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「家族の崩壊」と合理主義の精神: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

「家族の崩壊」と合理主義の精神

Author(s)

下村, 英視

Citation

宮崎産業経営大学法学論集 = Miyazaki Sangyo-Keiei

University law review, 19(1): 33-66

Issue Date

2009

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/10106

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「家族の崩壊」と合理主義の精神

下村英視

How has the family disruption been caused by the spirit of rationalism?

Hidemi SHIMOMURA 目次 1.「近代家族の崩壊」の必然性 2.「近代家族」論への疑問 3.家族の中の子どもの問題 a.児童虐待とは何か b.児童虐待の現状 c.虐待は増加しているのか 4.虐待はなぜ起こるのか a.原因についての見方 b.ものの感じ方、考え方の問題 c.「子どもをつくる」という考え方 5.合理主義の精神の浸透 6.合理主義の精神と自己実現 7.人間は本質を求める 8.家族の本当の在り方

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1.「近代家族の崩壊」の必然性 梅棹忠夫は、日本の家庭や社会に関して、私たちには非常に大きな事実誤認があると言う。 家族主義という名称で明治以来考えられてきたものは、江戸時代までの武家社会のイデオロ ギーであるが、しかし、日本社会は決して武家社会モデルが主流ではなかったのであり、明 治政府が武家社会のモデルからこのようなフィクションをつくりあげたに他ならないとす る(1)。江戸時代の武士の家庭では、給与を受ける夫が経済的な実権を握っており、そこで、 弱い立場にある主婦は、家庭における主婦権を確立するために、洗濯や掃除を必要以上にや るなど、さまざまな偽装労働を発明し、自分をその担当者にした(2)。家事を主体的に担う主 婦はこのようにして誕生したというわけだ。 ところが、今日、技術が進み、経済が豊かになり、機械化や家事労働を請け負う専門職が 登場することによって、家事労働が大幅に外部に依存できるようになった。つまり、社会環 境の変化の中で、江戸時代の武家社会のイデオロギーに支えられてきた家族において、家事 労働という家族機能のひとつが失われることになる。妻=夫人は、家事労働から解放される と同時に、家事労働の担当者としての存在価値を失うことになる。そうすると、今日までそ のイデオロギーが持ち続けられてきたとはいえ、これからの日本の家族はどうなるか、その 点についてはわからないということになる。 女性は社会に進出するのが必然であり、女性の社会進出の拡大に伴って男性も妻子を養う 重荷から解放されることになるという考え方を梅棹はとり、加えて、「家族というのは基本 的に解体してゆくものであるし、それで別に問題はない」し、「家族というものに対しては、 わたしは、ある意味で全面的否定的認識を持っています。そんなものは時期がきたらすべて 解体する。みんな大人になったらどんどん外へ出てゆく。親元からはなれてゆくのが当たり 前なんです」と述べ(3)、次のように続けている。「かつての日本の家庭では、家庭のだんら んによる精神的な満足や情緒的安定が重要なものとかんがえられてきました。しかし、家庭 の機能が外化され、家族のそれぞれが個人化しつつあるとき、そうした安定はほとんど神話 であるといったほうがよいかもしれません。(4) このようにして梅棹は、家族の存在理由がなくなったときには、それは自然に消滅すると いうことも当然あり得るわけで、たとえそのようになるとしても、そこには何も問題はない と考える。確かに、社会の変化、社会の在り方が家族の在り方を変える、規定するとする見 方はもちろんある。現象を観察することによって、そのように説明することは大切な研究だ。 梅棹が言うように、江戸時代の武家社会をモデルとしてつくられたイデオロギーをこれまで

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信じてきた私たちの社会において、この社会を支えてきた家族についての本質の理解がたん なるつくられものであることが明らかになり、加えて社会の変化(産業構造、消費のあり方 等)に伴う家族の変化によって、家族を支えるイデオロギーとしての価値がなくなったので あれば、そのような家族が解体し消えてなくなることがあったとしても、不思議ではない。 そこでは、学問は、その現象を克明に観察記述し、変化、移行の理由を説明する理論を整え ることによって、人間の生の在り方を明らかにすることに貢献し得ると考えることができる。 以上のような梅棹の論は、上野千鶴子のそれと一致する。上野は、「「家族」は決して社会 の最小単位でもなければ、社会構造は「家族」を中心として「同心円構造」で成り立ってもいな い」とし、「人は家族をはなれても生きていける。「家族なしでは生きられない」という脅迫 は、「近代家族」がこれほどの閉鎖性と排他性を獲得したあとに初めて事実となった。私たち は事後的な事実を原因と取り違えているが、これこそ、「家族」の言説のイデオロギー効果と いうべきであろう」と述べる(5) たとえそれがどのような研究であれ、イデオロギーの呪縛の下では真の議論はできない。 これは、上野の卓見である(6)。上野の努力は、呪縛となったイデオロギー=偏見を壊すこと に向けられる。それは正しい。正しいというのは、そのイデオロギーの呪縛の下に、性差別 が合理化され、一方の性に負荷が求められ、そうされてよいことを母性本能などという勝手 なつくりごとによって説明し、それによって母となる女性の役割が生まれながらにして決定 されており、その役割を担おうとしない者を価値において劣った者であるかのごとくみなす 偏見、差別をうち壊す正しさを、上野の論は提供してくれているからである。 2.「近代家族」論への疑問 「人倫」や「友愛」などの概念を用いて家族を説明する理論は、多くあった。そこにある 「うまく説明してみせてやった」式の理論を解析し、それらがいかに「近代家族」をすばら しいものとした与件(7)に支えられたものであり、したがって、その根拠を問われる場合には、 それにこたえることのできない脆弱な理論に他ならないことを明らかにして見せてくれて いる上野の業績には、大いに学ぶべきものがある。先入見(偏見)から自由になるためには、 すべてを疑えと言った哲学者(8)を想い起こすまでもなく、上野の姿勢には研究者に求められ る最も大切なものがある。 しかし、その先にあるものが私には見えてこない。事実の認識は確かに大切だ。現実に生 起している事実を眼の前にして、その事実を厳密に分析し、諸現象を貫いてそれらを支えて

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いる原理をとらえ、これを明らかにする理論を人々に提供することは、研究者の役割である。 しかし、ただ「ありのままを認めよ」、「壊れるものは壊れるがままにすべき」ということ では、学問の務めが果たせないのではないか。真理の認識のためには、偏見はうち捨てられ ねばならないが、それに代わるもの、生活の規範となって私たちの生き方を支えてくれる理 論を提出することは、学問の務めではないのかと私は考える。そこが上野の論には見えてこ ないのである。 友愛による人間の情緒的結びつきを語ることは美しい。この美しさを利用して、家族の原 理はこれだと説明してきたことは、確かに一方的な決めつけに他ならないだろう。しかし、 だからといって、それは近代的イデオロギーの呪縛だとして、それをうち壊すことが人間の 解放につながるとは、私には思えない。なるほど、特定の価値を人間に押しつけ、その価値 を実行することでよさを自認することは、利己的な自己満足にすぎないという場合があるか もしれない。そのような考え方が女性を縛り、家庭につなぎ止めてきたことによって、女性 の社会進出=自己実現(9)が阻まれたという面は、確かにあるのだろう。 しかし、自己実現を阻むものをすべて悪として斥けることこそ、私には、近代主義、近代 合理論のイデオロギーに呪縛されたものの見方に他ならないように思われる。自己実現の観 念もまた、近代合理論の中にある。自由と独立を謳歌する精神、それは素晴らしい。しかし、 そのもとで、それを阻害するものは全て悪しきものとして排除するというのでは、その時点 で良質な思想もまた、近代イデオロギーの呪縛の中にあると言わざるを得ない。そこで大切 なことは、近代思想の何を良質なものとして継承するのか、そして、何をイデオロギッシュ な誤りとするのか、あるいは、イデオロギーという他を裁き排除する思想に転化しないため に学ぶべきは何なのか、ということである。 私がそのように考えるのは、私たちは今、家族について大きな困難の中にあるという認識 を持つからである。家族の崩壊という言葉が使われるようになって久しいが、家庭内暴力、 児童虐待という現象は、およそ収まる兆しを見せない。家族は壊れるがままにしておいてよ い、人は家族なしで生きてゆける、家族に代わる代替システムを人間はつくることができる。 あるいは、そうかもしれない。しかし、それでも、家族の中に人間が人間になるための大切 な何かがあるのであれば、私はそれを守りたいと思う。そして、その学びを人々と共有した いと思う。 家族の崩壊は、もともと抑圧的なイデオロギーの呪縛を解こうとする自由な精神の自己実 現のもとに生じているもの(したがって崩壊は当然)であることを認めるとしても、家族がな

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くなった後、人間はまた新しい形を獲得して生きてゆくのだということを認めたとしても、 その崩壊が進む過程で、子どもたちが犠牲になってよいはずはない。そうであれば、子ども たちを守り育てる新たなシステムがつくりだされ、それが定着するまで、対処的な支援(福 祉事務所等の充実)でしのいでゆくか、それとも、家族の再生を実現しようと努力するか(も ちろんこの場合も、同様に支援が必要だ)、今、私たちは岐路に立っていると考えるべきで ある。この点の考察を練り上げて行くためには、まず現状の分析を持って始めなければなら ない。そして本稿は、児童に対する虐待の問題を考えることによって、これを始める。 3.家族の中の子どもの問題 a.児童虐待とは何か 服部範子によれば、日本における家庭内暴力への取組みは、1980 年前後に子どもが親に 暴力を向ける「家庭内暴力」から始まった(10)。この時期に欧米の児童虐待、家族内暴力の 研究も紹介されたが、欧米とは家族観、子育て観が違う日本においては、親から子どもへ暴 力が向かう児童虐待は、ほとんど起こり得ないと考えられていた。1980 年代に入ると、児 童虐待は、児童問題の専門家の一部で、徐々に関心がもたれるようになってきはしたが、児 童を援助する関係機関においては、独立した問題としては対応されず、児童虐待のケースと しては認識されていなかったという(11)。1990 年 4 月にわが国で初めて「子どもの虐待ホッ トライン」という児童虐待に焦点を置いた電話相談が始められ、1990 年代前半には児童虐 待は大きな社会問題になり、現在に至っている(12) そこでまず、虐待の概念をはっきりさせておきたい。保坂恵美子は、「虐待」の概念を明 らかにしようとして、研究者たちの見解を紹介し、「暴力」とは広義の「有形力の行使」で あり、そこにおいては当事者間(有形力を行使する者と行使される者との間)の関係性のあり 方が意識されることがないのに対して、「虐待」は「ケア」関係に付きまとうニュアンスが あることを指摘している(13)。虐待には力を行使する者とされる者との間に関係性が認めら れなければならない。子どもは親によって保護されるべき弱い存在者であるにもかかわらず、 強者としての親からの暴力(物理的、精神的暴力)を受ける場合に、それは虐待とみなされ、 逆に、子どもが親に反抗して暴力を振るう場合には家庭内暴力ととらえられるべきである。 したがって、親が老いて子どもの保護を受けなければならなくなった場合に、強者としての 子どもから弱者としての親に向かってなされる暴力(物理的、精神的暴力)は虐待と呼ばれて よい(14)

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また、虐待には、ネグレクト(必要な保護、世話をしないこと)が含まれることが、暴力と 虐待との違いをはっきりさせていると考えることができる。生きるためには誰か(幼い子ど もにとっての親、老いた親にとっての子ども)の助けが必要であるにもかかわらず、そのよ うな弱者に対して生活(衣食住)全般にわたっての世話をせず、また暮らしの中で遭遇する 様々な危険から守らないことは、その者たちの生命を脅かすことに等しい。放置すれば生命 に危害が及ぶことを承知でそうすることは、なるほど積極的ではないにしても、人の生命を 損なうことである。そして、それらが一過性ではなく、継続して繰り返されることによって、 本来、保護を受けるべき個人の健全な生活が損なわれてしまう場合に、それは虐待と呼ばれ るべきである。 そして、虐待は、その特徴として連鎖をなす。夫婦間で虐待を受けた者は、その子どもを 虐待し、これが兄弟間の虐待を惹き起こす。そして虐待を受けて育った子どもは、今度は、 老いた親を虐待するというように、連鎖が起こる。そしてこの連鎖が次世代へと伝わること がある。子どものころ虐待を受けた親が、自分の子どもを虐待してしまうことが多いのは、 このように説明される(15) b.児童虐待の現状 富永忠雄は、子どもに対する虐待行為をなすものとして、実母が最も多く、次に実父であ り、実父母だけで児童虐待の加害者の8割強を占めていること、特に実母の割合が年々増加 している点を指摘する(16)。そして、「児童虐待といった問題はある特別な人たちの問題と 言って片づけることができない」ことが強調されている(17)。虐待の内容の半数は、身体的 虐待であり、ネグレクト、心理的虐待、性的虐待と続く。また、児童相談所への虐待相談や 通報がどこから来たのか(誰が訴えたのか)という点については、この数年間はほぼ変わりな く家族(20%弱)、近隣知人(13%~15%)、福祉事務所(13%~15%)、学校(12%~15%)に児 童福祉施設、警察、医療機関、保険所、児童委員がいずれも2~6%の範囲で続き、児童本人 が訴えるケースは1~2%にすぎない(18)。このことからも、いかに子どもが弱い存在、自分 を守ることができない存在であるかということがわかる。 もちろん、統計資料の読み方に関する注意事項として、実父母に育てられている子どもが 圧倒的に多く、親の離婚や死別によって養父母もしくは祖父母やその他の親族(伯父、伯母、 叔父、叔母等)に育てられている子どもは少数であるから、仮にそれぞれの養育者において 同じ割合で虐待行為が発生するとすれば、実父母によって虐待が生じる件数が多くなるのは

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当然である。私は今、実父母によって養育されている子どもの数(家庭の数)とそれ以外の養 育者によるそれとを比較した資料を持ち得ていないため、この点について厳密な議論を展開 することができない。恐らくは、実父母による虐待発生の割合は他の養育者によるものと同 じか、あるいはもっと少ないものと想像することができる。ただし、この点を厳密に検討し ないまま議論を進めてよいのは、重要な問題が、実父母によって養育が行われている通常(そ の数が圧倒的に多いという意味での通常)の家庭で、子どもに対する虐待が行われており、 しかも、この現象は決して一時的なものではなく、毎年漸次増加しているという事実にある からである。 c.虐待は増加しているのか 山西裕美は、「児童虐待は、近年著しく増加しているのか」という点について、慎重な見解 を表明している(19) 1.児童虐待が増加していると言われる際の理由となっているデータは、児童相談所に寄 せられる児童虐待の相談件数である。実際には、0~14 歳児の他殺データは 1970 年代末以 来急減している。 2.時代により、子どもに商業行為をさせることから心理的に傷つけることまで、虐待の 定義自体が異なっている。児童を保護すべき虐待の内容がよりきめ細かくなるなど、子ども の人権に対する社会の視点そのものが動いている。 3.通報義務の内容が、法改正(20)により、児童虐待を受けたと思われる児童を発見した 場合も含まれることとなったこともあり、地域住民らによる発見、通報への積極的関与が見 受けられる。 これらを検討してみよう。1では、そもそも相談件数が虐待数を正しく反映しているかと いうことである。本人の訴え及び周囲の人たちによる通報によって児童相談所は対応するが、 そこで行われる相談件数を直ちに虐待件数とすることはできないのではないか。仮に内容を 考慮した上で統計上の数値としているとしても、そこでは、どこまで相談件数に含めるかと いう点で曖昧さを残さざるを得ないのではないかと指摘される。2では、過去においては、 人身売買など極端な人権侵害を問題にしていたのに対して、現在では、言葉によるハラスメ ントにまで虐待の範囲が広がっているということである。虐待としてカウントされる対象が 大幅に広がっているのであれば、児童相談所に寄せられる相談件数が増加することは当然で ある。3では、通報による相談件数の増加は、住民・市民の意識の変化が影響していると考

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えなければならないということである。新聞やテレビの報道によって、住民・市民が児童虐 待に敏感になり、児童相談所に過剰に通報し、その結果、通報を受けた児童相談所の相談件 数が増加したという点を考慮しなくてはならないというわけである。 このようにして、相談件数という数値に大きく影響されることは、妥当性を欠くというこ とになる。相談件数を直ちに虐待件数とみなすことはできないし、虐待に相当する内容を拡 大し、かつ世間の関心を惹き起こす努力をしているのだから、数値は上昇して当然だという ことになるからである(21)。さらに、「虐待は、階層に関係なく、あらゆる家庭で起こって いるのか」という仕方で虐待の要因を考えようとする山西の文脈においては、そのような統 計上の数値に重きを置くのではなくて、虐待の内容をしっかりと見て、それに対応する手 段・支援の方法を講じることこそが大切なのだという趣旨が見えてくる(22)。同意できる意 見である。 山西の考え方を評価する一方で、私は、数値にもうひとつの意味を読み取りたいと思う。 それは、虐待を受けている本人(児童)が、人権意識の乏しさゆえに、自ら訴え出ることの少 なさを思えば、統計に上る数値はまだまだほんの一部だと推測する必要があるということだ。 もちろん、それは推測である。しかし、実態をとらえようとする場合に、そのような想像力 が必要になることもある。これほどまでに児童虐待の問題が知られるようになったにもかか わらず、その数が減少していないデータが示されることによって、危機感を持つこと、共有 することを促すことは、有意義だと考えられる(23) 4.虐待はなぜ起こるのか a.原因についての見方 津崎哲郎は、主たる虐待者、虐待者の生育歴、家庭の状況、虐待者の心身の状況、虐待者 の就労状況、虐待についての考え方(虐待を認めて援助を求めている、行為は認めるが主義 信条として虐待を認めない等)についての調査資料の分析、及び虐待者が親の場合、親の教 育歴、就労状況、精神障害、問題行動についての調査資料の分析から、虐待は単なる偶発的、 単発的家庭内問題として生じているわけではなく、経済的貧困、文化的貧困、人格的貧困が 相乗的に作用し合い、構造化、膠着化することによって、虐待が生み出されていることを理 解しなければならないと説く(24)。この構造がまた虐待の世代間連鎖を惹き起こすことにな ると同時に、援助への自発的要求を欠落させてしまうことになるゆえに、虐待が起きている 家族における家族機能の修復・再生が最重要テーマだということになり、援助は部分的、単

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発的支援ではなく、多角的、総合的支援でなければならないことになるという方向に津崎の 論は展開される(25) 傾聴すべき意見である。この見解の背後には、家族の中で生じている虐待という問題を広 い視野から見て、これに取り組もうとする姿勢がある。そこでは、虐待を行う個人を責める のではなく、その人が虐待をしてしまうようになった多様な(経済的、文化的、人格的な) 原因を考え、広く社会の在り方の問題として捉え、そこからどのような支援が望ましいのか を考えようとするよさがある。虐待にかかわる当事者個々人を追いつめるのではなく、社会 システム全体の問題としてとらえることによって、問題の解決、克服を図ろうとする試みが なされている。 その点には評価を惜しまないが、私は、子どもを守るべきものであるはずの親が、子ども を虐待してしまっている事実を、その個人に近づいて、その人の意識の在り方の問題として 考えたいと思う。ただしそれは、述べたように、個人の責任の問題として考え、かつそれに よって個人を追い詰めようとするものではない。家族の崩壊の典型的な現象として現れてい る児童虐待を惹き起こしている要因としての現代人の意識の在り方に焦点をあてて考える ことによって、梅棹や上野が言うように、近代主義イデオロギーからの解放の必然的帰結と して家族の崩壊が起こり、その中で、虐待もまた必然的に生じるもの、容認されることがや むを得ないものと考えることができることなのかどうか、以下、この問題に積極的に答えた いと思う。 b.ものの感じ方、考え方の問題 富永忠雄(前出2のb)は、児童虐待の発生要因を次のように指摘する。親の側の要因とし て、①夫婦仲の不和、②経済的困窮(仕事をしない、定職につかない)、③職場でのトラブル、 ④育児不安、⑤アルコール依存等、及び①~⑤を原因として、親自身が、身内や近隣住民と 齟齬をきたし、これによる親の孤立が虐待の遠因ともなっていること。また、虐待する親は、 親自身が小さいときに虐待された経験を持つことが多く、自分がされたように自分の子にし てしまう「世代間連鎖」が見られ、親自身の育った環境が虐待発生の原因とされると説く(26) また、子どもの側の要因として、①多動的で親が片時も目を離せず、親に負担ばかりを感 じさせる(育てるのに大変という気持ちを持たせる)こと、②望まぬ妊娠で生まれたこと、③ 子どもに障害や遅れがあり、期待にそわなかったりすることなどが挙げられるとしたうえで、 冨永は、子どもの側の要因としてあげられたこれらは、厳密な意味で本当に子どもの側の要

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因としてよいのかどうか慎重な判断が求められねばならないと言う(27) 私は、ここに重要な問題があると考える。子どもを虐待する親の言い分によれば、虐待の 要因が子どもにあると親が考えていることだ。上述のように、富永はこの点を慎重に考える 必要があると述べているが、私は、この点について曖昧さを残したり、不必要な譲歩をする ことは、問題の本質を曇らせてしまうことになると考える。子どもの側の要因として上げら れた三点は、決して子どもの側に求められるべきものではない。 当然のことだが、自らの意志によってこの世界に生まれ出た者は誰もいない。気づいたと きには、この時この場所に生きるように置かれていた。私たちは例外なく、その存在を一方 的に与えられて今を生きている。誕生する者には何の責任もない。授かった新たな生命を育 み、その命がひとりで生きていくことができるようになるまで見守るのは、迎え入れる者 (親)の責任である。その子がどのような性質(子ども側の要因①として指摘されたこと)や能 力(子ども側の要因③として指摘されたこと)を伴って誕生しようとも、それは子ども本人の 責任ではなく、ただそのように生まれたのであり、ましていわんや自分の誕生そのものにつ いて(子ども側の要因②として指摘されたこと)は、およそ本人の責任の及ぶところではない。 人(子ども)は皆、無条件に生まれ、その存在は無条件に受け入れられるべきものである。逆 に、親は無条件に子どもの存在(誕生)を受け入れるものである。したがって、子どもの側の 要因として記された事柄は、いずれも、そのようなものととらえられてしまう(感じてしま う)親の側の要因だと言わなければならない。 それならば、「望まないのにできてしまった子」とか「期待にそわない子」などというと らえ方は、一体どこから来たのか。ここに私たちが学ぶべき大きな問題がある。 私たちには願望がある。もちろん、子育てにも望みがある。こうだったらいいなという将 来への具体的な期待がある。だが、その期待通りにいかないこともある。そして、期待通り にならなかった場合、不満や絶望を感じることがある。そこにあるのは、自分にとって不都 合なこと(不満や絶望)の原因を子どもに転嫁しようとする構造だ。そして、子どもに対する 虐待はそこに生じる。 不満を抑えることができないのは、もちろん、虐待を行う者(親)が感情に支配されている からそうなると言うことができるだろう。感情の激昂をコントロールすることを自分の中で しっかりと訓練することができていれば、それは望ましい。しかし、人は感情に支配される ものだ。そして、感情は理性と対立しているように見えて、実はそうではなくて、理性によ って支えられている。ここが重要な点である。

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自分の思い通りにならない子に憤るのは、感情が爆発しているだけなのではない。自分は 一所懸命に努力した。それなのに子どもがいうことを聞かない。健康で利発な子になるよう に力を尽くしてきたのに、そうならなかった。「自分の思い通りにならない」とは、自分の 勝手な願望が実現されないことに対する不満ではなくて、自分が払った努力が――本来それ は正当に評価され、その正当な報酬=子どもの成長(よい子に育つこと)が得られるべきであ るのに――不当にもそのようにならなかったことに対する不平であり、憤りであり、異議申 し立てである。そのような不当さ、不公正さに向けて、親の不満は発せられる。親は、ここ に見られる理不尽さ、不合理さに憤っているのだ。 言葉=ロゴスは理性である。世界を理解しようとする理性によって、言葉は発せられる。 理性は言葉によって世界に秩序を敷く。そして、その秩序に則って、あるいは支えられて人々 は生きる。人間が文化的生物だと言われるのは、世界(自然、環境)に適応して生きるのみな らず、自ら世界に秩序を敷き、これに支えられて生きるからだ。世界を合理的に解釈するこ と、ここに人間文化の基礎がある(28)。そして、この合理性の秩序の中では、私が払った努 力が報われないことは不当である。このような意識の中では、子どもが私の努力に報いない 場合には、その子が悪いということになる。 このような意識がどのようにして生じたのか。その起源を近代合理論の思想に求めること は、理論的な説明としてはたやすいことだろう。しかし、それでは「うまく説明してみせて やった」だけで終わってしまう。私は、ここに見られる合理主義の精神の具体的な表れ方と、 その浸透を次に見てみたい。 c.「子どもをつくる」という考え方 家族の在り方に大きな変化をもたらしたものとして、子どもについての考え方が大きく変 わったことが挙げられる。この点について柏木惠子は、子どもの命について、それが「授か る」ものとされていた時代があったことを指摘すると同時に、今日、それは「つくる」もの としてとらえられており、ここに子どもの命の認識に根本的な変化が生じたことを説いてい る(29)。この認識の変化の要因として、柏木は次の二点を挙げ、著書の中でかなりの紙数を 割いて詳細に検討している(30)。ひとつは、科学技術(ここでは医学医療)の発達が、乳幼児 の死亡を激減させ、その結果生まれた子どもは育つのが当然になったこと。もうひとつは、 生殖のメカニズムについての知識、及び計画的な出産によって子どもを幸せに育てようとい う考え方が普及するにいたって、子どもは統御可能な対象としてとらえられるようになった

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こと。このようにして、妊娠は自然現象ではなく、意志・決断の結果とみなされるようにな る。医学医療の未発達な時代、人々は、「子の夭折を人知を超えたものの意志として受け入 れ、それを嘆き悲しむべきではないとすることで、その状況に耐え対処することができた」 し、「子どもはまだ「かみのうち」つまり人間とは認めないことで、夭折を嘆き悲しむ感情 を緩和したり、さらには間引きをする上でもある種の納得とした」(31)。しかし、今日、子 どもの命は医学の進歩に支えられて産めば育つ強靭なもの」となり、産むか産まないかが問 題となり、そこでは生まれる子どもではなく、産む主体の母親の判断が最重要事項になる(32) 子どもは授かるものではなくなり、つくるもの、私たちの意志の統御下にあるものという 認識がゆきわたれば、子どもの成長もその延長上にあることになる。あるべきものについて の観念が先行し、子育てのための知識を売る育児書や教育書から学び、あるいはそのような 教室に通い、子どもを育てる努力をした親は、その当然の報酬として、成果を期待する。成 果とは、子どもがよい子に育つことであり、思い通りになることである。自分の主張は理に 適ったものなのだから、当然認めてもらえるはずだ。ところが、残念なことに、そのような 正当な報酬=成果が得られない場合、親はその理不尽さを我慢することができない。このよ うな意識の在り方を合理主義の精神がゆきわたることとして考えたい。 5.合理主義の精神の浸透 合理主義の精神がゆきわたったのは、生殖(医療)だけではない。合理主義の精神は、生殖 (医療)においてそうであったように、自然に深く切り込み、自然のメカニズムを認識し、そ の知識を活用して富を引き出した。産業が多様化し、私たちの生活に多くの利便をもたらし た。同時に、産業構造の変化が家族に大きな変更をもたらすことになる。前節で引用した柏 木によれば、かつて家族は、生活資源を獲得するための生産活動の拠点であったが、農業、 漁業そして自営業の衰退とこれに替わる雇用労働者の増加によって、生産機能という重要な 家族機能を失った。生産機能のみならず、家族は、生活資源の処理、分配、利用という消費 活動の拠点でもあったが、工業化の進展に伴い、食をはじめ掃除、洗濯など家事の商品化社 会化は急速に進み、家族の基本的欲求の充足は家庭の外でも十分可能となり、家族が生活の 拠点である必要はなくなりつつある(33) 街にはおびただしい数の商店や飲食店が並び、衣食(34)という人間が生きることに不可欠 な営みにおいて、人々は代価を払って外から手に入れ、これを消費するという生活になじん でしまい、このことにいささかの疑問もさしはさもうとしない。そこでは、衣食という生活

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の術すべを生み出す家族機能が、すでに失われていることを意味する。 家族機能といわれるものが外化されたこと、商品として産業によって提供されるようにな ったこと、それが意味することは、これを利用することによって、家族機能が低下したとい うことに加えて、それ以上に、それらの商品を自分のコントロールの下に置くことができる ようになったということである。自分の都合に合わせて、必要なだけ、代価を払って手に入 れることができるようになったということである。 もちろん、全てが私の思うように手に入るわけではない。しかし、私の努力の度合いに応 じて、言い換えれば、仕事をしてたくさん稼げば、今度は、その報酬によってたくさんの利 便さを購入することができる。かつて家族機能としてあったものの多くを、今では、私の努 力によって得られた経済力しだいで、自由に手に入れることができる。それらは私の意志の 統御の下にある。 このようにして、日常の生活の中で、私たちの意識は、合理主義の精神に貫かれていると いうことがわかる。その意識は、子育ての場合にも例外ではなく、その意識になじんだ私た ちは、努力の度合いが強いほど、子育ての場合にもその精神に貫かれた行動をもっと強くと る。思い通りにならない子どもに、どうしても暴力を振るってしまう親は、その子に対して 合理的に振舞っているのだ。親は子どもを合理的に虐待している。虐待を繰り返す親に、虐 待の意識がないのは、ここから説明される。そのような親たちの意識の中では、彼らは、思 い通りにならない悪い子どもを罰しているだけなのだ。 6.合理主義の精神と自己実現 私は、別稿「福祉の思想」で、合理性の秩序に身を置く人間に、合理的(合法的)にもたらさ れる差別があることを示した(35)。人は公正さ(公平さ)を求める。その実現を正しいことだ と考える。したがって、その実現を優先したとき、その秩序において優った位置にある自分 (勤勉で、多くの労働をした者)が高い評価を受けることを当然と考え、逆にその秩序におい て低い位置にある者(怠惰で、あまり労働をしなかった者)に対して、その者がそれに見合っ た報いを受けることは正当だと考える。あたかもその秩序が、人間の価値を表すかのごとく、 自分たちの生を支える拠り所としてあるかのように考えて、これを疑わない。自分ほどには 働かなかった者が自分と同じ報酬を受け取るのは不正である。彼らは私よりも劣った者なの だ。その劣った者が自分と同じ報酬を受け取ることは、公正さ(公平さ)の秩序に反する。 このようにして、能力において劣った者は、優れた者の下位に置かれる。その結果、人間

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として生きにくい状態が生じたとしても、それは本人の責任(より一層努力しないことの当 然の結果)として、合理的に説明される。公正、公平ということは、合理性の枠の中にある。 したがって、この合理性に準拠することによって、能力において劣った者が生きにくいとい うことがあったとしても、そして、そのことに問題性が指摘されることがあったとしても、 それは合理的に説明され、個別の問題は合理的な説明(合法性)の中に解消されることになる。 社会的に成功した人に高い評価が与えられたとしても、逆に、時流に乗ることができないた めに低収入に甘んじなければならない人が軽んじられたとしても、これに人々が疑問を持た ないことも、このように説明されることによって納得できる。ここには、合理的なあるいは 合法的な差別を無自覚なまま抱え込んでしまっている意識がある。 親たち、大人たちは、今、この意識の中にあるのではないか。人々は、合理性の水準に則 ってなされている自分の被差別状態を受け入れている。どこかおかしいと感じながら、努力 の有無、チャンスの有無によって自分の劣位を認め、自分の不利益をあえて受け入れている。 そこに、能力を発揮して生きている者とそうでない者の序列が認められ、この序列の存在が 容認され、その序列にのって生きる以上、今の自分の境遇、待遇を説明する合理的な論理が あるからだ。そのような合理性は、家族の中にも持ち込まれる。合理性の秩序が敷かれ、自 分が払った努力にはそれ相当の報酬(成果)が求められる。 既に述べたように、「思い通りにならない子」とは、私に正当な報酬を支払わない「悪い 子」なのである。それだけでも、不都合な子どもだというとらえ方が出てくるのに加えて、 自己実現を積極的にとらえる考え方が流布すると、自分の思い通りにならない子とは、自分 の人生における障害とみなされることさえもできるようになる。 自己実現とは自分の可能性を考え、自分の意志でそれを実現することだ。自分には何がで きるか、何をしたいか、これを考えて実現することだが、もし育児や家事が、この自己実現 を阻害するとすれば、それらは斥けられるべきものとみなされる。このように自己実現が積 極的にとらえられており、またこれへと進むことに人生の意味があるとはっきりと自覚され ている場合には、そのような人は家族を持たない、あるいは子どもをつくらない選択をする かもしれない。そして、そのような生き方を選ぶというのも、人間としてのひとつの在り方 だろう。 ところが、育児や家事が自己実現の中に組み込まれている場合がある。子どもを育てるこ と、家族の構成員の生活を支えることによって自分が家族をつくっているのだとして納得 (満足)できる自己実現もある。問題は、むしろこちらの側にある。そこでは、子どもの世話

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や育児に自分の人生を費やすとしても、成果が得られれば満足できる。思い通りにとはいか なくても、まずまずの成果が得られれば、納得できる。合理性の水準がある程度充たされる からだ。しかし、成果が得られなければどうか。それを理不尽ととらえてしまう心の動きが、 合理性の秩序に支えられて頭を持ち上げる。そして、この理不尽さの認識に支えられた憤り が、子どもに対する虐待として現われることがある。虐待の根底には自己実現へと向かう意 志の存在があり、そしてそれは、合理主義の精神に支えられている。 自分の思い通りにならないことを原因(理由)として放たれる虐待とは、自分の努力が報わ れない理不尽さを埋めるべく子どもに向かって放たれる虐待であり、それは何の解決にもな らないだけに絶望的な暴力である。 7.人間は本質を求める 上野の批判の根底にあるのは、本質主義に対する批判である。人間の本質をこうだと決め てしまい、それに合わせて生きることが正しいとすることによって、人間を偏狭なイデオロ ギーの枠の中に閉じ込めてしまう。そうすると、それによってそのようなイデオロギーに反 するような生き方をしようとする自由な個人を、抑圧してしまうような社会が誕生する。現 代は、まさに、そのようなイデオロギーに呪縛された社会が崩壊しつつあるのであり、家族 の崩壊についてもその例外ではないというわけだ。イデオロギーからの解放、それが、人間 に人間らしい生き方を保障する。 しかし、私には、ここには見落とされていることがあると思われる。人間は本質を求める ものだということである。そして、それは、人間には本質が決定されていないということで ある(36) 動物たちが遺伝情報に従って、必ず決まった行動ないし生活形態を終生守り通して生きて ゆくのに対して、人間だけは、衣食住から仕事や趣味に至るまで、工夫を凝らし願望に導か れて生きてゆく。生物としての生理的機能は同じとはいえ、その文化(衣食住から習俗、社 会的慣習、学問、芸術、宗教等あらゆる活動においてみせる生活全般)の多様性は、他の生 物と一線を画する。人間は環境にはたらきかけ、これを改変し、自らが新たにつくりだした 環境に適応してゆく。その生き方の不断の変革可能性が、人間の特徴をなす(37) そして、このことは、人間の根本的な無規定性、根源的な自由を表している。人間は自由 であるということは、何にでもなり得るということだ。そして、何でもなし得る、逆に言う と何をするかわからないということでもある。学問や芸術を生み、弱者を守る努力をするか

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と思えば、戦争や差別という悲惨で残酷なことを歴史の中で繰り返してきた。 それらは、人間には本質が決定されていないことを明らかにしている。人間は自分たちの 生き方を自分でつくる生物である。そのような生物には、どうしても生き方の規範が必要で ある。求められているのは、特定のイデオロギーからただ単に解放されることではなくて、 人間に必要な規範が独善的、抑圧的なイデオロギーにならないための工夫とそのための努力 である。私たちは、このための努力を学問の世界においてなさなければならない。 抑圧的なイデオロギーを壊すこと、それは抑圧されてきた人間を解放することである。ジ ェンダーの思想はそのような意味で高い価値を持つ。それゆえ、上野の仕事は高く評価され るべきであろう。しかし、私たちは、人間という事実だけでは生きられない。本質を求めて 生きるしかない生物であり、それゆえ、イデオロギーと対決しつつ、その生き方を支えてく れる基礎理論とそれを生み出す思索が常に求められている。 8.家族の本当の在り方 いかようにもなってしまう存在者である人間、この人間を優しさをもって生きてゆけるも のにしてゆくためには、あるいはそのように育つことを促すためには、優しさの受容が不可 欠である。無償の優しさを与えられて、人間はその優しさを学ぶ。無条件にその存在を受け 入れられ、その生を肯定されて生きてゆけるという安心感は、その存在者の人格形成に不可 欠なものである。そして、それは、人生の最初に与えられることが望ましい。 原体験という言葉がある。原体験とは、それを体験した時にはそのことの意味がわからな いが、後に経験を積んで人生の様々な価値を身につけてゆく時に、改めて、その過去の体験 が有意味なものとして自分の中で経験されなおすもの、はっきりと意味をもつものとして自 覚されるものをいう。家族によって無条件に受け入れられ、無償の愛情を受けた経験が、人 間を人間とするしるしであるものを形づくる。それは、あらゆる合理的な論理に先立って人 間の存在を肯定する思想の核となるものである。 動物状態(本能のプログラムによって生きること)を離脱した人間は、愛情すらも学習すべ きものになってしまった。愛情を与えられることによってしか、それを学ぶことができなく なってしまった。もちろん、その受容を体験させてくれる場としてはいろいろなものが考え られる。今日の家族の形態だけが唯一のものではないだろう。しかし、最も広く存在してお り、多くの者がそれに与ることのできる場が家族であるのなら、その家族を守ってゆく意味 はある。もちろん、そのような家族に恵まれない場合もある。親の死、親の疾患(病気)、加

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えて子育てを拒む親もいることは認めなければならない。そのような場合の支援は、当然、 工夫されなければならない。そして同時に、家族をもちたい(もち続けたい)と思う者がいて そのための支援を求める者がいれば、そのようなひとたちを支えてゆく社会を維持すること は私たちの務めであろう。 私たちは、私たちだけで生きているのではない。未来を生きる人たち、私たちが顔を見る ことも知ることもない人たちに手渡さなければならない世界を生きている。その意味では、 やはりその人たちとも共に生きているという面がある。そして、その人たちが幸せに生きる ことができる社会をつくるために努力しなければならない。その大切な努力のひとつが家族 に学びなおすことである。家族のもつ無条件、無償の受容性、愛情、ここに、他者の存在を 肯定する原理、福祉の原理がある。これを学びなおすこと、それは合理性の秩序に優先する ものを学ぶことであり、これによって、人と人との関係を織りなして生きる人間の生のある べき姿を学ぶことができる。それを考えて生きてゆくことができる人間を育てることができ る。この関係の核としての家族を守り、守りつつそこから学ぶことは、人類の未来に決して 間違った方向を示すことではないと、私は考えている。 参考文献 秋月葉央『虐待された子供たち』二見書房 2004年 上野千鶴子「「家族」の世紀」『岩波講座 現代社会学 第19巻 <家族>の社会学』岩波書 店 1996年 梅棹忠夫「文明論からみた家庭と家族」『<家の中>を認知科学する 変わる家族・モノ・学 び・技術』野島久雄・原田悦子編著 新曜社 2004年 柏木惠子『家族心理学 社会変動・発達・ジェンダーの視点』東京大学出版会 2003年 柏木惠子『子どもという価値 少子化時代の女性の心理』中央公論新社 2001年 川崎二三彦『児童虐待―現場からの提言』岩波書店 2006年 津崎哲郎「児童虐待に対する援助の仕組みとその課題」津崎哲郎、橋本和明編著『最前線レ ポート 児童虐待はいま ―連携システムの構築に向けて―』ミネルヴァ書房 2008年 富永忠雄「児童虐待の克服へ」加藤俊二編著『現代児童福祉論』ミネルヴァ書房 2005年 服部範子「現代家族の病理」石川實、岸本幸臣編著『生活と家族』コロナ社 2004年 保坂恵美子「虐待と家族」木下謙治、保坂恵美子、園井ゆり編著『家族社会学―基礎と応用 ―』九州大学出版会 2008年

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山野良一『子どもの最貧国・日本 学力・心身・社会に及ぶ諸影響』光文社 2008年 山西裕美「児童虐待と家族」野々山久也『論点ハンドブック 家族社会学』世界思想社 2009 年

Simone de Beauvoir, Le deuxième sexe, Gallimard, Collection Idées:152-153,1978(翻 訳 ボーヴォワール『第二の性』生島遼一訳 新潮文庫 1982年~1983年 この翻訳書は、二 部構成の原典、第二部(体験編)をなす三つの章、「女はこうしてつくられる」、「女はどう生 きるか」、「自由な女」を、それぞれⅠ、Ⅱ、Ⅲの各巻にあて、第一部(事実と神話)の「女の 歴史と運命」をⅣ巻、「文学に現われた女」をⅤ巻にあてている。また、1997年には、「ボー ヴォワール『第二の性』を原文で読む会」による翻訳書(井上たか子、木村信子監訳『決定 版 第二の性 Ⅰ 事実と神話』、中嶋公子、加藤康子監訳『決定版 第二の性 Ⅱ 体験』 新 潮社)が、原典の配列を守る仕方で刊行された。残念ながら、現在、これらの翻訳書はいず れも入手困難である。)

René Descartes, Discours de la méthode, Descartes Œuvres philosophiques, Textes étabis, pérsentés et annotés par Ferdinand Alquié, Garnier (1972~1975), tome Ⅰ(翻訳 デ カルト『方法序説』谷川多佳子訳 岩波文庫 1997年が、最も新しい。)

René Descartes, Meditationes de prima philosphia, Œuvres de Descartes, publieés par Charles Adam et Paul Tannery, Vrin (1965~1974), tome Ⅶ(翻訳 デカルト『省察』山 田弘明訳 筑摩学術文庫 2006年が、最も新しい。)

Jean-Paul Sartre, L’existentialisme est un humanisume, NAGL, 1970(翻訳 サルトル『実 存主義とは何か』伊吹武彦他訳 人文書院 1996年) 註 (1)梅棹忠夫「文明論からみた家庭と家族」『<家の中>を認知科学する 変わる家族・モノ・ 学び・技術』野島久雄、原田悦子編著 新曜社 2004年 p.5 (2)梅棹忠夫 同 p.3~p.4 (3)梅棹忠夫 同 p.10 (4)梅棹忠夫 同 p.11 梅棹は、次のように、家族の必要性について否定的な見解を明らか にしている。「男性も女性も爆発的に能力を発揮できる素地ができたのです。それが現在の 状況なのでしょう。(中略)/そこで家族はどんな役割を果たしたのでしょうか。このままで ゆけば、家族の果たす役割は極めて限定的なものとなりそうです。/結婚しない男女が増え

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ているのもそのひとつの証拠でしょう。これまで、家庭をつくらなければ自分の自由になら なかった衣食住が、容易に手に入るようになっています。すなわち、家庭の機能が外化され ているのです。そこでは、家庭をわざわざつくらなくても、必要なものは手にはいるのです。 それならば、何もわざわざ面倒な人間関係や制度をたもちつづけてゆこうとかんがえる必要 はないでしょう。」(同 p.11) (5)上野千鶴子「「家族」の世紀」『岩波講座 現代社会学 第19巻 <家族>の社会学』岩 波書店 1996年 p.18~p.19。上野は、同論文の中で、「「核家族」なる概念についても、「一 夫一婦制」monogamyを人類史の最高の発展段階とする進化論が結びついていた」ことと、「一 夫一婦制を婚姻の規範とする西洋=近代を、人倫の最高の発展段階とする西欧中心主義」が 背後にあったことを指摘する(同 p.4~p.5)。そのような偏見によって、核家族は、西洋= 近代家族の与件としての地位を得ているに他ならない(同 p.5)。このような「家族」があら ゆる社会構造の最小単位であるという仮説にもとづいて、個人と社会の両者を説明するとい うようなことがなされもしたが(もちろん上野はこのようなことを批判する)、そこで上野が 指摘するのは、それほどにまで「家族」は与件として「自然」視されてきたということであ る(同p.7)。そして、社会構造の家族還元説が「人類学の中でさらに洗練され」て、「家族 を超えるような上位の社会集団もすべて」家族をもとに説明され、「家族を最小単位とする 同心円型の社会構造が前提」とされることになる(同 p.8)。 (6)「「家族」の普遍性をめぐる議論は、前述したように第一に構造について、第二に機能に ついて、成り立っている。だがもうひとつ忘れてはならないのは、第三に、「家族」が「人倫」 の基礎として、過度に重い倫理的負荷を負わされてきたことである。この「家族」をめぐる「価 値」family value 付与が、議論をタブー化し、錯綜させてきた。したがって、「家族」につい て語るとき、だれしも心おだやかでいられず、過剰な反応をしがちになる。だが、「家族」 についての問いproblematizationを阻む、この過剰に情緒的な反応こそ、「家族」のイデオロ ギー効果というべきではないだろうか。」(上野千鶴子 同 p.3) (7)確実で揺るぎないもの、したがって疑う余地のないものとして人々の意識の中に占めら れている固定的な観念。それゆえそれは、偏見によって与えられることがある。 (8)すべてを疑って、疑い尽くして、どのようにしても疑い得ないものだけを真理として受 け入れようとするデカルトの姿勢は、いまなお、多くの人々の心の琴線に触れる仕方であり 続けている。デカルトの懐疑は、真理の探究という明確な目的を持った「方法的懐疑」とし て語られ尽くされている観がある。もちろん、デカルトの哲学体系においては、そうなので

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あるが、しかし、その懐疑は、ただ単に「方法的」、「便宜的」なものではなく、真剣に生 きられた懐疑である。人生の真実を得ようとして、「ただひとり闇の中を歩む者のように」 (『方法序説』Discours de la méthode, Descartes Œuvres philosophiques, Textes étabis, pérsentés et annotés par Ferdinand Alquié, Garnier (1972~1975), tomeⅠ, p.584)孤 独に耐え、「深い淵に落ち込んで、足を底につけることもできなければ、水面に浮かび上が ることもできない」(『省察』Meditationes de prima philosphia, Œuvres de Descartes, publieés par Charles Adam et Paul Tannery, Vrin (1965~1974), tome Ⅶ, p.23~24) ほどの驚愕をもって、真摯になされた懐疑である。 (9)多くの人によって使われるようになったこの語は、かつて被抑圧的な状況に生きねばな らなかった女性が、今自分の意志に導かれてその生を歩もうとすることを肯定的にとらえる 象徴的な表現としてある。ところが、その積極的な意味にもかかわらず、その理解が、「意 欲の実現」とか「願望の実現」というような意味に留まっていることが多い。もちろん、そこ にはそれなりの意味があり、そのように語られる価値(人生を主体的に選び取っていくとい う価値)がある。そこで、私も本稿では、「自己実現」の語をそのような意味に用いている。 しかし、本来の自己実現とは、後の註36で述べるように、本質に先立って存在を与えられた 人間が、その本質を形づくろうとして生きる深い省察に基礎づけられた営みである。この点 についての考察は、別稿「人間存在の基盤としての家族」(宮崎産業経営大学法学論集第19巻 第2号2010年)に譲りたい。 (10)服部範子「現代家族の病理」石川實、岸本幸臣編著『生活と家族』コロナ社 2004年 p.121 (11)服部範子 同 p.122 (12)服部範子 同 p.122 厚生労働省の児童虐待に関する統計調査も1990年(平成2年)から 始まった。 (13)保坂恵美子「虐待と家族」木下謙治、保坂恵美子、園井ゆり編著『家族社会学―基礎と 応用―』九州大学出版会 2008年 p.162 (14)夫婦のように、互いに両性が支え合って生活しているはずの場合には、虐待ではなく暴 力があると考えられるべきであるが、それにもかかわらず虐待になりうる場合がある。それ は、男性が女性を従属的立場に置こうとし、かつ実際にそのような関係が夫婦間で生じてい る場合に(例えば夫が、自分の稼ぎで養ってやっているなどと考え、そのように発言するこ とによって)、夫側から妻に加えられる暴力は虐待になり得る。そこには保護の関係がある からだ。もちろん私たちの社会が女性を従属的立場に置くことを改めなければならないこと

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は、いまさら言うまでもないことだ。この点に関連して、既に半世紀前に、ボーヴォワール Simone de Beauvoir は、Le deuxième sexe(Gallimard,1949 同書は Collection Idées:152-153 として同出版社から 1978 年に再刊)によって、女性が二番目の性=従属的な性、すなわち「男 性に従属する性」として社会的につくられ、社会の中に置かれてきたことを、厳密かつ詳細 に描いている。 (15)保坂恵美子 同 p.168~p.170 (16)実母による虐待は、平成12年度から6割を超え、その数値は高いままとどまっている(富 永忠雄「児童虐待の克服へ」加藤俊二編著『現代児童福祉論』p.108 ミネルヴァ書房 2005 年)。なお、児童虐待についての最新の統計資料は、厚生労働省のホーム・ページから閲覧 することができる。2009年8月現在では、平成18年度(2006年度)までの統計資料が公表され ているが、その傾向に変化はない。http://www.mhlw.go.jp/bunya/kodomo/dv15/index.html (17) 富永忠雄 同 p.109 (18) 富永忠雄 同 p.107の表9-2 厚生労働省、社会福祉行政事務報告、福祉行政報告例参 照。 (19)山西裕美「児童虐待と家族」野々山久也『論点ハンドブック 家族社会学』世界思想社 2009年 p.310~p.311 (20)2000年に制定された「児童虐待防止法」は、2004年に改正を受ける。川崎二三彦は、改 正の趣旨を次のように指摘している。「法律制定時は、「お医者さんだとか学校の先生など 特定の職業にある者の通告義務を一般より重いもの」とすべく、専門職員の努力義務を明記 することでよしとされていたものが、この改正では、「児童の福祉に業務上関係のある団体」 に対してもその責務を課すこととなった。これは、各機関が責任を持って発見に努めよ、保 護者とのトラブルや対立を恐れて機関の責任者が通告に消極的になってはいけない、という 意味をもたせたものであろう。通告対象に、五文字加えて、「児童虐待を受けたと思われる 児童」へと広げたのは、密室の中で行われ、虐待か否かを断定することが難しいという児童 虐待の特徴をふまえてのものである。」(川崎二三彦『児童虐待―現場からの提言』岩波書 店 2006年 p.102~p.103) 該当箇所の第五条と第六条は、同書のp.99(2000年制定のもの) 及びp.102(2004年改正のもの)にも、掲載されている。また、川崎は、児童福祉法第二五条 によって、2000年に児童虐待防止法が成立するずっと以前から、児童虐待が行われていると 気づいた場合、それを児童相談所等へ通告することは全国民に課せられた義務であったのだ が、このことはほとんど知られていなかったと述べている(同 p.95)。

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(21)以上に加えて、山西は誤報の問題も指摘するが、これについては、統計調査の方法論の 観点からは当然検討されるべき課題であるが、本稿では扱わない。 (22)山西裕美 同 p.310~p.312 (23)数値には力がある。事柄の重要性を数値の大小が左右するところがある。戦争の犠牲者 数、感染症による死亡者数、自然災害や事故による死亡者数等、その数値が大きくなればな るほど事態の重要さが、私たちに向かって訴えられているように思われる。しかし、人は何 万人とか何百人で死ぬわけではない。ひとりひとり死ぬのである。与えられた命をせいいっ ぱい生きることなく、自分の可能性に気づくこともなく死んでゆく子どもがいること、心も 体も傷つけられ、助けてくださいという言葉を発することさえも知らずに、自分に加えられ る暴力の意味を理解しないまま自分を責め、苦しみ続ける子どもたちがいることを考えるこ と、そのような子どもの姿を想像することが大切なのである。このような想像力を喚起して くれるものに、秋月葉央のルポルタージュがある。秋月は、児童養護施設<虹の子ホーム> での取材活動を『虐待された子供たち』(二見書房2004年)として公にしている。かつては、 親の死亡や離婚、病気などによって入所する子どもがほとんどだった児童養護施設は、今日、 親の虐待が原因で保護され、入所する子どもが増え続けている。そこでの子どもたちの思考 と行動を克明に描いたこのルポルタージュは、入所前にそれぞれの家庭で子どもたちが受け た虐待の酷さを、私たちに教えてくれる。 (24) 津崎哲郎「児童虐待に対する援助の仕組みとその課題」津崎哲郎、橋本和明編著『最 前線レポート 児童虐待はいま 連携システムの構築に向けて』ミネルヴァ書房 2008年 p.17~p.18 なお、経済的貧困と虐待の関係については、山野良一の報告がある。児童福祉 司として働く山野良一は、アメリカでの実習経験から、児童虐待と虐待を行う親(家庭)の貧 困との間に密接な関連があることを指摘し、これは日本においても同じように言えることを 丁寧に論証している(山野良一『子どもの最貧国・日本 学力・心身・社会に及ぶ諸影響』 光文社 2008年 p.105~p.115)。アメリカでは、子どもの人口は日本の3倍ほどであるのに、 児童虐待の発生数そのものが30倍も多く、児童虐待で亡くなってしまう子どもたちの数も年 間概数で1530人(2006年。この時、日本はでは60人。心中を入れても120人)にも及ぶことを 指摘し、そのほとんど(9割近く)が家族の年収15000ドル以下において発生していることを報 告している(p.105~p.106)。山野は「児童虐待の問題と貧困の問題は、どこかで根っこが同 じもの」(p.113)との思いを強くしている。 (25) 津崎哲郎 同 p.18~p.19 津崎は次のように述べている。「当人申請を関わりの端緒

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とせず、周りからの発見と通告によって関わりを開始し、保護者のニーズにかかわらず行政 が積極的に介入を行う、いわゆる介入型の支援を基本に据えたのは当を得た仕組みと評価す ることができる。」(同 p.99)さらに津崎は、介入的関わりを制度化するだけで事態が解消す るわけではないとしたうえで、そこに5つの段階を設けて連続した対策を総合的・システマ ティックに実施することを提案している(同 p.19~p.26)。 (26)富永忠雄 同 p.97~p.98 (27)富永忠雄 同 p.98 (28)もちろんこれを基盤として、衣食住をはじめあらゆる産業や創作活動へと、人間はその 可能性を追求し、これを実現してゆく。この総体を文化と言う。 (29)柏木惠子『子どもという価値 少子化時代の女性の心理』中央公論新社 2001年 p.34 ~p.36 (30)柏木惠子 同 p.36~p.46 (31)柏木惠子 同 p.55 (32)柏木惠子 同 p.55 なお、柏木は、ここから、性と生殖に関する健康と権利(セクシュ アル・ライツ及びリプロダクティヴ・ヘルス)の問題へと論を進めようとするが、この点に ついては本稿では扱わない。 (33)柏木惠子『家族心理学 社会変動・発達・ジェンダーの視点』東京大学出版会 2003年 p.12 (34)「衣食住」という言葉がある。これら人間にとって生きるために不可欠な要素は、人間 にとってすべて文化的行為である。何をどのように纏い、夏の暑さや冬の寒さから身を守る かという工夫から発達した被服文化は、今日デザイナーと呼ばれる職業人の活躍と、繊維業 界が提供する豊富な商品にあふれている。もちろん、そのような価値に関心のない人もいる が、そのような人たちにとっても、衣類は代価を払って購入する消耗品となっている。家庭 で布を織ること、布を裁断縫製して衣服をつくること、修繕することなどは極めて限定され た人々の趣味的な行為となってしまっている。趣味的な行為であるのならば、それは、生活 のために不可欠な家族機能とはみなされないと考えるべきであろう。 何をどのように食べるかについても、それぞれの民族は独自の文化として食文化を発達さ せてきた。だから、それぞれの民族には、独自の調理の仕方、特有の食材の使われ方がある。 同じ民族でも、地域によって独自性がある。日本においても「郷土料理」と叫ばれる表現が あるように、各地の独自な食文化が継承されていることは、このことをよく表している。そ

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して、家庭は、かつて独自の食文化継承の場であった。しかし、外食産業がすみずみまでゆ きわたることによって、家族は、食生活の拠点でもなくなってしまう可能性が出てきた。も ちろん家族で食卓を囲む人たちは今でも多いはずだ。しかし、生きるためにそのような食生 活がかつて不可欠であったのに対して、そうしなくても生きて行ける条件が整備された。こ のことはやはり食生活についての家族機能が衰えたとみなされるべきである。 ちなみに住居についても、どのように雨風をしのぐか、暑さ寒さから身を守るかという点 から、環境に合わせた工夫がなされてきた。その工夫に従って、人々は、同じ集落に住む人 たちと協力して互いの家を建てたはずだ。そこまで時代を遡らないにしても、日本では大工 を職業とする人に家の建築を依頼し、その人の采配の下に数人の職業人たちによって、家が 建てられた。そして材料にしろ工程にしろ、素人にもわかる仕方で作業が進められたから、 建築後は、多少の修繕は家族が行った。ところが今日、大手のハウスメーカーの提供する住 宅には、鉄骨やコンクリートを素材としたもの、新しい建築材料を使用したものがあり、そ こで生活する家族には全く手が出せないものが多くなってしまった。住宅も、メーカーによ って提供されたものを購入し、消費するだけのものになってしまった。 (35)「福祉の思想」『宮崎産業経営大学 法学論集』第16巻 第1・2号 2007年

(36)サルトル『実存主義はユマニスムである』L’existentialisme est un humanisme (翻訳 『実存主義とは何か』伊吹武彦訳 人文書院)において、「本質」と「実存」という二概念を 通して与えられる人間存在についての理解には、今なお、多くを学ぶことができる。有名な 「 ペ ー パ ー ナ イ フ 」 ( 決 め ら れ た 本 質 が 与 え ら れ て い る ) の 例 (Jean-Paul Sartre, L’existentialisme est un humanisume, NAGL, 1970, p.17~p.18)の後で、サルトルは、自 らの主張を次のように積極的に述べる。「実存が本質に先立つとは、何を意味するか。それ は、人間がまず先に実存し、世界の中に姿を現し、互いに出会い、そしてその後に、定義さ れるということを意味する。実存主義がとらえる人間が定義できないのは、最初人間とは何 でもないからである。人間は後になって初めて人間になるのであり、人間は自らがつくった ものになるのである。(中略)人間とはただただ、自分について理解しているところのもの であるのみならず、自分が望むところのものでもある。実存して後、自分について理解して いるところのものであり、実存への飛躍の後、自らが望むところのものである。人間は、自 らがつくるもの以外のいかなるものでもない。」(同 p.21~p.22) このような視点が、サルトル独自の engagement の概念と結びついて、人間の在るべき姿 を探究してゆくときに、豊かな思索をもたらすことになるのだが、ここでは、このような思

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ここで融合とは,バンカーが伝統的なエリートである土地貴族のライフスタ

これは基礎論的研究に端を発しつつ、計算機科学寄りの論理学の中で発展してきたもので ある。広義の構成主義者は、哲学思想や基礎論的な立場に縛られず、それどころかいわゆ

これらの定義でも分かるように, Impairment に関しては解剖学的または生理学的な異常 としてほぼ続一されているが, disability と

が作成したものである。ICDが病気や外傷を詳しく分類するものであるのに対し、ICFはそうした病 気等 の 状 態 に あ る人 の精 神機 能や 運動 機能 、歩 行や 家事 等の

(( .  entrenchment のであって、それ自体は質的な手段( )ではない。 カナダ憲法では憲法上の人権を といい、

であり、 今日 までの日 本の 民族精神 の形 成におい て大