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町家における女子教育の構造 : 近世末期を中心として

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(1)Title. 町家における女子教育の構造 : 近世末期を中心として. Author(s). 入江, 宏. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 17(1): 1-16. Issue Date. 1966-06. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4542. Rights. Hokkaido University of Education.

(2)    . 第 17 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第 部C). 昭和4 1年6月. 町家における女子教育の構造 − 近世末期を中心と して − 入. 江. 宏. 北海道教育大学函館分校教育学研究室. Hi iIRI蹴 : The Educat ion o f 汎r rosh omanin the N[erchants’ Hous ldsin Tokugawa Japan, eho. 目. 次. はじめに.                  . は. じ. め. に. 「家」 は, それぞれが占める地位と役割にふさわ しく, その成員を教育してきた. 近世商家に おいても, 家督・家産の継承者 であり, 次代の家業の経営者であり, 同族団<暖 簾内>の統率者 である惣領の育成,「家業」 経営体 の担い手であり, 将来の暖簾内要員である子飼奉公人の訓練, 同族組織の結合強化をはかって形成された暖簾内慣行や家訓・家法による教化活動等は, いずれ も, 彼らの「家」の理念と構造, とりわけ 「家」 的企業体と しての要請に基いたもので それぞれの , status と rol ) e にふさわしい教育がなされてきた1. , 町家における女性の教育−−幼時か らの膜け や娘時代の婦功の習得, そ して婚家に嫁となっ てうける主婦と しての修練等も, したが って「家」 における教育の構造 の中に正しく位置 づけ, これ らを綜合的に把握 しなければな らない.. 伝統社会の女性は, 妻となり母となった時はじめて, 「家」 において固有の存在価値をも った といわれる. 彼女たちは 「家」 に然る べ き地位をもった時は じめて人格的存在となり, 同時にま たそこから, 封建社会の極格が姪格と して自覚もされた のである, 近松以下が描きあげた悲劇 の モ チ ー フも そ こ に 成 立 した の は い う ま で も な い,. しか し, 近世商家の場合, 主婦の座はとりわけ 「家」 の盛衰に大きな影響力をもっ た 家法に . も 「内方取締り之 義ハ女主たる婦人之特二候間」(渡部源助家 「旋」 ・嘉永5年) 2 ) とあり, 若き 家長を して 「奥向ノ 「ハ万事母ノ仰ニ随フ「ナ レハ吾カ専ラニモ成りカタ キ「多シ」(「佐孝」 菊 3 ) と述べさせている様 に, 主婦は内証を預り 奥向きを 池教中 「我薬味廼顧己論要」 嘉永6年) , きりまわす存在で,‐まこと店の繁昌は 「内義才覚」 によることが多く, 反面主婦が愚かであれば 4 「内証の著より身体をつぶ し」 (「西鶴織留」 巻一) ) て終ることも少くなかっ たのである. 町家 に生きる女性にと っ て主婦の座こそその能力の最も発揮される場であり, 女子教育 の究極の目標 − 1 −.

(3)  . 入. 江. 宏. も優れた 主婦の育成にあった, したがっ て, 町家の女子教育の考察も, 婚家における 主婦と しての修練や新 しい家風への順応 仕上げの場と して中心に据え られ, そこか ら湖及 して, 幼時か らの膜け, 娘 の過程が女子教育の, 時代の美的教 育等が問題にな らなけれ ばな らない, それ故, 結婚をはさんで生家における教育と 婚家に入っ ての しつけとは断絶 したものと してではなく, 連続 した一貫したものと して綜合的に 把握されね ばな らない. そこから, 生家における厳 しい家風の朕 けと, 嫁の可塑性を前提とする 新 しい家風の教育との間 に一見予想される対立をどう把握するのか, あるいは 「嫁ぎ行く存在」 と しての娘のしつけを, 「家」 の原理と構造の中にど う位置づけ るかといっ た問題が提起されよ う.. 本稿は, 以上の観点から, 近世商家の女子教育の営みを構造的に把握 し, 今後に予定している 事例研究のための 展望的素描とすることを課題とする. 研究の対象は一応近世末期にしぼり, 明 治以降の女子教育の展開の原点と して捉える試みと したが, 資料の制約か ら思想的側面は西鶴・ 近松以下の元禄・享 保期文学等も援用 した. 1. 町家の理想的主婦像. 儒者 や道学者は, 中国のそれを模して, 烈女伝や女訓の中に理 想の女性像をたく したが, 町人 )像を, 現実の生 たちは, 女子教育の目標である理 想的主婦<内儀様, 奥様, 御家様, 御寮人>5 き生きと した生活の 場で描いた. 近松は, たとえば 「心中天綱島」 で, 必ずしもその主題においてではないが, 小春のもとに通 っ て商売も顧りみぬ夫紙屋治兵衛に代っ て店をとり しきり, しかもな お 「私や子供は何着いでも との短い日に商人が昼中に寝た振見せては」 と商人の面目を傷 男は世間が大事」 と夫を立て, 「止 けさせまいと庇う 「おさん」 を描いて大坂町人の理想的主婦像の一つを造形 したが, 西鶴も 「好 色五人女」 巻三に京大経師の妻 女 「おさん」 を描いて 明暮世をわたる女の業を大事に, 手づか らべんが ら糸に気をつく し, すへずへの女に手紬を 織せて, わが男の見よげに始末を本と し, 竃も大く べきせず, 小遣帳を筆 まめにあらため, 町 人の家に有たきはかようの女ぞか し, と述 べ, また 「西鶴織留」 巻一では, 商家の老女の若夫婦に対する説教という形で, 我等が世帯の時は, 雀のなかぬう ちに, 鉄凝を付て髪を結, 下女が水汲うちに茶の下へ焼付, 米離間に寝床をあげ, でっ ちに行燈掃 除させて, 其油紙にて 煙管を琢せ, 其跡にて敷居の溝を ぬぐはせ, 捨る所は塵龍, 角々までも気を付, 芝居近く への使には, 朝食より前に やり, 遊女 町の近所へ やる時は, 用事俄にいひ付て, 帯も仕替させず, 鼻紙入を取 まはすまもなく, 庭よ りすぐにつかは し, ひとつ釜の加 賀米に, は しらかし汁, 鰯菜も同 じやうに居りて, 主・下人 のへだてなければ, 湖日・廿八日に癒せば 事もあらためず, 精進日には香の物にて, 朝夕 「お 主のお願」 と, 箸箱をいたゞき, 「風の吹日さむからぬも, 新 しき綿入の布子ゆへ」 と, 衣裏 の よ ごろ ふ を も い と ひ, 万 事 お ろ か に せ ざ り.. と身仕 舞か ら奉公人の 追いまわし, そ して家事と少 しもすきのない達者な商家の主婦の姿をあ ざ や か に 描 い て い る,. これに対 し, 当時形 しく板行された町人教訓書, 女訓の類では, む しろ商家の妻女の戒むべ き 箇条, 規制面が多くとりあげられている. たとえ ば 「主従日用条目」 (弘化2年版) は, 江戸の 女房たちの否定的側面を − 2 −.

(4)  . 町家における女子教育の構造. 夫の事は構はず, 我身斗洗みがきし, 髪端手に結, 日に立衣服を著, 白粉こく 口紅玉虫の , ごとくつけ, さなが ら遊女めか しく,役者 の振を真似び, 芝居役者職といへば 現ぬか して聞 , , 叉は人さへ見れば, 近所隣の謡P 出し, 仮初の事にも, 下女丁稚を叱わめき, 夫の帰りが遅く な れば, 行先を根問して,′はやす 客気して面をふく らし, 気に好た男が来れば, 酒よ餅よともてな し, 気に入 らぬ人には, ろくろくに詞もかけず, 今機嫌が能かと思へ ば 忽ち不興な顔面 し , , 寄言介といわれ, 常に夫を尻にしき, 商ひ万事の応対に, さ しで口利, 或は常に酒を 呑で 張 , りがは しき事多く, 叉は物客 して欲深きも 盤多 し6 ) , と指摘 し, 「町家式目分限玉の礎」 (安永2年版) は大坂の町家 の女房について , 嫁入 して以来, 端手風流をこのみ, 芝居の役者の風俗を見習 らひ, 年中煙草は長ぎせるで , 女髪結に髪のしな づいひつゞけ, 遊所々々にはやる馬鹿なる天窓つき 商売は一リ ンニリ ソあ , らそふ利やい, 銀のかんをいひ立て世渡るきわどい中で, 廿両三十両のべつかうの櫛 弊 借銭 , しちらして買とふのヘ, 未時行出 しといふ染衣裳, 叉は織出しの花麗おび ありす川 の錦の帯 , のと, 途方もなき著も, 身体不相応もわきまへず, 夫に舌をなやして買求めさせ 云云(下略) ) 7 と肩をひそめている, これらに共通して指弾されている悪徳は, 著修, 物欲, 悟気 口まめ , , む ら気, そ して下人への 思いやりのなさ, 商売への差出口などである, 事実 殊に富商 の女房た , ちの着物欲はすさまじかっ た らしく, 江戸小舟 町一丁目の石川六兵衛の妻と大坂の難波 屋十郎右 衛門の妻が京都東山で衣裳較べをした話, 大坂銀座の年寄 中村内蔵助の妻女の賛沢三 昧等は有名 であるが, これらの話は一面 に町人全盛の世をしのぶ話となっ たと共に, また町人には椿上の沙 汰と して戒めの話と して語り継がれたものであろう, 西鶴も 「日 本永代蔵」 巻三の 「煎 じゃう常 とはかはる問薬」の条で, 朝起, 家職, 夜詰, 始末, 達者といった妙薬 「長者丸」 の方組を教えた あとで, これと共に大事な毒断と して美食淫乱, 芸事, 博変, 生兵法 請判 役者狂 公事訴訟 , , , 等と共に 「0内義を乗 物全盛, 娘に琴帯賀留多」 を挙げ, また同 じ 「永代蔵」 巻一でも 「女の身 持娘の縁組より内証うすくなりて, 家業の障となる人数 しらず」 と記 している . 一体, 江戸時代の妻女たちは町家に限らず, 武家においても家事・育児のほかに家の女主人と して交際の面にも重きをな し, 上層になるほどそ の負担も大きかっ たが 町家や百姓の妻はその , 上に直接商売や生産労働にかか わる仕事があって, その地位は形式的にも実質においても武家よ りまた一段と高かったと解される, 妻女が家業に重要な役割を果 し, その能力が直接的に家運に 反映したか ら,「舟は帆まか せ帆は舵まかせ内の しんしょ はかふまかせ」 という俗謡がうたわれ , 「女房を怖がるやつは金が出来」といっ た川柳ともなるのである, 戯作的教訓書 「貧富裸記」 は , 「女房は(中略)世帯の元帥なり, 家引おこすも亦家を潰すも, 大方は内儀々々の業」8 )と説き, 西鶴も 「俗つれづれ」 の中で, 「夫大事に掛て世のかせぎにいとまなく」 家の身上をよく した女 房を, 「此家の宝は手足のう ごく女 房 (中略) 異国より渡 したろ三つ の宝にも替 じ」 と亭主に自 慢 さ せ て い る,. 町家の主婦に課せ られたものはいわゆる奥 向きの仕事一切のきりまわしである 中小商家で妻 . 女が店頭の業務に従事する業種もあったが, 一般に中上層の商家では 女は商売事 に一切口を出 , さない のがたてまえとされた. しか し奉公人の衣食給与等, 直接店務にかか わる面以外の人事管 理は主婦の仕事であり, たとえを 定刻に食事を調えることが新妻に厳しく言い渡されたという , 「店」 と 「奥」 が分離し, 主婦が 奉公人と直接日常的接触をもたなくな ると事情は異なるが 主 , 婦の奉公人に対する細かな配慮が店勢に大きく響く ことを, 明治,大正期 の風俗であるが 「日 , 本橋横山町馬喰町史」 は次のように伝えている, − 3 −.

(5)  . 入. 江. 宏. 旦那さんは場 合によっては小僧を 叱っておこりつけたりすることもあるであろう. その時お かみさんが, 小僧さんを蔭へ呼んで懇々と 宥めて機嫌を直させて働かせる. 食事にしても, 家 、い切身をつけて やる. 時によっ ては小僧さ の者には 小さい切身をつけても, 小僧さんには大き んにソ ッ ト大福の一つも与える, そ して親身になって相談相手になるという風なおかみさんな らば, 番頭さん小僧さんは愉快に一生懸命立働いて, 店内の空気が自 ら和 やかになり, 期せず して全店協力 一致の行動がとれ, 商売が益々繁昌する. すなわち 商家の家訓が強調 した 「主従和合」 の情緒的 条件が主婦の手で醸成されるのである. これに反して, おかみさんが, 女中をお供に して芝居見物 や遊山に ばかり出掛けたり, 食事 一致 は奥の者の膳ばかりを賑わ して, 番頭, 小僧のものを粗末に したりするようでは, 店内に ては駄 協力の実が挙が らない. うちのおかみさんは旦那さんよりも客膏だ な どと蔭口を叩かれ け 目である. またおかみさんが, 「どうもうちの人は働きがない」 な どと広言するようでもい ない, も し働きがない な らば, 出来るだけ働きよいように仕向け, うちの旦那は立派な人だと ) た て て 行 く こ と が 賢 い お か み さ ん の 務 め で あ る9 .. 商家の丁稚奉公は雇傭労働の過程で あると共に人格陶冶, 職業教育の場で あっ た, 殊に子 飼い の場合, その本質は暖簾内要員の育成という教育の過程であっ たか ら, 主婦の任務は奉公人に対 する単なる衣食住の給与にと どま らず, 彼らの教育に夫と共にた ずさわる仕事があった, 商売上 の訓 練は男たちの手に あっ たが, 日常生活の鱗けや, 丁稚・手代・番頭と上っ て行く区切りに行 本人 なわれる儀礼の準備な どはみな妻女 の情愛にみちた配慮の もとにとり行わ れた. とりわけ, のながい努 力と主家の養育が 実っ て, 何某を別家させるとい う段になると, 妻女はいそいそとそ l o ) のための準備をは じめ, その細 やかな情味が将 来の暖簾内の結合に大きくつ ながったという , したがって, こう して別家させた子飼が やがてー 人前の商人にでもなれば, 此方の内か ら出た人が, 店一軒の 主になり商もしにせて, 親方一家を饗応とは此方とも快慶 其の身の手柄 (「今宮の心中」) と い う 喜 び は そ の ま ま 主 婦 の も の で も あ っ た,. 商家の主婦はまた, それぞれの家がその同族団<暖簾内〉に占める地位に応 じて, その家の女 主人と して大きな役割を担わされた. 本家の主婦は夫 を補佐して同族団を統率する器量を要求 さ ずこ れ, 分・別家の妻 たちは階統組織におけるそれぞれの地位に応 じて同族団の強化と発展に尽 とが要請された. 表向きは 一切男たちがそれ ぞれの家を代表 して行動 したが, 葬送, 婚儀をは じ をは じめとする月 並行事等 の め, 祖先祭ネ己 , 祭礼, 節句, 法事等の年中行事, 「お朔日の御礼」 同族儀礼, 暖簾内慣行は, 事の性質上主婦の果す役割は大きく, ま して本家を中心とした日常的 ま 接触における交際 や相亙扶助の場面で は女同士の働きがものをいって, それが男たちの立場に で反映することが少くなかっ た=) , 以上のほか, 町家の主婦に托された重要な仕事は子女 の養育, ことに娘の教育, そして 姑と し ては嫁の しつけであった. 近松の 「鎚の権三重雄子」 に武士の妻が, 「永々の留 守の中, 子供が 悪う育っ たといはれては, 母が浮名も恥 しい」 (同書 ・上之巻) と嘆く場面があるが, 町人の妻 とて同 じことで, たとえばながく家を留守にして出店で働く 近江商 人の妻たちも, 恐 らく同 じ気 2 ) 持で子女の教育に励んだことと 想像される1 . 本 このほか, 交際も広い大店の 主婦ともなると, それにふさわ しい教養も求 め られた. 江戸日 橋元浜町の呉服・本綿問屋佐野屋孝兵衛家の妻女民子が遺した 嘉永6年の 「日記」 の中か ら正月 3 ) . を例にとっ て彼女の教養生活を示す部分のみを抄録すると次のようであるー − 4 ー.

(6)    . 町家における女子教育の構造. 十一日. (前略) 茶発会二而梅同道金百匹両銘二而持参福田も香会の所 雨天故不参肴代百匹贈. 十三日. (前略) 平野万葉発会二而参 (後略). 十九日. (前略) 吉田先生発会草かやニ有金百匹持参 (中略) む ら松町ニ 而も発会二而 赤はん. 来 ル (後略) 廿. 日. (前略) 茶のさ らひいたす (後略). 廿一日. (前略) 心学初メニ而夕飯出ス茶わんむ し焼さかな しるこ 也(後略). 廿九日. (前略)矢倉二而歌発会催ス午後 (中略)采泉様二而恵賛あり (後略). 晦. (前略) 福田二万葉会読有. 日. 正月にて初釜その他発会が多いことにもよるが, 以上の記事をみると富商の主婦 の広い趣味と 教養の生活がうかがえる, 彼女はこのほか源氏物語の講釈の席にも出席 しており, また上記の心 学に関する記録は, 心学教化運動が一般家庭の中にどのようにとり入れ られていっ たかを示 して 極めて興味深い. これ らの教養が単に交際の手段と してだけでなく, 大店の主婦と して恥しか ら ぬ人格の形成に資 したことはいうまでもない, 「女訓」 が, 「縫針は人に劣りたりとも, 夫の家 を治る道を知りたるを, 大智と云」 と主婦の家を治める仕事を高く評価 して, 「裁 ち縫ひ, 或は 機物小料理なんど才覚ありて, 女はは しり書き, 当用手業く らか らぬ」 小智の上において戒 めて 4 )のは当然といえよう. 1 いる (「女五常訓」) 最後に, 商家の家訓・家法・店則類に示された 主婦像を求めると, 主婦が実際に家 に占める役 割に比較して, それらに現われる面の意外に少いことに気付く, 管見であるが, 商家の家法類 に 女子の地位や役割を明記し, あるいは女性に要求される規範等を示したものはごく 少数である, このことは家法類が本来 「家の公けごと」 に属するもので, この場合女性は主婦といえども 「家 の 公 け」 に おい て 行 動 す る 場 を 与 え られ て い な い こ と を 示 す と い え よ う, こ こ に 町 家 の 主 婦 の,. 家におけるその. status と role の分裂がある,. さきの佐野屋孝兵衛家を含む菊地治右衛門一統 の暖簾内規定 「家格連印帳」(文政11年) には全 5 ) 4 9条のうち, 珍らしく女性の地位そ の他を規制 した箇条が9条ある1 , まず宗家の相続規定の中 しこ. 一, (前略) 女子ハ他江 可為嫁候尤 (嫡子の外・引用者) 二女三女のみ二而外無子ハニ女三女 江 婿養子いた し可為分家候都テ相続人の外二人迄は可為分家候事 (3) と, 女子は他家 へ嫁ぐことを原則とするが, 長男のほか娘ばかりの場合は家を強化するため婿 取りの上分家させるとし, 次に当主早逝の場合の妻女の処遇を 一, 当家主人万一壮年二而病死等有之猶有子ノ ・子供を当家へ差置妻年若二候ノ ・当家より他江 可 為致再縁候若当人他江 出候儀不承知候得は 相応の人品見立入婿いた し二男三男は準に当家よ り可為分家候尤四十以上 の者は為致隠居 都て婦人家事為執行候事堅有間敷候 (下略・傍点引 用者) (15) と して い る, 次 に 第17条 に. 一, 分家別家の者他処江 致出店候共 自分其地江 相越於其地致妻帯候儀可為無用当地二本家相立 致妻帯半年宛は当地に可致住居候事 (下略) (1 7) と, 恐 らく近江商人にな らっ たのであろう, 宗家のある本拠にそれぞれ本宅を構えて妻女をそ こに住まわせることを規定している, 以下は禁制事項であるが, まず29条に, これは 女性だけに 要求されたものではないが,.

(7)  . 入. 江. 宏. 9) 一, 家内三弦浄留理の類無用 たるべく 候 (2 と 規 制 し, つ い で. 一, 芝居等有之節女共 見物三日 ニ眼候事 (30) 但小見世もの見 物無用の事 一, 四十才以下の婦人他処出無用讐当処の中たり托墓 参の外 諸参詣無用 尤病人湯治は店内 成もの一人相添可申事 (31) 一, 婦人郷行逗留七日 二可限候事無故長逗留無用の事 (32). 億. と, 現実にこれ らの禁制が守 られたか どうかは疑問であるが, 女訓に一般的な妻女を出来るだ け内にと どめる思想を示 し, さ らに第33条では 3 3 ) 一, 幼主の節其母 たるもの彼是存寄等申家事 妨ニ相成候得は分家別家中 取斗可有之候事( と幼主の母の家業への口出 しを無用と している, なお祖先の法事の規定の中に, 「代々主人た る人の追福は百年二可限事」 (39) と しているのに対 し, 第40条に 0) 一, 主人の妻たる人五十才限の事 (4 を夫の半分にしていることが注目される と, 妻の追福の年限 , 同家法に見 られる限り, 女子に 関する規定は家の連続とい う理念か ら要請される女性の処遇と, 禁制事項の規制面からのみなっ ており, その役割の重要性の 評価や権利の規定は見当 らない. 家訓類のうち, 主婦の心得を細かく示 したものと して, 明治3年の成立であるが, 日本橋馬喰 町一丁目の紙問屋中村庄八家の 「永代日用記録」 がある. 同家法 (以下引用はいずれも 「日本橋 ) には, 信仰, 家督, 家業, 商売向 横山町馬喰町史」 編者が同家法の要点を摘記 したものによる. きの諸注意を一通り述べたあと, 家内の心得として,「奥台所の儀は, 中働女中の役ではあるが, 家内が戸棚・鼠不 入まで見廻り, 食物費へにな らぬ様気を附けよ, 戸棚の中の 物が腐敗していた な らば, それは家内の不行届と心得べ し. 女中を叱るべか らず. 穏かに諭すべ し」 と主婦の心構 えを説き, 衣類については 「奥向衣類は流行もの等一切好むべか らず. 一反以上は相談の上買求 む べ し」 と者杉を禁 じ, 交際については 「暑寒, 歳暮, 年玉, 等親類義理附合遣り取は家内の役 なれ ど, 別段際立ったことは相談の上行うべし」 とな し, 「親類は度々訪ねるには及 ばないが, 一 ヶ年に一両度は自身で訪ぬべし」 とし, 主婦の行状については, 「家内は召使に対して口きた なく小言一切申すべか らず. 叉此位の身分故女中を大勢召使うな どと決 して思う べか らず, 家内 の心得違いは, 身上破滅の基なり」 と, それが一家の盛衰を左右するもの として厳しく戒めてい ) 6 る1 .. なお同家法には, 相続を規定 して 一, 当家に男子出世致す とも, 別家叉は養子に遣候べし. 夫迄は召使同様に使ふべ し, 男子相 続は後代まで永く 永く決而相な らず, 当家相続は養子に限り, 堅く定置も の也, 傷而男子惣 領にても, 万事子弟の様に取 扱ふべ し, 当家相続可致者は女子ゆへ, 男子我意を申募り候得 ば, 見世重役と相談の上, 隠居致させ, 妻をめとらせ, 相当の月並遣は し置 (下略・傍点引 1 ) 7 用 者). とあっ て, 代々女子を相続人とし, それに婿養子をとって家業を継続させることが明記されて いる. 近世商家の家法に女系相続を明記 したものは必ず しも多くないが,資本の要求する合理性, 功利性は, 家業の経営者に一定の能力を要求 し, したがって惣領あるいは男系にその器量がなけ れ ば曙賭なく廃嫡し, 娘に婿を取る例は一般的で, このような場合には実質的 な家系の承継者と して娘の教育にも 一段 の配慮が なされたであろうことは容易に推測され る, − 6 −.

(8)  . 町家における女子教育の構造. 近世商家の主婦 の理想像を追究するとき, 今後最も開拓されなければならないのは, 家史,店 史あるいは伝記等にあらわれる具体的女性像であろう. たと ●えば, 伊勢丹生村の富裕な商 人の女 に生れ, 13才で松坂の三井高俊 のもとに嫁ぎ, 「若い時分より天性商心, 始末, 費をいとい, 古 今めづらしき女人」(「商買記」) とうたわれ, 後の越後屋呉服店, 三井財閥の基礎をつく った殊法 8 1 ) は著名であるが, 1 (1590∼1 676) 6才で名古屋の呉服商伊藤家に嫁ぎ, 病弱の夫に次々に先立 たれて, 11年間に実に家 のために配された夫三 人に仕え, ついにはみずか ら10代の当主とな て っ 家を支え, さ らに同族の要請を容れて四人目の夫を迎え, 後の松坂屋の基礎を基いた喜代 (後 , 1 9 ) の生涯など知るとき, 家の連続の要請と貞節という価値 葛藤場面に 宇多と改名, 文化3年段) 身をさらし, また幸福な晩年であった というが, 女の生涯を家のエ ゴイ ズムに翻弄されたかにみ えるその劇的一生を彼女自身どううけとめていた のか, その心情に思いいたるとき, その人間像 は異常な迫力をもっ てわれわれに迫っ てくる. もちろん, これ らはいずれも家の存続 と繁栄にひ ときわ大きな意義と役割を果 したが故に家史にも記録され, またその過程で理想化もされた ので あ る が, 今 後 は よ り 一 般 的 レ ベ ル に おい て 「家」 の た め に 生 き て 来 た 女 性 の ライ フ , ヒス トリ ー. を発掘 し, そこか ら町家の女性の具体的理想像を把握することが必要と考える2 0 ) . 口. 娘. の. 教. 養. 西鶴は 「好色一代女」 巻一に 「緑付の首途」 を叙して, 「今時の娘さかしくなりて, 仲人をも どか しく, 身楕へ取いそぎ, 駕龍待兼尻がるに乗移りて, 悦喜鼻の先にあらはなり.」 と, 「四十 年」 このかたの当世娘を諒 しているが, 農家の娘の様に家族労働に従事するわけでもなく, 裁縫 と芸事−−それも花嫁修業としての習いもののほかは, これといって精神的充足感を満たす仕事 もない町家の娘たちにとっ ては, 嫁入ることが人生の すべてで, あながち時代が彼女たちをかく 「さかしく」 した とも思われない, 伝統社会の 「家」 においては, 女性は妻となり母となっては じめて存在価値を持つのであるか ら, 娘は嫁ぐことによっては じめてその人生に意味をもつので あり, いそいそと嫁入るのはむ しろ娘の本質ともいえよう. 体, 家におけるその成員の教育は, 家の連続や家業の発展への希求と不可分の営みであり, そこから惣領教育 や子飼奉公 人の厳しい しつけが生れるのであるが, 嫁ぎ行く存在である娘の場 合, 功利的見地に立て ば, 一見家の理念と教育という上記の関係は稀薄にみえる. それでは娘の 教育を支える彼らの意識にあるものは何か. 家の立場からはやはり, 「娘一人しつけかねては」 という世間に対する恥の意識, 「ク ト聞」 をはばかる意識であっ たと思わ れる. 商家にあっては, それはすぐ店の信用 にひびく問題でもあっ たろう, そこから, 近松の 「薩摩歌」 の中で, 父親が 必ず しも娘の膜 けだけについてではないが, 「さりなが ら琉球屋ともいはるる我々娘一人を しつ けか ね, 長持一つ送らぬと外聞悪い沙汰もい や」 と語り, 「心中宵庚申」 の父親はまた, 「不調 法な娘を進上いた した, 気に入らぬ事あ らば打叩き縛括っても直させ, 末々までも見捨てず添う て下されかし」 (同書・中之巻) と, むしろ世間に開きなおった形で親の責任を示 している. 娘 の教育の責任は とりわけ母親に課せ られるのが一般的で, 同 じ近松の 「心中万年草」 の中で, 商 家の主婦は 「なう親は どれも変 らねど, 母の名汚すも濯ぐのも, 娘の育ちの善悪から, お梅が一 期の癖つけば, 三十年添うたこちの人に面かい拭うて添はれもせず」 と述べて, 娘の教育につい ての責任を妻の夫に対する義理 という形で示している. しかし, こう した意識よ りも, .娘可愛さの愛情がより強く働く ことはいうまでもないこ とで, 「女の子は, ほんにふ まんに生れるから死まで厄介さ」(「浮世風呂」 二網巻之上) と愚痴ってみせ − 7 −.

(9)    . 入. 江. 宏. なが らも, 嫁ぎ先で恥をかかぬよ う, 翼姑や夫に可愛が られるようにと,それ女の芸ひと通りを, それ衣裳をと心を配るのである. 西鶴は 「世間胸算用」 巻三に た とヘば, 娘の子持ては, 庖癒 して後形を見極め, 十人並に人が ましう, 当世女房に生れ付 と思 へ ば, はや三才, 五才より, 毎年に鯉入衣装をこしらへける, 叉形おもは しか らぬ娘は, おとこ只は請とらぬ事を分別 して, 敷銀を心当に, り が し商なひ事外にいた し置, 縁付の時分 さのみ大 義になきやうに, 覚悟よろ しき仕かたなり, とノ”青を写 し, 「日本永代蔵」 巻二では, 「世界の借屋大将」 とよばれる蕨市の娘の教育のさ まを 何より, 我子をみる程, 面白きはな し, 娘おとな しく成て, 頓て, 鯉 入扉風を持 とらせける に, 「洛中尽を見た らば, 見ぬ所を歩行たがるべし. 源氏・伊勢物語は, 心のいた づ らになり ぬべ き物なり」 と, 多田の銀山出盛 し有様書せける. 此心からは, いろは寄を作りて議せ, 女 寺 へ も遣ず して, 筆の道を教, ゑひもせす京のか しこ娘となしぬ. 親の世智なる事を見習ひ, 八才より, 墨に狭をよ ごさず, 節句の雛遊びをやめ, 盆に踊 らず. 毎日, 髪か しらも目硫て, 丸曲に結て, 身の取廻し人手にか らず, 引ならひの真綿も, 着丈竪横を出か しぬ. いずれ女 の子は, 遊ばすま じき物なり. と描いている, この文章は, 町家の娘教育の理想を描くというより, む しろ誇張 した筆で当世 の町家の娘の風俗 を間接的に調 したものと解す べきであろ うが, 優れた商人がそれぞれの処 世智, 人生観にもと づいて個性のある子女教育を行っ たことは容易に推測される, ひと口に町家の娘時代の教育といっても, 上・中・下それぞれの 階層において, また上方と江 戸といっ た地域の特色において, その内容や方法に差異の あるのは当然である. 「浮世風呂」 の 著者は同書三編巻之上で, 齢の頃十か十一を かりのこま しゃくれた小娘の会話の中で, まァお聴な, 朝むっくり起ると手習のお師さんへ行て お座を出 して来て, 夫か ら三味線のお 師さんの所へ朝稽古にまゐってね, 内へ帰って朝飯をた べて踊の稽古か らお手習 へ廻って, お ‘ 八ッに下 ッてか ら湯へ行て参ると, 直にお琴の御師匠さんヘ行て, 夫か ら帰って三味線や蹄の. おさらひさ(幣 靴 譜きき鳶 鷲 認 赫 窯 議す) 其内二, ちイッ がかりあすんでね ・. 日が暮ると叉 琴のおさ らひさ. 夫だか らさ っ ぱり遊ぶ隙がないか ら, 否で否でな らないはな. と江戸の中層の 小娘の習いものの一日を活写する. 人のよい父親がもう少 し気億にさせておい た らと娘に同情しよ うものな ら, 「女の子は, 私のうけ取だか ら, おまへさんお構ひなさいます な」 と母親が目をむく, 母親の 心積りではそれ らはみな 「御奉公に出る為の稽古」 である. 当時 武家屋敷の多い江戸では娘を然る べ きお屋敷へ行儀 見習いにやることを理 想と した, しか し生活 に追われる下層の 庶民にとって, それは無縁のものである, 「浮世風呂」 の著者は 「髪の毛うす き女ばう二人」 の会話を通 して彼らの声を次のように伝えている, お川 「(前略) なんぼ屋敷出だ逆, あんまりあつかましい ぢやアねへか (中略) ヤ レ, 香を か ぐの茶を食ふのと, 大笠原か采女原かの お諸礼を仕候迎, 風見の鳥を見るやうに高くとまっ てすまァ して居るも小廠に障らァ, (下略) お山 「さうき, 花を活るの, 琴を弾く のと, 世帯 も ちのい らねへ事さ. 飯を焚て着物を縫て, 内外の者の身 じんまく をして, 物にすたりの出ね ヘ やうにすりやァ, 女房の役は沢山だはな, それで気にい らざァ先さ まの御無利だ (同書三編 巻之上) 女ひと通りの噌みは婦功, 女功, 女工, 女紅ともいわれたが, 「女庭訓往来」 には, 「婦功と は, 琴をひき, ものを書, 絵をかき, 物をそめるにはたった姫に劣 らず, ものを織事は, 七夕の − 8 ー.

(10)  . 町家における女子教育の構造. 2 1 手にもかょひ, たち縫など, 其品, 筆にもつく しがたく 候云云」 ) と あり, 「女消息往来」 は, 「靭 叉平常女子の噌べ き芸能は, 手習, 縫針, 膜かた, 歌道, 活華, 香の道, 総竹の調也」 2 2 ) と しる している. 婦功は婦徳, 婦言, 婦容とな らんで婦人の四行の一つとされたが, 町家にあっ て は中国の女訓類にみ られる体系化された婦徳の一つと して受けと られたのではなく, 町人の文化 的, 美的生活の充実が自然に子女の趣味にも反映 したのである, したが って経済生活に余 裕がな けれ ばそれ らの面はおのずと制限され, 前出の 「浮世風呂」 のかみさんたちの科白の如く 世帯 , をもつに必要な手わざさえ身につけれ ば大い ばりであった, しか し 「九尺店琴を習はせ そねまれ る」 とあるように, 固定化 した社会には芸事と階層の結合か らくる緊張関係もあっ たことは事 実 で あ る,. 町家の娘の手習いがかなり一般化したことは, 「浮世風呂」 に清書の日だか らと母親に弁当を ねだる娘の姿や, 手習いを怠けた娘が湯屋のかみさんにか らかわれる状景 (同書二縞巻之上) が 描かれていることからもうかがえる, 「嫁無筆小倉 の山で紅葉する」 「書かぬ嫁一 ッペん通りせ つながり」(無筆の嫁は婚家先の身内親類の皆に一 と通り知れ渡るまでせつない思いをする の意) といっ た川柳に示されるとおり, 読み書きは嫁 の噌みと して一般に期待 されていた, 学齢は さ , きの 「浮世風呂」 の小娘たちがいずれも8才と描写され, 「御如才も ござりますまいが 六ッか , 七ッにもなりました ら, 手ならひや読書も, 教へて やってくださいまし」(「仮名文章娘節用」)と いう台詞もあるように, 6・7才か ら1 0才前後であっ た, 嘉永頃よりは, 江戸な どでも女 子が長 く寺子屋等に通学すれば人も梢々羨み思うようになったといわれる, 明治初年, 江戸の問屋街で ある日本橋横山町・馬喰町にあった寺子屋は次の三ヵ所であっ たという2 3 ) . 掬泉堂 馬喰町3丁目 天保9年開業 師匠佐藤晃谷 生徒数 男80名 女70名 林盛堂 馬喰町2丁目 嘉永元年開業 師匠竹内方吉 生徒数 男50名 女4 0名 永寿堂. 横山町2丁目. 元治元年開業. 出版屋兼. 師匠金井ソノ. 生徒数. 男21名. 女3 9名. このほか, 嘉永・安政年間には馬喰町に山崎, 佐藤と いう寺子屋があっ たが いずれも明治以 , 前に廃業した. 上記の記録から注目されるのは, 女師匠の所 に女子が多く, 男師匠の所に 逆にや や女子が少 いことは別と して, 同町内全体をと っ てみると男女の就学数がほぼ同 じであるという ことである. つ まり江戸の典型的問屋街においては, 幕末か ら明治初年にかけて女子の寺子屋就 学率が男子のそれとほぼ同等になっ ていたことを示すもので, この傾向は 「日本教育史資料」 を もとにしたより広範囲の統計においても同様に指摘 できる2 4 ) , なお上記 の寺子屋においては師家 の妻女が女子に裁縫を教えることもあったという, 女子 の手習いは商家の主婦の生活の必要か らおのずから要求されたものであっ たが これによ , って女子の教養生活も一段と多彩になり, とく に江戸文学の有力な読者層を形成することになり, また そこか ら草子類の影響を彼女たちの上にみることにもなっ た, 「肩のはるべき」 「女子の教 訓状」(「近世説美女少年録」 三ノ四) も次のように説いている. 女子はたかきひ き によらず, い づれの芸をた しなむま じきといふ事はなけれ ども 中にも , まづ手をな らひ, 物かき給ふ べ き事なり, 此みちにく らければ, その身一生のあいだ よき事 , も しらず, あしき事をもわ きまへず, 叉はおも しろきと思ふ心もなく て, な ぐさむといふ事は あるまじ ま とに商人の女房などは, 第一のやうにたつことなり (「爾 女式目」 下巻‐宝暦4 2 ) 5 年版) 裁縫については, 天保8年以来の見聞を叙 した喜田川守貞の 「守貞漫稿」 (嘉永 6年刊) が , 「京坂の童女十三四以下書筆を学ばせ 其後は裁縫の師家 に通は して習之しむ 号けて叉ひものやと − 9 −.

(11)  . 入. 江. 宏. 2 ) と述べ, 「主従日用条日」 中の 「娘の式目」 には, 6 云多く は寡婦等の業と す」 ) 7 一, 娘たろ身は, 幼少の内より手習 し, 十二三より, 縫針の業を励習ふべ き事2 と あ る. こ れ らに よ る と, 町 家 の 娘 た ちは ま ず 手 習 い に 行 き, 12・ 3 ・ 4 を 境 に 縫 針 の 課 程 に. 入るのが一般的であっ たと思われる, 「守貞漫稿」 には また, 女子三絃浄瑠璃を専と習ふこと既に百余年前よりの習風也 今世益此風にて女子は七八才より 8 ) 学 し之2. とあり, 遊芸は比較的幼時か ら手習い, 裁縫の課程と並行 してこれを習わせるのが一般の習俗 であっ たようである. そこか ら, さきの 「浮世風呂」 の小娘の如く, 習い ごとに追やられて遊ぶ 暇もないと抗議することにも なるのであろう, 裁縫を教授するのは御針屋であり御針師匠である が, ここで実用的な縫い裁 ちの術か ら, 押絵・袋物等の手芸 まで教授 し, なかには生花・茶・ 音 曲の諸芸まで教えるものもあり, その教育的機能は寺子屋に次 ぐものであっ た. 芸事はさきにみ た如く, 階層性があり, 西鶴も 「日本寿ぐ代歳」 巻一の中で, 鯉も, 高人の家は各別, 民家の女は, 琴のかはりに真綿を引, 伽羅の煙よりは, 薪の燃しさ ∼よ し, それぞれに似合たろ身持するこそ見よ けれ, るをばさ しく べたろカ と評 し, 教訓書も 「身分によりて, 琴三味線も心がけてよ し, 中分より下は, 習ずとも苦 しか 2 9 ) と している. 江戸で琴・三絃を中心に芸事が盛んで 「母親 らず」(「主従日用 条目」 娘の式日) は特に身心 を労 して」 娘を師家に遣るのは, 遊芸の習得が行儀見習いのための屋敷奉公に連 なる か らであっ た. この間の事情をさ きの 「守貞漫稿」 は, 江戸は特に小民の子と離 ども必 らず一芸を熱せ しめ 夫を以て 武家に仕へ しめ武家に仕ざれば 良縁を結ぶに難く一芸を学 ばざれ ば武家に仕ゆること難 し依し之女子専 ら三絃琴の類を学ぶ(中 0 ) 略) 京坂小民の女は琴は勿論三絃をも学 ざる者多 し是武家奉公をすることなき故也3 と説明 している, 宝暦5年刊の 「浄瑠璃三国志」 によると, 奉公先を求めるにも芸事に流行が あっ た らしく, 三味線は, 常磐津な らばその日のうちにも奉公口が決まるが, 半太夫節だと面 接 1 ) さ え して も らえ ぬ と 記 して い る3 .. 芸事も 「有福の町人の娘共は, 寵愛の余りに 踊狂言を習はせ, 錦金欄其外芝居役者同様の衣裳 ) という具 合になれば親の見識の問題で, 3 2 を飾り, 宿にて芝居 をなし」 (「世事見聞録」 六の巻) 西鶴も 「万の女反古」 の中で 何の町人の入 らざる琴小舞踊までをな らはせかぶき者のやうに 御仕立わけもなき事に存候我 我 づれが娘はさなが ら下子はた らきこそさせま じ 似合たろ手業真綿つませ糸屑成ともひねらせ 置け ば見分はよくて世帯のために成申候 (同書・巻二 「縁付まへの娘自 慢」) と 評 している. 大坂薬種仲買商武田長兵術家の家法 「十ヶ年倹約 之事」 (天保末∼安政初年作 成) 五十八条の 中にも家庭内の緊縮事項を示 し, 子女の芸事は男子は謡, 女子は生花以外 一切禁 の. 芸事は花嫁修業の 条件でもあり, 嫁いで しばらくは, 「のぞ まれて嫁 止している 条項がある3 壱本はめ弐本はめ」 「嫁の琴ちか しい客へ馳 走にし」 ということにもなるが, たく ましい主婦に なる頃は, 「琴爪もはま らぬ程に世帯 じみ」 「琴やめて薪の大くべ引給ふ」 と, その現実的効用 i リも痛烈である, については 庶民の楓貢 江戸時代において, 町家の娘の教養コースの仕上げの課程となり, 良縁の条件と なっ たのは行 儀見習いのお屋敷奉公である, 本来は膨大な江戸の武家社会の需要によ ったものであろうが, 次 第に格式のある武家屋敷で奉公を勤めあげることが 未婚の女性の修養に価値 あるものと認識され − 10 −.

(12)  . 町家における女子教育の構造. るようになって 一般化 し, コース化したものと考えられる 奉公といっても 実家から下働き . , の為の下女を随伴 し, 季節毎の衣裳の新調の費用も多額にのぼり, 第一然るべき大名 旗本の屋 , 敷とつながりを持つにも一定の条件が 要求され, それ相当のっけと どけも必要であったか ら 逆 , に花嫁の条件と してはそれだけ価値あるものとなった, 河竹黙阿弥の 「河内山と直侍」 には上州 屋の一人娘お藤が 松江出雲守の屋敷へ女中奉公 に出る話があるが , 「浮世風呂」 の中でも, 人柄 のよい風俗の三十位の女房の会話と して, 次のように描かれている. いぬ 「(前略)踊と申すものは, おちいさい内か ら御奉公ができてよろ しぅございますねヘ . お いく つ か らお 上 な さ い ま した へ. きぢ. ・イ, 六 ッ の 秋 御 奉 公 に上 ま した. い ぬ 「ヘ ヱ. よ. く思ひ 切てネヱ. きぢ「ハイ サ. 乳母を付て 出 しましたか ら, 只今までも御奉公が勤りますが , 最ぅ早, わが鰹ものでこまります (下略) きぢ 「(前略) しか しネ 御奉公は有がたうござりま , すよ. 繁るとな しに行義がよく なります. 内において どのやぅにやかましく申ても折屈が 直り ませぬ. お屋敷さまへ上ておきますと, おれそれが 何処か違て参ります (中略) 誠に有がたい , ことで ござります. 幼少か ら上て置ました厚い御恩を一生忘れてはすみませんのさ さりなが . ら, 着類は縮羅が張ましてネ, その上今までの衣類は段段ちいさくなります し 何も角も只今 , か らは大人並に特 へ直 しますから, イ ヤハヤ, 大頭痛でございます (同書二縞巻之上) 奉公に上る年令は, ここにもある如く 六・七才からの例もあるが, 一般には手習い 縫針 遊 , , 芸とひと通り習いものを修得 したあとで, 行義見習 いはその最後の仕上げと して位置 づけ られた ようである. 勿論奉公先でこれらの遊芸を仕込まれる場合もあり 次第に奉公に上る年令も 早くな , る傾向にあっ たのであろう, 以上 のケースは経済上の負担か らいっても上層商家に限られたが , 女子教育の形式と しては一般化 し, 一般の商家でも夫々分に応 じて他家へ娘を行 義見習いに遣 っ た, m. 嫁 の し つ け. 江戸時代の結婚年令は今日と比較 して一般 に早いとされて いるが 町家の女子の場合その実態 , はどうであろうか, 文学作品には14 )が, 家史等によると, 例 5才から1 4 ・ 7・8才という記 述が多い3 えば大坂薬種仲買商武田長兵衛 家の場合, 初代長兵衛は天明4年 35才で高麗橋三丁目足袋商明 , 石屋源右衛 門の長女や寿24才と結婚, 二代長兵術は文化7年 . , 22才の時京都五条問屋町大和屋久 兵衛の女と結婚 しているが, これは妻の年令不詳 三代長兵衛は嘉永2年 25才で分家近江屋長 . , 三郎の長女ュゥ1 6才と結婚, また 分家近江屋嘉 兵衛は享和2年, 主家の初代長兵衛の長女ふき1 8 才を要っ ている. 初代の婚期がおく れたのは特別の理由があるようであるが 他はいずれも10代 , 5 ) の花嫁を要 っている3 . 中野卓氏が 「商家同族団の研究」 の中で紹介, 引用されて いる, 京都五 条橋東二丁目東組町内の宗門人別故帳のうち 天保2年よ り明治元年まで3 8年間にわた って連続 , して同帳に記載されている14軒の記録の中から, 女性の結婚年令に関する部分を抄出 整理する ,. 6 ) と 次 の 如 く な る3 ,. 大坂屋嘉兵衛 (町内有力家). 孫嘉吉妻えい 21才 (以下特に断わ らないのは嫁入り). 孫. もん 23才 (縁付). 美濃屋武兵衛 (町内有力家) 山崎屋市兵衛 (町内有力家). 妻いく 18才. 娘みさ 22才 (響取). 体庄次郎妻いつ 18才. 孫てい 20才 (響取). むめ 16才 (緑付). 河内屋勘兵衛 (小商売) 女 娘 しか 33才 (響取) − 11 −. 娘こと 19才 (響取). 庄次郎娘.

(13)    . 入. 近江屋半左衛門 (有力家) 才. 江. 娘と き 16才 (緑付). 宏. 娘みね 18才. 梓富太郎妻 しな 18. 同後妻きぬ 24才 (後妻). 近江屋利助 (他町村の大店の分家, 家・店 特) 娘いと 27才? (響取) 鯛 屋与兵衛 (町内取締を勤 めたが, 経営は必ず しも大きくない) 妻こ う 21才 (後妻) うた 20才? (饗取) 大坂屋卯兵衛 (他町よりの自営分家) 梓友治郎妻 きく 21才 万屋新九郎 (家持) 妻たき 25才 (後妻). 娘りき 18才 (聾取). 万屋七兵術 (他町より転 入通勤分別家) 娘ふさ 24才 (響取) (なお 姪りう 29才 (婚出) 大和屋忠八 (町内有力家) 娘すて 14才 (饗取分家) るが 故帳にみえ 6才ですでに入響忠三郎の妻と して人別 大忠八家では姉娘 やえが天保2年, 1 以下の統計にはいれない) 以上にみ られる結婚年令は, いうまでも なく宗門人別教 帳の記載において 当該女性の続柄や身 分が変化 した年を基にしたものであり, さ らに実際の婚姻の時期とそれが届出 される時期には相 とすることは 当 のずれがあることは当時の常識であるから, これを以っ て直ちに実際の結婚年令・ 0代の 1 結婚年代 出来ないが, 一応統計的に処理すると次のようになる. すなわち事例22のうち, 者9名, 20才から24才までの者9名, 25才以上4名. 20才から24才までのもの9名中饗取4名, 後妻2名, 25才以上では奪取2名, 後妻1名, 不明1名と なっている. 少数例であるが以上の数 字から推定されることは, ほぼ半数が10代で結婚 しているが, 20代もそれと同数以上あること. 但し20才か ら24才までの者 9名のうち観取, 後妻という特殊の 条件にあったものが 6名と3分の 2を占め, 25才以上は全員特殊の条件で結婚 しているケースである こと, 大ざっ ぱな傾向である が, 町内有力家の娘の中に比較的早く結婚 しているものが多いこと 等である. もっともここに掲 げた商家は経営の小さなものでも数人の下人を抱え, 町内全体が中層の商家によ って構成されて いるので, む しろ以上の数字は京都の中層商家の実態と して捉えた方 が 適 切と思われる. 以上の考察からいえることは, 家史などに現われる上層商家はもとよ り, 中層でも上位ほど嫁 取り嫁入りの年令が早く, 中層以下はそうした志向を持 っているがそ の実態は必ずしも 一般に想 像されるほ ど早くなかったということである. このことは, 前者と後者を近世町 人社会における 結婚年令の理想と現実と してと らえることも出 来る. (文学作品の記 述は, 主人公の条件が作品 のモチーフによ っ て規制されるとはいえ, なお世間一般の通念, それも理 想的なそれによ って形 づく られることが多いと考えられる.) 富商ほ ど婚姻の早いのは, 結婚準備に経済的障害もなく, 交際範囲も広く良縁に恵まれることにもよろうが, それ以上に 「家」 の要請が強く働いたことを 考慮したい, すなわち上層の商家ほ ど家の存続と発 展に対する意識は戯烈で, できるだ け早く, しかも可塑性に富 んだ嫁を自家の後継者にめあわせることによ って, 家の維 持, 安定をはかろう とい う意志が当事者に強く 働いたであろうこと は容易に理 解される, かかる意識は中小商家にお . いても普遍的で, 有力家のそれが当時の町 人社会に大きな影響力 を持っ た点は重 視せねばな らな い. 「かみさまと取揚婆が言ひは じめ」 「毎夜手柄唐の大臣を 軒へ立」 といった川柳は, そう した 庶民の露骨な感情をむ しろ楓 しているといえよう. 当世 (文化年間) の縁組について, 「世事見聞録」 の著者は, 武士は養子も娘も, 人物・容顔に構はず,持参金の多きを好み, 町 人は金銀に厭ひなく して, 3 7 ) 人 物・容顔を撰也. (同書・五の巻) と武家に比 して町家のそれがより本質的選択をしていると 評 しているが, 西鶴はまたこれより − 12 一.

(14)  . 町家における女子教育の構造. 百年余も前の世相を 「近代の縁組は, 相生・形にもかまはず, 付ておこす金性の娘 を好む事, 世 の習ひとはなりぬ」(「日本永代蔵」 巻五) 「娘の親は相応よりよろ しき響をのぞみ, むすこの親 は我より棟のたかき縁者を好み, 取むすぶより無用の外聞斗をつくる」(「好色一代女」)うと,「銀 が銀産む」 世の中では武家も町人も人情に変りのないことを指摘 している, 嫁の品定めも, 教訓 者は, 先 づ最初聞合す時気儀にはなきか著り尤ぶる心は無きか. 叉取所なき愚鈍者にはあらざるか, あしき病はなきか, 短気者にてはなきか, 其外読書・算用・縫針な どの事までもよく よく尋ね聞 3 8 ) て, いよいよ別条なき人物を我心に納得 したろ上にて呼とるべ し(「我身のため」安政6年刊) と説くが, 肝心の娘は 「男よく姑なく同 じ宗の法花にて, 奇麗なる商売の家に行」(「本朝二十 不孝」 巻一) きたいなぞと娘心をのぞかせるのも人情である. 縁談に打算が働き人情が 動く のは 当然であるが, 同時に優れた町人は, それらによ っ て婿選び, 嫁選びの目を曇 らせない見識を備 えていたのも事実である, 縁談に際して, 「さほ どの事を当人のわたく しへは, なぜ叉おっ しゃ らずに, 取きはめをばなされま した, 親子と申ても, 最早十五才以上にな れば, 一人前の男と申 すもの」(「仇競今様櫛」 初編巻の中) と息子の抗議もある如く, 後世と比較すれば縁組の過程で 当事者同士の人格や意志は前面に出なかっ たが, それだけ双方の家と家の信頼関係が重 きをな し, A家が膜けた娘, B家が跡取りに仕立てた息子という信用が縁談の進行を支配したといえよ う. した がってまた, その信用を覆すような事態が出来れば, 親たちは世間 に恥をさらし, 家の名に も 傷 が つく と い う こと に な る の で あ っ た.. すでに指摘 したように, 町家における女子教育の究極の目標は商家の主婦の座に相応 しい女性 の育成であり, そのために幼時か らの嬢け, 娘時代の婦功の習得等が積み重 ねられて来たが, 奥 向きを切りまわし, 家政をすべる能力を身につけるいわゆる主婦学はもっ ぱら婚家において修得 する課程であっ た. このことは彼女たちの結婚年令か らいっても, 娘時代の教育内容か ら推 して も当然のことであるが, 主婦 学自体経験の中で実践的に学ぶことによっては じめて身につく性質 のものであるからである. かく して, 町家の女子教育は婚家における主婦学の修得 によ っ ては じ めて完結するのであり, その指導の任に中心的存在となるのはいうまでもなく 姑であった. 今日カリカチ ュアされている姑像は別と しても, 川柳子が 「姑の日向ぼっ こは内を向 き」 とか 「ダ夜の有卦姑の頓死一つ知れ」 と捉えているような深刻な人間関係が 江戸時代にも存在 したこと は事実であるが, 同時に, す ぐれた商家の主婦が姑となっ ては嫁の しつけにすぐれた能力を示 し たのも事実である. 近世の 「家」 における嫁のしつけの成功を支える第一の要因は, 教育の主体である姑の教育に かける情熱と自信であろう, 彼女たちの家風を伝承 し創造 していく ことへの情熱と, みずか らの 主婦 と しての自信である. 根本的には 「家」 の理念に支え られた教育者と してのエトスの問題で あ る,. 第二は, 教育の客体である嫁の側の意識である. 「姑は来年死ぬと仲人いい」 と, 姑を敬遠す る感そ惰もあるにはあったか, また 「麦は楊きよか ら臼は立てよから娘は しうとのならひか ら」 と いう俗謡もあっ て, 庶民の間にも姑 の教師と しての権威が承認されていた. 杉本 (旧姓稲垣) 誠 子の有名な自伝 A Daughter ofSamurai に は, アメ リ カ に 嫁 ぐ娘 を 前 に 「家 風 を しこ ん でく だ さるはずの姑もいない家に嫁ぐというのでは, 娘の将来が心配」 と嘆いていた母が, 「アメリカ へつくと親がわりとなり, 自分の娘分と して」 世話 してくれる優れた米国婦人のあること を知 っ 9 )が, こうした雰囲気は上層 てうれ し泣きするのを見て, 自分も思わず涙くむという場面がある3 − 13 一.

(15)    . 入. 江. 宏. 思われる. 嫁は奥 の武家に限 らず, 優れた家風の確 立していた町家では どこでもみ られたことと へヤ 「 ( 向きを見事に切り廻す姑に自分の未来像を見, ことに 「親にか りの隔屋住」 西鶴織留」 巻一) の時代は謙 虚に, しかも賃欲に新しい家風を吸収する最も教育効果のあがっ た時期であっ た. 第三の要因と して指摘 したいのは, 婚家における家風教育の 下地がすでに生家における優れた 家風の しつけによ っ て出来ていた点である. このことは新 しい家風への順応 が嫁の可塑性を 前提 とするとい う通念と一見矛盾するかに見える. しか し家風に対する尊 敬と愛情をもち得ないもの が新 しい家風に対して 尊敬とそれを吸収する情熱を持ち得ようか. みずか らが優れた文化の保持 者であっ ては じめて他の文化を正 しく理解し吸収することが可能であるとい う. 家風を 「家」 の 文化的個性と言うこと が出来るな らば, 婚家における新しい家風との出会いは, 嫁にとっ てまさ しく異質の文化との触れ合いであろう. その時彼女は生家における優れた 文化の担い手であっ て は じめて婚家の 文化の優れた受容者になりうるのである, (さきの 「武士の娘」 の著者の場合は それが文字通り異質の文化と 文化のふれ合いであっ た, 浄土真宗の信 仰と武士の倫理の中に育く まれた彼女が, その豊かな伝統文化の土壌の中に全く異質の西欧文化の種を育てて, 敬産なキリ スト教徒, 敬愛されるアメリカ市民と して美事に開花 して行く生涯に, われわれは二つの 文化の 触れ合いの最も美 しい形式を見る.)かく して, 生家における家風の厳 しい媛けは婚家における新 しい しつけの否定的要素ではなくなり, む しろ不可欠の 前提となる. このことは同時に, 生家 に おける教育が結婚を契機に断絶 したものと して捉え られるのではなく, すぐれた主婦像の形成に むかって一貫 した綜合的体系をもっ たものと して改めて把握される必要を提起するのである. しか し町家における嫁の教育は, 生家における幼時か らの朕 けの過程と共に, それがきわめて 実践的経験的教育の過程であるために, その実態は文献 資料と して残りにくい, 今後はその実践 規範, 指導原理である家訓・家法の発 掘や, 当事者の日記, 書簡等の調査をと お して, これ らの 0 ) 教育の方法原理や内容を明かにすることが必要であろう4 . この点, 中野卓氏が 前掲書の中で紹 介されている挿話 −−明治に入ってか らであるが, 京五条橋二丁目の薬種卸商大和屋忠 八家の七 世の新妻が, 夫の母五世未亡 人か ら主婦と しての仕事を しつけ られる過程で, 数多い年中行事を は じめと して, この家の主婦と しての役割の複雑さに, 「何度教わっても仲々おぼえきれないの 1 )な ど, 嫁の側の心情を伝え で」 「日記に書いた らおぼえ られようか」 と思いついて実行する話4 て興味深い, そこに紹 介されている日記には年中行事, 月 並行事を中心に大きな商家の複雑な慣 行がこまごまと誌されているが, その文面か ら感 じられるのは, 煩 わしい慣行にあえ ぎ, 押しつ ぶされようと している嫁の姿では なく, 祭 や同族会宴を迎える日の浮き立つような筆の運びの中 に, 新 しい活動の場を与え られた新妻の誇りと 喜びす ら感ぜ られることである. 彼女の脳裡には 娘時代一種憧襟にも 似た感情で眺めた母の威厳にみちた, そ して甲斐甲斐 しい姿が次第に大きく 拡がって行っ たのではなかろうか, 最後に, 主婦が直接その責任を負っ た女中の教育にふれる. 「守貞漫稿」 が 女奉公人京坂大戸の娘は奉公に出す者太だ稀也 大約中戸の娘は亘戸に 奉公 し小戸の娘は中戸 2 ) に奉公す或叉中 小戸共に自家に比する家に奉公するもあり4 と叙 している如く, 女中奉公は江戸におけるお屋敷奉公ほどの定型は生まれなかっ たが, 単な る給金日当の下女奉公のほかに 「親も どふなりこふなりく らせ ど, 智恵付のため, 善事見習はさ 4 3 )も少くなか った. 彼女たちは親元 んとて, 賜奉公のよい しゆ勤の娘」(「町家式目分限 玉の礎」) より上層の商家に女中奉公 して行儀作法を膜け られ, 家事の実際を経験 し, 婚期に達 しあるいは 縁談が まとまると主家か ら暇をとるのを常と した, このことは商家構成員の動態か らも裏付け ら − 14 −.

(16)    . 町家における女子教育の構造. れ, 彼女たちは勤続年数3・4年でほとんどが20才前後で暇をと っている4 4 ) , 一 方主婦は縁 あっ て托された娘 に対して, 子飼奉公人に対すると同 じような 情味をもっ て接し 自分の手でその娘 , を一人前の女 に仕上げることは一つの楽 しみでもあっ た, 昼間は女中の仕事をさせて 家事万端を 覚えさせ, 夜分になると裁縫を教えるとか活花に通わせる とか して女一と通りの芸を習 わせ 年 , 頃になる と場合によっては親元になり代って嫁入道具を調達 し 主人夫妻が 仲人 して良縁に片付 , けることさえあった. したがっ て女中の方も生涯主 家の恩義を感 じ 世帯をも た後までも折にふ っ , れ出入りする関係が続いたのも男の奉公人の場合と同 じであっ た4 5 ) . 註 1) 近世商家の教育構造については, 下記の拙稿参照いただければ幸いである 「近世商家における同族結合 . , と家訓の教育的, 機能」 『北海道学芸大学紀要』 (第1部C) 第13巻1・2号, 「近世商家における惣領教 育−−佐野屋孝兵衛家の記録をとおして−−」 同上・第1 6巻1号, 「近世商家における徒第教育−−佐野 屋孝兵衛家の記録をとおして−−」 同上・第16巻2号, 2) 早坂芳雄編 「宮城県酒造史」 別篇 (宮城県酒造組合刊)3 85頁,. 3 )菊池文書 (宇都宮市寺町・菊池小次郎氏蔵). 4) 文学作品からの引用は原則として 「日本古典文学大系」 (岩波書店刊) により 同大系に収録されていな , いものは 「帝国文庫」 その他によるが, 以下煩雑にわたるので所収書名, 頁数等の記載を省く . 5) 喜田川守貞 「繋近世風俗志」(「守貞漫稿」 故) 第三編人事,8 2∼3頁・ 6) 「主従日用条目」 『日本教育文庫』 訓誠篇下・4 6 4頁. 7 ) n町家式目分限玉の礎」 同上書・434頁, 8 ) 「貧富裸記」 『通俗経済文庫』 巻七・153頁. 9) 「日本橋横山町馬喰町史」23 3∼4頁. 10) 中野卓 「商家同族団の研究−−暖簾をめぐる家研究−−」3 49∼50頁, 11) 中野・同上書・56 2頁以下参照, 12) 「近江商人事績写真帳」 下巻・第247∼50図および同解説参照 なお近江商人の女性像を描いた作品とし . て外村繁 「筏」 がある. 13) 「菊池文書」.なお菊池民子は 「夢路日記」 で著名な大橋巻子の母である 詳しくは前掲拙稿参照 . . 14) 「女五常訓」 『日本教育文庫』 女訓篇・7 19頁. 15) 「橋本文書」 (佐原市本橋元・橋本地三郎氏蔵) . 16) 「日本橋横山町馬喰町史」8 5∼9 1頁, 17) 同上書・410∼1 1頁, 18) 中田易直 「三井高利」21∼8頁および土星喬雄 「日本資本主義の経営史的研究」13∼4頁 . 19) 岡戸武平 「伊藤家伝」37∼78頁. M R B d T 20) arry . ear : he Force of Womenin Japanese Hi ヒ s o r y (加 藤シズエ訳 「日本女性史」) には商 家の女性として三井殊法のほか, 幕末から明治への過渡期の人物であるが, 飯田歌子( 1833∼190 7) , 広岡 あさ子 (18 49∼19 19 ) 等を掲げている, 21) 「女庭訓往来」 『日本教育文庫』 教科書篇・5 74頁, 22) 「女消息往来」 ・同上書・5 65頁. 23) 「日本橋横山町馬喰町史」119∼20頁. 24) 深谷昌志 「良妻賢母主義の教育」33∼4頁. 25) 「鰯 女式目」 『日本教育文庫』 女司 1 ー篇・6 2頁. 7 2 6) 「守貞漫稿」 第四編生業上・前掲書・100頁, 27) 「主従日用条目」 前掲書・466頁. 28) 「守貞漫稿」 第二十一網音曲・前掲書・184頁, 29) 「主従日用条目」 前掲書・4 66頁, 3 0) 「守貞漫稿」 第二十一編音曲・18 4頁. 3 1) 西山松之助 「家元の研究」54 6∼7頁参照. 3 2) 「世事見聞録」 六の巻 「歌舞妓芝居の事」(改造文庫版)25 4頁. 33) 「武田百八十年史」188∼9頁. 34) 用例は余りに多いので省略するが, これについては中田薫博士の調査がある 同氏 「徳川時代の文学に見 , えたろ私法」130頁以下参照, 35) 「武 田 百八 十 年 史」156 , 165 , 191 , 193頁.. 3 6) 中野・前掲書28 7頁以下参照,. − 15 −.

(17)  . 入. 江. 宏. 2頁. 37) 「世事見聞録」 五の巻 「諸町人の事」19 38) 「我身のため」 『通俗経済文庫』 巻十・127頁, 26頁, 39) 杉本誠子 (大岩美代訳) 「武士の娘」 『世界ノンフィクション全集』 8 (筑摩書房版)4 40) 伊東多三郎氏によると武蔵川越の町人榎本弥左衛門には延宝8年序の自伝があり, そこに収められた嫁入 する娘に与えた心得書の内容を紹介されている, 伊東多三郎 「江戸時代と女性」 近藤忠義編 『日本の女性 6∼7頁. また家史 「紅屋二端」 には, 商家の女性のたしなみを数え歌の形で示したも 文化』 所収・同書29 のが見られる. 2頁, 1) 中野・前掲書・73 4 42) 「守貞漫稿」 第三縞人事・前掲書・85頁. 43) 「町家式目分限玉の礎」 ・前掲書・454頁. 7頁, 44) 中野・前掲書・25 45) 筆者蔵の 「主従心得草」 (文政6∼弘化4年刊) 二縞下には, 大坂京橋通り八軒家, 両替商米屋其の下女 (寛政2年, 14才) に兵庫在の祖母より送られたという女中奉公心得 (17条) が掲げられている. 所謂定 例文言にとどまらず, 女中心得の機微にふれており注日される. . 常見育男 「家 以上のほか本稿の作成全般にわたって伏見猛弥 「綜合日本教育史」 , 志賀匡 「日本女子教育史」 庭科教育史」 を参照 した.. − 16 −.

(18)

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