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『ノストローモ』の統一性

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Academic year: 2021

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﹃ノストロリモ﹄の統一性

 舞台の広さと物語が含む問題の大きさ、。めまぐるしく前後する時間の 流れ、次次と入れ代わる多様な登場人物達Iそうしたものが産み出す  ﹁ノストローモ﹂ ︵Nostromo︶の複雑さと難解さについてトマスーモー ザー︵Thomas  Moseこは次のように言う。  構造は﹁ノストローモ﹂においては﹁ロードージム﹂ ︵Lord Jim︶ の場合よりもさらに強く、読者の感情に働きかける。たぶんコンラッ ドの小説の中でこれほど読者に多大な要求をし、これほど読者を混乱 させ、憤慨させ、疲労させるものは他にない。読者はコスタグアナ  ︵Costaguana︶の歴史、地理、住民についてのぼう然とするような 事実の集積を、少しずつ、はっきりした秩序もないまま、吸収しなけ ればならないのだ。一ゆ一一一一小説の終わりには、読者の精神状態は、キャ プテンーミッチェル ︵Captain  Mitchell︶の現代スラコ ︵y︲ Fno︶観光旅行の犠牲者の精神状態とよく似てきそうである。﹁光景、 音、名前、事実、不完全にしか理解できぬ複雑な情報の洪水に突然襲 われてぼう然とし、いわば精神的に絶滅させられて、おとぎ話を聞く 疲れた子供のように耳を傾ける﹂あの犠牲者である。しかし確かに、 登場人物達の感情的混乱のいくらかを体験するように読者を襲撃する 平  出  ︵人文学部英文 ことが、コンラッドの主な目的の一つなのだ。︵1 実際に読者はその読書行為において、作品の﹁印象主義﹂的技法から、 まるで登場人物の一人として革命の唯中に投げ込まれたかのような﹁感 情的混乱﹂を感ずる。そし’てその混乱は、小説技法が時代を、即ち伝統 的価値大系が崩れて現実というものが断片化じた現代を反映しているな らば、現代の実存的混乱、不透明な世界の唯中に投げ出されている現代 人の潜在的不安そのものの現われであるとも言えるであろう。しかしそ の一方で無秩序な諸現象を単純で本質的な形式へと還元し、心の平衡を 見出そうとすることも人間の実存性である。そして確かに、断片の集積 からある秩序を読者に組み立てさせることもコンラッドの目的の一つな のだ。この論文の目的は、作品の表層的複雑さの背後にある有機的統一 性を見出すことにある。  本論に入る前に、まずこの作品の中心的出来事について。作者がその 序文‘で語るところによると、ノストローモの英雄から泥棒への転落、そ れがこの物語の萌芽であるという。この転落は、革命という状況下で、 彼がただその忠誠心から請け負った仕事に失敗したことからくる致命的 な自己認識、即ち彼が﹁りっぱな人達﹂の﹁大﹂として利用され、﹁裏 切られて﹂、そして﹁誰に対しても何者でもなくなってしまった﹂とい

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二   高知大学学術研究報告 第三二巻 人文科学 う認識から起こる。ここで彼の悲劇性は彼が﹁民衆の中の男﹂として政 治には全くインノセントであったこと、その社会生活の連続性を素朴に 信じていたことにある。銀を盗むという行為も、流動的な環境の中で精 神的に孤立してしまった人間が、頼れるものを求めようとする自然な衝動 の現われなのだ。即ちノストローモの運命に描かれているものは、個人 を、民衆を、いつでも疎外させ、破滅させうる社会の不安定さと政治の 非情さであると言える。。  ノストローモの転落が個人における小説の中心的出来事とすれば、社 会におけるそれは革命である。そしてそれはグールド︵oharles dould︶の確立した﹁物質的利益﹂ ︵”material  interests”︶に基礎を 置く秩序化された社会の崩壊を意味する。’物語の緊張は︷文明化された ステコ社会の生命とも言える銀塊を、Åいかに外部から侵入してくる革命 軍の破壊力から守るかということにあ石︵ノストローモはその手段とし て使われた︶。しかし外敵を撃退し、平和が回復されたはずの社会に、 今度はその内部から新しい革命が起こりつつあるという小説最後のパラ ドックスは、破壊的要素が内在的であること、その社会が基づく物質的 利益そのものにあることを暗示している。即ち革命という中心出来事に 描かれているものは、社会をいつでも崩壊させうる物質的利益の原理な のだ。  コンラ。ドは手紙の中で、この小説の真の主人公はノストローモでは        ︵2なく銀であることを述べている。実際銀はその絶対的価値でグールドに 社会を建設させ、貧欲な革命軍を引き寄せ、またノストローモを泥棒に 堕落させるなど、﹁物語のすべての人間の生活に影響を与える、精神的 物質的出来事のかなめ﹂なのである。そしてノストローモの転落も社会 の崩壊も、銀がそれらを支配する点て、同一の現象なのである。だから この南米を舞台にした小説で劇化されているものは、物質的利益を根本 原理とする西欧物質文明下に置かれた人間と社会の潜在的宿命だと言え るのだ。 − フレームワーク  この小説の中心的出来事は、﹁外国人﹂グールドの﹁物質的利益﹂に 支えられたリビエラ︵Ribiera︶政府に対する軍事的反乱と革命騒ぎで あり、不安、緊張、闘争、混乱といったものが物語の支配的な雰囲気で ある。しかしこの小説にはそれとは対照的に、二つの穏やかな雰囲気も    ‘       り         瞼    −      一存在する。一つは、﹃ ﹁それは歴史卜歴史だったのです、旦那。﹂と感 嘆しつつ、’革命騒ぎを、すでに過ぎ去った。。﹁歴史的出来事﹂として、観 先客に気楽に語っている牛ヤ・プテンーミッ。チ。エルの声である。それは内       が       一      −乱が終わり、、スラコが再生した西部共和国の首都として繁栄している時 点、従って物語の﹁現在﹂に対し、、その﹁未来﹂から響いてくる声であ る。その声はまず小説の初めの部分に置かれることによって、その後に 展開されていく緊迫した物語に、そののんきで穏やかで、そしてアイロ ニカルな余韻を漂わせていくことになるのだ。もう一つは、例えば、  ﹁その冷やかな純粋さのために熱き大地から身を引き離しているように 見えるイグェロータ︵Higuerota︶山の白い円頂﹂といったもの、つま りスラコの人間社会を包む大自然の超越的な様相である。その﹁沈黙の 巨大な権化﹂の下では、暴動は﹁馬に乗っていたり歩いていたりする小 人達が、小さなのどで絶叫しながら平原で演じる暴カゲーム﹂となって しまうように、それは人間の出来事をアイロニカルに狭小化するもので ある。そしてこの超然とした自然の存在は、やはり小説の冒頭から示さ れることにより、その後のめまぐるしい物語に対して一つのゆるやかな 地平線を敷くことになるのだ。前者は革命騒ぎに時間的距離を置き、過 去の歴史として語るもの、後者は同一の対象に空間的距離を置き、空虚 な現象として示すものであり、ここに中心となる出来事と、それを時間

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的空間的パースペクティブに置く二つの枠組を区別することができる。  この二つの枠組は、物語を対象化する仕方から、物語に対する二つの 見方を示していると言える。つまりキャプテンーミッチェルの示す、対 象を時間の観点から見ることが、それを歴史として見ることなら、大自 然の超越的存在が示す空間的見方は、対象を、歴史に対し神話として、 繰り返されるパターンとしてヽ、見ることである。単純な例では、かつて の征服者であるスペイン王の騎馬像である。それはミッチェルの時間的。 歴史的な目から見れば﹁アナクロニズム﹂であり、時代が変わった以上、 当然新しい像に置き換えねばならない。しかしもう一つの目、空間的神 話的目から見れば、その像は古くはなりえない征服者の元型像であり、 その置き換えは何ら新しいものを意味しえない。この相反する見方は、 当然もっと大きく複雑な問題にも及ぶ。即ち独立国家となった西部共和 国が本当に歴史の進歩であるのか、それとも単なる過去のパターンの繰 り返しにすぎず、また新たな革命によって崩壊する運命にあるのかといっ た問題である。作者はミ。チェルを戯画化することで一つの見方を否定 しているとも言えようが、しかし例えばペンーウォレン︵Robert Penn   Warre已に、﹁内乱はあったが﹁進歩﹂の力、つまりサンート メ︵San Tome︶鉱山と資本主義的秩序が勝った。我我は本の終わり の社会がその初めの社会より好ましいことを認めなければならない・﹂︵3 と言わしめたように、物事には常に二つの側面があり、常に二つの見方 が可能であると主張しうる余地は残していると思える。  しかし、この二つの枠組はただ物語の外側にのみ存在してその見方を 示しているわけではあるまい。もしあらゆる現象や出来事が、ちょうど プラスとマイナスの電極によって電気が生ずるように、あるいは太陽と 大地の相互作用で有機体を含めたさまざまな自然現象が起こるように、 二つの相反する力によって生ずるものならば、二つの枠組は革命騒ぎを 作り出した二つの抽象的な力の表象としての意味をも持っていると思わ 一 一 -﹁ノストローモ﹂の統一性︵平出︶ れる。この時革命は、歴史又は文明の進歩の力と、神話又は自然の回帰 の力の相互作用による社会現象だと言えるだろう。あるいはミッチェル の語りを言葉又は観念に、自然を実在︵物︶へと還元して、革命とは、 言葉と物、観念と実在といった世界を構成するものの間の関係が不合理 なところから生ずる現象だと言えるだろう。従って小説の形式上の三層、 ミッチェルの語りI革命騒ぎI大自然の存在は、小説が表現する世 界が三つの大系から成ることを暗示するものなのだ。そしてその世界の 三重構造は、その中に置かれた人間の内面世界にも映しとられて、人間 の心の力9  y例えばノスト゜−モの転落゛を説明するものともなるであ ろう。  まずミッチェルの語りから見ていこう。この︵全知の語り手に対して︶ 二次的な語り手は、キャラクターとしては、コスタグアナの事情につい ては盲目同然なのに、その歴史の真唯中にいたと思い、それに精通して いるとうぬぼれている喜劇的人物にすぎない。そして彼が語る歴史的出 来事の話にしても、単純で自己満足な男が語る観先客接待用の紋切り型 の話にすぎない。にもかかわらず。彼の話を支えている文明と歴史への 単純な信念、つまり文明は﹁偉大﹂なもので、歴史は過去の﹁誤り﹂か ら﹁偉大なる未来﹂の﹁輝かしい成功﹂に向けて﹁進歩﹂していくもの だという信念は、例えば鉄道会社の頭取サー・ジョン︵Sir  John︶ がグールド夫人に言う言葉、﹁我我はあなたに教会裁判所を再び戻して あげることはできませんが、今以上にたくさんの汽船や、鉄道や電信線 を持たせてあげましょう。それらは、教会中心の過去がいくらあっても、 そのまま反映し、そして自然の障害を容赦なく突き破って敷かれていく 鉄道線の﹁進歩﹂にそのまま具体化されている信念でもあるのだ。  即ちミ。チェルの語りにおいて、語っているのはミ。チェル自身では

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四 高知大学学術研究報告 第三二巻 人文科学 ない。彼はごく単純平凡な﹁公人﹂、そしてそれだけに一層忠実な時代 の世界観の表明者でしかない。彼の内にあり、彼の口を通じて語ってい る真の主体、それは彼の生まれ育った生活環境を、従って彼の意識を規 定している西欧物質文明の、その帝国主義的資本主義の、イデオロギー そのものなのである。言い換えれば、ミ。チェルは文明という現代宗教 の信仰者、文明の被造物として、語っている者なのだ。そしてミ″チェ ルの内にあるごの姿なき語る主体は、物語において文明宗教の使徒グー ルド、ホル0 イド︵コotol︶、サー・ジョンといった資本家の内にあっ        n         l Fて彼らを動かしている主体であり、また鉄道や電信線という物質的形で その﹁触角﹂を現わし、そ七て最終的に`サンートメ山の銀とい’。7銀色に 輝く物神として、人人の生活と意識を支配する絶対的力を待った現代の 神として、示現してくる主体であるのだ。  このミッチェルが﹁もっだいぶった尊大さ﹂で語る話と、小説が示す 現実とのずれは、彼がソティロ︷回巳︸o︶・の軍隊に囚われた時示す、彼 の主観的世界と客観的世界とのずれと本質的に同じものである。その場 面で彼は、自分が銀塊の隠し場所を知る貴重な捕虜としてどんな拷問の 危険にさらされているのかしれないのに、自分の置かれた状況には一向 に気つかない。それどころか自分が乱暴に扱われ、大事な金のクロノメー ターを奪われたことにひどく立腹して、こう叫ぶのであるI﹁わしは ここと波止場の間で三度なぐり倒された。誰かにこの償いをさせてやる。 ⋮⋮見ろ! 下にいる制服を着たお前の泥棒どもはわしから時計を奪い おった⋮⋮わしは返還と謝罪を要求する。﹂そして取り調べが終わって 外へ連れ出される時も、彼は偶然見かけた技師長に、・ ﹁畜生I・ 奴はわ しの時計を盗みおった。﹂と叫ぶのである。この場面におけるミッチェ ルの喜劇性は、彼が初めから終わりまで自尊心とクロノメーターにばか り心を奪われて、尋問者の言葉も、自分の置かれた立場もわからず、そ してそのことが逆に彼を救うことになるというところにある。いわば彼  は彼個人の主観的世界の中で独白しているだけであり、その外側の現実  世界とは全く対話が、接触が、成されていないのだ。ここで金のクロノ  メーターとは、彼の仕事上の功績に対して海上保険業委員会から彼に贈  与されたもので、彼にその主観的現実を作り出して、客観的な状況を消  去してくれるものである。それは彼の属す文明社会から与えられたもの  という意味で、彼が社会的文化的に受け継いでいるさまざまなもの、言  葉、知識、慣習、道徳、価値観、世界観といったものと同じ位置にある  と言え、彼のクロノメーターへの固執はその文明社会への固執を、ヽ市民’  としての自我像への固執を、ヽよ齢するものである。従って時計に取りづ  かれて現実の世界から孤立し疎外されているべふチェルの姿は、。歴史と  文明への信念に取りつかれて出来事の現実性を反映しえない彼の話と重 ・なるのである。   このミ。チェルの外界とのずれのあり方は、彼と同じ西欧社会で教育  を受けた人間である限りにおいて、暗黒の国への光の使者たらんとした  グールドのあり方と同じものである。彼は妻に、グールド家の者は﹁政  治のみじめな茶番劇には全く加わらず﹂、﹁その観念において本質的に  イギリス人﹂であったと語る。そして彼もまた同じ態度で鉱山を再開し  ようとするのだが、この自分の置かれた政治的状況には関知しようとせ  ず、もっぱら自分の正しいと思う通りに行勤しようとするグールドのあ  り方は、自分の内界と外界をきっぱりと区分している点て、ミッチェル  がソティロの脅迫に何の反応も示さずに時計にばかり固執していたあり  方と同じである。そしてグールドが次のように宣言する時、それはミッ  チェルが彼の歴史的出来事をこっけいに語る時と同じ余韻を響かせてい  る。 ここに必要なものは、法と誠意と秩序と安全だ。誰でもこれらのもの について熱弁をふるうことはできる、だが私は物質的利益に信念をか

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けるのだ。物質的利益に一旦確固たる足場を得させてみたまえ、そう すればそれは、それが存続しうるための唯︸の条件を必ず押しつけて くる。そんなわけで、無法と無秩序にもかかわらず、ここで金もうけ が正当化されるのだ。それは正当化される、なぜなら金もうけが要求 する安全は抑圧された人人と共有されねばならないのだから。よりよ い正義はその後からやってくるだろう。それが君の希望の光なのだ。  同じ余韻−それは二人がある観念の中に閉塞し、独白している限り においてそうなのだ。歴史への信念が、クロノメーターが、ミッチェル を囚えていたように、物質的利益への信念が、鉱山の銀が、グールドを 囚え、彼を現実の状況から疎外させる。そしてそうである以上、グール ドの試みはすでに最初から運命づけられている。というのも、彼が文明 の小宇宙として作り出すスラコの秩序社会は、それがどんなに拡大され ようとも閉じられた円であり続け、その外側には常に彼が関与すること を拒んだ現実の世界が存在しているということになるのだから。  実際、彼の確立した秩序社会は彼の疎外の構造を反映したものとして ある。つまりグールドは、客観的に見て、理想主義的観念の奴隷、物質 的利益の拡大のために使われる文明のあやつり人形にすぎないが、スラ コの社会もまた、彼の宣言に明らかなように、物質的利益の・安全と存続 と発展のために組織された手段、物質的利益が産み出す﹁正義﹂の観念 の奴隷でしかないのだ。奴隷であるとは、人間としての内的生命を否定 された道具として扱われるということである。物語の終わりにグールド 夫人はそのことをはっきりと見てとる。 彼女はサヅ・下メ山が平原の上に、全陸地の上に、恐れられ、憎まれ、・ そして豊かにおおいかぶさっているのを見た。それはどんな暴君より も非情で、最悪の政府よりも無慈悲で独裁的で、その大きさを拡大す 五   ﹁ノストローモ﹂の統一性︵平出︶ るために、無数の生命をい つでも押しつぶしてしまうのだ・︵8 つまりスラコの社会における真の主体は物質的利益で、人間は客体でし かない。ちょうどミッチェルの語りで、語る主体がミッチェルではなく 文明の観念であったように。  この物質的利益による人間の疎外化の過程は、鉱山の様相の変化に端 的に示されている。即ち、鉱山のある峡谷は、密林が切り開かれる前は  ﹁蛇の楽園﹂であり、滝の水はしだ類を繁茂させて、それを岩の上の  ﹁吊り庭園﹂のように見せていた。しかしグールドが﹁その楽園にいた とてもたくさんの蛇を騒がせ﹂、﹁その中に人類を持ち込む﹂と、緑は 枯れ果て、滝の水も﹁宝の流れ﹂に置き換えられて、かつての楽園はグー ルド夫人の水彩画の中にしか見られなくなってしまう。枯渇ざせら れたものは、自然の﹁楽園﹂の中に生きてきた民衆の内なる自然 ︵human  nature︶であり、彼らは自然原則から引き離されて文明生活の 中に、物質的利益が支配する生活の中に、投げ込まれたのだ。   一方、銀塊が地中から掘り出されるということも象徴的である。銀塊 とは有機物ではなく、生命体が滅んだ後そこへと還元されていく無機物 界に、死の世界に属するものであり、そしてそれ故の﹁不朽性﹂と絶対 性を持つものである。そして銀塊がその不朽性故に神格化されて社会の 支配原理となることは、社会を、人間を、その死の影の中に包み込み‘、 非有機化することを暗示するのだ。従ってスラコの秩序社会丿西欧文 明の小宇宙−は、自然界から疎外され、死の原理に支配された虚の空 間であると言える。そしてその疎外の構造は、ミ。チェルやグールドの 観念による疎外と同じものである。というのもその観念とは、西欧文明 の物質的利益がその安全と発展のために産み出した観念、それ故非有機 的な、人間性を枯渇させる死の観念に他ならないのだから。  この生の疎外は、すでにミッチェルの語りにおいて示されていた。彼

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六   ・高知大学学術研究報告 第三二巻 人文科学 が語る歴史的出来事とは、決してその生きた、ありのままの像なのではな く、その歪曲された像、彼の決まり文句である歴史、進歩、文明といった 無機的な固定観念の中に押し込めることによって、その生きた姿を萎縮 させ、損傷を加えた果ての、千からびた死体にすぎないのだ。そして実 際、’ミ。チェルの話の聞き手は、﹁光景、音、名前、事実、不完全にし か理解できぬ複雑な情報の洪水に突然襲われてぼう然とし、いわば精神 的に絶滅させられて、おとぎ話を聞く疲れた子供のように﹃耳を傾ける。﹂ この聞き手は、過去についての歪曲され、枯渇させられたおびただしい 高地の透明な空気の中ではすべてのものが、重さのない液体の中に浸っ ているかのように澄んだ静けさの中に浸っていて、とても近く見えた。 そして心待ちしている駅馬車の最初の音を聞きとろうと耳を澄ましな がら、技師長は、荒削りの石造りの小屋のドアの所で、巨大な山腹の 上に移り変わる色彩を見つめていた。そしてその景色の中には、霊感  ’て変化する表現と、驚くほどに壮麗な効果が共に見出しうると思った。 人類とはそこへの閥人者であり、自然の静かで美しい秩序をかき乱す存 在だ。にもかかわらず、大地は人間の響きと怒りの外側に無限大の広大 さをもって横たわる。例えばグールド夫人が見るように。 スラコの谷は、若若しい緑の作物や平原や森林地帯や輝く水を有して。  り      l       l青くかすむ遠い山脈から草原と空の巨大な、震える地平線に至るまで 公園のように展開しており、大きく白い雲は、それ自身の暗い。影の中 にゆっくりと落ちてくるようだった。  人人は木製のすきとくびきにつないだ牛を使って耕していたが、そ の姿は、まるで無限さそのものを攻撃しているかのように、果てしな い広がりの上に小さかった。111111そしてグールド夫人は日日旅するに 従い、内陸が海岸の町町のヨーロ乙ハ的虚飾の影響を少しも受けぬま ま途方もなく展開されていくのを見て、この土地の魂に段段と近づい ていくように思った。それは平原と山山と人人の広大な土地、苦しみ ながらも無言で、哀れなほどじっと我慢しながら、未来を待っている 土地であった・︵11 こうした宇宙的な無限さと静けさを有した自然は、﹁海岸の町町の’ヨー ロッパ的虚飾﹂に対し超越的であり、そしてその限り、例えば人間界を 無言で見おろす冷厳なイグエロータ山のように、それは人間に対し沈黙 を守っている神を思わせる。つまり銀塊に象徴される文明宗教の物神と

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対極にある、自然に内在的な神である。それはオレンジを実らせ、夕刻 の美しい光景を作るものであり、また人間の血肉を作り、その存在を根 底において支えている実在なのだ。  人間の外なる自然は、その内なる自然と符号する。大地を耕す農民の  ﹁生活の静けさ﹂は、農民の心が自然の原理に深く根ざし、自然の一部 として、自然と共に生き残っていくことを示すものなのだ。しかし文明 的理性によって自然から独立し、自然を対象化する者はすでに内的に分 裂した人間であり、彼の離れた自然は、例えばデクー︵Martin Deco乱︶が大イサベル島︵the Great  Isabel︶で遭遇する﹁大いな る虚無﹂として迫ってくる。その虚無は自然界自体が持つものではなく、 人間の内にある自然の否定としての虚無、そして外界へと投影され、そ の超越的静けさと結びついた虚無である。  大イサベル島での一日目の終わりに、デクーは木影の下の荒草の巣 穴の中で寝返りを打ちながら、こう一人言を言ったI   ︷私は一日中、たった︸羽・の鳥さえも見なかった。﹂  そして彼は、今発した自分自身のただ一つのつぶやき声の他は、一 日中物音一つ聞くこともなかった。それは絶対的な沈黙の一日であっ た。 ⋮⋮人の顔を見たいと待ち望みながら三日開か過ぎた時、デクーは自 分が自分自身の個性さえ疑’つていることに気づいた。それは雲と海の 世界の中に、自然の力と自然の形の世界の中に、溶けてしまったのだ。 我我は自分の行動の中においてのみ、我我がその無力な一部分にすぎ ぬ事物の全構成に対して、独立した存在であるという一貫した幻影を 見出すものなのだ。︵a ここで彼が閉じ込もる﹁荒草の巣穴﹂は、彼を外界から区切っていた自 七   ﹁ノストローモ﹂の統一性﹃平出﹄  我の円のイメージである。そして﹁絶対的な沈黙﹂の中で聞くものが自  分自身のっぶやき声でしかないという状況は、自然界が生きた実在とし  てではなく、人の声をはね返す壁として、人の幻影を映す白いスクリー  ンとして、人の姿を映す鏡として存在していることを示唆する。ミッチェ  ルやグールドでは、自我の円は︷独立した存在であるという︸貫した幻  影﹂で満たされ、外界はただ鏡、スクリーンとして彼らにその幻影を見  させていた。しかしこの場面のデクーはその幻影を失い、ただスクリーンの  白さだけを、いや正確に言えば、スクリーンに映された自分の空虚感だ  けを見るばかりなのだ。そして自然はただデクーの自己崩壊、大地への  溶解を、その外側で超然と見つめているだけなのである。   人間の幻想を映すスクリーンとしての大地−しかしそこにはまた人  間の過去の歴史の残像や残響が、廃堀や伝説として残っている。崩れた橋  や教会や街道、風雨にさらされた騎馬像−それらは昔の征服者が奴隷  に命じて作らせたもの、しかし今や大地に崩れ落ち、その中に溶解しよ  うとしている過去の遺物で、人類の歴史の自己破壊のパターンを現在に ’向かって語りかけている大地の声なき声である。サンートメ山もまた奴  隷制、反乱、殺人、破壊の歴史を持つ禁じられた鉱山であり、その再開  は、その未来が過去の繰り返しであることを宿命論的に暗示する。グリ  ンゴ︵︵jringo)伝説も、アズエラ(Azuera)半島の不毛の岩間、民衆  の無意識の中に刻まれた大地の言葉である。その伝説とは、外人である  二人の﹁さまよえる水夫﹂が半島の絶壁の闇の中に隠されているという  金を探しに出かけるが、その結果﹁その成功の致命的な呪いの下に、幽  霊となって生きたまま、今日まで岩の間に住んでいる﹂というのである。  この伝説の中でグリンゴは、ちょうどかつての征服者の騎馬像がただ  ﹁石の馬﹂としてのみ民衆に知られていたように、具体的な名前を持だ  ない。なぜなら、昼夜、四季、生と死といった自然の周期的なリズムに  支配された民衆の素朴な生活に進歩する歴史はなく、ただ繰り返される

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八 高知大学学術研究報告 第三二巻 人文科学 パターンがあるだけで、従って具体的な人物や出来事はみな一つのパター ンヘと溶解し、還元されていってしまうものだからである。だから伝説 の外人水夫は、大地との接触を失い、大地に対し異邦人となって空間を浮 遊する根なしの文明人を、そして彼らが金のある岩の闇の中に﹁幽霊とな って生きたまま﹂漂う様は、物質的利益に支配された文明化社会にある人 間の潜在的死の様を表現しているものと読みとれるであろう。それは大 地と共にある民衆の本能が死と悪に対して作り出した寓話であり、大地 の鏡化映された人間の真実の全体像であ肛、そしてまた大地が発する声 なき声の一つなのである。  人間に’対し鏡あるいはスクリーンとして存在する自然が、コスタグアナ の過去を廃堀や伝説と七てとどめているなら、西欧的秩序の下に淑る現 在を、強欲さと闘争と残酷さに支配吝れた﹁政治のみじめな茶番劇﹂と して、西欧文明の﹁悪夢のようなパロディ﹂として映し出す。グールド は言う。 自由党員か! 人がとてもよく知っている言葉が、この国では悪夢のよ うな意味を持っているのだ。自由、民主主義、愛国心、政府−こう いったすべてが愚行と殺人の色合いを持っているのだ。︵13 洗練された西欧と原始的な後進国が、文明と野蛮が、秩序と暴力が、善 と悪が、光と闇が対比され衝突する。しかし後者もまた物質的利益に支 配され、自然から浮遊している点て、文明人の潜在的姿が外面化された もの、自然という鏡に映し出された前者のシンメトリカルな分身像に他 ならない。つまり彼らの銀塊への貧欲さとそれに伴う残酷さとは、文明自 体が作り出した負の力、抑圧され、歪曲され、否定された人間の内なる 自然︵本能︶の反動的な力の現われなのである。  デクーの場合、彼は外的自然の鏡に内的自然の死としての虚無を見、 そしてついにはその理性的自我の巣穴から抜け出て、その無限大の虚無 の中に身を投じた。言い換えれば、自然は彼の潜在的虚無を外面化し、 それを彼の上に送り返すことで、彼の自我をその中に溶解させたのだ。 同様にグールドの確立した文明社会の場合にも、自然はモンテロ ︵Koぽ円o︶、ソティロのグロテスクな革命軍としてその社会の潜在的姿 を外面化し、その破壊力をその閉じられた円空間に外部から侵入さすこ とで、その社会を自滅的に分解させようとするのである。それはグしル ドの行為に対する自然の側の反作用、文明の﹁進歩﹂という上昇運動に 対して働ぐ、地上に引き戻そうとする。重力であり、そしてっまりは文明’ 巨体が内在させているゼμへの、死への衝動、。その疎外の構造が外面化、 されたものなの’である。そして外部からの破壊力を免れた後、今度は内 部からの破壊力にさらされるとい・7小説最後のづフドックス、グールド・ が暴政に対して確立した秩序が暴政になるというパラド。クスも、物質 的利益がもたらすそうした社会の自己破壊的なロジ。クと歴史の悪性循 環を確証させるものに他ならないのである。  こうして革命というこの小説の中心的出来事となる社会現象は、文明 の進歩力と自然の回帰力の相互作用の力学に還元して見れる。ミッチェ ルの語る声と自然の超越的存在という二つの枠組は、その力の表象とし てあるものである。さてここで再びミッチェルの語りに戻ろう。語り手 ミッチェルが文明の比喩なら、その聞き手は抑圧される自然の比喩であっ た。この聞き手は﹁ある特権を受けた船客﹂という三人称で現われるが、 一部八章で作者が﹁私﹂として顔を出す時、その﹁私﹂は鉄道がスラコ に敷かれる前に訪れ、その後町が栄えて重大で組織的な労働問題が起こっ たことを聞かされる者としてあり、時期的にミ。チェルの三人称の聞き 手と同一人物と思われる。とすると、三人称の﹁私﹂が文明により抑圧 され、対象化される自然なら、﹁私﹂が一人称、つまり作者としてミ。 チェルの語り様をこっけいに描くのは、文明を対象化する自然と読みと

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ることができよう。。この時、人間界を小人達の暴力ゲームの場として見 おろすイグエロータ山の冷厳さは、小説の題材に対する作者の基本的態 度を示唆するものでもあろう。こうして物語の二極性はその二つの枠組 に、そしてまた作者とミッチェルという二人の語り乳14にも反映してい るのである。  最後に、物質的利益に囚われた人間と社会の運命が最も象徴的に描か れた場面を見ておこう。それは小説のほぼ中間に位置する﹁夜の海の航 海﹂の場面、民衆のノストローモと貴族のデクーが銀塊をはしけに載せ てプラシド湾へ乗り出す部分である。ソティロの蒸気船が銀塊を求めて 近づいてくる状況下で、彼らは国の独立のためになんとかそれをアメリ カのホルロイドの元へ送り届けねばならないのだが、彼らの必死の努力 にもかかわらず、はしけは湾の無風状態に妨げられてなかなか先に進め ない。それどころか真暗な夜のため、はしけがどこに向かって進んでい るのかもわからなければ、お互いの姿も、自分自身の手さえも見ること はできず、ただ意識だけが残っているのだ。  彼らの囚えられた状況は、人間の意志が全く役に立たず、ただ予知で きぬ出来事のなすがままになるしかないという不条理な宿命論的宇宙の イメージである。そしてそれは人間存在の自然原則から引き離されて、 物質的利益支配下の文明社会に置かれた人間の、潜在的な死のあり方を 示すものである。つまり彼らの意識以外のすべてを消去する闇と沈黙と いうネガティブな自然環境は、自己や他者や環境との生命の通った結び 付きが失われて疎外されている人間の様を、自然が示すものなのだ。そ してその中でデクーは海へ沈没していく思いに﹁激しい喜びの震え﹂を 感じ、ノストローモは無意識のうちに銀塊にしがみつく。そのどちらも 彼らの世界における孤独と無力さの感覚がもたらす必然的な衝動であり、 今まで受動的に適合してきた社会からの、その社会的理想的自我像から の転落を意味するものである。 九 ﹁ノストローモ﹂の統一性︵平出︶  このはしけはまた民衆と指導者と物質的利益をのせたスラコ社会の比 喩であり、アメリカに向けて進むことは、暗黒の宇宙の中を﹁偉大な未 来﹂に向けて﹁進歩﹂するはずの歴史の比喩となる。しかしその予想に 反し、はしけは少しも進まない。﹁我我は曲がって進んでいる﹂とノス トローモは言う。曲がっているのは歴史である。そしてはしけに大量に 積み込まれた銀塊が、はしけの前進を妨げている物理的及び精神的重荷 なのだ。そのはしけがソライロの船と衝突したことは彼らにとっては全 くの偶然である。しかしソティロは銀塊が生み出し引き寄せたもの、は しけに内在する否定的力であり、その衝突は自然の論理による必然的な ものである。アイロニーは、彼らがどんなことをしてでも守りたいと思っ ている当の物が、彼らに破壊と死をもたらすものに他ならないというこ とである。      ・・ ニ キャラクター  この小説は複数の人間の物語、社会にあるすべての人間の物語である。・ にもかかわらず題名が﹁ノストローモ﹂である理由は、彼がその忠誠心 と無邪気さにおいて民衆そのものを代表しており、その個人的運命の中 に政治の残酷さを最もよく反映するからであろう 0しかし彼が唯一の主 人公というわけにはいかない。その意義と小説に占める割合の大きさか ら、この小説の中心となる主人公とはノストローモ、グールド、デクー、 モニガム︵Dr.   Monygham︶の四人の男性にグールド夫人を加えた五 人である。彼らは社会的危機の中から必然的に浮上してきて歴史に掛か り合い、そしてその魂の孤独な領域で自分達の運命と遭遇することにな る人達なのだ。  最初に四人の男性主人公について見よう。彼らはみな独自の生き方を 持ってはいるか、二つの分類基準を設けることである組織的な形にまと

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− ○ 高知大学学術研究報告 第三二巻 人文科学 めることができる。その分類基準とは、一つは彼らのコスタグアナとい う国に対する客観的な関係、’もう一つは彼らの世界︵人生︶に対する主 観的な態度である。  まず主人公とコスタグアナとの客観的関係において、コスタグアナ人 であるグールドとデクー、そうでないノストローモとモニガムを分けら れる。クール。ドもデクーも教育こそヨーロッパで受け、そこで成人した が、‘生まれはコスタグアナである。そしてこの単純な事実は、彼らの生 国の政治状況がどんなに絶望的なものであろうと、その好むと好まざご とにかかわらず、彼ら町内に国の再生のために身を投げ出して`いかざる をえない衝動=愛国心があることを示している。というのも生国とは人 間存在の根であり、・愛国心とは人間としての真の感情であり、それ を失うことは自分自身を失うととに等しいのだから。この愛国心 ・ patriotismという言葉は父paterとじつ言葉から由来する。父とは 社会の伝統的価値を守る法と秩序と権威の体現者であり、愛国心とはそ の父への忠誠を意味する。そしてグールドもデクーも、安定した西欧で の生活を離れて祖国の政治的動乱の中に入り込むのには、その動乱下に 置かれた彼らの父の運命が密接に関係している。グールドが祖国に戻る 決意をしたのは、自由と正義を愛した彼の父がその暴政の下に押しつぶ された時、政府の搾取の手段である鉱山が﹁父を殺した﹂時である。彼 は父の鉱山への取り組み方が間違っていたと思い、一つには﹁償い﹂か ら、父が禁じた鉱山再開に着手する。一方デクーが戻ってきたのは、祖 国の革新政府が危機にさらされている時、情熱的な愛国者ドッーホセ  ︵Don  Jose   Avellano巴の呼びかけに答えてである︵ドンーホセは デクーの代父で、精神的な父親像である。彼の実父はパリに住み、小説 には現われない︶。そしてデクーが、彼の考え出した分離派反革命の計 画を実行に移すのも、ドンーホセがスラコの議員達に裏切られて生ける 屍と化し、﹁我が息子﹂にその志を託した時である。ただし彼の父への 忠誠及び愛国的行動は、ちょうどグールドが鉱山経営という間接的形で 政治の﹁悪夢﹂に対したように、政治の﹁ばからしさ﹂から常に下ンー ホセの娘アントニア︵Antonia︶への愛という個人的な形をとってはい るけれども。こうしてコスタグアナ生まれの二人は、彼らの父を死に至 らしめた暴政の唯中に、父の復讐をし、父の志を継ぐために、入り込ん でいくのだ。  一方ノストローモとモニガムは外国人である。即ちノストローモは  ﹁コスタグー’アナで陸での運だめしをしよ’うと船を捨てた﹂元水夫のイタ リア人であり。モニガムは﹁偶然に。吹き流されてきて、ただ海岸に乗り 上ザることとなった﹂イギリス人の医師である。この’コスφグ。アナにそ の存在の根を持たぬことは、その国に対する彼ふの態度を本質的に受動 的なも01とし、それ。にどんなに掛かり合おうと、その根底にその政治に 対する無関心さ、遠心力を潜ませることになる。それに加えて彼らはま た戻るべき祖国を持たぬ精神的な孤児、浮浪人でもある。/ストローモ は幼くして孤児となり、十四才の時に残酷な叔父の元をのがれて海の男 となった。一方モニガムは、精神的孤独と肉体的拷問の下で偽りの告白 をしたことが彼の英国人的な人格全体を破壊することとなり、その恥辱 と罪の意識によって祖国へ帰ることが不可能になってしまったのだ。従っ てこの精神的な無国籍者を動かす衝動とは、彼らの非在感を埋めてくれ る生命と自然の体現者、つまり母親像を探すことである。ノストローモ は自分が偉い人達に﹁裏切られ﹂て頼るもののない孤独に突き落とされ た時、死んだテレサ︵jSS︶夫人こそが自分を母親のように気づかっ ていてくれたことを遅まきに認識して深く後悔する。そしてモニガムに おいては、グFルド夫人が最初から、その人間に対する愛情と感化力の 点て、彼がその敬意と愛とその一身を捧げる聖母のイメージとしてある。  次に主人公の世界に対する主観的態度という基準においては、行動家 であるノストローモとグールド、懐疑家であるデクーとモニガムを分け

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ることができる。まず行動家とは、世界内にその存在感覚が見出せぬ時、 行動によって、その行動の中に自己の存在を見出そうとする者のことで ある。作者はグールドが行動への欲望を感じた時、次のようにコメント している。 行動は慰めになるものである。それは思索の敵であり、自己満足の幻 想の友である。我我は自分が行動している時にのみ、運命に対する勝 利の感覚を見出しえるものなのだ。︵15 グールドにおける父の死、ノストローモにおけるこの世での孤児として の孤独、それらは彼らに非在感を持たせる否定しえない事実、﹁運命﹂ である。そしてグールドの鉱山への着手、ノストローモの社会での英雄 的活躍は、彼らに自分が確かに存在しているという﹁自己満足の幻想﹂ を与えてくれるものなのだ。その限り彼らの行動は彼らにとって個人的 な精神的意義を持つものだが、その行動の客観的意味はそうではない。 それは政治が現実である世界では政治的意味を持って、彼らの意志を裏 切り、その幻想を打ち砕くような形で彼らの上にはね返ってくる。即ち、 もっぱら世間の評判と賞賛を得るためにのみ取ったノストローモの行動 ’は、彼が任えた﹁お偉方﹂の政府が崩れた時に、その行動の持つ政治的 意味のために彼の存在感覚をも崩してしまう。またグールドの銀山経営 も、彼がその行動に与えた正義の成就という理想主義的な意味付けにも かかわらず、その銀塊の力によって彼を﹁スラコの王﹂、つまり政治的 支配者の位置に置いて、彼の嫌った政治へ介入させることになるし、そ して最終的には彼を民衆を抑圧する憎むべき暴君へと変容させてしまう。   一方懐疑家は、行動家とは反対に、その置かれた現実世界に対して距 離を保ち、その世界に掛かり合うまいとする傍観者的な態度によって特 徴づけられる。コスタグアナの政治を﹁死の茶番劇﹂と呼び、それを変ヽ  一 一  ﹁ノストローモ﹂の統︸性︵平出︶  革、統治しようとする愛国的試みを﹁海を耕すこと﹂と言うデクー、そ  して自分自身というものを﹁人が決して自信を持つべきではないもの﹂  と言って、﹁人類への大いなる不信感﹂をいだくモニガム、彼らは共に  知的な人物であり、その鋭い洞察力から政治や人間を動かすものがうぬ’  ぼれにすぎぬことを見てとる。との二人はまたその人格の内に空虚さを  宿すことにおいても同じである。作者はデクーを﹁怠惰な伊達者﹂と呼  び、その﹁知的優越を気どる単なる不毛な無関心主義﹂から、﹁生涯得  体の知れぬディレッタントのようなもののままでいる危険がある﹂と言  う。一方モニガムは自分を裏切ったことからくる精神的外傷の暗闇の中  から抜け出せず、今でもその﹁表情も動きもない目﹂に︻暗く深い深淵  にも似た︼種の底知れぬ空虚さ﹂を宿している。この空虚さは、彼らが  現実世界に対して取る距離故のものであり、従って彼らの世界に対する  洞察を可能にしているものでもあるのだ。もっとも、二人の懐疑主義は  区別できる。つまりデクーが知的優越感の高みから冷笑的に人間や政治  を見おろしているのに対し、モニガムは彼自身の体験からくる道徳的恥  辱感の低みからペシミスティックにそれらを見ているのだ︵また二人の  行動家においても、ノストローモの肉体的力と勇気による行動と、グー  ルドの意志的力と理想による行動とを区別しえよう︶。しかしどちらに  せよ、距離を保つ点では同じである。そしてその距離は、彼らがその世  界内の人間である限り、縮められうるし、縮められなくてはならないも  のだ。というのも、それがどんなに絶望的であろうとも、世界は彼らに  与えられ、彼らが受け入れなくてはならぬ運命であり実体であっ・て、そ  れを離れては彼らの生は、ちょうどデクーの最後がそれを劇的に表現し ているように、彼らの宿す空虚さの中で空中分解することになるから。  そして実際、社会が危機に陥った時、社会が彼らを求め、彼らに状況の  方向付けの役を担わせることになる。   以上の四人の中心人物の関係をまとめると図のようになる。それはお

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-一 一 高知大学学術研究報告 第三二巻 人文科学 互いがお互いを補い合う関係である。そしてスラコの歴史は、危機的状 グールドー---一行動家 ノストローモ 主人公が世界に対して 取 る 主 観 的 能 岸 度 クー一一----一懐疑家 デ モニガム ︲︲III −1111 自国者` 者 国 他 主人公のコ久タグアナ.    に対す・る客観的関係 なる。そしてその運命は、図において各人のあり方を規定する二つの分 類軸がそれを説明し、図の対角線上にくる二人が同じような過程をたど ることになる。まずはノストローモとデクー。二人は図においては正反 対に位置しているが、その規定軸が互いに矛盾している点では同じであ る。即ちノストローモの政治的状況下での行動は、彼のよそ者としての 政治への無関心と対立し、デクーの懐疑家としての無関心主義は、彼の コスタグアナ人としての﹁その本性からくる本物の衝動﹂い っまり愛国 心と食い違う。こうした矛盾は彼らの人格の内的分裂として、初めから 彼らを運命づけているのだ。       ☆  。  まずノストローモ此とってその英雄的活動は、もっぱら自分と何の関 連もない土地での孤独感と非在感を埋め右ためのもの。であり、その確立 された社会的名声。︵ノストローモという名は﹁我我の男﹂の意味で、人 夫や英国人につけられた・愛称。彼の本名。はジャンーバチスタ︵Oian' Battista︶である︶は、彼に社会の一員であるという感覚、自分が実 体ある存在を持っているという自覚を与えてくれる実在的な幻想なのだ。 そしてスラコ救出のため銀塊を運び出す政治的な仕事を任される時も、 彼は自分の名声を維持するために引き受けはするが、その仕事の意義に ついては、政治に無関心なよそ者として、全く興味を持ってはいない。 そしてそのことが、仕事に失敗した時、自分が政治家や金持ちに利用さ れ、裏切られたという認識となって現われ、自分の愚かさとテレサの死 について彼を後悔させることになる。彼は自分とは無縁な土地で行くべ き所も取るべき行動も失って孤立する。社会的活動の中に自分の存在を 見出していた以上、その行動力を失ったノストローモはもはや肉体を失っ た意識にすぎないのだ。  一方デクーは﹁西欧の養子﹂とし‘て、祖国の野蛮な茶番劇を懐疑的に 見る理性的傍観者としての姿に本来の自己を見出そうとする。その自己 意識はコスタグアナ人としての自己を否定することであるが、しかしそ 況の中で懐疑家の洞察力が行動家の行動を方向付ける形で、これらの人 物達の相互作用の結果として作られることになる。その第一段階は自国 者によるもので、グールドの確立した物質的利益の力に基づいてデクー のスラコ救出計画がたてられる。その失敗の後は、今度は他国者による 第二段階で、ノストローモの確立した社会的信頼と力を使って、モニガ ムが最終的にデクーのプランを成功させるのだ。  しかしそうした歴史の展開の中で、各人物の潜在的な運命もあらわと

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れは愛国心を体現するドンーホセとその娘アントニアに反映されて、ア ントニアヘの個人的愛情という形で彼をその茶番劇の中に引き込み、彼 に祖国のための行動を取らせることになるのだ。ここに二分される意識 的理性的自我と無意識的感情的自我は、政治の外にとどまろうとする遠 心力とその中へ入っていこうとする求心力でデクーの心の葛藤を作るが、 それは瀬神と肉体といった区分と同じく、彼の人格そのものの構造を成 すものである。従ってドンーホセの死とアントニアの涙を見、さらに自 分の計画が破綻することは、彼が再びその理性的自我に立ち戻ることを 意味するが、そのデクーはもはや肉体を失った意識にも等しいのである。  こうしてノストローモとデクーは共に世界から疎外され、孤立する。 二人が追い込まれ、その最後を迎える大イサベル島は、彼らのその孤独 を象徴するものである。そこでデクーは大いなる虚無と遭遇し、ノスト ロLモは隠された銀塊に取りつかれる。虚無も銀塊も、彼らの社会から の疎外がもたらす内的死の外面化されたものである。従ってデクーがピ ストル自殺をして海の虚無の中に転落することは、またノストローモが 銀を見に来て誤‘つて闇の中で射殺されることは、共に彼らの死への衝動 がもたらす必然的な結末なのであ、る。  一方グールドとモニガムを規定する二つの軸は、グールドを活動的コ スタダアナ人として、モニガムを懐疑主義的他国人として、二人の社会 に対する正反対のあり方を強め合っている点では同じである。しかしIT 人には共にあるあいまいさがあって、それが逆に彼らの立場を徴妙に入 れ代えることにもなる。  まずグールドは自分がコスタグアナ生まれであることを意識して、殺 された父のため、正義と秩序の回復のために鉱山再開に着手する。しか し彼は純粋なコスタグアナ人ではなく、そこに移住した英国人の子孫で あり、また英国で教育を受けた人間である。彼の最初の描写はこうであ るI﹁彼以前にその父がそうであったように、チャールズーグールド -一 一 -﹁ノストローモ﹂の統一性︵平出︶ はこの国で生まれながら、海を越えてやってきたばかりの人のように見 えた。﹂このコスタグアナ生まれという事実と外国人という外観の微妙 な食い違いは、彼が根底的に英国人であり、その生国からすでに孤立し ていることを意味する。だからその行動は、彼が政治参加を拒否してい ることからも明らかなように、個人的なものである。しかしそれだけで はない。彼の鉱山経営は彼にとってある精神的意義を持つものだが、し かし革命の破壊波が押し寄せた時、彼は鉱山のために、その個人主義を 捨てて自らその波に対処しなければならなくなる。そしてそれは彼が鉱 山の所有者、創造者ではなく、逆に鉱山の安全のために使われる手段、 被所有者にすぎぬことを意味するのだ。つまり彼はその生国から孤立し た者であるのみならず、その行動においても疎外されているのである。  一方モニガムの懐疑主義は、彼が過去に孤独と苦痛の中で自分を裏切っ たというその自己不信からくる。理想的自我像から転落したその屈辱的 な姿は、彼にとっては本当の自分の姿と意識され、そのことが、コスタ グアナ生まれで英国人であるグールドとは逆に、この英国人をコスタグ アナという腐敗と暗黒の土地に﹁帰化﹂させることになる。というのも、 西欧は彼の理想的自我に対応する所であるから。従ってモニガムは、自 分達の問題にのみかかわるグールドや他の西欧人と異なり、スラコの政 治的状況を洞察し、それにうまく対処することで最終的に社会を救うこ とに成功するのだ。しかしそれは愛国心からではなくグールド夫人への 献身からである。彼女は彼にとって、彼が失った理想的自我の体現者で あり、よってモニガムは彼女への献身において根本的に英国人、‘コスタ グアナの世界を懐疑的に見ている孤立した英国人であるのだ。  こうしてグールドもモニガムもそれぞれ社会から孤立している。小説 での彼らの最後の居場所は、グールドは鉱山の中、モニガムは海の上で ある。そしてそれは二人の精神が民衆から離れていることを示している のだ。なるほど、彼らは島に残されたノストローモとデクー’のように自

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 一四  高知大学学術研究報告 第三二巻 人文科学 殺的な死に方をするわけではない。グールドの自我は鉱山という固定観 念の中に、ほとんど石化したと言っていいほど固く守られているし、モ ニガムもグールド夫人のかたわらにいて、自尊心は取り戻したとはいえ、 相変わらず孤立した存在を保っている。だが二人の死は暗示されている。 というのも、新しい革命を起こそうとしている写真家はこの二人を民衆 の敵と見なしているのだから。     パ  さて最後にグールド夫人であるが、一彼女はこう七た四人の男性達の中 心に位置付けられよう。彼女はもともとは英国人の孤児であったが、貧し く虐げられた人人への人間的同情と、民衆の偉大な価値の認識によって、 真にゴ’スタグアナの平和を望むようになった女性である・︵﹁実際に彼女 はコスタグアナの女性になりつつあった。﹂︶。。またグールドと共に物質 的利益の道徳的価値を信じJその確立に努めだ瓊想主義的な行動家だが、。、 物質的科益への幻滅と不信から懐疑家になった女性である。この変容は、 彼女の心が夫のように自己完結的に閉ざされたものではなく、自己を忘 れて利他的に、回りの人人や自然に開かれていることを意味する。 人生が大きく充実したものであるためには、その移りゆく現在の一瞬 一瞬に、過去と未来への配慮が含まれていなければならないと彼女は思 った。我我の日日の仕事は、死んだ人達の栄光と、これから来る人達 のために成されなくてはならない。︵∼ 人生の道徳的連続性、人人の愛と信頼による結び付きIそれが彼女の 望みであり、そしてその意識から彼女は、不幸をもたらすことにもなっ たデクーの計画を夫に隠したことで苦しみ、またノストローモの堕落を 疑い深いモニガムや世間から隠してやったりするのだ。実際、彼女は苦 しむ人人への同情において、グールド家の中庭の階段の上にある幼児を 抱いた青衣の聖母にもたとえられよう。そして彼女は物質的利益のもた らす社会全体の悲劇を、人人の疎外と断絶を、その深い孤独感によって 映し取るのである。 大きなわびしさが、自分自身の生命が続いていくことへの恐怖が、ス ラコの第一婦人の上に降りかかった。予言者のようなビジョンで彼女 は自分が、人生と愛と仕事への若き理想が堕落する中を一人生き延び ていくのを見たI世界﹃の宝庫の中で・全く一人ぼっちで。苦しい夢を 見ているように深く盲目的で苦しみ悩む表情が、目を閉じた彼女の顔 に現われた。無慈悲な悪夢に囚われて、なす術もなく横たわっ`て眠る‘ 不幸な人間のは`つきりじない声で、彼女はこれという目的もなく口ご もりながら言った卜 y    パ        ∼     ︱  ﹁物質的利益こ17 \﹃     ︿   ト 三   三 プロット まずアルバートーゲラード︵Albert J.   Guerald︶の意見を聞こう。 ﹁ノストローモ﹂は実際、偉大だが根源的に欠陥のある小説であり、 その最大の欠陥は小説が少なくとも二〇〇ページ長すぎることである。 これは一般化された散漫さの問題ではない。多すぎる二〇〇ページ以 上は最後の二六〇ページにくるのだ。  思うに、創造的な状況における決定的変化は二部七章のまん中、デ クーの妹宛の長い手紙の終わりに、つまり二四九ページに起こった。 この点て題材に対する皮肉で省略的で厳格でしかも強烈な態度が、展 開していく出来事へのさらに単純で劇的な興味に負ける。歴史家は移 動カメラあるいは︵さらに不出来に︶強烈な情緒的体験の主観的報告 者になるのだ。だから作者にとってI全五六四ページ中二四九ペー

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ジ目で1小説は性格を変えるのだ。︵18  ゲラードの言う小説後半の欠陥に対する判断はここでの問題ではない。  小説がデクーの手紙の終わりでその性格を変えるという指摘が重要なの ’だ。そして我我はプロットの構成を考える上で、その手紙の部分に三つ  の意義を認めることができよう。一つは、物語はミ。チェールが語るノス  トローモのリビエラ大統領救出の場面から突然に始まり、それから過去  にさかのぼってまた戻ってくるが、その物語の時間の流れが冒頭の事件  と重なり、その政治的意味が明らかにされるのはデクーの手紙において  であるということである。つまりその手紙において、最初は事実にすぎ  なかった事件がその内容と現実性を与えられ、そてからやっと、それま  で引き延ばされてきた物語の現在の時間が新たに、完全に、動き出すの  だ。二つ目は、それが小説のぼぼ中間に位置していることである。小説  の形式上の中間部は、例えば﹁ロードージム﹂ではシュタインが有名な  ﹁破壊的要素﹂について語り、そこからジムが新しい生活段階に移るよ  ’うに、作者の思想が表明される小説の内容上の中心でもあり、物語が新  しい段階へ入る転換点でもあるのだ。そしてデクーの手紙の三つ目の重  要性は、それと関連して、その﹁手紙﹂という点にある。デクーは作者  の分身とも言われる知的懐疑家であり、彼が手紙を自分の﹁最後の言葉﹂  として書く時、そこにはある真実が、作者のロゴスのようなものが、反  映されていると見てもよいのだ。   さてそれを考慮に入れながら、プロットを、時間の要素はわきにおい  て、まず主人公対環境という基本的力学の観点からたどってみよう。と  いうのも、この小説で描かれているものはまず主人公達の情緒的体験で  あるから。一部一章で描かれるものは舞台となるスラコの地理的気象学  的特徴であり、人間はグリンゴ伝説においてしか現われない。それは狭  小な人間社会の外にある大自然の永遠不滅の実在的様相であり、入も歴 一五  ﹁イストローモ﹂の統一性︵平出︶ 史もその中に雲のように現われては消える現象的な存在でしかないこと を暗示させる。二章になって最初の名を持つ人間ミッチェルが登場し、 その語りの中から革命騒ぎやノストローモの活躍する姿が現われる。あ たかもそれらは大地とミッチェルの声の二つの極の成立により、その間 の緊張から生み出されたかのように。そして全知の語り手がミッチェル に代わって描写し始めると、前景の主人公と背後の環境の力学が現われ 始める。二∼四章でノストローモが活躍するその社会状況は後に彼にとっ て致命的なものとなるが、ここではまだその意味は隠され、暗い背景はも っぱらノストローモの英雄的輝きを高めることにのみ役立っている。つま り主人公の自由意志と行動力が運命的な環境の力を完全に圧倒している、 あるいはそのように見えるのだ。そしてこの関係は基本的に一部の終わ りまで続く。三、四章のヴィオラ︵9〇rgio  Viola︶、五章の文明の 使者達、六?八章のグールドはみなその幻想と行動において、彼らを取 り巻くその暗い背景からは独立した存在を保っている。そして特に前半 のノストローモの自由な活躍と、後半のグールドの理想実現のプロセス が、主人公の側の明るく鋭い上昇運動を形成する。  二部に入って愛国者ドンーホセが現われるや、革命という政治的雰囲 気が支配的なものとなる。そしてその状況から独立しているノストロー モとグールドに代わって、三章から現われるデクーが中心的主人公とな る。・彼の不本意な政治への介入は、前景の主人公と背景の環境との距離 が短縮することを意味し、そのプロセスは、スラコの向こう側から来る 闇の力が広がっていくにつれ、デクーのいられる光の領域が段段と縮まっ ていくことに象徴的に示される。即ち彼のいる光の領域は、三章では明 るい戸外、四章では馬車の中、五、六章では夜の闇に囲まれたグールド 家のその光のついた部屋、そして七章ではさらに濃い夜の闇に包まれて、 デクーはヴィオラの家で、一本のろうそぐの光の下に、妹への自分の最 後の手紙を書いている。手紙の最後の言葉−

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一六 高知大学学術研究報告 第三二巻 人文科学 生に違いない、なぜならそれはあまりにも夢に似ているから。﹂−は 意義深い。というのも、人生と夢という相反する二つの概念は、善と悪、 ‘文明之野蛮、秩序と混沌といったように区別されなくてはならぬものな のに、ここでそれが同じ一つのものとして結ばれたのだから。そしてそ ’れは前者の消滅を意味する。ここで、デクーの手紙の終わりで、光は闇 と重なり﹁主人公と環境との距離はゼロになる。そしてそれは続く場面、 デクーがノス冷ローモ‘とはしけで夜の海に乗り出し、‘湾の闇の中に完全 に飲み込まれてしまう場面に象徴される。。一方、背景から徐徐に浮かび 上が1つてきた闇の力は、八章でデクーのはしけにその頭をぶちあててそ れを沈没させるととで現われ、ソテー大口という人間の形をとっ・て前景に 踊り込んでぐる。       \        \  三部で主人公と環境との関係は逆転する。一・上二章のソティロの入港 と港の占領、四?六章のモンテロの町への進軍と占領は、’その活動を停 止したスラコ社会を背景におく闇の力の勢いよい上昇運動であり、一部 ’のノストローモとグールドのそれと対照的である。そしてモンテロ、ソ ティロ合流の動きを含む九章までの闇の支配的状況下で、それまで精神 的外傷のもたらす闇の中にあったモニガムがデクーに代わって中心的主 人公となり、ソティロをだましたりグールドやノストローモを説得した りして、死にひんした社会救出のために闇の中を奔走する。光を再びも たらさんとする乙うした彼の環境との掛かり合いは彼の自己再生の意味 もあり、二部のデクーの動きと対照を成している。そして彼の活躍の間 にも七?九章でグールドが、ノストローモが、各自の行為の致命的な結 果を認識する。そして十章でミッチェルが結局スラコが救われた事実を 語った後、その一転した明るさの残光の中で、主人公達は次次とその運 命の中に落ちていく。十章でのデグーのピストル自殺と海への転落、十 一章での鉱山の中に囚われたグールドの精神的石化、十二、三章でのノ ストローモの泥棒への堕落と闇の中での事故死がそれである。そして物 語は新しい革命の兆候を含む運命的な闇に包まれて終わる。  以上の概略で明らかなように、プロットはその表面上の混乱にもかか わらず、比較的単純な形に支えられている。一般に悲劇のプロットは、主 人公の自由意志から出発し、その実現により絶頂に達するが、同時にそ の結果が致命的なものと認識されることによって運命的に奈落へと転落 する、放物線もしくは円の軌跡を描く。この作品でその軌跡はただ各主 人公においてたどれるだ廿・でなく、プロット全体においてもたどれる。 つまり複数の主人公達は各自が人腸のある一面を体現しながら、ヽある精        一        d J       −神的連続性に従って呈示されているのだ。そしてその観点から見ると、 。冒頭の大地の描写から中間部のデクリの手紙までのノ’ス.tローモ、グー ルド、デクーという中心的人物の順番は、彼らの性格から、力、︱意志、 理性の順と言え、それは即ち物理的肉体的レベルから知的レ。ベルヘにの大 腸精神の昇華のプロセスと見る。ことができる。この上昇運動は同時に影 の拡大あるいは重力の増大を伴い、その頂点において﹁人生﹂は﹁夢﹂ というロゴスとなり、放物線の傾きはゼロとなる。そしてこの上昇の動 きとは反対に、小説最後の主人公達の破滅の順はデクー、グールド、ノ ストローモであり、それは知性の高みから大地への転落のプロセスであ る。一方デクーに続くモニガムは大地に転落した理性であって、その転 落を知っている限りデクーより上にありつつ、転落している限りノスト ローモより下にある︵小説最後のモニガムのノストローモヘの敗北感を 見よ︶。そしてこの二重性の故に、﹁人生﹂が﹁夢﹂と重なった後の物 語を支配する人物になりうるのだ。  これに関連して、二人の知的懐疑家と作者との関係に触れておこう。 今まで多くの批評家が、デクーは作者の分身であり、作者の声を体現し ていると論じてきた。早くでは精神分析学の視点からデクーとコ?フ。 ドの同質性を論じたグスタフーモーフ︵Oustav  Morf︶がいる陥そし てF・R・リーヴィス ︵F. R. Leavis︶ は次のように述べた。

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