Title
脳死・臓器移植と医療不信
Author(s)
山口, 龍之
Citation
沖大法学 = Okidai Hōgaku(11-12): 169-220
Issue Date
1991-12-20
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6539
脳死・臓器移植と医療不信
山口龍之
沖大法学第十 序章第一章脳死・臓器移植を阻む社会的、文化的要因に関する議論
第一節文化的要因説
第二節医療不信説
第三節科学論争説
第四節若干の検討
第二章分析
第一節経済的合理人
第二節医療不信 最終章今後の展望 ・十二合併号 序章筆者は、前回の沖大法学第10号で「脳死と臓器移植に関する文献整理」
という研究ノートを発表した。その中で、日本では、なぜ脳死・臓器移植
が認められるべきでないかについて、(1)脳死イヤダ論(死に対する文化的
(1)感情論)、(2)脳死危険だ論(医療Iこ対する不信)、(3)脳死ウソダ論(脳死を
人の死であるとするのは科学的に誤りであるとする議論)の3つがあると
(2) して、これを分類した。しかし、脳死・臓器移植をめぐる論議は、これにつきるものではない。
脳死・臓器移植を認めていくことも、これから社会が進むべき道としての
-つの選択であるとすれば、その議論は安楽死・尊厳死を認めるべきか否言
かの選択の論議に皮相すべきものをもっており、それは遺体を火葬にすべ
きか否かについてのかっての選択や、家族制度に関する絶えざる変革にも
共通するものがある。これらの選択における論議は科学的論争であったと
-1-同時に、高度に政治的文化的な決定でもあったからであり、また現在もそ
のようなものとして存在しているからである。そこで、脳死・臓器移植をめぐる研究においては、脳死・臓器移植を認
める文化的・社会的要因は何か、ということが議論の姐上に上ってくるこ
とになる。脳死・臓器移植認容のための社会的要因に関する論証がここに
登場することとなる。ここでは、脳死・臓器移植反対論の論拠が、脳死・
臓器移植を制度化するに際して、マイナスの社会的要因として実在すると
いう論証が展開される。そこでは、かっての脳死イヤダ論、危険だ論、ウ
ソダ論がその外皮を変えて客観的な分析の対象として再登場することとな
る。脳死イヤダ論は、脳死・臓器移植を阻む文化的心情の論証となり、脳
死危険だ論は、医療に対する市民の側に潜む不信がその要因であるとの論
証となり、脳死ウソダ論は、人の死をめぐる科学論争に終着する。
かかる側面からは、脳死・臓器移植をめぐる論争は、社会的な事象とし
て一見公平で客観的な立場からの分析となるため、こうした分析における
論者は、自身の脳死・臓器移植に関する見解を明らかにすることなしに、この論争における彼らがいうところの「真の問題点」を提起してくるこ
ととなる。本稿では、この新たな側面からの議論を分類、整理、紹介するとともに
(第一章)、そのいずれがわが国において脳死・臓器移植を認容することを
阻んでいる主要な要因であるかを明らかにしようと試みる(第二章)。
脳死・臓器移植と医療不信第一章脳死・臓器移植を阻む社会的、文化的要因に関する議論
脳死・臓器移植を阻んでいる要因として(1)文化的要因、(2)医療不信、(3)
科学的論争の3つがあげられる。(1)より順に紹介していく。 ブTd 第一節文化的要因説脳死・臓器移植を阻む要因として、日本人に固有の遺体観念をあげる説
がある。波平恵美子「脳死・臓器移植・がん告知』(福武書店)は、遺体
-2-に関する観念を身体観念という概念を導入して、シェバー=ヒューズとロッ クの提唱する3つの視点からの身体の観念を使ってこれを説明しようとす (3) ろ。すなわち、個人としての身体、社会的身体、政策上の身体の3つの観 念のレベルである。波平恵美子氏によるとこの3つの観念のレベルは、次 のように理解されるという。・ 第1のレベル(個人としての身体):人にとって、その人の身体は、他者 の身体とはまったく別の意味をもっていろ。人は自身の身体を通じて、他 者を理解するのであって、その人の身体それ自体が、その人に経験をもた らすものである。自己は自身について一つの身体イメージをもち、精神障 害では、その身体イメージがひずみとなって示されたり、身体についての 不安となって現れてくるという。 ここでいう身体とは、精神と肉体、あるいは霊と物質といったように二 元的に捉えられるものの一方をさすものではない。 第2レベル(社会的身体):左利きを嫌い、右利きを好んだり、さらには 左を「不浄の手」としたり左前、左縄、左封じといったように身体を「自 然の象徴」としてもちいることで、身体が、そのおかれた社会、文化と密 接に結びついている、そういう場における身体のことをいう。身体部位は、 シンボルとして社会的関係や価値体系と結びついていることもこの視点か ら理解される。 第3レベル(政策上の身体):身体を子孫の生産、再生産とのかかわりに おいて、また性とのかかわりにおいて、労働とレジャーにおける役割にお いて認識するレベルのことをいい、人間に示される差異が、身体において どのような差異として現われるのかという視点のことをいう。人間の身体 は、調整、監視、コントロールの対象とされる。工業化された現代医療は、 まさにこの視点から身体をとらえている。 沖大法学第十 ・十二合併号 この身体観念を脳死・臓器移植に適用すると、次のようになる。 ′へ 臓器摘出:第一の観念は、消失している。死者の身体の臓器の適合性は、 政策上の身体としての意味は有するが、それ以外の意味はない。死者の臓 -3-
器は経済的身体とでも呼ぶべきものである。 ● 脳死・臓器移植と医療不信 臓器をレシピエントに移植すること:医師にとっては、臓器はモノにす ぎない。医師にとってレシピエントの身体は、政策上の身体観念でしかな い。しかし、レシピエントにとっては、臓器に「他者」を感じる。移植さ れる臓器が心臓か、すい臓か、肝臓かで、レシピエントにとっても、社会 的にも受け取り方が異なるのは、レシピエントにとっても、社会一般にとっ ても、それぞれの臓器が社会的身体として、それぞれ異なる意味を有して いると解されるからである。波平恵美子氏によれば、この違和感こそが、 脳死・臓器移植を阻む社会的身体観念ということとなろうか。 臓器移植の同意:臓器摘出にあらかじめ同意している人の決断の背景に は、完全な身体=霊魂二元論者で、自己の死後の身体はモノに過ぎないと 信じているか(第3レベル)、自己の死後、その身体を無駄にしたくない、 という自己の身体に対する自己の支配が死後も続くという身体イメージ (第1レベル)にもとづいているものと思われる。ドナーの家族もまた「こ の死を無駄にしたくない」と考え、「どこかで、臓器が他者の身体の中で 生きている」と感じることは、第3レベルの身体観念と同時に第1レベル の身体観念が併存していることを意味するという。 波平氏は臓器移植の問題は、医師、ドナー、レシピエントにおけるこの (4) 身体観念の差が論議の対立の根元Iこあるのではないかと、推測する。 波平氏はまた、曰本人の遺体観念について、航空機事故の際の遺族や死 者に身近な人々の行動の分析から、それを次のようなものであると主張す る。 (1)日本人が、精神と肉体を対立的にとらえないとの指摘は、従来から
=宗教学の分野などで言われてきたことだが、航空機事故の遺族の行動、遺
体の収容と確認に執着する傾向が、曰本人における第1レベルの身体観念 と第3レベルの身体観念の併存の証左となっていると考えられる。すなわ ち、死体の処置を含む儀礼が行わなれなければ死者の魂を弔うことはでき -4-ない、との考え方の背景には、「肉と霊」が分離していない曰本人独特の観
念の併存がある。(2)人が死ぬ際には、できるだけ多くの自分の身近な人にみとってもら
うことが重要であり、それができない場合には、遺族は死の生じた現場を
訪れることで、死者が自分達親い、人たちに看取られながら死ぬことがで
きたということを再現しようとするのもまた、日本人における身体観念レ
ベルの併存を示している。それゆえ、遺族は死者の死亡した現場にこだわ
り続けるのである。 沖大法学第十 ・十二合併号波平氏は明言していないが、かような遺体観念からは、脳死状態での臓
器移植など容易に認められない状況が浮かび上がってくる。
麗澤大学教授で、哲学・比較思想の専門家である小田川方子氏も次のよ
うに語っている。「日本の身体観や遺体観には、儒教や道教の影響が大き
いですね。死んでしまった人の肉体でも、霊魂が再び寄り付く可能性があ
り、価値がなくなってしまったとは見なしません。死者を火葬しても、残っ
た骨を大切にします。」「東洋では心と体を-つにとらえます。はり・きゅ
うなど伝統医学を見ても分かるように、体の各部分は互いに関係し、自然
ともつながっているとしています。いかに体全体の質を高め、病気を予防
するかが大きな目的です。臓器移植は、やや異質の医療ではないでしょう
か。」こうした脳死・臓器移植に対するマイナス要因を日本の文化に求めよう
とする主張に対して批判がないわけではない。たとえば、国際曰本文化セ
ンター教授であり、宗教思想史の専門家である山折哲雄罠は、(1)曰本の伝
統的思想が霊肉二元論によって支配されており、人の死後、その人の霊魂
は「他界」に赴くのであって身体にとどまることはない。内臓器官を特別
に識別したり、尊重する観念はなかった。からだと心を一体視する考えは、
はるか後世になってからつけ加えられたものである。(2)遺体を傷つけるこ
とに対する嫌悪、忌避の態度も、言われているほどには存在しない。火葬
一〈 -5-{よ平安時代から浄土教によって民間にも浸透しており(明治の火葬令も、 それまで土葬中心だった地方にも何の抵抗もなく受け入れられたのもこの
莞ためか-筆者記)、中世墓にも火葬の形跡が残されていることからしても、
臓曰本人の伝統的死生観から臓器移植に正面から異議を唱えるような観念は 器 移でてこない。そこで山折氏は曰本人の臓器移植への強い抵抗感は、医療に壇対する不信感からくるのではないか、と推測するわけであるが、この問題
医 療{よ、次の第二節で取り上げることとする。 不 信 第二節医療不信説 (7) 日本世論調査会カヌ1991年6月29,30の両日実施した全国調査によると、 「脳死を認めて良い」としたものが56,3%で、「認めるべきでない」とする3 3,5%を大きく上回ったものの、「脳死の人からの臓器移植を進めるべきか」、 との問いに対しては、「慎重に進めるべき」(56,7%)、「進めるべきでない」 (14,4%)、との見解が「積極的に進めるべきである」とする見解(25,1%)を 大きく上回った。「積極的でない理由」は、「脳死判定が適切か不安」がトッ プで41,5%、「完全に治るとはかぎらない」(22,9%)、「脳死で体を傷つける のはしのびない」(14,6%)、「臓器をもらってまで生きる必要はない」(10,8 %)、「倫理・宗教上の理由から」(4,2%)と続いている。 脳死臨調中間意見に付された少数意見は、臓器移植について、「札幌大学 心臓移植事件、筑波大学すい腎同時移植事件などのような重大事件が起こっ ても、関連医学界はそれについて何ら発言せず、それらの事件はすべてう やむやになっている。そのことは人々の医学に対する不信を増大させてい (8) る。」と述べてl、。 確かに脳死臨調は、「和田心臓移植」で太田邦夫氏から宮崎信夫君の心臓 の弁の一部は別人のものであった可能性を認める鑑定報告を受けており、 (9) 医学界の反省と自己改革への努力を求めていくことが方針とされている。=こうした医療(医学)に対する不信は、決して一般市民のものにとどま
らない。病院の看護婦らが脳死認容に消極的であることは、国立循環器セ (10) ンターの調査に現れている。l図死を人の死と考える看護婦は44%となって いるが、これは、そのほかのスタッフが脳死を人の死とする割合が48%と -6-言うのと比べて低い数字である。 救急医も、脳死臓器移植には懐疑的なものがいることは、新聞でも報道 ’(11)(12) されており、移植医の先陣争いには、時期尚早と批半Iも強いのである。 また、山崎章郎「病院で死ぬということ』主婦の友社(1990)37頁には、 病理解剖を拒む遺族に「死亡診断書を書かない」と病理解剖を迫る医師の 話がでてくるが、こうした姿が本当であるとすれば、医師に対する、医療 に対する不信は現実のものとして、脳死・臓器移植を阻む要因となってい ることが十分に考えられることとなる。 医療に対する不信を書き立てる本は増えており、たとえば半田宏氏の 『悪い医者』株式会社データハウス(1989)や永井明氏の『医者が尊敬され なくなった理由」飛鳥新社(1989)などは、医療機関内部の事情をあけす けに語っていておもしろい。たとえば、半田氏の本によると、帆ガン〃の疑 いが少しでもあれば、患者の家族には率直に話す。それも帆五分五分〃の 場合でも帆死ぬ。あとは体力しだいで大丈夫かも〃という、それなら助か れば感謝されるからという話(104頁)は、大変に興味深い。 体内に手術針や、ガーゼを忘れるといったケースは、決して本の中の話 だけではないらしく(同書138頁)、東京の主婦が病院を訴え、病院もこの (13) 事実を認めているという言己事は、新聞にも載っており、置き忘れ対策とし てガーゼには、導線をいれるという事実(同書144頁)もこのことを物語っ ている。 (14) (15) (16) 「医療過誤原告の会」、「患者塾」、「『患者の権禾'1法」をつくる会」いった会 が全国で発足している事実も、市民の医療に対する不信のあらわれであろ うか。米国の先進6か国調査でも、医療の満足度は日本が最低であるとの
結果がでてい鷲。病院の説明に満足している人は、4割との世論調査の結
(18) 果もある。 患者の同意(インフォームド・コンセント)との関係について:脳死・ 臓器移植が話題となるたびに、患者の同意(インフォームドコンセント) が問題となる。脳死者のあらかじめの同意、または遺族の同意の確認は、 これからの曰本の医療にとっても不可欠であるかのどとく語られているが、 インフォームド・コンセントが医療の世界に登場するのは比較的近年のこ 沖大法学第十 ・十二合併号 酉 -7-とである。そもそもヒポクラテスの誓い以来の欧米の医療の伝統には、患
者の同意に基づく医療という考えはない。伝統的な考え方では、医療は患
者に恩恵を与えるものであり、少量の知識は善よりも害をもたらすと考え
られてきたので、患者に情報を与えるということはしてこなかった。それが、 20世紀に入ると自己決定権の概念とともに、急速に医療のなかにも導入さ (19) れてくることとブ:j:る゜脳死臨調中間意見に付せられた意見書(少数意見)も脳死者からの臓器
摘出の条件として、ドナー、レシピエント両者の同意を要求している。日本では患者の同意権という概念が定着する前に脳死・臓器移植の問題が起
こってしまったために、脳死・臓器移植の障害になっているのが、医師の 説明義務と患者の同意権のみであるといった誤解も一部では生じているよ うであるが、問題はもう少し複雑である。この問題については、第2章で検討することにして、次に、第3節、科学的論争の未決着が脳死・臓器移
植を阻んでいるとの説の検討に移ろう。蕊
・臓器移植と医療不信 第三節科学論争説 次に登場するのが、脳死判定基準に対する科学論争である。脳死を人の 死として認めるためには、科学的にみて、それが人の死であることが確認 されなければならないことは、現代文明のもとでは、ほとんど疑いの余地 のないところであろう。もちろん死の概念は、科学によってのみ決定でき るものではないとして、文化的死の概念を導入すべきであるとする見解も (20) 有力に主張されてきて|まいる。 しかし、文化的死が訪れるのは、なぜかいまのところ、科学的な死の後 と決まっているようであり、科学的な死がいつやってくるのかを決定して おくことは重要なことに変わりはない。 この科学的な死を判定する基準であるところの、厚生省の脳死判定基準 に疑問を投じているのが、立花隆氏である(もちろん立花氏は、脳死概念 そのものにも疑問を投じているし、臓器移植についても、問題提議してい (21) ろが、ここでは脳死半I定基準に絞って検討をしていく)。立花氏は、刑法学 (22) の専門家、中山茂氏とともに、厚生省の基準|こ疑問があるとして反対して -8-いる評論家である。
立花氏は、脳機能の喪失ではなく、脳の器質死を脳死概念として採用す
ることを提唱している。脳の機能をチェックしていくことで脳死判定をす
ることには、無理があるというのである。脳機能が停止しても、脳機能は
その一部を復活させる可能性がなきにしもあらずであり、そもそもの脳死
の定義であったところの「全脳の機能の不可逆的喪失」を判定する方法と
して現在の基準は、脳のいくつかの部分の機能喪失を判定するものでしか
なく、はたして全脳の機能喪失が確認できるか疑問だ、というのである。
しかも、脳機能の「不可逆的喪失」というときの不可逆性の確認が今の基
準で判定できるとは、とてもいえない、というのである。そもそも、平坦
脳波や瞳孔散大、深昏睡、無呼吸、脳幹反射消失といった基準では、内意
識とよばれる意識は消失していない可能性も残っているのである。
中山氏もグリーンとウィークラーの全脳死説批判の見解を以下のように
紹介している。「(低次脳の機能の停止が必ずしも人の死を意味しない)、低次脳の仕事
がこれらの代替物(レスピレーター等、山口記)によって行われれば、人
体はシステムとして機能しつづけるであろう。これは家の暖房システムが、
サーモスタットが故障しても手動で行われれば維持されるのと同じである。
コントロールの源泉は重要ではなく、問題は仕事が行われるかどうかにあ
る。今曰用いられている人工的な生命支持物はまだ貧弱なものであり、人
体の死が通常脳死を結果するが、人工的に維持されたシステムがもはやシ
ステムではなくなるほど貧弱ではない。したがって、医学文献上低次脳の機能の永久的停止が人の死であるとい
(23)われているの|ま疑問であり、証明ずみのものではない。」
この科学論争は、私が読む限りでは立花、中山両氏に軍配があがってい
るように見えるのだが、ここでは、いずれの側を支持すべきか、というこ
とではなく、こうした論争が脳死・臓器移植の制度化に与えている影響で
ある。脳死臨調の中間意見では、この点が医療に対する不信とともに争点となっ
たことがうかがえる。まず、多数意見、次に少数派から提出された意見書
沖大法学第十 ・十二合併号 -9-の順でこのことをみていこう。 多数意見:意識.感覚など脳の持つ固有の機能と、脳による身体各部へ の統合機能が不可逆的に失われれば、人は個体としての統一性を失い、数 日で心臓が止まる。これが脳死で、個々の臓器・器官にばらばらに機能が 残っても、それは「人の生」ではない。・・・脳機能の中で、生体に必須 の機能を統合.調整するのは脳幹部なので、「脳死」を「脳幹死」で定義す べきだとの考え方もあるが、脳全体の機能の不可逆的停止という点で同じ (別)
で、「脳幹死」で定義する必要はない。脳死Iま脳の全細胞が死んだ状態だと
の主張があるが、脳が身体各部を統合する機能を失ったら、部分的な機能 が残ってもそれは脳の機能とはいえない。脳死判定でも脳細胞が実際に死 (25) んでいるのを確かめる意味はなく、実際上不可#Eである。 少数意見:多数意見は、生命は有機的統一体であり、この有機的統一を 可能にするのは脳の機能であり、したがって脳が死んだ場合はその有機的 統一が失われ、人が死んだのと同じであると結論する。統一の機能を脳に おくのは少なくとも生物学的な理論ではない。植物には脳が存在していな いが有機的統一をもっている。二重人格の人は人格に統一がなく、その意 (26) 味で有機的統一Iこ欠けているとすれば、彼ははたして死者なのか。 脳死・臓器移植と医療不信 第四節若干の検討 以上の三つが脳死・臓器移植を阻んでいる要因としてマスコミ、出版界 のなかで論者、識者といった人たちによって語られてきたものである。し かし、これらの要因説に対しては、それぞれ、脳死・臓器移植の障害要因 とはならない、とする主張がある。そこで、ここでは、いずれが脳死・臓 器移植を阻む要因かということについての分析に入る前に、それぞれの主 張に対する反対説を紹介することとする。 文化的要因説に対する反論文化的要因説に対する反論については、す でに若干紹介した。要は、日本人は言われているほど死後の身体に固執し ないということである。もし、こうした身体観が仏教のそれであり、儒教 的感覚ではやはり死後の身体に固執するというのなら、それに対しては次 -10-のような反論が考えられる。
もし、文化的要因説の論者の主張が正しければ、儒教や道教の影響が強
い国では、身体を火葬にしたり、墓に入れずに撒いてしまうこと(散骨)
には、強い抵抗を示すはずである。ところで韓国は曰本以上に、儒教や道
教の影響が強いことで知られている国である。ところが、その韓国で、最
(幻)近、火葬・散骨カゴ進んでいるという。1990年の調査では、土葬が一般的で、
火葬は8%にすぎなかったものが、ここ1年くらいの間に火葬にされる遺
体は2ないし3割になっているのではないかという。しかも、火葬場には、
骨を粉にする道具が備えられており、散骨する人も少なくないという。韓
国では、儒教が6割、残りの4割を仏教徒とクリスチャンが占めていると
いう。ところが、儒教でも、親より先に死ぬと墓をつくらない習俗がある
が、このことは、子が死んだ後、親が死ぬと子の墓をみてやるものがいな
くなってしまう、ということからきているという。未婚者や墓をもてない
者のほか、一族の繁栄のため努力したのだから、死んでからは自由になり
たい、と遺言する者もいるという。宗教が脳死・臓器移植を阻む要因とは
言えない、というわけである。こうした批判に対しては、わが国における火葬は、日本の都市化によっ
ていたしかたなくなされるもので、火葬そのものが目的ではなく、骨を墓
へ持ち帰ることが目的なのだという。だからこそ、わが国では「火葬にした
(28)からとて、ii:i灰をそこらに撒布したりはしない」のだという反論がある。
沖大法学第十 ・十二合併号医療不信説に対する反論医療に対する不信に対しては、臓器移植で命
を救われた、医者は患者を救うため一生懸命努力している、といったキャ
ンペーンが繰り広げられており、さらに医師と患者の関係は信頼関係の上
に成立されるべきだ、といった倫理上の議論が医療不信説に対して正面か
ら議論を挑んでいる。医療に対する不信は存在しない、というのではなく
医療に対する不信が臓器移植を阻んではならない、という視点からの臓器三
一移植推進要因カゴ論者によって用意されることになる。
まず、医師がいかに患者のために努力しているか、という点であるが、
この点については、主として医師側から多くの作品が近年になって提出さ
-11-れている。たとえば、竹中文良「医者が癌にかかったとき』文芸春秋(1991) や、黒柳弥寿雄「閑かなる死」ゆみる出版(1990)は、技術、人格ともに 優れた医師の述懐のなかから、医師が日々患者のためを思っていかに努力 しているかがつづられた作品である。 次にあげられるのが、臓器移植が行われることで救われる命について人々 の情感に訴えるものがある。監修中村輝久『決断一生体肝移植の軌跡』
時事通信社(1990)は、近年話題になった生体肝移植を受けた杉本裕弥ちゃ
んに関するドキュメントである。中曰新聞に1990年まで連載された加賀乙 彦の『生きている心臓』(講談社)もこの類としてあげられる。こうした ものは、それまでの啓蒙的書籍、たとえば雨宮浩「臓器移植48時間』岩波書店(1988)や、マーク・ダウィ箸平沢正夫訳『ドキュメント臓器移植』
平凡社(1990)といった臓器移植を啓蒙しようとするものから、現実的に なってきた臓器移植が、人々に与える心理、それに対する心構えのような ものを扱うことで-歩踏み込んだものまで現れている。イギリスで心臓移植を受けた患者が曰本での再開を訴えたり、臓器提供へ理解を訴えて移植
(29) 患者の会カヌ発足したりするのも、こうした傾向を代表しているといえよう か。 最後に患者・医師の関係について、医師を呪術師のように見るのもよく ないが、患者を医療の消費者とする市場モデルも好ましいものではないと して、第三の類型、信頼と協力を前提とする関係を提唱することで、この (釦)危機を乗り越えようとする立場があげられる。この立場で'よ、専門知識の
落差を前提としながらも、それを説明義務などで補うことを考えず、むし
ろ情報というゲームにおける非対象な関係を前提にして、新たな関係= 「信頼と協力」を考えていくべきだというのである。 脳死・臓器移植と医療不信科学論争説に対する反論科学論争説に対する反論も可能である。確か
に前出の曰本世論調査会の世論調査によると、脳死判定には、多くの者が
不安を感じており、その原因は「科学論争に決着がついていないからだ」
とすることもでき琶。しかし、脳死臨調の中間意見(多数意見)は、「実行
可能な医学的に確立された方法で脳死が判定されれば、これまでの『三兆
 ̄ ブーヒ」 -12-(32)
候』の場合と同様、社会的Iこ許容可能だ」としている。それでは、多数意
見のいう「実行可能な医学的に確立された方法」とは何かというと、それ
は厚生省研究班の基準になるであろう。けだし、多数意見は、「厚生省研究
班の脳死基準は現在の医学水準からみて妥当である」としているからであ
(33)り、プt二だ、少数派を説得するだけの努力も必要として、「不断の見直しの努
(弧)力」と「それらについて社会|こ説明する」努力を医学界に求めている。もつ
(35)とも、国民全体の意見の一致は「非現実的」と多数意見カヌ考えていること
は、脳死を認容してから久しい諸外国でも、見解は分かれているという指
摘からも、うかがえる。社会的合意とは、必ずしも全員一致を意味しない
ということである。多数意見は市民の反応をみながらゴーサインを出すタ
イミングをはかっているというところだろうか。
沖大法学第十 ・十二合併号 第二章分析 第一節経済的合理入わが国の社会が脳死・臓器移植を拒んでいる要因は何か、という議論に
おいて、臓器移植に対する前出の曰本世論調査会のアンケートの結果やこ
れに類する世論調査の結翼を持ってきて、これが要因である、と語ること
は容易である。確かに半数を越えるものが、脳死に賛成している。もっと
も、これらの者のいくらかは脳死判定に不安を感じているから反対ともい
える。僅かでも反対するものがあれば、社会的合意ができていない、とす
ることもできれば、社会的合意ないし承認とは、全員一致を意味せず、脳
死.臓器移植の問題は、個人の決定にゆだねるべきであると考えれば、半
(37) 数もし、れば充分とも考えられる。ところで本稿の目的は、社会的合意ないし承認のための形式上の要件は
なにか、という議論に立ち入ることではない。ここでの分析の対象は、あ
くまでわが国において脳死・臓器移植を拒んでいる社会的、文化的要因が
あるとすれば、「それは何か」、を探ることである。そうして、この作業
のために、すでに三つの見解を紹介し、検討してきたのである。
□〈 -13-こうした議論をしていると私には、かって法社会学の分野で盛んに論じ られ、いまでも論じられる日本人特殊論、特に「曰本人は訴訟嫌いか」の テーマで扱われてきた議論が思い出される○そこでは、日本における紛争 の当事者が裁判を避ける傾向が、日本独特の文化によるものなのか(文化 説)、曰本では訴訟の費用が高価であり、解決に時間がかかりすぎるため なのか(費用説)、もし裁判で争えば下されるであろうところの判決を当事 者が予測できるために、わざわざ裁判しなくても当事者間で解決できるか (38) らなのか(予測可能説)の見解の相違カヌ論じられてきた。 この論争にある程度の決着をつけた、あるいは決着の見通しをつけたの は、マーク・ラムザイヤー氏による「法と経済学」の手法による分析であつ (39) た。ラムザイヤー氏は、日本における交通事故における責任保険lこよる損 害賠償の支払に関する統計、分析を通じて、曰本人が、交通事故において 裁判をしないのは、予測可能性説によってもっともよく説明できるという ことを証明した。その概略は以下の通りである。 (1)もし、文化説が正しいとするなら、日本では、自己の富の維持・増大 をはかるよりは共同体的関係の維持を優先させるはずである。被害者は、 自己が有する権利を主張しない、ないし、控えめにしか主張しないはずで あり、加害者もまた被害者がしてきた権利主張に対しては、争うことを避 けようとするはずである。その結果、被害者は裁判で下される賠償命令よ りもはるかに低い額での和解ないし示談に応じるはずであるし、被害者が 強烈に自己の権利を主張すれば、加害者は裁判で下されるであろう賠償額 よりもはるかに高い和解金ないし示談金を支払っているはずである。 (2)もし、費用説が正しいなら、裁判では費用と時間がかかりすぎるため 訴訟を断念するのであるから、被害者はごくわずかの金銭で示談ないし和 解に応じるしかないはずである。 (3)もし、予測可能性説が正しいとするなら、当事者は裁判で認定される であろう賠償額に近い金額で和解ないし示談するはずである。 ところで示談ないし和解に対しても、わが国では保険の適用がある。そ こで、この裁判外保険金の支払額および判決による賠償額を比較すれば以 上の仮説の検討ができることとなる。結論からいってしまえば、(3)が数値 脳死・臓器移植と医療不信 Cセ -14-
のうえでは合致する。もちろん、この検証方法には疑問をさしはさむ余地
がまったくない、というわけではない。たとえば、(2)の費用説の検証において被害者は、裁判上の認定賠償額よりもはるかに低い和解金ないし示談
金を受け取っているか否かは、主観の問題であり、被害者が、裁判で争え
ば受けられるであろう額の10ないし20%少ない賠償額で和解ないし示談し
てしまうことは、費用説の反証にならない、というのがそれである。
しかし、だからといって予測可能性説を否定するものでもない。裁判に時間と費用がかかることは、事実であるとしても、それが曰本特有の現象
というほどでもないなら、あえてわが国の訴訟率の低さを費用説で説明で
きろとも思えないからである。 そこで、ここではラムザイヤー氏の検証方法の有効性についてさらに議論せず、ラムザイヤー氏の結論を有効なものとして考えておくことにする。
けだしマーク・ラムザイヤー氏の論証は科学的にみて正しい論証といえるかどうかについて疑問が残らないわけではない。①は、それが反証可能性
(falsiability)をゆうしているわけではないからである。予測可能性説が最
もよく数値に合致していることは必ずしも予測可能性説でなければならないことを意味しない。しかし、他の学説よりは、より与えられた数値に対
して妥当な説明を提供してくれていることも事実である。そこで、ここで は他の学説の因って立つ文化的に特殊であり、西欧人とは別の行動原理の 下に動いている、との主張を排斥することが出来ると考えておこうという のである。すなわち日本人特殊論は、それが検証されるまでは、前提とせ ず、経済学でいうところの経済的合理人とも比相すべき「合理人」の前提 にたって人は行動するものとする。 そうすると、(1)脳死・臓器移植における文化的要因説が正しいとするな ら、それはその人をして脳死後の扱いについて、死者として扱われること を拒否させるであろう。しかし、それは、その人個人のことであって、他 者が脳死後の臓器移植を拒む理由にはならないはずである。脳死ではないが、文化的な身体に対する観念が、他者の希望を妨げるものでないことは、
「角膜移植に関する法律」(1958)や「角膜および腎臓の移植に関する法律」 (1975)の制定に際して反対が少なかったことからもうかがわれる。もつと 沖大法学第十 ・十二合併号 □一〈 -15-も腎パンクや角膜バンクへの登録者が、必要とされる臓器の数に比べて少 ないとするなら、曰本に臓器移植を嫌う文化的要因があることの証左とは なりえよう。要は、文化的要因としての身体観念は、臓器移植立法を阻む (40) 要因ではなし、ということである。 (2)科学的論争についても、同様のことがいえる。もし、脳死判定基準に 疑問が残るものであれば、人は脳死後の臓器移植をあらかじめ拒否してお けばよいのであって、脳死制度制定そのもの反対の理由にはならないはず である。 もっとも、こうした議論に反対がないわけではない。脳死を人の死とし た場合、長い間世話になった医師から説得されたとき、家族が臓器提供を 拒否することは曰本の社会の現状ではむずかしいのではないか、という指 (41) 摘がそれである。しかし、この点こそ、ここでIよ「医療不信」の問題とし て、扱ってきた問題なのである。そこで、次にこの医療不信の問題につい てみていこう。 脳死・臓器移植と医療不信 第二節医療不信 医療不信を示すデータがある。曰本の医師とアメリカ合衆国の医師が、 同じくらい優秀であり、曰本人もアメリカ合衆国の住民と同じくらい自己 の権利を主張することに敏感であり、侵害されれば、裁判で争うことも祷 踏しない(訴訟嫌いでない)との前提にたつならば、日本においては、医 師側が自己の過失を隠ぺいすることができ、従って患者の権利が保護され ていないという事実が立証できれば、曰本では医療に対して不信感を抱く 前提条件がある、と考えてもよいであろう。 この目的のためまず、医療紛争の件数の比較からはじめよう。そこでは、 アメリカ合衆国は、日本に比べ驚くほど医療紛争の数が多いことが示され る。次に、その原因について、最初はアメリカ合衆国の議論を、続いてな ぜ、曰本では医療過誤がおこってもそれが医師側の過失によるということ が立証できにくいのか、そのメカニズムを探っていく。そこでは、過失の推認 の議論から囚人のジレンマまで、さまざまな側面からの検討がなされる。 □三 -16-
医療過誤訴訟のデータ比較 沖大法学第十 日本のデータ
第1表医療過誤(民事)訴訟事件の処理状撹
(昭和51年-62年) ・十二合併号1,医療過誤訴訟事件については、報告事件として報告のあった事件数に
基づくものである。2,医療過誤訴訟事件には、保全事件を含まない。
□酉 -17- 新受 既済 未済 昭和51年 234 144 844 昭和52年 257 153 948 昭和53年 238 184 1002 昭和54年 252 179 1075 昭和55年 310 176 1209 昭和56年 195 195 1209 昭和57年 270 236 1243 昭和58年 271 224 1290 昭和59年 255 219 1326 昭和60年 272 262 1336 昭和61年 335 267 1404 昭和62年 335 304 1435第1図医療過誤訴訟事件の既済事件における判決・和解等の割合 1 J 割合% く 解他決 和そ判 の
z□圏
脳死・臓器移植と医療不信 859606 年度(昭和) 第2表医療過誤訴訟事件の終局区分別既済件数及びその割合 (昭和56~62年) 195 1000 235 1000 224  ̄ 1000 218 1000 -18- 判決 和解 放棄 認諾 取下げ その他 計 昭和56年 件数 比率 82 421 91 46.7 3 1.5 0 0 11 5.6 8 41 195 1000 昭和57年 件数 比率 95 40.4 107 45.5 0 0 0 0 26 11.1 7 3.0 235 100.0 昭和58年 件数 比率 102 45.5 83 371 1 0.4 0 0 29 13.0 9 4.0 224 1000 昭和59年 件数 比率 94 43.1 95 43.6 2 0.9 0 0 14 6.4 13 60 218 100.0沖大法学第十 + 合
彗
(注)1 2本表は、報告事件として報告のあった事件数に基づくものである。
穂表の事件数には、保全事件を含まない。 第3表 (昭和51年~62年)  ̄ (注)1 2 3 4認容率とは、判決総数に対して認容件数の占める割合である。
「認容」には一部認容を含む。 通常訴訟事件には、医療過誤訴訟事件を含む。 本表の基礎とされた事件数には、保全事件を含まない。 -19- 昭和60年 件数 比率 123 46.9 104 39.7 2 08 0 0 24 9.2 9 3.4 262 100.0 昭和61年 件数 比率 110 41.0 109 40.7 3 1.1 0 0 30 11.2 16 6.0 268 100.0 昭和62年 件数 比率 148 48.8 120 396 0 0 0 0 20 6.6 15 5.0 303 100.0 平均 比率 44.0 41.8 0.7 0 9.0 4.5 100.0 通常 (対席判決のみ)通常 医療 昭和51年 昭和52年 昭和53年 昭和54年 昭和55年 昭和56年 昭和57年 昭和58年 昭和59年 昭和60年 昭和61年 昭和62年 j % く 444547179586 ●●●●●●■●●●●● 455566856777 888888888888 j % く 924849379435 ●●●●①●●●●●●0 566555756788 777777777777 J % く 407330636706 ●●●●●●●●●●●● 674909256107 533333332331 平均 86.5 76.6 34.2第3表にある12年間の平均では、医療過誤訴訟の認容率は、342%と 通常訴訟事件全判決の認容率86.5%、対審判決の認容率76.6%と比較して かなり低い。第1図、第2表にあるように和解件数の割合が高い(昭和5 6年から昭和62年までの7年間の通常訴訟事件の和解率は、平均31.6%で (46) ある)。 脳死・臓器移植と医療不信 日本における医療過誤紛争の件数を知る手がかりは、医療過誤として裁 判所が処理した件数(新受、既済、未済)に限られない。医療過誤責任保 険は、わが国でも充実しており(日本医師会会員は医師賠償責任保険に日 本医師会によって団体加入していることでカバーされている)。そこで、 こうした保険によって処理された件数も指針となる。以下、その件数をあ げておこう。数字は1990年の統計である(この統計は日本損害保険協会の 調査によっている。ただし、曰本損害保険協会は、こうした統計を公開し ていない)。 日本医師会医師賠償責任保険 契約件数1(日本医師会)保険料総額2,966,110千円 支払件数590件支払総額2,452,637千円 (支払総額を支払件数で割ると、4,157千円となる) (一般)医師賠償責任保険 契約件数15,758保険料総額7,805,990千円 支払件数1,589件支払総額6,570,284千円 (支払総額を支払件数で割ると、4,134千円となる) 医療施設賠償責任保険 契約件数10,176保険料総額935,306千円 支払件数535件支払総額233,181千円 (支払総額を支払件数で割ると、435,800円となる)  ̄ 参考のため、損害賠償保険協会作成の医師賠償責任保険と日本医師会医 師賠償責任保険の比較表を掲げておく。 -20-
沖大法学第十 ・十二合併号 淵鱒丑鰹吐出俶璽聖屋山組塩山符□刈鰹止坦細細}聖塩幽猟『髄 C◎ -21- (願埣)蝦露出等屋蟹 鯏塩幽骨、 (幽騨鋪)咽鯏◎く小屋幽骨、 (幽絲歴)皿鯏eく鯏屋幽骨、 l垣矧く垣I 。仰怜遅くい知 単掘墾聖幻迷ご籍僻帥過杜血仰や図瑠]繩に艦幽 圧煙[丹亜悪、圧越[梧冊[ 。由興剖鰹梨撞U茄縮評裡暮刊興蔓揺鰄蝉欝蜑里丹転薦裁誇箪 KlY偶鵬 圧梹S扁○呈箱柵[ 錘吐出純麺聖屋幽鯏屋幽骨、鍵迷出伽越聖屡幽 (盾願望1)襯霊暗記屍堅 つ揮偶繋里蝉)帥山騨繍〆(鮴く坦礎幽〆幽糾霊)椥稲霊 幽騨繍蛭 如蝉e露鰍幽櫓繍 I垣劃く垣I 岨鱒繍・岻姐筍閏く埋岬褐P椥縄霊亜 如醜e露馴く坦 幽鱒編も剤鵯(く里)抑稲匪》如蝦e露鰍哩腫・虐腿紬e伽鰯く璽 l垣研絹漫- 碩や罐くいWへ〆弓輕聖e鼻側却・蓬堂吋・稲漫叩露埣絹橿腿幽③ 点や漣くいW坦魎麺聾師達]紹冊肺璽趙血岬杓図卿]繩に腿幽坤露坤屋幽e 黒鯛囚長剰ege 黒鯛囚長剰ege 黒鯛①負剰e言e I I I 医耀総号 忘耀紬》 露弊總遣礎幽。 露 蝉屋山 直旬刊無積旦如蝉侶暑刊皿鰡筌籍綿]各亜罫遜吐 e KlY唾蝦 庄越[ 圧延白 圧俟Cs『 卯[ 籍冊[ 籍冊[ 杜町 辱謹 圧漣[ 圧越三 圧腫Cs『 叩[ 糖冊[ 箱冊[ 赴血 辱蔑 圧越壺丹亜罫、庄廻[籍冊[ 庄悔s[ 圧悔Cs 圧疽二 叩[ 箱蹄[ 籍怖[ 杜血 尽益 圧悔三[ 庄悔二国 庄悔白 叩[ 籍冊[ 温柵[ 赴血 辱謹 圧侯C冨丹極悪、圧悔三[籍蹄[ 圧三三杣01毎冊[烏熊鑓禰碧腿幽(服隠面「g禅魎四凸〆蛍箭適磐旧填組P描圧悔皀“露諦葭幽 匿輸悩蕊遜壁 匠願 神
議
塾 吐 純圧耀くい 剖題麗鰹駈 迷遜e垣締 騒絹楓慨 蕊塾迷この他曰本医師会の保険の場合は、裁判による判決、調停の場合の他は、 都道府県医事紛争処理委員会による折衝による解決によらないと賠償金は 払われないこととなっている。 脳死・臓器移植と医療不信 もちろん、わが国では、これ以外に患者ないしその遺族が医療過誤の疑 いをもって病院ないし医師と接触し、病院ないし医師が見舞金ないし示談 金を患者側に支払ながら責任保険の支払を申し立てないケースも若干存在 するものと推測される。その理由として、国立病院、公立病院にあっては、 自己解決するものが相当数あり、イージーミスで自腹を切る医師、病院も あるものと推測されるからである。この件数に関しては、医事紛争を100と すると、おおよそ見舞金が40、消失が30、示談20、裁判中の和解5,判決 (47) 3(有責1,無責2)であるとの研究カヌある。紛争となったケースでさえ、 見舞金、消失については、責任保険による支払の請求がないので、どの位 の金銭が支払われたか明かでないが、患者が満足する支払がなされている とは考えにくいOそれはなぜかというと、医療過誤における損害賠償額は、 医師のポケットマネーで支払うほど低額ではないからである。 むしろ、次にみるアメリカ合衆国における訴訟の多さ、金額の高さと比 べると、患者側が医療過誤の疑いをもっても、その原因を特定できないた め、訴えはおろか、示談にも持ち込めず、わずかな見舞金か、あるいはまっ たく何の補償も得られないでいるか、悪くすると医師の説明に納得はでき ないものの、力。といって医師の過失も証明できないため、医師側と交渉さ えできないでいるというのが実状ではないだろうか。そこで、次にアメリ カ合衆国の統計を曰本のそれとの比較の視点からみていくことにしよう。 アメリカ合衆国のデータ アメリカ合衆国における医療過誤訴訟に関するデータは、曰本の集計と 同じ方法によっているわけではなく、また、そこに現れたデータの評価に ついても見解が分かれている。アメリカ合衆国では、医療過誤訴訟は1970 年代後半から急激な増加の傾向を示しており、そのために保険の危機とし 究 -22-
て論じられてきたのである。そこで、ここでは、まず、アメリカ医師会(A
MA)の資料などを揚げ、次に、そこで行われた分析と議論を紹介する。
沖大法学第十表5医療過誤訴訟年平均薮
・十二合併号日本の医師数は、およそ20万人であ署。これに対して、アメリカにおけ
る上のデータは、医師百人あたりの年間の訴訟件数であるから、曰本の医
師の総数に百分の-をかけ、これに上のアメリカの数値6,7(ないし3,1)
をかければ、曰本がもし、アメリカ合衆国なみに医療過誤訴訟が行われる
ようになれば、いったいその数はいくつか、ということがわかる。年13,40
0件(1976-1981)、6,200件(1975年以前)ということになる。これは、
最高裁判所の集計による1981年(昭和56年)の新受件数(新たに訴訟を起
こされている数)195件の60倍以上にもあたり、もっとも最近の集計である
1987年の335件と比べても40倍にもなる。また、日本の社会では訴訟が好ま
れないとして、保険による支払件数を勘案しても、一年あたりの保険金支
払件数は、最も多い(一般)医師賠償責任保険でも、1990年でも1,589件、
ナヒj ′、 -23- 医師100人に対する年平均訴訟数 1976-1981 1975以前 医師一般 6,7 3, 1 専門分野別家庭医、一般(general/family)
内科 外科 小児科 産婦人科 放射線科 精神科 麻酔科 その他 950551786 979999999 459358163 1 067294015 999779999 224143132三つの保険支払件数の総数(実際には重複して支払われるものが相当数あ ると思われるが)でも、2,714件になるに過ぎないから、アメリカ合衆国の およそ五分の一にすぎない。直接の統計はないがアメリカ合衆国は、曰本 に比べ人口も多く、医師も多いため、実際のアメリカ合衆国での医療過誤訴訟 (50) の新受件数は、たとえば1983年において4,200件にも及んでいること|こなる。 賠償額については、支払われた保険金の比較で見てみることができる。 脳死・臓器移植と医療不信 (51) 表6賠償責任保険の支払額割合 (52) アメリカ合衆国の主要な医師賠償責任保険会社セントポーノレ社の報告で は、1979年には、保険会社が支払った平均賠償支払額は27,408ドルだった ものが、1983年には、53,482ドルに上昇しており、陪審による裁判におけ る医療過誤訴訟の平均支払額は、1980年が404,726ドルだったものが、1984 年には、954,854ドルに上昇している。これは、ようするに-部の訴訟、特に 陪審制による裁判では、賠償額が突出して高いということを示唆している。 わが国では、表6のような統計はでていないが、平均では、400万円を越 えており、アメリカ合衆国での平均的支払額を越えている可能性が高い。 これは、日本ではよほどのことでないと、医事紛争にならないということ であろうか。 アメリカ合衆国で医療過誤訴訟が、多いことについては、アメリカ社会 内部でも、賛否両論ある。 ところで、アメリカ合衆国では、医療過誤訴訟が、上にみた統計のよう に増えたのは、1960年代後半からであり、1975年には、保険の危機と呼ば 空 -24- $0‐$4,000$5,000‐$9,000$10,000‐$19,000$20,000以上 1981年平均63,1%21,9%11,4%3,6% 1976年平均65,6%20,7%11,0%2,6%
れる状況が発生している。保険の危機は、アメリカ・社会に多くの変革をも たらした。保険の危機は、1985年にもおとずれているが、特に1975年の危 機では、保険料の値上げでは対処しきれなくなった保険機構のために、多 くの州で不法行為法の一部改正がなされ、医師側の責任が軽減されたり、 保険の引き受けを拒否する保険会社にかわって医師所有保険会社が設立さ れたりした。また、医療の現場においては、医師の説明と同意が実行され るようになった。そこで、つぎに保険の危機をめぐる資料、議論を紹介す ることで、アメリカ合衆国では、いかにして保険の危機に対して社会が対 応したかを通じて、ある社会における医療と社会のありかたについての考 察を行うことで、わが国における医療に対する不信の問題に対する考察の 一助としたい。 沖大法学第十 ・十二合併号 アメリカ合衆国における保険の危機と医療 アメリカ合衆国における医療過誤訴訟は、1960年代後半以降急増し、ま た賠償額も高騰したため、これを引き受けていた保険会社は、保険の引き 受けを中止したり、保険料を大幅に引き上げるなどの措置をとるようになっ た。これが、1975年と1985年の(医療過誤)保険の危機と呼ばれるもので ある。1975年の危機は、製造物責任を追求する訴訟なども急増したため、
アメリカの世論は、訴訟社会の危機として、これを問題視し莞。
「 印如釦卯、切卯帥而印印如釦沁、0 1 (“)グラフ11977年を100としプこ賠償額
/ 1111 ' ' ’ ’ (a) (c) (b) 空く(。)-…・/
1966196719681969197019711972197319741975197619771978m -25-a:製造物責任(人身事故)(保険規定aクラス)d:病院 b:製造物責任(人身事故)(保険規定bクラス)e:自動車賠償(人身事故) c:医師(physician,surgeon)f:地主、家屋所有者、賃貸人賠償(人身事故) g:工場、建築工事責任(人身事故) 脳死・臓器移植と医療不信 (55) グラフ2フロリダIこおける医療過誤賠償総額(1975-1986) $10
11
Totalpaid (millions) '9711,7611771,7811711980118119821,8]I984198Sll86 Year SOURCBFloridaDepartmentoflnsurancemedicalmalpracticeclosedclaimsdataset. (56) 表7カリフォルニアjI、|高等裁判所における医療過誤訴訟の推移 【】 lhl L」 「1 L」 DC 、】 0 「1 L」 9-8 【] 3D ナ凹 王三 58 9t JU □ 4b FL『j J1(】 -26- ‐ 3880630 ●●●●●●● 0233621 0135670 2211122 0680615 。●●●●●● 1099961 11 11 5039897 5575555 2526867 8145644 111111 2345 7777 9999 1111 6 7 9 1 78 77 99 11 「 年度医師側勝訴患者側勝訴賠償総額(単位百万$)平均賠償額1,000$133 10 94 103 103 25.0 21.6 20.6 15.6 318 351.6 308.7 395.2 257.2 649.2 1979 1980 1981 1982 1983 10209 77564 沖大法学第十 ・十二合併号 保険の危機の原因として、弁護士が医療過誤をターゲットとしているこ と、成功報酬制度も問題であり、陪審制裁判では、陪審員は、容易に高額 な賠償額を認容する傾向にあること、マスコミによる高額賠償の報道、大 衆の法的権利についての認知などがあげられた。 1970年代の保険の危機には、多くの州が、医療過誤に関する法改正(出 訴期間の制限、弁護士の成功報酬制の制限、損害賠償金の上限設定、賠償 金からの労災保険などの給付による控除)を行った。また、事故処理機関 (公判前審査委員会や仲裁機構)の設立、共同引受機構(保険会社が共同で (研) 保険目|き受Iナをおこなうもの)、医師所有保険会社の設立などが行われた。 1985年の保険の危機における研究者の議論 ところが、1980年代中ごろの保険の危機の際は、こうした措置はほとんど 何も行われないまま、保険の危機そのものが去っていく。多くの研究者が1 970年代にも1980年代にも、保険の危機は存在しなかった、危機と騒いだの は保険会社と医師たち、保険会社は保険金収入の運営上の理由によって、 赤字を出したのを保険料の値上げに転嫁しようとしたのであり、医師は自 分達の収入の増加はさておいて、保険の掛け金の増加に反発したにすぎな (58) b、、と指摘している。 たとえば、表8-表10の資料は、医師の収入に対する保険料の占める割 合は、確かに増加しているが、医師の収入そのものは、伸びているという ことを示している。 茜 -27-
表8フロリダにおける医師賠償責任保険獄(1983-1987)
婆
・臓器移植と医療不信 (60) 表9医師の収入Iこ対する保険料出費の割合 ナし -28- 専門83.1.184.11851186.1187.71 家庭医 (外科手術なし) Dade/Broad郡$4,310$5,368$7,206$11,866$15,123 それ以外の郡3,1233,6544,8257,14710,277 内科医 (簡単な手術) Dade/Broad7,8259,72314,17920,09030,422 それ以外の郡5,6066,8679,47211,8355,075 外科医 Dade/Broad21,97127,53838,48359,89378,918 それ以外の郡15,70518,71825,66435,95847,454 麻酔医 Dade/Broad23,93927,53838,48455,91573,628 それ以外の郡17,06118,71825,66433,31743,942 年度平均的保険料医師の総収入(グロス)に対する割合 1971/72$4,6453.6% 1981/828,9155.4% 1982/8310,617 1983/8412,6137.0% 1984/8514,90586% 1985/8619,23297% 1986/8723,747116%表10医師の収入の変化と平均的保険料(医師の保険料出費より逆算)
沖大法学第十 ・十二合併固有1975年の保険の危機と、それに対する様々な処置は、その効果を統計学
の手法(TobitEstimationTechnigue)によって計測することができた。
結論だけ言えば、医療過誤訴訟を減らす有効な手だては、『医師の説明と
患者の同意」の実施のみで、その他の手法、例えば公判前審査委員会や、
弁護士の成功報酬の制限は、医療過誤訴訟の数の減少をもたらすかもしれ
ないが、しかしそれらは、訴訟経費を増加させるか、原告の得べかりし賠
償額を減少させるか、あるいは許訟数の減少をきからすかのいずれかを帰
結するのであって許訟数の減少のみを常にもたらすとは限らな(iVoまた保
(62)険料の増カロは、医師、病院の報酬価格の上昇を呼ぶにすぎない。さらに、
弁護士が医療過誤をターゲットとしているために、医療過誤訴訟を増加さ
(63)せた、という議論も統計数字の上ではなりたプとない。それゆえ、1975年以
降の不法行為法の改正は、短期間の効果は、ともかくとして長期的には、
(図) 何等の効果も生んでいないということカメ言える。 アメリカ法廷弁護士協会の議論アメリカ法廷弁護士会(AssociationofTrialLawyersofAmerica)は、
保険の危機に対してもっと過激である。「医療過誤保険の保険料は、1984
年には、20億ドルにたっしようとしているが、これはアメリカ人が年間に
ブTj -29-年度平均的保険料(a)医師の総収入(b)(b-a)
1971/72 $4,645$129,028$124,383
1981/828,915 $165,093 $156,178 1982/8310,6171983/8412,613$180,186$167,573
1984/8514,905$173,314
$153,4091985/8619,232$198,268$173,035
1986/8723,747 $204,716$180,969医療に費やす額4,000億ドルの05%にすぎない」「1983年、平均的アメリカ
人は、1,500ドルを医療についやしたが、このうちの6ドル8セントまたは、
週11セントが医療過誤保険に回ったにすぎない」と医療過誤の増加を批判する見解に反論している。医療過誤の問題点は、むしろ95%の医療過誤の
被害者が、何等の保証も受けていない点にある。ところが、医療過誤を防
ごうという努力は、ほとんどなされていな領。保険料の高騰は、大きく宣
伝されているが、57%の医師は5,000ドル以下の保険料しか払っておらず、
12%の医師が15,000ドル以上の保険料を支払っているのであって、しかも
彼らは、特殊な手術専門の外科医であって、収入もそれなりに多いのであ
る。ニューヨークの弁護士RichardShandellによると、もっとも保険料が
高いといわれているニューヨークの医師の収入に対する保険料の割合は、
(66) ニューヨークのタクシー運転手カゴ支払う保険料よりも少ないという。 1984年、アメリカの平均的医師は、その収入(グロス)が20万ドルもあ りながら、自身の技術向上のためには、1.2%しか費やしていないが、この (67) ことの|まうに問題があるというのがアメリカ法廷弁護士会の主張である。 医療過誤訴訟が増加すると防御的医療に陥ってしまうではないか、との 指摘もあるが、実験的医療のほうがむしろ危険であるとは言えないのか。 医療過誤訴訟の恐怖が、医者を注意深くするのなら、医師にとって喜ばし いものでないにせよ、医療過誤訴訟は推進されるべきではないか。むしろ、 医療過誤訴訟の増加によって、医師は患者と話をするようになったではないか。これを無駄と考えるべきではない。不要な手術はしなくなるし、手
術の終わりに、スポンジを数えたり、胎児を注意深くモーターするように なる。文書で、あるいは口頭で行われ、録音された説明義務の行使、他の 医師との意見交換、慎重な検査、スタッフの立ち会いのもとに行われる試 験、モニターシステムの充実といった事態は、少なくとも胎児に対する加 害訴訟を契機に実施されるようになったもので、実施の結果は妊娠中の事 (68) 故を減少させているではないか、と危機説lこ反論するのである。 保険会社は、1980年から1983年にかけて保険料収入の29-43%を利益と して得ているが、これは、通常の保険が7-10%を得ているのと比べて異常に 高い。1976年から1984年にかけてMedicalLiabilitylnsuranceCompanyは、 脳死・臓器移植と医療不信 ナし -30-(田) 2億1000万ドノレからの資産の増カロをみている。 1975年の保険の危機はむしろ、資産運用の失敗によるところが大きい。 保険会社は、その資産の55%までを債権(bond)に投資していたが、1974年、 ダウ・ジョーンズは、400ポイントも下落したため、それまでの最大の損失 の4倍、1000億ドルからの損失を記録し、資産を26%も減少させたからで (70) ある。保険会社自身カゴ保険の危機を悪化させたということはできるであろ う。このことは、保険会社の投資の失敗が保険の危機と騒がれた時期と一 致することを示している次のグラフ3からもうかがわれる。 沖大法学第十 ・十二合併号 (71) グラフ3投資収益 INVESTMENTINCOME PROPERTYCASUALTYINDUSTRY 20% AverageRate ofReturnon Netlncome15% asaPercent ofNetWorth 10% 5% RISlS”、 7275 SOURCE:U・SGeneralAccounting○ffce 80 85 アメリカ法廷弁護士協会は、医療過誤訴訟を減らすには、医療過誤そのも のを減らす努力が必要であり、そのためには、医療技術の向上以外に道は ないと結論する。ところが、医療技術の向上、あるいは、医療過誤の防止 に、医療従事者自身の自己統制は、あまりうまく機能していないという。 1976年にペンシルベニア州は、医療賠償超過基金を創設したが、州の医師 九つ -31-
の1%が、州立の賠償責任基金の25%を支出させている。神経外科医の約 10%と、整形外科医の4%が、基金支出のおよそ半分を占めている。産科・ 婦人科の医師の五分の-は、3回ないしそれ以上訴えられているが、三分 の-の産科・婦人科の医師は、一度ないしまったく訴えられたことがない、 というデータがある。1983年のフロリダ保険コミッショナーの言によると、 1975年から1982年までの問に、フロリダの医師の0,7%がフロリダ州の医療 過誤訴訟の24%を占めている。カリフォルニア州での4年間の調査では、 ロサンジェルスの8,000人の医師のうち、0,6%の医師が、訴訟の10%、賠 (ね) 償額の30%を占めている。 ところが、州の医療審議会(MEDICALDISCIPLINARYBOARDS)では、 1983年、22の州で1,000人の医師あたり1人にも満たない医師が審議にかけ られているにすぎない。カリフォルニアでは、1976年に1,500件の患者勝訴 判決が下されているにもかかわらず、6名の医師のみが、医師としての不 注意であったとして資格が問題とされたにすぎない。ワシントン州では、1 976年から1981年までの問に、多くの医師がその資質を問題として州の医療 審議会に訴えが持ち込まれたにもかかわらず、1名として資格を失ったも のはいないのである。こうした統計から、アメリカ法廷弁護士協会は、 訴訟制度そのもIこ、医療過誤を減少させる効力を期待するしかないではな (73) い力。、と訴える。 脳死・臓器移植と医療不信 小括 長々とアメリカ合衆国における保険の危機を論じてきたが、その目的は、 アメリカ合衆国の社会が、訴訟社会であり、医療過誤訴訟の数は、異常に 多くて、とても曰本での参考にはならないとの批判に反論するためである。 曰本人が訴訟嫌いでないとしたらアメリカ人もまた訴訟好きということ にはならない。アメリカの医療過誤保険の危機はむしろそれだけ医療過誤 が起きているからであり、日本では、それが無いのではなく、過誤があっ てもそれを患者やその家族が知ることが少ない、ということを論証してい くためである。わが国では訴訟の数は、驚く程少なく、それがわが国の患 者の権利を侵害していると考えた。これこそ医療に対する国民の不信を招 へ九 -32-