• 検索結果がありません。

<特集><幸福と不幸の社会学>幸福と不幸の臨床社会学

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "<特集><幸福と不幸の社会学>幸福と不幸の臨床社会学"

Copied!
63
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

<特集><幸福と不幸の社会学>幸福と不幸の臨床社会

著者

大村 英昭

雑誌名

先端社会研究

創刊号

ページ

203-264

発行年

2004-12-20

URL

http://hdl.handle.net/10236/11438

(2)

────────────────── * 関西学院大学

幸福と不幸の臨床社会学

大村

英昭

* ■要 旨 小説・映画などフィクションの世界では、「しあわせ(happy)」は語源論 的に見ても、現に生きている(ライブの)語感から見ても、正しく素直に描 かれているのに、なぜ社会科学書となると途端に、人びとの実感から遠く隔 ったものになってしまうのか。疎外論や虚偽意識論ともなれば、普通に感じ られる「しあわせ」なんて、まるであってはならないもののようにすら主張 され、しかも、これぞ現実を正しく見据えた結果だとばかりに言い募ってい る。本稿の出発点は、こういった「理論言語」から成る学術の世界のほう た ち が、一般のフィクション作品より、むしろ性質の悪いフィクションではない のか、という疑問に始まる。まずは社会学理論に潜む〈中身=機能〉主義の イデオロギー性を克服するために、E・ゴッフマンが主張したドラマ論的パ ースペクティブを採用し、我われは日常生活世界において役割(role)遂行 というより、むしろ各場面にふさわしくいろんなキャラクターを演じている ものだと考える。次いで、この外見(expression)重視の方法認識をさらに 推し進めて、行為を記号現象一般に準えてみる考え方を採用する。するとキ ャラクターを演じることは、そのまま「記号の消費」や「差異のたわむれ」 に類似の事柄であるという見方が導かれる。すなわち我われの生活世界と は、なんの必然性もない偶然の出会いに始まり、さしたる根拠もないまま に、それでも空転し続ける世界に過ぎないというわけだ。ならば、しあわせ になる条件は意外に簡単、け!な!げ!に!演じる“自分”をや!さ!し!く!見守るもう一 人の「自分」をもてばよい、ということになるであろう。 キーワード:アート、ドラマ、キャラクター、フレイム分析、ネットワーク 外部効果

(3)

1

はじめに

警察庁の発表によれば、2003 年度の我が国、自殺者総数は実に 3 万 4400 人強にのぼるという。「国連統計辺りによれば、中国(大陸)では年間、 なんと33 万∼34 万程度の自殺者数が記録されているんですから」と聞か かんあん されても、人口規模の違いを勘案すれば、日本のほうは、なんといっても 前代未聞の数値、というより日々に100 名近い人が自殺(それも完遂者の み)している我が国の現状は、やはり異常だと言わざるを得ないのではな いか。エミール・デュルケムの言い方に倣っていえば、ことに全体の3 分 の2 近くを占める中・高年男性において、その「平均的不幸」の程度はこ こ数年じわじわと深まってきたと推量せざるを得ないだろう。 一方、こちらは年金問題の議論中にもしばしば登場した、同じく“前代 未聞”の数値がある。言うまでもなく今の日本国女性の「合計特殊出生 率」が1.29 にまで低下したという報告である。確か 2000 年発表の段階 で、“1.34 ショック”が起こった──当時、このままの数値でいくと、500 年後には日本の人口は13 万人程度に、1000 年後にはなんと 130 人になっ てしまうという人口推計学者の話すらあった──ほどだから、わずかの期 間に、1.30 の“大台”まで割ったとなれば関係者に大きな衝撃を与えたの も無理はない。それでも2000 年当時には、たぶん、あの中国(大陸)で されたような、強制的“一人っ子政策”を念頭においてのことだろう「ま ァ人口膨張にも飽和点があっていいわけで、そう深刻に考えることもなか ろう」といった声もあったのだが、さすがに今回の“1.29”にはそういう 言い条すら影をひそめてしまったようだ。 少子化の理由は、もちろん多岐にわたるだろうから、出生率の低下をも って、出生可能年代層の女性における「平均的不幸」の増大などとは言え ないだろう。だが、社会一般にある何らかの矛盾ないし軋轢が特定クラス ターの人々に、とくに“しわ寄せ”される結果だという程度のことは、先 の自殺現象──この場合は中・高年男性──についてと同様に言えるので はあるまいか。再び、デュルケムの顰に倣って問えば、一方に子どもの出 産を躊躇させ、他方に人々を自殺へと誘うような「集合意識」ないし「世

(4)

論潮流」が伏在しており、それらに特定クラスターの人びとは(そうでな い人びとに比べて、少しだけ)棹さしや ! す ! い ! という風に読むべきなのかも しれない。いずれにしろ、こういった「集合意識」は今の日本人に、少な くとも幸福をもたらすものだとは言い難いであろう。 ただし、統計数値に依拠し、当事者主観はむしろ排除せよと要請するデ ュルケム流儀の実証科学では、──そもそも「平均的不幸」って何よ、と 言いたくなる通り──どこまで行っても隔靴掻痒の感はぬぐえない。「集 合意識」や「世論潮流」の中身がかりに解明できたとしても、特定の人び とがなぜそれらに侵されやすいのかについては、やはりマックス・ウェー バーの言う「動機理解の方法」及び、それを(研究者、すなわち局外者の 立場に限定せず、むしろ)当事者たちが現に用いる「動機の語彙」にまで 拡張したチャールズ・ライト・ミルズの方法などによって支援されねばな らないだろう。いや、それ以前のこととして、そういった「集合意識」や 「世論潮流」が、そもそもなぜに伏在するようになるのかは、経済学や文 化人類学の援けを借りた構造分析をもってしか解明することが出来ないで あろう。 もっとも、ことに経済学者の言説を内外に見渡して、(失礼ながら)彼 らの多くがいまだに「最大多数の最大幸福」辺りのレベルで立論している のではないか、といった疑いをぬぐい去ることができないのも事実であ る。またもやデュルケムの『自殺論』を持ち出して恐縮だけれど、彼が、 とりわけ「アノミーによる自殺」の部分で言わんとしたところを我われは 存分に知悉している。豊かな国や州において、なぜ、貧しいところより自 殺率が高い(すなわち「平均的不幸」がより大きい)のか。この一見の逆 説的事実も、一歩下がって考えれば、むしろ当然のことではあるのだ。ネ パールの、ブータンのと遠いところへ眼を向けるまでもない、ほんの一昔 前、敗戦後数年間の我われ自身をふり返れば十分だろう。ほとんどの人が “食うや食わず”の状態にありながら(だから、なるほど殺人は今より多 かったのだけれど)自殺率は低い。という以上に、人びとは生きる活力に あふれていたのではなかろうか。それもそのはず、筆者自身、進駐軍の “兵隊さん”が校庭にばらまいていってくれた(確か“バンホーテン”

(5)

の)チョコレート一枚、意気揚々と持ち帰った折の父!母!の!喜びようを今も 忘れることができないほどだ。 こんな“しあわせ”がなぜ可能だったのか。もちろん、ほ!と!ん!ど!の!人!が 貧しかったからだと答えるよりほかにはあるまい。そう言えば、ジャン・ ジャック・ルソーの『エミール』のどこかに、「子どもたちをいちばん確 実に不!幸!にする方法は、彼らが望むように、いつでも何でも与えてやるこ とだ」と確か書いてあったように記憶する。けだし名言とは思われない か。かつ「最大多数の最大幸福」なんて、論理的にも自家撞着しているぐ らいに思われないであろうか。みなが豊かになれば、それだけみ!ん!な!の!幸 福量も増大する。こう読める限りで、残念ながら、眼前にある現実から余 りにも隔たっていると言わざるを得ないのである。 もちろん、この世から貧困と不平等とを追放したいと願った人たちの善 意を疑うわけではけっしてない。ただ、善意の愚かさ──仏教では「虚妄 分別智」と言う──ほど対処しにくいものはない、ことをも我われはよく 知っている。ことに(どこかの「帝国主義者」のように)、それを正義や 公正の名において押しつけられてはかなわない。だからこの際、もっとは っきりさせたほうがいいのではあるまいか。貧困も不平等も、人の〈幸− 不幸〉とはまた別次元の(→フレイム・レベルの異なる)事柄だというこ とを。

本稿が、“scientific studies”ではなく、あえて“clinical studies”を標榜 する理由も実はここにあるのだが、まずは従来の(社会)科学的言説が、 いかに人びとの実!感!からは遠く隔たっていたかを説明するところから話を 始めよう。

2

幸福と不幸の非対称性

手始めに、幸福と不幸との(ごく日常的に感じとれる)語感レベルでの 非対称性といった辺りから入ってみよう。ただし、本当の意味で、この 「非対称性」が問題になるのは、例えば「生活満足度」のような同一スケ ール上に、一方が増えれば、他方が減るといった式に表せるものかどう

(6)

か、つまりは〈幸−不幸〉を現に測量しようとする段階で露わになると思 われるのだが……。ここではとり敢えず、今の日本人の日常会話に表れる 語 感 だ け を 頼 り に 、 幸 福 と 不 幸 と は 単 純 な 二 項 対 立 概 念 と し て 使!用! (use)されてはい!な!い!という点から説明しよう。 さち 第一に濃淡のような対抗軸上に置くとよく判られよう。“幸うすき人” さち とか“薄幸の麗人”とは言うが、幸が濃いなどという言い方はしない。そ の代わり「幸福の絶頂」と言うではないかと反論されるかもしれないが、 「不幸のどん底」に比べてどうだろうか。「絶頂」には明らかに“今だけ” のニュアンスがあって、やはり心許ない。幼少時、どこかの神社でおみく じを引いた折、“大吉”が当たって大喜びする僕に向かって、本当は“中 み ず 吉”ぐらいがいいんだヨと冷水を注された記憶もある。濃淡をパラフレー ズすれば、だから不幸の持続性に対して、幸福のほうは、そもそも長続き はしないものと想念されていることが判る。 たまたま手にしても、すぐに逃げてしまう夢のようには!か!な!い!もの。日 本人──本当は、外国人にも似た感じはあるらしいが、このことは後述す る──が考える幸福にはそういうニュアンスがつきまとっていると言って もよい。もちろん、ここには日本仏教によって培われた宗教的感性が透け て見えるが、その点については別に稿を用意しているので、それを見てい ただくよりない1)。今の局面では、もう一段のパラフレーズによって、不 幸の必然性に対して、幸福のほうには偶然性の趣きがあるという点に着目 しよう。詳しい語源論をするいとまはないが、現行の『広辞苑』辺りを見 るだけでも、し!あ!わ!せ!はもとは「仕合わせ」と表記されたらしく、つまり はめぐり合わせの意味だったことが判る。しかも、明治より前の用語法で は、良いめぐり合わせばかりか、悪いめぐり合わせについても同じ「仕合 わせ」という言葉遣いであったらしい。 一方、仏教学者に尋ねると、漢語の仏典には「幸福」という表記はない という点で一致している[河合・中沢,2003]2)。ということは、外来語 の“ハッピー”や“ボヌール”が入ってきたときに、その訳語として新た に造られたのが「幸福」だったということになる。では、もともとあった 幸と福とは各々どういう意味だったのか。海の幸や山の幸はもちろん、福

(7)

の神といっても、古くから日本人には自明の事柄を指していたはず。具体 的なものの豊かさを表示する点では違いはなくても、「幸」のほうは自ら 獲ちとったもの、「福」のほうは(天から)授かったもの、といったニュ アンスの違いがあったように思われる。だから、仕合わせに幸の字を当て 「幸せ」と表記するようになるのは、新造語「幸福」が定着して以降のこ とであり、かつ、それ故に“しあわせ”が幸のほうに引き寄せられ、その 分めぐり合わせに含意されていた偶然性の趣きが次第に薄められていく傾 向は否定できない。 だが、小説や映画のように、日常的には潜んでいる言葉の含意を巧みに 引きだし、あるいは、むしろ耳に聞く音感を頼りに記憶の底に沈んでいた 言葉の持ち味を覚醒させるような作品ともなれば話は違う。ただし、ここ では他の目的もあって、いささか便宜的ながら、見田宗介が源氏鶏太の新 聞小説『停年退職』を選んでした解説を引くに止めよう。昭和37 年のほ ぼ全期にわたって『朝日新聞』に連載された小説だという。もっとも、見 田自身は、ここでいう「しあわせ」の語源的含みに拘泥しているわけでは ないので、当然ながら「幸福」と表記してある。しかし、幸福が小説中で は「天の配剤」として偶然に訪れるもののごとくに描かれている点を強調 するなど、筆者が「しあわせ」の語源的含意から引き出したい意義とはよ く符合しているので引かせてもらう[見田,1965 b]。 カレンダーを一枚一枚めくっていくような着実な必然性の足音をひ びかせながら、(停年退職という)不幸は主人公の身に迫ってくる。 これに反して幸福は偶然的に訪れる──〈停年退職〉そのものという 主要テーマにおける不幸のこの必然的な足取りと、補償的な諸テーマ における幸福の偶然性とが、あざやかな対照をもって描かれている。 しかし、夏の夜の花火において、夜空の暗さという地の部分が人び との関心を引かないように、偶然的な幸福のかがやきばかりが、ほの ぼのと読者の心をとらえ、人びとはそこに、日常的であるか!の!ご!と!き! 生活のうるおいを見出すのである[この系列の大衆文学の世界におい ては、地の部分に大衆の生活があり、絵の部分に大衆の夢が描かれ

(8)

る。──しかし、夢もまた一つの現実である]。(傍点筆者) 幸福と不幸との「非対称性」に限れば、見田宗介の目のつけどころはさ すがである。だが、ここに引用したのは実は、それだけを言うのが目的で はない。あえて傍点を付けた辺りからも推量される通り、見田はここで 「大衆文学」における作為を強調し、それらが一般に現実の疎外状況から 大衆の目を外らす役割をしているものだと主張している。もっと有り体に 言えば、だから大衆が感じとる「幸福」なんて、見田からすれば、すべて 「虚偽意識」、現実の不幸を慰撫するごまかしに過ぎないことになるわけ だ。末尾の一節、「夢もまた一つの現実である」に、いったんは首をかし げたものの、読み直せば、だまし絵を現実と錯視させるものが、下地にな っている本当の生活なんだ、とくり返しているに過ぎないことも判る。そ の証拠に、引文しなかった最後の部分にはこうある。(この文章の傍点は 見田自身がつけているもの) 「……要するに、停年制の問題を契機として露呈された今日の人間の根 元的な状況をめぐるさまざまな問題は、何一つ解決されないで残る。…… 一人の現代人としての私たちが、このさい目の前にひきすえておかねばな らないことは、この問題を契!機!と!し!て!顕!在!化!す!る!、現代の人間のこの卑小 さの問題であり、この卑小さを生み出したもの──他人をそして自分自身 を、手段として、商品として、資源として、物として存在させる社会の構 造なのである」と。 もちろん、いま頃になって何を言っても“あと知恵”のそしりは免れま い。ただ、直接に引用した「スクラップの幸福と悲惨──〈停年退職〉と サラリーマン」を含め、巻頭に「現代における不幸の諸類型」を据えた 『現代日本の精神構造』は当時、名著の誉れ高く、社会科学の全域を支配 していた「疎外論」や「虚偽意識論」──まとめて〈マルクス+フロイ ト〉によった講壇モダニズムと呼んでもいい──に大きな一石を投じた著 作であったことは間違いない[見田,1965 a]。しかも、少なくともマル クス主義陣営を見渡せば、諸外国も含め、その後の成り行きは文字通り “迷走中”としか言いようもないのではあるまいか。

(9)

いや、実は社会科学の全域が今なお“迷走中”ではないのか……3)。少 なくとも筆者は、そう判定すればこそ、ここ数年、臨 ! 床 ! 社会学(及び臨床 宗教学)の必要性を訴えてきた者である。先に引いた見田宗介の所論が典 型的であるように、人びとが現実に感じとっている“しあわせ”も、社会 科!学!を標榜すればするほど、まるであ!っ!て!は!な!ら!な!い!も!の!のように扱われ てきたのではないか。いや、社会科学に依れば、人はむしろ、この世では 不幸でなければならないのだ。しかも、諸宗教が言い募るようなあの世の 幸福(→冥福)などは、それこそ非科学的な迷信の最たるもの(アヘン 邇)だという。これでは正直、従来の社会科学は人びとの幸福なんて本気 では考えてこなかったと言われても致し方あるまい。もっとも、自分たち 講壇アカデミズムの中に居座ることのできる人間の幸福だけは本気で追求 していたはずだけれど……。 「はじめに」でも述べたように、一方の反マルクス主義(今はどうやら 「新古典派」ないし「競争市場原理」主義者が主流らしい)陣営から、た とえ「最大多数の最大幸福」を持ち出して反論されたとしても、我われは むしろ、これまた、本気では考えていない何よりの証拠であると言い返す だろう。くり返すが、社会科学が何らかのシミュレーションに基づいて、 かりに幸福を語ったとしても、それは人びとが現!実!の!生活中に感じとる “しあわせ”とは、ほとんど関係がないという意味である。どこに問題が あるのだろうか。実は、社会科学もまた一つのフィクション──正しくは framed reality──を創作している点では、見田宗介の言う「大衆文学」と もさほどの違いがない、にも拘わらず、そのことについての反省が足らな いのではあるまいか。 幸福の偶然性と不幸の必然性という「非対称性」は、一方がフィクショ ンのレベル、他方は現実の問題という形のそれではない。どちらも生活世 界の現実的な語感に由来する限り、フレイム・レベルの上では同格に扱わ れてしかるべきものだ。言い換えれば、幸福の偶然性を、もしフィクショ ンの上でのことだと言うのなら、不幸の必然性もまたフィクションの所産 だと言うべきであろう。だが、見田宗介に限らず、従来の社会科学者、こ とに疎外論者たち(フランクフルト学派の人たちも含めて)はそうは言わ

(10)

ない。結果は、不幸ばかりが現実(問題)であって、幸福のほうは「虚偽 意識」だという仕儀になる。 ここでそうしているように、対!す!る!我われの臨床社会学では、普通の生 活世界にある言葉遣いをことのほか大切にしている。それこそが、現実を もっとも正確に表しているデータに違いないと考えるからだ。ことに「幸 福」のような翻訳語より、“しあわせ”のような(宮原浩二郎の言う)身 についた「カラダ言葉」のほうが4)、より一層現実に迫ることのできる大 切なデータではないかと考えている[宮原,1998]。当然ながら、大衆文 学に語られ、歌謡曲にうたわれる言葉のほうが、社会科学書や思想書に使 用される言葉よりも、「地」にある本当の生活をよく表していると考え る。実は「幸福」などは、この意味では余程ましなのであって、「宗教」 という翻訳語のように、いまだにこの国の「地」にある本当の宗教事情を 表し得ない言葉すらあるのだ。 学術書や思想書においては確かに「宗教」が汎用されている。だが、 「宗教抜き」の、あるいは「無宗教式」の慰霊祭などと聞いても特段の違 和感を持たないほどに、生活世界に流通している「宗教」は学術書にある 「宗教」とは遠く隔たっているわけだ。「きまった宗教はない」、という以 上に「宗教は嫌いだ」と答えてくれた当の人が、(よく聞けば)週に二度 かならず某神社に詣でているとわかって面喰ったこともある[宗教社会学 の会編,1985]5)。今は亡き宗教学者の柳川啓一が、だから日本人の宗教 心は「信仰なき宗教」なんだと言ったのは正しいけれども、「それって英 語にしても通!じ!ま!す!か!」という筆者の質問に「そう言われるとつ!ら!い!ネ」 と応えられた時の表情は忘れがたい。かりに頭ではわかっていても、「宗 教」という言葉、要は我われの宗教感情までは今もって掬いあげることが できないでい ! る ! ということだろう。そう言えば「宗教」どころか、あのゴ ッドを一時は「天主」と呼んでいながら、ついには「神」と訳したことを く いまだに悔やむ声があるほどなのだ。ただし「神」の場合は、「宗教」と は逆に、この国の古!く!か!ら!の!宗教感情を余りによく掬いあげることができ る点で悔やまれるのだろうけれど……6) いずれにしろ、現に生きている言葉で創られたもののほうが、かりにフ

(11)

ィクションであったとしても、翻訳語に頼って制作される学術の世界より はまだしも本ものの生活に近いのではあるまいか。いささかまわり道をし たけれど、もう一度“しあわせ”の含意(コノティティブズ)のところに 戻ってみよう。 幸い手許に(単なる学術書ではない)まさしく臨床宗教学(clinical stud-ies of religion)と呼ぶにふさわしい著作があって、しかも副題に「幸福の 倫理学」とあるものを参照しての話である[高尾,1977]。若き日に、コ ロンビア大学の大学院で、かのパウル・ティリッヒ教授に学び、ユニオン 神学校にも通いながら、なおキリスト教神学への疑問は解けず、帰国して も滝沢克巳ほか名だたる人びととの真摯な対話を続けられたらしい著者の 高尾利数。その人が、当時ようやく達した一つの境地を開陳されたような 書物だから、次のような箇所だけを引くのは、たぶん失礼な話であろう。 だが、さすがに語学的素養にも裏打ちされた言葉の含意への明敏さ。今の 文脈には、もっとも適っているので引かせてもらう。 たしかに私たちが経験する幸福の感!じ!は、非常に偶然的・断片的 で、そのときどきの状況のふとした間の良さによっているようです。 「幸福」を意味する多くの言葉もそのことを示しています。英語の hap-piness は「たまたまそうなること」を意味しますし、ドイツ語の Glück も「めぐり合わせのよいこと」ですし、フランス語のbonheur は「間 のよさ」の意味です。そうなると、幸福であることは、人間の手の中 にはないことのようにさえ思われましょう。実際ギリシャ語の eudai-mon は「よい守り神をもつ」ことですし、漢語の「福」は「神的」 を示す「示」と、「下ぶくれの豊かな容器」から成り、「神から与えら れる豊かさ」の意味です。日本語の「シアワセ」も、いくつかのこと がうまく重なったということでしょうし、「さいわい」は「サキハ ヒ」で、偶然よい獲物に出会うことですし、同じ感じを表していま す。 こう読めば、あるいは想い浮かぶかもしれない、そう「山のあなたの空

(12)

遠く、幸い住むとひとのいう」というあの有名な一節である。さらには、 ノーベル賞作家、モーリス・メーテルリンクの例の戯曲『青い鳥』の話を 思い出される人もあろう[Maeterlinck, 1908=1960]。この『青い鳥』、確 かに少年・少女向けの物語ではあるけれども、意外なことに「しあわせの 青い鳥は実はここにいたのだ、と気づいた瞬間その青い鳥がバタバタと羽 ばたいて逃げていってしまうという、なんとも悲しい結末になっている」 と書くのは作家の五木寛之である[五木,2004]。五木は続けて、こう言 っている。 『青い鳥』の結末には、何とも言えない苦い味があります。ほんとう の幸福というものは、つかんだ瞬間、その手をするりと抜け出し消え 去っていくものだなどということを、未来にむかって旅立っていこう とする少年少女たちに、なぜわざわざ教えることがあったのか、この 謎はいまも私のなかで解決できていません。(中略)幸福、という言 葉は、明るいしあわせなイメージがあると同時に、ある種の悲哀を隠 しています。ヨーロッパに「人はなぜ、失われてゆくものを愛するの だろうか」という言葉があります。永遠に手もとに残って確実にまち がいないと思われるものを、人びとは愛さない。いつかそれが失われ ていくのではないか、いつか手もとから飛び去っていくのではないか と思えるものを人は一生懸命に愛そうとする。

3

臨床社会学の可能性──アートとサイエンス──

もとより我われは、現に生きる(→ライブの)語感を頼りにも!の!言!い!す る点ではフィクションライターと行を共にしたいけれども、残念ながら 「職業としての学問」のほうに就いた者。「生活の知恵」も「人情の機微」 をも尊重しはするが、それとはフレイム・レベルを異にする何らかの「専 門知」──つまりは通訳可能性の大きい臨床の知──に達する必要がある だろう。考えようでは学術書が創っているリアリティは、そもそも「アタ マ言葉」だけで出来ている世界なのかもしれない。その分、時々の生活感

(13)

情をも、もろに掬いあげてしまう「カラダ言葉」の世界とは違って、外国 語にも翻訳しよい一定の普遍性を確保することができるのであろう。筆者 ラ イ ブ 自身、“坊さん”として現場の説教に臨むときは「カラダ言葉」を駆使し ていても、いざ宗教学界に臨むとなれば、かりに同じ程度のことを言うに しても、やはり「アタマ言葉」に翻訳(→transformation)する必要を感じ ジ ャ ー ゴ ン る。文章で著すとなれば、さらに専門的な書き言葉(学術用語)への翻訳 を強いられることは言うまでもない。 もちろん使用言語だけの問題ではあるまい。幸福のほうがその本質要件 として偶然性を含むとすれば、因果関係であれ、構造的連関であれ、何ら かの必然性を見出したい科学としては、「幸福の社会学」より、むしろ 「不幸の社会学」に傾斜するのは理の当然である。だが、くり返すが、そ の一見の必然性も一つのフレイムによって構築された作為には違いない。 しかも、前に言った〈マルクス+フロイト〉型のフレイムに乗ってしまえ ば、根!本!的!な!体制変革でもしない限り、この不幸の必然性から我われは脱 すべ 却する術をもたない。おまけに(→たちの悪いことに)、あの「苦難の神 義論」とは違って、この術のな!さ!は、死をもってしても覆ることはないの だ。そうではないか……。 普遍的な伝統宗教で観れば、洋の東西を問わず、この世の不幸の必然性 は社会科学より以 ! 上 ! の ! 説得力をもって解かれている。だが、ことに唯一絶 対の神を説く宗教にあっては、必ずや死を境にした大逆転があるだろう。 不幸の必然性が、死を境に(次の世の)幸福の必然性へと転換するのだと 言ってもいい。一方、仏教のように、とりたてて「苦難の神義論」を必要 ようしょう ら っ か としない宗教にあっても、この世の(一見の)不幸は、「永生の楽果」に 比較すればものの数ではないという風には説かれるだろう。いずれにし ろ、不幸の必然性に加えて、(この世の)幸福の偶然性をも見極めた上で の達!見!である点で違いはなかろう。 ただし、ここは筆者の宗教体験を語る場所ではない。同じく不幸の必然 性と幸福の偶然性とを見極めたとしても、そのことを、今の「世俗化」し た社会に住む人たちにもわかる程度には、普遍性のあるリアリティとして 構築しなければならない。幸い医療方面ではリアリティ構築を支えるフレ

(14)

Practice Laboratory Bedside Library art science knowledge action art science knowledge action (診断術) (治療術) (医学知識・理論) (実験) イムの違いが〈サイエンス対アート〉の形でほぼ定着している。従来型の 実証科学をサイエンスに依拠して構築されるリアリティだと言えるなら、 ここで筆者が考えている臨床社会学はアートに依拠して構築されるリアリ ティであるという風に言えるわけだ。まずは山中浩司が「臨床文化のゆく え」と題して述べたところを紹介しながら説明しよう[山中編,2005 予 刊]7)。山中が創った図1を見てもらうとわかりやすい。 “生きた”患者との接触──いわゆる臨床経験──が、単に医学を学ん でいるだけの学生を本ものの医者に変えていくのだという考え方は、高度 な医療テクノロジーが氾濫する現代においてもさほど変わってはいないだ ろう。実際、ことに内科医と呼ばれる人たちは、自分で薬を作るわけでも なく、また手術をするわけでもなく、整骨医のように患者の体に馬乗りに なって骨を矯正するわけでもない。患者を診て、考えて診断し、薬を処方 するだけであろう。ミシェル・フーコーが『臨床医学の誕生』で描いた19 世紀後半の新しい医学の台頭がそうである[Foucault, 1963=1969]。だ が、フーコーの描き方は、なぜか内科医の動きに偏っていると山中は言 う。「同じ頃、外科学の急速な進歩があり、また少し遅れて顕微鏡と化学 分析を武器とする実験室医学(laboratory medicine)への動きが起こる が、どういうわけかフーコーがねらいを定めたのは、この2 つに挟まれた 図1 医学における「臨床文化」の構成要素 出典:山中編,2005 予刊

(15)

内科医たちの医学革新運動のほうだった」と。その理由は、実は、あの 「聴診器」の発明がもった画期的な意味を強調するためである、と話は続 くのだが、ここではとり敢えず、図の左上ボックス──art(技芸)に由 み 来する「臨床知」こそが伝統的な“診立て医者”の持ち分であったことを 確認しよう。 しかるに、近年の医療現場ではどういうことが問題になっているだろう か。NHK の「クローズアップ現代」で、「聴診器が使えない──偏差値世 代の医学生・基本の欠落──」と題した放送があったのは確か1999 年 5 月のこと。だから今でも医者の口からは、医者の診断はアートであって、 ただのサイエンスではないという声が聞かれる。だが、実態は、あえてそ パ ー ツ う言わなければならないほどに、要は、ケア(care)の心を忘れ、臓器医 療のほうにはしっているということだろう。実際、筆者の経験から言って も、ことに大学付属病院ともなれば、“触診”はおろか、聴診器を当てて もらった経験もなく、なかには終始、パソコンの画面にばかり眼をやっ て、最後まで私の顔すら見ないまま「はい、次のかた……」と呼ばわった 臨床(?)医すらいたのである。「臓器(部品)は診ても、人は診ておら ん」。こういう実態を生みだした現代医療のあり方、それを図に表せば、 サイエンス寄りの三点運動、つまり蛄蚰になるという次第。一方、伝統的 に、これぞ内科臨床医の真骨頂とされてきたもの──図にある蛟蛯── が、いまやむしろ看護師の仕事となり、しかもそれ故に、ケアのほうはキ ュア(cure)に比べてなおも低い評価に甘んじているというわけだ[野口 ・大村,2000]。 もっともここへ来て、この医療界全般のあり方を見直そうという機運が 国の内外から起っているのも事実である。合衆国でもホリスティック・メ ディスンへの希求が、東洋医学をして、これまでの「代替医療」的地位か らの脱却を促すほど、さかんにとり入れられるようになりつつある(→こ の傾向は意外にも日本より以上であるらしい)と聞くし、我が国では、こ とにターミナル・ケアの大切さが言われるようになってキュア中心医療に 対する不満が声高に語られるようになっている。もう一つ、いわゆる「生 活習慣病」への取り組み、これも荒療治や特効薬では歯が立たない疾患で

(16)

あるだけに、いきおいキュアよりもケアの重視という方向へ医療界全体を 動かしているであろう8) ところで、考えようでは「生活習慣病」より、もっと厄介な社会問題── ここの言い方では不幸の必然性──に、そもそもの発端からして取り組ん できたはずの社会科学においてはどうなのだろうか……。やはり何らかの 力点変更を迫られているとは言えないだろうか。 私見では、もとはリベラルアーツ(人文学芸)としてあった社会科学 ひとたび が、一度はサイエンスになろうとして専門分化していったものの、今では 近代経済学や実験心理学に代表される(相変わらずの)サイエンス志向組 と、逆に、先祖返りとまでは言わないまでも、むしろリベラルアーツとし ての臨床知を見直そうとする組とに大きく分化してきたように思われる。 医学方面で批判される「人間不在」というクレーム申し立てと同様に、社 会科学方面でも、一時はやった「社会工学」が同種のクレームの前にいさ さかたじろいでいるのは事実であろう。少なくとも、図1に示した蛄蚰 (キュア)と蛟蛯(ケア)の違い、及び一度は捨て去られるかに見えたケ アの価値が、(例えば臨床心理学の隆盛に見るように)かなりの程度見直 されつつあるという事情は社会科学方面でも言えるように思う。ただし筆 者は、図の右(サイエンス)側が、そのものとして不必要であるなどとは 断じて思っていない。それどころか、近年の「臨床心理学化」及び「医療 化」の一般的な動きについては十分な警戒心をもっている。ただ、くり返 し言うように、サイエンス側とアート側では、ことにknowledge のほう で、それをささえるフレイム・レベル(→意味の層)が違うという点をも っと明敏に自覚しておく必要があると言っているだけだ。実際、「社会工 学」派の失敗は、右上ボックスの(専門)理論知を、そのまま左上の「臨 床知」としても通用すると錯覚したところにあるのだから。 そこで今度は、もっと具体的に社会学に近づけて、我が臨床社会学の位 置取りを説明しておこう。図2を見てほしい。 山中浩司のクロスカットモデルはそのまま利用させてもらう。ただ、各 ボックスを埋めている説明文は、言ってみれば、各ボックスの「場」を表 示している。ために、knowledge の側に「具体的な接触」とあったりする

(17)

art science knowledge action art science knowledge action (クライアントとの) 具体的な接触 “アーム・チェア” →データ・アーカイブ 実践現場 調査フィールド 「当事者言語」の世界      「理論言語」の世界 いぶか ので、これってaction だろうにと訝しがられると思うが、意味は「臨床 知」を培う「場」がそうだというのであって、このことは右側の「理論 知」についても同じである。昔は、純粋理論家のことを確か“アームチェ ア・ソシオロジスト”と呼んだりしたが、今となってはそうのんびりした ことは理論家といえども許されない。図書館にこもってという以上に、 「データ・アーカイブに浸って」考え出されるのが現代の社会学理論であ ろう、というほどの意味である。当然、「調査フィールド」とのか ! け ! 持 ! ち ! という形にならざるを得ないはずだ。 では、図の左側、アートに依った理論家というのはあり得るだろうか。 純粋理論家を、かりにscience 側の knowledge 及び action の二点運動だけ で表せたとしても、アートの側の二点運動だけではただの実践家ではあり 得ても、到底、理論家というわけにはいかないだろう。ここでいう「臨床 知」は、単なるコモンセンスでもなければ、ただの「生活の知恵」でもな い。「当事者言語」で出来ている点では、一見そういうものと違わないよ うでいて、筆者が想定する「臨床知」があくまで専門知識である点では大 いに異なる。だからこそ、先に言ったケアも医学からする専門知を含んだ 三点運動として表したわけだ。看護理論の第一人者、パトリシア・ベナー が「達人ナース」と呼んだ人たちも、医学理論による学びをとても大切に 図2 臨床社会学の構成要素

(18)

している点では変わりない。故に、もし臨床社会学からする理論家があり 得るとすれば、その人は〈art−action〉の左下ボックスだけを除いて、他 の三つのボックスすべてを、いわば股にかけること(図の実線部)の出来 る、文字通りの達人であるに違いない。言い換えれば、筆者が考える臨床 社会学は、サイエンスからアートへ、その足場を変えればこと足りるとい った単純なものではないのである。 幸い、これぞ達人、臨床社会学からする代表的な理論家の一人として、 筆者はアーヴィン・ゴッフマンを挙げることができると思う。ドラマトゥ ルギカル・パースペクティブとも呼ばれた彼の方法戦略は、(当人がそう 言ったわけではないが)サイエンスというよりは、はるかにアート(技 芸)に近いものだったからである。面白いことに、たぶんサイエンスの側 から来る方法論議をかわすためだろう、自身の方法はクルード・エンピリ シズム(粗野な経験主義)に過ぎないと謙遜してみせたりしている。だ が、実はこの“クルード”、油断はならない9) と言うのも、これには従来の社会学に対するゴッフマン一流の皮肉が存 分に込められているからである。ことに、現にある生活世界の諸事実を観 察するより前に、従来の社会学は何やら得手勝手な理論──ゴッフマンか ら見れば一つの偏見にも等しいような──を先行させ、そのframed reality に過ぎないものを、あたかも社会的事実そのものであるかのように錯覚し ているとゴッフマンの眼には映っていたのである。まずは表層の事実をあ りのままにきちっと観察記述してみたらどうか。別のところで、自身の方 法を“スナップ・ショット・ヴュー”とも呼んだ通り、人びとの、現に見 える(visible な)相互作用場面をカメラが写しとるように何枚かの静止画 像として切り取ってみればよい。うまくいけば、その相互作用場面を支配 している見えない(invisible な)秩序ないしフィーリング・ルールのよう なものが自ずと浮かび上がるような記述スタイルになるであろう。これが ゴッフマン自身、あえて“クルード”と呼んだ方法戦略の含意である。 他方で、ではゴッフマンは従来の社会学理!論!を無視していたのかといえ ば、とんでもない。ことにデュルケムの社会学理論となれば、これを尊重 する点において、アメリカ社会学の誰にもひ!け!をとらないといっても過言

(19)

ではあるまい。ただ、デュルケムが文字通りサイエンスに依拠して──と いう意味は、当事者主観を徹底的に排除して──「社会的事実」をものの ように観察せよと言ったのに対し、ゴッフマンは、アーティストの伎倆を もってすれば、とり立てて当事者主観を排除しなくてもそれを抽出できる と考えていただけである。実際、最初期のシェットランド島でのフィール ド調査を含め、ゴッフマンが直接には見えない「社会的事実」を抽出して いく力量は、まさしくアートと呼ぶ以外にはないようなやり方だった。 方法戦略といえば、最後にもう一つ、ゴッフマンにとってドラマトゥル ギカル・パースペクティブがもっていた意義は、内科臨床医にとって、あ の聴診器がもっていたのと同じ役割をはたしていたのではないか、という 点を指摘しておきたい。と言うのも、アートの側にある臨床知にとって、 クライアントないし観察対象との距離のとり方は──かの精神分析医にと ってことにそうであったように──厄介な問題に違いないからである。山 中浩司は、ミッシェル・フーコーが『臨床医学の誕生』の中で、「聴診器 くだ は固定化した距離とも言うべきものだ」と述べた行りを引きながら、こう 言っている[Foucault, 1963=1969]。「臨床医学がもっている二つの欲 望、患者の身体にできる限り接近したいという欲望と、患者の影響からで きる限り距離をとりたいという欲望とを同時に満足できる」、それが臨床 医にとって聴診器がもっていた意義であると。 ひ と 内科臨床医に限るまい、何事をも、むしろ“他人ごと”として冷徹に扱 えと要請されるサイエンスと違って、何らかの共感を抜きにはあり得ない 臨床知にとって、山中の言う二つの欲望間のディレンマは社会学者にとっ ても厄介な問題になるはず。ただの「生活の知恵」としてなら、せいぜい つ 「即かず離れず」といった程度で済むものも、さすがに専門知の場にあっ てはそう簡単に言ってのけるわけにはいかない。そこでゴッフマンは、あ らゆる生活場面を舞台上の出来事として観察してはどうかと提案している のではあるまいか。しかも、聴診器と違って、ゴッフマンの工夫は、観察 た ち 対象と観察主体とを固定的に二分するような性質のものではなかった。 おかげで、観察している自分自身のふるまいをも、しばしば舞台上の演 者のそれとしてながめられるほどの、いわば観照眼を養っていったように

(20)

思われる。だからこそ、サイエンスとアートという二つのフレイムの間 を、そうと十分に意識しながら、自在に往ったり来たりすることも出来た かすみ わけだ。研究者といえども、“雲や霞を食って”生きているわけではな い。凡俗な一市民としての「生活の知恵」や“ずる賢さ”──ずっと前の 見田宗介の言い方をすれば「卑小さ」である──は、精神病棟の患者とも 同様に身につけているだろう。いや、フロント・ステージとバック・ステ ージの使い分けとなれば、さすがに研究者、精神病院の定勤職員にもまさ る巧みさで患者に応対していたのかもしれない。聴診器に準えて言えば、 ゴッフマンはしばしば自分の耳で己れの呼吸音を聞いていたのだ、とも言 えるし、ドラマに準えて言えば、彼は演者と観客の二役を、しかもしばし ば同!時!に!こなしていたのだ、とも言えるだろう。筆者が早くに指摘した 「ゴッフマンにおける〈ダブル・ライフ〉のテーマ」とは、かくして彼が ヴ ュ ー 確保した方法論的戦略ポイントでもあったのだ[大村,1985]。

4

行為の中身と外見──

role

character

──

み 生活世界の各場面を舞台装置の上での出来ごととしてながめて観るとい う方法戦略が、我われにもたらす大きな利点は、見える(visible な)演技 を通して、見えない(invisible な)台本なりストーリーなりが自ずと浮か び上がってくるところにある。もとより、フロント・ステージとバック・ ステージでは、まるで違う台本によって演じられているという程度のこと なら、「本音と建前の使い分け」という式に誰しも気付いていることだろ う。ところが不思議なことに、従来の社会学理論では、せっかく「役割」 という、ドラマに由来するメタファーを用いながら、肝心、所作や、ふ り、といった見える部分が捨象され、見えないはずの中身部分が「機能」 という形でいきなりとり出されてしまっている。そのために、かりに「父 親」役割とあっても、書かれている内容は彼が家庭においてはたしている 機能のことばかり、といった仕儀になる。ゴッフマンが早い時期に行為の 「中身(action)対表現(expression)のディレンマ」を指摘して我われに 注意を促したのも、役割理論一般に見られるこの欠落、ないし文字通りの

(21)

機能主義──ここの主義は「機能」中毒とでも読んでもらうと判りいい── を批判したかったからである。 筆者もまた、見えない「機能」の抽出をもってこと足れるとしているよ や ゆ うな機能主義的理論のことを、「透明人間モデル」と呼んで揶揄したこと がある。外見をもたない機能だけが、あたかも舞台上の演者の“アクショ ン”であるかのように描かれているからである。前の章の図2で言え ば、だからサイエンス側にある「父親役割」は、家庭における父親の、一 般的にもつ意義や機能を抽象しているだけであって、現!に!演じられている それを論じているわけではないのである。にも拘わらずサイエンス側の 「家庭」が一つの framed reality であることを認識している論者は少な い10)。もちろん、かつてT・パーソンズが、普通なら「病人が医者にかか る」と言うところを、「患者」役割に就任すると表現したことの意義は認 めていい。この役割に付帯する義務と権利が明瞭にとり出せたからであ る。しかし、我われがまっ先に知りたいのは、そういう「患者」役割に就 任する(というより、させられる)プロセスそのものであって、権利・義 務の取得といった、この役割がもつ(実は、潜在的)機能ないし結果のこ とではない。もちろん、行為一般を、何らかの機能遂行のための道具と見 立てるような、研!究!者!側!の!台本でもない。ならば、我われはアートの側に 足場を置いて、「患者」役割(role)というより、それこそ演じられるキ ャラクター(character)ではないのか、と問いかけてみよう11) 医者は立派なアームチェアにどっかり座り、患者は(なぜか)がたつく ちぢ 回転椅子に縮こまっているといった舞台装置の中、当初は多少の抵抗感を もっていたクライアントも、他に就ける役割がな ! い ! ことを知るにつれ、提 供される「患者」役割を期待される通りに演じる時に、もっともよく(と いう意味は、とくに感情レベルで)報われることを学習していくだろう。 その際、聴診器が重大な演劇的価値をもつことは、ことにそれを当てられ た患者が自動的に黙らざるを得ない点によく現れている。そのことは、聴 診器を当てている医者に向ってぺらぺらしゃべり続ける患者というのが、 漫画の格好のネタでしかないという辺りを想えばもっとよく判られよう。 要するに、医者←→患者双方の、それこそ“見え見え”の表面的な相互作

(22)

用プロセスを通じて、いつのほどにか患者にふさわしい中身(→“らし さ”ないしアイデンティティ)もまた形成されていくということだろう。 パーソンズが権利・義務の取得を伴って、公式に「患者」役割に就任する と呼んだものは、この“見え見え”のプロセスが生み出した一つの結果に 過ぎないわけだ。その上、パーソンズ流儀の役割理論では、このプロセス 中にビルト・インされているヒエラルキカルな構造のもつ、もっと重要な (→という意味は無意識の感情レベルで作動している)潜在的機能は必ら ずしも十分に把握されてはいない。 比較してゴッフマンの『アサイラム』はどうだろうか[Goffman, 1961 =1984]。施設職員と収容されている患者から成るフロント・ステージに 加えて、患者同士でつくり出すバック・ステージにまで眼を届かせ、その 中身を“アンダー・ライフ”として抽出するほどの観察力は望めないとし ても、フロント・ステージが隠しもっている台本(→隠れたカリキュラ ム)の(それこそ潜在的)機能については近年、わざわざ構築主義と呼ぶ 必要もないほどに、多方面からの業績が積み重ねられている。ここでは一 つだけ、大熊由紀子がキャンペーンを張った、いわゆる「寝たきり老人」 問題を取り上げておけば十分だろう[大熊,2000]。 大熊によれば、あれは、むしろ“寝かせきり”老人なのだと言う。と言 うのも、北欧諸国の高齢者施設をまわって尋ねた際、どこへ行っても、そ もそも「寝たきり老人」という言い方では通じなかったことに、大熊はま ず驚く。見学させてもらえば、なるほどその名にふさわしい老人はいなか ったのだ、と。で、日本の施設とはどう違うのかを詳しく吟味した結果 ため は、文字通り“お為ごかし”、一見、ゆき届いたケアにみえて、実は施設 職員側の都合の良さこそが第一、挙げ句が拘束具つきのベッドに寝かせき りにしておくのが一番扱いやすいという仕儀になる、と大熊は鋭く告発し たのであった。北欧諸国と我が国を比較する際、──そこは専門医でない から、ある意味では仕方ないことではあるが──とにかく、中身よりは、 まず外見に注目したことがかえって大熊の気付きのもとになった点を見逃 さないでおきたい。日本の養老院ではお馴染みの、ざん切り頭髪に、灰色 じみたそろいの寝巻き。対して、個性豊かに“おめかし”をしている北欧

(23)

各国の収容者たちとは何と違うことか。この驚きをもたらした大熊の観察 眼が、彼女をしてサイエンス(→専門知)フレイムからは言えない(アー ト・フレイムの)臨床知を生みだしていったもとであろう。“寝たきり老 人”も、実は演じ(させ)られるcharacter の一つだと見抜いたわけだ。 “養老院ルック”もさることながら、若い看護師による、あの猫なで声 の○○チャン呼ばわり。そう呼ばれ続ける内に大抵の高齢者が、なるほど 職員側の期待通り、お!し!め!もいやがらない扱い良いオジィチャン、オバア チャンになっていくのだという。ここまで聞けば、ゴッフマンが「アサイ むべ ラム」の中に見出した患者について、次のように言ったことも“宜なるか うなづ な”の感じで肯けるのではなかろうか。「なんと、精神病院には、奇怪な 症状をわざと演じて、新米の見習い看護婦が正常な行動だけを見てがっか りしないよう気をつかう患者がいる」とゴッフマンは言ったのである。 もちろん、ここまでする患者は、仲間同士の間でも、職員の間でも、他 とは微妙に違う扱いを受ける。『スティグマの社会学』では、だから、こ ういったマ ! ス ! コ ! ッ ! ト ! 的存在になる人のことを、とくにin-group deviant と 呼んで、ゴッフマンは鋭い視線を向けている[Goffman, 1963=1984]。学 校のクラスの中でも、“チビチャン”とか“デブ君”とか、同種のin-group deviant が必らずいることを思うと、これの創出過程は、現今の“いじ め”問題にも通じる意外に重要な論点であろう。見ようによれば、現今の ペットブーム(→むしろ、アメリカにおいてす!ご!い!らしい)も、このin-group deviant を創出せずには済まない中流家庭──そのグループ・メカニズム ──のあり方をよく表しているのかもしれない。 ただし、こういった臨床知からする議論について、医学の専門知からす る有力な反論があることも公平を期する意味では知っておいたほうがいい だろう。少くとも、大熊由紀子の告発に対しては、現に同じ北欧諸国を視 察した専門医のほうから厳しい批判が寄せられたのも事実である。すなわ ち、諸外国では寝たきりになるような老人に対して、日本ほど積極的な医 療行為はしない。だから極論すれば、寝たきりになるまでに大抵の老人は 死んでしまう。それだけのことだというのが、大同小異、専門医からする 大熊への批判であった。もとより大熊と同様、医療の、それこそ中身につ

(24)

いては我われしろうとには何とも言いようがない。だから、ことにスウェ ーデン、福祉の模範国と看做されてきた裏面で、実は障害をもつ親が子ど もを産まないよう「断種」政策を採っていた国だということ、良心的経済 学者とされている、あのG・ミュルダールさえそれの主唱者の一人だっ たということ等々、きれいごとだけでは済まない問題があることを指摘す るに止めて[橘木編,2004]、急ぎここでの本題に戻ろう。ヒエラルキカ ルな構造が隠しもつドラマの筋書きも、“見え見え”の相互作用場面をし 細にながめれば自ずと露わになる、というところへ。 この文脈で、ゴッフマンのようにドラマトゥルギカル・パースペクティ ブとは言わなかったものの、〈見る−見られる〉の関係を権力分析の中心 に据えたという点で、再びM・フーコーを見逃すわけにはいかないと筆 者は思う[Foucault, 1975=1977]。かつては自らを誇示するという意味で 見られる側にあったはずの“華々しい”権力が、いつのほどにか例のパノ プティコン(一望監視装置)に象徴されるような何らかの機関ないし機構 の中に己れを隠蔽し、今では被支配者達を一方的に見ることのできるよう な位置を占めるに至った。で、ことここに至れば、表面にあの聴診器を当 てられるのにも似て、規律・訓練(ディシプリーヌ)を旨とする身体本位 の監視光が我われを(ソフトに、だが)一方的に映し出すことになるだろ う。かつ、成人よりも子どものほうが、健康な人より病人のほうが、正常 人より狂人のほうが、より一層し細に透視され、その分より一層、微細な 差異にもとづいて「個人化」されることにもなるであろう。「なるほど個 人というものは、社会の観念論上の表象の虚構的な原子であるに違いない が、しかしそれは(身体本位の)規律・訓練と名付けられる権力の、この 類別化的技術方式によって造りだされる一つの現実でもあるのだ」と、フ ーコーの議論は続く。「観念論上」の「個人」はrole であって、現実には 我われはcharacter としての“個人”にならざるを得ない、と言っている わけだ。 現にくり広げられている「アイデンティティ・ゲーム」[石川,1995]、 いやもっと深刻な問題として、いわゆる「自己決定権」なるものが事実 上、弱者の側に押しつけられていること、などを考える上で、この、フー

(25)

コーの言う「下向方位の個人化」は極めて重要な論点を提供しているが、 ここではその前に、ゴッフマンとも同様にフーコーが、聴診器に注目した 点からもわかることだが、ここでも不可視の「中身」よりも、可視的な表 面的事実を通して、ヒエラルキカルな構造が隠しもつ筋書きをかえってあ ざやかに暴いてみせたことに注目しよう。それと言うのも、一見、表層面 のコントロールに見えて、「身体本位の規律・訓練を旨とする権力」は、 その実、あの合法的支配にもまさって人びとの(無意識)深層部に働きか け、その感情までをもコントロールできるものだからである。 この辺り、さすがにフーコーの権力論も咀嚼した上で提案された宮原浩 二郎の使用言語についての対比論──アタマ言葉とカラダ言葉──をも想 起されてよかろう。アタマ言葉がその名の通り、“頭ではわかる”レベル に留まるのに対し、カラダ言葉のほうは、前にも言ったように深く無意識 の感情までも掬いあげることのできる言葉だからである。ただし、フーコ ー自身は使用言語の違いに止まらず、身体と頭(理念)の対比を広く権力 の二重性に遡及させてこう言っている。「現実的で身体本位の規律・訓練 は、形式的で法律中心の自由の下層土壌を成してきた。契約が法ならびに 政治権力の理念的基礎だと想定しえた反面では、一望監視方式が強制権 の、普遍的に広まった技術方式を組立てていた。その方式は、社会の法律 的構造に深層部でたえず働きかけつづけて、権力が自分に与えてきた形式 上の(法律的)枠組に反して事実上の権力機構を機能させているのだ」 と。 お判りだろうか。「現実的」とか「事実上の」といった形容詞で一方の 感情にまで及ぶコントロールの実相が語られ、対比的に「形式的」とか 「理念的」といった形容詞をつけて、他方の合法的支配はせいぜい理屈で わかる(→意識できる)程度の浅いコントロールに過ぎないと言っている のだ。筆者の、ここでの文脈にのせて言い直せば、外見(身体性)を捨象 した中身主義では「形式的」かつ「理念的」な契約関係は把握できても、 我われが現に身をもって(無意識に)体験しつつあるコントロールシステ ムは、いわば手つかずのままオートマティックに作動し続けるだけだ、と 警告していることになる。なぜなら、現代社会の「類別化的技術方式」は

(26)

中身より、むしろ外見をコントロールすることで、かえって無意識深層部 の感情をも支配できるほどに進化しているからである。残念ながら、社会 学や経済学に代表される社会科学のオーソドクシーが、現代の、こういっ た「事実上の」コントロールシステムの進化に追いついてはいないのだと 言ってもよかろう。社会秩序、とくにその正当性を「中身」の機能遂行 (要は〈貢献−報酬〉連関)から根拠づけようとする(後の7.に詳述) ところに、かえって事実として現に作動しているコントロールシステムを とり逃がしてしまう原因があったわけだ。 もっとも、この種、中身主義の通弊は、社会学や経済学ばかりか、実は は び こ 欧米思想にながく広く蔓延る偏向でもあった。ひどくなると〈中身=本も の、外見=偽装〉式の思い込みにまで至り、そのことが近代主義の欧米思 へん か 想界でながく「演技の精神」そのものが貶下されてきた理由だと言うのは 山崎正和である[山崎,1975]。ゴッフマンが、まずは〈表現 対(行為 の)中身〉のディレンマを指摘して我われに注意を喚起した事情にも似 て、だから山崎はいささか大仰な言葉遣いでこう言わなければならなかっ た。「食物を摂ること(→中身)より、その摂り方のスタイル(→外見) に配慮を向けるのは、動物にない人間の特色であり、これこそいっさいの 人間的な文化の根底にある態度だといって過言でない」(カッコ内筆者) と。そう言えば、間違いなく外見にこだわる意識である「恥」の意識及び 文化が、「罪」の意識及び文化に比較して、欧米思潮において変に低く評 価されているのも同じ偏見に促されてのことなのであろう。 精神分析学のS・フロイトにおいても、あるいは比較文化論の R・ベネ ディクトにおいても、罪の意識はアダルトで高級、恥の意識は幼稚で低級 と看做されている点で変りはない。丁度、機能主義的な行為理論が、まる で“透明人間”の動きを本もののアクションのごとく錯視しているよう に、(実は)特定イデオロギーによってせいぜい意識のレベルで(理念的 に)醸成される程度の「罪」の意識をよほど深い(本)もののように錯覚 し、逆に外見にこだわることで実は身体性の感情レベルから湧出するほど の「恥」の意識のほうは、ついに見据えることができなかったのであろ う。中間考察を省いて言ってしまえば、我われは「中身」の役割(role)

(27)

遂行に失敗した時に限って罪の意識にとらわれ、しかしもっとありふれた す ! べ ! て ! の ! 場面で、自分(character)にふさわしくない振舞いをしてはひ!そ ! か!に!恥(→羞)じいっているのである。しかも、羞じいる心の動きのほう が、身体の奥深くから湧き出る紛れもない感情モードなのである。こちら のほうが、どんなイデオロギーとも関わりなく、人類普!遍!の感情モードだ という意味で、なるほど山崎正和が言う通り「人間的な文化の根底にある 態度だといって過言でない」。 加えて、フーコーやゴッフマンが等しく念頭においた人間像が罪の意識 より、むしろ恥の意識に敏感な人びとであったということはけっして偶然 ではあるまい。そう、これぞ特定の宗教(イデオロギー)からは解放され たはずの(→ポスト・モダーンな)「世俗都市」の住人に違いないからで ある。ただし、それで主体的な個人になれたのかと問えば、そうでもな い。フーコーが「下向方位の個人化」に注意を促したのと軌を一にして、 ゴッフマンはバック・ステージの“アンダー・ライフ”にわずかの逃げ場 を見出したものの、フロント・ステージにおいては、役割距離(role dis-tance)を表わす演技力に主体的個人の片鱗をかいま見たに止まる。おそ らく“主体的個人”も中身主義の諸理論──キリスト教から近代主義の哲 学まで、いわば総がかりではある──が創作した役割(本当はcharacter なのに、role と錯覚した上で……)の一つに過ぎないのであろう。フーコ ーもゴッフマンも、この“主体的個人”を幻視させる生活世界の現実を正 しく見据えていたという意味である。

5

記号現象としての行為

いささかまわりくどい議論の上、しかも「なんだ……これでは疎外論の 一変種に過ぎないじゃないか」と思われたかもしれない。確かに、サイエ ンス側のframed reality に過ぎないもの(例えば role)を「本もの」、逆に アートの技芸によってえぐり出される事実(例えばcharacter)を偽装ない し疎外態であるかのように考えられるなら、本論も従来の社会科学(→イ

てつ

(28)

へん か こだわる(例えば恥の)意識を欧米思潮のように貶下しない限り、通例、 これぞ“本もの”のように思い込んでいる「主体的個人」や「アイデンテ ィティ」を、あえて舞台上に演じられるcharacter に過ぎないと見極める ことが、かえって幸福の偶然性を見極めることとほとんど同義であると筆 者は考えている。 言い換えれば、中身(=本もの)主義のイデオロギーから、まずは解放 されることが我われが幸福になれる条件の一つだと筆者は考えているので ある。なぜなら、サイエンス側に創作されるframed reality こそ、我われ の生活現場を疎外状況であるかのように思い込ませる当の作!為!に違いない からである。舞台上に演じることが、なるほど、しばしば恥の意識を喚起 しはするけれども、だからといって人間は、山崎正和も言うとおり、いつ の時代にも演じる喜びを手離したりはしなかった。「新米の見習い看護 婦」のために、わざと“奇怪な症状”を演じるというのは、いささか演技 過剰であるに違いない。それでもそこに何らかの喜びがあるからこそ 「彼」は精神病棟の“患者”を演じるのであろう。もちろん、これを不幸 な喜びと見るあなたの“正常”な感覚(というよりイデオロギー)をとく に非難しようとは思わないけれど……。ただし、ゴッフマンの問題意識か らすれば、その“正常”な感覚を施設職員もまた、ひとしなみに共有して いたことだけは確かなのである。 いずれにせよ、ここからは、そもそも演じるとは我われにとってどうい う意味があるのかを、もう少し積極的に論じていくべきであろう。そのた めに、次には我われの行為一般を記号現象に準えて考えてみよう。もとよ り、現今の大量消費時代を語って、よく「記号の消費」といった言い方が される。こういった時代のすう勢、というより舞台のいわば暗!転!を下敷き にしていることは言うまでもない。この「暗転」を象徴しているのが、も ! の!づくりの意味だったプロデュースが、今やcharacter をつくる意味で多 く使われていることであろう。 例えば次のようなことは、今に正論としても認められるようになってい る。すなわち、我われの着衣習慣が、かつては温度変化への適応といった ニ ー ズ 必要によってナイーブに説明され、大抵の人たちがこの程度の説明(→こ

参照

関連したドキュメント

﹁ある種のものごとは︑別の形をとる﹂とはどういうことか︑﹁し

しかし何かを不思議だと思うことは勉強をする最も良い動機だと思うので,興味を 持たれた方は以下の文献リストなどを参考に各自理解を深められたい.少しだけ案

特に, “宇宙際 Teichm¨ uller 理論において遠 アーベル幾何学がどのような形で用いられるか ”, “ ある Diophantus 幾何学的帰結を得る

共通点が多い 2 。そのようなことを考えあわせ ると、リードの因果論は結局、・ヒュームの因果

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない

○安井会長 ありがとうございました。.

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から