明治壬辰
王治本の陸中・陸奥における詩文交流
柴
田
清
継
はじめに 筆 者 は こ こ 数 年、 清 国 文 人、 王 治 本( 号 漆( ) 園。 一 八 三 五 ~ 一 九 〇 八 ) の 日 本 各 地 に お け る 文 藝 交 流 の 跡 を 追 っ て い る と こ ろ で あ る が、 今 回 は 明 治 二 十 五 年( 以 下、 誤 解 を 招 く 恐 れ の な い 場 合 は 「 明 治 」 を 省 略 す る ) の 年 の 瀬 か ら 翌 二 十 六 年 の 初 め に か け て の 間 の 陸 中 と 陸 奥 に お け る 彼 の 足 跡 を た ど っ て み る こ と に し た い。 彼 は 二 十 五 年 の 八 月 下 旬 以 降 の 数 ヶ 月、 秋 田 県 内 を 巡 り 1 、二 十 六 年 の 一 月 末 以 降 は ほ ぼ 半 年 間 に わ た り 仙 台 を 本 拠 地 と し て 陸 前・ 羽 前・ 陸 中 南 部 を 巡 る 2 が、 本 稿 は ち ょ う ど そ の 間 に 挟 ま る 一 ヶ 月 ほ ど の 足 跡 に つ い て 述 べ る も の と な る。 な お、 題 目 は、 王 治 本 の 陸 中・ 陸 奥 で の 滞 在 期 間 が 旧 暦 な ら 壬 辰 の 範 囲 に 収 ま る こ と に 鑑 み て 付 け た。 「 明 治 二 十 五 年 か ら 二 十 六 年 に か け て の 」 云 々 と い っ た 冗 長 さ を 避 けただけで、他意はない。 一、陸中盛岡で 二 十 五 年 の 十 二 月 二 十 五 日 以 前 に 盛 岡 に 着 い た 王 治 本 が 山 崎 鯢 山( 一 八 二 二 ~ 一 八 九 六 ) を は じ め と す る 地 元 の 文 人 た ち と 交 流 す る 予 定 だ と い う こ と を 報 じ る『 巖 手 公 報 』 の 記 事 を、 前 稿 で 紹 介 し た 3 が 、 そ の 鯢 山 と 王 治 本 と が 唱 和 し た 作 品 が あ る の で 、 紹 介 し た い 。 そ れ ら は 二 十 六 年 に 刊 行 さ れ た『 岩 手 県 学 事 彙 報 』 第 二 九 六 号 4 に「 左 に 挙 け た る 四 律 ハ 客 冬 清 人 王 治 本 遊 盛 中 山 崎 鯨 山 翁 と 王 氏 と 賽 ママ 和 す る 所 な り と 云 ふ 」 と し て 録 さ れ て い る。 「 客 冬 」 と あ る か ら、 二十五年末までに唱和されたものということになろう。 歩王治本見寄韻 山崎鯨山 一白何辺着点埃 一に白し 何れの辺にか 点埃着かん 漁簷樵戸亦瑤臺 漁簷 樵戸も 亦瑤臺 撲車飛雪沙々散 車を撲つ飛雪 沙々として散じ 突吻奇詩滾々来 吻を突く奇詩 滾々として来る 勝地多経嶮路達 勝地は多く嶮路を経て達し 心茅儘遇快人開 心茅は快人に遇いて開かしむべし 想君繫沢山中苦 想う 君 繫沢山中の苦 寒逼征裘氷満腮 寒 征裘に逼り 氷 腮に満ちしならん茅屋三間断俗埃 茅屋三間 俗埃断つ 不言避債苦無臺 債を避くとは言わず 臺無きに苦しむ 吠尨常逐凡僧去 吠 尨 〔 吠 え る 犬 〕 は 常 に 凡 僧 を 逐 い て 去 ら し め 喜雀能迎珍客来 喜雀は能く珍客を迎えて来らしむ 紙欲乞書舒又巻 紙は書を乞いて舒べ又巻かんと欲し 窓因観雪閉還開 窓は雪を観るに因りて閉じ還た開く 謝吾未解中華語 謝す 吾 未だ中華の語を解せず 語々煩君頻動腮 語 々 君 を 煩 わ し て 頻 り に 腮 を 動 か さ し む る を この作品に対して王治本の「深情如掲、 雅韻欲流、 令人一読三歎」 との評があり、その後に彼の次の作品が掲載されている。 鯨 山 先 生 寄 示 詩 吟、 一 読 欣 然 率 賦 二 詩 録 請 粲 政 漆 園 王治本 吟懐瀟洒脱塵埃 吟懐 瀟洒 塵埃脱す 緬想風流似玉臺 緬 想 〔 は る か に 思 い や る 〕 す 風 流 玉 臺 に 似 た る を 嗟我縈愁抛巻坐 嗟 く 我 愁 い 縈 わ り 巻 を 抛 ち て 坐 せ る を 期君得意抱琴来 期す 君 意を得ば 琴を抱きて来れ 悄聴更漏声々永 悄として聴く 更漏の 声々永きを 寄到詩筒快々開 寄せ到す 詩筒 快 と く 々 と く開け 酌酒消寒情亦好 酒を酌みて寒を消せば 情亦好し 老顔一酔露紅腮 老顔 一酔 紅腮露る 滌筆裁箋払硯埃 筆を滌い 箋を裁ちて 硯埃を払い 覊愁鬱々独登臺 覊愁 鬱々として 独り臺に登る 新豊命酒無人識 新豊 酒を命ずるも 人の識る無く 寒夜煎茶待客来 寒夜 茶を煎て 客の来るを待つ 老去更憐遊跡遠 老い去りて 更に憐れむ 遊跡の遠きを 詩成差覚咲顔開 詩成りて 差 やや 覚ゆ 咲顔の開くを 撥残榾柮爐辺坐 榾 柮 〔 木 の 切 れ 端 〕 を 撥 かきた て 残 ざん し て 爐 辺 に 坐 せ ば 煖気薫蒸上頰腮 煖気 薫蒸して 頰腮に上る 両 者 の 詩 題 か ら、 二 人 は 直 接 面 会 し て 唱 和 し た の で は な く、 郵 便 か何かで作品を送り合ったことが知られる。また、 鯨山の作品は 「清 人王治本来訪、 見似繫沢道中詩二首、 次其韻」という題で、 彼の『鯢 山 遺 稿 』 乙 集 に も 載 っ て い る。 二 首 の 順 序 が 逆 で、 若 干 の 字 句 の 異 同もある 5 が、 そちらでは 「寒逼征裘冰満腮」 句の後に 「結句用全句」 と の 自 注 が あ る。 こ の 結 句 は 王 治 本 が 盛 岡 到 着 後、 巖 手 公 報 社 に 寄 せ た 二 首 の 一 つ で あ る「 昌〔 冒 〕 雪 川 尻 道 中 口 占 」 詩 6 と 共 通 の も の で、 こ の 詩 が 王 治 本 か ら 鯨 山 に 送 ら れ た こ と を き っ か け と す る 唱 和 で あ っ た こ と が 分 か る。 繫 沢 は 今 の 岩 手 県 八 幡 平 市 繫 つなぎさわ 沢 、 和 賀 郡 西和賀町小繫沢一帯の地を指し、 「川尻」と同一地域である。 鯨 山 作 の 第 一 首 第 六 句 の「 心 茅 」 は 見 慣 れ ぬ 語 だ が、 『 孟 子 』 尽 心 下 の「 茅 塞 子 之 心 」 を 踏 ま え、 ふ さ が っ た 心 を 言 う も の か と 思 わ れ る。 ま た、 第 二 首 第 二 句 は 周 の 赧 王 が 債 務 を 逃 れ る た め に 建 て て 避 難 し た と い う「 逃 債 臺 」 の 故 事 7 を も じ り、 債 務 が あ る わ け で は な い も の の、 住 ま い は 手 狭 で 生 活 が 貧 し い と い う こ と を 言 う も の で あ ろ う。 一 方、 王 の 第 一 首 第 二 句 は 蘇 軾 の「 金 門 寺 中 見 李 留 臺 与 二 銭 唱 和 四 絶 句。 戯 用 其 韻 跋 之 」 詩 其 四 の 結 句 を 踏 ま え、 鯢 山 の 詩 の 風 流 ぶ り は『 玉 臺 新 詠 』 の 趣 に 似 通 っ て い る と 思 う と 言 お う と し て
い る。 第 四 句 は、 言 う ま で も な く 李 白 の「 山 中 与 幽 人 対 酌 」 詩 の 結 句 を 下 敷 き に し て い る。 第 二 首 第 三 句 は、 新 豊 の 旅 館 に 泊 ま っ た 馬 周 が 一 斗 八 升 も の 酒 を 注 文 し て、 一 人 で 杯 を 重 ね た が、 旅 館 の 主 人 は 構 っ て く れ な か っ た と い う 故 事( 新 旧『 唐 書 』 本 伝 ) を 踏 ま え て いる。また、 第五句は南宋の杜耒の「寒夜」詩の「寒夜客来茶当酒」 を下敷きにしているようである。 陸 中 で の 王 治 本 の そ の 他 の 活 動 と し て は、 鯨 山 の 弟 子 で あ る 上 村 売 剣( 一 八 六 六 ~ 一 九 四 六 ) の 作 品 へ の 評 が あ る。 一 つ は『 岩 手 県 学 事 彙 報 』 第 二 九 六 号 所 載 の「 春 夜 歩 公 園〔 原 十 五 節 三 〕」 詩 に、 も う 一 つ は 同 誌 第 三 一 四 号( 二 十 六 年 ) 所 載 の「 秋 夜 偶 成 」 詩 に、 それぞれ対するものである。 二 十 六 年 一 月 五 日 と 七 日 の『 巖 手 公 報 』 に、 そ れ ぞ れ 次 の よ う な 記事が載っている。 清 客 王 治 本 氏 兼 て 当 市 に 滞 在 中 な り し 清 の 詩 人 漆 園 王 治 本 氏は一昨三日を以て京地に向け出発したる由 (五日) 清 客 王 治 本 氏 一 昨 日 の 紙 上 に 同 氏 が 去 る 三 日 を 以 て 京 地 に 向 け 出 発 し た る 旨 記 載 せ し が 右 ハ 全 く の 誤 聞 に て 同 日 青 森 へ 向 け 出 発 し た る な り と 云 ふ 尚 ほ 同 氏 ハ 来 る 十 日 頃 に 同 地 を 発 し 再 び当地に淹留する筈なりと云ふ (七日) か く し て 王 治 本 は 盛 岡 で の 一 旬 ほ ど の 滞 在 を 終 え、 一 月 三 日 に は 青 森 へ と 向 か っ た。 な お、 盛 岡 で の 再 度 の「 淹 留 」 は 実 現 し な か っ たようである。 二、陸奥青森・弘前等の地で 二 十 六 年 一 月 五 日 の『 東 奥 日 報 』 の 次 の 記 事 に 拠 れ ば、 王 治 本 は 盛岡を出発したその日のうちに青森に到着している。 清 国 人 の 来 青 清 国 人 王 治 本 氏 は 一 昨 日 盛 岡 よ り 来 青 大 町 中 嶋 旅 店 に 投 し 佐 和 知 事 中 村 才 判 長 を 訪 問 せ し と 乃 こ と な る が 両 三 日滞在せらるゝと云ふ 8 1 『 東 奥 日 報 』 一 月 二 十 七 日 所 載「 弘 前 雅 客 乃 唱 和( 承 前 )」 を め ぐって 王治本はこれ以後、 一ヶ月足らずの間、 陸奥に滞在するので、 種々 の 交 流 が 行 わ れ た も の と 想 像 さ れ る が、 現 存 す る『 東 奥 日 報 』 の 紙 面 に 徴 す る 限 り は、 一 月 二 十 七 日 所 載 の「 弘 前 雅 客 乃 唱 和( 承 前 )」 と 題 す る 記 事 し か 見 当 た ら な い。 「 承 前 」 と あ る か ら に は、 前 の 記 事 が あ る は ず な の だ が、 す で に 逸 し て し ま っ た 号 も あ り、 見 つ か ら ず 如 何 と も し が た い。 さ て、 現 存 唯 一 の こ の 記 事 に は、 王 治 本 と 弘 前 在 住 の 三 人 の 人 物 の 計 五 作 ( 七 首 ) が 掲 載 さ れ て い る。 そ れ ら を もとに、弘前での交流の一斑を窺うことにしよう。 (1)第 一 は 工 藤 隼 太 の「 奉 和 黍 ママ 園 先 生「 雪 途 口 占 」 芳 韻 」 と 題 す る三首である。第二、 三首を掲げることにする。 夕陽雲散望皚々 夕 陽 雲 散 じ 望 皚 々〔 雪 の 白 い さ ま 〕た り 四面群山霽色開 四面の群山 霽色開く
知是弘城程不遠 知る 是れ弘城 程 遠からざるを 塔尖隠約入眸来 塔尖 隠約として 眸に入り来りしならん 漠々寒雲凍不飛 漠々たる寒雲 凍えて飛ばず 遮山蔽野四辺囲 山を遮り 野を蔽い 四辺囲む 晩来篩雪々愈急 晩来 雪を 篩 ふる うも 雪愈いよ急に 一路行人悉白衣 一路の行人 悉く白衣 工 藤 隼 太 は、 藩 政 時 代 末 期 か ら 明 治 初 年 に か け て 津 軽 の 代 表 的 な 学 者・ 教 育 者 で あ っ た 工 藤 他 山( 一 八 一 八 ~ 八 九 ) の 嗣 子 で、 後 出 の外崎覚(一八五九~一九三二)はその弟である 9 。「雪途口占」と 題 す る 王 治 本 の 原 作 が ど の よ う な も の で あ っ た か は 不 明 だ が、 『 江 湖詞華』 第九篇 10所載の謹堂福原資忠の 「酔月楼雅集、 和王漆園 「雪 途 口 占 」 韻 」 と 題 す る 作 品 の 存 在 に よ り、 こ の 唱 和 に 関 す る 状 況 が あ る 程 度 想 像 さ れ る。 酔 月 楼 は 天 明 六 年 創 業 の、 弘 前 で 一 番 古 い 料 亭で、 今も存在する。王治本の同じ詩に和しているところから見て、 工 藤 隼 太 の 作 も こ の 酔 月 楼 の 雅 集 で の も の で あ っ た 可 能 性 が あ る。 福 原 は 当 時、 弘 前 裁 判 所 判 事 の 任 に あ っ た 人 物 で あ る が、 こ の 詩 の 作 者 名 と し て「 謹 堂 福 原 資 忠〔 秋 田 〕」 と 記 さ れ て お り、 ま た、 後 出 の『 江 湖 詞 華 』 第 九 篇 所 載 の 作 品 で は「 謹 堂 福 原 資 忠〔 在 青 森 〕」 と 記 さ れ て い る こ と か ら、 本 名 が 資 忠、 秋 田 出 身 で、 青 森 在 住 の 人 物であったことが分かる 11。謹堂の作を掲げておこう。 簾幕低垂窓半推 簾幕 低く垂れ 窓 半ば推す 渾忘寒夜漏声移 渾て忘る 寒夜 漏声移るを 名流相遇多歓楽 名流 相遇いて歓楽多く 酒思吟情一々奇 酒思 吟情 一々奇なり 湖山雪霽望皚々 湖山 雪 霽れて 望皚々たり 酔月楼頭雅宴開 酔月楼頭 雅宴開く 不独吟壇多逸興 独り吟壇に逸興多きのみならず 瓶梅亦是喜君来 瓶梅も亦是れ 君の来るを喜ぶ なお、この作品には王治本の頭評がある。 (2)第 二 は 外 崎 覚 の「 黍 ママ 園 先 生 来 遊 弘 前、 挊 喜 賦 呈 」 と 題 す る 次 の作品 12である。 載筆飄然入奥州 筆を載せて飄然として 奥州に入り 杖黎到処且停留 黎 〔 あ か ざ の 杖 〕 を 杖 つ き て 到 る 処 且 く 停 留 す 二千餘里山河勝 二千餘里 山河の勝 多被詩囊一例収 多く詩囊に一例 〔一律〕 に収めらる 工 藤 他 山 の 子 で あ る 外 崎 覚 は 東 奥 義 塾 に 学 び、 後 同 塾 の 教 師 と な り、 漢学を教授すること多年、 後、 宮内省に入った。 『津軽信明』 『津 軽信教』その他の著書がある 13。 (3)第 三 は「 今 君 盛 招 席 上 賦 似 」 と 題 す る 王 治 本 の 二 首 及 び 高 山 静の一首である。まず王治本の第一首を挙げよう。
今君盛招席上賦似 黍 ママ 園王治本 猶存書屋典型存 猶存書屋 〔今幹斎の書斎名〕 典型存す 北海遺風酒満尊 北海の遺風 酒 尊 たる に満つ 凍雪圧 擔 ママ 休道冷 凍雪 擔 ひさし を圧するも 冷たしと道う休かれ 燈光爐火透春温 燈光 爐火 春温を透す 今君盛は、 津軽藩侍医で詩文を善くした今幹斎(名弘貞、 字君栗、 通 称 敬 一、 別 号 猶 存。 一 八 三 三 年 ~ 一 八 九 二 年 二 月 七 日 ) の 長 男、 今 成 男( 一 八 五 九 ~ 一 九 一 一 ) の こ と と 思 わ れ る。 後 に 弘 前 吟 社 が 編 集 し た『 鷗 盟 集 』 14に、 成 男 の 作 品 が 桐 林 の 号 で 四 十 五 首 載 っ て お り( 十 九 人 中、 最 多 )、 作 品 の 前 に 附 さ れ た 小 伝 に よ る と、 つ と に家の学業を受け継ぎ、 その後、 木造病院長、 弘前医師会会長となっ て 尽 瘁 し た 人 物 と い う 15。 王 治 本 の 来 訪 に 当 た り、 存 命 で あ れ ば 父 が 行 っ た で あ ろ う そ の 招 待 を、 ま だ 三 十 三 歳 の 成 男 が そ の 意 を 体 して行ったものであろうと想像される。 王 治 本 の 弘 前 来 訪 の 十 一 ヶ 月 前 に 逝 去 し た 幹 斎 の『 幹 斎 遺 稿 』 は 門人の藤田奚疑 ・ 長谷川有造 ・ 若山辰五郎 ・ 三上繁八の編輯により、 三十一年に刊行されたが、 収録された作品のうち、 「歳晩祭刀圭」 、「新 竹 」、 「 閑 居 雑 咏 」 の 三 作 に は 王 治 本 の 評 が 付 さ れ て い る。 王 の 弘 前 滞在中に、今成男が委嘱したものと考えていいのではなかろうか。 さ て、 王 治 本 は 第 二 首 の 後 に「 余 午 刻 従 日 熈 上 人 雅 招 聊 修 半 日 清 斎故及之 〔余午刻 日熈上人の雅招に従い 聊か半日の清斎を修む。 故に 之 に及 ぶ 〕」と の 識 語 を 付 し て い る 16。 日 熈 上 人 ( 一 八 四 四 ?~ 一九二七) とは、 歌人でもあった 本 ほんぎょうじ 行寺 の住職、 協日熙のことである。 な お、 『 江 湖 詞 華 』 第 八 篇( 二 十 七 年 七 月 十 三 日 ) に 載 る、 次 の よ う な 河 村 善 一 の 作 も、 今 成 男 の 招 席 に お け る も の で あ っ た 可 能 性 がある。 猶存書屋集賦似王漆園 巖城河村善一〔青森〕 有客殊方到 客の殊方より到る有り 昂々仙鶴儔 昂々たる 仙鶴の儔 十年労夢寐 十年 夢寐を労し 〔夢に見続ける〕 連夕与賡酬 連夕 与に賡酬す 詩酒眼前興 詩酒 眼前の興 江山別後愁 江山 別後の愁い 飄然雲外去 飄然として 雲外に去らば 何日再従遊 何れの日か 再び従遊せん 河( 川 ) 村 善 一 は 弘 前 藩 校 開 設 以 来 の 俊 秀 と 称 さ れ た 川 村 善 之 進 ( 号 榴 窠。 一 八 二 六 ~ 六 八 ) 17の 長 男 で あ る 可 能 性 が 高 い。 今 幹 斎 と 手 塚 元 瑞( 一 八 二 八 ~ 一 九 〇 〇 ) 18が 編 輯 し た、 善 之 進 の 遺 稿 集 『 榴 窠 遺 稿 』( 十 八 年 九 月 ) の 刊 記 に、 出 板 人 と し て「 青 森 県 士 族 川 村 善 一 青 森 県 中 津 軽 郡 緑 町 二 番 地 」 と あ る。 三 島 毅( 東 京 帝 国 大 学 教 授。 一 八 三 一 ~ 一 九 一 九 ) が 十 八 年 晩 春 に 執 筆 し た「 榴 窠 遺 稿序」 (同書巻頭) の末尾に、 善之進が没した時 「子猶お幼かりき」 (原 漢 文 ) と あ る か ら、 ま だ 而 立 に 達 す る か 達 し な い か の 年 頃 で あ っ た だ ろ う か。 河( 川 ) 村 善 一 は、 明 治 初 期 の 投 書 ブ ー ム の 下、 青 少 年 の 本 格 的 な 投 書 専 門 誌( 週 刊 ) で あ っ た『 頴 才 新 誌 』 に、 十 八 年 か ら 二 十 二 年 に か け て 相 当 数 の 漢 詩 を 発 表 し て い る。 そ の 中 で、 十 九 年 一 月 二 十 三 日 発 行 の 同 誌 第 四 四 八 号 か ら、 同 年 十 一 月 二 十 日 発 行
の 第 四 九 一 号 ま で の 間 で は、 作 者 名 に「 在 東 京 」「 在 京 」 等 の 文 字 が 冠 せ ら れ て い る こ と か ら、 こ の 間、 何 ら か の 事 情 で 東 京 に 滞 在 し ていたと見られる 19。 書 家 と し て 有 名 な 高 山 静( 号 文 堂。 一 八 四 九 ~ 一 九 四 一 ) 20の 作 品は次のようなものである。 仝 高山静 盆梅方綻一 技 ママ 妍 盆 梅 方 め て 綻 び 一 技 〔 枝 の 誤 り で あ ろ う 〕 妍 に 斜影翩々入雅筵 斜影翩々として 雅筵に入る 堪喜今宵無限興 喜ぶに堪えたり 今宵 無限の興 満堂珠玉落詩篇 満堂の珠玉 詩篇に落つ (4)そ し て、 最 後 に は「 王 氏 旧 藩 祖 瑞 祥 公 の 廟 に 謁 す 清 マ マ 清 客 王 黍 ママ 園 翁 に は 弘 前 漫 遊 中 革 秀 寺 な る 旧 津 軽 藩 祖 為 信 公 の 廟 に 謁 し て 懐 古 の 餘 り 一 律 を 賦 す 其 詩 左 に 」 と し て、 「 謁 瑞 祥 公 廟 」 と 題 す る 王 治本の次のような作品が掲載されている。 夢通岩岳誕英雄 夢 岩岳 〔岩木山〕 に通じて 英雄 誕 う まれ 恢復能酬累世功 恢復して能く酬ゆ 累世の功 字旗章颺落日 字の旗章 落日に 颺 あ がり 鋼 九 ママ 刀気鎮濤風 鋼 九 ママ の刀気 濤風を鎮む 晩年奮武封 彊 ママ 外 晩年 武を奮う 封彊の外 元夜攻城妙算中 元夜 〔元宵〕 城を攻む 妙算の中 三百年来威徳遠 三百年来 威徳遠く 輝煌金碧旧霊宮 金碧 輝煌 〔色彩が美しい〕 たり 旧霊宮 21 当 然 の こ と な が ら、 こ の 作 品 に は 天 正 十 八 年、 津 軽 地 方 の 統 一 を 成 し 遂 げ る に 至 っ た 元 大 浦 城 主、 津 軽 為 信( 一 五 五 〇 ~ 一 六 〇 八 ) に 関 す る こ と が 詠 み こ ま れ て い る が、 当 時 す で に 出 版 さ れ て い た 兼 松 誠( 字 成 言、 号 石 居。 一 八 一 〇 ~ 一 七 七 ) の『 津 軽 藩 祖 畧 記 』 22 を 繙 い て み る と、 次 に 引 く 二 つ の 部 分 が そ れ ぞ れ 王 詩 の 第 一、 六 句 の典拠となったことが想像される。 以十九年正月元旦生男。即瑞祥公也。初母氏憂無子、 禱岩木山、 夢一老翁授以畳扇、 曰「以是為子」 。既而生公。 故以扇為小字。 〔(天 文 ) 十 九 年 正 月 元 旦 を 以 て 男 生 ま る。 即 ち 瑞 祥 公 な り。 初 め 母 氏 子 無 き を 憂 い て、 岩 木 山 に 禱 り、 一 老 翁 の 授 く る に 畳 扇 を 以 て し、 「 是 れ を 以 て 子 と 為 さ ん 」 と 曰 う を 夢 み る。 既 に し て 公 生 ま る。 故 に 扇 を 以 て 小 字と為す。 〕(一丁) 三 年 春 正 月 公 帥 兵 伐 大 光 寺 城。 瀧 本 重 行 輸 城 而 奔。 去 歳 十 二 月 公 謂 老 臣 曰「 予 以 為 攻 大 光 寺 城、 莫 如 明 春 元 旦 也 」。 ( 中 略 ) 以 除 夜 発 大 浦 城、 喆 且 ママ 囲 大 光 寺 城。 城 中 以 新 禧 故 尤 狼 狽。 〔( 天 正 ) 三 年 春 正 月 公 兵 を 帥 い て 大 光 寺 城 を 伐 つ。 瀧 本 重 行 城 を 輸 さしいだ し て 奔 る。 去 歳 十 二 月 公 老 臣 に 謂 い て 曰 く「 予 以 為 え ら く 大 光 寺 城 を 攻 む る は、 明 春 元 旦 に 如 く は 莫 し 」 と。 ( 中 略 ) 除 夜 を 以 て 大 浦 城 を 発 し、 喆且大光寺城を囲む。城中 新禧を以ての故に 尤 はなは だ狼狽す。 〕(六丁) 初 め て 訪 れ た 土 地 の 歴 史 を た ち ま ち の う ち に 理 解 し て 詩 に 詠 み こ む、 王 治 本 の「 詠 史 」 の 才 能 が こ こ に も 発 揮 さ れ て い る と 言 え る だ ろう。
2 その他 (1)『 江 湖 詞 華 』 所 載 の 作 品 中 に、 陸 奥 滞 在 中 の 王 治 本 に 関 係 す る も の が 二 首 見 い だ さ れ た の で、 挙 げ る こ と に し よ う。 一 つ は 同 誌 第 五篇(二十六年八月二十六日)所載の河村善一の作品である。 訪清客王漆園 巖城河村善一〔青森〕 籍々声名到処聞 籍々 〔盛大な〕 たる声名 到る処に聞こゆ 相逢不恠抜凡群 相逢いて恠しまず 凡群を抜くを 詩源倒写三江水 詩源 倒に 写 そそ ぐ 三江の水 筆庭横駆萬壑雲 筆庭 横ざまに駆る 萬壑の雲 笑把黄章供白眼 笑いて黄章を把って 白眼に供し 抂傾緑酒酔紅裙 抂 げ て 緑 酒 〔 美 酒 〕 を 傾 け て 紅 裙 〔 美 女 〕 に 酔 う 茫々利闘名争裡 茫々たる利闘名争の裡 領此襟懐独有君 此の襟懐を領するは 独り君有るのみ 頷 聯 は 杜 甫 が 従 姪 の 文 章 の 力 を た た え た「 詞 源 倒 流 三 峡 水、 筆 陣 独 掃 千 人 軍 」( 「 酔 歌 行 」) に 基 づ い た 表 現 で あ る が、 王 治 本 は『 江 湖 詞 華 』 の 頭 評 に お い て、 こ れ を 逆 手 に 取 り、 「 詞 源 倒 峡 可 以 移 贈。 余 則 豈 敢 」( そ の 褒 め 言 葉 は あ な た に お 返 し し よ う。 私 な ど と て も、 とても)と返している。第五句の「黄章」 ・「白眼」はそれぞれ、 「黄 韲(齏) 」(野菜の漬物の意) ・「白飯」の誤りではないかと思われる。 そ う で あ れ ば、 こ の 句 は 苦 難 に 満 ち た 生 活 を も の と も し な い と い う ような意味になる 23。 も う 一 つ は 同 誌 第 七 篇( 二 十 七 年 三 月 九 日 ) 所 載 の 福 原 資 忠 の 作 品である。 与王漆園訪松野翠華 謹堂福原資忠〔在青森〕 集飲寒宵逸興餘 集飲 寒宵 逸興の餘 豪来不覚酒量加 豪来 覚えず 酒量の加わるを 異香醺処衣添暖 異香 〔妙なる香〕 醺 そ むる処 衣 暖を添え 新句成時筆闘華 新句 成る時 筆 華を闘わす 漏点鐘声相隠約 漏 点 鐘 声 相 隠 約 〔 か す か に 聞 こ え て く る さ ま 〕 に 燈光簷影共横斜 燈光 簷影 共に横斜 快談雄辨情無尽 快談 雄辨 情 無尽 敢羨洋々絲竹譁 敢 え て 羨 ま ん や 洋 々 〔 高 ら か に 響 く 〕 た る 絲竹の 譁 かまびす しきを 福 原 が 王 治 本 と と も に 訪 ね た 松 野 翠 華 は、 弘 前 藩 医 の 家 系 に 列 な る 松 野 因 策 博 道( 一 八 五 三 ~ 一 九 二 一 ) で、 松 木 明 知 氏 の 研 究 に 拠 れ ば、 十 一 年 六 月、 県 立 弘 前 病 院 の 当 直 医 兼 助 教 授 と な り、 そ の 年 の 末 に は 副 院 長 に 昇 進、 そ の 後、 同 病 院 を 辞 し て、 弘 前 市 内 に 松 野 医院を開業した人という 24。 (2)陸 奥 を 離 れ た 王 治 本 が 羽 前 を 旅 し て い た こ の 年、 す な わ ち 二 十 六 年 の 五 月 十 九 日 付 で 西 津 軽 郡 深 浦 村 の 広 田 雄 太 郎 に よ り 発 行 された 『養老集』 25と い う 書 物 が あ る 。 こ の 書 物 は 、 学 を 好 み 、 和 歌 ・ 俳 句 に も 長 じ、 地 方 文 化 の 向 上 に 尽 く し た 同 町 の 素 封 家、 広 田 敬 明 ( 一 八 二 四 ~ 九 四 ) の 古 希 を 祝 い 、 長 男 の 雄 太 郎 が 全 国 に 祝 寿 の 作 を 請 う た こ と に よ り 成 っ た も の で 、 和 歌 ・ 詩 文 ・ 俳 句 の 三 部 に 分 か れ 、 計 八 百 首 の 作 品 が 収 め ら れ て い る 26。 そ の 詩 文 部 の 筆 頭 が、 実 は 次
に引く王治本の作品である。 寿敬明翁古稀 王 園〔清人名治本〕 絳県老人甲笇長 絳県の老人は 甲笇長し 蓬萊深処是僊郷 蓬萊 深き処 是れ僊郷 分田抗議安民業 田を分かち議を 抗 ふせ ぎて 民業を安んじ 応募従公助海防 募に応じ公に従いて 海防を助く 竹屋談詩春試茗 竹屋に詩を談り 春 茗を試し 松窓観月夜焚香 松窓に月を観て 夜 香を焚く 年来 頤 養添遐福 年 来 頤 養 〔 保 養 〕 し て 遐 福 〔 長 寿 の 福 〕 添 う 舞綵歓騰介寿觴 舞 綵 歓 騰 〔 喜 び に 沸 く 〕 し て 寿 觴 〔 祝 い 酒 〕 を 介 け ん 第 一 句 は 春 秋 時 代 の 晋 の 悼 公 の 夫 人 が 城 壁 工 事 に 従 事 し た 人 夫 た ち に 御 馳 走 し た 際、 子 供 が い な い た め 自 ら 工 事 に 参 加 し て 御 馳 走 に 預 か っ た 絳 県 の あ る 老 人 が、 一 緒 に 食 事 を し て い た ほ か の 者 に 年 齢 を 聞 か れ、 「 自 分 は 賤 し く、 歳 の 数 え 方 を 知 ら な い が、 自 分 の 生 ま れ た 年 は 正 月 甲 子 の 朔 で、 そ れ か ら 四 百 四 十 五 回 目 の 甲 子 が め ぐ っ た。 そ の 最 後 の 甲 子 の 日 か ら 今 日 ま で 三 分 の 一 が 過 ぎ た 」 と 答 え た の で、 七 十 三 歳 と 判 明 し た と い う 故 事( 『 春 秋 左 氏 伝 』 襄 公 三 十 年 ) を 踏 ま え、 要 す る に 広 田 敬 明 が 長 寿 に 恵 ま れ て い る こ と を 言 っ た も の で あ ろ う。 第 三 ・ 四 句 は、 明 治 元 年 か ら 四 年 に か け て の 頃 の 弘 前 藩 の 歴 史 に 関 係 す る。 戊 辰 戦 争 が「 治 ま る 頃 元 幕 府 の 軍 艦 奉 行 榎 本 武 揚 等 の 率 ゐ る 脱 走 軍 艦 襲 来 の 風 聞 」 等 が 起 こ っ た た め、 「 津 軽 藩 に て は 国 中 沿 岸 其 要 所 要 所 に 兵 備 を 整 」 え る こ と に な り、 深 浦 で は 「郷兵一小隊を組織して警固に任じ」 、広田仲吾 (敬明) が隊長となり、 「 四 十 人 を 以 て 一 隊 と し た 」 27。 第 四 句 は、 そ の 時 の 広 田 の 貢 献 を 表 現 し た も の で あ ろ う。 さ て、 事 平 ら ぐ や、 広 田 は 最 後 の 藩 主 で 版 籍 奉 還 に よ り 知 藩 事 を 務 め て い た 津 軽 承 昭( 一 八 四 〇 ~ 一 九 一 六 ) に よ り「 擢 ん で て 市 正 に 任 」 ぜ ら れ た が、 承 昭 が「 耕 田 を 購 い 兵 士 に 分 か ち 与 え ん と 欲 し 」、 広 田 に「 命 じ て 市 民 に 伝 諭 す る こ と を 謀 」 ら し め た の に 対 し、 広 田 は「 事 情 を 具 陳 し 」 て「 之 を 論 駁 し 」、 「 唯 市 の 豪 富 の 餘 田 の み 以 て 藩 士 に 分 か ち 与 」 え る こ と を 主 張 し て、 認 め ら れ た 28。 以 上 の こ と を 第 三 句 は 表 現 し て い る も の と 考 え ら れ る。 末 句 の「 舞 」 は お そ ら く「 五 」 の 誤 り で あ ろ う( こ の 両 字 は 現 代 中 国 語 音 が 同 じ )。 「 五 綵 歓 騰 」 は、 若 干 ず れ て は い る も の の、 老 萊 子 が 七 十 歳 に な っ て も 常 に 五 彩 の 衣 を 着 て 嬰 児 の 真 似 を し、 親 を 楽 し ま せ た と い う 故 事( 『 藝 文 類 聚 』 巻 二 十 所 引『 列 女 伝 』) を 利 用 した表現と見られる。 広 田 敬 明 も し く は 雄 太 郎 と 王 治 本 と が 知 り 合 っ た 経 緯 は 不 明 で あ る が、 彼 ら が 知 り 合 っ た こ と が き っ か け で、 広 田 敬 明、 及 び 深 浦 の 円覚寺の住職であった海浦義観 (号竹斎。一八五四~一九二一) と、 は る か 西 南 の 土 佐 の 詩 人 た ち と の 間 に 交 流 関 係 が 生 じ た よ う で あ る。 海 浦 義 観 は 雄 太 郎 の「 膠 漆 の 友 」 で、 『 養 老 集 』 巻 頭 の「 寿 序 引 」 を 執 筆 し て い る が、 博 識 で 仏 教 に 関 す る 多 く の 著 書、 文 稿、 詩 稿 を 残 し て お り、 特 に 日 本 初 の 修 験 道 概 説 書 を 著 し た こ と で 知 ら れ ている 29。さて、 交流関係が生じたことを裏付ける事柄は二つある。 一 つ は『 養 老 集 』 に 三 浦 一 竿( 一 八 三 四 ~ 一 九 〇 〇 ) を は じ め と す る 当 時 の 土 佐 の 詩 人 た ち、 計 八 人 の 作 品 が 載 っ て い る 30こ と で あ り、 もう一つは三浦一竿の遺稿集である 『江漁晩唱集』 下巻 31に、 『養 老 集 』 所 載 の 賀 詩 の う ち の 一 首 32と と も に、 「 青 森 人 海 浦 竹 斎 索 詩、
賦 此 贈 之 」 と 題 す る 作 品 が 載 っ て い る こ と で あ る。 王 治 本 が 土 佐 に 滞 在 し た の は 十 九 年 の 四 月 か ら 六 月 に か け て だ っ た が、 彼 と 土 佐 の 詩 人、 な か ん ず く 田 中 璞 堂・ 三 浦 一 竿 兄 弟 と の 詩 筒 に よ る 交 流 は そ の 後 少 な く と も 十 年 間 続 い た 33。 広 田・ 海 浦 と 土 佐 の 詩 人 た ち と の 結 び つ き は、 王 治 本 が 津 軽 を 訪 れ た 際 に 取 り 持 っ た も の で は な い かと想像されるのである。 最 後 に、 王 治 本 が 盛 岡 へ 移 る 前、 羽 後 に お け る 最 後 の 半 月 間 を 過 ごしたと思われる湯沢在住の芳賀篁墩 (一八二八?~一九一四) に、 青森滞在中の王治本に懐いを寄せる詩があるので、挙げておこう。 仲冬寄懐漆園在青森港 同雲漠漠散瓊瑤 同 雲 〔 降 雪 〕 漠 漠 と し て 瓊 瑤 〔 雪 の た と え 〕 散 ず 別後吟懐転寂寥 別後 吟懐 転た寂寥ならん 新句知君満囊返 新句 知る 君 囊に満たして返らん 雪山冰海夢中遙 34 雪山 冰海 夢中に遙かなり おわりに 以 上、 明 治 二 十 五 年 年 末 か ら 二 十 六 年 初 め に か け て( 明 治 壬 辰 ) の 王 治 本 の 陸 中・ 陸 奥 に お け る 詩 文 交 流 の 跡 を 追 っ て み た。 前 二 稿 ( 注 1、 2所 携 拙 稿 ) と つ な げ ば、 二 十 五 年 八 月 か ら 二 十 六 年 四 月 までの彼の羽後 ・ 陸中 ・ 陸奥 ・ 陸前での足跡が、 ある程度明らかになっ たと言っていいだろう。次稿では、二十六年五月以後の陸前 ・ 羽前 ・ 陸中南部での足跡をたどってみることにしたい。 青 森 県 関 係 の 人 物 の 調 査 に つ き、 弘 前 市 在 住 で 郷 土 史 の 専 門 家 で あ ら れ る 広 瀬 寿 秀 氏 に 多 く の ご 教 示 を い た だ い た。 こ こ に 記 し て 深 甚なる謝意を表する。 (しばた・きよつぐ 本学教授) 注 1 拙稿「明治二十五年 羽後における王治本の足跡及び日本文人との交流」 、 『武庫川国文』第七十七号、二〇一三年。 2 拙稿 「明治二十六年 王治本の陸前 ・ 羽前等における足跡と文藝交流 (上) 」、 『日本語日本文学論叢』第十号、二〇一五年。 3 「 明 治 二 十 五 年 羽 後 に お け る 王 治 本 の 足 跡 及 び 日 本 文 人 と の 交 流 」 五十八頁。 4 『岩手県学事彙報』 第二九六号、 九皐堂。本稿所引の記事は十一頁に見える。 5 『 鯢 山 遺 稿 』 乙 集( 太 田 孝 太 郎『 南 部 叢 書 』 第 八 冊、 南 部 叢 書 刊 行 会、 一九三一年) 。詩題以外の字句の異同は次の通り。 『岩手県学事彙報』第一 首第二句 「亦」 、第四句 「詩」 、第七句 「山」 、第八句 「氷」 、第二首第五句 「紙」 がそれぞれ、 『鯢山遺稿』では「也」 、「談」 、「道」 、「冰」 、「祇」となっている。 6 「 明 治 二 十 五 年 羽 後 に お け る 王 治 本 の 足 跡 及 び 日 本 文 人 と の 交 流 」 五十八、 五十九、 六十五頁。 7 (晋)皇甫謐『帝王世紀』 (『太平御覧』巻一七七引)に見える。 8 中村才判長とは、当時の青森地方裁判所所長中村公知のこと。 9 荒井清明『続々 弘前今昔』 (北方新社、一九八九年)一三八~一四一頁。 10 『江湖詞華』 第九篇、 二十七年十二月三十日。 なお、 『江湖詞華』 については 「明 治二十五年 羽後における王治本の足跡及び日本文人との交流」四十五頁 を参照されたい。
11 二 十 六 年( 一 月 一 日 現 在 )『 職 員 録( 甲 )』 ( 内 閣 官 報 局 ) の 弘 前 裁 判 所 の 項 に、 判 事 の 一 人 と し て 福 原 資 忠 の 名 が あ る。 な お、 『 官 報 』 の 記 載 に よ り経歴をたどってみると、福原はその後、青森、秋田両県の判事職を経た 後、三十八年に本庄(埼玉県)に異動し、四十二年には「判事正五位勳五 等」として「勲四等授瑞宝章」に叙せられている。 12 「挊喜」 は意味不明。 『大漢和辞典』 (巻五、 四八六三頁) によれば、 「挊」 は「弄」 の 俗 字。 ま た、 外 崎 覚 の『 六 十 有 一 年 』( 外 崎 浩、 一 九 二 二 年 ) で は「 呈 清人王漆園」という題で、第二句の「黎」を「 」に作る。 13 伊藤徳一 『東奥日報と明治時代』 (東奥日報社、 一九五八年) 三十二頁。なお、 外 崎 覚 は、 森 鷗 外 が「 渋 江 抽 斎 」( 一 九 一 六 年 ) を 執 筆 す る た め 津 軽 の 歴 史を調べた際、多くの知見を提供したと言われる(本田伸「森林助宛の二 通の書簡 ― 花山院忠長の津軽滞在をめぐって ― 」、 『弘前大学國史研究』第 一二三号、三十七頁、二〇〇七年) 。 14 弘前吟社編輯兼発行『鷗盟集』 (一九二〇年)巻一、 三十一~三十八丁。な お、同書の「例言五則」の一つに「本書所輯係明治二十五年以後津軽諸同 人詩」とあるのに拠れば、遅くとも二十五年までには弘前吟社というもの が成立していたことになる。 15 ち な み に 今 成 男 は、 「 考 現 学 」 の 提 唱 で 有 名 な 今 和 次 郎( 一 八 八 八 ~ 一 九 七 三 ) と 銅 版 画 家 と し て 有 名 な 今 純 三( 一 八 九 三 ~ 一 九 四 四 ) の 父 で あ る。 ま た、 成 男 の 弟 で、 北 大 の 総 長 を 務 め た 今 裕( 一 八 九 六 ~ 一九五四)の還暦を記念して出版された武田勝男編輯兼発行『今博士還暦 記念誌』 (一九三九年) 巻頭の 「今博士の幼年時代」 という見出しの写真には、 長兄として五十歳頃の成男も写っている。 16 こ の 識 語 は 第 二 首 の 後 半 「 対 花 為 熱 瓣 香 奠 、 曾 守 蓮 堂 半 日 斎 」 に つ い て 述 べ た も の で あ る と 考 え ら れ る が 、私 は 遺 憾 な が ら 、こ の 二 句 が 読 解 で き な い 。 17 川村善之進については青森県人名事典編さん室(主幹尾崎竹四郎)編『青 森県人名大事典』 (東奥日報社、一九六九年)一六三、 一六四頁等。 18 手 塚 元 瑞 は も と 津 軽 藩 医。 川 村 氏 か ら 出、 医 師 手 塚 春 亮 の 養 子 と な っ た。 明治に入り、 学区取締、 のち第五十九銀行頭取。森林助『兼松石居先生伝』 (神書店、一九三一年)二七「親友」一四一、 一四二頁、森鷗外『鷗外歴史 文学集』第五巻(小泉浩一郎注釈。岩波書店、二〇〇〇年)四一四頁等。 19 な お、 弘 前 在 住 時 の 作 に は 多 く「 陸 奥 弘 前 」「 東 奥 」 な ど の 文 字 が 冠 せ ら れている中で、十八年十一月二十一日発行の第四四〇号では、 「東奥吟社」 という語が冠せられている。当時の津軽に存在した吟社を研究する際の一 資料とすることができよう。 20 高 山 文 堂 に つ い て は、 『 兼 松 石 居 先 生 伝 』 一 四 四 ~ 一 四 九 頁、 東 奥 日 報 社 編集・発行『青森県人名事典』 (東奥日報社、二〇〇二年)三八七頁等。 21 この作品は、 清水孝太郎編輯兼発行 『奥東風雅』 (一九二一年) 二十二丁に 「壬 辰冬日謁瑞祥藩侯祠賦此懐古」という題で載り、次のような字句の異同が あ る( 下 が『 奥 東 風 雅 』) 。 岩 ― 巖、 岳 ― 嶽、 第 二 句 ― 翦 滅 強 鄰 奏 厥 功、 ― 卍、旗 ― 旂、颺 ― 揚、九 ― 丸、濤 ― 、彊 ― 疆。 22 兼松成言纂輯『津軽藩祖畧記』 (下沢保躬、明治九年) 。 23 『漢語大詞典』第十二巻一〇一二、 一〇一三頁「黄韲白飯」 、「黄齏」の条。 24 松 木 明 知「 弘 前 藩 医 松 野 因 策 と そ の 系 譜 」( 『 弘 前 医 学 』 第 五 十 一 巻、 二〇〇〇年)一二二頁。 25 身元義順編『養老集』 。 26 『 養 老 集 』 巻 頭 の 竹 斎 海 浦 義 観 撰「 寿 序 引 」、 『 青 森 県 人 名 大 事 典 』 五 六 六 頁「 広 田 敬 明 」「 広 田 仲 吾 」 の 項。 な お、 敬 明 と 仲 吾 は 同 一 人 物 と 考 え ら れる。 石崎伝三郎 (西津軽郡深浦町二一八) 編輯兼発行 『深浦町誌』 (一九三四 年 ) の 四 十 六、 四 十 九、 五 十 三、 一 〇 一 頁 に も 広 田 仲 吾 と し て そ の 事 績 が 記 されている。 27 『深浦町誌』四十六頁。 28 『養老集』 巻頭の竹斎海浦義観撰 「寿序引」 (もと漢文) 、『深浦町誌』 一〇一頁。 29 深浦町編『深浦町史』下巻(深浦町役場、 一九八八年)五六二~五六四頁、
『青森県人名事典』七十六頁。 30 作 者 と 詩 題 を 示 す。 山 本 弘 堂(?~ 一 九 〇 七 )「 詠 石 賀 広 田 敬 明 翁 古 稀 」、 浜 田 石 軒「 仝 」、 田 中 璞 堂( 一 八 三 一 ~ 一 九 〇 八 )「 賀 広 田 敬 明 翁 古 稀 」、 三 浦 一 竿「 仝 二 首 」、 茨 木 皆 山( 一 八 三 五 ~ 一 九 一 二 )「 仝 」、 沢 村 之 竹 (一八一五~九〇) 「仝」 、生原冠山「仝」 、渡辺白鷗「仝」 。 31 故三浦漁 (一竿) 『江漁晩唱集』 下巻 (三浦万里、 四十二年) 二十、 二十一丁。 32 題は「賀青森人広田敬明七十」に変わっているが、詩句は同じ。 33 柴田清継 ・ 蔣海波「明治期高知における日中文人の交流 ―旅の詩人王治本 を中心として ―」 (『日本語日本文学論叢』 第七号、 二〇一二年) 七十六頁。 34 芳賀勝安『九宜楼詩抄』 (雄岳堂、二十四年 ?)下巻。