文学教材と文学研究(2) : 椋鳩十「大造じいさんとガン」
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(2) はじめに. −椋鳩十﹃大道じいさんとガン﹄. 文学教材と文学研究︵2︶. Ⅰ. 今回は小学校五年生の国語の教材として採用されている、椋 鳩十の﹃大造じいさんとガン﹄を取り上げる。その際、これま でのこの作品に対する先行研究を網羅的に押さえたうえで、自 らの意見せ明確に述べている鶴田誠司氏の﹃﹃大道じいさんと ガン﹄の︵解釈︶と︵分析︶﹄lを視座として、鶴田氏が問題点 として上げている点を中心に考察していきたい。具体的には、 文体、﹁前書き﹂、視点︵話者︶、そして、主題について考察して. いきたい。なお、主題に関連して、﹁大道じいさん﹂はずるい のではないか、とヤっ問題についても触れたい。. 本文について. 心主義というものを、絶対的なものとしているものではない。 本稿の目的は、この教材の読みの可能性を追求することにある。 その一つの方向として、脱・人間中心主義という見方を取り上 げるだけである。 また、テキストとしては光村図書の﹁国語五下・大地﹂所載 の﹃大道じいさんとガン﹄を用いる。後に考察するように、教 科書の本文についてはこれまで意見が分かれているが、本稿で は単に﹁前書き﹂が完備しているという点でこの教科書をテキ ストとすることとしたい。 Ⅱ. 自らの価値観に対して無自覚すぎるように思えるのである。そ. 何らかの価値観に基づいたものに過ぎない。ただ、多くの論が. 点から考察することとしたい。これまでの主題への言及も所詮. 体︵敬体︶に変わり、﹁前書き﹂がつけられた。. 物ども﹄︵三光社︶に収録された。この際、文体が﹁です・ます﹂. り、﹁前書き﹂はない。その後、昭和十人年五月刊行の単行本﹃動. 月号に発表された。このときの文体は﹁である﹂体︵常体︶であ. ﹃大道じいさんとガン﹄は﹁少年倶楽部﹂の昭和十六年十一. の点であらかじめお断りしておきたい。無論、この脱・人間中. ただし、主題に阻して、本稿では脱・人間中心主義という視. −21−.
(3) これまでこの作品は多くの出版社の教科書に採録されてきた なるだろ、つ。. 体︶の大きく二系統のテキストがある。これらの比較について. れた方ということになる。ただし、この場合一つ問題なのは、. すべきは何かが問題となる。例えば、作者の意図がより反映さ. では、どちらが教科書としてよいのか。この場合一体基準と. は、すでに青原英夫氏が﹁﹃大道じいさんと雁﹄ のテキストと 2 教材文についてトにおいて精緻に検討しているので、本稿では. 昭和十八年という時代的な問題がある。作者が自由に自分の書. が、その際にこの初出に近いもの︵常体︶と初刊本に近いもの︵敬. それらの関係については触れず、常体と敬体という点について. きたいものを書けたような時代ではなかったということが考え. 意図を優先させること自体にも反論があるだろう。例えば、井. 図を反映したものであると言いかねる面がある。無論、作者の. られる。後から直したとしても、それが百パーセント作者の意. れているものがよいと考えるなら、後から書かれた方、修正さ. のみ問題としたい。 鶴田氏はこの両者の文体について、これまでの先行論を踏ま えた上で、次のように述べている。 なお常体のよさについては、︵中略︶読者が読みやすいこと、. 伏鱒二の. の本文の改稿なども大きな問題となった。. 月然︵野生動物︶と人間の関係に厳しさというテーマに合って. この作者の意図という面からは決定的な評価はできない。. 一方、当然教科書であるから、生徒にとってどちらがより有. ﹃山板魚﹄. いることなどがあげられるだろう。また敬体のよさについて は、読者が語りかけられているという親近感・安心感を持て. 効か、という視点が考えられる。ただし、これも何において有. 出されているとは思えないのである。とすると、主題をもとに. ること、子どもにとって慣れていること︵小学校の教科書に. らも明治の言文一致から生まれた文体である。適時的に見れば. 考えることはできない。それでは読みやすさか。鶴田氏の指摘. 効かという聞いが続いて生まれる。主題を読みとりやすいこと. 両者は同じような傾向を持つものである。しかし、﹁です・ます﹂. する﹁慣れ﹂ということもある。生徒の読みやすさや慣れとい. は敬体が多い︶などがあげられるだろう。. の方は敬体と言うように、丁寧語として分類される。ここに両. うような効果については、具体的なデーターが提出されない限. か。けれども、では、主題は何か。これまで決定的な主題が提. 者の大きな相違が生じることになる。丁寧語であることは当然. り評価することはできない。鶴田氏も﹁教科書には敬体が多い﹂. ﹁である﹂体と﹁です・ます﹂体とは、言うまでもなくどち. ながら相手を意識して用いられることになり、それが先の鶴田. と言いながち、具体的なデーターを提示しているわけではない。. という議論と根本的に臥質だからである﹂として、﹁最終的に. となると、結局、鶴田氏が﹁﹃ご飯が好きか、パンが好きか﹄. 氏の﹁語りかけられる﹂という印象に繋がっているだろう。さ らに、結果として話し言葉的になる。それに対して、﹁である﹂ の方は文章語であり、客観的な描写にむいているということに. ー22−.
(4) なってしまう。. どちらがよいかという裁定を下すことはしない﹂ということに. ると考えるのである。それは一言で言えば、印象批評というこ. れにともなう﹁学習の手引き﹂には別の意味で大きな問題があ. とである。無論、それは鶴田氏だけに見られる問題ではないが、. 特にこの﹁学習の手引き﹂には文体の比較をめぐつてほとんど. ただし、鶴田氏はこの後﹁両者をともに生かすという授業の あり方を提案したいと思う。﹂として、次のように述べている。. 印象批評としか考えられない指摘がなされているのである。例. えば、問題例として、同一箇所の文を引用して比較させた上で、. どちらか一方だけを教材とするのではなく、﹁くらべよみ﹂ という形で子どもたちに二種類の本文を与えるのである。. その答えの例として次のようなものをあげている。. 次の二つの文を読んで、どんな違いがあると思いますか。. 両方の本文を与え、その後﹁学習の手引き﹂として両者の比. 間二. がんとかかもとかいう鳥は、鳥類の中でもあまりりこうな. 較をするような発間の例をあげている。けれども、この本文の 二つのテクストが存在すると理解すべきではないだろうか。常. ほうではないといわれていたが、どうしてなかなか、あの. 大道じいさんは思わず感たんの声をもらしてしまった。. 体と敬体のテキストは完全に独立した別のも. 小さい頭の中に、たいしたちえをもっているものだなとい. A. るべきであり、生徒にはそのどちらかしか読ませない方がか. うことを、今さらのよ、つに感じたのであった。︵教育出版︶. 問題は一つの作品に二つの表記法があるということではなく、. えって良いのではないか。個々の生徒にとって、たまたまであ ある。目の前にあるものこそ、今読んでいるものこそがテクス. うなほうではないといわれていますが、どうしてなかなか、. た。ガン. 大造じいさんは思わず感たんの声をもらしてしまいまし. トなのである。教科書に採録された段階でそれぞれが独立した. あの小さい頭の中に、たいしたちえをもっているものだな. B. テクストとして存在するのである。それは文体の問題ではなく、. ということを、今さらのように感じたのでありました。︵光. れ読んだものこそが﹃大道じいさんとガン﹄という作品なので. 二個の作品の比較という問題なのである。いわば﹃大造じいさ. 答え. 村図書︶. それについての答えなど提出できないだろうし、両者の﹁くら. いのに対して、Bの方は人物の心情や思い入れの深さが余情と. んとガン﹄か﹃ごんぎつね﹄かという聞いと同質なのである。 べよみ﹂など無意味であることは言うまでもないのである。﹁ご. なって残るような表現になっている。言い換えると、常体は淡々. AとBを比べると、Aが単純明確で断定的で歯切れがよ. 飯﹂にせよ、﹁パン﹂にせよどちらでも良いが、両者を同時に. としてあっさりした味わいであり、敬体は残雪の偉大さに語り. 手までも感動して威儀を正したかのような感じが伝わってく. 食べる者はいないのである。 けれども、ここで鶴田氏が例示している﹁くらべよみ﹂とそ. −23−.
(5) る。. ﹁前書き﹂について. ﹁前書き﹂について、これまで問題となったことに作中人物. Ⅲ. この﹁答え﹂を読んで何も疑問を持たないだろうか。国語科 教育においては、このような答えの例は当然のものなのだろう. の年齢に関わるものがあるパ例えば、安房文学教育の会の﹁椋 3. か。筆者は国語科教育が専門ではないためか、このような答え が何を意味しているのか全然理解できない。﹁歯切れがよい﹂. として次のような指摘をしている。. ﹁三十七歳の話﹂か﹁七十二歳の話﹂か−わざわざ、まえ. 鳩十﹃大道じいさんとガン㌔﹂においても、この作品の問題点. 文章とはどのような文章なのか。生徒は何を基準にして考えれ ばよいのか。また﹁思い入れの深さが余情となって残る﹂など. がきで、三十五、六年まえの話と説明しながら、本文では、﹁大. な感じ﹂にいたっては、全くの印象批評で筆者には何を言いた. 三十五、六年も前﹂の事を語るのに、本文で﹁じいさん﹂はお. ﹁前書き﹂では﹁七十二才﹂の﹁大造じいさん﹂が﹁今から. 道じいさん﹂という設定をしている意図がつかみづらい。. いかすら解らない。いや、何よりもこのような印象批評にすぎ. かしいのではないかというのである。︵大阪書籍ではこの部分. ということは、まったく感じ取ることができない。ましてや ﹁淡々としてあっさりした味わい﹂や﹁威儀を正したかのよう. ず、何ら客観的な意味を持たないものが、当然理解されうると. は削除されている。︶これについては鶴田氏の的確な指摘があ. ︵中略︶。前書きは物語の外の現実世界のこと︵作者自身の体. する鶴田氏の姿勢それ自体に違和感を感じるのである。あえて る原因ではないだろうか。文学的な表現を使いあたかも解った ような気がするだけに過ぎない。確かにこれでも理解できる生. 験談︶であり、本文は虚構世界のことである。︵私はその折の. る。. 徒はいるだろうが、理解できないものはいつまでたっても理解. 話を土台として、この物語を書いてみました︶とあるのが何. 言えば、このような姿勢こそが国語の授業の解りにくさの最た. にいたる可能性を失っている。個人的な印象や﹁感じ﹂は理解. よりの証左である。. たかも解って当然としているのである。これでは生徒はたまら. である。ただし、﹁前書き﹂はその後﹁さあ、大きな丸太がパ. ﹁土台として、この物語を書いた﹂とあるように、﹁前書き﹂ の﹁じいさん﹂をそのまま本文に繋げる必要はないということ. 本作品では前書きと本文を切り離して考えるべきである. ではないのだ。どうやったらそのような﹁感じ﹂がつかめるよ. ない。当然求められるべきは客観的な指摘であり、それがセき. ぅになるのか、.鶴田氏はその点についてはまるで触れない。あ. なければ、﹁くらべよみ﹂など止めた方がよい。. チパチと燃え上がり﹂ともう一度﹁前書き﹂の最初の部分に繋 がるような書き方をしており、結果として虚構としていること. −24−.
(6) が読み落とされやすい構成になっている。︵このような構成に. ついてはすでに、山本茂書氏の﹁﹃大造じいさんと雁﹄ る語りの機能﹂において、類似の指摘がある。︶さらに、﹁土台. ることの積極的な意味は認められるのではないか。年齢に関し てけ も、三十五歳の時の話を土台として、﹁じいさん﹂を主人公 にお にした物語を書いたとすれば、何ら問題はないのである。出来. も十分である。その上で、その部分だけ︵残雪︶に﹁視点﹂. 事自体は事実に基づくものということなのである。 として﹂という言葉自体かなり曖昧である。完全な虚構とする こともできるし、逆に土台なのだから現実に近いとすることも Ⅳ 話者七ついて できなくはないのではないか。また﹁物語﹂というのも単純に 虚構としてしまえるか、疑問を挟む余地がありそうである。つ 主題について述べる前に、話者について触れておこう。この 作品の視点はどこにあるのか、話者はどこから見ているのか。 まり、﹁土台として、この物語を書いた﹂という言葉自体が曖 鶴田氏は三人称全知視点と三人称限定視点の二つの論の対立が 昧なのであり、この部分の読みとりに揺れが生じやすいという あることを紹介した上で次のようにまとめている。 ことである。そのために、はっきりと﹁切り離して﹂と述べて いる鶴田氏自身にも、﹁前書き﹂と本文との関係の曖昧さが見 だから、﹁三人称全知視点か三人称限定視点か﹂といった 受けられるのではないだろうか。鶴田氏は﹁私なりに前書きの 問題にあまり深入りせずに、作品の構造は基本的に︵大道じ 持っている積極的な意味を探ってみると﹂として、三点あげて いさん︶を﹁視点人物﹂としつつも、一部で︵残雪︶を擬人 化︵視点人物化︶しているような表現があるという押さえ方で いる。 ①リアリティーの増大、②大造爺さんの経歴︵雁狩りの中. を設定したことに上ってどういう文体効果が生じているかを. この内の①はともかくとして、②、③は﹁前書き﹂の人物と 考えるのが得策だろう。 本文中の人物を重ね合わせることに他ならず、それでは本文が 単純に考えて、この作品が﹁三人称全知視点﹂ではあり得な 虚構ということにはならないのではないか。③では、かえっていことはすぐ解るはずである。それは﹁ガン切群れは、これに 危物 険を感じてえさ場を変えたらしく﹂とあることによってはっ 年齢がまた問題になりかねないのである。やはり﹁土台﹂、﹁ 語﹂という言葉の曖昧さが拭いきれないのである。けれども、きりとしている。全知視点とは神の視点である.。神は想像など 鶴田氏が指摘している①に関しては、これが事実に基づいたもということをしない。全てを知って.いるはずだからである。︵だ かィ らー 、全知視点の場合語られる内容は全て正しいことになる。 のであるということが、﹁前書き﹂によって示され、サアリテ この全知か限定かという問題は、語られている内容の信憑性に が強調されると考えられる。その点だけでも、﹁前書き﹂があ. 止︶の紹介、③時代的古さの強調ということになるだろう。. −25−.
(7) 関わるものである。神は嘘をつけない。︶この作品は﹁三人称限. 人称全知視点﹂であってもかまわないことになる。. に語りかけているのである。無論これだけならば前に述べた﹁三. の心理が描かれる場面がある。. も手に入れることができなくなったので、いまいましく思っ ていました。. 大造じいさんは、このぬま地をかり場にしていたが、いつ ごろからか、この残雪が来るようになってから、一羽のガン. 次に﹁じいさん﹂. 定視点﹂でしかない。では視点人物は誰か、話者は﹁大造じい さん﹂か。 ここでは読者による話者の人格化という土とを考えてみた い。この作品では、先程の想像しているところや、話者が自分 の意見を述べていると読みとれる場面が多くある。結果として、 読者はそこに一人の人物を想定したくなるのである。通常それ. が物語世界に登場している方が解りやすい。つまり、ここでい ﹁いまいましく思っていました。﹂と﹁大道じいさん﹂の心 う﹁大道じいさん﹂である。しかし、鶴田氏の指摘にもあった 理が語られる。しかし、心理を語ってはいるが、話者は﹁大道 の視点からだけ述べてい じいさん﹂と重なっているわけではなく、あくまでも外から心 るわけではない。視点の転換がある。また、読者に直接語りか. ないということがあるだろうか。﹁一羽のガン﹂も手に入れる. 葉にはっきり現れている。﹁大造じいさん﹂がいつごろか解ら. 理を語っているのである。それは﹁いつごろからか﹂という言. よ う に 、 必 ずしも話者は﹁じいさん ﹂. けていると思われる部分もある。話者の位置に揺れが見られる のである。. ことができないというのは、狩人たる﹁大道じいさん﹂にとっ. て大問題でそれが﹁いつごろからか﹂とはのんびりしすぎてい. そこで具体的に本文に沿って話者の位置を確認していきたい?. ま ず 、 作 品の冒頭から。. して読みたいのである。話者は読者によって人格化され、あた. る。むしろ、これは﹁大造じいさん﹂の外にいる話者の言葉と. 今年も、残雪は、ガンの群を率いて、ぬま地にやって来ま した。. はそんなことは知っているのだから、今更そのようなことを考. 読者への紹介以外のなにものでもない。当然﹁大道じいさん﹂. ンの大群が飛び立ちました。じいさんは、﹁はてな。﹂と首を. じいさんがぬま地にすがたを現すと、大きな羽音ともに、ガ. さらに、話者と﹁大道じいさん﹂とは重なり合っていく。 秋の日が、美しくかがやいていました。. の名前の由来の紹介は、まさに話者から. えることはない。﹁大道じいさん﹂とは別の話者がいて、読者. こ の 後 半 の﹁残雪﹂. か り ゆ う どたちからそうよばれて い ま し た 。. 残雪というのは、一羽のガンにつけられた名前です。左右 かも﹁じいさん﹂ のすぐ側にいる人物であるかのように、読者 のつばさに一か所ずつ、真っ白な交じり毛をもっていたので、 には受け取られるのである。しかも、﹁いつごろからか﹂とあ るのは、話者が神ではない証拠でもある。. −26−.
(8) かしげました。. る。︶ただし、この作品には作者以外にその候補がいる。それが. ﹁前書き﹂た出てくる﹁大道じいさん﹂なのである。現在の自 分が過去の自分について語る。けれどもそれでは語られている. つりばりをしかけておいた辺りで、確かに、ガンがえさを あさった形せきがあるのに、今日は一羽もはりにかかってい. のは三十六才ぐらいの自分になり、先程の年齢の問題が再燃す. プして行くと言うべきかもしれない。 さらに、この後でこれらのガンの行為について﹁あの残雪が、. ません。いったい、どうしたというのでしょう。. しげた﹂というのも、具体的な行為なのか、比喩的表現なのか. 仲間を指導してやったにちがいありません。﹂というのは、いっ. る。むしろ、現在の﹁じいさん﹂の姿が過去の姿にオーバーラッ. 曖昧である。さらに最後の﹁いったい、どうしたというのでしょ. たいどのような視点から語られているのか。ここにはむしろ話. ここでまず﹁はてな。﹂というのが、外から見ての形容なのか、. う。﹂というのは、﹁じいさん﹂の心理をそのまま語ったのか、. それとも心理を内から描いているのか、解りづらい。﹁首をか. それとも話者自身の疑問なのか。話者が読者に疑問を投げかけ. 者が意図的に残雪像を作ろうとしていると読めるのである。 この後で視点があたかも﹁残雪﹂に移ったかと思える語りが. 論、話者だけの視点という見方もできなくもない。話者が常に. いさん﹂と話者の視点が重なっていると見ることができる。無. なのか。それはあくまでも﹁じいさん﹂であり、ここでは﹁じ. ぴいんと引きのばされています﹂の﹁気をつけて見﹂たのは誰. ただその後に﹁気をつけて見ると、つりばりの糸が、みんな. えると、その広いぬま地のずっと西側のはしに着陸しました。. 能は、そう感じたらしいのです。ぐつと、急角度に方向を変. 昨日までなかった小さな小屋をみとめました。 ﹁様子の変わった所には、近づかぬがよいぞ。﹂かれの本. 率いてやって来ました。そしで、ふと、いつものえさ場に、. ある。 ところが、残雪は、油断なく地上を見下ろしながら、群を. ているとも読めるのである。人格化という点からすれば話者自. 状況を読者に説明・紹介していると言えなくもないのである。. ここでは視点は﹁残雪﹂に移っているかに見える。﹁そして、. 身の疑問ということになるだろう。. ただし、話者は物語世界の﹁じいさん﹂のすぐ側にいるようで. せたくなる。具体的な語り手が欲しいのである。︵言葉でコミ. い。このような場合、読者は往々にして話者を作者に重ね合わ. と推量であることが語られる。しかも、この﹁近づかぬがよい. 一見﹁残雪﹂ の心理そのもののようで↓﹁そう感じたらしい﹂. ﹁様子の変わった所には、近づかぬがよいぞ。﹂という言葉も. ふと﹂というのは本当に﹁残雪﹂の視点なのだろうか。さらに. ニュケーションするのは人間しかおらず、ここにはその言葉が. ぞ﹂などという言葉からも﹁残雪﹂像が導き出されたりもして. あっても、具体的な人物として作品中に現れているわけではな. あるのだから、具体的な人間の存在を習慣として欲するのであ. ー27−.
(9) 見ていたはずである。そうでなければ、その後に﹁いきなり﹂ ハヤプサにぶつかることはできない。つまり、この﹁残雪の目. になっていないのではないか。いったいここでは﹁残雪﹂は何 を見ているのか。﹁仲間﹂なのか。いや、﹁残雪﹂はハヤプサを. ているのか。﹁残雪の目には﹂と言いながら、.それは﹁残雪の目﹂. とが語られている、かに見える。しかし、本当に視点は転襖し. ここにはつきりと﹁残雪の日には﹂と視点が残雪に移ったこ. いきなり、敵にぶつかっていきました。そして、あの大き な羽で力いっぱい相手をなぐりつけました。. 残雪の目には、人間もハヤプサもありませんでした。ただ、 救わねばならぬ仲間のすがたがあるだけでした。. いるのではないか。例えば﹁古武士﹂のように﹁残雪﹂を捉え は後に触れる。︶ たりするのは、このような言葉によるとも考えられるのである。 さらに、視点の転換と言うことで、特に﹁残雪﹂の視点に移っ ているという点で中心的な部分を引用しよう。 しかし、それは﹁残雪﹂自体︵実態︶とは関わらないものなので. ある。それにしてもいったいガンの目の視野とはどのように なっているのだろうか。小屋をふと見つけるような視野なのだ ろうか。後半の心理の部分のように話者が﹁残雪﹂の日を単に 想像しているだけではないか。視点の転換と言えるだろうか。 っまり、あくまでも視点は地上にいる人格化された話者のまま であり、話者は空にいる﹁残雪﹂の視点から場面を見ているわ. ㈱. けではないのではないか。﹁残雪﹂の行動から想像されたもの が 語 ら れ て いるに過ぎない。 このような指摘はすでに、田中実氏の﹁︵本文︶を探して1﹃大. 造爺さんと雁﹄椋鳩十﹂において述べられている。 傍線部分﹁ゆだんなく地上を見下ろしながら﹂とあるよう. さらに、﹁残雪﹂の視点と思われる描写が続く。. の発言か解らない部分や、話者が﹁じいさん﹂の内面に入りこ んでいる場面もある。. この後も話者の視点からの発言か、﹁じいさん﹂の視点から. に、残雪が視点人物と替わる。しかし、︵語り手︶はその後、 には﹂というのは具体的な﹁残雪﹂の目ではなく、むしろ説明 すぐに﹁かれの本能は、さう感じたらしいのです。﹂と﹁大 的なものなのである。話者の視点はあくまでも地上から動いて 道爺さん﹂がその光景を見て、感じたことを語る。すなわち、 いないのである。. 残雪を視点にしているところは、地上から1大造爺さん﹂が. 見ている光景、﹁大道爺さん﹂が残雪のことをそう捉えてい. る場面でもある。 ただし、これでは視点が転換しているのかどうなのかはっき. りの力をふりしぼって、ぐつと長い首を持ち上げました。そ. しかし、第二のおそろしい敵が近づいたのを感じると、残. から想像に違いないと言ってしまえばそれまでだが、問題は話. して、じいさんを正面からにらみつけました。. りしなくなる。︵無論、そもそも鳥の気持ちなど解らないのだ. 者が地上にいるか空にいるかという点にある。この点について. −28−.
(10) それは、鳥とはいえ、いかにも頭領らしい、堂々たる態度 の よ う で した。. ここでもうー皮、前の引用の最後の一文に注目したい。これ. は話者が﹁じいさん﹂の目に重なっているかに見えるが、問題. ここでも視点はあたかも﹁残雪﹂にあると読める。﹁感じると﹂は最後の﹁態度のようでありました﹂という部分である。この. 推定は何か。この後も﹁それは、最期の時を感じて、せめて頭. 領としてのいげんをきず付けまいと努力しているようでもあり. ﹁ふりしぼって﹂などはまさに﹁残雪﹂と話者が重なったかの ようである。しかし、これも厳密には必ずしも﹁残雪﹂の心理. ました。﹂とある。さらにこの文に続いて次のようにある。. 大道じいさんは、強く心を打たれて、ただの鳥に対してい. そのままとは言えないのではないか。やはり話者の想像の転化 に過ぎないのではないか。そして、それは﹁残雪﹂の擬人化と. 重なっているのではないか。そこから単に﹁残雪﹂の心理を想. ている視点で書かれている。この視点がそのまま話者の視点に. よる︶もあくまでも﹁大道じいぎん﹂の背中から﹁残雪﹂を見. 打たれて﹂という言葉の意味が解らなくなるだろう。厳密には. そのまま﹁じいさん﹂の気持ちと重ならなければ、﹁強く心を. れが話者の﹁残雪﹂に対する気持ちであったとしても、それは. そのまま善かれていることになるのだろうか。しかし、仮にこ. その前の部分にはない。とすると、その前の文は話者の考えが. るような気がしませんでした。. 像しているに過ぎない。むしろ、そのような構図が明確になる. 話者個人の気持ちであっても、読者はそれを﹁じいさん﹂に重. いうことでもぁる。少なくとも﹁残雪﹂から﹁じいさん﹂を見. ような文章ではないことの方が問題かもしれない。. ねるである。ただし、このような話者の位置づけはナ. この文では′﹁大道じいさん﹂と明確に主語が語れているが、. 視点の転換というのはこのような話者の想像でも認められる か、それともカメラアイとして機能していないような視点の転. とても読みにくいものにさせている。. ているのではない。例えば、光村図書の挿し絵︵太田大八氏に. 換は転換と呼べないのか。話者を人格化した場合、話者の想像. のすぐ近 くにいる人物で、なおかつ. このように、この作品の話者は、﹁大造じいさん﹂. やはり厳密に話者はどこで見ているかということが問題になる. るものということになる。一方で一見視点が﹁残雪﹂の方に移っ. 力などを想定することが可能である。しかし、その場合でも、 のではないか。話者は﹁残雪﹂に対してあ美かもその内部から. ているかに見えるが、田中氏も指摘しているように、あくまで. ﹁大道じいさん﹂の内面に入り込め. ︵内的遠近法︶描いているかに見えて、実は話者自身は何も動い. とありながら、そのような視点を持ち得ないのは、語りとして. に、その話者と物語世界の中の﹁大造じいさん﹂とを重ねやす. な話者は物語世界の中に具体的には登場していない。そのため. ていないのではないかということである。特に﹁残雪の目には﹂ もそれは地上にいる話者の想像にすぎない。しかし、そのよう 問 題 が 残 る のではないだろうか。. −29−.
(11) 者はあたかも幽霊の如く﹁じいさん﹂に寄り添っているもので. している。あるいは、作者と重ねるかもしれない。しかし、話. いのである。また、﹁前書き﹂がそれを誘発するような働きを. ではないかと見る。それは先の﹁自己変容﹂ないし﹁自己変. 生の本能に触れたことによる狩人としての覚醒﹂にあったの. などが考えられるだろうが、私は、その本質的な原因が﹁野. 村する驚き﹂﹁卑怯なやり方をすることの後ろめたさ﹂︵中略︶. 革﹂というテーマと密接に関係している。. あって、﹁大道じいさん﹂自身ではない。人格化された曖昧な 存在のままなのである。また、﹁残雪﹂. 鶴田氏は特に﹁大道じいさん﹂が﹁残雪﹂を撃とうとして、. に対して、視点の転換. が行われているようで行われていないということは、むしろ、. 銃を下ろす場面に注目している。ただ、密接に結びついている. という﹁自己変容﹂−﹁自己変革﹂という主題に関わっては、こ. ﹁残雪の目には﹂という言葉が実は正しい情報を伝えていない ということになる。それは話者と読者の間の倍額関係を裏切る. の場面とさらにその先のハヤプサとの戦いの後の﹁残雪﹂に村. もうひとつ主題として従来から取り上げられているものに. られる。. して﹁ただの鳥に対している∼﹂という場面が中心に取り上げ. ものでもある。. Ⅳ 主題1 鶴田氏は﹁作品の主題をめぐる問題﹂として、﹁動物と人間. ﹁フェアプレイ蘭神﹂がある。例えば、二上洋一氏は﹁椋鳩十・. 6. の心の交流﹂、﹁自負と自負の世界﹂、﹁大道爺さんの自己変容﹂、. 初期の短編小説トで次のように述べている。. いうことに集約される。. 頭領・残雪正々堂々たる戦い、つまりフェアプレイの精神と. この作品の主題は、やはりなんと言っても大道爺さんとの. ﹁人間と自然の共存・共生﹂をあげて、考察している。それぞ れについて言及した上で、特に最後にあげた主題について次の ように述べている。 作品の主題をめぐつて、最後に指摘したいのは﹁大道爺さん. 場面が関わってくる。そこで、ここでは、この三つの場面を取. この主題については先に挙げた二つの場面と、作品の最後の. 題である。両者が共存・共生していくためには暗黙のルールが. り上げて分析することにより、この作品の主題について考えて. と雁﹂に見られる人間と自然︵野生動物︶との秩序ある生活の問 あるという考え方である。この間題については、従来の作品論. いきたい。. いました。が、なんと思ったか、再びじゆうを下ろしてしま. 大道じいさんは、ぐつとじゆうをかたに当て、残雪をねら. まず、銃を下ろす場面から始めよう。. や教材論ではあまり取り上げられなかった。 本作品の場合、︵大道爺さん︶ が ︵残雪︶を撃たなかった. ことには重要な意味が含まれている。彼はなぜ︵銃をおろし て︶ しまったのだろうか。その原因として、﹁意外な展開に. −30−.
(12) いました。. り、また、作者がそれを﹁土台﹂にして物語を書く理由でもあっ. なかったことの意外性がこの物語を語らせる理由だったのでぁ. たはずである。︵無論、他にも理由が考えられるし、このよう. いわば﹁残雪﹂を撃つのに絶好のチャンスにも関わらず、じ いさんは銃を下ろしてしまう。ここにこの作品の一番のドラマ. な読みは﹁前書き﹂があることによって可能になる読みでもあ. 用にあった﹁狩人としての覚醒﹂、並びに﹁自己変容﹂に近い. 田中実氏も前掲の論文でこの場面について、先の鶴田氏の引. る。︶. がある。なぜ撃たなかったのか、また、それは狩人として甘い のではないか。鶴田氏はこの場面について次のように述べてい. る。 狩人は猟銃で獲物を撃つことで生計を立てていくことは言. て責められるべきだろうか。私はその行為を否定的に評価す. が︵残雪︶を撃たなかったことは狩人の本務に惇る行為とし. 職業意識を超えた出来事だったのだ。生きるために獲物を捕. き方がいかに厳しいものであったのか。その行為は爺さんの. 己れの命を犠牲にしても仲間を救い出そうとした残雪の生. 読みを提示している。. るどころか、むしろそれがこの作品を文学として成立させて. らえ、あるいは種をまいて収穫する、そのために人にはそれ. うまでもない。しかし、だからといって、︵大造じいさん︶. いる最大の要因だと考えている。. の本能的行為は、すなわち﹁残雪の目には、人間も隼もあり. ぞれの職業があり、これが人間世界の生業だとすれば、残雪. しかし、﹁大道じいさんとガン﹂では狩人が獲物を目前に. ませんでした。たゞ、救はなければならぬ仲間の姿があるだ. ︵中略︶. して銃を下ろすという異常な行為をクローズアップして描い. たかは、作品中には詳しく善かれているわけではない。,︵この. けでした。﹂という行為は、この職業倫理を超えた行為とし. 向かう﹁残雪﹂を﹁じいさん﹂は撃つことができなかった。そ. 点は後に触れる。︶あくまでも、由中氏の想像でしかない。しか. ている。しかも、あれほど敵意を抱き、闘志を燃やしていた相. れは狩人として異常な行為であるかもしれないし、鶴田氏が指. も、この﹁残雪﹂の行為を自己犠牲として読むのは、﹁残雪﹂. て捉えられていたのである。. 摘するようにそれによってこの作品は﹁文学﹂になっていると. を人間的に捉えて評価しているにすぎない。田中氏が﹁本能的. 手を見逃すというのは常識では到底考えられないことである。. も考えられる。けれども撃ってしまえば、作品はここで終わる、. 行為﹂と温べているように、単純なプログラムであるかもしれ. ただし、﹁大道じいさん﹂の職業倫理がどのようなものであっ. というよりも、もそも作品にはならない。この物語は撃たなかっ. ないのである。ただし、他のガンたちは逃げているのでそれら. 自分の仲間を救うために人間の姿も無視してハヤプサに立ち. たからこそ語られたのである。﹁大道じいさん﹂にとって撃た. −31−.
(13) との比較において、残雪の行為は評価される。しかし、そ 体れ 的は な生活がこの作品に善かれていないという点である。つま 頭領としての別のプログラムが作動したに過ぎないかもし りれ 、な この場面までの描写は、﹁じゆうを下ろした﹂ことに関連 いのである。しかも、田中氏はこのような自己犠牲が人間 しに てお 読めば、﹁じいさん﹂が撃って当たり前だ、という点を強 いてはあたかも不可能のようなニュアンスで述べているが 調、 すこ るためのものとして位置づけられる。いかに苦労したか、 の作品の執筆時において、戦争という特殊な状況もあいま あっ るて い、 は憎んでいたかを示し、﹁残雪﹂を撃って当然であると 自己犠牲はむしろ一般的なものとして捉えられていたので いは うな 設定をする必要がある。鶴田氏も﹁あれほど敵意を抱き、 いか。例えば、部下のために指揮官が犠牲になるという、 闘こ 志の を燃やしていた﹂と述べている。それによって撃たなかっ 話に類似したものに﹁軍神広瀬中佐﹂の話がある。﹁広瀬 た中 こ佐 と﹂ との落差を作る必要がある。けれども、現代では狩人の は日露戦争の折に、部下の杉野兵曹長の身を案じたために 生、 活結 というものがほとんど知られていないため、じいさんの苦 果として自らが敵の銃弾の犠牲になったのである。﹁軍神 労﹂ がと 趣味的なニュアンスで捉えられやすくなっている。タニシ なった最初の人物であり、文部省唱歌にも﹁広瀬中佐﹂と をい ﹁う 五俵ばか牒﹂集めるのも、その苦労は現代では解らないの 歌があり、一般に広く知られていた。他にも坂口安吾が﹃ で真 は珠 な﹄ いか。むしろ、お金がどれぐらいかかったか、あるいは そんなに買えるならば生活に困っていないのではないか、とさ ︵﹁文芸﹂昭和十七年六月号︶に措いた真珠湾攻撃時の﹁九軍神﹂. えってのんびりした感じになってしまう憾みがある。︵当然の. の言葉は現代とはまったく違った意味で読まれていただろう。︶. ために自らを犠牲にするというモチーフ自体は、文学にお すけ なる わち、せっかく設定された落差を大きくするための仕掛け ありふれたモチーフでもある。戦争や戦いというものをははず 、し 必ずしもうまくいっていないと考えられるのである。︵後 ても成立するものなのである。このように考えならば、田 に中 述氏 べるように、そのためにこの場面までの描写は﹁残雪﹂の の論は﹁大造じいさん﹂の行為を自分の読みに強引に引き け示すだけになってしまう。︶この点についてはすでに田中 賢つ さを た解釈であるという感を拭えないのではないか。 氏の次のような指摘がある。 ただ、一つ注意したいのは先にも触れた、﹁じいさん﹂の具 現代の学習者、特に小学校児童にとって、そもそもこの老. もりはない。あくまでも時代背景の問題である。︶ただ、仲間の. からといって、作者椋鳩十が軍神などを意識していたと言 事う なつ がら、作品の発表時はまさに戦闘のまっただ中であり、こ. こそ﹁残雪﹂を英雄として捉えられるのだとも考えられる。︵だ. なども有名である。狩人という職業倫理にはなくとも、当 え時 読の まれる可能性がある。さらには﹁戦闘開始﹂という言葉も、 日本人には自己犠牲は意識されていたのである。いや、だ 現か 代ら の日本では遊びの領域の言葉になってしまっていて、か. −32−.
(14) 解できない。そのため、戦いの勇壮な場面がことさら強調さ. とに情熱を持っているか、︵本文︶を読んだだけではよく理. 人が何のためにこれほど残雪、あるいはその他の雁を撃つこ. ここでは﹁大道じいさん﹂の行為の理由、心理を語らない。と. 目したい。それまでの語りでは、ほぼ全知とも言える語り手は、. 題が読みとれるのか。特に﹁なんと思ったか﹂という言葉に注. 生活が感じられなくなるのである。しかし、だからといって教. る。まして、七十二歳の爺さんとして読むと、なおさらそこに. に生活感がないことが一番大きな理由として考えられるのであ. 確かに、田中氏の指摘の通りであみ。特に﹁大道じいさん﹂. な ど と 説 いている。. からない、いや、先に見たように国語教育研究者は問えない. 苦労を重ねて獲得したチャンスに、何故銃を下ろしたかは分. 強い必然性は読み取られずにいる。まして、せっかく苦労に. 道爺さん﹂が生きていくためには雁を狙わなければならない. いる。ただ、その後の﹁残雪﹂の潔さは﹁じいさん﹂に対する. ︵この後﹁残雪﹂は﹁じいさん﹂を﹁にらみつけ﹂たりもして. ば、作者もそのようなことは考えていなかったかもしれない。. ある。無論、そのような描写はこの作品にはなく、あえて言え. かわらず、撃たなかったことを解っていたとも考えられるので. ほど賢い. のではないだろう。しかし、銃の射程距離を冷静に判断できる. ではないか。それは一方的なもので、﹁心の交流﹂と呼べるも. いは、この一瞬に﹁大道じいさん﹂は﹁残雪﹂と心が通じたの. ないか。少なくともこの作品の最も魅力的な場面である。ある. ︵補1︶. れ、仲間を助けに行く残雪のかっこよさに目がいきやすいが、 いうより、解らないでいる。語り手は﹁じいさん﹂から後退し ﹁大道爺さん﹂が大変苦労してわなを仕掛けたりすることに ている。これによって、この﹁じいさん﹂の行為が鮮明に際だ 目がいかず、むしろ反発する意見も見られるようである。﹁大 っ∵﹂の行為の鮮やかさこそがこの作品の主題と言えるのでは. 師がその狩人の生活を補説する場合、例えば昭和十年代の狩人. 信頼もふくまれていたとは考えられないだろうか。︶ともあれ、. ﹁残雪﹂であれば、﹁大道じいさん﹂が撃てたにもか. の実態や、時代背景などがどれだけ理解できるだろうか。中途. ﹁殊雪﹂の賢さはそのような読みの誘惑をもたらすのである。. これまで﹁動物と人間の心の交流﹂という主題については、多. 半端な理解に基づいて補説をすれば、かえって授業は混乱する だけではないか。︵無論、先の. くはこの場面より後の場面について論じられてきた。特に最後. ﹁広瀬中佐﹂もそのような例に. なるだろうけれど。︶また、前述のように補説する側の思い入れ. が、この銃を下ろす場面も注目する必要があるのではないだろ. けれども、作品はここで終わらない。この後、この行為の理. うか。. に﹁残雪﹂を逃がし、声をかける場面が中心に捉えられてきた. によってかなり偏った読みを生徒に強いることになりかねない のである。重要なのは、まず第一に書かれていないという事実 を 確 認 す る ことである。 では、この銃を下ろした場面に注目するとき、どのような主. −33一.
(15) 由が説明されることになる。. 次の場面を見ていくことにしよう。しかし、それは最初に述. さらに、﹁まるで残雪を人間であるかのようにあつかってい. る。﹂と述べている。このような人物化はそ施そもガンを﹁残雪﹂ 8. と呼ぶことから始まっていたのではないかq最初からこの作品. はガンを人間的に扱おうとしていたのである。その中心が﹁た. になる。いや、その前に先の﹁頭領﹂らしさ・潔さということ. だの鳥に対しているような気がしませんでした。﹂という言葉. るような気がしませんでした。. について確認しておこう。. べた脱・人間中心的という視点から考察していくことにした ヽ ○ ト∨ 大造じいさんは、強く心を打たれて、ただの鳥に対してい 鶴田氏が言う﹁あれほど敵意を抱き、闘志を燃やしていた﹂﹁残. ハヤプサと戦った﹁残雪﹂はハヤプサともつれあって、ぬま. 地に落ちた。その場に駆け寄ってきたじいさんを﹁残雪﹂はに. 雪﹂に対して、﹁大造じいさん﹂これまでとはまるで違う目で 見ている。ただ、それは単に仲間のためにハヤプサに立ち向かっ. 残雪は、むねの辺りをくれないにそめて、ぐつたりとして. らみつける。. むしろ、その後の﹁残雪﹂の﹁頭領﹂らしさ、末期の潔さによ. いました。しかし、第二のおそろしい敵が近づいたのを感じ. たという、英雄的、自己犠牲的行為によるものだけではない。 るものと考えられる。また、その過程は同時に﹁残雪﹂を擬人. ると、残りの力をふりしぼって、ぐつと長い首を持ち上げま. この﹁残雪﹂の行為は一見客観的な語りに見えて、かなり擬. した。そして、じいさんを正面からにらみつけました。. 化する過程でもある。. 例えば、西郷竹彦氏は﹁文芸の授業における語柔・語法の指 7 導−椋鳩十﹃大道じいさんとがん﹄−㌧において、語り手が﹁残. うか。単に脅えによる反応であるかもしれない。話者の主観的. 人的な表現になっている。果たして、㌧にらみつけたのか﹂ど. もうひとつ気づいてほしいのは、筋の展開の中で、三幸か. な表現になっているのである。これはこの後の﹁頭領らしい﹂. 雪﹂を人物化するプロセスを指摘している。 ら四季と流れてくる流れの中に、ただのがんである残雪が、. という言葉に繋がる表現なのである。. のようでありました。. それは、鳥とはいえ、いかにも頭領らしい、堂々たる態度. 人物化されていくプロセスがあります。これは、大道じいさ んの心情を通して話者が語っていくから、大道じいさんが、 ただの鳥ではなく、まるで自分と一村一の若武者のような人. らぎませんでした。それは、最期の時を感じて、せめて頭領. 大道じいさんが手をのばしても、残雪は、もうじたばたさ. 読者もまた、がんがまるで人物のようにみえてくるわけです。. としてのいげんをきず付けまい七努力しているようでもあり. 物のようにみていくプロセスがあります。それにしたがって それに気づかせる必要があります。. 」34−.
(16) の鳥は馬鹿にしていて、例外として、﹁残雪﹂を特別に評価する ました。 これは自然をそのまま受け入れようとする姿勢ではない。鳥を ここでは文末が推量なっている。視点も﹁じいさん﹂から離 馬、 鹿にしておきながら、人間的な場合のみ評価するということ れて、語り手の視点となっている。先の文は客観的な表現だが である。いわば、人物化とあいまって、人間こそが可能な潔さ ここでは主観的になっている。しかも、この二つの文は﹁それ を﹁残雪﹂も持っていたことの評価ということにすらなるので は﹂という言葉で始まっており、構成や内容もほとんど同じ事 ある。人間中心的な評価軸に鳥を当てはめているに過ぎない。 を繰り返しているだけなのである。そして、そこで言っている つまり﹁ただの鳥に﹂というのは、人間の実は思い上がった ことは﹁頭領としてのいげん﹂とい、21Jとになる。ただし、先. 意識の反映に過ぎないのである。︵それはこの後の﹁おうい、 の﹁にらみつけた﹂同様、実際に﹁残雪﹂が﹁頭領としてのい げんをきず付けまいと努力﹂しているかどうかは解らない。いガンの英ゆうよ。﹂という言葉に直接結びつくものである。︶こ れで﹁大道じいさん﹂の﹁自己変革﹂などができたと言えるだ やだからこそ、﹁ようでありました﹂とあたかもそのような指 ろうか。 摘を予想したような語り方になっているとも考えられる。﹁に らみつけた﹂は外見だからまだ解るが、ここでは﹁残雪﹂の心 また、前に述べたように、じゆうを下ろす場面までの描写は、 理・思いに入り込んでいるので、推量になっているとも考えら﹁じいさん﹂の﹁残雪﹂に対して﹁あれほど敵意を抱き、闘志. 写もまた、﹁残雪﹂がいかに賢いかを示すための挿話というこ した﹂と思うのである。 とになるのである。ただし、その場合この物語全体は﹁大道じ しかし、この﹁ただの鳥に対して﹂というのは、あまりに人 いさん﹂が出会った賢いガンの物語ということになる。語り手 間中心的ではないだろうか。そもそも、﹁ただの鳥﹂という言 は一貫してガンの賢さを語っていることになる。当然そこには、 い方自体が、すでに鳥を人間以下として見下していることを示 している。それは﹁たかが鳥のことだ、一晩たてば、またわす﹁大造じいさん﹂の﹁自己変容﹂などないし、﹁心の交流﹂な どもないことになると考えられる。 れてやって来るにちがいない﹂という所にも現れていた。ただ. を燃やしていた﹂姿を描くことを目的として、銃を下ろす場面 れる。 との落差を作ろうとしながら、実は﹁じいさん﹂の生活感が語 このように、ここで取り上げられているのは、バヤプサに対 られていないため、その機能が充分に働いていないと指摘した。 したことではなく、むしろ頭領としての誇りを示す、末期の潔 そのため、上の﹁ただの鳥﹂は単に﹁残雪﹂に対する評価の さが感動を生んでいることであることに注意したい。その末期 言葉としてしかl読まれないのではないか。と同時に、前半の描 の潔さに対して﹁ただの鳥に対しているような気がしませんで. ー35−.
(17) 主題2. このような人間中心的な語りは、そのまま最後の場面に繋 がっていく。. Ⅴ. して良いのか。人間的価値観にガンを当てはめて評価している. ことは、鶴田氏の言う﹁人間と自然の共存・共有﹂という主題. に繋がるのだろうか。あるいは﹁自負と自負の世界﹂と言える だろうか。ここにあるのは人間の都合だけではないのか。あえ. 英雄かどうかなどどうでも良いことだったはずである。むしろ、. また、いかにも人間中心的な言い種である。﹁残雪﹂にとって. 無論、自己犠牲的な行為に村する感動もある。しかし、これも. きょうなやり方﹂であるから、銃を下ろしたということになる。. に、ハヤプサに向かっていくような時に、これを撃つのは﹁ひ. ある。特に﹁ひきょうなやり方﹂、﹁堂々と戦おう﹂とあるよう. 前に述べた、何故銑を下ろしたのかという間の答えの言葉で. うして、おれたちは、また堂々と戦おうじやないか。﹂. おい。今年の冬も、仲間を連れてぬま地にやって来いよ。そ. おれは、ひきょうなやり方でやっつけたかあないぞ。なあ、. り、また、このようにして逃がすことで﹁残雪﹂への±ンプレッ. 行為はそのような﹁じいさん﹂の誇りの回復のための行為であ. さえ考えられるのである。つまり、この﹁残雪﹂を英雄と呼ぶ. な自分の行為が﹁じいさん﹂には漸他の念として残っていたと. とじゆうをかたに当て、残雪をねら﹂. 回った﹁残雪﹂の行為。しかも、一度はそれを撃とうと﹁ぐつ. はないかとさえ想像させるのである。自分の予想をはるかに上. したときに、実は﹁残雪﹂に対して、負けたと思っていたので. るのではないか。さらには、﹁英ゆうよ。﹂﹁堂々と戦おう﹂といっ て﹁晴れ晴れとした顔つき﹂の﹁じいさん﹂は、あの銃を下ろ. を野生のガンは受け入れるのだろうかという素朴な疑問すら残. て言えば、﹁大道じいさん﹂という人間のにおいの付いたガン. これは逆に、英雄と﹁堂々と﹂戦う自分を評価しているかにす. クスを解消しようとしていると読めるのである。つまり、この. ﹁おうい、ガンの英ゆうよ。おまえみたいなえらぶつを、. ら読めるのである。つまり、↓大道じいさん﹂のむしろ自己満. ﹁じいさん﹂の言葉、及び行為は、﹁じいさん﹂の自己満足、. 自己回復の言葉としても読めるのである。︵これらの読みは、. ったのである。そのよう. 足に過ぎないということである。鳥のすばらしさという本質は、 結局無視されているのではないか。仲間を救うために自らの身. いささか筆者の想像に偏っている感がある。ただ最初にも断っ. たように、本稿は正しい一つの読みを提示することを目的とし. を省みないという行為、それを英雄という形で評価する人間。 それは本当にこの﹁残雪﹂. たものではなく、あくまでも読みの可能性を追求したものであ. の行為を理解した上とになるのだろ. うか。﹁残雪﹂には﹁残雪﹂の行動原理、本能がある。それを. る。特にこの点をご理解いただきたい。︶. また一方で、この作品の最後の場面については﹁大道じいさ. 理解したとは言えないだろう。自分とは違う価値観として認め ず、人間的な価値観、英雄、末期の潔さ、として捉えて、評価. −36−.
(18) と戦うのではない。大造じいさんはずるいと言うのです。. 活をしている、ガンを、じゆうでうつのは戦いではない。堂々. えや力くらべをするはずなのに、そうではない。ふつうの生. のは、どちらもたべたい食べ物をあらそって、そのためにち. している。ガンの群はふつうの生活をしている。戦うという. 大道じいさんはじゆうを持ってガンをうってとらえようと. この最後の場面に対する﹁ある男の子の反発﹂を紹介している。. 中本環氏は﹁教材︵作品︶との自由で生きた関係をトにおいて、. それは銃が道具であるからだろう。﹁じいさん﹂はいろいろ道. けれど。︶それでもやはり、銃はずるいと思えるかもしれない。. をのぞいた同じ種同士は、フィフティー・フィフティーだろう. 異種間では互角の戦いというのは少ないのではないか。︵人間. あり、その場合巽があるのはずるくないのかと、問うても良い。. だろう。さらにはガンは沼地にいる生物を捕まえて食べるので. かもしれない。翼と銑とどっちがずるいか考えてみるのも良い. あれば、素手と言うよりガンには翼があるだろう、と言うべき. はずるいのではないかということであろう。いや、この理屈で. ことではなく、素手のガンに対して銃という飛び道具を使うの. この指摘について、観田氏は﹁この男の子の意見は無視され. 具を使っている。それらの道具は全て﹁残雪﹂によって無駄に. ん﹂はずるいのではないかという読みが提出されている。. るべきではない。﹂とし、この男の子の意見につ対して次のJ. は﹁ふつうの生活﹂である。しかし、よく考えれば、︵大造. の内実が問われてくる。確かに雁の群が沼地で餌をあさるの. では﹁ふつうの生活﹂とは何か?ここで﹁ふつうの生活﹂. である。︵ハヤプサとの戦いで傷つき、飛べなくなったとき﹁残. じいさんの戦いは道具と智慧︵実は半分は翼の威力︶の戦いなの. るという点にあり、そこをつかれている。つまり、﹁残雪﹂と. 使用しないのである。ただ、銃の弱点は射程距離が限られてい. なってしまう。ただし、銃は絶対的な道具であるためか、結局. じいさん︶が鉄砲を使って狩猟をすることも﹁ふつうの生活﹂. 雪﹂は完全な敗北となる。︶ただし、注意したいことは、銃を使. うに述べている。. である。猟師が鉄砲を使わずに素手で獲物を捕まえるという. わけではない。ただ、それによって食べ物を手に入れることが. たの.である。そのため、いくら狩人の生活を説明しても、この. の疑問は、本当は人間はずるいのではないか、という問いだっ. うのは、道具を使うのは﹁大造じいさん﹂だけではなく、人間. できるのであり、その点では﹁たべたい食べ物﹂を争っている. 男の子の問いには答えられないのである。教えるべきは、人間. ことの方がよほど不自然である。. こと︵﹁ふつ、丁の生活﹂︶であることは同じだが、﹁じいさん﹂の. は道具を使うずるい種族だからこそ、ここまで地球で繁栄して. 全体がそうなのだ、ということである。すなわち、先の男の子. 方が間接的なだけ、解りにくくなっている。もうひとつ銃の問. きたという事実である。少なくとも﹁大造じいさん﹂個人の間. ﹁大造じいさん﹂の場合、ガンを撃ってもそれを直接食べる. 題がある。これは猟師が鉄砲を使うことが普通かどうかという. −37−. q一.
(19) は人間の想像でしかないという指摘もあるだろう。ならば、解. 間である以上ガンの視点など解るはずもない。あるいは、所詮. 補説ということよりも、むしろ総合学習に近い立場で、人間. らないということを明確にする必要があるのではないか。解ら. 題なのではない。 と鳥・ガンというものの本質的な違いについて学習することが. 品から鳥と人間との本質的な相違へと発展的に考えていくこと. これは、国語の授業の範疇を嘩スケ1と主なるだろうが、作. 必要なことではないか。. ︵補Z︶. ないことを理解することこそが、人間とガンとの共存のために. で﹁ガンがりの話﹂を聞いた作者は、﹁その折の. まとめ. より有効な理解へと繋がっていくのではないだろうか。. Ⅵ ﹁前書き﹂. かったという希有な経験を語りたかったのか。無論両者は完全. らしさを伝えたかったのか、それとも、狩人として銃で撃たな. いだろう。いったい何故なのか。かつて敵であったガンのすば. ではいったいこの語り手はなぜ語ったのか、と言い換えても良. どその行為の意味が失われていく。﹁残雪﹂は本能に従ってハ. 為自体がすばらしいのであり、それに理屈を付ければ付けるほ. ろした時ではないのか。行為と行為がぶつかった時である。行. 反する価値観が接触した時、それは唯一﹁じいさん﹂が銃を下. そして、この作品において、特に、鳥と人間という二つの相. が必要だと考えられる。︵総合学習として発展させることもで. に別々の物語ではなく、特に銃で撃たなかったということは、. ヤプサに向かい、﹁じいさん﹂は自分でも理由が解らずに銃を. 話を土台として、この物語を書いてみました﹂という。いった. いや、撃てなかったということは、そのまま﹁残雪﹂ノの評価に. 下ろす。それだけで良かったはずではなかったか。この作品は. きるだろう。︶. 結びつくのである。ということは、読者が﹁残雪﹂のすばらし. そのような行動の鮮やかさこそに魅力があるのだ。銃を下ろす. いこの作者は何故この物語を書く気になったのか。それは作品. さをこそこの作品から読みとるのは自然なことであるかもしれ. である。その上で人間的な点において﹁残雪﹂を評価している. 質が描かれているわけではない。鳥の人物化がされているだけ. かえって﹁残雪﹂の本質を失わせることになったと考えるので. ゆうよ。∼﹂という場面は、﹁残雪﹂を人物化してしまって、. 示唆していたのである。むしろ、その後の﹁ただの鳥∼﹂や﹁英. の姿それ自体がすでに自然と人間との関係を. だけだ。しかし、﹁大道じいさんセガン﹂とある両者を等価値. ある。﹁大道じいさん﹂と﹁残雪﹂. ﹁大造じいさん﹂. に見るような視点が必要ではなかったか。そのために必要な視. てのあり方について考えるきっかけとすれば良いと考えるので. ない。けれども、﹁残雪﹂を中心に読んでも、そこには鳥の本. 点とはまさに﹁残雪の目には﹂という視点なのである。それが. ある。. の行為を通して、人間とし. 文字通り﹁残雪﹂の視点で措かれることなのである。無論、人. ー38−.
(20) 注 ㈲. 補注. この﹁なんと思ったか﹂について、本文の解釈からはいさ. 川 鶴田誠司﹃﹁大造じいさんとガン﹂の ︵解釈︶と︵分析︶﹄. さか逸脱するが、読みの可能性として、別の視点からの考察を. 青 原 英 夫﹁﹃大造じいさんと雁 ﹄. ︵明治図書・一九九七・六︶. ㈱. たと言うことではないか。話者は全知といわれるほど、﹁じい. のテキストと教材文につ 述べておきたい。 これは物語世界の人物である﹁大造じいさん﹂が話者を超え. ㈱. さん﹂の心理など全てを把握していたはずである。にもかかわ. いて﹂︵﹁語学文学﹂二〇〇一・三︶. 座日本の文学教育4﹄新光阻一九六六二二︶. らず。.ここでは﹁なんと思ったか﹂と﹁じいさん﹂の心が解ら. 安房文学教育の会﹁椋鳩十﹃大造じいさんとガン﹄﹂︵﹃講. ㈱ 山本茂喜﹁﹃大道じいさんと雁﹄における語りの機能﹂︵﹁香. なくなっている。これは﹁じいさん﹂が話者を超えたこと、す. めは、実はこのように作ヰ人物が生きているからではないか。 この作品を読んで何かしら前の文に惹かれたとすれば、それは. 無論、このようなことは小学校の生徒に理解できるとは思えな い。しかし、この作品を読んで何かしら惹かれるところがある. した﹂などという確定できない表現で語ることになったのでは ないか。・物語世界を完全に把握できなくなっているのである。. なわち話者から自立して生きているということを示すのではな いか。また、そのためにこの文章の後、話者は﹁ようでありま. 川大学国文研究﹂一九九六・九︶ ㈲ 田中実﹁︵本文︶を探して−﹃大道爺さんと雁﹄椋鳩十﹂︵﹃読. みのアナーキーを超えて1いのちと文学−﹄右文書院一九九 二上洋一﹁椋鳩十・初期の短編小説﹂︵﹃鑑賞日本現代文学. 七・八︶. ㈲. 西郷竹彦﹁文芸の授業における語嚢・語法の指導−椋鳩十. 35 児童文学﹄角川書店一九八二・七︶. の. ﹃大造じいさんとがん﹄﹂︵﹃西郷竹彦文芸・教育全集㌘恒 文社一九九七・一二︶. 椋鳩十=. その内容ではなく、このような作中人物の自立の魅力に惹かれ. 岡山文芸研﹃文芸研教材研究ハンドブックー9. 文学徽育の難しさは本当はこのようなところにあるのではな いか。つまり、いまだ小説を読んで感動することの本当の理由. ㈲. 風な風雅な趣を感じさせます。﹂と指摘している。. が解らずにいるということである。これまでの多くの﹃大造じ. たかもしれないということである。. ㈱ 中本環氏﹁教材︵作品︶との自由で生きた関係を﹂︵﹁教育科. いさんとガン﹄についての論や授業が人物の心理面を中心に行. 大造じいさんとガン﹄︵明治図書一九八六・六︶においてこの﹁残. 学国語教育﹂一九八五・九︶. 雪﹂という名前について、﹁俳句の歳時記に出てくるような古. −39−.
(21) て中心的なものなのかどうかは、はつきりとしていないのであ. われてきたが、小説において作中人物の心理こそが読者にとっ. の生態系を破壊することであり、結局は人類が自己の生存を 危うくすることになる、とわかったためである。. の観点が理解できるようになったからではなく、それは自然. る。むしろ、このような作中人物が話者や作者を超える事こそ. が読者を感動させるのであり、そこにこそ注目した作品は読ま この市毛氏の指摘は、ある意味ではその通りではあるだろう。 れるべきであるかもしれないのである。具体的な場面ではなく、 確かに人間は﹁がん﹂ の視点を理解することはできないかもし 構 造 こ そ が 感動を生むのである。 れない。しかし、では、文学における想像力というものはどの. うな言葉を使うのは過ちということなのか、嘘ということなの. ように理解するのか。﹁残雪の目には﹂といっても、人間には そのような目は理解できないのだとしてすますことができるの. 動物がどんな行動をとろうとも、それは本能の命ずるまま. だろうか。また、この論文はいささか古いものであるために﹂ 環境保護についての理解がまさに人間中心的である。自然環境. ㈲市毛勝雄氏は﹁﹃大造じいさん﹄ の役割を考える﹂︵﹁教育科. に動いているのであって、決して﹁勇気﹂とか﹁決断﹂とか の高貴な命名には催しない。したがって子どもたちにこのよ. は﹁人類の自己の生存﹂を守ることにあるのではないはずであ. か。このような表現それ自体をどのよ、ナに考えるのかひこのよ. うな物語を読ませるだけでなく、何時間も詳細に学習させる. る。人間もまた自然の一部として捉えられなければならない。. 学国語教育﹂一九八五・九︶において、次のように述べている。. ことは自然認識を歪ませることになる、という議論がある。. こ.れは﹁科学的﹂な議論に見える。 無論自然保護にはそれぞれの立場があり、絶対的な立場が確立 これに対して、私は次のように考える。自然を見るときに、 しているわけではない。しかし、ここで述べられているような 人は﹁ありのままに見る﹂ということができるかというと、 人間だけが唯我独尊的な価値観はあくまでも否定されるべきも のなのである。. とって、思考の対象とする。一羽のがんの行動を﹁英雄的﹂ と見るか、﹁愚かしい本能﹂と見るかは人それぞれの人間観. とこそが望ましい読書の有り様であろう。﹁残雪﹂を英雄とし. によって自己の価値観を改めて認識し、また、成長していくこ. それはできない。人は己の観点に依拠して自然の姿を切り. による。自然を人間の姿の象徴として見るからである。人間. て単に認めてしまうのは、結局、唯我独尊的価値観すら一歩も. 文学作品を通して、自らとは違う価値観に出会うこと、それ. は自然を見るときに∵久閻的儀点を髄れることはできない。. ︵ 中 略 ︶ ﹁がん﹂や﹁はやぶさ﹂ 出ることができないのである。かえって動物から何も教わって 人間にはできない。﹁がん﹂を狩ることを止めたのは﹁がん﹂ いないことになるのではないか。. −40−.
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