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米軍による占領統治比較研究 ―沖縄・日本本土・南朝鮮―

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米国による占領統治比較研究

―沖縄・日本本土・南朝鮮―

大沼 久夫

キーワード

米国の占領統治政策 沖縄占領 日本本土占領 南朝鮮占領 占領統治比較

要旨

第二次世界大戦末からの東アジアでの米国軍による占領統治は、日本最南端の沖縄での地 上戦、軍事占領に始まり、ついで日本本土占領、そして、朝鮮半島の北緯38 度線以南の南 朝鮮占領の順で実施された。日本本土占領は連合国による占領であったが、実質的には米 国軍(一部英連邦軍参加)のマッカーサー元帥による単独占領であった。 戦後70余年の現在に至る沖縄、日本本土、南朝鮮(韓国)のその後の歴史、政治経済社会 軍事的な基本的な枠組みを形成したのはこの米国軍による占領統治期である。 本稿では、米国によるこれらの三つの異なる占領統治政策に関するこれまでの先行研究を踏ま え、それぞれの占領統治政策の目的や性格、実態と特色、被占領者側の対応、三つの占領の関 連性、さらに問題点を比較、考察し、戦後(史)体制の形成期であった当時の米国の占領統治政策 の今日的な意義について論じるものである。 はじめに 第二次世界大戦終結からすでに70余年が過ぎた。1945 年 3 月の米国軍の上陸、沖縄戦 (地上戦)により占領統治された沖縄は、1952 年のサンフランシスコ講和条約(第三条)によっ て日本本土から分離され、その後、米国の施政権下に置かれ、20 年後の 1972 年に本土復 帰(沖縄返還)を果たした。 日本本土に対する占領統治は45 年 9 月 2 日の降伏文書の調印で始まり、1952 年 4 月 28 日のサンフランシスコ講和条約発効までの約6年8か月で終結した。 また、朝鮮半島の北緯38度線を軍事分界線とする米ソ両軍による分断占領は、1948 年 8 月 15 日の大韓民国政府の樹立、9 月 9 日の朝鮮民主主義人民共和国政府の樹立によりい ずれも約3年で終結した。 これまでに米国による三つの占領統治政策に関する個別の先行研究は、膨大なものにな っている。

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沖縄占領研究1は主に沖縄在住・出身者を中心に進められ、日本本土占領研究2は、70 年 代以降、米国の占領統治政策に関する米国立公文書館所蔵史料の公開、その後の国立国会 図書館による収集、公開、利用により、米国人研究者を含めて本格的に行われるようにな った3 韓国での米軍政(南朝鮮占領)研究4は、連合国(米ソ)による日本の植民地支配からの解放、 南北分断占領研究、解放後史研究として 70 年代以降、朴正熙・全斗煥・盧泰愚軍事独裁政 権との戦い、民主化闘争の中で精力的に進められた。また、1981 年に刊行された Bruce Cumings, The Origins of the Korean War:Liberation and the Emergence of Separate

Regimes 1945 -1947,Princeton

University Press,

が韓国での解放後史研究、朝鮮戦争

研究に大きな影響を与えたことはよく知られている。 占領統治比較に関する日本での研究は、戦前日本の東南アジアでの占領統治との比較と いう歴史的視点を含めて、1983 年 11 月に開かれた国際シンポジウムが最初であり、その内 容は 85 年 3 月に袖井林二郎編『世界史のなかの日本占領』(日本評論社)として刊行された。 87 年には、坂本義和/R・E・ウォード編『日本占領の研究』(東京大学出版会)、94 年には、 油井大三郎・中村政則・豊下楢彦編『占領改革の国際比較 日本・アジア・ヨーロッパ』(三 省堂)が刊行されている。

1 主な研究者(敬称略)は次の方々である。中野好夫、新崎盛暉、大田昌秀、宮城悦二郎、 宮里政玄、比嘉幹郎、我部政男、我部政明、若林千代、さらに先島諸島、奄美群島の軍 政、政治、政党研究の黒柳保則等。 2 米国による日本本土占領政策(戦後改革)研究はマッカーサー元帥、昭和天皇、吉田茂な どの研究をはじめとして、政治(天皇制、公職追放、憲法)、軍事(戦争犯罪、再軍備)、 経済(賠償問題、財閥解体、農地改革)、労働改革、教育改革等の広い分野に及んでおり、 これらの分野別の占領政策研究は膨大であり、個別の先行研究業績を紹介するのは本稿で は不可能である。研究を牽引してきた主な研究者(敬称略)は次の方々である。入江昭、 細谷千博、斉藤孝、秦郁彦、児島襄、伊藤隆、五十嵐武士、1972 年に結成された占領史 研究会の三人の創設者である福島鋳郎、竹前栄治、天川晃、さらに袖井林二郎、五百旗 頭真、豊下楢彦、森田英之、古川純、中村蕯英、鈴木英一、原朗、油井大三郎、進藤栄一、 高橋紘、中村政則、粟屋憲太郎、久保義三、山極晃、古関彰一、増田弘、山本礼子、柴山 太等。米国人研究者としては、Hans H. Baerwald、R.S.Finn, John W. Dower, Gordon Daniels, Herbert P. Bix, H B. Schonberger, Victor Carpenter, Michael Schaller 等。

3 大蔵省財政史室編(1976)『昭和財政史―終戦から講和までー』第 3 巻。東洋経済新報社。 五百旗頭真著(1985)『米国の日本占領政策上下』中央公論社。百瀬孝著(1995)『事典昭 和戦後期の日本』吉川弘文館。 4 米国軍政期を含めた解放後史研究の成果として以下のものがある。 宋建鎬他著(1979)『解放前後史의認識』한길사。韓昇助外共著(1990)『解放前後史의争 点과평가 1、2』螢雪出版社。方善注他著(1991)『한국현대사와美軍政』한림대학교아시 아문화연구소。金雲泰著(1992)『美軍政의韓國統治』博英社。兪光浩他共著(1992)『美 軍政時代의經濟政策』韓國精神文化研究院。김석준지음(1996)『미군정시대의국가와행 정』이화여자대학교출판부。他多数。米国人研究者としては Bruce Cumings, John Merrill 等。

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2006 年には中野敏男/波平恒男/屋嘉比収/李孝徳著『沖縄の占領と日本の復興 植民地主 義はいかに継続したか』(青弓社)が、刊行された。 米国による三つの占領統治比較研究は、個別の占領統治研究の進展とともに確実に進展 している。最近、日本本土占領研究者が沖縄占領を視野に入れた研究を発表している。 本稿ではこれまでの先行研究の成果を踏まえて、米国の三つの占領統治政策の決定過程 と実施、特色、目的、占領された側の対応、相互の関連性について論述する。

沖縄占領 1945 年 3 月 26 日、慶良間諸島に米陸軍第七十七師団が上陸を開始し、沖縄戦がはじまっ た。 ニミッツ(C. W. Nimitz) 提督による「米国海軍軍政府布告第 1 号(日付なし)」を布告し た。これが「ニミッツ布告」であり、北緯 30 度以南の南西諸島における日本政府の行政権 と司法権を停止し、事実上、日本から分離し、米軍政の直接統治下に置く、軍事占領宣言 であった。 9 月 7 日、南西諸島守備軍代表が、無条件降伏し、沖縄戦は当時の県人口の約三分の一に 相当する約 15 万人の犠牲を生んで終結した。 米国による日本本土からの沖縄分離に関する具体的な検討は、すでに 1943 年の時点で北 緯 30 度を境界線として開始されていたとされ、特に軍部の南西諸島に対する関心の高さが 明らかにされた。さらに戦後日本の領土処理問題で、沖縄の解決方法の選択肢として、沖 縄の中国への移譲、琉球諸島の国際管理(信託統治)、日本保有の 3 案が存在したとされた。 さらに「ポツダム宣言」での我等(連合国)が決定する「諸小島」との関連などの検討が行 われていた。 その結果、軍部の強い意向により、分離を前提とした「ニミッツ布告」が出されたので ある5 沖縄の分離について、アメリカ側は心理的にそれほど罪悪感を持たなかった、(沖縄)住 民のなかにも一種の独立志向的な雰囲気があったからだとし、米軍は占領初期には沖縄を 「解放」したと考えていたくらいである6、とも指摘されている。 沖縄に対する米軍政の基本的な政策文書として、大田昌秀は、沖縄占領用には、『琉球 列島民政の手引き』と『琉球列島の沖縄(人)-日本の少数集団』の二つである、日本本土(軍 政計画)の場合と異なっていた、と論じている。7 米軍政の任務と組織は、沖縄進攻作戦の準備、戦闘、占領の段階に対応して変化した。 第 10 軍が軍政を担当し、戦闘部隊を統括する第二十四軍団と第 3 水陸両用軍団と軍政を含 む後方支援担当の沖縄島司令部などからなっていた。初期の段階の軍政要員は、将校 400

5 坂本義和/R・E・ウォード編前掲書p507~538. 6 袖井林二郎編前掲書p74. 7 大田昌秀著(1996)『沖縄の帝王高等弁務官』p82~85.朝日新聞社。

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名(陸軍、海軍それぞれ 200 名)、1400 名の水兵、100 名の陸軍通訳、800 名の医療兵であっ た。 6月 21 日、日本軍の組織的抵抗が終わり、沖縄全域が第 10 軍から占領を担当する沖縄島 軍司令部の管轄に移された。8 月 15 日、日本降伏により、本土進攻作戦は回避され、米軍 は本土占領任務のため沖縄軍政担当の要員全員が日本本土と朝鮮半島の軍政へ移動するこ とになった。9 月 1 日には戦闘体制から占領体制への部局制へと編成替えが行われ、陸軍中 心の軍政が開始されることになった。8 また、8 月 15 日には、米軍政によって軍政の諮問機関として(住民による選出、委員選出 には女性参加)沖縄諮詢会9が設立された。これは沖縄県民の意向をくみ占領統治政策の遂行 に反映させ、円滑な統治に協力させるものであり、いわゆる現地化の第 1 歩であった。 その後、米陸軍の総兵力10(将校、兵士、看護婦、下士官)は、45 年 8 月には 25 万 9 千人、 46 年 8 月には 2 万 16 人、47 年 8 月には 1 万 6523 人、48 年 8 月には 1 万 451 人、49 年 8 月には 1 万 2457 人と推移した。 48 年頃から米軍政は沖縄への共産主義の浸透について懸念を持ち始めていた。 1950 年 6 月 25 日に北朝鮮の金日成によって開始された朝鮮戦争時には嘉手納飛行場から B29 爆撃機が出撃し、沖縄戦で放置されていた兵器、沈船などの金属を回収する「スクラッ プ・ブーム」(本土では「金ヘンブーム」)が起きた。 52 年 8 月には人民党の瀬長亀次郎立法院議員を名指しで非難し、人民党は共産党である と民政副長官が攻撃した。 53 年以降、米軍基地拡張のため農民私有地の強制収用が強行され、これに反対する「島 ぐるみの土地闘争」が展開された。米軍政当局は、共産主義者の扇動によるものとして、 立法院に「防共法」の制定を勧告した。 米国は沖縄の基地の恒久化を進め、54 年 1 月7日、アイゼンハワー大統領は沖縄の無期 限保有を明言した。 沖縄占領と日本本土占領の関連性について、 大田昌秀は、沖縄の本土からの分離は日米 の合作であったとし、対日戦後改革の問題は、沖縄の分離占領と無縁なかたちで研究して は、その全容を解明することはできないのではないか、日本占領研究は、沖縄占領研究と 相関連させてやることによってはじめて稔りあるものになる、11と指摘している。

8 我部政明著(1996)『日米関係のなかの沖縄』p35~75.三一書房。 9 石田正治「沖縄における初期軍政」『年報・日本現代史』(1998) 現代史料出版。若林千 代「占領初期沖縄における米軍基地化と『自治』1945-1946 年」『国際政治』第 120 号 (1999)。さらに同著(2015)『ジープと砂塵―米軍占領下沖縄の政治社会と東アジア冷戦 1945-1950』有志舎参照のこと。 10 『沖縄県史 資料編 14 琉球列島の軍政 1945-1950 アーノルド G.フィッシュ二世 宮里政玄・訳 現代2(和訳編)』(2002)p66.沖縄県教育委員会。 11 袖井前掲書p101、p109。

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また大田は、沖縄の本土からの分離について、「沖縄の分離が、一九五一年の平和条約 第三条によって法的に追認・確定される過程で、日本政府は、アメリカ政府に対し沖縄を 米軍基地として永続的に提供することを自主的に提案した事実があるからだ。したがって 沖縄を分離し、基地化したことは、日米両政府の『合作』といわざるをえない。」と指摘 している。12 この大田の、沖縄の分離は日米の合作であった、との指摘の有力な根拠の一つとして、 いわゆる昭和天皇による「天皇メッセージ」の存在が考えられる。このメッセージとは、 47 年9月中旬、昭和天皇が、宮内庁御用掛の寺崎英成からシーボルト(政治顧問)を介して 国務省に伝えられ、そのなかで、「ソ連(共産主義)の脅威がなくなるまで、沖縄(琉球諸島) を米国が軍事占領することを望み、日本に主権を残す形で、25 年から 50 年ないしそれ以上 貸与する旨」の天皇の意見が米国に伝達されたことが、史料的に明らかにされている。13 このような指摘は、その後の日本本土と沖縄の歴史的推移を裏付けるものといえよう。 52 年 4 月 28 日、サンフランシスコ(対日)講和条約が発効し、日本本土は独立を回復した が、その第3 条の規定により、ひき続き沖縄は米国(の信託統治提案に同意・可決まで)の施 政権下で統治されることになった。14 その後、日米両政府は沖縄の返還交渉を進め、71 年 6 月 17 日、沖縄返還協定が調印さ れた。72 年 5 月 15 日、沖縄返還協定が発効し、45 年から 27 年後、本土復帰が実現した。 本土復帰までの時期区分について、宮里は、米国の立場からみて、独自の論理が存在し ていたことが分かるとし、それらは第一の「軍部の論理」、第二の「ケナンの論理」

第 三の「ダレスの論理」または「潜在主権の論理」、そして最後の論理の「ニクソンの論理」 あるいは「返還の論理」とし、(1)軍部による排他的統治(1945-57 年)、(2)統治の「正常化」 の試み(1958-64 年)、(3)返還交渉に向けて(1964-68 年)、(4)返還交渉(1969-72 年)、15 区分されると指摘している。 2 日本本土占領 日本本土占領は、8 月 14 日の「ポツダム」宣言(13 項目)の受諾と 9 月 2 日の降伏文書へ の調印をうけて実施された。

12 坂本義和/R・E・ウォード編前掲書p511. 13 進藤榮一「分割された領土―沖縄、千島、そして安保―」『世界』1979 年 4 月号p47。 豊下楢彦著(2008)『昭和天皇・マッカーサー会見』p52~55.岩波書店。 14 沖縄占領の時代区分について、宮城悦二郎は、沖縄政策決定過程に重点を置くか、その 決定の結果としての社会的影響に重点を置くかで、少々ズレが出てくることも考えられ る、と述べており、大まかに言えば、45 年から講和条約発効までは、戦時国際法で占領 され、52 年に講和条約が発効してからは条約を根拠に沖縄の統治がなされた、とし、何 を視点にして区切るかです、と論じた。袖井林二郎・竹前栄治編(1992)『戦後日本の原点 (下)』p238.悠思社。 15 宮里政玄著(2000)『日米関係と沖縄 1945-1972』p5~9.岩波書店。

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1942 年以降、米国(国務省内東アジア班)は対日占領政策の検討準備を開始し、日本が再 度、戦争ができない平和国家として、親米的な国家として再生することを目指した。日本 の降伏前の計画を米国はかなり詳細に検討準備していた。 10 月 2 日には連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、以下 GHQ と略) が設置された。GHQ は、米国太平洋陸軍司令官(GHQ/CINC,AFPAC)の機能、人事、施設を兼ねた二重機能を有し ていた。16 第 8 軍を主力とする占領軍の規模は、10 月には約 40 万人(一五師団)であり、以後、46 年には 20 万人、48 年には 10 万人、49 年には 16 万 6 千人と漸次削減されたが、朝鮮戦争 後に再び増加した。実戦部隊から占領統治の民政要員へと順次交代された。(GHQ のスタッ フは 48 年の最盛時に日本人雇員含めて約 6000 人とされる。) GHQ は、日本政府と都道府県(地方軍政部設置)17へ(書面、口頭)指令を発し、旧来の日本 の統治機構を利用した間接統治の形態で占領統治を開始した。以後、GHQ は、「ポツダム」 宣言の具体化である以下のような「非軍事化政策」と「民主化政策」を実施していった。 10 月 4 日には「人権指令」、11 日には「5 大改革指令」、11 月 6 日には財閥解体指令、12 月 9 日には農地改革に関する覚書の発表、12 月 22 日には労働組合法を公布した。 46 年には、1 月 1 日の天皇の「人間宣言」、4 日には公職追放令(第 1 次)、2 月3日には 憲法改正のための「マッカーサー三原則」の伝達、さらに 5 月 3 日には極東国際軍事裁判(東 京裁判)の開廷と続いた。 これまでに明らかなように、対日占領政策の基本文書として、9 月 6 日大統領からマッカ ーサー元帥へ伝達され、22 日に公表された「降伏後における米国の初期対日方針」 (SWNCC-150/4)、並びに 11 月3日に公式に伝達された「初期の基本的指令」(JCS-1380/15) の二文書があげられている。 日本本土占領は、連合国の占領として開始されたが、実質的に実施されたのは米国の単 独占領であり、それは「マッカーサーの占領」であった、とするのが定説である。 占領期の日本は、占領した側である米国=GHQ/SCAP 連合国軍総司令官 マッカーサー 元帥と、占領された側である日本=昭和天皇、吉田茂(外相・首相)、この三人を中心軸とし て形成されたとの見方も可能である。マッカーサー元帥は最高権力者であり独裁者であっ たとの指摘もある。18

16 竹前栄治著(1983)『GHQ』p88.岩波書店。監修竹前栄治・中村蕯英(1996)『GHQ 日本 占領史』全55 巻・別巻 1.日本図書センター。 17 占領下の都道府県等については、以下の研究がある。荒敬著(1994)『日本占領史研究序 説』柏書房。天川晃・増田弘編(2001)『地域から見直す占領改革』山川出版社。西川博史 著(2007)『日本占領と軍政活動―占領軍は北海道で何をしたかー』現代史料出版。栗田尚 弥編著(2007)『地域と占領―首都とその周辺―』日本経済評論社。拙著(2011)『「上毛新 聞」に見る敗戦後の群馬県』上毛新聞社。天川晃著(2012)『占領下の神奈川県政』現代史 料出版。 18 東京大学社会科学研究所戦後改革研究会編著(1974)『戦後改革 2 国際環境』p28.東京大 学出版会。

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約6 年 8 か月に及んだ占領統治では、初期(前半)の占領政策の重点は「非軍事化」と「民 主化」に置かれたとされ、47 年春の米ソ冷戦の本格化以降、後期(後半)の占領政策の重点 は「経済復興」と「反共主義」へと転換、変化したとの見方が広くなされている。 坂本義和は、日本占領を当時の国際環境下で分析する際に以下の 5 つのレベルが複雑に 関連し連繋しているとする仮説的分析を試みている。「(1)占領のマクロ的分析、(2)ヨーロ ッパを巡る米ソ冷戦、(3)アジアの冷戦、(4)冷戦と占領政策《冷戦の内政化》、(5)冷戦への 内発的抵抗《改革の土着化》である。」19 占領期の時期区分については、第1期は45 年 9 月から 48 年末、非軍事化と民主化が基 調、第2 期は 49 年から 50 年6月まで、占領政策の大きな転換、いわゆる「逆コース」の 時代、第3 期は 50 年6月から 52 年 4 月まで、サンフランシスコ講和への時代、との見方 が提示されている。20 占領政策の大きな転換として「逆コース」(reverse coures)論が展開されてきた。ベアワ ルドは、「逆コース」について、「占領軍は東アジアにおける共産主義の伸張に対して日 本を経済的軍事的防壁とするために『改革』よりも『復興』に力点を移すにいたった。こ の占領政策の変更を日本人はこのように表現したのである」と指摘した。21 中村政則は、「逆コース」の起源と意味について、アメリカにおける対日占領政策の転 換に伴って、国内政治がレッドパージとか追放解除といった政治反動化現象として「逆コ ース」を描くというのが一般的な使い方で、「逆コース」という言葉が使われた時代は、 朝鮮戦争の後だということが大事な点であり、日本側が作った言葉、これがアメリカにい わば逆輸入されて、「リバース・コース(reverse coures)」と訳された、日本人特有のもの と論じた。22 このような占領政策の転換説に対して、その連続性を指摘する説もある。その有力な根 拠として、マッカーサー元帥の反共主義をあげている。これまでもGHQ 内部には主に「非 軍事化」政策と「民主化」政策を推進してきた GS(民政局)等と参謀第 2 部(G2、C.A.ウィ ロビー少将)に代表される反共主義者達の対立の存在が指摘されてきた。その頂点に立つマ ッカーサー元帥の強烈な反共主義が、日本国内の政治情勢の変化(日本共産党系の労働運動 やゼネスト実施計画等)と世界情勢の変化(冷戦の本格化)を受けて、公然と表面化し、後述

19 坂本義和/R・E・ウォード編前掲書p5~32. 20 歴史学研究会編集(1990)『日本同時代史 2 占領政策の転換と講和』p226~227.青木書 店。アメリカの戦後アジア構想については、以下が有益である。山極晃「アメリカの戦 後構想とアジア」『世界』1976 年 9 月号。同「敗戦をめぐる国際政治」『世界』1976 年 10 月号。 21 H・ベアワルド著(袖井林二郎訳)(1970)『指導者追放』p157.勁草書房。 22 袖井林二郎・竹前栄治編前掲書p129~136.同じく中村の「逆コース」論は歴史学研究 会編集前掲書p232~240.

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するような朝鮮戦争前後の共産党への弾圧(公職追放、「アカハタ」発行停止指令)や非合法 化の検討を生んだとされる。23 吉田茂内閣も団体等規正令(49 年 4 月 4 日公布、政令第 64 号)による共産党の非合法化を 検討していた。朝鮮戦争に反対する反戦平和運動を取り締まる目的で50 年 10 月 31 日には 占領目的阻害行為処罰令が公布され、治安体制が強化された。24 米国の対日占領政策は、48 年 1 月6日のロイヤル陸軍長官の「日本を共産主義の防壁に する」との演説と、同年10 月の NSC(国家安全保障会議)の政策文書(NSC13/2(初期の「非 軍事化」と「民主化」政策から経済復興と反共主義へ)により転換が明確化、具体化された。 「逆コース」の内容としては、「レッド・パージ」25、再軍備26、公職追放27解除が主な ものである。 GHQ は、戦前戦中に政治犯として収監(予防拘禁)されていた日本共産党員ら約 3000 人 を(府中刑務所をはじめとして網走刑務所、宮城刑務所等から)釈放し、民主化政策として日 本共産党を合法政党として容認した。日本共産党は、対ファシズム・軍国主義からの世界 解放のための連合国軍隊の日本進駐であるとして、「解放軍」として評価していた。28 「レッド・パージ」について 竹前は、1950 年の朝鮮戦争以後、ついに GHQ は強権による 共産主義者の排除、すなわち「レッド・パージ」政策の実施に踏み切ったとし、GHQ の対日 本共産党政策は、占領当初の民主革命達成の重要な担い手の一翼との評価から、次第にマ ルクス・レーニン主義、社会主義革命を志向する党と警戒心を持ち、47 年の「2・1」スト 中止頃から反共政策を強化していき、50 年の「5・30 事件」を経て、公然と共産党攻撃を 開始した、と指摘している。29 この「5・30 事件」とは、30 日、民主民族戦線東京準備会主催の人民決起大会で米軍兵 士5人に暴行を加えたとの理由で労働者・学生8人が逮捕された事件である。この事件を 契機に6 月 6 日、マッカーサー元帥は、吉田茂首相に日本共産党中央委員全員(24 人)を公 職追放令(SCAPIN―550 ) により追放を命じた。30

23 小倉裕児「マッカーサーと日本共産党」『年報・日本現代史』前掲書p141~177. 24 荻野富士夫著(1999)『戦後治安体制の確立』第 2 章第二節。岩波書店。川島高峰編集・ 解説(2000)『米軍占領下の反戦平和運動―朝鮮戦争勃発前後―』史料集『占領期全国治安 情報』① 現代史料出版。 25 三宅明正著(1994)『レッド・パージとは何か』大月書店。平田哲男著(2002)『レッド・ パージの史的究明』新日本出版社。明神勲著(2013)『戦後史の汚点レッド・パージ』大月 書店。 26 フランク・コワルスキー著(勝山金次郎訳)(1969)『日本再軍備』。秦郁彦著(1976)『史録 日本再軍備』文藝春秋。読売新聞戦後史班編(1981)『「再軍備」の軌跡』読売新聞社。増 田弘著(2004)『自衛隊の誕生』中央公論新社。柴山太著(2010)『日本再軍備への道』ミネ ルヴァ書房。 27 増田弘著(1996)『公職追放』東京大学出版会。 28 袖井林二郎著(1976)『マッカーサーの二千日』中央公論社。 29 竹前栄治著(1992)『占領戦後史』p200.岩波書店。 30 袖井林二郎編訳(2012)『吉田茂=マッカーサー往復書簡集』p521~526.講談社。

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さらにGHQ は、6 月 25 日の朝鮮戦争の開始をうけて 26 日に、共産党機関誌「アカハタ」 に対して真実を曲げた報道(米韓側の攻撃で開戦)を理由に最低 30 日間の発行停止を指令し た。7 月 18 日には共産党関係の全ての発行物の無期限停止を命じた。 公職追放解除は朝鮮戦争後の50 年 10 月 13 日に解除(1 万 50 人)が発表され、11 月 10 日 には旧軍人(3250 人)解除、51 年 6 月 20 日の政財界人(2958 人)解除、7 月 2 日の地方政界 などの解除、さらに52 年 4 月 28 日の講和による解除と続き公職追放者の 3 分の 2 以上が 解除された。 このような日本国内の占領政策の変化は明らかに東アジアでの政治状況の変化と密接な 関連性があった。 朝鮮半島では48 年 8 月 15 日、北緯38度線以南の米軍占領地域に反共国家の大韓民国 政府が樹立され、9 月 9 日にはその以北のソ連軍占領地域に共産主義国家の朝鮮民主主義人 民共和国政府が樹立された。 49 年 10 月 1 日には中華人民共和国政府(新中国)が成立し、中国大陸は中国共産党が支配 することになった。48 年 12 月 19 日、李承晩・韓国大統領は、「中国の赤化は容認できな い」との談話を発表していた。31 このような東アジア情勢の展開をマッカーサー元帥、昭和天皇、吉田茂はどのように見 ていたのか、アジアでの共産主義勢力の伸長・浸透に関して、49 年 8 月9日、吉田茂はマ ッカーサー元帥に対する書簡のなかで、「政治的には、われわれはいまやアジア大陸を席 捲しつつある共産主義の流れを阻止しなくてはなりません。」と述べ、これらの目的に必 要な方策として、政府職員並びに教育機関から共産主義の影響力を抹殺すること、朝鮮人 の共産主義者と犯罪分子の処分等、をあげ、「日本の地理的位置ならびに国民の特性から して、この国は共産主義の防波堤となり極東における安定勢力となりうると、結論して差 しつかえありません。」と述べた。32 吉田茂は、日本に残留している朝鮮人を全員送還することを望む手紙を49年8月末に マッカーサー宛てに認め、そのなかで、総数約 100 万人のほぼ半数は不法入国者であり、 送還を望む理由として、その大多数は日本経済の再建に貢献していない、犯罪を犯す割合 がかなり高い、送還の費用は日本政府の負担とする、とし、露骨な民族差別観を語った。33 昭和天皇とマッカーサー元帥の会見はこれまで11 回に及んだとされ、天皇の「外交」の 実態が明らかにされた。リッジウェイー中将(マッカーサー解任後。後任)との 51 年 5 月 2 日と52 年 3 月 27 日の会見での、天皇の朝鮮戦争に関する認識(「朝鮮戦争は「天皇制打倒」 をめざして日本にも進撃してくるであろう国際共産主義の攻勢の始まり」)は、前述の「沖

31 神谷不二編集代表(1976)『朝鮮問題戦後資料』第一巻p257.日本国際問題研究所。 32 袖井林二郎編訳(2012)前掲書p442~444. 33 袖井林二郎編訳前掲書p448~450.

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縄メッセージ」の内容よりも共産主義の脅威を現実のものとしてより一層深刻に認識して いたことを示していた。34 占領下の日本は、新憲法第9条により軍備を一切保有しない平和国家として歩み始めた が、それから約3 年後、50 年 6 月 25 日から始まった朝鮮戦争を契機にマッカーサー元帥 が再軍備の指令を発した。さらに、前述した「レッド・パージ」と公職追放解除が本格化 して、明らかな占領政策の転換が始まった。 坂本義和は、前述の 5 つの仮説的分析の結論として、次のようなに指摘している。「一 九四八年頃からの『占領政策の手なおし』や『逆コース』について、それをもっぱら「冷 戦」の激化という要因で説明するという一般的な傾向が見られるが、はたしてそうした解 釈は妥当であろうか、という問いを提起する余地がここにあると思われる。冷戦が『逆コ ース』をもたらした重要な要因であることは疑いないが、冷戦だけが原因であったとは言 えない。それは、占領計画の中に、改革以後についての政策や構想が欠けていたことの帰 結でもあった。その意味では、かりに冷戦がなくても『逆コース』は起こりえたのである。 戦後改革は、その『受益者』とともに、改革によって既得権益を失った人々をも日本国内 に生み出していたからである。その意味で、われわれは占領の国際環境だけでなく、日本 の政治社会それ自体の構造や力学にも注目しなければならないのである。」35 47 年 3 月、マッカーサー元帥は、早期の占領終結と対日平和条約締結の意向を表明し、 平和条約締結に向けて米国政府と日本政府が動き出した。日本側では講和論争が起き「全 面講和論」と「多数(単独)講和論」が対立した。米ソ冷戦が熱戦となり、朝鮮戦争が継続す る状況のなかで51 年 9 月8日、サンフランシスコ講和条約(当事国 46 か国)が調印され、 52 年 4 月 28 日に効力発生となり、約 6 年8か月続いた米国による占領統治は終結し、日 本本土は独立を回復した。 3 南朝鮮占領―北緯38度線以南地域 8 月 8 日、ソ連は対日宣戦布告を行い、中国東北部、朝鮮半島北部へ破竹の勢いで進撃 を開始した。これを受けて米国は 10 日から 11 日にかけて SWNCC(国務・陸・海軍三省調整 委員会)を開き、ソ連軍による朝鮮半島全域の占領を阻止するために,在朝鮮日本軍の武装 解除の分担のための軍事分界線として北緯 38 度線(京城の北)をソ連に提案した。ソ連はそ の提案を受諾して米ソ両国による朝鮮半島の解放・分断占領が決定した。 8 月 12 日、沖縄に進駐していた米第 10 軍所属の第二十四軍団が、朝鮮占領軍(USAFIK) として指名され、18 日に正式にホッジ(J.R.Hodge)中将が司令官として任命された。マッカ ーサー元帥はホッジ中将に南朝鮮占領の最高責任者として白紙委任を与えていた。 8 月 15 日、「玉音放送」による日本の「ポツダム宣言」の受諾、降伏が朝鮮半島にもラ ジオ放送で伝えられた。同日、ソウルでは建国準備委員会(呂運亨委員長、安在鴻副委員長)

34 豊下前掲書p122. 35 坂本義和/R・E・ウォード編前掲書p36~37.

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が発足し、朝鮮総督府との間で日本降伏後の終戦処理のための中心的組織として活動を開 始した。 8 月 30 日、南朝鮮占領を控えた沖縄駐留の第二十四軍団は京城(ソウル)の第 17 方面軍司 令官上月良夫、鎮海警備府司令長山口義三郎との間で無線通信(電報)を開始し、9 月8日ま で(総交信数 80 通)行われた。この交信は降伏後の治安維持と日本軍の武装解除を主な目的 としたものであり、米軍上陸を念頭においた気象状況に関する交信も含まれていた。 この交信によってホッジ中将は占領直前の朝鮮の政治軍事状況を具体的に認識すること になり、その認識がその後の占領政策実施に決定的な重要性を持った。 9 月 2 日、降伏文書調印と同時に発表された「連合国一般命令第一号」により、朝鮮半島 に駐留する日本軍は北緯 38 度線以北ではソ連軍に降伏、以南では米軍に降伏することにな り、米ソ両軍により解放・分断占領されることが正式に決まった。同日、ホッジ中将(在朝 鮮米國軍司令官)は「南鮮民衆各位に告ぐ」と題するビラを米軍機から散布し、近日中に連 合軍を代表して上陸することを告げた。 9 月 6 日には米軍先遣隊 18 名が到着した。米軍上陸の前日、9 月6日には、建国準備委 員会の発議で朝鮮人民共和国の樹立が宣言された。 9 月 7 日、「米国太平洋陸軍最高司令官マッカーサー布告第一号」(前文と第6条)が発せ られた。この布告は日本に代わり降伏文書の条項に基づき、北緯 38 度線以南の朝鮮の地域 を占領し、同地域の住民に対し軍政を樹立するとした。同布告第 3 条は、発せられた命令 に対し迅速に服従し、占領軍に対する敵対行為や治安を攪乱する行為をした者は厳罰に処 す、と規定され、明らかに米軍は日本人と同様に朝鮮人を敵国人として処遇した。 米軍はソ連軍の中国東北部と北朝鮮への急速な進攻を意識して三度上陸予定日を繰り上 げた。 5 日に沖縄を出発した米軍(第二十四軍団、約 7 万 2 千人)は、8 日に仁川に上陸し、占領 を開始した。ホッジ中将は米陸軍民政要覧36のみを持参し、その規定に従い、当面、治安維 持のために日本(朝鮮総督府)の警察行政機構を利用した。その後、批判を受けて朝鮮人警 察官を利用して秩序維持に当たった。 9日には、ホッジ中将は「南朝鮮進駐米軍司令官の声明」を発表し、「調印を了せる降 伏条件を履行するために、余はまず現行政府の機構を通じて施行することが必要である」 とし、朝鮮総督府を利用することを明らかにした。 同9日、降伏文書の署名が、総督府で行われ、太平洋米国陸軍総司令部布告第1号から 第3号が公布された。 11 日、朴憲永を中心として朝鮮共産党の再建が宣言された。14 日には、朝鮮人民共和国 の組閣と施政方針が発表された。

36 ホッジ中将が手にしていたと思われるマニュアルは次のもの。ARMY-NAVY ANUAL

OF MILITARY GOVERNMENT AND CIVIL AFFAIRS .22 December 1943.竹前栄治/ 尾崎毅訳(1998)『米国陸海軍 軍政/民事マニュアル』みすず書房。

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20 日、米軍政庁による軍政が開始された。37 28 日には、済州島で降伏文書の署名が行 われた。38 米国の朝鮮半島占領政策に関する文書作成を(領土小委員会)担当したのは、ヒュー・ボ ートン(Hugh Borton )であった。39ボートンは、その回想録のなかで、朝鮮占領政策につい て、「朝鮮半島の将来というきわめて複雑な問題の解決策を提案するには、国務省にはあ まりにも情報が不足し、準備体制も不十分であった。日本の植民地となった 1910 年以降は 朝鮮半島に関する公式情報はすべて日本経由で、朝鮮半島に駐在するアメリカの領事館員 は日本の役人としか接触できない状況で、知識はさらに限定されていた。領事館員は日本 に赴任した経験があり、みな日本語は堪能だが、朝鮮語はまったくできなかった」。と指 摘した。40 米軍政の政治顧問は、ベニングホフ(H. M. Benninghoff、46 年 3 月 12 日まで)と、ラン グドン(W. M. R. Langdon、48 年 9 月 16 日まで)であった。(他に J.R.Jacobs,.J.Muccio)。 ベニングホフは、韓国民主党(韓民党)は数百人の高学歴の保守主義者で構成され、「臨時 政府」(大韓民国臨時政府、在重慶)の帰国を支持しており、最大の政治集団であるなど、 韓民党系や警察機構からの情報をホッジ中将や国務省に伝達していた。41ラングドンは戦中 期には極東局で対日政策を担当していた。 10 月5日、アーノルド(Archibald V. Arnold)軍政長官は、行政顧問として 11 名を任命 した。その半数以上の 6 名は金性洙(『東亜日報』社長歴任)、宋鎭禹(『東亜日報』社長歴 任)などの韓民党系の人物であり、キリスト教徒として呂運亨、曺晩植(不参加)らが含まれ ていた。右翼勢力中心の人選であり、呂運亨は辞任した。 米軍政は、少数の旧政治勢力(旧親日派・保守勢力)と反共主義者(親米派)に依存して、占 領統治を行なう選択をした。明らかに日本の植民地統治に協力した旧政治勢力・親米派と ともに、改革勢力である左翼・中道勢力の排除を強行していった。

37 米国軍の南朝鮮占領の詳細については前掲のブルース・カミングスの研究が極めて詳細 に論述している。邦訳書は以下。鄭敬謨/林哲共訳(1989)『朝鮮戦争の起源第 1 巻』影書房。 鄭敬謨/加地永都子共訳(1991)『朝鮮戦争の起源第 2 巻』影書房。また、1950 年の朝鮮戦 争までを概説したものとして拙著(1993)『朝鮮分断の歴史』新幹社。朝鮮半島の現代史に ついては、以下の研究がある。李景珉著(1996)『朝鮮現代史の岐路』平凡社。文京洙著 (2005)『韓国現代史』岩波書店。徐仲錫著/文京洙訳(2008)『韓国現代史 60 年』明石書店 他。

ブルース・カミングスの続巻は以下。The Origins of the Korean War vol.ⅡThe Roaring of the Cataract1947-1950.1990.邦訳鄭敬謨/林哲/山岡由美(2012 )『朝鮮戦争の起源 2』 上下 明石書店。 38 森田芳夫著(昭和 39 年)『朝鮮終戦の記録米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』厳南堂。 39 五百旗頭前掲書上p224~225.p244~245. 40 ヒュー・ボートン著 (五百旗頭真監修/五味俊樹訳)(1998)『戦後日本の設計者ボートン回 想録』p163~164.朝日新聞社。 41 ブルース・カミングス著邦訳第 1 巻第 5 章等。拙稿「米国占領下の南朝鮮」『共愛論集』 (1989)第 1 号。

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米軍政(ホッジ中将)は韓民党系の人物から朝鮮人民共和国は共産主義者と民族反逆者に よって作られた、と伝えられていた。 10 月 10 日、アーノルド軍政長官は「『朝鮮人民共和国』問題に関する米軍政長官の声明」 を発表した。この声明で、「北緯三八度以南の朝鮮には唯一の政府があるだけである。こ の政府はマッカーサー元帥の布告とホッジ中将の政令とアーノルド少将の行政令によって 正当に樹立されたものである。・・・略・・・自称朝鮮人民共和国、自称朝鮮共和国内閣 だとかは権威と勢力と実体がまったくないのである。・・・略・・・このような傀儡劇の 背後にその演劇を操縦する詐欺漢がいて・・・略・・・このような愚かで悪質な人物たち がこのような自由を蹂躙することのないようにするときがきた。」と非難し、その存在を 否定した。朝鮮人民共和国の人々は「公敵」となった。 10 月 13 日には、「米軍占領下の朝鮮地域における民政に関する米国陸軍最高司令官に対 する基本指令―SWNCC176/8」(以後「初期指令」と略)が伝達されてきた。「初期指令」の 目的および適用範囲は、日本降伏後から信託統治樹立以前の初期の期間であり、朝鮮の民 政に関し有する権限および貴官の指針となる政策を規定するものであった。 連合国の日本降伏後の対朝鮮政策は、43 年 11 月のカイロ会談で合意・発表されたカイロ 宣言での「やがて朝鮮を自由独立のものとする決意を有する」という漠然としたものであ り、その後約 2 年の間、何ら具体的な政策は立案検討されなかった。 米軍政は、解放後の朝鮮人の国家樹立に向けての準備、全国的な人民委員会の設立、朝 鮮人民共和国樹立の活動を左翼勢力、共産主義者の活動であるとして敵視、敵対、排除す る政策を実行していくことになった。 前述したようにすでにホッジ中将の米軍政は、特定の朝鮮人(旧親日派・韓民党系反共保 守勢力)との協力により占領統治を行っていった。 11 月 5 日、6 日には、解放後から各企業で自主管理労働運動を展開してきた産業別労働 組合の全国組織である朝鮮労働組合全国評議会(組合員約 50 万人、「全評」と略)が、ソウ ル(中央劇場)で結成された。結成大会で臨時執行部が選出され名誉議長として朴憲永、金 日成、レオン・ジュオー(世界労連書記長)、毛沢東の 4 人を推戴することが決められた。 「全評」結成のイニシアチブは朴憲永(朝鮮共産党)が握っていた。 11 月 12 日、米軍政の行政顧問を辞任した呂運亨は、建国同盟を母体として朝鮮人民党を 結成して、独自の立場で活動を続けた。 12 月 8 日には、全国農民組合総連盟(組合員数約 330 万人「全農」と略)が結成された。 「全評」、「全農」ともに朝鮮人民共和国と朝鮮共産党を支持する大衆組織であった。 米軍政による朝鮮人民共和国の否認声明後の政治状況は、概ね以下のようであった。 米軍政は、左翼勢力の政治的活動や労働運動、さらに言論、集会、出版の自由を規制、 統制、禁止するための軍政法令を以下のように矢継ぎ早に公布した。 46 年 2 月 23 日、3 人以上が集まる団体のすべてを政党として登録する義務を定めた、軍 政法令第 55 号「政党に関する規則」を交付した。明らかな政治活動・結社の自由の制限で

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あった。2 月 28 日には独立同盟など 40 余団体が反対声明を発表した。4 月 12 日には軍政 法令第 68 号「活動寫眞の取締」、5 月 4 日には軍政法令第 72 号「軍政違反に対する犯罪」 を発した。 5 月 16 日、ホッジ中将は、共産党幹部 16 名に対する逮捕命令を出し、共産党勢力への弾 圧を本格的に開始した。5 月 29 日には軍政法令第 88 号「新聞其他定期刊行物の許可」、5 月 18 日には、朝鮮精版社偽札事件(党費調達目的で 1300 万円の偽造紙幣作成流布)の嫌疑 により、朝鮮共産中中央委員会機関誌「解放日報」が廃刊になった。9 月6日には左翼系新 聞「朝鮮人民報」が停刊となった。42 植民地支配から解放された朝鮮は、どのような政治状況であったのか、解放から 1 年 2 か月後の 46 年 10 月 16 日、ソウル(旧京城)に入ったマーク・ゲイン(Mark Gayn)は、当時 の状況を次のように的確に記述した。「改革とか復興とかへの情熱でなく、共産主義に対 する恐怖が我々の朝鮮革新の強固な基礎をなしていることを私は知った。・・・略・・我々 人民共和国に赤のレッテルをはりつけ、これを地下に追いやるためにまる二カ月間を無駄 に過ごしてしまった。これは、我々自身の軍政府とレジスタンス運動に根をもつ民族政府 との権限上の争い以上のものだった。双方の理念そのものが全くことなっていた。朝鮮人 たちは彼等自身を解放された民族だと考えていた。我々は今日に至るまで、朝鮮を解放し にやってきたのか、占領しにやってきたのか未だに確信がない。朝鮮人たちは対日協力者 の手から逃れたがっている。我々は対日協力者たちをそのまま留任せしめただけでなく(事 実要員が足りなかったので)、嫌い抜かれていた日本の総督、その役人、警官などまでに、 まるで何事も起らなかったかのようにそっくりそのまま仕事をつづけさせた。人民共和国 は社会改革を要求したが、アメリカ人たちは根本的な社会・経済改革はすべて拒否した。」 さらに翌日の 17 日、マーク・ゲインはレオナード・バーチ中尉(ホッジ中将の政治顧問) に会い、中尉は、共産党について次のように語った。「共産党は、警察の弾圧と党が連合 国の信託統治に賛成した結果最近やや勢力を減じはしたが、それでも南鮮に一万八千の党 員と少なくとも十万の活動的なシンパサイザーを擁している」と見られるとのことだった。 43 9 月 23 日、「全評」が指導する全国規模のゼネストが決行された。解放直後からの食糧 不足、インフレ、物価高騰に直面した鉄道労働者が賃上げ、解雇反対、労働運動の自由な どを掲げゼネストをはじめた。大邱、釜山などでは米を要求する大衆闘争が展開され、米 軍政は武装警官や右翼青年団を動員して弾圧した。10 月に入り、弾圧に抗議する労働者、 民衆の集会での武装警官による発砲で死者、負傷者を出し、2 日には大邱に戒厳令が布かれ た。抗議デモはソウルから全国に拡大し、「十月人民抗争」と呼ばれる「反軍政」闘争が 展開されていった。 46 年 2 月 14 日、米軍政は諮問機関として大韓国民代表民主議院(民主議院と略)を発足さ

42 『美軍政法令集』(國文版)(1983)驪江出版社。 43 マーク・ゲイン著(井本威夫訳)(1951)『ニッポン日記下』p95.p 98. 筑摩書房。

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せ、議長に李承晩、副議長に金九、金奎植を選出した。民主議院の結成は、米軍政の占領 統治に現地の住民代表を参加協力される現地化の第一歩であった。さらに、同年 12 月 12 日、臨時立法機関として南朝鮮過渡立法院を設置した。 47 年 2 月 5 日、米軍政は解放と同時に結成された建国準備委員会の副委員長であり、そ の後辞任し、朝鮮国民党を結成した安在鴻を民政長官(48 年 6 月 7 日まで)に就任させた。 46 年 2 月 14 日に結成された民主議院、12 月の南朝鮮過渡立法院に続くいわゆる現地化の更な る具体化である。3 月 10 日には「全評」に反対する保守系の米軍政の庇護のもとで結成さ れた労働組合組織である大韓独立促成労働総同盟(大韓労総)が結成された。 米軍政は、改革勢力の中心的存在である左派中道勢力・共産党勢力を弾圧し、旧親日派・ 保守勢力など旧政治勢力と協力して軍政を進めていった。最終的に左派中道・民族主義勢 力として左右合作・南北協商を追求していた呂運亨(47 年 7 月 19 日暗殺)や金九(49 年 6 月 26 日暗殺)を排除し、李承晩を中心とする反共・旧親日派・親米派勢力である旧政治勢力に より反共国家を樹立した。 米軍政期の時期区分について金雲泰は次のように指摘している。「①南朝鮮過渡政府が 樹立された 1947 年 6 月を起点としてそれ以前を初期直接統治期、そしてその後を後期間接 統治期に分ける見解②アメリカの対外政策の脈絡の中にアメリカ軍政期を前・後期と分け る見解、この見解ではいわゆるトルーマン・ドクトリンの宣言が時期区分の重要な分岐点 になった③アメリカ軍政期間に提起された主要な争点を基準にアメリカ軍政期を区分しょ うとする見解で、この見解としてはモスクワ三相会議議定書の発表以前までを正統性競争 期、その後信託統治と葛藤の時期を左右対立期、そして最後に第 3 期を左右合作運動と単 政樹立期として区分する」。44 47 年から 48 年にかけての日本本土と南朝鮮の政治状況は以下のようであった。 GHQ は、1947 年 2 月の共産党支配下の産別(産業別労働組合会議)が中心となり、吉田茂 内閣打倒、人民民主政府樹立を掲げてゼネストを計画した「2・1 スト」の中止を指令した。 労働運動のなかの共産主義勢力に対する警戒を強めていった。 48 年 4 月には、南朝鮮での単独選挙に反対する済州島民による武装蜂起(済州島 4・3 事 件)が起きた。ホッジ中将は、単独選挙に反対する島民を共産主義者・同調者であると断じ、 投票参加を強制した。同時期に在日朝鮮人が在住する神戸を中心に民族教育を擁護する阪 神教育闘争が起きた。 日本では、49 年 1 月 23 日の衆議院議員選挙(第 24 回)では日本共産党は前回の 4 議席か ら35 議席に大きく伸ばした。49 年になるといわゆるレッドパージを行い、教員、公務員、 一般企業から共産主義者やその同調者を解雇、排除していった。 南朝鮮の占領統治を開始した米軍政は、解放直後から、日本の植民地支配体制の全面的

44 金雲泰前掲書p175.

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な清算、改革、国家再建を始めた政治諸勢力の中心的な存在である共産主義者の活動に対 して、警戒心を持ち、その動向を注視した。 48 年 8 月 15 日、北緯 38 度線以南の米軍占領地域に大韓民国政府が樹立され、これを受 けて9 月 9日、北緯 38度線以北のソ連軍占領地域に朝鮮民主主義人民共和国が樹立され、 二つの占領は終結した。 結びとして 沖縄は 1972 年 5 月 15 日、沖縄返還協定の発効により、本土復帰を果たした。前述した ように 52 年のサンフランシスコ講和条約により日本本土は占領終結をむかえたが、沖縄は、 米国の施政権下で統治され、27 年間本土から分離されたままであった。 沖縄占領の終結について、大田は 72 年の日本本土復帰まで米国による単独の実質的な軍 政が続いた、と指摘する。45 復帰が実現したのは、沖縄県民の復帰運動に応えることではあった。と同時に米国に基 地の自由使用権を保障している日米安保・日米地位協定体制下に組み込まれても沖縄の現 状(基地の集中)に大きな変更は生じさせないことを日本政府が米国政府に保障した結果で あった。 日本本土に対する米国の占領政策は、戦前の政治体制であった軍国主義・封建体制から 天皇制を温存(象徴天皇制)しつつ「非軍事化」政策と「民主化」政策により日本を民主主 義国家として大きく改革した。敗戦・占領直後の多くの日本人もそれを積極的に受け入れ、 協力した。46 宮城悦二郎は、大田昌秀の著作の解説のなかで、「沖縄の戦後史は米軍基地との共存を 強制された歴史であったということである。そして、そのことは現在も変わっていない」 と指摘している。47 これまで本土占領研究を中心に行なってきた天川晃48は、二つの占領の異同と相互関係に 関する研究に必要と考える主要な論点として、仮説的にいえば本土の占領は連合国の占領 であったが、沖縄の占領は終始「アメリカの占領」であったとし、二つの占領の異同に関 するこの仮説を、(1)占領の開始、(2)占領目的と占領体制、(3)占領の終結、という観点か ら説明を試みている。それによれば、本土の占領は戦争の終結、すなわち日本の敗戦の結

45 袖井編前掲書p69、p106. 46 袖井林二郎著(1991)『拝啓マッカーサー元帥様』中央公論社。川島高峰「マッカーサー への投書に見る敗戦直後の民衆意識」『明治大学社会科学研究所紀要』(1993)第 31 巻第 2号所収。 47 大田昌秀著(1996)前掲書p462~463.大田先生は 2017 年 6 月 12 日に逝去されました。 心よりご冥福をお祈りいたします。 48 天川晃著(2014)『占領下の日本』第三章。現代史料出版。天川先生は 2017 年4月 27 日 に逝去されました。心よりご冥福をお祈りいたします。

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果として始まり、降伏文書には連合国九ヶ国の代表が署名しており、日本の敗戦が連合国 に対するものであり、この結果始まった占領も「連合国の占領」となった、としている。 さらに、本土の占領も、実質的には「アメリカの占領」といい得る部分が多いが、占領 の基本的枠組みとしては「連合国の占領」として考えるべきであろう、とし、アメリカ太 平洋軍司令官であったマッカーサーが新たに連合国最高司令官に任命されており、45 年 12 月には連合国の代表による極東委員会と対日理事会が設置され、連合国はある程度は影響 力をもつことになった、46 年には中国地方と四国地方に英連邦軍が進駐しており、部分的 にであれ連合軍の占領を経験しているのである。これに対して、沖縄の占領が最も本土の 占領と異なるはアメリカ軍による「交戦中の占領」として始まったことであり、「ポツダ ム宣言」ではなく戦時国際法、いわゆる「ハーグ陸戦法規」条約附属書第三款にいう占領 として沖縄の占領は始まったのであり、当初から本土の占領とは性格を異にしていた、と 論じている。 また、沖縄の分離に関して、二つの占領の基本的枠組みを考えるうえで最も重要な問題 は、日本の降伏後に沖縄の占領の性格が変化したのかという問題であり、日本の降伏が直 ちには沖縄の占領の性格に変化をもたらさなかった、としている。「沖縄の分離」に関す る決定で重視すべきは、時間的には日本降伏後の決定であり、アメリカ政府一国の決定で はなく連合国レベルの決定であり最初の重要な決定は、46 年 1 月 29 日の連合国総司令部の 「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離する覚書」(SCAPIN-677)であり、この決定 の背景の分析が重要である、としている。 天川は、占領目的と占領体制に関しても(本土と沖縄では)異なっていたとし、連合国の 占領目的を一言で言えば、「非軍事化」、「民主化」であり、沖縄の場合はともに曖昧な まま推移した、と指摘している。 占領の終結に関しては、52 年 4 月 28 日に発効した対日平和条約で本土の占領はほぼ 6 年 8 か月で終結した。講和後の沖縄の地位は、いかに曖昧なものであれ、対日平和条約第 3 条 に基づくものになった(合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととす る国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する)とし、日本の「潜在主権」が認め られたとはいえ、日本の降伏が直ちに沖縄の占領の性格に変化をもたらさなかったのと同 様に、講和の発効が沖縄における「アメリカの占領」の実態に大きく変化をもたらすこと はなかった、としている。 続けて、天川は、52 年から 72 年の沖縄の本土復帰までの 20 年間について、沖縄でのア メリカの統治の実態に即して考えれば、52 年以後もそれまで同様の「アメリカの占領」が 継続したと考えることは妥当であるかもしれない、しかし、そのことを「占領」の継続と して理解することが論理的にも成り立ち得るのかという問題は提起しておく必要があろう、 とし、沖縄の占領終結の時期をどのように考えるかは、「二つの占領」の異同と相互関係 を論ずる際にどの時間幅で比較検討を行うのかという基本の問題である、指摘している。

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最後に、法的な枠組みを中心に考えて、沖縄の「占領」は日本本土の占領と同様に 1952 年の平和条約の発効で終結したと考えることとしたい、したがって、沖縄の占領は「27 年 間」ではなく「7 年間」継続したという前提で議論を進めることとする、と結んでいる。 福永文夫は、占領直後の米国の対沖縄政策について、「アメリカの沖縄政策は、陸軍・ 国務両省の対立を受け、一九四六年一一月に当面『何もしない』と棚上げされる。この結 果、沖縄の現地米軍は、本国政府から明確な統治方針や予算を得られないまま、統治に臨 むことになり、その政策は計画性を欠いた、きわめて『場当り的』なものとなっていった。」 と指摘し、沖縄の占領は本土とは異なる、「交戦中の占領」、すなわちポツダム宣言では なく、戦時国際法「ハーグ陸戦法規」(同条約附属書第三款)に基づいて始まるとし、「本 土と沖縄占領はほぼ同時期に占領を経験するが、区別して扱われ、日本占領とは本土占領 について語られることが多い。沖縄は米軍の直接軍政下に置かれ、日本国憲法などの民主 化改革、講和・独立からも置き去りにされてきた。本土占領と沖縄占領を対比して映すこ とで、日本占領も異なる相 貌 そうぼう を帯びることになる。それは、日本占領と戦後そのものを問 い直すとともに、相対化、そして総体化するものである」。と論じている。49 沖縄は 72 年の本土復帰から 40 余年が過ぎたが、現在も米軍基地が集中し、整理縮小へ の進展は遅い。新たな基地の建設が進む沖縄の現実は、米国のアジア・世界戦略の要石と しての沖縄の歴史的、地理的役割の固定化なのであろう。「核密約」の存在が明らかにさ れ、日米安保・軍事同盟体制の深化のなかで、沖縄の米軍基地問題は、独立国家としての 日本が直面する国家的課題である。 米国は、これまで論述してきたように南朝鮮に旧政治勢力である少数の保守勢力・反共勢 力に依存して強引に反共国家(大韓民国政府)を作り上げた。北ではソ連軍が金日成を中心 にソ連型国家(朝鮮民主主義人民共和国政府)を作り上げた。 朝鮮半島では依然として朝鮮戦争の休戦体制(南北対立)が続き、近年、北朝鮮の核・ミ サイル開発の進展により軍事的緊張が高まっている。 戦後 70 年前後から、再び日本の戦後史論が盛んである。戦後の見直しとして占領期の日 本への関心が高まっている。占領期研究の意義について袖井林二郎は次のように指摘して いる。「それが日本にとって過去の戦争と現在をつなぐ結節点であり、このうえなく大事 な転換点だからに他ならない」50

49 福永文夫著(2014)『日本占領史1945-1952 東京・ワシントン・沖縄p77.p14.序章p7. 中央公論新社。 50 袖井林二郎著(1986)『占領した者された者』まえがきp3. サイマル出版会。

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あらたな沖縄現代史研究51や日米安保体制研究52も進んでいる。より広く東アジアの近現 代史の歴史的文脈や視点から、戦後の沖縄と日本と朝鮮半島との関係性をとらえなおす必 要性が提起されている。53 このような状況からも米国の沖縄、日本本土、そして南朝鮮に対する占領政策や占領期 研究はさらに重要性を増している。

51 櫻澤誠著(2015)『沖縄現代史』中央公論新社。森宜雄著(2016)『沖縄戦後民衆史』岩波 書店。等。 52 明田川融著(2017)『日米地位協定』みすず書房。等。 53 中野敏男他著前掲書。権赫泰、車承棋編(訳者中野宣子)(2017)『〈戦後〉の誕生』新泉社。

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Abstract

Comparative Sudies of the U.S. Occupation Policy on the End of the

Second World War:

-Okinawa, Mainland Japan, and South Korea-

Hisao Onuma

At the end of The Second World War, March 26, 1945, U.S. Forces battled in

Okinawa-Kerama Island. Okinawa was occupied by the U.S. Forces. Okinawa was

separated from mainland Japan, based on The Peace Treaty with Japan in 1952. After

this, Okinawa was under control of the U.S. Administrative Right until 1972.

On August 15, 1945, The Japanese Government accepted the “Potsdam Declaration”,

and on September 2, signed The Instrument of Surrender. MacArthur, designated as

Supreme Allied Commander, accepted Japan’s surrender.

On August 15, Korea was liberated from Japanese Colonial rule by the allied Powers.

At the same time, Korea was divided at the 38

th

parallel into the American and the

Soviet zones. In the south, on September 20, a U.S. Military Government was started.

The U.S. Occupation Era was the formative period for the post-war structure in

Okinawa, Mainland Japan and South Korea.

This paper intends to comparatively examine the situation, based on the development of

U.S. Occupation Policy studies for Okinawa, Mainland Japan and South Korea.

参照

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