<研究ノート>ニックリッシュの「奮起しろ. 国民, 経済, 教育』についての一考察
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(2) 第61巻 第2号. は じ め に. ニックリッシュ著『奮起しろ。国民,経済,教育』 (Aufw rts ! Volk, Wirtschaft, Erziehung, K nigsberg 1 934. )には,以下のフムメル( Hummel, O. )の前書きが付いてい る。すなわち, ドイツの精神・経済活動での活動力のある共同研究(tatkr tige Mitarbeit)は単科大 学(Hochschule)の最も重要な使命(vornehmste Aufgabe)である。ケーニスベルク 商科大学(Handels-Hochschule K nigsberg)では,純粋な内部の研究と鍛錬(Schulung) だけではなくて,むしろまた,単科大学の範囲を越えた創造と影響の発揮(Hinaustrag) でこのような使命の達成が見られる。最前線(Vorposten)での経済科学と社会科学のた めの最東のドイツの単科大学と文化圏(Kulturst tte)として,ケーニスベルク商科大学 は,とりわけ, 東部のドイツの活動領域での経済と社会の再編成でのあからさまな (r ckhaltlos)協力に対する義務(Pflicht)を有する。 このような叢書シリーズにより,ケーニスベルク商科大学は適切な表現形式で努力して きた。この叢書シリーズでは,ケーニスベルク商科大学の特別な開催の動機から生ずる, 研究(Arbeit)と共に,単科大学の範囲を越えた,研究が公表される。 ケーニスベルク 1934年5月12日 フムメル(Vgl.Nicklisch, H. 1934. Vorwort.). なお,本稿で,適宜に注記を行いながら,ほぼ全訳の形で紹介する,ニックリッシュ著 『奮起しろ。国民,経済,教育』には,当時の社会・経済状況に制約されているが,まず, 第1の基本的事実( Grundtatsache )として,増大する失業という社会問題から,「労働 の権利と義務」について,貿易などに関連付けて,検討される。次に,第2の基本的事実 として,分業型の経済という経済問題から,「経営組織法則」について,有機的な結合の 内容,生産性の向上,コントロールの方法などに関連付けて,研究する。そして,第3の 基本的事実として,経営経済学の方法から,「商科大学,あるいは,経済・単科大学の使 命」について,総ての国民の就業の可能性に関連付けて,考察する。 フムメルは,ニックリッシュの生誕60年の記念論文集(Heinrich Nicklisch und Sein Werk als Festgabe zum 6 0. Geburtstage, Stuttgart 1936.)で,論文「ニックリッシュによる管理論の展 開」(Hummel, O.: Die Entwicklung der Verwaltungslehre durch Nicklisch.; 参照。神園厳訳 「フムメル『ニックリッシュによる管理論の発展』」経営研究 第5巻第4号 1936年)を寄稿した (参照。拙稿「ニックリッシュの『研究対象』についての一考察」近畿大学商経学叢, 第6 1巻第 1号 2014.)。. 172( ) 466 ─ ─ .
(3) ニックリッシュの『奮起しろ。国民,経済,教育』についての一考察(牧浦). 1 序 文. 以下の解説(Ausf hrung)に先行して,長い序文は述べられない。問題にされる事情(Ding) は全部の運動(volle Bewegung)に見られる。個々の事情は,バラバラ(diesen oder jenen)や,画一化されたもの(Unifomierte)ではなくて,むしろ,総てが,例外なしに, それぞれに関係していることを, 各自は知るべきである。 個々の事情は個別でも活動的 (lebendig)であるべきである。個々の事情は,人間(Mensch) ,地域の住民(Volksgenosse) であるのか,あるいは,彼以外のだれにも自らでは関心がない,没落する(untergehen) ことに価値がある,個体(Einzelwesen)に留まろうとするのかという,最終決定を各自 に示す。各自にとり,内部の過去の出来事(Geschehen)にこだわるのか(packen),人 間と地域の住民として自らへの道(Weg)を見付けるのか,共同体の体験(Erlebnis)に より精神上の孤立から解放され,向上の道を歩むのかは,重要(entscheidend)である。 各自は,この場合,自らの行為(Tun)により共同体に奉仕することを自ら確信すること で充分であるため,第三者による自らの給付の承諾の問題は無頓着に取り扱う。第三者に とり最も利害関係のある営み(interssiertes Treiben)は彼には全く関係ない。しかし, 解放された体験(befreiendes Erlebnis)に最も深い内部で(im tiefsten Inneren)目覚 めない者は,精神上では破滅している。たとえ,共同体の受益者として,他者を犠牲にし て,活動(Leben)を「気楽に」(herrlich und in Freuden)指導できる(f hren)とし ても,彼は, 破滅し, 気力を失っている( tot )。国民( Volk )にとり,彼は,厄介者 (Last)であり,多数で行動する時,申し立ててきた,政治上の信念( berzeugung)が どのようなものであるとしても,危険人物(Gefahr)である(Vgl.Nicklisch, H. 1 934. S.5.)。 このようにして自ら成長した,危険人物は,総ての者が自由主義の時代の初めに自ら確 認できたように,過度に増え,無理強いをするように(dringlich)なりうる。彼らを,将 来,追放することが大切である。このため,決定的な関連についての知識を,活動する各 自において,常に繰り返してはっきりと呼び起こし,有効にすることが必要である。常に 繰り返して,反共同体的な精神の維持のための良い充足を得るために,簡単に立場を変え る(Flagge wechseln)者により,直ぐに人のいうことを信じる人間の好人物である性格 と寛容(die Gutm tigkeit und Geduld gutgl ubiger Menschen)が承諾されてきた, 活動の場所(Spielraum)が,益々,取り去られる。〈【筆者補足】上辺の人数では〉共同 173( ) 467 ─ ─ .
(4) 第61巻 第2号. 体の繁栄(Gedeihen)の基礎(Basis)はこのようにして拡大される(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.5.)。 以下の解説(Ausf hrung)はこのような課題(Aufgabe)に役立つ。これらは,3つ の重要な知識を強調し,そこから結論(Folgerung)を引き出す。第1の結論は経済の領 域に,第2の結論は人間の内部の活動(Innenleben)の領域にある。第3の結論は,この ような初めの2つの結論の必然的な一致を保証する,道を開く(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.5.; 参照。神薗巌訳1936. 74頁上)。. 2 第1の基本的事実―経済の領域での課題―. ここではまず初めに,個々人が,各自が有する,労働の機会(Arbeitsgelegenheit)は 自らのものであるという事実を問題にする(Vgl.Nicklisch, H. 1 934. S.6.; 参照。神薗巌 訳1936. 7 4頁上)。労働の機会は,硬く心に刻みこむために,少し(etwas)そこに留まる ことが大切である。このため,もう一度,個々人が自らが労働の機会である(Jeder Mensch ist seine Arbeitsgegenheit selber.)ことを述べる。そうであることは,一度,世界,あ るいは,総ての側面で閉鎖された地理上の地域( Bereich )でのみ,かなりの人間が活動 することを想定すれば,全く明らかになる。彼自身以外の他のだれが自らを労働の機会に すべきか。また,彼により企てられる(vornehmen)モノを,彼自身が有する欲求から行 い,このような欲求を充足するために,行うのか。2人がこのような世界にいると,他で はなくて,彼らのみであるが,彼ら両人が,同一の基礎から,彼らが有する,唯一の労働 の機会である。3千万人,4千万人,6千万人,1億人,これを上回る人数の国民,地域 の住民( Volksgenosse )のどのような人数でも,同様である。地域の住民は自らが労働 の機会である。また,その肢体は,関連した,自ら以外の労働の機会を持たない(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.6.)。 このような確認は,全く明確に,自ずと,子孫にとり(f r Kinder) ,経済の重み(Gewicht) がその内部の地域ではどれ程強いのかが分かるように示す。しかし,このような確認は, ―特に,失業( Arbeitlosigkeit )の問題と関連して, ―更に,それ以上のものを示 すが,しかし,失業については初めて後に語られる(Vgl.Nicklisch, H. 1 934. S.6.)。 とりあえず,今までの確認に対して更に補足(Erg nzung )が与えられるべきである (Vgl.Nicklisch, H. 1 934. S.6.; 参照。神薗巌訳1936. 74頁上)。 まず,2人,あるいは,それ以上の人間が,自らのために自らである(f r sich selber 174( ) 468 ─ ─ .
(5) ニックリッシュの『奮起しろ。国民,経済,教育』についての一考察(牧浦). sein) ,労働の機会を,完全に,あるいは,部分的に,相互に交換できること,彼らは,こ れが彼らに有利と思われる限り,かつ,その時に,これを行うことを問題にする(Vgl.Nicklisch, H.1934. S.6.; 参照。神薗巌訳1936.74頁上)。従って,このための充分に有効な根拠(Grund) がそこに存在する時に,国民(Volk)はこれを行う。このような補足は,経済の分業(Arbeitsteiligkeit)の全体の問題性(Problematik)を,個別経済の間での内部での問題性 と, 国家( Staat )の経済の境界を上回る外部の問題性に係わるものを, 含んでいる (Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.6.; Nicklisch, H. 1933. S.1820.; Nicklisch, H. 1928/32. S. 251255.; Nicklisch, H. 1922. S.86.; 参照。鈴木辰治訳1975. 133134頁)。労働の機会が交 換される限り,経済活動者( Wirtschaftende )は,他者が,自らの欲求を充足するため に,使用するモノを供給し,反対のことも行う(Vgl.Nicklisch, H. 1 934. S.6.; 参照。神 。従って,この意味で,輸出と輸入は労働の機会の交換であ 薗巌訳1936.74頁上74頁下). る。その際,要求(Forderung)は,経済活動をする国民が自らのために自らである(f r sich selber sein),働くための可能性(M glichkeit zu arbeiten)の内,何も失わないこ とである。今日,これが,総ての側で良いと理解されているように,簡単に,輸入と輸出 の割当を巡る強引な取引き(z her Handel )では追求される。また,自らの責任( Ver pfichtung )を完全に果たす時に必要だった, 追加の輸出を巡る競争でドイツが負担して きた,困難を良く認識させる(Vgl.Nicklisch, H. 1 934. S.67.)。 更なる解説は,ここでは,不要である。ただ,更に,説明された初めの補足が,既知の 基本的事実を決して制限しない,あるいは,少し変えるか,むしろ,追認することが指摘 されるべきである(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.7.)。 第2の補足は,人間,あるいは,国民が自ら,自身である(sich selber sein) ,労働の 機会が,全部,あるいは,部分的に,他者に譲渡される可能性を付け加える。この場合, このような他者が,基本的には,自ら,自身である(sich selber sein)よりも,働くため のより多くの機会を有するように,分配(Verteilung)は行われる。前者は,この代わり に,対応したより少ない分配を有する。しかし,このような状態(Lage)は,譲渡者と引 受者が自ら給付できることを前提とする。前者の譲渡者は,他者の給付に支払うという立 この点,ニックリッシュは,1935年の論文「経営経済学者の思考材料に対する全体経済の関係 からの影響」では,「分業型の経済(arbeitsteilige Wirtschaft)では,需要の充足のために供給 されるモノに対する供給者(Leistende)の関係は間接的である。これは,全体としての社会的生 産(Sozialprodukt)だけではなくて,むしろまた,その各部分についても妥当する。供給者は, 台所で使用される,肉,衣服とその他のモノを自ら製造する( hervorbringen )のではなくて, むしろ,これら総ては,総ての供給者の生産,正に,社会的生産において,他者により内部〈 【筆 者補足】家計〉に供給される」(Nicklisch, H. 1 935b. S.265 左S.2 65 右; 参照。拙稿2 014b. 272 273頁)と述べている。. 175( ) 469 ─ ─ .
(6) 第61巻 第2号. 場にある,処分のための富(Sch tz)を有するか,あるいは,後者の引受者が,権力によ り, ―貢ぎ物( Tribut )として―対価なしに給付させられる状態にあるべきである (Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.7.; 参照。神薗巌訳1936. 74頁下)。しかも,両関係者の現存 (Dasein)が損なわれることなしには,長い期間,このような関係(Verh ltnis)は,同 様に発展した国民の間では,重要な程度で維持されない。これは,特に,後で列挙される 可能な場合に妥当する(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.7.)。 このような観察は,繰り返し,上で確認された基本的事実を証明し,このため,またこ こでは,これら〈【筆者補足】基本的事実〉が制限されていることについては語られない (Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.7.)。 これに続いて,第3の補足,すなわち,国民が自ら,自身である(sich selber sein) , 労働の機会は,海運のような,国民の間での貢献(Dienst)により拡大されうることであ る(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.7.; 参照。神薗巌訳1936. 7 4頁下)。国民は,部分的には, 上で説明された〈【筆者補足】労働の機会〉により埋め合わされる(decken) 。すなわち, 経済活動者の間での流通(Verkehr)として,関係する側の一方のみに与えられる限りで ある。だが,常に,これに対する対価が正当である時,この領域でのこのような拡大は, 不利な結果なしに,継続されうるという相違が残されている( Vgl.Nicklisch, H. 1 934. S.7.; 参照。神薗巌訳1936. 74頁下)。輸入と輸出,つまり,最初の補足により,これらに とり加工給付(Veredelungsleistung)と加工貿易(Veredelungsverkehr)が大きな役 割を果たす限り,結合(Verbindung)が呈示される(vorliegen) 。このための前提は, また常に更に増加されるべき,特別な給付のための適性(Bef higung)である。これに, また,このような国際上の経済関係により,国民経済(Volkswirtschaft)の間での,他 の貢献(Dienst)が促進される(f rdern)ことが加わる(Vgl.Nicklisch, H.1934. S.7.)。 このような拡大が可能である範囲と,その実現の方法( Art )は,再び,上で確認され た基本的事実の確証(Best tigung)である(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.7.) 。 これに属する,重要な問題,つまり,植民地の問題は,提出された補足の3つ総ての範 囲に含まれる。というのは,これら重要な問題は,一方で,労働の機会の交換についての 国民経済の要求に影響を及ぼすからである。更に,これら問題は,国民の間でより多くの 貢献(Dienst)をもたらす,可能性を暗示する。結局,これら問題は,同時に,外国の, 経済上でまだ少ししか発展していない住民(Bev lkerung)に,本国(Mutterland)の無 礼(Ungeh rig )がそれ以上の欲求の充足の可能性をもたらすような,貢ぎ物の義務 (Tributpflicht)で,公開,あるいは,隠蔽された形式で現われる,関係(Verh ltnis) 176( ) 470 ─ ─ .
(7) ニックリッシュの『奮起しろ。国民,経済,教育』についての一考察(牧浦). を含む。 このようにして,そこで,これまで与えられた,労働の機会は拡大される (Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.78.)。 しかし,それにも係わらず,ここで取り扱われる,事情の一側面は,今まで説明された ものの総てと同様に,それが正に重要であるとしても,まだ全く(noch gar nicht)考察 されていない。各自―また,個々の国民―が,自らの独自の労働の機会であるという 基本的事実は,すなわち,また,彼が,完全に就業すべき時に,本質上,自らにより自ら なるべきである(durch sich selber sein)という,他の基本的事実を含む。確かに,幸い な関連である。各自が,労働を必要とする程度(Ausma )で,このための機会を経済に 持ち込む時には,どのようにして,労働の可能性のない人間が存在できるのか。しかし, このような問題により, われわれの洞察は, 今日の失業の悲惨な規模に向けられる (Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.8.; 参照。神薗巌訳1936. 7 4頁下75頁上)。このような状態 (Lage)は,事情が示唆されたような状態である時,どのようにして発生してきたのか。 その除去が今や非常に苦労して克服されなければならない,このような恐ろしい結果(Wirkung) を可能にするために,どれ程の人間の現状重視(Kurzsichtigkeit),正に,どれ程の人間 の非常識( Unvernunft )の頑固さ(Hartn ckingteit )が長期にわたり通用したのか (Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.8.)。 私はこの事情を既に他の場所で分析した(Vgl.Nicklisch, H. 1 934. S.8.; Nicklisch, H. 1933. S.63.)。そこでは,失業の第一次の基礎は,労働の機会の拙い構成(Gestaltung) と拙い分配(Verteilung)にその本質があることを示した。自由主義的・マルクス主義的 な時期に分業型の経済(arbeitsteilige Wirtschaft)が地域の住民の欲求を重視する能力 がなかった限り,失業は前者の拙い構成に還元される(zur ckf hren) 〈【筆者補足】つま り,拙い構成が原因とされる〉(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.8.; 参照。神薗巌訳1936. 7 5頁 上)。 地域の住民により要求されるモノを製造して,これにより,地域の住民に労働と給 料( Verdienst )を与え,その結果,地域の住民が製品( Erzeugt )を購入できるという 考えは,地域の住民では理解されなかった(Vgl.Nicklisch, H. 1 934. S.8.)。地域の住民 では,ほとんど,欲求を充足するように試みられず,むしろ,利益を獲得しようと試みら れた。その際,地域の住民の繁栄が〈【筆者補足】欲求の〉充足に依存している時でさえ, 不注意にも,その充足が全く充分な利益を約束しない,欲求は考慮されなかった。公的機 関がそこに介入したが,しかし,絶対に必要なもの(Notd rftigst)のみを調整できた。 そこで,地域の住民自身であった,労働の機会の大きな部分が残され,効力を失い(tot), 利用されなかった(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.8.; 参照。神薗巌訳1936. 7 5頁上)。また, 177( ) 471 ─ ─ .
(8) 第61巻 第2号. このような方針で, 製造の技術上の発展は効果をあげてきた。能力(K nnen )に酔って (im Rausch) ,技術上の可能性が,多くの場所と多くの方針で,人間の完全な就業(Besch ftigung)に役立てられるよりも,更に後退させられた〈【筆者補足】つまり,省力化 された〉。また,生産設備は,技術上の施設(Anlage)の増大により,常に,その適応能 力の内,より多くを失った〈【筆者補足】つまり,汎用性の多くを失った〉 (Vgl.Nicklisch, H.1934. S.8.)。その上,他のもの,すなわち,可能な労働の機会の分配は,就業の可能性 の多くの部分が効力を失ったままに残され,正に,多くの地域の住民が労働なしに存在す ることを惹き起こしたため,拙かった。未使用のまま残された労働の機会は,多くの人間 が,自らの欲求を充分に需要(Bedarf)に転換するために,充分な購買力(Kaufkraft) を獲得しない,その結果,そこから,労働の機会になりえないことから生じた。購買力の 不足は,地域の住民に対する全体経済の成果の拙い分配にその根拠を有する(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.89.; 参照。神薗巌訳1936. 75頁上75頁下)。この拙い分配は,人間の欲求に 基礎付けられた,総ての労働の可能性を,需要として活性化させることを阻止し,その結 果,人間の内,多くは労働の機会を失った。私の本『新しいドイツの経済指導』では,こ の関連(Zusammenhang)に対して,成果分配(Ertragsverteilung)に関連して,全く 特別な注意を払った。ここでは,そこで根拠付けた要求が,新しい要求の内で,最も活発 なもの(lebhafteste)として強調される(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.9.; Nicklisch, H. 1933. S.23 u. S.57.)。. 1)労働の権利と労働に関する義務 今まで取り扱った基本的事実から,今や,抜き出されるべき,基礎となる要求がある。 それは2つである(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.9.; 参照。神薗巌訳1936. 75頁下)。 第1の要求は労働に対する人間の関係(Verh ltnis )にあてはまる( gelten ) 。 すなわ ち,この欲求は,労働の権利(Recht auf Arbeit)と労働に関する義務(Pflicht an Arbeit)に係わる(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.9.; 参照。神薗巌訳1936. 75頁下)。 労働の権利(Recht auf Arbeit)を,他者は,適切なもの(gegeben)とみなされてい る,様々な関連から誘導しようと試みてきた(Vgl.Nicklisch, H. 1 934. S.9.; 参照。神薗 この点, ニックリッシュは,1 935年の著書『経済の管理』で,「目標に合流する2つの方法が ある。一方では,需要の充足に必要な,価値が生み出されることが問題になる。他方で,このよ うな過程(Vorgang)から生ずる,就業(Besch ftigung)が,経済活動者では,彼らに自らの 当然の欲求の充足(Befriedigung)を可能にする,所得をもたらすべきである。特殊な困難は, 同時に価値を働いて獲得し,所得を稼ぎ,これにより時間の経過後に価値の充足を手に入れる(anschaffen)ことにある」(Nicklisch, H. 1 935. S.1819.; 参照。拙稿2014. 354頁)と述べている。. 178( ) 472 ─ ─ .
(9) ニックリッシュの『奮起しろ。国民,経済,教育』についての一考察(牧浦). 巌訳1936. 7 5頁下)。従って,言葉は,常に,正確には,同一の形式(Form)と同一の意 味(Sinn)を有しない。つまり,働くための権利(Recht zu arbeiten),労働に対する権 利(Recht zur Arbeit),労働の権利(Recht auf Arbeit)について語られてきた。営業 の自由( Gewerbefreiheit )の導入の前に,この言葉はこのような意味で多くの人が使用 した。〈【筆者補足】1789年7月14日の〉大フランス革命以降の革命では,この言葉が常に 役割を果たしてきた。常に,この言葉が要求された。しかし,1919年のドイツでの革命と ワイマール憲法までは,常に,ただ支援の主張(Anspruch auf Unterst tzung),できれ ば,労働の機会による支援が目立っていた。1919年にドイツの立法者は幾分より広義に踏 み込んで解した。すなわち,支援の権利は,経済上の労働による生計の権利(Recht auf den Unterhalt)の補足として現われた。そこで,〈【筆者補足】鉱山とエネルギー産業に 適用された〉1919年3月23日のドイツ国有化法(das deutsche Sozialisierungsgesetz) は第1条で次のように述べる。すなわち, 「適切な労働の機会が紹介されない(nachweisen) 限り,絶対必要な生計(Unterhalt)について配慮される」と。また,1 919年8月11日の 〈【筆者補足】ワイマール〉憲法(Verfassung)の第163条はこの原則を内容とする。 〈【筆 者補足】つまり,第1 63条第2項で,倫理的義務として「総てのドイツの人民(jeder Deutsche) は経済上の労働によりその生計を立ることができる機会を与えられる。適当な労働の機会 が与えられない者にはその生計に必要な配慮がなされる」と規定された〉 。 もちろん, 裁 判例( Praxis )は, 繰り返し, 労働の代わりに,支援(Unterst tzung )で終始した ( hinauslaufen ) 。この時点までの展開は,たとえ, 既に,1794年のプロセンのランド法 (preu ische Landrecht)が,その所属者(Angeh rige)に労働を提供するという国家の 責任(Verpflichtung)を述べ,1884年に,ビスマルク(Bismarck, O.)〈【筆者補足】ド イツ統一の中心人物,18151898〉が,国有化法(Sozialistengesetz)の審議で,この規 定を引き合いに出して,同様に,労働の権利に賛意を表明しても,より広い普及には至ら なかった(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.9.)。 文献でのこの権利の公式化の父として,史家の内では,ドイツとしてはヒフィテ(Fichte, J. G.) 〈【筆者補足】ドイツ観念論の哲学者,17 62 1814〉,フランスとしてはフーリエ(Fourier, F. M. C.) 〈【筆者補足】空想的社会主義者 17721837〉があげられる(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.9.; 参照。神薗巌訳1936. 75頁下)。条文(confide’rant)についての考察により指 導された,後者のフーリエの学派は,思考上での展開を更に行った。彼らの思考と,この ようなその後のフランスの思考は,また,ドイツの著作者により採用されたが,ヒフィテ の見解は忘却された。後者のヒフィテの見解は,自然法論(Naturrechtslehre)を足場に 179( ) 473 ─ ─ .
(10) 第61巻 第2号. して,「各個人が国家(Staat)による稼げる就業の提供の権利の主張(Rechtsanspruch auf Gew hrung lohnender Besch ftigung)を有すること」を要求する。彼は,そこか ら,ルソー(Rousseau, J. J.)〈【筆者補足】百科全書学派の哲学者,17121778〉と似た, 国家構成体( Staatsgebilde )は, これに帰属している,人間に基づいているという自ら の考えを引き出した。各自が,安定した労働,あるいは,自らの商品に対する販売(Absatz) を見付け,自らの生存(Existenz)のため,地域の財(G ter des Landes)の内,彼に 与えられる分け前(Anteil)を受け取ることに,国家の意思は配慮すべきであることを彼 は追加した。また,フリーエは,自然哲学(Naturphilosophie)から,労働の権利(droit au travail)の公式化に至った。彼は,原始状態(Naturzustande)で経済上の不正の行 使により調達できるより,文明の状態では,人間により多くの手段が保証されるべきであ ることを要求した。これにより,近代社会での働き手(Arm)は,自らの労働でまずカネ ( Geld )を稼ぐ時にのみ,生活できることが基礎付けられた。彼は,労働の権利が認めら れない限り,この労働の権利なしには総ての他者も存在できないため,人権(Menschenrecht) の内, 最も重要なものが欠けていると説明した。後続のドイツの文献では,マルクス (Marx, K.) 〈【筆者補足】ドイツ出身の経済学者,哲学者,18181883〉の影響下で,完全 な労働の成果についての要求が生じた。 この立場は, 国家社会主義の革命〈 【筆者補足】 1917年のロシアでの10月革命〉が起った以降,今まで展開を維持してきた(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.910.)。 多様な段階を特徴とする,個々の考えに対して,われわれの認識の立場から,今や,次 のことが主張されうる。営業の自由の意義(Sinn)を含めた,公式化は,ここでは,除外 される。このような公式化では,働こうとする総ての者が労働の権利を有することは決し て問題になりえない。むしろ,このような公式化は,働こうとする者に,容赦しない,排 他的(einseitig) ,利己主義的な営業上の競争が労働に対する場(Raum zur Arbeit)を 残すという,労働の権利のみを認める。どこにこのような種類の労働の権利が導くのかは, われわれに現在の失業者数が教えてくれる。このような失業者数は,労働のこのような性 質の権利の帰結(Ergebnis)である。そして,更に,これに,多様な制限により,既に行 われてきた,適用(Anwendung)が加わる。従って,支援の意義は,労働の権利に矛盾 する。元気付ける(wohltun)ために,提供される,労働の機会は,この支援では,全く 役立たないで,むしろ,人間が働けるため,彼に全く財産(Wohltun)を帰属させないよ うにすることを保証する,要求( Anspruch )のみに役立つ。ヒフィテの公式化は,国家 を,各自が存在できるように配慮してきた,労働の提供者(Arbeitgeber)と呼ぶ。国家 180( ) 474 ─ ─ .
(11) ニックリッシュの『奮起しろ。国民,経済,教育』についての一考察(牧浦). は,各自が,地域の財の(G ter des Landes)内,彼に与えられる分け前(Anteil)を受 け取ることを,保証すべきである。このような最近の機能は,伝統的な意味での労働の提 供者の役割をかなり上回る。この最近の機能は,各自にとり有効になるべき時に,労働の 権利において何が問題になるのかについての示唆を含む。しかし,これにより,個々の地 域の住民が国家の支持者であることが生ずるという意見は否定されるべきである。これは, 今日では,明らかである。しかし,地域の住民を保護し,その実行(Aus bung )を確保 することが,国家の使命である。これらは,困難で,かつ,間接的にのみ,すなわち,国 家が,経済活動者の責任感(Verantwortlichkeit)を除外する,あるいは,また,ただ侵 害することなしに,経済の正しい指導(F hrung)を実施することによってのみ,解決さ れ る。 フ リーエ の 推 論 は, 未 開 人( Wilde )と し て の 人 間 で 始 る。 果 実 の 摘 み 取 り (Fruchtbrechen) ,牧場,釣りでの権利と,その他の権利(全体では7つ)が,彼では, 文明化された人間の労働の権利で現われる。源泉( Ursprung )は,ここでは,経済の領 域で,より多く見付けられる。しかし,権利の根拠となる,関連は,認識されずに,分業 型の経済で,総ての場(Raum)と機会のために残され,これにより労働の権利を実施す る時に,問題にされるものは,ごく僅かである。フリーエに関連した考えは, ―また, ドイツでは, ―生産手段の国有化を要求し,概して,問題を見過ごす。というのは,各 自のための労働の権利が保証されることなしに,このような過程(Vorgang)は実施でき るからである。そして,労働の権利との結び付きで,広範囲な保証が重要である時には, このような結果(Wirkung)は,この労働の権利に還元される〈【筆者補足】つまり,労 働の権利が原因とされる〉のではなくて,むしろ,国家が経済に関する個々の経済活動者 の責任のある協力(Mitwirkung)を本質上で制限する時に,困難を伴って実施されうる, 経済の正しい指導(F hrung )に還元される〈【筆者補足】つまり,経済の指導が原因と される〉。このような場合,労働の全部の成果(voller Ertrag)に対する権利としての公 式化が係わるものは,公式化を労働の権利に全く関係付ける必要がない限り,不適切であ ると言われるべきである。このようなことは各人(jedermann)に妥当し,個々の公式化 は,既に労働している者のみを問題にするという意味で,理解されうる。その他,経済が 拙く指導される時には,個々人の労働の全部の成果は全く不充分でありうる。それどころ か,総ての地域の住民が活動する場合でも,そうである。このような場合,マルクス主義・ 自由主義の要求は何を主張するのか。すなわち,労働者に自らの労働の全部の成果を受け 取らせるべきであるのか(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.1011.)。 総てのこのような試みに対して,労働の権利は分業型の経済の現象として考察されるべ 181( ) 475 ─ ─ .
(12) 第61巻 第2号. きである。労働の権利は, 分業型の経済では, 人間は自らが労働の機会である( Jeder Mensch ist seine Arbeitsgelegenheit selber.)という,上で確定された基本的事実から 推論されるべきである。働くための機会(Gelegenheit zu arbeiten)は,これは人間であ るが,各自が使用するモノを他者が給付できるように,分業型の全体経済に各自を組み込 む。そこから,各自が,他者が使用するモノを,他者のために給付するように,共同する 様式で(in der Weise mitzuwirken) ,全体給付に関する権利が各自に対して生ずる(Vgl. Nicklisch, H. 1934. S.11.; 参照。神薗巌訳1936. 75頁下 76頁上; Nicklisch, H. 1 935. S.19 20.; 参照。拙稿2014. 3 55頁) 。各自が総ての可能な労働を実行できるべきであるだけでは なくて, むしろ, 彼に非常に良く「合っている」,あるいは,結局,充分な訓練の機会が ない, 他者よりより良く給付する,(職務上の)給付に自ら適応できるため,分業は,今 や,経済的である(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.11.)。 労働の権利が実現されるべきである時,もちろん,経済は正しく指導されるべきである。 個々人が経済に持ち込む,労働の機会は,経済では,活動的に(lebendig)なるべきであ る。これは,労働の機会が需要(Bedarf)に転換されることにより,生ずる。このため, 個々の経済活動者の(分業型の)給付による方法(Weg)のみが存在する。これら給付に 対する対価(Gegenwert)は,彼らに,彼らの(当然の)要求(Bed rfnis)をできる限 り完全に需要( Bedarf )に転換するような, 大きさの購買力( Kaufkraft )を与える (Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.1112.; 参照。神薗巌訳1936. 7 6頁上; Nicklisch, H. 1935. 。これは上で既に一度討議された。このような関係は, S.19.; 参照。拙稿2014. 355頁). はっきりと,どのように労働の権利がまた実際上では経済の分業と密接に結び付いている のかを示す。経済は,労働の権利が確保される( wahren )時に,栄え,繁栄する。そし て,労働の権利が各自に対して確保されなければ,経済は完全に充分に繁栄できない。こ れらの確保は,各自が自らの給付と引き替えに,彼が,使用するモノを,購入できる程度 の多さで受け取るため,使用されるモノが創られ,これらが購入できる時に,達成される。 二重に必要であり,これにより,各自は自らの労働の権利を実現できることが分かる。一. この点, ニックリッシュは,1 935年の著書『経済の管理』で,「総ての国民の当然の需要の充 足は,彼らの完全な就業(Besch ftigung)のための可能性という本質(Inbegriff)を意味する ことが問題になる。このような関連は,総ての個人が人間としての存在により,需要と就業を生 まれつき有することを根拠にしている。これは総ての国民に妥当するため,また,国民でも,個 人と共同での,国民の肢体の需要は,就業である。総ての国民でもそうである。国民の間での価 値の交換はこの原則(Grands tzliche)を変化させない。国民はこの原則をただ追認する。今や, 経済とその操作の目標は,初めで可能であったよりも,更に明らかにはっきりしている。今や, 総ての国民の完全な就業により,当然の需要が充足されるように,操作することが問題であるこ とが示される」(Nicklisch, H. 1 935. S.9.; 参照。拙稿2014. 346頁)と述べている。. 182( ) 476 ─ ─ .
(13) ニックリッシュの『奮起しろ。国民,経済,教育』についての一考察(牧浦). 方で,需要で生命が与えられ,個々人を収容してきた,労働の機会に適応するモノが給付 されるべきである。更に,〈【筆者補足】他方で〉,製造された価値が受け取られるように, 分業型の給付の全体の成果( Gesamtertrag )が分配されるべきである。後者と前者の方 向では,また,個々の地域の住民には,各自が労働の権利となるべき時,頼れる,国家の 間接的な関与(Einwirkung)の可能性と必要性がある(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.12.; 参照。神薗巌訳1936. 7 6頁上76頁下; Nicklisch, H. 1935. S.89 u. S.1920.; 参照。拙稿 2014.346頁 355頁)。この間接的な関与は,暗示的に,既に,一度,上で,ヒフィテで語ら れた,課題を含む(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.12.)。 国家がここで直面している,事情(Ding)は非常に困難である。その際,とにかく問題 になることは,以下の考察により,更に明らかになる。充足されるべき,欲求についての 総ざらえ表(Inventur)が作成されたと仮定する。総ざらえ表は,欲求が総て完全に充足 されうるという前提の下で作成される。個々の欲求は,この場合,100%の充足で表され る。グラフでの像では,この場合,総て同じ高さで並列され,このため,直線の同様の線 で区分された欲求の領域が生ずる。発生する欲求は,その中で総て個々に更に細分されて, 考慮されるべきである。以下の大雑把な像は,具体的に示すために,素朴な見取り図で, 最も必要なモノのみを示す(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.12.; Nicklisch, H. 1 935. S.20.; 参 照。拙稿2014. 355頁)。. 100%の充足 食べる 欲求. 着る 欲求. 住居の 欲求. 等々. 0%の充足. 欲求者の購買力が彼を活動的にさせるように,価値で,個々の欲求は需要に一致してい る。しかし,関連は,与えられた購買力が望ましい価値(w nschenswert)で6 0%である 時,個々の欲求の完全な充足の内,40%が削除されるようなものではない。むしろ,個々 の人間の欲求は総体( Gesamt )であり,これらの内のいずれかが,他のモノの排除より 以前に,その充足がより少なく必要になるように,縮少する。これらは,長く続く縮少で は,正に,それぞれの重要性の程度により,しかも完全に排除され,その結果,結局,充 足することが必然的なモノのみが残されるが,その際,残っている購買力は少なくともそ の程度で充分であることが前提にされる。しかし,このような縮少の程度は個々人では異 183( ) 477 ─ ─ .
(14) 第61巻 第2号. なる。また,充足が必要である,欲求は,個々人において,全く同一ではない。このため, 購買力が,縮少したり,増大すれば,変動(Bewegung)はさまざまな財に対する需要で 同様には移転しない( bertragen ) 。むしろ,購買力の一定の規模では,さまざまな欲求 はさまざまに捉えられる(bedacht werden) 。これは次のことを意味する。すなわち,生 ずる財に対する需要は,個々の欲求では100%の充足とはさまざまな程度で異なっている。 それにも係わらず,上と同様に,欲求では,人(man)は,需要の総ざらえ表と良く似た 図解に到達できる。その際,個々の経済活動者の一定の購買力と,住民(Bev lkerung ) における,購買するための,全体の力の一定の分配から,開始すべきである。個々の場合 で,個々人が完全な充足の100%より離れている程度に係わらず,このような状況での彼 らの意義(Bedeutung)に従って,個々の欲求から生ずる需要は1 00に等しく設定される。 グラフでの表示のために,この場合,また,個々の欲求による需要は,同様の高さで並列 されうる。 というのは, 常に,100%の需要が問題になるからである。そこで,欲求の領 域に良く似た,需要の領域が生ずるが,欲求の領域の経過より,より少ない。また,ここ では,その際, 編成( Gliederung )は, 個々人に行き着くまで,捉えられる( bedacht werden) (Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.1213.; Nicklisch, H. 1935. S.21 22.; 参照。拙稿 2014. 3 55356頁; Nicklisch, H. 1933. S.6.)。 100%の欲求の充足 食べる. 着る. 住居の. 等々. 欲求. 欲求. 欲求. 等々. 一定の購買力と購買力の 分配に基づく100%の需要. 0%の充足. 誤解を排除するために,繰り返される描写は,絶対値の相互の関係を示さない。描写は, ただ,与えられた購買力と購買力の分配に基づく,100%の充足と,100%の需要の差異を 全く共通して明らかにする(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.13.; Nicklisch, H. 1 935. S.22.; 参 照。拙稿2014. 357頁)。 需要の全体に対して給付の全体が対比される。前者の需要の全体は,全体経済での購買 力とその分布による,財の価値により商品需要(Nachfrage)に転換された,欲求の全体 であるが,しかし,後者の給付の全体は,商品需要に対比される,給付される価値に関す る全体である。問題は,ここから見て,その答えはわれわれの像を更に補足するが,必要 184( ) 478 ─ ─ .
(15) ニックリッシュの『奮起しろ。国民,経済,教育』についての一考察(牧浦). とされる, あらゆる種類の価値の100%は,また,比較の時点での給付の全体に含まれ, このため,少なくとも,需要があらゆる所で与えられる購買力により,完全に充足される のかである。 個々の時点では, 完全に同様な場合にならない。個々の必要な価値の1 00% は,上回ったり,下回ったり,丁度であったりする。このため,個々の価値の種類に対す る給付線は,グラフでの描写では,下で描かれた様な様相になる(aussehen) (Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.1 314.; Nicklisch, H. 1935. S.2223.; 参照。拙稿2014. 357頁)。. a=100%の欲求の充足. a. c=給付線. c. b=一定の購買力と購買力 の分配に基づく100% の需要. b. 0%の充足. 簡略化のために,欲求線はaで,需要線はbで,そして,給付線はcで示される。この 場合,まず,aとbの間での空間,更に,bとcの間での空間が問題になる。両者は,ま た,分業型で働く経済で,自らのために自らである(f r sich selber sein)人間の総ての 労働の機会が,就業に転換し,その結果,彼らが総て完全に就業するという,問題の解に とり完全に異なる困難を示す。第2に,少なくとも,購買力の分配に基づいて必要とされ る,総ての財が給付されるのかという問題が設定される。この問題にとっては,ある財に とり,中間の空間は,製造に関する超過を,他の財では,不足を意味する。更に,他の財 は,丁度,需要により充足される。最後に,また,中止されることを期待された,財がい たずらに製造されるかもしれない。与えられた目標での方向で経済の指導が途中で遭遇す る,困難の内,僅かなものをこの乖離(Abweichung)は内容とすると,軽薄な観察者に は思われる。与えられた目標に対して,彼は,自らの側の競争者として,生産者の私的な 利己主義(privater Egoismus)を有する。彼は,需要に比べた製造でのプラスとマイナ スを,簡単に彼の事業の業績の妨害(Beeintr chtigung)として認知する。差異の調整の 方向で作用するように,彼を刺激し,励ます,経済秩序のために,彼を競争者にするのは, このような認知(Empfindung)である。しかし,このような意見には,充分な根拠が欠 185( ) 479 ─ ─ .
(16) 第61巻 第2号. けている。しかも,製造者の私的な利己主義は,総ての乖離を,想定されたように,認知 する。しかし, 製造者は, 乖離を取り除くのではなくて,むしろ,最高で,発生の様式 ( Erscheinungsweise )で変化させるように,乖離に対して反応する。自由主義経済のカ ルテルは過剰生産( berproduktion )を排除できなかったことは知られている。大きな 経済体の過剰生産能力は,まだ今日,あらゆる所で,このための明らかな証明(Zeugnis) を度外視している(ablegen)。これによれば,全体の経済(Gesamtwirtschaft)の指導 (F hrung )が設定する,最も困難な課題が,既にここで,問題になる( Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.1415.; Nicklisch, H. 1935. S.23 24.; 参照。拙稿2014. 358頁)。 また, グラフの描写でのaとb〈【筆者補足】aの欲求線と,bの需要線〉の間での間 隙では,困難の重要さ(Gewicht)と性質(Art)が,緩和されずに,軽薄な観察者の目 には非常に簡単(bald)に明らかになる。自らが経済活動者である,労働の機会が可能に する,就業の程度(Ma )との関連は,ここでは,b線が常に繰り返して上に引かれるこ とにのみ本質がある。理想的な状況は,このb線がa線に重なることである。しかし,こ の方向での総ての圧力は,分業型の経済の全体の成果の分配での変更,購買力の分配での 変更を示唆する。そして,このような種類の個々の過程は,また,これにより,所得を失 う人間に出会う。彼らは,たいてい,経済上で支配する者に所属する。決定がとりあえず 下される,組織上での構造に対するその意義は,b線がa線により近く迫れるのかにある。 再び,私的な利己主義は,解決をもたらす,力にはなりえない(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.15.; Nicklisch, H. 1935. S.24.; 参照。拙稿2014. 358359頁)。 後でこのような状況に再び戻るべきである。ここでは,前述された,総ての解説では, 決して,人間の欲求の全体の調整が語られたのではないことが更に指摘されるべきである。 更に,このような構造(Konstruktion)として人間の欲求の全体は全く存在していない。 むしろ,ここでは,共同体での個々人の課題,国民(Volk)での地域の住民(Volksgenosse) の課題が強調されている。国民と,個々の地域の住民での人間性( Menschentum )に基 づいて,個々の場合と,全体経済での,欲求の全体が基礎付けられている(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.15.)。 権利と同じ基礎から,働くための義務(Pflicht zu arbeiten)が生ずる(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.15.; 参照。神薗巌訳1936. 76頁下)。地域の住民が,自身である,労働の機会を 収容し,彼らの需要を一緒に充足する,労働に支払うために,働かないで,所得を分業型 の労働の全体の成果から要求する時には,働くための義務は近代的な奴隷制度(Sklaverei) であった。〈【筆者補足】たとえば,地主が,自らは働かないで,小作人に,小作料を得ら 186( ) 480 ─ ─ .
(17) ニックリッシュの『奮起しろ。国民,経済,教育』についての一考察(牧浦). れる,労働の機会を与える反面,地主自らの所得を全体の収穫から獲得する時,小作人に とり働く義務は,地主を養う奴隷制度とみなせた〉。地域の住民は,奴隷( Sklave ) 〈【筆 者補足】良心ではなくて,営利の追求に卑屈した,召使い(Knecht) 〉を保存する(halten) ために,地域の住民が使用するモノを,地域の住民のために稼ぎ出す,奴隷を保存した。 このような現象は,これを可能にする,心情(Gesinnung)を伴う制度が存在する場合に のみ可能である。人間はこのようなことを期待できないため,分業型の経済では,このよ うな関係は存在しない(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.15.)。分業型の経済では,このような 可能性の代わりに,各人(jedermann)に対して労働に対する義務(Pflicht zur Arbeit) がある。労働に対する責任(Verpflichtung zur Arbeit)の感情(Gef hl)に完全に貫徹 され,労働に対する義務に全体の国家の教育制度を基礎付けることは国家社会主義の運動 〈【筆者補足】新しい経済システムの構築〉での最も重要な部分(Tiefste)に属しており, その達成が国民の再生(Erneuerung)という中心教理(Hauptst ck)であるべきであり, そうなるであろう(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.1516.; 参照。神薗巌訳1936. 76頁下)。 このような働くための義務( Pflicht zu arbeiten )を今まで労働の権利( Recht auf Arbeit )と関連付けて見ないことが,特殊である(eigent mlich ) ( Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.16.; 参照。神薗巌訳1936.76頁下) 。1919年の〈 【筆者補足】ワイマール〉憲法(Verfassung)で並べられたが,しかし,内容では結び付けられてないが,人(man)は確か に(zwar)このような働くための義務を有する(Vgl.Nicklisch, H. 1 934. S.1 6.) 。しか も,確定された第1の基本的事実はこの関連を明らかにする。また,ここでは,義務か権 利のみではなくて,むしろ,両者は最も密接な結び付き( Verbindung )でのみ相互に存 在することを示す(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.16.; 参照。神薗巌訳1936. 7 6頁下)。そこ で,また,このような結び付きが体験されるべきである。働こうとすることなしに,権利 の要求を定めるように,権利を認識しないで,義務の達成のみを求めることは,同様に不 吉(verh ngnisvoll)であった(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.1 6.)。常に,義務と権利は共 同体内での有機的な結合(organische Bindung)である。人間の間での有機的な結合状 この点, ニックリッシュは,1920年の論文「組織」で, 反対の立場から,「資本主義は, 資本 の所有者が単に貸付金(利子+リスクプレミアム)ではなくて,むしろまた,精神上の労働か身 体上の労働により惹き起された,利益を受け取ることにより始まる。というのは,このような利 益は,精神と身体上で働らく者の結果の割当が,彼らと一緒に働いていない者に好都合になるよ うに縮少されることにより,可能になるからである。ここには,本質的なものであることを,経 済活動では人に中止させる,物質,また,たぶん交換手段の総額が,これにより調整されること が始められる,限界がある。そして,このように行動する者は,前者の働く者に内部で依存した, 召使い(Knecht) 〈【筆者補足】良心ではなくて,営利の追求に卑屈した者〉であることが判明す る。彼は,とにかく,物質の下に自らの人間性を設定する」(Nicklisch, H.1920a. S.79左; 参照。 拙稿2013. 6364頁)と述べている。. 187( ) 481 ─ ─ .
(18) 第61巻 第2号. 態(Verbundensein)以外の可能性は全く存在しない。その際,人間が問題にされないた め,義務と権利の概念が,自然の現象の中でのように,適用できない時でさえ,同じよう な様式の結合は,更に(dar ber hinaus) ,肢体化(Gliederung)が存在する総ての所で, 見付けられる(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.1 6.; 参照。神薗巌訳1936. 7 6頁下77頁上)。こ れは,この場合,義務と権利の2つの言葉により特徴付けられないでも,明らかになる, 義務と権利の共通した意味(Sinn)である。すなわち,肢体は,常に,全体と二重に,す なわち,自らと(von sich aus),同時に,全体により(vom Ganzen her) ,結び付けら れるべきである。他では,全体としての全体か,肢体としての肢体が保たれうる。人間の 間では,権利が,認識される全体に個々人を結び付け,義務は,義務があることを感じて いる,個々人により全体に結び付けられる(Vgl.Nicklisch, H. 1 934. S.16.; 参照。神薗巌 訳1936. 7 7頁上)。 権利と義務は,不可分に結び付き,経済全体では,これら両者は個々に実施されるよう に,調整されるが,初めて,新しい労働と職務のエートス(Arbeit- und Berufsethos) の確固とした基礎が形成されると,これは,国民(Volk)と一緒に個々の地域の住民に, 向上の道を示唆し,指導するであろう(Vgl.Nicklisch, H. 1 934. S.16.; 参照。神薗巌訳 1936. 77頁上)。自由な人間(freie Menschen)は,この道を進み,常に,自ら,公式に (formend) ,経済上の活動を結び付ける(Vgl.Nicklisch, H. 1 934. S.16.) 。. 2)国民経済と海外貿易 第1の基礎にされる事実による第2の結論(Folgerung)は,自身による自らに対する ( auf sich selber haben ) ,国民の権利と,自身による自らのための(f r sich selber haben) ,義務の強化である(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.16.; 参照。神薗巌訳1936. 77頁 上)。 これら言葉の意味は更に補足が必要である。しかし,補足は簡単である。そこで, 国民が,自らである労働の機会を有することを知る者は,国際経済と超国家的な経済 (inter- und bernationale Wirtschaft)が国民経済(Volkswirtschaft)によってのみ 可能であることを,基礎から(von Grunde aus),理解する。このように公式化された関 連は,総ての者に, 同種の個々人が, このようなもの〈 【筆者補足】自らである労働の機 会を有することを知る者〉として,かつ,共同体では,相互に,最も内部(Innerste)か らもたらされるものを付け加えると,その結果,彼らは,全体,つまり,文化財(Kulturg ter) 〈【筆者補足】つまり,共同体意識〉で合成される(zusammenwachen) 。このような文化 財〈【筆者補足】つまり,共同体意識〉は,国民に,自身による自らに対する権利を与え, 188( ) 482 ─ ─ .
(19) ニックリッシュの『奮起しろ。国民,経済,教育』についての一考察(牧浦). 個々の地域の住民が服従する,自身による自らに対する義務を負担させるものである。自 己の維持と,独自の様式での発展を保証することが重要である。経済上の関連はこのよう な権利とこのような義務を強化する。彼らの考察は,また,国民が,自ら,主張し,発展 することが,国民の経済の基礎からも,必要であることを示唆する。他のだれかが,地域 の住民の労働の機会を自己防衛し,その結果,地域の住民は,共同体により,自身に自ら 役立つのか。個々の内部の国内の結合(innere nationale Bindung)なしに存在する,根 拠のない勢力( Kraft )が,国民の労働の全体の成果の内,自身に相応しいものより,よ り多くを,自らのためにもぎ取り,自らの益のない繁栄がこれを必要とする時に,文化財 〈【筆者補足】つまり,共同体意識〉を文明の名で思いやりなしに根絶する,彼らの権力(Macht) を,権力を奪われた者を手段として,建設する(aufrichten)時に,だれがこの地域の住 民の労働の機会を保証するのか。境界を超えた,このような金権(Geldmacht)の危険は 国民によってのみ防御されうる。また,国民は,自身による自らに対して根拠付ける(sich auf sich selber gr nden)時にのみ,このような防御をできる。このような権力に対して は,経済,文化と国家( Staat )の間での関連が特に明らかになる( Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.1617.; 参照。神薗巌訳1936. 77頁上77頁下)。 われわれの思考過程は,既に第1の基本的事実の大まかな説明において,このような事 情(Ding)に出会った。国民間での労働の機会の交換,つまり,輸入と輸出について語っ た所でである。そこで生じた, 労働の機会は全く消えてなくならないという要求は, こ れに適合している(hierhergeh ren ) 。また,独自の労働の機会の譲渡,あるいは,他の 国民の労働の機会の追加の引き受けの問題は,これらが上で説明されたように,ここで再 び現れる。自身による自らのためにである(f r sich selber sein) ,労働の機会の拡大と しての国民経済(Volkswirtschaft)間での貢献(Dienst)の可能性は,同様である。よ り広義の意味では,これら総ては,海外貿易(Au enhandel ),あるいは,輸入と輸出の 下で纏められる(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.17.)。 国民の経済( Wirtschaft des Volkses )の強調がはっきりと取り扱われる,この場で は,このような関連は更に豊富に構成されるように( reicher gegliedert )現れる。広義 の問題の全体の流れは,ここでは,自ずと,設定され,答えが強く求められる。1つは, 国内経済(national Wirtschaft)の境界が大量生産(Massenproduktion)の法則に対 してどのような意義を有するのか,次に,輸出の促進のための,様々な国内経済(Nation この点, ニックリッシュは,1935年の著書『経済の管理』で,「輸出は,国外の労働の機会の 国内への移転を意味する」(Nicklisch, H. 1 935. S.36.; 参照。拙稿2014. 369頁)と述べている。. 189( ) 483 ─ ─ .
(20) 第61巻 第2号. alwirtschaft)の領域に対する輸出価格の差別化についての問題,更に,ダンピングの意 味(Sinn)と意義(Bedeutung)についての問題,そして最後に,工業化された地域(Industrieland)による他の全体経済の工業化の過程と結果についての問題である(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.17.; 参照。神薗巌訳1936. 77頁下78頁上)。 第1の〈【筆者補足】国内経済の境界と大量生産の関係の〉問題は,既に繰り返してあ げられた本『新しいドイツの経済指導』での,著者の解説での指示により,次のように答 えられる。大量生産の傾向(Tendenz)は,製品の個々の数量単位での固定費(fixer Aufwand) をできる限り強く分配することで進展する(dahingehen) 。このため,できる限り多く生 産することが必要である。輸出価格は,このような場合には,安くなりうる。これは輸出 を容易にする。他の地方(Land)の工業化企業(Industrieunternehmung)は,もちろ ん,発展に続こうとする。しかし,このような工業化企業は,開発が広範囲に充分に展開 されてきており,技術上の観点で,頂点にある時には,第1の問題〈【筆者補足】大量生 産により,国内経済の境界を越えて,輸出すること〉が困難であることを思い起こす。問 題は,このため,国家がそこに介入し,国家でのこのような工業化企業のより広範な発展 を助成することである。このための手段は知られている(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.17 18.; Nicklisch, H. 1933. S.7172.)。 このような関連での国家の立場(Stellung)は様々な意味を有しうる。国家にとり,独 自の労働の機会が自らにはない,あるいは,まだ充分な輸出能力がないため,自国で調整 できないため,独自の労働の機会の内,一部が発展した国に移転することを阻止すること が問題になる。これは,更に上で,輸入と輸出についての解説で既に一緒に取り扱った場 合である。あるいは,しかし,その現存(Dasein)と発展が保証されるべき時に,国民自 らが製造すべき,財が問題になる。これは既に必需の食料品,しかもまた,多くの他の価 値のあるモノ,とりわけ, 直接的に地域の防衛に役立つモノに対して生ずる。 このよう な事情では,自立(Selbst ndigkeit)を維持しようとする,国民は他の国民の給付に依存 することは許されない。このような状況の結果は,国民の政治上の意思により影響される, このような財の生産機関( Produktionsstelle )でのより強い国際分業( internationale Verteilung )である。このため,価値の横取り( Wertabfassung )は,自由な関係と同 程度では,集結されえない(zusammenballen)。これは,自ら,適切な事業部門と,適切 この点, ニックリッシュは,1935年の著書『経済の管理』で,「国民共同体にとり,防衛力を 含めて,安全性の根拠から,文化の促進の根拠から,あるいは,他の根拠から,必要になるもの は,経済では,共同体的なものと共同体の需要として,現れる」(Nicklisch, H.1935. S.24.; 参照。 拙稿2014. 359頁)と述べている。. 190( ) 484 ─ ─ .
(21) ニックリッシュの『奮起しろ。国民,経済,教育』についての一考察(牧浦). な機関で,完全に大量生産に専念する,経済活動者の傾向の妨害である。これらに内在す る,法則性は,このため,国内の意思(nationaler Wille)が,これを許可できる,かつ, 許可した限りでのみ,作用( Auswirkung )できる。このような影響(Einflu )は,同 時に,経済上の国家の境界(Staatsgrenze)の新しい強調を暗示する。これは,国民自身 による自らのためである(f r sich selber sein)という,労働の機会の維持に対して既に 説明された,一般的な配慮による調子(Ton)を強める(Vgl.Nicklisch, H.1934. S.18.)。 補足して,更に,大量生産の拡張が,国内の全体経済の外部的な境界に関するのみでは なくて,むしろまた,内部の妨害でも見付けられるべきであることを指摘する。この大量 生産は,たとえ,これら労働の機会が,自らの現存(Dasein)の中にあり,他の総ての者 と同様に,分業型の経済に収容されてきたとしても,技術上の発展の,思いやりのない, 排他的(einseitig),かつ,不断の(rastlos),前進により,自ら,簡単に危険にまで重大 化し(auswachsen) ,働いている人間を,即時に再び就業を見付けることなしに,労働か ら放逐することである。これとの結び付きで,自由主義の競争では,大量生産は,中小経 営との競争(Bek mpfung )と抑圧( Unterdruckung )に導き,全体経済から,これら に横断する(durchschnittlich)特徴のある責任性(Verantwortlichkeit)により内在し ている,より大きな見通しの良さ( bersichtlichkeit)と弾力性(Elastizit t)を奪い取 る。全体の利害関係から,このため,また,内部より,やり過ぎ( bertreibung)を防止 し, 損傷(Sch digung )を予防することは当然である。このような利害関係の最上位の 代表者(Vertreter)がしばしば国家(Staat)である(Vgl.Nicklisch, H. 1 934. S.18 19.)。 〈【筆者補足】第2の輸出価格の〉差別計算の問題は, 再び, 輸入と輸出に還元される 〈【筆者補足】つまり,輸入と輸出が原因とされる〉。少なくとも,通常の自国(inl ndisch) の買い手とは異なる供給価格が計算される,外国の買い手が存在する限りでは,そうであ る。このような差別では,経済において,シェーア(Sch r, J. F.)〈【筆者補足】『一般商 業経営学』(Allgemeine Handelsbetriebslehre, 1 911, 1922, 5.Aufl.)18461924〉により 公式化された,手続きが問題になる。彼は,所与の価格が,比例費だけではなくて,むし ろまた,固定費を完全に補償する程,ある会社(Firma)の事業の規模が大きく,操業の それ以上の拡大では,追加の数量が,これにより生ずる,比例費のみの基礎では,資本損 失を発生させないで,提供され,販売できることを分析した。説明のために,更に,過程 が可能になるには,複数の前提条件が充たされるべきであることが付け加えられるべきで ある。第1に,ある種の設備の拡大は全く必要ない。それから〈 【筆者補足】第2に〉,主 191( ) 485 ─ ─ .
(22) 第61巻 第2号. 要な製品数量( Hauptmenge )と〈 【筆者補足】投下資本の回収を可能にする[経営のた めの]成果を獲得できる〉同一の価格では,追加の製造を中止することが困難であるに違 いない。最後に〈【筆者補足】第3に〉,製品を原則上異なる大きさで評価される価格で提 供することを可能にする,買い手の区分が必要である。販路が干渉されないもの(unbestritten) と干渉されるもの(bestritten) 〈【筆者補足】つまり,競争のないものと競争のあるもの〉 に区分される時,第2と第3の前提は,明らかに充たされる。無干渉(Unbestritten)は, 競争を排除する,事業部門での取り決め( Vereinbarung )により,形成される。このよ うな取り決めにより,関税が外国の製品との競争を回避し,邪魔になるアウトサイダーを 内部に残しておかなければ,国内の経済領域の全体の内部が,価格のある一定の額まで, 干渉されない〈【筆者補足】つまり,競争のない〉領域にされる。また,協定(Abkommen) がそこまで及び,アウトサイダーが存在しなければ,全体の経済上の世界は干渉されなく なりうる〈【筆者補足】つまり,競争のないものとなりうる〉。もちろん,統一された価格 政策は,ある国内の全体経済の製品が海外の全体経済に移転するための国家の方策により, 。 この場合には,妨害される(Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.19.). ここでは,国内の領域( Gebiet )が干渉されない〈 【筆者補足】つまり,競争のない〉 領域,外国が干渉される〈 【筆者補足】つまり,競争のある〉領域として強調される。そ して,価格が,国内で高く,外国で安く維持される時に,これが地域の住民の就業に対し てどのように作用するのかが問題である。 その際,干渉されない〈【筆者補足】つまり, 競争のない〉国内での価格がより高く引き上げられる程,比例費以外に,また既に固定費, しかも,完全に,充足する,操業数量(Besch ftigungsmenge)が少ないことに注目され るべきである。 一定の生産能力では,〈【筆者補足】国内と輸出の〉価格〈【筆者補足】の 差異〉が大きい程,販売において,比例費のみを埋め合わせるために必要になる,数量は より多くなる。〈【筆者補足】競争のある地域で〉安い価格で販売される数量が,干渉さ. この点, ニックリッシュは,1935年の著書『経済の管理』で,「とにかく,自国の製品が国内 と国外で異なる価格で提供される時に,自らの全体経済で生ずる,反作用が考えられる。差異は, 価格が,国外にとり,国内よりも,より安いことにある。効果は,国内が必要経費の一部を埋め 合わせて,均衡算定(proportionale Berechnung)では,国外での販売を探している,製品の一 部で引き下げることにある。このための前提は知られている。つまり,国内で製造されるべきモ ノの価格がより高ければ,それだけより高くすべきである,関税障壁により,国内が干渉されな い〈【筆者補足】つまり,競争のない〉領域(unbestrittenemes Gebiet)にされるべきである」 (Nicklisch, H. 1 935. S.36.; 参照。拙稿2014. 368369頁)と述べている。 今,税や取引費用などが無い状況で,固定費が1万円,比例費のみでの製品の単位原価が10円, 生産数量が2,000単位の時,国内と海外の需要が各々1,000単位, 販売価格が国内20円であれば, 国内のみでは利益がないが,海外の販売価格が15円であれば,利益は5,000円になる。この場合, 国内の需要と販売価格を変更しないで,海外の販売価格を12円に引き下げれば,5,000円の利益を 維持するためには,海外で1,250単位を販売しなければならない。. 192( ) 486 ─ ─ .
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