障害と発達をとらえる視点の提起(交流の研究ノートその2) : 「伝えあい」と「民主的交わり」から学ぶ 利用統計を見る
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(2) きた問題の一つが実践記録のあり方であった。すなわち,実践において一番困るはみ出し ボスを取り上げ,「その記録をつけている内に,これは実際を言うとボスというのは目立 つ存在だがボスの問題なのじゃなくてボスの出る集団が問題だと言うことがだんだん皆の 話し合いで出てきたのである」。そこから,保育者の記録をつけ始めた。そして実践を理 解するために「どういうつもりで,どういう指導を入れたらどうはね返ったか,つまり保 育者自身の言葉を一緒に記録」することが保育の内容を検討する上で大事であることが確 認された。子どもと保育者のやりとりの過程そのものに注目することの必要性が認識され たのである。それと同時に,研究者と保育者で理論的な学習も平行して行われた。具体的 には,ポルトマンの理論や,パブロフの条件反射学をとりあげ,「その中で言葉というも のを……科学的におさえていってしかも人間の言葉という特別な働きというものを科学的 に基礎づけることができるという示唆を得たこと。これらが伝え合い保育の理論的な面で の支え」になった。また人間同士のコミュニケーションについてマスコミ研究なども学び ながら,人間らしい伝えを「相談型のコミュニケーション」としてとらえることが合意さ れていくのである。 乾(1964)はこれらの経過を次のようにまとめている。 労働者クラブから豊川保育園を流れてきたものとして実践記録の問題があって,その中で子供達 集団とその中でのリーダー制をつくってゆく上での子供達の伝え合いの問題が出てきます。それか ら保育実践の記録の仕方に保育者の意図と子供の反応とをちゃんと対応をつくってまとめてゆく, ということが工夫されました。民主主義科学者協会心理部会からは人間観の問題についていろいろ の知識が入って来ていた。法政大学心理学研究者集団その他の方からは,伝え合い理論というか, マスコミの理論的な分析の方からやはり相談型のマスコミュニケーション,人間は問答しなければ ならないという考えが入ってきた。そして更に,保育実践の中から出てきたお話し作り-これの中 に生活綴り方をどう生かすかというところから話し合いを通ってきて,それらが一堂に集まって, 伝え合い保育が出来上がった,こういうふうに私としては整理しているわけです。 (※アンダーライン表示による強調は筆者。以下,同様). 他方,畑谷(1963)は,保育実践の側から「つたえあい保育」の生いたちを,次のよう に述べている。 豊川での初期は,子どもたちの要求に応える物的条件は何一つなかったとも言える。がらん堂の 机,椅子もなく,保母と子どもたち数十名の人間関係が存在するだけである。子どもたちの要求を 満たす財源のない保育者,躰を張って応えようとしたが限界がある。不憫がったり,焦々しても追 いつかない。そこで,この貧しい保育条件では,集団の一員として保母が子どもの中に位置づけら れ,共通の生活目標に取り組んでいく-という,至極あたりまえのことに気付いたのである。これ が同じ床の上にたつ人間関係の所以である。. この「同じ床の上にたつ人間関係」が「伝え合い」の精神だという。それは保育者と子 どもは同じ人間としての尊厳を有する対等の関係であることから出発する。そして,例え ば「砂場づくりでは,保育者の要求と子どもたちの要求が合致したところで,指導し,指 導される関係が生まれたのである。砂場がほしいという双方の要求が,生活の必然的要求 として結合し,それを保育実践として具体化したものである」。 このように「伝えあい保育」 (「つたえあい」は,著者により「伝えあい」 「つたえあい」. - 91 -.
(3) 「伝え合い」などさまざまに表記されているために,ここでは統一して「伝えあい」とす る。ただし,引用の場合はこの限りではない)は一方で実践を積みあげ,それを検討する という作業を進める過程で概念を形成している。他方で,実践を検討する形で理論研究も 同時並行的に進められている。その一連の作業において話しあい保育から「伝えあい保育」 が提起された。すなわち,実践をより正確に表現するために「伝えあい保育」とされなけ ればならなかったのである。. 2.伝え合い保育とは-その内容の吟味 「伝えあい」とは何か。『伝えあいの心理学』(乾,1962b)において次のように説明さ れている。 私たちは,伝えあいという言葉を使って,いままでの心理学でコミュニケーションといわれている 事態を述べてきた。これは,コミュニケーションという言葉が伝えと訳され,伝達と訳されている 不十分さに対する批判から出発している。. そして,コミュニケーションの語源にさかのぼり,その本来の意義を確認する。 コミュニケーションの意味は,元来協力ということに関係があり,それは,話しあうだけの意味で はなく,同じ目的を実現するための共同作業に自分も参加するという内容をもつものとして理解で きる。. コミュニケーションは実践的な活動を表現するものだが,「協力関係」を実現するため には訳語にみられる伝えや伝達では不十分で,「伝えあい」との表現の方が的確であると 考えた。すなわち,コミュニケーションにおいて協力関係をより重視したいとの理由で「伝 .. えあい」*1を提起したのである。 ……受け手なしに送り手はなく,送り手なしに受け手は存在しない。しかも送り手とか受け手といっ ても,格別にその立場が固定している訳ではなく,両者はその立場の“交換”をむしろ本態とする 間柄にある。. さらにいうなら,送り手の体験はいったん「つきはなし」,受け手との関係を仲立ちす ることによって見なおされる。 直接の体験のなかのシンボル化される側面は,送り手と受け手との関わり合い方,協力の仕方によっ て,常に規定されている。. 「伝えあい」には,協力関係を含意しているという視点とともに,時間を超えることに よって現在を越える視点をも合わせ持っている。時間を超えて体験をつきはなすとは,体 験を客観化することであり,それは表現することによって自分自身と対面する,あるいは 表現によって自己を二重化することである。 畑谷は『つたえあい保育の誕生』(1970)において,「伝えあい」の集団的意味を次の ように吟味している。 ……集団における対人関係をめぐっての矛盾の発見,そして,周囲の事象における矛盾の発見を, きっかけにして,その解決の方向・方法を集団思考で追求させていく。そして矛盾の原因・結果を 点検させ因果関係をたしかめあい,事実をリアルに把握する力を蓄積していく。これらの経験を, 言葉を通して,つたえあい,行動を通してつたえあうという過程を繰り返しながら,指導する。そ. - 92 -.
(4) の結果として,個々の認識はたしかなものとなり,集団の質は発展していく。. 先に紹介したように,畑谷はその議論の過程で「はなしあい保育」を「つたえあい保育」 に名称変更したとする。話しあいを,議論というより保育として相手に伝えあうことによっ て共通に考えあい,行動する上での一致点を探るための,より実践的な概念として「伝え あい」がふさわしいととらえたのである。 本来の「協力」関係こそがめざされている。「協力する」ためにはお互いに伝えあうこ と,その内容が正しく理解され,修正される過程を経て,合意に至る。伝えあいは合意点 を追究する過程であり,その意味ではきわめて実践的な提起である。それは次の乾(1962a) の一文に端的に表現されている。 伝えあうとは何かの意味で,あるレベルでの協力をくむためでした。伝えあいの質は協力の質につ らなり,協力の水準はそのグループの伝えあいの水準を規定します。一人一人の第二信号系の発達 が低くても高くても,要するにみんなの共通目標を,各自のコトバであきらかにして,そこを目ざ した協同作業の中での自分の持ち場をやり通せるように,行動とコトバと両方を通じて助けてやる のです。. このことは幼児の伝えあいを考えると一層明確になるという。単に今の事態をわからせ るだけでは伝えあいの本質に迫ることはできないというのである。 その場をどう収めるかという近距離目標と,将来この子の生き方にどう役立つかという遠距離目標 とをつないだ線で,保育の伝えあいは,行われなければならないのです。その段階の子どもの心理 的特ちょうを考えるということはもちろん必要です。けれども……その段階に適したやり方でなけ れば,その段階を越えさせることができないからです。. 伝えあいでなければならない必然性がここにある。すなわち,その場の問題解決の手段 とするのではなくて保育の質を問題としており,保育の目標がそこにこめられているので ある。伝えあいは,協力して目的を成し遂げるという実践的課題を遂行するプロセスその ものであり,そのための不可欠の手段といえる。そのためにこそ,年齢的特徴ないし伝え あいのレベルと同時につけるべき力を視野に入れなければならないのである。. 3.伝えあい保育と集団づくり保育について 畑谷(1963)によると,「つたえあい保育」がめざしている「集団」は次のように構想 されている。第一条件はひとりひとりが,集団に自分の座をもち,思いっきり自己主張が できるような仲間関係であること,つまり個々の立場で,自分の権利が主張でき,相互批 判によって,自分を変革していく柔軟性を含んだ人間関係がつくられていなければならな い。第二条件はお互いに,相手の主張を尊重しながら,集団の利益を価値判断の基準にお いて,協力しあえる人間関係をつくることである。この二つの条件を子どもたちにどのよ うにつきつけていくのかを,畑谷(同)は次のように説明している。 保育者自身が,自分に対して要求し,子どもたちに要求する態度である。子どもたちにとっては, ことごとに矛盾に当面し,当惑することであろう。情けない思いをしたり口惜しがったり,孤独感 を味わうなどの経験をさせることになる。けれど,この経験こそ貴重なものなのであり,この類の 経験なしに子どもたちの発展はのぞめない。この経験を通してこの二つの条件を自分の要求として 体得させていく可能性を私たちは掴むことができた。お互いに,相手のあらさがしをすることより. - 93 -.
(5) は,相手のよさを発見することにより,自分との関係がプラスになり,自分自身が快適になること を知るであろう。そして,集団的行動をとる場合に,不都合なことは,その事実を通して相互批判 し,目的の課題を解決していく手だてを認識していくのである。. 第一条件は個と集団の関係であり,第二条件とは集団の質についての言及である。そし て,それを保育者が保育者としての立場を自覚的にもちながらも,集団成員の一人として 課題解決に向かうことが求められている。こうしてここで構想されている集団は子どもは もちろん保育者もともに成長しあう関係として力動的に把握されようとしているのであ る。. Ⅲ.「交わり」の提起をめぐって. 1.「交わり」を提起する前提的条件 城丸によって交わりが「民主的交わり」として提起されたのは,論考『子どもの発達と 集団づくり』(1976a)においてである。ここでは,船越の『生活指導における「交わり」 概念の構造-城丸章夫を中心に-』(1990)を手がかりに城丸の「交わり」についていく つかの角度から見ていく。 船越によると城丸が「交わり」を提起する契機は二つあり,一つは集団づくりにおける 発達的視点の導入の必要性,もう一つは,「生活綴り方,仲間づくりの実践をどのように 継承・発展させるかという理論的な課題意識」からである。すなわち,船越によると次の ようにまとめられる。前者は理論と実践の発展の過程で自治と交わりの問題としてだけで はすまなくなり,幼児期から学童期までを視野においた集団づくりを構想する必要上,子 どもの発達と集団づくりを構想する必然性があった。それを構想するうえで,1960年代か ら批判的に継承される契機とされた生活綴り方教育から批判的に継承・発展させる理論的 契機をもっていた。 これについて,城丸(1984)は次のように書いている。そもそも「生活指導」とは「生 き方の指導」であり,それは当時の「生活綴り方運動」に影響を受けた定義であった。だ が,自治の問題を避けて通ることができなくなると共に,1960年以降実践的には「集団づ くり」の運動が起こり,そこで解明を求められたのが,「行動それ自体の指導であり,市 民的訓練の問題であり,組織や集団の指導の問題であり,道徳・理想・人格の形成の問題 等々であった。」同時に,教師自身の行動を分析・検討することも避けて通れなくなる。 こうして「指導」とは何かが深く問われることになる。指導者,すなわち教師,大人の独 自の役割が意識されてくるのである。 船越は「交わり」が提起されるまでに概念の変遷があったとして,それまでに使われて いるいくつかのことばに注目している。一つ目は民主主義的関係,二つ目は交わりあい, 三つ目が社交技術であるが,これらを検討する意義は,「民主的交わり」と表現される以 前にこれらの言葉によって輪郭が明らかにされてきたことであり,「交わり」にそれらの. - 94 -.
(6) 意味がこめられていることである。「民主主義的関係」を初めて使った城丸(1974a)を 引用しつつ,船越は, 働きかけるものがもっとも働きかけられること,他者を通して自己を知るという意味とともに,…… 他者を認識することを通して,学校内外の生活についての認識を獲得すること,すなわち生活を全 面的に認識するという意味の二つのレベルで用いられていることに注目しておきたい. としている。そして,「民主的交わり」の原型的概念としての「民主主義的関係」の概念 の提起を重視している。 前者は他者との共同的関係が本質的にもつ特質を示しているのに対して,後者はそれがとりわけ私 的な関係として展開される場合の特質を示していると考えられる。. 「交わりあい」の提起に際して,城丸(1974b)が「交わり」を私的な関係であるとし ているが,それを強調するのは次のような意義を見いだしているからである。 お互いが交わりあい,学園生活を共にするなかで,共同の見とおしと行動を生み出すこと。そして, これらのなかで,それぞれの子どもが背負っているものを脱ぎすてたときの人間としてのねうちを 統一的につかむことが,民主主義にとっても人格形成にとっても巨大な意義をもっている。. 共同活動を通してさまざまな生活背景,属性を取り払って,やがて一人の人間としての 価値に到達しうる可能性を指摘している。 そして,「社交技術」について城丸(1975a)は, わたしは幼児や低学年にあっては,民主主義的な〈社交技術〉を注意深く教えることが必要だと考 える。たとえば,ものを借りるときのことわり方,失敗したときのあやまり方,みんなの前で元気 に話すこと,仲間を助けたり,助けを求めたりすること,遊びや,仕事に誘うこと,簡単な相談を すること,代わりばんこや順番にすることなどである。これらは,民主主義的行動の要素といって もよいであろうが,あえて,〈社交技術〉といういい方を提出しておく. と述べている。このように,「社交技術」は「交わり」の技術的性格を極めて明瞭に示し ている。それは,船越によると,単に交わるための技術だけではなく,民主主義的な行動 能力の形成という視点にかかわるものなのである。. 2.「交わり」概念について 城丸(1976a)は先に見たように, 「民主主義的関係」 「交わりあい」および「社交技術」 などの言葉で表現してきたものを提起しなおす。「民主的交わり」とは何かとの問いに, 「人間と人間の交際のことだと割りきって貰ってよろしい」とする。そして, 戦前の東北地方の生活綴り方教師のなかには,子どもたちに「社交技術」を与えるべきだと主張し た人があったが, 「民主的交わり」という用語自体は,この「社交技術」から着想したものである。 そして「交わり」は「交わり方」=交わりの技術として現れはするけれども,交わりを規定してい るものは人間と人間との関係のあり方だと考える。. 城丸は「交わり」とは人間と人間の関係のあり方であり,それは交わりの技術としてあ らわれるものであると規定する。その上で,これを人間の発達過程に位置づけるのである。 集団づくりを自治集団の問題に一面化するのではなく,乳幼児に育ってくる人間への関心をどう導 くかということ,そしてその導きが自治集団の教育にまで系統的につらなっていく道すじというも のを考えないわけにはいかない。そしてこの場合には民主的交わりという概念は,新しい光のもと. - 95 -.
(7) に重要性を帯びてくるであろうことは明らかである. この「交わり」概念は船越(1990)によると以下の基本的性格を有するとされている。 (1)人間と人間との私的な関係。それは何よりも,「人間と人間の交際のこと」であり, 「交わり方を規定しているものは人間と人間との関係のあり方」であること,人間が交わ るとは,「人格が丸ごと交渉しあうということであります。……人間のこのような人格的 交わりは,その本質において私的であります。私的個人と私的個人との結合であります」 (城丸,1978)。この交わりが私的な人間関係から出発すると規定している点に特徴がある。 (2)「交わり」と「自治」との関係。「民主的自治集団の形成は,その裏側に常に民主的交 わりの問題をもっているといえるし,裏側なんてものではなくて,その内部に含み込んで いるのだともいうことができる。もともと,集団づくりという概念は,民主的交わりと自 治集団の形成との両者を統一した概念であった」(城丸,1976b)といえるとしている。 このように「交わり」概念は,第一に,人間関係そのものであるとともに,技術的性格 を持っている,第二に,私的関係である,それにもかかわらず,第三に「自治」と統一的 関係にあるという基本的性格を持っているのである *2。交わりとは何よりも人間関係であ るが,それを豊かにするための技術が存在すること,その関係は個人的な関係からさらに 自治という規律ある集団にまで連なるものとしてとらえられるべきものであることがこの 言葉にこめられているのである。こうして,人間関係を構築するためには一定の技術を要 すること,基本的にはそれは私的関係であるが,それにとどまらず,自治にまで高められ るものであること,そのためにこそ指導が存在するのである。. 3.「交わり」の意義 「交わり」が提起された意義は何か。第一に人間の世界に生きる乳幼児が乳幼児期から の人間関係を理解し,発展させていく道筋を明らかにすることを可能とした点,第二に個 人的・私的関係と集団的関係の相互の関係を複合的にとらえようとした点,第三に交わり とは私的な問題であると同時に,どのような人格形成をするのかという遠い見通しをもっ た実践を見通すことを可能にした点などである。交わりを提起することで実践を進める上 での軸足と方向を明確にしたといえる。すなわち実践上の羅針盤的意味を有することに なったのである。交わりは乳幼児期からの集団づくりを見通して提起された。その提起を 受けて0歳から始まる乳児期の保育実践における集団づくりが模索されてきた。たとえば, 石川は『乳幼児の集団づくりの理論と実践』(1981)において,乳幼児の集団づくりと関 わって集団の組織化(自治的集団の形成)と民主的交わりとの関係を次のように提起して いる。つまり,集団づくりの実践においては両者は密接に結びついているとして「集団の 組織化」が「交わり」の基礎となっているととらえることが妥当だとする。そして,集団 づくりの具体的手だてとして「班づくり」からはじめる場合には,班内での当番活動を背 景にして,やがて同じ班の子どもたちと一緒に遊ぶ姿がみかけられるようになる。保育者 を中心とした遊び(保育者が仲立ちした遊び)から対等な力をもった子どもたちが自分た - 96 -.
(8) ちでの遊び(ごっこ遊び)をはじめるのである。「このことは班(集団の組織化)が子ど もたちの『私的親密さ』『交わり』を育てる働きをしていることを表すもの」となってい ることを意味する。班長への指導は私的交わりとは異なった公的な立場を教えることが基 本だが,「同時に班長の行動(教える,助ける,聞く,話しあう)をとおして民主的交わ りを教えることにもなる」。「そしてまた班長という仕事は私的交わりに不可欠な思いや り(他の子どものことが自分のことのように思える=他者の立場に立つ)を育てる」ので ある。このように,乳幼児期の集団づくりの視点を民主的交わりの提起によって具体化さ せることを可能にしたといえよう。. Ⅳ.「伝えあい」「交わり」と交流に関する考察. 1.「伝えあい」と「交わり」の共通点 第一に 「伝えあい」「交わり」は,いずれも実践との関係で問われてきた概念である。 「伝 えあい」では子どもの様子を記述するだけでは問題を浮き彫りにすることはできず,保育 者の働きかけを問題にするべきだと認識される。そのさい,保育者と子どもの関係,子ど も相互の関係そのものが問われる。その関係を問うとき「はなしあい」では不十分であり, 「伝えあい」と表現することによってその中身をも問い直すことになるのである。 それに対して,「交わり」では一つは関係を作る技術そのものを問う。子どもの動きと いう場合,子ども集団の動きだけではなく,個々の子どもの動き,そして保育者の働きか けを具体的に述べることを総合的に見なければならないとする。 いずれも記録化することによって実践を発展させることができると指摘されている。 先に「伝えあい」保育が提起される経過を見てきたが,実践をどう進めるかがまずあっ た。実践記録を書く際,子どもの動きのみ記述しても実践を吟味することはできず,子ど もと保育者の動き,保育者の働きかけの必然性が双方の関係を記述することで可能となる ことを明らかにしてきた。それに対して,「交わり」の提起においても実践記録の問題は 不可欠であった。すなわち,指導記録は指導のプロセスを保育者のとりくみと子どもの動 きの両方がよくわかるように書くことが必要なのである。それを強調する城丸(1979)は, 子どもの動きを述べるには,子ども集団としてはどう動き,そのなかの個々の子どものなかで自分 が問題としたのは太郎であり,その太郎はどうであったかが書かれねばなりません。私はこのこと を,片目では全体を見,もうひとつの目では個人を見るという,複眼の見方ができなければいけな い. と述べている。記録はそれ自身で実践を検証する重要な手段であるとともにどのような書 き方をするかが実は実践というものをどうとらえているかを見る重要な指標となるのであ る。「交わり」の提起をうけて,実践的に吟味し,内容をより重層的に構築してきたとい える。 第二にいずれも関係そのものを問うのであるが,ここでは協力関係という関係の質をも. - 97 -.
(9) 同時に問題としている。更に,現在の仲間関係だけではなく,一人ひとりに未来の主権者 としての力量をつけることをめざしている。それは,城丸が当初「交わり」を「民主的交 わり」と表現していたことにも現れている。乾(1962)も同様の内容を述べている。すな わち,教育活動としての「伝えあい」の目的は一定のイメージを伝えるだけではなくて, 「子どもが将来にむけて,みんなと力を合わせてホントのことを見つけるような生き方を 身につけてやることの方に重点があるはずだから」だという。目の前の課題という近距離 目標と,将来においてその子の生き方にどう反映していくかという遠距離目標とのつなが りで保育の伝えあいは,行われなければならないのである。 第三に,コミュニケーションとも言い換えられるがそれに収まりきれない内容を持った ものとして独自に「伝えあい」「交わり」が提起される必然性があるとされている点で共 通する。 「伝えあい」は「話し合い」とも言えるが,それでは不十分であり,城丸(1978) は「交わり」とは,人間と人間との関係のことであり,「交わり」を交際と言い換えても いいが,それでは必ずしも問題の本質を表現しきれないとする。「子ども相互の個人とし ての交わり-交際ということばを使ってもいいのですが,交際には別のことばのニュアン スがありますので,こういっておきます」(城丸,1975)として,交わりを使うことにこ だわる *3。「伝えあい」も「アメリカのマスコミ研究なども学びながら,もう少し人間ら しい伝えは相談型のコミュニケーションでなければなるまい。」(乾,1964)。コミュニケー ションという語がもつニュアンスに共通性を見出しつつも,実践的・理論的吟味を重ねる うえで必ずしも的確な表現ではないと認識されているのである。. 2.「伝えあい」と「交わり」の相違について 『季刊保育問題研究』(1977)は『私たちの研究を科学的なものに-城丸論文から学ぶ もの-』という特集を組み,城丸(1976a,b)の論文「子どもの発達と集団づくり」「あ そび・しごとと発達」を載せて,それを受ける形で論議を呼びかけている。 これらの論文を受けて宍戸(1977)は次のように述べている。 私は,このような交わりに眼を向けることに賛成である。私たちが,東京保問研を中心として伝え あいといってきたことも城丸氏のいう民主的交わりをつくることに一つのねらいがあったのではな いか。伝えあいは,相互の交流を通して,相互理解を深めるということだけではなく,「子どもが 将来にむけて,みんなと力を合わせてホントのことを見つけるような生き方を身につけてやる」 (乾 孝)ことに重点を置いてきた。城丸氏の民主的交わりは,交わりの技術だけではなく,人間と人間 との関係のあり方を指導することに重点がおかれる。ここには,共通のものがあるとみてよいであ ろう。. 「伝えあい」と「交わり」に共通点を多く見出すことができると同時にまた違いもある がゆえに,改めてこの論文がここで提起されたのであろう。おもな眼目は「民主的交わり」 であり,乳幼児にとっての集団への道行きをどうとらえるかの観点である。本庄(1977) が,「私が注目したのは,乳幼児にとっての集団を仮説的に述べているところ」だと述べ ているように,城丸はこの「交わり」によって,乳幼児がどう集団への道行きを学ぶかと. - 98 -.
(10) いうことと同時におとなが子どもにとって周りの人々との関係を学んでいく視点を提起し ていることに理論的・実践的展開の可能性があるというべきだろう。本庄は具体的に城丸 の文章を引用したのち, この論理には,集団という共通性をもちながらも,成人が自らの決意で所属していく集団と子ども・ 青年の集団とは異なるし,子ども集団といっても学童と乳幼児では異なるであろうという指摘があ る。乳幼児の場合,保育者(父母を含めて)は子どもにとって環境の一部であると同時に,子ども 自身の未熟な部分の補いでもあるという二重の働きをしているのである。そこで,私たちが乳幼児 段階で集団づくりにとりくむとすれば,こうした点も充分にふまえておく必要があろうと私は考え ている. と述べている。保育理論をより豊かなものにする道筋において,城丸によって提起された 「民主的交わり」という概念が,子どもの活動とそれを指導するという関係をとらえ直す ために重要な意味を内包している。そのような直感が保育界に城丸論文をもち込ませたの だろう。城丸(1976b)は次のようにも述べている。 集団づくりというものを,幼児にまで,あるいは乳児からはじまる指導の問題として考えようとす る動きは,幼稚園や保育園関係者からは早くから出されている。たとえば伝えあい保育という主張 は,このような流れのなかから生まれたものだし,広島保問研の動きなども注目にあたいする動き だといわねばならないものである。また,障害児関係者からの関心も,きわめて強いものがある。 そして,これらの教育を視野において考えたとき,集団づくりを自治集団の問題に一面化するので はなく,乳幼児に育ってくる人間への関心をどう導くかということ,そしてその導きが,自治集団 の教育にまで系統的につらなっていく道筋というものを考えないわけにはいかないのである。そし てこの場合には民主的交わりという概念は,新しい光のもとに重要性を帯びてくるであろうことは 明らかである。. 「交わり」はこのように,乳幼児期や障害児実践をも視野にいれつつ,自治集団への道 筋を射程においており,その上で学童期以降に一層の重点がおかれていることを考えるな らば,「伝えあい保育」に比べてより包括的な概念とみることができる。これまで述べて きたように,子どもの集団づくりの実践は多様であっていい。問題はそれを貫く筋を明確 にしていくことである。「伝えあい」「交わり」が育まれてきた土壌とその後の展開をみ てきたように「交わり」によって提起された内容は重層的であるといえよう。すなわち, 乳幼児期からの個別的な人間関係を創っていくこととそれを自治的集団の教育にまで系統 的にとらえる視点を統一しているところに大きな意義がある。そして, 「伝えあい」の「伝 え」かたを「交わり」とすることで,技術的な面を自覚的にとらえようとしたこと(これ は子どもが交わり方の技術面を学んでいくことを問題にする),他方技術面は「指導」論 として独自の課題を負うものと認識され,追究されることで双方を自覚的にとらえる視点 が明確にされているのである。. 3.交流を構想する 「伝えあい」「交わり」によって提起された理論的・実践的視点を整理し,障害によって もたらされるハンディがまわりの人々の関係によって発達に影響をもたらすという視点を 提起するとともに общение の訳語としての「交流」をより豊かな概念としてとらえ返す視 - 99 -.
(11) 点をここから得ていくことが本稿の課題である。 第一に,人格形成における集団ないし他の人間の存在は不可欠であることを「伝えあい」 も「交わり」も前提している。「強い個性というものは,他者を媒介とし,他者のなかでも まれることによって育っていくものであって,他者を媒介しない個性とは,ひとりよがり に過ぎない」との指摘は,「交わり」のもつ本質的な役割を表現しているといっていい。城 丸(1977)が 最近,ソ連の幼児教育についての翻訳を読んで見たのだが,……民主的な交わりを育てることと自 治的集団を形成することとの区別と両者の関係についての自覚的解明が不十分であることは,わた しにとってはとりたてての不満であった。幼児教育の分野だけではなく,ソ連の教育界全体の傾向 としてこの区別と両者の関係についての解明が不十分であるように見受けられる。もっとも,こう いうことを問題にしているところに,日本の教育界の独自性があるのだともいうことができよう. と述べていることは,交流を構想する上で他者の役割が不可欠であるとの重要な視点を提 供している。 第二に,他者の存在を個人的な関係から集団的・組織的関係まで貫いてとらえる視点の 重要性である。その上で,人間関係を固定的・一面的な把握にしないで,さらに場面的, 時間的な問題としてあるだけではなく,空間的にも時間的にも近い見通しと遠い見通しの もとにとらえる視点が据えられているのである。 第三に,「交わり」が何よりも個人と個人の関係を重視しつつ,それを土台として次第に 人間関係を広げていけるように,「指導」することを重視していることである。それは子ど もと異なっておとなの固有の役割があることを明確にしていることでもある。おとなと子 どもは人間として対等であることを合意の上で,しかし,おとなが子どもを指導する立場 にあることとを区別することは,矛盾しない。子どもにとって,育てられるという観点が 据えられているのである。「伝えあい」が保育者と子どもの関係を対等なものとしている ことに重きを置いていることと対照的である。 第四に,この「伝えあい」「交わり」において提起されていることは,何よりも人間の 発達を構想する上で,他者の存在,集団の役割を前提としている。障害を負っていること をもって別仕立ての保育や教育があるわけではない。すべての人間の発達を保障する観点 からもこの提起の重要性を改めて確認したい。 「交流」を構想する上での重要な観点を「伝えあい」「交わり」がもつ意味内容を吟味す ることによって学びつつ,さらにソビエト心理学・教育学において提起されていることを 視野に入れ,より豊かな内容としていく契機としたい。. 文献 1)荒木美知子(2003)乳児期および幼児期の「交流」の形成と発達について-ソビエト 心理学の研究を契機として.龍谷大学大学院博士論文(未刊行). 2)石川正和(1981)乳幼児の集団づくりの理論と実践.現代と保育,9,82-96. 3)乾孝(1962a)保育における「伝えあい」の理論-保育方法論の心理学的基礎-.季 - 100 -.
(12) 刊保育問題研究,1,4-13. 4)乾孝編法政大学心理学研究者集団著(1962b)伝えあいの心理学.法政大学出版局. 5)乾孝(1964)あたらしい人間の創造-保問研の歩み・集団保育の意味・保育者の役割-. 季刊保育問題研究,9,2-21. 6)宍戸健夫(1977)私たちの研究を科学的なものに-城丸論文から学ぶもの-.季刊保 育問題研究,61,44-47. 7)城丸章夫(1974a)子どもの発達と現代の学校.生活指導,190(『城丸章夫著作集2』 1992,青木書店所収). 8)城丸章夫(1974b)生活指導における民主主義の原則.生活指導,192 (『城丸章夫 著作集3』1992,青木書店所収). 9)城丸章夫(1975a)仕事,遊びの指導について.生活指導,207(『幼児のあそびと仕 事』1981,草土文化所収). 10)城丸章夫(1975b)現代の学校の役割と民主主義.国民教育,25,20-31. 11)城丸章夫(1976a)子どもの発達と集団づくり.生活指導,219,12-21. 12)城丸章夫(1976b)遊び・しごとと発達.生活指導,227(『幼児のあそびと仕事』所収). 13)城丸章夫(1977)学校生活全体を通した指導を.生活指導,239,27-36. 14)城丸章夫(1978)やさしい教育学.あゆみ出版. 15)城丸章夫(1979)幼児教育における実践記録の書き方.生活指導,260,80-87. 16)城丸章夫(1984)生活指導とは何か.生活指導学会(編),生活指導研究1.明治図 書,120-129. 17)城丸章夫(1994)生活における民主主義の原則.生活指導,142. 18)畑谷光代(1963)〈つたえあい保育〉をこう考える.季刊保育問題研究,4,60-69. 19)畑谷光代(1970)つたえあい保育の誕生.博文社. 20)船越勝(1990)生活指導における「交わり」概念の構造-城丸章夫を中心に-.生活 指導学会(編),生活指導研究7.明治図書,138-152. 21)本庄正美(1977)「発達」の問題が重視されている.季刊保育問題研究,61,37-38.. 補注 *1 「『協力関係』を表現するためには,伝え,伝達などよりは,『伝えあい』と『あい』をつけたほう. ... がよい,と考えている」(乾,1962a)との記述から「伝えあい」とした。 *2. 船橋は「交わり」の概念を3点にまとめているが,筆者はひとまず(1),(2)とくくり,それを船橋 の提起に従い,3点にまとめた。. *3 「そこでは,送り手と受け手との間には,共同の認識活動・共同の思考活動が存在し,これらの活 動が,共同の行動・共同の仕事という性質が生まれたとき,相互が共にひびきあい,ともにゆれ動 くようになるのです。そしてこのなかでは,送り手はときには受け手となり,受け手は送り手とな り,ときには親子が同時に声をかけ合うように,どちらも同時に送り手になることさえ発生します」 と述べている。(城丸,1978). - 101 -.
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