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薩藩の麓集落の地理学的研究 (第2報) 明治以後の変容

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薩藩の麓集落の地理学的研究(第2報)

明治以後の変容

鈴  木 公

Geographical study of Fumoto settlements in Sappan. (Part II) changeafter Meiji

Tadashi Suzuki 梗    概 Ⅰ論文の目標 本論文の目標は鹿児島大学教育学部研究紀要 第20巻(昭和44年3月刊)の第1報に述べてい るので省略するが,本稿は明治以後の麓,野町,浦町の変容の研究である。明治以後の変容は従 来の論文は全くなく筆者が明治時代,大正∼戦前,第二次世界大戦後の3期に分けて具体例を挙 げつつ実態と原因を明らかにしたものである。 ⅠⅠ結   果 (1)明治時代は郷士は土地と結び,地主・支配的地位の職業等につき,麓は行政・文教・士族 居住区として旧態が維持された。 (2)大正∼戦前期は交通の発達により行政・経済・文教圏が拡大され,若干の麓は地方中心都 市に成長し,弱小の麓は衰微傾向をたどり農村化した。大型船・築港・鉄道の開通など交通の整 備とともに野町・浦町の盛衰も大きな変化を来たした。ここでは衰微型,発展型の分類と要因の 追求を行なった。 (3)第二次世界大戦後は戦災,家屋の老朽化(麓や野町--),台風禍,農地法の改革,町村 合併,士族階級の喪失,さらに昭和30年ごろからの人口の都市集中による転出等が重なって,港 の旧態は形態上からも内容(質)からも急速に変容した。 現在の鹿児島県の地方都市(奄美を除く)の特色は藩政時代の麓・野町・浦町の中から成長し たため鹿児島市との格差が大きいこと,発展のテンポが遅いこと,地方経済,行政の中心都と漁 港が主であること,都市の分布が鹿児島市を核として地方に均等分布し,それぞれ小経済圏をも っていることなどである。 第1章 明治から大正初期までの変容 第1節 麓の変容 第2節 野町・浦町の実状 目       次 第2章 大正中期から第二次大戦終了までの変容 第1節 道路鉄道の開設と,浦町野町の盛衰 H 衰微型の浦町

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鈴  木     公     〔研究紀要 第21巻〕  39 (コ 発展型の浦町 (ヨ 野町の盛衰 第2節 大正中期以後における麓の変容 第3章 戦後における変容 第1節 戦災と台風禍 第2節 農地改革と麓 第'3節 町村合併促進法と麓 第4節 士族階級の喪失と麓 第5節 麓の現状 第6節 野町・浦町の現状 第4章 鹿児島県における都市の特色 第1節 都市成長のよりどころ 第2節 地方都市の特色 結 論

第二部 明治以後における麓・野町・浦町の変容

第1章 明治から大正初期までの変容 第1節 麓の変容 1869年(明治2)版籍奉還によって旧藩主は中央政府の任命する知藩事となったが,港内の私 領主は領地を藩主に返し,給米の支給をうけることとなった。郷士や家来も従来の藩士,家来等 の主従関係から開放され,住居も自由となったが,一部の高級士族を除いてはほとんどが在来の 土地に留まり,集落としての麓の形態はほとんど変らなかった。郷士・家来がその土地に留まっ たのは中下級士は大部分が半士半農であり,高級士も地主的性格が強く土地と結びついていた上 に明治4年の廃藩置県により,城下士は緑米支給となったが,郷士は給地高として緑米に相当す る土地が与えられたからである。明治9年には城下士の線米が金線公債に変更され(換算は1石 につき約4円)城下士は純消費者階級,郷士は地主または農民となった。 城下士は西南の役による鹿児島市街地の戦災で,壊滅的打撃をうけたのに対し,地方郷士は西 南の役には多数(約8500人)参加したが麓が戦災をうけなかったため,農民との間は従来の身分 かど 的関係を維持し,土地の大部分は従来の門付百姓が小作として耕作し,年貢は物納,賦役を課す るなど封建性が持続された。その他彼等は行政官・警察官等としての支配関係や高利貸的手段に よる経済力等をもって,旧藩権力に代わる農村社会の支配者として繁栄をつづけた。 さらに農民は廃藩後1)土地を所有するようになったが,明治13-20年の米価低落(明治2年1 石9円が10年∼20年にかけて5円∼7円となる。),土地経営の不安,貧困等のため土地を手放そ うとするムードが高まり,富裕士族は高利貸的手段でこれを買収し大地主となり,明治16年をピ ークとして漸次零細農民に脱落し,富裕士族は昭和20年の農地改革まで地主として麓集落に在住 したものが多かった。ただし富裕士族の数は士族の中の10%内外である。 行政庁であった仮屋は維新後どのように転用されたか,これも麓集落変容の大きな要素である から今回全県下の麓について調査した。その結果は第1報第6表の通りである。これによって明 らかなように第1は学校・学舎等教育施設への転用,ついで行政関係面への転用でこの両者を併 せると77.2%を占めている。明治2年から同17年までは町村行政区や制度が幾度も変ったので詳 述はできないが,明治17年民選戸長を一律に官選にするとともに役場の行政区域を拡大し,大体 1)明治9年(1876)-14年,地租改正により旧給地高地所はその地所,耕作の農民所有地となる。

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藩政時代の1郷を1村とし,大郷だけ2-3村に分けてそれぞれに戸長役場をおいた。明治22年 の町村制施行はほぼこれの踏襲で,役場は分郷の村を除けばすべて麓におかれ,麓は維新後も引 つづき地方行政の中心地であり,文教の核心地として再出発した。 居住民も依然として士族が在住し在(農民居住区) ・町(町人居住区)とは1線を画していた。 古い武家屋敷の門構えに医者の看板等のかかる風景は今も各地に見られる景観である。 (本稿第 1報146貢写真1の2参照) 第1表 明治17年編鹿児島県地誌による旧麓所在集落(村)の士族人口率(調査年次明治15年) 田 士族人口率 90%以上の村----   50%以上の村----  10%以上の村---4 80〝       2  40〝      10%以下の村---- 1 70〝         1  30〝         7 60〝         5   20〝         7 表1は明治17年編「鹿児島県地誌」から麓のあった村の総人口に対する士族人口を抽出したも のであるが,士族人口率の最大は平佐(川内市)の90%,最低の山川(港町)でも8.7%で麓の 旧態が当時は維持されていたことがうかがえる。

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F 1 1 一 t t I L I 鈴  木     公     〔研究紀要 第21巻〕  41 第2節 野町・浦町の実状 明治維新により職業,営業,住居,結婚等の自由が許されたが,旧薩港内では強い封建性の残 存により士族は官吏,軍人,警官,教員,新聞記者等社会的地位が高く評価される職業を希望し, 商業を卑下した。企業心も低く子弟の学資に資財を投じた。農民は経済力がなく,教育を受ける 率が低く,さらに日本の南端という僻地性,道路交通の未発達等の悪条件が重なって,商業の発 達は城下の鹿児島を除いてはいちじるしく遅れた。 第3表 第1回道路開さく路線(明治20-24年) 第2表 明治30年頃の 小学校就学率2) 鹿児島県I 石 川 県 男子 50% 女子8-9 全国最下位 男子 80% 女子 60 1.鹿児島一市来一阿久根一米之津一熊本県境 2.鹿児島一加治木一宮崎県境 3・鹿児島一横川一熊本県境 4.鹿児島一谷山一知覧一枕崎 5.鹿児島(宇宿)一伊作一加世田 6.福山一岩川一志布志一串良一鹿屋一垂水 町 2 4   余 0 0   余 余 0 0 ● 里 a c o t o r h サ   < J >   ^ 道路の開さくは明治20年に初められて24年までに主幹線6線(幅員2.5-4間)が開通した。し たがって明治20年ごろまでは陸地では牛馬の通れる街道はほとんどなく,貨物輸送はもっぱら水 上輸送によったため,旧浦町または新しい船着場が港町として栄えた。ことに旧豪商の居住した 浦町は従来の勢力の延長として栄えた。港別の出入船舶数が全県の統計として報告されているの は明治13年,貨物の出入は明治20年が最初である。 (第1 ・2図参照) 第1図 明治13年港別出入船舶(計)数 第2図 明治20年港別貨物出入額 第4表は明治17年編の鹿児島県(薩摩),日向地誌から商家戸数30戸以上の村を抽出したもの であるが, 29村のうち浦町が16, (55%)旧野町が10(34%)で,両者では89%を占めている。資 2)薩摩見聞録 本冨安四郎(1898)東洋堂書店(再版p.53)

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料不足で藩政時代の数と比較ができないが,第1報第10表の外城町場人口と比較してみると明治 維新以後全般として野町も浦町も発展したと考えられる。 またおもな町場の90%が野町・浦町に基盤をもっていることも第4表でよみとることができる。 中でも山川,小湊∼唐仁原,枕崎,市来漠,志布志,谷山の松崎など商家戸数150戸以上の上位 町場のすべてが旧浦町であるのを見ると,物資輸送が藩政時代に引つづき水上交通を中心として 町場が栄えて来たことがわかる。 第4表 明治17年編鹿児島県(薩摩)地誌,日向地誌による商家戸数30戸以上の村と, 旧野町・浦町の関係 郡l村  名 廃家戸数l 野町別旧浦町, 浦町 △ 浦町 旧浦町, 野町別 野町 浦町 浦町 〝 村    名 下谷口(伊集院) 湊 (市来) 伊作田 上 名(串木野) 戸 頴 娃 川 辺 阿 多 松 崎(谷 山) 和 田( 〟 ) 西別府 福 元(山川) 西 方(宮ヶ浜) 岩 元(今和泉) 別 府(石垣) 川 畑(加僅田) 唐仁原 小 枕 坊 平 中 与 湊(小松原) 崎 E i   -  -    E i i i Z g 辺作 川伊 i Z q q t U 山 原 倉 169 63 40 211 50 34 66 100 -蝣   o o o io m o io 2   2 町  町町町 町 町  町 浦 〝 野 浦 野   浦   浦 〝 野 〝 △         △       △   △ 相 川 u 摩     水 薩     出 郡     県 佐     諸 伊     南 大小路 五 代 大久保(高尾野) 波 留(阿久根) 武 本(出水) 下鯖淵(米之津) 屋 地(宮之城) 里 (大口) 帖 (志布志) 仮 宿(大崎) Ln o m r^ T^  -  m Tf oo m N ^ co co ^ io o co co in =   リ                 H U 野町 浦町 野町 浦町 野町 〝 浦町 野町 村名は当時の村名( )は現在(一部旧)市町名, △は非公認の浦町 第2節 大正中期から第二次世界大戦終了までの変容 第1節 道路鉄道の開通と浦町野町の盛衰 道路の開通 前述の明治20-24年の第1期工事についで第2期25-29年,第3期30-39年,第4-5期明治 40-大正10年と継続して県道が開さくまたは改良され,大正末期には一応県内の主要道が開通し た。 鉄道の開通 明治34年鹿児島一国分(現在の隼人)間の開通を初めとして,明治42年には門司一八代一人昔 一加治木経由の鹿児島本線が開通し,陸上交通が容易になったが,その後引続いて大正年間から 昭和の初めにかけて,薩摩・大隅の両半島南部を除いて鉄道網が完成した。 自 動 車

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鈴  木     公     〔研究紀要 第21巻〕  43 明治37年鹿児島一谷山間の乗合自動車を最初として大正元年鹿児島一川内間等が記録にはある が,故障が多く,台数も少なく料金高と合わせ大衆用としては発達せず,大正6年には登録台数 ゼロとなっている。大正7年乗用車10台,トラック1台が登録されているので,鹿児島県におけ る自動車の発達はそれ以後である。 このような陸上交通の変遷にともなって浦町には衰微型と発展型の二つが現われた。 F l l l ' H 衰微型の浦町 藩政時代の浦町で,明治時代ま では港町として主要な地位を占め ていたが,大正中期ごろから急速 に衰微したものは加世田浦の唐仁 原一小松原・市来・福山・柏原で ある。 (イ)唐仁原一小松原 万瀬川は地理纂考3)によると亨 和3年(1803までは唐仁原一小松 原の地を流れて寺山鼻で海に注い でいたのを現在の河道につけかえ た(新川)とある。したがってこ の地は古い河口港であった。河道 変更後も陸上交通が発達するまで は南薩西岸の門戸で伝統的に商業 港として栄えた。 第3図 鉄道開通年次と衰微した浦町 第1図でもわかるように明治13 年の出入船舶数は県内では鹿児島についで2位である。明治6年には南薩4郡を取扱う国税検査 出張所が設けられている。 鹿児島との取引は陸路は馬車の通じる道がなく,伊作峠(302m)もあり,明治40年県道開さく までは海運に頼っていた。 明治時代は鹿児島のほか中国から骨粉の原料の牛馬骨等も輸入された。かつお節の製造も盛ん で職工は40-50人,坊之津・枕崎と肩を並べていた。大正時代には吉崎長作が鉄工場を作り工員 200-300人が農具,機械類の製作に従事し,十五銀行出張所のほか3銀行の代理店ができ,南薩 鉄道万世線(加世田一薩摩大崎間2.5km)も大正5年に敷設された。しかし陸上交通の発達と ともに海運は次第に衰えていった。 (第5表参照)それは河口の浅いこと,陸運の発達とともに 隣接の旧麓の加世田が陸上交通の中心地となり,行政文教の中心も加世田におかれ,加世田が日 3)鹿児島県教育会再版 樺山資雄(1871) p.217

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第5表 東加世田港移出入額と港別順位(鹿児島県統計書による) (明治22年小湊村,唐仁原村合併して東加世田村となる) ○小松原は小湊村の一部 を追って都市化したためである。加世田の町制は大正13年,東加世田村は大正14年万世町と改名 町制したが,その後衰微の一途をたどり,戦後は鉄道も廃止(昭和37年)され現在は浦町の残象 を残した田舎集落に陥ちいってしまった。 (ロ)市   来 市来が宿場町,港町として栄えたことは第1報でも述べたが,明治7年阿多・・薩摩・出水・日 置・甑島5郡を統轄する郡役所がおかれ,明治維新後も依然として西薩の政治・経済の中心地で あった。その後専売公社・法務局・警察等がおかれ銀行も15銀行,鹿児島興業銀行,鹿児島銀行 の支店が置かれた。豪商海江田一家をはじめ貿易商や焼酎醸造,質屋その他の商家が並んでいた。 第1報第9図に示したように明治17年編に示された都市別商家戸数は277戸,薩摩では鹿児島に つぐ商業地であった。 明治中期(22-24年)国道の開通,大正2年国鉄開通。他方河口は砂の堆積で浅くなり大型船 l の入港が不能となり港の機能が漸次衰えていった。県の統計書を見ても明治41年移入貨物2万円 余を見たのみである。国鉄開通後は将来の発展も考え,街から500m余離れた所に駅が設けら れたが50年後の今日も駅と街とはつながらず,駅は田圃の中に孤立している。昭和3年に初まっ た串木野港の築港完成(第1期は12年完成)に伴い港の機能は全く串木野に移り,警察も串木野 に移った。北の串木野港,南の温泉地湯之元の都市化と逆に市来は地方街に陥いってしまった。 ただし串木野の漁業,湯之元温泉の開発は市来商人の資本に負うところは大きい。 M 福   山 そお 鹿児島湾の北東隅にあり,都城盆地・贈軟郡地方の海上の門戸として藩政時代から主要な位置 にあり,島津一門家の重富家,准一門家の日置家の年貢米集積所(米倉)が一棟ずつあった。 明治時代は宮崎県北諸県郡,鹿児島県贈娯郡地方と鹿児島をつなぐ最短距離の港として日に増 して栄え当時1200石(4斗俵300俵)以上積める船27隻があり,鹿児島との間に平均1日3-5 隻が発着していた。第6表の通り明治末期から大正初期へかけては出入額は鹿児島を除く県内の 第6表 福山港の移出入額と順位(鹿児島県統計書による) 移  出  入  額 年   次 移   出 I  移   入 鹿児島を除く 県下港別貿易額順位

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鈴  木     公     〔研究紀要 第21巻〕 45 港では常に1-2位を占めていた。このころは都城に連隊が設置された時で,資材が福山港を経 由したことも原因である。当時は水陸の連絡点で馬車台数は300台を数え街には活気があふれて いた。 しかし大正2年吉都線(青松一都城)の開通,さらに大正12年に日豊線が開通するに及んで後 背地を失い,地元福山と鹿児島との連絡のみとなり昭和初期には船籍も6隻となってしまった。 ・大正3年の桜島噴火では降灰がl-2mという大災害をうけた。その後昭和20年の枕崎台風で潰 城的災害をうけ極度に衰微した。 かしわばるはみ (i)柏原・披見. きもつき 大隅半島の東部,肝属川の河口にある対向集落。和冠時代から沖縄,南支那との貿易が行なわ れた港で,唐人の地名が奥地にあり,土地の人が和冠の家と呼んでいる家が披見と唐人にある。 唐人は古い浦町,柏原は1733年に新設された(許可された)浦町で,月6回の定期市も立った。 こうやましげ 藩政時代には田辺泰蔵その他の豪商が居た。披見は高山郷の浦で藩政時代には豪商重新兵衛の一 族がいた。肝属川の満潮時を利用して300石船が柏原の中ノ町,帆前船は上ノ町まで入り河岸に 商店が並んでいて,明治∼大正中期までは引続き栄えていた。 第7表 柏原・披見港の貨物出入額(鹿児島県統計書による) 自 ・ f S r -磨 港 円 円 円 円 貨物の出入額は第7表の通りで明治中期は全県下で中位であるが,大正に入って米の移出を主 として大阪商船の大阪一鹿児島間の定期船が寄港(大正4-昭和15年)し,活気を呈した。大正 12年の披見港の移出入額は県下で鹿児島・米之津についで第3位である。 大正時代には披見には料亭や旅館の大きな建て物が河岸にあった。 柏原は明治30年に登記所,大正11年に警察(分署昇格)が設けられ銀行の出張所もあったが, 大正11年志布志線の開通,昭和10年に古江線が開通(約5km北方を通過)し,バス交通も道路 の整備とともに発達し,水運は日々衰えていった。また大正3年の桜島噴火後河床がいちじるし く浅くなり,大型船の入港が不能となったことも衰微の一因である。 鉄道の開通,近代港湾の改修が進むにつれて大隅地区の経済の中心は鹿屋と志布志に移り,柏 原と披見は後背地を失った小港となった。行政機関の法務局は串良へ,警察は高山へそれぞれ移 転,商業の上では高山の商圏に入り,柏原は小さな田舎町(漁港),披見は農村部落となった。

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陣)その他の衰微した中小の浦町,ならびに衰微型の共通点 以上のほか衰微した中小浦町と,それらが衰微した要因をまとめたのが第8表であるが,この ほかにも米之津川河口の今釜(名古),野間半島の久志・坊,谷山の和田,帖佐の十日町など小 さな浦の町場も衰微した。 第8表 衰微した中小浦町一覧表 浦 町 名 衰  微  し  た  要  因 現   在 隣接都歪との関係 港 そ  の  他 坊 知覧・頴唖 之 塩 松 大 水 石 津 屋 浦 川 川 垣 ケ     成 指宿(宮ヶ浜) 国分(浜之市) 鹿屋(高 須) 白浜 (川内川沿岸) 枕崎港市の発達 枕崎・指宿市の中 間となる 指宿市の発達 隼人町の発達 国鉄古江線の開通 鹿屋市の発達 宮之城町の発達 川内市の発達 鹿児島との定期航路廃止 同 上 郡役所・役場の移転 鹿児島との定期航路廃止 役場移転 国鉄駅との距り 鹿児島との定期航路廃止 鹿児島との定期航路廃止 河川交通の廃止 (昭和8年以降) 4 種 漁 港 その他の商港 ● 同 1種 漁 港 同 同 地 方 港 地 方 港 地 方 港 これらの港の共通点は砂浜の場合は河口を利用した港が多く水深が浅い。岩浜海岸の場合は沈 降海岸の小湾入の港で陸上後背地との連絡が不便である。それでも交通が水運を中心としていた 時代は利用されていたが陸上交通の発達とともに水運が衰えていった。ことに鹿児島との定期航 路の廃止,川内川の河川交通の廃止(大正6年から昭和10年までに発電所の建設や架橋,陸上交 通の発達等により上流部から漸次廃止)等で次第に衰えていった。さらに船の大型化に伴ない新 第9表 明治大正期に行われた港湾の改修 港 湾 名 l    改修・築港年次 鹿 児 島 津尉崎 之傭 江 米 古 枕 西 之 表 志 布・志 串 木 野 M34-38年 M32-36」fi T 7-10^ M43-T 24p T 8-134p T2- 年  12-15年 T 6-12年 T 8-13年 TI0-S 3-13年 註 各港ともその後さらに改修が行なわれている。 しい港湾が建設されると河口港やリヤ ス海岸の小湾港は入港船が少なくなり, 港そのものも機能を失うに至った。明 治末期から大正一昭和へかけて築港ま たは大型船接岸可能に改修された港は 第9表の通りである。 (コ 発展型の浦町 発展型の浦町には(4)港が都市発展の 主要因となっているものと(ロ)港の機能

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鈴  木     公     〔研究紀要 第21巻〕  47 は弱ったが,浦町を核として他の要因で都市が発展したものとに大別することができる。 (イ)の1 近代漁港として発展した浦町 枕崎・串木野・山川・阿久根の4港は現在いずれも第3種漁港で沿岸や沖合漁業のほか阿久根 を除く3港はかつお・まぐろの遠洋漁業の基地となっている。 枕崎と串木野は旧麓の浦町が全く離れた別の集落であったため,明治以後の都市化は旧浦町を 核として行なわれ枕崎は坊之津を,串木野は市来の旧港勢力権を吸収し,陸上交通の発達ととも に成長した。串木野は漁港とそれに関連する造船・製氷・水産加工等のほか,串木野鉱山の製錬 所,戦後は食品加工(ハム・ソーセージ)等の工業が発達した。また甑島への定期航路発着地で もあり,第二次世界大戦後は戦災復興都市として都市計画を実施,昭和25年市制をしいた。都心 は古い砂丘上に発達した旧浦町の浜町である。 枕崎は南方漁場に近く,かつお漁業の基地として昭和6年南薩鉄道開通後は県外船の水揚も多 く,かつお節製造,造船,製氷等の水産都市として発展し,昭和24年市制,現在大型港増築中。 この二都市は麓と浦町との関係が類似していて,藩政時代から村・町・市へと発展するにつれ 役場(市役所)が枕崎は3回,串木野は2回麓から浦町寄りの方向へ移転し,旧麓は農村化した。 山川は火口港東部の砂瞬上に作られた麓と浦町の接続した町で平地が少なく,一時は停滞型の 集落であったが,やがて南方かつお漁業の基地となり,かつお節の製造をはじめ関連工業が発達 した点は枕崎と似ているが,鹿児島湾口にあることと温泉を有すること,指宿に隣接すること等 により,港湾の改修,観光客の増加にともない対岸佐多(昭和40年)と根占(昭和43年)へのフ ェリーボートの発着地となり,交通観光都市の性格が加わり発展しつつある。 阿久根は北薩の港で天草∼甑島近海を漁場とする漁業の基地であるほか,古くからの商業港で あり北薩経済の中心地として発展した。甑島と長島一天草へ定期航路をもち,市内に温泉と大島 (キャムプ,海水浴場)等の観光要素も加わり,戦後国道筋,高松川南方へ都市が発展している。 市制施行は昭和29年である。 (イ)の2 発展型の商港 商港として発展した浦町には志布志・米之津・垂水・根占がある。 志布志は藩政時代志布志千軒とうたわれた浦町で明治17年の商家戸数も185となっている。大 隅半島東岸唯一の要港で早く築港が行なわれ,昭和44年4月1日には重要港湾に指定され,目下 第二次1968-78年)の築港が行なわれつつあり,近く1万トン級の大型船が接岸できる港にな る。大隅半島,都城盆地を後背地とした経済,交通の要地,日南海岸国定公園の要地でもあり, 近年は原油基地,志布志湾工業地帯造成の候補地として着目されている。市街は旧浦町から国鉄 の駅方面(西部)へ大きくのぴた。 米之津は麓ではなく出水の支城であるが,米之津川河口は出水の外港的性格を以って浦町が発 達した。明治32-36年に第一期の築港が行なわれ,長島,天草方面との連絡港となった。大正12 年国鉄の開通とともに町制,申出水村を米之津町と改正した。昭和29年出水町と合併市制,その

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後国道のつけかえ,役場を失ったことなどで市街地は活気がなくなったが,港は出水の工業(製 紙など)の発展と関連して活気がある。 垂水は島津一族の准城下町的麓で麓と浦町が結合した街である。鹿児島と大隅半島中央部の連 絡港として大正10年に定期航路が開かれ,昭和2年には海中へ200m突出した桟橋も作られた。 戦後(昭和27-35年)海岸の埋立と新港の築港が行なわれ,新城・牛根両村を合併し,昭和30 年市制をしいたが農村部人口の転出で市の人口は近年減少している。垂水港の乗降客は昭和41年 乗客38万人,降客61万人で鹿児島・桜島(袴腰)についで県下第3位である。ただし乗降客の大 部分は鹿屋方面への通過客で市勢への影響は少ない。 根占(旧小根占)は雄川の河口に麓と離れて浦町が作られ,唐仁町・町の地名が残っている。 この浦町は大根占の都市化と,鹿児島との定期航路の廃止で衰微したが,港は昭和30-40年に改 修され500トン級の汽船の接岸が可能となり,昭和43年からは山川港との間にフェリーボートが 就航し回春して来た。ただし港は旧浦町の対岸(河口の南)に作られたので旧浦町は衰微型であ る。 (ロ)変質発展型の浦町 浦町として発展して来た町が,その後港の機能は弱ったが,他の要因が加わって旧浦町を核と して発展して来た町で,加治木・川内・谷山がこれに属する。 加治木は地方港湾になっているが,昭和41年の入港船舶は汽船121隻(1.8万t)機帆船59隻 (6千t)で港の機能は弱くなっている。 第10表 加治木の旧制中等学校の創立年次 (鹿児島についで早い) 郷 立 加 治 木 中学 校   明治10年 県 立 加 治 木 中学 校   〝 29年 〝   工業学校   〝 43年 〝   高等女学校   〝 44年 ただし藩政時代は鹿児島につぐ准城 下町で,明治以後も姶良郡地方の政治 ・経済・文教の中心都市として発展し, 鹿児島への定期船も盛んに通■った。鉄 道の開通,国道の改修(10号線)によ って鹿児島との連絡は陸上交通に移っ たが,地方都市としての勢力は衰えなかった。 鹿児島へ汽車時間30分の近距離にあり,近年は中小工場の進出が目立ち郊外都市としての性格 が加わりつつある。 (九州従貫高速道路インターチェンジができる予定) むこうだしらわおおしよう 川内は川内川を挟んで南に隈之城の浦町向田と,平佐の浦町白和があり,北に水引の浦町大小 じ 路が対向町として発達していた。上流から来る川舟と海洋行の船の中継地は南岸で架橋(明治33 年鋼材の太平橋ができた---現在の国道3号線)後も南部が都心として栄え,国鉄の駅前へと市 街が発展した。 昭和10年以降川舟の運行は全く止ったが,北薩の政治経済・交通の中心地として発展し昭和15 年地方都市第1号として市制をしいた。市街地から12km下流の河口に昭和35-44年に500t級 接岸の大型港湾の築港が行なわれた。

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鈴  木     公     〔研究紀要 第21巻〕  49 川内市街を中心とする半径5km以内にああった高江・水引・中郷・高城・山田・百次・隈之 城,平佐の8麓は向田・白和・大小路の旧浦町を除いて浦町の衰微はもちろん,次々と行なわれ た町村合併によって政治機能も失ない,平佐麓の住宅化を除けばいずれも農村化した。 谷山は鹿児島郊外の大きな麓で,もともと大きな浦町が発達していた。大正元年鹿児島との間 に電車が開通し,郊外都市として徐々に発展した。戦時中田辺航空の大工場ができ(空襲焼失) その跡が戦後住宅地となり,鹿児島の外延的発展に伴って各種試験場,大学,住宅団地等の移転 や新設がつづき,昭和30年市制, 42年鹿児島市に編入された。現在鹿児島谷山臨海工業地帯の一 環として埋立と工業港の造成がすすめられているので,都市の性格はいよいよ変質するであろう。 その他重富,帖佐などの旧浦町は加治木に近いため,加治木の経済圏に吸収され衰微したが, 昭和30年ごろから鹿児島,加治木の中間地として急速に中小工場や住宅が建設され,浦町の位置 とは別に帖佐駅前を中心に新しい街が生まれつつある。 (A)発展型の共通点 第1は大型船の入港接岸できる港が建設されたことである。加治木以外の浦町で垂水,谷山の ように築港が戦後のものもあるが,第9表に示したように発展型浦町の港は築港が行なわれてい る。 第2は鉄道の開通である。これも垂水は戦後であるが,その他はいずれも大正∼昭和の始めに は鉄道が開通し,水陸連絡の要地となっている。第3は行政機能との結びつきである。川内・加 治木を始めとして志布志・枕崎・串木野・阿久根・山川・垂水など国や県の行政機関の出先,各 種試験場のほか港との関係のある海上保安庁の出先(山川・串木野),測候所(阿久根・枕崎), 漁業センター(志布志)等特殊の施設がおかれ町の発展の要因となっている。第4は第3種漁港 のような有力な漁港への発展である。 第5は定期航路を有することである。 第11表は現在貨客船の定期航路をもつ 旧浦町の港であるが,明治一大正時代 には加治木・谷山・志布志各港もそれ ぞれ鹿児島や大阪等へ定期航路があっ た。 第表11貨客船の定期航路をもつ旧浦町 旧浦町 l    現在の定期航路  (行先) 水 川 野 根 津 占 木 久 之 垂 山 串 阿 米 根 鹿児島 根占・佐多(両港ともフェリー) 甑島 甑島・長島・牛深 長島・天草各港 山川 これらの要素のいくつかが重なって, (昭和43年) それぞれ特殊な発展をとげている。他面前記のような要素をもたない近隣の旧浦町は港の機能が 弱まるとともに衰微した。米之津が今釜を,串木野が市来を,枕崎が坊之津を,志布志が柏原や 披見の経済力を奪い衰微させたのはその例である。 E)野町の盛衰 大正期に入り道路,鉄道の開通,港湾の改修築などにより交通が発達したことと,第一次世界 大戦後の経済の成長により,鹿児島県にも地方都市が発達し,明治45年から大正15年までに20の

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村が町制を施行した(第13表参照) 明治期には役場所在地があった麓に接続する旧野町は一般に商家もふえ発展の傾向を辿ったが, 近代都市の発展に伴って経済圏が変動し,昭和に入るとはっきり衰微(亡)壁,停滞型,発展型 に分れていった。 (イ)衰微型の野町 衰微型の中には今日1戸の店もない衰亡型と荒物・雑貨・食料品などを販売する旧態の店構え をしている貧弱な店が数戸残存している程度の衰微型の2種がある。第12表に示したように吉田 ・黒木(町) ・湯之尾の旧野町(舟津田) ・知覧(麓の南方約2km)等が衰亡型である。 衰微型の野町は第12表でもわかるように,もともと貧弱であった上,明治以後主要街道や鉄道 が通らなかったこと,付近に有力な地方都市が発達したことなどが衰亡の原因である。 第12表 旧 野 町 の 店 の 数 戸 蒲 戸 戸 空欄は不明.明治初期の数はアンケートまたはききとりによる. 明治15年のは,鹿児島県地誌(明治17年--鹿児島県編による) 吉田∼知覧の旧野町は衰亡型。    ※新城には豪商岩元家があった。 〇本表は旧野町のうち(明治初期-15年頃)商店数のわかったもののみを掲げた。 ○野町名内の( )は所在集落がわかるように註記した。

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鈴  木     公     〔研究紀要 第21巻〕  51 第13表 明治末期から大正期に町制を実施した町 年 (ロ)停滞型の野町 ある段階までは商店街が発達したが,小売商圏は自己町村に留まり,地方中心都市までには発 展せず発展が停滞している町である。昭和30年以後の農村人口の都市への転出は商圏内の購買力 を減退させ停滞型はますます顕著となっている。 表12のA型の町は旧野町時代から比較的商店の多い町で,大正時代は馬車の中継所があり,バ ス時代になると会社の営業所が置かれたり,飲食店や専門店ができて旧野町の他に新町や駅前町 が発達した町である。高山・末吉・菱刈など旧野町に本町の名を残している。これらの町はまだ 伝統を残し,若干の地方官庁があり,銀行や信用金庫の支店もあり,年末には商店の連合大売出 しを行なうなど商業の発展に努力しているが,鹿児島・都城・鹿屋・大口などの商圏拡大に伴っ て商業は停滞型となっている。表14は現在の市町内の商店数・年間販売額表で,旧野町そのもの の変容考察賛料としては不備であるが,発展型の市町と比較すると格差がある。 H 発展型の野町 表12 14に示した伊集院・宮之城・出水・大口・加世田・国分・鹿屋・西之表などがこの型で ある。いずれも郡内(または島内)あるいは郡外までを商圏とする地方都市にまで発達した野町 である。これらの町は藩政時代から大郷私領の麓に接続した野町をもっていたことと,明治以後 郡役所,その他郡内の行政機関が設置されたこと,さらに地方交通の中心地となったことなどが 発展の要因である 15表参照) 第2節 大正中期以後における麓の変容 第1節でのべたように旧麓所在地が村役場所在地となり,士族は地主的性格をもって麓に居住 していたので明治から大正中期まではほぼ旧態が持続されていた。ところが明治以後出生した旧 士族の子弟は中等・高等の教育をうけたものが多く,いなかに適職がなく漸次東京・大阪などの 大都市や台湾・朝鮮・満洲などの外地へ転出するものが多くなり,麓は老人の居住や貸家が目立 ち,家屋・門・輝などもあるものは老朽化し,あるものは改築され道路や石垣を残して集落景は

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第14表 市町別商店数,商品販売額〔昭和41年〕 串 次第に旧態を失っていった。 第15表 明治29年1市12郡が設定されて以来の 郡役所所在地と,野町・浦町の関係 川   内 伊集院 加世田 指   宿 ( 宮 ヶ 浜 ) 鹿児島 鹿 西之表   屋 岸   川 加治木 大   口 鹿児島 熊   毛 肝   属 四   囲 姶   良 伊   佐 出   水 薩   摩 日   置 川   辺 揖   宿 大島郡(名瀬)を除く 明治20年新しい郡境が決定し,郡政 の中心地が決定すると(表15参照)官 公庁を中心とした行政都市がそこに発 達した。郡政中心地として選ばれたと ころは藩政時代からの伝統的政治機能 をもち有力な士族が多数在住していた ことが第1条件で,野町や浦町の存在, 交通上の位置などが併せて考慮された ものである。行政的地方中心地は野町 や浦町の発展と相互依存で発達し,地方都市に発達したため在住士族は官公吏・医師・その他都 市的な職業につくものが多く,麓は住宅に転化していった。これに対し村役場だけをもっ麓は次 第に農村化していった。 第3章 戦後におけ る変容 第1節 戦災と台風禍 第2次世界大戦中までは軍人や政治家を多く出した旧鹿は依然として権威と風格が維持されて いた。ところが第2次大戦中県下118の市町村のうち100市町村が戦災をうけた。奄美諸島の戦災 を別として特に大きな被害を受けたのは鹿児島市を筆頭に第16表に示した都市で,これらの都市 *岩川に噸喋郡の郡役所がおかれたのは,郡の中央的位置のためである。

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当       当 コ コ . 書 J ・ 鈴  木 公 〔研究紀要 第21巻〕  53 の市街部は潰滅状態であった。 その上昭和20年には9月に枕崎 台風, 10月に阿久根台風が来襲, 24年にはデラ,ヂュデス,フェイ と三つの台風, 25年にはキジア, グレース, 26年はケイト,マージ についで10月14日に最大の被害を 与えたルース台風が来襲し薩摩半 島,鹿児市をはじめ東シナ海沿岸 区は再起不能かと思うほどの大被 害をうけた。表17は家屋被害のみ を掲げたが,戦災とたび重なる台 風禍で封建時代から引継がれて来 た麓を中心とする集落は急速に旧 態を失っていった。 昭和21年には鹿児島・川内・山 川・枕崎・串木野・阿久根・加治 木・垂水・西之表の9都市が戦災 都市として国費で災害復興が始ま り,道路の幅員から道路網までが 第16表 主要都市の戦災戸数 凡   例 ○ 麓から成長した 地方中心都市 ●一行政上合併した 旧麓の村 〇一旧麓の町村の 商圏関係を示す 0--仝吊か、依存 (軋島は省略) ●川内の市街は浦I"! ●指宿の市街は混束の 湧出する湊浦,摺ケ浜 ●串木野,枕崎は浦町 から発展 1.水引 2.中郷 3.東郷 4.平佐 5.1U田 6・百次 7.菱刈 8.湯之尾9.栗野10.帖佐11.吉田12.重富 13.佐志14.黒木15.大村16.蘭牟田17.山崎 第4図 麓集落の盛衰 戦災焼失 戸 数 戦災焼失戸 数 島 川  内 鹿  屋 山  川 枕  崎 串水野 阿久根 加治木 垂  水 西之表 2, 346 1,017 744 1,785 115 (鹿児島年鑑1949年) 第17表 戦後鹿児島県を襲った超大型台風 による家屋の被害 年次l 台風名 家 屋 被 害 住家全半壊流矧 非住家 同 戸 近代都市として設計され,鹿児島を始め地方都市までが薩藩特有な封建性を失ない,全国画一的 都市へ変って行った。 戦災を免れた大口・宮之城・志布志・岩川・大崎・串良・高山・川辺・加世田などの地方の小 都市はその後自動車交通の発達に伴って,市街地道路がせまく交通麻棒の状態となり,すべての 都市が道路の拡幅,またはバイパスを建設し,ここも戦前と異った市街地と変った。

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第2節 貴地改革と麓 鹿児島県史第5巻の農地改革の項4)では鹿児島県農地改革史(506-862貢)から次のような文 を抽出している。 『農地改革以前においては麓部落を中心とする封建的色彩の強い地主的土地所有者が随所にみら れ,それが農民を制圧し,また農民に寄生するための基盤を形成していた。』 『本県の地主的土地所有は一般に零細であったので, 3町歩程度以上も貸付地を持っているほど の地主になると,その居住する農村地方では大地主的権力を保持することができた。』 『地主群を系譜別にみると給体的には平民出身の中小地主が多かったが,しかし士族出身のもの には大地主があり,これが地主勢力となっていた。このことについては本県の地主層の中に占 める士族地主は,数の上でも支配する農民数の上でも恐らく他府県に類例のない比重を示して いた--』 第18表 農地改革で農地を買収された地主と 農地解放に関係のなかった地主 鹿児島県史 第5巻(1967年) p.463 第19表 農地改革で農地を買収された地主の 買収面積別戸数とその割合 農地を買収された面積 】戸  数J 割 合o/a 計      I  68, 585 鹿児島県史 第5巻(1967年) p.463 以上は農地改革前の農地所有関係を 知る資料として引用したのであるが, 昭和20年12月公布の第1次農地改革の 改正農地調整法,同21年10月公布の第 2次改革案(自作農創設特別措置法・ 農地調整改正法)が施行され,不在地 主の貸付地全部と,在村地主の保有限 皮(貸付地主は1haまで貸付地と自作 地の合計3haまで)以上の土地は買収 されることとなり,地主の抵抗や農民 の陳情などいろいろ波乱があったが, 昭和24年にほぼ農地改革による買収は 終了した。 麓集落の中核であった旧高級士族の 多くは地主であったため戦後の農地改 革によって保有限度3haを超える土 地を失ない, (小作としての貸付地は 1ha以内)経済力が低下し従来のよう な農村での恵まれた生活ができなくなり,家や屋敷を貸したり転売して,東京や鹿児島などの都 市への転出が続出し,昭和30年ごろには麓は急速に荒廃した。また戦災や台風禍を免れた麓の居 宅も老朽がはなはだしく,ほとんどが改築され,生垣を残して中の住宅は近代建築に変わり,各 (4 鹿児島県(1947)鹿児島県史 第5巻 p.462

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鈴  木     公     〔研究紀要 第21巻〕  55 けどういん 麓を歩いても旧い家や門は見当らなくなったり,わずかに残存する程度で,大口市の祁答院家の ように住宅が鹿児島県重要建造物に指定されるようになった。 第3節 町村合併促進法と麓 その3は昭和28年(1953の町村合併促進法の実施である。鹿児島県では適性な町村人口規模を 1-1.2万人として合併を促進した。その法と関連する県条例は合併促進のため市制の条件も緩や かであったので28年から42年にかけて表21のように多数の町村合併が行なわれ,市制の実施がみ られた。その結果は明治維新当時すでに軍防的機能を失っていた麓は,わずかに小地域の政治・ 文教的中心地として伝統を維持して来たのであるが,弱小の村(麓)は付近のより強大な町や市 に合併され,行政・文教等の機能をも失うに至った。前述のように麓集落が都市の戦災,台風禍, 農地法の改正,家屋の老朽化等の原因で変容した上に行政的機能をも一部の麓は失い,いよいよ 荒廃した。 町村合併によって周辺の町村を合併した中心都市も,合併による官公庁の位置の不合理,老朽 化,敷地や官公庁の狭隆など各種の条件が重なって,市役所や役場を旧麓から全く離れた別の地 点に移転したものが多い。 (第21表に示した通り41の役場または市役所が麓集落からなくなった。 その率は約40%)市役所や役場の移転は他の行政官公庁の移転にもつながり,明治維新につぐ麓 の変容となった。すなわち麓集落はもはや各都市の中では行政的にも経済的にも核心的要素を失 い,都市や都市の周辺部では住宅区,文教区等の役割を果している。 (表20参照) 戦後麓にあった市役所または役場が麓以外へ移ったおも な都市(町)は,大口・出水・阿久根・加世田・枕崎・指 宿・国分・垂水の各市と志布志・伊集院・姶良・隼人・金 峰・川辺・頴娃の各町である。 第4節 士族階級の喪失と麓 封建性の強かった薩摩においても民主憲法の制度によっ て旧士族というプライドが喪失した。集落の中に麓と在 (百姓居住区)捕(漁猟者居住区) ・野町,浦町等が厳然と 区別されていたが,階級性の崩壊と経済力の移動は旧態を 第20表 旧麓仮屋跡の転用の変遷 転用の分野Wit; 3腎IFB和41年 行政関係内訳 昭和41年 町村役場 5% 同 支所 3 そ の他 6 (アンケートによる筆者調査) 維持することができなくなり,麓在住の旧士族も農村部ではすでに農家となり,都市に入った麓 では住宅その他の市街地となり,居住者も世襲の旧士族を除いて代っている。 第5節 麓の現状 昭和42年の現在では麓の旧態を具体的に見ることはもはや不可能であるが,旧馬場の跡や士族 屋敷の石垣・生垣・庭・路地などは各麓に,旧家や門,据などは所々で1-2戸,時に10数戸を 見ることができる。 現在の概況は上述の通りであるが麓の残象の多少から集落を分けると第22表のようになる。

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第21表 昭和28-42年町村合併と 市役所・役場の位置 ○印-市役所・役場所在地 ×印-旧麓で役場のなくなった地 △印・-市役所・役場の位置が大きく変った地 第6節 野町・浦町の現状 近代都市の発達に伴って野町・浦町の盛衰を見ると大体次の四つの型に分けることができる。 A型,野町・浦町がその都市の中心商店街となって発展したもの,この場合昔からの本町(本

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鈴  木    公     〔研究紀要 第21巻〕 57 第22衰 残層からみた麓の分類 階層J 残 象 麓      名 旧態が比較的 残っている 一部ではある が旧態が残っ ている 出水・大口・知覧・蒲生・野田・樋脇 重富・鹿屋・串良・川辺・高尾野・吾平・谷山・喜入・高 山・里・永富・阿久根・伊作・志布志・鹿寵・高城・山崎 ・入来・本城・国分・伊集院・田代 麓の雰囲気が 感じられる 残りすべての麓集落 通り)が現在も本町(繁華街)的性格をもっている。 B型,野町や浦町が現在なおその町の中心街をなしているが, A型に比べて商圏が小さく,発 展が停滞し,現在は活気がない。 C型,近くに他の要因(温泉町,観光集落等)で商業集落ができたり,交通の変遷(鉄道の駅 ができたり新道ができる等)で旧野町や浦町は停滞または衰微しつつあるもの。 D型,都市化が行なわれないで衰微または衰亡したもの。 以上のおもな例を表示したのが表23である。 第23表 野町・浦町の盛衰分析表 山川・頴娃・東郷・山野・重富・財部・敷根・花岡(古江)・吾平・佐 多・内之浦・根占・柏原・手打 入 来一副田温泉    樋 脇一市比野温泉

宮ヶ浜-宿温泉 市-[雷雲芸霊泉

吉松・隼人・帖佐・菱刈・志布志・横川・加世田・ 伊作・高山 チ 中心街が駅前の 方へ移る 市来・阿久根・国分一国道または県道筋へ中心街が移る。 大崎・蒲生・牧園・串良一麓(役場,農協等の所在地)の方へ中心街 が移る。 衰微1冨宝 器●恒吉.黒木.鶴田.高城.大村. 衰 亡 吉田・帖佐(十日町) ・水引(五代) ・新城(大都) ・羽月・曽 木・湯之尾(舟津田) ・知覧

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野町や浦町は麓とちがって商業地区であるため,都市化が進めば家屋は改築される率が高く, 今日では明治時代はもちろん大正時代の建築すらあまり残っていない。その中にあって大隅の高 山の野町が前述(第1報写真2参照)したようにほぼ旧態で残存していることは貴重な存在であ る。 第4章 鹿児島県における都市の特色 第1節 都市成長のよりどころ 鹿児島県の都市が藩政時代の麓・野町・浦町の中から成長して釆たことは前章までに述べたこ とで明らかであるが,藩政時代の都市と現在の都市との関係をまとめてみると第5図ならびに24 表のようになる。 鹿児島を100とする 5 現代の指数 ∩           = 5     10 _一一一一● 藩政時代の指数 15     20     25     30 第5図 藩政時代対現代の都市度指数 第5図と表24でわかることは(名瀬を除く)昔も今も鹿児島が他の都市とかけはなれて大きい ことである。藩政時代では私領の准城下町(西之表・宮之城・加治木・垂水等)や,藩境の大き な麓(出水・大口・志布志等)も鹿児島市と比較すれば都市度指数は30%以下であり,現代では さらに較差が開き15%以下なっている。 地方都市で藩政時代に比べて現代へ大きく上昇したのは鹿屋・枕崎・指宿・山川の4都市にす ぎない。しかもそれらの都市の現代の都市度指数は低く依然地方の小都市にすぎない。上記都市 の発展要因を見ると,枕崎と山川は遠洋漁業の基地ならびに水産関係の中小工業の発達,鹿屋は

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鈴  木     公     〔研究紀要 第21巻〕  59 〔備考〕         現代の都市構造の要素分析と指数の算定紘 指   標   要   項     l      算    定    法 従業者4人以上の工場数 同100人以上の工場数 工業従業者数 工業出荷額 50工場毎に1点 1工場毎に1点 2,000人毎に1点 5億円毎に1点 卸売商店数 卸小売年間販売高 昭和35年末大売出し売上高 年末大売出しの商圏 銀行信用金庫店数 百貨店(翠)数 10店毎に1点 1億円毎に1点 1億円毎に1点 1市町村毎に1点 本店及び中央銀行の支店は1店3点 支店は1点 百貨店1店30点 準10点 汽車定期券 通勤通学者(受入)数 普通乗車券(鉄道)行先1位駅数 国鉄乗降客数(年間) 国鉄貨物発着屯数 バス路線数 バス営業所数 自動車台数 入港船舶屯数 商船 同    漁船 乗降船客数 電話加入者数 100人1点 1駅1点(例 鹿児島行を第1位とする駅は県 内で21駅ある 21点) 10万人l点一市街地で2駅あるものはその計 1万屯1点 1線1点 1か所1点 100台1点 10万屯1点 10万屯1点 1万人1点 1,000台1点 文 化 ・ 観 光 関 係 官公庁数 高校生徒数 テレビ普及率 新聞社放送局その他全県的文化施設,吹 画館数 源 栄 光 観 飲食店数 本庁10点,支庁,地方事務所等5点 その他1庁1点 出張所指導所0,5点 100人1点 100分率 実数 1個所1点 国立,国定公園中心地10点 県立公園,温泉地   5 キャンプ,海水浴場等 1 10店1点 集計と整理 ① W30の各 エート た ⑧⑧ ○ 杏 各項毎 占に 指数の合ぬ藩 も政 lH i 1 i .lHu1日日日 の も る あ を 項 う も 除 2 8 よをでれ い 値 3 0 ぞ な高をれ め最計そ 店1点,あるものは1億円1点等としたのは, 1つの項が極端に大きなウ にしたためである。 つものを100とし,各都市のもつ数をそれに比例させた。但し2,3,27を除く。 したものをその都市の指数として階層決定の数値とした。但し港湾や国鉄駅をもサ ○ノ 時代の都市皮指数の 1.郷の石高 2.士族及 大中小 5.交通(宿駅) ※ 鈴木公(1962)鹿児島県 した は口野 標 人 6 ・ 指卒 城下鹿明浦3 . ● 町 1 0 の 無 を年有 島3の 児 治 町 0とした。常 0 析 分 の 布 分 と 層 階 市 都 の 備隊数(小隊及予備隊) 4.私儀は格式直轄地は郷の 7.定期市回数 人文地理14巻3号より(文献の一部修正) (P.29)

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第24表 藩政末期対現代の都市度指数と順位 都 市 名 藩 政 末 期 都市度指数1順位 現代(昭和35年) 都市度指数†順位 島 屋 内 瀬 崎 宿 田 水 表 根 口 志 城 川 野 木 水 仙 分 児        世  之久  布之  木治 鹿 鹿 川 名 枕 指 加 出 西 阿 大 志 宮 山 串 加 重 俗 国 C O O O r f ' O O O C O C O C O i n C O C D O C O C O ●             ●             ●             ●             ●             ●             ●             ●             ●             ●             ●             ●             ●             ●             ● CO N N N ^ -h -h W m ^ CO CO O cO CO -H (N ^ rH (N ^ tO N ^ iN co iN ^ N - Co in io co o ai 1 1 1 1 1 1 1 藩政末期の特徴 その他 92. 0    1

O O) CO CO ^ CO in ^ (N N iC iO (N (N OO ^ (N N

● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● i O   ^   ( N O )   f f )   C O C O C O C O N N N N   ( 」 )   i O i n   ^   c O 1 1 1

CO ^ iO tO N OO O O ^ IN CO ^ iO CO N CO ff1

1     1     1     1     1     1     1     1     1     1 ○   △       ○   ○   △   △   △ △   △       ○       △   △   △   △ 72万石の大城下町 港,野町,定期市 対向浦町 (奉行所・代官所所在地) 私領の浦町 豪商居住地,温泉(湯治場) 麓,野町 藩境の大きな麓,野町 私領(准城下町---野町) 餐,浦町(豪商居住) 藩境の大きな麓,野町 同 上   ,浦町 私領,野町 港,浦町 浦町 私領(准城下町)浦町 同 上 餐,浦町 同 上 1・表中の ○印 順位上昇    △印 順位下降 2・採択した19都市は昭和40年現在市制実施の15市と国勢調査報告書(1966年刊総理府統計局)の人 口集中地区指定の4カ町である。 3・都市度指数の指標並びに算出法は第20図に記載したものに同じである。 4・鹿児島の現代指数92は,漁船の入港屯数が低いためである。 5・昭和42年4月谷山市は鹿児島市に合併編入された。 大隅地方の官公庁の集中と海上,航空自衛隊(戦前は海軍航空隊)の基地,指宿は温泉を要因と した観光地で大都への発展要素はあまり見られない。 昭和35年と40年の国勢調査人口を比較しても鹿児島と名瀬市を除いた各都市は人口減で,人口 集中区(市街地区)の人口率も低い。 (第25表参照) H 中心都市鹿児島 鹿児島県は薩藩領の大部分が鹿児島県となり,その城下町(表26参照)が県政の中心地となっ て城下町以外の地方都市と大きな較差を作ったものである。第27表は鹿児市の人口や都市的要素 を占める若干の項目について鹿児島県全体に占める割合を見たのであるが,人口が38万6千(19 67年)で県人口の20%余を占め,県内の2位の鹿屋市, 3位の川内市と大きく開いているばかり でなく,各項目とも断然他の都市とかけ離れている。その理由は前述のように藩政時代,鹿児島 以外に城下町が無かったほか日本の南端で,他藩の人の通行もなく宿場町も発達せず,大きな港 町も鹿児島以外には発達しなかった。

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-ヽ 鈴  木     公     〔研究紀要 第21巻〕 61 第25表 鹿児島県主要都市の人口比較昭和35年 対40年並びに人口集中区

都市名35臥。隣人。l増減朗笑告鮎箆墓

鹿児島 川  内 鹿  屋 枕  崎 串木野 阿久根 名  瀬 出  水 大  口 指  宿 加世田 国  分 谷  山 西之表 垂  水 山  川 宮之城 加治木 志布志 3   1   3 i o c n o ^   i -  c o o o >   r ^ .   m c t >   ^ C O C O t N C O   ^   C O t N   -H C N   ^   t N in n m co ^ co ^ △   △   △   △       △   △ -H CO *-H (N △   △   △   △ 千人 253 15 18 15 16 5 35 5 5 8 一1 4一coiONO) 86. 1 22. 3 25.3 48. 3 50. 0 14.2 81.4 ll.9 14.3 25.0 C O O 0 0 L O ● ● ● ● t o o c r >   r ^ CO CM CO CO % -4の市は総理府統計になし 谷山市は昭和42年鹿児島市に合併 *川内市は昭和40年4月高城町(人口10千人)を合併 第26表 明治19年の日本 の都市の人口 都市名1人口座位 古 敬 鹿児市は九州第1位の都 市人口 青野寿郎責任編集 桝田一二著 村落と都市1950年 明治以後の鹿児島はさらに九州山脈以南の南九州という新しい政治圏,経済圏を作りその中心 都市となり,ますます発展した。鹿児島市にある南九州的政治経済機関の例を挙げてみると,鹿 児島地方貯金局・国鉄鹿児島管理局・日本専売公社鹿児島地方局・日本銀行鹿児島支店・山形屋 百貨店(支店を宮崎市に出)等があり,鹿児島銀行は支店を宮崎県内に10カ所出しているが,日 向銀行は鹿児島県に支店を3カ所出しているに過ぎない等である。 鹿児島県には宮崎県の延岡・熊本県の水俣・八代のような近代的大工場の進出がないばかりで なく,日本の経済振興計画は鹿児島市を南九州における中核拠点都市とし,鹿児島・谷山臨海工 業地帯の造成も急速に進み,鹿児島市は昭和42年4月には谷山市を合併している。また昭和30年 ごろからの全国的観光ブームで国立公園霧島屋久の霧島や指宿が急速に観光地として発展してき たが,桜島と鹿児島市は鹿児島県下の観光拠点として観光客数も27表のように全県下の42%を占 めている。観光客数ののぴは,表28の通りである。 第6図は筆者が昭和35年に鹿児島県内の年末大売出しの買物圏をアンケートによって調べて作

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第27表 鹿児島市の人口・交通・観光客・文化等が鹿児島県 全体に占める割合(付川内市・鹿屋市) l人口!商 業  f 工 業 f  交通通信 港  国鉄 項       目 公   務   員 総   人   口 貨物到着屯数 貨物発送屯数 輸移入貨物屯数 輪移出貨物屯数 小売年間販売額 卸売年間販売額 出   荷   額 従業員数 工   場   数 電話機台数 登録自動車台数 降   船   客 乗   船   客 降   客 乗   客 四 五 ・ 五 二 七 ・ 一 四 七 ・ 七 二 九 ・ 九 六 三 ・ 一 七 七 ・ 一 二 四 ・ 二 二 〇 ・ 五 比 率 % 三 〇 ・ 八 二 六 ・ 二 一 九 ・ 三        八 一 八 四 四 五 ・ 二 二 八 ・ 〇 川内市 鹿屋市 工業生産出荷額 小売年間販売額 人口総数 人口総数 小売年間販売額 工業生産出荷額 第28表 鹿児島県主要観光地の県外より の観光客数 観 光 客 昭和42年 観光地 鹿児島・桜島 指    宿 霧    島 404 統計はテレビ 放送局(3杜) 以外は昭和41 年度 鹿児島県統計 年鑑より算出 図したもので,鹿児島市へ は50 (県内の1/2)の市町 村から買物に来ている。人 口の推移は第7図参照。 (コ 地方都市の特色 表24にも示した通り奄美 地区を除くすべての都市が 旧麓集落と密接な関係をも っていることが第1の特徴 である。ただし麓集落その ものは町村合併や都市発展 のため市町村行政の中核地 から住宅・文教(小中学校 )区となり,都市の周辺地 に変質している。数字的に みても表20に示した通り旧 仮屋跡の転用が明治維新期 には行政関係32%,教育関 係  が昭和41年には行政 関係14%,教育関係46%と行政関係が激減しているこ とがわかる。 都市の盛衰を見ると地方都市は発展のテンポが甚だ 万人 遅い。 (図7参照)地方都市の市制は川内市の昭和15 116  年,鹿屋市が昭和16年,その他はすべて戦後,しかも 92 (鹿児島県観光課調べ) 昭和28年の町村合併促進法の実施以後が指宿・出水・ 大口・加世田・国分・西之表・垂水・谷山の8市で県 内市制都市の過半に及び,谷山市の鹿児島市合併を除けば昭和30年以降は市内人口が減少してい る。 鹿屋・川内は県下で人口は2・3位の都市であるが,最近10年間の人口は6-7万の停滞状態 である。両市はどちらも大きな鹿ではなく大隅または北薩の中央的位置にあり,交通政治経済の 中心地となったほか,鹿屋は軍都,川内は中越パルプ工場という要素が加わってここまで発展し たのである。 枕崎・山川・阿久根・串木野は麓という条件より漁港として発達したのであるが商業的都心部 は旧浦町である。

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鈴  木     公     〔研究紀要 第21巻〕  63 指宿は旧麓の所在地の宮 ヶ浜は衰微したが,豊かな 温泉を利用して観光都市と しての発展がいちじるしく, 県内では異質な温泉都市と なっている。 その他の都市は郡内ある いはそれ以下の地域を後背 地とした政治経済の中心都 市で農漁村の過疎に伴って 現状からは大きな発展は期 待できない。 以上述べたように鹿児島 県の地方都市は発展のテン ポが遅いことと小都市であ ることが第2の特色である。 第3の特色は鉄工業地帯 や巨大都市の周辺のような 都市群がなく,都市の分布 が鹿児島軒を中心に県内に 散在していることである。 主要な麓が軍防上・行政上 鹿児島を中心に計画的に設 本漬 し ノ 八代 警 80 10 7 5 3 2 1千 万円 以 上 ○ ′7 - 、 、 ♂ 都 市 鹿 川 児 内 大口 ● 都 城 臥 .I '7 I/'i 、、 、 力ロ 世 辛 木 舵 崎 ● 蓑圭 棉 伊 串 川 表 号 誓 ● 垂 伊 加 水 作 :ム / ′ b \ 水俣 名 義 勺 ′ 島 鹿 屋 田 ● 出 水 ● 士 節 ●■ 宮 之 城 / 、肇 出水 大 ● 脂 宿 ● 阿 A 棉 ● 高 山 ′ロ ● ● 木 大 湯 ● 根 之 財 占 元 芸 重 量 ● 知 岩 覧 川 阿久根 ′′ tI 、 、 誓 一一一一一∼)題 妄 串木野 、、さ ) 湯之 元 、 .、逮 一-A I'□ 照 ′、、、■ J 、 、 、 、 一′I/ A l′し、 志 那 城 、 ● 国 令 ● 大 崎 喝 !l I 句 ■ー ∫ ′′ 加世田 7 、 , 大 島 瀬 、 7/、 志 布 志 一 ∫ 一 I I ∫ ● 西之表 // -一一 ′′ト 種子 種 千 島 南 檀 チ 漢 久 磨 児 島 安 徳 之 島 Q 棚 内 覧 竺 ≡ 屋 島 喜 罪 島 E L 沖 永 良 部 島 末節 泊 主たる買物の都市 副となる買物の都市 買物が自校所在地の市街(都市)は 示さない。 (例鹿児島市内の小学校) 人文地理14巻3号p.24 (筆者論文より) 第6図 年末大売出しの男物圏と各都市の売上高(昭和35年末調査) 置され,それが近代都市へ移行し,地方の政治・商業・交通の中心地となって発達した都市が多 いからである。 図8を見てもわかるように鹿児島市を中心とした半径20-30km圏,さらに50km圏外に主 要都市が散在していることは,地方都市それぞれに若干の特色はあるが,小地域の通勤通学,買 物(政治・文教・経済)の中心地であることを物語っている。 藩政時代には20km圏以内にも,谷山・伊集院・重富・加治木・垂水など主要な麓があった が,鹿児市の都市の拡大発展に伴い漸次鹿児島市の郊外となり,近年は住宅,大学,中小工場の 建設が目立ち,谷山は市街地が鹿児市と接続し昭和42年に合併された。

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40

38

二壬 三

36 人 口 は国 勢 調 査 人 口 ′′′ 34 霊 芝 43m 語 諾 号 諾 諾 舘 岩 ノ 32 枕崎 ●加治木は合併のない都市 r ′ ニうり ′ ′ 28 26 ′′ ◆鹿 児 島 市 1 ∫ ∫ 2 4 2 2 2 () 1 8 16 1 4 /: t\ ////露 〔賃 農 芸‡ ′ ll ′ 昭 和 2 5 年 - 、一 一 l ′ ■ 日 、 ′ 、 ′ 醐 9 年 基 ∫ \ <ォ 火 1 2 ++I-一石}rJ 隈 1 0 8 6 4 9 村 ノゝ U 併 鹿 屋 市 ア 'S Jt-* 一 一一◆ ノ ー一一一一 捌 坤 ▲ ▲■一 I (リ ▼ ▼ ▼ ▼ 加 治 本 町 人 リ 往ほ 9 14 雛 10 15 2 0 2 5 3 0 3 5 4 0 4 3 次 第7図 鹿児市と地方都市の人口推移の比較 結 鹿児市を中心として,同心円と放射状の組合 わせによる距離性に基づいて均等に分布して いる。 第8図 鹿児島県本土のおもな都市の分布 請 昭和6年(1931)太田喜久雄が「地球」 15巻5-6号に「薩藩領麓の研究」を発表して以来麓の地 理学的研究については数氏の研究があったが,明治維新以後の変容についての研究はなかった。 本研究は第1報では従来の研究の不備を補い,第2報で明治以後の変容の過程と原因の追求を 行なったが,筆者が明らかにした点を要約すると次のようである。 1.近世薩藩の麓は中世の「根子屋」 「山下」等の継承そのままではなく, 1600-1750年にわ と たって藩の外城(支城)として軍防上,また地方行政の中心地として,旧麓を整備拡充したり, 移転・新設されたものである。 2.従来麓の分布や機能が軍防中心に考察されていたが,近世後半は戦乱もなく,接続する野 町や浦町と結んで軍防よりも政治・経済・交通等の機能が高まり,市来や阿久根のように軍防か ら離れて交通経済の要地に移った麓もある。このように年とともに麓の機能も変っていった。 3. 「半士半農の実態」一般に郷士は半士半農であったと論述されている。知行高20-5石の

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鈴  木     公     〔研究紀要 第21巻〕 65 中級郷士・ -カ所士や無屋敷士のような下級郷士は私有地を小作したいわゆる半士半農であった すき が,一部の郷士は大工・石工・染物・紙漉・鍛冶などの作職に従事した半士半職(工)のものも いた。特に鍛冶,紙漉等は立地条件とも関連して特定地域に多くの従事者を生み,蒲生の紙,加 世田の鍛冶のような家内工業の盛んな集落さえ作った。 下級郷士も厳然たる武士で,庶民と通婚せず,麓では特殊な屋敷群を作っていて,北海道の屯 田兵とは異質である。 かど 高級郷士は行政上の役職につき,門の百姓を支配し,私有地も門の百姓の賦役による労働力や 住み込みの下男・下女に耕作させ,または小作に出して自ら耕作することのない富裕な地主であ ったことも事例によって明らかにした, 4.麓集落の形態は従来道路形だけの分類に終っていたが,野町・浦町の存否,麓の大小から も分類し,麓と町を一つの都市的集落として考察した。道路形では都市計画の行なわれた麓では 格子状のほか鍵状型や,格子と鍵形の複合型のあることを明らかにした。 5.従来地理学的に研究されていなかった野町や浦町について研究した。野町は藩法上の制限 で一般城下町における町人町のような繁盛さはなく貧弱であったが,町という地名が店の1軒も ない農村の小集落や部落の端に数多く残存しているのは注目に価する。浦町は野町と違って,坐 活必需物資の製造販売,サービス業などのほか回漕店等があり,豪商が居住した所もあった。野 こうやま 町は大隅の高山に原形に近い残象があり事例として取上げたが,野町の商人は多くは半商半農で あった。 6. 「藩法で許された定期市」貧弱な疲弊した野町,浦町を救済する意味で,鹿屋他7カ所の 野町や浦町には藩法で許された定期市が月3-6回立ち近代商業都市発展の一要素となった。 7.第2報の明治維新以後の変容は従来の論文は全くなく,筆者は明治時代,大正∼戦前,戟 後の3期に分け,各期の変容の実態とその原因を次のように明らかにした。 (a)明治時代  郷士の多くは土地と結んで地主となり,また支配的地位の職業について麓は 行政・文教・士族居住地として旧態が維持された。 道路の開さく,港湾の築港,鉄道の開通などの交通の発達は明治中一末期から始まり,浦町や 野町は職業・住居・婚姻の自由などにより,都市圏は小さかったが,藩政時代より発展したこと を歴史的資料のほか,明治推新後の仮屋跡の転用調査,士族戸数,商店戸数などによって明らか にした。 (b)大正∼戦前  交通の発達により行政,経済,文教圏が拡大され,若干の麓は地方中心都 市に発展し,周辺の弱小麓がそれに伴って衰微傾向をたどり,農村化した。大型船の出現,築港, 鉄道,道路等交通の整備に伴って野町や浦町も大きく変化した。 衰微型の浦町としては市来。唐仁原∼小松原・福山・柏原∼披見の4大浦町の実態を,発展型 には大型漁港と,地方政経中心都市,谷山(中心街の松崎は浦町)のような鹿児島市の郊外都市 をとり上げ,その個性と共通性を明らかにした。

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(C)戦後  戦災,麓や野町・浦町の家屋の老朽,台風禍,農地法の改革,町村合併,新憲法 による士族階級の喪失,さらに昭和30年ごろからの人口の都市集中等が重なって麓の旧態は形態 上からも内容上からも急速に変容した。野町や浦町の変化も都市的発展型のAから衰亡型のDま で四つの型に分類した。 8.最後に鹿児島県の地方都市の特色を麓や野町・浦町との関係から明らかにしたが. (1)鹿 児島県の地方都市は藩政時代の麓・野町・浦町の中から成長したこと (2)城下町鹿児島と野町 や浦町の差が大きかったため,今日も鹿児島市と地方都市の格差が大きいこと (3)県下に新し い鉱工業が発達しなかったため旧来の麓や野町・浦町の残象が今なお県下各地に見られること。 (4)都市の分布に都市群がないことなどである。 ×  ×  ×  × 以上であるが,本研究に当たり全県下の麓・野町・浦町の実態調査の結果, 5万分1地図上に その区域,仮屋跡を明示した地図を資料として作製したが,印刷の都合上ここに掲載できなかっ たことをお断りする。 (原図は鹿大教育学部地理教室に所蔵) 本研究に当たり長期にわたり御指導いただいた立正大学教授青野寿郎先生,ならびに調査や資 料提供に御協力いただいた150余名のかたがたに心から謝意を表します(1969年4月。)

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