Title
近世琉球の渡唐使節における特使の様相 : 清朝との通交
期を中心に
Author(s)
深澤, 秋人
Citation
沖縄キリスト教短期大学紀要 = JOURNAL of Okinawa
Christian Junior College(29): 157-164
Issue Date
2000-12-15
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/10078
近世琉球の渡唐使節における特使の様相
一清朝との通交期を中心に−*
深 津 秋 人 * *
要 約 近世琉球の王権・国家は、中国とのあいだに通交関係を成立させていた。明清交替を経て、清朝に派遣 された渡唐使節の中心には、清朝の諸制度に準拠して朝貢する進貢使が位置づけられる。また、朝貢使節 を迎接する接貢船(当初は左右間船)は17世紀後半に段階的に清朝に認可された。 このほかにも、清朝にはさまざまな特使や仕立船が派遣されていた。具体的には、冊封に対する謝恩使、 「御書」などの皇帝の特別な賞賜に対する謝恩使、慶賀使、報喪使、接封使、請貢使、請諭使、そして護 送船である。貢期に遵って朝貢する進貢使に対して、不定期な渡唐使節であるといえよう。 これらについては、先行研究が蓄積されているものの、全体状況、使節の規模、派遣形態などについて は必ずしも明らかにされていない。そこで本稿では、特使の全体状況を概観し、派遣形態の変化を中心に 論じてみたい。主な論点は、清朝との通交関係におけるそれぞれの使節の位置づけ、使節ごとの派遣形態、 派遣形態が変化する時期とその背景などである。 は じ め に 近世琉球の王権・国家は、中国とのあいだに通 交関係を成立させていた。明清交替を経て、清朝 に派遣された渡唐使節の中心には、清朝の諸制度 に準拠して朝貢する進貢使が位置づけられる。ま た、朝貢使節を迎接する接貢船(当初は左右間船) は17世紀後半に段階的に清朝に認可された。 このほかにも、清朝にはさまざまな特使や仕立 船が派遣されていた。具体的には、謝恩使(冊封・ 「御書」)(1)、慶賀使、報喪使、接封使、請貢使、 請諭使、そして護送船である。貢期に遵って朝貢 する進貢使に対して、不定期な渡唐使節であると いえよう。 これらについては、先行研究(2)が蓄積されて いるものの、全体状況、使節の規模、派遣形態な ど に つ い て は 必 ず し も 明 ら か に さ れ て い な い 。 そ こで本稿では、特使の全体状況を概観し、主に派 遣形態の変化について論じてみたい。1.清朝に派遣された特使の分類
清 朝 に 派 遣 さ れ た 特 使 の な か で 、 北 京 に 進 京 す るものには、謝恩使(冊封・「御書」)と慶賀使が ある。それぞれ謝恩・慶賀の進貢品を朝貢するも のの、正副使のランクには差がある。謝恩使(冊 封 ) は 正 使 法 司 王 勇 ・ 副 使 紫 金 大 夫 、 謝 恩 使 (「御書」)は正使紫巾官・副使正議大夫、慶賀使 は正使王翼・副使正議大夫である。これに対して、 進貢使は正使耳目官・副使正議大夫である。琉球 と清朝の通交関係において、4つの使節の格式を 示すものであろう。 *TheArtefactsofanRyukyuExtraEnvoytoQingDynasty **FukazawaAkito沖縄キリスト教短期大学紀要第29号(2000) 「朝京」使節に対して、福州にとどまるものに は、報喪使・接封使・請貢使・請諭使および護送 船がある。護送船を除き、何れも10名前後から30 名余の小規模な使節である。しかしながら、1840 年代から50年代に特命を帯びて派遣された請貢使・ 請諭使の上級役人は、正使王勇・副使正議大夫・ 都通事から編成されていた。正副使のランクは皇 帝の登極に対して派遣された慶賀使と同様である。 また、報喪使・接封使・謝恩使(冊封)は、琉 球国王の王位継承をめぐって派遣された特使であ る。3つの使節には連続‘性を見いだすことができ よ う 。 清 朝 と の 関 係 で 王 位 継 承 過 程 を 示 す と 次 の ようになる。 報喪一即位一請封(清代は進貢使の兼任のみ)一 接封一冊封一謝,恩 なお、通交関係における使節の位置づけに関連 する問題であるが、3つの使節では携行する琉球 国王の外交文書が異なっている。前国王の死去を 伝える報喪使が布政司宛ての杏文のみを携行する のに対して、福州で冊封使を迎接する接封使は、 布政司に加えて冊封使宛ての杏文を携行している。 進京する謝恩使は表文・奏文とともに礼部・布政 司宛ての杏文を携行している。さらには、進貢使 による請封の場合は、表文・奏文、礼部・布政司 宛ての苔文とともに、琉球国王の「家臣団」が作 成した礼部・布政司宛ての結状を携行しているこ とに触れておく。 2 . 特 使 の 派 遣 形 態 特使の派遣形態は多様である。そこには単独派 遣、進貢使が兼任するケース、進貢船・接貢船に 「坐(搭)駕」「附搭」するケースが存在する。つ まり1つの船舶に2つの使節が搭乗することもあっ たのである。後掲する表1.2から特使の派遣形 態を分類すると以下のようになる。 ①単独派遣. 謝恩使(冊封・「御書」)・慶賀使・護送船・ 報 喪 使 ②進貢使の兼任 謝恩使(「御書」)・慶賀使・護送船 (*接貢船もあり) ③進貢船・接貢船への「坐(搭)駕」「附搭」 謝恩使(冊封)・慶賀使・報喪使・接封使・ 請貢使・請諭使 こ こ か ら い く つ か の 特 徴 を 見 い だ す こ と が で き る。まず、「朝京」使節について述べてみたい。 謝恩使(冊封)は単独派遣、進貢船への「坐駕」 はあるものの、進貢使が兼任することはない。こ れに対して、謝恩使(「御書」)は単独派遣はある ものの、謝恩使(冊封)にはなかった進貢使の兼 任があり、進貢船への「坐駕」はない。慶賀使は 3項目すべてに見いだすことができる。②の謝恩 使(「御書」)・慶賀使の場合は、正(常)貢に加 えて謝恩・慶賀の進貢品が同時に朝貢されること になる。 一方、報喪使・接封使・請貢使・請諭使につい ては、康照8(1669)年の報喪使の一例を除き、 単独派遣や進貢使の兼任はなく、進貢船・接貢船 に「坐(搭)駕」「附搭」している。請貢使・請 諭使は、その派遣目的から時期的に限定されるの に対して、報喪使・接封使は康照年間から同治年 間にいたるまで派遣されている。『歴代宝案』に 収録された執照などから、報喪使・接封使の派遣 形態をまとめたものが表1である。 報喪使は9回、接封使は7回にわたって派遣さ れていることがわかる。報喪使は正議大夫と従人 (人伴)によって構成されていた。その規模は、 康照年間の3回は9.10名であるのに対して、乾 隆年間以降は13名(従人12名)に固定されたよう である。「附搭」した船舶は、進貢2号船が5回、 接貢船が3回である。なお、唯一単独派遣された 康照8年の場合は、執照(『歴代宝案』校訂本第
表 1 清 朝 に 派 遣 さ れ た 報 喪 使 ・ 接 封 使 一 覧 表 *乾隆20年は、接封大夫が福州に未着のため接貢都通事の鄭乗和が「署理」、同治4年の執照は『歴代 宝案』に収録されず。 *「正議大夫」の項目でアンダーラインを引いたものは、『那覇市史資料篇』第1巻6家譜資料2(上) (下)に家譜が収録されていることを示す。 2冊1-34-15号文書)によると、「前に遣わせ る貢船二隻の安危を探訪」することを兼ねており、 「土造'決船」の乗船者は56名であった。 接封使は基本的に正議大夫(御迎大夫)と従人 (人伴)によって構成されていた。しかしながら、 道光17(1837)年の場合のみ、執照(『歴代宝案』 校訂本第12冊1-165-07号文書)の渡唐役人リ ストの表記が異なっている。執照が残存する4回 は従人が21名か24名であるのに対し、道光17年の 場合は、従人(眼伴)12名・舵工2名・水梢9名 となっている。このときの従人12名は、進貢副使 や乾隆年間以降の報喪正議大夫、請諭(貢)副使 正議大夫の従人数と同数である。従人(眼伴)・ 舵工・水梢の合計は23名となることから、ほかの 場合も従人のなかに舵工・水梢が含まれていた可 能性があろう。報喪使にくらべて従人が多いのは このことと関連しよう。使節の規模は、22名(3 回)・24名(1回)・25名(1回)に分布してい る。 また、『事々抜書』(沖縄県立図書館東恩納寛'陣 文庫蔵)の「唐御取合之事」には次のような条項 が見える。 一勅使御渡来之時乗合人数 頭号船 御 迎 大 夫 主 従 十 人 船 頭 主 従 佐 事 三 人 水 主 三 人 二号船 佐 事 二 人 水 主 二 人 福州で冊封使を迎接した接封使は、福州から那 覇に向かう冠船へ搭乗することになる。この条項 は、冠船における接封使の配置を示したものであ る。頭号船には18名、2号船には4名が搭乗して 区分 正議大夫 人伴 符文・執照の日付 乗船 国王の死去・即位
喪封喪喪封喪封喪封喪喪封喪封喪封
報接報報接報接報接報報接報接報接
林 茂 盛 鄭 永 安 察灼 − 楊 聯 桂 陳其湘鄭鄭鄭
国乗国
禎和樋
梁 換允邦邦超良大乗
功錦錦叙弼光衡
梁察察毛鄭周鄭
眺鵬蝿蛇雌脇棚脇雌脇雌鵬眺鵬一脇棚
康照8年3月13日 康照21年10月12日 康照48年10月 康照51年 康照57年9月17日 乾隆16年10月26日 *乾隆20年 乾隆59年 嘉慶4年8月7日 嘉慶8年8月7日 嘉慶9年8月13日 嘉慶12年 道光14年8月2日 道光17年8月3日 道光28年8月7日 *同治4年 士造'決船 進貢2号船 接貢船 進貢2号船 進貢2号船接接
貢貢
船船
進貢2号船接接
貢貢
船船
進貢2号船 接貢船 進貢2号船 接貢船 進貢2号船 接貢船 尚質王は前年11月17日死去 尚貞王の即位は康照8年 尚貞王は同年7月13日死去 尚益王は同年7月15日死去 尚敬王の即位は康照52年 尚敬王同年正月29日死去 尚穆王の即位は乾隆17年 尚穆王は同年4月8日死去 尚温王の即位は乾隆60年 尚温王は前年7月11日死去 尚成王は前年12月26日死去 尚瀧王の即位は嘉慶9年 尚溌王は同年5月29日死去 尚育王の即位は道光15年 尚育王は前年9月17日死去 尚泰王の即位は道光28年沖縄キリスト教短期大学紀要第29号(2000) い る こ と が わ か る 。 両 船 に 搭 乗 す る 人 数 は 合 わ せ て22名であり、執照上(康照57年・嘉慶4年・嘉 慶12年)の人数と一致する。『事々抜書』の規定 で は 、 御 迎 大 夫 主 従 ・ 佐 事 ・ 水 主 に 加 え て 船 頭 主 従が見える。実際には執照の従人層に船頭(管船 直庫)も含まれていたのであろうか。なお、『事々抜 書』の規定には見えないものの、同治4(1865) 年に勅使御迎(接封)大夫として渡唐した、真栄 里親雲上(渡唐準備期間に親方となる)の公務日 記『勅使御迎大夫真栄里親方日記』(3)によると、 接封使には大夫儀者(4)が存在していたことが知 られる。大夫儀者は御迎大夫の9名の従人のなか に含まれていたのであろう。同日記では、御迎大 夫の待遇は「進貢大夫」に、大夫儀者は「進貢大 夫」の大夫儀者に準じていたことがわかる(5)。 なお、表1によると、接封使の乗船は、康照年 間の進貢2号船から、乾隆年間以降は接貢船に移 行 し て い る こ と が 知 ら れ る 。 こ の こ と は 、 冊 封 使 の渡来年はもちろん、謝恩使(冊封)の派遣年と も関係してこよう。後述するように、乾隆年間以 降、謝恩使(冊封)は基本的に進貢頭号船に「坐 駕 」 す る よ う に な る 。 貢 期 に あ た る 年 に 謝 恩 使 (冊封)が派遣されるのは、同時期に接封使が接 貢船に搭乗するようになることと連関した問題で あろう。 護送船については、仕立船による単独派遣とと もに、進貢船・接貢船によって漂着民を送還する ケースがある。単独派遣は康照40(1701)年から 同治2(1863)年まで24回(6)にわたって行われ ている。上級役人は護送都通事と司養贈大使(嘉 慶20年以降は在船使者く才府・官舎〉が多い)で 構成されていたが、進貢船・接貢船で送還する場 合、護送都通事らが「坐(搭)駕」「附搭」する ことはなかった。 また、着眼点を替えると、琉球国王の王位継承 を め ぐ っ て 派 遣 さ れ た 報 喪 使 ・ 接 封 使 ・ 謝 恩 使 (冊封)には、進貢使の兼任がなかったことが注 目される。さらには、請貢使・請諭使にも進貢使 の兼任がない点、謝恩使(「御書」)・護送船を除 くすべての使節では、「朝京j使節、福州にとど まる使節、規模の大小に関わらず、進貢船・接貢 船に「坐(搭)駕」「附搭」する形態がとられて い る こ と に 注 目 す べ き で あ ろ う 。 こ こ に は 、 近 世 琉球の王権・国家による、清朝との通交関係にお ける特使の位置づけを見いだすことができよう。 ここで、『歴代宝案』に収録された符文・執照 から、それぞれの特使の上級役人の構成を示して おきたい。 符 文 ・ 執 照 に 見 え る 特 使 の 構 成 謝 恩 使 ( 冊 ) 謝 恩 使 ( 書 ) 慶 賀 使 請 貢 ・ 請 諭 使 報 喪 ・ 接 封 使 護 送 船 法 司 王 勇 ○ 王 寅 ○ ○ 紫 巾 官 ○ 紫 金 大 夫 ○ 正 議 大 夫 ○ ○ ○ ○ 使 者 ○ ○ 都 通 事 ○ ○ ○ ○ 王 翼 通 事 ○ ○ 大 夫 通 事 ○ 護送都通事 ○ 司養贈大使 ○ (在船使者) (○) *謝恩使(冊)(書)は、それぞれ(冊封)(「御書」)を示す。 *謝恩使(冊封・「御書」)・慶賀使が単独派遣される場合は、在船都通事・在船使者・存留通事 も乗船する。
現するのである。このことは、使節(正副使)の ランクは変化していないことから、清朝との通交 関係における格式の問題というよりも、もっぱら 使節を派遣する琉球側に問題が存在したと考えら れる。 清朝との』恒常的な通交関係は康照年間に成立す る。康照年間以降に派遣された、謝恩使(冊封. 「御書」)・慶賀使・請貢使・請諭使を、『歴代宝 案』に収録された符文・執照などからまとめたも のが表2である。 3 . 派 遣 形 態 の 変 化 このように見てみると、清朝に派遣された特使 には、派遣形態が基本的に変化しないものと複数 の形態が存在するものがあることがわかる。報喪 使・接封使・護送船は、乗船の問題はあるものの、 基本的に大きな変化がないのに対して、結論から 述べると、謝,恩使(冊封・「御書」)・慶賀使・ 請貢使・請諭使には、時期的な特徴を見いだすこ とができる。特定の時期以降に大きく変化し、出 表 2 清 朝 に 派 遣 さ れ た 謝 恩 使 ・ 慶 賀 使 ・ 請 貢 使 ・ 請 諭 使 一 覧 表 * 「 使 節 人 数 」 の 項 目 の ( ) 内 の 人 数 は 、 「 坐 ( 搭 ) 駕 」 し た 船 舶 の 全 乗 船 者 数 *護送都通事グループは冊封使を護送するため冠船に搭乗、乾隆21年以降は33名に固定。 『事々抜書』の「唐御取合之事」では、護送大通事主従5名以下49名と規定。 使節の区分 派遣年 形態・乗船 使節人数 渡唐役人‘情報・全乗船者数等 謝 恩 一 冊 封 慶賀・進香 謝,恩一冊封 謝’恩一冊封 慶 賀 ・ 進 香 謝恩一御書 慶賀・進香 謝恩一御書 謝‘恩一冊封 謝恩一御書 謝恩一御書 慶賀 謝 恩 一 冊 封 謝 恩 一 冊 封 慶賀・進香 謝恩一御書 謝′恩一冊封
貢諭
請請
慶 賀 ・ 進 香 請 諭 謝恩一御書 慶 賀 ・ 進 香 謝,恩一冊封 謝恩一御書年年年年年年年年年
23朗冊元325別
隅隅照照正正隆隆隆
康康康康薙棄乾乾乾
乾隆53年 乾隆57年 嘉慶元年 嘉慶5年 嘉慶13年 道 光 元 年 道 光 6 年 道光18年 道光20年 道光26年 道光30年 威 豊 2 年年年年
425
豊治治
威同同
同治5年 単独・1隻 単独・1隻 単独・1隻 単独・1隻 単独・1隻 単 独 ・ 1 隻 単独・1隻 進貢使と兼任 進貢頭号船に「坐駕」 進貢使と兼任 進貢使と兼任 進貢使と兼任 進貢頭号船に「坐駕」 単 独 ・ 1 隻 接貢船に「坐駕」 進貢使と兼任 進貢頭号船に「坐駕」 進貢2号船に「坐駕」 進貢2号船に「坐駕」 進貢使と兼任 進貢2号船に「搭駕」 進貢使と兼任 接貢船に「坐駕」 進貢頭号船に「坐駕」 進貢使と兼任 116名 68名十梢水111111
443239
020068
名名名名名名
66名 (142名) 84名十水梢 200名 213名 66名 (143名) 143名 不 明 84名十水梢 66名 (143名) 33名 (113名) 33名 (112名) 213名 33名 (113名) 198名 不 明 不 明 不明 護送都通事以下12名も渡唐 護送都通事以下16名も渡唐 護送都通事以下18名も渡唐 護送都通事以下33名も渡唐 両号船には計260名が乗船 護送都通事以下33名も渡唐 両号船には計258名が乗船 護送都通事以下33名も渡唐 *符文・執照は収録されず 護送都通事以下33名も渡唐 両号船には計257名が乗船 両号船には計229名が乗船 進貢使は196名 両号船には計231名が乗船 進貢使は198名 両号船には計232名が乗船 進貢使は199名 皇后冊立の慶賀も兼ねる *符文・執照は収録されず *符文・執照は収録されず 両号船には計261名が乗船 *符文・執照は収録されず沖縄キリスト教短期大学紀要第29号(2000) 25件の特使を分類すると、謝恩使(冊封)8件、 謝恩使(「御書」)7件、慶賀使7件、請貢使1件、 請 諭 使 2 件 と な る 。 そ の う ち 、 『 歴 代 宝 案 』 に 符 文・執照が収録されているものは21件存在する。 謝恩使(冊封)7件、謝恩使(「御書」)6件、慶 賀使5件、請貢使1件、請諭使2件である。 派 遣 形 態 に 注 目 し て み る と 、 乾 隆 年 間 に 画 期 を 見いだすことができる。康照・秦正年間の6件は すべて単独派遣であるのに対して、乾隆年間以降 の19件では単独派遣は大幅に減少し、わずかに乾 隆2(1737)年の慶賀使と嘉慶13(1808)年の謝 ,恩使(冊封)の2件を数えるのみである。これに 対して、進貢使の兼任は8件、進貢船・接貢船へ の「坐(搭)駕」が9件と急増する。進貢使の兼 任については、謝恩使(「御書」)が6回中6回を 数え、特徴的である。また、進貢船・接貢船への 「坐(搭)駕」は、すべて乾隆年間以降に出現す るものであることが知られる。明らかに派遣形態 に大きな変化があったことがわかる。9件の使節 の派遣年をまとめると次のようになる。 謝,恩使(冊封) 乾隆21年・嘉慶5年・道光18年・同治5年 慶 賀 使 道 光 元 年 ・ 同 治 2 年 請貢使道光20年 請諭使道光26年・威豊2年 9件のうち、謝恩使(冊封)が4件、慶賀使が 2件、請貢使が1件、請諭使が2件である。乾隆 年 間 以 降 で 考 え る と 、 謝 恩 使 ( 冊 封 ) は 5 回 中 4 回、慶賀使は5回中2回、請貢使・請諭使は3回 中3回となり、謝恩使(冊封)および請貢使・請 諭使に特徴的な派遣形態であることがわかる。こ の場合、謝恩使(冊封)は4件とも進貢頭号船へ 「坐駕」しており、使節人数は、符文・執照が残 存しない同治5(1866)年を除き、66名に固定さ れていることが知られる(7)。請貢使・請諭使は 3件とも進貢2号船に「坐(搭)駕」し、使節人 数は何れも33名である。謝‘恩使(冊封)の人数を 基準として設置された枠であろうか。進貢船に特 使 が 「 坐 ( 搭 ) 駕 」 す る 場 合 、 清 朝 が 制 定 し た 200名以内の定員(『歴代宝案』校訂本第1冊1-06-19号文書など)を超過することになるが、琉 球側で設定した人数枠が存在したようである。 なお、謝恩使(冊封)が進貢頭号船へ「坐駕」 する場合、進貢正副使と都通事(乾隆31年以降は 朝京都通事)は進貢2号船に乗船することになる。 慶賀使は2件とも接貢船に「坐駕」している。 4 . 派 遣 形 態 変 化 の 背 景 そ れ で は 、 特 使 の 派 遣 形 態 の 変 化 は 何 に 起 因 す るのであろうか。想起されるのは、薙正・乾隆年 間に発生した一貢免除問題である(8)。前掲した 表2に見えるように、薙正3(1725)年と乾隆5 (1740)年に謝恩使(「御書」)、乾隆21(1756)年 には進貢頭号船に「坐駕」した謝恩使(冊封)が はじめて派遣されているが、その謝恩進貢品に対 して一貢免除の諭旨が下達されたのである。琉球 側 は な お も 進 貢 使 派 遣 を 続 け る も の の 、 棄 正 1 2 (1734)年・乾隆9(1744)年・同25(1760)年 の進貢は断念せざるをえなくなる。管見の限りで は、一貢免除の諭旨に遵って通常の進貢を断念し たのは、この3回に嘉慶13年を加えた4回である が、一貢免除の措置自体はその後に派遣された謝 恩使・慶賀使に対しても適応されている。なお、 嘉慶13年には謝恩使(冊封)が単独で派遣されて いる。これは、嘉慶4(1799)年以来の懸案となっ ていた一貢免除措置を結果的に回避し、「補貢」 するためのものでもあった(『歴代宝案』校訂本 第8冊2−104−05.06号文書など)。 特使の派遣形態が変化した後も、特使の進貢品 に対する一貢免除の措置は適応されていることか ら、特使の派遣形態の変化自体は一貢免除問題に 直接有効‘性を持つものではなかったが、一貢免除 問題が背景に存在した可能'性が大きいことを指摘
しておきたい。康照22(1683)年から乾隆2年に いたる期間に派遣された謝恩使と慶賀使は、何れ も接貢船派遣の年にあたっている。それが乾隆5 年以降、進貢使の兼任や進貢船への「坐駕」に変 化したことは、貢期に特使を派遣し、2年連続で 朝貢することによって清朝を刺激することを回避 するための方策(「制度」)ではなかったのだろう か。慶賀使は2回にわたって接貢船に「坐駕」し ているが、皇帝登極の'情報が琉球に伝わるタイミ ングとも関係しよう。むしろ、進貢使の兼任が2 件存在する点に留意すべきではないだろうか。 特使の派遣形態が変化した後も、結果的には一 貢免除の措置は適応され、実際に通常の進貢を断 念したケースも4回存在した。それでは、このほ かの場合、どのようにして一貢免除措置を撤回し たのであろうか。『歴代宝案』などの記述による と、後続の朝貢使節は、渡唐準備期間中に琉球国 王から一貢免除撤回の命を受けていたことが知ら れる。北京における朝貢使節の一貢免除撤回活動 によって、措置を撤回することに成功していたの である。乾隆年間以降、特使の朝貢に対して一貢 免除措置が適応された場合も、基本的には継続し て進貢使を派遣し、朝貢使節の活動によって、い かに措置を撤回するかという問題にシフトしたも のと考える。琉球側がもっとも懸念していたのは、 通常の通交が平時において休止に追い込まれるこ とであった。 ここには、西里喜行氏(9)が指摘したように、 冊封進貢体制内部の諸矛盾、貿易をめぐる宗主国 と属国の利害対立という問題が横たわっているの ではないだろうか。宗主国と朝貢国のあいだに内 在的に存在した相克ともいえよう。清朝は、乾隆 24(1759)年から同30(1765)年にかけて、琉球 の生糸・絹織物の購入量を改定し、制限を加えて いる。一貢免除措置の結果、琉球が進貢を断念し た時期と連続・重複するのは興味深い。加えて、 道光19(1739)年には、琉球の貢期を四年一貢に 改定している。この貢期改定問題は、翌年に派遣 された請貢使の福州における活動('0)によって二 年一貢に回復するものの、琉球にとっては王権・ 国家による通交関係の根幹に関わる危機であった。 すなわち、宗主国である清朝の通交関係をめぐ る制度・措置に対して、琉球はその範囲内で朝貢 国側の「制度」を創出していたのである。17世紀 後半に派遣開始された接貢船も、琉球側が創出し た「制度」であったことを想起したい。琉球が二 年一貢に固執した理由の1つとして、琉球社会に 規定されていた王権・国家のあり方と清朝との通 交関係が密接不可分の関係にあったことを想定し ている。 お わ り に 最後に残された問題に触れておきたい。琉球の王 権・国家(初期は3つの小国家)と明清両朝との あいだには、500年にわたって通交関係が成立して いた。本稿では、清朝に派遣された渡唐使節のなか でも特使について論じたが、通交「制度」の変遷と いう視点からは、明朝に派遣された特使の規模や派 遣形態なども視野に入れ、渡唐使節全体のなかで 論じる必要があろう。 また、王権・国家の対外関係とともに琉球社会 における渡唐使節の位置づけを考える必要があろう。 渡唐使節の派遣主体は王権・国家であり、王権. 国家は琉球社会を使節派遣の基盤としていた。換 言すれば、琉球社会に規定された王権・国家が渡 唐使節を派遣していたのである。そこには、古琉球 と近世琉球で変化を見いだすことができるのだろう か。さらにいえば、古琉球における王権・国家の対 外関係と琉球社会の関係は構造的に近世琉球に連 続するのであろうか。構造的な変化があるとすれば どこにあるのだろうか。この問題は、古琉球と近世 琉球における王権と国家財政の関係、近世琉球に おける王権儀礼の中国化('1)とも連関するものと考 える。王権・国家の対外関係と琉球社会の関係を 再構築する必要があろう。今後の課題としたい。
沖縄キリスト教短期大学紀要第29号2000 注 (1)本稿では冊封に対する謝恩使を謝恩使(冊 封)、「御書」など皇帝の特別な賞賜に対する謝 恩使を謝,恩使(「御書」)と表記する。両者を含 む場合、文意によって明らかな場合は謝恩使と のみ表記する。 (2)謝恩使(冊封・「御書」)と慶賀使の全体 状況については、[徐恭生1995,13∼21頁]が ある。同治4年の接封大夫の活動については、 [豊見山和行2000,148∼155頁]で論じられて おり、護送船については、[豊見山和行1996] がある。道光20年の請貢使と成豊2年の請諭使 については、[西里喜行2000,88∼91頁][西里 喜行1995,五二∼六三頁]で論じられている。 (3)早稲田大学附属図書館特別資料室蔵。[豊 見山和行1993]では全文が翻刻されている。 (4)『那覇市史資料篇』第1巻8家譜資料4 (96頁)には、このときに大夫儀者を務めた高良 筑登之(唐名・吉永保)の譜が収録されている。 (5)[深津秋人2000,57∼59頁]では、渡唐準 備期間における接封大夫の大夫儀者推挙につい て論じている。 (6)[豊見山和行1996,969∼973頁]。 (7)謝恩使(冊封)の進貢頭号船への「坐駕」 については、[深津秋人2001刊行予定]がある。 (8)棄正・乾隆年間の一貢免除問題については、 [豊見山和行1989]がある。 (9)[西里喜行2000].18-19世紀における清朝 と朝貢国の関係については、浜下武志氏も言及 している。[浜下武志1996,4頁]。 (10)このときの請貢使の活動については、[西 里喜行2000,88∼91頁]で論じられている。 (11)近世琉球における王権儀礼の中国化につい ては、[豊見山和行1992]がある。 参 考 文 献 徐恭生1995「清代の琉球朝京使節の研究」『中 国福建省.琉球列島交渉史の研究』(第一書房)、 3∼37頁 豊見山和行1989「琉球の対清外交について−棄 正 ・ 乾 隆 期 の 一 貢 免 除 問 題 を 中 心 に − 」 『 琉 球 王国評定所文書』第3巻、六∼二一頁 豊見山和行1992「琉球の王権儀礼一祭天儀礼と 宗廟祭祁を中心に」『〈叢書・史層を掘る〉Ⅲ 王権の基層へ』(新曜社)、188∼224頁 豊見山和行1993「〔史料紹介〕勅使御迎大夫真 栄里親方日記について」『歴代宝案研究』第3. 4合併号、19∼76頁 豊見山和行1996「琉球国の進貢貿易における護 送船の意義について」『第五届中琉歴史関係学 術会議論文集』(福建教育出版社)、963∼992頁 豊見山和行2000「冠船貿易からみた琉球王国末 期 の 対 清 外 交 」 『 琉 球 大 学 法 文 学 部 紀 要 日 本 東洋文化論集』第6号、137∼180頁 西里喜行2000「冊封進貢体制の動揺とその諸契 機一嘉慶・道光期の中琉関係を中心に−」『東 洋史研究』第59巻第1号、69∼113頁 西里喜行1995「ロバート・バウン号事件再考一 東アジア国際秩序再編の一契機として−」『琉 球王国評定所文書』第11巻、六∼八六頁 浜下武志1996「宗主権の歴史サイクルー東アジ ア地域を中心として−」『歴史学研究』第690号、 2∼11頁 深濯秋人2000「近世琉球における渡唐使節の編 成-19世紀の事例を中心に−」『沖縄文化研究』 26号、23∼109頁 深津秋人2001年刊行予定「近世琉球の渡唐使節 における謝恩使一進貢頭号船への『坐駕』を中 心に−」『第八回琉中歴史関係国際学術会議 琉中歴史関係論文集』 付記本稿は、2000年3月25日に大阪大学豊中校 舎で開催された、海域アジア史研究会3月例会 で の 口 頭 報 告 「 近 世 琉 球 の 渡 唐 使 節 に お け る 『ミニ特使』」の一部をもとに作成した。ご教示 をいただいた方々に記して謝意を表したい。