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琉球国王の薩摩藩主に対する忠誠の論理に関する研究ノート-王位継承過程と起請文前書の考察-: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Title

琉球国王の薩摩藩主に対する忠誠の論理に関する研究ノ

ート−王位継承過程と起請文前書の考察−

Author(s)

山田, 哲史

Citation

史料編集室紀要(24): 67-94

Issue Date

1999-03-26

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/7521

Rights

沖縄県教育委員会

(2)

史 料 編 集 室 紀 要 第24号 (1999)

琉球国王の薩摩藩主 に対す る忠誠の論理 に関す る研 究 ノー ト

-王位継承過程 と起請文前書の考察一

山田 哲史☆ は じめに 1 琉球国王の王位継承の各段階 と薩摩藩 ・江戸幕府への対応 2 起請文の提出の時期の決定 について

3

起請文前書の変化の考察一琉球国王の薩摩藩主に対す る忠誠の論理の変化

4

「附庸 国」論 と 「琉球安泰」論 おわ りに は じめ に 薩摩侵入後の琉球国は、薩摩藩の 「領分」 とい う従属的な側面 と、幕藩体制 にとっては 主体性 を有す る 「異 国」 とい う二つの側面がある(日。 この二つの側面 を有 して、近世 にお ける琉球国の首里王府 と、薩摩藩の関係が成立 していた と言 える。首里王府 と薩摩藩の関 係 は、従属 と主体の駆 け引 きの中で骨 に不安定であったのであろ うか。それ とも両者の関 係が安定す る体制 を築 き上げ、 さらにはその体制の維持のための制度 を調 えたのであろう か。そ してその体制 を考 える際に、両者の間で行 われた使者の派遣、儀礼 ・祭紀、書翰等 を整理 し考察する事 が重要である(2)。 さらに、それ らが何 を重視 し、いかなる 「論理」の もとで展 開 されたのかが重要 となって くる。 両者の権力関係 のなかで両者が重視 した一つに、琉球国王の王権のあ りかたが考え られ る。琉球国の行政の中心である首里王府、その首里王府の政治権力の中心 は琉球国王であ る。その王権 に影響力 を保持することは、薩摩藩側 にとっては自らの影響力の拡大 と、権 益 の安定 には不可欠であった と考 えられる。一方首里王府側 にとって王権が薩摩藩に対 し 主体 的であることは、そのまま薩摩藩に対する首里王府の主体性 に直結することであった。 琉球国王 の王権 については、豊見 山和行氏の王権儀礼 を中心 とした考察や(3)、筋封 に関 わる王権 の先行研究が多 くある(1)。本稿では、王権 に関わる様 々な課題の内、琉球国王の 王位継承の各段階の整理 を試みる。その王位が継承 される各段階の中で、琉球国王が薩摩 藩主 に対 し忠誠 を誓 わされている起請文の前書の分析 を行 う。そ して起請文の前書に含 ま れる、薩摩藩側が首里王府側 に要求す る 「琉球国王の薩摩藩主に対する忠誠」の論理 を抽 ☆ や まだ てつ し (史料編 集室)

(3)

-67-琉球 国王 の薩 摩 藩 主 に対 す る忠 誠 の論理 に関す る研 究 ノー ト 出 し、その論理が如何 に展 開 されているのか考察す ることが 目的である(5)。 また、本稿 は あ くまで起請文の文言の上 で展 開 された論理 を分析す ることが 目的であ り、両者間の体制 や実際の関係 にどの様 に反映 したのかは別問題であ り、今後の課題 と言 える。

1

琉 球 国王 の 王位 継 承 の各 段 階 と薩 摩 藩 ・江 戸 幕 府 へ の対 応 近世 に於 ける琉球国王の王位継承 の各段階、お よび薩摩藩 ・江戸幕府 に対する対応、薩 摩藩 ・江戸幕府か らの対応 についての以下の10段階で整理 を行 った。 ① 世子 として誕生 ② 中城王子 を称 える (事中城王子 と して上国 (む即位 (9起請文の提 出 (む起 請文の再提 出 (う幕府へ謝恩使 の派遣 ⑧ 筋封健 の来臨 (9中国皇帝へ謝恩使の派遣 ⑲ 死去 薩摩藩へ の報告 と、薩摩藩主か ら御祝 いの品の下賜 薩摩藩へ の報告 上 国の実行 、 もしくは免除願い 前 国王死去 ・新国王即位 の報告、薩摩藩か ら祝いの使者 在番奉行 を通 じて提 出 薩摩藩主の代替わ りに対 して、在番奉行 を通 じて提出 薩摩藩随行 の もとで実行 脚封使来臨 。冊封使 同国の薩摩藩への報告 薩摩藩への報告 前 国王の死去 を薩摩藩へ報告 この10段階の内、①②④⑧(豆)⑲ は報告が主で、琉球国王 と薩摩藩主の領主 間の交際 (儀 礼外交)的な意味合いが強い と考 え られ る。一方③(亘×¢⑦ は 「琉球 国王の薩摩藩主 に対す る忠誠」 を求める意味合いが強か った と考 え られる。 10段 階全てで、首里王府 は薩摩藩 に対 して何 らかの対応 ・報告 を行 っていたことは、『中 山世譜 附巻

『大和江御使者 日記』等の史料 か ら確認で きる。ただ 「対応

r報告」 を し てい るか らとい って、琉球 国は薩摩藩の 「附庸 国」 であ った とか、「琉球 国王の薩摩藩主 に対す る忠誠」を遵守 していた とか、短絡 的に結 びつ くと解釈で きる訳 ではない。今後 「報 告」 の内容 を具 に検討 し結論 を出す必要がある(伝)0 起請文 を独立 した単独 の制度 と して捉 えるのではな く、琉球国王の王位 が継承 され る際 に組み込 まれた、一つの過程 として起請文 を位置づ けることが本稿 の 目的の一つである。 以下王位継承 の際の各段階 について簡単 に整理 したい。 (D世子 と して誕生 王位 を継承す る人物 は、 どの様 な立場 で誕生す るかが重要である。長子相続が確立 され てい るのか、いないのか、確立 されていれば どの時期 か らなのかが重要である。表1か ら 分 か る ように、兄弟の間で王位 の継承が行 われたのは、尚賢王か ら尚質王 のみであ り、以 後 は長子 による継承、 もしくは長子が死去 した場合 は長幼 の順で決定 され る慣例が確認出 来 る。 -68・

(4)

史料 編 集 室 紀 要 第24号 (1999) 表 1.王位継承過程即位以前 名前☆:続柄 誕生 (西暦) 尚寧 :尚拡 ?子 嘉靖43(1564) 尚豊 :尚久 四子 寓暦18(1590) 尚恭 :尚豊長子 寓暦39(1611) 尚文 :尚豊二子 天啓5(1625) 尚賢 :尚豊三子 天啓5(1625) 尚質 :尚豊四子 崇禎2(1629) 尚貞 :尚質長子 順治2(1645) 尚純 :尚貞長子 順治17(1660) 尚益 :尚純長子 康興17(1678) 尚敬 :尚益 長子 康幣39(1700) 尚穆 :尚敬 長子 乾隆4(1739) 尚哲 :尚穆長子 乾隆24(1759) 尚法 :尚哲 長子 乾隆46(1781) 尚温 :尚曹 二子 乾隆49(1784) 中城王子 (西暦)上国 (西暦) 即位 (西暦) 備考 寓暦47(1619) 7 1.7** 順治2(1645) 順 治7(1650) 康黙 8(1669) 康整46(1707) 康照48(1709) 章乞隆33(1768) 乾隆56(1791) 尚拾 :尚暫三子 乾隆50(1785) 尚成 :尚温長子 嘉慶5(1800) 尚湖 :尚哲 四子 乾隆52(1787) 尚育 :尚湖 長子 嘉慶18(1813) 道光7(1827) 尚港 :尚育長子 逆光12(1832) 道光16(1839) 尚泰 :尚育二子 逆光23(1843) 尚典 :尚泰長子 同治3(1864) 同治7(1868) 慶長14(1609) 元利2(1616) 寛政11(1634) 商治3(1660) 延宝2(1673) 元禄5(1692) 安永2(1773) 寓暦17(1589) 天啓元(1621) 佐敷王子朝 昌 尚賢王即位前 に死去 尚賢.尚質王即位前は存命 崇禎14(1641) 順 治5(1648) 康黙8(1669) 尚益王即位前 に死去 康黙49(1710) 康興52(1713) 乾隆17(1752) 尚温王即位前 に死去 尚温王即位前 に死去 乾隆60(1795) 尚瀬 王即位以前死去 嘉慶8(1803) 嘉慶9(1804) 逆光15(1835) 天保14(1843)☆** - 尚泰王即位前 に死去 道光28(1848) 明治3(1870)*'" - 尚泰王存命 中に琉球処分 『中山世譜

『中山世譜附巻

『王代記』 よ り作成。☆:実際 に即位 した国王以外 も、即位 の可能性 のある人物 は 取 り上げたO**:『王代記』 に記述があるが年代 は不 明、***:上国の免除が決定 した年、 ? :不明 表2.王位継承過程即位後 王か 起請文即位時 起請文藩主代 謝恩便 ・幕府 (西暦) 替 わ り(西暦) (西暦) 寧 豊 資 質 貞 益 敬 穆 混 成 瀞 青 春 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 慶長16(1611) 寛永16(1639) 正保4(1647) 正保元(1644) 肘封使 (西暦) 謝恩便 ・中国 死去 (西暦) (西暦) 商暦34(1606) 寓暦34(1606) 寓暦48(1620) 崇禎6(1633) 崇禎6(1633) 崇禎13(1640) 順治4(1647) 慶安2(1649) 慶安2(1649) 康鼎 2(1663) 康鼎 2(1663) 康照7(1668) 寛文10(1670) 寛文11(1671) 康願22(1683) 康黙22(1683) 康興48(1709) 宝永7(1710) 宝永7(1710) 康興51(1712) 正徳5(1715) 正徳4(1714) 康鷹58(1719) 康鷹59(1720) 乾隆16(1751) 宝暦5(1755) 天明7(1787) 宝暦2(1752) 乾隆22(1756) 乾隆22(1756) 乾隆59(1794) 寛政12(1800) 寛政8(1796) 嘉慶5(1800) 嘉慶5(1800) 嘉慶7(1802) 嘉慶8(1803) 文化2(1805) 文化7(1810) 文化3(1806) 嘉慶13(1808) 嘉慶13(1808) 逆光14(1834) 文政11(1828) 天保3(1832) 道光18(1838) 逆光18(1838) 逆光27(1847) 安政5(1855) 安政6(1856) 嘉永3(1850) 同治5(1866) 明治34(1901) 『中山世譜

『中山世譜附巻』『島津家文書

『薩藩 旧記雑録』 より作成。★:実際 に即位 した人物 のみ を取 り上げ た。 ・69

(5)

-琉 球 国王 の薩摩 藩主 に対 す る忠 誠 の論 理 に関す る研 究 ノー ト 国王の子 と して誕生 し後 に国王 になる可能性 のあ る人物 との関係 を、薩摩藩は重視 した と考 え られ る。 嘉慶

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(享和

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)

年 に毛氏 豊 見 城 親 方盛 昌が 、 尚成 (嘉慶

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生)の誕生 の頒賜物件 の返礼 と して、道光

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(天保

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3

3

)

年 に馬氏幸地親方良恩 が、 尚潜 (逆光

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生) の誕生 の頒賜物件 の返礼 と して上 国 してい る

『中山世譜 附巻』 か ら確認 で きるのは この2例 のみである。 また 『石室秘稿 琉球 囲安善抜粋』 では次 の ような史料 があ る。 一大孫様御誕生為御祝儀 太守様 よ り 上様 中城王子横江御拝領物御座候段、御 到来在 之候 間、今 日よ り明後甘六 日迄御書 院中城御 殿 参上御祝儀 可被 申上候 、以上。 正 月甘 四 日 輿世 山親雲上 - 中城王子嫡子誕生 ノ為御祝儀今般従 太守様 国王江拝領物御座候付 、御奉行様招 請披被 中等候 間、来十 四 日十八 日両 日ノ内御 障 相伺可被 申越候、此 旨三司宮 中付候 、以上。 三月三 日 伊江里之子親雲上 一大孫株御 誕生為御祝儀従 太守様御拝領物御座候付 、御奉行様御招請御披被遊 れ筈候 間、来十四 日十八 日両 日ノ内御 隙相何可 申上 旨被仰越趣御 苦役 山元藤蔵殿御取次 中上候庭、十四 日御 障無御座 由承 り候 間致御返答候 、以上。 二 (三 カ)月四 日 森 山親雲上 乾 隆

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)

年当時の、国王 は尚穆 (在位

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で、 中城王子 は尚哲

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-1

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に中城王子 ) である。 尚哲 の長子 は尚法 で乾隆

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6(

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1)年 に誕生 したが、翌年乾隆

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年 に死去 してい る。第二子 は尚温 で乾 隆

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)

年 に誕生 してい る。 したが って 「中 城王子嫡子」 は尚温 であ る と考 え られ る。 また太守 は島津重豪 (在位

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7

)

であろ う。 この史料 か ら尚温 の誕生 に際 して も、薩摩藩主か ら祝 いの拝領物 が有 ったこ とが確認 で きる。 また、 この上記 の史料 は 『中山世譜 附巻』 とは異 な り、琉球 国内での対応 を知 る ことがで きる。 『中山世譜 附巻』 お よび 『石室秘稿 琉球 国安善抜粋』 か ら確認 で きる、世子誕生 にた いす る薩摩藩 の対 応 は、 尚温 、 尚成、 尚酒の3名のみであ るが、情況 か ら判断 して この3 名 のみが特別 に対 応 があ った とは考 えず ら く、他 の王子誕生 の際 も同様 な対応があ った と 考 え られる。

_7

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(6)

史料 編 集 室 紀 要 第24号 (1999) ② 中城王子 と称 える 中城王子 と称 える行為その ものは、琉球国内で完結 した王位継承 の一段階である と現時 点では考 えている。 いつ中城王子 と称 えたか、他 の王子名 を称 えたか、国王の即位 と中城 王子 を称 える時期 の整理 を試みた。 表

3.

中城王子 ・即位相対表 王名 前国王 佐敷王子(西暦)年令 中城王子(西暦)年令 永 寧 豊 豊 豊 資 質 貞 貞 益 敬 穆 穆 穆 穆 温 成 瀬 育 育 泰 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 ☆ ・k ☆ ☆ i( ☆ j( ☆ * ☆ ☆ ★ Tk 寧 豊 恭 文 賢 質 貞 純 益 敬 穆 哲 法 温 治 成 湖 育 清 春 典 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 寓暦年間 一 寓暦47(1619) 崇禎7年以前 - ?'* 崇禎14(1641) 13 順治2(1645) 順治7(1650) 康熊8(1669) 10 康鷹8(1669) 康樵28(1689) 12 康照46(1707) - 康熱48(1709) 乾隆33(1768) - 乾隆56(1791) ? ・ J 30 一 f 16 6 10 30 10 1 1 0 1 8 一 前国王の即位から 中城王子☆ 後 ? L 昨 f rL.) その他王子名 久米中城を領有 4年後 2年後 同年 尚純死去1年後 読谷山王子 1年前 読谷山王子 16年後 尚暫死去3年後 道光7(1827) 15 23年後 遺光19(1839) 8 11年後 同治7 5 20年後 具志頭を領有 『中山世譜』から作成。☆:実際に即位した人物、☆☆:『王代記』に記述があるが年代は不明。 表 3か ら、17世紀 中は中城王子 を称 える前 に、佐敷王子 を称 えている事例 が多 い こと、

5

歳以下の年令 では中城王子 を称 える慣例が確認 で きない こと、年令 が許容範囲であれば 国王が即位 して同年か ら4年後 に称 えていること、中城王子死後3年以内にかわ りの人物 が称 えるこ と等が理解 で きる。 また、中城王子 を称 えることは王位継承過程 の重要 な段階 であるが、前 国王 の即位 か ら死去 までの期 間が短 い場合や、幼少での即位等 では中城王子 を称 えず に直接即位 す る事例 も少 な くない。 (勤中城王子 と して上 国 表

1

に中城王子 の上 回 を整理 してみた。 中城王子 として薩摩へ上 回す る制度 は確認で き .71_

(7)

琉球国王の薩摩藩主に対する忠誠の論理に関する研究ノート るが、 尚貞 ・尚純 。尚益 (但 し佐敷王子 として上国、当時は父尚純が中城王子)・尚哲の 4名のみであるO 免除について 『中山世譜附巻』か ら確認で きるのは、尚清 と尚典の2名 のみである。制度 的には全ての国王が実行 した訳ではないが、将来琉球国王 となるべ き人 物が実際 に上国 して、薩摩藩主へ忠誠 を誓 う行為 は、「琉球国王の薩摩藩主 に対す る忠誠」 の論理 ・制度 を考察する際に重要であることは言 うまで もない。ただ、全 ての国王が王位 を継承す る過程 において実行 した訳ではないので、必ず しも完全 に琉球国王の王位継承の 過程 に組み込 まれた訳ではない。 この点が 「琉球国王の薩摩藩主 に対す る忠誠」の論理 ・ 制度 を考察す る上 で制度的な限界があると言 える。 (彰即位 前国王の死去 を報告す る上国使者の派遣、新国王の即位 を報告す る上国使者の派遣、薩 摩藩か らの祝いの使者の下向を表

4

に 「死去 ∼即位使者往還」 として整理 を行 った。 表

4.

死去 ∼即位使者往還 王名 前国王死去 死去を計げる 新国王即位 即位を伝える 即位を祝う 尚寧-尚豊 尚豊-尚賢 尚賢一尚質 尚質-尚貞 尚貞-尚益 尚益-尚敬 尚敬う尚穆 尚穆-尚温 尚温-尚成 尚成一尚朝 尚湖-尚育 尚育-尚泰 尚泰 9 8 0 1 3 9 2 1 2 ほ ほ 1.1 ほ ほ 八 八 引 5 1 7 7 3 5 7 6 1 元 13 4 7 48 51 16 59 7 9 14 28 34 昌 禎 治 無 配 州 興 隆 隆 慶 慶 光 光 治 泰 崇 順 康 康 康 乾 乾 嘉 嘉 道 道 明 6 . . ∵ ∵ ∴ ∵ ∴ ・ ∵ ・ . . I . . 天啓元 泰昌元 崇禎14 崇禎13・7 順治5 順治5・9/20 康照8 康興8・夏 康黙49 康畢48・9/12 康殿48・ll/3 康鼎52 康興51・8/13 康 照51・ll/24 乾隆17 乾隆16I3/15 乾 隆17・4/9 乾隆60 乾隆59・5/28 乾 隆60・閏2/4 嘉慶8 着慶7・8/7 着慶8・3/1 嘉慶9 嘉慶9・6/5 逆光15 道光9☆ 道光28 道光28I3/3 『中山世諸

『中山世言普附巻』より作成。":即位を伝えるの尚湖-尚青の道光8年は「世子尚育摂位」を伝える。 「前国王死去」 の年月 日は前国王の死去の 日、「死去 を計げる

「即位 を伝 える」の年月 日は上 国使者が実際に薩摩へ着いた 日、「即位 を祝 う」 は薩摩藩か らの使者が、実際に琉 球 (沖縄本 島那覇 と考え られる、宮古 リヽ重山 ・離島は含 まれず)へ着いた 日である。 薩摩藩側が琉球 国王の王位継承 にどれだけ影響力 を有 していたか考察す る作業 としてこ れ らの使者 を整理することは、「琉球国王の薩摩藩主に対す る忠誠」の論理 ・制度 を考察 す ることにつなが るのではないだろうか。 ー72・

(8)

史料 編 集室紀 要 第24号 (1999) ⑤起請 文の提 出 。⑥起請文の再提 出 起 請文提 出の行 為 自体が、「琉球 国王 の薩摩 藩主へ の忠誠」 その ものであ る と言 える。 起 請文 とい う制度 。儀礼 その ものが、下位 の者が上位 の者 に忠誠 を誓 うとい う要 素 を含 み、 琉 球 国王 が薩摩 藩主へ提 出 した起 請文 も同様 である(7)。また、中城王子 の上 国 とは異 な り、 即位 直後 に夫亡 した 尚成王 を除 き全 ての国王が提 出 している。 ① ∼⑲ の王位継承過程 の なかで、薩摩 藩 に忠誠 を誓 う行為 と して重要 と考 え られるのは、 ③ 中城王子 と して上 国 とこの⑤起 請文の提 出 。⑥起請文 の再提 出の

3

つ であ る。忠誠 を誓 う行為 その もの と しては、将来国王 となるべ き人物が直接薩摩 に上 国す る中城王子上 国の 方 が大がか りであ り、琉球 国内 において執 り行 われ る起請文 の提 出 とい う行為 よ りも、 よ り服属 的意味合 いが強い ことは言 うまで もない。 しか し、実際 に中城王子上 国の制度 を王 位継承 過程 の なか にお いて実行 した人物 はすで に述べ た ように

4

名 のみである。一方王位 継承 過程 のなか において起請文の を提 出 しなか った国王 は尚成王 1名 のみであ る。事例 の 多 きと確 実 に実行 す る とい う面か ら、忠誠 を誓 う行為 と しては起請文の提 出は確 実 な行為 であ った こ とが理解 で きる。 (∋幕府 へ謝恩債 の派遣 首里 王府 が江戸 幕府へ江戸上 りを行 うことは、紙屋氏 による と 「江戸 上 りは、薩摩 の侵 略 を契機 に幕藩体 制 の 中の 「異国」 とされた琉球が、 自 らの 「王権」 の維持 をか けた一大 外 交 イベ ン トで あ った

.

」 と してい る(8).一方、豊見 山氏 は 「正保 元年 の江戸 参 府 は後 の 慶 賀使 ・謝恩便 派遣 を恒常化す る初発 の段 階であ ったが、その江戸参府 は薩摩側 の主導 の 下 に挙行 された ものであ り、朝鮮通信使 の外交儀礼 に準拠 しようと薩摩側 は腐心 したので あ る(9)。」 と して い る。紙屋 氏 は首里 王府側 の意味づ け を、豊見 山氏 は開始 時 の薩摩 藩側 の意味づ け を述べ てい る と言える。 謝恩便 ・慶賀便 の二 つ をあわせ て江戸上 りなのであ るが、謝恩便 と慶賀使 は琉 球 国王 の 王位継承 を考察す る上 では大 き く意味合 いが異 なる。 当然、国王の即位 に際 して派遣 され る謝恩健 の方が王位 継承 との結 びつ きが強い。謝恩便 について考察 してみ る と、 その開始 時の薩摩 藩側 の意 図は、や は り 「琉球 支配」 のための一つの制度 であろ う.豊見 山氏 は寛 永

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2)

八 月二十九 日付 の 「党」 を考察 し、「前 条 は、 中山王 尚豊 の死去 に伴 い跡 目の件 を幕 府へ伺 った ところ、「薩摩守分別次 第」 と して幕府 は琉球 の王位継承 問題へ 介 入す る こ とを避 け、薩 藩 に一任 す る態度 を示 してい る。」 と している(10)。 この解 釈 をさ ら に進 め る と、薩摩 藩側 に とって、正保元年 の謝恩億 の派遣 は、薩摩藩が琉球 の王位継承 問 題 に影響力 を有 してい る事 を幕府 に対 して主張す るこ と、そ してその事 に よって首里王府 との関係 を薩摩 藩の政 治的優位 の形 で安定化 させ るこ とが、薩摩 藩側 の 目的の一 つであ っ た と言 えるのでは ない だろ うか。 当然 その制度 の 中 には、 「琉球 国王 の薩摩 藩主へ の忠 誠」 の論理が反 映 され てい る筈 で あ る。その際 に、 どの様 な論理展 開が なされ たのか、起 請文 に展 開 され た論理展 開 と共通 -73・

(9)

琉 球 国王 の薩 摩 藩 主 に対 す る忠 誠 の論理 に関す る研 究 ノー ト してい るのか、差違が有 るのかが課題 と言 える。 ⑧筋封健 の来臨 。⑨ 中国皇帝へ謝恩債 の派遣 首里王府 は国王 の死後 、 中国皇帝 にその計 を報 じ、ついで請封傍 が遣 わ される。 この請 封傍 に対 して中国皇帝 か ら冊封傍 が来臨す る。 さ らに瀞封 に対 し謝恩使 が 中国皇帝 に遣 わ され る。冊封使 の来臨お よび、中国皇帝へ謝恩便 の派遣 は、冊封体制下の琉球国王 の王位 継承 過程 であ り、 「琉球 国王 の薩摩藩主 に対 す る忠誠」 には直接結 びつか ない と考 え られ る。 ただ、首里王府側 が どの様 な形 で どの様 な内容 を、薩摩藩側 に 「報告」 してい るのか は重要 な課題 と考 えてい る。 ⑬ 死去 死去 は前 国王 に とってはす で に継承 した王位 を退 く事 であが、新 国王 に とっては ここか ら即位 が始 まる。従 って この段 階 は新 国王 の④即位 とあわせ て考察す るこ とが望 ま しい。 以上 の こ とか ら、(彰中城王子 と して上 国、④即位 、⑤起請文 の提 出、⑥起 請文の再提 出、 (う幕府へ の謝恩使 の派遣 が、 「琉球 国王 の薩摩 藩主 に対 す る忠誠」論理 ・制度 を考察す る 際 に重要 で あ る こ とが わか る。事例 の多 きと、「琉球 国王の薩摩 藩主 に対 す る忠誠」 を直 接 国王が誓詞血判 してい るこ とか ら、特 に⑤起請文 の提 出 ・(釘起請文 の再提 出が考察 に適 してい るので はないだろ うか。

2

起 請 文 の提 出 の 時 期 の 決 定 につ い て 琉球 国王 が薩摩 藩主 に対 して忠誠 を誓 った、起 請文 はいつ どの様 な時期 に提出 されたの であろ うか。 国王 と して即位 した後 に一定以上の年令 で提 出す るのか、それ とも即位 か ら 一定 の期 間 (何 年以内) に提 出のかは、責任追及能力の問題 とか らみ重要 な問題 である。 以下 「起 請文 の提 出」の時期 の決定 につ いて考察 してみ たい。その際、① 世子 として誕生、 ⑲ 死去 の2つ を除 き、他 の王位継承 にお け る各段 階の時期 の決定 とか らめ て、比較 しなが ら考察 を試 み たい。 ② 中城王子 と称 える 表

3

において既 に整理 を試 みたが、国王 の即位 もしくは、前 中城王子 の死後の同年か ら

2

9

年後 まで幅があ り、 さ らに中城王子 と称 えた年令 は

5-3

0

歳 まで幅が あ る。つ ま り、即 位後何年以 内 に皇太子 であ る中城王子 を決定す る とか、国王 の長子 は何歳以上で中城王子 を称 える と言 う厳 密 な規程が ない こ とが分 か る。 ただ し、既 に述べ た ように、国王即位 の

3・4

年後

、1

0

歳前後 で中城王子 と称 える慣例 は確認 で きる。 -7

(10)

4-史 料 編 集 室 紀 要 第24号 (1999) ③ 中城王子 と して上国 中城王子の上国は 『中山世譜 附巻』では 「朝艶」 と表現 され、『大和江御使者記』では 「御 目見御上国」 と表現 されている。 また国王 (尚寧王のみ)や、世子 と思われる王子 に は 「間安」 とい う名 目で上国使者が派遣 されている。 表

5.

朝観 ・御 目見 王名 中等 富 )本 年号 使 者名 中山世譜 附巻 大和江御使 者記 尚質 順 治17/寓 治3 尚貞公 中城 王子朝周 (1660) 尚貞 康典13/延賓2 尚純公 中城王子 (1669) 尚貞 康畢31/元禄5 尚益公佐敷王子 (1692) 為朝配車。到薩州。穫式仝 竣。翌年冬 同園。 為賀光久公 陸 中牌 。兼朝観 辛.到薩州.櫨式仝唆。至 丙辰年。 同囲。 為朝観事 。到薩州。碓式全 壊。翌年冬 同園。 尚穆 乾隆38/安永2 尚哲公 中城王子 為朝観事。夏到薩州。碓式 (1773) 全竣。翌年春。 同園。 『中山世譜附巻

『大和 江御使 者記』 よ り作成。 表

6.

間安 ・御安否御伺 尚貞公 中城 王 子様為 御 目 見御 上 国翌年冬御帰 国 光久枝 中将御 官位之御 祝 儀 井為 御 目見 尚純公 中城 王 子様 御 上 国 翌 々辰年御 帰 帆 被遊 尚益 公 佐 敷 王 子様為 御 目見 御上 国 附次 年冬御帰 帆 哲公 中城 王 子 様 為御 目見御 上 国翌年春御 帰 国 王名 中覧 憲 本年号 使 者名 中山世言普附巻 大和江御使 者記 尚寧 寓暦38/慶 長15 馬氏勝 連親雲上 良断 (1610) 尚豊 崇禎7/寛永11 阿氏津 堅親雲上守備 (1634) 尚質 順 治17/寓治3 東氏知念親 雲上政興 (1660) 尚質 順 治18/寛文元 東氏座彼親雲上政武 (1661) 尚貞 康照14/延賓3 楊氏異壁親雲上 昌敷 (1675) 為 間安 尚寧王。在 薩州事。 尚寧様御 安否伺 之御使 者 到薩州。翌年九 月同園。 為 間安 尚文公 佐敷王子朝益。 尚文公佐敷王子様御安 否 在薩州事到藤川。本年 同園。 伺之御 使者 為 間安 尚貞公 中城王子朝 中城 王子様 御 左 右 聞飛 脚便 周。在薩州事 。七月十五 日。 到薩州。翌年 四月初九 日。 同国. 為 間安 尚貞公 中城王子朝 周。在薩州事 。五月到藤川。 九月二十九 日。 同園。 為 間安 尚純公 中城王子。 薩州事。 四月初八 日。 到薩 州O九 月十三 日。 同園。 尚貞 康 照32/元禄6 向氏高志保親 雲上朝来 為 問安 尚益公佐敷王子。 (1693) 在 薩州事 。五 月初 十 日。到 薩州。九月十九 日。 同園。 尚穆 乾隆38/安永2 毛氏望見嶺親雲上盛式 為 間安 尚官公 中城 王子 。 (1773) 在薩州事 。七月二十八 日。 到薩州。十-月十七 日。 同園。 『中山世 譜附巻

『大和江御使 者記』 よ り作成。 _75 -中城王子様御安 否御伺 之 御使者 尚純公 中城王子様御安否 御尋之御使 者 佐敷王子様御 安 否御尋 之 御 使者 中城王子棟御安 否御尋 之 御使者

(11)

琉球国王の薩摩藩主に対する忠誠の論理に関する研究ノート 先 に述べ た ように、国王 に将来 なるべ き中城王子 (尚益 は佐敷王子)が薩摩へ上国 し、 薩摩藩主へ忠誠 を誓 ってい ることは 「琉球国王の薩摩藩主 に対す る忠誠」 を考察す る上で 重要であるが、あ ま りに も実際に実行 した事例がす くない。表7に 「中城王子 。上回 ・即 位」 として、中城王子 を称 えてか ら上回す るまで、 自らが即位す るまでの整理 を行 った。 表7.中城王子 ・上国 ・即位 王名 中城王子(西暦)上国(西暦) 何年後 即位(西暦) 中城王子-即位 備 考 ☆ ☆ j< ☆ ★ jC 央 ☆ ☆ ☆ ☆ ・k ★ 寧 豊 恭 文 資 質 貞 純 益 敬 穆 哲 法 温 治 成 潮 青 海 泰 典 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 尚 寓暦47(1619) ?iLIL 順治 2(1645) 順治7(1650) 康興 8(1669) 康鷹46(1707) 康黙48(1709) 慶長14(1609) 元和2(1616) 寛永11(1634) 寓治3(1660) 延宝2(1673) 元禄5(1692) 商暦17(1589) 天啓元(1621) 2年後 上国後中城王子に 佐 敷 三f三千 と して 上 回 崇禎14(1641) 順治5(1648) 10年後 廉殿8(1669) 4年後 3年後*** 康典49(1710) 康勲52(1713) 乾隆17(1752) 乾隆33(1768) 安永2(1773) 5年後 乾隆56(1791) 逆光7(1827) 道光19(1839) 天保14(1843)☆☆☆☆ 同治7(1868) 明治3(1870)相 ' ' 乾隆60(1795) 嘉慶8(1803) 嘉慶9(1804) 道光15(1835) 逆光28(1848) 後 後 後 後 後 後 年 年 1 年 年 一 一 t 年 Ⅷ E l 年 L 一 L 3 19 3 4 4 8 『中山世譜

『中山世譜附巻』より作成。☆:実際に即位した人物、☆☆:玉代記に記述があるが年代は不明、 **':佐敷王子から3年後、☆★☆☆:上国の免除が決定された年。 中城王子 を称 えてか ら、最 も短い尚豊で

2

年後、最 も長い尚貞で

1

9

年後 に国王 に即位 し ている。尚貞の父 尚質王在位期 間が

2

0

年間であることと、尚青 は中城王子 を称 えた翌年 に、 尚潮王の代理的な立場 についていることを考慮す る とく11'、尚貞 ・尚青 は例外 的に位置づ け られる。 よって一般 的には中城王子 を称 えてか ら

、2-4

年後 に即位 していると言 える。 尚貞 を中城王子上 国の制度の最初の事例 と位置づ け例外 とす ると、中城王子 を称 えてか ら 上国す るまでは

、 3-5

年後 である。 したが って、 中城王子 を称 えてか ら実際に上国を行 える王子 は きわめて少 ない ことが理解で きる。 この こ とが、実際 に

4

名のみ しか上国 しな か った理由の一つであろ う。 76

(12)

-史料 編 集室 紀 要 第24号 (1999) (彰即位 即位 に関す る首里王府 と薩摩藩の間での使者の往復 を、表

4

に 「死去 ∼即位往還使者」 と してすで に整理 を試みた。 さてこの表

4

と して整理 した ことか ら分 かるこ とは、「死去 を計 げる」上 回使者 の後 に 「即位 を伝 える」上回使者が上回 しているが、必ず しも 「新国 王即位」 の後 に 「即位 を伝 える」上回使者が上回 しているわけではない、尚質王 。尚貞王 ・尚潮王が 同年 であ ることを除いて全 て逆 である。 この事 は、前 国王 の死去直後 に、「死 去 を計 げる」上 回使者が上回 し、その後 あ ま り間 をあけないで 「即位 を伝 える」上国使者 が上 国す るのであるが、新 国王の即位 は前国王の即位の翌年 に行 われ るため に逆転現象が お こる と考 え られ る。 新 国王の即位 を薩摩藩 に伝 える使者の記述 は、常 に同 じ表記の仕方 なのであ ろ うか。『中 山世譜附巻』 の記述 では、尚寧王 。尚豊王 は 「為棄報 尚寧王寛。尚豊王即位事」 とあ り、 尚賢王 -尚成王 は 「為嚢明 尚賢王即位事」 とあ り、尚潮王 ・尚育王 ・尚泰王 は 「為棄請 尚潮王即位事」とある(12)

『大和江御使者記』では、尚豊王 は 「尚豊様御即位之御礼便」、 尚賢王 ・尚質王 は 「尚賢様御継 目伺之御使者」、尚貞王は 「尚貞様御即位之儀付御使者」、 尚益 王 -尚泰王 は 「尚益様御即位之儀被 仰上御使者」 とある。つ ま り、文言 には変化が あ り、 この ことは、即位 を伝 える使者の意味づけに変化があったのか、それ ともただ単 に 表記上の問題 なのかは、『中山世譜附巻

『大和江御使者記』の どち らとも記述が短 く詳細 には分 か らない(13)0 ⑤起請文の提出 。(む起請文の再提出 表 8に 「国王起請文提 出一覧」 として即位後何年後 に提 出 しているのか、何歳 で提 出 し てい るのか、整理 を試みた。 尚寧王 と藩主代替 わ りの際 を除いて、琉球国王 として即位 の同年 (尚益王のみ)か ら8 年後 (尚泰王) に起 請文 を提 出 している。年令 としては最 も高齢 が尚益王の33歳で、最 も 下の年令 が尚泰王の14歳である。国王 と して即位 した年令 は、尚益王の33歳か ら、尚泰王 の6歳 まで幅がある。以上の ことをまとめる と、おそ ら く即位の何年後迄 に提 出 とい う慣 例があるのではな く、ある程度 の年令 に達 して提 出 とい う慣例があることが分 か る。 さて、その年令 であるが、同年あるいは

1

年後の提出は、すで に即位時 に起請文 を提 出 で きる年令 であった とみ な し、即位 か ら一定の期 間が開いた場合 を考 えてみたい。す る と、 尚賢王

(

2

3

、6

年後 卜 尚敬王

(

1

6

、 2

年後)・尚穆王

(

1

7

、 3

年後)・尚温王

(

1

7

歳、 5年後)・尚泰王 (14歳、 8年後)であ る。 尚賢王が即位の6年後

、2

3

歳 で提 出 して いる事 を除けば、即位後 に14-17歳なった時点で提 出 している。 尚賢王 は即位時の起請文 提 出の最初の事例 であ り、尚賢王の提 出時 は、 まだ即位時の起請文の提 出が制度 として確 実 に確立 していなか った可能性 を考慮すれば、即位 時の年令 の慣例が まだ定 まっていなか った と考 え られる。 近世琉球 において薩摩藩へ起請文 を提 出 しているのは国王のみで な く、摂政 ・三司官 も

(13)

_77-琉球国王の薩摩藩主に対する忠誠の論理に関する研究ノー ト 起 請文 を提 出 して い る

『薩藩旧記雑 録

『島津家文書』 に よる と、摂 政 ・三司官 ともに任 職 の 同年 も し くは翌年 に、起請文 を提 出 してい る こ とが分 か る(ll)。 したが って国王の場合 も慣例 と して即位 の同年 も しくは翌年 に提 出す る こ とが、薩摩 藩側 か ら求 め られ てい た と 考 え られ る。 しか し国王 の場合 は、即位 してか ら同年 あ るい は翌年 とい う慣 例 が成立 して い ない。す で に整 理 した ように、14-17歳 とい う年令 に国王 が達 す る まで起 請文 の提 出が 延期 され てい る。 この こ とは、薩摩 藩側 が 国王 の年令 を重視 したか らと考 え られ る。 この 年令 は国王 の結 髪 (元服 ) と関連 が あ る と考 え られ、今後 『尚育様御 元服 日記

『尚泰様 御 元服 日記』等 の 史料 か ら考察す る必 要が あ る。 表

8.

国王起 請文提 出一覧 王名 誕生(西暦) 即位(西暦) 歳 起請年(西暦) 即位∼ 歳 代替わり 備考 尚寧 素靖43(1564) 天正17(1589) 26慶長16(1611) 22年後 48 尚豊 寓暦18(1590) 元利 7(1621) 32 - - 寛永16(1639) 尚賢 天啓5(1625) 尚質 崇禎2(1629) 尚貞 順治2(1645) 尚益 順治17(1660) 尚敬 康輿39(1700) 尚穆 乾 隆4(1739) 尚温 乾隆49(1784) 尚成 嘉慶5(1800) 尚潮 乾 隆52(1787) 尚育 嘉慶18(1813) 寛政元(1641) 慶安元(1648) 寛文9(1669) 宝永7(1710) 正徳3(1713) 宝暦2(1752) 寛政7(1795) 享和3(1803) 文化元(1804) 文政11(1828) 17正保4(1647) 6年後 20慶安2(1649) 1年後 25寛文10(1670) 1年後 33宝永7(1710) 同年 14正徳5(1715) 2後 14宝暦5(1755) 3年後 12寛政12(1800) 5年後 4 18文化2(1805) 1年後 16文政11(1828) 同年 天保6(1835) 23 尚泰 逆光23(1843) 嘉永元(1848) 6 安政5(1855) 8年後 『中山世諸

『島津家家文書

『薩藩旧記雑録』より作成。 20 7 0 78 去 81 日 、 死 目 、 7 に 7 天 同 文 26 33 16 17 17 肝 19 1 14安政6(1856) 即位時未発見 世子rl.Z.'l育播位 名 実 と もに即位 (訂幕 府 へ謝恩億 の派遣 表9に 「即位 ・起 請文 ・謝恩使 相対 表」 と して、即位 と謝恩使 之 関係 、起 請文 の提 出 と 謝恩使 の 関係 を整 理 した。 謝恩 使 を幕府 - 派遣 した年令 は、 尚泰 王 の8歳 か ら、 尚益 王 の33歳 まで幅 が あ るが、即 位 の 同年 か ら3年後 までの 間に派遣 され てい る。つ ま り、起 請文 とは異 な り謝恩使 は即位 か ら3年 以 内 に派遣 され た ことが理解 で きる。表9において 「起請文 ∼謝恩使 」 の項 目を 設 けたが 、謝恩 使 の派遣 が即位 時 の起 請文 の提 出 と前 後 してい るこ とが分 か る。 これ は、 即位 時 の起 請文 の提 出が 、一定 の年齢 以上 で提 出 とい う慣例 で時期 が決定 され たの に対 し、 謝恩 傍 の派 遣 が 即 位 か ら一定 の期 間で派 遣 とい う慣 例 で時期 が決定 され て い るか らで あ る。謝恩 傍 が

3

年 以内 に派遣 され るの は、その名 が示 す ように 「即位 の謝恩 」で あ るか ら、 即位 か ら時期 が離 れ る と派遣 の意味 が無 くな って しま うか らで あろ う0 ー78 ・

(14)

史料 編 集 室 紀 要 第24号 (1999) 表

9.

即位 ・起 請文 ・謝恩使 相対 表 王名 即位(西暦) 起請年(西暦) 謝恩便 ・幕府(西暦) 歳 即位-謝恩'起請文∼謝恩**備考 尚寧 天正17(1589) 尚豊 元和 7(1621) 尚賢 寛政元(1641) 尚質 慶安元(1648) 尚貞 寛文 9(1669) 尚益 宝永 7(1710) 尚敬 正徳3(1713) 尚穆 宝暦2(1752) 尚温 寛政7(1795) 尚成 季和3(1803) 尚潮 文化元(1804) 尚育 天保 6(1835) 尚泰 嘉永元(1848) 慶長16(1611) 寛永16(1639) 正保4(1647) 慶安2(1649) 寛文10(1670) 宝永 7(1710) 正徳 5(1715) 宝暦5(1755) 寛政12(1800) 文化2(1805) 文政11(1828) 安政5(1855) 正保元(1644) 慶安2(1649) 寛文11(1671) 宝永 7(1710) 正徳4(1714) 宝暦2(1752) 寛政8(1796) 文化3(1806) 天保3(1832) 嘉永3(1850) 後 後 後 年 後 後 後 後 前 後 i 3 1 2 同 1 2 -] 2 3 2 ︻ 20 21 27 33 15 16 13 一 20 18 8 i 3 同 -同 1 3 4 前 前 年 後 年 年 後 前 後 後 前 ず さ 逮 派 派遣されず 世子尚青棒位 『中山世諸

『島津家文書

『薩藩旧記雑録』より作成。☆:即位の何年後に謝恩健を派遣したか、☆★:起請文の 提出の何年前もしくは何年後に謝恩俊を派遣したか。 (参加-封億 の来 臨 。⑨ 中国 皇帝 へ謝恩 債 の派遣 (参冊 封 便 の来 臨 は表2か ら理解 で きる よ うに、① ∼(9 ・⑦ の各段 階が終 わ ってか ら執 り 行 われ る。 そ して、来 臨の 同年 に (尚敬 王 のみ翌 年 ) に(9中国皇帝 へ 謝 恩便 の派 遣 が執 り 行 われ る。 したが って⑧ 鼎封 便 の来 臨 ・⑨ 中国皇帝へ 謝恩傍 の派 遣 が行 われ る時期 を決定 の 要 因 は、(参-(む ・(カの王位 継 承 の各 段 階 が終 わ る事 で あ る と言 え る。 (参か ら(釘まで の琉 球 国王 の王位 継 承 過程 の各 段 階 の時期 を決定 す る要 因 につ い て整 理 を 試 み たo 簡単 に ま とめ る と、(む 「中城 王 子 を称 え る」段 階 で は、 国王 (多 くは 自分 の父) の即 位 後3 ・4年 後 に、10歳前 後 で称 えて い る慣 例 が確 認 で きる。③ 「中城 王 子 と して上 国す る」 段 階 で は、 中城王 子 を称 えた3-5年後 に上 回す る慣 例 が確 認 で きる。㊨ 「即位 」 の段 階 で は前 回王 の死 去 の翌 年 に即位 す る慣 例 が確 認 で きる。⑤ 「起 請 文 を提 出」 す る段 階 で は即 位 後、14-17歳 以上 で あれ ば、 同年 ない し翌 年 に提 出。14-17歳 に達 してい なけ れ ば年令 に達 してか ら提 出す る慣 例 が確 認 で きる。⑦ 「幕府 へ の謝恩 傍 の派遣 」 す る段 階 で は、即 位 後3年 以 内 に派遣 す る原則 が確 認 で きる。(勤 「鼎封便 の来 臨」(釘 「中国皇帝へ 謝恩 健 の派遣 」す る段 階 で は、(参-⑤ ・(わの段 階 が終 わ る と行 なわれ る慣 例 が確 認 で きる. ⑤ 「起 請 文 の提 出」 は他 の王位 継承 の段 階 と比 較 す る と、慣例 と して年令 が重 視 され て い る こ とが分 か る。 これ はお そ ら く薩 摩 藩側 が、 国王 の責任 追及 能 力 を重視 したか らであ り、 言 い方 を変 えれ ば、幼 少 で実 質 的 に政務 につ くこ とが不 可能 な国王 には起 請 文 を提 出 させ なか った と言 え るの で は ない だ ろ うか。 ー79

(15)

-琉球 国王 の薩摩 藩主 に対 す る忠 誠 の論 理 に関す る研 究 ノー ト

3

起請文前書 の変化 の考察一琉球国王の薩摩藩主 に対する忠誠の論理の変化

琉球 国王の王位継承 の各段階の大 まかな整理 を試みたのであるが、 この王位継承の各段 階のなかで、最 も 「琉球 国王の薩摩藩主 に対す る忠誠」が前面 にでている段階 として起請 文の提 出が考 え られが、それは起請文前書 において薩摩侵入の正当化 と、薩摩藩主に対す る忠誠の論理が展 開 されているか らである。 琉球国王が薩摩藩主 に対 して提 出 した起請文の前書 には変遷があ り、やがて固定化す る。 従 って、起請文の前書が固定化す る以前 と以後の2つに大別で きる。薩摩藩が起請文 を提 出 させ た 目的については、尚寧王が薩摩侵入の戦後処理のために、他 の国王 は薩摩藩主 に 対す る忠誠 を求め るため にの

、2

つ に大別で きる。 起請文前書 について、 さらに細か く分類す ると

Ⅰ期 (尚寧王)

I

Ⅱ期 (尚豊王ト Ⅲ期 (尚賢王 ・尚質王ト Ⅳ期 (尚貞王 ・尚益王)・V期 (尚敬王 ∼尚泰王、ただ し尚育王 を除 く)の5期 に分類 で きる。 Ⅰ∼Ⅳ期が文言が変化 している時期であ り、Ⅴ期が固定化 した 時期 である。 なお、尚育王 は名実 ともに即位 した道光15 (1835)年以後 に起請文 を提 出 し ているのではな く、道光8 (1828)年の 「世子尚育掃位(15)」 に対 して、同年 に起請文 を提 出 してい る。 以下、各時期 において 「琉球国王の薩摩藩主 に対す る忠誠」の論理が どの様 に展 開され ているか を中心 に考察 したい。 Ⅰ期 尚寧王(16) 敬 白 天罰塞社起請文之事 - 琉球之儀 自往古為 薩州島津氏之附膚、依之 太守被譲其位之時者、厳儀船以奉祝 寓、或時々使者 ・使僧献 随邦之万物、其碓義終業怠奏、就 中 太 閤秀青公之御時所 被定置者、相附薩州篠役諸式可相勤 旨錐無其疑、遠国之故不能相達、右之御法度多 罪 々々、因叢球団被破却、且復寄於貴国上者、永止締郷之恩宛如鳥之在寵 中、然鹿 家久公有哀憐匪膏遂蹄郷之志、割諸 島以錫我其履、如此之御厚恩何 以可奉謝之哉、 永 々代 々野 薩州之君毛頭不可存疎意事 - 到子 々孫 々譲与此蛋社起請文之草案、不可忘却厚恩之 旨可令相椿事 一 所被相走之御法度 曽以不可致違乱事 右候之偽於有之者 (神文 は略) 中山王 慶長十六年 辛 菊月 尚寧 進上 羽林 家久公 -80

(16)

-史料 編 集 室紀 要 第24号 (1999) 尚寧王の起請文は、琉球国王か ら薩摩藩主 (ここでは島津家久) に提出 された最初の起 請文である

「尚寧王の島津家久に対する忠誠

「薩摩侵入の正当化」が強調 されている第 一条 を考察 してみたい。 第-条は史実 と 「尚寧王の島津家久 に対す る忠誠

「薩摩侵入の正当化」の為 の薩摩側 の解釈が混在 している。 まず古琉球 において首里王府が島津氏 に対 して使者 ・便僧 を派遣 したのは史実であるが、その理由は必ず しも 「琉球之儀 自往古為 薩州島津氏之附庸」で はない(17)。首里王府が豊 臣秀吉の朝鮮出兵の際、島津氏側の要求通 りに 「篠役諸式」 を負 担 しなか ったのは史実 であるが、その理由は 「遠国之故不能相達」 と言 う単 に地理的な問 題ではない(18)。 「相附薩州揺役諸式可相勤 旨錐無其疑」 として負担 は疑いなきこととしている。 この豊 臣秀吉の命令 によ り、島津義久 を通 じて琉球国へ 「篠役諸式」が要求 されていった過程 に ついては、上原兼善の先行研究がある(19)。「揺役諸式」 を島津氏側の要求 に従 って負担 し なかったことに対 し、尚寧王 は 「御法度多罪々々」として謝罪 しているが、この 「御法度」 には法的効力 は何故あるのかが問題 となる。法的に効力があるためには、秀吉 と義久が主 従関係 を結 び、かつ島津義久 と尚寧王 に主従関係が成立 しているか、 もしくは直接秀吉 と 尚寧王が始終関係が有 ることが重要 となる。 しか し、上原が述べているように 「豊臣政権 としては義久 との主従関係 を打ち固めない限 り、 また琉球国の服属 を実体 あるものにす る ことは困難であった といって よいであろ う(20)。」 とい う情況であ り、秀吉一義久の主従関 係す らも不安定で、秀吉一義久- 尚寧王の主従関係 も、秀吉一 尚寧王の主従関係 も当時は 実質的に成立せず 「御 法度」の法的効力は きわめて疑わ しい と言 える。 しか し、この尚寧王の起請文での論理展 開は、尚寧王 は、秀吉の御法度 に背いた として、 琉球国に対 し島津氏側 は薩摩侵入 を行 った としている。そ して囚われの身になった尚寧王 は、島津家久の 「哀憐」 によ り帰国で き、 さらに 「割諸島以錫我其履」 と後 に近世琉球の 版図 となる領域が返還 されることは家久の 「御厚恩」であ り、その事 に対 し 「何以可奉謝 之哉永々代 々封 薩州之君毛頭不可存疎意事」 と忠誠 を誓わされている。 秀吉-義久の主従関係 は成立 していたが不安定であ り、義久一 尚寧王の主従関係 につい ては全 く存在 し得 なか ったが、「琉球之儀 自往古為 薩州島津氏之附庸」 とす る 「附庸 国」論 を尚寧王 に同意 させ、琉球国王か ら薩摩藩主への忠誠 を導 き出す、一つの論理展 開 の形式が、尚寧王の起請文 において展 開されていた と言 える。 しか し、 まだ 「素吉 附庸」 については触れ られていない。 この 「附庸

」論が成立 しなければ 「相附薩州篠役諸式可相勤 旨錐無其疑」 にならず、 当然薩摩侵入の正当化 がで きない。そ うすれば、尚寧王が帰国で きることは家久の 「哀憐」 にな らず (そ もそ も尚寧王が薩摩へ連れて行かれたことに、正当性が無 くなる)、近世琉 球の版図 となる領域が返還 されることは家久の 「御厚恩」で もな くなる (同 じく琉球国が 占領状態にあることに、正当性が無 くなるため)。従 って尚寧王の起請文 における、「薩摩 侵入の正当化

「琉球国王の薩摩藩主 に村す る忠誠」 は、「附庸国」論の成立如何 に係 って -81.

(17)

琉球 国王の薩摩藩主 に対す る忠 誠 の論理 に関す る研 究 ノー ト い ると言 える。つ ま りこの 「附庸国」論 を、尚寧王が 自ら起請文で誓詞血判 を行 い認 めた ことによ り成立 した、「琉球国王の薩摩藩主 に対 す る忠誠」の論理 と言 える。 Ⅲ期 尚豊王(21) 寛永十六年 己卯 二月十一 日 琉球国司 尚豊起請文 敬 白 天罰塞社起請文之事 一 光久様今度 三川之被為成任 太守職候 間諸事相随 御下知曽以不可在疎意 ノ専 一 我 々儀若輩候之処 家久様以 御意即位仕候、此等之 御厚恩之儀 之事、子今忘却 無御座候之事 - 琉球之儀 自往古為 薩州之附庸之条諸事可相従 御下知之処 中比依致無沙汰被成破 却、始先国司 ・按司井侍衆二重迄被召寄 差図之上者再止帰国之恩候之処黄 門家久 枝以 御哀憐被為帰国之加之過分之御知行被宛行 開喜悦之眉候以何如斯可奉謝 御 厚恩 二両、永 々代 々奉封薩州之君不可奉存疎意候之事 - 若球 団之輩忘右之 御芳恩企悪逆者有之而縦囲中雛到其 旨同心、於愚拙属 薩州之 御幕下、毛頭不可相随逆心之無道之事 - 此塞社起請文之草案写置譲与子 々孫 々奉封 薩州不可致不忠之 旨相俸候之事。 右之 旨若於偽 中上者 (神文略) 寛永十二年 己卯 琉球国司 二 月十一 日 尚豊 花押 尚豊王が提 出 した起請文 は、『薩滞旧記雑録』にはな く、『島津家文書』に原文書がある。 また、摂政 。三司官の起請文 も享保八年以前の ものは、『島津家文書』では硯存す るが、『薩 藩旧記雑録』では含 まれていない(22)0 第一条か ら、島津家久か ら光久-の代替わ りの際に提 出 した起請文である ことが分 かる。 尚豊王が即位 の際 に提 出 した起請文 については 『島津家文書

『薩藩旧記雑録』で は確認 で きない。 尚豊 王 以 降 で藩主代 替 わ りに際 しての起 請 文 の提 出 (再提 出) は、天 明7

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7

)年 に尚穆 王が、島津重年か ら重豪への代 替わ りに際 まで 『島津家文書

『薩藩旧 記雑録』では確認 で きない(23)。 尚豊王の起請文 で、「薩摩侵入の正当化

「琉球 国王の薩摩藩主 に対す る忠誠」 の論理が 展 開されているの は、第二条 と第三条である。第二条で 「我 々儀若輩候之処 家久様以 御意即位仕候」 とあ り、島津家久の御意 (意志) によって 「即位」で きた として、それに 対 し、「此等之 御厚恩之儀之事、干今忘却無御座候之事」 として忠誠 を誓 っている。 尚寧王の第一条 の 「家久公有哀憐 匪膏遂蹄郷之志割諸 島以錫我其履如此之御厚恩何以可 奉謝之哉之哉永 々代 々封 薩州之君毛頭不可存疎意事」 の一節 と同 じく、 「忠誠 の論理」 が展 開 されているが、琉球国王の即位 について触 れてい る ところが決定的 に異 なる。また、

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2-史料 編 集室 紀 要 第24号 (1999) 同 じ条文内において 「附庸 国」論が展開されいていない。 この第二条での、忠誠の論理の 導 き方は 「附庸国」論ではない。島津家久 により 「即位」で きたとして、家久 に対 し 「御 厚恩」が有 るとして、家久 に忠誠 を誓 うとする論理である。 この論理 を仮 に 「即位一御厚 恩」論 と位置づける。 この 「即位一御厚恩」論での 「即位」 はどの様 な地位への即位 なのであろうか。尚豊王 は 「琉球 囲司 尚豊」 として誓詞血判 を行 っている。従 って島津家久 により尚豊 は 「琉球 国司」の地位 に 「即位」 した と考 えることは出来 ないだろ うか。「琉球国 ・中山王」の地 位 は、脚封 にによって明 (後 に清)が、東 アジアの 「斬封体制」下で保証する地位である。 故 に、薩摩藩権力が保証す る地位 としては相応 しくな く、別 に尚豊の地位 を創設する必要 があったのではないだろ うか。「琉球国司」の 「国司」 には 「副王 または総督」 としての 意味合いがあ り(24)、薩摩藩権力が尚豊 に与 える地位 としては相応 しい地位であ ったであろ う (25)0 第三条では、「薩摩侵入の正当化」が 「附庸 国」論 によって展 開されているが、尚寧王 ほ ど詳細ではない。 また、 この条文以降 「薩摩侵入の正当化」の論理展開は国王 ・摂政 ・ 三司官の起請文の前書 か らな くなる(26)。逆 に言えば、起請文の主たる目的が 「薩摩侵入の 正当化」か ら 「琉球国王の薩摩藩主 に対する忠誠」 に移行 し、前者の目的が消滅 し、やが て後者の 目的のみが重視 されるようになった と考 え られる。 この第三条では 「琉球之儀 自往古為 薩州之附庸之条諸事可相従 御下知之処」 とし、 琉球国は 「附庸国」である故 に 「諸事可相従 御下知之処」 としている。尚寧王の起請文 と同様 に、「附庸 国」論 により 「薩摩侵入の正当化」 を行 っているが、尚豊王 の起請文で は、「薩摩侵入の正当化」 とともに、「諸事可相従 御下知之処」 について も強調 されてい る。 第四条では 「於愚拙属 薩州之御幕下、毛頭不可相随逆心之無道之事」 と、 自らの立場 を 「薩州之御幕下」 と表現 している。以後 この文言は尚賢王 と尚質王の起請文 まで継続 し て用い られる。 この 「薩州之御幕下」 とは、一般的に 「薩摩藩の支配 ・指導下の立場 にあ る」 と解釈で きるが、第二条の文言 と 「琉球国司 尚豊」 として誓詞血判 していることか ら、特 に 「琉球国司」 の立場 を指 していると考えられる。 この起請文 により島津光久 に対 し忠誠 を誓 っている尚豊王であるが、 もし仮 に琉球国内 で薩摩藩に対する反逆行為が起 こった際の対処 をどの様 に誓約 しているのであろ うか。「若 球団之輩忘右之 御芳恩企悪逆者有之而縦国中難到其 旨同心」であって も尚豊王 は 「薩州 之御幕下」故 に加わ らない としている。反乱 を琉球側 で主体的に抑 えるのではな く、ただ 単 に 「毛頭不可相随逆心之無道之事」 なのである。 このことは、間接的には琉球 国内で薩 摩藩 に対する反逆が起 こった際は、薩摩藩側が対処す ることを指 しているのであろう(27)0 Ⅲ期 尚賢王(28) 敬 白 天罰塞社起請文之事

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・83-琉球 国王 の薩摩 藩 主 に対 す る忠 誠 の論 理 に関す る研 究 ノー ト - 此邦相緯之儀我等為若輩之処被仰付 御芳恩生 々世 々不可有忘却之辛 - 琉球之儀 自往古為 薩州之附庸之条諸事可相随 御下知候若球団之輩奉忘右之御芳 恩企悪逆著者之而縦国中錐致其 旨同心候於愚拙属 薩州之御幕下毛頭不可相随逆心 之無道之事 - 此塞社起請文之草案写至譲与子子孫 々封 薩州不可存不忠之 旨可令相博之事 右之旨若於偽 申上者 (神文略) 千時 正保四年行 四月五 日 琉球国司 尚賢 花押 Ⅲ期 と して位置づ けた尚賢王 ・尚質王の起請文 は共 に同 じ文言であるので、尚賢王の起 請文 を取 り上げる。 第-条 にて 「此邦相緯之儀我等為若輩之処被仰付」 として、島津光久 によ り尚賢王が琉 球 国の 「相続」 を仰せ付 けた事 に対 し、「御 芳恩生 々世 々不可有忘却之事」 として忠誠 を 誓 ってい る。尚豊王の第二条 における 「即位」 とい う用語 を避 けて 「相続」 とい う用語が 用 い られている。 なぜ 尚賢王 ・尚質王では 「即位」 の用語が用 い られ なか ったのか。「即 位」 とい う用語 は 「琉球国 ・中山王」 の 「王位」 を連想す る として避 けたのではないだろ うか。 第二条では 「琉球之儀 白往古為 薩州之附庸之条諸事可相随 御下知候」 と 「附庸国」 論 が展 開 されてい る。ただ し、尚寧王 。尚豊王の際の ように 「附庸国」論 に よって 「薩摩 侵入の正 当化」 は行 われていない。 尚賢王が起請文 を提出 したのが、正保

4(

順治

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7)年で、薩摩侵入か ら

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年が経過 してい る。そ して尚寧王 (嘉靖

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ト 尚豊王 (寓暦

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が ともに生 まれが薩摩侵 入以前 であ ったのが、尚賢王 (天啓

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5)

は薩摩侵入以後 に誕生 している。つ ま り、前 の二人の国王 とは異 な り、 尚賢王 は薩摩侵入 を直接 目に した国王ではないのである。 この ことが起請文 によって 「薩摩侵入の正 当化」がなされた くなった事 と関連があるのかはな か ろ うか。 尚賢王 の起請文 において、尚豊王の起請文 にある 「諸事可相随 御下知候」の文言が残 り、 この文言 と組 み合 わせ て表現 されていた 「薩摩侵入の正当化」の論理が無 くなったこ とは、「薩摩侵入 の正当化」の 目的 よ りも 「薩摩藩主 に対す る忠誠」 の方が よ り重要 に成 ったことを示すであろ う。 第一条 で 「相続」が薩摩藩側か ら 「被仰付」た事 によ り、「芳恩」が生 じるとしている。 第二条では、 この 「芳恩」 を忘れた者が琉球国内にいて も、尚賢王の立場 は 「薩州之御幕 下」 であ るか ら 「不可相随逆心之無道」 として忠誠 を誓 っている。尚豊王の起請文では第 四条 と して独立 して存在 していた 「薩州之御幕下」 と言 う文言が、「附庸 国」論 と組み合 わ され、 「薩摩藩主 に対す る忠誠」 の論理が展 開 されてい る。 この尚賢王 ・尚質王が提 出 した起請文 における忠誠の論理展 開 を、仮 に 「相続一御芳恩」論 による忠誠 の論理 と位置

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4-史料 編 集 室紀 要 第24号 (1999) づ けたい。 Ⅳ期 尚貞王(29) 敬 白 天罰蛋社起請文之専 一 先国司跡職我等江被 仰付候 、誠以筋 目不相替此邦相確侯儀、難有仕合 二存奉候、 此御厚恩生涯忘却仕 間数候専 一 琉球安泰之儀 貴囲之恵不浅故 と誠以錐致報謝奉存候 、縦親子兄弟 二両 も忘此高恩 企逆意儀、雄有之於我等者堅相守 貴国之御 下知毛頭別心者御座 間数候専 一 此墓社神文之表、子 々孫 々譲与之至後 々末代迄相守此 旨様 こ可 申博之候、縦雄為嫡 子之子孫悪意之者有之国法之妨二於罷成者、則遂披露可加刑罰以聯緩疎有御座 間数 候事 右之 旨若於偽 申上着 (神文略) 琉球国司 尚貞 花押 時 寛文 拾年 庚成 五月十五 日 敬 白 天罰憲社起請文 敬 白 Ⅳ期 の起請文 として位置づ けた、尚貞王 ・尚益王の起請文 は同 じ文言であるので、尚貞 王 の起請文 を取 り上 げる。 第一条 にて 「先国司跡職我等江被 仰付候、誠以筋 目不相替此邦相績候儀、薙有仕合二 存奉 侯

」 と して、「国司」 とい う職 を薩摩藩主か ら仰せ付 け られた ことによ り、「筋 目不 相 替」 にな り、結果 と して 「此邦相碑候」 になる としてい る。 この文言か らは国司職 は、 薩摩 藩主か ら与え られ る職であることが分かる。 尚豊王 -尚益王の期 間は、「琉球国司」 とい う用語 は、薩摩藩 と首里王府 (主 として藩 主 と国王の間でかわ されたの書状)の間においてのみ用 い られた。起請文以外の書状 では 既 に用 い られていた 「国司」号が、尚貞王の起請文 においては じめてに用 い られた事 のは なぜで あろ うか。 薩摩藩主が琉球国王 に対 し何 か を与 えその地位 を保証す ることによ り、琉球国王か ら忠 誠 を得 る論理展開は既 に尚寧王か ら見 られ る。何 を与 えるかはについては、 尚寧王 は 「割 諸 島以錫我其履」 と一度摂取 された古琉球国の領域の内、奄美 を除 く領域 の返却 (地位 ・ 職 で はない)、尚豊玉 の起請文 においては 「即位」 とい う用語が用 い られ、 また尚賢王 ・ 尚質王 では 「此邦相樺之儀」 と文言があ るが、具体的な地位 ・職 については触れ られてい ない。尚貞王 は 「囲司職」 とい う地位 ・職 を与 え られた ことになっている。 この ことは、尚豊王 。尚賢王 ・尚質王 の三代 の王 に対 して、具体 的 に薩摩 藩側 は どの様 な地位 を与 えるかを提示す る事 が出来 なか った事 を示 している。 なぜ薩摩藩主が琉球国王 の地位 を保証す る地位 と して 「国司」号が摸 ばれたのか。それは、薩摩藩の長たる藩主 と

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.85-琉 球 国王 の薩摩 藩 主 に対 す る忠 誠 の論 理 に関す る研 究 ノー ト 首里王府の長である琉球国王 との間で既 に 「囲司」号が用い られていたため、薩摩藩主が 琉球 国王の地位 を保証す る地位 ・職 として流用 されたのではなかろうか。 ではなぜ 「国司」号が用い られるようになった尚豊王が提 出 した起請文か ら用い られな かったのか。それは 「国司」号は、薩摩藩主が琉球国王へ与 える地位 ・職 として創設 され た訳 ではないか らであろ う(:iO)。そ して尚貞王の起請文 を提 出す る際 に、「国司」号が 「国 司職」 として 「薩摩藩主に対する忠誠」の論理 として取 り込 まれた と考 え られる。ただ、 なぜ この時期 なのかは今後の考察 を必要 とす る。 第二条で、「琉球安泰之儀 貴国之恵不浅故 と誠以錐致報謝奉存候」 と、「琉球安泰」は 「貴

」 (薩摩藩) によって もた らされるとしている

「琉球之儀 自往古為 薩州之附庸」 とす る 「附庸国」論 は、 この尚貞王以降、琉球国王が提出 した国王の起請文において展開 されな くなる。その代 わ り 「琉球安泰之儀 貴国之悪不浅故」 とす る論理が展開される。 この 「琉球安泰之儀 貴国之悪不浅故」の 「琉球安泰」 は具体的には何 を指すのであろ うか。少な くともこの起請文か らは、具体的には示せ ない。ただ、第一条 との関連か らそ の主 な所 は 「先国司跡職我等江被 仰付候、誠以筋 目不粕替此邦相緯候儀、」の 「筋 目不 相替此邦相積候」 であろう。つま り薩摩藩主が 「国司職」 を 「被仰付」 た結果 として、筋 目 (琉球国王の血筋 ・系譜)が替わ らず、此国が続いてい くことがで き、その結果琉球が 「安泰」 になるとい う事であろう。 しか し、 この 「安泰」 はこの限定 された意味のみでな く、琉球国全体の 「安泰」 を示す ことも十分考えられる。 この 「安泰」が具体的に何 を指 すのか、薩摩藩側 の解釈 と、首里王府側の解釈 には差がないのか今後検討 して行 くべ き課 題 である。 この尚貞王 ・尚益王で展 開されている薩摩藩への忠誠の論理展 開を、仮に 「国 司職一琉球安泰」論 と設定 したい。 尚質王の起請文 にあった 「於愚拙属 薩州之御幕下毛頭不可相随逆心之無道之事」 とい う文言が消 え、「於我等者堅相守 貴国之御下知毛頭別心者御座 間数候事」 とい う文言が 登場す る

「属 薩州之御幕下」か ら 「堅相守 貴国之御下知」への変化 は、琉球国王が 自ら薩摩藩に属す るとす る表現か ら、琉球国王 として薩摩藩か らの 「御下知」の厳守 を行 うとす る表現-の変化である。 この変化の意味は大 きいが、実態 には変化があったのかど うかが問題で、尚豊王 ・尚賢王 ・尚質王の三代 の国王 と、尚貞王以降の国王の意味づけが、 薩摩藩側 にとって変化があるのかないのかが重要である。 第三条では 「縦難為嫡子之子孫悪意之者有之国法之妨こ於罷成者、別送披露可加刑罰以 卿緩疎有御座 間数候事」 とある

「国法之妨J になる 「悪意之者」 とは、具体的にはどの 様 な者 を指すのであろうか。「国法之妨」の国法は、起請文が提出された背景か ら考 えて、 薩摩藩か ら首里王府への碇の類は最低限含 まれると考えられる。 また、尚豊王 ・尚賢王 ・ 尚質王の起請文 で、 この 「悪意之者」 に近い文言 として 「企悪逆者」が考 え られる

「企 悪逆者」 は前後の文言か ら、薩摩藩へ反逆する者 と考え られ、 したが って 「悪意之者」 に は、薩摩藩に反逆す る者が少な くとも含 まれると考え られる。 「則遂披露可加刑罰以脚緩疎有御座間数候事」 とあるが、尚寧王∼尚質王では 「属 薩 _8

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6-史料 編集室紀 要 第24号 (1999) 州之御幕下毛頭不可相随逆心之無道之事」 とあ り、反逆 に加担 しない ことを誓約 している のみであった。 しか し尚貞王以降は 「披露」 を し、「刑罰」 を加 えるとある

「披露」 を し 「刑罰」 を加 える主体 は、首里王府側 なのか、それ とも薩摩藩側 なにか。判断 に苦 しむ と ころであるが、文言の文脈 か ら推測 し、首里王府側 である ことは間違いないであろう(3

1

)

Ⅴ期 尚敬王以降(32) - 先 国王跡職我等江被 仰付候、誠以筋 目不相替此邦相頼候儀、難有仕合二存奉侯、 此御厚恩生涯忘却仕 間数候事 (中略) (尚貞王の起請文の第二条 と同 じ文言) 在牛王 裏 敬 白天爵塞社上巻起請文之事 謹請散再拝 々々、不惟富来隼雄正徳五年大歳己未五 月三 日月並者以下神文暑 ス

末文

偽塞社上巻起請文状如件 正徳五年己未五月三 日 中山王 血判 ナ リ 進上 中将様 尚敬判 尚貞王の 「国司」が 「囲王」 と変化 したのみで、他 の文言 に変化が ないが、 これは大 き な変化である。薩摩 藩主が 「琉球国司」 とい ういわば、薩摩藩 と首里王府 との間 とい う限 定 された範囲で用 い られていた地位 ・職 (琉球国王 を表現 した文言)でな く、琉球国内の みな らず東 アジアの脚封体制、 さらに幕府 との間で も用 い られた 「琉球国 。中山王」 とい う地位 ・職 を 「被仰付」 た としているか らである。 この ことは脚封体制下で、明 ・清か ら 与 え られ る 「琉球 国 ・中山王」の位 と明 らかに重 なることになる。 幕藩体制下の-藩主 にす ぎない島津氏が 「国王」 の跡職 を 「被仰付」 ることが可能 なの だろ うか。脚封体制下の 「国王」 の地位 を薩摩藩主が与 えることは、薩摩藩主 自身が珊封 体制 に組み込 まれてお らず、 また、筋封 は天子 (中国の皇帝)のみが行 えるのであって、 当然論理的 に無理 である。一方幕藩体制下の 「国王」を考 えてみ ると、紙屋氏 によると 「国 王」 は天皇お よび将軍、 もしくは将軍のみ を指す用語 である(33)。当然 、将軍 に随 ってい る -藩主 にす ぎない薩摩 藩主の島津氏が 「国王」の位 を与 える ことは、論理的 に難 しいので はないだろ うか。 したが ってこの 「国王」 と言 う地位 を薩摩藩主が琉球国王 に与 えること は、脚封体制下の国王 で も、幕藩体制下の国王で も論理的 には限界があることになる。 琉球国王の王権 は、三つの要因か ら成立 してお り、前 にあげた二つの王権 を支 える要 因 の他 に、古琉球か らの琉球強 白の王権 を支える要因が存在 している(31)。薩摩藩主 はこの琉 球古来か らの王位 を与 えるていたのであろ うか。古琉球か らの琉球独 自の王権 を支える要 因は、聞得大君 を中心 と した祭紀であ り、薩摩藩権力 か らは独立 した要因 と考 え られる。

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・87-琉 球 国王 の薩摩 藩主 に対 す る忠 誠 の論 理 に関す る研 究 ノー ト 薩摩藩主は土御 門系の陰陽道 には通 じていた とされるが、聞得大君 を中心 とした祭紀 を掌 握 していた とは考 えに くいのではないだろうか。 薩摩藩主が、琉球国王 に 「国王職」 を 「被仰付」 ることが論理的に限界があった として も、 この 「被仰付」たことにより 「琉球安泰」 とな り、忠誠 を誓 う論理構造になっている ことは間違いない。そこで尚敬王以降の 「忠誠の論理」 を仮 に 「国王職一琉球安泰」論 と 設定 したい。 この尚敬王以降は、尚育王が尚潮王の隠居 にさい し提出 した起請文 と、藩主代替わ りに 際 しての起請文 を除 き、起請文の前書が固定化する。その理由 として考え られることは、 琉球国王が薩摩藩主 に対 して忠誠 を誓 う論理 として 「国王職一琉球安泰」が、薩摩藩側、 首里王府側の双方 にある程度受 け入れ られ、起請文 を提出 し忠誠 を誓 う際の論理 として定 着 したこと。 さらには薩摩藩 と首里王府の関係が安定 し、起請文が形骸化 したことが考え られる。尚敬王以降は、国王が一定年齢以上 になると起請文 を提出する。 また藩主代替わ りの際に再提 出を行 うとい う行為 を、琉球国王が行 う行為その ものに意味が出て、起請文 前書 における琉球 国王が薩摩藩主に対 して忠誠 を誓 う論理展 開その ものには意味が無 くな った と言 えるであろう。 なお、尚育王が 尚潮王の隠居 にさい し提出 した起請文は尚敬王以降の第一条の 「-先国 王職我等江被 仰付候

」が 「-尚潮王隠居、我等江家督被仰付候」 と変化 し、藩主代替 わ りに際 しての起請文は、同 じく末尾 に 「右僚々今度御家督付 中将桟御代之通、弥以相守 可 申候、若於相背者(35)」 と加わる。 尚寧王の起請文か ら、文言が固定化す る尚敬王 までの前書 を考察 して きた。 「薩摩侵入の正当化」 については、第 Ⅰ期の尚寧王 と、第 Ⅲ期の尚豊王のみ しか展開さ れていなかった。「薩摩藩主 に対する忠誠」 に関 しては、第

Ⅰ∼V

期 まで一貫 して展開さ れて きた事が分か る。 しか しその 「忠誠」の論理展 開は、第 Ⅴ 期 まで変化 している。 第 Ⅰ期 (尚寧王) を、「附庸国」論 による 「忠誠」の論理展開 とす ると、第 Ⅲ期 (尚豊 王) は 「即位一御厚恩」論 による 「忠誠」の論理展 開 と言 える。第 Ⅲ期 (尚賢王 ・尚質 王) は 「相続-琉球安泰」論 による 「忠誠」の論理展 開 、第Ⅳ期 (尚貞王)は 「国司職 一琉球安泰」論 に よる 「忠誠」の論理展開 、そ して最後の第Ⅴ期 (尚敬王∼尚泰王)は 「国王職-琉球安泰」 による 「忠誠」の論理展開 と位置づ けたい。 この第 Ⅲ期以降 に展開される 「忠誠」の論理 を、一括 して 「琉球安泰」論 として仮定す る。薩摩藩主か ら、国司 ・国王 とった地位 を 「被仰付」ることによって、「安泰」を得 る。 故 に琉球国王 は、薩摩藩主 に対 して 「忠誠」 を誓わなければならない とす る論理である。 尚賢王以降において、起請文の第一条 に 「先国王 (国司)跡職我等江被 仰付候」 とあ るが、 この 「被仰付」 は、「国司 ・国王の地位全般 を仰せ付 ける」のか、それ とも 「ただ 単 に薩摩藩 との間で国王 として諸事 を執 り行 うことを仰せ付 ける」のか、 この起請文の文 言か らでは分 か らない。薩摩藩主が琉球国司 (尚敬王以降は琉球国王) に 『安堵』すると す る制度が確立 しているのであれば、『安堵状』が存在 しなければならない。 しか し、『旧

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