に参加し,利益を得るのは主に 中間階層であって,下流階層にはほとんど二二されない点も忘れてはならない がQ  だが,決定的なことは,たとえ中間階層の台頭が著しいとしても,まだ上流 階層にはそれに有効に反撃をなしうる力量が残されていることである。そこで まず生ずるのがSインフレーション・スパイラルである。  b. インフレーション・スパイラル 既述のように,一般に「余剰」の増加率は生産のそれよりも大きかったわけ

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だが,中間階層の闘争の進展とともに,その差は漸次縮小せざるをえない。そ してプレビヅシュによれば,両増加率の等しくなる点が,いわば上流階層の我 慢の限界だという。  「この最終点の重要性は,明確に理解されな:くてはならない。その限界に達 するまでは,上流階層の消費は生産ののびよりも大きく増加する。そして限界 に至ってさえも, 〔下の層に〕分配可能な部分がまだ多くあるとはいえ,消費 社会はその特権のために闘い,資本蓄積にも影響を与えるようなどんな圧迫を 受け入れる前に,価格引き上げによって反作用するだろう。」(P.〔9〕,p.236)  この上流階層の価格引き上げ要求の登場とともに,焦点になるのが通貨当局 の態度である。ここで通貨当局にとって,伝統的なやり方に従って価格引き上 げを阻止するために信用を抑制する方向と,逆にこの要求に応えて拡大政策を とる方向との2つの選択肢がある。けれども,いかに前者の方が望ましいと考 えたとしても,けっきょく「環境の力」によって当局は後者の道を歩まざるを えない。というのは,この場合,上流階層の手に帰する「余剰」のいっそうの 減少を意味する信用の制限は,生産活動の停滞,そしてついには経済活動の全 般的な収縮を招きかねないからである。こうして信用は膨張し,インフレーシ ョンの直接の契機となる。  そこで,労働分配率を以前の水準まで引き下げないまでも,上流階層の容認 しうる範囲内のある一定の水準に維持するような,価格関係の設定も可能なよ うにみえるが, 「周辺資本主義」には「余剰の増大以外にどんな規範的原理も ない」 (同,p.181)。そのため,.ヒ流階層とそれ以下の層との生産性向上の利 益をめぐる争いは激化の一途をたどり,インフレによる物価騰貴に対しては中 間階層等の賃上げ闘争も高揚し,物価上昇一一一一一一〉賃金引き上げ一物価上昇,と いう周知の悪循環,インフレーション・スパイラルが発生する。このように, ある程度発展した「周辺資本主義」を襲っているインフレーションは,中間階 層の力が弱かった時代のものと異なり,いわば「社会的インフレーション」と もいうべきものであって,「周辺資本主義」の排他的・対立的性格との関係を ぬきにしては語れない現象である(同,p.247)。

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 88 彦根論叢 第226号  続いて,対外的要因の役割について触れておこう。彼のいうところでは,こ れらの要因とは「余剰」の実際の規模に影響するだけ,というぐあいに副次的 な意義しか与えられていない。その内容をみると,①海外の好況・不況などの 循環的要因およびそれに伴う交易条件の変化,②交易条件の構造的悪化,③外 国資金の流入,となっている。①については好況時における交易条件の有利化 は,国内の「余剰」を増大させるから,緊張緩和材料となろうが,逆の場合お よび②は緊迫化をもたらす方向に作用する。また,外国資金の流入は当初こそ 有益にみえるが,時を経るにしたがい元利償還などの支払いが増加するため, 圧迫要因となってしまう(同,pp.241−242)。  このような対外的要因も加わって,インフレ・スパイラルは昂進していく。 そのために,資本蓄積や経済成長が阻害されるばかりでなく,資本逃避なども 生じ,「経済の崩壊」,「社会の分解」,ついには「真の無秩序」にさえ至る。こ うして,暴力による一時的解決のための土壌がしだいにつくられていくのであ うの る。  c, 「力の使用」  「真の無秩序」にまで進むような「周辺資本主義」において,スパイラルを 立ち切るのはもはや「力の使用」をおいてほかにはない。しかも,その解決と は,中間・下流階層の勢いを挫折させ,特権的消費社会の繁栄を再度復活させ る,という反動的なものである。  「そこでは労働力への賃金支払いを増やすことなく,価格上昇を可能とする ような通貨価値の引き下げがなされる。もし,賃金の圧縮が所得を特権階層, とりわけ生産手段の所有者に移転するのであれば,資本の蓄積尽したがって発 展の速度は,体制のきわどい限界が越えられる以前にゆきわたっていた水準以 上に,引き上げられうるであろう。」同時に,この資本蓄積と分かちがたく結 びついていた,上流階層の特権的な消費も昔日の華麗さをとりもどす。「こう 50) この間の事情について詳しくは,P.〔9〕, pp.239−241,をみよ。

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して,余剰を増大させる力を回復した少数者の消費の拡張のために,再分配を 求める勢いを失った多数の人々の消費は抑制される」わけである。  また,中間階層の所得を高めるべく増大した国家支出も削減されるとはい え「力の使用」自体はそれなりの財政膨張を必要とする。そのうえ「巨大な政 治的コストに加えて巨大な社会的コスト」をも添うものである(以上,P・〔9〕, pp.242−243)o  もちろん,ここでプレビッシュが意識しているのは,ラテン・アメリカをは じめ第三世界でしばしばみられる軍部独裁政権による民主主義と基本的人権の       ち 抑圧であることは明らかであろう。ただ留意しなくてはならないことは,必ず       ヨまうしも上流階層の付属物とはいえない軍部は,なぜこの階層の地位を擁護する役 目を果すのか,ということである。もし,所得が増加したとき,労働者自ら資 本蓄積を強力に推進するのであれば,別の道もありうるだろうが,プレビッシ ュによれば,たとえ彼らが蓄積したとしても,それはいわゆる消費的資本であ って,新たな成長要因をなすものではない,という(P,〔9〕,p.110)。した がって,「体制の本性が与えられているならば」「その動態メカニズム,すな わち資本蓄積能力は………上流階層の手中にある。そこで,たとえ政治的コス トとは別に社会的コストが莫大であっても,彼らに〔その役割を〕続けさせる 以外にないわけである。」(P.〔11〕,p,158)  続いて, 「力の使用」の国際的側面についてみることにしよう。先に触れた ように,「中心」・「周辺」関係は,前者のヘゲモニーの下にあり,しかも「中 心資本主義」の利害は基本的に「周辺」の上流階層のそれと結びついていた。 したがって,「中心」にとっても「周辺」の危機はけっして好ましくはない。 また,とくに多国籍企業など「中心資本主義」の勢力が強固な地盤をもってい るため,その「周辺」国の意志決定が大幅に制約されているような場合,民主 主義の発展,中間階層の力量の増大などとともに,国民的なアイデンティティ の認識も強まり,上流階層とならんで外国勢力に対する攻撃も激化する。その 51)例えば,P.〔15〕, p.142,では「軍事力の使用」といっている。 52) この点については,P.〔8〕, p.58.

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 90 彦根論叢i第226号 結果,多国籍企業などへの規制が一方的に採用されたりすると,「中心国にお いて多国籍企業に群らがる巨大な支配的利害群のすべて」がこれに対抗して動 員され,「種々の懲罰的手段」を行使する。そして「忘れてはならないことは, ときには外国の力の使用にまで至るということである。」(P.〔9〕,pp.243− 244)この「中心」国の「力の使用」においてこそ,「中心資本主義」の「求心       らき  性」の本質的側面が暴露されているといえよう。  「力の使用」による中間階層以下の抑圧とともに,上流階層のかつての繁栄 が復活し,ノーマルな「周辺資本主義」の状態にもどる。そこで標榜されるの は,新古典派やマネタリストなどの線に沿った経済自由主義である。しかし, 民主主義・政治的自由・人権をふみにじることによってなりたっているそれで ある。そのうえ「けっしてこの解決は体制の排他的・対立的性格の根本に至っ ているものではない。」したがって「早晩民主主義化過程が再開されると」ま た中間階層を中心とした闘争が息を吹きかえし, 「新たな政治的循環」が始ま るのである(P.〔13〕,p.149)。  かくして,「周辺資本主義」にとって,それは宿命的な悪無限であって,現 体制の本質に由来するものである。それゆえ,導き出される唯一の結論は, この因循より脱するためには体制の全面的な転換が不可欠だ,ということであ る。  4. 「周辺資本主義」の変革  では,その変革はいかにしてなされるべきか。プレビッシュの見解はおよそ 次のようなものである。  まず,現在「中心資本主義」において力を得ている新古典派的・マネタリス ト的経済自由主義については,それが「周辺資本主義」ではあの排他的・対立 的性格を強め,しかも「力の使用」による軍部独裁政権の思想的基盤の1つと 53)例えば,1973年のチリにおける軍事クーデターにおいて,しばしば合衆国のCIA が大きく関与していた,といわれているが 国連ラテン・アメリカ経済委員会の本拠が ておいてよいことかもしれない。 ,このCEPAL Reriew誌を発行している ,その首都サンチアゴにあることは留意し

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なっている点からみて,とうてい採用できるものではない。  他方,一切の生産手段の所有・管理を全面的に国家に委ねるような社会主義 体制についても,彼は批判的である。なるほど,ソビエト連邦では「蓄積と平 等分配に関して,巨大な計画的な努力がなされてきた」けれども,「私はこの体 制に反対する」(P.〔11〕,p.161)。所有と管理の国家への集中は,国家組織の bップにある者に「堅固な力」を与え,「労働者だけでなく全住民の生活様式, 所得,昇進,功績に対する報酬は,最終的には頂点の意思決定に依存する。」 そこでは「体制への忠誠とその安定にとって,思想的統一性が本質的要素であ る。」しかも「指導者の在任期間一それがどのようなものであろうとも一 の無限の延長は,強調された統一性の重要なファクターとなる。すなわち,体 制の安定性と老人政治/」(同,pp.175−176)このように,人権の確:立にとっ て不可欠な民主主義や自由主義の抑圧を含んでいるような社会主義は,とうて い「周辺」の目標とすべきものではない,というわけである。  したがって,求められているものは,それらとは異なった「新しい道」であ って, 「真の意味での経済的効率性,平等な分配,それと同時に,民主的自由 主義の本質的原理の順守およびその漸進的強化とを基礎とした体制」(P,〔9〕, p.173)でなくてはならない。そういうものとして,彼は「社会主義と自由主 義との総合を求め」ている(P.〔11〕,p。16!)。ここでしばらくそのヴィジョ ンを跡づけることにしよう。  はじめに,確認しておかなくてはならないのは,「周辺資本主義」体制の「主 要な欠陥が所有それ自体にあるのではなく.余剰の私的専有にある」(同,p. 163)ことである。それゆえ,この「余剰」への対処が根本の問題とならざる をえないけれども,これに応えるに彼は「余剰の社会的使用」をもってする。 そして,この機能の担当者が国家である。要するに,私的所有を基本的に認め っっ,「余剰」の使用に関してはこれまでのように私的専有に委ねるのではな く,国家による社会化を行なおうというわけである。  もちろん,「余剰の社会的使用」を国家の行為とするにしても,まずその国

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 92 彦根論叢 第226号        さの 家自体の性格が問われなくてはならない。さらに,この機能の恣意的な遂行を 防ぐために,「余剰の社会的使用の規範(nor㎡S)」が,そして「余剰の社会的 使用についての民主的意思決定を実行する責務のある人々を導くために新し いゲームのルール」が必要である。こうした枠組みのなかで,「集合的合理性 の要請(the requirements of a collective rationality)」に従って,「国家は蓄 積,消費,国家サービスへどのように配分するかを決定しなくてはならない」。  ここでもっとも重要なのは,蓄積率の決定である。なぜならば,「動態的な 所得分配にとって本質的な要因」であるそれを定めることによって,「下流階 層,これまで偽装的に体制に統合されていた中間階層,および増加人口の吸収 が促進されなくてはならない」からである。蓄積率の決定の後,残った「余 剰」の各階層・国家サービスへの配分が問題となるが,これは「政治的に」解 決されるべきである。しかし,その解決がどのようなものであれ,上流階層の 特権的消費を制限し,下流階層の所得水準を向上させなくてはならないのは, 最低限必要なことである(以上,同,pp.167−168)。  また,前にみたように,再生産的資本と消費的資本の不均衡,後者の過多と 前者の過少は,「周辺」のダイナミズムの不足に大きく寄与していた。したが って,資本蓄積の推進にあたって国家は再生産的資本の拡充に努めなくてはな らないけれども,その際直接に介入するのではなく,奢修的消費財に対する重 課税などによって慎重に行なうべきである,と彼は主張している。というの は,蓄積率の決定,健康問題環境保護等には国家は直接に関与するとしても 「他者の自由を侵害しない限り,個人がその消費について自己の選好を追求す ることを保障するのは本質的な問題」をなしているからである(同,p.180)。  以上のようなさまざまな原則の下,国家は長期的視野に立って,「余剰の社 54) この点についてプレビッシュは詳しく述べているわけではないが,中・下層の力量  が上流階層のそれを圧倒しているような状態を想定していることは,ほぼ明らかだろ  う。しかしまた,「これは崩壊を避けるために力を使用する人々に対しても提起され  るような選択でもある」と述べている点にも留意すべきである。P.〔11〕, pp.166−  167,を参照のこと。

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会的使用」の計画化を計らなくてはならない(同,p.168)。  続いて,新しい体制における企業形態のあり方をみることにしよう。彼の意 見では,現体制の主要な欠陥は私的所有自体にあるのでなかったとはいえ,生 産手段の集中は望ましいものではないとされていたし,多国籍企業も批判され るべきものだった。だから,既存の企業形態に必要な変更を加えることは,不 可避である。そこで,彼は5つのカテゴリーに区分して論じている(同,pp.169 −170)o  ①小企業。ここでは「蓄積と経営は所有者の手に残る。」  ② 中企業。経営については依然として所有者の責任であるが,「しだいに 蓄積は全体ととしての労働者の利益になるように作用され」なくてはならな い。しかも,この中企業が拡大して,ある一定水準を越えると,次の大企業と 同じように労働者の自主管理(self−management)セこ委ねられることになる。  ③ 大企業。ここでは自主管理が行なわれる。もちろん,それまでの所有者 の所有権を強制的に収用するのではなく,「余剰」を少しつつ労働者に配分し, 最終的には,彼らの多数支配を実現するといった漸進的な方式が採用される。  ④国営企業。その企業活動の技術的複雑性などのために,国家による振興 が必要とされる場合,あるいは国家にとって決定的分野に外国企業の参入を防 がなくてはならない場合などでは,国営企業が正当化されるけれども,常にそ の経営が効率的であるわけではない。ここでも,労働者の経営参加が考慮され るべきである。  ⑤外国企業。自国の司法権の及ばない領域へ「余剰」の一部を移転する外 国企業は,「特殊な問題」をなしている。しかし,「ひとたび自主管理システ ムの下で,同企業を経営しうる技術的・経済的力量が打ち立てられたならば」, 国家は新しい企業を設立したり,あるいは同企業を自国化するようにしなくて はならない。  また,「余剰」とこれら企業との関係であるが,資本蓄積に「向けられる余 剰からのどんな資源も,大部分は〔この余剰〕生み出した同じ企業に留保さ れ,同企業の拡大や新しい企業の形成に充当されるだろう。そして残余の部分

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 94 彦根論叢 第226号 を使って,国家は新しい企業の創設を促進したり,既存の,とりわけ中小企業 の拡大や改良を援助したりするだろう」(同,p.164)というぐあいに,あくま で企業の自主性を重んじるべきだという姿勢が貫かれている。  彼の説く「活発な発展,社会的平等,固有の本質的諸権利の尊重を伴った直 接参加の民主主義を結合した新しい選択」(同,p.173)とは,およそこのよう なものである。それは,「国家が民主的に蓄積と分配とを規制する社会主義で あり,本来の政治的意義における政治的自由と密接に結びついた経済的自由の 本質を尊重する自由主義」であり,したがって「社会主義と自由主義の総合」 となるわけである(P.〔13〕,p.150)。  次に,「周辺」から「余剰」を吸収している「中心」との関係の変革を問題 としなくてはならないが,そこでのプレビッシュの見解は悲観的である。  「中心の,とくにダイナミックな主導的中心〔アメリカ合衆国〕のヘゲモニ ーの下では,周辺と中心の力関係は,周辺のみの行動によって急激に変えるこ とはできないだろう」。いわゆる資本主義の「求心的性格」にもこれはよって いるけれども,同時に「中心資本主義」国が短期的利益を追求するばかりで, 長期的視野に立たないことも大きな原因となっている(もし,彼らが覚醒すれ ぽ,変革過程できわめて重要な役割を果しうるのだが)。けれども,現在,世 界をおおっている「この危機は一かつての主要な危機がそうであったように 一おそらく中心に,周辺との関係において広い先見性をもつことの,そして 彼らの力を抑制することの必要を認識させる,という長所をもっているだろ 55) う」というぐあいに,ただ今日の世界的危機の帰結に1つの希望を託している       だけである。 55)P.〔13〕,p.150.また,P.〔1!〕p.206,もみよ。 56)現在の危機と「中心資本主義」の彼の分析については,P.〔11〕, p.197以下, P.〔12〕,  〔16〕,などをみられたい。ただ付記しておきたいのは,この危機的状況にあって「周  辺」のとるべき道として,彼が工業製品輸出とならんで再度輸入代替工業化戦略の重  要性を一「余剰の社会的使用」と結びつけて一強調していることである。このこ  とからも,彼の見解が初期のものベースとして発展してきたものであることが確認さ  れよう。

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IV.ま  と  め  この小稿を開示するにあたり,プレビッシュの「周辺資本主義」論を考察す る視角として,私は(1>発展過程の検出,②現状認識の基礎となっている概念装 置の検討,という2つを掲げておいた。これまでのサーヴェイから示された点 をここでまとめてみることにしよう。  第1に,この「周辺資本主義」論がかつての議論との断絶の上になりたって いるのではなく,以前の見解を構成していた諸要素の継承・発展,そしてそれ らが1つのまとまりに再結集したものだ,ということである。いわば理論自体 の彫琢の成果であって,その背景にはこの間の第三世界の構造変化があること は,容易に想像できるところである。こうした理論としての体系性の樹立があ ったればこそ,体制変革に関しても新たな境地を切り開くことができたといえ  57) よう。  第2に,注目すべきものとして,この「周辺資本主義」を分析するために鍛 えあげられたトゥー・レが,たんにそれだけにとどまらない,より広いパースペ クティブを有していることを指摘しておかなくてはならない。「中心資本主義」 の分析や,あるいは現在の世界的不況の解明などにそれが用いられていること は,何よりもこのことの証左となっている。そして,プレビッシュ自身も「中 心資本主義」の検討に際して,「私が周辺資本主義の批判において適用したも のと類似した分析手段を使っているため,いささか危険な冒険となるかもしれ ない。しかも,周辺の観点から先進資本主義の展開を解釈しようとして,重大 な誤りにつまつくかもしれない。とはいえ,私の誤りは,中心のある経済学者 たちが周辺の現象を解釈するうえで犯している誤りよりも,おそらく深刻なも のではないであろう」(P.〔12〕,P.75)と述べているくらいである。 57)なお,既述のように,私はプレビッシュが対外的制約要因よりも国内的なそれを重  視するようになった,という解釈をとらない。この点で植松氏の理解といささか異な  っているようである。植松,前掲「70年代のラウル・プレビッシュ」pp.74, 110,116,  をみられたい。

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 96 彦根論叢第226号  だが,これは楯の半面である。なぜならば,そのことによって「中心」と 「周辺」とを区別する視座が希薄となってしまっているからである。例えば, 基本タームである「余剰」が「周辺」のみに固有な:ものではなく,「中心資本 主義」においても不可欠な要素であるとされていることは,「中心」であって も社会構造の「不均質性(heterogeneity)」が存在していることを意味するに ほかならない。したがって,この「不均質性」をもって,両者を区別するメル クマールとすることはできない。また,いわゆる再生産的資本と消費的資本と のアンバランスの問題についても,たとえ「周辺」ほどひどくはないとして も,完全に「中心」でも解決されているわけではない。  確かに,革新的資本主義である「中心」に対して,「周辺」は模倣的なそれ だという主張はある。しかし,第2次世界大戦後アメリカ合衆国の覇権がゆる ぎなかった時期では,たとえ先進資本主義国であろうとも,およそその他の西 側諸国は多かれ少なかれ「模倣性」をもっていたことは否めないであろう。そ して,例えばR.ヴァーノソ(RVernon)の説くプロダクト・サイクル・モ     デルなどからすれば,合衆国以外はすべて摸倣資本主義ということになってし まうだろう。このように,たんに模倣性のみをもって「中心」と「周辺」とも 識別することは,無理といわなくてはならない。  それに加えて, 「中心」・「周辺」関係において「周辺」が「周辺」の地位に 立つに至った理由として,しばしば時間的遅れ(time一一lag)を強調しているの は,上記の傾向をさらに助長する。というのは,この観点には,彼の趣意とは 逆に,「中心」と「周辺」との差異を簸小化して,後者は前者の後追いをして いるだけというような程度問題としてしまいかねないものが含まれているから である。これを救うためか,「資本主義の求心的傾向が周辺の発展における時 間的遅れの原因である」(P.〔9〕,p.229)とか,「先進資本主義の求心的本性 58) プロダクト・サイクル・モデルについては既に多くの文献があるが,ここではその  原型ともいうべき,R. Vernon,“lnternatinal Investment and International Trade  in the Product Cycle,”Quarterly Journal of Economics, May,1966,を挙げてお  こう。

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が,われわれの発展の後進性,経済的・技術的劣位,そして周辺の経済的分断 の主要な源である」(P.〔16〕,P.23)などと述べるのであるが,この「求心的 傾向」なるものについてぱ,資本主義の普及化傾向の対立概念であることはわ かっても,それ以上のものが明示されているわけではない。このように,「周 辺」のみならず「中心」までも分析しうるトゥールを彼が生み出したこと自体 は評価さるべきものであるとしても,そのためにむしろ,彼の強く意識してい る「周辺資本主義の特殊性」を特殊たらしめている基礎条件の把握が,おろそ かになってしまっているといっても過言ではないであろう。  最後に,これまでに彼の堤示した種々の概念装置に関してはある程度論じて きたが,ここでもっとも重要と考えられるいくつかについてさらに触れておく 必要がある。  まず,再生産的資本と消費的資本についてであるが,前述のようにこの両者       ら   を区別することによって興味ある論点を繰り広げているのは事実である。けれ ども,両者の実態に関する説明はほとんどないし,あったとしても,例えば住 宅を取り上げているように(P.〔8〕,pp.32−33,〔9〕, pp.205−206),はた して無条件に資本と規定しうるかどうか疑問を感じさせるようなものである。 また,労働生産性を高める再生産的資本の蓄積が,単純に雇用をいっそう拡大        の する傾向をもつと理解されているのも,議論の余地のあるところだろう。  続いて,「余剰」をみてみよう。既に示したように,上流階層によって取得 される生産性.と昇の利益の部分であるこのカテゴリーぱ,企業家報酬・利子を 含んでいない点でマルクスの剰余価値と大きく異なる。また,バランの経済余 剰とも一致するものではない。このように狭い内容をもつものをキー・ターム 59) この点についてさらに補足しておきたいことは,「周辺」では消費的資本が過多で  あり,再生産的資本が不足しているという議論が,一方で先進国からの野放途な技術  導入に対する批判となっていると同時に,いわゆる「中間技術」論へのアンチ・テー  ゼとなっていることである。例えば,P.〔9〕, pp,187,204,をみよ。 60) ここには,かつてD.リカードが拒絶したいわゆる「補償説」以上のものが含まれ  ているが,そこでまず欠落しているのは,それが資本として運動しなくてはならない  という制約条件に対する配慮である。

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 98 彦根論叢第226号 として,体制転換を主張しているところに難点を感ずるのは,私だけではない だろう。ただちに生ずる問いかけは,新しい体制において企業家報酬や利子と 「余剰」とをどのように区別するのか,ということである。これに対してプレ ビヅシュは利子との区別については何も述べていないが,前者との場合には 「問題はただ経験的な解決をもつのみ」(P.〔11〕,p.166)というだけにすぎ ない。  また,利子の問題と関連して議論を進めるならば,所有論まで視野に入れて おかなくてはならない。前にも触れたように,彼は現体制の主要な欠陥を所有 それ自体にあるのではなく,「余剰」の私的専有にあるとしていた。しかし同 時に,この私的専有を可能としているのは,生産手段の集中である点も認めて いた。それゆえ,一方では「余剰の社会的使用」を図るとともに,他方では大 企業における所有権の分散一労働者による自主管理一を説かざるをえなか ったのであるが,所有問題に目を向けることなくして,議論を深めることが困 難であることを,このことは明確に物語るものであろう。なぜならば,「周辺 資本主義」における生産手段の集中とは, 「中心資本主義」におけると同じよ うに,ブルジョア的所有権体系を前提とした資本主義の展開とともに生じた必 然的帰結だった,と考えられるからである。例えば,新たな体制においても, 彼は所有に対する利子取得を認めている(P.〔11〕,P.177)けれども,それで はいくら「余剰の社会的使用」を実現したとしても,財産所有の不平等性に基       う つく所得の不平等分配はなお存続することになるであろう。さらには,資本主         義の発達と不可分ともいえる近代所有権における債権的性質が,彼の提起する        体制変革によっても止揚されないであろう。かりに私の批判が的はずれなもの であったとしても,所有問題までメスを入れることなく,体制転換を主張する 彼の議論の不徹底性は否定できまい。そして,そのカバーする領域が比較的小 61)農地改革を別として,彼が体制変革を論じるにあたって,既存財産の再分配につい  て何も述べてなないことは,この懸念をいっそう強めるであろう。 62) 我妻栄「近代法における債権の優越的地位』有斐閣,1953年。 63) この点からすれば,彼の見解は小生産者的立場のものといえるかもしれない。

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さい「余剰」概念を「理論的説明の中枢」としていることと,そのことは無関 係ではないように思われるのである。  要約すれば,かつての「命題」の頃の議論を大きく発展させで,新たな次元 にまで到達したと考えられる「周辺資本主義」論におけるプレビッシュの立場 は,他方でより深められるべき視座とともに,どうしても克服しておかなくて はならない方法論的問題を顕在化させている,といいうる。けれども,これま でそうであったように,今後より洗練されたものとして論理が展開されていく ことは十分にありうることである。たとえ,現在80歳を越えているとしても, 次々に労作を発表しているところがらみて,第三世界の激動は彼をして仙遊の 境地に至らしめないようだからである。 〔付記〕 本稿作成にあたり.前稿に有益なコメントを与えて下さった関西大学吉信粛先  生および文献収集においてお世話になった東京外国大学伊豫谷登志翁氏に厚く御礼申  し上げるしだいです。

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